目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下

 第3章 火災

 

   1・発見~停電まで

 

 さて、ここからは時間を数時間巻き戻して、火災発生直後のきたぐにの様子を描いていくことにしよう。最初の緊急停止のあと、トンネル内では何が起きていたのだろう?

 まず、列車がトンネルに侵入する直前の1時5分には、乗員の広瀬車掌が見回りを行っている。その際、火元となる食堂車の喫煙室も覗いているが、この時はまだ火の気もなかった。

 そのほんの少し後、火災を最初に発見したのは、当時「きたぐに」に乗車していた3人の学生だったという。彼らは、食堂車である11両目と、12両目との間のデッキで立ち話をしていた。

「おい、なんかきな臭くないか?」 
 匂いに気付いたのは、おそらく列車がトンネルに入ったことで換気が悪くなったためだろう。彼らはクンクン、スンスンと匂いをたどっていった。

 時刻は午前1時7分。学生諸君が11両目の食堂車の喫煙室を覗いてみると、そこは既に白煙が充満していた。しかもシートの下から火炎が吹き出している――。

「大変だ、車掌さん車掌さん!」

 1時8分。1両目の車掌へ火災発生が知らされた。

 この第一報を受けたのは石川専務車掌で、この直前に車内の見回りを終えたところだった。

 彼は通報を受けると、急いで消火器2本を手に取り、さっそく火元へ向かった。

 そこでは学生と、食堂車で就寝していたコックたちが、力を合わせて消火作業にあたっていた。

 当時、この食堂車にはコックが3人とウエイトレス5人が乗車していたのだが、火災発覚時には寝ていたのだった。食堂車というものの構造を筆者はよく知らないのだが、もし発見が遅れていたら彼らも命が危なかったのではないかと思う。

 さて炎は消えるどころか、ますますその勢いを増していった。これはまずいぞ、緊急停止だ!

「501列車、止まれ! 火事だ!」

 午前1時11分。石川専務車掌は車掌室に引き返し、非常弁を引くとそう指示を出した。

 これにより、運転室の辻機関士が列車を緊急停止。3分ほどの時間をかけて、きたぐにはトンネル内のほぼ真ん中でストップした。

 「異常が発生した場合、なにがなんでもとりあえず停車すべし」――。このルールは、当時の鉄道関係者にとっては絶対的なものであった。

 石川専務車掌は食堂車に戻り、他の乗務員や、さらに一緒に乗っていた鉄道公安員と力を合わせて消火作業を続行。ここには、機関室にいた辻機関士と尾山機関助士も駆けつけた。

 しかし状況は一向に好転しない。火が消えないのだ。後述するがこの食堂車はとんでもなく古く、燃えやすいことこの上ない代物だった。

 列車は停めたものの火は消えない。こういう場合にどうすべきかは、規程でこう定められていた。

「消火器等での消火が不可能と判断した時は、ほかの車両への延焼を防止し、被害を最小限にとどめるため、火災車両の前後を切り離すこと」。なるほど理に適っている。

 午前1時25分。運転室に戻った尾山機関助士から報告を受けた作田指導機関士は、ただちに食堂車の切り離しを命じた。なんとしても火災の延焼を防ぐのだ――。指令を受けた乗務員たちは、さっそく周囲の車両の切り離しに取りかかる。

 作田指導機関士は、列車の10メートルほど前方にあった非常電話に取りつくと、トンネルの両側にある敦賀駅と今庄駅へ、それぞれ事故を報告した。

 また発煙筒が焚かれ、後続の貨物列車と、反対から来る上り急行・立山3号に事故発生を通知(立山3号は1時23分に今庄駅を通過した)。さらに線路の信号を赤にする軌道短絡器もセットされ、衝突回避の措置が取られた。午前1時30分のことだった。

 さあ、車両の切り離しである。

 と言っても、具体的に何をどうするのか、筆者はよく知らない。それでも当時の状況を考えれば、それがかなり難航したであろうことは容易に想像がつく。なにせそこは暗闇のトンネルで、しかも上り勾配の傾斜地だった。乗務員たちも、連結器の切り離し作業などほとんど未経験だったのである。

 この時、照明は切られており、北陸トンネル内は暗闇に包まれていた。これについては、予算削減のため国鉄が常時点灯させるのを渋ったからだとか、逆に国鉄の労組が「運転の妨げになるからつけるな」と言ったからだとか、後になって色々言われている。

 しかも、きたぐにの乗員は照明のスイッチの在りかを知らされていなかった。最悪である。それでも彼らは、規定通りの作業を的確かつ迅速に進めていった。

 午前1時38分。連結器が、ようやくひとつはずされた。12両目以降の4両が切り離されたのだ。

 さっそく作田指導機関士は運転室へ戻り、1~11両目を5メートルほど前進させた。11両目の食堂車の火災は相変わらずだが、とにかくこれで後部車両への延焼は避けられる。さっそく敦賀駅に状況の報告がなされた。1時45分のことだ。

「後部車両の切り離しが完了した。これからさらに前部を切り離し、今庄へ出発する」

 同時に、救援の要請もなされた。

 乗務員たちは、次の作業に取りかかった。次は11両目(火元の食堂車)と10両目の間を切り離されなければいけない。

 ところが、このあたりから雲行きが怪しくなっていく。火災の煙がトンネル内に充満し始めたのだ。

 ゲホゲホゴホゴホ、うわーっこいつはたまらん! というわけで、乗務員たちは11両目と10両目の切り離しを断念。仕方なく、そのひとつ手前の10両目と9両目の間を切り離すことにした。

 また同時に、1~11両目をさらに82メートルほど移動させた。先に切り離した12両目以降に延焼しないよう、念を入れての措置だった。

 この時、1~11両目に残っていた乗務員は、機関士の作田、辻、尾山の3名と、さらに乗務掛の1名のみ。きたぐに全体では総勢20数名の乗務員がいたのだが、なにかの配慮があったのか、それともたまたまだったのか、ほとんどは後部の12両目以降に残ったのである。

 12両目以降の乗務員たちは、次第に遠ざかっていく11両目の後ろ姿を見送りながら考えた。「ああ、1~11両目の車両はこのままトンネルを出て、今庄へ向かうんだな」と――。

 今ここまで書いてふと考えたのだが、第一救援列車が、トンネルの奥に取り残された人々を救助せずほったらかしにしてしまったのは、ここでの勘違いも影響したのかも知れない。後部4両に残っていた人々が「前方の車両はもうトンネルを出たはずですよ」と言ってしまった、とか。まあ想像であるが。

 しかし、前方の1~11両目は、トンネルを出るどころの話ではなかった。9両目と10両目の切り離し作業を行っているさ中に、ついに最悪の事態に陥ったのだ。列車の全ての明かりが消えたのである。

「ありゃあ、辻、停電じゃ!」

 作田指導機関士は、悲痛な声をあげたという。

 

   2・避難

 

 停電の原因は、排水用の樋が火災の熱で溶け、それが架線にかかってショートしたことだった(もっとも筆者も実際に見たことはないので、排水用の樋とか言われても想像するしかないのだが)。

 停電という事態に、乗務員たちは絶望感から脱力した。もう電車は動かない。ここで切り離し作業をしても、延焼を防ぐための移動ができないのだ。

 乗客乗員たちは、全員が暗闇のトンネル内に取り残されたのだった。

 こうなったら、乗客には自力での脱出を促さねばならん。乗員たちはすぐに客車の中に呼びかけを始めた。

「火災が発生しています。いま、停電になり列車は動けません。逃げて下さい、お願いします!」

 これが午前2時頃のことである。

 さてところで、それまでの間、乗客は何をしていたのだろう? すでにこの時点で、火災発見から1時間弱が経過しているのだ。何も動きはなかったのだろうか。

 実を言えば、この点についても資料の内容は錯綜している。

 例えば、当時の新聞記事では、車内アナウンスで「危険だからすぐに車両から降りてくれ」と「危険だから車内に残ってくれ」という内容が入り交じって放送されていた、とある。

 アナウンスがなされたのだから、これは停電前であろう。だが『プロジェクトX』では、既に1時20分の時点で客車内に大量の煙が流れ込み、それでたちまち乗客はパニックに陥った――と描写されている(さらに後の国会答弁によると、列車が分離することで車内放送はできなくなったはずだ、と述べられている)。

 かと思えば『事故の鉄道史』では、乗務員からの誘導があるまでは車内は静かで、騒ぐ者もほとんどなかったと書かれている。

 これはまあ、結局のところ「どれも事実」なのだろう。
 当時、乗客は大勢いた。中には就寝中の者もいただろう。また、消火作業のただならぬ気配にすぐ反応した者もいただろうし、逆に反応の鈍い者もいただろう。また何両目の車両に乗っていたかによって、目に映る光景はそれぞれ違っていたと思う。

 よってここでは、あまり厳密な資料分析は行わない。その内容の羅列と、想像を交えた若干の内容修正にとどめたい。

 まず基本的に、車内アナウンスが「遅かった」ということは全ての証言で一致している。

 乗員たちは、消火作業に躍起になっていた。また救援依頼もしなければいけないし、他の列車にも停止を促さねばならない。アナウンスまでは気が回らなかったことだろう。

 ただ、全く通知がなかったわけでもない。断片的に確認できるものとして、9両目と10両目に鉄道公安班長が「食堂車が火災である」旨を口頭で告げていたようだし(『事故の鉄道史』)、国会答弁では、一部の乗客に降りるように指示し、また別の乗客には車内にとどまるよう指示したとも説明されている。

 トンネル内に残った人々が命の危険にさらされたという結果を見ると、なぜ「危険だから車内にとどまるように」という指示がなされたのか不思議ではある。だがこれは、煙がトンネル内に充満すればかえって車外のほうが危険だ――という判断があったのかも知れない。

 また「きたぐに」の12両目以降の乗客は、先述の通り、そこに立てこもることで全員無事に救出された。よってこの乗客たちは、基本的には最初から最後まで車内にとどまっていたのだろう。車両が切り離された直後には、徒歩で脱出しようという動きもあったようだが、これは半分以上が猛煙のため断念している。

 だが間もなく――特に切り離しを断念せざるを得なかった前方車両ということになるが――、煙は車内に立ち込めてきた。煙が進入してきた具体的な時刻は不明だが、これによって「すぐにパニックになった」という証言もあれば(『プロジェクトX』)「最初は乗員がなんとかしてくれるだろうと思い誰も騒がず、危ないと思ってから自主的に避難した」という証言もある(『事故の鉄道史』『なぜ人のために命を賭けるのか』)。

 このあたりは些細な矛盾ではあるが、こんな風に想像することが出来るだろう。火災車両に近いほうの客車では、乗員が目の前で消火活動をやっている。だから安心だ。だが煙も濃くなってきて、危なくなってきたので車両内で避難を始めたところ、のんびり構えていた他の車両の者も、それで慌ててパニック気味に「じゃあ自分も」と逃げ始めた――。

 あるいは、火炎の勢いと、煙の噴出が、ある時点から急に悪化したのかも知れない。資料を読んでいると、最初はわりとのんびりした状態だったのだが、どこかで急激に混乱が生じたような印象も受ける。

 ちなみにどの資料にも「停電がきっかけで車内に混乱が生じた」とは書かれていない。車内で生じた混乱は、停電ではなく、あくまでも煙の流入が引き金だったようだ。

 煙は、あれよあれよという間に客車全体に流入していった。そしてトンネル全体にも煙が充満し始め、乗員によって「車外に出てトンネルの外へ逃げるように」とはっきり指示があったのは、この段階に至ってからだった。

