目次
※読者の皆様へ(2019年4月30日)
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
山陽本線特急列車脱線転覆事故(1926年)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
山陽線列車脱線転覆事故(1938年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
横浜港ドイツ軍艦爆発事故(1942年)
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
京都駅将棋倒し事故(1934年)
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)
ラブパレード事故(2010年・ドイツ)
道頓堀川飛び込み事故(2019年)
航空機事故
トランスワールド航空800便墜落事故

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山陽線列車脱線転覆事故(1938年)

  1938(昭和13)年の67月は特に雨が多かった。それもちょっとやそっとの多さではない。735日には神戸市と阪神地区で、大雨による「阪神大水害」が起きている。この水害は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災と並ぶ大災害として、今でも現地で語り継がれているという。

    

 今回ご紹介する事故が起きたのは、同年の615日である。

    

 まだ夜も明けない午前3時頃、山陽本線の上り線を、13両編成の110列車が走っていた。下関発京都行きの夜行列車である。この時も当地は大雨で、そのため列車の運行には30分ほど遅れが出ていたという。

    

 列車は岡山県和気郡熊山村大字奥吉原地区(現在の岡山県赤磐市熊山地区)に入り、熊山駅を通過。それから700メートルほど進んだ場所で事故は起きた。

    

 その場所は、大まかに言えば「でかい窪地」である。吉井川の堤防と崖に挟まれてた地形で、竹藪になっている。線路は、堤防に沿った形で敷設されていた。

    

 時刻は午前35659分頃分頃。この堤防の一部が崩壊し、機関車と前四両が脱線した。そして竹藪の中に転覆した。

    

 堤防の高さは約4メートルあり、転覆した車両は竹藪をなぎ倒しながら「く」の字を二つ重ねたような形で横倒しになった。機関車は車輪を天に向けてほとんど逆さまに引っくり返り、車体の半ば以上が土砂に埋まったという。

    

 客車もひどい有様だった。木造だった一両目の車両はねじ曲がり、原形をとどめないほどにバラバラになった。それ以外は鋼鉄製だったため一両目ほどのダメージはなかったものの、窓ガラスなどは全て破損した。

    

 さらに、これだけでは済まなかった。五両目以降の車両は転覆を免れて線路上に残っていたのだが、これが隣の下り線にはみ出す形になっていたのがよくなかった。反対から下り列車がやってきて、五両目の車両に衝突したのだ。

    

 ぶつかってきたのは京都発宇野行き(資料によっては、鳥羽発宇野行きとも)の801列車である。この衝突により、ぶつかられた車両は右半分をざっくり切り裂かれる形になった。全ては、最初の脱線転覆から一分以内の出来事だった。

    

 この時点での死者は25名、負傷者は91108名(資料によって少し表記が違う)。死者のうち3名が、堤防の上での衝突によるものだった。

    

 転覆した車両の方で死者が多く出たのは、先述した通り、先頭車両が木造でもろかったせいでもある。事故が起きた1938(昭和13)年以降、新しく造られる客車は全て鋼鉄車となったのだが、既に造られた木造車はそのまま使い続けられていたのだ。この、両者が併存している状況は1959(昭和34)年まで続いた。

    

 痛ましいことに、死者の中には小学生も含まれていた。和歌山県橋本高等小学校の二年生71名が、先生3名に引率されながら修学旅行中だったのだ。児童たちは、奇跡的に無傷だった一名を除いて、全員が何かしらの死傷を負ったという。

    

 一行は611日に旅行へ出発し、四国の琴平宮と、広島の宮島に参拝するというコースで旅をしていた。そして14日の2230分に宮島駅で乗車し、日付が変わってから事故に巻き込まれたのである。木造だった先頭車両というのも、これは実は修学旅行用にと広島でわざわざ増結されたものだった。

    

 以下は、児童のうちの一人の証言である(資料からの引用だが、読みやすくなるように少し手を加えた)。

    

「昨日、広島での見物が終わって、午後11時頃に列車最前部の一両に乗って出発した。寝ていると、ドカンと大きな音がしてひっくり返ってしまいました。あとは何が何やら分からなかったが、這い出して救われました。先生が亡くなられ、私たちはどうしていいか判りません」。

    

 それからもうひとつ。これは証言ではなく手記から(手を加えている)。

    

「今晩は家で寝られるな。こう思いつつ、深い眠りに落ち、どのくらい眠ったか。突然なんだか大きな衝撃を全身に受けた。ハッと見廻すと辺りは真っ暗、身を起こそうとすると動けぬ。胸から下が石炭やら赤土の中に埋まっているのだ。大変だ、皆はどうしたか知ろうにも皆のわめき声やら何やらで何が何だかわからぬ。約半時間ももがいていると一人の兵隊さんが、「生きているものは声をあげろ」とすぐ傍らで怒鳴った。「ここにおります」「よし」たちまち掘り出してくれた、と思った瞬間どのように助かったか覚えておりません。みやげ物もすっかりどこかへ行ってしまった。ただ助かって何よりだ。機関車にすぐ連結された木造車の前部から三つ目の座席にいたから助かったのだろう、こんなことを全身の痛みに坐り込んで考えていると、人夫さんがこちらに来いと肩に負って救護所に連れて行ってくれました。その途中、先生の遺骸が見えた。友だちの血に染まった姿も見えた。たまらなく涙が出ました。死なれた先生や友だちを思えば筆も進みませぬ。」

