目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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酒田大火(1976年)・上

「おうちが やけた」 一年 おがた さとこ(新井田町)
 
みんなでごはんをたべていたら、となりのおじちゃんが「どこかがかじだぞ。」とあわててはいってきました。
 
わたしはごはんをはんぱして、みせの二かいにいって空をみました。グリーンハウスから火がでていました。
 
おじいちゃんが、ごはんをはんぱして
「おれ、みいてくっさげの。」とでていきました。
 
どうろにでてみると、空がまっかで、すごいかぜです。
 
きんじょの人たちは、車ににもつをいっぱいつんでいる人や、あたまの上までしょって、はしっていく人がいっぱいです。そのべさんの車には、じてんしゃをいっぱいつんで川ばたのほうに はしっていきました。
 
おじいちゃんもかえってきてうらにおちてくる火のこをふくでたたいていました。
 
そのうちに、ジャンパーの男の人が
 
「ひなんせー」
 
と大ごえではしってきました。おばあちゃんが
 
「じぶんのものどご、かばんさいっでもてこい。」
 
といいました。わたしは、入学式に買ってもらった筆入れも入れました。お姉ちゃんは、このまえかってもらったさいふももちました。ことりのみみと、犬の、チロも、いっしょに車にのせました。
 
車のうしろをみると、どんどん火が、こっちのほうにきました。わたしは、はんぶんなきながら、もう、おうちはやけるな、と、おもいました。
 
おかあさんたちは、まだのこりました。
 
ゆう子おばあちゃんのいえにつきましたが、まっくらで、なんにもみえません。でんちでしましたが、だれがだれだかよくわかりません。カバンをおろして
「さとこねむて。」というと、
「ふとんしいてやっがらまってれよ。」
と、すぐしいてくれました。ふくのままでねました。
 
あさ、「さとこ、え、みなやけた。」
 
と、お母さんがいいました。わたしはなきました。ねえちゃんも、おかあさんもなきました。
 
おじちゃんから、車でがっこうへおくってもらいました。
とちゅう、とおるくんのうちも、さとみちゃんのいえもみかちゃんのいえも、みんな、やけていました。
 
   ☆
 
 酒田大火――。1976(昭和51)年10月29日の夕方から深夜にかけて、山形県酒田市の繁華街を焼き尽くした火災である。
 火元は、中町という場所にあった「グリーンハウス」という映画館だった。
 このグリーンハウスは、当時としては日本一か世界一かと言われるほど斬新な映画館だった。中には喫煙可能な特別個室や十名限定のミニシアターなどというものがあり、さらには演奏会やファッションショー、小演劇まで行われていたというからすごい。もはや映画館というよりも、ちょっとした総合文化施設である。
 映画産業が不振だった当時でも黒字経営を続けており、今でも山形県内では知る人ぞ知る伝説の映画館として語り継がれているこのグリーンハウス。しかしその末路は、街を焼き尽くした大火の火元という極めて不名誉なものだった。
 時刻は17時40分。映画館の従業員が、ボイラー室の周辺できな臭い匂いが漂っていることに気づいた。しかも停電も起きており、ただ事ではない。
 火災報知機のベルが鳴動したのは、ちょうどそれらの異常を支配人に報せに行った時だった。支配人は消火器を手にすると、火元と思われるボイラー室に向かって駆け出した。
 ところがボイラー室は施錠されており開かない。2階から侵入を試みるも、すでに黒煙が充満しており近づくことはできなかった。もはや素人の消火活動ではどうにもならない状況である。
「火事だ! 消防に電話してくれ!」
 支配人は大声で指示を出し、窓から避難している。
 いつもならばここで、やれ通報が遅かっただの初期消火がの手際が悪かっただのとケチをつけるところだ。だがこの後、街全体が消し炭と化した恐るべき事実に比べれば、そんなのは瑣末事であろう。
 グリーンハウスの火事そのものは、確かに初期消火にもたついているし、通報も遅れている。だが避難誘導はきちんとなされているし、出火原因も不明だ(最終的に、消去法で漏電という結論に落ち着いた)。グリーンハウスの従業員に目立った落ち度はない。街全体が焼けたのは、端的に言って消防体勢と消火設備の不備のためである。
 また運も悪かった。最悪の天候だったのだ。この日の山形県の気圧配置は絵に描いたような冬型で荒れに荒れていた。内陸部では初雪を観測しているし、まして酒田のような海沿いの町ともなれば、強風が吹き荒れるのはごく自然なことだった。
 17時50分。通報を受け、消防はさっそく出動した。駆け付けた消防士たちは、まず建物内での消火を試みている。しかし時すでに遅しで、間もなく炎と濃煙と熱気が押し寄せてきて隊員たちは退却を余儀なくされた。
 どうやら、火炎に対して積極的に攻勢に出るのは難しそうだ。そこで消防隊は、せめて延焼だけは防ごうと、防御の態勢で臨んだ。グリーンハウスの風下では、木造二階建てのビルが密集していたのだ。隊員はグリーンハウス周辺の一角を取り囲むようにして、屋根に上って放水を始めた。
 ところが、今度は隊員たちの身に危険が迫ってきた。グリーンハウスをみるみるうちに焼き尽くした火炎が、強風に煽られて襲いかかってきたのだ。トタン屋根も焼けた鉄板と化し、隊員たちもアチアチアチチ、と下りざるを得ない。火力はちっとも衰えなかった。
 とにかくぜんぶ強風のせいだった。風があまりに強すぎ、炎を煽る上に消防の放水も飛び散らせてしまう。水を撒くだけ無駄という状況だった。
 火の粉も凄まじかった。地面といわず中空といわず辺り一面を覆い尽くし、赤い吹雪のように消防隊員たちの視界を遮るのだ。あげく目に入って痛いのなんの、とても開けていられない。さらに現場周辺では、、煙と熱気のコラボレーションで呼吸もままならなかったというから、もういかんともしがたい。もはや消火どころじゃなかった。
 こうして、延焼を食い止めることは遂に叶わなかった。吹き続ける強風によって火の粉と火の玉が飛散し、木造の建物に次々に燃え移っていく――。大火事である。
 日も暮れた東北の海辺の町で、サイレンがけたたましく鳴り響く。消防隊は非番の職員も全て駆り出して戦力を増強していった。しかし皮肉なことに、人員が増えれば増えただけ、隊員たちは火炎によって翻弄されていった。
「おい、こっちに燃え移るぞ、ホースを伸ばせ!」
「届かないっす」
「だったら他のホースを繋げ」
「みんな使っちゃってます!」
 カンカンカン、ウーウーウー。野次馬や、心配になって様子を見に来た近隣住民たちも集まり始めた。真っ赤に染まる闇空。その真下では、風に煽られて撒きあがる火炎が見える。場は混乱の極みだ。
「皆さん危険ですから近寄らないで下さい! 消火の邪魔になります! 近寄らないで下さい!」
「他の消防車をこっちに移動させろ、応援を呼べ!」
「うわっまた火がついた!」
「危ない、そこの消防車こっちに来るな! 今その建物に火がついた、さっさと移動させろ!」
 強風は止まない。消防の放水も火の粉もいっしょくたになって消防隊員、警官、野次馬たちに降り注ぐ。しかも、そうこうしているうちに今度は風向きが変わったからさあ大変。人々は逃げ惑い、翻弄されっぱなしだった。
「うわっ火の粉が目に入った、目がぁ~、目がぁ~!」
「ぎゃあッ、ホースが焼き切れた!」
「ぼやぼやするな、あっちの火を消せ、その次はこっちだ、くっそー熱い!」
「おい崩れるぞ、逃げろ~ッ!」
 酒田市の冬の空が真っ赤に照らされる。出火から20分が経過した18時頃の段階で、火の粉は1キロ先の酒田駅にまで飛来したという。
 その少し前、17時53分に通報を受けていた山形県警では、県内の警察署に指示を出して厳戒態勢を敷いた。出火からそう時間は経っていないが、これは迅速な措置だった。この火災はタダでは済むまいという予感があったのだろう。なにせ当時、酒田市には強風波浪注意報と海上暴風警報が発令されていたのだ。
「全署員出動せよ! それから山形、天童、寒河江、村山、尾花沢、新庄、余目、鶴岡、温海の各署にも応援を要請し、全警官に待機命令を出せ。おっとそれから機動隊も呼ぶんだ」
 いやはや、県警も本気である。山形県民でないとピンと来ないかも知れないが、県内の上半分の地域の主たる警察署が全て応援要請を受けたのだ。さらにこの後には、北隣の秋田県からも応援が駆け付けている。ありがとう秋田県、感謝してるぜ! 鳥海山はあくまでも山形のものだけどね!
 18時10分には、酒田警察署に「酒田市繁華街大火災警備本部」を設置した。グリーンハウス付近の交通規制を行い、近隣住民には風上へ避難するよう誘導を始めている。
 18時30分頃になると、この火災は「何件かが焼ける」程度のものではなくなっていた。グリーンハウス周辺の建物をすっかりねぶり尽くした火炎は、気がつけば街区単位でその魔の手を拡大させていたのだ。火災の拡大が、次の段階に入ったのである。
 きっかけは「大沼デパート」に炎が進入したことだった。熱で窓ガラスが壊れ、そこから火が入り込み、5階の窓から火炎放射器のような勢いで噴き出し始めたのだ。窓ガラスの破壊によって風通しがよくなり、強風がもろに吹き抜けるようになってしまったためだった。デパートは中町通りという大通りに面して建っていたのだが、それが炎を噴出したことで、火の粉と火の玉が通りを飛び越えて飛散したのだ。
 これにより、向かいの街区の建物に次々に着火。19時30分には消防も移動し、こちらへの延焼を食い止めようとするがこれもダメ、火勢と強風が凄まじくいかんともしがたい。撤退線を余儀なくされた。
 そこへ来て、またしても風向きが変わった。北へ北へと移動していた炎が、今度は東側へ流れ始めたのだ。それだけでももう「勘弁してくれよ」と言いたくなるが、この風はさらに南へぐるりと回転。Uターンする形で、さらに別の街区へも及び始めた。
 消防関係者はさぞ泣きたい気持ちだったろう。炎は強風で煽りに煽られ、密集した建物の隙間に潜り込む。そして周辺を舐めつくしたあげく彼らに襲いかかり、消火活動の邪魔をするのだ。
 映画館グリーンハウスからスタートしたこの火災は、こうして「大火」の様相を帯びていった。
 
