目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)

   まえがき
 
 筆者が11歳くらいの頃に起きた事故である。長崎屋火災と並んで、今でも妙に印象に残っている事例だ。
 で、今になって事故の記録を読んでいると、印象に残るのも当然だなと思う。これほどの正面衝突事故でカラーの記録写真が残っているのは、おそらく戦後の事例では他にないだろう。「お父さん、電車って正面衝突したらどうなるの?」と聞かれたらこの事故の写真を出すしかないという唯一の事例なのだ。
 しかしこの事故、発生するまでの経過がどうもややこしい。八高線の事故もそうだったが、正面衝突というのは経緯が複雑になりがちらしい。
 よってルポを書くに際しても、「事故が起きるまで」の記述だけが妙に長ったらしくなってしまった。まあそのかわり、可能な限り分かりやすくまとめたつもりである。よろしければお付き合い頂きたい。
 
   1・事故以前
 
 まずは、この図を見て頂きたい。
 
 
 貴生川(きぶかわ)駅と信楽(しがらき)駅という2つの駅の間に、1本の線路が走っている。
 そして途中には、小谷野信号場というものがある。
 この線路で電車がすれ違うことができるのは、小谷野信号場だけである。
 貴生川駅から信楽駅に向かって下り方向に進む電車と、逆に信楽駅から貴生川駅に向かう上り電車は、この小谷野信号場ですれ違う。そうすることによって安全が確保できるという寸法である。でなけりゃ正面衝突だ。
「そんなにうまくいくもんかね?」と一瞬思われるかも知れないが、これがうまくいくのである。何しろこの信号場は全てが機械仕掛けだった。片方の駅から電車が出発すると、信号場でそれを感知して、次にもう片方の駅から出た電車を停めてくれるのである。
 つまり後から出発した電車は、機械の采配によって信号場の待避線(図で言うと、横に膨らんだほうの線路)に寄せられて、先に出発したほうの電車が通過するのを待つことになるのだ。なるほど、これならスムーズにすれ違うことができる。
 ところが、このシステムを癪に思っていたのがJR西日本(以下JR西)である。このシステムに従っていては、後から出たほうの電車は小谷野信号場でずっと待っていなければならない。この待ち時間がJA西にとっては面白くなかった。
 JR西がそう考えるのには理由があった。
 この、貴生川駅から信楽駅までの間の路線「信楽高原鐵道」は、もともとは廃止になった旧国鉄信楽線を自治体が買い上げたものだった。第3セクター鉄道というやつである。
 JR西にしてみれば、自分とこは旧国鉄の直系であり押しも押されぬ大企業。一方あっちは、国鉄再建法のおこぼれに預かっただけの、田舎の「鉄道屋」に過ぎない。そんなポッと出の鉄道屋が、我々を差し置いて線路を走行するとは何事だッ! というわけだ。
 また、列車運行上の問題もあった。信楽駅は他の線路と交わっておらず、1本の線路しか通っていない。しかし貴生川駅は、信楽高原鐵道のみならずJR草津線も通っている。ヘタに電車が貴生川で足止めを食らうと、他の列車のダイヤにも遅れが出てしまう。これはますます面白くない話だった。
 そこでJR西は、信楽高原鐵道と、信号屋さんとの三社での会議の際にこう提案した。
「仮に、貴生川から信楽に向かう電車に遅れが出たとします。その場合、先に信楽駅から出発した電車は、必ず小野谷信号場で待っててくれるようにできませんか?」
 要するに、「俺のほうが遅くても、俺に道を譲れ」というわけである。
 さらに、JR西は驚くべき提案をしてきた。上記のような列車の行き来ができるように、JR西のほうで信号機をいじれるような仕組みを取り入れたいというのだ。
 つまりアレだ。貴生川駅からの電車の出発が遅くなりそうな時は、信楽駅から出発した電車が必ず小野谷信号場で停止するようにしたい。そのため、小野谷信号場の信号機を俺のほうで自由に操作できるようにさせろ、というのである。
 この提案に驚いたのは、信号屋さんである。
「ちょ、ちょっと待てアンタ。そんなことしていいわけないだろ!」
 先述したように、JRの路線と信楽高原鐵道は別のものである。いくらJRでも、よその線路の信号機を勝手にいじっていいわけがない。
「ふ~ん、それじゃ仕方ありませんね」
 ここでJRはごり押しをせず、信楽高原鐵道と話し合った。そして、最終的には以下のような仕組みにすることで話がついた。
 その仕組みとは、こうである。
 例えば、まず信楽駅を出発した電車があり、その後で貴生川駅を出発する電車があるとする。
 するとまず、JR西と信楽駅が電話で連絡を取り合う。そして問題がなければ、信楽駅のほうで、先に出発した電車が小谷野信号場で停まるように機械を操作するのである。
 まずJR西としては「俺のほうが遅くても、俺に道を譲れ」という主張は通した形である。また、信楽高原鐵道の信号はあくまでも信楽駅の側でいじることになるので、先ほど信号屋さんがビビッたような掟破りになることもない。
 こうして信楽駅には、小谷野信号場の信号を操作できる「抑止ボタン」が設置された。これによって、JR西から要請があった場合は、自分とこから先に出発させた電車を小谷野信号場に停めておけるという寸法だ。
 なんだかおかしな話ではあるが、とりあえずこれでめでたしめでたし――のはずだった。
 しかし、JR西はもっとおかしなことを企んでいたのである。先の会議が終わったあとで業者に直接電話をかけ、信楽駅の「抑止ボタン」をとっぱらわせたのだ。そして、小谷野信号場の信号を自由に操作できる装置を取りつけさせたのである。要するにJR西は、最初から信号屋さんはおろか、信楽鐵道の言うことを聞くつもりはなかったのだ。
 この時にJR西が取りつけさせた装置が、悪名高い「方向優先テコ」である。これを操作するとJR西の進行方向だけが常に優先されるという、実におめでたいテコだ。
 せっかくなので、以下ではこれを「オレ様優先テコ」と呼ばせてもらおう。
 いやはや、実におかしな話である。まあでも、これで本当にめでたしめでたし……ではないから問題なのだ。まだこの先があるのである。変なことを企んでいたのはJR西だけではなかった。信楽高原鐵道がわでも、これまたヘンテコな掟破り計画が進行中だったのである。
 その計画とは、「小谷野信号場の信号と、信楽駅の信号を連動させちまおう」というものだった。
 これは、どうやらJR西のオレ様優先計画のような陰湿なものではなく、2つの信号が赤なら赤、青なら青と同時に変わることで、電車の進行をスムーズにしようとしたものらしい。
 さあ、ここまでが前段である。こうして信楽高原鐵道には、不穏な空気が立ち込め始めたのであった――。
 
   2・事故当日
 
 1991年5月14日。周辺の山々には山ツツジが咲く、新緑の季節である。
 この日の午前9時30分、JR西の臨時快速列車501D「世界陶芸祭しがらき号」は信楽駅に向かって京都駅を出発した。この日の始発である。
 車両には、信楽で行われている「世界陶芸祭セラミックワールド‘91」に足を運ぶべく716名の乗客が乗り込んでいた。乗車率は約2.5倍で超満員の状態である。
 この「しがらき号」は50分ほどで貴生川駅に到着する。そして、そこから信楽高原鐵道に入り込んで信楽駅に行くという予定である。
 しかしちょっとした問題があった。おそらく乗客が多すぎるためだろう、9時30分の発車というのが、そもそも定刻の5分遅れだったのだ。
 こういう時にどうするかは、JRでちゃ~んと取り決めてある。「オレ様優先テコ」の出番である。
 このテコさえあれば、貴生川駅の出発時刻が定刻より遅れても、信楽駅からの上り列車は小野田信号場で待っていてくれる。こうしてオレ様は優先的にスムーズに進行できる、というわけだ。
 このような次第で、優先テコが作動した。
 