    

 以上の証言と手記は、『続事故の鉄道史』からの孫引きである。当時の大阪毎日新聞に、こういう記事が載っていたらしい。

    

 今の時代から見ると、こういう「手記」を児童に書かせるというのも奇妙なやり方である。うるさ方から「子どもにこんな残酷なことを思い出させる文章を書かせるとはけしからん! PTSDになったらどうする!」と抗議が来そうだ。

    

 さて、児童たちの言葉の通り、引率の先生も亡くなっている。それも3名全員だ。重傷を負いながら「誰々は大丈夫か、避難したか」「みんな怪我はないか、講堂へ集まれ」などとうわ言のように口にしていた先生や、堤防の上で児童を助けている最中に、下り列車の衝突に巻き込まれた先生もいたという。まさに殉死だった。

    

 もうひとつ児童の証言を載せておこう。

    

「先生の手が、抱きかかえるように私の前に見えたと思ったら、辺りが真っ暗になりました。先生がいなかったら死んでいたと思います。叱る時は怖い先生でしたが、いつもはいい先生でした」。

    

 広島鉄道管理局は、事故発生と同時に岡山と姫路の師団に救援を要請。両師団の軍隊はただちに出動して、翌日まで救助と復旧にあたった。現場の線路も当日の午後2時には復旧したというから、実に仕事が早い。

    

 事故原因は何だったのだろう? その答えは「地滑り」だった。手抜き工事のため、堤防の盛土が雨の水量に耐えられなくなったのだ。そして「円弧滑り」という現象を起こし、線路の下の地面が崩れたのである。

    

 事故が起きた山陽本線の線路は、ほとんどが平坦である。これは、鉄道建設時に、当時の社長が「建設にあたっては、線路の勾配を100分の1以内(10パーミル以内)にすべし」という方針を打ち出したためだ。

    

 その結果として、丘を迂回するカーブなどが増えることになった。今回の脱線転覆の現場でも、事故が起きた年の1月に、丘を削って斜面を切り崩し、削った土砂を盛って堤防を造り、そこに線路を敷設するという作業が行われている。要は、線路を支える土台が人工的なものだったのだ。

    

 この工事で、手抜きがあった。本来こうした場所では、土砂の中に水が溜まってもすぐに排水できるような設備を整えなければならない。そのための作業は「水抜き工」と呼ばれるそうで、現在は特殊なパイプを盛土の中に埋め込むという。当時は、目の粗い割栗石などを雨樋のように並べて、盛土の中に暗渠を造るというやり方だった。これが行われなかったのだ。

    

 このため、事故当時は、盛土がたっぷり雨水を含んで排水されず、グズグズになったのだった。もともと、そこは窪地の斜面に土が盛られる形になっていたので、その斜面の形――すなわち円弧の形に添って土砂が崩れ落ちる「円弧滑り」が発生したのだ。

    

 つまり事故が起きた時、現場の線路の枕木は土台を失っており、宙に浮いた状態だったのである。そこに機関車が通りかかったのだから、もつはずがない。

    

 資料によると、円弧滑りそのものはありふれた現象らしい。水抜き工と、また斜面の「段切り」、さらに土を固めて密度を上げる「転圧」という作業をしっかりやれば、大部分は防げるという。

    

 もちろん、筆者も土木工事については門外漢である。だが、水を抜くとか土を固めるとか、そういう作業が必要なことは、子供でも分かる理屈ではないかと思う。きっと読者の皆さんも、昔砂場でやった泥遊びなどを思い浮かべているのではないだろうか。

    

 だから、この事故の最大の原因は工事の施工不良だろう――と素人考えでも想像がつくのだが、ところが裁判ではちょっと意外な判決が出た。後から衝突した801列車の機関手と機関助手、それから岡山保線区和気分区の保線員が検事拘留処分となったのだ。

    

 判決の要旨は不明だ。ただ、機関手と機関助手は百歩譲るとしても、保線員の巡回点検にミスがあったというのは奇妙である。設計者と施工者はどうして責任を問われなかったのだろう。この事故の、ちょっと不思議な点である。

    

 さて、多くの児童が死傷した橋本小学校だが、その後、被災した児童のうち9名が亡くなったという。公式な記録では事故直後の死者数までしかカウントされていないのだが、同校の敷地内にある慰霊碑には、後で加わった児童の名前も刻まれているそうだ。どこまでも痛ましい話である。

    

 現場にも慰霊碑が存在する。丸山公園というところらしく、地蔵菩薩像と、お経が書かれた石碑が建っているそうだ。いずれも、建立されたのは事故からちょうど22年目にあたる1960(昭和35)年615日。参考資料によると、事故があった615日には毎年法要が行われているという。「何回忌」ではなく「毎年」というのは、慰霊式のサイクルとしてはかなり珍しい。

    

 余談だが、現地では「この場所には今でも機関車の車体が埋まっている」という噂があるとか。本当かどうかは分からない。

    

 既に80年前の事故なので、地元でもこの出来事を知っている人は少ないという。だが、なんとなく関連情報をぐぐっていたら、最近ちょっとした動きがあったことが分かった。儀礼者の同窓生で構成される「六友会」という団体が保存していた関連書籍が、2015(平成27)年に郷土資料として地域の公共施設に寄贈されたというのだ。

    

