目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
山陽本線特急列車脱線転覆事故(1926年)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
山陽線列車脱線転覆事故(1938年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
横浜港ドイツ軍艦爆発事故(1942年)
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
京都駅将棋倒し事故(1934年)
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)
ラブパレード事故(2010年・ドイツ)
航空機事故
トランスワールド航空800便墜落事故

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逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)

 ミステリ作家コーネル・ウールリッチの作品に『九一三号室の謎 自殺室』という短編がある。ニューヨークのとあるホテルの913号室に泊まった客が、毎度毎度謎の飛び降り自殺をするというので探偵役が調査を始める――というものだ。

 で、今回ご紹介する事故は、なんだかそれを彷彿とさせる。

 時は大正時代の末。東海道本線の東京―神戸間にある逢坂山トンネルと東山トンネルでは、なぜか多くの乗客が走行中の列車から墜落し、そして死亡していた(当時、丹那トンネルはまだ開通していない)。

 鉄道当局としては、最初は飛び降り自殺かカーブで振り落とされたかのどちらかだろうと考えていたという。だがあまりに死者が多いので調べてみたところ、驚くべき原因が分かった。

 その原因とは、煙だったのだ。

 長大トンネルを走行していると、機関車から噴き出す煙はどうしてもトンネルにたまる。列車が煙よりも早く走れればいいのだが、たまたま追い風だったりすると最悪で、走る機関車に背後から煙がまとわりついてきたりする。それにまた、昔のトンネルというのは、今と比してまたえらく狭く煙もたまりやすいのだ。

 というわけで、トンネル走行中にデッキにいた乗客は煙を吸い、意識が朦朧として転落してしまうのだった。

 これを受けて、鉄道省では煙の排出のために、トンネルの両端に強力扇風機を設置したという。

 この事故の顛末が、『東京日日新聞』で報道されたのが1926(大正15)年2月1日のことだった。しかしこの2年後には、機関車の煤煙が原因で起きた事故としては最悪のものである「柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故」が発生することになる。

 鉄道が「汽車」であった時代、現代人には想像もつかないような課題と苦労があったのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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山陽本線特急列車脱線転覆事故(1926年)

 昔は、大惨事の記憶を「歌」によって残そうとする習俗があったのだろうか。今回ご紹介する事故も、以下のような形で歌われている。いつもの『事故の鉄道史』に載っていた。

 

列車転覆の歌

作詞 秋月四郎(地元の歌人)

 

一、ああ大正は十五年 時は九月の廿三夜

      山陽線は安芸中野 聞くも哀れな大惨事

二、知るや知らずや黒けむり 特急列車は轟然と

      数多(あまた)の旅客を打ち乗せて 全速力で進行中

三、如何なる神の戯れか にわかに豪雨が襲いきて

      かの恐ろしき激流に 無慚(むざん)や列車は転覆す

四、狭き車内の負傷者は 阿鼻叫喚の修羅の声

      親は子を呼び子は親を 呼びつ呼ばれつ雨の中

五、救いを求むる哀れさに 中野の村の人々は

      村長三戸松初めとし 救助の道を施せり

六、数多旅客のその中に 鹿児島市長上野氏は

      ひとり子篤孝諸共に 無惨な惨死を遂げにけり

七、上り下りの汽車の笛 ひとと哀れを告げにけり

      三十余名の霊魂は 中野の村雨とこしえに

 

 余談だが、作詞した秋月四郎という人は、かの「ヨサホイ節」を全国に広める火付け役となった人らしい。何者だろう。

 

 ともあれ、こういう事故である。人呼んで山陽本線特急列車脱線転覆事故は、1926(大正15)年923日、山陽本線の安芸中野駅~海田市駅間で発生した。

 

 この年は、風水害の当たり年でもあった(※)。特に9月は、11日に広島市で集中豪雨による甚大な被害が出るなど、ひどかったらしい。「らしい」というのは、さすがに90年以上前の出来事とあって、ネットで調べた程度では記録がほとんど見つからなかったからだ。まあ地元の郷土資料などにあたれば詳細も分かるのだろうが。

 

 (※参考資料『事故の鉄道史』によると、この年、愛知県豊橋市では某小学校の校舎が水害によって倒壊し、児童15人が死亡した事故が紹介されている。大変気になる事例である。この事故が起きたのが事実なら詳細を知りたいのだが、とにかく情報がない。どなたかご存じでないだろうか……。)

 

 今回ご紹介する事故も、この風水害の影響で発生した。しかしこの事故だけはしっかり記録に残された。それほどの重大事故だったのだ。

 

 事故が発生したのは23日。その前日の22日には、事故の現場となる地域でも雨が降り出し、これが午前23時頃に豪雨に変貌した。この雨で、周辺地域の畑賀村(現在の安芸区畑賀)で36名が、中野村(現在の安芸郡府中町)で3名が亡くなっている。

 

 災禍に見舞われることになる下り特別急行列車第一列車が、東京駅を出発したのは22日午前のことだった。資料によって、9時半とか8:45分とか書いてある。これは28977号蒸気機関車が11両の荷物車と客車を牽引する形で走っており、以下のような経路を辿っていった。

 

 22日、2012分に大阪駅に到着。20分発。

 23日、広島県の山陽本線糸崎駅を午前146分に出発して広島駅へ。

 広島県安芸郡中野村にある、安芸中野駅を、定刻よりも3分遅れの32830秒に通過――

 

