目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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飛騨川バス転落事故(1968年)

 飛騨川バス転落事故は、1968年(昭和43年)8月18日に発生した。死者104人という大惨事である。

 厳密に調べたわけではないが、バス事故というカテゴリーで死者104人というのは世界規模で見ても最悪クラスのもののようだ。ひょっとすると死者数は世界一かも知れない。これが本当なら、航空機事故でも世界最高の死者数を記録したことがある我が国は、些か不名誉なワールド・レコードを2つも保有していることになる。

 まあ他にも、日本は「個人が浴びた放射能の量が世界一」とか「ひとつの山での遭難者数が世界一」とか、ろくでもない世界記録が他にも色々とあるんだけどね。その辺りはいずれお話する機会もあろう。

 

   ☆

 

 さてバス転落事故だが、これは少し角度を変えればバス事故ではなく「豪雨災害」あるいは「土砂災害」と見ることもできる。実際、災害関係の本を何冊か紐解いてみると、この事故はどのカテゴリにも跨る形で紹介されている。
 観光ツアーに来ていた数台のバスが、豪雨に見舞われて引き返すことになったのである。だがその引き返しの途中で2台が土砂崩れに巻き込まれ、増水した飛騨川へ転落したのだ。
 現場は岐阜県加茂郡、白川町地内の国道41号である。
 もともとこの日の岐阜県は、台風の影響による集中豪雨に見舞われていた。時間雨量149ミリという地方気象台始まって以来の規模で、これによって県内ではバス事故以外にも14名の死者が出ている。
 事故に遭ったのは「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」なるツアーに参加していた人々だった。
 これは名古屋市で無料新聞を発行していた「奥様ジャーナル」と名鉄観光が組んで企画したツアーで、700人以上が参加した。
 計画では、夜中に犬山市の成田山へ集合し、そこから片道160キロの乗鞍岳へ出発する。そして車内で睡眠を取ってから早朝に登山をし、山頂で朝日を見る……という予定だったらしい。
 当初、ツアーは予定通りに出発した。しかしあまりの雨の酷さと道路状況の悪さから、主催者と運転手たちはツアーを一週間延期することに決定。全てのバスはもと来た道を戻ることにした。
 そして午前0時20分頃。5号車の運転手が消防団員に呼び止められた。白川口駅近くにある、飛泉橋という橋でのことだ。
「この先は危険ですよ。飛騨川の水位が上がるかも知れない。落石の可能性もある」
 そう言われて運転手は考えた。
「しかし1号車から3号車はすでにここを通過している(4号車はゲンを担いで存在していなかった)。通行規制もまだ実施されていない。まあ、通過したって大丈夫だろう。名古屋まではもう2時間以内に着く距離なんだし……」
 こうして5、6、7号車は危険地帯を突破することにした。
 後になって考えてみれば、これがまさに運命の別れ道だった。この時点でもまだ敷かれていなかった交通規制、バスに対して強硬にストップをかけなかった消防団員、そしてバスの運転手の甘い判断――。これらの要素が重なり合って、危機を逃れる最後のチャンスは見逃されたのである。
 さて前方で走っている1、2、3号車も含めたこの合計6台のバスは、左は崖下で増水している飛騨川、そして右が絶壁という道路を進んでいった。
 そしてこの6台は、途中で何度か小規模な土砂崩れに遭遇している。まあこれは手作業で土砂を取り除いて先へ進むことができたのだが、ところがさらに進んだところで、もっと規模の大きい土砂崩れが発生。完全に道を塞がれて、遂にいかんともしがたくなってしまった。
 こりゃイカン、さすがに引き返すしかないよ――。
 すると間の悪いことに、今度は後方でも土砂崩れが発生。バスやその他の乗用車は前も後ろも土砂に挟まれてしまい、進退窮まった。
 このように、現場周辺では大小取り混ぜた土砂崩れが複数発生していたのだった。考えてみれば実にとんでもない状況だったわけだが、バスにとって「とどめの一撃」となったのは、午前2時11分に発生したものだった。
 高さ100メートル、幅30メートル、推定740立方メートル、ダンプカーにして250台分――。こんな量の土砂が押し寄せてきては、もはや人間になす術はあるまい。立ち往生していたバスのうち、5号車と6号車がこれの直撃を受けた。2台は、増水した飛騨川へあっと言う間に転落していったという。
 それ以上の土砂崩れがなかったのは不幸中の幸いだった。バスの運転手たちは、残りのバスの乗客たちを、急いで比較的安全な場所に避難させてから、救助を求めて一路ダム見張所へ向かう。ようやく第一報が齎された時には、事故発生から3時間以上が経過していた。
 ちなみに8号車以降のグループは、消防団の警告に応じて白川口駅前広場で待機したことで難を逃れている。
 さて救助活動だが、これが困難を極めた。
 なにせ犠牲者たちは大半がバスから投げ出され、増水で荒れ狂う激流に飲まれたのである。事故翌日には知多半島にまで遺体が漂着し、捜索範囲は岐阜・愛知・三重の3県に跨ることになった。
 救助のための人員数は最終的に3万人にも上り、一時はダム湖を空っぽにして捜索活動が行われたという。それでも最終的には9名が行方不明のままになった。
 転落したバスには総数で107名が乗っており、助かったのは3名だけだった。家族連れツアーだったこともあり、一家全滅や、あるいは家族一人だけが生き残ったケースなどもあったらしく痛ましい限りである。
 事故の責任問題は、そう長くかからずに解決した。最終的には国を相手取った訴訟にまで展開した上に、争点が「天災か人災か」という判断の難しいものだったにも関わらず6年で結審しているのには感心する。
 まあ、ここまで見て頂ければ分かると思うが、具体的な責任主体を特定するのが非常に難しい事故である。コトは土砂崩れという自然災害であるし、そもそも当日の天候も予測が困難なものだった。ツアー主催者側だって出発前には気象台に問い合わせ、「天気は好転し翌朝は晴れるでしょう」という予報を聞いたからこそツアーを決行したのである。その1時間後に注意報が、さらに2時間後には警報が発令されるとは誰が考えただろう?
 では、消防団の警告を無視して危険地域に入り込んだバスの運転手の責任はどうか。しかしこれも、進退窮まった段階ではちゃんと引き返す判断をしているし、二次災害の回避に全力を尽くしてもいる。裁判では無罪となった。
 だが、遺族側としてはそれで収まるはずもない。主催者と観光会社を相手取って損害賠償を請求し、こちらでは示談が成立。さらに道路の管理を怠っていたとして国に対しても国家賠償を請求、粘り強く訴え続けて最終的には控訴審で全面勝訴している。天晴れという他はない。