 この書籍は『列車遭難同情者芳名録』。香典という形で、被害者に対し募金をしてくれた人たちの氏名が載っているらしい。全国の学校、幼稚園、小学校、愛国婦人会、軍隊、会社、商店、農漁業などの氏名や団体名が千件以上記されており、金額は一件につき1円から500円。御供花、お菓子などを贈ってくれた人もいたようだ。中には、ベルリンオリンピックで金メダルを獲得した兵藤秀子(旧姓・前畑)の名もあるという。「前畑がんばれ」のあの人だ。

    

 当時の1円は現在の34千円。この事故が、どれほど当時の人々の同情を誘ったかが分かる記録である。

    

 ちなみに戦前の大事故は、天皇陛下からの金一封の下賜によって一見落着となるのが通例で、この事故もそうした形で処置がなされた。さらに当時の鉄道省でも、千五百人の職員から募金を募って事故遭難者に贈ったという。

    

【参考資料】

◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◆斜面の安定

http://www.shimane.geonavi.net/shimane/syamen.html

◆「同情者芳名録」保存依頼へ~山陽線事故・児童ら犠牲

http://hashimoto-news.com/news/2015/06/14/28911/

◆磐梨通信(イワナシツウシン)☆昔の列車転覆事故☆

https://blogs.yahoo.co.jp/kurohime20032001/34687988.html

◆ウィキペディア


安治川口ガソリンカー火災(1940年)

 筆者が勝手に「小心者の事故」と呼んでいる鉄道事故が3つある。福知山線の事故、昭和18年に起きた常磐線土浦駅での衝突事故、そして今回取り上げる安治川口駅のガソリンカー火災である。

 この3つの事故に共通しているのは、事故が起きる要因を作った鉄道員が当時パニックに陥っており、そのせいで気が動転してまともな判断が出来なくなっていた(と思われる)点である。

 別に彼らが本当に「小心者」であったというわけでは無い。ただ、彼らの所属していた組織や時代の空気が、精神的に多大なストレスをかけていたことは明らかだと言いたいのである。

 筆者はこうした人々の気持ちが痛いほど分かる。焦ってパニックに陥り、自分で自分がコントロール出来なくなり、焦りがさらに焦りを生み被害を拡大していくという出来事は決して珍しくないのだ。だから上記の3つの事故は、筆者にはとても哀れなものに見える。

 さて、1940年(昭和15年)1月29日のことである。

 今からほぼ70年前にあたるその日の朝、大阪発桜島行き下り第1611列車は、超満員の状態で走っていた。乗車していたのは、主に沿線の工場へ出勤する人々であった。

 その路線の名は、西成線といった。現在ではテーマパークへのアクセス路線としても賑わっているJR桜島線である。だが当時は工場施設が集中する臨海地域の出勤路線として用いられていたのだ。時は日中戦争真っ只中。国内では、重工業を中心に軍需産業が大盛況だった。

 下り第1611列車は、間もなく安治川口駅の構内に入ってきた。この時の速度は時速20キロ。当時は国策で燃料の節約が指導されており、下り勾配はアイドリングの状態で惰性で走るよう定められていたのだ。なんかこう、長閑な走り方である。

 ところがこの時、安治川口駅の信号掛にとっては長閑どころの話ではなかった。この下り第1611列車は定刻よりも3分遅れており、そのせいで他の列車の運行にも影響が出そうな状況だったのである。

 何せ、燃料をケチって惰性で鉄道を走らせることを国策で定めていたような時代である。鉄道もまた燃料の消費に対して神経を尖らせていた。もしもダイヤ全体に遅れが出れば、燃料の浪費ということで上司に怒られる……。この信号掛の胸中にあったのはそんな不安だった。

 しかも目の前の第1611列車は、そんな彼の気も知らずにのろのろと呑気な速度で構内に入ってくる。ますます焦りは募り、何を血迷ったのかこの信号掛は、列車が通過中だというのにいきなりポイントの切り替えを行ってしまった。

 本来なら、これは後続の別の列車に対する切り替えとなるはずだった。この切り替えを行うことで、確かに後続の列車に出発の合図を出すことになり、それが通過するための準備も整ったわけである。ただ、肝心の先行列車がポイントの上を通過中だったのが大問題だった。

 通過中だった1611列車にしてみればとんでもない話である。これを乗用車で例えれば、前輪は右に向かって走っているのに後輪だけが無理やり左を向かされたようなものだ。思いも寄らない事態に遭遇した3両目の車両は、あれよあれよと言う間に、枝分かれした線路の間で横向きになって脱線した。そしてそのまま横転して横滑りした挙句、電柱にまでぶつかった。もう散々である。

 とはいえ、なにぶん時速20キロの惰性での走行である。おそらくこの時点では死傷者はほとんど出ていなかったことだろう。

 問題はここからである。この脱線のせいで燃料のガソリンが漏れ出したのが運の尽きだった。

 列車の燃料が、石炭でもなく軽油でもなく電気でもなくガソリンである、と聞いて奇異に思われる方もおられるかも知れない。実は、軽油を使うディーゼルエンジンよりも、ガソリンエンジンの方が小型軽量化が利き技術的には作りやすいのである。

 もちろん総合的に見ればガソリン動車よりもディーゼル動車の方が運転効率は良く経済性も高い。また安全だし馬力もある。それでも鉄道の気動車がディーゼルカーへと切り替わるには、戦後までの技術発展と、何よりもこの事故の教訓を俟たなければならなかったのである。

