目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
山陽本線特急列車脱線転覆事故(1926年)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
山陽線列車脱線転覆事故(1938年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
横浜港ドイツ軍艦爆発事故(1942年)
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
京都駅将棋倒し事故(1934年)
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)
ラブパレード事故(2010年・ドイツ)
航空機事故
トランスワールド航空800便墜落事故

閉じる


<<最初から読む

99 / 160ページ

沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)

弾薬輸送列車大爆発事件

闇に包まれた爆発事件

 

 1945年(昭和20年)の沖縄決戦における戦没者は県援護課の資料(1975年3月調)によると沖縄県外軍人軍属65,908柱、沖縄出身軍人軍属28,228柱、一般住民94,000柱計188,136柱となっている。しかし申告漏れがかなりあるため一般住民の戦没者は実際には10万人を超すといわれている。このように一般住民の犠牲が軍人軍属の犠牲を上回る悲惨な戦争は世界に例がないといわれている。

 この厖大な犠牲は米軍の砲弾によるものだけではなく日本軍の事件事故によってつくり出された犠牲も含まれている。ところが日本軍に係る事件事故はこれまで隠されてきたのが多く俊々の証言によって明るみに出される例が多い。これから明らかにしようとする列車の爆発事件もその類である。

 この爆発事件は二百数十人の人間が一瞬のうちに空中へ吹き飛び或いは火に焼かれて死亡するという大惨事であった。三十二軍首脳もこの事件によって大量の武器弾薬を失った為に動揺し参謀長は直ちに各部隊へ厳重な注意事項を発していさめた。ところが三十二軍首脳は決戦を控えて一般住民の動揺を恐れたのか外部に対して全く秘密であり、お叱り受けるのを恐れたのか大本営に対しても全く報告されてなかった(防衛庁戦史室は後々にこの事件を第62師団会報綴によって知った、戦史叢書沖縄方面陸軍作戦)。

 当時は報道機関も軍の検閲下にありそのためにこの事件の報道は一切なく県鉄関係者も口止めされ、被害関係者も軍を恐れて口を閉ざし今日まで無言の闇に包まれて来た。この惨事も戦争の実態の一つであることを県民が知ってもらうために弾薬輸送列車の爆発事件を報告することにする。

 

事件の背景

武部隊の台湾転出

 1942年(昭和17年)三月に日本軍はフィリピンを占領した。その時南太平洋の米軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍は「I・SHALL・RETURN」私は必ずまた来る、という予言を残してフィリピンからオーストラリアへ脱出していた。しかし日本軍はその後太平洋諸島においてことごとく敗北を喫し彼の予言通り1944年(昭和19年)10月20日からダグラス・マッカーサー将軍の指揮する米南太平洋軍団は猛烈な艦砲射撃の支援を受けながらレイテ島東海岸に上陸を開始してきた。それを受けて大本営はフィリピン方面を決戦場と決め「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」の大号令を発した。

 レイテ決戦の決意に伴い11月20日台湾在の第十師団と朝鮮在第十九師団がフィリピンの第十四方面軍に増加され、更に沖縄の三十二軍からも一個師団フィリピン方面へ抽出することになっていた。勿論三十二軍は沖縄から一個師団抽出することに強く反対したが大本営の至上命令に押切られ止むなく一個師団の抽出となった。一方台湾の第十方面軍では多くの兵員がフィリピンに抽出された為に台湾守備が手薄になっているとして台湾に兵力増強を要請していた。大本営は当初沖縄から抽出する一個師団も比島方面へ投入する考えを持っていたが海上輸送に大きな危険が伴うため差当り台湾へ移すことになり、沖縄本島南部の島尻郡で陣地構築中の第九師団(武部隊)が11月中旬台湾へ抽出されることに決定された。武部隊は昭和19年6、7月の夏から11月の秋にかけて多くの現地住民も使い陣地構築は完成間近であった。10月15日には現地入隊の初年兵もかなり加わり一万三千人を超える大所帯の師団で光輝ある精鋭師団として評判が高かった。配備以来住民との接触も多くなじむ頃であったが転出の軍令を受けて密かに移動を準備していた。

 11月末にこれまで汗を流して築き上げて来た各陣地を第二十四師団(山部隊)へ引継ぎ那覇へ集結して12月中旬から20年1月上旬にかけて那覇港を夜間出港し米軍の魚雷攻撃を避けながらかなりの時間をかけて島づたいに台湾へ渡った。軍の行動は秘密であり殆どの住民は武部隊が台湾へ去ったことを後で知った。武部隊の他第三十二軍配下から三十二軍直轄の中迫撃第五、第六大隊の二個大隊が11月21日那覇港を出港しフィリピンの第十四方面軍に編入されていた。第三十二軍首脳は第九師団と砲兵二個大隊の代替兵団の派遣を期待したが実現せずがっかりしていたが戦況は油断を許さない状勢にあったので止むなく次の新作戦を立案し実施することになった。

 

新作製計画を発令

 第三十二軍は第九師団(武部隊)の台湾転出に伴い従来の沖縄本島決戦防禦方針から接久防禦方針へ転換して軍主力を宜野湾以南の浦添、首里、南部島尻地区に配備する新作戦計画を作定し各兵団へ発令した。

 1944年(昭和19年)11月26日新作戦計画に基づいて配備変更の軍命令が発せられ、第二十四師団は第九師団が築いた陣地を引継ぎ島尻方面の警備の任に当ることになった。しかし配備変更は軍事機密のため下の一般兵に対して伝達されず「は」号演習と下命された。先発隊は11月27日から出発したが師団主力は12月6日から11日にかけて移動することが確定し、その準備に取りかかった。第二十四師団の将兵達は沖縄上陸以来五ヶ月余り読谷村、恩納村、石川、美里、具志川方面で日夜汗を流して精魂を込め造り上げた地下道陣地の完成を目前にしてこれを自分達の手で取壊し捨てなければならない羽目になり割切れない気持ちであったが軍命令であってみれば止むを得なかった。

 12月6日軍命令を受けた第二十四師団は各連隊ごとに近くの国民学校へ集結し島尻郡の南西部へ移動を開始した。日暮れと同時に出発して夜間行軍の大移動であり、折からの雨で重い背ノウと完全軍装の将兵達はびしょ濡れのまま黙々と三十余キロの道のりを南下した。途中休憩ともなれば疲れきった将兵達は所かまわず崩れるように倒れて容易に立ち上がろうともしなかった。翌朝未明に各連隊は新任地に続々と到着したが僅かな休養も許されず次の準備に忙殺された。新任地での宿舎の設営や、第九師団から引継いだ戦斗壕を各部隊に合うように完成させる作業が待ち受けていた。歩兵連隊が先に移動すると師団の各隊は計画図に従って次々に新任地へ移動していた。

 

事件の概要

 第二十四師団の主力である歩兵三個連隊(第二十二連隊、第三十二連隊、第八十九連隊)は12月6日から7日にかけて新任地の島尻南西部へ移動し、8、9日には他の連隊(捜索隊、野砲隊、工兵隊、通信隊、輜重隊)が移動し10日には衛生隊が移動した。

 師団司令部としては兵員の移動が済み次第引続き兵器弾薬の運搬を急がなければならなかった。読谷、具志川辺に置かれていた二十四師団の兵器弾薬は嘉手納駅に集められた軽便列車を利用して島尻の南西部へ運ぶことになった。1944年(昭和19年)12月11日月曜日晴れ時々曇りで兵器弾薬の運搬に支障はなかった。そのために朝から弾薬輸送列車は休むいとまもなく慌しい中をつっ走っていた。二十四師団は一万四千人を超える大所帯であったが6日から10日までの5日間にほとんど夜間行軍で移動していた。

 しかしその中にはたまたま病気などで夜間行軍に耐えられない一般兵や初年兵があり、その人達は嘉手納駅に集められ列車で運ばれることになった。12月11日の午後も嘉手納駅で無蓋貨車六両に弾薬が積み込まれ、その上に枯れススキを広げて150人前後の兵員が乗せられ南部へ向かって走った。

 しかし古波蔵駅に到着するとそこで一時ストップとなり機関車は燃料補給のため貨車から離れ那覇駅へ走った。その間に古波蔵駅では初年衛生兵達が研修の帰り60人くらいが乗り込み、帰宅の女学生も4、5人くらい乗り込んだ。暫くすると機関車は那覇駅から、ドラム缶を積み込んだ無蓋貨車一両と医薬品が積み込まれた有蓋貨車一輌に帰宅の女学生5人が乗り込んだ計2輌を引いて再び古波蔵駅へやって来た。一時停車していた古波蔵駅の貨車に連結され8輌の列車は高嶺駅方面を目指して発車した。すでに時計の針は午後四時を回っていた。途中の津嘉山駅で軍の壕堀作業から糸満へ帰るため一高女性二人が割り込むようにして乗り込んだ。列車は荷物が重いためかなり速力が落ちていた。山川駅を通り喜屋武駅を過ぎると上り坂に差しかかった。丘の麓からゆっくりと真黒い石炭の煙を吐きながら這い出すようにして進んだ。上り坂を這い上がるとそこは南風原村字神里の東側外れである。田園と小川を横切り稲峯駅へ向う切通し附近に差しかかるや突如として轟音を発し一帯は火の海と化した。その爆発音は那覇市をはじめ島尻全域に響き渡った。時計の針は午後四時三十分前後を指していた。大音響を同時に乗り込んでいた二百数十名の人間はこなごなになって飛び散り、あるいはガソリンと火薬の火によって焼き尽くされた。火は周辺の砂糖きび畑に広がり所々に積まれていた日本軍の弾薬にまで引火し、一帯は騒然となった。その火の海から何十人かは体に火が着いたまま数百メートルも自力で這い出し、遠巻きに待っていた兵員達の協力で体の火が消され陸軍病院の南風原小学校に運び込まれた。爆発は一輌目のガソリンが発火し後方の人と弾薬が積まれた貨車に火を被り爆発炎上した。最後方の一輌は連結点から吹切れ積込まれた弾薬と人は既に飛び散り火が付いたまま後方へ押し流され津嘉山駅に流れ着いた。宇神里の東原は畑に積まれていた日本軍の弾薬に誘爆を起し数時間も火災が続いた。そのためにニ、三百メートル離れた村の民家が数軒燃え上がり村人達は混乱の中を近くの壕や隣村の山川方面へ狼狽しながら逃げた。

 

焼死体の散乱する現場

 東風平の国民学校へ一足先に夜間行軍で移動していた二十四師団の衛生隊員達は爆発事件の通報を受けて直ちに現場へ緊急出動したが火災と畑に置かれていた弾薬の誘爆により近寄ることができず遠巻きに待構え、火の中から這い出して来る人々を救助しながら誘爆と火災が鎮まるのを待った。

 間もなく辺りは夕闇に包まれたが誘爆と火災はなお続きその間に多くの人々が焼き尽くされた。数時間後にようやく誘爆と火災が鎮まりかけたので遠巻きに待構えていた隊員たちは夕闇の中を携帯電燈など使い爆発現場に踏み込んだ。

 惨たるかな惨状、火にまみれた命四辺に散乱する。青春のかばね、天は非情を悼むか、戦雲の夕べに悲嘆のうめきは、風声にこだます。二百数十八の人々は手足もばらばらとなり、或いは人の区別もつかない程焼け爛れ散乱していた。隊員達は手探りの状態でまだ息のかかった者は南風原小学校の陸軍病院へ運び既に息絶えた者は東風平の国民学校へ運び安置する作業にかかった。しかし闇の中十分な片付けができず作業は翌日に持ち越された。12日は朝から字神里の男子稼動者も片付作業に動員され木に掛かった遺体や散乱する手足を担架に拾い集める作業を応援した。

 一方、軍の方では直ちに爆発現場へ縄を張り復旧作業と原因調査を始めた。乗込員のタバコの噂あり、機関車から吐き出される石炭の煤煙説あり、一部にはスパイ説もあった。特に軍はスパイの噂に神経をとがらしたが、究明するに到らなかった。与那原署でも事件発生を知りひそかに刑事を廻したが相手は軍であり深く立入ることができずうやむやに終った。体験者の証言と参謀長の注意事項中上司の注意規定を無視したる為惹起せるものなり云々からすれば爆発の原因は煤煙からの引火と考えられるが調査発表がなかったので、結局二百数十人の生命を奪った不祥事件の真相は謎になった。

 

