磐光ホテル火災(1969年)
かつて、福島県郡山市熱海町には、磐光ホテルという宿泊施設が存在した。
資料によると、どうやらこれは、後年のバブル期に乱立したリゾート施設の先駆みたいなものだったらしい。
それが完成するまでの経過を簡単に書くと、まず1965年に鉄筋コンクリート4階建ての本館が建てられた。そしてそれを皮切りに、今度は10億円規模の資本が注ぎ込まれた「新館」と「別館」が造られた。
それだけでもすげえなあと思うのに、その上さらに「磐光パラダイス」という娯楽施設までもが建設されている。その内訳はキャバレー、温泉プール、映画館、外人ホステスクラブ、それにゲームコーナーてなもので、もう笑ってしまうほどの節操のなさである。
これらを総称した磐光ホテルのキャッチフレーズは、「来て見てびっくり」。よく言ったものだ。こっちは、調べてみて呆れてびっくり、である。
んで最終的には全体の客室が220室、収納可能人数は1,300人(220の客室に1,300人をどう詰め込むのか、少し不思議ではあるが)という巨大娯楽施設の出来上がりである。元々、磐梯熱海温泉街というのははイイ感じにひなびた温泉地だったのだが、磐光ホテルはそこに突如として出現した不夜城だった。
だが、こんな天国のような娯楽施設も、ひとたび火がつけば灰燼に帰すのだから儚いものだ。しかも運命の女神は変なところで公平で、磐光ホテルの最期を彩ったこの火災は、今では数あるホテル火災の典型的な一事例として記録されているに過ぎない。
☆
1969(昭和44)年2月5日、午後9時過ぎの出来事である。
その日、磐光ホテルの外は猛吹雪だった。この悪天候のせいでホテルでは停電も相次いでいたという。
後述するが、この時福島県は豆台風とでも呼ぶべき強風に見舞われていた。昔ながらの温泉街のほうはこの嵐が立ち去るのを静かにじっと待っていたのだが、磐光ホテルは宴もたけなわ、停電なんてなんのその。1階の大広間では、当ホテルの目玉イベントである「金粉ショウ」が行われるところだった。
筆者は金粉ショウなるものを実際に見たことはないが、なんか体中に金粉を塗った踊り子が、火のついた松明を使って踊ったりするものらしい。
それでこの時、ダンサーたちは舞台裏の控室で準備を整えていた。
ところが、そのショウで使う予定だった松明が、石油ストーヴから引火したからさあ大変。松明にはベンジンが染み込ませてあったのだが、それを火気のそばに置いておいたのが運の尽きだった。
「まずいぞこれ、早く消せ!」
てなわけでダンサーたちは消火を試みた。そうそう、火災は初期消火が大事なのである。
ところがここからが問題だった。ステージの向こうには大勢のお客が詰めかけている。騒ぎにしてはまずい、ここは自分たちだけで手早く消火してしまおう――彼らはそう判断したのである。それで急いで中幕を下ろすと、その裏でこっそり消火を始めた。
まあそれで本当に火が消えれば良かったのだが、なんとここで採られた方法が「口で吹き消す」という、ショウの時とまったく同じやり方だったから「あ~あ」である。火勢はさらに拡大。そのうち、舞台の緞帳にも燃え移った。
それまでにも、煙がステージの方に流れ出したりしていたらしい。だがそれは金粉ショウの演出と勘違いされており、当初は誰も騒がなかった。それでもさすがに緞帳が燃え出したところで、舞台に立っていた歌手が異変に気付き、マイクで一声。
「火事だ~!」
これが最初の火災覚知となった。
資料によると、これによって大広間は大混乱になったという。人々は一気に出口へ殺到した。まあ当然そうなるわな。
だがまあ、ここでホテルの従業員たちはわりと的確に動いていたようだ。大部分のお客は、避難誘導によって脱出に成功した。この点は、他のホテル火災やデパート火災に比べれば遥かに感心する。
だが100点満点をあげるわけにはいかない。この火災の死者30名のうち、少なくとも25名はこの大広間からの逃げ遅れだったとされている。
もともと、火事のきっかけになった金粉ショウは3階のホールで行われる予定だった。だがこの日は強風で屋根が壊れたとかいう理由で、開場が急遽1階の宴会場に変更されていたのである。炎を扱う催し物があったことを考えると、これは消防法上も問題のある措置だった。
「3階よりも1階のほうが、外に逃げやすいんじゃないの?」
という声も聞こえてきそうだ。しかし1階には土産物の売店やゲームコーナーがあり、これが避難の邪魔になったのである。煙によって視界も利かなくなっていた。
さらには、火災報知機のスイッチも切られていたのだ。停電のたびに鳴るのでうるさい、というのがその理由である。よって2階以上の階のお客らは避難が遅れ、多くはなんとか救助されたものの、最終的に3階の2名が死亡している。
