目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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呉市山林火災(1971年)

 山林火災――いわゆる「山火事」の中でも、戦後最悪とされる事例である。死亡者は全て消防隊員という、かなりショッキングな内容だ。

 

   ☆

 

 1971(昭和46)年4月27日、午前11時10分頃のことである。広島県呉市野呂山の一部である大張矢山(おおばりやさん)の民有林から火の手が上がった。

 もっと具体的に言うと、そこは「門の口用水地」という場所の付近だったそうな。当時、そこでは災害復旧工事が行われていた。作業員が火を焚いて湯を沸かしていたところ、近くの枯れ草に燃え移ったのだ。

 悪いことに、この日は乾燥注意報が出ていた。2日前から火災警報も発令されている。風も非常に強く、最大瞬間風速14メートル。炎は休耕中の農地に飛び火し、みるみる火勢を増した。木の枝などの燃えカスが舞い上がり、麓の町に降り注ぐ――。

 午前11時18分、消防に通報が入った。

 駆け付けたのは、呉市消防局東消防署の第一小隊16人。さっそく消火にあたったが、火勢が強すぎてどうしようもなかった。また当時の消防は、現代に生きる我々から見ると信じられないくらいに装備が不足していた。自治体でも重要視されておらず、予算を回してもらえなかったらしい。延焼を防ごうにも、使えるものは草刈鎌とナタとスコップくらいという有様だった。

 また、少々特殊な事情もあった。この市は昔から温暖で雨も少なく、山火事も多い。「山火事銀座」などというひどい呼び名もあったとかなかったとか。よって頻発する山火事への対応でてんてこまいで、人手も足りなかったのだ。

 人がいないんだから仕方がない。先述の16人の他にも、勤務明けで休んでいた職員や、非番だった者も特別召集された。その数18名。彼らは午前11時35分に第二小隊として編成され、現場に向かった。

 この18名が「全滅」することになる。

 現場に第一・第二小隊が集合すると、署長は第二小隊に指示。消火作業に向かわせた。

 この時、火災は掲山(あげやま)という山へ延焼しつつあった。このままでは、市街地に影響が及ぶ恐れもある。消防としては何としても防止線を作る必要があり、署長も第二小隊も急いでいたようだ。

 命令を受けた第二小隊。彼らは稜線を下り、谷の入り口へと入っていった。

 だが、そこで悲劇が起きる。突如として火炎が勢いを増し、予想だにしないスピードで第二小隊に押し寄せたのだ。

 それは「急炎上(flare up)」と呼ばれる現象だった。斜面の角度が40度を越える急斜面では、下っていく火炎のスピードが、その数倍に跳ね上がることがあるのだ。

 また、参考資料『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、この時に風向きが急激に変わり、ちょっとした竜巻のようになったらしい。

 第一小隊がいる位置からは、火炎が押し寄せるさまが俯瞰できた。彼らは色をなくし、第二小隊に向かって叫ぶ。

「第二小隊、戻れ、戻るんだ!」

 彼らが駆け下りていった方面には、伐採後の枝木や枯れ草、廃材、薪などが積み上げられていた。そこに火がついたらもう逃げられない――。

 レシーバーに向かって必死に呼びかける第一小隊。しかし応答がない。もうなすすべはなかった。彼らの見ている目の前で、谷の一帯が猛火と猛煙に呑み込まれていった。

 なぜレシーバーは応答がなかったのだろうか。これは、何かにぶつかってスイッチがオフになっていたのではないか、と考えられている。おそらく当時はそういうことが結構あったのだろう。今はネジ式だというレシーバーのスイッチ、当時は簡素なレバー式だった。

 谷が炎に包まれていく間、上空を飛んでいたヘリはその一部始終を見ていた。記録によると、飛び火によって林が一瞬にして焼き尽くされたのが14時45分のこと。そして15時49分には、現場に遺体が散在しているのが確認できたという。

 第一小隊が救助にあたったものの、16時2分には13名が遺体で発見。さらに19分には1名が重傷を負った状態で発見(後に死亡)、続けて、残る4名も遺体で見つかった。

 18名もの将来有望な消防士たちの命を奪っておいて、なお火災は鎮まらない。

 最終的に駆け付けた消防局職員は84名、派遣された消防車は109台、消防団員は400名に及んだ。さらにそこへ陸自隊員、海自隊員、営林署職員なども加わって、総勢1,900名がこの火災の消火活動にあたった。

 幸い、人家に延焼することはなかった。だが鎮火までには丸一日かかったという。雨のおかげもあってようやく落ち着いた頃には、すでに国有林115ヘクタール、市有林85ヘクタール、民有林140ヘクタール、合わせて340ヘクタールが焼き尽くされていた。

 死亡者総数18名。戦後の山林火災では最悪の数字である。しかも犠牲者は皆ベテランの消防士であった。

 実は、呉市消防局は、2年前の1969(昭和44)年にも山火事で消防士2人を失っていた。立て続けに仲間を失った消防隊員たちの悔しさたるや、想像するに余りある。

 この呉市山火事は大きな教訓を残した。まず、消火活動においては、局地的な気象条件も考慮に入れなければならないということ。そして地上からの消火は危険すぎるため、上空からの消火活動を可能にしなければいけない、ということである。

 こうして、全国の山間には風力計や湿度計が設置された。さらにまた、大規模な山火事においてはヘリの出動が常識となったのである。

 当時、こうした上空からの消火活動は一般的なものではなかった。呉市山火事においても、消火のために出動したのは民間機が一機だけであったという。

 現在この火災は、消防庁では「呉市林野火災」、また呉市消防局では「大張矢山林火災」などとも呼ばれている。

 

【参考資料】

◇ウィキペディア

◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年

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千日デパート火災(1972年)