 もはや一刻の猶予もない。この時、トンネル内ではもう腰の上くらいの高さまで煙が充満していたのである。ここから徒歩で脱出するのは命がけ以外の何ものでもなかった。

「降りたら左へ逃げろ! 左だ!」

 辻機関士はこう叫んで避難誘導したという。彼の言う「左」とは「きたぐに」の本来の進行方向である今庄側のことだった。火災車両とは反対の方向である。

 さらに、辻機関士は乗客をおぶったり、抱いたり、肩車をしたり、時には自らが踏み台になったりして乗客の脱出に尽力した。

 中には、「言われなくても」とばかりに先んじて脱出を試みた人々もいた。列車内には、新潟から来ていた約30名程の団体がいたのだが、たまたま乗り合わせていた現役の国鉄職員が彼らを誘導したのである。

 また、さっきの停電時に「ありゃあ」と叫んだ作田指導機関士は、非常電話に取りついて送電の要請を続けていた。

 トンネル内には、マンホールと呼ばれる待機用の空間がある。その非常電話から、トンネルにすぐ電気を送ってくれるよう連絡をしていたのだ。電気さえ通れば列車をトンネルの外へ出せる。

 だが、連絡を受けた電力指令も、うかつに再送電するわけにいかなかった。混乱した火災現場からの通報だけでは停電の理由は分からない。今ここで2万ボルトの高電圧を流して感電事故でも発生したらえらいことだ。

 結果だけを見れば、再送電しても特に問題はなかった。だがやはり、二次災害の危険性を考慮すれば、この判断にはやむを得ないものがあった。けっきょく電気は流されず、きたぐにがトンネルから脱出する道はここで断たれたのだった。

 またたく間に、トンネル内は煙地獄と化していった。

 列車の外に出た乗客たちは、壁伝いに暗闇のトンネル内を進んでいく。しかし逃げ切れなかった乗客たちは、窒息などの目に遭いながら「助けて」「殺してくれ」と叫び、煙の中で倒れて行ったという。

 乗客のために孤軍奮闘していた辻機関士も、煙によってやられた一人である。

 彼は車内の様子を片っぱしから見て回った。しかし視界も悪く、意識も途絶えがちな状況で、車内の荷物を逃げ遅れの乗客と見間違うこともあった。

 また途中で、脱出し切れず坑内で倒れている乗客にも出くわしたようだ。だがもう、彼らを現実的に助ける体力は辻機関士には残っていなかった。それでもトンネル内に残り最後まで駆けずり回ったのは、ひとえに職業的使命感のなせる業だったのだろう。

 やがて彼は意識の混濁に加えて呼吸困難に陥った。さらには、煙によって嘔吐神経を刺激されたのだろう、何度も吐き戻してもはや全身に力も入らなくなり、トンネル内の側溝で昏倒した。

 また作田指導機関士も殉職した。非常電話の近くで、口元にぼろ布を当てた状態で絶命していたという。享年50歳。

 

(細かい話だが、この作田機関士の遺体の状況について『事故の鉄道史』ではうつ伏せだったとあり、『なぜ、人のために命を賭けるのか』では仰向けだったとある。なんでこうも矛盾するのか不思議なことだ)

 

 さてしかし、辻機関士の奮闘にも関わらず、車内に取り残された乗客がいた。

 『プロジェクトX』によると、その乗客たちは8号車の車内で追いつめられる形になっていたという。

 11両目から押し寄せてくる煙を避けるため、乗客たちは車内を前方へ前方へと移動していった。だが、8号車には隣の車両に移るための貫通扉が存在していなかったのだ。つまりそこは行き止まりだった。さらに車外も煙が充満しており、外にも出られない。

 えーと、ただここでもひとつ、資料の矛盾があるんだよね。『事故の鉄道史』では、車内を移動して5~6号車あたりまで避難した人がいた、と書かれていた。『プロジェクトX』の描写と説明を鵜呑みにすると、その人たちは貫通扉もないのにどうやって壁をすり抜けたんじゃい、という話になるのだが、これはよく分からんので追究しない。パスパス。話を戻そう。

 ――以上のことを考慮すると、辻機関士が乗客の避難誘導を行って自らも昏倒するまでは、ほとんど間がなかったのではないかと思う。彼の必死の避難誘導ぶりは『事故の鉄道史』を読んでいるともう涙が出てきそうになるほどだが、そんな彼でも、8両目に取り残された乗客にまでは手が回らなかったのである。

 さて、この時点で今庄側へ脱出した乗客は、その多くが立山3号によって救出された。

 そして切り離された後部4両の乗員乗客たちも、敦賀側からの第一救援列車によって無事に助け出されている。このあたりの経緯は、前章までで述べた通りである。

 さらに記録によると、徒歩でトンネルから脱出した負傷者も10~30名ほどいたという。

 

   3・救助

 

「トンネル内にまだ人が取り残されている。なんで来てくれないんだ、このままでは全員死ぬ!」

 という内容の通報があったのが4時40分。やれやれ救助活動も無事に終わった、と胸を撫で下ろしていた人々に、この通報が冷や水を浴びせることになったのは既に述べた通りである。

 この通報は、きたぐに内に取り残された負傷者からなされたものだった。8両目に追い詰められていたのだ。

 この時は、車内も車外も完全に煙地獄と化していた。

「このままでは全員確実に死ぬ。外に助けを求めないと」

 そう思い立って行動を起こしたのは一人の男性であった。彼は渾身の力を込めて窓を叩き割り、車外の非常電話から救助を求めたのだ。

 それまでの間、何も動きがなかったわけでもない。この頃には、立山3号や第一救援列車、それに今庄側からの救援列車などによって、トンネル内の惨状がようやくはっきりしてきたところだった。また午前4時には、敦賀署員の先導によってマスコミもトンネルへ進入している。そのことは先にも少し述べた。

 それでも、敦賀側にとっても今庄側にとっても、トンネル中心部の事故現場の状況はまったく分からない状態だった。そんな中で、この通報はなされたのだった。

 いよいよ第二救援列車の出動だ。取り残された大勢の乗客がいることに気付かずに引き揚げてしまった国鉄は大慌てである。今度の救援列車で救助活動をきちんと行わなければ面目丸潰れだ。

「さあ到着したぞ。負傷者はどこだ」

 そんなこんなで消防隊が到着した時、トンネルの中心部であるその場所は、文字通り死屍累々たる有様だった。最初は人々がどこに倒れているかも分からなかったが、散乱した毛布やシーツ、荷物の下に乗客たちは埋まっていたという。

 誰も彼もが失神しているか朦朧としているか、あるいは明らかに絶命していた。消防隊員たちは、かろうじて息のある者に自分の酸素ボンベを与え、片端から担いでいった。

 この時点では、おそらく百数十人が救出されたと思われる。一連の救援列車の中で、最も大きな働きをしたのがこの第二救援列車だろう。

 またこの時、きたぐにの車両の窓を割って通報したあの男性も無事に救助されている。この辺りの詳しい経緯は『プロジェクトX』で描写されており、当研究室でもそれを参考にしている。興味のある方は一度見てみるといいと思う。

 人々はおよそ600メートルの範囲で線路や側溝に伏せ、壁にもたれ、うずくまり、そして倒れていたという。その数たるや百数十人。顔は泥や煤で真っ黒になっており、煙を避けるために被ったのか、毛布やシーツを巻き付けている人が大勢いた。トンネル内の湧水によって体は濡れており、辺り一面には荷物や靴も散乱していたという。

 ここで助け出された乗客は、きたぐにの後部4両に乗せられた。例の切り離された車両である。これに救援列車が連結し、牽引する形で救助は行われたのだった。午前7時10分のことだった。

 ところで午前4時頃には、敦賀署員の先導によってマスコミがトンネル内に徒歩で進入している。そのことは前章でもすこし述べたが、この事故の報道写真は、ほとんどがこの時以降に撮影されたものだ。

 顔中を煤だらけにして髪を乱した人々が、呆然とした表情で抱えられ、あるいはおぶられて救助されている様は凄まじい。

 またこれらの報道写真には、トンネル内で昏倒した夥しい人数の乗客の姿も収められている。これはおそらく途中まで避難してきたか、トンネル中心部で取り残された人々だろう。

 そういえばこれは半ば蛇足だが、こうした事故災害事例を集めた「失敗百選」というサイトがある。ここでは、このきたぐにの火災について「2時43分に第1次救援列車、 6時43分に第2次救援列車が敦賀駅から現場に送り込んだが、煙がひどくて近寄れず、トンネル内を避難する乗客を乗せて引き返した。」という記述があるが、ここまで読まれた読者ならば、事態はそんなに単純でなかったことがお分かりであろう。

 どうもこの、第一・第二救援列車がどちらも煙がひどくて近寄れなかった――という情報は、11月6日の朝日新聞の夕刊(つまり事故の第一報)によるものらしい。朝日新聞の第一報というのは縮刷版がどこの図書館にもあり、また市販の書籍にも紙面がそのまま掲載されていることが多い。だから引用されやすいのである。

 この朝日の夕刊だけでは、詳細は分からない。本当は第一・第二救援列車ともに近寄れるところまで近寄り、それぞれ行く手を阻む形になっていた列車を牽引し、それで戻っているのである。読売、産経などの続報に目を通さないと、この辺りの細かい経緯は分からないと思われる。

 その後、敦賀側からはさらにもう一本の救援列車が出ている。おそらく第二救援列車と入れ違いの形だったのだろう、7時10分頃にトンネルに入り、8時40分頃には敦賀駅に戻ってきている。「救援列車」としての出動はこれが最後になった(ちなみにウィキペディアだけは、敦賀に戻った時刻が10時半となっている。なんの資料からの引用なのだろう?)。

 そして、トンネルに残された車両は、11月6日の昼頃にようやく収容された。

 全乗客・乗員の収容が終わったということで、トンネル内に残された1~11両目をまず半分に分割。それを、それぞれ敦賀側と今庄側に運んで行き、午後12時40分までに片付けたのである。

 それから、これも「救援列車」とされているのだが、午後2時20分頃には、最後の緊急車両がトンネル内に進入している。これによって救助された人がいたのかどうかは不明だ。

 やがて現場検証も行われ、上下線ともに復旧したのは22時45分。なんだかすごい復旧スピードである。安治川口ガソリンカー火災や、少し前の中国の高速鉄道の事故を思わせる。

 ……と思ったら、実はここでも国鉄は手抜きをしていたのだった。先に「全乗客の収容を確認した」と書いたが、それはあくまでも国鉄の主観でしかなかったのだ。事故からほぼ1週間後の11月13日に、最後の遺体がトンネルから発見されたのである。

 この遺体が見つかったのは、上下線の間にある排水溝だった。現場から今庄側におよそ70メートルの地点で、膝を折り、前かがみになった状態で発見されたという。言うまでもなく、国鉄は轟々たる非難を浴びた。

 こうして最終的な死者は30名、負傷者は714名に上った。

 

 第4章 裁判

 

   1・被害拡大の原因

 

 この北陸トンネル「きたぐに」火災は、なぜこれほど被害が拡大したのだろう? まあ細かい原因を挙げていけばきりがないのだが、主だったものを適当に並べてみよう(適当かよ)。

 まず、最初に車両を切り離した際の、乗務員の残留の度合いである。これは事故直後から問題にされていたらしい。

 つまり、こういうことだ。切り離されたきたぐにの前部車両には600人近くの乗客がいたのだが、こちらには乗務員がほんの数名しか残らなかった。だが一方、後部4両では90人の乗客に対して6人の乗務員がつく形になっていたのだ。