   ☆
 
「あれ? なんで赤信号のままなんだ」
 混乱したのは信楽駅である。上り534D列車の発車時刻になったというのに、なぜか駅の中の信号が赤のままだ。青にならないと出発できないやんけ。
 しかしこれは故なきことではなかった。
 思い出してほしいのだが、信楽駅は、小野田信号場と信楽駅構内の信号が連動するように改造しているのである。
 そしてこの日は、前述のように、JR西が「オレ様優先テコ」で信号を操作していた。そうして、信楽駅を出発した電車が小野田信号場で足止めされるようにしているのだ。
 JR西としては、信楽駅を発車した電車が小野田信号場で停まっていてくれればそれで良かった。そうすれば、信楽駅発の電車に道を譲ってもらう形ですれ違えるからだ。
 だが今の状況では、小野田信号場が赤になっていることで、信楽駅の信号も連動して赤になってしまう。JR西の思惑とは裏腹に、信楽駅発の電車は、小野田信号場で待つどころか駅からの出発すらもできなくなっていたのである。
 もちろん「オレ様優先テコ」の存在など知る由もない信楽駅の駅員たちは、首をかしげるしかない。今は電車を出発させるべき時刻なのだ。とすると駅の中の信号は青になるはずだし、それと連動して小野田信号場も青になっているはず。ただそれだけのはずだった。
「どうしましょう? 赤のまんまじゃ出発できませんよ」
 駅員たちは困り果てた。当時、信楽でイベントが開催されていたことは既に述べたが、信楽駅も大量の観光客たちを輸送するのに大わらわ。こんな時に信号の異常なんて冗談じゃない! という空気だった。
「ええい面倒臭い、どうせ故障か何かだ。青に変えちまって発車させろ!」
 結果、そのような判断が下された。
 これがいかに危険なやり方であるかは、当研究室にお馴染みの方はお分かりのことと思う。こういう、一本の線路で上りと下りが交互に行き来している場合、異常時には「人間タブレット」による「指導方式」で安全を確認してから発車するのが鉄道業界のルールである。
 しかし、こういう言い方は若干アレだが、信楽高原鐵道は第三セクターであるため、生粋の鉄道員に比べると従業員の安全意識が低かった。彼らは上司の判断通りに駅構内の信号を手動で青に変えると、534D上り列車を発進させてしまったのだった。
「大丈夫ですかね? もし貴生川駅から電車が来てたら正面衝突ですよ」
「なあに大丈夫さ。前にも同じことがあったけど、小野谷信号場の誤出発検知装置のおかげで問題なかったじゃないか」
「なるほど、そうですね」
 そう、以前にも似たようなことがあったのだ。具体的な日付を言えば4月8日と12日、それに5月3日もである。それらの日にも、信楽駅では駅構内の信号が赤だったのを無理やり青にして電車を出発させた経緯があった。この時もやはり「オレ様優先テコ」の影響があったのだろう。
 で、その時はなぜ大丈夫だったのかというと、今のエア会話にもあった通り「誤出発検知装置」というものがあったからだ。
 この装置は、まあ要するに安全装置である。例えば、信楽駅から赤信号で無理やり電車を発車させるとこれが作動する。そして、反対側から来ている貴生川駅発の電車を、小野谷信号場の待避線に寄せさせて、赤信号にも関わらず「誤出発」した電車をかわりに通すというものだ。
 つまり「信号無視の電車が来るぞ! 危ないからよけろ!」というわけである。これがあるから、信楽駅の駅員たちは「赤信号でテキトーに発進させても問題ないよ」と考えたのだ。
 状況を少しまとめてみよう。
 まずJR西はこう考えていた――「オレ様優先テコ」のおかげで、信楽駅から出発した電車は小野田信号場で停まっていてくれるだろう、と。
 いっぽう信楽高原鐵道はこう考えていた――「誤出発検知装置」のおかげで、JR西の電車は小野田信号場で停まっていてくれるだろう、と。
 しかしこの日、「オレ様優先テコ」はかえって現場の判断を誤らせてしまい、さらに言えば、よりにもよって「誤出発検知装置」は故障中だったのだ。というわけで、あっちが停まってくれるだろう、という両者の期待は完全に裏切られたのだった。
 ついでに言えば、小野田信号場という、この機械仕掛けのすれ違いシステムが導入されたのが3月のことだった。実に皮肉なことだ。安全確保のために導入されたシステムが、人為的にあれこれいじり回されたせいで、設置後たったの2か月あまりで大事故を誘発してしまったのだから。
 こうして事故は起きた。貴生川駅を出発した「世界陶芸祭しがらき号」と、信楽駅を出発した電車はものの見事に正面衝突。時刻は午前10時40分、場所は小野谷信号場よりもちょっと信楽寄りのあたりだった。
 現場は修羅場だった。
 どのくらいひどかったのか、ご存じでない方はちょっと検索して写真で確認してみるといい。あんな風にめちゃくちゃになった車両に観光客が鮨詰め状態だったというのだから、その凄惨さは推して知るべしである。
 死者は42名、負傷者は614名に上った。
 
   3・捜査と裁判
 
 さっそく滋賀県警は捜査を開始した。当時の新聞などを見ると、とりあえず信楽高原鐵道がわが追及されているようである。
 まあそれも当然だろう。とにかく、赤信号なのをろくに確認もせず青に切り替えているのだ。電車の運行システムに明るくない素人でも、信号無理は絶対駄目だろう、ぐらいは考える。
 JR西も、最初は「いやあ悪いのは赤信号で電車を出発させた信楽高原鐵道ですよ、当たり前じゃないですか~」という態度だったらしい。
 ところがここで、例の「オレ様優先テコ」の存在に気付いた人物がいた。ノンフィクション作家の佐野眞一である。
 おいおい、なんだこの「優先テコ」。事故当日の信楽駅の混乱はこいつが原因じゃないのか――!?
 というわけで、佐野はこの「優先テコ」の存在を即座に報じた。運輸省にも信楽高原鐵道にも届け出を出さずに設置されたこのテコは、JR西の安全管理無視の動かぬ証拠である、と。
 これで、責任追及の流れが変わった。最初は信楽高原鐵道の過失責任だけに向けられていたマスコミと警察の目が、JR西にも向かっていったのだ。
 もともと、JR西は「オレ様優先テコ」の存在を完全に隠蔽するつもりだった。ところがこの報道のせいで隠し切れなくなり、一気に責められる立場になったのである。
 しかし、JR西はそんなことではくじけない。どうやらどこまでも「オレ様優先」なのがこの企業の体質らしく、取り調べや裁判においても徹底して戦った。
 例えば、県警の取り調べに対しては、あらかじめJR内部の打ち合わせに沿った供述のみを行う。また全ての担当者はセクト主義を前面に押し出して、責任転嫁と責任逃れに終始。あげく「JRも被害者である」という意識に基づき、徹底的な証拠隠滅を行う。と、こういう塩梅である。下手な犯罪組織よりたちが悪い。
 だが、裁判ではJR西はお咎めなし。信楽高原鐵道の運行管理者2名と、信号設備会社の技師1人が、執行猶予付きの有罪判決を言い渡されるにとどまった。
 世間には、「JR西もこの時に有罪判決を受けるべきだった。そうすれば少しは企業体質も変わって、後の福知山線事故だって防げたかも知れない」という意見もある。しかし後述するが、刑事裁判について言えば、この判決は妥当だったのではないかと筆者は思う。
 ただ民事裁判では、さすがのJR西も責任なしというわけにはいかなかった。1999年の一審と2002年の控訴審を経て、信楽高原鐵道と一緒に過失が認定されている。
 それでもJR西の「戦い」は続いた。遺族への補償のために支出した費用のうち、9割を信楽高原鐵道等々が負担するよう求めてきたのだ(これが2008年のこと)。なんか、先の民事で上告できなかった鬱憤を晴らそうとするかのような変な裁判である。
 これについては、結局ついこの間の2011年に決着がついている。だが、ウィキペディアで読んでみても、何がどうなったのかよく分からなかった。とりあえず、JR西に若干のゴネ得があったようだ。
 