当時、このホテルは全館で暖房が利いており、それで乾燥し切っていた。そのため、火炎が上階や他の施設にまで簡単に延焼したのだった。
この他にも、ホテル火災にありがちな防災面での欠陥が多くあったようだ。非常口の扉が針金で固定されていたというし、また防火扉はないわ防火シャッターも動かないわでもはや防火区画もへったくれもなく、延焼し放題だった。
もちろん、それらは見過ごせない過失である。だがこの磐光ホテル火災について言えば、これほどの悪条件にも見舞われた火災もちょっと珍しい気がする。
その悪条件とは、天候である。
いやもう本当に、これについては運が悪かったとしか言いようがないのだ。まず当時、外が猛吹雪だったことは先述した。5日と6日は中部・関東地方以北で強風が吹き荒れていたのである。この少し前に、台湾沖と日本海の西部で発生した2つの低気圧のためだった。
暦で言えば立春の時期である。だが5日の朝には福島県下には大雪・強風注意報も出ており、参考文献によると、現場の付近では大型バスが転倒する事故も起きていたらしい。
もともとこの地域では、強風が風物詩みたいなところがあった。猪苗代湖と磐梯山の方向から吹いてくる風がぶつかり合い、風速計が使い物にならなくなることすらあるという。それが冬場なら、吹雪でなおさらひどいことになるわけだ。で、火災時の風速は平均20メートル。人間の手で延焼を防ぐすべなどなかった。
そこでようやく、消防の登場である。
しかし、消火活動も救助活動も難航した。いや、もはや難航とかいうレベルではなく、なんか混乱の上乗せみたいな結果になってしまったのだった。
まずは風である。消火しようにも、とてつもない強風のため放水した端から飛び散ってしまう。しかもマイナス7度という気温のため、建物にかかった水も片端から凍った。これでは、屋根に上って消火活動をしている隊員もいつ転倒するか気が気でない。あげくその屋根が熱で膨らんで破裂したり火を噴いたりするのである。もう悪条件の揃い踏みである。
もちろん、ホテルの従業員たちも手をこまねいていたわけではない。以前から自衛消防隊とやらを組織しており、この時も自主的に消火活動を行っていた。しかしやっぱり強風と凍結のため、せっかく伸ばした屋外消火栓も全然使い物にならなかったという。戦力外である。
またさらに、この頃の消防の設備はお粗末もいいところだった。ポンプ車はおんぼろのポンコツ、防毒マスクは濡れタオルと大差ないおもちゃ同然の代物。梯子車だって高層階には届かない。おまけに水利も悪いと来ては消火も救助もまともにできるわけがなく、なんと消防自らが、やむを得ず被災者に屋上からの飛び降りを促す場面もあったという。
こんな調子なので、ほどなく消防隊員の中にも疲労と低体温症でぶっ倒れるものが出た。暖を取るために、火災現場の一部の炎を消さないでおく必要すらあったというから、これはなんとも笑えない喜劇である。
そんなこんなで、ようやく鎮火したのが翌朝の午前6時30分。消防が到着してから9時間後のことだった。
磐光ホテルの当時の宿泊人数は295人。死亡者数は、先にもちょっと書いた通り30人(31人という資料もある)で、負傷者も41人に上った。
ホテルは完全に焼き尽くされ、焼損面積は15,511平方メートル。そして損害金額は10億9,826万円。なんだか面積も金額も数字が大きすぎ、筆者などにはどうもピンと来ないのだが読者の皆さんはいかがであろうか。しかもこれは1969年当時の金額である。
資料によると、火災の翌日には、出火の原因となった粗忽者のダンサーが、重失火と重過失致死容疑で逮捕されたという。
だがさらに資料を辿っていくと、実際に起訴され有罪とされらのはホテルの総務課長の方だったらしく、こちらは禁固2年、執行猶予2年の判決となっている。ダンサーの逮捕からこの判決に至るまで、一体どんな経緯があったのだろう? また遺族への補償はどうなったのだろう? 気になるところである。
これについては「調べて書けよ」という声が聞こえてきそうだが、資料が見つからないので仕方がない。だって山形県立図書館に、この火災の判決文が載ってる判例時報、置いてないんだもん。
☆
最後にこれは余談だが、参考資料『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、当時現場に駆け付けた消防士の一人が「この火災では30人が死ぬ」という不吉な予言をしていたという。
それで本当に30人が亡くなっているので、ちょっと読んだ限りだとこれは神秘的な予言という感じがする。
んで、この消防士だが、引退後に回顧録として「磐光ホテル火災」という文章を書き、平成14年に脱稿しているという。
もしこんな予言があったのが事実ならば、この回顧録は是非読んでみたいところだ。しかし平成23年10月22日現在、この文章がどこで読めるのかは全くもって不明である。