 時刻は早朝の6時56分。漏れ出したガソリンに引火し、大阪湾から吹き付ける西風は火勢を煽り、横転した3両目はあっという間に炎に包まれた。発火源が何だったのかは諸説あるようだが、車両の蓄電池回路からのスパークが発火源だった可能性が高いという。

 時速20キロで走る車両がゴロリと横転しただけだったら、まだ可愛いものだった。ところが事態は一転して遂に大惨事である。しかも車両は鮨詰めの超満員。何せ当時のこの路線のラッシュアワー時は、毎朝の乗車率が300%を越えてもまだ通勤客を運び切れない輸送状況だったというからもう無茶苦茶である。こんな状況でガソリンに引火されたらもう笑うしかない。いや、笑わないけどさ。

(余談だが、連休中などの新幹線の乗車率が100%を越えた、などとニュースで報道されているのを聞くと、事故マニアとしては「そんなに乗せていいのか?」といつもゾッとせずにはおれない)

 さて、この横転し炎上した車両の番号は「42056」。後日「死に頃」「死に丸殺し」などと言われることになる(ひでえな)この車両は、横転してしまったため脱出が極めて難しく、そのせいもあって多くの人が逃げ遅れた。

 そんな中、この車両に乗っていた車掌の大味彦太郎氏の行動は今でも伝説的である。当時31歳だった大味車掌は、自らは楽に脱出できる場所にいたにも関わらずすぐには逃げなかった。彼は車掌室の窓ガラスを割って自分の肩を踏み台にし、乗客の脱出と救助にあたったのである。

 大味氏自身が外部から救出された時には、下半身に大火傷を負っていた。氏は痛い痛いと呻きながらも「気の毒なことをしました。乗客の方はどうですか、当時はまったく無我夢中でした」などと語り、その日の夜に妻子に見守られながら亡くなったという。

 31歳と言えば、これを書いている筆者よりも1つか2つ上という程度の年齢である。なんだこの英雄は。書いているこっちまで泣けてくるじゃないか、畜生。

 しかし、もはや一人の死で嘆いているような状況ではなかった。この火災による死者は191人に上り、重軽傷者は82人にまで達していた。死者はほとんどが窒息死で、150名以上が即死だったという。

 奇跡の生還としか言いようのないドラマもあった。燃え上がった車両の中が焼死体で満杯だったのは言うまでもないが、消火後の遺体収容作業の最中、その満杯の遺体の下から2人の生存者が見つかったのである。他の犠牲者達の体で包み込まれていたお陰で、煙も吸わず炎に巻かれることもなかったのだ。

 そしてなんと、この路線は半日で運転を再開した。

 現場が工業地帯として重要拠点だったからなのだろうが、それにしても驚異的なスピードである。この事故、死者数も日本一なら復興速度も日本一なのではないだろうか。

 また事故後の対応も実に速やかだった。事故の原因となった、「列車が通過中のポイントの切り替え」が出来ないように安全装置が据え付けられたし、さらにこの路線はほとんど間を置かずに電車路線へと転換を遂げている。

 なんつーか、ここまで高速で復興されるとかえって非人道的な気がしなくもない。「出来るんなら最初からやっとけ」と突っ込みたくなるのは筆者だけではあるまい。

 事故を起こした哀れな信号掛は、大阪地裁にて有罪判決を受けた。業務上汽車転覆致死罪として禁固2年というものだった。

 現在でも、安治川口駅のそばにはこの事故の慰霊碑があり、そこに刻まれている犠牲者の名前の数は、鉄道事故のものとしては本邦一である。今でも供え物や献花は後を絶たないらしく、70年経っても事故の記憶は完全には風化していないようだ。

 ちなみに、最後にまた縁起の悪い話で恐縮だが、日本の有名な大量殺人事件に『八つ墓村』や『龍臥亭事件』のモデルとなった津山三十人殺しというのがある。これは大量殺人の死者数の世界記録を40年以上も保持し続けた物凄い事件なのだが、これが起きたのが昭和13年。安治川口でガソリンカーが炎上して、鉄道事故での死者数が日本一を記録する僅か2年前のことだった。

 大量死の時代は、こんな風に始まっていたのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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米坂線脱線転覆事故(1940年)

 筆者の住んでいる山形県でも、過去にいくつかの大きな事故災害が発生している。

 その内容を見てみると、やはり冬場に起きているものが多い。それで改めて雪国の苦労というものを実感するわけだが、今回ご紹介する米坂線脱線事故もその一例である。

 1940年(昭和15年)3月5日のことである。

 3月の上旬と言えば、山形県では雪解けにはまだ早い。しかしこの日は、雪が雨に変わりそうな気配が朝からあったという。

 そんな中、米沢駅発・坂町行きの下り103列車は、朝8時45分頃に小国駅を出発した。

 当時の米坂線(現在はもちろんJR米坂線)は、開通してからまだ4年弱という新しい路線だった。貨物列車3両と客車2両が一体になった103混合列車は、この線路をガタンゴトンと進んでいく。

 次の停車駅は玉川口駅である。だがしかし、この103列車が玉川口に到着することはなかった。

 

   ☆   ☆   ☆

 

 さて、ところ変わって玉川口駅である。

 当時ここには駅長と駅員、それに除雪の人夫や列車待ちの乗客など大勢の人がいたという。

 実はこの玉川口駅は後年には駅そのものが廃止されてしまっている。あまりにも利用客が少ないというのがその理由だったのだが、当時は地元の人にとっては需要もあったのだろう。