 その日の夜、ホステスのA子はボックス席につき、お客の中年男性と一緒に盛り上がっていた。
 その客は今までにも2、3回この店に来たことがあった。今では立派な御馴染みさんである。
 地上7階にあるアルバイトサロン「プレイタウン」でのことである。
 プレイタウンの週末の夜は盛り上がる。週休二日制など夢のまた夢という時代、土曜の夜は仕事帰りのサラリーマンたちで賑わうのだった。
 ステージ上では、この日最後のショウが終わったところだった。バンドマンと踊り子が、拍手を受けながらいったん舞台の奥へと引っ込んでいく――。
 だがプレイタウンの人々にとってはまだまだ宵の口である。この後にもバンドの演奏は続き、プレイタウンの夜は更に盛り上がる、はずだった。
 時刻は22時40分のことである。ふと、バンドマンの演奏が止まった。
 それと併せて、店内もどことなく奇妙な雰囲気に包まれる。ステージの近くのキッチンあたりで、数名の人間がうろうろしているのだ。
「なんや?」
 プレイタウンの人々は、そちらに目を向ける。
 よく見れば、男性従業員たちは消火器を持ってきたり、バケツで水をかけているようだった。
 さらに、異変はそれだけではなかった。
「焦げ臭くないか」
「なんか匂うぞ」
 煙の匂いが、店内に漂い始めたのである。
「火事やないかしらん」
 まだ客とボックス席にいたA子は、思わずそう口にした。
「えっ火事、そらあかん。わても帰ろか」
 お客は慌てて立ち上がろうとする。一応A子はそれを引き止めた。
「わて見て来ますねん……」
 そして席を立ったが、やはりよく分からない。男性従業員達は消火活動をしているように見えるが、なぜ消火器やバケツの水で消えないのだろう?
 火のないところに煙は立たぬ。何かが燃えて煙が上がっているのは確からしいが、そもそも何が燃えているのか? 火事の現場はどこなのか? しかしA子はその答えを得ることはできなかった。炎などどこにも見えない。
 彼女はもとのボックス席に戻った。
「やっぱり、帰ったほうが無事やわ」
「ほなそうするか。おあいそしまひょ」
 中年のお客は、そう言うと改めて席を立った。
 A子に付き添われながら、お客はレジへ向かう。だがそこは既に人でいっぱいで、お勘定は簡単に済みそうになかった。
 ざわざわ。ざわざわ。
(様子が変や)
 誰もがそう思ったに違いない。この時、多くの人が異変を感じており、プレイタウンからの「脱出」を考えていたのである。
 だがこの時までは、少なくともパニックはなかった。事態が急展開し始めたのはこの直後からである。店の出口から、突如として黒煙が進入してきたのだ――。
 それは、さっき白煙が漂ってきていたキッチンとは正反対の方向だった。プレイタウン内部はあっちからも煙、こっちからも煙という状況に陥ったのだ。
「火事や!」
「助けて!」
 黒煙に追われるようにしてプレイタウン内に戻ってきたのは、さっき店から出たばかりの一群だった。どうやら黒煙はエレベーターの竪穴を伝って上ってきたらしく、もはやエレベーターからの脱出が不可能なのは明らかだった。
 非常階段もあるにはあるが、煙で充満しているエレベーターホールの奥にある。そこに辿り着くのは到底無理だ。
 そうこうしている間に、キッチン方向からの白煙も、いよいよ本格的な黒煙に変わっていた。プレイタウンの温度も高くなってきている。
 依然として炎はどこにも見えない。しかしとにかく、この建物のどこかが燃えているのは明らかだ。
「こっちや、こっちにベニヤの仕切りがある。それを破れば逃げられるはずや!」
 その時そう叫んだのは、古参のボーイだった。彼はたった今、お客たちをエレベーター方向へ誘導したはいいものの、けっきょく黒煙に追われプレイタウン内に戻ってきたのだった。
 ベニヤ板を破るというのは、この場合苦肉の策だった。当時プレイタウンの隣では、千日劇場という施設の改装工事が行われていたのだ。両者の間はベニヤ板一枚で区切られているはずだったので、それを破れば逃げられると考えたのである。
 ところが、壁を覆っていたカーテンを開けたボーイは驚愕した。ベニヤ板だったはずの仕切りが、いつの間にかブロックに変わっていたのだ。
「なんやこれ、これじゃ逃げれへん!」
 しかし彼の後ろに続いていた人々は、すでに冷静な判断力を失っていた。
「こっちから逃げられる言うたやないか!」
 げに恐ろしきはパニックの心理である。多くの者が、そのブロック積みの壁を壊しにかかったのだ。しかも素手で。
 なんや何やっとるんや、そないなことでブロックの壁が壊せるかい! ボーイは突っ込みを入れようとするが、もはや煙のせいで声も出ない。たまらず、他の数人と一緒に群集の中から脱出した。
 こうしてプレイタウンは恐慌と混乱に陥った。どこかに突破口はないかと、人々はすがるものを探して右往左往し始める。その顔には一様に恐怖が貼り付いていた。
 そこで、中央階段に通じるシャッターを開けようとしている者がいた。プレイタウンのマネージャーである。
 なるほど、中央階段は屋上へ通じている。そのシャッターが開けば首尾よく脱出できるはずだ。
 よっしゃ協力したろ。パニック集団から脱出したばかりのボーイは手を貸してやった。シャッターは電動式で、開閉ボタンを押してやるとすぐに開いた。
 そしてゆっくりとシャッターが開いた……のだが、その向こうから現れたものを見て人々は悲鳴を上げていた。黒煙である。さらに大量の黒煙が、中央階段から流れ込んできたのだ。
 出入口という出入口から流入してくる煙、煙、煙。もう逃げ場はない。
 時刻は22時49分。ここで停電が起き、プレイタウンは暗闇になった。
 ある者は怒号を上げ、またある者は何事かを叫んだ。しかしその誰もが、次の瞬間には呼吸とともに一酸化炭素中毒の餌食になっていった。煙の中、人々は倒れ、室内はたちまち静かになっていく。
 さてA子である。彼女はこの猛煙の地獄の中で、窓へ向かっていった。
 あの馴染みの中年客も一緒である。
 人々がパニックに陥っている中を、二人は必死にくぐり抜けた。とにかく外気を吸わなければいけない、でなければ死んでしまう――。
 何枚かの窓は、すでに破られていた。幾人かが外に顔を出して助けを求めている。
 先述した通り、プレイタウンは7階にある。窓があるからと言って簡単に飛び出せるはずもない。人々は上半身を外へ突き出し、外気を吸おうとするので精一杯だった。
 A子も、馴染み客も、もちろんそうした。
 しかし煙はとてつもなかった。身を乗り出して外気を吸った途端、そうはさせまいと、背後から煙が覆いかぶさってくるのだ。目が痛い。喉も痛い。意識は朦朧とし、それでもなんとか空気を吸い、それで覚醒したかと思えばまた猛煙で失神しそうになる。この繰り返しだった。
 もうアカン、と言わんばかりに窓枠を乗り越えたのは、A子と一緒にいた馴染みの客だった。
 飛び降りる気か!?
 ところがそうではない。なんと彼は、煙を避けるために建物の外の壁に張り付いたのだった。
 A子にはそんな芸当はとても無理だ。窓から身を乗り出して失神寸前で助けを求め続けるしかない。
 この時には、眼下の道路には消防車と野次馬が集まっていた。救助に来てくれている――! プレイタウンの人々は手やハンカチを振る。
「これや、これを使うといいはず」
 一人の従業員が、思い出したように「救助袋」に取り付く。窓際に据え付けられたそれを外すと、地上へ投げ下ろした。
 「救助袋」とは、長い袋状になった救出器具である。袋にもぐり込むと、そのままトンネルの滑り台のように地上に到達するという仕組みだ。
 ところがこの火災では、この救助袋がかえって仇となった。従業員がこの袋の正しい使用法を知らなかったのか、人がもぐり込むための穴が開かれなかったのだ。せっかくの救助袋も、これではただの布の紐である。
 それでも煙にまかれている人々にとっては、これが唯一の命綱だ。多くの者がこれにしがみつき、ぶら下がって、脱出を試みる。しかし使用法が正しくないのだからまともに脱出できるわけもなく、ほとんどが途中で墜落した。
「あかん、あれはダメや。あれやったら死んでしまうだけや」
 A子のこの判断は適切だった。
 この時、地上からは、野次馬たちが救助袋の下の部分を支えて必死に叫んでいたという。「袋にぶら下がるな! 中にもぐり込め!」と。
 だが地上7階で意識朦朧となっている人々には、彼らが何を言っているのかは全く分からなかった。中には、野次馬から笑われているように聞こえて腹が立ったという者もいたほどだ。
 救助袋による落下が引き金になったのか、この辺りから、煙に耐えかねて墜死する者も大勢出てきた。
 ものの本によると、人はこういう時には高さの感覚が分からなくなるという。眼下に見える町の明かりがやけに近くに見えて、今この地獄にいるよりは……、と身を躍らせてしまうのだとか。
 また地上7階からは、飛び降りた者がどうなったのかははっきりと分からない。あるいはそれで助かるのかも知れない、という一抹の期待が窓枠を乗り越えさせてしまうのだ。
 こんな状況の中で、A子はとにかく耐えた。
 彼女の足元では、煙によって昏倒した人々が何十人も横たわっている。ついさっきまで酒宴で盛り上がっていたはずの同僚のホステスやお客たちだ。また意識のある者も、次々に地上へ向けて飛び降りていくのである。まったく、悪夢以外の何物でもない状況だった。
 やがて、待望の梯子車が、彼女のそばへ梯子を伸ばしてきた。
 このルポで先に登場したボーイやマネージャーは、この梯子によって助け出されている。
 しかし困ったことにこの梯子、なぜかA子のいる窓にはなかなか来てくれなかった。隣の窓で止まったままだったのだ。
 ここで彼女は最後の試練を与えられたのだった。あの窓へ移動すれば助かる――。
 しかし、たかが隣の窓への距離と言っても、室内は煙と熱気に満ちた地獄である。彼女にはこれは何よりも長い距離のように思われたに違いない。床の上を転がり、あがいて、もがきながら、ようやくそこへ辿り着いた。
 そして助け出されて梯子を降りようとする時、彼女はあることに気付いた。
 あの馴染みの中年男性客が、まだ窓のところにしがみ付いていたのだ。
 この男性客の体力も大したものだが、A子の気丈さにも舌を巻く。彼女は、煙を吸ったためほとんど声が出ないというのに、しわがれた声でこう叫んだのである。
「あんさんも来なはれ。このままでは死んでしまう」
 2人は無事に生還した。

 

   ☆

 

 これは1972年(昭和47年)5月13日の出来事である。
 この日の夜、大阪・ミナミで発生したこの火災は、その煙の恐るべき威力によって118名もの人々を死に至らしめた。
 さらにこの翌年には大洋デパートで103名が死亡する大火災が発生し、ついに消防法は大きく改正されることになるのである。
 こうしてこの建物は、日本の火災史を語る上で欠くことのできない悪名を歴史に刻み込むことになったのだ。
 その名は千日デパート。
 ここでの死者数は、日本の高層建築物の火災としては、今でも右に出るもののない数字である。

 

【参考資料】
 ◇安倍北夫『パニックの心理』講談社現代新書
 ◇岸本洋平『煙に斃れた118人』近代消防ブックレットNo.7
 ◇ウィキペディア
 ◇失敗知識データベース

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済生会八幡病院火災(1973年)

 1973年(昭和48年)に発生した、病院火災である。

 この1972~73年というのは火災の当たり年だったらしい。とにかく当研究室でご紹介したものだけでも千日大洋北陸トンネル高槻ショッピングセンターと、戦後の火災史の中でも有名なものがこの時期に集中している。そしてこの八幡病院火災もそのひとつ、というわけだ。

 現場は福岡県北九州市、八幡区春の町。日付が3月8日に変わって間もない深夜、済生会八幡病院は入院患者235名も寝静まっていた。

 この建物は地下が1階、最上階が5階まであり、計6階という規模だった。大病院である。さらに3階には屋上庭園もあり、当時は増築工事までしていたというから、かなり繁盛していたのだろう。

 ところが、その人気急上昇中の大病院も、その夜、たった一人の酔っ払いの仕業でお釈迦にされてしまうのである。

 その酔っ払いとは、ここ八幡病院に勤務する産婦人科の院長(39歳)※だった。彼は、当番医というのか宿直というのかよく知らないが、とにかくそういう夜勤の当番のアレだったようだ。時刻は午前3時を回っていたが病院内におり、そしてあろうことか、そんな時間まで同僚と飲酒していたのだった。

(※)よく考えてみると「産婦人科の院長」というのもおかしな表記だが、参考資料にはそう書かれていたので、ここではその表記で統一する。

「ウイーヒック飲みすぎちまったぜ~。どれ寝るか!」

 と、多分そんな感じのノリで、彼は外来用のベッドに倒れこんだ。自分の縄張り、産婦人科の外来診察室である。

 その院長先生が再び目を覚ましたのが3時21分。彼は、足元がやけに熱いのに気付いた。

 なんだ? せっかくいい気持ちで寝てたのに……。しかし、そこで起きている光景を目の当たりにして、彼は吃驚仰天。なんと診察室のカーテンが燃えているではないか。

 この失火の原因は、季節外れの蚊取り線香だった。彼が寝る前に仕掛けたそうだが、うまい具合にカーテンに火がついてしまったのだ。やっぱりアースノーマットに限るね、うん。