ネットで公開されているのだろうか。あるいは、どこからか出版されているのだろうか。副題がまたケッサクで、「私は火災発生と死者数を予言し、的中してしまった」というふざけたものらしいが、もしこの文書をどこかで見かけた方がおられたら、是非教えて頂きたい。
まあ実を言えば、筆者はこの予言うんぬんのエピソードは全部デタラメだと考えているのだが。
『なぜ、人のために命を賭けるのか』は極端に消防の活躍を美化して描いた書物である。よってこのエピソードは、消防側の不手際をごまかすために著者が捏造したものだろう。「この火災では消防が火災に完全敗北した。しかしそれは予定調和の出来事であったのだ」――というわけだ。
捏造というほど強烈な意図はなかったとしても、消防側の不手際を、文学的表現で薄めようとしたところはあると思う。
だからおそらく、先に述べた「磐光ホテル火災 ~私は火災発生と死者数を予言し、的中してしまった~」というタイトルだけで爆笑ものの回顧録はどこにも存在していないと思う。
この火災は、消防の完全なる敗北譚である。だがこれを端緒とするいくつかの敗北があったからこそ、現在の消防設備はあれほどまで整備されたのだ。こうした歴史の経緯をごまかしてはいかんよ。必死の思いで消火作業にあたった消防士たちはもちろん、亡くなった人に対しても失礼だ。
【参考資料】
◇ウィキペディア他
◇消防防災博物館-特異火災事例
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社2004年
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呉市山林火災(1971年)
山林火災――いわゆる「山火事」の中でも、戦後最悪とされる事例である。死亡者は全て消防隊員という、かなりショッキングな内容だ。
☆
1971(昭和46)年4月27日、午前11時10分頃のことである。広島県呉市野呂山の一部である大張矢山(おおばりやさん)の民有林から火の手が上がった。
もっと具体的に言うと、そこは「門の口用水地」という場所の付近だったそうな。当時、そこでは災害復旧工事が行われていた。作業員が火を焚いて湯を沸かしていたところ、近くの枯れ草に燃え移ったのだ。
悪いことに、この日は乾燥注意報が出ていた。2日前から火災警報も発令されている。風も非常に強く、最大瞬間風速14メートル。炎は休耕中の農地に飛び火し、みるみる火勢を増した。木の枝などの燃えカスが舞い上がり、麓の町に降り注ぐ――。
午前11時18分、消防に通報が入った。
駆け付けたのは、呉市消防局東消防署の第一小隊16人。さっそく消火にあたったが、火勢が強すぎてどうしようもなかった。また当時の消防は、現代に生きる我々から見ると信じられないくらいに装備が不足していた。自治体でも重要視されておらず、予算を回してもらえなかったらしい。延焼を防ごうにも、使えるものは草刈鎌とナタとスコップくらいという有様だった。
また、少々特殊な事情もあった。この市は昔から温暖で雨も少なく、山火事も多い。「山火事銀座」などというひどい呼び名もあったとかなかったとか。よって頻発する山火事への対応でてんてこまいで、人手も足りなかったのだ。
人がいないんだから仕方がない。先述の16人の他にも、勤務明けで休んでいた職員や、非番だった者も特別召集された。その数18名。彼らは午前11時35分に第二小隊として編成され、現場に向かった。
この18名が「全滅」することになる。
現場に第一・第二小隊が集合すると、署長は第二小隊に指示。消火作業に向かわせた。
この時、火災は掲山(あげやま)という山へ延焼しつつあった。このままでは、市街地に影響が及ぶ恐れもある。消防としては何としても防止線を作る必要があり、署長も第二小隊も急いでいたようだ。
命令を受けた第二小隊。彼らは稜線を下り、谷の入り口へと入っていった。
だが、そこで悲劇が起きる。突如として火炎が勢いを増し、予想だにしないスピードで第二小隊に押し寄せたのだ。
それは「急炎上(flare up)」と呼ばれる現象だった。斜面の角度が40度を越える急斜面では、下っていく火炎のスピードが、その数倍に跳ね上がることがあるのだ。
また、参考資料『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、この時に風向きが急激に変わり、ちょっとした竜巻のようになったらしい。
第一小隊がいる位置からは、火炎が押し寄せるさまが俯瞰できた。彼らは色をなくし、第二小隊に向かって叫ぶ。
「第二小隊、戻れ、戻るんだ!」
彼らが駆け下りていった方面には、伐採後の枝木や枯れ草、廃材、薪などが積み上げられていた。そこに火がついたらもう逃げられない――。