 されこの日、103列車が小国駅を発ったという知らせを受けると、駅員たちはすぐ持ち場へ出た。予定では間もなく到着するはずだ――。

 するとその時である、駅舎の警報ベルが突然鳴り出した。雪崩監視所からの通報である。

 小国駅と玉川口駅の間には、荒川という川がある。列車はこの荒川に掛かっている鉄橋を渡るわけだが、そこで雪崩が発生したという知らせだった。

「おい、雪崩だってよ」
「マジすか先輩」

 駅員たちは線路の向こう、小国駅の方向に目を向ける。小さな山があるため、カーブの向こうの様子は見えない。だが、山の陰から白い煙が上がっているのは見えた。機関車の蒸気である。

 悪い予感がした。列車は大丈夫だろうか?

 駅員たちがそちらの方向へ向かおうとすると、逆方向から保線区員が走ってきた。彼はよっぽど衝撃的な何かを見たらしく、雪の上を何度も転びながら駆けて来る。ああ、こりゃヤバイよ。ただ事じゃないよ。

 果たせるかな、事故であった。

 だがしかし、駅員たちが現場で見た光景は想像を遥かに越えた凄まじいものだった。鉄橋から列車が落っこちて、荒川に向かって中ぶらりんになっていたのである。先頭の列車は水没している。

 橋は無残に破壊されていた。雪崩のせいである。鉄橋の隣の山で雪崩が発生し、それが鉄橋の橋脚を切断してしまったのだ。そして運悪く、103列車はその直後にこの橋に差しかかったらしい。

 あわわ、どうしようどうしよう。玉川口駅から事故現場を見に来た人たちは、なす術もなかった。事故現場は荒川を挟んで向こう岸である。橋は崩壊している上に、荒川は雪解け水で増水している。救出活動なんてできっこない。

 そうこうしているうちに、もっとひどいことになった。

 前の3両の貨物列車は荒川に転落しており、続く1両の客車が宙ぶらりんになっている。そして残る客車は線路の上に残っていて無事だったのだが、宙ぶらりんになっていたほうの客車が突然火を噴いたのだ。

 どうも、車内に備え付けてあった暖房用のストーヴから燃え移ったらしい。客車のガラスが割れて黒煙と炎があがった。

 大惨事である。燃え盛る客車の窓から這い出たものの川へ転落する者がいる。また助けを求める者もいる。しかし玉川口駅から来た駆けつけた人々はどうすることもできなかった。

 ついこの間には安治川口のガソリンカー火災があったばかりだ。しかし東北で雪に埋もれる冬を過ごしている人々にとっては、それはあくまでも遠い世界の出来事のはずだった。よもや、自分達の目前で同じような事故が起きるとは!

 ところでこの事故、橋脚があっさり破壊されてしまった原因は何だったのだろう?

「雪崩でしょ」。それはその通りなのだが、悪い偶然も重なっていた。この時の雪崩の雪の量は5,000平方メートル。まあ規模としては普通なのだが、これがが雪崩防止柵の鉄のレールを叩き壊してしまい、さらにそのレールが、橋脚をピンポイントで破壊してしまったのである。

 橋脚にも問題はあった。

 筆者は専門家ではないので上手くは説明できないが、コンクリートというのは砂利、砂、水の混合物であるため、比重の重い砂利や砂は下に沈む。そのため当然、反対に水っぽくなる部分もある。その状態でコンクリが固まると、どうしても強度に差が生じるらしい。

 で、水っぽいコンクリが固まった部分にさらにコンクリートの塊を繋げると、その接続部分の強度は心もとなくなる。この事故で破壊された橋脚は、まさにその部分をスパッと切断されてしまったのである。

 事故はこのようにして起きたのだった。人々が茫然と見守る中、客車を包んでいく炎はみるみるうちに延焼し、今度は水没した貨物列車の方に引火して数回の爆発を起こした。

 駆けつけた人々は、その場で跪いて合掌するしかなかった。40名以上の者たちが、救出活動を行うこともできないまま雪の上に平伏していたという。

 死者16名、死者30名。開通したばかりで、気象に対する経験が足りなかった路線の悲劇であった。この事故の後、現場の山の斜面には雪崩を分断するための分流堤が設置されている。

 また玉川口駅から駅員たちが駆け付け、平伏していた(と思われる)場所には、今でも慰霊碑が建っている。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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土浦事故(1943年)

 正真正銘の「忘れられた事故」である。

 1943年(昭和18年)10月26日、18時40分頃のこと。常磐線土浦駅では、一台の貨物列車の入れ替え作業が行われようとしていた。

 駅の「裏一番線」には、ちょうど貨物列車が到着したところ。この列車の先頭の機関車に石炭の補給をするため、別の機関車と交換するわけである。

 まず、到着したばかりの列車の機関車部分が切り離される。そして機関車だけが単独で線路を進み、駅構内の12・13号ポイントをそれぞれ通過して上り本線に入った。そしてその上り本線をさらに移動し、石炭の補給場所に向かっていった。

 つまりこの時、12号ポイント→13号ポイント→上り本線へと機関車が進むようなルートが出来上がっていたわけである。

 さて「裏一番線」に残された貨物車両には、別の機関車がバトンタッチする形で連結した。今度は、この機関車が貨物車両を引っぱって、貨物線と呼ばれる路線に入っていくことになっていた。