地獄絵図化する陸軍病院

 まだ息のかかった何十人かの被害者は南風原国民学校(現小学校)に設営されていた陸軍病院に収容された。真黒く焼け爛れた者達が運び込まれごった返す中を応急手当が施された。しかし収容された者達の怪我や火傷があまりにもひどく数十人が毎日毎夜の如く水をくれ、殺してくれの叫びとうめきが続き、当てがわれた各教室は地獄絵図の様相を呈した。しかし手当の甲斐もなく収容された殆んどの者達が大きなうめき声を上げながら一、二週間のうちにバタバタと息を引取っていった。比較的火傷の軽い女学生の何人かは家族に引取られ何十日間の日数を要して自家治療をし、ようやく治したのがいた。

 

密かに合同葬儀

 第二十四師団の衛生部隊は沖縄上陸後、美里の国民学校に本部を設営し、師団兵員の病人対策を取る傍ら、同衛生隊に現地入隊した沖縄出身の初年兵達を衛生兵として各中隊に配属する前の隊員教育や研修を行なっていた。

 しかし師団の移動に伴い同衛生隊も12月9日から10日にかけて東風平国民学校(現中学校)へ移動した。そのために東風平国民学校は二十四師団の病院となり、その一方には歩兵第八十九連隊の本部が置かれた。しかし衛生隊は東風平の国民学校に移動して来た二日後に列車爆発事件と遭遇し、息つく間もなく遺体の収容作業に追われた。同衛生隊員からもかなりの犠牲者を出して運び込まれて来たが識別し難い程焼かれあるいはバラバラになって収容されて来た。遺体は密かに火葬され、校内で兵員による合同葬儀が行なわれた。しかしこの葬儀を知る民間人は殆んどいなかった。そのようにして軍の手により可能な限り犠牲者が識別され、骨箱が準備された。女学生は遺族に通知し引取ってもらい、軍人の犠牲者は各中隊に骨箱が送り届けられ密かに事件の後片付が行なわれた。

 

事件の伝播恐れた軍

 事件の発生により軍は緊張し大きく動揺した。12月13日、三十二軍参謀長は直ちに各部隊に対し次のような注意事項を発生した。「山兵団ハ神里付近ニ於テ列車輸送中兵器弾薬ヲ爆発セシメ莫大ナル損耗ヲ来セリ一〇・一〇空襲ニ依リ受ケタル被害ニ比較ニナラザル厖大ナル被害ニシテ国軍創設以来初メテノ不祥事件ナリ、此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナラズ、此レ一二兵団ノ軍紀弛緩ノ証左ニシテ上司ノ注意及規定ヲ無視シタル為惹起セルモノナリ、無蓋軍ニ爆弾ガソリン等ヲ積載スベカラザルコトハ規定ニ明確ニテサレアルトコロニシテ常識ヲ以テ判断スルモ明ラカナリ、輸送セル兵団ハ言フニ及バズ此レガ援助ヲ為セル兵器●兵姑地区隊モ不可ニシテ夫々責任者ハ厳罰ニ処セラルベシ、該事件ノ如キハ署亜罰ノミニテ終ルベキ性質ノモノニ非ズ、戦争ニ勝タンガ為、第一線ニテ不自由ナカラシメンガ為銃後国民ガ爪ニ火ヲ燈すが8如ク総テヲ犠牲ニシテ日夜奮闘シテ生産セルモノニシテ銃後国民ノ赤誠ニヨルモノナリ、作戦上ノ必要ニヨル消耗ハ止ムヲ得ザルモ敵一兵ヲモ殺傷スルコトナク莫大ナル消耗ヲ来セルハ面目ナキ次第ナリ、兵器弾薬燃料ノ分散格納不十分ナリシ為カカル莫大ナル損耗ヲ来セリ各兵団ノ兵器、弾薬ノ他ノ軍需品ノ分散格納モ極メテ不十分ニシテ普天間、宜野湾付近ノ道路ノ両側ニ多量ヲ集積シテアリタルモ艦砲射撃ヲ愛クレバ必ズ爆発燃焼スルハ明瞭ナリ、各部隊、兵器弾薬ハ速カニ掩蔽部ニ格納スベシ人員ノ掩蔽壕ハ遅ルルモ兵器弾薬速カニ掩蔽部ニ格納スルヲ要ス。戦ハ大和魂ノミニテ勝チ得ルモノニ非ズ兵器弾薬ハ戦勝上欠クベカラザルモノナルハ言ヲ俟ズ、軍ハ該被害ニヨリ戦カノ半数以上ヲ減ジ如何ニシテ之ガ前後策ヲ講ズルカニ腐心シアリテ軍ノ戦闘方針ヲ一変セザルベカラザル状況ニ立到レリ、今敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状ニシテ今後弾薬等ノ補給ハ至難事ナラン、将来兵団ニ交付シアル兵器弾薬、其ノ他ノ軍需品ヲ焼失爆発等セシメタル際ハ軍ニ於テ補給セズ、其ノ余力ナシ兵器、弾薬等国情ヨリ見ルモ豊富ナラズ各隊ハ極力兵器ノ愛護、弾薬ノ節用ニ勉メ仮初ニモ過失ニヨリ戦力ヲ失セザル如ク注意セラレ度、軍司令官ノ心痛ヲ見ルニ忍ビズ其ノ意図ヲ体シ各部隊ニ一言注意ス」(昭和19年12月14日付、石兵団会報94号より)

 

もの言えば口唇寒し

 このようにして軍司令部は国軍創設以来、初めての不祥事件であり武器弾薬の厖大な損害のため当軍(二十四師団)の戦力が半減したとして直ちに軍内部の各部隊へ注意を喚起したが外部の民間人に対してはできるだけ、事件の内容が伝播しないように秘密処理された。軍としては決戦を控え民心の動揺を恐れあるいは敵に対して情報のもれを憂慮したに違いない。それにしてもあまりの残酷なできごとであり処理であった。

 不吉な事件に遭遇し娘を失った遺族は気も狂わんばかりに衝撃を受けたが当時軍にもの言える状況でなくただは泣き寝入りするだけであった。敵を殺すために日本の工場で生産された弾薬は容赦なく同胞の人間を吹き飛ばし肉を引き裂き、焼き尽くした惨劇であった。沖縄戦は米軍上陸以前から悲惨な事件や事故によって犠牲者が続出していたがヤミからヤミへ葬り去られていた。

 

 これまでに判明した被害状況

軍人    死亡   二百十人前後

女学生   死亡   八人

生存   二人

県鉄職員  死亡   三人

      生存   一人

 

武器弾薬  貨車6輌分   喪失

ガソリン  貨車1輌分   喪失

医薬品   貨車1輌分   喪失

 

畑に積まれた弾薬 数千トン喪失

 

証言 Ⅰ

沖縄県営鉄道二十四年間

 私は那覇に生れ大正中期青年の頃、大阪商船の貨物船名瀬丸や桜木丸、京都丸などに乗り込み船員としての生活を送っていた。

 しかし、二十五才で結婚したので船に乗るのを止め1921年(大正10年)3月28日から県営鉄道の車輌夫として働くことになった。日給五十銭であったがそれで夫婦生活はなんとか間に合っていた。二年に十銭づつ上り昭和2年4月1日から日給八十銭となった。それから二年後の昭和4年4月1日から機関助手となり更に二年後の昭和6年6月30日沖縄県鉄道管理所雇いとなる。

 それまで無我夢中に頑張って来たが振り返ってみると日給で働くこと十年間である。十年一昔頑張って来たのだ。我ながらにして感慨深い。しかし運送業務に従事する者は決して油断できない仕事である。

 

晴れて機関手に

 機関助手として世年間働いた後昭和8年4月1日から機関手(列車運転手)として採用され月棒三十円支給された。当時は昭和恐慌で金融逼迫の時代であり三十円の棒給取りはどこからでも肩を張って歩けた。しかしその替り何百人の命を一度に預る責任は重大であった。昭和13年4月1日に沖縄県鉄道技手の免許が与えられ月棒四十円が支給された。昭和12、13年といえば支那大陸では日華戦争が始まりいよいよ本格的な戦争へ発展して日本は泥沼の戦時体制へ追い込まれる頃であり、我が沖縄からもそれ以後多くの青年達が兵隊に送られて行った。農村からの出征兵士は列車を利用して那覇へ集められていた。出征兵士が出る時は駅に多くの学生や青年達が集められ次の歌を歌いながら日の丸の小旗を振って見送っていた。

 

  勝ってくるぞと勇ましく

  誓って国を出たからは

  手柄立てずに死なれよか

  進軍ラッパ聞くたびに

  まぶたに浮かぶ旗の波

         (露営の歌)

 

 私達もその見送りを背に列車を運転することしばしばであった。

 沖縄県営鉄道は1914年(大正3年)に那覇与那原間開通、私が日給で県鉄へ入って間もない頃大正11年に那覇嘉手納開通、1923年(大正12年)に那覇糸満間の三路線が開通した。鉄軌道の開通は沖縄に交通革命をもたらし経済復興や産業活動に大きく貢献していた。

 農村から農産物を那覇に那覇から農村へ輸入物資が運ばれ、高嶺製糖工場ができてからは砂糖キビも運搬し、その製品は輸出物資として那覇へ運ばれた。のどかな沿線に汽笛を鳴らして走った軽便列車は多くの人々に親しまれ利用されていた。

 

武器弾薬輸送列車へ

 昭和16年から日米開戦となり我が沖縄も戦時体制の慌しい世相に進みつつあったが、まだ沖縄には平和が在った。しかし昭和19年に入ると日本軍が大挙那覇に上陸して来た為軍需物資の運搬が増加した。

 夏頃になると通堂町に置かれていた後方部隊の球兵站本部から停車場指令が派遣され那覇駅に指令部が設置され運送係が何人か常駐し軍需品の運搬手配をしていた。

 軍需品の運送も日を追って増加していたが、十・十空襲によって那覇駅も焼き払われた。しかし列車とその路線は残されたので運送業務はそのまま続行された。十・十空襲以後はますます軍需物資の運搬が増加し軍事優先となり民間人の利用が非常に少なくなっていた。そのために毎日朝から各部隊の武器弾薬その他軍事貨物、兵員の輸送に追い立てられていた。そのような慌しい中を敵の偵察機が度々飛来し騒然となり戦時体制一色に包まれていた。

 

輸送列車大爆発

 1944年(昭和19年)12月11日も朝から緊急輸送命令を受けて武器弾薬それに兵員の輸送に当っていた。最終便で高嶺駅を目差して進行中稲峯駅附近に指しかかった際、突如列車が大音響と共に大爆発を起し、列車は火に包まれ運転不能となった。同乗者の機関助手一人と車掌二人はその場で不明となり、兵員も多数爆死した。

 私は直ちにブレーキをかけたが数秒間のうちに強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み頭部、両手、両足に火傷を受け更に両耳に爆風が吹き込みそれ以来、耳に不調をきたした。私は火の列車より脱出し近くの稲嶺駅に駆け込み本部に電話連絡しようとしたが電話線が切れ普通となっていた。更に東風平駅まで走ったが同様に不通であった。

私は茫然となり県道を那覇へ向って進んだ。奇跡的にも私は生き残っている。どうして助かったのか私自身よくわからない。

 その内火傷が痛み出したがようやく山川駅に辿り着いて休んでいると県内務局の職員が車をもって来た。爆発現場には行けないということでそこから引返したが私はその車で那覇駅へ行き、報告をしてから泉崎の官舎宅へ帰った。

 翌日から二高女裏に在った軍病院に通い火傷の治療に当った。火傷の痛みが出て苦しくなったニ、三日後、軍の憲兵が自宅に来てその時の状況や原因について取調べを受けた。一週間くらい後で県鉄側から早く職場復帰するよう通知が来たが最早、私には精神的にも肉体的にも働く力が無く火傷の治療が精一杯であった。県鉄三十四年間の生活は私の半生であったが日本軍の弾薬を運んだ為にその火で焼き出され県鉄最後の日となった。

 数百人が飛び散り焼き尽くされる修羅場の中からようやく這い出し、生きのびて来たがその時の火傷の後遺症と耳の不調は私の一生につきまとう。数百人の人間が日本軍の弾薬によって畑に散り、虫けらのように死に絶えて行った事実は殆んどの人が知らない。

 沖縄での戦争は米軍との決戦以前から一般住民に対して犠牲をしいたげるだけであった。罪の無い多くの国民を大量に殺して行くのが戦争の実態である。あの時の恐ろしい悪夢の思い出は八十才過ぎた今日でも脳裏に焼きついて離れない。

元沖縄県鉄機関手 当時四十八才

 