レシーバーに向かって必死に呼びかける第一小隊。しかし応答がない。もうなすすべはなかった。彼らの見ている目の前で、谷の一帯が猛火と猛煙に呑み込まれていった。
なぜレシーバーは応答がなかったのだろうか。これは、何かにぶつかってスイッチがオフになっていたのではないか、と考えられている。おそらく当時はそういうことが結構あったのだろう。今はネジ式だというレシーバーのスイッチ、当時は簡素なレバー式だった。
谷が炎に包まれていく間、上空を飛んでいたヘリはその一部始終を見ていた。記録によると、飛び火によって林が一瞬にして焼き尽くされたのが14時45分のこと。そして15時49分には、現場に遺体が散在しているのが確認できたという。
第一小隊が救助にあたったものの、16時2分には13名が遺体で発見。さらに19分には1名が重傷を負った状態で発見(後に死亡)、続けて、残る4名も遺体で見つかった。
18名もの将来有望な消防士たちの命を奪っておいて、なお火災は鎮まらない。
最終的に駆け付けた消防局職員は84名、派遣された消防車は109台、消防団員は400名に及んだ。さらにそこへ陸自隊員、海自隊員、営林署職員なども加わって、総勢1,900名がこの火災の消火活動にあたった。
幸い、人家に延焼することはなかった。だが鎮火までには丸一日かかったという。雨のおかげもあってようやく落ち着いた頃には、すでに国有林115ヘクタール、市有林85ヘクタール、民有林140ヘクタール、合わせて340ヘクタールが焼き尽くされていた。
死亡者総数18名。戦後の山林火災では最悪の数字である。しかも犠牲者は皆ベテランの消防士であった。
実は、呉市消防局は、2年前の1969(昭和44)年にも山火事で消防士2人を失っていた。立て続けに仲間を失った消防隊員たちの悔しさたるや、想像するに余りある。
この呉市山火事は大きな教訓を残した。まず、消火活動においては、局地的な気象条件も考慮に入れなければならないということ。そして地上からの消火は危険すぎるため、上空からの消火活動を可能にしなければいけない、ということである。
こうして、全国の山間には風力計や湿度計が設置された。さらにまた、大規模な山火事においてはヘリの出動が常識となったのである。
当時、こうした上空からの消火活動は一般的なものではなかった。呉市山火事においても、消火のために出動したのは民間機が一機だけであったという。
現在この火災は、消防庁では「呉市林野火災」、また呉市消防局では「大張矢山林火災」などとも呼ばれている。
【参考資料】
◇ウィキペディア
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年
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千日デパート火災(1972年)
その日の夜、ホステスのA子はボックス席につき、お客の中年男性と一緒に盛り上がっていた。
その客は今までにも2、3回この店に来たことがあった。今では立派な御馴染みさんである。
地上7階にあるアルバイトサロン「プレイタウン」でのことである。
プレイタウンの週末の夜は盛り上がる。週休二日制など夢のまた夢という時代、土曜の夜は仕事帰りのサラリーマンたちで賑わうのだった。
ステージ上では、この日最後のショウが終わったところだった。バンドマンと踊り子が、拍手を受けながらいったん舞台の奥へと引っ込んでいく――。
だがプレイタウンの人々にとってはまだまだ宵の口である。この後にもバンドの演奏は続き、プレイタウンの夜は更に盛り上がる、はずだった。
時刻は22時40分のことである。ふと、バンドマンの演奏が止まった。
それと併せて、店内もどことなく奇妙な雰囲気に包まれる。ステージの近くのキッチンあたりで、数名の人間がうろうろしているのだ。
「なんや?」
プレイタウンの人々は、そちらに目を向ける。
よく見れば、男性従業員たちは消火器を持ってきたり、バケツで水をかけているようだった。
さらに、異変はそれだけではなかった。
「焦げ臭くないか」
「なんか匂うぞ」
煙の匂いが、店内に漂い始めたのである。
「火事やないかしらん」
まだ客とボックス席にいたA子は、思わずそう口にした。
「えっ火事、そらあかん。わても帰ろか」
お客は慌てて立ち上がろうとする。一応A子はそれを引き止めた。
「わて見て来ますねん……」
そして席を立ったが、やはりよく分からない。男性従業員達は消火活動をしているように見えるが、なぜ消火器やバケツの水で消えないのだろう?
火のないところに煙は立たぬ。何かが燃えて煙が上がっているのは確からしいが、そもそも何が燃えているのか? 火事の現場はどこなのか? しかしA子はその答えを得ることはできなかった。炎などどこにも見えない。
彼女はもとのボックス席に戻った。
