目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
山陽線列車脱線転覆事故(1938年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
横浜港ドイツ軍艦爆発事故(1942年)
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
京都駅将棋倒し事故(1934年)
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)
ラブパレード事故(2010年・ドイツ)
航空機事故
トランスワールド航空800便墜落事故

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久大本線ボイラー爆発事故(1930年)

 事故の経緯は、まず以下の通りである。

 1930(昭和5)年4月6日のこと。福岡と大分にまたがる久大本線(きゅうだいほんせん)の鬼瀬駅と小野屋駅の間の上り坂を走行していた機関車が、大爆発を起こしたのだ。

 時刻は12時10分。この爆発に巻き込まれて、客車に乗っていた22名(ウィキペディアでは23名)が死亡した。犠牲者の状態はそれはもうひどいものだったらしく、全員がもれなく重度の全身火傷。中には、手の皮が手袋のようにすっぽり抜けてしまった者もいたというから、まるではだしのゲンである。

 今まで誰も見たことがないような大惨事である。原因の究明と「犯人探し」が始まり、起訴されたのは機関手と機関助手の2名だった。

 詳しい説明は後述するが、要するに機関助手の不手際で機関車がおかしくなり、中に詰まっていた熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだと考えられたのだ。また機関手は、機関助手を監督する立場にも関わらず、それを怠ったと見なされた。

 しかしこの事故は、上述のような結論がすんなり出たわけではない。原因究明の段階でかなりの混乱があったようだ。

 たとえば、事故直後にはなんの脈絡もなくダイナマイト爆発説が唱えられた。また鉄道局が「なんだかよく分からないが機関車の点検に落ち度はなかった!」と主張すれば、鉄道員たちは「安月給でこき使っておいて、いざとなると罪をなすりつける気か! もっとちゃんと調査しろ!」と吠える始末。で検察はといえば「機関車の構造なんて知るか、専門的すぎてわけわかんねーよ。いま慎重に調査中だよ!」とコメントするばかりだった。

 なぜこんな混乱が生じたのか、その理由も後述するが、とにかくそれくらい不可解な事故だったのである。

 そんな状況にもかかわらず、大分地方裁判所の判決がしれっと下されたのは、ほぼ2年後の昭和7年6月18日だった。過失傷害致死罪と過失汽車破壊罪で機関助手が禁固3カ月、機関手が禁固2カ月というものだった。上告がなされたものの、大審院は11月8日に上告を棄却し刑が確定した。

 

   ☆

 

 さて、事故が発生したメカニズムについて、さらに細かく見ていこう(と言っても大まかだが)。

 まずこの図を見て頂きたい。

 

 

 かなり大ざっぱな、機関車の構造である。

 先に「機関助手の不手際」でこの事故は起きたと書いたが、具体的に何が不手際だったのか。図で言うと「火室(かしつ)」の部分の取り扱いである。

 ここは要するに、蒸気機関車を動かすために石炭をガンガンぶち込んで、火をボーボー燃やす場所だ。大まかに言うと、ここで発生した熱が湯を沸騰させて、その蒸気で機関車は動くのである。

 読者諸君も、テレビなどでも見たことがあるのではないだろうか。機関車内で、スコップを持った人が、暖炉みたいな箱の中に石炭を放り込むのである。あのスコップを持っているのが機関助手、そして助手を指導しながら機関車の操作を行うのが機関手だ。

 さてこの「火室」だが、密閉された箱の中で石炭をガンガン燃やし、最高で1,500度まで上がる。よってそのままでは火室そのものが壊れてしまうので、火室の上は常にお湯で満たされている。

 つまりヤカンと同じである。空っぽのヤカンを火にかければ「空焚き」でヤカンが壊れるだろう。だが水を入れて火にかければヤカンは壊れず、お湯が沸騰するだけで済む。これと同じだ。火室の上部の空間には、沸かされたお湯と水蒸気が溜まっており、このお湯のおかげで火室は壊れずに済むというわけだ。

 では万が一、何かの拍子に火室上部の水が足りなくなったらどうなるか? 例えば今回の事故のように、機関車が急な登り勾配にさしかかった場合など、そうなることが考えられる。機関車そのものが傾けば、火室の上部の「天井板」が水面からむき出しになってしまうわけで、そうすれば空焚きである。

 すると、機関車は爆発するのだ。それも大爆発。マジで機関車も乗務員も原形をとどめないほどバラバラになってしまうのである。

 もちろんそうならないように、対策はなされている。火室の「天井板」のことをクラウンプレート、あるいはクラウンシートというが、このプレートには「溶栓」「熔け栓」「レッドプラグ」「ヘソ」などと呼ばれるネジみたいなものがねじ込まれている。

 このネジ、例えるなら、穴にチーズの詰まったちくわのようなものだ。

 クラウンプレートが異常な高温になると、このちくわの中のチーズが溶ける。そして穴を通して、火室にの上にたまっていたお湯が流れ出すのである。それは火室の中に降り注ぐ。

 つまり、機関車が爆発する前に、火室の温度を下げてしまうという仕掛けだ。

 なるほど、それなら機関助手も安心していられるね! ……とも言ってはいられない。このちくわを溶かしてしまうということは、機関助手にとっては最大の恥なのである。なにしろ火は小さくなるし、溜まっていた蒸気も水と一緒に出てしまうので、機関車はもう止めざるを得ない。こうなったらもう大失態である。