 そして、列車はこの後に脱線転覆してしまうのだが、実は事故直前に、安芸中野駅の少し先の方では、畑賀川の増水により、溢れた水が線路を支障しているのが発見されていた。水が線路の築堤に溜まり、盛土が崩れ出していたのだ。これを見つけたのは、地元の中野村消防組(当時の消防団にあたる)のHである。

 

「これはヤバイ、安芸中野駅に知らせなければ!」

 

 彼は駅へ駆け出した。

 

 そこへ、328分に安芸中野駅を発車したばかりの特急列車がやってきた。ヘッドライドがこちらに驀進してくる……。提灯を持っていなかったHは、差していた番傘を必死になって振った。しかし見えるはずもない。

 

 こうして午前330分、特急列車は脱線転覆した。Hが、事故の瞬間そのものを目の当たりにしたかどうかは定かでない。

 

 実は、このたった5分前には、貨物列車が何事もなく現場を通過していた。盛土が崩れたのはその直後だったのだ。実に不幸なタイミングである。もしも、事故った列車に3分の遅れがなければ、惨劇は起きていなかったかも知れない。

 

 Hは色を失い、安芸中野駅に向かって走った。すると駅の手前で安芸中野丁場線路工手組頭の男性と出くわした。以下は、時系列を分かりやすくするためのエア会話である。

 

H「大変だ、この先で列車が脱線した!」

組頭「なんだと。今の時刻だと、貨物列車と特急列車が続けて通過したはずだが、どっちもか?」

H「いや、脱線したのは特急列車の方だけだ。貨物列車は無事に通過している。その直後に線路の盛土が崩れたんだ!」

組頭「なんてタイミングだ! 俺は今、川の増水について駅に報告に来たところだったんだ。危険な場合は列車を止めようって決めたばっかりだったんだが。そういえば、俺が電話で話している324分には、貨物列車が通過したっけ。あれは無事だったってことか。そしてその直後に通過した特急が脱線した……

H「で、あんたはどうして外に出てきたんだ」

組頭「駅長に言われたんだ、様子を見てこいって。特急列車が駅を通過して2分かそこらで、遠雷みたいなすごい音が聞こえたんだよ。あれが脱線事故の音だったんだな」

 

 豪雨で差し迫った状況の中、事故はタッチの差で発生していたことが分かる。

 

 鉄道関係者は即座に対応した。先のHと組頭は前後の列車の停車の手配と、上部機関への連絡を行っている。またHは機転を利かせて、駅の近くにある専念寺という寺で梵鐘を突いて仲間を呼び寄せた。非常時に通常使われる半鐘は、駅から距離が遠すぎたのだ。これにより、200名の消防組員が迅速に集まった。

 

 ところで。

 

 この事故に遭遇した特急列車だが、これは当時の時代状況を反映したかなり特殊な造りの車両だった。発生した事故そのものとは直接関係ないが、その出自は日本の近代史に深く関わっており、事故を少し広い視野で見るための豆知識にはなると思う。簡単にご紹介しておきたい。

 

 この特急列車の正式名称は「一、二等特別急行列車」といった。日本初の特別急行列車として、1912(明治45)年615日に運行がスタートしたものである。

 

 日露戦争後、日本は大陸への膨張政策を採り始めた。これに合わせて下関から釜山へ連絡船が運航され、それが朝鮮総督府鉄道とシベリア鉄道と連結し、中華民国・パリ・ロンドンに至ることで、国際連絡運輸の態勢が整っていた。先述の「一、二等特別急行列車」はこうした動きに対応すべく造られた超高級列車で、国際連絡の一翼を担う形で運行されていたのである。

 

 ちなみに、現在の公益財団法人日本交通公社の前進であるジャパン・ツーリスト・ビューローが設立されたのも1912(明治45)年のことだ。

 

 この特急列車がどれくらい豪華だったかというと、最後部の一等展望車には貴賓・高官用の特別室が設けられ、豪華な彫刻や飾りつけが外国人の目を引いたという。また、当時としては珍しかった「洋食堂車」が連結された上、接客は英会話ができる青年が行うなど、その設備やサービス内容は当時の最高水準ともいえるものだった。

 

 これが、無惨にも脱線転覆したのだった。

 

 先述の通り、列車は全11両編成。このうち、まず機関車が海側に倒れ、荷物車だった一・二両目も原型をとどめないほど粉砕された。そこへ、客車である三両目が食い込んで大破。続く四・五両目は折り重なって転覆大破し、さらにこの五両目に六両目が突っ込んだ。七両目以降は惨事を免れた()。

 

(※記録によると、一両目は「増」の荷物車。よって厳密には、事故った二~六両目は「15号車」として番号がふられている)

 

 大破した客車はいずれも「二等車」あるいは「二等寝台車」で、当時の乗客108名中75名がこれに乗車していた。そしてこのうち、即死者と、後に死亡した者を合わせて34名が犠牲になった。

 

 高級列車とあって、犠牲者の中には、当時の鹿児島市長や三菱造船常務取締役、日本メソジスト教会伝道局長など社会的地位の高い人物も多くいた。

 

