目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)

 1945(昭和20)年3月22日のことである。青森県青森県西津軽郡赤石村(現在の鰺ヶ沢町)の大字・大然(おおじかり)地区にて奇妙なことが起きていた。村を流れる赤石川の水かさが、やけに少なくなっていたのだ。

 

 村人たちはこの異常事態に気付いたが、その意味するところまでは誰も考えなかったようだ。

 

「なんだこれ? 変だな。まあいいや、明日確認しようか」

 

 とまあ、こんな感じだったのかも知れない。こうして、村はそのままで夜を迎えた。

 

 だがもはや状況は手遅れだった。実は、赤石川の上流では水の流れがせき止められていたのだ。おそらく、この冬の豪雪と雪崩によってダムができたのだろう。さらにこの日の夜の天候は豪雨であり、これによって雪の天然ダムは決壊してしまった。

 

 時刻は23時頃から、翌午前3時頃の間と言われている。大量の雪、土砂、水が村に襲いかかった。

 

 このような雪混じりの鉄砲水を、専門用語では「雪泥流」と呼ぶらしい。これの直撃を受けた集落は家も住民もたちまち押し流され、大然では13戸、佐内沢という集落では7戸が一瞬にして流されて88名が死亡(87名という記録もある)した。死者の内訳は男性が41名、女性が46名というものだった。遺体は7月11日になってようやく全て発見されたという。

 

 これほどの人数が死亡し、しかも村落がほぼ壊滅したのである。国内の土石流災害の被害としてはかなりものだ。だがこの災害、一般的にはほとんど知られていない。それは何故か?

 

 答えは簡単で、報道されなかったのである。

 

 時期が1945(昭和20)年という微妙な時期だったためだ。終戦直前である。メディアの側にも詳細を報じる余裕がなかったのか、あるいは士気を殺いではいかんということで報道管制がかかったのか、とにかく少なくとも中央では全く報道されなかったのだ。おかげで終戦を迎えて以後も、この災害は、地元民しか知らないモノホンの「知られざる災害」としてのみ語り継がれていたのだった。

 

 そんな災害の記憶の「発掘作業」が始まったのが1987(昭和62)年のことである。東奥日報新聞社が、「消えた村」と題して3月16日から26日にかけて惨劇の顛末を連載。さらに翌年には郷土史家の手によって単行本にまとめられた。

 

天然ダムの崩壊と雪泥流による被害事例は、国内でもあまり例がないという。よってこの事例研究は、専門の研究者にとっても極めて貴重なものだった。

 

 この災害が起きた赤石川の周辺は、もともと地滑りなどの土砂災害が発生しやすい地質だった。地滑りと地質の関係については前にバス事故の項目でちょっと書いたことがあるが、第三紀層を形成する箇所が多く存在するのだ。

 

 雪泥流はあくまでも雪と水の組み合わせで発生するが、水流が発生すると途中で土砂などを巻き込んでいくことになる。よってそこが脆い地層であれば被害も拡大することになる。この水害はこうした悪条件が重なって発生したものだった。

 

 青森県で最初の砂防ダムが設置されたのがこの赤石川だったというのも、決してゆえなきことではないのである。「青森県砂防発祥地」の記念の石碑もあるそうだが、そこには「雪泥流」という言葉もきちんと刻み込まれているという。

 

 なお、慰霊碑も存在する。なんでも「鰺ヶ沢町自然観察館ハロー白神」なる施設のそばにあるそうで、これは昭和26年11月に建立された。そしてその裏面ではこのような説明がなされているという。

 

「昭和二十年三月二十二日夜来の豪雨により流雪渓谷に充塞河水氾濫し舎氷雪に埋まり大然部落二十有戸悉く其影を失ふ夜来のこととて死者八十七名生存者僅かに十六名のみ實に稀有の惨事たり爾来七星霜犬方の同情と復員者の苦闘により漸く復典の緒を見るに至る茲に浄資を集め遭難者追悼の碑を建て以て厥の冥福を祈らんとすと爾云

     昭和二十六年十一月

     赤石村有志代表

     村長正七位 兼平清衛識」

 

 この記事を書くにあたり、本当は先述の「郷土史家がまとめた記録」とやらを読んでみたかったのだが、ついにそれは叶わなかった。たぶん青森の地元とか国会図書館とかそれ専門の大学の図書館でないと置いてなかったりするのだろう。

 

 というわけで、筆者はネット上の情報をつなぎ合わせて今回の記事を書くしかなかったのだが、一応文献のタイトルも掲載しておこう。興味がある方は読んでみて下さい。

 

『岩壁(くら)――昭和20年・大然部落遭難記録』

 著者・鶴田要一郎

 発行・青沼社

 昭和63年12月20日初版発行

 

 まあ仙台から青森まではそう遠くないし、山形在住の筆者としては、青森県の図書館にそのうち直接調べに行こうかな~なんて思わなくもないのだが。

 

【参考資料】

レポート『新しい雪氷災害「雪泥流」とその予測』小林俊一

 総務省消防庁防災課『災害伝承情報データベース整備検討報告書(平成16年度分)』平成17年3月発行

個人ブログ『砂防に関する石碑 碑文が語る土砂災害との闘いの歴史』2008年06月30日公開記事「2-1.大然部落遭難者追悼碑」

ウェブサイト『東北自然ネット』内記事「赤石川の砂防と大然部落の全滅」

 

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トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)