 しかも後部4両の「乗客」の中には、荷物掛や食堂関係や郵便関係者など、鉄道慣れしていて頼りになりそうな者もいたのである。

 こういった人数の差が、乗客を避難誘導する際の手際に影響したのではないか、ということだ。

 また問題といえば、トンネル内の照明のことがある。

 事故が発生した時、トンネル内は照明がついておらず真っ暗だった。これは国鉄が費用をケチッてつけなかったとか、労組が運転の邪魔になるからつけないように要請したとか、色々言われている。

 とにかく、真っ暗なのは良くなかった。明かりがついていれば、車両の切り離しももっとスムーズにできたかも知れない。それに何より、乗客の避難にも影響があった。きたぐにから脱出した乗客の中には、しばらく行けば明るくなるだろうと思っていたのにずっと真っ暗だったため、仕方なく引き返した者もいたのである。

 トンネル内にあった照明は680個。これが20メートルおきに並んでおり、さらに50メートルおきに500個のスイッチがあったという。

 事故発生後、これらの照明が灯されたのは、第一救援列車がトンネルに入ってからのことだった。同乗していた保線区員がスイッチを入れたのだ。

 しかしそれも途中までだった。今庄側は猛煙のため入れないし、第一救援列車も途中で引き返してしまっている。

 こういった内容を踏まえ、照明がもっとちゃんとついていれば被害も少なくて済んだのではないか、という追究が後に国会でなされた。

 さてそれから、被害拡大の原因は他にもある。そもそもの話になるのだが、北陸トンネルでは災害時のための対策が一切なされていなかったのだ。

 事故が起きる5年前の昭和42年10月14日には、敦賀消防署は火災時の酸素不足に備えるよう国鉄に申し入れていた。救助器具や酸素マスクを常備するよう求めたのである。だがこれは黙殺された。もともと排煙設備も消火設備もなかった北陸トンネルは、めまいがするほど危険な設備だったのである。

 それから、ATSが整備されていないのも問題になった。立山3号や、敦賀側からの後続の貨物列車が停止したのは、きたぐにの乗員が手際よく停止の措置を取ったからである。その措置自体はもちろん正しいものだったが、それでも後続の貨物列車にトンネル進入を許したことは、後の救助活動の妨げになった。こういう場合、周辺の列車が即座に、あるいは自動で緊急停止できるような仕組みを作って欲しい――消防は、以前から国鉄に対しそう依頼していたのだ。

 まだまだある。出火した食堂車だが、これは問題だらけの代物だった。造られたのが昭和3年という時代物で、当時の日本には7両しか残っていないという骨董品だったのだ。老朽化した電線が直接床に這わせてあったりして、これは当時の基準に照らし合わせても規格違反の代物だった。既存不適格というやつだ。さぞよく燃えたことだろう。

 また国鉄ばかりではなく、消防にも問題はあった。排煙車がない、ホースの長さが足りないなどの消防の問題点を、北陸トンネル火災は浮き彫りにしたのだった。

 以上、細々とした事柄を挙げていったが、しかし実を言えば、ここまで書いたことは基本的に枝葉の問題、すなわち瑣末事である。この事故の最大の問題点はひとつ、「トンネル内で列車を停めてしまったこと」に他ならない。

 これがどういう意味なのかは、次節で説明させて頂く。

 

   2・国鉄のコンプライアンスと裁判の判決

 

 この火災事故、実は犠牲者をゼロで済ませることも可能だったのである。

 その方法は簡単で「列車を止めずにトンネルを出ればよかった」のだ。

 これは実験によって証明されている。火災が起きても、消火活動を行いながら列車を走らせれば8分ほどでトンネルを脱出することが可能だった。そして乗客乗員すべてが安全に避難できたのである。

 つまり、きたぐにの乗員たちは最初から――あるいは後部車両を切り離してしまった時点で、さっさとトンネルを脱出してしまえばよかったのだ。

 というわけで、裁判では2人の国鉄職員が訴えられることになった。1人は新潟車掌区客扱専務車掌の石川車掌。そしてもう1人は、金沢運転所電気機関士の辻機関士である。

 辻機関士は、自らが事故の当事者でもあった。文字通り「必死」の状況で身を挺して乗客の救助に当たり、途中で力尽きて倒れたあの人である。彼はなんとか救助され一命を取り留めたものの、回復後にこうして被告席に立たされたのだった。

 ちなみに、火災の原因は今に至るまで不明のままである。最初は、煙草の不始末や調理室の石炭レンジが原因ではないかと言われた。そして最終的には暖房装置がショートした可能性がもっとも高いとされたのだが、結局断定には至っていない。

 ちなみに個人のあるサイトで、きたぐには敦賀駅を出発した時点ですでに煙を上げており、しかも放火が疑われている――という記述があった。それは「現場のみ知る話」とのことだったが、出典は明記されていないし他の資料でも新聞でもそうした記述は一切なく、これはかなり信憑性に欠ける(ちなみにこのサイトは今、見られなくなっている)。

 よって検察は、火災の直接の原因については追及しなかった。あくまでも、「きたぐに」をトンネルのど真ん中で停止させてしまったことに関してのみ、2人の刑事責任を問うたのである。

 しかしそれでは、なぜ石川車掌と辻機関士の2人は、きたぐにをトンネル内で停止させてしまったのだろう?

 そこには、単なる判断ミスで片付けてしまうにはあまりにも重い事情があった。当時の鉄道員たちにとって、「異常事態が起きた場合は何がなんでも列車を停止させる」のは常識中の常識だったのである。

 ここで読者諸賢に思い出して頂きたいのが、昭和37年に発生した伝説の鉄道事故・三河島事故である。あれは最初は軽微な脱線事故だったのだが、その時に他の列車を停める措置を取らなかったため大惨事になったのだ。

 また三河島事故だけではなく、六軒事故鶴見事故など、昭和30年代には同じような事故が相次いだ。どれもこれも、異常時に列車が速やかに停止できていれば避けられたものばかりだ。

 こうして、これらの教訓を踏まえてATS(自動列車停止装置)も普及したわけだが、それと同時に「非常時には必ず列車を停止させるべし」というのが鉄道員の大大原則になったのである。

 この方針転換は革命的だった。戦前の軍事輸送時代も、高度成長期の大量輸送時代も、鉄道は「何があっても止めてはならぬ」が基本方針だった。それが180度転換したのである。やや浅薄な言い方になるが、人命軽視から人命重視へとパラダイムシフトが起きたと言えるだろう。

 だからきたぐには停止したのである。2人の国鉄職員は、非常時にはとにかく一にも二にも列車を停めるべし、と叩き込まれてきたのだ。彼らは忠実にその原則に従ったのである。この事故ではそれが完全に裏目に出たのだ。

 被告の2人は心外極まりなかったに違いない。列車停止の措置についても、乗客の救助についても、彼らはやれる限りのことを規定通りにやったのだ。それなのに「トンネルをさっさと出れば良かったんだよ」と責められ被告席に立たされたのだ。

 というわけで、2人は無罪となった。

 昭和55年11月25日に福井地裁で無罪判決が言い渡され、これに対し福井地裁は控訴を断念。無罪が確定したのである。

 11月25日の判決の日には、辻機関士に対し450人の動労(国鉄動力車労働組合)の支援者が駆けつけた。また石川車掌に対しても200人の鉄労(鉄道労働組合)の支援者が駆けつけ、会場を借りて陣取っていたという。

 組合の側は、「国鉄の現業職員を裁判にかけるならストを起こす」とも言っていたらしい。なんだかずいぶん不穏な空気だったようだ。

 だがまあ、仮に検察が組合の圧力に負けて控訴を断念したのだとしても、この無罪判決は妥当だと誰もが感じるのではないだろうか。国鉄が、再三に渡る消防の改善勧告を無視していたことはまことに由々しき事態だった。

   3・事故の反省について

 実は、北陸トンネルで列車火災が発生したのはこれが初めてではなかった。

 去る1969(昭和44)年、トンネルを通過中の特急「日本海」が火災を起こしたのだ。だが、この時は乗員がとっさの判断でトンネルから脱出したため怪我人はなかった。

 だがこの時、この乗員は処罰された。緊急時に列車を停止させなかったのは規則違反と見なされたのだ。彼のこの処分は、北陸トンネル火災の判決が確定した直後に撤回されたという。

 こういった背景を併せて考えれば、事故の当事者だった石川車掌と辻機関士だけに責任を負わせるのはやはり不当だった。「国鉄にも重大な責任あり」と暗に断じた裁判所の判断は、当を得たものだったと言えよう。

 この北陸トンネル火災事故ののち、国鉄は大規模な実験を行った。本物の列車で火災を起こしてトンネルを通過させたのだ。これにより、トンネル火災では列車を停めずに脱出した方が安全だと証明されたとして、規定も改められた。

(もっともそれまでの規定でも「非常時のトンネル内での停車はなるべく避けること」という程度の曖昧な記述はあったらしい。それがより厳密に改められたのだろう)

 そして、国鉄もさすがに反省したのか、長大なトンネルにおける火災対策を色々と講じるようになった。救援用動力車の導入、排煙設備の設置、避難経路の確立、放送設備の充実などなどを進めていったのである。こうしたトンネル事故対策は、かの青函トンネルにおいても活かされているという。

 とはいえ、どうもそれだけで国鉄を簡単に評価するわけにはいかないようだ。監査委員会による事故報告書が、当時の新聞では厳しく批判されている。

 例えば昭和48年1月17日の朝日新聞朝刊では、1面で「国鉄に甘い特別監査」「事故後の措置ほぼ肯定」とあり、さらに中を見ると「『乗客の安全』はどこに」「国鉄の体質触れず」「結局は“身内”の監査」などなど、タイトルだけでも溜息が出るような辛辣な記事が書かれている。信楽鉄道事故や福知山線事故を目の当たりにしてきた身としては、なるほどこうした国鉄の体質はそのままJRに受け継がれたんだなあ――と妙に納得してしまうところである。 
 国鉄で監査委員会が入ったのは、三河島、鶴見に続いて3例目だったという。この事故がいかに重大な事例であるかが分かる。

 なお、この事故と同日には日本航空351便ハイジャック事件が発生しており、相次ぐ大事件のニュースに人心は動揺したことだろう。なんだか鶴見事故と三井三池炭鉱事故が起きた「魔の土曜日」を思い出す。

 しかしよく考えてみると、この北陸トンネル火災の半年前には千日デパート火災が発生しており、さらに翌年には大洋デパート火災が起きているのである。「魔の土曜日」ほど衝撃的な符合ではないものの、どうもここら辺の1、2年は火災の当たり年だったようだ。

 

   4・おしまい

 

 以上で、この長~いルポルタージュもひと段落である。

 変な言い方になるが、この北陸トンネル火災は過去の大事故に比べれば死者数も比較的少なく、また派手さにも欠ける地味な事故である。だがお米のようなもので、噛めば噛むほど味が出る。調べれば調べるほど、鉄道の歴史を語る上で欠かせない重要ケースであることが分かる。そういう内容の事例でもあった。

 それなのに、資料が少ないのには参った。いや資料は存在するのだが、肝心な個所の欠如や細部の矛盾が甚だしく、全体像を掴むのに実に骨が折れたのだ(実は今でも詳細が分からず、ぼかしたりごまかしたりして書いた部分が結構ある)。

 筆者の個人的な心境としては、欠如と矛盾だらけの資料には恨み事を言いたいところである。だが一人だけ、この記事を書くにあたり多大なお力添えを頂いた「山猫さん」には深く御礼を申し上げたい。この北陸トンネル火災の記事がうまく書けているかどうかは分からないが、氏の協力がなかったら確実にもっとひどい内容のルポになっていたことだろう。

 

(おしまい)