証言Ⅱ

火あぶりの青春

 昭和17年といえば日米開戦の翌年で日本は全土に戦時体制が敷かれ慌しくなる年であった。沖縄も戦時体制であったがまだ平穏な庶民生活の面も残されていた。しかし次第に体制の影響を受けて庶民生活は苦しくなり、物資不足で金はあっても買う者が極度に不足する状況にあった。かしし農民ではあるもので間に合せて生活は成り立っていた。そのような時期に私は●元寺町に在った昭和女学校に席をおくことができ通学することになった。幸い村の近くから糸満線の列車が通っていたので時間さえ問い合せば不自由なく那覇へ通学できた。毎日列車に乗る生活となり周辺市町村からも次第に通学生が増えていた。

 昭和18年に入ると防空演習や竹槍訓練が盛んになり戦時体制は一段と進んでいた。7月に東条首相が沖縄に立ち寄った時は学生全員が動員され那覇の沿道で小旗を持って出迎えさせられた。沖縄もいよいよ戦時体制一色の感となり社会情勢は急激に変化し、ますます不安の方向へ流れていった。標準語運動から皇民化運動、更には戦時体制へと庶民にとっては重苦しい社会であった。

 昭和19年に入ると守備軍が大挙上陸して来て中南部の山や丘、海岸などに地下壕やたこ壷が次々と築かれ、あらゆる公共建物が軍専用となり、農村の民家まで軍人が入り込んで来た。私の家は慰安所になるとのことで家族は他に引越さざると得なくなっていた。その頃から軽便列車も軍需物資の運搬専用として客車から貨車になっていた。そのために民間人の使用ができなくなっていたが女学生の通学は黙認のかたちでなんとか続けることができた。

 

十・十空襲

 ある朝いつもの通り学校へ行くため列車に乗り一息ついていると頃高射砲の音が聞えていた。そのうち列車は国場駅まで進んでいたがそこから前進しなくなった。何のことかと思っているうちに那覇は空襲があるのでそれ以上列車は運行できないので全員降りて自宅に帰るよう指示された。列車から降りて暫くすると戦闘機が飛んでおりポンポンしている音が聞えて来た。次第に空襲は本物であることがわかり急いで自宅へ逃げ帰った。

 地方でも皆ビックリして不安そうに空を眺め音のする那覇の方向を仰いでいた。その時初めて米軍の沖縄上陸を予想し深刻に受け止めるようになっていた。私達の学校は市内に在ったが直接の被害は受けず以前と同じように学校へ通うことができた。しかし街は焼野原となり瓦礫の山となっていた。

 それ以後地方でも避難壕堀が盛んとなり、私達もモンペイ姿で学校へ行くようになっていた。十・十空襲以後は軍民騒然となり米軍上陸の不安は充満し県外疎開などでますます慌しい日々となっていた。

 

火の海から這い出す

 12月の初旬は朝夕肌寒くなっていた。11日月曜日は晴れ時々曇りで普段と変らず学校へ行き帰りは那覇駅で友人四、五人と一緒に貨車へ乗った。一輌目の有蓋列車は軍用の医薬品が積まれて中に入れず私達三、四人は有蓋貨車の外側に立ち乗りした。古波蔵駅に着くと兵隊が一杯乗っている貨車六輌くらいにつながれゆっくりと糸満に向けて発車した。喜屋武駅をすぎると登板を上って字神里附近を通過する頃列車は速度が落ち次の瞬間前方で火を見たとたん非常に危険を感じ直ぐ飛び降りたけれども既に火の海になっていた。その中を走り抜けたような気がする。しかしその時には気が動転して記憶もさだかではないが逃げ出した時には髪の毛と着物に火がついていた。たまたまそこに小川が在ったので飛び込んで火を消したが気が遠くなるような気がして座り込んでいた。そこへ遠巻きにしていた兵隊が走って来て肩を貸してもらい附近の農家に案内された。暫くしてからトラックで南風原小学校の陸軍病院へ運ばれた。

 

生地獄陸軍病院

 運び込まれた陸軍病院には何十人もの人々が黒焦になった者、全身皮がむけた者達が床の上でうめき声を上げ殺してくれと叫びながらのたうち回っていた。私は一週間程そこで火傷の治療をしていたがその間に殆んどの者達がバタバタと死んでいった。

 そのうち母親が連れに来たので家へ帰り自宅治療をしたが二ヶ月間痛さで苦しみぬいた。運よく私は生きのびたがいつも列車で通学していたあの人達は火の中に消え、あたら少女の身を失ってしまった。二度と甦ることのない彼女達は今人々の記憶からも忘れ去られようとしていた。哀れなあの姿を何時も切なく私は想い出す。三十余年が過ぎた今日ではその鉄軌道も形を変えて農道となり作物と草木は何気なく辺を静め、昔の惨状を偲ばせる跡形はもう何もない。時の流れがかくもはかなく何ごともなかったように形を変えてしなうものかと思い知らされるだけである。

当時学生

昭和女学校三年生

 

証言Ⅲ

衛生研修隊初年兵

 私は昭和19年10月15日「十・十空襲」直後沖縄全体が恐怖におびえる状況下で恩納村山田国民学校において現地入隊の山部隊初年兵となった。入隊後中隊付衛生兵に編入され美里の国民学校で衛生兵の研修を受けていた。「十・十空襲」直後米軍上陸の噂が流れる中でありどういうことになるかという不安は持っていたが色々と考える余裕はなかった。12月上旬、私達の研修隊は本当中部の美里村から島尻へ移動があり、夜間行軍で東風平国民学校へ辿り着いた。東風平国民学校へ着いて翌日は夕方南風原村で弾薬輸送中の列車爆発があり、東風平国民学校に駐屯していた部隊は通報を受けると直ちに現場へ緊急出動となった。しかし現場は大火災が発生し畑に積まれていた弾薬に誘爆を起しいきなり近よることができず誘爆の鎮まるのを待った。救助作業は夕闇に包まれた為、その日の内にできず翌日までかかった。現場は焼死体が散乱し目を追うばかりであった。既に息絶えた者は東風平国民学校へ運ばれたが私達の部隊からもかなり犠牲者が出て別室に安置されたが識別しがたい程焼けただれていた。安置後の処理については直接タッチしてないので詳しいことについてはしならいが東風平の国民学校は山部隊の衛生隊本部となっていたので事故処理はそこでなされたのではないかと思われる。私は東風平国民学校で研修を了えた後歩兵第三十二連隊の第十一令鉾田中隊付衛生兵として糸満市名城に配置され二十年の決戦を向えたが戦争の惨事は到るところ発生していた。

元現地入隊一等兵、当時二十歳

 

沖縄県営鉄道

 明治末期から大正の初めにかけて県内主要道路の開通や改修が相次ぎようやく人や物の交流が盛んになった。民謡の県道節が生れたのもこの頃である。しかし遠隔地間の大量輸送手段は全くないため主要道路の開通や改修だけでは県民の需要と満たすことはできなかった。県内におけるそれまでの上陸交通機関といえば貨物運搬に荷馬車、少量で軽い物は人の肩、人員輸送は首里那覇を中心とする人力車、自転車等が主であった。しかし金のない者や農村からの往来は専ら足に頼る以外になかった。第一次世界大戦の影響もあって経済のブームが訪れ地方と那覇の経済交流は年々増加する一方であり、砂糖産業の勃興などによっていよいよ大量輸送手段の必要性は高まっていた。

 

県営鉄道敷設

 鉄道敷設については最初沖縄鉄道株式会社の企画があったがお流れとなり明治44年の県会において県営鉄道を敷設する県議が採択され、それを県当局が受け入れて政府に敷設許可申請を出していた。大正2年に県営鉄道敷設の許可が降り直ちに建設取組を始めた。建設費については県債を起し日本赤十字社から利息付で借入れることになり三十万円の資金で那覇与那原間の敷設工事にかかった。東京に遅れること四十ニ年にして1914年(大正3年)に沖縄で初めて県営鉄道が那覇与那原間に開通した。色々な経緯を経て次に大正11年に那覇嘉手納間、翌年の12年に糸満線が開通し鉄軌道延べ約48キロの沿線が実現した。建設費も三路線が竣工するまでには二百万円以上の負債となっていた。

 那覇駅構内に鉄道管理所が置かれ独立会計の事業体として二百人前後の職員が配置され運営されたが形式上赤字経営となっていたので毎年鉄道省の事務監査を受けて地方鉄道法に基づく国庫補助を受けていた。

 県営鉄道の開通は期待通りの多くの県民に便益をもたらし僅かの金で地方と那覇の往来が可能となり人々に活気を与えると同時に製糖業を始めとする県下の産業発展に重要な役割を果たすことになった。以前の交通機関に比べ県営鉄道の開通は一台飛躍であり、県内上陸交通の一大革命であった。昭和11年の末には東風平駅から具志頭村を経て玉城村、大里村の稲峯駅を結ぶ県鉄バスが一本加えられた。又県内交通にはき業交通機関として那覇糸満間に昭和バス、那覇名護間に新垣バス、与那原泡瀬間に安田バス、宮城バス、与那原佐敷間に安田バス、宮城バスが通り本島内は県営鉄道を軸とする交通網が一応できていた。

 

軍事利用始まる

 昭和16年の夏頃になると中城湾要塞指令部築城のため弓削部隊(隊長弓削保大佐)の設営隊が与那原に駐留するようになりそのために軍の資材、食糧等の運搬に利用されるようになった。しかしまだ昭和16年当時までは軍といっても僅かであり県民の足としてのどかな沿線にフィ、フィ、フィーの汽笛を鳴らし通勤通学、商用雑用に利用され親しまれていた。

 昭和19年3月頃から球部隊の兵站本部が通堂町に置かれ、そこから停車場指令が那覇駅に派遣され本格的な軍事物資の補給機関として利用されるようになった。更に7月頃から武部隊の停車場指令が鉄道管理所長室に置かれ軍事品輸送が優先されるようになった。

 10月10日の大空襲によって鉄道管理所と那覇駅の建物は焼き払われたが列車、レール等の施設は残されたので空襲以後も列車の運行は続いたが軍事利用は次第に拡大し軍専用列車同様となり民間人の利用は困難になっていた。12月に入り山部隊の移動になってからは兵員や資材運搬、弾薬輸送などに使用され19年12月上旬弾薬輸送中南風原村で爆発事件に遭い破壊したが線路の破壊は突貫工事で復旧し残された他の列車を使い軍事輸送列車として運行していたが民間人の利用は全く途絶え実質的に糸満線はその時機能を失っていた。県民の負債で敷設され県民の足として三十二年間働いて来た県営鉄道は昭和19年3月から日本の大軍配備により戦争の準備用具として使用され昭和20年3月まで運行を続け4月の米軍上陸によって完全破壊され喪失する運命を辿った。那覇駅跡は現在バスセンターになっており、線路跡も農道になったり、つぶされたりしてその跡形を失い今となっては関係者の記憶と部分的な写真のみとなった。

 

駅 長 

助 役 

 

(県経済部土木課)

(沖縄県鉄道管理所)

独立会計職員約二百人

   |

「庶務課」「運輸課」「会計課」「車輌課」「公務課」

  |    |     |    |     |

 人事   各駅   収支   機関庫 建設、路線

       |          | 

      駅長        機関手   

      助役        機関助手

      車掌        車輌夫

      出札係

      貨物係

      転徹手

      駅手

      掃除婦

 

参考資料

防衛庁戦史室沖縄戦史料

沖縄県援護課 戦没者台帳

参考文献

戦史業書 沖縄方面陸軍作戦

沖縄戦記 霞城●隊の最後

歩兵第八十九聯隊史 破竹


沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)

(※掲載者注)

・本稿は「読み物」というよりもK氏の「メモ」の書き起こしである。

・個人情報は削除あるいは伏字とした(読みやすさを考慮した結果、削除と伏字が混在している)。

・以上のことから、決して「読みやすい読み物」ではないのでご注意を。

・公の文書としては「不適切」な言葉遣いがあるかも知れないが、できるだけ原型のままの文章を掲載している。

 

軽便鉄道糸満線

爆発事故調査資料

 

53.12.28日

面接 76才

沖縄自動車学校の第1期生

 

県営鉄道は大正13年に開通

事故があったのは那覇の十・十空襲の日の午後3~4時

機関車の火が貨車のガソリンに引火した。7、8輌のうち2、3輌の貨車が吹き飛び機関車はその後も使用された。

後方の2、3輌は後に押し戻されて、津嘉山あたりまで押し流された。(燃えながら)