 今から100年ほど前にニューヨークで発生した火災である。

 言うまでもなく、ニューヨーク市と言えば今では押しも押されぬ大都市で、産業・商業・情報等の分野における最重要都市である。だがその成長の歴史は意外に短く、当時のニューヨーク市はまだ他の街との合併を果たしたばかり。大都市としては駆け出しもいいところで、成長はこれから――という時期だった。

 そして、日本の例を挙げるまでもなく、こうした都市の成長の陰では多くの人々の犠牲がつきものである。婦人用古着再生工場だったこのトライアングルシャツウェスト工場で発生した火災は、その分かりやすい実例のひとつだといえる。

 さらにこの火災は、その社会的・歴史的な影響のため、災害史のみならずアメリカ史全体においても大きなインパクトを残している。

 当時、アメリカでは労働運動が盛んで、多くの工場で労使間の対立と和解があった。その端緒となったのが他でもないこのトライアングル社であり、そして最後まで決着がつかなかったのもトライアングル社だったのだが、火災が発生し多くの女工が死亡したのが、こんなグダグダの状態のさ中だったのである。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になったのだ――ということで、労働環境の是正がより一層求められるようになったのだ。

 以下で火災の経緯を記すが、その前にひとつお断りしておく。資料によって「トライアングルウエストシャツ工場火災」「トライアングルシャツウエスト工場火災」と2種類の表記があり、当研究室ではどう表記したものか迷ったのだが、ここでは後者を選ぶことにした。「トライアングルシャツの、西工場の火災」がニュアンスとして近いように思われたからだ。

 ただ固有名詞としてあまりに長いので、本文では「トライアングル工場」と表記させて頂く。また「トライアングル社」と表記されているのは、工場ではなく本社という意味で読んで頂ければ幸いである。

 

   ☆

 

 日本では明治44年にあたる1911年、3月25日のことである。

 ワシントン・プレースとグリーン・ストリートが交わる交差点、その北西の角にアッシュ・ビルという10階建ての高層ビルがあった。

 トライアングル工場は、このビルの上から3階分のフロアに施設を構えていた。8階と9階が工場で、10階は事務室である。

 工場での就労時間が終わる午後4時半のことだ。終業ベルが鳴ると、その日の労働を終えた女性たちは帰り支度を始めた。縫製会社とあって、従業員のほとんどが女性である。

 会社の守衛たちもまた、盗難防止のために、社員たちのハンドバックを調べる準備を始めた。

 外は快晴、清々しい天気である。

 しかしこの直後に異変が起きた。8階にいた裁断係の男性が、布の切りくずが入っている箱から出火しているのを見つけたのだ。グリーン・ストリート側の窓のそばにテーブルがあったのだが、その下の箱が火を噴いていたのである。

「うわっ火事だ! 水持ってこい水。支配人にも知らせろ」

 知らせを受けて、9階だか10階だかにいたらしい生産担当支配人、サミュエル・バーンスタインも駆け下りてくる。おお、本当に火事だ。だけど心配ご無用。俺、2週間前にもボヤを消し止めたもんね。さあバケツ持ってこい――!

 そんなに頻繁に火事が起きてたんかい、とツッコミを入れたくなるところだが、それはさておき、バーンスタインは他の男性社員とさっそく水をかけ始めた。この男性社員も、2週間前に一緒に消火活動を行っていた。

 この工場、実は防火設備に関しては意外にしっかりしていた。各階に消火用バケツや屋内消火栓が備え付けられており、それを用いた消火が試みられたのだ。だが火は消えなかった。

 工場内の環境も悪かったのだ。出火場所の周辺には、木綿生地やたくさんの紙型がぶら下げられていた。その上、ミシンからの油漏れのため床は油で汚れており、とどめに予備のミシン油の樽が壁にずらり。洒落にならん。

「くそっ消えない、みんな逃げろ!」

 避難指示の言葉を英語でどう言うのか知らないが、とにかくバーンスタインは、消火活動を行いつつ従業員に避難と脱出を促した。

 こうして8階での混乱が始まった。もともと、この階にいた225人(275人とも)の従業員は、グリーンストリート側のいつも開いているドアから帰宅しようとしており、皆がそこから脱出を始めた。

 同時に、バーンスタインは機械工のルース・ブラウンにこう指示を出した。

「もうひとつドアがあるだろう、そっちの鍵も開けろ」

 そっちというのは、ワシントン・プレース側に出られるドアである。こちらは窃盗とサボり防止のために常に施錠されており、ブラウンはさっそく解錠しようとした。

 ところがこのドアが曲者だった。当時(今はどうなのか不明だが)のニューヨーク州の労働法第80項では、「工場のドアは可能な限り外開きでなければならない」と定められていたのだが、ドアの向こうの踊り場があまりにも狭すぎたため、これは内側に向かって開くように作られていたのだった。

 結果、どうなったか。怯えて脱出をあせる労働者がドアに押しかけたため、内側に向かって開けることができなくなったのである。笑い話のようだが本当にそうなのだ。

 ブラウンは当時のことを、このように語った(意訳)。

「ドアを開けるために、彼女らを押し戻さないといけなかった。ドアにびっしり押し寄せているんだもの。俺が全力でドアを引っぱると少しは開くんだけど、彼女たちはドアに押し寄せてくるからまた閉じる」