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『続・事故の鉄道史』日本経済評論社 (1995)
◇ウィキペディア
◇JSI失敗知識データベース
◇柳田邦男『緊急発言 いのちへ(2)医療事故・鉄道事故・臨界事故・大震災』講談社(2001)
◇ブログ『在りし日』――暗闇の災禍…北陸トンネル列車火災事故
http://41-31.at.webry.info/200805/article_3.html
◇NHK「プロジェクトX ~第147回 列車炎上 救出せよ北陸トンネル火災~」2004年6月15日放送
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社(2004)

 

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餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)

「山陰鉄道唱歌」の11番と12番に、このような歌詞がある。

 

香住に名高き大乗寺

応挙の筆ぞあらわるる

西へ向えば餘部の

大鉄橋にかかるなり

 

山より山にかけ渡し

御空の虹か桟か

百有余尺の中空に

雲を貫く鉄の橋

 

 ずいぶん大げさな歌詞だな、と思われるかも知れない。しかしここで歌われている「餘部の大鉄橋」がいかに巨大であるかは、ちょっとネット上で検索すればすぐにご理解頂けるはずだ。

 

 餘部鉄橋――。それはまさに大鉄橋中の大鉄橋、かつては東洋一の高さを誇ったという「ザ・超巨大鉄橋」なのである。そんな建造物がかつて日本には存在していたのだ。

 

 ウィキペディアによると、概要は以下の通りである。

 

【餘部鉄橋】

◆長さ:310.59m

◆最大支間長:18.288m

◆幅:5.334m

◆高さ:41.45m

◆形式:トレッスル橋(トレッスルとは「うま」の意味)

◆素材:鋼材

◆建設:1909(明治42)年12月16日~1912(明治45)年1月13日

◆総工費:331,536円

 

 さてそれで『事故の鉄道史』では、餘部鉄橋についてこう書かれている。

 

「ここの主役は鉄橋である。列車も、日本海も、民家も、餘部橋梁の引立て役でしかない。天駆ける鉄道なのだが、ご存じのように列車の転落事故もあって美しい話ばかりではなかった」――。

 

 なかなかの名文だと思う。そして今回ご紹介するのが、くだんの「列車の転落事故」である。

 

   ☆

 

 そういえば最初に、名称の表記についてお断りしておこうと思う。この事故の舞台になる「あまるべ鉄橋」の漢字には「余部」と「餘部」の2種類があるようだが、ここでは「餘部」に統一させて頂く。

 

 特に深い意味はないのだが、筆者の愛用のvaio君で変換するとこの漢字しか出てこないのだ。

 

   ☆

 

 1986(昭和61)年12月28日のことである。

 

 場所は兵庫県美方郡香美町・香住区餘部地区。そろそろお昼を過ぎようかという頃、8両編成の列車が餘部鉄橋の上を通過しようとしていた。

 

 この列車の名は「みやび」。先頭の機関車に7両の客車を連結した、団体ツアー用の臨時列車である。山陰買い物ツアーという催し物のために運行されており、先ほども香住駅で167名を下ろしたばかりだった。

 

 大盛況のツアーでひと仕事終えて回送列車となった「みやび」が、鉄橋の上をガタンゴトンと走り抜けていく――。ここまではごく当たり前の光景だった。

 

 問題は強風である。この時、餘部鉄橋には海からの強風がもろに吹き付けていたのだ。

 

 このあたりの地区にとって、強風そのものは決して珍しいものではない。だが当時の風の勢いは特に凄まじく、運行を管理する福知山管理局でも警報装置が作動していた。この装置は風速25 m/s(メートル毎秒)以上で作動するのだが、それが2回も危険信号を示したのである。

 

 1回目の警報で、管理局は香住駅に問い合わせた。

「おおい、こちら福知山管理局。そっちは風が強いみたいだけど大丈夫か?」

 

 これに香住駅は答えていわく、

「うん、風が強いね。でも20m/s前後だから特に問題はないよ」

 

 そうか問題ないのか、と管理局は納得した。まあ今は鉄橋の上を通る列車もないし、そっとしておこう……。

 

 だが2回目の警報の時は、ちょうど「みやび」が橋の上を通過するタイミングだった。これでは止めようにももう遅く、ここで悲劇が起きる。

 

 時刻は13時24分(事故報告書では25分となっている)。鉄橋のほぼ中央にさしかかった「みやび」の中央の客車が、ブワッと膨らむように南側へ脱線した。

 

 さらに、それに引っぱられる形で、ズルズルズルと他の客車も脱線。7両まとめて41メートルの高さを落下した。

 

「みやび」が回送中でほぼ空っぽの状態だったのは、まあ不幸中の幸いだった。だが転落した場所がまずかった。真下には水産加工の工場があり、いきなり降ってきた客車の直撃を受けて全壊したのである。

 

 これにより、「みやび」の車掌1名と、工場の従業員の主婦5名の計が命を落とした。また、客車の中にいた車内販売員3名と、工場の従業員3名の計6名が重傷を負い、さらに近隣の民家も半壊。あげく「みやび」の車両は火災を起こし、現場はもう目も当てられない惨状となった。

 

 鉄橋の上には、台車の一部と、機関車だけがぽつんと取り残されていた。

 

 ちなみに転落の巻き添えを食らって破損した風速計があったのだが、この時の風速については33メートルを記録している。

 

 国鉄による復旧作業は迅速に進められた。のべ344人の作業員が投入されて、枕木220本とレール175メートルが交換。そして事故発生から3日後の31日には被害者遺族の了解を取り付け、さっそく運転を再開したのが15時9分のことだった。

 

   ☆

 

 それまでにも、餘部鉄橋ではいくつかの事故が起きていた。

 

 例えば、これはさすがに古い記録になるが、架橋工事の時には転落による死亡事故が2件発生している。また負傷の記録も83件残っているという。

 

『事故の鉄道史』によれば、鉄橋の周辺地域には鉄道関係の慰霊碑も複数存在するそうだ。地形的な問題でもあるのだろうか、もしかすると、列車の運行や工事などには、もともと慎重を要する土地柄なのかも知れない。

 

 とはいえ、だからといって、今回説明している列車の転落事故が「ありきたり」のケースということは決してない。むしろこれは、歴史的にはとんでもない事例なのである。

 

 国鉄の記録によると、これよりも前に発生した「鉄橋からの列車転落事故」は、1899(明治32)年10月7日に東北本線で発生した箒川転落事故が最後とされている。つまりこのカテゴリで見ると、餘部のは実に87年ぶりの事例ということになるのだ。

 

 およそ90年間も起こらなかった類型の事故が、現代に蘇ったのである。とんでもない事例と書いた理由がこれでお分かりであろう。

 

 しかし事故の後処理は意外と地味なものだった。

 

 まず、東大教授を委員長とした「餘部事故技術調査委員会」が発足したのが1987(昭和62)年2月9日のこと。そして翌年の2月には、この委員会によって事故調査報告書がまとめられている。

 

 筆者は、この報告書を読んではいない。とりあえず「列車の転落は強風によるものであり、不可抗力による自然災害だった」という結論になっているようだ。

 

 もちろん、だからといって誰も責任を問われなかったわけではなく、先述した福知山管理局の指令長と指令員2名の合計3名が被告席に立たされている。風が強かったことを知っていながら列車の停止を怠ったというのが、その罪状であった。

 

 刑が確定したのは、事故から7年後のこと。それぞれ、執行猶予付きで禁固2年から2年6か月という判決だった。

 

   ☆

 

 そしてここからが、鉄道事故マニアのバイブル『事故の鉄道史』による謎解きである。

 

 実は、著者の網谷りょういち氏は、この事故について大胆にも「裁判は茶番」と述べて、真の事故原因は風ではない、と書いているのだ。

 

 以下で、網谷氏が挙げている主な疑問点をご紹介しよう。

 

1・風速33メートルで列車は簡単に転落するのだろうか? 鉄橋ができて以来74年の間に、33メートルの強風が吹いたことは一度もなかったというのだろうか?

 

2・事故後の写真を見ると、鉄橋の線路のレールが、当時の風向きとは「逆」の方向に曲がっている。風で車両が押されたのならばそんなふうに曲がるわけがない。なぜ曲がった?

 

3・風による脱線では、普通は後部車両から転落していくものだが、この事故は中央の車両から転落している。これは何故か? 中央の車両が特に転落しやすくなる要因があったのではないか?

 

4・事故調査報告書では、転落時における近隣住民の目撃証言が収集されていない。また同報告書では、「当時の風速は33メートルだった」とわざわざ調べて書いている。壊れた風速計は33メートルを最初から示しているのに、なぜ改めて調べた? 風の強さを強調したかったのではないか?

 

 ――網谷氏のスタンスは「1」「3」「4」から明らかであろう。つまり、国鉄はこの事故を自然災害として片付けようとしているが、実際には人災の要素もあったのではないか、と疑問を示したのである。

 

 それでは真の事故原因は一体なんなのか。それは網谷氏によると「脱線」である。

 

 そのヒントは、上述の疑問点のうちの「2」にある。鉄橋上のレールの歪曲は強風が原因ではないのだから、何か他に原因があったはずだ。さらにこのレールには車輪が乗り上げた痕跡もあったという。

 

 つまりレールの歪みが原因で脱線が起き、そこに強風という悪条件が重なったことで大惨事に至ったのである。

 

 では、このレールの歪みはなぜ生じたのだろう?

 

 結論をズバッと言えば、これは「フラッター現象」であるらしい。

 

 正直に言うと筆者もいまいちイメージが掴めないのだが、飛行機や高層建築物はそれ自体で「振動」するらしい。強い風や地震がなくともひとりでにグラグラブルブルしてしまうのだ。だから、小さな風でも大きく揺れるのである(いずれこの現象による他の事故もご紹介していく)。

 

 餘部鉄橋は、こうしたフラッター現象が起きやすい構造になっていたのである。鉄橋の振動のせいでレールが歪曲したところに「みやび」が差しかかり、乗客がいないため軽かった中央の車両が脱線した。そしてさらに強風で浮き上がり、転落したのだ。

 

 実際の事故調査や裁判では、こうした点までは確認されていない。だが網谷氏は、餘部鉄橋の建築と修復の歴史を調べて、この橋が理論的にはフラッター現象を生じやすい危険な建造物だったことを証明している。

 

 たとえば、送電線をつなぐ鉄塔などは、鉄骨造りの巨大建築物という点では同じである。だがこうした鉄塔がグラグラ揺れたあげく倒れた、などという話はふつう聞かない。これはもちろん補修もされているのだろうが、なにより鉄塔の構造のおかげなのである。

 

 簡単に書くと、鉄骨の横向きの棒と、縦向きの棒、そして斜めの棒の「太さ」の問題なのだ。この3者のバランスが保たれていると、良い感じにしなやかになり、振動をうまく吸収できるのである。そうしてフラッター現象は抑えられる。餘部鉄橋は、そこのバランスを間違えていたようなのだ。

 

 ではさらに突っ込んで、この「間違い」はなぜ生じたのだろうか? それを説明するには、餘部鉄橋の建設の歴史をたどっていかなければならない。

 

   ☆

 

 餘部鉄橋の建設は、明治政府にとってはいわば「苦肉の策」だったと言えるのではないだろうか。

 

 香住~浜坂間は山と海に挟まれている上に断崖が多い地域である。そこに無理やり線路を通そうとした結果が、あのような超巨大鉄橋だったのである。

 

 とにかく、列車にはなんとしても山を上らせなければならない。なおかつ谷も渡らせねばならない。そうでなければ長大な迂回路とトンネルを造らねばならず費用もかかる。方法としては谷底の村を埋めて築堤を造るか鉄橋を建てるしかないが、「安い、早い」方法は断然後者だった。

 

 こうして、1911(明治44)年から大規模な工事が行われた。完成までには、当時の金額で33万円を超える費用と、延べ25万人を超える人員が投入されたという。おかげで餘部の村は「架橋ブーム」に湧いたそうな。