現場は人間の肉がちらばり、火災が発生し周囲のキビ畑を焼き、民家3棟を焼き、更に周辺に置かれた日本軍の弾薬が置かれ、それに引する。

翌日神里の部落民が後かたづけをした。空襲みたいに騒然となる。しかし死亡人員不明

東風平村、字屋宜原、東風平あたりの学生ではなかったのかとのこと、当時は軍統制で被害人員不明、自爆だろうとのこと、生存者不明。

 

53.12.28日

私は爆発時にはびっくりして出産間もない時であったが字山川へ逃げ3、4日くらい居た。

夫は当時区長であったが2、3年前亡くなった。ほとんど外に出なかったので詳しくは知らないが誰かが爆破したのではないかという噂もあった。爆発は午後であった。

 

53.12.30日

(当時13才)(夫妻)

(母親は畑にいた)

十・十空襲以前の3ヶ月くらい前のことであった。村の遊び場で爆発を見た。あわてふためき逃げ出した。

現場はしばらく軍が管理し立入禁止がしかれて一般の人々には知らされなかった。列車にはたくさんの人が乗っていた。

 

(兵隊、学生)

当時の学生

爆発は午後3、4時頃であった。

附近は人間が散らばっていた。死亡人員不明、何十人も死んだかも知らない。

戦後供養しに来る人もあった。爆発の原因は機関車の煙とつがらの引火と聞いた。

 

54.1.2 夫妻

爆発は十・十空襲以前であった。

屋宜原のモーの上で見た。原因は機関車からの引火と聞いた。大里村湧稲国に犠牲者が居たと聞く、

 

54.1.12

昭和19年の10月下旬か11月の上旬と覚えている。

私はニ中生であった。私が乗りはずした汽車が爆発した。十・十空襲以後も汽車は通っていた。東風平村に■■という人、当時ニ中2年生男子の犠牲者が居たと聞く、当時の新聞にも記事が出ていた。

?うるま新報、字富盛の■■■■、■■■■■も知っているのではないかと思う。

軍事教練によって敵と戦う気持ちであった。(正常でない)今日とは気の持ち方が違いよった。

 

54.1.12 労商総務課

犠牲者が居たと聞く。

当時一高女2年生

私は疎開していたために詳しく知らないが同窓生で詳しく知っている人が居る。

 

54.1.22

当時一高女2年

爆発は昭和19年11月初め頃に間違いない。

午後3時頃

当時既に那覇は焼かれ殆んどの人々が地方に下っていた。私達もその例で私は糸満に叔父が居たので糸満から1日置きに学校(一高女)へ通い、1日置きは■■■■■■の壕堀の手伝のため通っていた。

その日も■■■■■■■■■■も一緒で彼女達は一足先に汽車で帰った為事故に会った。その直後事故現場に走って行ったが何もかも吹き飛んで残ったものはなかった。

 

母親は戦後も生存していた

同期生生存者

 

54.2.6

それは昭和19年12月11日午後4時30分であった。

■■■■■とあと一人と3人で同年生■■もいた。

生存者

私もノイローゼ気味で明確には覚えてないが親戚の人につれられて東風平の学校だったと思うが■■の白木を取りに行った。十数人の中から■■のだけ持ち帰った、事故の数日後の或る日だったと思う。事故によって娘が奪われたことはまちがいない。■■に尋ねればもっと詳しく解るかも知れない。

 

54.2.8

爆発は■■さんの母が言っている通りだと思う。同年だがクラスが違うため、私はその日休みで自宅に居た。母親と一緒に葬儀に行った覚えがある。■■の腕は拾って来たと母は言っていた。それは弁当函とフロ式で解ったとのことである。

 

54.2.15

遺族なし、隣の人より聞く

間違いなくその時の犠牲者である。葬儀もやったはず

姉妹も一人■■■■が居るが■■。

 

54.2.16

母親より聴取

南風原の病院に収容されていた。

病院が満員で長くおれなくて家へ帰された。

帰宅して50日は自分で食事できなかった。

汽車には多数の衛生兵も乗っていたと聞く、■■。

 

54.2.17

その時3年生で昭和4年生16才であった。

昭和19年の末であったと思う

もう一人の生存者は■■■■である

 

沖縄出身の初年衛生兵が60人研修からの帰り乗っていたが全員死亡したと聞く

その時は汽車は一輌目がガソリン、二輌目は医療薬品が積み込まれ三輌目から後7台は貨車がつながれ弾薬が積み込まれて、その上に兵隊がたくさん(沢山)乗り込んでいた。

 

私達友人5人は二輌目の医薬品の間あるいはその外側にぶら下がるように乗り込んでいた。

 

一番後の貨車にも女学生が6、7人くらい乗り込んでいたと見受けたが、私は那覇駅から乗ったが既にガソリンと弾薬が積み込まれていた。兵隊のほとんどと後の貨車に乗った学生は古波蔵駅から乗りよった。神里あたり行くと汽車は止まるような状態になり、その瞬間パーと火が広がり、その瞬間私達4、5人(ぶら下がるように乗った者)は飛び降りて転がり、汽車の進む反対方向へ逃げ出した。

 

気がつくのと着けた着物と髪の毛に火が着いていた。夢中になって火を消しながらどんどん畑に逃げた。そのうちに兵隊につかまり着いた火も消され、■■の一軒屋に連れていかれ更に1時間くらい後で南風原小学校に運ばれていた。南風原小学校は臨時の野戦病院みたいになり、真黒く焼けた人、半身焼けた人、負傷者でごった返していた。

 

1週間くらい南風原小学校で手当をうけたがその間に母が来たし、■■で医者をやっていた■■も見えたし、その時の車掌の親も見えた。ほとんどの人が焼かれているので2、3日後からどんどん死んでいくみたいだった。

1週間後には家へ返され、自家手当であった。

 

友人の状況

■■■■ 生存

■■■■ 戦後病死

■■■■ その場で死亡

■■■■ その場で死亡

■■■■ その場は生存したが戦争で死亡

 

聞いた話だが飛び散人体の肉は拾い集めたら担架の13杯分あったとか

 

その当時から作業や学校には防空頭巾をかぶり、救急袋を持っていた。学校にもモンペイと学生の上衣くらいであった。

 

那覇駅は既に建物は焼き払われてなかったがホームは在り、汽車も通っていたので通学に利用していた、その日も私を含めて4、5人那覇駅で乗り込んだ。弾薬は既に積み込まれていた。

 

古波蔵駅に着くと60人くらいの初年兵と女学生(2高女)5、6人、それに山兵団百ニ、三十人が乗り込んだ。

津嘉山駅あたりでも女学生(1高女)2、3人作業帰りに乗り込んだ。

私は十・十空襲の時も学校へと汽車を乗っていたが那覇市が空襲であることを知り、汽車は国場辺りで止まった。そのため歩いて帰宅した。

その時の爆発は中部からだったと思う。

前の方から爆発していたらおそらく私達2人も生きてなかったと思う。

 

■■

 

■■は昭和4年生でその時2高女4年生、

その時は帰りが非常に遅いので歩いて捜した、すると南風原小学校の野戦病院に火傷して入っていた。その晩はそのまま泊めて翌日馬車を捜して連れ帰った、自宅で手当をした。その後戦争直前になってから最終便の船で大分県へ疎開させた。

 

54.2.22(木)■■

爆発があったのは昭和19年12月11日であった。その日は知事官舎で授業があり、古波蔵駅で乗り込み帰るところであった。

(校舎が十・十空襲で焼けた為)知事官舎で授業、南風原小学校の野戦病院で聞いたことだが兵隊は山部隊の2中隊だったとのこと、2輌目に女学生4、5人と兵隊7、8人が乗り込んでいた。私は医薬品の積み込まれている上に座っていた。事故の時は振り落とされるように溝に落ち、私の上に2、3人負いかぶさって来た。腕に火が着いていたので汽車の進む反対方に逃げた。そのうちに近くに来ていた兵隊につかまり、一軒家に行き間もなく南風原小の病院へトラックで運ばれて行った。

 

南風原小学校の病院では30人くらい見た。同病院には生きている人だけ運ばれ、その場で死んだ者は東風平の学校に運ばれたと聞いた。

 

同病院でもその晩に4、5人焼けただれた兵隊が死んでいった。苦しんでいた、その時の汽車に10人くらいは学生だったと思う、その時の事故で生き残った者は殆んどなくて結局私と良子と2人くらいじゃないかと思われる。他に生存者が居たと聞いた覚えはない。

 

乗込員兵隊2個小隊(1個小隊は60人)女学生10数人

 

54.3.6(火)(晴れ)

夕方、5時頃から糸■■、■■、3人で爆発地点踏査を行なう、一軒家確認喜屋武益駅確認

 

54.3.15 ■■(当時鉄道管理所勤務)

爆発は十・十空襲以後であった。十・十空襲以後は壕の中で事務処理をした

当時は軍が独占使用していたので爆発の原因など調査してない、従って被害状況も知らない。

 

54.3.18■■(73才)

中部から南部へ移動があったと聞く、嘉手納線の無蓋車(貨車)を古波蔵駅で継ぎ替えて糸満線に引かしたのだと思う、その時■■さん(車掌)が亡くなったと聞く。

 

十・十空襲以後は軍の勝手であり、私も直接見てないのでそれ以上知る余地はない。県鉄で手に負える状態ではなかった。

 

原因も機関車からの火花と聞くが人命の被害についても全く知らない。与那原に昭和16年から築城部隊が来たことはよく知っている。

 

54.3.18■■(当時■■勤務76才)

爆発事故があり人命の被害もあったと聞くが詳しいことは知らない。学生と兵隊だったと聞く。

当時■■駅長の■■紹介す

 

54.3.18■■(当時■■駅長) 

私は十・十空襲の時、■■と共に那覇駅に居た。その後11月頃大分県へ疎開す。家族と共に沖縄に帰って来てから事故があったことを聞く。

 

十・十空襲、疎開以前には軍の弾薬輸送も当ったことはあったが全く軍の勝手であった。

生存者が居たらその人達の証言が正しいのではないかと思う。その後機関車がどこに行ったのか私も考えたことがあるが不思議にも知らない。

八重山産の石炭を燃料に使っていたので機関車の煙突から火花が散るのは当然考えられる。しかし原因については調査もされてないし関係者もほとんど死んで居ないので究明不可能と思う。人命の被害についても詳しく知らない。

 

1931(昭和6年)満州事変

平和の状態、別に不安はなし、方言札は大正の頃からあった。

 

1937(昭和12年)日華事変 2.2.6事変

平和の状態、農村ではそれ程影響はなし、不安はそれ程なし。

1938(昭和13年)国家総動員法公布

廃娼運動起る、遊郭通い自粛せよとの時代。

不安及びその他の動きはなし。生活への影響なし。建築資材については許可性となる、特に釘。

 

1939(昭和14年)物価統制命下におかれる

 

1940(昭和15年)日独伊3国同盟締結 大政翼賛会結成

皇民化運動が一段と県民生活の上に圧迫感を与えてきた時代である。

不安あり、生活物資は不自由が出始めた。特にガソリンは許可性となる。

あかがりがあった、特に教員

(日米間の緊張が極度に高まり世情も騒然となる)

「標準語運動」が拡大され沖縄方言撲滅運動に発展する。(方言論争白熱化す)

一般農村にもかなり不安と圧迫あり

柳宗悦ら同人26人「民芸協会」の一行は沖縄を訪れ、「標準語も沖縄語も日本の国語として共に尊重せられるべきである」と主張した。それに対して県当局は「沖縄は他府県と事情が異なるから同一に扱うことはできぬ」と反論、同化政策をじゃましては困るという態度をとった。これは沖縄にとって屈辱的な文化的自殺行為の強要であり、やがて「本土防衛」のために強要され引継がれる。標準語運動は農村でもあった。教員の監視きびしくなる。

 

1941(昭和16年)12月8日 英米へ宣戦布告 太平洋戦争始まる

真珠湾攻撃を知って喜んでいた状態である。

 

1943(昭和18年)特高警察の監視強まる

農村ではなし、目立つ動きはなし、しかし政治家に対しては監視強まる。民家でも慰安女が配置されていた。

戦局が著しく不利になってくる。

 

2月ガダルカナル島に転進、4月山本五十六戦死

 

5月アッシ島玉砕、そのために沖縄を軍事的に再認識し総理大臣東条英機が南方視察の帰途7月立ち寄る

 

昭和19年南方の戦局が不利になってきたので敵を迎え撃つための諸準備があわただしく進められるようになった。

 