 だから機関助手は、細心の注意を払って「水面計」というメーターを常に睨んでいなければならない。火室の上の水が少なくならないよう、これでチェックするのだ。

 で、ようやく事故の話になるのだが、もう大体お分かりであろう。機関助手の不手際というのは、この火室の上の水を減らしてしまい、空焚きを行ってしまった点にあった。

 経過はこうである。裁判記録によると、鬼瀬を12時6分に発車した機関車が1,300メートルほど進み、25‰の上り坂に入ったところで機関助手が異常を発見した。先述したちくわのチーズにあたる部分が溶けて、ちくわの穴から蒸気が漏れ出しているのに気付いたのだ。

 まあ単純に考えて、上り勾配に差し掛かったため水面も傾いてしまい、クラウンプレートがむき出しになった部分があったのだろう。どうやら水面計のチェックも漏れていたらしい。

 爆発が起きたのは、水漏れに気づいてからほんの数秒後の出来事だった。幸いだったのは、破裂したのは機関車そのものではなく火室だけで済んだということだった。機関助手と機関手は、軽い火傷で済んだようである。そのかわり客車はえらいことになったわけだが――。

 では爆発自体はいいとして、膨大な死者が出た客車内では一体何が起きたのだろう。これが鉄道省、検察、裁判所を大いに悩ませた。

 状況を見れば、爆発によって機関車の正面が吹き飛び、そこから噴出した熱湯と蒸気が客車に注ぎ込んだとしか思えない。類似の事故も過去になくはない。だがそれでも、今回のは被害者たちの火傷の状態といい、その規模といい、あまりにもひどすぎた。本当に熱湯と蒸気だけのせいなのだろうか?

 さてここで、「あれ、変だぞ?」と思われた方もおられよう。そう、今の説明では、蒸気機関車の正面が爆発で吹き飛んだことになる。しかし客車というのは機関車の後ろについているはずだ。正面から水蒸気と熱湯が噴き出したのなら、客車に被害が及ぶはずがない。

 そこで、事故当時の列車について説明が必要になるのである。実はこの列車、先頭の機関車が通常とは反対向きに連結されていたのである。こんな具合だ。

 

 

 昔の機関車は、ごく稀にこういう形で走行することがあった。ある地点からUターンして走行するにもかかわらず、方向転換のための設備が整っていない場合である。当時の鉄道員の間で「バッキ運転」と呼ばれていた方式だった。

 だから、機関車の前部が吹っ飛んだことで、後方にあった客車に被害が及んだのだ。

 客車で何が起きたのかについては、けっきょく不問に付される形になった。うやむやの結論のまま、とりあえず機関手と機関助手が罰せられて事態が収束したのは、先に書いた通りである。

 さあ、ここからが謎解きである。

 以上の事柄を踏まえて、この事故の謎に挑んだのが『事故の鉄道史』の作者である佐々木冨泰と網谷りょういちの二者である。

 佐々木と網谷は、まずこの事故にまつわる疑問をまとめた。それは以下の通りだ。

1・水蒸気だけで、機関車を吹き飛ばすほどの圧力が発生するのか?
2・熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだだけで、全員が一様に死亡するような結果になるだろうか?
3・爆発音は二度上がっている。二度目の爆発とはなんなのか?

 佐々木と網谷は検討を重ね、この爆発事故は裁判で認定されたような単純なものではなく「水性ガス」によるものだと結論を出した。

 「水性ガス」とは何かというと、赤熱したコークスまたは石炭に、水蒸気を吹き付けると発生するガスである。水素と一酸化炭素の混合ガスで、最近は合成ガスという名前で呼ばれているという。

 この水性ガス、液化天然ガスの輸入が始まる前までは頻繁に用いられていたらしい。しかし事故当時の昭和5年頃の日本ではほとんど知られていなかった。

 正直、筆者は化学はちんぷんかんぷんなのだが、ついでなので化学式も引用しておこう。

 

 C+H2O=2H+CO

 

 この化学反応式は、赤熱した炭素を水蒸気があれば常圧で反応する。そして発生した水性ガスは、空気中の酸素と混じり、着火源があれば、次の化学反応式のように燃焼(爆発)して水蒸気と炭酸ガスになる。

 

 2H+CO+O2=H2O+CO2

 

 つまり、こういうことである。事故当時、火室の空焚きによって、先述したようなチーズ入りちくわの溶解が起きた。それでちくわの穴から大量の水蒸気が吹き出て、火室内の石炭に降り注いだのである。そこで水性ガスが発生した。

 火室の中は、水蒸気のため酸素が外へ押し出されており、ここではガスと酸素が結びつくことはない。

 だがガスはボイラーの煙室を通って(前々図参照)機関車の前部に流れ込み、そこで酸素と結び付いた。そして煙室にたまった高熱の燃えカスから引火し、爆発した。

 これが一度目の爆発である。これにより、機関車の前部がまず吹き飛んだ。

 だが裁判では「爆発音は二度あった」という証言があった。単なる火室の爆発なら爆発音は一度だけのはずだ。この、二度に渡る爆発音というのは推理する上での重要な手掛かりであり、また事故の原因が水性ガスであることを示す傍証だった。

 一度目の爆発のあと、機関車から客室へとガスが流れ込んだのだ。これが二度目の爆発を引き起こし、悲劇を招いたのである。

 水蒸気と熱湯による被害であれば、被害者たちの火傷の状況は座席位置によって変わってくるはずだ。だがこの事故はガス爆発だったからこそ、全員が一様の大火傷を負ったのである。『事故の鉄道史』によると、ガス爆発ならば一瞬で1,000度にもなるという。

 ガス爆発が起きたことを示す傍証は他にもあった。爆発現場の周辺の雑草がかなりの範囲で焼け焦げたという記録があったのだ。熱湯と水蒸気だけでこのようなことは起きるとは思われず、爆発により火炎が上がったと考えるのが妥当なのである。