 さあ酔いも一気に醒めた院長先生、まずはカーテンを上着で叩いて消そうとした。だが素人の叩き消しによってかえってあおられ、火勢は拡大。次には洗面器に水を汲んできて消火を試みたが、これも失敗。けっきょく彼は助けを呼んだ。

「おおい火事だ、消すのを手伝ってくれ!」

 ああもう、遅いよ。

 それで、とにもかくにも当直の医師や看護婦や婦長、さらに事務員や守衛などが集まって、皆でよってたかって消火にかかったがやっぱり駄目であった。すでに状況は「初期」消火と呼べるようなものではなく、消火器も消火栓も役に立たなかったのだ。火元の診察室は壁から天井に至るまで合板が張り巡らされており、これによって早くも天井裏にまで炎が回っていたのである。

 午前3時51分。ついに婦長によって、消防へ最初の通報がなされた。時刻を見れば分かる通り、すでにカーテンへの着火が確認されてから30分も経過していた。

 ついでに言えば、この直前には、近所の住人からも通報がなされている。その内容は「病院の4階から煙が出ている」というものだった。恐ろしいことに、関係者が初期消火のつもりで奮闘している間にも、煙はそんな階にまで上っていたのだ。

 消防が到着した時は、ちょうど守衛が階段の下で放水を行っていたという。おそらくこの時点で、もう現場の診察室には入れない状態だったのだろう。

 さあ救助活動である。「始まるザマスよ!」「行くでがんす」フンガー、てなもんだが、しかし現場は混乱した。まあ火災なのだから混乱して当たり前なのだが、一時、一か所の現場に救助隊の人員が無駄に集中したこともあったらしく、どうも病院側からの情報提供が適切でなかったようだ。

 しかも、救助活動そのものも骨が折れた。消防の最終兵器・梯子車とスノーケル車もさっそく登場したのだが、先述したようにこの病院は工事が行われていたため、せっかくの緊急車両も半分くらいしか使えなかったのだ。

 それにしても、である。今ここまで書いていて気付いたが、1972年と73年に頻発した高層建築物火災は、多くが工事中に発生している。千日デパート高槻ショッピングセンター大洋デパートもそうである。嘘だと思うなら読んでみるといい。どうやら工事中の建物というのは、ひとたび火がつくと大惨事になりやすいようである。

 さて、このようにして入院患者たちの救助は行われた。内訳は以下の通りである。

 2階……51名中、31名が看護婦によって救出。残りは消防隊によって救出。
 3階……患者たちが屋上庭園に一度避難(誘導があったかは不明)。そのうち64名が屋外階段で避難、残り27名がスノーケル車で救助。
 4階……24名が自主避難、58名が消防により救出。自主避難のうちの9名は、雨樋を使って脱出したという。

 こうして見ると、けっこう助かっているのが分かる。だがよく読んでみると、病院関係者によって安全に避難誘導されたがどのくらいいたのかは疑問である。資料を読んでいても、病院関係者によって救助されたとはっきり明記されているのは31名分だけで、あとは皆「消防による救助」となっている。

 そして死者も発生した。4階の333・335・338号室である。病室に4という数字をつけるのは避けていたようだが、結果を見ればそれも虚しいばかりだ――。まず1人が飛び降りによって死亡。救助されたものの病院搬送後に死亡したのが1人。あとは、自力で避難できない老人や子供の患者が病室に追い詰められて死亡している。計13人だった。

 高層建築物火災は、上階に行くほど危険が増すと言われている。そのセオリー通りの大惨事である。

 実はこの八幡病院、防火体制については「優等生」と言っても差し支えないほど整備されていた。防火対策委員会と自衛消防隊が組織されており、どちらも院長がトップとなって指揮系統が確立されていた。

 特に、自衛消防隊とやらは隊員が250名もおり、昼夜の交代態勢で時間ごとの人員配置まで決められていたのだ。また避難訓練も行われていたし防火扉だってあった。

 もっとも増築工事に伴い、いろいろと消防から指示は出ていたようだ。やれ5階には避難器具がないとか(ただし5階は研究室で患者はいなかった)、やれ防火区画と耐火区画の区割りの不備とか、やれ煙探知機と放送設備が基準に適合していないとか、ケチは色々つけられていたのだ。

 とはいえこの火災、発生から鎮火に至る経緯を見る限りでは、防火態勢が整備されていたかどうかなど二義的な問題でしかないように思える。どんなにきちんと態勢を整えても、ルールを破って勤務中に飲酒し、小さいとはいえ火をそのままにして居眠りしてしまう人がいる限り、大惨事はいつでも発生するのである。

 

【参考資料】
消防防災博物館 特異火災事例

◇災害記録
 
http://www2s.biglobe.ne.jp/~miniks/rire8.htm#昭和48年
◇国立情報学研究所論文ナビゲータ「済生会八幡病院火災時における 患者を中心とした避難行動 : 病院建築の防火・安全計画に関する研究 その2 : 建築計画」
 
http://ci.nii.ac.jp/els/110003518637.pdf?id=ART0004010560&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1308750130&cp=

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西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)

 1973(昭和48)年9月25日のこと。

 大阪府高槻市の駅前では、「西武高槻ショッピングセンター」の建築が進められていた。

 開店予定日は4日後に迫っている。建物の外側はほぼ完成しており、市民はその日を心待ちにしていた。

 しかし、工事は予定よりも少しばかり遅れていた。急げや急げ。建物の中では、作業員や店の関係者、ガードマンなどが連日建物の中で寝泊りしていたという。

 そんな状況の中で出火した。朝の6時頃のことだった。

 火元は地下1階である。

 最初に気付いたのは宿直室の男性だった。6時27分、彼は警報装置が鳴っているのに気づいた。

「なんだ故障か? まさか火事じゃあるまいな」

 しかし様子を見に行ってびっくり仰天、廊下には煙が充満していた。彼は慌てて宿直室の他のメンバーを叩き起こした。

「おい火事だ起きろ! 逃げるんだ!」

 煙の勢いはすさまじく、消火や通報を行っている余裕はなかった。

 当時は、分かっているだけでも宿直室で8名、発電機室で2名、店舗の中央で2名が仮眠中だった。その他の人を合わせると、全部で40名ほどが建物の中にいたという(70名という資料もある)。

 実は、これに先立つ6時17分には、4階にいた作業員の1人が一度火災に気付いていた。「フロアに薄い煙が漂っている」と、1階の警備員室に連絡があったのだ。しかしこれは黙殺されたようである。

 造りかけの西武高槻ショッピングセンターは、たちまち上階まで煙が充満して煙突のような状態になった。火炎も立ち上っていく――。

 建物内にいた人々は、三々五々、避難を試みた。

 だが、この避難も統率の取れたものではなく、一瞬の判断がそれぞれの明暗を分けた。例えば、最初に火災に気付いた宿直の男性は、途中で煙のため道に迷い、かろうじて仲間に助けられている。

 消防への通報は、通行人の女性によって行われたという。

 しかし建物の燃え方は凄まじく、とても消防隊が突入できる状態ではなかった。また、西武高槻ショッピングセンターは工事中だったため、これまで防災関係の検査や調査は全く行われていなかったのだ。建物の内部構造もはっきりしていないのでは、迂闊に中にも入れない。消防泣かせの火災だった。

 建物の中からは、続々と避難者が飛び出してきた。その人数を以下に記そう。

 まず、1階の出入口からは11名。地下からは33名。さらに工事用の足場を使って6名が脱出している。ロープを用いて脱出したつわものもいたらしい。また、梯子車によって、4階と5階にいた逃げ遅れの人も救助された(やっぱり建物の中には70名くらいいたのだろうか?)。

 こうして、西武高槻ショッピングセンターは焼け落ちた。完全に鎮火するまでには、なんと20時間もの時間を要したという。建物も、開店の計画も全てがおじゃんである。

 この建物は鉄骨耐火造りの頑丈なものだった。だが、長時間高温にさらされたため、梁は曲がるわコンクリート床は崩壊するわで、鎮火する頃にはまるで爆弾でも落とされたような有様だったという。

 火災当時、建物内には段ボールが山と積まれていた。開店の際に陳列されるはずだった商品で、多くが可燃物だった。これが被害の拡大を招いたのだろう。

 死者は6名。多くは、煙と暗闇のために逃げ道を見失ったとみられ、その内訳は作業員が2名、ガードマンが2名、電気工事関係者が1名、西武百貨店の関係者が1名だった。負傷者は13名に及び、損害金額も55億円に上った。

 火災後、防火管理上の不備も次々に暴かれた。防火計画が消防に提出されていなかったとか、防災訓練が行われていなかったとか、例によってそんな内容だった。

 被害が大きくなったのは、先述の山積ダンボールのほか、防火シャッターが作動しなかったのもその一因だった。工事中のホコリによる誤作動を防ぐため、最初からスイッチが切られていたのだ。

 さらに言えば、火災報知機と放送設備もまだ「仮設置」の状態で、普通には使用できなかったという。スプリンクラーも屋内消火栓も火災報知設備も似たり寄ったりで、避難器具もなし。連結送水管は使えたそうだが、気づいた時にはフロアが煙で一杯だったため、結局使われることはなかった。防災設備は、ないも同然だったのだ。

 素人の目線では「工事中なんだしそのへんの不備は仕方ないんじゃないか」…という気もするのだが、しかしこの火災の直後には、あの太洋デパート火災も起きている。安易に「仕方ない」で片付けられる話ではない。