 ゾッとする話である。それでもやっとこさドアが開かれ、20インチ(50センチほど)の幅のドアから一人ずつ逃げ始めた――。

 8階からは、こうして大半が無傷で脱出することができた。ところが問題はそのさらに上階である。

 当時、8階にいたダイナ・リフシッツは、社内電話を使って、10階の電話交換手メアリー・オルターに通報している。少し海外ドラマの翻訳風に、当時のやり取りを書いてみよう。

ダイナ「ハーイ、メアリー。大変なのよ、今8階が火事なの! お願いよ、10階と9階の人たちに知らせてくれる? 今8階もパニックで、交換手のあなたに頼むしかないの。お願い」
メアリー「え~? ちょっと待ってちょうだい、それ本当なの? じゃああたしたちも早く逃げないと!」
ダイナ「駄目よメアリー、その前にみんなに連絡して! そうでないと大変なことになるわ、メアリー、メアリーったら!」

 もちろん想像上の会話である。だが大体こんな感じだったのではないだろうか。この交換手のメアリーが交換台をほったらかしにして逃げたため、9階にいた260名~300名の従業員はまったく危険を知らされなかったのだ。

 10階にいた人々は、全員が無事に脱出できた。だが9階にいた従業員は、フロアの窓の外が炎と煙に包まれるまで火災にまったく気付かなかった。

 もともと、アッシュ・ビルの壁はレンガ造りだった。そして窓枠などの部品も金属が用いられており床もコンクリだったので、炎が壁や床を突き抜けることはなかった。しかし8階の窓から噴き出した火炎によって、9階もたちまち火の手に包まれたのだった。

 さあ、9階フロアは大混乱である。トライアングル工場で働いている身内の名を呼ぶ者、縫製機械のそばで呆然と動かなくなる者、即座に逃げ出す者などがいたという。

 逃げ出したグループは、さらに二手に分かれた。8階の従業員たちと同様に、グリーン・ストリート側と、ワシントン・プレース側のドアへ向かったのだ。

 結果、グリーン・ストリート側のドアからは100人ほどが無事に脱出。こちらの螺旋階段は幅33インチ(約84センチ)という狭さでしかも急勾配だったが、避難には充分使えたようだ。

 だがこの階段も途中から使用不能に陥った。火炎のため通れなくなってしまったのだ。

 またワシントン・プレース側のドアは、これも8階と同じように施錠されており使えなかった。不幸にして、解錠できる人間がこの階にはいなかったらしい。

 こうして脱出し損ねた従業員たちは、慌てて別の避難経路を探す。残るは屋外にある非常階段と2基のエレベーターだけだ。

 運命の二者択一である。だがもはや、どちらも安全な避難経路とは到底呼べない状況だった。

 まず屋外非常階段だが、これは幅が17インチ(約43センチ)とひどい狭さだった。しかも避難する人々の重みと、ビルからの火炎の熱でもって、人々が避難している最中に階段そのものが崩壊してしまった。

 次がエレベーターだ。これはワシントン・プレース側に設置されており、運転員もいた。当時の避難の様子について、この運転員はこう証言している(意訳)。

「従業員たちは、私の髪の毛を引っぱって、頭上に飛び込んできた。私も人々の頭の上に人々を詰め込んだ。エレベーターの屋根によじ登る者もいた」

 またこんな証言もある(エレベーターの運転員は2人いたと思われるが、この2つの証言が同一人物のものかどうかは不明である)。

「9階でエレベーターのドアを開くと、避難者の大群がいた。そのすぐ後ろは物凄い炎と煙だった。私は何度かエレベーターを行き来させて人々を脱出させた。そして3回目に9階へ上った時には、もう周辺は火炎だらけ。多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」

 鮨詰めのエレベーターは、こうして数回に渡って上下階を行き来し、多くの被災者を救っている。最後の数回は、実に定員の2倍の人数を輸送したという。

 しかしこの2基のエレベーターも、やがて停止した。一台は火災の熱でエレベーターの通路が歪んだためだった。またもう一台は、炎を逃れようと通路へ飛び降りた者が多数おり、その重みで箱が動かなくなったからだ。

 上階にはまだ逃げ遅れがいたのだ。やがて、停止したエレベータの箱の上に、彼らが飛び降りてくるドシンドシンという音が響いてきたという。後に消防士が確認したところ、エレベーターの箱の上には計19の遺体があった。

 エレベーターが2台とも停止したのが4時45分。火災が発生してから僅か15分のうちに、従業員たちは9階から脱出するすべを失ったのだった。

 不運だったのは、ちゃんとこのビルには火災用の避難口があったのに、大半の者がそれを知らされていなかったことだろう。従業員たちは防火訓練を受けておらず、建物内のいつも見慣れたシャッターの向こうにそれがあることなど、思いつきもしなかった。

 飛び降りも、数え切れないほど発生した。非常階段が崩壊したことは先に述べたが、それ以外にも多くの人が窓から落下している。

 エレベーターの運転員はこう証言していた――「多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」と。つまりこの、「窓枠に立っていた」従業員の末路が「飛び降り」となってしまったのだ。