 104名という死者数がものを言ったのか、それとも国の側に明らかな落ち度があったのかはよく分からないが、この事故に関しては国側はかなり譲歩しているようにも見える。控訴審判決に対して上告していないし、一度は拒否された自賠責の適用を、当時の運輸省の判断で撤回させている程だ(この時の運輸省の閣議報告の論理がなかなか面白いのだが詳細は割愛)。
 とにかく、最終的に国を相手取った訴訟にまで発展しているだけに、当時の首相や運輸省までをも巻き込んでスケールの大きい話題になっている。
 ところでこの事故が「自然災害」ではなく「バス事故」と呼ばれるようになったのは、恐らく104人という死者数ゆえだろうと筆者は想像している。
 もしも土砂崩れに巻き込まれたバスが1台だけで、それに乗っていたのが運転手1名だけであったなら、それはバス事故ではなく「バスが被害に遭った土砂災害」と呼ばれただろうと思う。
 だが土砂災害や自然災害といったカテゴリーに分類してしまうと、恐らく具体的な責任主体をはっきりさせるのが、文脈上、難しくなる。104人も死んだ以上、これはあくまでも自然災害ではなくバス事故と呼ばなければいけない――そうした重力がどこかで働いたのではないだろうか。
 こうした「重力」があったとすれば、それが発生したのは、被害者遺族の大半がマンションの住民だったので、そこで強い結束が生まれたからではないだろうか。あくまでも想像だが、筆者はそんな物語をイメージしている。