1944(昭和19年)7月6日 サイパン陥落

沖縄から老人、幼児、婦女子、10万人島外へ引上げを政府から命令(疎開)

男子は病人、不具者60才以上16才未満とのこと(足手まといになるので退去させ、沖縄を要塞化するための強行措置であった。)

 

沖縄守備軍の沖縄本島集結は19年3月から20年2月の1年間に約10万に達した。

軍官民の昼夜兼行の工事、本島中南部の山や丘、海岸を掘り、地下壕、砲座、銃眼、たこ壷、特攻基地が次々と築かれ、そしてあらゆる建物は軍用に徴用された。

 

1944(昭和19年8月22日) 学童疎開船対馬丸7000トン撃沈さる

学童766人、疎開者を含めて1484人が悪石島近くの夜の海底に沈んだ、そのうち生存者は全部で177名(遺族会資料)

 

1944(昭和19年10月10日) 那覇市の大空襲

人口6万人の町は一日のうちに焼け野原となり市民はすべてを失った。

農村でも不安がつのる。

戦争前夜の異常性

 

1945(昭和20年) 3月上旬までには九州や台湾に8万人以上が引上げた

地獄絵図さながらの沖縄南部、壕を求めてあてどもなくさまよい歩く、砲煙弾雨の中を逃げ回る。

物凄い硝煙と地響きに魂消してしまう。

 

1945(昭和20年6月23日) 牛島軍司令官の割腹

自決によって沖縄戦は終結した。3ヶ月の戦いで沖縄県は壕滅した。学徒隊も男女合わせて980人が戦死。

 

未曽有の戦争犯罪

日本国民は悲痛な戦争体験を決して忘れてはならないし、水に流してはいけない。重要なことは戦犯追求をたな上げにして政治の反動化と軍国主義の復活を阻止することである。

 

54.3.28 ■■(当時機関助手)52才

私は爆発があったときは与那原に居た。

住宅は官舎

爆発した列車の機関手は■■

翌日は県鉄の職員同士で現場に調査に出かけた。現場には職員の持物など一切なく線路、枕木も吹き飛んでいた。(その後復旧して列車は再び運行していた)

その場で機関助手の■■は不明。機関手の■■は火傷はしたが生存。古波蔵駅長は■■

200人以上乗っていたと思う。

 

津嘉山に流されていた貨車には■■の定期乗車券が落ちていた。爆発現場は軍が縄張してあったが私達は調査のため入った。

 

54.3.28 ■■ 83才

爆発列車の機関手

(隠居で耳が多少遠くなっているが昼間なら何時でも会って話しが出来る)

 

私は昭和19年12月11日午前10時30分那覇駅発高嶺駅までの目的で軍事物資及び兵員の緊急輸送の為列車を運転、進行中稲嶺駅附近に差しかかった際突如列車に大音響と共に大爆発が発生し、列車は火に包まれ運転不能となった。同乗者の機関助手■■はその場で行方不明となり、兵員も多数爆死した。私は直ちにブレーキをかけたが数秒間の内に強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み頭部、両手、両足に火傷を受けまた両耳は爆風で不調となった。

私は火の列車より脱出し近くの稲嶺駅に駆込み本部に電話連絡しようとしたが電話線が切れていて不能であった、そのため東風平駅まで行ったが同様不能であった。その後那覇の自宅へ帰り、那覇市若狭町に在った軍病院で火傷の治療を受けた。私はあの時奇跡的にも助かった、九死に一生を得たが今では精神的にも肉体的も苦痛の毎日を送っている。

あの頃は那覇駅は軍の物資集積所であった。機関車は11号、(那覇駅は十・十空襲の後も残っていた。焼けなかった。■■)

乗車兵員は300人くらい、貨車6、7輌 

爆発原因は知らない。煙突から石炭の火花は出よった。

 

米軍(敵)を殺すために日本の工場で生産された武器と弾薬で同胞の人間が吹き飛び、肉が引き裂かれ、血を吹き出し、焼かれて死ぬのはまるで屠殺である。

 

54.3.31 ■■(71才)

私は十・十空襲以前から20年の3月まで那覇駅を見ていた、列車の爆発は午後4時頃だったと思うが那覇駅から機関車を出して現場に向ったが山川あたりから先へ進むことができず引き返した。

弾薬は那覇港で積み、那覇駅を経由して行ったと思う、爆発した列車には■■さんと、機関助手の■■に車掌2人、■■4人であったが■■さん一人が奇跡的に生き残った。

当時の貨車には一輌につき25人くらい乗れよった。

那覇駅は十・十空襲に焼かれ、貨物取扱い所だけが残っていた。それも軍が使っていた。

 

54.4.17 ■■ 71才

(電話による聞取調査)

私は爆発のあった日は■■駅に勤めていた。

何かと連絡があるかと思いそのまま東風平駅に滞在して居た。時間は午後の4、5時だったと思う。その汽車に乗って居た機関助手と車掌は死んだと聞くが人身の被害については知らない。その後の汽車は通らなくなっていた。

 

爆発の原因については他人の話しによるとタバコの火、又は煤煙ではなかったか?と聞くが確かなことは知らない。

機関手の屋嘉比さんが東風平駅に来ていたかどうかについても良く覚えていない。

当時稲嶺駅の■■は東京へ行ったが死亡したと聞く。

私は20年の2月に■■へ避難(家族と共に)したので助かった。

 

54.4.19 ■■ (当時機関助手 18才)

私達が乗った列車はその時上り列車で爆発した列車と国場駅で擦れ違い那覇駅に到着した時爆発音がした。その為何人かで那覇駅から機関車を出し爆発現場へ向ったが喜屋武駅から先へは機関銃や小銃弾の爆発によって進むことができず引き返した。焼けた貨車が津嘉山辺りに在るのを見たがその貨車には軍の毛布や衣類が積まれていたと見受けた、那覇駅での輸送責任者は■■、その人は捕虜になって東京へ帰った。

話しによると、その時の弾薬は嘉手納から那覇駅に運ばれ、そこから高嶺へ運ぶものであったとのこと、那覇駅は十・十空襲に焼け機関部の修理工場が残っていた。爆発は午後4時頃    原因・・・不明

その時の貨車は7輌くらい(1輌につき25人くらい乗れた)

その時の機関車11号

その時乗っていた人、100人くらい

 

54.4.19 ■■ (当時県鉄工事技手)75才

その時私は高嶺駅に居た。(事務所)午後2時頃

その時の貨車5、6輌

乗った兵員 50~60人

乗った学生 50~60人

原因は確かなことは知らないが煤煙ではなかったのかな・・・?

あるいは煙草も考えられる。

爆発の2、3日後から復旧工事を始めた。まだ処々に人間の肉が散らばり列車の車輪や破片が散らかっていた。

爆発地点は大きな穴となり、列車の一部も突っ込まれていた。

糸満線は大正12年に建設された。

 

54.4.21 ■■

那覇駅には球部隊司令部運送係■■(五長)がいた、

それを知る人■■(当時軍属)■■勤務、

11号車では8輌くらい引くのは十分可能、客車は35人くらい、貨車には30人くらい乗れた。

 

54.4.21 ■■(当時天鉄)

爆発は11月中旬頃だったかと思う。

私は那覇駅にいた。

時間 午後4時頃

その武器弾薬は嘉手納辺から那覇駅に運ばれ、那覇駅から高峯駅へ運ばれるもの、現場へ行った。国場で降りて津嘉山で貨車を発見、翌日も同僚を捜しに行った。

布切を探して来た。

移動は部隊の入れ替えだったと思う。

(武部隊の後)

貨車7、8輌くらい

人数、兵隊150~200人、学生30人くらい。

 

■■  (伍長、運送係)

事故は何時?

部隊名は?

被害者の人数・兵員?民間人?

武器弾薬の輸送経路は?

事故後の措置は?

被害者の公務扶助について?

 

54.6.21 TEL 

35年前のことで記憶にないとのこと、事故があった時からおさえる役を授かったとの返事、しかし記憶にないとのこと。

 

54.5.9 ■■ (■■勤務)

(TEL聴取)

球兵站本部は十・十空襲以前は通堂町にあった。事故に関連して護国寺で慰霊祭が行われていたと覚えている。

■■がくるとすれば私の所へ連絡がある。何かあったら連絡し会うことを約す。

後で連絡を頼んだ。

 

事故の在った日、昭和19年12月11日午後4時30分

運転手(機関手)■■

その日は晴れていた、しかし昼後は小雨があった。

貨車  9輌・・・当時の機関車の力では無理

8輌  7輌

    8輌

    8輌

    7輌

乗車人員220人

10人+60+150・・・1個中隊  中尉指揮

女学生、初年兵(衛生)

300人・・運転手  100人助手

170(兵)+300(学生)・・・助手

25×8=200 1車輌につき25~30人

220人、300人、100人、200人・・・平均205人

学生死亡者 ■■、■■、■■、■■、■■、■■、

■■、■■(生存 ■■、■■)

 

国民は、国策という名のもとに軍隊に駆り出され帝国主義戦争行為を行ってきた。

(戦争へ加担してきた)ことにはまちがいない。

 

54.6.29 ■■(当時看護婦)

TELにて事情聞く、知らない 協力は約す。

知っていそうな人は ■■病院 外科婦長

 

54.6.29 ■■(当時車掌)

その時の弾薬は北谷から運ばれた、そのことを知っている人

 

54.6.30 ■■(当時■■駅捜査係)

山部隊

120~130人くらい、7輌くらい

その時■■軍曹も一緒に山川まで行った。津嘉山駅まで無蓋車流れてきて7、8人の学生が(男子含む)助かっていた。

翌日も現場に行った。軍からは口止されていた。■■軍曹は■■さんか、■■

■■軍曹は死亡している。

 

54.7.15 ■■(当時軍属)

私は昭和19年3月に女学校を卒業し間もなく武部隊へ軍属として配属された。しかし武部隊が台湾へ転出したので次の山部隊へ配属となり、家に帰ることはできなかった。

 

私達女子3人は軍属として■■に宿を取り、衛生隊の仕事を手伝う。私達が山部隊へ配属された当時東風平の国民学校で調済の仕事をしている時、隣では列車爆発事件の死亡者の集団葬儀が行われているのを見た。又、私達の宿の後(安谷屋小)は同部隊の事務所であったが、その中の一軍曹は列車爆発事件の生き残りでかなり火傷をしている人であったがその後■■で死亡した。私達はその後八重瀬の第1野戦病院に転勤となり、■■で捕虜となった。生存者は私と同僚1人で他の者の生存者を知らない。

 

54.7.19 ■■(当時富盛駐屯輜重連隊6中隊)(電話聴取)

輜重隊員も20人くらいは爆発事件に合ったと聞く、弾薬の輸送は輜重隊と、その部隊たとえば(砲兵隊)と一緒であるから与座当りの砲兵隊も被害を受けたのではないかと思われる。

 

54.7.22 ■■

読谷村から島尻への移動は歩いて、列車は全く利用してない。爆発については全く知らないし、聞いたこともない。西線を歩いて来た。

 

54.7.23 ■■

全く知らない、読谷村から西線を歩いて糸満に着いた。爆発事件については全く知らない。聞いたこともない。

 

54.7.23 ■■

第2大隊は具志頭村与座へ進駐

第2機関銃渡辺中隊

連隊長は東風平国民学校へ駐屯

歩兵第89連隊史あり(破竹)

その中に19年12月11日神里の爆発事故で第2中隊の■■1等兵第5中隊の■■1等兵が重症とある。

東風平野戦病院で死亡 (302ページ)

 

(ヤミからヤミへ葬り去る  奪われた人生を取り戻す意味がある)

 

54.7.30 ■■ (戦時中 中隊長)

爆発事故について知っている。しかし調べて文書でないといけない。協力を約す。

 

54.7.31 ■■ 再聴取

■■は曹長であった。生存については不明

爆発事故のあった字神里は暫くの間私服刑事が回って居た。刑事の一人は顔見知りでよく見かけた。したがって警察の方でも一応知っていたとみなければならない。スパイの嫌疑をかけていたかもしれない。

 

54.8.18 ■■

遊覧船の中で話し合う。しかし爆発事件については知らない。■■紹介す。

 

54.8.18 ■■

私は昭和19年10月15日山田国民学校で入隊し、それから美里国民学校で軍隊の教育を受けた。特に衛生兵に指命されて衛生兵の研修を受けていた。しかし部隊の移動があり12月の初旬に東風平の国民学校に移り、約2ヶ月くらい研修を受けていたがその後冷鉾田(ヒヤムタ)中隊付の衛生兵として配属された(名城)大隊は真栄里駐屯連隊本部は大城森であったと覚えている。

 

部隊名と部隊長名は忘れている。私達が東風平の国民学校に着いた2日くらい後で爆発事件は起っている。その日現場に行かされ東風平の学校に死体を運びそこへ安置する作業をさせられた。その後はタッチしてないのでどうなったか知らない。研修も上の学校で美里から東風平へ移動する時は夜を徹して行軍であった。行軍できないものは一般兵も初年兵も嘉手納へ送られ列車で運ばれたのでその人達が爆発に遭遇している。

 

県鉄 史市編集室

大正3年11月28日

 那覇――(8キロ)――与那原

大正11年3月

 那覇――――――嘉手納

大正13年7月

 那覇――――――糸満

最後 昭和20年4月5日頃

事件直後、日本の憲兵による取調べを受けた。

その時の状況は?