   ☆
 
 ところで「大火」の定義とは何だろうか。
 結論を言えば、明確な定義は特にない。ただ広範囲に渡って何件もの建物を焼けば、それが大火と呼ばれるだけだ。
 明治時代以降、学者などは便宜的に定義づけたりしているようである。だが定説になっているものはなく、おそらく一般的には大火の定義などどうでもいい問題なのだろうと思う。
 だが「大火」という言葉には、やはり「小火(ボヤ)」とは区別される独特のイメージがある。空が真っ赤に染まり、街が焼け、多くの人が焼け出される。パニック、騒音、飛び交う怒号……。酒田大火はまさにこうしたイメージ通りの出来事だった。
 もともと、山形県酒田市という地域は「大火の名所」でもある。とにかく風がやばいのだ。
 海沿いの港町ということで、まず冬季にはシベリアからの季節風が吹き込んでくる。また湿度の低い3月から5月にかけては、フェーン現象とダシの風によってひどいことになる。そんな中で一度出火すれば消火は極めて困難になる、それはこの街の昔からの伝統でもあった。
 しかも、水利も悪い。もともと砂丘の上に作られた町なので、掘って水を引き入れるのが難しいのだ。
 そんな環境なので、明暦から幕末までの間にも火災は68回起きており、うち45回は100戸以上が被害に遭っている。5年に1回は火がついている計算だ(明暦以前はまともな記録がない)。
 1976(昭和51)年の酒田大火は、そんな酒田市の歴史の中で見れば実に久方ぶりの「忘れた頃にやってきた」人災であった。それも全国的に見ても焼損棟数の規模は戦後の大火でも5番目、山形県内で見れば最大のものである。
 さらに言えばこの事例は、カラーで撮影され記録された大火事例としては、日本史上最初で最後のものである(地震による火災を除く)。
 その後のことを少し先回りして述べておくと、この大火後の復興作業は実に迅速なものだった。その異例ともいえるスピードと手際の良さは、あの阪神淡路大震災の時にも参考にされたといわれている。
 これらの観点から俯瞰して考えてみると、こういうことが言えると思う。この酒田大火というのは、災害史上における近代以前・以後の結節点にあたるものである――と。
 この昭和50年代くらいになると、大火というのは過去のもので、火災の古臭い形態のひとつとしてしか記憶されていなかった。鉄筋コンクリートの建物がほとんど存在しない、前近代的な地域でしか起こり得ない災害というわけである。記録として残されている他の県の大火の写真も、実際みんな白黒だ。
 それが戦後の現代社会で、突如として蘇ったのが酒田大火だったのである。そしてなお、後世の災害復旧でもその記録は役立てられている。大火自体は不幸なことではあったが、このような形で一度丸焼けになったのは、神様が酒田市に割り振ったひとつの「試練」であり「役割」だったのではないかという気もするのだ。街全体が破壊されるような災害が決して過去のものではないということを、日本人はこの大火によって一度思い知らされたのである(注:ちなみにこの文章を最初に書いたのは、東日本大震災が発生するよりも前のことである)。
 まあ筆者は山形県民なので、こうやって酒田大火をちょっと「持ち上げ」ておきたい気持ちもあるんだけどね。
 とりあえず話を戻そう。
 
   ☆
 
「火のたまがとんできた」一年 すず木 しげのり(新井田町)
 
そらが まっかになって、
ひのたまが とんできた。
しょうぼうしゃが水をかけても きえなかった。
ちかくの にいだ川が あかくなった。
みんなは、
「だめだ。」
といって にげた。
僕も、かばんやえんぴつけずりやおもちゃをもって、にげた。
おかあさんのともだちのうちににげた。
「ねれ。」
といわれたけど、ぼくは ねれなかった。
ぼぼぼぼぼっと やけたかじ、
おもいだすと おっかない。
おとうさんが おるすじゃなかったらよかった。
 