 

   ☆

 

 ところで、この事故の話は正直あまり書く気がしなかった。
 もちろん事故そのものは興味深いのだが、ウィキペディアで既に詳細な内容が解説されているのだ。あれを読むと、今さら自分が書く意味ないじゃん、という気持ちになる。書いているのが事故の関係者なのか研究者なのかは不明だが、この事故の記憶を風化させまいと努めている方がおられるようである。
 それでも今回この記事を書いたのは、三河島事故の記事と同様に「この事故のことを書かなかったら片手落ちだろう」という気持ちがあったからだ。よってここでは大まかな内容の紹介にとどめてある。もっと詳細を知りたい方はインターネットで検索して頂きたい。

 

   ☆

 

<補足>
 この事故について筆者が驚き、なおかつ興味深く思ったのが、コメントの多さである。
 当『事故災害研究室』は、現在のように電子書籍化する前は、ブログ上の手作りのいちコーナーとして存在していた。この「飛騨川バス転落事故」もそこで一度公開しているのだが、「ブログコメント」という形で、事故の関係者の方からメッセージを頂く機会がもっとも多いのがこの事例なのである。
 それも、例えばひとつの事例につきいつも3つのコメントをもらっていて、飛騨川バス転落事故は5つ、というようなバランスではない。突出しているのだ。事故災害ルポにコメントを頂くこと自体まれなのに、この事故だけは3つも連続するから驚いた。
 先述したような「重力」の気配が感じられる点といい、ウィキペディアの詳細情報といい、つくづくこの事故を記録に残そうと意志については、他の事故とは一線を画す格別さがある。
 折角なので、以下では、この事故のルポに対して頂いた「コメント」をご紹介させて頂こうと思う。もともとが「公開コメント」なので問題ないとは思うが、もし自分の書いたコメントがここで公開されるのは困る、という方がおられたら、言って頂けると幸いである。

 

■33歳の娘より (CHIE)
2010-05-26 21:50:49
私がこの記事・ブログを検索した目的は、実はこの事故で被害に合ったバスのすぐ後ろのバスに祖母・両親が乗っていたからです。
この事故の話は、子供の頃から何度となく聞かされてきました。
またこの現場を通る時、父が何度も手を合わせるのを見てきました。
長い年月が過ぎ、この事故を語るのは父しかいませんが、違う方向からこの事故を知る事ができよかったと思います。
書いてくださって ありがとう。

 

■Unknown (spock)
2010-07-18 00:27:31
当時中学生だった私は思春期ということもあって家族で行動することはいやだったのでそのツア-には参加しませんでしたが、父母、妹が参加していましてちょうど7号車に乗っていたんだと思います。父が後から聞かせてくれたとこによると前のバスの赤いテ-ルランプがゆっくりと川のほうへ落ちていったと。もうその父はなくなり、大正生まれの母も高齢になりました。
(中略)
当時私たちは幸心住宅というところに住んでいて事故の日は確か日曜日だったと思うんですが、昼過ぎまで大曽根あたりをふらついていて家に帰ると叔父から電話があり大変なことが起きた、なんで知らないんだ?って怒られたことを覚えています。

 

■Unknown (いつのゆめ)
2011-08-24 21:04:58
初めまして。飛騨川事故を検索していて、読ませていただきました。当時6歳で、大幸住宅に住んでいてました。バスが出る日の夕方まで友達と遊んでいて「夜に旅行に行くから早く家に帰るね」と別れたその子達は全員事故にあってしまいました。団地の子供会で子供だけの葬儀?お別れ会もありました。事故から40年以上になりますが、色々な場面が鮮明でいまだに忘れていません。記録として・・とコメントされていますが書いて下さってありがとうございます。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇『日本消防史』国書刊行会

 

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岡山県玉野市バス転落事故(1969年)

 1969(昭和44)年3月19日のことである。

 

