目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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第二京浜トラック爆発事故(1959年)

 時は1959(昭和34)年12月11日、午前4時53分のこと。

 横浜市神奈川区子安台46の第二京浜国道を、一台の砂利運搬トラック――通称砂利トラ――が走行していた。

 で、このトラックがすでにして大問題。運転手がグースカ寝ていたのである。

 しかし事情を知ればそれも無理のない話で、相田みつを風に言えば「寝ちまうよなあ、にんげんだもの」である。

 なにせこの運転手、前日の早朝から砂利の運搬のために相模原と川崎を往復しており、それももう5往復目だったのだ。ほぼ24時間、まともに睡眠もとらずに一人で行ったり来たりしていたのである。

 ついでにいえば、彼は運転免許をとりたてでもあった。

 こんな事情があり、居眠り運転のトラックは対向車線にはみ出してしまう。そして折悪しく反対方向からやってきたトラックには約4トンのTNT火薬が積まれており、これと正面衝突をかましたものだから「ワッチャ~」である。

 どぼずばああああああん。

 爆発したほうのトラックは昭和火薬(現・日本工機株式会社)という会社のもので、勝浦市の工場から、横浜の戸塚工場へ向かっている最中だった。荷台には、米軍の砲弾を解体した際に生じた火薬が積まれていたのだった。

 かるく調べてみたのだが、TNT火薬というのは、ちょっとやそっとの熱あるいは衝撃では爆発しないという。だがおそらくこの事故の場合は、高速道路での大型トラック同士の正面衝突ということで、生半可な衝撃ではなかったのだろう。悪条件が重なってしまったのだ。

 爆発直後、もうもうと立ち込める黒煙が消え去った後で道路に出現したのは、巨大な穴ぼこだった。直径5メートル、深さ1メートルの大穴である。

 周辺への被害も著しかった。現場地点を中心に、半径500メートル以内にある民家31棟が全半壊。さらに201棟が一部損壊、そして99名が負傷した。

 こんな爆発のど真ん中にいたトラックも、もちろんタダでは済まない。双方のトラックに乗っていた計4人は全員死亡した。

「爆心地」の場所を示す穴ぼこは、現場の下り車線側にあった。よって、上り線のトラックが下り線にはみ出して衝突したのだろうと判断されたのだった。

 

   ☆

 

 それにしてもド派手な事故である。盆と正月が……、じゃなくて、交通事故と爆発事故が一緒にやってきたという悪夢のような事例だ。

 しかし歴史を俯瞰してみると、この事故の発生にはある種の必然性が伴っていたことが分かる。

 というのは、この事故が起きた昭和34年頃というのは、交通事故も爆発事故も増加の一途を辿っていたからだ。

 まず、荒っぽい運転をすることで有名になった「神風タクシー」が社会問題になったのが昭和33年。その翌年の昭和34年は、交通事故による年間死者数が1万人を突破した年でもあった。

 そして爆発事故である。戦後の技術革新と経済成長によって、この頃の日本では重化学工業が発達していた。そのため産業用の火薬類も多く用いられるようになり、やはりこれによる事故も多発していたのである。

 それを踏まえて改めて見てみると、この第二京浜国道での爆発事故というのは、旬のものをアレもコレも詰め込んだ「牛あいがけカレー」のようなものだったのだなと思う。

 ちなみに筆者は、カレーと牛丼の組み合わせまでなら許容範囲だが、ウナギと牛丼を組み合わせた「うな牛」はどうにも許しがたいと思うのである(本文と関係ねえ)。

 

【参考資料】

◆ウィキペディア

◆昭和49年 警察白書

http://www.npa.go.jp/hakusyo/s49/s490100.html

◆衆議院会議録情報 第034回国会 本会議 第11号http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/034/0512/03403040512011c.html

 

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天六ガス爆発事故(1970年)

 1970年4月8日、三島由紀夫が割腹自殺を図るよりも半年ほど前に起きた事故である。

 場所は大阪市北区天神橋六丁目、通称「天六」。大阪駅から東北に2キロほど行った所にある繁華街である。

 この頃、この「天六」の地下では大規模な工事が行われていた。地下鉄工事である。ちょうどその年に開催された万国博覧会をきっかけとして、大阪市は再開発が急ピッチで進められていたのだ。そして当時の大阪は世界第9位の地下鉄都市で、今度は周辺都市への路線延長が計画されていたのである。