   4・筆者の感想
 
 ここからは、この事故に対する筆者の感想を述べたい。「きうりがまた何か語ろうとしてるよ」と思われた方は、ここで読むのを切り上げても結構である。
 この信楽高原鐵道の事故を調べるにあたり、若干の書籍とインターネットの情報にあたってみた。だがそれでどうも奇妙に感じたのは、どこでも判で押したように「JR西の無罪はおかしい」「JR西にも責任はある」「JR西はあの時刑事罰を受けるべきだった」……と書かれていることだった。 例の「オレ様優先テコ」の存在を暴露したノンフィクション作家・佐野眞一もその著書の中で、自分はJR西を有罪に追い込めるよな証拠を見つけた――というような趣旨の文章を書いている。
 筆者が奇妙に感じたのは、事故の経過があれほどややこしいのに、どうして皆はっきり「JR西は有罪!」と声高に主張できるのかということだった。
 それでさらに調べてみた。これだけ声高に叫ばれているのだから、きっとどこかに因果関係の立証がきちんとなされた文章があるに違いない、それは筆者のような素人にはよく分からない専門的なことなのだろう――そう考えて。
 しかし、そうした文章はどこにもなかった。佐野眞一にしても、例の「優先テコ」の存在がなぜ刑事裁判での有罪の証拠になるのか、その点は詳しく説明していない。
 試しに、読者の皆さんにも聞いてみたい。この事故の経過については、必要な点を大まかに書いたつもりだ。だがそれを読んで「この正面衝突は誰それのせいで引き起こされたのだ」とはっきり理解できただろうか。
 できないと思う。
 たとえばJR西の「優先テコ」は、それ自体は不正な代物ではあったが、それによって必ず事故が起きるわけでもない。むしろあのテコは、事故を起こさずに、なおかつオレ様優先で行けるように、というコンセプトで作られたとも言えるのである。
 では信楽高原鐵道による信号機の改造が原因だったのだろうか。だがこれも、それ自体で事故が起きるわけではない。誤出発検知装置もあった。
 ならば、誤出発検知装置が壊れてしまったのが事故原因だったのだろうか。
 確かにこれは、この事故の中で一番不幸な要素だったかも知れない。とはいえこれも、JR西と信楽高原鐵道が信号の違法改造を行わず、なおかつ信楽高原鐵道の赤信号による出発がなければ問題はなく、誤出発検知装置が壊れたから必ず事故が起きるというもんでもない。
 となるとやはり、列車運行上のルールを破った信楽高原鐵道が一番悪い、とするのが妥当かも知れない。結論を出すとすればやはりこの程度であろう。だからまあ、裁判の判決自体は妥当だったのではないかと思う。詳しい判決文までは読んでいないが。
 誰も、起こしたくて事故を起こすわけじゃない。大抵の事故災害で責任主体が完全に明確なのはまれで、この事故だって、単体では大きな問題にならないはずの過失が不幸にも積み重なり、それで発生したのである。
 ではなぜ巷であそこまで「JR西は有罪!」と言われているのかというと、これは要するにバッシングなのだと思う。筆者が横井秀樹現象と呼んでいるアレである。JR西はあくどい企業だから、いっそ有罪扱いしてしまおう、という考え方だ。
 確かにJR西の、事故に対する対応はひどい。この信楽高原鐵道事故でも福知山線の事故でも、どうしてこの企業はここまで世間の要請が読めないのだろう、人の神経を逆撫ですることばかりするのだろうと不思議になる。
 そしてこの事故の経緯を見れば、なるほど信楽駅で混乱が生じたのはナントカ優先テコなんぞを無許可で設置したせいだし、しかもそのテコの設置は内緒だったし、挙句バレそうになって隠蔽までしようとしている。これでは、JR西許すまじ、と言われるのも無理はないだろう。
 だがやはり「それはそれ、これはこれ」である。先述したが、JR西の行った行為が、具体的に事故発生の原因になったという証拠はどこにもない。ちょっとあくどい奴だからといって、やってもいない事件の犯人に仕立て上げるのはいかがなものか(民事になると話は別だが)。
「オレ様優先」のいい加減な大企業をただそうとするなら、まずその人は自分自身のいい加減さをただすべきだろう。――と述べる筆者もまた、櫂より始めよ、なのであるが。
 もちろん、JR西のような企業を刑事罰に問えないからといって、完全に無罪放免、あとは一切責めることができない、などということは決してない。刑事責任を問えないからといって、社会的責任の一切を免れるわけではないからだ。
 要は、個々の主体に対して適切に責任を負わせるのが大事なのである。特定の主体に対して、適切な場で、適切な形で、責任を取らせたり責任を果たさせたりすべきなのだ。そのために必要なのは、ある責任主体の責任の範囲を明確に示すような「責任マップ」なのではないかと思う。
 我々が心の中でそうした「責任マップ」を持っていれば、気に入らない奴は刑事裁判で有罪にしちまえ! と無茶苦茶なことを叫ぶこともなくなるだろう。そして事件事故が発生しても、適切な主体に、適切な形で、責任を取らせることができるようになるのではないだろうか。そうした営みの果てに、調和の取れた秩序ある人間社会が出来上がるのだと思う。子供じみたユートピアかも知れないが……。
 そんなことを考えさせられた、信楽高原鐵道事故であった。
 
【参考資料】
◆ウィキペディア
◆JSI失敗知識データベース
◆佐野眞一『クラッシュ 風景が倒れる、人が砕ける』新潮文庫(2008年)
◆山形新聞
 

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三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)

 事故の舞台となったのは、三陸鉄道南リアス線。岩手県大船渡市の盛(さかり)駅と、釜石市の釜石駅を結ぶ路線である。

 もとは国鉄のものだったらしい盛線と、なんだかよく分からないが「日本鉄道建設公団建設線」とやらを、第三セクター「三陸鉄道」がまとめて引き受けつつ開通したものである。

 これが1984(昭和59)年4月1日のこと。細かく言えば、第三セクター「三陸鉄道」が開業したのは、この南リアス線が開通したのと同時だった。

 その名の通り、沿線の海岸はみ~んなリアス式海岸だそうな。ただ、ほとんどの区間は長大なトンネルになっているため、海が見える箇所はあんまりないらしい。

 ともあれ今では、気仙沼線・大船渡線・山田線・三陸鉄道北リアス線・八戸線とともに、「三陸縦貫線」を構成する路線の一つとなっているらしい。

 さてそんな路線で事故が発生したのが、1994(平成6)年2月22日のことである。

 件の南リアス線小石浜~甫嶺間には、矢作川という川を渡る橋がある。15時20分、そこを通りかかった普通列車が突風にあおられて引っくり返った。

 この列車は、36-100形と36-200形からなる2両編成で、盛発久慈行きのものだった。筆者はここの地形を見たわけではないが、コケたのは橋の上ではなく陸地で、築堤下への落下で済んだのは幸いだったのかも知れない。水の中に落ちていれば被害はもっと大きかったのではないだろうか――結果として死者はなく、5名の負傷で済んでいる。

 もちろん、陸地なら転覆しても大丈夫、なんてことを言うつもりはない。車両は2台とも廃車となり、紛うかたなき大惨事である(余談になるが、予備車が不足したため36-500形を代替製造することになったとか何とか。鉄道の何とか形とかには興味がないのでサッパリだ)。

 この事故を受けて、その後現場には暴風ネットや風速計が設置されるようになった。また列車無線の整備や運行規定の見直しが行なわれ、今でも三陸鉄道では毎年2月22日を「安全を考える日」と定めているという。

 ウィキペディアではこの事故について、「乗客が撮影中、事故に遭遇した映像はあまりにも有名。」とちょっと下手な文章で書き添えられていたが、この映像というのがどんなものなのか筆者は知らない。とりあえず、あまりにも有名だそうです。

 なお、この三陸鉄道南リアス線は、かの東日本大震災ではもろに影響を受けて、約2年間の全線不通を余儀なくされた。運行が再開されたのは2013(平成25)年の4月3日で、現在は震災を乗り越えた路線として「震災学習列車」というユニークな列車も運行されている。