 工事中の高層建築物は、極めて危険なのである。できれば近づかない方がいいのだ。

 ちなみに気になる火災の原因だが、これは放火だった。11月5日に、綜合警備保障のガードマンの男性が逮捕されたのだ。

 彼は火災当時、建物内で勤務していた。だが体が弱く頭痛持ちで、長時間勤務が嫌で火をつけたのだという。開いた口がふさがらないとはこのことである。

 

【参考資料】

ウェブサイト『消防防災博物館』

ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

ウェブサイト『高槻のええとこブログ』

 

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大洋デパート火災(1973年)

  1
 昭和48年11月29日のことである。晩秋の午後、テレビを観ていた人々は、たちまちそのニュースに釘付けになった。熊本の大洋デパートで火災、今なお炎上中。死者20数名――。
 多くの人は「またか」と思ったに違いない。この前年には大阪ミナミでいわゆる千日デパート火災が起きており、さらに済生会八幡病院火災高槻ショッピングセンター火災、旅館やホテルの火災など、日本各地で建造物火災が相次いでいたのだ。
 間もなく映し出された、炎上する大洋デパートの様子は凄まじいものだった。この当時の画像は、今でも様々なインターネットサイトの動画や写真でも観ることが出来るが、窓という窓からもくもくと噴き出してくる濃厚な煙はまるで何かの怪物のようだ。スティーヴン・キングの短編に『灰色のかたまり』というのがあるが、大洋デパートの煙を見るたびに筆者はそれを思い出す。
 地元熊本地方の住人達も、このニュースには驚かされた。なにせ大洋デパートといえば当事の熊本では知らない者のない有名デパートだったのだ。当事、熊本市民は市街地へ出かけることを「大洋へ行く」という程だったという。
 ある者は、上空を飛んでいたヘリコプターを目で追って火災を知った。またある者は外出先から帰ってきてテレビを付けて初めて知った。テレビを観ながらおやつを食べていた娘が突然泣き出し、様子を見に来た親も驚いて、テレビの前で抱き合って震えていたというエピソードもある。慣れ親しんだ有名デパートでの惨事に、熊本の人々は慄然とした。
 だがそれでも、ほとんどの人は想像だにしなかったに違いない。よもや、これが戦後最悪クラスの火災事故として歴史に名を残すことになろうとは――。
 中継ニュースにより報道される犠牲者数は、40名、60名、90名と時を追うごとに着実に増えていった。デパートの常務はこの間、建物の裏口から続々と搬出される遺体を出迎えていたが、やがて「もう堪忍して」と言い失神したという。
 皮肉にも、当事の大洋デパートには「秋の火災予防運動週間」と書かれたアドバルーンが浮かんでいた。そんな中で、最終的な死者数は103名にまで及んだこの火災。一体この大洋デパートという場所で何が起きたのだろう。

 

    2
 大洋デパートが、当事の熊本では知らない者のない超有名デパートだったのは先述の通りである。
 設立されたのは昭和27年10月。場所は熊本市の中心部の繁華街で、当事の一等地である。ほぼ20年間の営業を通して、熊本県内第二位の規模にまで上り詰めた。
 しかし火災が起きた昭和48年頃ともなると、中央のデパートやスーパーがどんどん地方へ勢力を広げるようになってきた。順調な景気に支えられての進出である。熊本もまた、その例外ではなかった。
 この年には、大洋のライバル店である鶴屋百貨店は増床中だったし、さらに翌年には売り場面積33000平方メートルの新しいデパートが市内で開店する予定だったのだ。こちらは伊勢丹と福岡の岩田屋という店が連合して進出してきたもので(因みに鶴屋百貨店も伊勢丹だったという)、いかな大洋でもこれはうかうかしていられない。経営陣は焦っていた。
 そのような次第で、大洋は三越と提携することに決めた。
 このように中央大手の系列化に置かれた百貨店は、大手同士の競争をそのまま地方で再現する「代理戦争」の形に突入することになる。
 この「戦争」を生き残るために、まず最初に大洋が手を付け始めたのが、店舗の増築と改装である。
 もともと大洋は、売り場面積だけを見ても県内では二番目の規模だった。そこへ、さらに隣接地のビルを借りて別館として増設することにしたのだ。この工事が完了すれば、本館の売り場面積14300平方メートルに加えて、プラス9000平方メートルの別館を持つ大百貨店が完成するはずだった。
 ところが、ここで問題が発生する。消防法や建築基準法との絡みだ。
 大洋デパートが設立されたのはもう20年以上も前のことだった。当事に比べると法制も大分強化され、今になって増改築を行うとなるとそちらの基準に合わせなければいけなくなる。するとスプリンクラーや排煙装置の設置の必要が生じ、費用がかさむのである。
 実は、大洋デパートはこうした設備が存在していなかった。地元の消防局からも「極めて危険な建物」と見なされていたのである。
 少し、当事の社会背景を振り返ってみよう。
 先述したが、この時期は高層ビル火災が社会問題化していた。まず韓国で1971年12月24日、ソウルの大然閣ホテルで火災が発生し163名の犠牲者が出た。これはまだ対岸の――文字通り――火事だったのだが、それに呼応するように日本でも千日デパート火災が発生。これは日本火災史上最大の死者数を出すに至った。
 それで消防庁も事態を重く見て、スプリンクラーの設置、火災報知機の設置強化、避難誘導計画の徹底などを各デパートへ向けて指導。さらに、自治省消防局は消防法を一部改正までしている。改正内容は以下の二点だ。
「増改築や新設のビルの場合、スプリンクラーの設置基準を、従来の総延べ面積9000平方メートル以上から六千平方メートル以上にする」。
「収容人員30人以上のビルは、自主防火体制として各自消防計画を立て各消防署の指導のもとに避難訓練を行う(これまでは50人以上)」。
 これらが全ての高層ビルで実現すれば、大洋デパート火災は発生しなかったかも知れない。だが困ったことに、法律の世界には遡及適用の禁止と言う原則があるのだ。その法律が作られるよりも以前のケースにまで遡って、法律を適用させることはいけないのである。
 つまりこういうことだ。例えば「飲酒運転をした者は死刑」という法律が出来たとしても、その法律が出来るよりもずっと前に飲酒運転で摘発された人には、それは適用させられないのである。法律とは、あくまでもその法律が存在していた時の事態にのみ適用される。これが「遡及適用の禁止」ということである。
 するとどうなるか。消防法をいくら改正しても、改正前に建てられた建造物には適用出来ないのである。適用可能になるのは、その建造物を新たに増改築する時だけだ。
 このような形で法律の適用をすり抜けたものを、今はあまり使わない言葉で「既存不適格」と呼ぶ。
 さらに消防法の改正には猛反発が起こった。設置しなければならない防災設備が多く、あまりに費用がかかり過ぎるというのだ。結局個別の現場では、法令で定められた基準の内いくつかをクリアすれば良いという妥協があったり、査察に来た消防署員に「おみやげ」を渡して見逃してもらうといったこともあったようである。

 

   3
 さて、大洋デパートである。
 もう言うまでもないが、昭和27年に建てられたこのデパートは既存不適格もいいとこで、スプリンクラーもない、排煙装置もない、非常用電源もない、非常口の電光サインも点いてない、と最早「俺ら東京さ行ぐだ」状態だった。
 よって今から増改築を行うと、防災設備の分だけコストがかかる。
 デパートの経営陣は恐らく、「ああいよいよこの時が来たか」という気持ちだったことだろう。それまでの大洋デパートは、消防局から防災設備の不備を指摘されても完全に黙殺してきた。どんなに警告と指導を受けても平気の平左で、消火訓練への参加を打診されても無視していたという。
 しかし背に腹は変えられない。増改築を行う以上、今度こそ法令の遵守は必須である。かくして、防災設備の整備を視野に入れながら、大洋デパートの拡張工事は開始された。
 と、ここまでは良かった。
 だが大洋の経営陣は、防災設備があろうとなかろうと、実質的にはデパートの営業とは関係のない話だと考えていたのだろう。それからも、大洋デパートはごく普通に営業を続けた。清水建設が入って増改築工事を始めてからも、当たり前のように買い物客を受け入れ続けたのである。
 これが仇となった。工事中のため、スプリンクラーや排煙装置はまだ機能しておらず、さらに工事のために建物の外の非常階段も使えない状態だったのだ。
 こうした経緯を経て、運命の昭和48年11月29日は訪れたのだ。

 