 場所は岡山県玉野市槌ヶ原の国道30号線。早朝の午前7時、ここを玉野発岡山行きのバスが走行していた。

 

 このバスは両備バスと呼ばれるもので、なんか岡山県南部を主要営業エリアとしている両備グループというのがあるらしい。そこで運営しているバスだった。

 

 中には通勤通学のために20人ほどの人が乗っていた。ところが、そこへセンターラインを越えて、中西運送という運送会社のトラックが接近してきたのである。

 

 バスとトラックは接触。トラックがどうなったのかは不明だが、不運なのはバスの方だった。道路から8メートル下の池へ転落したのである。ご丁寧に、参考資料にはこの池のサイズも書いてあったので記しておくと、縦50メートル、横60メートル、深さ5メートル。なかなかの大きさである。

 

 これにより、乗客20人のうち9人が死亡。この中には、短大受験に向かう途中だった18歳の女の子2人も含まれていたという。

 

 トラックの運転手は無事だったようだ。事故当時は材木を運んでいる最中だったのだが、朝っぱらからの運転だったせいか居眠り運転をしていたらしい。


【参考資料】

◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

 

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徳島県勝浦バス転落事故(1970年)

 ここまでバス事故の歴史を書いてきて、おやっと気付いたことがある。昭和40年代に入ったら、事故の発生ペースがぐっと落ち込んだのだ。

 

 ひどい場合には1~2年で何回も発生していた大規模なバス事故が、昭和40年代からは1年に1回程度のペースに落ち着いている。

 

 とはいえ、交通事故そのものが減ったわけでもなさそうだ。試しに、昭和46年版の犯罪白書を紐解いてみよう。それによると、自家用乗用車の普及によって、バスなどの事業用自動車の事故の割合が減った――のだそうな。

 

 つまり、交通事故のパターンに変化が出てきたのである。それまで人々は、たびたび大型交通機関を利用して大人数で移動していた。だが家庭でもマイカー(この言葉が広まり始めるのも昭和40年代)を持つことができるようになり、個人や家族単位での小規模な移動が増えたのだ。

 

 その結果、交通事故のパターンも変わったのだろう。マイカーでの事故が増えるかわりに、バスの事故は減った。そういうことだ。

 

 昭和40年代、確かに当「事故災害研究室」で取り上げる程の規模の事故は減ったのだ。だが実際にはその裏で、マイカーによる事故が数え切れないくらい起きていたに違いない。

 

 また、めったに事故が起きない交通機関がひとたび事故ると、その被害は大規模かつ悲惨なものになってしまうという事故災害の法則も存在する。

 

 少し思い出してもらえば分かる。航空機や鉄道は、自家用車ほど事故発生率が高くない。だが一度事故れば大惨事になる。変な言い方になるが、小規模な事故が多発することにより、事故が「小出し」にされて、大規模な事故は抑えられているとも言えるかも知れない。

 

 バス事故の発生件数は確かに減った。だがそれは同時に、ひとたび事故れば大惨事、ということで殿堂入りしたということも意味するのである。

 

 実際、名神高速道路の開通によってハイウェイバスというものが開業したのが1964(昭和39)年で、東名高速道路の開通に合わせて夜行バスが誕生したのが1969(昭和44)年。

 

 そして高速バスが事故ればどんなことになるか、我々は知らないわけではない。

 

 今回ご紹介するのは、高速バスとは関係ない。とりあえず、そんな時代状況の中で発生したケースである。

 

 1970(昭和45)年、8月29日のこと。

 

 時刻は午後7時30分。徳島県勝浦郡、上勝町正木の県道を一台のバスが走っていた。小松市で出していた市営の貸切バスである。

 

 乗っていたのは、勝浦農業改良普及所管内の農業団体のメンバーが17人。この日は、徳島市文化センターで「全国農業コンクール」とやらが開催されており、その帰り道だった。

 

 もともと、このバスには運転手や車掌を含めて40人程が乗っていたという。各地で乗客を下ろしたため、この人数になったのだ。

 

 時刻も時刻だし、あとは残りの乗客を下ろして店じまい――。きっとそういうタイミングだったに違いない。

 