   ☆
 
「ただいま中町で火災が発生しました。現在も延焼中です。近隣にお住まいの方はただちに避難して下さい!」
 市の職員や警官が、メガホンでもって呼びかける。
 実際には、住民の多くは自主的に避難していた。外の騒ぎを聞きつけて非常事態を察知したのだ。
 道路は、避難する市民と、彼らの荷物でごった返した。
 筆者は、この時の情景を想像するに、えもいわれぬ感慨をおぼえる。夜闇の中、煙と火の粉と強風を浴びながら、人々はあの酒田の街をぞろぞろと歩いて行ったのか。真っ赤に染まる空を背にしながら――。
 しかし、皆が皆、素直に避難したわけでもない。立入禁止になった区域へ強硬に入り込もうとする者もいた。
「通してくれ、俺の店の商品が焼けちまう!」
「大事な家財道具を忘れた。ちょっとでいいから戻らせてくれ!」
 と、こんな具合である。もちろん警官らは全力で彼らを説得し、時には実力行使という形でもって対抗した。
 また当時の記録を読んでいて個人的に印象に残ったのは、動物に関するエピソードである。避難の時に家を飛び出し、それきり行方不明になった飼い猫の話。また一緒に避難できないからと、逃げる際に別れを告げざるを得なかった小鳥。見捨てて逃げざるを得なかった飼い犬が、焼け跡でもきちんと生存しており飼い主の帰宅を待っていたなどというエピソードもあった。避難活動ひとつ取っても、ひとりひとりにこうしたドラマがあるのだなと改めて感じる。
 消火活動に対する要望も尽きなかった。
「俺の家が燃える。消防のホースをもっと入れてくれッ」
「よせよせ、この強風じゃ水だけでは消せないよ。破壊活動をやって対処しろ!」
「400リットルの工業用油が保管してある。持ち出さないと危険だ~っ」
 消防隊員にしてみれば、んなこたぁ分かってるよ! いいからさっさと避難してくれ! と言いたいところだったろう。混乱しきりである。そりゃま、住み慣れた街が、そして我が家が、目前で焼けようとしているのだから落ち着いていられるわけもないのだが――。
 現場周辺ではデマも飛び交った。やれ火事場泥棒が出ただの、どさくさに紛れて婦女暴行を働いた奴がいただの、煙の中を白狐が飛んでいっただのと、さすがにここまで来ると「少し落ち着け」とも言いたくなる。
 こんな調子ではあったが、とにかく人々は命からがら公民館や小学校に避難した。この時、火の粉がまるで吹雪のように舞っていたというのは、酒田大火を体験した多くの人が証言しているところである。
 また火の粉のみならず「火の玉」も恐ろしい。延焼し焼け落ちた家屋から焦げた板きれ、紙くずなどが飛び出してくる。もっとひどいのになると瓦屋根、雨樋、外壁、看板の破片などがコブシ大の火の玉になって飛散するものだから、火災はネズミ算式に拡大していく。いったい次はいつどこに延焼するのか、予想できる者は誰もいなかった。
「家やげだ人たち、グリーンハウス恨んでだがもの」
「ほんなごどね、しかたないもんだ」
 避難した先で、人々はこんなことを言い合いながら恐怖の一夜を過ごしたのだった。
 
 

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酒田大火(1976年)・下

 大沼デパートに延焼したあたりから、戦況は泥沼化。消防関係者たちは、なんとか消火の糸口を掴もうと躍起になっていた。
 天候は、相変わらずの強風に加えて雨も降ってきた。もちろん生半可な雨で大火が収まるはずもなく、雨水を吸った泥のような煤が街中に散らばり、火の粉と共に宙を舞っていく。
 それでも、20時頃には一度だけ延焼の勢いが弱まった。大沼デパートの東にマルイチ中町マートという商店があったのだが、ここに炎が入り込んだのである。南北に長い建物だったため、火炎の通過に時間がかかったのだ。
 もちろん決して火が消えたわけではない。この商店を通過した炎は、結果として一街区を横断する形になり、向かいの街区へ延焼をもたらす結果となった(この中町マートの中で消火することはできなかったのだろうか?)。
 こうして延焼は続く。まだ戦いは始まったばかりだった。この大火は、ここまで焼けた範囲の、さらに数倍の面積をこれから焼き尽くすことになるのだ。
「こんな火事、どうやって消すんじゃい!」
 消防関係者の嘆きの声が聞こえてきそうだ。
 負け戦の泥仕合である。彼らの疲弊も著しかった。
 当時、例えば消防団は、酒田市のほぼ全域の団員が出動したという。だが、よもやこんな事態になるとは思わず軽装で出てきた者も多くいた。
 皮肉なものである。降雨はちっとも消火の足しにならず、薄着の消防団員を凍えさせるばかり。まさか炎で暖を取るわけにもいかないし。
 もっとも厄介なのは、街中のそこいらに飛び散った火の粉や火の玉だった。ヤツらは建物の看板の陰や、屋根の低い部分などにゲリラのように潜り込んでいる。消防隊は梯子を使って屋根から屋根へと渡り、それを片端から消して回らなければならなかった。
 それに水も足りない。水の使用を控えるよう住民に呼びかけたものの――みんな避難しているんだから使用もへったくれもないわけだが――それでも消防隊はあっちで放水、こっちで放水と盛大にやっているため、結局は共倒れになる。どうしようもない。
 目をやられる者も続出した。火災発生から1~2時間の間に、ほとんどの消防隊員が目をやられている。激痛でとても開けていられなかったという。火災には慣れているはずの隊員でも体験したことがないようなひどい症状で、指でまぶたをつまみ上げないとものが見えない。その上、水で目を洗おうものなら飛び上がるほどに痛むのである。輻射熱と火の粉による結膜炎だ。
 そうした隊員たちはとりあえず病院送り。麻酔薬入りの目薬のおかげでようやく症状は和らぎ、また現場へ。でも煙が怖いので、今度は放水を腹ばいで行ったという。
 彼らの仕事は、直接的な消火活動ばかりではなかった。危険物の撤去なども重要な使命である。例えば街の駐車場に停めてあった車などがそうで、ガソリンに引火しないよう移動しなければならない。だが持ち主が避難しており施錠されていたらどうしようもなく、これは消防団や消防隊員がひとつひとつどかしたという。
 タチが悪いのは、野次馬の乗り捨てた車だった。とにかく無造作に放置してあるので、ダイレクトに消火の邪魔になる。このへんはもう、ガラスをぶち破って移動させたそうな。
「街が焼ける」とひとくちに言っても、避難や消火以外に、このように様々な要素があるのである。消防関係者以外にも、火災対応で出動した職業人たちは大勢いた。例えばガス屋さんである。家々に備え付けられたプロパンボンベは、火災発生と同時にただちに業者が回収し、回収し切れない分も爆発だけはしないように処置がなされたという。
 また東北電力も頑張った。最初、消防だか警察あたりから「不安を起こさないように、街をできるだけ停電させないでくれ」と要請があったらしい。これを受けて、東北電力酒田営業所の従業員はぎりぎりまで電柱で粘り、火炎の迫った区間からひとつひとつスイッチを切って回った。
 電柱の変圧器の中には、火災によって爆発したものもあったという。電力会社の職員だって命懸けだったのだ。
 こうして戦争は続く。警官の中には、真っ赤な炎の白鳥が空を舞うのを見た、などと言い出すのが出てくる始末。そして寒さと疲労、長時間の泥仕合と来れば、次の問題は「空腹」だ。腹が減っては消火もできぬ。このままでは士気も下がると、一時帰宅を許された消防団もあった。また農協の婦人部は千人分の炊き出しも行っている。
 おにぎりとお茶の差し入れをしてくれたおばさんは、警官にこんな風に声をかけたという。
「やれ、若いしゅドゴ、めじょけねちゃ。若いうちだばすぐ腹減るもんだでば、めじょけねちゃ」
 ちなみに「めじょけねちゃ」とは「可哀想だ」という意味だ。この差し入れを受けた警官は、泣いた。
 