   4
 大洋デパート。
 鉄筋コンクリート造り、基本的に地下1階から地上7階までの階層からなり、一部は九階建て。床面積の合計は10907平方メートルである。
 地階が食品売り場。
 1階が靴、化粧品、装身具、肌着等の売り場。
 2階が紳士服等の売り場。
 3階が寝具、呉服など。
 4階が婦人衣料品など。
 5階が書籍、文具、スポーツ用品。
 6階が家具、家庭用品、金物など。
 7階が食堂および結婚式場、催物会場である。火災当時は北海道物産展が行われていた。
 増築工事については、7階床面までのコンクリート打ちが終了した段階だったという。
 さて火災当日だが、この日の客の入りは、平素に比べれば実に冴えないものだったという。
 その日は木曜で、本来ならば大洋デパートの定休日だった。だが歳末大売出しということで急遽、臨時営業と相成ったのである。常連客でもそのことを知っている者は少なく、普段ならば1000人単位での客の出入りがあるというのに、この日の来店客は昼過ぎまでに500人程度でしかなかった。
 またお客だけではなく、工事関係者も140人弱がいた。さらに600人以上のデパート従業員の数を合わせると、当時デパート内には1200人程の人がいた計算になる。
 最初に異常を感知したのは、3階呉服売場に勤務する23歳の女性従業員だった。彼女は13時を数分過ぎた頃、階段から薄く煙が上ってくるのを見たのだ。
「あら、煙だわ。火事かしらん?」
 彼女は驚いて交換台に電話をし、それから大声で火事ぶれを行っている。
 知らせを聞きつけた売場主任(61歳)はすっとんで行った。なんだと火事だと、そりゃいかん。しかし彼が階段を覗き込むと、既に踊り場にあった段ボール箱が激しく燃えているところだった。
「バケツ! バケツだ!」
 主任の叫びに、数人の従業員達がさっそくバケツを持ってきた。近くのトイレから、バケツリレーで水を運ぶのだ。
 火勢は著しかった。踊り場の段ボール箱は、主任がちらっと見ただけでは分からないほど激しく燃え盛っていたのである。どこかのタイミングで、火炎は階段のガラス窓を破ってしまったのだ。
 ここから風が吹き込んできたから、さあ大変。踊り場から巻き上げられた燃え屑が、煙が、どんどん3階へ流れ込んできた。
 それにしても、なんで階段の踊り場なんぞに段ボールが積んであったのだろう?
 これは増築工事の影響だった。
 それまで、大洋デパートでは八階を商品倉庫代わりにしていた。そこには文化ホールというスペースがあったのだが、それが工事のため使用出来なくなったのだ。
 歳末商戦の時期である。通常の二倍の量である山のような商品在庫を一体どこに保管しておけばいいか、先にちょっと登場した主任が頭を悩ませた結果が「階段にとりあえず置いておく」という結論だったのだ。
 かくして段ボールは、二段三段に渡って積み上げられたのだった。中には寝具などが入っていたという。言うまでもなく可燃性のもので、これが燃える燃える。窓から風は吹き込んでくるし、しかもこの日は異常乾燥注意報が出ていたのである。これで燃え広がるなという方が無理な話で、最早バケツリレーでの消火など夢のまた夢という状況であった。
 ではここから、火災発生直後の各階の様子を見ていくことにしよう。まずは地階、1階、2階である。
 当時、1階には137名がいたと言われている。まだ地階では169名である。彼らは全員、例外なく店員の呼びかけによって避難することが出来た。煙や炎が押し寄せてくることもなく、せいぜい従業員が慌てふためいていた程度で済んだようである。
 また2階も、特に大きな延焼もなく済んだ。ここからも百名以上が階段やエスカレーターを使って問題なく避難している。
 特に2階は、大洋デパートにおける理想的な避難のひとつのモデルだと言えるだろう。ここでは、火元の階段と、フロアとの境目にある防火シャッターが最初から閉鎖されていた。
 恐らく工事関係の都合か、倉庫代わりの階段への一般客の進入を防ぐためだったのだろう。これによりフロアへ煙や炎が直接進入することはなく、従業員の呼びかけによって速やかに避難した。
 ちなみに火災発生時、社長はどうしていたのだろう? その時の状況について、当時の社長だった山口亀鶴氏はこう述べている。
「私は出火当時、10階(塔屋部分)の応接間にいて横になっていた。火事だといって迎えが来たので一番あとから荷物用エレベーターで外に出た。普段から火事には注意していたのだが、今は申し訳ないとしか言いようもない」。
 つまり、買い物客を見殺しにして自分だけ逃げた形になってしまったのだ。これについては、言うまでも無く轟々たる世間の非難を浴びることになった。
 さて、死者や負傷者が発生するのは3階からである。

 

   5
 高層ビル火災は、とにかく上の階へ行けば行く程、危険の度合いは増す。理由は簡単で、煙も炎も上に昇っていくものだからだ。
 よって地階、1階、2階で被害がなかったのも当然と言えば当然である。特にこれらの階で消火活動や避難誘導が上手く出来たわけではない。ただ、構造上の幸運によって偶々スムーズに脱出出来たに過ぎない(比較的死者の少なかった5階についても同様のことが言えるが、これについては後述)。
 大洋デパートの場合、問題は3階から上なのだ。
 ここで、場面を3階の寝具売場へ戻すことにしよう。
 出火した階段へは、従業員たちが続々と駆けつけてきた。
 中には、延焼するのを防ぐために、階段の段ボール箱を取り除いたり、売場の寝具類を移動させたりする者もいたという。だがそのうち、階段からは風に煽られた火炎がバーナーのように吹き込んで来て、手の付けようがなくなっていった。
 消火器を持ってきた者もいた。だが使用者が使い方を誤ったのか、消火器自体がいかれていたのか、なにやら5、6回叩いても動かなかったという。叩いて使う消火器なんて聞いたことないが……。
「もう駄目だ、シャッターを下ろせ! 急げ!」
 遂に火炎が3階のフロアへ進出してきたのだ。従業員達は、階段とフロアを仕切る防火シャッターのスイッチを押した。
 しかしこの防火シャッター、火災によってモーターが馬鹿になってしまい、途中で止まってしまう。
 そんなにやわじゃ防火シャッターの意味ないじゃん! と思うのだが、実はこれは、火災の熱で温度がある程度にまで達すると自動的に閉まる仕組みでもあったらしい。なんかワケ分からん。
 結局シャッターは閉まったのだが、その間に火炎がフロアに侵入していたであろうことは想像に難くない。
 さらに、シャッターはエスカレーター周辺にも存在した。だがこれについては、真下にあった陳列棚がつっかい棒の役割を果たす結果になってしまい役に立たなかった。
 それでもこの階からは、何とか103名が避難している。下の2階はほとんど被害はがなかったし、エスカレーターが焼けるまで時間があったため比較的避難は容易だったのだろう(ただし最終的には一名が遺体で発見されている)。
 また大洋デパート火災は、着物を着たまま焼け爛れたマネキン人形の写真が有名だが、恐らくあれはこの階の呉服売場のものなのだろう。
 3階の様子については、もう少し書いておこう。実はこの階には電話交換室があり、非常放送を流す設備も整っていた。それが当時は全く機能していなかったのである。
 この交換室にはちゃんと従業員がいたのに、なぜ避難誘導に欠かせない非常放送は流されなかったのだろう?
 答えは簡単で、交換手がもたもたしている内に、たちまち煙が襲ってきたのである。電話交換室にいた3人の女性は、非常放送を流す間もなく避難を余儀なくされたのだ。
 ただ、そうなってしまったのにも理由があった。交換手の女性は以前、店内で事故があり救急車などを呼ぶ時は「よく事情を判断してからするように」と上司から注意を受けていたのである。
 だが事情を確認も何も、火元は交換室の正反対の場所だった。しかも社内規定により、非常放送を流すには上司の許可が必要だったというからお話にならない。こうして交換手は、人事部や社長に連絡することに気を取られているうちに、館内放送を行うチャンスを失ってしまったのだ。
 さらに言えばこの交換室は出来たばかりで、交換手は機械の扱いにも慣れていなかったという。
 こうしていくつもの適切な処置がなされないまま、煙と炎は南階段を伝いながら4階へと上っていった。
 3階の場合は階下が無事だったから良かったが、4階からは状況が大きく変わる。なにせ3階は煙と炎で埋め尽くされており、上へ逃げるしかないのである。
 結果、人々は煙に追い立てられるように上階へと雪崩れ込んでいくことになる。

 

   6
 119番通報がなされたのは、13時23分のことである。
 きっかけは、デパートで工事をしていた作業員の悲鳴だった。外壁塗装をしていたこの作業員は、3階付近のガラス窓が破れ、煙と火炎が噴き出してくるのを見つけたのである。
「火事だ!」
 彼は叫んだ。それを受けて通報したのが、デパートの筋向いにあった理髪店の店主だった。
 結局、デパートの従業員から通報がなされることはなかった。初期消火の手こずり、延焼阻止の失敗、忘れられた通報――。こうして大惨事のお膳立ては揃ったのである。
 13時25分には消防が現場に到着し、消火活動と救助活動が始まった。
 しかし「これでもう大丈夫」とはとても言えない状況だった。何せ大洋デパートは改装工事のためビルの壁面にシートが被せてあるし、窓という窓が内側からベニヤ板で塞がれているのだ。中の様子がさっぱり分からない。
 ついでに言えば、当時の熊本市には梯子車とシュノーケル車がそれぞれ一台しかなかった。おいおい、どうすんの? と言いたくなってくる。
「こりゃいかん、突入だ突入!」
 とりあえず消防隊は建物の中へ飛び込んでいった。しかし防火シャッターがきちんと下ろされていたのが災いして、肝心の3階から先へ進めないだから話にならない。何とかエンジンカッターで切断するも、その先で待っていたのは1メートル先も見えない猛煙と凄まじい火勢だった――。

 