 ところがここで不幸が起きる。なんと、一匹の猫がバスの前を横切ったのだ。

 

「わっ、ぬこ!」

 

 というわけで事故である。運転手は、これを避けようとしてハンドルを切った。それでバスは道路から外れてしまい、60メートル下の勝浦川に転落したのだった。

 

 これにより5人が死亡した。

 

 ハンドル操作をミスった運転手が無事だったかどうかは不明だが、やり切れない話だ。ぬことは言え、ひとつの命を救うための咄嗟の判断が、逆に複数の命を奪う結果になってしまったのだから。

 

 これ、事故とは全然関係ない話で恐縮なのだが、「多数の命を救うために一人を殺すのは正義か?」という倫理学上の難問がある。

 

 ひと頃話題になったサンデル教授も取り上げていたが、その例でよく出されるのが「トロッコ問題」だ。煩雑になるので詳細は省くが、この「トロッコ問題」はややこしすぎる。もっと、こういうバス事故のようなシンプルかつ身近な事例でいいと思う。

 

 なんかまとまりのない文章になってしまったが、まあいいか。

 

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆ウェブサイト『高速バスの歴史』
http://www.paraguaycrawler.com/rekishi.html

 

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岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)

 なんか昭和40年代は、岐阜県でバス事故が頻発していたようだ。道路状況が悪かったのだろうか。

 

 1970(昭和45)年11月3日、午後5時35分のことである。

 

 岐阜県の、大野郡高根村中洞の県道・高山木曽福島線(現在の高山市高根町中洞の361号線)を一台のマイクロバスが走っていた。

 

 当時の新聞の記録では、このバスには「南組」という組織のメンバー9人(うち4人は女性)と運転手1名が乗っていたという。目的地は不明だが、砂防工事の手伝いのためだったとか。だから南組というのは建設会社か何かだろう。調べてみると今も㈱南組というのがあるようなので、おそらくそれではないか。

 

 さてそれでこのバス、朝日ダム沿いに差しかかったところで別のバスとすれ違った。これは地元の濃飛バスという会社の定期便である。

 

 で、どうした加減か、南組のマイクロバスの方がすれ違った拍子に10メートル下のダムへと転落してしまったのである。

 

 転落と水没が重なると、バス事故は容易に大惨事になる。乗っていた10人は全員死亡した。

 

 これ、資料を読んだ限りでは原因は不明である。それで朝日ダムのことをウィキペディアでちょっと調べてみると、かつてこのダム沿いの361号線というのは、もともと落石や転落の危険性が高い隘路であったという。だから今は秋神ダム沿いのバイパスが、交通の主流になっているようだ。事故が起きるのもむべなるかな、だったのかも知れない。

 

 ここまで書いて気付いたが、バス事故の「転落+水没」というパターンも、どうも昭和40年代から増えてきている気がする。まず飛騨川の事故がそうだし、さらに時代が下るとスキーバス事故も起きている。

 

 街中を走行するバスの場合は、こういうパターンはそう多くない。人里に、バスが水没するほどの湖や池はないからだ。

 

 つまり、街中を通るバスが安全になっていった代わりに、観光地やレジャー施設を目指すバスが増えてきたのだろう。些細なことだが、このあたりにも当時の時代状況が少し感じられる。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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青木湖バス転落事故(1975年)

 1975年(昭和50年)1月1日、11時20分頃のことである。

 1台のバスが、長野県大町市平区の市道である青木―神城線を走行していた。

 このバスは「平和島観光」という観光会社のスキー客62人を、ホテルへ送迎している真っ最中だった。そして間もなく青木湖畔の道路に差しかかろうとしていた。

 平和島観光というのは、東京都大田区平和島に当時あった(今もあるかどうかは不明)観光会社である。バスの目的地のホテルとスキー場は国鉄簗場駅から北へ約2~3キロほどの場所にあり、これは平和島観光がエビスマの広大な土地を買い取り3年前に開発・建設したものだった。バスは、この区間を1日に14回、無料で往復していた。