 とにかくひどい惨状だったようだ。救援には、広島保線事務所から派出された約200名のほか地元の消防組、在郷軍人会、青年団など、あわせて2千名が駆け付けたが、手の付けようがないほど現場はめちゃくちゃだったのだ。

 

 また、広島運輸事務局からの連絡で、広島治療所の医師と看護婦、市内病院の医師、看護婦、開業医が救援列車で駆け付けている。さらに駅周辺の開業医や、その他の病院の医師も加わった。

 

 遺体は損傷がひどいものが多く、最寄りの専念寺へ収容された。事故発生直後に、消防組のHが梵鐘を鳴らしたあの寺である。

 

 負傷者や、無傷の者は広島へ送られていった。遺体収容は翌日24日までかかり、自宅に送られたものも、遺族の希望で広島で荼毘に付されたものもあった。

 

 復旧工事も進められた。広島や瀬野から、工具資材を積んだ復旧作業用列車が駆け付け、小倉や下関の工場からも技工が派遣されている。現場では転覆した車両をどかす作業が進められたが、食い込んで噛み合ってしまった車両を引き離すのはかなり難儀したようだ。その他、客車や炭水車はガス切断などの方法で分断されて回収されている。

 

 当時の鉄道大臣は、慰問と現地視察のため、26日の未明に第一特急列車で広島へ駆け付けた。また鉄道省は、翌月の10月初めには弔慰金の支出を決定。犠牲者の社会的身分を考慮し、死者には5千円を、負傷者には2千円を限度として個々に支出した。

 

 裁判では、以下の三名が起訴されている。

 

1・門司鉄道局広島保線区の主任事務取扱

2・広島保線区海田市駐在所の保線助手

3・海田市駐在所安芸中野丁場の線路工手組頭

 

 このうち1は、水害のあとで線路に応急工事を施したものの、その後は警戒の措置を何も講じなかった……とされた。

 

 また2は、22日の夕方に、3に対して、受け持ちの範囲内にある橋と線路の巡回を命じただけで自分は仮眠し、豪雨のため危険な状況になっていることに気付かなかった……とされた。

 

 そして3は、2の命令を受けて巡視警戒をしたり、手堤信号などで汽車を止めるべきだったが、電話連絡に手間取ってそれらの任務を怠った……とされた。

 

 参考資料『事故の鉄道史』によると、少なくとも1は大審院で破棄無罪となった、とある。これが昭和3127日のこと。23がどうなったかは不明である。

 

 事故が発生した築堤は、その後、鉄路の安全確保のために工夫がなされている。盛土にすると大雨で崩壊してしまうので、ならば水の逃げ道を用意しよう、ということになった。築堤のかさ上げと合わせて、約20メートルの鉄橋が架設されたのだ。この鉄橋の写真はウィキペディアでも見ることができる。一見すると下に道路も水路もない奇妙な橋だが、洪水の際、下の空間から水が抜けられるようになっているのだ。

 

 何の情報もないまま見れば、ごく普通の風景写真である。しかしこの風景にも、34名が死亡した大惨事の歴史があるのだ。

 

 犠牲者を悼む慰霊碑は、遺体が収容された専念寺に建立されている。梵鐘の形をした慰霊碑の上に仏像があり、その仏像の台座に、犠牲者の氏名が刻まれている。

 

 さて、この事故は、日本の鉄道車両が「木造」から「鋼製」へと変わっていく大きなきっかけとなった。

 

 もともと、この事故が起きた頃というのは、鉄道の客車を、頑丈な「鋼製」へ変えていこうという機運が高まっていた時期でもあった。

 

 木造の車両は、はっきり言ってもろい。1920年代には、アメリカを始めとする鉄道先進国ではこのもろさが既に問題となっていた。ひとたび事故れば木材が裂けて死傷者が増えるのも問題だったし、車両の長さを伸ばして速度も向上させていくには、木造ではとても強度が間に合わない。鋼製車両への切り替えは世界の趨勢だった。

 

 よって日本でも、前々からそういうことは言われていた。ただ木造の方が軽くてイイという意見は根強くあったようで、そのためかどうか、当時の鉄道省は1927(昭和2)年度の新製車両計画において、もともとあった600台の客車のうち半分を半鋼製車にする予定を立てていた。全部、ではなかったのだ。

 

 ちなみに半鋼製車両とは、台枠、側構、外板が鋼製で、天井、内羽目などの車内の仕上げを木製にしたものである。それら全てを鋼製としたものを全鋼製車両というらしい。

 

 そこへきて今回の事故が発生し、ダメだ半分なんてケチケチせずに、一気に全車両を鋼製にしよう! ということになった。一般的には、事故がきっかけでいきなり木造車両の見直しが始まったかのように思われているらしい。だが実際にはそうではなく、前から案が出ていた鋼製への総とっかえを、この事故が後押しした形だった。

 

 このような経過を経て、車体を鋼製とした、いわゆる国鉄オハ31系客車などが誕生した。

 

 事故に見舞われた特急列車一・二列車はその後も運行され、1929(昭和4)年には鉄道省の公募により「富士」の愛称がつけられた。さらに翌1930(昭和5)年にかけて、それまでの木造車両は鋼製車両へと交換された。

 