   ☆
 
 21時頃になると、火災は商店街に及び始める。
 酒田市一の繁華街・中町通りはアーケードによって飾られており、当時としては近代的な造りだった。だが酒田大火ではこれが完全な仇となり、アーケードの屋根の上と下でそれぞれ火がつくという二段攻撃に、消防隊員たちは苦戦を強いられた。
 もともと、アーケード自体が放水の邪魔だったのだ。また商店街はどの店もシャッターを下ろして施錠していたため、屋根に上るのも難しい。看板も邪魔だ。これは完全に「恨みのアーケード」であった。
 そうこうしているうちに22時。火炎は中町通りと内匠(たくみ)通りという二本の道路を、強風に乗って流れていく。
 この二本の火炎流は、交互に火の勢いが入れ替わったり、またある時には交わったりと、まるで有機体のようにうねりながら街を舐めつくしていく。23時頃までには中町、浜町、新井田町へと延焼していった。
 消防も、もうこの火災は普通のやり方では鎮火できないと判断。延焼を食い止めるために、炎の流れに対して横から放水するなどの方策を取っている。だが水もホースも足りない、隊員は疲労困憊、延焼の範囲が広すぎて命令も上手く伝わらないという状況で、効率は下がる一方だった。
 そして23時ちょうどに、消防本部ではついにある決断が下された。破壊消防を行うことになったのだ。
 破壊消防とは何かというと、延焼を防ぐために、焼けそうな建物を前もってぶっ壊してしまうというものである。火炎に真正面から立ち向かっても敵わないならば、可燃物を絶つ兵糧作戦でいこうというわけだ。
 もちろん、これは一般市民からすれば素直に許容できるものでもない。「消火を諦めて、俺たちの家をぶっ壊す気か!」まあ当然、そういう意見も出るだろう。
 だが、だからこそ「決断」なのである。これ以上の火炎の拡大を抑えるには他に方法はなかった。
 そしてさらに、もうひとつの決断が下された。消防は遂に最後の防衛線を定めたのだ。
 火炎は、いまだに強風であおられ街中を呑みこもうとしている。その進行方向に対して垂直に横切る形で、一本の川があったのだ。この南北に伸びる川は、新井田川といった。
 消防の決定が下される――。
「新井田川の堤防に消防隊を配置せよ。放水によって水の幕を作り、火の粉の飛散を止めるのだ」
「それでも防ぎ切れない飛び火があったらどうします」
「さらに後方にも消防隊を配置する。川向こうの市民にも協力を仰いで、飛び火に対する警戒態勢を敷け。絶対に、新井田川を越えた先では火災を起こさせるな!」
 新井田川は、消防隊にとっては最初にして最後の「地の利」だった。南北に流れるこの川は、ちょうど押し寄せる火炎に対して通せんぼする形になっている。また水も豊富だ。ここで消せなければ末代までの恥、消防関係者の踏ん張りどころである。
 火災との最後の対決が始まったのは、深夜の12時を回った頃だった。
 まずは破壊消防である。これはもう駄目だと判断された家屋が、ショベルカーで壊されていった。
 そして新井田川だ。押し寄せる火炎は、川にほど近い一番町と新井田町をついに呑み込み始め、いよいよ川向うの東栄街、若浜町、緑町方面へと火の粉と火の玉を飛び散らせ始めた。
 呑み込まれたふたつの町は、たちまち火の海である。大火を海に例えれば、迫りくる火炎はさしずめ高潮か津波のようなものだったろう。
 火の手が目前に迫る新井田川の岸に、40台の消防車が配置された。さあ、火の粉封じの一斉放水である。
 やい消えろ、いい加減に消えやがれ――!
 また幸運なことに、激しい雨が降り始めていた。これによってさしもの大火もようやくその勢力を弱めていく。
 ……こうして火災は鎮まっていった。炎は新井田川を越えることはなく、完全に鎮火したのが午前5時のこと。およそ10時間に渡って街中を焼き尽くした怪物は、夜明けを待たずに消えたのだった。
 焼失面積は22万5千平方メートル。焼けた建物は1767棟、被災者は約3,300名。被害総額は405億円と、気の遠くなるような被害状況である。
 火災の翌朝、街はその無残な姿を人々の前にさらした。
 焦土と化した街に、信号機やアーケードの骨組みだけがむなしく残っていた。まるで空襲のあとだ。焼け出された人々は、雨の中で傘を差しながら、変わり果てた街を見て回った。
 さて、これからが大変である。
 なにせ街がまるまる一個、しかも市一番の繁華街が灰燼に帰したのだ。この地域が人々の生活の場として復興を遂げるまでは、これからおよそ3年の月日を俟たなければならない。
 
   ☆
 
「やけあと」 二年 とよだ たけはる(新井田町)
 
やけあとにいきたいなあ。
どんなふうになっているか、いきたいなあ。
ぼくは、やけあとをいちども見ていない。
僕は、心で思った。
僕の家はどうなっているかな、
あとかたなく、せいりされているかな。
やけあとは、せいりしてあって、
一けんか、二けん、おみせがたっただろうな。
やけあとを通りたいなあ。
でも、おかあさんはいそがしくて、
つれていってくれない。
だか、ぼくは、いつも、心で思う。
心で思えばそこへ行かなくてもいいんだ。
 
   ☆
 
 その後の話である。
 まずは犠牲者のことを説明しておこう。この火災における死者数は1名。一般市民ではなく消防関係者で、いわゆる殉職である。
 名前を挙げておこう。当時の酒田地区消防組合消防長・上林銀一郎氏である。享年57歳。筆者の手元には氏の生前の写真があるが、いかにも責任感の強そうな「親分」ふうの顔立ちである。
 消防組合の消防長といえば重要ポストである。この上林氏、実はグリーンハウスでの出火直後から行方不明になっており、そのため消火活動中も現場では若干の混乱が生じていたのだった。
 氏の遺体が発見されたのは、火災から2日後のことだった。場所は火元のグリーンハウスである。遺体は完全に炭化しており、所持していた腕時計や家の鍵などから本人と確認されたという。
 火元のグリーンハウスで発見されたという事実は、氏がかなり早い段階から出火場所へ駆けつけていたことを物語る。後には、火災の知らせを受けた氏が、ヒッチハイクで現場へ到着していたことが判明した。
 おそらく、取り残されている人がいないか確認しようとしたのだろう。それでグリーンハウスに入ったはいいものの、倒れてきた機材の下敷きになったか、あるいは煙を吸ったなどの原因から脱出できなくなったのだ。
 余談だが、筆者が以前酒田市に住んでいた時、地元の人からこんな話を聞いたことがある。「あの消防長は責任感の強い人だったから、大火災になった責任を感じての自決だったのではないかと言われている」と。
 それを聞いた筆者の感想は「んなわけあるかい」だった。嘉門達夫ならきっと「お前は間違っとる!」と歌ったに違いない。本当に責任感があるなら、消防長なんだからそのまま消火活動の陣頭指揮を取るだろう。殉死というとすぐ自決を連想する人がいるのかも知れないが、これは明らかにあってはならない不慮の事故死である。
 上林氏の死は、酒田大火が残した多くの教訓のうちのひとつであろう。この大火の負傷者は100名以上に上ったが、そのうち、火災が原因で入院を余儀なくされたのはたったの9名。これだけの大火でこの程度の人的被害で済んだというのは素晴らしいことで、その点は要領がよかったのだと思う。だから上林氏も、グリーンハウスでミスりさえしなければ充分死なずに済んだはずなのだ。やっぱり責任感はあったんだろうけど、燃え盛る火災現場に一人で突入するのはよくないよ。うん。
 