 工事の方式はオープンカット方式と呼ばれるものだった。道路に穴を掘り、作業員はその穴に下りて作業を行う。そして穴の上にはコンクリートの板を敷いて、車や歩行者はそこを行き来できるようにするというものだ。

 フタをした鍋を想像すると良いかも知れない。フタの上を人々が行き来しており、鍋の中で作業員が工事をしているという構図である。

 さて、大事故の予兆があったのは午後5時15分頃のことである。地下での配管工事が行われている時、いきなり都市ガスが噴出したのだ。

 この段階で作業員27名は即座に脱出したというから、噴出の勢いは相当なものだったのだろう。ガスはたちまち地下の「鍋の中」に充満し、地上にも溢れてきた。道路に敷き詰められたコンクリート板の隙間から不快なガス臭が漏れ出て、付近の住民たちは一体何事かと外へ出てきた。

 そして最初にガス漏れが発生してから5分程経った午後5時20分、ガス会社のパトロールカーもこのガス漏れを発見。緊急車輌や工作車が呼び出され、消防車も駆け付けた。天六周辺はもう大騒ぎである。

 騒然とした中で、野次馬や、通行人や、付近の住民たちに避難が呼びかけられた。

 そしてもちろん、現場は火気厳禁である。しかし作業員たちの必死の呼びかけにも関わらず、結果的には多くの人々が爆発に巻き込まれることになってしまった。

 昔のながいけんならきっと「どぼずばああああああん」と書くところだろうが、笑い事ではない。推定5万立方メートルの規模まで漏れたガスは2トン爆弾に匹敵する破壊力を持つ。たちまち10メートルを超す高さの炎がビルの上まで噴き上がり、工事の穴を塞いでいたコンクリートの板(1枚につき重量400キロ)が何百枚も跳ね上がった。道路は長さ200メートル、深さ150メートルに渡って陥没したという。おいおい戦争じゃないんだからさ、と言いたくなる惨状である。

 結果だけを見れば、最初のガス漏れの段階で自衛隊あたりが駆け付けてもおかしくないほどの事態だったのである。

 言うまでもなく、現場にいた野次馬も、作業員も、事故車輌も、信号待ちの車も、全てがぽぽぽぽーんと爆風で吹き飛んだ。その結果、工事中の地下へ落下して79名が死亡。負傷者は420名に及んだ。

 また悪いことに、そこは夕刻になると仕事帰りの乗用車が多く通過する場所でもあった。

 消火と救助活動は、翌10日の午前1時頃まで続いた。地下に落下した犠牲者をクレーンでまとめて吊り上げたり、電柱に引っかかった遺体を収容したりと、その作業は凄惨かつ難航を極めたものだったらしい。死因のほとんどは全身打撲だった。

 家屋は全部で26戸が全半焼、損壊が336戸。ドアや窓ガラスが破れただけの家も含めれば被害は1000戸を越えた。

 さて問題はガスに引火した原因だが、これが今になってみるとよく分からない。一応、エンストを起こした事故処理車がエンジンをかけ直しているうちに火花が引火した――というのが通説になっているが、それも推測の域を出ないようだ。

 次は裁判である。この工事の施工監督は大阪市で、これが業務上過失致死で起訴された。だが大阪市は、実際に工事を行った建設会社やガス会社と責任をなすり合う形になり、このなすり合いは15年もの長きに渡って続いたのだった。どうもネット上で調べてもどういう判決になったのかよく分からないのだが、きっともうグダグダだったのだろう。

 ただし、補償は早かった。上記3者は、事故の8ヵ月後には被害者や被害者遺族に対する補償を終えていたのである。そしてついでに言えば事故の7ヵ月後には工事も再開されていたというから、とにかくさっさと丸く治めて工事を予定通り進めてしまおうという意図もあったに違いない。

 そうした観点で言えば、被害者や被害者遺族たちは、迅速な補償によってかえってうまくガス抜きをされてしまったのではないかという気もする――ことがガス爆発事故なだけに、と、これは悪い冗談だが――。

 慰霊碑は存在する。天六の近くにある国分寺公園の中にあるそうだが、平成6年を最後に慰霊祭は行われていないという。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇失敗百選
 ◇アサヒグラフ

 

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日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)

 どぼずばああああああん。

 

 2008年4月7日のことである。横浜市金沢区福浦にある日本カーリット株式会社の工場で爆発が起きた。

 

 え、また?