「やっぱり、帰ったほうが無事やわ」
「ほなそうするか。おあいそしまひょ」
中年のお客は、そう言うと改めて席を立った。
A子に付き添われながら、お客はレジへ向かう。だがそこは既に人でいっぱいで、お勘定は簡単に済みそうになかった。
ざわざわ。ざわざわ。
(様子が変や)
誰もがそう思ったに違いない。この時、多くの人が異変を感じており、プレイタウンからの「脱出」を考えていたのである。
だがこの時までは、少なくともパニックはなかった。事態が急展開し始めたのはこの直後からである。店の出口から、突如として黒煙が進入してきたのだ――。
それは、さっき白煙が漂ってきていたキッチンとは正反対の方向だった。プレイタウン内部はあっちからも煙、こっちからも煙という状況に陥ったのだ。
「火事や!」
「助けて!」
黒煙に追われるようにしてプレイタウン内に戻ってきたのは、さっき店から出たばかりの一群だった。どうやら黒煙はエレベーターの竪穴を伝って上ってきたらしく、もはやエレベーターからの脱出が不可能なのは明らかだった。
非常階段もあるにはあるが、煙で充満しているエレベーターホールの奥にある。そこに辿り着くのは到底無理だ。
そうこうしている間に、キッチン方向からの白煙も、いよいよ本格的な黒煙に変わっていた。プレイタウンの温度も高くなってきている。
依然として炎はどこにも見えない。しかしとにかく、この建物のどこかが燃えているのは明らかだ。
「こっちや、こっちにベニヤの仕切りがある。それを破れば逃げられるはずや!」
その時そう叫んだのは、古参のボーイだった。彼はたった今、お客たちをエレベーター方向へ誘導したはいいものの、けっきょく黒煙に追われプレイタウン内に戻ってきたのだった。
ベニヤ板を破るというのは、この場合苦肉の策だった。当時プレイタウンの隣では、千日劇場という施設の改装工事が行われていたのだ。両者の間はベニヤ板一枚で区切られているはずだったので、それを破れば逃げられると考えたのである。
ところが、壁を覆っていたカーテンを開けたボーイは驚愕した。ベニヤ板だったはずの仕切りが、いつの間にかブロックに変わっていたのだ。
「なんやこれ、これじゃ逃げれへん!」
しかし彼の後ろに続いていた人々は、すでに冷静な判断力を失っていた。
「こっちから逃げられる言うたやないか!」
げに恐ろしきはパニックの心理である。多くの者が、そのブロック積みの壁を壊しにかかったのだ。しかも素手で。
なんや何やっとるんや、そないなことでブロックの壁が壊せるかい! ボーイは突っ込みを入れようとするが、もはや煙のせいで声も出ない。たまらず、他の数人と一緒に群集の中から脱出した。
こうしてプレイタウンは恐慌と混乱に陥った。どこかに突破口はないかと、人々はすがるものを探して右往左往し始める。その顔には一様に恐怖が貼り付いていた。
そこで、中央階段に通じるシャッターを開けようとしている者がいた。プレイタウンのマネージャーである。
なるほど、中央階段は屋上へ通じている。そのシャッターが開けば首尾よく脱出できるはずだ。
よっしゃ協力したろ。パニック集団から脱出したばかりのボーイは手を貸してやった。シャッターは電動式で、開閉ボタンを押してやるとすぐに開いた。
そしてゆっくりとシャッターが開いた……のだが、その向こうから現れたものを見て人々は悲鳴を上げていた。黒煙である。さらに大量の黒煙が、中央階段から流れ込んできたのだ。
出入口という出入口から流入してくる煙、煙、煙。もう逃げ場はない。
時刻は22時49分。ここで停電が起き、プレイタウンは暗闇になった。
ある者は怒号を上げ、またある者は何事かを叫んだ。しかしその誰もが、次の瞬間には呼吸とともに一酸化炭素中毒の餌食になっていった。煙の中、人々は倒れ、室内はたちまち静かになっていく。
さてA子である。彼女はこの猛煙の地獄の中で、窓へ向かっていった。
あの馴染みの中年客も一緒である。
人々がパニックに陥っている中を、二人は必死にくぐり抜けた。とにかく外気を吸わなければいけない、でなければ死んでしまう――。
何枚かの窓は、すでに破られていた。幾人かが外に顔を出して助けを求めている。
先述した通り、プレイタウンは7階にある。窓があるからと言って簡単に飛び出せるはずもない。人々は上半身を外へ突き出し、外気を吸おうとするので精一杯だった。
A子も、馴染み客も、もちろんそうした。
しかし煙はとてつもなかった。身を乗り出して外気を吸った途端、そうはさせまいと、背後から煙が覆いかぶさってくるのだ。目が痛い。喉も痛い。意識は朦朧とし、それでもなんとか空気を吸い、それで覚醒したかと思えばまた猛煙で失神しそうになる。この繰り返しだった。
もうアカン、と言わんばかりに窓枠を乗り越えたのは、A子と一緒にいた馴染みの客だった。
飛び降りる気か!?