 当時、現場周辺は野次馬でごった返していた。火だるまになった犠牲者が高層階から落下してくる姿を、大勢が目撃している。

 野次馬の一人の証言。

「最初は、オーナーが高級な製品だけを窓から外に投げているのかと思った。だがよく見ると、それは窓から飛び降りる従業員たちだった」

 また、たまたま近くを通りかかった『ニューヨーク・ワールド』(雑誌か何かだろうか?)の記者はこう証言している。

「500名ほどの群衆が、いっせいに怯えた声をあげた。風で衣服を巻き上げながら落下してきたのは、若い女性だった。彼女は街頭に叩き付けられて即死した。群衆が、なにがなにやら分からずにいると、もう一人の若い娘が窓枠に飛び上がった。彼女は、拳を固めて窓を叩き破ったらしかった。頭髪も衣服も燃えていた。一瞬、両腕を突き出して窓枠で制すると、すぐに落下してきた。同時に、別の窓からも3名の女性が身を投げ、あとからも別の女性たちが窓枠へしがみついていた。息をあえがせ、このまま室内で死ぬか、眼下の歩道や側道で死ぬか、決断しようとしていた」

 なんだか、さすがに筆者も書くのが苦痛になってくる光景である。あまりにも凄惨だ。

 ともあれ、この落下によって46~60名以上が死亡。辺りは死屍累々たる有様だった。消防士の救命網も、高層階からの飛び降りには役に立たなかった。

 消火活動は難航を極めた。梯子が届かない上に、犠牲者が次々に飛び降りてくるので危険極まりなく、消防隊も警官も近寄れない。難航を極めたというよりも、もはや消火活動は「できなかった」というのが本当のところだろう。とにかくボトボト人が降ってくるものだから、エレベーターで無事に脱出した従業員すらも、危なくてビルの外には出られなかったという。

 それでも、消防が到着してから30分以内には鎮火しているようだ。ほほう、なかなか手際がいいね……と言いたいところだが、喜んでなどいられないのである。この1時間弱の火災で、なんと死者は146名というべらぼうな数に上ったのだ。 
 工場内から救助された者は、一人もいなかった。

 最初、遺体は道路に積み上げられていたが、警官たちは大急ぎで棺を調達。そして、東26番ストリートの埠頭に臨時の遺体安置所を作った。

 一部の犠牲者は、賃金を大事に服にしまっていたり、あるいはその手に握り締めたりしていたという。

 また、娘の死を目の当たりにして、埠頭から身を投げようとした母親も十数名いた。警官は彼女たちを止めるのにもひと苦労だった。

 さて、裁判である。この悲惨極まりない事件の責任者は誰なのか?

 これについて、当時ニューヨーク・タイムズはこう書き立てたという――「この恐るべき失態は、何者かが引き起こしたのだ。しかし難しいのは、これだけの人命が失われたことの責任の所在を突き止めることだろう」。

 面白くもなんともない予言だが、これが的中した。アッシュ・ビルと工場の管理に携わった者たちは、誰も彼もが互いに責任をなすり合ったのだ。いわく、

1・州知事「俺じゃねえよ! 悪いのは建築局だ」
2・地方検事の主張「俺じゃねえよ! 悪いのは州の労働局、共同住宅局、水道局、警察だ」
3・トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランク「俺たちじゃねえよ! 悪いのは建築基準法だ」

 素人の印象では「会社が一番悪いんじゃないの?」と感じるところだが、しかしここで注意しなければならないのは、トライアングル工場は法令違反をまったく行っていなかったという点である。

 例えば避難階段も、熱式火災報知システムも、各階の水バケツも、屋上タンクも、屋内消火栓もあった。また外部からの送水も可能だったし、地階の散水設備も充実していた。数十年後のどこぞの国のホテルや旅館やデパートに比べても余程しっかりしているし、またこれは当時の法令の示す基準にもきちんと合致するものだった。

 つまりトライアングル工場火災は、「これだけの設備があれば火災が起きても大丈夫だろう」という行政の予測を遥かに越えていたのである。うんざりするような言い方になるが、いわゆる「想定外」だったというわけだ。

 行政にも、決して落ち度がなかったわけではない。消防設備について言えば、梯子は届かないし放水の水圧も足りなかった。また市の建築課も、アッシュ・ビルの欠陥を認識していながら放置していたフシがあった。

 それでも、結局最終的に起訴されたのは、トライアングル社の2人のオーナーだった。先に名を挙げたアイザック・ハリスとマックス・ブランクである。

 法廷では、遺族からの報復を防ぐため、被告人には常に警備がついていたという。

 裁判では、問題を単純化するべく、死亡した1人の女性について争点が絞り込まれた。ワシントン・プレース側のドアが施錠されていたことが、犠牲者の発生に繋がったのではないか――?

 審理は3週間の長きに渡り、証人は155人に上った。

 そして陪審員が、1時間50分の協議の末に出した結論は「無罪」。

 146人の死者が出た事件で無罪の結論を出すというのも、勇気があるというかなんというか、頭の下がる思いである。「あいつら気に入らないからとりあえず有罪にしちまおう」などという判断は下されなかったのだ。

 だがこれは、当時のアメリカ人にとっても意外な結末だったようだ。民衆は怒った。死んだ従業員たちは犬死になのか、冗談じゃないぞ――そしてこの怒りこそが、アメリカの労働政策の改善に繋がっていくのである。

 

   ☆

 

 さてここからは、この火災がアメリカ社会に与えた影響について記していくことにする。地味な歴史記述になるので、退屈になりそうな方はここで終わりにして頂いても構わない。

 時間を少し遡り、時は1909年。

 トライアングル社の凄惨な大火災が発生するよりも、2年ほど前である。

 この時期は、シャツブラウスという衣服が女性に人気だった。デザイナーによる魅力的なデザインと、一人一人に寸法を合わせる技術のおかげである。ちょうどこの頃は、女性がどんどん社会進出を果たしており、シャツブラウスはそんな彼女たちの標準的な衣装だった。