   ※

 さて4階である。当時、この階では婦人服やアクセサリー等が売られていた。
 この階にいた人々が火災に気付いたのは、裁判では13時22分過ぎと見られている。煙がフロアに侵入してきたのだ。
 ここでようやく人々は火災に気付いた。火災報知のベルも鳴らず、非常放送もない中で、ただ静かにもくもくと煙が押し寄せてきたのである。
 煙の主な侵入口となったのは、南階段とエスカレーター口である。南階段というのがつまり火元になった階段で、この後もこの階段は煙突代わりになって煙を上階へ上階へと昇らせることになる。
 4階の人々は、何がなんだか分からないままに逃げ道を探し惑ったことだろう。とにかく煙は下階から昇ってくるのだから、下へ逃げることは出来ない。上だ。煙や炎よりも先に上階へ逃げなければ――。
 この階からの脱出は、主に3箇所からなされた。ひとつは従業員用の階段である。それに増改築工事の作業員達が窓や扉を2箇所ほど破ったことで、一部の人々はそこから新鮮な空気を吸うことが出来、最終的にロープなどで救出されている。
 ただし救出された人々も全て無傷で済んだ訳ではない。窓からアーケードに飛び降りて、足が粉々になってしまった男性もいた。
 問題だったのは、最初に述べた「従業員用の階段」である。この階段に通じるドアの前で、多くの人が命を落としている。
 恐らく、煙に追い詰められた従業員達は、そちらに自分達専用の階段があるのに気付き急いで向かったのだろう。それで逃げ遅れた他の人々も、一縷の望みを賭けて後ろから着いて行ったのではないだろうか。
 実際その階段から脱出できた従業員も多くいた。しかし階段周辺が煙に包まれるまでの時間は余りに短かったのである。実に40名もの人々が、脱出することは叶わず、階段あるいは階段に通じるドアの前で力尽きている。死因は全てCO中毒だった。
 筆者達が想像するよりも遥かに速いスピードで、大洋デパート内部には煙が充満していったのである。建物が完全に停電するまでは少し時間があったが、猛煙の立ち込める中ではもうそんなことは問題ではなかった。煙が、明かりという明かりを覆い尽くし、あっという間に建物の中を暗闇にしてしまったのだ。

 

   7
 次は5階である。この階で火災が覚知されたのは、13時21分とされている。
 販売されていたのは、主にスポーツ用品、文具、玩具などだった。
 この階からは多くの人が脱出に成功しており、死者はほとんど出ていない。黒煙、有毒ガス、火炎、熱気流が押し寄せてくるという恐るべき状況下で、これは実に幸運なことだった。
 まずなんと言っても、5階は防火シャッターが功を奏した。この階ではほとんどのシャッターが熱感知機能によりきちんと閉鎖したのである。また改装工事のために常時閉鎖していたものもあり、それによって下階からの延焼に時間がかかったのだ。
 またこの階には、脱出可能な経路が複数あった。
 まず、隣のビルへの渡り廊下である。このビルとは、別館として工事が進められていたものだ。
 それから本館の増築部分に通じる非常ドアもあり、これは従業員が機転を利かせて開けている。この階では従業員による避難誘導がきちんと行われたのだ。
 それに誘導が間に合わなかったと思われる人々も、最終的にはほとんど窓から救出されている。どうも窓の下に上手い具合にアーケードがあったらしい。資料によって記述が錯綜しているのではっきりしないが、当時ビル内にいた工事関係者が即席の足場を作って買い物客らを避難させた――という話もあり、もしかするとそれはこの階での出来事だったのかも知れない。
 とはいえ死者が皆無だった訳ではない。3階からの逃げ遅れと思われる1名が、後に遺体で発見されている。
 またこの階でお粗末の誹りを免れないのは、従業員達が消火器による「消火活動」を始めたことである。言うまでもなく、ただの煙に消化液を吹き付けても何の意味もない。もしもこの階の脱出経路がもっと少なければ、ここでの時間のロスは大量の逃げ遅れを発生させていたに違いない。
 このように、いくら5階が避難に適した状況だったと言ってもそれはあくまで偶然で、やはり大洋デパートの防災状況は極めて劣悪だったのである。筆者が先に5階のことを「幸運」だったと書いた所以である。
 それに、ここでは水平方向の避難者のことしか書かなかったが、もしかすると5階から6階へと垂直方向に避難した者もいたのではないだろうか。6階と7階でも大量の死者が出たことを思うと、やはり5階の幸運を手放しで喜ぶ気にはなれない。
 ビル火災が、上の階に行けば行く程危険であることも先に書いた。それを裏付けるように、6階と7階は阿鼻叫喚の惨劇の場と化したのだった。

 

   8
 6階での火災覚知は、13時21分以降とされている。
 このフロアでは家具、家庭用品、金物などが売られていた。
 その時の状況については、筆者がくどくど説明するよりも参考資料から引用した方が早い。以下、阿部北夫の『パニックの心理』より、当時の従業員の証言である。

「はじめは階段部分からの、そうです、自分の階の火事だと思ったのです。それでみんなを動員して、消火器をもち出して、一生懸命消火しようとしました。けれども全然効果がありませんし、煙がますますひどくなり、ついに噴出するようになり、黒煙にかわりました。これはダメだ、逃げようというので、エレベーターの方をふり返りましたら、おどろきました。中央階段の方から煙が、それこそ海の大波のようにドッと押し寄せ、もう店の真中、エスカレーターのまわりのところまで来ているのです。いわば両方向から煙にハサミうちになったようなもので、とっさに反対側の、そこだけ窓が外部に開くようになっているアーケード側に逃げようと思いました。煙に追われて、非常口はどこだと叫んでいるお客さんを誘導して、そのアーケードロまで行ったのです。そのころは電灯が消えていました。窓から入ってくる光で、自分が数えた限りでは、十二、三名の人がいましたが、気配でそのまわりにさらに何人かがいたのがわかりました。……窓をいくつか破って外気を導入し、助けを求めましたが、6階ではどうにもなりません。何人かがとび降りましたが、アーケードを破り、血が飛び散るのが見えて、これはダメだと思いました。小さいお子さんがいるとみえて、泣き声や、婦人たちの悲鳴絶叫が聞こえ、それこそほんとに阿鼻叫喚というのか、地獄というのか、悲惨きわまるものでした。そのうち煙がだんだんひどくなり、息をしていられなくなり、のどがハリつきふさがってくるのです。そのうちに、子どもの悲鳴や婦人たちの絶叫がだんだん聞こえなくなってきました。おそらくあのとき、その人たちは亡くなっていったのでしょう。」

 凄惨この上ない話である。
 このフロアでの死者数は31名に及んだ。元々は69名ほどの人がいたと言われているので、ほぼ半数が亡くなったことになる。何故ここではこれほどの事態になったのだろう?
 理由は幾つかある。まず他の階と同様に防火シャッターが下りなかったことが第一。しかもこの階については木製の支柱で意図的にシャッターが下りないようにされていたという。
 また煙の流入経路は、階段やエスカレーターなどの全ての逃げ道を一気に断ってしまった。4階や5階では多くの人が「逃げ遅れ」により死亡したが、6階では「追い詰められ」がその原因だったと言えそうである。
 また、各階の窓にベニヤ板が張られていたことも大きい。消防の到着直後の状況を書いた時にちらりと述べたが、大洋デパートの窓はほとんどがベニヤ板で内側から塞がれていた。
 どうもデパートというのは外光が入ることを嫌うらしい。そういえば最近のデパートやスーパーでも、窓がついている建物はあまりない気がする。
 さらに大洋の場合は、改装工事の痕跡を隠すためか、窓以外にも天井にまでベニヤ板と紙が貼られていた。つまり大洋デパートのフロアは見事に密閉されていたのである。
 もちろん、それでも非常用照明設備や排煙設備、誘導灯などが完備されていれば、いい。しかし当時は工事中でそうした設備は一切作動していなかった。
 6階で被災した人々は、フロアの南東部分で死亡している。
 そこには従業員用の休憩スペースがあったのだが、位置的にその場所が最も煙の進行が遅かったらしい。先に証言を引用した従業員が逃げ込んだ場所というのも恐らくここだったのだろう。
 この従業員がどのような形で救出されたのかは不明である。だがこの窓からはロープで救助された人が多くいたそうなので、多分それなのだろう。
 この階でも、5階と同様に、従業員達は意味のない消火活動を行っている。避難誘導を行うべき彼らがその体たらくだったのだから、一般の買い物客がパニックを起こしながら煙にまかれていったのは当然の成り行きだったことだろう。
 人々のこうしたパニックの様子は、一体どんなものだったのだろうか。それをはっきりさせるには、7階フロアから屋上へ避難し無事に生還した人々の証言を俟たねばならない。

 

   9
 7階での火災覚知時刻は、13時25分頃とされている。
 ここでは北海道物産展という催し物が開催されていた。また食堂も多く、昼頃の時間帯ということで食事客も大勢いたのだろう、他の階に比べると257名と人の数も多かった。
 煙が最も早く進入してきたのはエスカレーター周りである。工事のため開口部が大きくなっていたらしい。そして例によって防火シャッターは動かず(工事途中で未完成だった)、フロアにはたちまち濃煙が立ち込めた。
 この時の状況について、物産展に出ていたアルバイト店員の学生はこう証言している。

「煙が立ち上ってくるなんてものじゃありません。シューシューいって耳をならしながら突きのぽり吹きあげるのです」

 エレベーター周りだけでなく、この階では階段からも煙と炎が激しく流入している。たちまちフロアはパニック状態になった。ここからは、当時食堂でレジ係をしてた女性の証言を引用していこう(証言の引用は全て『パニックの心理』より)。

「ちょうどお客さんのこない時間でしたので、自分はチケットを整理していました。すると、何人かのお客さんやウェイトレスがバタパタと入口の方にかけてくるのです。はじめ、きょうが最終日だから、だれか偉い人でも物産展を見にきたのかと思ったのです。どうしたの、ときいたら、火事よ、というのです。後を振り返ってみた
ら、白い煙が波の押し寄せるように客席の半ばまで迫ってきていました。それでとっさにお金の袋をとり出して、エレベーターの方に逃げ出しました。エレベーターは入口のすぐ前のところですが、すでに三〇人くらいの人が集まってエレベーターをまっていました。みるとエレベーターのサインが、2階のところをさしたまま動きません。このころはまだ電気がついていたのですが、だれか男の人が屋上に逃げろといいましたので、みんながいっせいに階段にかけより、かけ上がりました」