ところがそうではない。なんと彼は、煙を避けるために建物の外の壁に張り付いたのだった。
A子にはそんな芸当はとても無理だ。窓から身を乗り出して失神寸前で助けを求め続けるしかない。
この時には、眼下の道路には消防車と野次馬が集まっていた。救助に来てくれている――! プレイタウンの人々は手やハンカチを振る。
「これや、これを使うといいはず」
一人の従業員が、思い出したように「救助袋」に取り付く。窓際に据え付けられたそれを外すと、地上へ投げ下ろした。
「救助袋」とは、長い袋状になった救出器具である。袋にもぐり込むと、そのままトンネルの滑り台のように地上に到達するという仕組みだ。
ところがこの火災では、この救助袋がかえって仇となった。従業員がこの袋の正しい使用法を知らなかったのか、人がもぐり込むための穴が開かれなかったのだ。せっかくの救助袋も、これではただの布の紐である。
それでも煙にまかれている人々にとっては、これが唯一の命綱だ。多くの者がこれにしがみつき、ぶら下がって、脱出を試みる。しかし使用法が正しくないのだからまともに脱出できるわけもなく、ほとんどが途中で墜落した。
「あかん、あれはダメや。あれやったら死んでしまうだけや」
A子のこの判断は適切だった。
この時、地上からは、野次馬たちが救助袋の下の部分を支えて必死に叫んでいたという。「袋にぶら下がるな! 中にもぐり込め!」と。
だが地上7階で意識朦朧となっている人々には、彼らが何を言っているのかは全く分からなかった。中には、野次馬から笑われているように聞こえて腹が立ったという者もいたほどだ。
救助袋による落下が引き金になったのか、この辺りから、煙に耐えかねて墜死する者も大勢出てきた。
ものの本によると、人はこういう時には高さの感覚が分からなくなるという。眼下に見える町の明かりがやけに近くに見えて、今この地獄にいるよりは……、と身を躍らせてしまうのだとか。
また地上7階からは、飛び降りた者がどうなったのかははっきりと分からない。あるいはそれで助かるのかも知れない、という一抹の期待が窓枠を乗り越えさせてしまうのだ。
こんな状況の中で、A子はとにかく耐えた。
彼女の足元では、煙によって昏倒した人々が何十人も横たわっている。ついさっきまで酒宴で盛り上がっていたはずの同僚のホステスやお客たちだ。また意識のある者も、次々に地上へ向けて飛び降りていくのである。まったく、悪夢以外の何物でもない状況だった。
やがて、待望の梯子車が、彼女のそばへ梯子を伸ばしてきた。
このルポで先に登場したボーイやマネージャーは、この梯子によって助け出されている。
しかし困ったことにこの梯子、なぜかA子のいる窓にはなかなか来てくれなかった。隣の窓で止まったままだったのだ。
ここで彼女は最後の試練を与えられたのだった。あの窓へ移動すれば助かる――。
しかし、たかが隣の窓への距離と言っても、室内は煙と熱気に満ちた地獄である。彼女にはこれは何よりも長い距離のように思われたに違いない。床の上を転がり、あがいて、もがきながら、ようやくそこへ辿り着いた。
そして助け出されて梯子を降りようとする時、彼女はあることに気付いた。
あの馴染みの中年男性客が、まだ窓のところにしがみ付いていたのだ。
この男性客の体力も大したものだが、A子の気丈さにも舌を巻く。彼女は、煙を吸ったためほとんど声が出ないというのに、しわがれた声でこう叫んだのである。
「あんさんも来なはれ。このままでは死んでしまう」
2人は無事に生還した。
☆
これは1972年(昭和47年)5月13日の出来事である。
この日の夜、大阪・ミナミで発生したこの火災は、その煙の恐るべき威力によって118名もの人々を死に至らしめた。
さらにこの翌年には大洋デパートで103名が死亡する大火災が発生し、ついに消防法は大きく改正されることになるのである。
こうしてこの建物は、日本の火災史を語る上で欠くことのできない悪名を歴史に刻み込むことになったのだ。
その名は千日デパート。
ここでの死者数は、日本の高層建築物の火災としては、今でも右に出るもののない数字である。
【参考資料】
◇安倍北夫『パニックの心理』講談社現代新書
◇岸本洋平『煙に斃れた118人』近代消防ブックレットNo.7
◇ウィキペディア
◇失敗知識データベース
済生会八幡病院火災(1973年)
1973年(昭和48年)に発生した、病院火災である。
この1972~73年というのは火災の当たり年だったらしい。とにかく当研究室でご紹介したものだけでも千日、大洋、北陸トンネル、高槻ショッピングセンターと、戦後の火災史の中でも有名なものがこの時期に集中している。そしてこの八幡病院火災もそのひとつ、というわけだ。
現場は福岡県北九州市、八幡区春の町。日付が3月8日に変わって間もない深夜、済生会八幡病院は入院患者235名も寝静まっていた。
この建物は地下が1階、最上階が5階まであり、計6階という規模だった。大病院である。さらに3階には屋上庭園もあり、当時は増築工事までしていたというから、かなり繁盛していたのだろう。
ところが、その人気急上昇中の大病院も、その夜、たった一人の酔っ払いの仕業でお釈迦にされてしまうのである。
その酔っ払いとは、ここ八幡病院に勤務する産婦人科の院長(39歳)※だった。彼は、当番医というのか宿直というのかよく知らないが、とにかくそういう夜勤の当番のアレだったようだ。時刻は午前3時を回っていたが病院内におり、そしてあろうことか、そんな時間まで同僚と飲酒していたのだった。