 余談も余談なのだが、この時に作られた一等展望車の内装デザインには2種類あったそうで、そのうちの片方が「白木屋式」と呼ばれていたとか。なんでも、同じ時期に新築された白木屋百貨店の内装デザインとと似ていたらしい。事故災害のことをいろいろ調べて書いていると、なぜか白木屋百貨店の名前があちこちで登場するので驚く。

 

 「富士」は、その後もシャワールームが設置されるなど相変わらずの高級ぶりで運用され、輸送量の増大に伴って車両の規模もどんどん大きくなっていった。だが戦争の激化により一部の車両は輸送力増強のため通常使用がままならくなり、1944(昭和19)年には運行中止となった。儚い。

 

【参考資料】

◆佐々木冨泰・網谷りょういち『事故の鉄道史-疑問への挑戦』(日本経済評論社、1993年)

◆ウィキペディア


柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)

 煤煙による窒息事故である。

 念のため言っておくと、「煤煙」というのは機関車が走る時に煙突から吹き出すあの煙のことだ。これが原因で発生した事故は以前にもご紹介したが、今回のは最大の被害が出たケースである。

 この事故、死亡者数こそ3名と少なめであるものの、他の乗務員や救助者もほぼ余すところなくバタバタと倒れており、死亡者3名で済んだのも間一髪だったことが分かる。おそるべきケースである。

 

   ☆

 

 1928(昭和3)年12月6日のことである。

 北陸線敦賀駅から0時37分に発車した貨物列車があった。これは全部で40両の貨車からなっており、先頭と一番後ろにそれぞれ貨物用機関車がついていた。型式は、当時としては最強の馬力を残る機関車である。

 この列車、疋田(ひきだ)駅までは時間に遅れもなく順調だった。だがこれを過ぎた辺りから調子が悪くなった。山間部に入って雪が急に増えたのと、勾配がきつくなったことが原因となり、車輪がシュルシュルと空転し始めたのだ。

「なんだ、調子悪いな。まあ仕方ないか」

 乗務員は皆、そう思ったことだろう。疋田駅から柳ケ瀬トンネルまでの区間は25‰(パーミル)の急勾配になるのだ。

 その上、2日前には鯖江駅で貨物列車の事故が起きており、この日はそのしわ寄せが来ていた。師走でただでさえ多い輸送貨物がさらに増えていたのだ。定められた限界量もすでに超えており、機関車が進まなくなるのもむべなるかなだった。

 だが乗務員には「勝算」があった。

「なに、曽々木トンネルを抜けるとしばらく平らになるから大丈夫だよ。そこで勢いをつけよう」

 そう。この先にある曽々木トンネルを抜けると、しばらくは平らな地面が続くのである。機関車はそこで力を蓄え、あとはその先にある柳ケ瀬トンネルを一気に通過するのが習わしだった。

 しかしこの日は完全に当てが外れた。曽々木トンネル以降の水平の区間でも、またしても機関車は空転を繰り返したのである。おかげでその先の刀根駅に到着した時はすでに予定を3分遅れていた。

 さあ、ここから柳ケ瀬トンネルまではあと1.5キロ。本当に大丈夫なのかね?

 とにかく列車は進んだ。柳ケ瀬トンネルに入れば、あとはトンネル内の1.3キロを走るのみで、その先はもう下り勾配である。もうひと息辛抱すれば大丈夫だという気持ちで、乗務員たちは機関車を先へ進ませたのだろうか。

 だが事態はますますひどくなる。柳ケ瀬トンネルまでの1.5キロの間にも空転は激しくなり、速度は時速8キロにまで落ち込んだ。

 ハアハア、ゼイゼイ。機関車の息切れと乗務員の苛立ちが伝わってくるようだ。結局、トンネルまでの1.5キロを14分かけて進み、やっと列車はトンネルに入っていった。

 さあ、ここからがこの世の地獄である。スピードは牛歩戦術もいいところ、それなのに煤煙だけはしっかりまき散らすのだからたまらない。トンネル内はもちろん、機関車の運転室もたちまち煙で真っ黒になった。

 しかも、トンネル内でもスピードは落ちる一方。そこへ来て当時は追い風で、吐き出された煤煙は背後から列車にまとわりついてくるのだから、もう悪条件の揃い踏みである。ついに先頭の機関車の乗務員は全員が窒息、昏倒してしまった。

 そこは、トンネルの出口まであと25メートルという地点だった。運転手は昏倒する直前、本能的にブレーキをかけてトンネル内で列車を停止させた。これはまったく妥当な措置だった。そうしないと機関車が力を失い、貨物列車は自由落下で逆走していたところだ。

 列車が停止したので、一番後ろの機関車の指導機関主、後部車掌、荷扱手、前部車掌、荷扱手らは外へ飛び出し、直近の信号所へ助けを求めに行った。

 彼らが目指したのは、トンネルを抜けた先にある雁ケ谷信号所である。ところがこのメンバーも煤煙を吸い、トンネルを出る前に力尽きて倒れた。

 雁ケ谷に停車していた下り貨物列車は、この異変に気付くとすぐ行動を開始した。12時8分、機関車だけを外して救援に向かったのだ。

 この機関車はまず、トンネル内で立ち往生していた上り貨物列車に連結。そして、列車がもと来た方向へ押し出していった。雁ケ谷側に引っぱり出した方が早かったんじゃないかとも思うのだが、恐らく馬力の問題があったのだろう。柳ケ瀬トンネルは雁ケ谷に向かって上り勾配だったわけだから、なるほど雁ケ谷方向からは押し出すほうが簡単な道理だ。