 この時点で、7階で使用可能な階段はひとつだけだった。フロアの東にあった、屋上直通の階段である。
 階段そのものは他にもあった。だが火元から直通しているため煙が充満していたり、途中で途切れていたり、遠い場所にあるため辿り着くのが容易でなかったりと、その他の全ての階段は実質的に使い物にならない状況だった。
 結果、人々はたった一本の階段を押し合いへし合い駆け上った。
 幅はたったの1メートル半である。そこに数十名の人々が押し寄せたのだからたまらない、ある人は避難者達の圧力によって身体が宙に浮かび上がり、足が階段についていない状態でもがきながら屋上へ運ばれたという。またある年配の婦人は、着物の裾を踏まれて倒れそうになったが、やはり人混みの圧力で押し上げられたお陰で踏み殺されずに済んだという。
 だがこの階段も、脱出口としての用を成したのはせいぜい2、3分程度だったと思われる。間もなくここも熱気流と黒煙の立ち上る煙突と化した。再び生存者の証言を引用しよう。

「途中で煙があがってきて煙を吸いましたし、屋上にあがったら、自分の上ってきた階段ロからもう黒煙がドス黒くふき出し、自分の後からくる人は、涙やハナを出し。すすで顔がくちゃくちゃに汚れていました」

 消防隊が7階へ到達した時、階段やエレベーター周辺からは、逃げ遅れたらしい者の遺体が見つかっている。フロア全体の最終的な死亡者数は29名に上った。また階段で死亡していた従業員は、残留者がいないかどうかを見届けたことで逃げ遅れたのではないかと言われている。

 

   10
 8階の屋上へ逃げた人々は、全員が救出された。
 ここには遊園地や、工事中の施設があったため、一般の客と工事関係者等を合わせて元々50名ほどの人がいたという。そこに7階からの避難者も加わり、最終的な人数は100名以上に達した。梯子車やロープのによる手助けももちろんあったが、それに清水建設の作業員が増設部分の足場へ誘導したりすることで、彼らは全て生還したのだった。
 また9階と10階からは犠牲者は出ていない。この2フロアは屋上からニョッキリ突き出た塔屋部分であり、どの資料を読んでも詳細はほとんど不明である。まあ先述の山口社長が出火当時10階にいたというから、役員室でもあったのだろうと想像できる程度だ。
 消防による救出活動は、彼らが現場に到着してからほぼ10分後に開始された。
 まず13時35分に男女2名が病院へ搬送されたのを皮切りに、15時55分までの間に27名が続々と搬送。そして梯子車、ロープ、スノーケル車を利用しての救出劇だったという。
 そういえば大洋デパートの救出活動と言えば思い出すのが、一人の女性従業員が下着を丸出しにした姿で救出されているシーンである。この映像は恐らく、大洋デパート火災にまつわるものとしては、あの焼け爛れたマネキン人形に次ぐ有名度なのではないだろうか。
 あの映像は、NHKをはじめとしてどのテレビ局もこぞって撮影しており、今だったら損害賠償を請求されてもおかしくないような激写ぶりである。今から考えると、非常時にテレビは一体何を映しとるんだと突っ込みを入れたくなる所だ。
 遺体の搬出が行われたのは16時20分からのことである。
 この時もまだ炎は燃え続けており、火災そのものが鎮火したのは21時19分。それから23時までに28の遺体が搬出されて、付近の寺や日赤病院へ運び込まれた。焼け焦げたものも多くあり、その後も行方不明者の捜索のために網で骨を篩い分けたとか、複数の遺体の部位が集まったものが一人分の遺体と勘違いされたという話まである。
 デパート側の対応はまるきり後手後手に回った。遺体は棺にも入れられないまま、毛布をかけられただけの状態で安置されていた。
 当時の写真週刊誌を参考にすれば、犠牲者に関する悲劇的な話をここでご紹介するのは簡単である。一家全滅、婚約直後の若い女性の死亡、消火活動に来ていた消防士の妻子がデパート内にいた……等々、耳を塞ぎたくなるような話ばかりだ。だが筆者はそういう話は正直好みではないので、ここはひとつ、生存者にまつわる話だけをご紹介しておこうと思う。
 大洋デパート火災では、煙から逃れるために高層階から飛び降りた者が複数人いた。ただ前年の千日デパート火災とは違い、それによる直接の死者はなかったようだ。その点は奇跡的である。だがその中でもひときわ目立って奇跡的なのは、6階の従業員Tさん(当時21歳)の飛び降りである。
 Tさんは当時、家具や家電の売場にいた。そこで煙に巻き込まれたという。
「それより少し前に『火事だッ』と誰かが叫んだような気がするの。どぎゃんしたらよかろうかと考えるひまもなかったんです」
「でもですね、消火器は全然役に立たなかったんですね。煙が強かですたい」
 煙にまかれながら考えたのは、「このままでは死んでしまう」ということばかりだったという。彼女は煙を避けて逃げた。
「あ、あそこは明るい。見える」
 そうして辿り着いたのが、例の6階フロアの隅にあった従業員用のスペースだった。
「事務所につくと、誰かが窓を割りよったのを覚えています。そしたら、ノドがすうっとして、明るくなった気がしましたですね。夢中で割られたガラス窓から顔を外へ突き出したとですたい」
 しかしそれだけではとても生きた心地はせず、遂に彼女は宙へ身を躍らせたのである。
「もう、息苦しさから逃げたいと思っただけですね。『お母さんッ』と呼ぶ気もしなかった。ただ、死ぬんだ、死ぬんだ、もう最期だ、と思ったのを覚えていますね。飛び降りる意識なんてなかったとですたい。ただただ、息を吸いたかった」
 実に地上10メートル、6階からの飛び降りだった。
「シタにアーケードがあるなんて思ってもみなかったとですね。落ちた瞬間ですか? 意識はありましたですね。足がグニャッとなって、痛くて痛くて仕方が無かったですね。意識の中では、落ちるまで2回転はしたと思います。無意識のうちに足から落ちたとですね」
 彼女が収容された病院の医師の話では、こういう飛び降りの場合は足首と踵の粉砕、骨盤骨折、背骨骨折などの怪我を負うのが普通だという。だがTさんは右大腿部の骨折と、その他擦り傷程度で済んだ。頭もやられなかった。
 他にも少なくとも2人、アーケード上に飛び降りた者がいた。だが4階から飛び降りた男性従業員は足の骨が粉々になり、Tさんと同じ6階から飛び降りた売場主任は頭から突っ込んで重態になり、その時は血まみれで倒れていた。
 同じ状況ならまた飛び降りるか、という週刊誌の記者の阿呆な質問に、Tさんは「今? できませんですたい」と答えたという。
 大洋デパート火災では、このように飛び降りによる怪我を負った人もいたし、またCO中毒で意識不明の状態で救出された人もいたという。よって後遺症を負った人も相当いただろうと筆者は想像している。
 こうして火災そのものは終わった。次は責任の問題である。

 