(※)よく考えてみると「産婦人科の院長」というのもおかしな表記だが、参考資料にはそう書かれていたので、ここではその表記で統一する。
「ウイーヒック飲みすぎちまったぜ~。どれ寝るか!」
と、多分そんな感じのノリで、彼は外来用のベッドに倒れこんだ。自分の縄張り、産婦人科の外来診察室である。
その院長先生が再び目を覚ましたのが3時21分。彼は、足元がやけに熱いのに気付いた。
なんだ? せっかくいい気持ちで寝てたのに……。しかし、そこで起きている光景を目の当たりにして、彼は吃驚仰天。なんと診察室のカーテンが燃えているではないか。
この失火の原因は、季節外れの蚊取り線香だった。彼が寝る前に仕掛けたそうだが、うまい具合にカーテンに火がついてしまったのだ。やっぱりアースノーマットに限るね、うん。
さあ酔いも一気に醒めた院長先生、まずはカーテンを上着で叩いて消そうとした。だが素人の叩き消しによってかえってあおられ、火勢は拡大。次には洗面器に水を汲んできて消火を試みたが、これも失敗。けっきょく彼は助けを呼んだ。
「おおい火事だ、消すのを手伝ってくれ!」
ああもう、遅いよ。
それで、とにもかくにも当直の医師や看護婦や婦長、さらに事務員や守衛などが集まって、皆でよってたかって消火にかかったがやっぱり駄目であった。すでに状況は「初期」消火と呼べるようなものではなく、消火器も消火栓も役に立たなかったのだ。火元の診察室は壁から天井に至るまで合板が張り巡らされており、これによって早くも天井裏にまで炎が回っていたのである。
午前3時51分。ついに婦長によって、消防へ最初の通報がなされた。時刻を見れば分かる通り、すでにカーテンへの着火が確認されてから30分も経過していた。
ついでに言えば、この直前には、近所の住人からも通報がなされている。その内容は「病院の4階から煙が出ている」というものだった。恐ろしいことに、関係者が初期消火のつもりで奮闘している間にも、煙はそんな階にまで上っていたのだ。
消防が到着した時は、ちょうど守衛が階段の下で放水を行っていたという。おそらくこの時点で、もう現場の診察室には入れない状態だったのだろう。
さあ救助活動である。「始まるザマスよ!」「行くでがんす」フンガー、てなもんだが、しかし現場は混乱した。まあ火災なのだから混乱して当たり前なのだが、一時、一か所の現場に救助隊の人員が無駄に集中したこともあったらしく、どうも病院側からの情報提供が適切でなかったようだ。
しかも、救助活動そのものも骨が折れた。消防の最終兵器・梯子車とスノーケル車もさっそく登場したのだが、先述したようにこの病院は工事が行われていたため、せっかくの緊急車両も半分くらいしか使えなかったのだ。
それにしても、である。今ここまで書いていて気付いたが、1972年と73年に頻発した高層建築物火災は、多くが工事中に発生している。千日デパートも高槻ショッピングセンターも大洋デパートもそうである。嘘だと思うなら読んでみるといい。どうやら工事中の建物というのは、ひとたび火がつくと大惨事になりやすいようである。
さて、このようにして入院患者たちの救助は行われた。内訳は以下の通りである。
2階……51名中、31名が看護婦によって救出。残りは消防隊によって救出。
3階……患者たちが屋上庭園に一度避難(誘導があったかは不明)。そのうち64名が屋外階段で避難、残り27名がスノーケル車で救助。
4階……24名が自主避難、58名が消防により救出。自主避難のうちの9名は、雨樋を使って脱出したという。
こうして見ると、けっこう助かっているのが分かる。だがよく読んでみると、病院関係者によって安全に避難誘導されたがどのくらいいたのかは疑問である。資料を読んでいても、病院関係者によって救助されたとはっきり明記されているのは31名分だけで、あとは皆「消防による救助」となっている。
そして死者も発生した。4階の333・335・338号室である。病室に4という数字をつけるのは避けていたようだが、結果を見ればそれも虚しいばかりだ――。まず1人が飛び降りによって死亡。救助されたものの病院搬送後に死亡したのが1人。あとは、自力で避難できない老人や子供の患者が病室に追い詰められて死亡している。計13人だった。
高層建築物火災は、上階に行くほど危険が増すと言われている。そのセオリー通りの大惨事である。
実はこの八幡病院、防火体制については「優等生」と言っても差し支えないほど整備されていた。防火対策委員会と自衛消防隊が組織されており、どちらも院長がトップとなって指揮系統が確立されていた。
特に、自衛消防隊とやらは隊員が250名もおり、昼夜の交代態勢で時間ごとの人員配置まで決められていたのだ。また避難訓練も行われていたし防火扉だってあった。
もっとも増築工事に伴い、いろいろと消防から指示は出ていたようだ。やれ5階には避難器具がないとか(ただし5階は研究室で患者はいなかった)、やれ防火区画と耐火区画の区割りの不備とか、やれ煙探知機と放送設備が基準に適合していないとか、ケチは色々つけられていたのだ。
とはいえこの火災、発生から鎮火に至る経緯を見る限りでは、防火態勢が整備されていたかどうかなど二義的な問題でしかないように思える。どんなにきちんと態勢を整えても、ルールを破って勤務中に飲酒し、小さいとはいえ火をそのままにして居眠りしてしまう人がいる限り、大惨事はいつでも発生するのである。
【参考資料】
◇消防防災博物館 特異火災事例
◇災害記録
http://www2s.biglobe.ne.jp/~miniks/rire8.htm#昭和48年