   ☆
 
 酒田大火は、マスコミ報道でも大きく取り上げられた。東北の田舎町とはいえ、近代都市の繁華街がまるまる一個焼けてしまったのだからまあ当然だろう。
 そんな中、この大火の中にあっても「焼けなかった」いくつかの建物が注目を集めた。耐火構造の建物までもが被害に遭ったこの火災で、外壁はやられても中のものは完全に無事という建造物があったのである。
 ひとつは「土蔵」だった。
 茶や漬物の販売店、それに酒造所などでは、商品を土蔵で保存していた。それで火の手が回ってきた時に、水を入れたバケツやコップを置いておいて、あとは完全に閉め切って避難したのである。すると土蔵が火炎に包まれても蒸気がこもるだけで、外壁が崩壊さえしなければあとは安泰というわけだ(土蔵の外壁はもともと耐火構造である)。この古来より伝わる防災対策のおかげで、鎮火後も中の商品は無傷だったという。
 それからもうひとつ、この大火を無傷で凌いだのが「本間家旧本邸」である。これは酒田市一の豪商・本間一族がかつて住んでいた建物だった。
 この家は、東西南北を塀や土蔵や樹木、神社の敷地、駐車場、お堀、大通りに囲まれていた。建物が密接していない上に、風上に対して二重三重のガードをかけていたのが功を奏したのだった。
 面白いのが、樹木の効果である。樹木なんて火災の時にはすぐに焼けそうで危ない気もするが、実はそうでもないのだ。枝や葉が生い茂っていると、たった一本の樹木でも全体の表面積はかなり大きくなる。よって少々の火の粉では簡単に燃え広がらないのだという。
 また、先述の塀・樹木・土蔵がちょうど雪崩防止の分流堤のような効果をもたらし、火炎が建物を避けていく形になったのも幸運だった。
 酒田大火は、近代都市を焼き尽くした古式ゆかしいタイプの災害である。しかしそれに対して勝利を収めたのは近代的な消防設備ではなく、昔ながらの火災防止の知恵だったのである(本間家が建てられたのは江戸時代)。これは面白いというべきなのか、皮肉というべきなのか。
 この本間家旧本邸は、今では酒田市屈指の観光名所のひとつである。
 
   ☆
 
 さて、長かった酒田大火の概要も、ようやくこの辺りでひと段落となる。どうも地元・山形県の災害ということで調査に力が入ってしまい、簡潔に済ませることができなかった。
 この大火については、小学校の時、社会科のテキストにまで写真が載っていたのを覚えている。まさかそれから20年余りも後になって、自分がこんな文章を書くことになるとはまったく思わなんだ。
 酒田市はいっとき住んでいたことがある。火炎が走り抜けた繁華街も、延焼を食い止めた新井田川も、何度もこの目で見た。
 ただ、当時の筆者はさほど事故災害に対して興味を持っておらず、火災のことに思いを馳せながら街を散策することはなかった。これは今にして思えばもったいないことだった。
 だから直接見に行くこともなかったのだが、今でも酒田市の繁華街には火災を「記念」したモニュメントもあるし、大火関係の記録物を集めた資料館もあるらしい。次に機会があれば、どちらもこの目で確かめてみたいものである。
 かつて消し炭と化した繁華街は、その後の区画整理と復興工事によって、実にハイカラな街に生まれ変わった。本当に、なかなかの味わいがある街並みだと思う。
 だが田舎の中都市の哀しさで、人通りはいつも少ない。例によってシャッターの閉まっている店も多かった。
 酒田という都市は、昔から独創性に満ちていた。オリジナリティ溢れる独自の文化を築き、そしてそれを外に向かって発信することを得意としていたのである。大火の原因になった「グリーンハウス」などはその一例であるし、また最近でもローカル・アイドルユニット「SHIP」をプロデュースするなど、普通の田舎町ではなかなかできないことをやってのけた歴史もある。
 それは、海に向かって開かれた都市ゆえの気風なのだろう。新しい文化を柔軟に受け入れ、吸収し自家薬籠中のものとしてしまう文化的土壌があるのだと思う。
 現在、酒田の繁華街の機能は、国道7号線沿いなどのかつての郊外地に分散してしまった。まあよくある中都市の姿である。その原因のすべてが酒田大火そのものにあるのか、それともその後の復興計画の失敗にあったのか、そのへんは分からない。だがとにかく、歴史的に見れば、あの大火が酒田市の歴史のひとつの節目になっているのは間違いないようである。
 最後に蛇足になるが、資料を集める過程で、筆者は酒田大火を記録した作文集があるのを知った。それは当時被災した小学生たちの作文を集めたもので、子供が素直な感性で書いているのでグッときて泣けるものも多い。山形県民の方は、ぜひ県内の図書館から取り寄せて読んでもらいたいと思う。下手なルポなんぞよりずっと臨場感がある。
 ちなみに「下手なルポ」の代表格である本稿でも、その文集からはいくつか引用させて頂いた。最後の締めに、もうひとつ引用しておくことにしよう。
 
「ひっこし」 二年 伊藤あき(二番町)
 
きょう、ひっこしをした。
家をかりたのだ。
とても いい家だった。
おとなの人は、あせびっしょりになって
「よいっしょ。」
「よいっしょ。」
いろいろなものを はこぶ。
わたしは、
「やったあ。
 家だ、家だ。」
と いった。
その日、一日おもしろかった。
あたらしいお友だちも
たくさん
できると いいな。
 
(了)
 
【参考資料】
(書籍)
「酒田大火の記録と復興への道」
「酒田大火復興建設のあゆみ」
「酒田大火 学校文集「海なり」別冊特集号」
「昭和51年10月29日酒田大火の概要」
「もう一つの地域社会論 酒田大火30年、「メディア文化の街」ふたたび」
(サイト等)
ウィキペディア
酒田市「酒田大火について」
酒田河川国道事務所HP
 

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白馬プリンスホテル火災(1978年)

 1978(昭和53)年6月15日、午前2時頃のことである。愛知県半田市住吉町で、ある民家の犬が急に吠え出した。

 なんだなんだ、うるさいぞ。目を覚ました住人が庭に出てみたところ、びっくり仰天。なんと隣のホテルが炎上していた。しかも半端な燃え方ではない、大火事だ。

 このホテルが「ビジネスホテル白馬」である。住人はさっそく119番通報し、これが第一報となった。

 つまりこの火災の第一報は、「犬」がきっかけでもたらされたわけである。

 この時すでに、火災発覚から20分が経過していた。

 