 

 そう、またなのである。――と言っても前回の事故からは50年も経っているのだが。

 

 ネット上の情報をざっと眺めてみたが、この2008年の爆発の時刻は定かではない。当時の新聞もチェックしてみたのだが、事故のニュース自体が全然載っていなかった。

 

 現場は敷地内の実験棟で、従業員2人が病院送りとなった。うち1人は死亡している。なんだか死傷者数までもが、50年前の同社の爆発事故と似通っていて不気味だ。

 

 爆発の原因だが、「化学物質トリクロロシランなどの液体をオートクレーブで混ぜる際、加湿装置から蒸気が漏れ、薬品と混ざって化学反応を起こして圧力が異常に上がり、釜が爆発した」らしい。素人としては、ハァそうですかとしか言いようがない。

 

 まあ、それは物理現象としての原因である。人的ミスがあったのではないか、という観点で調べたところ、加湿装置とやらの自主検査を10年以上もサボッていたことが判明。これにより装置の劣化に気付かなかったのではないかと考えられた。

 

 この加湿装置の自主検査について、当時の工場長はしなくてもいいと勘違いしていたらしい。ただ、死亡した従業員からは装置の老朽化を訴えられていたというから、これでは工場長、言い逃れもしにくかったことだろう。2009年12月16日、当時の工場長と副工場長は横浜地裁へ書類送検された。容疑は業務上過失致死傷である。

 

 だがこれについては不起訴となった。仮に自主検査を行なっていたとしても、爆発の原因となった装置の亀裂を見つけるのは難しかっただろう――と横浜地検は判断したのだ。

 

 この不起訴の方針が確定したのは、2009年12月28日のことである。資料によると、年明けには不起訴にすることが決まった――とあるが、実を言えばその後本当に不起訴になったのかは不明だ。これも新聞には載っていなかった。

 

 さらに言えば、不起訴になったのは「3人」らしい。工場と副工場長、あと死亡した人の3人である。しかし死亡した人が副工場長だったのか、副工場長は2人いたのか、助かった人は副工場長だったのか、などの詳細は不明である。

 

 ついでに、県警は消防法違反で日本カーリットとその営業課長も書類送検した。こちらは、トリクロロシランなる化学物質を、市の許可を得ずに法定貯蔵量を超えて貯蔵したのが引っかかってしまったらしい。これについては、不起訴になったという記述は見つかっていない。

 

【参考資料】
◆「化学業界の話題」
http://knak.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-d037.html

 

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日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)

 どぼずばああああああん。

 

 2010(平成22)年1月7日のことである。横浜市金沢区福浦にある日本カーリット株式会社の工場で爆発が……

え、それはもう聞いたって?

 

 いやいや。よく見て下さい。日付と時刻が違うでしょう。2年前と同じ場所で起きちゃったんです、またしても爆発が――。

 

 時刻は、資料によってまちまちだが、大体17時45分~48分頃で間違いないようだ。場所は、横浜新都市交通金沢シーサイドライン・産業振興センター駅からおよそ600メートル東の工業団地の一角である。

 

 一大事である。消防車40台が出動して、20時15分頃には鎮火した。

 

 幸いなことに死者はいなかったが、従業員8人と、通りすがりの車に乗っていた男性2人、そして付近の工場の従業員1人が怪我を負っている。資料によっては合計12人となっているのもあるが、ここではとりあえず合計11人ということにしておく。

 

 このように、近くの乗用車や他の工場にまで被害が及んだほどである。爆発した建物もただでは済まなかった。工場敷地内の3棟が全焼、1棟が半焼。さらに全壊が4棟、半壊が3棟、部分壊は6棟に及んだ。