 

 できあがった餘部鉄橋は、管理上、雪の重みや風による揺について神経を使わざるを得なかった。今なら、こういう負荷の計算はコンピュータで即座にできる。だが当時は勘と経験に頼るしかなかった。

 

 ここで読者諸賢は思われるかも知れない。なるほど勘と経験などという漠然としたものを頼りにしていたのか、それではフラッター現象が起きて事故につながっても当然だよな――と。

 

 ところがどっこい、むしろ建設から数十年間はなんの問題もなかったのだ。少し詳しく書くと、もともと餘部鉄橋では、列車進行方向と直角方向とでは横向きの鉄骨がそれぞれ違っており、列車の振動をうまく吸収するようにできていたらしいのだ。むしろ初期の、勘と経験に頼った建設方法は適切だったのである。

 

 もちろん、部品の交換や修復は何度も行われた。むしろ、この鉄橋の歴史は修復と補修の歴史と言ってもいいかも知れない。とにかく先述したように潮風と積雪に常にさらされているため、定期的な部品交換や錆止めのペンキ塗装は不可欠だった。

 

 さて、そのように平穏に運用されていた餘部鉄橋だが、『事故の鉄道史』によると、それにケチがつき始めたのが1968(昭和43)年のことである。この年からから1976(昭和51)年度にかけて行われた第3次修繕8カ年計画が問題だったのだ。

 

 この修繕計画で行われた部品交換作業は、実に地道なものだった。鉄橋にはいつも通りに列車を走らせつつ、隙をみてコツコツ作業を進めたのだ。

 

 しかし、ここで横の鉄骨と斜めの鉄骨だけが交換・補強され、縦の鉄骨とのバランスが悪くなってしまった。

 

 致命的なミスはもうひとつあった。橋脚の足元を、コンクリートでガッチリと固めてしまったのだ。

 

 ガッチリ固めたほうが頑丈でいいんじゃない? という声が聞こえてきそうだが、これはマズイらしいのである。足元があまりにガッチリしていると、鉄橋の振動を吸収できないのだ。分かりやすく言えば「しなやかさを失う」ということか。実際、この改修工事の直後から、列車が鉄橋上を通過する時の振動が大きくなったという。

 

 こういうことを勘と経験だけで理解していたのだから、先人の知恵というのは凄いものだ。だが同時に、その罪深さを感じる話でもある。勘と経験が素晴らしく研ぎ澄まされていたのは結構だが、修復する時の要領についても定めておいてくれればよかったのだ。

 

 以上が網谷氏の説である。

 

 ただまあ、事故の原因の真相については、筆者は素人なのでよく分からない。ただ『事故の鉄道史』の脱線説は非常に説得力があるし、有名でもある。餘部の事故について多少なりとも学術的に解説する場合は、これを抜きにしては片手落ちという感があるのでご紹介させて頂いた。

 

 こうして事故の解説を通して餘部鉄橋の歴史をざっと眺めてみると、ひとつ強く感じることがある。転落事故はつまり、あらゆる意味でこの鉄橋の「賞味期限切れ」を意味していたのではないか、ということだ。

 

 賞味期限というか、要するに「もの」には耐用年数というやつが存在する。ここでいう「もの」とは、建造物やシステム全体までをも含むと考えて頂きたいのだが、それをもっとも極端に、悲惨な形で示すのが事故や災害である。餘部鉄橋の大事故は、まさにそれだったのではないかと思うのだ。

 

 歴史を見ると、この鉄橋は建設後少なくとも数十年は役に立っていたようである。だが鉄橋が存在することによるメリットとデメリットのバランスは、元々かなり危うかったのではないだろうか。

 

 メリットは、もちろん輸送や観光などの経済効果である。この鉄橋は土木学会からAランクの技術評価を受けており、歴史的な価値も高かった。それにまた、鉄橋のある餘部の風景や、鉄橋そのものの構造なども、鉄道ファンのみならず山陰地方を訪れる観光客全般には人気があったという。

 

 一方デメリットは、補修修繕の難しさと維持管理費の莫大さ、そして地元住民にとっても悩みの種だったという騒音、落下物、飛来物などの被害である。

 

 それに加えて、転落事故後は風速規制も強化され運行基準も見直された。1988(昭和63)年5月以降、風が強い場合は香住~浜坂間で代行バスが使われることになったのだ。

 

 安全対策上は必要だったかも知れないが、ここまでくると羹に懲りてなんとやら、という感がしなくもない。これによって輸送の安定感もなくなり餘部鉄橋は斜陽の時代を迎え、ついに2010(平成22)年には運用終了と相成った。

 

 少し順序が前後するが、1988(昭和63)年10月23日には事故現場に慰霊碑が建立され、毎年12月28日には法要が営まれてきたという。

 

 そして2010年(平成22年)12月28日の25回忌が、遺族会による最後の合同法要となった。橋が新しく造り変えられることに決まり、ひとつの節目を迎えたのである。

 

。こうして、次に造られたのが今のコンクリート製橋である。これは2007(平成19)年3月29日から3年ほどかけて建設され、2010年8月12日に開通した。

 

 建設位置は、かつての餘部鉄橋よりも7メートルほど内陸に近く、費用は30億円に上ったという。ウィキペディアあたりでちょっと調べて頂ければ、その雄姿を見ることができるので是非どうぞ。リニア・モーターカーの走行が似合いそうな、シャープでかっこいい橋である。

 

 で、かつての餘部「鉄橋」はどうなったか。これについては「余部鉄橋利活用検討委員会」が設けられ、県と地元で協議した末、橋脚と橋桁の一部を残して「空の駅」と称する展望台を造ることが決まったという。また道の駅も建設し、かつての鉄橋を偲ぶ記念施設にするそうな。

 

 この「空の駅」はまだできあがっていないようだ。だが建設予定図などをネットで見てみるとなかなか面白そうである。素直に、一度行ってみたいと思う。

 

   ☆

 

 こうして、日本一の巨大さを誇った餘部鉄橋は、いくつかの汚点を歴史上に残してその役目を果たしたのである。あとから振り返ってみれば、この転落事故こそが、餘部鉄橋の落日のしるしであった。

 

 これは想像だが、あの鉄橋は人々から愛され、守られてきたと同時に、同じくらいに恨まれ、憎まれ、疎んじられてもきたのではないだろうか。

 

 良くも悪くもシンボル、愛着と諦め、愛憎半ば。家族と同じで、身近であればあるほどえてしてそういう感情を呼び起こすものだ。その解体が決まった時の地元の人々の思いは、果たしていかばかりであったろうかと、筆者は思わず想像してしまった。

 

【参考資料】

◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◇ウィキペディア

◇ウェブサイト『キノサキ郡の橋』

 http://www.asahi-net.or.jp/~ug3h-itkr/bridge.html

◇同『鉄道サウンド広場(資料館)』

 http://www.nihonkai.com/railway/index.html

◇同『失敗百選』

 http://sydrose.com/case100/206/

◇2010年7月14日アサヒ・コム『余部鉄橋 一部は「空の駅」に整備へ 廃材は研究機関に』

 http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201007140045.html

 

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信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)

   まえがき
 
 筆者が11歳くらいの頃に起きた事故である。長崎屋火災と並んで、今でも妙に印象に残っている事例だ。
 で、今になって事故の記録を読んでいると、印象に残るのも当然だなと思う。これほどの正面衝突事故でカラーの記録写真が残っているのは、おそらく戦後の事例では他にないだろう。「お父さん、電車って正面衝突したらどうなるの?」と聞かれたらこの事故の写真を出すしかないという唯一の事例なのだ。
 しかしこの事故、発生するまでの経過がどうもややこしい。八高線の事故もそうだったが、正面衝突というのは経緯が複雑になりがちらしい。
 よってルポを書くに際しても、「事故が起きるまで」の記述だけが妙に長ったらしくなってしまった。まあそのかわり、可能な限り分かりやすくまとめたつもりである。よろしければお付き合い頂きたい。
 
   1・事故以前
 
 まずは、この図を見て頂きたい。
 
 
 貴生川(きぶかわ)駅と信楽(しがらき)駅という2つの駅の間に、1本の線路が走っている。
 そして途中には、小谷野信号場というものがある。
 この線路で電車がすれ違うことができるのは、小谷野信号場だけである。
 貴生川駅から信楽駅に向かって下り方向に進む電車と、逆に信楽駅から貴生川駅に向かう上り電車は、この小谷野信号場ですれ違う。そうすることによって安全が確保できるという寸法である。でなけりゃ正面衝突だ。
「そんなにうまくいくもんかね?」と一瞬思われるかも知れないが、これがうまくいくのである。何しろこの信号場は全てが機械仕掛けだった。片方の駅から電車が出発すると、信号場でそれを感知して、次にもう片方の駅から出た電車を停めてくれるのである。
 つまり後から出発した電車は、機械の采配によって信号場の待避線(図で言うと、横に膨らんだほうの線路)に寄せられて、先に出発したほうの電車が通過するのを待つことになるのだ。なるほど、これならスムーズにすれ違うことができる。
 ところが、このシステムを癪に思っていたのがJR西日本(以下JR西)である。このシステムに従っていては、後から出たほうの電車は小谷野信号場でずっと待っていなければならない。この待ち時間がJA西にとっては面白くなかった。
 JR西がそう考えるのには理由があった。
 この、貴生川駅から信楽駅までの間の路線「信楽高原鐵道」は、もともとは廃止になった旧国鉄信楽線を自治体が買い上げたものだった。第3セクター鉄道というやつである。
 JR西にしてみれば、自分とこは旧国鉄の直系であり押しも押されぬ大企業。一方あっちは、国鉄再建法のおこぼれに預かっただけの、田舎の「鉄道屋」に過ぎない。そんなポッと出の鉄道屋が、我々を差し置いて線路を走行するとは何事だッ! というわけだ。
 また、列車運行上の問題もあった。信楽駅は他の線路と交わっておらず、1本の線路しか通っていない。しかし貴生川駅は、信楽高原鐵道のみならずJR草津線も通っている。ヘタに電車が貴生川で足止めを食らうと、他の列車のダイヤにも遅れが出てしまう。これはますます面白くない話だった。
 そこでJR西は、信楽高原鐵道と、信号屋さんとの三社での会議の際にこう提案した。
「仮に、貴生川から信楽に向かう電車に遅れが出たとします。その場合、先に信楽駅から出発した電車は、必ず小野谷信号場で待っててくれるようにできませんか?」
 要するに、「俺のほうが遅くても、俺に道を譲れ」というわけである。
 さらに、JR西は驚くべき提案をしてきた。上記のような列車の行き来ができるように、JR西のほうで信号機をいじれるような仕組みを取り入れたいというのだ。
 つまりアレだ。貴生川駅からの電車の出発が遅くなりそうな時は、信楽駅から出発した電車が必ず小野谷信号場で停止するようにしたい。そのため、小野谷信号場の信号機を俺のほうで自由に操作できるようにさせろ、というのである。
 この提案に驚いたのは、信号屋さんである。
「ちょ、ちょっと待てアンタ。そんなことしていいわけないだろ!」
 先述したように、JRの路線と信楽高原鐵道は別のものである。いくらJRでも、よその線路の信号機を勝手にいじっていいわけがない。
「ふ~ん、それじゃ仕方ありませんね」
 ここでJRはごり押しをせず、信楽高原鐵道と話し合った。そして、最終的には以下のような仕組みにすることで話がついた。
 その仕組みとは、こうである。
 例えば、まず信楽駅を出発した電車があり、その後で貴生川駅を出発する電車があるとする。
 するとまず、JR西と信楽駅が電話で連絡を取り合う。そして問題がなければ、信楽駅のほうで、先に出発した電車が小谷野信号場で停まるように機械を操作するのである。
 まずJR西としては「俺のほうが遅くても、俺に道を譲れ」という主張は通した形である。また、信楽高原鐵道の信号はあくまでも信楽駅の側でいじることになるので、先ほど信号屋さんがビビッたような掟破りになることもない。
 こうして信楽駅には、小谷野信号場の信号を操作できる「抑止ボタン」が設置された。これによって、JR西から要請があった場合は、自分とこから先に出発させた電車を小谷野信号場に停めておけるという寸法だ。
 なんだかおかしな話ではあるが、とりあえずこれでめでたしめでたし――のはずだった。
 しかし、JR西はもっとおかしなことを企んでいたのである。先の会議が終わったあとで業者に直接電話をかけ、信楽駅の「抑止ボタン」をとっぱらわせたのだ。そして、小谷野信号場の信号を自由に操作できる装置を取りつけさせたのである。要するにJR西は、最初から信号屋さんはおろか、信楽鐵道の言うことを聞くつもりはなかったのだ。
 この時にJR西が取りつけさせた装置が、悪名高い「方向優先テコ」である。これを操作するとJR西の進行方向だけが常に優先されるという、実におめでたいテコだ。
 せっかくなので、以下ではこれを「オレ様優先テコ」と呼ばせてもらおう。
 いやはや、実におかしな話である。まあでも、これで本当にめでたしめでたし……ではないから問題なのだ。まだこの先があるのである。変なことを企んでいたのはJR西だけではなかった。信楽高原鐵道がわでも、これまたヘンテコな掟破り計画が進行中だったのである。
 その計画とは、「小谷野信号場の信号と、信楽駅の信号を連動させちまおう」というものだった。
 これは、どうやらJR西のオレ様優先計画のような陰湿なものではなく、2つの信号が赤なら赤、青なら青と同時に変わることで、電車の進行をスムーズにしようとしたものらしい。
 さあ、ここまでが前段である。こうして信楽高原鐵道には、不穏な空気が立ち込め始めたのであった――。
 