   11
 火災があったその翌日、即ち30日の時点で、死者は既に100人に及んでいた。内訳は男29人、女71人である。
 他にも、避難の途中に階段で転ぶなどして怪我をした者が11名。煙による気管支炎、CO中毒、ガス中毒などの憂き目に遭った者が22名。怪我と中毒のダブルパンチを食らった者が10名。アーケードへの転落やロープによる避難によって怪我を負った者が9名。そして増築部分からの避難中に怪我を負った者が7名。……これでは警察も黙っているはずがない。
 熊本県警は、さっそく大洋デパート火災捜査本部を設置し現場検証を始めた。
 捜査本部には、最初からひとつの仮説があった。
 まず失火者を特定しないといけないのは勿論だが、それとは別に、デパートの防火態勢の問題を指摘することも可能なのではないかという見込みがあったのだ。つまりデパート側を業務上過失致死で起訴できないか、ということである。
 意地の悪い見方をすれば、これは見込み捜査である。だが現場検証を行い、従業人たちから事情を聞いていけば行く程、この仮説は俄然妥当性を帯びてくるのだった。
 とにかく避難訓練はしたことがない、消火器の使い方は知らない、防災設備は使い物にならないと、なんだここはデパートはデパートでも欠陥防災設備の見本市じゃないか! と言いたくなるような状況である。熊本県警は、いよいよ12月7日には強制捜査に踏み切った。
 そしてさらに、熊本労働基準局も18日には、安全管理を怠ったとして3人の責任者を書類送検することに決めた。
 最終的に県警によって起訴されたのは5人である。事件からほぼ1年が経過した1974年の11月のことだ。まず当時の社長山口亀鶴氏。それから常務の山内氏。そして取締役人事部長Y、売場課長兼営業部第三課長M、営業部営業課員Sである。
 そして裁判が始まったわけだが、起訴された5人のうち、社長の山口氏と、それに常務の山内氏は共に一審の公判中に死亡した。恐らく、文字通り死ぬほどストレスが溜まっていたのだろう。常務の方については結局死因は分からずじまいだったが、火災当時買い物客を見殺しにして避難する形になってしまった社長の山口氏は、高血圧症で病院に入院している間に急性肺炎を引き起こして死亡したのだった。この2人は兄弟だった。
 死んでしまっては責任追及も出来ない。よって、裁判では残る3人が被告人席に立つことになった。
 この裁判の経緯については、簡潔に記しておこう。とにかく83年には一審で無罪判決、88年には二審で有罪判決、91年には最高裁で無罪判決と、長ったらしい上に結論が二転三転しているのである。
 最終的な結論を手短に言えば、「死んだワンマン社長がぜんぶ悪い」ということである。少し商法上の法解釈も入ってくるのだが、法的にも防火・防災の管理者は代表取締役一人であるし、実質的にも、被告の3名は大洋デパートの防火防災について何か助言をしたり方策を考えたりする権限は与えられていなかった、ゆえに責任を問うことは出来ない、という結論が下されたのだ。
 少し付け加えると、起訴された売場課長兼営業部第三課長のM氏というのは、デパートの3階で火災が発覚した当時、必死に消火活動と延焼防止の手立てを講じたあの人である(資料によっては主任と書かれているのだが、この辺りの矛盾の理由はよく分からない)。彼もまた、火災発生時には最低限出来る限りの消火活動を行ったとして、細かな判断のミスは不問に付された。
 ちなみに、火災の原因は分からなかった。確かに火元の場所は間違いないし、そこが普段から従業員の喫煙所と化していたことも事実だし、その焼け跡からは吸殻も見つかっているという。……だがその煙草を吸っていたのは誰なのか? それは本当に出火原因なのか? 山と積まれた段ボール箱がその程度で燃え広がるものなのか? 等々の疑問が実験に実験を重ねて検証されたというが、この失火の原因は今に至るまで不明のままである。
 さて刑事裁判についてはこの調子で、誰にも責任を負わせられないまま終了した。関係者にとっては後味の悪い判決であったことだろう。
 だが、民事に関してはきちんと事が進んだ。
 そもそもデパート側は火災によって商品だけでも20億以上の損失を蒙ったのだが、被害者への補償や見舞金等々も当然払うことになった。
 で、その損害賠償請求額だが、これが総額30億にまで上ったという。これは最早公害補償並みで、内訳は死者1人につき3,300万円、その配偶者に600万円、その父母には300万円というものだった。 
 さすがに熊本有数のデパートとはいえ、これは全額耳を揃えて払えという方が無理だ。デパート側は遺族や負傷者との間で示談や和解を成立させ、何とか一部を支払い、さらに負傷者の治療費負担の軽減に尽力。また死亡した山口社長の遺族も、22億円あまりの私財を会社に提供し被害弁済に協力し、昭和56年、1981年3月31日までには総額12億5687万円の弁済を行ったと裁判の記録には記されている。
 大洋デパートは、正式には「株式会社太洋」の本店という位置付けの建造物である。上述の被害弁済は、株式会社太洋による会社更生手続きの一環として進められたものと思われる。この時既に、この企業は倒産していた。

 

   12
 ここからは、「大洋デパートその後」の話である。
 以下に記述するのは、公的な資料に基づいたレポートばかりではなく、ネット上の噂話めいたものを集めた部分があることも、あらかじめお断りしておく。
(ネット上の記述と、書籍として出ている記録の、どこまでが公的でどこまでがそうでないのか、曖昧に感じる所もあるが)
 実は、大洋デパートは、火災当時の社長達が起訴されてからほぼ1年後の1975年11月16日には再オープンしている。いやはや、あれだけの火災を起こしながらよくもぬけぬけと、などと言ったら言い過ぎかも知れないが、とにかく凄まじい生命力ではある。
 もちろん、今度は防災設備は完備されていた。ただ、防災を最優先させるあまり売り場面積の縮小を迫られたり、柱が補強のため馬鹿でかくなってしまったりと、やはり影響は引き摺っていたようである。再生大洋デパートは、結局この翌年に倒産してしまった。
 こうして株式会社太洋は被害債務を弁済するためだけの企業と化してしまった訳だが、ネット上で調べていた時に、株式会社太洋という法人そのものは今でも残っている、という記述を見た記憶がなくもない。申し訳ないことにどこで見たのかという記憶も定かでないのだが、もし本当ならばつくづく物凄い生命力である。
 大洋デパートの話はもう少し続く。1979年の10月には、デパート跡地に「熊本城屋」というデパートがオープンした。これはユニードというスーパーマーケット企業が出資した店らしいのだが、この5年後の84年にとんでもないことが起きた。この熊本城屋の1階で火災が発生したのだ。
 おいおい、またかよ!
 その時はボヤで済んだらしい。だが歴史とは奇妙な繰り返し方をするもので、これが大洋デパートの同じように改装工事中の火災で、しかも火災報知機が鳴っているにも関わらず、店は「これは火災ではない」と主張したとか。言うまでもなく熊本城屋はマスコミから叩かれ、店員達は地域の家々に詫びて回ったという。
 実に大洋デパート火災からおよそ10年後の出来事である。地元の人々は何を思っただろう。あの日、建物の隙間という隙間からもくもくと噴き出し、日差しすらも遮ったという怪物のような煙を思い出した者も多かったのではないだろうか。 
 そしてさらにその後の経緯だが、これは正直、情報がごちゃごちゃしていて何がなんだかよく分からない、というのが本音である。
 熊本城屋に出資してたユニードがダイエーと合併したとかしないとか、それに伴って熊本城屋の店舗名が城屋ダイエーとかダイエー城屋に代わったとか、最終的には単なるダイエーになったとか、なんか色々と紆余曲折があったようだ。少なくともその後、火災は起きていないようである。
 こうして現在、大洋デパート跡地には「ダイエー熊本下通店」がある。
 かつてこの建物の横には巨大な慰霊碑があったが、現在はそこから程近い白川という川の河川敷に移されており、今でも遺族が慰霊に訪れるらしい。
 そういえば慰霊碑と言えば、筆者にとってこの火災の最大の謎は「デパートの正式名称」である。公の記録などを読むと、火災を起こしたあのデパートは大抵は「大洋デパート」と書かれている。だが慰霊碑に刻まれた文字や、火災当時の建物の写真を見ると、そこにははっきり「太洋」と書かれているのである。点がついているのだ。
 不思議なことにこの矛盾を正そうとする文章は一度も見たことがない。こんな事柄からも、今やこのデパート火災がいかに「忘れられた災害」であるかが思われるのである。
 この火災の翌年には消防法も改正された。
 法律の原則に「遡及適用の禁止」というものがあることは一番最初に述べたが、1974年の消防法の改正で最も画期的だったのは、この法律の大原則に例外を定めた点であろう。公共的要素の高い旅館やホテル、デパート、病院、地下街などについては、過去に建造したものであっても現在の基準に適合させるよう義務付けたのである。
 筆者が思うに、戦後の建造物火災の頻発と、それに伴う法令強化のイタチごっこはここに至ってようやく決着をみたのだ。消防法は、近代法の大原則を踏み越えるという掟破りをあえて行うことで、戦後日本の建造物火災という黒歴史にピリオドを打った。その最後の決定打になったのが大洋デパート火災だったのである。
 消防関係の法令や条例の厳格さについては、今でも熊本市は全国一であるという。

 

(大洋デパート火災・了)

 

【参考資料】
 ◇『建設庁大洋デパート火災事故調査委員会調査報告書』昭和49年3月
 ◇阿倍北夫『パニックの心理』講談社現代新書
 ◇杉山孝治『災害・事故を読む』文芸舎
 ◇朝日新聞・昭和48年(1973年)11月30日~平成3年(1991年)11月15日
 ◇第一法規『判例体系』
 ◇ウィキペディア他
 ◇消防防災博物館-特異火災事例
 ◇アサヒ芸能「人ごとではない大洋デパート大惨事」1973.12.13
 ◇週刊新潮「グラビア 死の商戦 熊本・大洋デパートの恐怖」1973.12.13
 ◇週刊新潮「今だからいわれる「熊本・大洋デパート山口亀鶴社長は葬儀屋から出世した男」1973.12.13
 ◇週刊平凡「熊本・大洋デパート 史上最大のデパート惨事!いま涙をさそう2つの悲話」1973.12.13
 ◇週刊朝日「グラビア 100余人の命を奪った巨大な火葬場 熊本・大洋デパートの火事」1973.12.14
 ◇週刊朝日「大洋デパート惨事の教訓 生死を分けたこの人間ドラマ」1973.12.14
 ◇週刊ポスト「大洋デパート惨事の危険はこんなに転がっている 歳末商戦たけなわ!考えてもゾーッとする」1973.12.14
 ◇週刊読売「6階からとびおりて助かった女性「奇跡」の内容 大洋デパート火事」1973.12.15
 ◇女性自身「熊本現地取材・大洋デパート大惨事 黒コゲの新妻にすがりつく若き夫」1973.12.15
 ◇サンデー毎日「熊本・大洋デパート炎上 歳末商魂の中に消えた101人」1973.12.16
 ◇週刊文春「デパート惨事の火元は「代理戦争」?大洋デパート惨事」1973.12.17
 ◇平凡パンチ「歳末のデパートは恐怖の焼場だ!!熊本の惨事が教える百貨店の致命的な欠陥」1973.12.17
 ◇ヤングレディ「緊急解く方 悲惨!熊本デパート火災!猛火に出会った100人 地獄に誘いこまれた運命」1973.12.17
 ◇女性セブン「大惨事のかげの悲しみのドラマ 熊本・大洋デパート」1973.12.19
 ◇週刊女性「これを読んでからデパートで買い物を!緊急提案 大洋デパート惨事に学ぶ」1973.12.22
 ◇週刊新潮「ワンマン社長亡きあとの大洋デパート経営陣 欠陥デパートの山口亀鶴社長が病死した」1974.12.19


  ※当時の写真週刊誌の記事の収集については、leprechaun氏よりご協力を頂きました。

 

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