   ☆

 

 少しだけ時間を巻き戻す。当時、このホテルには宿泊客33名と従業員3名がいた。

 従業員たちは、比較的早いうちに火災に気付いていた。火災報知器もちゃんと作動していたようだ。それに出火したのも1階の管理人室の前の廊下と、とても分かりやすい場所だった。

 この時、すぐに初期消火がなされたかどうかは不明である。消火活動自体は行われたようだが、それが従業員の脱出前なのか脱出後なのか、資料を読んでもよく分からなかった。

 とりあえず確かなのは、彼らにはもう避難誘導や通報を行う余裕がなかったということだ。命からがら、窓から逃げ出している。

 ここで、なぜか火災報知器のスイッチが切られた。ベルが鳴りっぱなしでは近所迷惑だとでも考えたのだろうか。

 ただ、もしかすると、報知器のスイッチが切られなくとも宿泊客たちにはベルが聞こえていなかったのかも知れない。資料の中には、外に脱出した従業員が火事ぶれを行ったことで、宿泊客たちのほとんどが目を覚ましたと書かれている。ということは報知器の鳴動は目覚ましにならなかったということだ。

 宿泊客たちは、脱出を試みた。しかしビジネスホテル白馬は、繰り返される増改築により建物の中は迷路化していた。さらに階段もひとつしかなく、煙はその階段を伝って瞬く間に2階3階へ及んだというのだからどうしようもない。おそらく、廊下から脱出できた者はほとんどいなかったのではないだろうか。ある者は窓から飛び降り、またある者は隣家の屋根を伝って脱出したという。

 またこのホテルには、鉄格子の嵌まった窓もあった。もとがラブホテルだったそうなので、飾りか何かだったのだろう(他の部屋では窓から脱出できた人もいるようなので、全室鉄格子ではなかったと思われる)。それが一部の宿泊客の脱出を困難にした。

 この鉄格子は、20センチ幅という、大人が通るには厳しい間隔で取り付けられていた。で、その部屋を宛がわれた5名の季節労働者がいたのだが、彼らは鉄格子のため飛び降りることもできず(そこは2階だった)救助が来るまで部屋に閉じこもり続けた。

 この5名のうち1名は途中で廊下に飛び出して命を落としているが、リーダー格の人がドアを閉めて、他の3名を始終落ち着かせていたという。最終的に、消防によって鉄格子の一本が切断されたことで、彼らは助けられた。

 防火シャッターも閉じなかったらしい。最終的に、ビジネスホテル白馬は、本館と別館を合わせて663平方メートルが全焼した。

 死者は7名。すべて宿泊客だった。おそらく煙を吸ったのだろう。こういうケースで、純粋に「焼け死ぬ」ということはほとんどない。大抵は一酸化炭素中毒などである。

 さて、この火災の原因は一体なんだったのだろう。記録には、以下のように記されている。

 

 ●発火源……不明。

 ●火元………たぶん1階の調理場。

 ●延焼の経過……不明。

 ●着火物……不明。

 

 つまり何も分からなかったのだ。

 まあ当時の従業員たちの責任は火を見るよりも明らかなわけで――ことが火災なだけに、と、これは悪い冗談――だからこそ、原因調査もあまり熱心に行われなかったのかも知れない。これは単なる想像だが。

 

【参考資料】

サンコー防災株式会社ホームページ

消防防災博物館

『火災と避難』

 

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大清水トンネル火災(1979年)

 この火災が起きたのは、今(2011年)から30年ほど前である。数字を見ると随分前のようだが、31歳の筆者としては「自分が生まれる前年」と考えるとそう昔にも思われない。

 だが事故の内容はやけに古臭い。北陸トンネル火災の教訓もどこへやらという印象だし、出稼ぎ労働者が現場で大勢犠牲になるというシチュエーションも時代を感じる。まるで40年前か50年前の事故のようだ。

 もっとも、筆者が1歳の頃には夕張新炭鉱ガス突出事故のような事故も起きている。そう考えると、古臭い類型のように見えるこれらの事故は、ひとつの時代の断末魔だったのかも知れない。

 

  ☆

 

 1979(昭和54)年3月20日のことである。

 当時谷川岳では、日本列島改造の気運に押されてトンネルがぼこぼこ掘られていた。手始めに清水トンネル、それから新清水トンネル、とどめに大清水トンネルである。特に大清水トンネルは全長が22.2キロと日本一の長さで、世界でも有数の山岳トンネルだった。

 んで大清水トンネルでは、1971(昭和46)年のの工事着工以来、すでに13人の死者と264人の負傷者が出ていた。

「えっ、そんなひどい工事現場、問題にならないの?」

 ――という声が聞こえてきそうだ。しかし問題にはならないのである。高度経済成長期というのはそういう時代だったのだ。なにせ昭和30年代ならば工事費一億円につき死者が一人出るのは当たり前、少し安全性が高まった昭和40年でも十億円に一人は当たり前、とまで言われていたのである。

 だから、工事がひと段落した時、作業員たちはほっとしたことだろう。

 そう、この日はトンネルの穴掘り作業が終わったばかりだった。あっちとこっちから掘られた穴がやっと貫通したのである。あとは壁面にコンクリを張る簡単な作業で済む。

「あー終わった終わった。さあ機材を片付けるぞ!」

 トンネル内には、掘削作業に使われた鋼製のジャンボドリルが置いてあった。高さは3階建ての建物ほどだったというから、これはちょっとしたガンダムである。工事開始以降、ひたすら穴を掘りまくってきたこのガンダム削岩機も今夜はいよいよお役御免。トンネル内でバラバラに解体して処分することになっていた。 
 この解体作業の直前には、群馬労働基準局沼田監督署の係員がトンネル内の様子を視察に来ている。

「ふーむ。このジャンボ削岩機は油ですっかり汚れていますねえ。機械の周辺も油だらけですねえ。おや、水たまりの中の鉄骨も油だらけですねえ。散らばっているおがくずも油だらけですねえ。ま、問題ないでしょう」

 お前さんの目は節穴どころか大清水トンネルだ! と言いたくなるようなボンクラ視察である。この係員、自分が立ち去った直後に大火災が発生したと聞いてどう思ったのだろう。

 というわけで、夜9時にはガンダム掘削機の解体作業が始まった。

 当夜のトンネル内には54名の夜勤者たちがいた。そのうち11人がガンダムの解体を行う。

 ではアムロいきます。溶断機のアセチレンガスに点火されると、バーナーによってガンダムは切断、ばらばらに解体されていった。火花が飛び散り、真っ赤に焼けた鉄片が落ちてくる。

 トンネル内にあるものといえば、岩盤と岩肌と湧水くらいなものである。まさかここで火事が起きるわけないだろう。誰もがそう思っていた。

 ところが、下に落ちた鉄片の熱によって周辺の水分はたちまち蒸発。油の染み込んだおがくずもすぐに乾き、白い蒸気が上げるとすぐ引火した。

 蒸気が黒煙に変わっていったことに、最初は誰も気付かなかった。解体作業の方に誰もが目を奪われていたのだ。

 そこからはあっという間だった。おがくずに引火した炎は、油だらけのガンダムを舐めるように包んでいったのだ(切断の際の火花が直接にガンダムに引火したとも言われている)。これが9時30分頃のこと。