 

 また周辺では、他の企業のものだろうか、61の事業所のうち82棟、車両69台、動産及び工作物10件が損壊している。全体の損害額は約5億に上った。

 

 さっそく日本カーリットでは、社長がその日の22時から記者会見。謝罪し、原因追究をしっかりやることを宣言した。

 

 翌日には神奈川県警が実況見分を始めて、有機製造室棟にあった高圧釜が敷地外の道路まで吹き飛んでいることを確認。またこの棟の焼損と、周囲の損壊が最も激しいことから、この付近で爆発が起きたと睨んだ。さらに業務上過失致傷の容疑で事情聴取も行っている。

 

 爆発の原因は、オートクレーブという装置が暴走したためと推測された。オートクレーブとは圧力鍋みたいなもので、中を高圧にして作業を行なう耐圧式の装置である。この中で圧力が急激に高まったため、ドカーンといってしまったらしい。

 

 では、なんでそのオートクレープの圧力が高まったのか……、その理由は、資料を読んでも筆者にはよく分からなかった。

 

 だがとりあえず、ほぼ一年後の12月20日には、会社と従業員3人が注意義務を怠って爆発を起こしたとして書類送検された。容疑は業務上過失傷害や業務上過失爆発物破裂罪、そして労働安全衛生法違反である。

 

 そして横浜簡裁は1月4日までに、この3人に罰金計200万円の略式命令を出した。決定はいずれも昨年12月27日付けである。

 

 この日付を見て、「あれ?」と思ったのは筆者だけだろうか。そういえば前回の2008年の事故でも、年末ギリギリに起訴されて、年明け早々にどさくさ紛れという感じで一瞬で処理されていた。今回と全く同じである。

 

 多分これは――半ば「邪推」と考えてもらって結構だが――国の側の配慮だろう。

 

 戦前からの大規模火薬産業で、3回も爆発事故を起こしているのに(うち2回は死亡者あり)まだきちんと存続しており、そのわりにあまり名前の知られていない一流企業で、しかも2008年と2010年いずれの事故もあまり大きく報道されていない……ということで、なんとなくそういうバックがついていそうだなーとは思っていた。

 

 チッソなんかと同じだね。もし株を買う機会があったら、ぜひ日本カーリットにしよう。そうしよう。

 

 事故があった工場の跡地は、その後更地になって売却の話が進められたりしたようだ。ネット上ではそこまで確認できたが、今どうなっているかは不明である。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
はまれぽ
日本カーリット㈱横浜工場における爆発火災の火災原因調査結果について
takumi296's diary
ウィキニュース『横浜の化学工場で爆発事故 従業員ら11人けが』
カナロコ
日本カーリット:横浜市の工場で爆発、4人が負傷し炎上中-地元署
化学業界の話題
コトバンク

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青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)

 1945(昭和20)年3月22日のことである。青森県青森県西津軽郡赤石村(現在の鰺ヶ沢町)の大字・大然(おおじかり)地区にて奇妙なことが起きていた。村を流れる赤石川の水かさが、やけに少なくなっていたのだ。

 

 村人たちはこの異常事態に気付いたが、その意味するところまでは誰も考えなかったようだ。

 

「なんだこれ? 変だな。まあいいや、明日確認しようか」

 

 とまあ、こんな感じだったのかも知れない。こうして、村はそのままで夜を迎えた。

 

 だがもはや状況は手遅れだった。実は、赤石川の上流では水の流れがせき止められていたのだ。おそらく、この冬の豪雪と雪崩によってダムができたのだろう。さらにこの日の夜の天候は豪雨であり、これによって雪の天然ダムは決壊してしまった。

 

 時刻は23時頃から、翌午前3時頃の間と言われている。大量の雪、土砂、水が村に襲いかかった。

 

 このような雪混じりの鉄砲水を、専門用語では「雪泥流」と呼ぶらしい。これの直撃を受けた集落は家も住民もたちまち押し流され、大然では13戸、佐内沢という集落では7戸が一瞬にして流されて88名が死亡(87名という記録もある)した。死者の内訳は男性が41名、女性が46名というものだった。遺体は7月11日になってようやく全て発見されたという。

 

 これほどの人数が死亡し、しかも村落がほぼ壊滅したのである。国内の土石流災害の被害としてはかなりものだ。だがこの災害、一般的にはほとんど知られていない。それは何故か?