 ところが、列車を押し出している間に、今度は救援機関車に乗っていた2人も窒息し昏睡状態に陥った。二次災害である。

 結果、3名が死亡し9人が負傷と相成った。死亡したのは、トンネル内から徒歩で脱出し救援を求めようとした乗務員たちだった。

 事故原因はまあ、ここまで書いた通りである。荷物が多すぎ、レールの雪で滑り、追い風で煙がまとわりついたためだ。

 だが『事故の鉄道史』ではここでさらに突っ込み、トンネルの狭さも事故の原因だったのではないかと述べている。柳ケ瀬トンネルが建設された明治前半期は、大型の機関車がトンネルを通過することは考えられていなかった。想定されていたのはあくまでも小型の機関車だったのである。そんな時代遅れのトンネルに、近代的な大型機関車が入るようになったのだから煙がたまるのも当たり前やんけ、というわけだ。

 柳ケ瀬トンネルの工事が決まった当時、明治政府は逢坂山トンネルを建設中だった。日本初の山岳トンエンルである。これがうまくいきそうなので政府は変な自信を得てしまったらしく、設計図をそのまま流用したのだ。

 そしてその後、逢坂山トンネルの方は機関車が大型化される前に別のルートに変更された(これが、以前紹介した連続墜落死事故より前なのか後なのかは不明)。だが柳ケ瀬トンネルは、事故後に排煙装置がつけられたとはいえ、こんな具合で1964(昭和39)年まで使われていたのである。このへんの事情を知ると、『事故の鉄道史』の指摘ももっともだと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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久大本線ボイラー爆発事故(1930年)

 事故の経緯は、まず以下の通りである。

 1930(昭和5)年4月6日のこと。福岡と大分にまたがる久大本線(きゅうだいほんせん)の鬼瀬駅と小野屋駅の間の上り坂を走行していた機関車が、大爆発を起こしたのだ。

 時刻は12時10分。この爆発に巻き込まれて、客車に乗っていた22名(ウィキペディアでは23名)が死亡した。犠牲者の状態はそれはもうひどいものだったらしく、全員がもれなく重度の全身火傷。中には、手の皮が手袋のようにすっぽり抜けてしまった者もいたというから、まるではだしのゲンである。

 今まで誰も見たことがないような大惨事である。原因の究明と「犯人探し」が始まり、起訴されたのは機関手と機関助手の2名だった。

 詳しい説明は後述するが、要するに機関助手の不手際で機関車がおかしくなり、中に詰まっていた熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだと考えられたのだ。また機関手は、機関助手を監督する立場にも関わらず、それを怠ったと見なされた。

 しかしこの事故は、上述のような結論がすんなり出たわけではない。原因究明の段階でかなりの混乱があったようだ。

 たとえば、事故直後にはなんの脈絡もなくダイナマイト爆発説が唱えられた。また鉄道局が「なんだかよく分からないが機関車の点検に落ち度はなかった!」と主張すれば、鉄道員たちは「安月給でこき使っておいて、いざとなると罪をなすりつける気か! もっとちゃんと調査しろ!」と吠える始末。で検察はといえば「機関車の構造なんて知るか、専門的すぎてわけわかんねーよ。いま慎重に調査中だよ!」とコメントするばかりだった。

 なぜこんな混乱が生じたのか、その理由も後述するが、とにかくそれくらい不可解な事故だったのである。

 そんな状況にもかかわらず、大分地方裁判所の判決がしれっと下されたのは、ほぼ2年後の昭和7年6月18日だった。過失傷害致死罪と過失汽車破壊罪で機関助手が禁固3カ月、機関手が禁固2カ月というものだった。上告がなされたものの、大審院は11月8日に上告を棄却し刑が確定した。

 

   ☆

 

 さて、事故が発生したメカニズムについて、さらに細かく見ていこう(と言っても大まかだが)。

 まずこの図を見て頂きたい。

 

 

 かなり大ざっぱな、機関車の構造である。

 先に「機関助手の不手際」でこの事故は起きたと書いたが、具体的に何が不手際だったのか。図で言うと「火室(かしつ)」の部分の取り扱いである。

 ここは要するに、蒸気機関車を動かすために石炭をガンガンぶち込んで、火をボーボー燃やす場所だ。大まかに言うと、ここで発生した熱が湯を沸騰させて、その蒸気で機関車は動くのである。

 読者諸君も、テレビなどでも見たことがあるのではないだろうか。機関車内で、スコップを持った人が、暖炉みたいな箱の中に石炭を放り込むのである。あのスコップを持っているのが機関助手、そして助手を指導しながら機関車の操作を行うのが機関手だ。

 さてこの「火室」だが、密閉された箱の中で石炭をガンガン燃やし、最高で1,500度まで上がる。よってそのままでは火室そのものが壊れてしまうので、火室の上は常にお湯で満たされている。

 つまりヤカンと同じである。空っぽのヤカンを火にかければ「空焚き」でヤカンが壊れるだろう。だが水を入れて火にかければヤカンは壊れず、お湯が沸騰するだけで済む。これと同じだ。火室の上部の空間には、沸かされたお湯と水蒸気が溜まっており、このお湯のおかげで火室は壊れずに済むというわけだ。