 もっとも、水性ガス爆発などという珍しい現象がなぜこの時に限って発生したのか、その根本的な理由は分からずじまいである。普通――という言い方はおかしいかも知れないが――とにかくこの手の事故では、普通は機関車が停止するか爆発するかのいずれかしかない。なぜそうではなく水性ガス爆発だったのか、その点だけは謎のままである。

 とにかく結果として水性ガス爆発が起きたと、そういうことだ。

 

   ☆

 

 そしてここからは、まとめである。

『事故の鉄道史』の記述は、ちょっとした推理小説を読んでいるようで面白いのだが、サッと読んだだけでは「で、水性ガス爆発だったからそれがどうしたの?」と思えなくもない。この推理の結果、事件の構図がどう変わってくるかが解説されていないのだ。

 よってここで最後に、筆者なりに少しまとめてみようと思う。この事故の原因が水性ガスなのは分かった。では「それがどうした」のかというと、この事故の裁判結果は、冤罪とまではいかずとも誤判の可能性があるということだ。

 そもそもこの事故、明らかに最初から最後まで混乱とうやむやの中で片付けられているのである。

 なんで機関車の火室が破裂しただけでこんな大惨事になったのかが誰も分からず(だからこそダイナマイト説などというのも飛び出してきたのだ)とにかく火室を破裂させたのは機関助手のせいなんだから、こいつブチ込んでおけばそれでいいじゃん! というノリで結論に至っているようにしか見えない。

 まあ当時、水性ガスの爆発に誰一人思い至らなかったのは仕方がない。だがそれならそれで、今になってみると、この事故の結論は「なぜあれほどの被害になったのかは不明」としておくべきだったことが分かる。たぶん熱湯と水蒸気が原因だったのだろうという適当な推測よりも、一体何が起きてこんな大惨事になったのかサッパリ分からない、という混乱のほうが正しかったのだ。

 人々が死亡したのは、誰も予測できず、また理解もできないようなことが起きたからなのだ。だから、責任のすべてを機関助手と機関手に負わせるのは不当だったと言える。彼らは事態収束のための生贄にされたといえる。

 この事故には、運が悪かったとしか言えない要素もあった。まず例のチーズ入りちくわだが、ここから水蒸気が漏れ出しているのを機関助手が発見して、わずか数秒後に火室が破裂したのは前述の通りである。だが数秒というのはあまりにも早すぎる。このチーズ入りちくわ、どうも当時は正常に機能していなかったのではないか。これが溶けるのが遅れたため、火室の破損も発見が遅れてしまったのだ。

 その上、機関車は「バッキ運転」だった。破裂によって流れ出したのが水蒸気と熱湯だけなら、機関車を突き破るほどの圧力があったとは考えられない。それが水性ガスだったため機関車は壊れ、そしてたまたま逆向きに連結されていた客車に被害が及んでしまったのだ。バッキ運転がなされていたこと自体が、こんな爆発事故が誰にも予測不可能だったことの何よりの証拠であろう。

 ちなみに鉄道省はこのバッキ運転について、事故直後には「こういう路線では止むを得ない」と述べていた。だがこの言葉もすぐに撤回され、Uターンが必要な路線の末端駅には必ずそのための設備(転車台)を設置することを原則としたそうである。この事故が残した唯一の教訓だった。

 ちょっと見ると、真の事故原因の解明など大した意味がないように思える事例である。だがこのように改めて考えてみると、当事者への責任の負わせ方について考えるための応用問題であることが分かる。機関車の構造や化学式には閉口してしまうものの、それなりに興味深いケースだった。

 

◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア

 

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瀬田川転覆事故(1934年)

 台風の歴史も調べると結構きりがないのだが、やはり有名なのは昭和の三大台風と呼ばれる室戸・枕崎・伊勢湾台風であろう。

 今回ご紹介する瀬田川脱線転覆事故は、室戸台風のさ中に発生した。マクロな視点で見れば台風による突風事故である。だがミクロな視点で見ると人間の不手際が目立ち、今では鉄道事故の一種として分類されている。

 

   ☆

 

 1934(昭和9)年9月21日のことである。

 東海道本線草津駅~石山駅間(現在の瀬田駅~石山駅間)の、瀬田川にかかった橋の上を列車が通過しようとしていた。

 この列車は、東京発神戸行きの下り急行で11両編成。記録によるとスピードは出しておらず、徐行していたそうだが、実はこの時は列車を運行するのには最悪のタイミングだった。

 滋賀県全域に室戸台風が襲来していたのだ。

 室戸台風――。最大風速31.2m/s、最大瞬間風速39.2m/sを記録することになる、化け物のような巨大台風である。

 こいつが県内で猛威を振るい始めたのが、21日の午前2時から午前4時の間のこと。そしてこの威力がもっとも強まったのが午前8時から9時の間で、先述の下り急行列車が瀬田川に差しかかったのが午前8時30分だったのである。これじゃ、暴風雨被害に遭わせて下さいと言っているようなものだ。

 もっとも、惨劇を防ぐチャンスは皆無ではなかった。通過駅ごとに、気象告知板(ホーロー板などに「暴風雨」とか「警戒」などと書かれたもの)がちゃんとあったのである。これに従って、運転を慎重にしていればよかったのだ。

 とはいえ戦前の話である。現代ならば異常があればすぐに列車を止めるだろうが、当時はどうだったのだろう。「異常があればとにかく運転を止めろ」というのは戦後の三河島事故以降のルールで、終戦より前の時代は逆に「汽車を止めるのは恥」と考えられていたというから、むしろ暴風雨の中でも汽車を進めていくほうが当たり前だったのかも知れない。