 さてそんな中で、トライアングル社は業界でも最大大手のメーカーだった。安っぽくもなく、無駄に高級志向でもないバランスの取れた品質と、それに大量生産の技術がこの会社を成功させたのだった。

 ところがこのトライアングル社、職場環境は劣悪もいいとこだった。工場内は不衛生、サボりや盗みの防止のために窓やドアは釘付け。湿度も高く、そんな中で社員たちは週6回、合計56時間働かされていたのだ。

 また賃金は余分に出ることはなく、縫製ミスがあれば賃金から差っ引かれる。さらに私語、喫煙、鼻歌だけでも罰金を取られるという「ヒジョーにキビシー」状況だった。

 そんな中、ひとつの出来事があった。社員の女性が、労働組合を結成する会合に参加したのである。

 これが、トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランクの耳に入ったからさあ大変。会合に参加した女性たちは、職場から閉め出されてしまった。ロックアウトである。

 これに対して、社員の女性たちはさらに反発。ユダヤ系の女性もイタリア系の女性も、この時ばかりは民族の壁を越えて一致団結しストライキに参加した。

 これが、大規模な労働運動に火がつくきっかけとなった。11月には、ニューヨーク市全域の集会場で労働組合の会合が行われ、ストは全ての縫製産業に拡大。今までにないスケールでほとんど冬の間中続けられたという。

 もちろん、雇用者のほうだって黙っちゃいない。当時は「組合潰し」はごく当たり前のことだった。特にトライアングル社のハリスとブランクについて言えば、彼らには警察も味方についている。戦いの準備は万端だった。

 それでも、労働者の抗議活動は止まらない。新聞記者、ソーシャルワーカー、学者から、果ては社会主義思想家やラビなどの僧侶までもがこの運動を擁護。さらに女性労働者によるデモ活動ということで、裕福な女性層も運動を後押しした。

 おそらく、この運動は一部の労働者の単なる思い付きではなかったのだろう。当時の労働者の不満は頂点に達しており、運動が起きるのは当たり前、時代の趨勢だったのだ。

 というわけで、雇用者側も時代の要請に押される形で妥協案を提示した。調停でもって、多くの工場と労働組合が仲直りをし、1910年2月15日にはストライキもほとんど終了した。

 ところが、労使双方の主張がいつまで経っても平行線で、ちっとも示談に至らない会社が13社あった。どれも1,000名以上を雇用する大企業で、その主たるものがトライアングル社だったのである。当時、ある雑誌ではこう書かれた――「トライアングルで始まったストは、トライアングルには勝てなかった」。

 火災が発生したのが、それから1年余り経った頃のことである。

 やるせない巡り合わせだ。労働運動盛んなりし頃はストを潰すために躍起になっていた警官たちも、この火災では労働者たちを弔う側に回ったのだった。

 彼らは、路上に散らばった焼死体が通行人に踏みつけられるのを防ぎ、救急車でもってそれらを運ばせ、それぞれの遺体を棺に入れたのである。彼らの心中にはどんな思いがよぎっていたことだろう。

 そして、裁判で雇用者の2人が無罪とされたことで、市民のやるせない思いは社会運動のほうへと振り向けられることになった。

 ここで登場するのが、フランシス・パーキンスという女性である。トライアングル火災の後、ニューヨークでは工場調査委員会なるものが設立されたのだが、この執行委員に選任されたパーキンス女史は、その後の労働政策に大きく関わっていくことになる。

 この工場調査委員会は、州内におけるあらゆる労働問題の一掃を試みた。とにかく、女性が午前5時に出社して10時間交代勤務していたり、5歳の子供が缶詰工場で働いていたりするこんな社会状況はなんとかしなければいかん、と考えたのである。

 また公聴会を開き、一部の機械の危険性や、適切なトイレ設備が欠如していること、さらに児童労働や病気の蔓延などの問題も証言。そして忘れちゃいけない火災対策についても防火局を設置し、防火安全規則を更新させた。

 こうした流れが、最終的にはアメリカ一洗練された新・労働法の完成へとつながっていき、これは他の州でもお手本にされたという。

 改革に一役買ったパーキンス女史は、さらに州労働局では局長のポストに就き、10年間勤務している。そして、最初はいち執行委員として所属していただけだった工場調査委員会においても局長へと押し上げられたのだった。

 この「押し上げ」を行ったのが、当時はまだニューヨークの州知事だったフランクリン・ルーズベルトである。どうやら、彼はパーキンス女史に絶大な信頼を寄せていたらしい。自分が大統領になると、さっそく彼女を労働長官に任命した。これは女性閣僚としては初めての抜擢だったという。

 ルーズベルト大統領が打ち出したニューディール政策は、かの大恐慌を克服し、アメリカ経済を蘇生させるための一大プロジェクトだった。その中には労働者の待遇改善という問題ももちろん含まれており、ニューディール政策そのものの成否は兎も角としても、パーキンス長官はこの政策の推進のためになくてはならない人材だったのである。

 さてその後、一躍労働長官へとのし上がったパーキンス女史は、講演でこう語っている。

「我々はニューディール政策を公約しているルーズベルト大統領を選んだ。しかしこの政策は、1911年3月25日の恐るべき火災で、哀切極まる犠牲者を多数出したというニューヨーク州の経験がその基盤になっているのである。彼らは犬死したのではない。我々は決して彼らを忘れないであろう」