◇国立情報学研究所論文ナビゲータ「済生会八幡病院火災時における 患者を中心とした避難行動 : 病院建築の防火・安全計画に関する研究 その2 : 建築計画」
http://ci.nii.ac.jp/els/110003518637.pdf?id=ART0004010560&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1308750130&cp=
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西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
1973(昭和48)年9月25日のこと。
大阪府高槻市の駅前では、「西武高槻ショッピングセンター」の建築が進められていた。
開店予定日は4日後に迫っている。建物の外側はほぼ完成しており、市民はその日を心待ちにしていた。
しかし、工事は予定よりも少しばかり遅れていた。急げや急げ。建物の中では、作業員や店の関係者、ガードマンなどが連日建物の中で寝泊りしていたという。
そんな状況の中で出火した。朝の6時頃のことだった。
火元は地下1階である。
最初に気付いたのは宿直室の男性だった。6時27分、彼は警報装置が鳴っているのに気づいた。
「なんだ故障か? まさか火事じゃあるまいな」
しかし様子を見に行ってびっくり仰天、廊下には煙が充満していた。彼は慌てて宿直室の他のメンバーを叩き起こした。
「おい火事だ起きろ! 逃げるんだ!」
煙の勢いはすさまじく、消火や通報を行っている余裕はなかった。
当時は、分かっているだけでも宿直室で8名、発電機室で2名、店舗の中央で2名が仮眠中だった。その他の人を合わせると、全部で40名ほどが建物の中にいたという(70名という資料もある)。
実は、これに先立つ6時17分には、4階にいた作業員の1人が一度火災に気付いていた。「フロアに薄い煙が漂っている」と、1階の警備員室に連絡があったのだ。しかしこれは黙殺されたようである。
造りかけの西武高槻ショッピングセンターは、たちまち上階まで煙が充満して煙突のような状態になった。火炎も立ち上っていく――。
建物内にいた人々は、三々五々、避難を試みた。
だが、この避難も統率の取れたものではなく、一瞬の判断がそれぞれの明暗を分けた。例えば、最初に火災に気付いた宿直の男性は、途中で煙のため道に迷い、かろうじて仲間に助けられている。
消防への通報は、通行人の女性によって行われたという。
しかし建物の燃え方は凄まじく、とても消防隊が突入できる状態ではなかった。また、西武高槻ショッピングセンターは工事中だったため、これまで防災関係の検査や調査は全く行われていなかったのだ。建物の内部構造もはっきりしていないのでは、迂闊に中にも入れない。消防泣かせの火災だった。
建物の中からは、続々と避難者が飛び出してきた。その人数を以下に記そう。
まず、1階の出入口からは11名。地下からは33名。さらに工事用の足場を使って6名が脱出している。ロープを用いて脱出したつわものもいたらしい。また、梯子車によって、4階と5階にいた逃げ遅れの人も救助された(やっぱり建物の中には70名くらいいたのだろうか?)。
こうして、西武高槻ショッピングセンターは焼け落ちた。完全に鎮火するまでには、なんと20時間もの時間を要したという。建物も、開店の計画も全てがおじゃんである。
この建物は鉄骨耐火造りの頑丈なものだった。だが、長時間高温にさらされたため、梁は曲がるわコンクリート床は崩壊するわで、鎮火する頃にはまるで爆弾でも落とされたような有様だったという。
火災当時、建物内には段ボールが山と積まれていた。開店の際に陳列されるはずだった商品で、多くが可燃物だった。これが被害の拡大を招いたのだろう。
死者は6名。多くは、煙と暗闇のために逃げ道を見失ったとみられ、その内訳は作業員が2名、ガードマンが2名、電気工事関係者が1名、西武百貨店の関係者が1名だった。負傷者は13名に及び、損害金額も55億円に上った。
火災後、防火管理上の不備も次々に暴かれた。防火計画が消防に提出されていなかったとか、防災訓練が行われていなかったとか、例によってそんな内容だった。
被害が大きくなったのは、先述の山積ダンボールのほか、防火シャッターが作動しなかったのもその一因だった。工事中のホコリによる誤作動を防ぐため、最初からスイッチが切られていたのだ。
さらに言えば、火災報知機と放送設備もまだ「仮設置」の状態で、普通には使用できなかったという。スプリンクラーも屋内消火栓も火災報知設備も似たり寄ったりで、避難器具もなし。連結送水管は使えたそうだが、気づいた時にはフロアが煙で一杯だったため、結局使われることはなかった。防災設備は、ないも同然だったのだ。
素人の目線では「工事中なんだしそのへんの不備は仕方ないんじゃないか」…という気もするのだが、しかしこの火災の直後には、あの太洋デパート火災も起きている。安易に「仕方ない」で片付けられる話ではない。
工事中の高層建築物は、極めて危険なのである。できれば近づかない方がいいのだ。
ちなみに気になる火災の原因だが、これは放火だった。11月5日に、綜合警備保障のガードマンの男性が逮捕されたのだ。
彼は火災当時、建物内で勤務していた。だが体が弱く頭痛持ちで、長時間勤務が嫌で火をつけたのだという。開いた口がふさがらないとはこのことである。
【参考資料】
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