 さあ、列車が橋の上に差しかかった時である。風を遮るもののない橋梁で、室戸台風の強風が車両に襲いかかった。

 列車はたちまち脱線、一気に3両目以降の合計9両の客車が転覆してしまう。この現場の画像はネット上でも見ることができるが、9つの車両が綺麗に並んで横倒しになっている様は、なんだか可笑しくすら感じられる。

 だが笑ってもいられない。この脱線転覆によって11名が死亡し、169~202名ほどが負傷したのである(負傷者数は記録によってずいぶん幅がある)。

 さらに、倒れたのが隣の上り線の線路だったからまだよかったものの、これが逆方向だったらどえらいことだった。お分かりだろうか、場所は河川にかかる橋梁である。転覆の方向によっては、客車が水没して死者が十倍くらいに跳ね上がっていた可能性すらあるのだ。

 橋の上の脱線転覆事故というと後年の餘部鉄橋転落事故を思い出す。だがあれは、線路が一本しかなかったため、脱線イコール転落という絶望的な状況だった。それに比べると橋の上が複線になっていたこの瀬田川脱線転覆事故は不幸中の幸いだったといえるかも知れない(もっとも瀬田川のほうが死者数自体は多いのだが)。

 さてそれでこの事故、「脱線したのは台風のせいだ」という見方もあったようだが、京都地検はそうは考えなかった。事故を起こさないようにするチャンスがあったのに注意を怠ったということで、乗務員の過失を認定、起訴したのである。

 裁判がどういう経過をたどったのかは、残念ながら不明である。ネット上で調べた程度では、そのへんの資料は見つからなかった。

 ちなみに、室戸台風で事故った列車はこれだけではない。他にも、東海道本線・摂津富田駅の近くで列車が脱線転覆し25名が死傷しているし、野洲川橋梁では貨物列車が転落し水没している。さらに大阪電気軌道奈良線(現・近鉄奈良線)でも大阪府布施町(現・東大阪市)内での電車の脱線転覆が発生しているのである。

 こうやって見ると、どれも人災とはいえ、乗務員ひとりひとりの責任ではないような気がしてくる。要は全ての鉄道員の意識のあり方や、彼らに対する安全教育自体に問題があったのではないか。

 いわば、「暴風雨の中でも列車を動かす」ことは、鉄道員にとっては自然法則のようなものだったのである。原理ではないが原則だったのだ。

 ともあれこれらの事故がきっかけとなって暴風設備の研究が進められ、鉄道でも風速計が設置されるなどの措置が取られるようになったのだった。

 

【参考資料】

◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◇ウィキペディア

◇神戸大学電子図書館システム

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/da/

◇個人サイト『わだらんの鉄道自由研究』

http://www.geocities.jp/yasummoya/tetudou_index_1.htm

 

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山陽線列車脱線転覆事故(1938年)

  1938(昭和13)年の67月は特に雨が多かった。それもちょっとやそっとの多さではない。735日には神戸市と阪神地区で、大雨による「阪神大水害」が起きている。この水害は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災と並ぶ大災害として、今でも現地で語り継がれているという。

    

 今回ご紹介する事故が起きたのは、同年の615日である。

    

 まだ夜も明けない午前3時頃、山陽本線の上り線を、13両編成の110列車が走っていた。下関発京都行きの夜行列車である。この時も当地は大雨で、そのため列車の運行には30分ほど遅れが出ていたという。

    

 列車は岡山県和気郡熊山村大字奥吉原地区(現在の岡山県赤磐市熊山地区)に入り、熊山駅を通過。それから700メートルほど進んだ場所で事故は起きた。

    

 その場所は、大まかに言えば「でかい窪地」である。吉井川の堤防と崖に挟まれてた地形で、竹藪になっている。線路は、堤防に沿った形で敷設されていた。

    

 時刻は午前35659分頃分頃。この堤防の一部が崩壊し、機関車と前四両が脱線した。そして竹藪の中に転覆した。

    

 堤防の高さは約4メートルあり、転覆した車両は竹藪をなぎ倒しながら「く」の字を二つ重ねたような形で横倒しになった。機関車は車輪を天に向けてほとんど逆さまに引っくり返り、車体の半ば以上が土砂に埋まったという。

    

 客車もひどい有様だった。木造だった一両目の車両はねじ曲がり、原形をとどめないほどにバラバラになった。それ以外は鋼鉄製だったため一両目ほどのダメージはなかったものの、窓ガラスなどは全て破損した。

    

 さらに、これだけでは済まなかった。五両目以降の車両は転覆を免れて線路上に残っていたのだが、これが隣の下り線にはみ出す形になっていたのがよくなかった。反対から下り列車がやってきて、五両目の車両に衝突したのだ。

    

 ぶつかってきたのは京都発宇野行き(資料によっては、鳥羽発宇野行きとも)の801列車である。この衝突により、ぶつかられた車両は右半分をざっくり切り裂かれる形になった。全ては、最初の脱線転覆から一分以内の出来事だった。

    

 この時点での死者は25名、負傷者は91108名(資料によって少し表記が違う)。死者のうち3名が、堤防の上での衝突によるものだった。

    

 転覆した車両の方で死者が多く出たのは、先述した通り、先頭車両が木造でもろかったせいでもある。事故が起きた1938(昭和13)年以降、新しく造られる客車は全て鋼鉄車となったのだが、既に造られた木造車はそのまま使い続けられていたのだ。この、両者が併存している状況は1959(昭和34)年まで続いた。

    

 痛ましいことに、死者の中には小学生も含まれていた。和歌山県橋本高等小学校の二年生71名が、先生3名に引率されながら修学旅行中だったのだ。児童たちは、奇跡的に無傷だった一名を除いて、全員が何かしらの死傷を負ったという。