 火災の犠牲者が、まるで名誉の戦死を遂げた兵士のように語られている。

 実はパーキンス女史は、トライアングル工場火災の惨状を目の当たりにしていたのだ。当時の彼女は、働きながらコロンビア大学の大学院に在籍していたのだが、そんな彼女の目の前で、アッシュ・ビルが火を噴き、そして女工たちがボトボト落下する光景が繰り広げられたのである。これは確かに、政治活動にでも昇華しない限りトラウマになりかねない体験だったことだろう。

 というわけで、もうお分かりであろう。トライアングル工場火災が、その後のアメリカの労働政策に大きな影響を与えたというのは単なるこじつけではない。この火災事故は、その後の国家政策の源流そのものだったのだ。

 そんなこともあってか、この火災事故は今でもかの国で語り継がれている。

 例えば事故の50年後には、今はニューヨーク大学となっているかつての現場に「全国女性縫製労働組合同盟」とやらがブロンズの額を設置している。また、火災の最後の生還者だった女性が107歳で死亡したことも、ニュースで取り上げられたという。

 こういった情勢を見ると不思議に思ってしまうことがある。なぜ日本人は、身内に降りかかった事故災害について、ああもたやすく忘れてしまうのだろう。

 例えば、日本初の高層ビル火災は白木屋火災ということになっているが、これについて語り継がれているのはせいぜい「当時の女性従業員はノーパンだったから避難できなかったらしいよ」というデマばかりである。

 こうした傾向は実に嘆かわしい――と言ったらなにを偉そうにと怒られそうだが、まあでも、やっぱり変えられるものなら変えるに越したことはないよね。こういう精神的風土。

 まあそのへんは、文化や民族性の違いということになるのだろう。アメリカ人にとってはリメンバー・パールハーバーならぬ、リメンバー・トライアングルシャツウエスト・ファクトリー・ファイアといったところなのかも知れない。

「長すぎてタンコブが引っ込んじまったよ!」

 ――というオチをつけられそうな気がしたところで、お後が宜しいようで。

 

【参考資料】
◆『火災教訓が風化している!①』近代消防社
◆アレン・ワインスタイン,デイヴィッド・ルーベル(著)越智 道雄 (訳)『ビジュアル・ヒストリー アメリカ―植民地時代から覇権国家の未来まで』東洋書林 ・2010年

 

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ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)

 ココナッツ・グローブの火災であれほどの死者が出たのは、どうも炎や煙などの単純な理由からではないらしい。

 では何かというと、どうやら火災当時は有毒ガスが発生したらしいのだ。当時、建物の冷房に使われていた媒体がメチル塩化物で、これは熱によってガスを発生させる。それが人間には致命傷になるのである。

 ――と、こんな報告がなされたのが1999年のことである。

 ココナッツ・グローブ火災は、アメリカの火災史を語る上で外せない大火災の一つだ。

 1942年11月28日の深夜、ナイトクラブで出火し488~491人という目を疑うような数の死者が出たのだ。これについて57年後に事故の再調査が行われ、上述のような報告となったのである。

 それにしても57年後の再調査である。別項になるトライアングルウエストシャツ工場火災に関してもそうだが、そんな昔の出来事をよくしつこく調査するものだと思う。過去の出来事に対し、米国人というのはものすごく執念深いようだ。その点には頭が下がるというか呆れるというか、とにかく素直に脱帽である。

 日本でもこれを見習って、古い事故の再調査を行ってみてはどうだろう? 当時は分からなかった新発見なども色々出てくると思うのだが……。例えば鶴見事故の脱線の原因、六軒事故の信号機の謎、大洋デパートの失火の原因、等々。

 もっとも我が国は、縁起の悪い事柄は「水に流す」のが基本である。きっと、負の記憶を蒸し返すことに渋い顔をする方も多かろう。当研究室は、こうしたお国柄に対するささやかなアンチテーゼでもあるのである。

   ☆

 ココナッツ・グローブ火災が発生したのは、先述の通り1942年11月28日のことである。土曜日の深夜だった。

 ボストンにあったこの店はナイトクラブの老舗で、当時はフットボールの応援客が大勢来ていたという。その人数たるや1,000人をゆうに越すほどで、これはすでに定員を数倍上回る人の入りだった。

 時刻は午後10時。失火があったのは地階だった。

 メロディ・ラウンジ(筆者はメロディ・ラウンジと言われてもどういう場所なのかよく分からないのだが)に作り物の椰子の木が飾られていたのだが、それがいきなり燃え出したのである。ココナッツ・グローブという名前に相応しく、店内にはこうした飾りの椰子の木がたくさんあった。

 出火の原因だが、これは火災直後には16歳のウェイターの少年のせいではないかと言われた。電球の取り付けを行おうとしてマッチを擦ったのだが、それが引火したのではないかと考えられたのだ。

 もっとも、それも憶測に過ぎなかった。そしてこの火災の責任の追及は、最後の結論に至るまでに二転三転することになるのである。その点は後述しよう。

 火災発生直後には、ボーイやバーテンダーが協力して消火を試みている。だが失敗。あげく、燃える椰子の木を移動させようとして倒してしまい、このため火は一気に燃え広がってしまった。