 ただし開発が進められたこの大町市エビスマという地区は、都市計画上、自然美の保全が優先される「風致地区」でもあった。よって自然保護団体からの反発も強く、開発するかどうかで揉めたいわくつきのスキー場でもあったという。

 さてこのバス、まず出発時には30人近くを乗車させ、また途中で青木地区の民宿で20人ほどを乗せたものだから、乗客は62人という大人数になっていた。これはすでに定員の倍近くの人数で、ちょっとバランスを崩せば簡単に横転しそうな状態だったのだ。後に救助された乗客も「足の踏み場もなかった」と証言している。

 惨劇は、これが青木湖畔の急カーブに差しかかった時に起きた。そこは幅4メートルの坂道だったのだが、スリップして曲がり切れなくなってしまったのだ。バスはたちまち脱輪して高さ30メートルの崖から落下、バキバキと音を立てて杉や雑木をなぎ倒して青木湖に浸かったのである。

 バスは数秒でいったん沈んだもののすぐに一度浮き上がり、それから5分ほどで完全に水没。ぎゅうぎゅう詰めの車内には女性や子供の悲鳴が響き渡り、何人かが「窓を開けろ」の声に従って夢中で逃げ出したという。

 乗客の運命の明暗を分けたのは、バスの落下の際の角度であった。前部を下にして落下したため、犠牲者はほとんどそちらに集中したのである(もっとも運転手は助かっているのだが)。逆に、脱出して助かった者の多くは車体後部にいた乗客だった。

 結果、バスの乗員2名と乗客36名の合計38名が無事に脱出。しかし事故発生直後には1人の死亡がすぐに確認され、さらに残る23名が行方不明。イカンこりゃ正月早々洒落にならん、ということで、気温が1度で水温が6度という恐るべき厳寒の中で救出活動が行われた。これには警察署、機動隊、消防団の500人あまりが出動したという。

 しかし水深30メートルとあって救助活動は難航した。ボートで犠牲者を捜索し、さらにロープで造った網と大型レッカー2台を用いてバスを引き揚げようとするが、なかなかうまくいかない。そこで潜水夫が呼び出された。

 ここで呼ばれた潜水夫6名は、1日の夜10時過ぎから潜水で捜索。翌日の午前0時半までに2遺体を収容していったん作業を打ち切り、翌朝8時半から再び開始した。そして夕方までの間には男女21名の遺体を次々に発見した。

 どの犠牲者もバスの下敷きになっていたり、車内に閉じ込められたままになっていたという。遺体は大町市内の大沢寺という寺に収容された。

 乗車していたのは、ほとんどが正月スキーを楽しむためにやってきた都会の若者たちだった。彼らは夏頃から民宿を予約してきたのだが、そこで事故に遭遇してしまったのだった。

 当時運転していたH運転手(36歳)は助かっており、事故の経緯を以下のように説明している。

「当時のバス内は乗客で鮨詰め状態だった。それで乗り降りする時のステップ部分にも乗客がいたため、運転席の左側にあるサイドミラーが見えなくなっていた」。

 これがよくなかった。H運転手は見えない左ばかりを注意するあまり、バスを右へ寄せ過ぎていたのだ。それでいざ左カーブに差しかかった時にスリップして曲がり切れなくなったのである。当時、道路は未舗装でしかも凍結していた。

 これは筆者も経験がある。車のフロントガラスの窓枠やサイドミラーに雪や氷が付着して見えにくくなっていると、そちら側をこすらないように気遣うあまり反対側に車を寄せ過ぎてしまうのだ。

 またH運転手の運転も、あまり丁寧とは言えなかったようである。無事に救助された乗客の一人が「いくら慣れた道とはいえ、乱暴な運転でハラハラしていたんだ」と新聞社の質問に答えているのだ。

 この運転手は、事故が起きた1日の午後2時には業務上過失致死と道交法違反の現行犯で逮捕された。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア
◇個人ブログ記事『重大バス事故の歴史』

http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.html
◇山形新聞

 

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