 

【参考資料】

◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◇ウィキペディア

◇三陸鉄道ホームページ

http://www.sanrikutetsudou.com/

 

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木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)

 1913年(大正2年)に起きた山岳遭難事故である。

 長野県の中箕輪尋常高等小学校では、8月になると、中央アルプス北部にある木曽駒ケ岳(2956m)に修学旅行に行くという行事があった。完全な年中行事として定められていたのかは不明だが、とりあえずこの学校では1911年(明治44年)も、また1912年(明治45年~大正元年)もこの行事がなされていた。

 で、今年もやろうということになったのだが、ここでこういう反発があった。

「校長先生、マジっすか!? もうそういう時代じゃないっすよ~」

 登山によって心身を鍛練するなどというのは、教育方法としてはもう古い――というのがこの時代の「流行の」考え方だったのである。

 当時、日本の教育界では「生徒の自由を尊重し個性を育てる」のをモットーとした理想主義的教育がブームとなっていた。いわゆる白樺派の影響である。どうもその実態は現代のゆとり教育と似たようなものだったらしいが、とにかくそれで、軍国主義的な鍛錬教育なんて古い! なにより生徒を大勢連れてアルプスに登るなんて危険だ! と言われたのである。

 しかしこの登山修学旅行を立案企画した赤羽長重校長は、反対を押し切る形で決行した。

 結果的には、これが悲劇を招くことになった。

 生徒から希望者を募ったところ、手を挙げたのは25名。さらに地元の青年会のメンバーが9名、引率教師が3名参加することになり、合計34名となった。大所帯である。

 これだけの人数を率いていく以上、準備には細心の注意を払わねばならない。まず何よりも心配なのは山の天候だ。これについては、校長は直前まで何回も側候所へ電話をかけ、確認をしている。

「26日に駒ケ岳に登りたいんですけど、大丈夫ですかね?」

 これに対する回答は「北東の風、曇り、にわか雨」というものだった。まあ夏の天気としては普通であろう。
 こうして1913(大正2年)8月26日、登山は決行された。

 しかし、この後の天候の変化については、とにかく赤羽校長一向は不運だったとしか言いようがない。当時、八丈島のあたりに停滞していた低気圧があったのだが、これが26日の夕方にいきなり動き出したのだ。

 当時の気象台はこれを「低気圧」と呼んでいたが、今でいえば立派な台風である。これがどの側候所でも予測できないほどのスピードで発達し、どえらい速さで移動し始めたのだ。

 まさに韋駄天低気圧とでも呼ぶべきこ奴は、26日の夜には東京を通過。そして銚子港付近を北上すると東北地方を縦断し、津軽海峡に抜けていった。このため日本海側、特に新潟や富山で大きな被害が出たという。

 そして長野県でも、直撃というほどではなかったものの、この低気圧の影響で激しい風雨があったようだ。赤羽校長以下37名は、よりにもよってアルプス山中でこいつに遭遇してしまったのだった。

 さて問題の木曾駒ヶ岳であるが、この山に登るのはどのような感じなのだろう。これについては、某サイトで文章を見つけたので引用させて頂こう。

 

『木曾駒ヶ岳は中央アルプス北部にあり、古くから信仰の対象とされ、既に1532年には山頂に駒ヶ岳神社が建てられたそうです。10本程の登山コースがありますが、標高2640mの千畳敷へのロープウェイ開通後は登山道の利用者は少なくなっています。
 95年前、ここで教師と生徒たちの大量遭難がありました。先日、そのコースをたどってみたのですが、テントを背負っての登りは結構きつく、コースタイムの7時間弱をかなりオーバーしてしまいました。当時は登山口まで余分に数時間歩かなければならなかったわけで、14-15歳の彼らの脚力に驚かされました。』
 ウェブサイト「読んで ムカつく 噛みつき評論」より
http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/08B/seishokunoishibumi.htm

 

 筆者も十代の頃にちょこっと山に登ったことはあるが、それでも7時間弱はなかった。確かに当時の学童の脚力には驚かされるが、しかし、いずれにせよその疲労は尋常なものではなかったに違いない。

 むしろ脚力の問題だけならまだ良かったのである。登山の途中から、文字通りに「雲行きが怪しくなって」きて雨風にさらされたことで、彼らの体力は途中からみるみる奪われていった。

 それでも、一行は進んでいった。山頂付近の地点に小屋があったのである。とりあえずそこに入れば雨風も凌げるし暖も取れる。それまでの辛抱だ――。

 ところで下調べの段階では、この小屋にはちょっとばかり問題があることが分かっていた。この登山旅行の前に、山の付近の村人に聞いていたのである。その村人によると、くだんの小屋は去年に比べて破損が激しく、修繕しないと使えない状態だということだった。

 でもまあいい、これは鍛錬教育なのだ。皆で力を合わせて小屋を修繕し、そこで達成感を味わおうではないか! と、赤羽校長は前向きに考えていたかも知れない。

 ところが、である。

 いざ到着してみると、この小屋はもはや、修繕すれば使えるとかいうレベルではなかった。壁や屋根が全部はぎ取られており、残っていたのは壁の石垣だけだったのだ。焚火の跡も残っていたというから、どこぞの馬鹿たれが暖を取るために小屋を破壊したのは明らかだった。

 ちょっと信じられないような話だ。到着した一行が真っ青になったのは言うまでもない。それでもめげずに、赤羽校長は号令をかけた。

「ま、まあいい。これは鍛錬教育なのだ。残った石垣を利用して小屋を建てるぞッ!」

 というわけで、台風が迫りくる天候の中、登山メンバーたちは急ごしらえの避難小屋を作った。近くの樹木を切り出して、残った石垣の上に並べてゴザを敷き、屋根が飛ばされないように石を乗せていく――。

 小屋の広さは4坪。ここに37名が入ったのだから、計算すると畳一畳に5人が固まることになる。まるきり鮨詰め状態で、天井も、立ち上がれないほど低かったという。

 しかも、いかんせん敵様は台風である。火を焚こうにも何もかもが濡れているし、雨漏りのためすぐ消える。やっと火がついたかと思えば小屋に煙が充満して燻製状態、その上寒い。そして風は一向に鎮まる気配を見せず、厳寒地獄にさらされた学童たちは意識も朦朧としてくる。暴風で小屋が壊れるのも時間の問題と思われた。

 そんな中、よりにもよって小屋の中で死人が出た。おそらく今で言う低体温症だったのだろう。これにより小屋の中はパニックとなった。

「ふざけんな、こんな鍛錬授業やってられっか! 帰る!」

 こうしてメンバーは散り散りになり、嵐の中を下山し始めた。風雨による寒さと往路の疲れで誰もが疲労困憊していたはずで、これはほとんど自殺行為だった。途中で倒れる者が続出し、登山に参加した37名中11名が死亡した。

 この山では、標高2600メートルのあたりに稜線があるという。上りにしろ下りにしろこの稜線を通ることになるわけだが、これが3時間ほど続くのだ。雨風を一切凌ぐことができないその場所で、遭難者のほとんどは昏倒していった。

 死亡した11名の中には、登山の企画立案を行った赤羽校長も含まれていた。彼は途中で動けなくなった学童に自分の防寒シャツを与えるなどして、最終的には帰らぬ人となったのだった。

 そして、なんとか麓の村に辿り着いた者が遭難を知らせた。

 最初に知らせを受けた内ノ萱という地域は、僅か十数戸の小さな村だったという。だがそこは古くからの駒ケ岳登山口の集落として有名で、案内人組合の組織まで組まれているほどだった。よって暴風時の駒ケ岳のことは多くの者がよく知っており、この天候の中で登山と下山を行ったパーティがあったと聞いた村人は、それだけで色を失ったという。

 こうして、この内ノ萱を始めとして、近隣の横山、小屋敷、大坊、平沢といった集落でそれぞれ半鐘が鳴らされた。そして伊那町消防団員、西箕輪村消防団員、南箕輪村消防団員などが救助隊として参加した。