 この列車も、さっきの機関車と同様に、いったん12号ポイントを通る。しかし予定ではこの時すでに12号ポイントは切り替えられており、機関車は貨物線のほうにスムーズに入り込んでいく――はずだった。

 ところが、これが切り替えられていなかったのである。本来なら12号ポイント→貨物線というルートになっているはずが、12号ポイント→13号ポイント、というルートのままだったのだ。

 あれあれ、どうなってんの。予定と違うじゃん。機関車と貨物列車は、13号ポイントに向かってゴトゴトと進んでいく。

 そして13号ポイントはどうだったかというと、こちらはちゃんと切り替えられていた。さっきは13号ポイント→上り本線、というルートだったのが、今は13号ポイントはどん詰まり。上り本線は今から別の列車が通過するため、横からの進入禁止の状態になっていた。

 踏切を想像してもらえればいい。上り本線は、遮断機が下りて警報がカンカン鳴っているような状態だったのである。今入ったら危険なのだ。

 機関車はそこへガクン! と突っ込んでしまった。ポイントが切り替えられていたので、それ以上進むこともできず上り本線に中途半端にはみ出す状態で停止してしまったのだ。立往生である。

「事故発生だ!」機関車の運転士は汽笛を鳴らした。

 まあ、これだけでも確かに「事故」ではある。だがこの第一事故そのものは大したものではなく、問題はこの後である。ここから僅か6分の間に、土浦駅の構内は地獄絵図と化すのだ。

 第一事故発生から3分30秒後のことである。上り本線に貨物列車がフルスピードで進入してきた。駅構内で事故が起きていたにもかかわらず、信号が「青」のままだったのだ。このため、貨物列車は、立往生していた機関車とものの見事に激突してしまった。

 さあ、大事故である。上り本線の貨物列車はたちまち脱線し、脱線した状態のまましばらく走り続けた。そして先頭の機関車は、その先にあった橋の手前で転覆。隣を走る下り線をふさぐ形になってしまった。

 さらに、後続の貨物車両14両もバラバラになって脱線転覆。上り線にも下り線にも車両が散らばってしまった。

 最初に立往生していた機関車と貨物車両も、衝突によってぶっ飛ばされてやっぱり脱線転覆。なんかもう、開いた口がふさがらない惨状である。

 ところが、ここからが本番なのだ。

 この大衝突からさらに2分30秒後、反対方向から下り旅客列車がやってきたからさあ大変。先述の通り、下り線は転覆した機関車によって通せんぼされており、これに衝突してしまった。

 しかも悪いことに、この衝突が起きたのが橋の出口のあたりだったため、衝突時には下り列車の全てが橋の上を通過中の状態だった。たちまち客車の1両目は後ろから押されて棒立ちになり、2両目はゴロリと横転。3両目と4両目は橋から転落し、3両目は宙吊りになったが4両目は川に水没した。

 これでもかといわんばかりの凄まじさである。

 犠牲者は100名を越えた。が、正確な死者数は不明である。それでも参考文献『事故の鉄道史』によると96~120名は堅いようで、いやはやとんでもない事故があったものだ。

 この事故を防ぐすべはなかったのだろうか? あった。単純な話で、第一事故が発生した時点で、そのすぐ近くにあった南信号所がすべての信号を「赤」にするよう動き、指示を出せば良かったのである。

 では何故それができなかったのか。それは時代の空気のせいである。当時は戦時中真っ只中で、しかも戦局は日本に不利になりつつあった。国内ではダイヤが改正され、乗客列車は減らされ、「決戦輸送体制」が整えられていたのだ。

 それで、そもそもの事故原因は12号ポイントの切り替えミスにあったわけだが、このミスは南信号所の職員によるものだった。「決戦輸送体制」のさなかで極度の緊張状態にあった職員は、自分のミスで事故が起きてしまったのでパニックに陥り茫然自失、体が全く動かなかったのである。

 この時、南信号所の掛員には、「国家あげての決戦輸送体制の時期に汽車を止めるとは何事か! この非国民め!」という声が頭の中に響いていたのかも知れない。

 職員の、極度の精神的ストレスのため引き起こされた事故は他にもある。安治川口ガソリンカー火災や、それに最近では福知山線の脱線事故がそうだ。

 よって筆者は、土浦事故も含めたこの3つの事故を、個人的に「小心者の事故」と呼んでいる。筆者自身も非常事態にテキパキ動ける人よりも茫然自失となってしまう人の気持ちの方が分かる部分があり、同情を禁じ得ない。

 ちなみにこの事故、その後の事故処理や裁判の経緯などはまったく不明である。

 

   ☆

 

 この土浦事故は、その詳細が、ずいぶん長い間知られていなかった。戦時中だったため、軍によって報道管制が敷かれたせいだと言われている。

 そしてこの事故の19年後に発生したのが、伝説の鉄道事故・三河島事故である。実は、土浦事故と三河島事故はほとんど瓜二つと言っていいほどよく似ており、土浦事故がもっと国鉄職員によく知られていたならば、三河島の惨事も防げたのではないかとも言われているほどだ。

 しかし土浦事故がきちんと国鉄職員に知らされていたとして、本当に三河島事故を防ぐことができたかどうか――。歴史にイフはないとはいえ、これについて筆者はかなり悲観的な考えを持っている。