原因については?

県鉄に入る前は船乗り

大阪商船の荷物船→名瀬丸へ乗る

次の荷物船→桜木丸 600屯

次の荷物船→京都丸2500屯  青年の頃

 

54.9.7 ■■

那覇停車場指令は十・十空襲以前からあった。しかし、十・十空襲以後は軍は優先的に貨物運搬をし、郡の独占となって行った。

 

54.11.9 ■■

元沖縄県鉄道技手 ■■ 明治■■日生

1921年(大正10)3.28 県鉄車輌夫となる

(次の天皇来島) 機関課勤務 日給50銭

1923年(大正12)6.30 日給60銭

1925年(大正14)3.31 日給70銭

1927年(昭和 2)3.31 日給80銭

1929年(昭和 4)4.1  機関助手となる 日給90銭

1931年(昭和 6)6.30 沖縄県鉄道管理所雇となる 日給99銭

1933年(昭和 8)4.1  機関手となる 月棒30円

1935年(昭和10)12.31        月棒33円

1937年(昭和12)3.1         月棒36円

1938年(昭和13)4.1 沖縄県鉄道技手 月棒40円(免許)

1940年(昭和15)3.31        月棒43円

1941年(昭和16)6.30        月棒47円

1942年(昭和17)12.31        月棒57円

1943年(昭和18)9.30         月棒64円

1944年(昭和19)12.31        月棒70円

1967年12月4日政府保険庁年金課へ提出

 

青年の頃■才までは船乗をした。結婚によって県鉄に入る。昭和19年運転手12人で4回交代のダイヤが組まれていた。

昭和18年東条英機来島の時見た。

機関車の次の貨車は必ず有蓋車をつなぐことになっていた。

爆発の時スピードは落ちた。

稲嶺駅へ走り、東風平駅へ走ったが電話通じなかった。東風平駅で電報を打つ、東風平駅から県道沿いに歩き、山川駅で休んでいたら、県内務局の職員が車をもって来ていたので、その車で那覇駅へ行き、自宅へ帰った。

翌日から県立2高女裏にあった軍病院に通い焼け傷の治療を4、5日間やった。その後また県鉄(運転)で働くよう通知があったが行かなかった。

 

内務部→土木課→沖縄県鉄道管理所(独立会計)→各駅

学務部

警察部      雇員以上は知事の辞令 以下は管理所長辞令

 

庶務課→人事

運輸課→各駅の指導

鉄道管理所     会計課→会計及監査を受ける為の事務

車輌課→機関庫、車輌管理

工務課→建課、線路建設(土木)

 

 

那覇駅―駅長―助役2人   機関手、機関助手、転徹(徹手)、駅手、車掌

              出礼係、貨物係

 

独立会計

鉄道

鉄道建設資金は日本赤十字社から借入3路線建設までには200万円負債となっていた。各年の財務諸表には200万円記債戦争前までには10万~20万くらいになっていた。

日赤から借入れする場合は県が保証人となり、赤字が出れば県が保証することになっており、黒字が出れば県の資金になることもあった。2高女が焼けた後の復興資金に3万円取上げられたこともあった。

地方鉄道法に基づいて鉄道省から5万円くらいの補助があった。

そのためには毎年鉄道省の監督局から鉄道管理所の会計監査を受けなければならなかた。

 

県鉄は―沖縄県鉄、岩手県鉄、宮崎県鉄 あったと聞く

 

県鉄職員  総員200人くらい

管理所  約30人

機関手  約20人

機関助手 約30人

車 掌  約30人

駅 手  約20人

徹 手  約15人

その他  約55人

計     200人

 

55.2.1 ■■

 

那覇駅 総員40人くらい

 

駅長(1人)→ 助役(2人)→ その他

 

19年の6、7月から停車場指令が置かれる。(武部隊)指令員5人くらい、事務所は管理所長室に置かれた。

十・十空襲後は駅員は貨物小屋へ

19年3月球部隊→ 6月から武部隊→ 十・十空襲後球


八高線列車正面衝突事故(1945年)

 これは想像だが、鉄道職員に対して「最も不名誉な鉄道事故はどんなものか?」と問うたら、きっと正面衝突事故だと答えるのではないだろうか。

 なぜなら、正面衝突事故だけはどうにも弁明のしようがないからだ。

 同じ鉄道事故でも、脱線や転覆や火災の場合は原因が人的ミスとは限らない。よってすべてのケースにおいて鉄道職員が恥じ入る必要はない。だが正面衝突だけはもう明らかに人災である。衝突した車両のどちらかは、まず絶対確実に、連絡不足や勘違いなどの人的ミスで発車せられたに違いないからだ。

 その意味で、今回ご紹介する八高線列車正面衝突事故は、日本の鉄道史上最も不名誉な事故と言えるかも知れない。正面衝突事故である上に、死者数は本邦一ではないかとも言われているのだ。

 

   ☆

 

 国鉄八高線(はちこうせん)は、関東地方のローカル線である。東京の八王子駅と、群馬県高崎市の駅を結ぶから「八」「高」線。ふむふむ、なるほど。

 1945年(昭和20年)8月24日。玉音放送もまだ記憶に新しかったであろうこの日、八高線の路線沿いに住む人々が不自然な列車の音を耳にしたのは、午前7時40分のことだった。

「変だな。なんでこんな時刻に列車が?」

 いつもなら、この時刻に列車の通過はないはずだ。住人たちは、列車の通過時刻ならなんとなく身体で覚えている。中には列車の通過音を時計代わりにしていた者もいたほどだ。

 この奇妙な列車が実際に走行しているのを目撃していた人物がいる。当時の昭和町大神に住んでいた男性で、時刻表とは全く合わない時刻に汽車が鉄橋を通過してきたのだ。その鉄橋の北には拝島駅があり、そこから上り列車がやってきているのである。

 そしてさらに奇妙なことには、鉄橋の反対側からも一本の列車が走ってきていた。小宮駅からやってきた下り列車である。

 鉄橋は一本しかなく、しかも単線である。そこに2本の列車が差しかかろうとしている――。だが目撃者の男性も、その見慣れない光景の恐るべき意味にはとっさに思い至らなかった。そしてこの直後、2本の列車は鉄橋上でものの見事に正面衝突と相成ったのである。

 辺りに轟音と地響きと悲鳴が響き渡り、たちまち機関車の先頭部分はめちゃくちゃに破壊された。そしてその一部分と、破壊された客車と乗客たちがボロボロと鉄橋から落下して濁流に呑まれていく――。鉄橋の下を流れる多摩川は、連日の暴風雨で増水していた。

「おい息子! 半鐘だ、半鐘鳴らせ!」
「うんわかったよ父ちゃん!」

 カーン、カーン。事故を目撃した男性はすぐさま息子に半鐘を鳴らさせ、集落に非常事態発生を知らせた。

 村人たちも、それぞれ鉄橋の衝突音や鐘の音を聞きつけて外に飛び出してきた。村全体に緊張が走る。鐘を鳴らしていた少年は、彼らにすぐさま川へ向かうように叫んだ――。

 現場は壮絶だった。衝突した2本の列車は完全に食い込み合っており、少し離れて見ると1本の列車かと見紛う状態になっていた。

 この時代の汽車は、先頭に機関車があり、次に炭水車があり、そして客車、という順序になっている。それでこの衝突事故では、まず上り列車の客車の1両目が、前後の炭水車と2両目の客車から挟まれてしまいバラバラになって多摩川の藻屑と消えた。また2両目以降の客車も大きく破損した。

 下りもひどかった。1両目の客車は2両目によって乗り上げられ、のしいか状態となっていた。

 乗客は、誰もが戦争の時代をやっと生き延びた人ばかり。上りには疎開者、通勤者、女学生などが乗っており、また下りには陸海軍の復員軍人たちが多く乗車していたという。

 車内は押し潰された者、挟まれた者、切断された者、激突した者の血と悲鳴とうめき声で満ち満ちており、この世の地獄のような状態だった。また生き残った乗客も、何人もの人々が助けを求めながら濁流に呑まれて行くのを目撃している。

 最終的な死者は104人に及び(105人という説もあり)、行方不明者は推定20人。そして重軽傷者は約150人という稀に見る大惨事である。

 さらに多摩川に転落した人はもっと多いとも言われており、それを含めればこの事故は本邦の鉄道事故では最大の死者数なのではないか、という説もある。

 現場が鉄橋のド真ん中だったこともあり、負傷者の救助は難航を極めた。とにかく下の川が増水しまくっているので、一体何人の乗客がどこまで流されていったのか見当もつかない。また救助作業をしていても、何かの弾みで怪我人や破砕車両が橋から転落する可能性だってある。

 さらに、粉砕された車両の撤去方法も大問題だった。損傷の少ない車両は牽引すればなんとかなったが、完全にスクラップと化した車両はそれぞれ食い込み合っている上に鉄橋そのものにも嵌まり込んでいる。ちょいとクレーンで引き上げて持って帰るというわけにもいかない。ここはもう、豪快に多摩川へ引き摺り落とすしかなかった。

 こうして、この事故の事故車両は、最終的には多摩川の底に沈めれたのだった。今でも、台風などで川底が浚われると、これがひょっこり顔を出すことがあるという。

 え、なんか締めの文章みたい、だって? もう終わりなのかって?

 いえいえ、そんなことはありません。この事故はここからが本番なのです。そもそもなぜこんな大惨事が発生してしまったのか、次の節からはその経緯をお話しするとしよう。

 長くなるので、じっくりお付き合い頂ければ幸いである。

 

   ☆

 

 終戦直後、関東地方は22日から台風に見舞われた。快晴かと思えば暴風雨が荒れ狂うというおかしな天気だったという。

 この1週間ほど前には終戦を迎えたばかり。まるでその天候は、冷め遣らぬ血気と将来に対する不安が渦巻くすべての日本人の気持ちを代弁しているかのようだった。

 この台風は、こと鉄道に関しては多大な影響を及ぼしていた。例えば東海道線は土砂崩れで一部が不通。山手線や京浜東北線も河川の切断により不通になるという有様だった。

 そんな中での8月24日である。八高線小宮駅の朝の空模様もひどいものだった。夜勤をしていた駅長のFと、駅務掛のMは午前4時半に起床したが、昨夜からの暴風雨は相も変わらず荒れ狂っていた。

 しかも悪いことに、この日は電話までもが不通となった。小宮駅の北には拝島駅があり、南には八王子駅がある。そのどちらにも連絡が取れなくなってしまったのだ。ちょっとした「陸の孤島」状態である。

 おいおい誰ですか、「電話が駄目ならメールすればいいじゃん!」とか言ってるのは。これは終戦直後の話なのである。今の時代から見れば信じられないほど不便な通信状況だったのだ。

 これは大変である。小宮駅にとっては非常事態だ。

 列車の発着にあたり、拝島と八王子への電話連絡は不可欠である。各駅を繋ぐ線路は単線――つまり線路が一本だけの路線――なので、上りと下りは必ず駅と駅の間を交互に走らなければいけないのだ。もし2つの駅で上り下りを発車させれば衝突は必至である。

「今から、こっちから列車出すから、そっちは出すなよ~。どうぞ」
「了解した、こっちは列車出さないよ~。どうぞ」

 というやり取りが必要なのだ。

 では、今回のように駅と駅の間の連絡が不能になったらどうすればいいのだろう?

 答えは簡単である。当時の国鉄職員のいわばコンプライアンス・マニュアルである『運転取扱心得』にちゃんと書いてあるのだが、こういう場合は「指導法」というやり方が採用されることになっているのだ。

 では「指導法」とは何か?