「おい、これまずいぞ! 消火しろ消火!」

 作業員たちはようやく異変に気づく。しかし発見が遅れただけでも致命的なのに、その上備え付けの消火器は消火剤が出なかった。この消火器は加圧式で湿気に弱かったのである。この事故以降、こういう場所では特に消火器は畜圧式を使用すべしと言われるようになった。

 さあ、発見の遅れ、初期消火の失敗、それによって避難ももたついている。当研究室の読者であれば、これがいかに恐ろしい事態であるかはすぐ察しがつくであろう。

 トンネル内は黒煙で包まれ暗闇になった。作業員たちは命からがら、それぞれ群馬方面と新潟方面に分かれてトンネル内からの脱出を試みる。

 現場から最も近い出口は7キロ先の群馬方面のものである。だがそちらは風下だったため、煙は猛烈なスピードで作業員たちに襲いかかった。54人の作業員のうち46人はそちらに逃げたが、14人が煙と有毒ガスにまかれて死亡している。この14人の死者のうちの3人は、ガンダム解体作業に携わっていた者たちだった。

 また、解体作業をしていた11人のうちの残り8人は、風上の新潟方面へ逃げて事なきを得ている。こちらは現場からトンネル出口まで14キロもあったのだが、風上だった。

 さて。こうして火災が起きてもなお、トンネル関係者たちは事態を甘く見て、こっそり自分たちだけで解決してしまおうと考えた。大清水トンネルは世界有数の山岳トンネルということで、その出来栄えを世界から称賛されたばかりだったのだ。火災なんぞで評判を落とすなんて冗談じゃない、なんとか公にせずに済まそう――というわけだ。

「よし、じゃあ俺たちが様子を見に行ってきます!」

 というわけで、2人の作業員だかが空気呼吸器を装着してトンネルに入って行った。さあ、彼らの命運やいかに。

 シーン。

 まるでドラえもんの「ドロボウホイホイ」である。彼らは途中でボンベの空気を使い果たし、帰らぬ人となったのだ。

 こりゃいかん、公にせずに済ますとかいうレベルじゃない! というわけで、ここでようやく消防に連絡がなされた。

 さっそく工事関係者による対策本部が設置され、特別救助隊が編成。このメンバーには群馬県沼田市の沼田消防署員たちも含まれていた。この消防署には、当時としては画期的だったレスキュー専門の小隊もあったのだ。頼もしい限りである。

 さあ、では煙と有毒ガスで充満しているトンネルで、彼らはいかにして救助を行ったのだろうか。

 ところが、打つ手はもはやなかった(笑)。とにかくトンネルの状況があまりにひどく、いかなレスキュー専門部隊でも中に入れば二次災害は必至である。待つしかなった。

 もちろんその間、手をこまねいていたわけではない――と書ければいいのだが、本当に手をこまねいているしかなかったからなんとも笑えない。一度はちょこっと中に入り、例の後から入った2人のうちの1人を助け出した(後に病院で死亡)が、結局10時間もの間、それ以上のことは何もできなかった。

 煙が薄くなったのは夜明け頃である。

 それからさらに午前10時まで待って再び中に入り、もう1人の遺体も収容。それでもやはり、最初に遭難した14名の救助までは無理だった。

 言うまでもなく、トンネル内もめちゃくちゃである。火災の熱によって落盤は起きるわ、水は噴き出すわ、土砂で埋まるわで、せっかく掘ったのに散々である。おまけに天候も雪になった。

 ようやく本格的な救助活動が始まったのは、22日の21時30分のこと。消防隊、警察、建設会社社員の計140人の大捜索隊がぞろぞろとトンネル内に入っていった。

「ところでこのトンネル、ダイナマイトが950本あるんですよ。大丈夫ですかね?」

 この期に及んでそんなことを言い出す奴がいて、そういうことはもっと早く言えよって感じなのだが、幸いにして二次災害は起きずに済んだ。

 遺体は、23日の午前の段階までに全てが収容された。

 その後、補償などがどうなったのは不明である。だがとにかく、この大清水トンネルを今も上越新幹線が行ったり来たりしているのはご承知の通りである。今までこのトンネルを通過した人のうち、一体何割がこの事故のことを知っているのだろう。

 

   ☆

 

 ここからは、完全な余談である。

 筆者は本業の関係で、年配の人々と話をすることがよくある。そうした人たちの中には、高度経済成長期に関東圏へ出稼ぎに行き、建設現場や工場で働いていたという人も少なくない。

 その人たちと話していると、「もしかするとこの人が事故の犠牲になっていたかも知れないんだな」と思う。そして同時に、実際に事故で亡くなった人の中にも、郷里で待つ家族がいたのだろうなとも思ってしまうのである。そうなると、すべての事故がなんだか他人事ではないような気になる。

 当研究室で「あてにならない参考文献」としてケチばっかりつけている『なぜ、人のために命を賭けるのか』という書物があるが、これに印象深いフレーズがあった。「決まって、犠牲者は現場の弱者」というものである。

 それを読んだ時には、まったくその通りだとつい頷いてしまったものだ。事故災害の歴史は、犠牲になった弱者の歴史でもある。そうした名もない弱者の鎮魂も兼ねて、筆者はキーボードを叩く次第である。

 

【参考資料】
◇失敗百選
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年

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日本坂トンネル火災(1979年)

 乗用車による交通事故は、今我々がこうしている間にも、数秒に1件の割合で発生しているという。

 そんな数ある交通事故の中でも最大最悪級の規模を誇るものが、この日本坂トンネル火災である。

 この事故は、鉄道事故やビル火災に比べれば目を見張るような死者数では決してない。だがその被害の甚大さはもはや想像を絶するほどで、ほとんど事故そのものが社会問題であったかのような規模である。

 

   ☆

 

 時は1979年7月11日、夕方を過ぎた頃。

 静岡県・東名高速道路の日本坂トンネル内では、渋滞が発生していた。

 このトンネルは静岡市と焼津市に跨っており、焼津口の近くでトラック同士の小さな接触事故が発生していたのだ。それが原因となり、トンネル内では長蛇の渋滞となってしまったのである。

 もっともその接触事故自体は大したものではなかった。問題はこの後である。渋滞のさなか、トンネルの中で更なる追突事故が起きたのである。

 時刻は午後18時40分。場所は、出口の焼津口まであと400メートルという地点だった。トンネルを走行中していた一台のトラックが、前方の渋滞に気づき慌ててブレーキを踏んだのである。