 総数200名超の大規模な救助活動だった。彼らはまる3日もの間、山中で露営するなどして救助と捜索にあたった。

 特に29日の夜などは、駒ケ岳の周辺で灯りがいくつも揺れ動き、この世のものならざる光景であったという。近くのある学校の校庭からは、山中で無数の灯人が行き来するのが見え、まるで鬼火か人魂のようだったとかなんとか。

 こうして、登山に参加した37名のうち、10名の死亡が確認された。残る行方不明者は1人である。

 29日には「救助隊」が「捜索隊」へと名前を変更し、さらに30日も未明から捜索、捜索、捜索が行われた。しかしどうしてもこの最後の1人だけが見つからず、あとはなんとなくグダグダと遺体探しが行われたようである。最終的には、この最後の1人の生死確認に対しては懸賞金がかけられた。

 さて、ここからは、事故を起こした学校の歴史になる。ちょっと蛇足めいてくるが、関係のない話ではないのでお付き合い頂けると幸いである。

 言うまでもなく、事故を起こした中箕輪尋常高等小学校は轟々たる非難を浴びることになった。まあ子供たちが死んでいるのだから、無理からぬことであろう。

 これがきっかけとなり、学校は荒廃した。学童を大量に死なせたという悪名から、誰も校長になりたがらず、さらに例の自由主義教育の悪影響から、校内暴力や学級崩壊が蔓延したという。大正初期だというのに、なんだかついこの間の話みたいである。歴史というのは、かくも繰り返すものなのか。

 しかし大正12年に赴任してきた新しい校長が、ここで思い切って方針を転換。教育者に対しても、また生徒に対しても、逸脱を許さない厳格な教育方針でもって臨んだ。これが功を奏し、やっと学校は蘇ったのである。

 教育思想的にも転換期にあったようだ。それまでの自由主義的な考え方は下火になり、教育でもきちんと統率が取れなければいかん、という空気になっていたようである。

 さてその流れで、駒ケ岳の登山イベントも復活することになった。

「えっ、またやるの!?」

 12年前の悪夢を思い出した者も、大勢いたことだろう。だが、当時のこの上伊那郡という地域の「空気」がどんなものだったのかは推し量るしかないが、どうもこの頃には、この辺りの学校で駒ケ岳修学旅行登山を実施していないほうが少数派だったようだ。

 こうして大正14年の7月26日に、新校長は村人の反対を押し切って登山修学旅行を決行した。周到に準備が整えられ、そして校長自らが高等科2年生を引率する形で行われたこの登山は大成功に終わり、遭難現場に建てられていた記念碑に対しても献花がなされたという。

 そしてここからがドラマである。

 この登山旅行が行われた日は、上伊那郡青年会による「駒ケ岳マラソン大会」が行われていた。

 それで、この大会に来ていた青年会の人々が、一匹の兎に遭遇したのだ。

 その日は快晴だった。マラソンの最後の走者が走り去った後、彼らはこの辺りでは珍しい白兎を見つけた。それでなんとなく追いかけてみると、兎は駒飼ノ池の近くのハイマツ地帯に走りこんだのである。

 兎は、そこでじっとしていた。だがよく目を凝らしてみると、それは風化した白い布切れで、ぼろぼろの布と人骨があったのである。12年前に行方不明のままだった遭難者の遺体だった。

 登山イベント再開の日に、最後の行方不明者の遺体がようやく見つかったのである。筆者は別に神秘論者ではないけれど、さすがに「なにかの巡り合わせ」を感じずにはいられない出来事だ。

 ちなみに、事故があった直後の1915年(大正4年)には、駒ケ岳山頂には「伊那小屋」という避難小屋が建てられた。これはその後も増改築がおこなわれ、「西駒山荘」という名前で残っている。建物には、今でも事故当時そのままの石垣が使われているという。

 

   ☆

 

 ところで、この遭難事故については、新田次郎が『聖職の碑』というタイトルで小説化している。これは後に映画化もされた。

 内容的には、この山岳遭難事故を通して、舞台となった長野県上伊那地方の学校教師やその周辺の人々の人間模様を描いたものである。もちろん新田次郎の作品なので「山岳小説」には違いないのだが、同時に教師の教育に対する愛と情熱を描いた「教育小説」でもある。

 新田は、事故そのものに前から興味を持っていたそうだ。だが実際に書くための大きなきっかけになったのは、遭難現場に建てられた「遭難記念碑」だったという。

 この記念碑は実際に存在する。当時の教育委員会が建てたものだ。事故から12年後に登山旅行が復活したさい、記念碑に献花がなされたと先に書いたが、その記念碑というのがこれである。

 それを見た新田次郎は、なぜ「遭難慰霊碑」ではなく「遭難記念碑」なのか? という疑問を抱いた。そしてその建立の経緯を取材しながらノベライズしていったところ、できあがったのが『聖職の碑』だったというわけである。そのへんの取材の経緯は、新田お得意の巻末取材記に詳しい。

 それでこの「遭難記念碑」の由来なのだが、これは学校側が建てたものらしい。学童たちの登山授業を行う上で、もう二度とこんな事故は起こすまい――。そんな誓いが込められているのである。だから亡くなった人々を慰めるための単なる「慰霊碑」ではなく、未来へ向けて「念を記した」まさに記念碑となったのだ。

 筆者としては、これは感心する。事故災害の記録を読んでいると、最終的に当事者によって慰霊碑が建てられて、それでこの話はおしまい、水に流しましょう、という流れになっているのをよく見かける。それではイカンのだよと思うところがなくもないのだが、ともかく「慰霊」という習慣が日本にはあるのだから仕方がない。この習慣をもうちょっと改善すれば、日本の事故災害はもう少し減らせるかも知れないのにな、と思っていた。

 この大量遭難事故は、決して他人に対して誇れるようなものではない。新田も述べているが、この事故は登山時に案内人をつけなかったこと、下調べをしなかったこと、悪天候時に判断ミスがあったこと、などが重なって起きた人災である。しかし「教育」という普遍的テーマが背景に据えられることで、この事故はかえって未来の教育に対する「記念」となったのだ。

 本来、事故災害の記録というのはこうあって欲しいと筆者は思うのである。

 そしてそのためには、過去、現在、未来に繋がっていく普遍的なテーマを、事故の背景から読み取らなければいけない。「事故の教訓を生かす」「尊い犠牲」という言葉は、事故災害が起きるたびによく使われるが、そのような普遍的テーマの読み取りがなければ、こうした言葉もただの言葉で終わってしまうのである。

 特に「尊い犠牲」という言葉について言えば、悲惨な事故の被害者として慰霊するだけでは、それは「尊い犠牲」などではないと思う。それが本当に「尊い」ものになるかどうかは生きている者次第なのだ。ただ単に「慰霊」されただけで忘れられてしまっただけの犠牲者などというのは、こう言ってはなんだが、尊くもなんともないのだ。

 そうした意味で、この山岳事故は、日本の事故災害史上において犠牲者の霊が明確に「英霊」となり得た希少な例だと思う。事故が起きて以降、この山での修学登山において、死亡者が出るような重大事故は発生していないという。

 事故があった地域の学校では、今でもこの修学登山は行われているのだろうか。山を登り切ったところで遭遇する記念碑を前にした時、学童たちはどんな思いに捉われるのだろう。別に『聖職の碑』の文章の熱意にあてられたわけではないが、書いていて感慨深くなる事例であった。

 

【参考資料】
新田次郎『聖職の碑』
箕輪町立 箕輪中部小学校ホームページ
http://www.ed.town.minowa.nagano.jp/chubusyo/enkaku.html
ウェブサイト「読んで ムカつく 噛みつき評論」
http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/08B/seishokunoishibumi.htm
ウェブサイト「山小屋ナビ.com」
http://yamagoya-navi.com/yamagoya_shosai_2.php?PRIMARY=1020

 

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鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)