    

 一行は611日に旅行へ出発し、四国の琴平宮と、広島の宮島に参拝するというコースで旅をしていた。そして14日の2230分に宮島駅で乗車し、日付が変わってから事故に巻き込まれたのである。木造だった先頭車両というのも、これは実は修学旅行用にと広島でわざわざ増結されたものだった。

    

 以下は、児童のうちの一人の証言である(資料からの引用だが、読みやすくなるように少し手を加えた)。

    

「昨日、広島での見物が終わって、午後11時頃に列車最前部の一両に乗って出発した。寝ていると、ドカンと大きな音がしてひっくり返ってしまいました。あとは何が何やら分からなかったが、這い出して救われました。先生が亡くなられ、私たちはどうしていいか判りません」。

    

 それからもうひとつ。これは証言ではなく手記から(手を加えている)。

    

「今晩は家で寝られるな。こう思いつつ、深い眠りに落ち、どのくらい眠ったか。突然なんだか大きな衝撃を全身に受けた。ハッと見廻すと辺りは真っ暗、身を起こそうとすると動けぬ。胸から下が石炭やら赤土の中に埋まっているのだ。大変だ、皆はどうしたか知ろうにも皆のわめき声やら何やらで何が何だかわからぬ。約半時間ももがいていると一人の兵隊さんが、「生きているものは声をあげろ」とすぐ傍らで怒鳴った。「ここにおります」「よし」たちまち掘り出してくれた、と思った瞬間どのように助かったか覚えておりません。みやげ物もすっかりどこかへ行ってしまった。ただ助かって何よりだ。機関車にすぐ連結された木造車の前部から三つ目の座席にいたから助かったのだろう、こんなことを全身の痛みに坐り込んで考えていると、人夫さんがこちらに来いと肩に負って救護所に連れて行ってくれました。その途中、先生の遺骸が見えた。友だちの血に染まった姿も見えた。たまらなく涙が出ました。死なれた先生や友だちを思えば筆も進みませぬ。」

    

 以上の証言と手記は、『続事故の鉄道史』からの孫引きである。当時の大阪毎日新聞に、こういう記事が載っていたらしい。

    

 今の時代から見ると、こういう「手記」を児童に書かせるというのも奇妙なやり方である。うるさ方から「子どもにこんな残酷なことを思い出させる文章を書かせるとはけしからん! PTSDになったらどうする!」と抗議が来そうだ。

    

 さて、児童たちの言葉の通り、引率の先生も亡くなっている。それも3名全員だ。重傷を負いながら「誰々は大丈夫か、避難したか」「みんな怪我はないか、講堂へ集まれ」などとうわ言のように口にしていた先生や、堤防の上で児童を助けている最中に、下り列車の衝突に巻き込まれた先生もいたという。まさに殉死だった。

    

 もうひとつ児童の証言を載せておこう。

    

「先生の手が、抱きかかえるように私の前に見えたと思ったら、辺りが真っ暗になりました。先生がいなかったら死んでいたと思います。叱る時は怖い先生でしたが、いつもはいい先生でした」。

    

 広島鉄道管理局は、事故発生と同時に岡山と姫路の師団に救援を要請。両師団の軍隊はただちに出動して、翌日まで救助と復旧にあたった。現場の線路も当日の午後2時には復旧したというから、実に仕事が早い。

    

 事故原因は何だったのだろう? その答えは「地滑り」だった。手抜き工事のため、堤防の盛土が雨の水量に耐えられなくなったのだ。そして「円弧滑り」という現象を起こし、線路の下の地面が崩れたのである。

    

 事故が起きた山陽本線の線路は、ほとんどが平坦である。これは、鉄道建設時に、当時の社長が「建設にあたっては、線路の勾配を100分の1以内(10パーミル以内)にすべし」という方針を打ち出したためだ。

    

 その結果として、丘を迂回するカーブなどが増えることになった。今回の脱線転覆の現場でも、事故が起きた年の1月に、丘を削って斜面を切り崩し、削った土砂を盛って堤防を造り、そこに線路を敷設するという作業が行われている。要は、線路を支える土台が人工的なものだったのだ。

    

 この工事で、手抜きがあった。本来こうした場所では、土砂の中に水が溜まってもすぐに排水できるような設備を整えなければならない。そのための作業は「水抜き工」と呼ばれるそうで、現在は特殊なパイプを盛土の中に埋め込むという。当時は、目の粗い割栗石などを雨樋のように並べて、盛土の中に暗渠を造るというやり方だった。これが行われなかったのだ。

    

 このため、事故当時は、盛土がたっぷり雨水を含んで排水されず、グズグズになったのだった。もともと、そこは窪地の斜面に土が盛られる形になっていたので、その斜面の形――すなわち円弧の形に添って土砂が崩れ落ちる「円弧滑り」が発生したのだ。

    

 つまり事故が起きた時、現場の線路の枕木は土台を失っており、宙に浮いた状態だったのである。そこに機関車が通りかかったのだから、もつはずがない。

    

 資料によると、円弧滑りそのものはありふれた現象らしい。水抜き工と、また斜面の「段切り」、さらに土を固めて密度を上げる「転圧」という作業をしっかりやれば、大部分は防げるという。

    

 もちろん、筆者も土木工事については門外漢である。だが、水を抜くとか土を固めるとか、そういう作業が必要なことは、子供でも分かる理屈ではないかと思う。きっと読者の皆さんも、昔砂場でやった泥遊びなどを思い浮かべているのではないだろうか。

    