 キキキキキッ、ピタリ。

 これは100メートル手前で無事に停止した。危機一髪である。

 ところがこの直後にケチがついた。更にこの後ろからやって来た大阪ナンバーのトラックは、停止が間に合わず思い切りゴツーン! と追突してしまったのだ。
 わわわわ、何やってんだバカヤロ~! せっかく間一髪で停止できたトラックも、それでズズズズッと前に押され結局渋滞の最後尾にぶつかってしまった。
 さあ、ここからが地獄である。
 更にまた一台、今度はサニーが走ってきたのだ。これは追突を免れず大阪ナンバーのトラックにドガチャーン! と衝突。しかも勢い余ってトラックの荷台の下に食い込む形になってしまった。
 そこへ次にやって来たのがセドリックである。これはサニーへの追突は回避し、その隣に並ぶ形で停止できた。ちょっと接触した程度で済んだという。
 ところが今度は立て続けに2台のトラックが突っ込んできた。グワシャーン! サニーはトラックとトラックの間に挟まれて大破し、セドリックも後部を押し潰されてしまった。
 かくして合計7台が巻き込まれる多重衝突事故の出来上がりである。これだけでも目を覆いたくなるような惨状だ。
 「衝突事故」が「火災事故」へと変貌するのはここからである。火を噴いたのはサニーで、どうもガソリンタンクが破損したらしい。事故車両の周辺はあっという間に炎と煙に包まれた。
 後続の車両の運転手たちは、車から降りて事故車両の乗員の救出を試みたという。だがこの時点では既に4人が即死していた。最初に追突した大阪ナンバーのトラックの運転手と、最後に追突したトラックの運転手と、それにサニーに乗っていた乗員2名の計4名である。
 またセドリックに乗っていた3名だが、これは火災直後までは生存していたようだ。だが火勢が強すぎて救出には間に合わず、結局最終的な死者は7名となっている。
 そう、もはや他人を救助している場合ではなかった。それ程凄まじい炎と煙だったのである。トンネル内に進入していた車両の運転手たちは、取るものも取りあえず逃げるしかなかった。
 さあ消火である。
 これは迅速に行われた。まず火災が発生した時点ですぐに公団管制室や消防署、管理事務所へ連絡が入っている。そしてトンネル近くの警報表示版に「進入禁止」の表示が出され、スプリンクラーも作動した。頼もしいものである。
 それもそのはずで、なんといっても当時の日本坂トンネルは公団をして「世界最高レベル」と言わしめるほどの防災レベルだったのである。抜かりはなかった。
 ……はずだった(笑)
 ところがせっかく作動したスプリンクラーは余りの猛火に歯が立たず、途中で水が切れてしまう。また排煙装置も想定外の量の煙にまるで効果なし。その上、他の消火設備も火炎のためにケーブルは断線するわヒューズは吹っ飛ぶわで、役立たずここに極まれりといった有様だった。大槻ケンヂならここでこう歌うかも知れない、「まるで、まるで高木ブーのようじゃないか!」

 おそらく、元々これらの消火設備は「トンネル内での車両火災」を想定したものだったのだろう。トンネルそのものが灼熱地獄になるような火災など誰も考えていなかったに違いない。

 そう、この時の日本坂トンネルはちょっとしたこの世の地獄だった。引火に次ぐ引火でトンネル内にあった173台もの車両が焼き尽くされ、しまいにはコンクリートの壁は破損して剥がれ落ち、鉄の支柱も完全に折れ曲がっていたという。

 内部設備に頼らない外部からの消火活動も、決して行われなかったわけではない。ただ2,045メートルに及ぶトンネルの大火災は、ポンプ車で外からちょっと水をかけたからどうなるというレベルでは最早なかった。何より危険である。自然鎮火を待つより他に手はなかった。
 火災そのものがようやく終息したのは事故発生から3日後である。
 しかしトンネルの中は結局1週間は高温のままだったし、人が入って仕上げの消火や後片付けを行うには酸素があまりにも不足していた。かと言って下手に酸素が入り込むとその辺の炎が再び燃え上がったりすることもあり危険極まりない。全てが難航した。

 流通の大動脈でもある東名高速道路でこんな事態が生じたのである。交通網は乱れに乱れた。

 火災の影響をあまり受けずに済んだ上り線は、比較的早く復旧したようである。
 また下り線の復旧作業のためにも、それは必要なことだった。だが上り下りの対面交通という形にせざるを得なかったため、下り線が正式に復旧するまではやはり渋滞が絶えなかったという。

 この不通は物流にも大きな影響を及ぼし、復旧するまでの間に国鉄貨物の売り上げが大幅にアップしたとかなんとかいう話もある。結局、迂回や代替輸送による社会全体の被害総額は60億円にも上ったという。

 

   ☆

 

 日本坂トンネルでの火災は、何故ここまで被害が拡大したのだろう?

 まあ大まかな答えは明らかである。最初に追突した大型トラックの運転手の前方不注意と、それにトンネル内の消火設備の不備が大きな原因だろう。

 ただもう一つ付け加えるならば、当時の日本坂トンネルの入口には「警報表示板」がなかったということも挙げられる。

 あれ? さっき、火災の直後には警報表示版に火災の表示が出たって書かなかったっけ? 
 ――その通りである。しかしこの表示板があったのは、日本坂トンネルのちょっと手前にある「小坂トンネル」の方だった。

 この小坂トンネルに入り、通り抜けてから、さらに日本坂トンネルの入口に達するまでおよそ500メートルの中途半端な距離があったのである。これは高速道路の走行距離としては長いほうではなく、大して離れていない複数のトンネルにいちいち警報表示版をつける必要もあるまい、というのが当時の道路公団の考え方だったようだ。
 つまりその警報表示版は、小坂トンネルと日本坂トンネルの2つのトンネルの分を兼ねていたのである。

 ゆえに、日本坂トンネルで火災が起きてから小坂トンネルに進入した車両は、火災のことなど全く知らずに日本坂トンネルへ入っていったことになる。

 だから被害が拡大したのである。警報表示版に火災の表示が出たにもかかわらず、なおもトンネル内に80台もの乗用車が進入し、そして引火の火種が増えることになってしまった。
 またドライバーたちにも問題はあった。小坂トンネルの表示板に「入ってくんな」と表示されているにも関わらず、前の車両は進入していったんだし大丈夫だろう、警報表示板みんなで無視すりゃ怖くない……というノリで突入していった者もいたのである。
 もっとも高速道路で安易に停車すること自体、大変な危険が伴う。ここで停まるか停まらないか、という一瞬の判断を迫られて、仕方なく「流れ」でトンネルに進入してしまいマイカーを焼失してしまったドライバーもきっと多かったことだろう。

 さてこの火災では、ホテル火災やデパート火災のように、特定の被害者やその遺族へ補償が行われたという話はあまりない。ただ、流通にまつわる補償の問題で道路公団が支払う分があったとかなかったとかいう話をネット上で目にした程度だ。

 その後、全国の高速道路で防災設備が徹底的に整備されるようになったのは言うまでもない。

 それにしても、である。例えば鉄道事故ならば、大事故がきっかけになって事故防止の仕組みが整備されることは多い。非常用ドアコックやATSの歴史などは、そのまま事故の歴史ですらある。
 だが道路での交通事故は発生の頻度も高く、全てが大々的に報じされる訳でもないので注目されにくく、どちらかというと問題にもなりにくい。よって、ひとつひとつの防災設備の裏にどんな歴史があるのかを知るのは難しい。
 だが、この日本坂トンネル火災だけは稀有な例外である。この事故は日本の高速道路の運営手法が見直しを迫られる強烈なきっかけになった。その意味ではこの事故、単なる「事故」という枠組みを越えた歴史的「事件」だったと言えるだろう。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇JST失敗知識データベース
 ◇杉山孝治『災害・事故を読む―その後損保は何をしたか』文芸社

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