   2・事故当日
 
 1991年5月14日。周辺の山々には山ツツジが咲く、新緑の季節である。
 この日の午前9時30分、JR西の臨時快速列車501D「世界陶芸祭しがらき号」は信楽駅に向かって京都駅を出発した。この日の始発である。
 車両には、信楽で行われている「世界陶芸祭セラミックワールド‘91」に足を運ぶべく716名の乗客が乗り込んでいた。乗車率は約2.5倍で超満員の状態である。
 この「しがらき号」は50分ほどで貴生川駅に到着する。そして、そこから信楽高原鐵道に入り込んで信楽駅に行くという予定である。
 しかしちょっとした問題があった。おそらく乗客が多すぎるためだろう、9時30分の発車というのが、そもそも定刻の5分遅れだったのだ。
 こういう時にどうするかは、JRでちゃ~んと取り決めてある。「オレ様優先テコ」の出番である。
 このテコさえあれば、貴生川駅の出発時刻が定刻より遅れても、信楽駅からの上り列車は小野田信号場で待っていてくれる。こうしてオレ様は優先的にスムーズに進行できる、というわけだ。
 このような次第で、優先テコが作動した。
 
   ☆
 
「あれ? なんで赤信号のままなんだ」
 混乱したのは信楽駅である。上り534D列車の発車時刻になったというのに、なぜか駅の中の信号が赤のままだ。青にならないと出発できないやんけ。
 しかしこれは故なきことではなかった。
 思い出してほしいのだが、信楽駅は、小野田信号場と信楽駅構内の信号が連動するように改造しているのである。
 そしてこの日は、前述のように、JR西が「オレ様優先テコ」で信号を操作していた。そうして、信楽駅を出発した電車が小野田信号場で足止めされるようにしているのだ。
 JR西としては、信楽駅を発車した電車が小野田信号場で停まっていてくれればそれで良かった。そうすれば、信楽駅発の電車に道を譲ってもらう形ですれ違えるからだ。
 だが今の状況では、小野田信号場が赤になっていることで、信楽駅の信号も連動して赤になってしまう。JR西の思惑とは裏腹に、信楽駅発の電車は、小野田信号場で待つどころか駅からの出発すらもできなくなっていたのである。
 もちろん「オレ様優先テコ」の存在など知る由もない信楽駅の駅員たちは、首をかしげるしかない。今は電車を出発させるべき時刻なのだ。とすると駅の中の信号は青になるはずだし、それと連動して小野田信号場も青になっているはず。ただそれだけのはずだった。
「どうしましょう? 赤のまんまじゃ出発できませんよ」
 駅員たちは困り果てた。当時、信楽でイベントが開催されていたことは既に述べたが、信楽駅も大量の観光客たちを輸送するのに大わらわ。こんな時に信号の異常なんて冗談じゃない! という空気だった。
「ええい面倒臭い、どうせ故障か何かだ。青に変えちまって発車させろ!」
 結果、そのような判断が下された。
 これがいかに危険なやり方であるかは、当研究室にお馴染みの方はお分かりのことと思う。こういう、一本の線路で上りと下りが交互に行き来している場合、異常時には「人間タブレット」による「指導方式」で安全を確認してから発車するのが鉄道業界のルールである。
 しかし、こういう言い方は若干アレだが、信楽高原鐵道は第三セクターであるため、生粋の鉄道員に比べると従業員の安全意識が低かった。彼らは上司の判断通りに駅構内の信号を手動で青に変えると、534D上り列車を発進させてしまったのだった。
「大丈夫ですかね? もし貴生川駅から電車が来てたら正面衝突ですよ」
「なあに大丈夫さ。前にも同じことがあったけど、小野谷信号場の誤出発検知装置のおかげで問題なかったじゃないか」
「なるほど、そうですね」
 そう、以前にも似たようなことがあったのだ。具体的な日付を言えば4月8日と12日、それに5月3日もである。それらの日にも、信楽駅では駅構内の信号が赤だったのを無理やり青にして電車を出発させた経緯があった。この時もやはり「オレ様優先テコ」の影響があったのだろう。
 で、その時はなぜ大丈夫だったのかというと、今のエア会話にもあった通り「誤出発検知装置」というものがあったからだ。
 この装置は、まあ要するに安全装置である。例えば、信楽駅から赤信号で無理やり電車を発車させるとこれが作動する。そして、反対側から来ている貴生川駅発の電車を、小野谷信号場の待避線に寄せさせて、赤信号にも関わらず「誤出発」した電車をかわりに通すというものだ。
 つまり「信号無視の電車が来るぞ! 危ないからよけろ!」というわけである。これがあるから、信楽駅の駅員たちは「赤信号でテキトーに発進させても問題ないよ」と考えたのだ。
 状況を少しまとめてみよう。
 まずJR西はこう考えていた――「オレ様優先テコ」のおかげで、信楽駅から出発した電車は小野田信号場で停まっていてくれるだろう、と。
 いっぽう信楽高原鐵道はこう考えていた――「誤出発検知装置」のおかげで、JR西の電車は小野田信号場で停まっていてくれるだろう、と。
 しかしこの日、「オレ様優先テコ」はかえって現場の判断を誤らせてしまい、さらに言えば、よりにもよって「誤出発検知装置」は故障中だったのだ。というわけで、あっちが停まってくれるだろう、という両者の期待は完全に裏切られたのだった。
 ついでに言えば、小野田信号場という、この機械仕掛けのすれ違いシステムが導入されたのが3月のことだった。実に皮肉なことだ。安全確保のために導入されたシステムが、人為的にあれこれいじり回されたせいで、設置後たったの2か月あまりで大事故を誘発してしまったのだから。
 こうして事故は起きた。貴生川駅を出発した「世界陶芸祭しがらき号」と、信楽駅を出発した電車はものの見事に正面衝突。時刻は午前10時40分、場所は小野谷信号場よりもちょっと信楽寄りのあたりだった。
 現場は修羅場だった。
 どのくらいひどかったのか、ご存じでない方はちょっと検索して写真で確認してみるといい。あんな風にめちゃくちゃになった車両に観光客が鮨詰め状態だったというのだから、その凄惨さは推して知るべしである。
 死者は42名、負傷者は614名に上った。
 
   3・捜査と裁判
 
 さっそく滋賀県警は捜査を開始した。当時の新聞などを見ると、とりあえず信楽高原鐵道がわが追及されているようである。
 まあそれも当然だろう。とにかく、赤信号なのをろくに確認もせず青に切り替えているのだ。電車の運行システムに明るくない素人でも、信号無理は絶対駄目だろう、ぐらいは考える。
 JR西も、最初は「いやあ悪いのは赤信号で電車を出発させた信楽高原鐵道ですよ、当たり前じゃないですか~」という態度だったらしい。
 ところがここで、例の「オレ様優先テコ」の存在に気付いた人物がいた。ノンフィクション作家の佐野眞一である。
 おいおい、なんだこの「優先テコ」。事故当日の信楽駅の混乱はこいつが原因じゃないのか――!?
 というわけで、佐野はこの「優先テコ」の存在を即座に報じた。運輸省にも信楽高原鐵道にも届け出を出さずに設置されたこのテコは、JR西の安全管理無視の動かぬ証拠である、と。
 これで、責任追及の流れが変わった。最初は信楽高原鐵道の過失責任だけに向けられていたマスコミと警察の目が、JR西にも向かっていったのだ。
 もともと、JR西は「オレ様優先テコ」の存在を完全に隠蔽するつもりだった。ところがこの報道のせいで隠し切れなくなり、一気に責められる立場になったのである。
 しかし、JR西はそんなことではくじけない。どうやらどこまでも「オレ様優先」なのがこの企業の体質らしく、取り調べや裁判においても徹底して戦った。
 例えば、県警の取り調べに対しては、あらかじめJR内部の打ち合わせに沿った供述のみを行う。また全ての担当者はセクト主義を前面に押し出して、責任転嫁と責任逃れに終始。あげく「JRも被害者である」という意識に基づき、徹底的な証拠隠滅を行う。と、こういう塩梅である。下手な犯罪組織よりたちが悪い。
 だが、裁判ではJR西はお咎めなし。信楽高原鐵道の運行管理者2名と、信号設備会社の技師1人が、執行猶予付きの有罪判決を言い渡されるにとどまった。
 世間には、「JR西もこの時に有罪判決を受けるべきだった。そうすれば少しは企業体質も変わって、後の福知山線事故だって防げたかも知れない」という意見もある。しかし後述するが、刑事裁判について言えば、この判決は妥当だったのではないかと筆者は思う。
 ただ民事裁判では、さすがのJR西も責任なしというわけにはいかなかった。1999年の一審と2002年の控訴審を経て、信楽高原鐵道と一緒に過失が認定されている。
 それでもJR西の「戦い」は続いた。遺族への補償のために支出した費用のうち、9割を信楽高原鐵道等々が負担するよう求めてきたのだ(これが2008年のこと)。なんか、先の民事で上告できなかった鬱憤を晴らそうとするかのような変な裁判である。
 これについては、結局ついこの間の2011年に決着がついている。だが、ウィキペディアで読んでみても、何がどうなったのかよく分からなかった。とりあえず、JR西に若干のゴネ得があったようだ。
 