 なんのことはない。駅員が駅と駅の間を直接行き来して、列車の発着の打ち合わせをするというやり方である。

 以前、東北本線の衝突事故のことを書いた折に、「通票」もしくは「タブレット」についてお話ししたことがある。指導法というのはつまり、駅員がこの通票もしくはタブレットの代わりになる方法なのだ。

 有り体に言えば「人間タブレット」である。この役割を担わされた駅員は、連絡係であると同時に、自らが通行許可証そのものとなるのだ。

 というわけで、陸の孤島と化した小宮駅は、この指導法を採ることにした。これによって、北の拝島駅それに南の八王子駅と連絡を取らなければならない。

 では、具体的にどのような段取りで進めるか――。小宮駅のF駅長は考えた。

 ところで、ここで先に断わっておくが、この事故はここから先が少しややこしい。駅と駅の間の列車の発着順序がころころと入れ替わった上に、駅員同士の認識のズレがあるものだから、事実関係が複雑になってしまっているのだ。それに参考資料もどちらかというと事故の悲惨さが強調されており、事故に至る経緯に関する文章はどうも分かりにくかった。ここではできるだけ分かりやすく噛み砕いて書くつもりである。

「よし、とりあえず拝島駅からは、時刻表通りに汽車を発車してもらおう。小宮駅に来るはずの第四列車を出させるのだ」

 駅長Fはそう決定した。

「そしてさらに、小宮駅からは、拝島駅への下り第三列車を出すのだ」

 第三列車とか第四列車とかいうのは、奇数が下り列車、偶数が上り列車という意味らしい。この数字は必ずしも発着の順序を表すものではないので、ご注意頂きたい。

 とりあえずF駅長の決定を図式化すると、こうなる(図1)。

 

(図1)

 

 稚拙なイラストで恐縮だが、まあ読者の皆様は、こんな「ゆるイラスト」で肩の力でも抜いて頂ければいいのかな、と思っておるところでございます(などと官僚的答弁を行っておるところでございます)。

 さてFは、この決定に基づいて、駅務掛のMに指令を下した。

「M君、すまないが君は拝島駅に行ってくれ。そして、いま私が考えた順序で列車を発着させることを伝えてくれ」

 はいはい了解。こうしてMは「人間タブレット」としての役割を担わされた。

 少し細かく言えば、ここではMは、まだ小宮駅から一方的に派遣されるだけの「適任者」という存在である。

 だがMが拝島駅に到着し、拝島駅で駅長Fからのメッセージを了解すると、Mの肩書は「指導者」にランクアップするのだ。

 この「指導者」というのは、この場合で言えば、拝島駅から発車する上り第四列車に乗り込む役割を負うことになる。

 そして指導者Mが乗り込んだ上り第四列車が小宮駅に到着し、Mが再び姿を見せることで、小宮駅ではこう考えるわけである。――「ああ、指導者のMがこの列車に乗ってきたということは、さっきのメッセージは無事に拝島駅に伝わったんだな」と。

 そうすれば、小宮駅は安心して、次の下り第三列車を発車させることができる。

 この時、線路が一本しかない(つまり単線である)この拝島駅~小宮駅間で、安全に列車を行き来させることができる唯一の方法がこれだった。

 安全ということを強調するなら、いっそ「電話が不通になったので無理をせずに運休にする」という選択肢があってもいいんじゃない? とも思うのだが、それは現代の視点から見た話である。この当時はまだ、安易に列車を停めるのは鉄道職員にとっては「恥ずべきこと」とされていたのだ。

 時刻は午前5時20分。指導法における「適任者」としての命を受けたMは、徒歩で拝島駅へ向かった。

 このMはさぞ生きた心地がしなかったことだろう。なにせ未明の暴風雨の中を走らされるのである。しかも途中の多摩川にかかった鉄橋は、もともと人間が渡るための構造にはなっていない。ガードレールもない鉄路をよちよちと進まなければならないのである――。

 さて次に、小宮駅では八王子駅に向かう「適任者」を決めなければいけなかった。

 八王子駅は、拝島駅とは反対方向の駅である。実はこのままだと、八王子駅での発着順序が拝島駅のそれと矛盾するのである。調整しなければならないのだ。

 つまりこういうことである。

 先述した、小宮駅のF駅長の決定通りだと、まず上り第四列車が先に拝島駅から小宮駅に到着することになる。そして次に下り第三列車が小宮駅から拝島駅へ行く――という順序になる。

 だが八王子駅での列車の発着順序は、下り第三列車が先で、上り第四列車がその次――ということになっている。図で記すと以下のようになる(図2)。

 

(図2)


 つまり、下り第三列車と上り第四列車は拝島駅~八王子駅間でひと続きなのである。ただ途中で小宮駅を経由する、ということで、F駅長の決定通りだと拝島駅~小宮駅間、小宮駅~八王子駅間の発着順序が矛盾したものになってしまうのはお分かりだろうか。図の①②の記号と、本稿の説明を見比べて頂くと分かると思う。

 というわけで、八王子駅での上りと下りの発車順序を逆にしてやらねばならない(※1)。

 

(※1)ということは、「拝島駅発の上り第四列車を先に発車させよう」というF駅長の判断は、時刻表とは矛盾したものだったのだろうか? しかし先述の通りF駅長は「時刻表の通りに第四列車を先に発車させよう」と考えたことになっている。これはどういうことか。おそらく、暴風雨のためダイヤに遅れが出ており、順序で言えば後で発車させるべきだった上り第四列車に「先を譲る」ことで無理やり時刻表に合わせようとしたのではないかと思う。ここはあくまでも筆者の想像であるが。

 

F駅長「よしA君、今度は君が八王子に行ってくれ」
A駅務掛「了解しました」

 というわけで午前5時30分、A駅務掛が「適任者」として送り出された。

 ここまでは問題がなかった。

 ところが午前6時5分に、F駅長の判断をぶれさせる出来事が発生した。一台の蒸気機関車が小宮駅に到着したのである。F駅長は驚いた。つい30分ほど前に2人の適任者を送り出したばかりなのに、何事だろう?

「なんだ? こんな機関車が来るなんて時刻表に書かれてないぞ」

 この蒸気機関車は八王子駅から来たものだった。客車がなく、先頭の機関車だけのものである。乗っていた運転轍手のHは、F駅長にこう知らせた。

「電話が壊れて連絡が取れなくなったので、八王子駅から打ち合わせに来ました」

 なるほど、そういうことか。言われてみればそういうすれ違いもありうる。

 H運転轍手は、八王子駅長が発行した打合票(証明書のようなものらしい)を示した。そこには「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」と書いてあったという。

 この「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」という表記もなんだか分かりにくい。少し説明しよう。

 第七〇五一単機、というのは機関車のことである。そして伝令者というのは「ただ伝えに来ただけの人間」という意味である。

 そして最後の「第三列車指導者」だが、これは先述した「指導者」のことである。「適任者」のさらにランクアップした肩書きで、端的に「列車を引っ張ってくる人間」という意味を持っている。

 ということは、このHが指導者である以上、彼が引っぱってきた機関車の後ろからは下り第三列車がやって来るということなのだ。

 どうも八王子駅は、小宮駅のように「適任者」を派遣することもせず、「俺んとこから下り第三列車を出すから、あとはそっちで調整してくれよ~」といきなり「指導者」を送り出したものらしい。こういうやり方もアリなのかと筆者としては首を傾げたくなるのだが、とにかく事実そうだった(※2)。

 

(※2)もっとも、この後で小宮駅に到着した第三列車には、F駅長がさっき送り出したばかりのA駅務掛がきちんと指導者として乗り込んできている。だから結果的には運行上の問題は無かったようなのだが。

 

 さて、この第七〇五一単行機関車の到着によって、小宮駅のF駅長はピンと閃いた。そうだ、こいつを利用しない手はない――!

 実はF駅長は、先だって拝島駅に送り出したM駅務掛が心配だったのだ。Fは勤続26年のベテランで、もちろん与えられた役割はきちんとこなすだろう。だがこの未明の暗闇の中、しかも暴風雨の状況で送り出したことが気がかりだったのである。

「うん、やっぱりMが可哀想だ。予定を変更して別の運行順序にしよう!」

 おいおい、大丈夫なんかい。

 誰かが止めてあげれば良かったのだが、駅長に助言できるような駅員はもう残っていなかった。

 それに、F駅長の衝動的な判断には、他にも理由があった。

 上り第四列車を先に発車させ、その後で下り第三列車を発車させるというのが当初の計画だったことは先に述べた。実は、小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車は、このまま「上り第四列車」として再び小宮駅に戻って来る汽車だったのである。

 つまりこういうことだ。第七〇五一単行機関車は、このまま小宮駅を通過すると拝島駅もさらに通り抜け、その先の東飯能駅へ着く。そしてそこで客車を牽引しながらUターンし、「上り第四列車」としてやってくる予定だったのである。

 第七〇五一単行機関車と上り第四列車は、こういう関係だったわけだ(図3)。

 

(図3)

 

 するとどうなるか。

 今、第七〇五一単行機関車の後ろからはすぐに下り第三列車が来るという。

 よってF駅長の最初の決定通りに、その下り第三列車を上り第四列車の到着後に小宮駅から発車させるとなると、下り第三列車は小宮駅でかなりの時間待たされることになる。

 なぜなら、第七〇五一単行機関車が東飯能駅でUターンして、客車を牽引しながら上り第四列車として小宮駅に到着するのを待たなければいけないからだ。

 そうすれば、時刻表にもさらなる大幅な遅れが出るだろう。それは、F駅長としては出来るだけ避けたかった。

 そこでF駅長は考えた。

「間もなく小宮駅に到着する下り第三列車を、さっさと拝島駅に送り出してしまった方が、遅れも出ないで済むなぁ」

 そしてこう結論した。

「よし、さっきは拝島駅に上り第四列車を先に発車させるよう伝令を送ったけど、反対にしてしまおう。小宮駅から先に下り第三列車を発車させるのだ!」

 さらに解説しておこう。要するにこういうことである(図4)。

 

(図4)


 (図1)と比べて頂くと分かるであろう。まるきり逆である。

 ここまで読んで、おいおいそれって大丈夫なの? と思った方もおられよう。

 そう。さっきF駅長は、上り第四列車を先に発車させよ、という伝令をMに託して拝島駅に送り出している。それなのに、こちらから第三列車を送り出したら正面衝突になるのではないか?

 ところが大丈夫。F駅長には目算があった。

 先述の通り、上り第四列車が小宮駅に向かってくるのは、第七〇五一単行機関車が東飯能駅に到着して以降ということになる。

 その、第七〇五一単行機関車の東飯能駅でのUターンにはある程度の時間を食うのである。

 よって、上り第四列車が拝島駅に到着・発車するタイミングよりも先に、小宮駅を発車した下り第三列車は拝島駅に着くだろう――。F駅長はそう考えたのである。

 まあ確かに、その通りなら小宮駅・拝島駅間で列車が正面衝突することはない。それにしても、素人にはほとんど綱渡りにしか見えないやり方だ。

「というわけでOちゃん。君ちょっと拝島駅に行って、運転の順序が変更になったって伝えてくれる?」

 F駅長がそう命じたのは部下のOという女性である。まだ19歳の若い子だ。

 O嬢には、先ほど小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車に乗ってもらった。そして彼女には拝島駅で下りてもらい、後でそこから発車する上り第四列車に「指導者」として乗り込んでもらうのだ。

 つまり彼女は、第七〇五一単行機関車に乗り込んで一度拝島駅で下り、さらに東飯能駅で客車に連結してUターンし戻ってきた第七〇五一単行機関車(つまりこれが上り第四列車である)に乗り込み、また小宮駅へと戻って来るのである。

 F駅長は、さらにこう付け加えた。

「それで、拝島駅に向かう途中でM君を拾ってよ。彼、今もまだ暴風雨の中で走ってるはずだからさ」

 そしてO嬢には一枚の紙切れを渡した。

「大丈夫、これを拝島駅で示せば、全部分かるはずだから」

 このF駅長、おそらく部下思いの人ではあったのだろう。O嬢にこの紙切れを渡したのも、おそらく彼女に対する思いやりだったに違いない。きっと彼女は複雑な話などまったく分からなかったに違いない。またMのこともかように終始心配している。