 あまり知られていないが、2005年の福知山線の事故の時も、事故現場の反対方向から列車が来ていたのである。これを止めたのはJR職員ではなく一般の名もないおばちゃんで、この人がとっさの機転で踏切の非常停止ボタンを押していなかったら土浦&三河島再び、になっていたのだ(ちなみにJRはこの事実を認めていないそうな)。

 三河島事故という「伝説の鉄道事故」を教訓として職員教育をしてきたはずのJRからして、これである。人間の精神構造を変革し、さらにそれを世代を超えて受け継いでいくというのはこれほど難しいことなのだ。

 そもそもの話、土浦事故が「軍の規制を受けて報道されなかった」というのも、本当かどうか怪しいものである。

 おそらくこういう形で疑問を呈するのは当研究室が初めてであろう。

 戦前から戦中にかけての大事故や大事件の話題を目にする時、この「軍が報道に規制をかけたのであまり知らされなかった」というのはほとんど決まり文句のようになっているが、これは本当なのだろうか。

 当研究室の貴重な参考資料である『事故の鉄道史』でも、当時は「日本国に不利になることを報道するのは利敵行為とされていた」という記述があるが、少し考えてみてほしいのである。戦局と関係のない、いわゆる三面記事的な事件事故の報道をすることが、どうして当時の政府にとって「不利」になるのだろう。おそらくこれに明確に答えられる方はほとんどいないと思う。

 報道は、きちんとされているのである。戦時中から戦後にかけては地震や台風や鉄道事故など、洒落にならない規模の大災害が結構起きているのだが、そういったものはほとんど報道されている。それは当時の新聞を見れば分かることだ。

 確かに、記事の扱いは小さい。例えばこの土浦事故も、中央の大手新聞が、かろうじて簡単な一段記事程度で報じただけだった。

 しかしこの頃は物資が不足していた。新聞の紙面もしまいには一枚の紙の両面だけになったり、紙の材質も藁半紙になったりしていたのだ。現在のように、大事故が起きるとその報道のために2つも3つも紙面を割くような贅沢はできなかったのである。

 また新聞の「取材」も、当時は今からでは到底考えられないようなやり方だった。まず地方にいる記者が現場や関係者から取材をし、そしてそれを電話で本社に伝える。本社の記者は電話口でその記者から「取材」を行い、それを編集に回して、紙面に合わせて文章を添削し、そしてようやく記事が出来上がる――という流れだったのだ。アナログもいいとこである。

 そして戦時中、どこでも人手や物資が不足していた時代に、果たしてこのアナログの手法をどこまで満足に行うことができただろう。

 もちろん、多少の報道管制はあったようだ。実際、軍が絡んだ事件事故で当時は報道されず、戦後になってからようやく明らかになったものはいくつかある。しかしそれらは基本的に「報道されなかった」のであって、土浦事故のように一段記事で報じられることすらなかったのだ。

 以上のことから、筆者はこう考えている。当時、確かに報道管制はあったことだろう。だがそれは極めて限られた時代の、限定された内容のものに限られていたのであろう――と。そして、土浦事故が一般に知らされなかったのは必ずしも報道管制のせいではなく、人出や紙面が足りないという単純な物理的な理由からだったのではないか――と。

 実は、最初は「軍によって報道が規制された」と言われていたものの、実際にはきちんと報じられていたというケースは他にもある。有名な昭和13年の津山事件などがそうで、どうも「軍はどんな情報でも規制した」というのはひとつの都市伝説のパターンであるようだ。

 1945年の終戦直後に起きた八高線正面衝突事故についても、ときどき同じような言われ方がされている。「この事故は被害が甚大であったにも関わらず、あまり一般には知られていない。報道管制のせいである」とうわけだが、これなどは既に戦争が終わった後の事故なのだから、そもそも報道管制を敷く意味が全くない。何かの勘違いであろう。

 それでは、実際に土浦事故があまり一般に知られていないのは何故なのか?

 これに対する筆者の回答は簡単である。要は、我々がある事件事故について情報を得たり知識を得たりするのは、けっきょくマスコミが大々的に報道するか否かにかかっているということだ。

 どんな事件事故も、マスコミが報じなければ、我々はそれを知り得ないのである。そして報じ方が小さければすぐ忘れてしまうのである。ましてや戦中から戦後にかけての混乱期ならなおさらだ。

「人間は、忘れる動物である」。全てはこのひとことに要約できると思う。土浦事故という大惨事が忘れ去られたのも、また福知山や三河島で過去の教訓が生かされなかったのも、全てはそれがためなのだ。そう筆者は考えている。

 こんな土浦事故なので、記録はほとんど残っていない。唯一、土浦市の医師が戦後になって『木碑からの検証』というタイトルの記録書を出しているそうだが、これは現在は入手困難である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

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沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1

 土浦事故八高線正面衝突事故は、よく「当時は軍の規制があって報道されなかった」と言われたりする。だが、筆者はこれは間違いだと考えている。

 確かに、そうした規制のため報道されなかった事件事故というのは存在する。ただしそれは戦時中であれば日本軍が、そして終戦直後であれば米軍が、大きく関係した出来事に限られるのである。今ふうに言えば、軍がからんだ「スキャンダル」に該当するような事例だ。

 軍がからんでいない事件事故であれば、紙面での扱いは小さくとも(当時はもともと物資の不足で紙面の容量が限られていた)きちんと報道はされている。土浦事故も、八高線の事故もそうだ。