 だから、この事故の最大の原因は工事の施工不良だろう――と素人考えでも想像がつくのだが、ところが裁判ではちょっと意外な判決が出た。後から衝突した801列車の機関手と機関助手、それから岡山保線区和気分区の保線員が検事拘留処分となったのだ。

    

 判決の要旨は不明だ。ただ、機関手と機関助手は百歩譲るとしても、保線員の巡回点検にミスがあったというのは奇妙である。設計者と施工者はどうして責任を問われなかったのだろう。この事故の、ちょっと不思議な点である。

    

 さて、多くの児童が死傷した橋本小学校だが、その後、被災した児童のうち9名が亡くなったという。公式な記録では事故直後の死者数までしかカウントされていないのだが、同校の敷地内にある慰霊碑には、後で加わった児童の名前も刻まれているそうだ。どこまでも痛ましい話である。

    

 現場にも慰霊碑が存在する。丸山公園というところらしく、地蔵菩薩像と、お経が書かれた石碑が建っているそうだ。いずれも、建立されたのは事故からちょうど22年目にあたる1960(昭和35)年615日。参考資料によると、事故があった615日には毎年法要が行われているという。「何回忌」ではなく「毎年」というのは、慰霊式のサイクルとしてはかなり珍しい。

    

 余談だが、現地では「この場所には今でも機関車の車体が埋まっている」という噂があるとか。本当かどうかは分からない。

    

 既に80年前の事故なので、地元でもこの出来事を知っている人は少ないという。だが、なんとなく関連情報をぐぐっていたら、最近ちょっとした動きがあったことが分かった。儀礼者の同窓生で構成される「六友会」という団体が保存していた関連書籍が、2015(平成27)年に郷土資料として地域の公共施設に寄贈されたというのだ。

    

 この書籍は『列車遭難同情者芳名録』。香典という形で、被害者に対し募金をしてくれた人たちの氏名が載っているらしい。全国の学校、幼稚園、小学校、愛国婦人会、軍隊、会社、商店、農漁業などの氏名や団体名が千件以上記されており、金額は一件につき1円から500円。御供花、お菓子などを贈ってくれた人もいたようだ。中には、ベルリンオリンピックで金メダルを獲得した兵藤秀子(旧姓・前畑)の名もあるという。「前畑がんばれ」のあの人だ。

    

 当時の1円は現在の34千円。この事故が、どれほど当時の人々の同情を誘ったかが分かる記録である。

    

 ちなみに戦前の大事故は、天皇陛下からの金一封の下賜によって一見落着となるのが通例で、この事故もそうした形で処置がなされた。さらに当時の鉄道省でも、千五百人の職員から募金を募って事故遭難者に贈ったという。

    

【参考資料】

◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◆斜面の安定

http://www.shimane.geonavi.net/shimane/syamen.html

◆「同情者芳名録」保存依頼へ~山陽線事故・児童ら犠牲

http://hashimoto-news.com/news/2015/06/14/28911/

◆磐梨通信(イワナシツウシン)☆昔の列車転覆事故☆

https://blogs.yahoo.co.jp/kurohime20032001/34687988.html

◆ウィキペディア


安治川口ガソリンカー火災(1940年)

 筆者が勝手に「小心者の事故」と呼んでいる鉄道事故が3つある。福知山線の事故、昭和18年に起きた常磐線土浦駅での衝突事故、そして今回取り上げる安治川口駅のガソリンカー火災である。

 この3つの事故に共通しているのは、事故が起きる要因を作った鉄道員が当時パニックに陥っており、そのせいで気が動転してまともな判断が出来なくなっていた(と思われる)点である。

 別に彼らが本当に「小心者」であったというわけでは無い。ただ、彼らの所属していた組織や時代の空気が、精神的に多大なストレスをかけていたことは明らかだと言いたいのである。

 筆者はこうした人々の気持ちが痛いほど分かる。焦ってパニックに陥り、自分で自分がコントロール出来なくなり、焦りがさらに焦りを生み被害を拡大していくという出来事は決して珍しくないのだ。だから上記の3つの事故は、筆者にはとても哀れなものに見える。

 さて、1940年(昭和15年)1月29日のことである。

 今からほぼ70年前にあたるその日の朝、大阪発桜島行き下り第1611列車は、超満員の状態で走っていた。乗車していたのは、主に沿線の工場へ出勤する人々であった。

 その路線の名は、西成線といった。現在ではテーマパークへのアクセス路線としても賑わっているJR桜島線である。だが当時は工場施設が集中する臨海地域の出勤路線として用いられていたのだ。時は日中戦争真っ只中。国内では、重工業を中心に軍需産業が大盛況だった。

 下り第1611列車は、間もなく安治川口駅の構内に入ってきた。この時の速度は時速20キロ。当時は国策で燃料の節約が指導されており、下り勾配はアイドリングの状態で惰性で走るよう定められていたのだ。なんかこう、長閑な走り方である。

 ところがこの時、安治川口駅の信号掛にとっては長閑どころの話ではなかった。この下り第1611列車は定刻よりも3分遅れており、そのせいで他の列車の運行にも影響が出そうな状況だったのである。

 何せ、燃料をケチって惰性で鉄道を走らせることを国策で定めていたような時代である。鉄道もまた燃料の消費に対して神経を尖らせていた。もしもダイヤ全体に遅れが出れば、燃料の浪費ということで上司に怒られる……。この信号掛の胸中にあったのはそんな不安だった。

 しかも目の前の第1611列車は、そんな彼の気も知らずにのろのろと呑気な速度で構内に入ってくる。ますます焦りは募り、何を血迷ったのかこの信号掛は、列車が通過中だというのにいきなりポイントの切り替えを行ってしまった。