 では万が一、何かの拍子に火室上部の水が足りなくなったらどうなるか? 例えば今回の事故のように、機関車が急な登り勾配にさしかかった場合など、そうなることが考えられる。機関車そのものが傾けば、火室の上部の「天井板」が水面からむき出しになってしまうわけで、そうすれば空焚きである。

 すると、機関車は爆発するのだ。それも大爆発。マジで機関車も乗務員も原形をとどめないほどバラバラになってしまうのである。

 もちろんそうならないように、対策はなされている。火室の「天井板」のことをクラウンプレート、あるいはクラウンシートというが、このプレートには「溶栓」「熔け栓」「レッドプラグ」「ヘソ」などと呼ばれるネジみたいなものがねじ込まれている。

 このネジ、例えるなら、穴にチーズの詰まったちくわのようなものだ。

 クラウンプレートが異常な高温になると、このちくわの中のチーズが溶ける。そして穴を通して、火室にの上にたまっていたお湯が流れ出すのである。それは火室の中に降り注ぐ。

 つまり、機関車が爆発する前に、火室の温度を下げてしまうという仕掛けだ。

 なるほど、それなら機関助手も安心していられるね! ……とも言ってはいられない。このちくわを溶かしてしまうということは、機関助手にとっては最大の恥なのである。なにしろ火は小さくなるし、溜まっていた蒸気も水と一緒に出てしまうので、機関車はもう止めざるを得ない。こうなったらもう大失態である。

 だから機関助手は、細心の注意を払って「水面計」というメーターを常に睨んでいなければならない。火室の上の水が少なくならないよう、これでチェックするのだ。

 で、ようやく事故の話になるのだが、もう大体お分かりであろう。機関助手の不手際というのは、この火室の上の水を減らしてしまい、空焚きを行ってしまった点にあった。

 経過はこうである。裁判記録によると、鬼瀬を12時6分に発車した機関車が1,300メートルほど進み、25‰の上り坂に入ったところで機関助手が異常を発見した。先述したちくわのチーズにあたる部分が溶けて、ちくわの穴から蒸気が漏れ出しているのに気付いたのだ。

 まあ単純に考えて、上り勾配に差し掛かったため水面も傾いてしまい、クラウンプレートがむき出しになった部分があったのだろう。どうやら水面計のチェックも漏れていたらしい。

 爆発が起きたのは、水漏れに気づいてからほんの数秒後の出来事だった。幸いだったのは、破裂したのは機関車そのものではなく火室だけで済んだということだった。機関助手と機関手は、軽い火傷で済んだようである。そのかわり客車はえらいことになったわけだが――。

 では爆発自体はいいとして、膨大な死者が出た客車内では一体何が起きたのだろう。これが鉄道省、検察、裁判所を大いに悩ませた。

 状況を見れば、爆発によって機関車の正面が吹き飛び、そこから噴出した熱湯と蒸気が客車に注ぎ込んだとしか思えない。類似の事故も過去になくはない。だがそれでも、今回のは被害者たちの火傷の状態といい、その規模といい、あまりにもひどすぎた。本当に熱湯と蒸気だけのせいなのだろうか?

 さてここで、「あれ、変だぞ?」と思われた方もおられよう。そう、今の説明では、蒸気機関車の正面が爆発で吹き飛んだことになる。しかし客車というのは機関車の後ろについているはずだ。正面から水蒸気と熱湯が噴き出したのなら、客車に被害が及ぶはずがない。

 そこで、事故当時の列車について説明が必要になるのである。実はこの列車、先頭の機関車が通常とは反対向きに連結されていたのである。こんな具合だ。

 

 

 昔の機関車は、ごく稀にこういう形で走行することがあった。ある地点からUターンして走行するにもかかわらず、方向転換のための設備が整っていない場合である。当時の鉄道員の間で「バッキ運転」と呼ばれていた方式だった。

 だから、機関車の前部が吹っ飛んだことで、後方にあった客車に被害が及んだのだ。

 客車で何が起きたのかについては、けっきょく不問に付される形になった。うやむやの結論のまま、とりあえず機関手と機関助手が罰せられて事態が収束したのは、先に書いた通りである。

 さあ、ここからが謎解きである。

 以上の事柄を踏まえて、この事故の謎に挑んだのが『事故の鉄道史』の作者である佐々木冨泰と網谷りょういちの二者である。

 佐々木と網谷は、まずこの事故にまつわる疑問をまとめた。それは以下の通りだ。

1・水蒸気だけで、機関車を吹き飛ばすほどの圧力が発生するのか?
2・熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだだけで、全員が一様に死亡するような結果になるだろうか?
3・爆発音は二度上がっている。二度目の爆発とはなんなのか?