 では、軍が関係していたため報道されなかった事故事例にはどんなものがあるのか。これはしかし、それこそ報道されなかったがゆえに今でも詳細が不明なものが多い。戦時中であれば、軍艦の沈没や火薬庫の爆発事故などの事例がそうだし、また戦後であれば米軍機の墜落事故などがある。ついでに言えば、米兵の日本人に対する婦女暴行の事例などもそうだ。

 今回ご紹介するのは、「これこそまさに」と言える事例である。報道管制下で完全に隠蔽された事故の最たるもの。鉄道における大惨事中の大惨事。土浦事故でも八高線事故でもない、ごく最近まで報道されずじまいだった日本鉄道事故史上最悪の事例がこれだ。

 時は1944(昭和19)年12月11日、沖縄県島尻郡南風原村(現南風原町)神里付近でのことである。

 まだ朝も早い頃、嘉手納駅から一本の列車が出発した。

 路線の名前は糸満線といった。当時、沖縄県内には県営鉄道が存在しており、それによって運営されていた路線である。

 沖縄の鉄道路線は、明治期からずっと資金面の問題があって整備されていなかった。それがやっと県営という形で叶ったと思えば今度はバスがのしてきて、いったんは鉄道の存在感が薄れたものの、軍事輸送に使えるということでまた復活。通常ダイヤを取りやめて、軍用路線として使用されるようになっていた。

 事故当時も兵員の輸送が行われていたという。ちょうど、沖縄に駐屯していた第9師団が台湾へ出て行き、入れ替わりに第24師団が送り込まれたところだったのだ。この移動は大規模なものだった。

 列車は6両編成で、さらに途中の古波蔵駅では2両を増結し8両となった。客車と貨物車両が何両ずつの組み合わせだったのかは不明だが、どちらも相当数あったと思われる。先述の通り兵員も多く運ばれていたし、通学のための女学生も乗り込んでいたというからだ。

 そしてこの列車、糸満駅に向かって発車したのはいいのだが、途中で大爆発を起こしたのだった。

 悪いことに、この列車には弾薬もたっぷり積まれていた。次々に誘爆が発生し、乗っていた兵士も女学生も爆発と火災に巻き込まれて約220人が死亡した。

 220人だぜ220人。これは、西成線ガソリンカー火災の死者数を越える鉄道事故史上最悪の数字である。

 え、爆発の原因はなんだったのかって?

 ごめんなさい、それは不明である。それこそまさに、戦時下の報道管制下で緘口令が敷かれたせいだ。昔のテレビ特捜部で紹介していた番組を真似て言えば「今日、鉄道事故がありました。原因は不明です。」といったところである。素っ裸のお姉さんがそういうニュース報道(笑)をする番組、あったよね。

 あっさりし過ぎているようだが、事故の経過は以上である。この一件は内密に処理され、しかもこの後には沖縄戦が開始。米軍の占領下で鉄道施設も破壊され、県営鉄道も実質廃止となり、事故の記憶は闇から闇へと葬られる形になった。

 もちろん、情報が全くなかったわけではない。昭和50年代には、ごく簡単な記載ではあるが、この事故のことが沖縄関連の書籍に記されるようになった。ただしそれは、地元で発行されている詳細な辞典に限られた。

 では詳細が明らかになったのはいつかというと、驚くなかれ、たったの3年前、2008年なのである(2011年現在)。筆者は未確認なのだが、この記録を発掘したのは桃坂豊氏という鉄道マニアであるという。

 ほぼ断言できるが、当『事故災害研究室』の読者の方も、ほとんどはこの事故のことは知らなかったと思う。あったのですよ、こういう悲劇が。事故発生から60年近くも封印されていた最悪の鉄道事故が、こんなところにあったのだ。

 機会があれば、筆者も詳細を調べてみたいところだ。だが北陸トンネル火災大洋デパート火災などとはわけが違う。山形の図書館程度では資料も全くなかった(そもそも桃坂氏の著作自体が県内にはなかった)。

 ここはひとつ、土浦事故について『木碑からの検証』が書かれたように、どなたかが沖縄で詳細な聞き取りを行って記録書を作ってくれないかと思うのだが、ダメかな。よろしく!

 

   ☆

 

 以上のような状況につき、特にこの事故については随時加筆を行っていきたい。ウィキペディアに載っている以上の情報をお持ちの方は、是非お寄せ頂きたいと思う。

 もちろんそれは、今までご紹介している他の事故災害についても同様である。せっかくなので、そのあたりの注意事項を記しておこう。

 

 *書籍等からの情報であれば、出典が分かる形で。
 *実体験に基づく証言であれば、それと分かる形で。
 *情報の出所が不明な場合は、おぼろな記憶でもいいです(当時のワイドショーで言ってた気がする、とか)。とにかく不明なら不明と明記して下さい。

 

 以上のような形で今まで情報を頂いたケースとしては、川治プリンスホテル火災飛騨川バス転落事故青木湖バス転落事故などのケースがある。メールでもブログのコメント欄でも構わないので、どしどし情報お寄せ下さい。

 

※この「沖縄県営鉄道爆発事故」については、その後、詳細な資料が寄せられたことにより、「その2」という形で新たにルポを書き起こしている。関心がある方はぜひ「その2」の方もどうぞ。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア

 

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