 本来なら、これは後続の別の列車に対する切り替えとなるはずだった。この切り替えを行うことで、確かに後続の列車に出発の合図を出すことになり、それが通過するための準備も整ったわけである。ただ、肝心の先行列車がポイントの上を通過中だったのが大問題だった。

 通過中だった1611列車にしてみればとんでもない話である。これを乗用車で例えれば、前輪は右に向かって走っているのに後輪だけが無理やり左を向かされたようなものだ。思いも寄らない事態に遭遇した3両目の車両は、あれよあれよと言う間に、枝分かれした線路の間で横向きになって脱線した。そしてそのまま横転して横滑りした挙句、電柱にまでぶつかった。もう散々である。

 とはいえ、なにぶん時速20キロの惰性での走行である。おそらくこの時点では死傷者はほとんど出ていなかったことだろう。

 問題はここからである。この脱線のせいで燃料のガソリンが漏れ出したのが運の尽きだった。

 列車の燃料が、石炭でもなく軽油でもなく電気でもなくガソリンである、と聞いて奇異に思われる方もおられるかも知れない。実は、軽油を使うディーゼルエンジンよりも、ガソリンエンジンの方が小型軽量化が利き技術的には作りやすいのである。

 もちろん総合的に見ればガソリン動車よりもディーゼル動車の方が運転効率は良く経済性も高い。また安全だし馬力もある。それでも鉄道の気動車がディーゼルカーへと切り替わるには、戦後までの技術発展と、何よりもこの事故の教訓を俟たなければならなかったのである。

 時刻は早朝の6時56分。漏れ出したガソリンに引火し、大阪湾から吹き付ける西風は火勢を煽り、横転した3両目はあっという間に炎に包まれた。発火源が何だったのかは諸説あるようだが、車両の蓄電池回路からのスパークが発火源だった可能性が高いという。

 時速20キロで走る車両がゴロリと横転しただけだったら、まだ可愛いものだった。ところが事態は一転して遂に大惨事である。しかも車両は鮨詰めの超満員。何せ当時のこの路線のラッシュアワー時は、毎朝の乗車率が300%を越えてもまだ通勤客を運び切れない輸送状況だったというからもう無茶苦茶である。こんな状況でガソリンに引火されたらもう笑うしかない。いや、笑わないけどさ。

(余談だが、連休中などの新幹線の乗車率が100%を越えた、などとニュースで報道されているのを聞くと、事故マニアとしては「そんなに乗せていいのか?」といつもゾッとせずにはおれない)

 さて、この横転し炎上した車両の番号は「42056」。後日「死に頃」「死に丸殺し」などと言われることになる(ひでえな)この車両は、横転してしまったため脱出が極めて難しく、そのせいもあって多くの人が逃げ遅れた。

 そんな中、この車両に乗っていた車掌の大味彦太郎氏の行動は今でも伝説的である。当時31歳だった大味車掌は、自らは楽に脱出できる場所にいたにも関わらずすぐには逃げなかった。彼は車掌室の窓ガラスを割って自分の肩を踏み台にし、乗客の脱出と救助にあたったのである。

 大味氏自身が外部から救出された時には、下半身に大火傷を負っていた。氏は痛い痛いと呻きながらも「気の毒なことをしました。乗客の方はどうですか、当時はまったく無我夢中でした」などと語り、その日の夜に妻子に見守られながら亡くなったという。

 31歳と言えば、これを書いている筆者よりも1つか2つ上という程度の年齢である。なんだこの英雄は。書いているこっちまで泣けてくるじゃないか、畜生。

 しかし、もはや一人の死で嘆いているような状況ではなかった。この火災による死者は191人に上り、重軽傷者は82人にまで達していた。死者はほとんどが窒息死で、150名以上が即死だったという。

 奇跡の生還としか言いようのないドラマもあった。燃え上がった車両の中が焼死体で満杯だったのは言うまでもないが、消火後の遺体収容作業の最中、その満杯の遺体の下から2人の生存者が見つかったのである。他の犠牲者達の体で包み込まれていたお陰で、煙も吸わず炎に巻かれることもなかったのだ。

 そしてなんと、この路線は半日で運転を再開した。

 現場が工業地帯として重要拠点だったからなのだろうが、それにしても驚異的なスピードである。この事故、死者数も日本一なら復興速度も日本一なのではないだろうか。

 また事故後の対応も実に速やかだった。事故の原因となった、「列車が通過中のポイントの切り替え」が出来ないように安全装置が据え付けられたし、さらにこの路線はほとんど間を置かずに電車路線へと転換を遂げている。

 なんつーか、ここまで高速で復興されるとかえって非人道的な気がしなくもない。「出来るんなら最初からやっとけ」と突っ込みたくなるのは筆者だけではあるまい。

 事故を起こした哀れな信号掛は、大阪地裁にて有罪判決を受けた。業務上汽車転覆致死罪として禁固2年というものだった。

 現在でも、安治川口駅のそばにはこの事故の慰霊碑があり、そこに刻まれている犠牲者の名前の数は、鉄道事故のものとしては本邦一である。今でも供え物や献花は後を絶たないらしく、70年経っても事故の記憶は完全には風化していないようだ。

 ちなみに、最後にまた縁起の悪い話で恐縮だが、日本の有名な大量殺人事件に『八つ墓村』や『龍臥亭事件』のモデルとなった津山三十人殺しというのがある。これは大量殺人の死者数の世界記録を40年以上も保持し続けた物凄い事件なのだが、これが起きたのが昭和13年。安治川口でガソリンカーが炎上して、鉄道事故での死者数が日本一を記録する僅か2年前のことだった。

 大量死の時代は、こんな風に始まっていたのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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米坂線脱線転覆事故(1940年)