 ちょっと前に一世を風靡したNHKの連続ドラマ『ゲゲゲの女房』で、「第三丸爆発事故」というのが登場する。そのモデルになったのが、今回ご紹介する玉栄丸(たまえまる)爆発事故である。

 

 発生したのが鳥取県の境港市だから――というわけではないだろうが、まるで妖怪のように捉えどころのない不気味な事故だ(念のため言っておくと、境港市は水木しげるの生まれ育った町)。発生したのが終戦直前だったため大々的には報道されず、原因も長らく分からずじまい。事故のあった事実だけが民間伝承のように語り継がれてきたのだ。

 

   ☆

 

 1945(昭和20)年4月23日の朝のことである。鳥取県西伯郡境町大正町(現・境港市)で、接岸していた一隻の貨物船から荷物の陸揚げが行われていた。

 

 この貨物船が玉栄丸である。建造されたのは1917年、総重量は1,000トン弱。まあ特別大きいというわけでもない平凡な汽船だ。そこに当時は火薬が山と積まれていたのだった。

 

 んで午前7時40分頃、これが大爆発を起こした。船に積まれていた火薬に、どこからか引火してしまったのだ。

 

 どぼずばああああああん。

 

 この最初の爆発からして凄まじかった。なにしろ100キロ先の建物にまで聞こえるほどの大音響で、近所の住民の中には地震と勘違いした者もいたようだ。

 

 さっそく地元の警防団、消防隊、警察官、軍関係者が駆け付けて消火活動が行われた。野次馬も大勢やってきて、その様子を遠巻きに見ていたという。

 

 ここで第二の爆発が起こったから目も当てられない。港の岸壁にあった火薬倉庫に延焼してしまい、今度はこちらが大爆発を起こしたのだ。これが8時30分頃のことで、消火作業中だった人々も、野次馬も巻き込まれてしまった。

 

 結果、境町の市街地の3分の1が焼失。死亡者115名、負傷者309名、倒壊家屋も431戸に上った。直接間接を問わない被災者の総数は、最終的には1,790人にも上っている。これは、第二次世界大戦中に山陰地方で発生した火災としては最大のもので、なんか爆発事故プラス「境町大火」とでも呼びたくなるような趣である。爆発事故だって、広い意味でいえば火災の一種だしね。

 

 そして、事故の記録はいったんここでストップする。軍に関するスキャンダルということで報道管制が敷かれたのだろう、大々的に報じられることもなく、爆発の原因も不明のまま、この事故は闇に葬られる形となった。

 

   ☆

 

 さてそれで、ここからが「解決編」である。玉栄丸はなぜ爆発したのだろうか?

 

 これ、現在はちゃ~んと答えが分かっている。なんと煙草のポイ捨てによる引火だったのだ。それも下手人は一般人ではなく軍関係者だったというから呆れる。この真相が明らかになるまでは「あの爆発は軍に対するなんらかの謀略だったのではないか」という説も囁かれていたようだが、もう台無しである。

 

 この事実が判明したのはごく最近のことである。事故直後に聞き取り調査を行っていた一人の男性が手記を残しており、そこにぜんぶ書かれていたのだ。

 

 この手記は1985(昭和60)年に書かれたもので、かつての軍関係者のサークルの会報に寄稿されていた。よって内々では知られていたのだろうが、その情報が、2007年になってから新聞社に持ち込まれたのだ。

 

 その手記によると、こうである。

 

 事故直後の調査中に、一人の不審な上等兵と出くわした。彼はなんだか落ち着かずおどおどしていたそうで、まあ不審者の見本みたいな様子だったのだろう。それで追及したところたちまちゲロしたのである。以下、その自白内容の一部を抜粋させていただく。

 

「陸揚げの途中で休憩があった。煙草に火を付けて一服吸い、無意識に吸い殻を投げ捨てた。ところが、そこらにこぼれていた火薬に引火し、パッ! パッ! と火が走り出した。数秒の後、いきなりドカン! ドカン! と大爆音、その時、大爆風で前に倒され、背中に火傷を負った」

 

 涙ながらの自白であったという。

 

 この上等兵が具体的に誰かのかは分かっていない。少なくとも手記にその名前は記されていなかったという。

 

 問題はこれが本当なのかどうかだが、信憑性はわりあい高いようだ。事故当時、一般人の中にもこれと同様の話を耳にした者がいたのだ。どうやら噂話程度には広まっていたらしい。

 

 普通に考えれば、事故原因が判明してスッキリするところである。だが遺族としては複雑な心境であろう。60年経ってようやく明らかになったかと思えば「軍関係者の煙草のポイ捨て」だったのである。しかもその真相は隠蔽され続けて、誰の処罰も謝罪もないままうやむやにされてしまったのだから。

 

 まあ噂になっていたほどだし、軍関係者の中には、この真相を知っている者も多くいたに違いない。だとすればこれは、当世風にいえば明らかな「不祥事隠し」であろう。

 

 うーん、こういう書き方をするとお堅い話になってしまうけど、国には謝罪と賠償の義務があるんじゃないかなあ(個人的意見)。

 

 この事故は、現地に慰霊碑も建てられている。現在も、事故が発生した毎年4月23日には献花式が行われているという。

 

 蛇足じみた話だが、その献花式で、市長がこのように述べたことがあるという。ちょっとご紹介しておこう。

 

「今の時代に生きる者として二度と悲惨な歴史を繰り返さないよう、平和の尊さを後世に語り継いでいく責任がある」。

 

 なんでやねん、とツッコミたくなったのは筆者だけだろうか。これ、事故の真相が判明した後の言葉なのである。事故原因はただの煙草のポイ捨てであり戦争とは関係ないのだから、この言葉は明らかにピントがずれすぎであろう。

 

 おそらくこの言葉には「慰霊」の意味があるのだと思う。この事故の犠牲者たちは、不祥事隠しのせいでまるきり「浮かばれない」状態にある。そこで、軍イコール戦争という図式を持ちこんで、犠牲者をむりやり「英霊」に祭り上げて丸く収めようとしているのだろう。

 

 でもあえて書かせて頂くと、この事故から導かれる教訓はやはりただひとつだと思う。「煙草のポイ捨てはやめよう」――これだけだ。なにもわざわざ犠牲者を英霊扱いしなくとも、そっちを徹底して事故の再発防止に結び付けていくほうが、筋としては通っている気がするのである。

 

【参考資料】

◆ウィキペディア

◆個人ブログ『歴史~飛耳長目~』

http://saint-just.seesaa.net/article/43614503.html

◆ウェブサイト『近代化遺産ルネッサンス 戦時下に喪われた日本の商船』

http://homepage2.nifty.com/i-museum/index.htm

 

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二又トンネル爆発事故(1945年)