 

 答えは簡単で、報道されなかったのである。

 

 時期が1945(昭和20)年という微妙な時期だったためだ。終戦直前である。メディアの側にも詳細を報じる余裕がなかったのか、あるいは士気を殺いではいかんということで報道管制がかかったのか、とにかく少なくとも中央では全く報道されなかったのだ。おかげで終戦を迎えて以後も、この災害は、地元民しか知らないモノホンの「知られざる災害」としてのみ語り継がれていたのだった。

 

 そんな災害の記憶の「発掘作業」が始まったのが1987(昭和62)年のことである。東奥日報新聞社が、「消えた村」と題して3月16日から26日にかけて惨劇の顛末を連載。さらに翌年には郷土史家の手によって単行本にまとめられた。

 

天然ダムの崩壊と雪泥流による被害事例は、国内でもあまり例がないという。よってこの事例研究は、専門の研究者にとっても極めて貴重なものだった。

 

 この災害が起きた赤石川の周辺は、もともと地滑りなどの土砂災害が発生しやすい地質だった。地滑りと地質の関係については前にバス事故の項目でちょっと書いたことがあるが、第三紀層を形成する箇所が多く存在するのだ。

 

 雪泥流はあくまでも雪と水の組み合わせで発生するが、水流が発生すると途中で土砂などを巻き込んでいくことになる。よってそこが脆い地層であれば被害も拡大することになる。この水害はこうした悪条件が重なって発生したものだった。

 

 青森県で最初の砂防ダムが設置されたのがこの赤石川だったというのも、決してゆえなきことではないのである。「青森県砂防発祥地」の記念の石碑もあるそうだが、そこには「雪泥流」という言葉もきちんと刻み込まれているという。

 

 なお、慰霊碑も存在する。なんでも「鰺ヶ沢町自然観察館ハロー白神」なる施設のそばにあるそうで、これは昭和26年11月に建立された。そしてその裏面ではこのような説明がなされているという。

 

「昭和二十年三月二十二日夜来の豪雨により流雪渓谷に充塞河水氾濫し舎氷雪に埋まり大然部落二十有戸悉く其影を失ふ夜来のこととて死者八十七名生存者僅かに十六名のみ實に稀有の惨事たり爾来七星霜犬方の同情と復員者の苦闘により漸く復典の緒を見るに至る茲に浄資を集め遭難者追悼の碑を建て以て厥の冥福を祈らんとすと爾云

     昭和二十六年十一月

     赤石村有志代表

     村長正七位 兼平清衛識」

 

 この記事を書くにあたり、本当は先述の「郷土史家がまとめた記録」とやらを読んでみたかったのだが、ついにそれは叶わなかった。たぶん青森の地元とか国会図書館とかそれ専門の大学の図書館でないと置いてなかったりするのだろう。

 

 というわけで、筆者はネット上の情報をつなぎ合わせて今回の記事を書くしかなかったのだが、一応文献のタイトルも掲載しておこう。興味がある方は読んでみて下さい。

 

『岩壁(くら)――昭和20年・大然部落遭難記録』

 著者・鶴田要一郎

 発行・青沼社

 昭和63年12月20日初版発行

 

 まあ仙台から青森まではそう遠くないし、山形在住の筆者としては、青森県の図書館にそのうち直接調べに行こうかな~なんて思わなくもないのだが。

 

【参考資料】

レポート『新しい雪氷災害「雪泥流」とその予測』小林俊一

 総務省消防庁防災課『災害伝承情報データベース整備検討報告書(平成16年度分)』平成17年3月発行

個人ブログ『砂防に関する石碑 碑文が語る土砂災害との闘いの歴史』2008年06月30日公開記事「2-1.大然部落遭難者追悼碑」

ウェブサイト『東北自然ネット』内記事「赤石川の砂防と大然部落の全滅」

 

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