 佐々木と網谷は検討を重ね、この爆発事故は裁判で認定されたような単純なものではなく「水性ガス」によるものだと結論を出した。

 「水性ガス」とは何かというと、赤熱したコークスまたは石炭に、水蒸気を吹き付けると発生するガスである。水素と一酸化炭素の混合ガスで、最近は合成ガスという名前で呼ばれているという。

 この水性ガス、液化天然ガスの輸入が始まる前までは頻繁に用いられていたらしい。しかし事故当時の昭和5年頃の日本ではほとんど知られていなかった。

 正直、筆者は化学はちんぷんかんぷんなのだが、ついでなので化学式も引用しておこう。

 

 C+H2O=2H+CO

 

 この化学反応式は、赤熱した炭素を水蒸気があれば常圧で反応する。そして発生した水性ガスは、空気中の酸素と混じり、着火源があれば、次の化学反応式のように燃焼(爆発)して水蒸気と炭酸ガスになる。

 

 2H+CO+O2=H2O+CO2

 

 つまり、こういうことである。事故当時、火室の空焚きによって、先述したようなチーズ入りちくわの溶解が起きた。それでちくわの穴から大量の水蒸気が吹き出て、火室内の石炭に降り注いだのである。そこで水性ガスが発生した。

 火室の中は、水蒸気のため酸素が外へ押し出されており、ここではガスと酸素が結びつくことはない。

 だがガスはボイラーの煙室を通って(前々図参照)機関車の前部に流れ込み、そこで酸素と結び付いた。そして煙室にたまった高熱の燃えカスから引火し、爆発した。

 これが一度目の爆発である。これにより、機関車の前部がまず吹き飛んだ。

 だが裁判では「爆発音は二度あった」という証言があった。単なる火室の爆発なら爆発音は一度だけのはずだ。この、二度に渡る爆発音というのは推理する上での重要な手掛かりであり、また事故の原因が水性ガスであることを示す傍証だった。

 一度目の爆発のあと、機関車から客室へとガスが流れ込んだのだ。これが二度目の爆発を引き起こし、悲劇を招いたのである。

 水蒸気と熱湯による被害であれば、被害者たちの火傷の状況は座席位置によって変わってくるはずだ。だがこの事故はガス爆発だったからこそ、全員が一様の大火傷を負ったのである。『事故の鉄道史』によると、ガス爆発ならば一瞬で1,000度にもなるという。

 ガス爆発が起きたことを示す傍証は他にもあった。爆発現場の周辺の雑草がかなりの範囲で焼け焦げたという記録があったのだ。熱湯と水蒸気だけでこのようなことは起きるとは思われず、爆発により火炎が上がったと考えるのが妥当なのである。

 もっとも、水性ガス爆発などという珍しい現象がなぜこの時に限って発生したのか、その根本的な理由は分からずじまいである。普通――という言い方はおかしいかも知れないが――とにかくこの手の事故では、普通は機関車が停止するか爆発するかのいずれかしかない。なぜそうではなく水性ガス爆発だったのか、その点だけは謎のままである。

 とにかく結果として水性ガス爆発が起きたと、そういうことだ。

 

   ☆

 

 そしてここからは、まとめである。

『事故の鉄道史』の記述は、ちょっとした推理小説を読んでいるようで面白いのだが、サッと読んだだけでは「で、水性ガス爆発だったからそれがどうしたの?」と思えなくもない。この推理の結果、事件の構図がどう変わってくるかが解説されていないのだ。

 よってここで最後に、筆者なりに少しまとめてみようと思う。この事故の原因が水性ガスなのは分かった。では「それがどうした」のかというと、この事故の裁判結果は、冤罪とまではいかずとも誤判の可能性があるということだ。

 そもそもこの事故、明らかに最初から最後まで混乱とうやむやの中で片付けられているのである。

 なんで機関車の火室が破裂しただけでこんな大惨事になったのかが誰も分からず(だからこそダイナマイト説などというのも飛び出してきたのだ)とにかく火室を破裂させたのは機関助手のせいなんだから、こいつブチ込んでおけばそれでいいじゃん! というノリで結論に至っているようにしか見えない。

 まあ当時、水性ガスの爆発に誰一人思い至らなかったのは仕方がない。だがそれならそれで、今になってみると、この事故の結論は「なぜあれほどの被害になったのかは不明」としておくべきだったことが分かる。たぶん熱湯と水蒸気が原因だったのだろうという適当な推測よりも、一体何が起きてこんな大惨事になったのかサッパリ分からない、という混乱のほうが正しかったのだ。

 人々が死亡したのは、誰も予測できず、また理解もできないようなことが起きたからなのだ。だから、責任のすべてを機関助手と機関手に負わせるのは不当だったと言える。彼らは事態収束のための生贄にされたといえる。

 この事故には、運が悪かったとしか言えない要素もあった。まず例のチーズ入りちくわだが、ここから水蒸気が漏れ出しているのを機関助手が発見して、わずか数秒後に火室が破裂したのは前述の通りである。だが数秒というのはあまりにも早すぎる。このチーズ入りちくわ、どうも当時は正常に機能していなかったのではないか。これが溶けるのが遅れたため、火室の破損も発見が遅れてしまったのだ。

 その上、機関車は「バッキ運転」だった。破裂によって流れ出したのが水蒸気と熱湯だけなら、機関車を突き破るほどの圧力があったとは考えられない。それが水性ガスだったため機関車は壊れ、そしてたまたま逆向きに連結されていた客車に被害が及んでしまったのだ。バッキ運転がなされていたこと自体が、こんな爆発事故が誰にも予測不可能だったことの何よりの証拠であろう。

 ちなみに鉄道省はこのバッキ運転について、事故直後には「こういう路線では止むを得ない」と述べていた。だがこの言葉もすぐに撤回され、Uターンが必要な路線の末端駅には必ずそのための設備(転車台)を設置することを原則としたそうである。この事故が残した唯一の教訓だった。