 事故が起きたのは終戦直後だが、戦争のおまけみたいな大惨事である。
 事故が起きたのは1945(昭和20)年11月12日。
 場所は福岡県田川郡、添田町落合地区。日田彦線という鉄道路線がこの部落を通っているのだが、その路線上に二又トンネルは存在した。ただしトンネル自体は貫通して完成していたものの、戦争のため工事は中断されており、トンネルの手前で鉄路が途切れている状態だったという。
 戦時中、日本軍はこの二又トンネルに大量の火薬を隠すことにした。
 当時、北九州市の小倉には軍事施設が多く存在し、膨大な量の火薬や弾薬が備蓄されていた。だが、なんか当時軍事施設の一部が焼失したせいで火薬の置き場所がなくなってしまったらしい。またこの頃、日本軍は「来たるべき空襲や本土決戦に備えて、火薬類を分散させて隠しておかねばならない」と考えており、必要に迫られての火薬移動となったのだった。
 移送先として選ばれたのは、二又トンネルと吉木トンネルという二つのトンネルである。搬入作業は1944(昭和19)年から1945(昭和20)年の2月にかけて行われた。地元の婦女子が駆り出されて、トロッコを用いてこの二つのトンネルに火薬を詰め込んだという。
 よーし、これでいつ本土決戦が起きても大丈夫! ――と、軍の人々が本心から安心したのかどうかは定かでない。とにかくこの後、8月15日に終戦と相成ったのは周知のごとくである。
 さて、第二次世界大戦が終結すると、この大量の火薬はアメリカ軍に引き渡されることになった。具体的に言えば「連合国福岡地区占領軍」である。
 8月末には、さっそく在庫の確認が行われた。願いましては火薬が532,185キロ、爆弾の信管が185キロときたもんだ。凄まじい量である。筆者は最初、女性たちが手作業で運び込んだと聞いた段階で、火薬の量はそう多くなかったのかなと考えたものだ。だから、この具体的な数字を目にした時は目が点になってしまった。
 内容物についてもう少し詳しく述べよう。前述の火薬というのは「三号帯状火薬」である。綿に硝酸と硫酸を染み込ませ、アルコールとエーテルで練り合わせたものだ。これを25グラムぶんだけ亜鉛管に詰め込んだものがぎっしり木箱に入っており、これが先述の約53トンぶんというわけである。
 さあ、それでは米軍は、この厄介なブツをどう処理することにしたのだろう? 答えはこうだった。
「ヘイ、こんなもん燃やしちまえばいいのさHAHAHA!」
 このへんから暗雲が立ち込めてくる。まず11月8日、添田警察署で、火薬の数量が書かれた書類が米軍に引き渡された。これで実質、あのトンネルの中の危険物は全部米軍の管理物となったわけだ。
 そしていよいよ、運命の11月12日がやってくる。この日、占領軍のH・ユルトン・ユーイング少尉は部下を引き連れてジープで添田警察署に到着。火薬の焼却作業を行うので、手伝いに何人か寄越すよう要請してきた。
 はいはい、アメリカ様にゃ敵わねえ。警察官らも同行し、一行はまず吉木トンネルへと向かった。最初に述べた二つのトンネルのうちの片方である。こちらにも爆発物が詰まっている。
 ユーイング少尉率いる米軍の皆さんは、この吉木トンネルで、まず火薬への着火を実演してみせた。トンネル内の箱から火薬を取り出し、火をつける。当然火薬は燃える。爆発はしない。
「ヘイ、分かるか日本人諸君。火薬は火をつけたからって爆発するわけじゃない。てゆうか爆発の危険性は絶対ないから大丈夫」
 へえ、そうなんだ。でもそれじゃ火薬の意味ないんじゃないの? 絶対安全てことはないだろう――と筆者は素人なりに考えてしまうのだが、とにかくこれを鵜呑みにした警官たちは、付近の住民にもそのように知らせた。地域住民の皆さんもひと安心である(点火した時だけ住民を避難させた、という記録もある)。
 こうして、まず吉木トンネルの火薬が焼却処分された。導火線を仕掛けて着火すると、一同は移動を開始。次は二又トンネルのほうである。
 到着したのは、例の線路が途切れている北口のほうだ。入口から10メートルほど離れた場所から導火線を伸ばし、点火したのが15時頃。しばらく見守っていたが、これも爆発の危険性はなさそうだった。
「ヘイ、後は任せたぜ日本人。オレたちは帰るぜ」
 ユーイング少尉一行は、見張り作業を警官へ任せてジープで立ち去った。これが15時30分頃。
 見張りというのは、つまり付近の住民が近寄らないように……という趣旨である。ところがこのおよそ1時間後、もはやそれどころじゃない事態が発生した。トンネル内から火が吹き出してきたのだ。
 この火炎、最初はチロチロと細いものだったらしい。だが、これが次第に拡大して火柱のようになり、ついには付近の民家に燃え移った。
 おいおい、なんだこれ。爆発はしないって言ってたけど、火事になるなんて聞いてないぞ――!
 火災だヨ全員集合! というわけで火の見の警鐘が乱打され、住民たちが集まってきた。働き盛りの男性30余名である。
 後からはなんとでも言える。それは分かっている。だがあえて考えてみるなら、被害を最小限にとどめるチャンスがあったのはおそらくこの時だったのだろう。ここでなすべきは消火活動ではなかった。トンネルから火炎が吹き出した段階で、警官たちは住民を避難させるべきだったのだ。
 もうお分かりであろう。二又トンネル内の火薬が大爆発を起こしたのはこのタイミングであった。
 
 どぼずばああああああああああああああああああああああああん。
 
 はい、いつもより余計に回しております。この時の爆発音は、60キロ以上離れた福岡市や別府市でも聞こえたらしい。それどころかウィキペディアによると、地元の人々にとってそれは「大きすぎて聞こえない」ほどの轟音だったそうな。なんか、人間の聴覚の限界を超えるような音だとかえって聞こえないんだとか? そんなこと本当にあるのかね。
 こうなっては、直前に起きた火災などもはや瑣末事である。爆発によって巻き上げられた土砂が、岩石が、瓦礫が、降ってくる降ってくる。爆風で吹き飛ばされて命を落とす者、飛来物が命中して絶命する者、土砂により逃げる間もなく生き埋めになる者が続出した。周辺の建物は全壊、田畑は埋没、消火作業にあたっていた連中も、見張りに立っていた警官も、またどんぐり採集の帰り道だった落合小学校の児童なども巻き込まれて死亡。もうめちゃくちゃだ。
 最終的な被害状況は、以下の通りである。
 
●爆発日時 昭和20年11月12日17時20分(地元では15分と言われている)
●被害地 福岡県田川郡大字落合二又 丸山のトンネルを中心に約2キロ内外
●死傷者数145名(147名とも)
●負傷151名(149名とも)
●家屋被害 埋没9戸 全壊25戸 半壊28戸 破損70戸
 
 次第に土煙が収まっていく中、一命を取り留めた住民たちはトンネルのあった方向を見た。そして驚愕した。そこにあったはずの山がなくなっていたのだ。二又トンネルがあった場所を境にして、山は二つに割れたような形になっていた。
 添田警察署に連絡が入ったのは、爆発から5分後のことである。署長は署員を総動員し、救助活動を開始した。しかしこんな惨状では人手がそうそう足りるはずもなく、隣接の各部落にも応援を要請。よっしゃ任せろとばかりに救助隊がやってきたものの、救助も遺体収容も難航を極めた。
 最初、遺体や負傷者は小学校へ運ぶ予定だったらしい。だが校舎もおそらく爆風のためだろう、ガラスが割れまくっており人が入れる状況ではなかった。仕方なくむしろを敷いて道の傍らに並べたり、なんとか役場出張所の中庭あたりに置いておくしかなかった。
 無事で済んだ地元住民や、駆け付けた占領軍は手分けして怪我人を病院へ搬送。しかし終戦直後で物資不足の状況ではいかんともしがたく、カンフルはすぐにタネ切れ。病院へ担ぎ込まれた重症者たちは次々に息絶えていった。
 翌日、13日の早朝には県警の救援隊も到着。国鉄も職員を派遣し、ただちに線路の復旧作業にあたったという。こんな時に線路直してる場合かという声が聞こえてきそうだが、周辺の駅や線路が全てお釈迦になっていたのだ。救援活動のためにも、鉄道の復旧は最優先課題だった。
 記録によると、事故の翌日には雨が降ってきたという。降雨の中での土砂の除去と、増水した河川に浮かんだ遺体の収容は実にやり切れないものだったろう。
 米軍も、この爆発は自軍にも責任があると早い段階で判断したようだ。米軍小倉司令部のウォッチ中佐は、負傷者の入院している病院を訪問し、菓子の見舞いを贈るなどして慰問を行っている。また現場の視察も行ったという。
 そうそう、二又トンネルの爆発に対する米軍反応ということでいえば、報道管制のことを書かないわけにはいかない。はっきりしたことは不明だが、この事件は当初、完全に報道が規制されたらしい。なにせNHKや中央の新聞でもこれは一切報じられず、ようやく最初に報道されたのが事故発生から2日後の14日、それも地元の九州だけでのことだったのだ。
 おそらく米軍のスキャンダルになりうるということで、報道の仕方についてチェックが入ったのだろう。先述した中佐の慰問というのは、その管制が解かれたタイミングでのものだったのだ。
 さて。気になる爆発の原因だが、これは「爆弾の詰め込み過ぎ」だった。
 トンネルの容量に対して、搬入した爆弾が多すぎたのだ。火災発生から爆発に至るまでの化学的なメカニズムはよく分からないが、おそらくトンネル内の酸素が足りなくなってくすぶった状態だったのではないだろうか。それが酸素と結び付いて急激に燃焼、要するに爆発に至ったということだろう。
 ちなみに、同様に爆弾処理が行われた吉木トンネルは、40日間燃え続けてついに爆発は起こらなかった。こちらはトンネルの全容量中2割程度までしか爆弾が詰められていなかったが、二又トンネルは7割までいっちゃっていたのだ。
 これ、明らかに米軍のチェックミスだよなあ。2発の原爆に続いて、国内最大級の大爆発事故もアメリカさんによって引き起こされていることを、日本人は覚えておいてもいいと思う。アメリカ非難とかそういう意味ではなくて、歴史的事実として。
 