   4・筆者の感想
 
 ここからは、この事故に対する筆者の感想を述べたい。「きうりがまた何か語ろうとしてるよ」と思われた方は、ここで読むのを切り上げても結構である。
 この信楽高原鐵道の事故を調べるにあたり、若干の書籍とインターネットの情報にあたってみた。だがそれでどうも奇妙に感じたのは、どこでも判で押したように「JR西の無罪はおかしい」「JR西にも責任はある」「JR西はあの時刑事罰を受けるべきだった」……と書かれていることだった。 例の「オレ様優先テコ」の存在を暴露したノンフィクション作家・佐野眞一もその著書の中で、自分はJR西を有罪に追い込めるよな証拠を見つけた――というような趣旨の文章を書いている。
 筆者が奇妙に感じたのは、事故の経過があれほどややこしいのに、どうして皆はっきり「JR西は有罪!」と声高に主張できるのかということだった。
 それでさらに調べてみた。これだけ声高に叫ばれているのだから、きっとどこかに因果関係の立証がきちんとなされた文章があるに違いない、それは筆者のような素人にはよく分からない専門的なことなのだろう――そう考えて。
 しかし、そうした文章はどこにもなかった。佐野眞一にしても、例の「優先テコ」の存在がなぜ刑事裁判での有罪の証拠になるのか、その点は詳しく説明していない。
 試しに、読者の皆さんにも聞いてみたい。この事故の経過については、必要な点を大まかに書いたつもりだ。だがそれを読んで「この正面衝突は誰それのせいで引き起こされたのだ」とはっきり理解できただろうか。
 できないと思う。
 たとえばJR西の「優先テコ」は、それ自体は不正な代物ではあったが、それによって必ず事故が起きるわけでもない。むしろあのテコは、事故を起こさずに、なおかつオレ様優先で行けるように、というコンセプトで作られたとも言えるのである。
 では信楽高原鐵道による信号機の改造が原因だったのだろうか。だがこれも、それ自体で事故が起きるわけではない。誤出発検知装置もあった。
 ならば、誤出発検知装置が壊れてしまったのが事故原因だったのだろうか。
 確かにこれは、この事故の中で一番不幸な要素だったかも知れない。とはいえこれも、JR西と信楽高原鐵道が信号の違法改造を行わず、なおかつ信楽高原鐵道の赤信号による出発がなければ問題はなく、誤出発検知装置が壊れたから必ず事故が起きるというもんでもない。
 となるとやはり、列車運行上のルールを破った信楽高原鐵道が一番悪い、とするのが妥当かも知れない。結論を出すとすればやはりこの程度であろう。だからまあ、裁判の判決自体は妥当だったのではないかと思う。詳しい判決文までは読んでいないが。
 誰も、起こしたくて事故を起こすわけじゃない。大抵の事故災害で責任主体が完全に明確なのはまれで、この事故だって、単体では大きな問題にならないはずの過失が不幸にも積み重なり、それで発生したのである。
 ではなぜ巷であそこまで「JR西は有罪!」と言われているのかというと、これは要するにバッシングなのだと思う。筆者が横井秀樹現象と呼んでいるアレである。JR西はあくどい企業だから、いっそ有罪扱いしてしまおう、という考え方だ。
 確かにJR西の、事故に対する対応はひどい。この信楽高原鐵道事故でも福知山線の事故でも、どうしてこの企業はここまで世間の要請が読めないのだろう、人の神経を逆撫ですることばかりするのだろうと不思議になる。
 そしてこの事故の経緯を見れば、なるほど信楽駅で混乱が生じたのはナントカ優先テコなんぞを無許可で設置したせいだし、しかもそのテコの設置は内緒だったし、挙句バレそうになって隠蔽までしようとしている。これでは、JR西許すまじ、と言われるのも無理はないだろう。
 だがやはり「それはそれ、これはこれ」である。先述したが、JR西の行った行為が、具体的に事故発生の原因になったという証拠はどこにもない。ちょっとあくどい奴だからといって、やってもいない事件の犯人に仕立て上げるのはいかがなものか(民事になると話は別だが)。
「オレ様優先」のいい加減な大企業をただそうとするなら、まずその人は自分自身のいい加減さをただすべきだろう。――と述べる筆者もまた、櫂より始めよ、なのであるが。
 もちろん、JR西のような企業を刑事罰に問えないからといって、完全に無罪放免、あとは一切責めることができない、などということは決してない。刑事責任を問えないからといって、社会的責任の一切を免れるわけではないからだ。
 要は、個々の主体に対して適切に責任を負わせるのが大事なのである。特定の主体に対して、適切な場で、適切な形で、責任を取らせたり責任を果たさせたりすべきなのだ。そのために必要なのは、ある責任主体の責任の範囲を明確に示すような「責任マップ」なのではないかと思う。
 我々が心の中でそうした「責任マップ」を持っていれば、気に入らない奴は刑事裁判で有罪にしちまえ! と無茶苦茶なことを叫ぶこともなくなるだろう。そして事件事故が発生しても、適切な主体に、適切な形で、責任を取らせることができるようになるのではないだろうか。そうした営みの果てに、調和の取れた秩序ある人間社会が出来上がるのだと思う。子供じみたユートピアかも知れないが……。
 そんなことを考えさせられた、信楽高原鐵道事故であった。
 
【参考資料】
◆ウィキペディア
◆JSI失敗知識データベース
◆佐野眞一『クラッシュ 風景が倒れる、人が砕ける』新潮文庫(2008年)
◆山形新聞
 

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三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)

 事故の舞台となったのは、三陸鉄道南リアス線。岩手県大船渡市の盛(さかり)駅と、釜石市の釜石駅を結ぶ路線である。

 もとは国鉄のものだったらしい盛線と、なんだかよく分からないが「日本鉄道建設公団建設線」とやらを、第三セクター「三陸鉄道」がまとめて引き受けつつ開通したものである。

 これが1984(昭和59)年4月1日のこと。細かく言えば、第三セクター「三陸鉄道」が開業したのは、この南リアス線が開通したのと同時だった。

 その名の通り、沿線の海岸はみ~んなリアス式海岸だそうな。ただ、ほとんどの区間は長大なトンネルになっているため、海が見える箇所はあんまりないらしい。

 ともあれ今では、気仙沼線・大船渡線・山田線・三陸鉄道北リアス線・八戸線とともに、「三陸縦貫線」を構成する路線の一つとなっているらしい。

 さてそんな路線で事故が発生したのが、1994(平成6)年2月22日のことである。

 件の南リアス線小石浜~甫嶺間には、矢作川という川を渡る橋がある。15時20分、そこを通りかかった普通列車が突風にあおられて引っくり返った。

 この列車は、36-100形と36-200形からなる2両編成で、盛発久慈行きのものだった。筆者はここの地形を見たわけではないが、コケたのは橋の上ではなく陸地で、築堤下への落下で済んだのは幸いだったのかも知れない。水の中に落ちていれば被害はもっと大きかったのではないだろうか――結果として死者はなく、5名の負傷で済んでいる。

 もちろん、陸地なら転覆しても大丈夫、なんてことを言うつもりはない。車両は2台とも廃車となり、紛うかたなき大惨事である(余談になるが、予備車が不足したため36-500形を代替製造することになったとか何とか。鉄道の何とか形とかには興味がないのでサッパリだ)。

 この事故を受けて、その後現場には暴風ネットや風速計が設置されるようになった。また列車無線の整備や運行規定の見直しが行なわれ、今でも三陸鉄道では毎年2月22日を「安全を考える日」と定めているという。

 ウィキペディアではこの事故について、「乗客が撮影中、事故に遭遇した映像はあまりにも有名。」とちょっと下手な文章で書き添えられていたが、この映像というのがどんなものなのか筆者は知らない。とりあえず、あまりにも有名だそうです。

 なお、この三陸鉄道南リアス線は、かの東日本大震災ではもろに影響を受けて、約2年間の全線不通を余儀なくされた。運行が再開されたのは2013(平成25)年の4月3日で、現在は震災を乗り越えた路線として「震災学習列車」というユニークな列車も運行されている。

 

【参考資料】

◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◇ウィキペディア

◇三陸鉄道ホームページ

http://www.sanrikutetsudou.com/

 

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木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)

 1913年(大正2年)に起きた山岳遭難事故である。

 長野県の中箕輪尋常高等小学校では、8月になると、中央アルプス北部にある木曽駒ケ岳(2956m)に修学旅行に行くという行事があった。完全な年中行事として定められていたのかは不明だが、とりあえずこの学校では1911年(明治44年)も、また1912年(明治45年~大正元年)もこの行事がなされていた。

 で、今年もやろうということになったのだが、ここでこういう反発があった。

「校長先生、マジっすか!? もうそういう時代じゃないっすよ~」

 登山によって心身を鍛練するなどというのは、教育方法としてはもう古い――というのがこの時代の「流行の」考え方だったのである。

 当時、日本の教育界では「生徒の自由を尊重し個性を育てる」のをモットーとした理想主義的教育がブームとなっていた。いわゆる白樺派の影響である。どうもその実態は現代のゆとり教育と似たようなものだったらしいが、とにかくそれで、軍国主義的な鍛錬教育なんて古い! なにより生徒を大勢連れてアルプスに登るなんて危険だ! と言われたのである。

 しかしこの登山修学旅行を立案企画した赤羽長重校長は、反対を押し切る形で決行した。

 結果的には、これが悲劇を招くことになった。

 生徒から希望者を募ったところ、手を挙げたのは25名。さらに地元の青年会のメンバーが9名、引率教師が3名参加することになり、合計34名となった。大所帯である。

 これだけの人数を率いていく以上、準備には細心の注意を払わねばならない。まず何よりも心配なのは山の天候だ。これについては、校長は直前まで何回も側候所へ電話をかけ、確認をしている。

「26日に駒ケ岳に登りたいんですけど、大丈夫ですかね?」

 これに対する回答は「北東の風、曇り、にわか雨」というものだった。まあ夏の天気としては普通であろう。
 こうして1913(大正2年)8月26日、登山は決行された。

 しかし、この後の天候の変化については、とにかく赤羽校長一向は不運だったとしか言いようがない。当時、八丈島のあたりに停滞していた低気圧があったのだが、これが26日の夕方にいきなり動き出したのだ。

 当時の気象台はこれを「低気圧」と呼んでいたが、今でいえば立派な台風である。これがどの側候所でも予測できないほどのスピードで発達し、どえらい速さで移動し始めたのだ。

 まさに韋駄天低気圧とでも呼ぶべきこ奴は、26日の夜には東京を通過。そして銚子港付近を北上すると東北地方を縦断し、津軽海峡に抜けていった。このため日本海側、特に新潟や富山で大きな被害が出たという。

 そして長野県でも、直撃というほどではなかったものの、この低気圧の影響で激しい風雨があったようだ。赤羽校長以下37名は、よりにもよってアルプス山中でこいつに遭遇してしまったのだった。

 さて問題の木曾駒ヶ岳であるが、この山に登るのはどのような感じなのだろう。これについては、某サイトで文章を見つけたので引用させて頂こう。

 

『木曾駒ヶ岳は中央アルプス北部にあり、古くから信仰の対象とされ、既に1532年には山頂に駒ヶ岳神社が建てられたそうです。10本程の登山コースがありますが、標高2640mの千畳敷へのロープウェイ開通後は登山道の利用者は少なくなっています。
 95年前、ここで教師と生徒たちの大量遭難がありました。先日、そのコースをたどってみたのですが、テントを背負っての登りは結構きつく、コースタイムの7時間弱をかなりオーバーしてしまいました。当時は登山口まで余分に数時間歩かなければならなかったわけで、14-15歳の彼らの脚力に驚かされました。』
 ウェブサイト「読んで ムカつく 噛みつき評論」より
http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/08B/seishokunoishibumi.htm

 

 筆者も十代の頃にちょこっと山に登ったことはあるが、それでも7時間弱はなかった。確かに当時の学童の脚力には驚かされるが、しかし、いずれにせよその疲労は尋常なものではなかったに違いない。