 ちょっと見ると、真の事故原因の解明など大した意味がないように思える事例である。だがこのように改めて考えてみると、当事者への責任の負わせ方について考えるための応用問題であることが分かる。機関車の構造や化学式には閉口してしまうものの、それなりに興味深いケースだった。

 

◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア

 

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瀬田川転覆事故(1934年)

 台風の歴史も調べると結構きりがないのだが、やはり有名なのは昭和の三大台風と呼ばれる室戸・枕崎・伊勢湾台風であろう。

 今回ご紹介する瀬田川脱線転覆事故は、室戸台風のさ中に発生した。マクロな視点で見れば台風による突風事故である。だがミクロな視点で見ると人間の不手際が目立ち、今では鉄道事故の一種として分類されている。

 

   ☆

 

 1934(昭和9)年9月21日のことである。

 東海道本線草津駅~石山駅間(現在の瀬田駅~石山駅間)の、瀬田川にかかった橋の上を列車が通過しようとしていた。

 この列車は、東京発神戸行きの下り急行で11両編成。記録によるとスピードは出しておらず、徐行していたそうだが、実はこの時は列車を運行するのには最悪のタイミングだった。

 滋賀県全域に室戸台風が襲来していたのだ。

 室戸台風――。最大風速31.2m/s、最大瞬間風速39.2m/sを記録することになる、化け物のような巨大台風である。

 こいつが県内で猛威を振るい始めたのが、21日の午前2時から午前4時の間のこと。そしてこの威力がもっとも強まったのが午前8時から9時の間で、先述の下り急行列車が瀬田川に差しかかったのが午前8時30分だったのである。これじゃ、暴風雨被害に遭わせて下さいと言っているようなものだ。

 もっとも、惨劇を防ぐチャンスは皆無ではなかった。通過駅ごとに、気象告知板(ホーロー板などに「暴風雨」とか「警戒」などと書かれたもの)がちゃんとあったのである。これに従って、運転を慎重にしていればよかったのだ。

 とはいえ戦前の話である。現代ならば異常があればすぐに列車を止めるだろうが、当時はどうだったのだろう。「異常があればとにかく運転を止めろ」というのは戦後の三河島事故以降のルールで、終戦より前の時代は逆に「汽車を止めるのは恥」と考えられていたというから、むしろ暴風雨の中でも汽車を進めていくほうが当たり前だったのかも知れない。

 さあ、列車が橋の上に差しかかった時である。風を遮るもののない橋梁で、室戸台風の強風が車両に襲いかかった。

 列車はたちまち脱線、一気に3両目以降の合計9両の客車が転覆してしまう。この現場の画像はネット上でも見ることができるが、9つの車両が綺麗に並んで横倒しになっている様は、なんだか可笑しくすら感じられる。

 だが笑ってもいられない。この脱線転覆によって11名が死亡し、169~202名ほどが負傷したのである(負傷者数は記録によってずいぶん幅がある)。

 さらに、倒れたのが隣の上り線の線路だったからまだよかったものの、これが逆方向だったらどえらいことだった。お分かりだろうか、場所は河川にかかる橋梁である。転覆の方向によっては、客車が水没して死者が十倍くらいに跳ね上がっていた可能性すらあるのだ。

 橋の上の脱線転覆事故というと後年の餘部鉄橋転落事故を思い出す。だがあれは、線路が一本しかなかったため、脱線イコール転落という絶望的な状況だった。それに比べると橋の上が複線になっていたこの瀬田川脱線転覆事故は不幸中の幸いだったといえるかも知れない(もっとも瀬田川のほうが死者数自体は多いのだが)。

 さてそれでこの事故、「脱線したのは台風のせいだ」という見方もあったようだが、京都地検はそうは考えなかった。事故を起こさないようにするチャンスがあったのに注意を怠ったということで、乗務員の過失を認定、起訴したのである。

 裁判がどういう経過をたどったのかは、残念ながら不明である。ネット上で調べた程度では、そのへんの資料は見つからなかった。

 ちなみに、室戸台風で事故った列車はこれだけではない。他にも、東海道本線・摂津富田駅の近くで列車が脱線転覆し25名が死傷しているし、野洲川橋梁では貨物列車が転落し水没している。さらに大阪電気軌道奈良線(現・近鉄奈良線)でも大阪府布施町(現・東大阪市)内での電車の脱線転覆が発生しているのである。

 こうやって見ると、どれも人災とはいえ、乗務員ひとりひとりの責任ではないような気がしてくる。要は全ての鉄道員の意識のあり方や、彼らに対する安全教育自体に問題があったのではないか。

 いわば、「暴風雨の中でも列車を動かす」ことは、鉄道員にとっては自然法則のようなものだったのである。原理ではないが原則だったのだ。

 ともあれこれらの事故がきっかけとなって暴風設備の研究が進められ、鉄道でも風速計が設置されるなどの措置が取られるようになったのだった。

 

【参考資料】

◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◇ウィキペディア

◇神戸大学電子図書館システム

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/da/

◇個人サイト『わだらんの鉄道自由研究』

http://www.geocities.jp/yasummoya/tetudou_index_1.htm

 

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