 筆者の住んでいる山形県でも、過去にいくつかの大きな事故災害が発生している。

 その内容を見てみると、やはり冬場に起きているものが多い。それで改めて雪国の苦労というものを実感するわけだが、今回ご紹介する米坂線脱線事故もその一例である。

 1940年(昭和15年)3月5日のことである。

 3月の上旬と言えば、山形県では雪解けにはまだ早い。しかしこの日は、雪が雨に変わりそうな気配が朝からあったという。

 そんな中、米沢駅発・坂町行きの下り103列車は、朝8時45分頃に小国駅を出発した。

 当時の米坂線(現在はもちろんJR米坂線)は、開通してからまだ4年弱という新しい路線だった。貨物列車3両と客車2両が一体になった103混合列車は、この線路をガタンゴトンと進んでいく。

 次の停車駅は玉川口駅である。だがしかし、この103列車が玉川口に到着することはなかった。

 

   ☆   ☆   ☆

 

 さて、ところ変わって玉川口駅である。

 当時ここには駅長と駅員、それに除雪の人夫や列車待ちの乗客など大勢の人がいたという。

 実はこの玉川口駅は後年には駅そのものが廃止されてしまっている。あまりにも利用客が少ないというのがその理由だったのだが、当時は地元の人にとっては需要もあったのだろう。

 されこの日、103列車が小国駅を発ったという知らせを受けると、駅員たちはすぐ持ち場へ出た。予定では間もなく到着するはずだ――。

 するとその時である、駅舎の警報ベルが突然鳴り出した。雪崩監視所からの通報である。

 小国駅と玉川口駅の間には、荒川という川がある。列車はこの荒川に掛かっている鉄橋を渡るわけだが、そこで雪崩が発生したという知らせだった。

「おい、雪崩だってよ」
「マジすか先輩」

 駅員たちは線路の向こう、小国駅の方向に目を向ける。小さな山があるため、カーブの向こうの様子は見えない。だが、山の陰から白い煙が上がっているのは見えた。機関車の蒸気である。

 悪い予感がした。列車は大丈夫だろうか?

 駅員たちがそちらの方向へ向かおうとすると、逆方向から保線区員が走ってきた。彼はよっぽど衝撃的な何かを見たらしく、雪の上を何度も転びながら駆けて来る。ああ、こりゃヤバイよ。ただ事じゃないよ。

 果たせるかな、事故であった。

 だがしかし、駅員たちが現場で見た光景は想像を遥かに越えた凄まじいものだった。鉄橋から列車が落っこちて、荒川に向かって中ぶらりんになっていたのである。先頭の列車は水没している。

 橋は無残に破壊されていた。雪崩のせいである。鉄橋の隣の山で雪崩が発生し、それが鉄橋の橋脚を切断してしまったのだ。そして運悪く、103列車はその直後にこの橋に差しかかったらしい。

 あわわ、どうしようどうしよう。玉川口駅から事故現場を見に来た人たちは、なす術もなかった。事故現場は荒川を挟んで向こう岸である。橋は崩壊している上に、荒川は雪解け水で増水している。救出活動なんてできっこない。

 そうこうしているうちに、もっとひどいことになった。

 前の3両の貨物列車は荒川に転落しており、続く1両の客車が宙ぶらりんになっている。そして残る客車は線路の上に残っていて無事だったのだが、宙ぶらりんになっていたほうの客車が突然火を噴いたのだ。

 どうも、車内に備え付けてあった暖房用のストーヴから燃え移ったらしい。客車のガラスが割れて黒煙と炎があがった。

 大惨事である。燃え盛る客車の窓から這い出たものの川へ転落する者がいる。また助けを求める者もいる。しかし玉川口駅から来た駆けつけた人々はどうすることもできなかった。

 ついこの間には安治川口のガソリンカー火災があったばかりだ。しかし東北で雪に埋もれる冬を過ごしている人々にとっては、それはあくまでも遠い世界の出来事のはずだった。よもや、自分達の目前で同じような事故が起きるとは!

 ところでこの事故、橋脚があっさり破壊されてしまった原因は何だったのだろう?

「雪崩でしょ」。それはその通りなのだが、悪い偶然も重なっていた。この時の雪崩の雪の量は5,000平方メートル。まあ規模としては普通なのだが、これがが雪崩防止柵の鉄のレールを叩き壊してしまい、さらにそのレールが、橋脚をピンポイントで破壊してしまったのである。

 橋脚にも問題はあった。

 筆者は専門家ではないので上手くは説明できないが、コンクリートというのは砂利、砂、水の混合物であるため、比重の重い砂利や砂は下に沈む。そのため当然、反対に水っぽくなる部分もある。その状態でコンクリが固まると、どうしても強度に差が生じるらしい。

 で、水っぽいコンクリが固まった部分にさらにコンクリートの塊を繋げると、その接続部分の強度は心もとなくなる。この事故で破壊された橋脚は、まさにその部分をスパッと切断されてしまったのである。

 事故はこのようにして起きたのだった。人々が茫然と見守る中、客車を包んでいく炎はみるみるうちに延焼し、今度は水没した貨物列車の方に引火して数回の爆発を起こした。

 駆けつけた人々は、その場で跪いて合掌するしかなかった。40名以上の者たちが、救出活動を行うこともできないまま雪の上に平伏していたという。

 死者16名、死者30名。開通したばかりで、気象に対する経験が足りなかった路線の悲劇であった。この事故の後、現場の山の斜面には雪崩を分断するための分流堤が設置されている。

 また玉川口駅から駅員たちが駆け付け、平伏していた(と思われる)場所には、今でも慰霊碑が建っている。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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