 むしろ脚力の問題だけならまだ良かったのである。登山の途中から、文字通りに「雲行きが怪しくなって」きて雨風にさらされたことで、彼らの体力は途中からみるみる奪われていった。

 それでも、一行は進んでいった。山頂付近の地点に小屋があったのである。とりあえずそこに入れば雨風も凌げるし暖も取れる。それまでの辛抱だ――。

 ところで下調べの段階では、この小屋にはちょっとばかり問題があることが分かっていた。この登山旅行の前に、山の付近の村人に聞いていたのである。その村人によると、くだんの小屋は去年に比べて破損が激しく、修繕しないと使えない状態だということだった。

 でもまあいい、これは鍛錬教育なのだ。皆で力を合わせて小屋を修繕し、そこで達成感を味わおうではないか! と、赤羽校長は前向きに考えていたかも知れない。

 ところが、である。

 いざ到着してみると、この小屋はもはや、修繕すれば使えるとかいうレベルではなかった。壁や屋根が全部はぎ取られており、残っていたのは壁の石垣だけだったのだ。焚火の跡も残っていたというから、どこぞの馬鹿たれが暖を取るために小屋を破壊したのは明らかだった。

 ちょっと信じられないような話だ。到着した一行が真っ青になったのは言うまでもない。それでもめげずに、赤羽校長は号令をかけた。

「ま、まあいい。これは鍛錬教育なのだ。残った石垣を利用して小屋を建てるぞッ!」

 というわけで、台風が迫りくる天候の中、登山メンバーたちは急ごしらえの避難小屋を作った。近くの樹木を切り出して、残った石垣の上に並べてゴザを敷き、屋根が飛ばされないように石を乗せていく――。

 小屋の広さは4坪。ここに37名が入ったのだから、計算すると畳一畳に5人が固まることになる。まるきり鮨詰め状態で、天井も、立ち上がれないほど低かったという。

 しかも、いかんせん敵様は台風である。火を焚こうにも何もかもが濡れているし、雨漏りのためすぐ消える。やっと火がついたかと思えば小屋に煙が充満して燻製状態、その上寒い。そして風は一向に鎮まる気配を見せず、厳寒地獄にさらされた学童たちは意識も朦朧としてくる。暴風で小屋が壊れるのも時間の問題と思われた。

 そんな中、よりにもよって小屋の中で死人が出た。おそらく今で言う低体温症だったのだろう。これにより小屋の中はパニックとなった。

「ふざけんな、こんな鍛錬授業やってられっか! 帰る!」

 こうしてメンバーは散り散りになり、嵐の中を下山し始めた。風雨による寒さと往路の疲れで誰もが疲労困憊していたはずで、これはほとんど自殺行為だった。途中で倒れる者が続出し、登山に参加した37名中11名が死亡した。

 この山では、標高2600メートルのあたりに稜線があるという。上りにしろ下りにしろこの稜線を通ることになるわけだが、これが3時間ほど続くのだ。雨風を一切凌ぐことができないその場所で、遭難者のほとんどは昏倒していった。

 死亡した11名の中には、登山の企画立案を行った赤羽校長も含まれていた。彼は途中で動けなくなった学童に自分の防寒シャツを与えるなどして、最終的には帰らぬ人となったのだった。

 そして、なんとか麓の村に辿り着いた者が遭難を知らせた。

 最初に知らせを受けた内ノ萱という地域は、僅か十数戸の小さな村だったという。だがそこは古くからの駒ケ岳登山口の集落として有名で、案内人組合の組織まで組まれているほどだった。よって暴風時の駒ケ岳のことは多くの者がよく知っており、この天候の中で登山と下山を行ったパーティがあったと聞いた村人は、それだけで色を失ったという。

 こうして、この内ノ萱を始めとして、近隣の横山、小屋敷、大坊、平沢といった集落でそれぞれ半鐘が鳴らされた。そして伊那町消防団員、西箕輪村消防団員、南箕輪村消防団員などが救助隊として参加した。

 総数200名超の大規模な救助活動だった。彼らはまる3日もの間、山中で露営するなどして救助と捜索にあたった。

 特に29日の夜などは、駒ケ岳の周辺で灯りがいくつも揺れ動き、この世のものならざる光景であったという。近くのある学校の校庭からは、山中で無数の灯人が行き来するのが見え、まるで鬼火か人魂のようだったとかなんとか。

 こうして、登山に参加した37名のうち、10名の死亡が確認された。残る行方不明者は1人である。

 29日には「救助隊」が「捜索隊」へと名前を変更し、さらに30日も未明から捜索、捜索、捜索が行われた。しかしどうしてもこの最後の1人だけが見つからず、あとはなんとなくグダグダと遺体探しが行われたようである。最終的には、この最後の1人の生死確認に対しては懸賞金がかけられた。

 さて、ここからは、事故を起こした学校の歴史になる。ちょっと蛇足めいてくるが、関係のない話ではないのでお付き合い頂けると幸いである。

 言うまでもなく、事故を起こした中箕輪尋常高等小学校は轟々たる非難を浴びることになった。まあ子供たちが死んでいるのだから、無理からぬことであろう。

 これがきっかけとなり、学校は荒廃した。学童を大量に死なせたという悪名から、誰も校長になりたがらず、さらに例の自由主義教育の悪影響から、校内暴力や学級崩壊が蔓延したという。大正初期だというのに、なんだかついこの間の話みたいである。歴史というのは、かくも繰り返すものなのか。

 しかし大正12年に赴任してきた新しい校長が、ここで思い切って方針を転換。教育者に対しても、また生徒に対しても、逸脱を許さない厳格な教育方針でもって臨んだ。これが功を奏し、やっと学校は蘇ったのである。

 教育思想的にも転換期にあったようだ。それまでの自由主義的な考え方は下火になり、教育でもきちんと統率が取れなければいかん、という空気になっていたようである。

 さてその流れで、駒ケ岳の登山イベントも復活することになった。

「えっ、またやるの!?」

 12年前の悪夢を思い出した者も、大勢いたことだろう。だが、当時のこの上伊那郡という地域の「空気」がどんなものだったのかは推し量るしかないが、どうもこの頃には、この辺りの学校で駒ケ岳修学旅行登山を実施していないほうが少数派だったようだ。

 こうして大正14年の7月26日に、新校長は村人の反対を押し切って登山修学旅行を決行した。周到に準備が整えられ、そして校長自らが高等科2年生を引率する形で行われたこの登山は大成功に終わり、遭難現場に建てられていた記念碑に対しても献花がなされたという。

 そしてここからがドラマである。

 この登山旅行が行われた日は、上伊那郡青年会による「駒ケ岳マラソン大会」が行われていた。

 それで、この大会に来ていた青年会の人々が、一匹の兎に遭遇したのだ。

 その日は快晴だった。マラソンの最後の走者が走り去った後、彼らはこの辺りでは珍しい白兎を見つけた。それでなんとなく追いかけてみると、兎は駒飼ノ池の近くのハイマツ地帯に走りこんだのである。

 兎は、そこでじっとしていた。だがよく目を凝らしてみると、それは風化した白い布切れで、ぼろぼろの布と人骨があったのである。12年前に行方不明のままだった遭難者の遺体だった。

 登山イベント再開の日に、最後の行方不明者の遺体がようやく見つかったのである。筆者は別に神秘論者ではないけれど、さすがに「なにかの巡り合わせ」を感じずにはいられない出来事だ。

 ちなみに、事故があった直後の1915年(大正4年)には、駒ケ岳山頂には「伊那小屋」という避難小屋が建てられた。これはその後も増改築がおこなわれ、「西駒山荘」という名前で残っている。建物には、今でも事故当時そのままの石垣が使われているという。

 

   ☆

 

 ところで、この遭難事故については、新田次郎が『聖職の碑』というタイトルで小説化している。これは後に映画化もされた。

 内容的には、この山岳遭難事故を通して、舞台となった長野県上伊那地方の学校教師やその周辺の人々の人間模様を描いたものである。もちろん新田次郎の作品なので「山岳小説」には違いないのだが、同時に教師の教育に対する愛と情熱を描いた「教育小説」でもある。

 新田は、事故そのものに前から興味を持っていたそうだ。だが実際に書くための大きなきっかけになったのは、遭難現場に建てられた「遭難記念碑」だったという。

 この記念碑は実際に存在する。当時の教育委員会が建てたものだ。事故から12年後に登山旅行が復活したさい、記念碑に献花がなされたと先に書いたが、その記念碑というのがこれである。

 それを見た新田次郎は、なぜ「遭難慰霊碑」ではなく「遭難記念碑」なのか? という疑問を抱いた。そしてその建立の経緯を取材しながらノベライズしていったところ、できあがったのが『聖職の碑』だったというわけである。そのへんの取材の経緯は、新田お得意の巻末取材記に詳しい。

 それでこの「遭難記念碑」の由来なのだが、これは学校側が建てたものらしい。学童たちの登山授業を行う上で、もう二度とこんな事故は起こすまい――。そんな誓いが込められているのである。だから亡くなった人々を慰めるための単なる「慰霊碑」ではなく、未来へ向けて「念を記した」まさに記念碑となったのだ。

 筆者としては、これは感心する。事故災害の記録を読んでいると、最終的に当事者によって慰霊碑が建てられて、それでこの話はおしまい、水に流しましょう、という流れになっているのをよく見かける。それではイカンのだよと思うところがなくもないのだが、ともかく「慰霊」という習慣が日本にはあるのだから仕方がない。この習慣をもうちょっと改善すれば、日本の事故災害はもう少し減らせるかも知れないのにな、と思っていた。

 この大量遭難事故は、決して他人に対して誇れるようなものではない。新田も述べているが、この事故は登山時に案内人をつけなかったこと、下調べをしなかったこと、悪天候時に判断ミスがあったこと、などが重なって起きた人災である。しかし「教育」という普遍的テーマが背景に据えられることで、この事故はかえって未来の教育に対する「記念」となったのだ。

 本来、事故災害の記録というのはこうあって欲しいと筆者は思うのである。

 そしてそのためには、過去、現在、未来に繋がっていく普遍的なテーマを、事故の背景から読み取らなければいけない。「事故の教訓を生かす」「尊い犠牲」という言葉は、事故災害が起きるたびによく使われるが、そのような普遍的テーマの読み取りがなければ、こうした言葉もただの言葉で終わってしまうのである。

 特に「尊い犠牲」という言葉について言えば、悲惨な事故の被害者として慰霊するだけでは、それは「尊い犠牲」などではないと思う。それが本当に「尊い」ものになるかどうかは生きている者次第なのだ。ただ単に「慰霊」されただけで忘れられてしまっただけの犠牲者などというのは、こう言ってはなんだが、尊くもなんともないのだ。

 そうした意味で、この山岳事故は、日本の事故災害史上において犠牲者の霊が明確に「英霊」となり得た希少な例だと思う。事故が起きて以降、この山での修学登山において、死亡者が出るような重大事故は発生していないという。

 事故があった地域の学校では、今でもこの修学登山は行われているのだろうか。山を登り切ったところで遭遇する記念碑を前にした時、学童たちはどんな思いに捉われるのだろう。別に『聖職の碑』の文章の熱意にあてられたわけではないが、書いていて感慨深くなる事例であった。

 

【参考資料】
新田次郎『聖職の碑』
箕輪町立 箕輪中部小学校ホームページ
http://www.ed.town.minowa.nagano.jp/chubusyo/enkaku.html
ウェブサイト「読んで ムカつく 噛みつき評論」
http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/08B/seishokunoishibumi.htm
ウェブサイト「山小屋ナビ.com」
http://yamagoya-navi.com/yamagoya_shosai_2.php?PRIMARY=1020

 

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