 さあ、パニックである。地階の客達は出口の階段へ殺到した。

 だが火勢は想像以上だった。2分から4分ほどで階段は炎に包まれ、ほとんどは脱出出来なかったという。火炎はたちまち1階へ上っていった。

 人々は一斉に避難を開始したが、この時に仇となったのが「回転ドア」である。客たちがこぞって正面玄関の回転ドアに殺到したものだから、ドアが詰まって回らなくなってしまったのだ。

 犠牲者たちはこのドアの後ろで折り重なって倒れており、回転ドアはギチギチに詰まっていたという。消防士が中に入る際にはドアを分解しなければいけなかったそうだ。

 では他の出入り口はどうだったのかというと、これは全て従業員によって閂がかけられており、脱出には使えなかった。お客が料金を踏み倒すのを避けるための措置だったそうだが、考えてみればどっちみち死んでしまえば踏み倒されたようなものだろう。皮肉な話だ。

 そして建物の中は可燃物だらけだった。店内の椰子の木は紙で出来ていたし、布製のカーテンがあちこちにかけられて可燃性の家具を覆っていた。おかげで玄関や食堂など、建物の主要な部分が炎に包まれるまで5分程度しかかからなかったという。

 消防署が通報を受けたのは10時23分。別件で出動していた消防隊が、帰りにこの火災を発見したのである。

 さあ救出作業である。だが消防隊がココナッツ・グローブに接近した途端、出入り口から猛火が噴き出して来たからたまらない。突入は無理だ。しかも正面の回転ドアも先述のような有様で使い物にならない。

「まずは火を消せ!」

 消防隊は焦りに焦ったことだろう。通りに面した建物の壁の一部はガラスブロックで出来ており、屋内で次々に人々が倒れるのが見えたというのだ。悲惨この上ない。

 可能な限り迅速に、消火活動は進められた。だが消防隊が間もなく店内に入ると、もう中は遺体だらけ。犠牲者の中にはちょっと火傷を負った程度でテーブルに座ったままの者もいたらしく、おそらくこれが、最初に書いた有毒ガスの犠牲者だったのだろう。

 さあてお待ちかね、吊るし上げタイムである。

 なにせ500人弱というのは、米国の火災史上でも2番目の犠牲者数である。新聞でも、いっとき第二次世界大戦がらみのニュースの見出しに取って代わるほどの注目度だったのだ。世論が黙っているわけがない。

 まず叩かれたのが、先述した16歳のウェイターだ。

 しかし、彼の素性がはっきりするにつれて世間の非難は止んだ。彼は病気の母親の世話とアルバイトに精を出す成績優秀な少年だったのである。また自分が火元であることを自ら認めた潔さも、非難の矛先をかわす結果に繋がった。

 だが実際には、この少年が本当に火元なのかは謎のままである。彼はマッチの火はちゃんと消したというし、それが椰子の木に燃え移った瞬間を目撃した者は誰もいないのだ。厳密にはこれは定説ではない。

「さて、それじゃ次に悪いのは誰だ?」

 というわけで次に叩かれたのが、ココナッツ・グローブに営業許可を出していた監督官庁である。この場合は消防署ということになるが、実は火災の1週間前には、査察担当の消防職員が「この建物は問題なし」という判断を下していたのだ。

 よしコイツで決まりだ――。というわけでこの職員は殺人の従犯および故意の職務怠慢の容疑で起訴されたが、陪審員の結論は「無罪」。彼は別にいい加減な査察を行ったわけではなく、ちゃんと査察要領に従って職務をこなしただけったのである。要するに、制度のほうが現実の火災の実態に即していなかったのだ。

「だったら本当に悪いのは誰なんだ!」

 それで今度は、ココナッツ・グローブのオーナーがつつかれる羽目になった。

 このユダヤ人のオーナーは「悪徳オーナー」として世間の非難を浴び、たちまち悪者扱いされた。一体何が悪徳だったのか詳細は不明だが、ウィキペディアで調べてみるとマフィアや市長との繋がりが云々という文章があったので、そのあたりが都合よく標的にされたのだろう。

 結局、検察はこのオーナーひとりを起訴した。19の訴因に基づく殺人罪である。

 こうして12年から15年の懲役刑を食らったこのオーナー、その後は比較的短期間で出てきているものの、ほどなくして病死した。

 しかしこれは明らかに「横井秀樹現象」であろう。火災の責任を一人の人間におっかぶせて、とりあえず生贄にするというアレである。当時、捜査と裁判の成り行きに釈然としなかった人もきっといたに違いない。

 この火災によって、当時のアメリカの建築基準法は大幅に改正された。レストランやクラブなど、大勢が出入りする場所では、回転ドアだけではなく普通のドアも取りつけるべし。店内の装飾は不燃材を使うべし。非常灯とスプリンクラーは必ず設置すべし――などといった内容である。

 それらの決まりごとは、今の時代から見れば当たり前のようなものばかりである。だがその「当たり前」も、たくさんの犠牲者が出ないとなかなかものにならないのは、どこの国も同じらしい。

 

【参考資料】
◇『火災教訓が風化している!①』
◇『人はなぜ逃げおくれるのか』
◇ウィキペディア

 

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シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)

 今、筆者の手元に、1枚の奇妙な写真がある。

 まず旅客機が1機、画面を横切っている。角度からしておそらく離陸したばかりなのだろう。

 問題はその機体の左下である。人の姿が写っているのがお分かりだろうか。一体なぜこんなところに? なにが起きたというのだろう?