   ☆
 
 ここからは、その後の話である。
 敗戦からわずか3カ月。戦火に巻き込まれずに済んだ平和な田舎町が、まさか今になってこんな事故でほぼ全滅という憂き目に遭うなんて、あまりにも理不尽だ。福岡県は11月15日はさっそく戦時災害保護法の適用を決定、死者1人につき500円(現在の400万円相当)を支給した。
 また被害者たちの一部が復興委員会を結成、地元の復興を目指した活動を行い、国と県にさらなる救済要請を求めている。
(ちなみに当時、アメリカに対しては、こうした被害の補償を求めないのが一般的だったらしい)
 この復興委員会の活動の成果は、なかなかのものだったようだ。佐世保援護局から旧軍人の古着4,000点を譲り受けるなどし、昭和23年4月には慰霊碑を建立。合同慰霊祭も行っている。しかし金銭的な補償についてはふるわないまま、この委員会は解散した。
 さらに動きがあったのは、昭和23年の11月のことである。地元出身の弁護士の勧めがあり、被害を受けた16世帯が国を相手取って損害賠償請求を行ったのだ。
 訴えの趣旨は、こんな感じである。
「トンネル内の爆弾の量の危険性について、警察官はアメリカ軍の将校に伝えなかった。そのせいで爆発が起きたのであり、これは警察官の注意義務違反である」――。さあ、判決やいかに。
 1952(昭和27)年4月12日の第一審判決では、訴えは棄却された。「悪いのは警官じゃなくて占領軍だよ」という判決だった。
 しかし1953(昭和28)年5月28日の控訴審判決では、逆転勝訴。「責任は旧陸軍と警察官たちにある」とされた。
 そして最後の1956(昭和31)年4月10日には、最高裁判所は国の上告を棄却。住民の勝訴である。
 またこの裁判とは別に、1954(昭和29)年3月には日本政府の特別調達庁(のちの防衛施設庁)から全ての被害者に対して見舞金が支給されている。
 良かったじゃん、言うことないじゃん! ――と思われそうだが、ところがどっこい。この事故の補償についてはまだ紆余曲折があった。
 先述の裁判に参加できなかった遺族がいたのである。不参加の理由は簡単で、裁判費用が工面できなかったのだ。彼らは独自に遺族会を結成して、国に陳情を運動を行ったが、これは実を結ばなかった。なにせ日本国内で占領軍が狼藉を働きまくったせいで、当時日本は2,000件以上の陳情案件を抱えていたのだ。これだけ特別扱いするわけにもいかない。
 というわけで致し方ない。民事調停である。
 これは1957(昭和32)年1月25日に行われた。そして3月20日には調停が成立。遺族たちは裁判所から慰藉金を受け取り、遺族会も解散となったのだった。
 今度こそ良かったじゃん、言うことないじゃん!
 ――と思うだろうか。今そう思ったでしょ? と・こ・ろ・が、この後にトラブルが発生した。1961(昭和36)年11月11日に施行された「連合国占領軍等の行為による被害に対する給付金」の支給に関する法律のせいである。読んで字のごとく、戦後にアメリカ軍によって被害を受けた人々にお金が支給される法律だが、二又トンネル事故の被害者たちはこの対象にならなかったのだ。
 理由は、訴訟も調停も解決していたからだ。しかも調停に関しては、裁判所は遺族会に「申立人は今後本件についていかなる名義を以ってするも何ら要求をしない」という一札まで差し入れさせており、これをそのまま解釈すれば、もうお金はもらえないことになる。そんなのってありか。
 というわけで遺族会は再結成。地元の有力者の協力も得て国に請願と陳情を繰り返した。だが当然というべきか、国はなかなかウンと言わなかった。
 だが最終的には遺族会の粘り勝ちだった。1963年、国は防衛施設庁長官や法務省の訴訟課の意見などを踏まえて、法律の適用を決定した。すべての遺族たちが救済金を受け取れることになったのだ。まったく天晴れな話である。
 しかもしかも、1967(昭和42)年1月18日にはこの法律が改正され、遺族たちは1970(昭和45)年にさらに追加金の支給まで受けている。よかったよかった。もっとも、ここまでで支給されたお金の総額は、爆発事故の被害総額の3パーセントにも満たないものだったそうだが――。そしてこの遺族会に協力した弁護士や地元の有力者たちというのも、この支援活動には全くの無給であたったというから大したものである。
 
   ☆
 
 さて、二又トンネルを吹き飛ばし、そして添田集落を見事に壊滅させてくれたH・ユルトン・ユーイング少尉はどうなったのか。
 軍法会議が行われたのは、事故直後の1946(昭和21)年2月4日のこと。場所は小倉である。かつて旧陸軍将校の集会所だったという建物で少尉の処遇は決められた。
 実はここで、情報に食い違いがある。ウィキペディアでは「降格・不明除隊」になったとあるが、『事故の鉄道史』によると「免官降等」で一兵卒の身分になり本国へ送還されたともある。こんな調子なので、本当のところがどうなのかは不明である。
 ちなみに、事故の被害者たちに対して、アメリカは現在まで一切の補償を行っていない。
 
   ☆
 
 こんな凄まじい事故であるが、ようやくその詳細が明らかになったのは18年後の1963(昭和38)年のことだった。よく分からないが、最初の報道管制の影響が続いていたのだろう。10月に発行された「サンデー毎日」でトップ記事として扱われたことで、福岡県外の人々もやっとこの大惨事のことを知るに至ったのだった。
 今でも、JR日田彦山線彦山駅には、爆発で受けた傷跡が残っているという。また当時、二又トンネルの手前までしか敷かれていなかった鉄道も1956年には開通し、かつてトンネルのあった場所は今でも一日数本の列車が行き来している。吹っ飛んだ山の形もそのままだそうな。
 ちなみに彦山駅からトンネル跡を経て、さらに進むと「爆発踏切」という笑うに笑えないネーミングの踏切があるらしい。このあたりの情景については、ネットで検索すると結構見つかるので興味のある方はどうぞ。
 二又トンネルと同じ日に火薬処理がなされた吉木トンネルは、今も残っている。ただし名前は深倉トンネルとなっており、なかなか当時の面影を探すのは難しそうである。もっともこの周辺地域では、今でも工事などで地面を掘り返すと、爆発で飛び散った砲弾の破片やら信管やらが見つかるらしいが――。
 かように知る人ぞ知る事故であるが、これを題材にした文芸作品も存在する。ひとつが、作家の佐木隆三が書いた「英彦山爆発事件」。それから佐々木盛弘氏の書いた『三発目の原爆』という絵本で、佐々木氏はこの事故で全身を負傷、家族を失った方だという。
 これが日本最大の爆発事故である。二又トンネルは当時の運輸相の所管に関わるため、これを鉄道事故のカテゴリに分類することも可能かも知れないが、やはり当研究室では爆発事故として記録しておきたい。
 
【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち 
◇ウィキペディア
 

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