 以下、この写真が掲載された当時の新聞から引用し、その説明にかえさせて頂く。

 

『密航少年、日航機から転落 シドニーで』

 

【シドニー(オーストラリア)二十三日UPI】

 日本航空のDC8型ジェット旅客機が二十二日、シドニーのマスコット空港からマニラに向けて飛立ったさい、機首の車輪格納部に隠れていた少年が転落して死亡した。
 警察の調べによると、この少年はキース・エマニュエル・サプスフォード君(一四)といい、密航しようとして車輪格納部にしのびこんだが、同機が地上約六十㍍に上昇したところで格納部から転落したらしい。義父のサプスフォード教授は「息子の望みは世界を見ることだけだった」と語った。

(写真説明)日航機から転落する密航少年。この写真はアマチュア写真家が撮影した(AP=共同)

 ◇1970年(昭和45年)2月24日・毎日新聞朝刊より

 

 何がなにやら、である。

 大体、いきなり「義父のサプスフォード教授は」とか言われてもアンタ誰? としか言いようがない。

 とにかく、大学教授の義理の息子が家出をし、世界旅行を夢見て事故死したということだ。背景に何かドラマがありそうだが、これ以上の詳細は不明である。

 

【参考資料】
 毎日新聞

 

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聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)

 格闘漫画『バキ』でシンクロニシティという概念が登場する。偶然の一致としか言えない事象の背後になんらかの要因や意志の働きを見出そうとする考え方とでも言おうか。こうしたシンクロニシティの背後に、神秘的な力の存在を見出す立場もあるようだ。

 そして困ったことに、事故災害の歴史を紐解くと、このシンクロニシティの例には枚挙に暇がないのである。日本で言えば八高線での連続事故三河島事故鶴見事故千日デパート火災大洋デパート火災、航空機事故などなどがある。そして話がこのような人災ともなれば、神秘的な力のせいということで簡単に片付けるわけにもいかない。原因の究明が急務となることは言うまでもないだろう。

 今回挙げるのは、1994年にソウルで発生した建造物崩壊事故である。この翌年には三豊百貨店の崩壊事故も起きており、これもまたシンクロニシティであろう。

 その建造物の名は聖水(ソンス)大橋。ソウル市内の漢江にかかり、城東区と江南区を繋いでいた橋だった。これが1994年10月21日の午前7時40分、突然崩壊して20メートル下へ落下したのである。

 崩壊といっても、橋全体が崩れたわけではない。橋の一部分がパキッともげて、その部分だけが落下したのだ。だが間の悪いことに、当時は朝の通勤通学時刻だった。その上、橋上では雨による交通渋滞が発生していたのである。

 さらに、当時の漢江は渇水中だった。よって崩壊した橋のパーツが完全には水中に没せず、落下した車はもろに橋の舗装部分に叩き付けられ大破する結果になった。川の水がクッションの役割をこれっぽっちも果たさなかったのである。

 結果、死者は32人。うち17名は通学のためスクールバスに乗っていた女子中高生だった。

 事故の原因は、手抜き工事と判明した。

 もともとこの聖水大橋は、走行中の揺れが激しいということで多くの苦情が寄せられていたという。それもそのはず、この橋は施工当時から要所要所の溶接がいい加減で、鋼材の腐食やひび割れもひどかった。

 また、その後のチェックによって溶接部分の異常が何度も確認されていたにも関わらず、橋を管理していたソウル東部建設事務所は補修工事を一切行っていなかった。事故当時は、ソウル市のほうでようやく橋の補修を始めたところだったのだ。

 当時の韓国では、都市部での大規模建築が盛んだった。だがしかし、関係者の技術もモラルも危機管理も時代の要請に応えられる状態ではなく、「安く早くドンドン建築すべし」という風潮だけが先走っていたようだ。さらに、橋上の交通量が当初の想定の2倍に上っていた点も惨劇の呼び水になったと言えるであろう。聖水大橋は建造物としては比較的新しいものだったにも関わらずこうして崩壊し、人々に衝撃を与えた。

 だがさすがに、こんな事故が起きては国民も黙ってはいない。国内に蔓延する手抜き工事への対策を練るべし、という声に押されて、当時の金泳三大統領は全国の道路や橋梁の一斉点検を始めた。

 聖水大橋については、国内の業者ではなく外国の専門企業が復旧工事を行うことになった。この工事契約を落札したのは英国のコンサルタント、レンデル・パルマ-・アンド・トリトン(RPT)社だった。

 まあ「RPT社だった」などと言ってみてもそれがどんな会社なのか筆者はさっぱり分からないのだが、再設計の後に1997年に再び開通した聖水大橋、2001年にはまた手抜き工事が発覚したというから、どうせロクな業者ではなかったのだろう。……というのはちょっと言い過ぎかな。これは根拠のない呟きと思って頂きたい。

 ちなみに、日本の橋はどうなのだろう。

 この聖水大橋の事故は日本にも衝撃を与え、多くの技術者がコメントを寄せている。そしてこの技術者たちの回答は以下のようなものだった。

「日本の橋は、通常の供用条件で、いきなり崩壊落下するようなことが絶対にないように安全に設計され、厳重な品質管理がされている」。

 そして2008年8月28日には、新潟市の朱鷺メッセ連絡デッキ橋が「通常の供用条件」でいきなり崩壊落下した(怪我人なし)のだから、まったくいい加減なものである。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア
◇失敗知識データベース

 

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