 こうして、O嬢は第七〇五一単行機関車に乗り込んで拝島駅へ向かった。途中では無事にM駅務掛も拾っており、そして無事に午前6時25分には拝島駅へ到着している。

 さあ、ここからが大変である。

 O嬢は、F駅長から言われた通りに、拝島駅の駅員にメモ書きを渡した。しかしこのメモ書き、他人が見てもまったく理解に苦しむような代物だったのである。

「え? え? これってどういう意味?」

 F駅長は、列車の発着順序の変更について、「見ればすぐ分かる」ようにメモを作ったつもりだった。だがよくある話で、それは本人の独りよがりでしかなかった。他の駅員たちから見れば、それはまったく意味不明の代物だったのである。 

 このメモ、実物の写真でもあればいいのだが、残念ながらどこにも載ってなかった。裁判の記録でも本気でひっくり返さない限り見つからなさそうである。よってこのメモがいかに意味不明のものであったかは、ここでは想像で書くしかない。

 まずポイントとして、このメモは「図」ではなかった。そこに書かれていたのは、走り書きの「文章」であったらしい。

 そして混乱を招いたのは、「変更する」という明確な記述がなかったことだった。いきなり「次は下り第三列車が来るよ」としか解釈しようのない文言が記載されていただけだったのだ。

 さらに、O嬢が持参していた「第七〇五一機関車の適任者」と「第三列車指導者」の肩書きが記入された紙片も問題だった。これには、第三列車指導者とやらが具体的に誰であるのかがまったく書かれておらず、さらに出発駅も到着駅も書かれていない。よって、一体どの駅の発着のことを示しているのかがさっぱり分からないのである。

 まあここで答えを述べておくと、この「第三列車指導者」というのは、小宮駅から八王子駅に派遣されていたAのことだったらしい。最初に小宮駅から「適任者」として派遣されたAが、後で下り第三列車の「指導者」として拝島駅に来るよ――という意味だったのである。

 だがとにかく、そうしたF駅長の意図はこれっぽっちも伝わらなかった。

 それに、メモ云々以前に、O嬢が「適任者」として拝島駅に来ているのも問題だった。

 ここまでじっくり読んで頂ければ分かると思うが、通常、一本の線路を2人以上の「適任者」あるいは「指導者」が行き来することはあり得ない。そんなことをしてあっちでもこっちでも列車を出したら、それこそ正面衝突になりかねないからだ。

 ところが、拝島駅には、先だってM駅務掛が「適任者」として派遣されている。そこへ2人目の適任者としてO嬢が登場したことで、場はすっかり混乱してしまった。

 そこで頭に血が上ったのは、先に拝島駅に派遣されていたMである。

「Oさんも適任者だって!? どういうことだ。先に適任者に任命されたのは私のほうなのに!」

 当初、彼はこう思っていた。――O嬢はあくまでも自分を途中で拾い上げるために第七〇五一機関車に乗り込んだのだ――と。そのO嬢がなんと2人目の適任者に任命されていたなど、思いも寄らないことだった。

 またM駅務掛は、勤続年数26年というベテランである。19歳の若輩に対するプライドもあったかも知れない。

 こうして混乱した拝島駅で、最終的な判断を求められたのは駅長代理であるK(同時に信号掛兼運転掛でもあった)だった。

「困ったな。一体なにが正しいんだろう? オタオタ」

 ここで、M駅務掛が詰め寄ったからたまらない。

「正しいのは私です。あとからO嬢が持ってきたメモは間違いです。最初の指示通りに、私が指導者として上り第四列車に乗って出発します!」

 ああもう困ったな、この人ムキになってるよ。

 そこでK駅長代理は、当時拝島駅にいた助役にも判断を仰いだ。だがこの助役はやる気がなく、こんなことしか言わなかった。

「あーうん、このメモちょっと変だね」

 もういいよ、頼りにならないなあ。

 では、ちゃんと事情を知っていそうなO嬢はどうだろう?

 しかしこの時は、まだ10代の女の子に「これはどういう意味だ」と問いただせるような雰囲気ではなかった。皆、なんとなく彼女には気を使っていたらしい。

 さあ、拝島駅は実にビミョ~な空気である。

 このK駅長代理という人も、なんだか可哀想である。小宮駅から2人のMとO嬢がやってきた時、彼は仮眠中だった。そして、叩き起こされたことでようやく外の暴風雨と通信の不能に気付いたのである。なんだかのんびり屋だ。

 そんな寝ボケた状態のところに、意味不明の紙切れを突き付けられて「さあ結論を出せ」と詰め寄られているのである。これで困るなというほうが無理だ。

 筆者が思うに、このK駅長代理は押しに弱い血液型O型タイプだったのではないか。結局、場の空気に負けて出した結論がこれだった。

「まあいいや。Mの言う通りにしよう! きっとあの紙切れはなにかの間違いなんだ」

 なんかこう、「あらまほし」という感じの結論である。

 さあ、こうして雲行きが怪しくなってきた。小宮駅からは、F駅長が下り第三列車を拝島駅に向かわせようとしている。いっぽうの拝島駅では、K駅長代理の判断によって、Mの乗り込んだ上り第四列車が発車しようとしている――。

 

   ☆

 

 一方、小宮駅には八王子駅からの下り第三列車が到着していた。これに乗り込んでいたのは、先だって小宮駅から適任者として派遣されていたAである。彼は「指導者」としていったん小宮駅に戻ってきた形である。

 拝島駅での混乱など知る由もないF駅長は、O嬢に手渡した意味不明の内容の紙切れによって、全ての段取りは整っているはずだ――と勘違いしている。よって彼はAにこう指示した。

「運航の順序を変更したから、このまま下り第三列車に乗って拝島駅に行ってくれるかい? 大丈夫、最初に拝島駅から来ることになていた第四列車は、私がストップさせておいたから」

 ほほう、そうですか。

 Aとしても、駅長が自信満々でそう指示を出すのだから迷う理由もない。小宮駅では30秒ほどのやり取りをして、すぐに出発した――。

 さて拝島駅はというと、ちょっとだけ予定外の出来事があった。東飯能駅で上り第四列車に連結して牽引してくる予定だった機関車が、なにやら上記気力が不十分な状態になったとかで、使い物にならなくなったのだ。

 それで、上り第六列車が先に出発することになった。これは、第四列車の後に出発する予定だったものである。

 この第六列車が到着すると、拝島駅では、時刻表の上ではこれを上り第四列車の代わりとする形で送り出したのだった。

 そしてこの列車には、小宮駅から適任者として派遣されていたMが乗り込んだ。彼はいよいよ、拝島駅から「指導者」の肩書をひっさげて小宮駅へと戻っていくことになったのだ。

 こうして、冒頭の事故は発生したのである。

 F駅長は、自信満々で下り列車を送り出した。そして拝島駅のK駅長代理は、なんとな~くその場の空気に流されて上り列車を送り出した。その結果、このふたつの列車は多摩川の鉄橋上で激突大破したのだった。

 ここまでの登場人物のうち、MとAはこの事故によって死亡している。O嬢やHは拝島駅で待機していたところだった。

 

   ☆

 

 事故によって、言うまでもなく八高線は全線ストップ。特に拝島駅と小宮駅は大混乱に陥り、F駅長とK駅長代理は逮捕され取り調べを受けるという憂き目に遭った。

 F駅長は「自分の手渡した紙きれをちゃんと読めば、正面衝突なんてありえなかったはずだ!」と主張していたという。だがさすがに取り調べの直後には割腹自殺を図っており、なんとか一命を取り留めた。

 拝島駅のK駅長代理はと言えば、いざ事故発生の知らせを受けて、ようやく「あのメモはそういう意味だったのか!」と合点がいったという。これぞ正真正銘の「アホが見るブタのケツ~♪」というやつであろう。

 この二人は「業務上過失致死並びに業務上過失列車破壊罪」という物凄い罪名で起訴され、裁判にかけられた。F駅長は、裁判所でも「私の書いた図表は普通に見ればすぐ分かるはずだ」とマジ切れしていたという。

 責任の所在は、まあ誰に目にも明らかであろう。悪いのはいい加減な独断を下したF駅長と、それについて確認せずに適当な判断をしてしまったK駅長代理の2人である。

 ではF駅長のやり方はどこまで間違っていたのだろう? 現代の視点で見ると、当時の彼の判断はあまりにも綱渡りめいたものに見えるが、もしかするとそういうやり方は「現場の習慣」として昔からあったのではないだろうか――?

 これについてはしかし、運輸省東京鉄道局教習所の教官が証言台に立って「そんな習慣ありえない。そんなのを許可した覚えもない」とう旨の証言をしている。

 結局、第一審判決ではF駅長に禁固一年、K駅長代理に禁固6ヶ月の判決が下った。さらに第二審ではF駅長が禁固8ヶ月の実刑、Kについては2年の執行猶予付きの禁固6ヶ月という判決が出て、これで確定した。事故から2年後のことだった。

 2人は職を追われ、共にひっそりと第二の人生を送ったという。これもまた、終戦直後という混乱期、時代に翻弄された人間のひとつの姿であったか――。

 

   ☆

 

 さて、この事故は思いのほか知名度が低い。死者数でいえば日本の鉄道事故史上屈指の大惨事であるにも関わらず……である。これは何故だろう?

 ここに一冊の参考文献がある。この八高線正面衝突事故の詳細が記された、おそらく唯一の本と思われる舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』(毎日新聞社)である。この本には、報道に際して検閲だか報道規制だかが行われたせいで事故のことが記録に残らなかった――という趣旨の記述があるが、これは本当なのだろうか。

 筆者の考えを言えば、これはどうも違う気がする。

 土浦事故の項目でも書いたが、戦前から終戦直後の報道に関してはなにかにつけて「当時は報道規制がかかって一般にはあまり知られなかった」と言われることが多い。しかし、当『事故災害研究室』の読者には、今後なにかの文献でそういう記述を見かけたら、まず眉に唾をつけてかかることをお勧めしたい。この八高線正面衝突事故も、当時は新聞でちゃ~んと報道されていたのだ。

 ここに、読者の方からご提供頂いた当時の新聞がある。事故翌日の朝日と読売、それから翌々日の朝日新聞である。カメラ撮影によるものになるが、掲載しておこう。

 

事故翌日の朝日新聞。

事故翌々日の朝日新聞。

事故翌日の読売新聞。

 ※著作権のからみがよく分からないが、問題があれば削除するので、その場合はご指摘頂ければ幸いである。

 

 ご覧の通り、しっかり報道されているのである。

 「でもやっぱり扱いが小さいじゃないか。普通だったら紙面の第一面を飾るような事件だぞ? やっぱり報道管制が敷かれたんじゃないか!」と思われる方もおられるかも知れない。これに対する反論を以下で述べる。

 これも土浦事故の項目で書いているが、物資の不足から、当時の新聞は紙面が極端に少なかったのだ。紙一枚の裏表に印字されていたり、それがさらに半分サイズになったり、しかも紙がワラ半紙だったりしていたのである。

 いくら大事件とはいえ、ひとつの事件だけで、今のように2つも3つも紙面を割けるような贅沢はできなかったのだ。

 また通信上の問題もあった。今のようにデータを添付してワンクリックで全ての情報が送れるような時代ではなかったのである。地元記者からの電話通信や伝書鳩を駆使して情報を集めていた当時、終戦直後の人手不足と混乱の中ではこうした通信もままならなかったに違いない。

 そもそも、報道管制が敷かれたのならば、完全に報道されないはずである。実際に政府によって報道規制が敷かれ、報道を握りつぶされたケースは確かにあるが、それは詳細な空襲の情報のような軍事機密にまつわる事柄など、ごく僅かな数である。中途半端な形であれちゃんと報道されている事柄は、当時としては精一杯報道されたことを意味しているのである。

 「政府によって報道規制がなされた」という都市伝説は「当時、国民を動揺させるようなニュースは規制されるようになっていた」という文脈で語られることが多い。だがこの八高線の衝突事故について言えば、もう戦争は終わっているのだから国民の動揺もへったくれもない。

 そして、人間というのは基本的に忘れる動物である。どんな大事件でも、何度も繰り返し報道されなければ、他の事件の情報に埋もれてしまうし、そうでなくとも忘れてしまうものだ。こうして八高線の正面衝突事故は、知る人ぞ知る伝説の事故となってしまったのだろう。

 たぶんこういった事柄は、ここでの文章を読んで初めて知ったという方も多かろうと思う。当時「政府による報道規制」という現象は確かにあった。だが、いつの間にかその規制の及ぶ範囲が際限なく拡大されて、猫も杓子も規制されたように書かれることが多いがそれは嘘である。

 ではなぜ、そんな嘘がまかり通るようになったのだろう?

 ここからは筆者の想像になるが、これは多分、新聞社がその嘘を積極的に否定していないからだと思う。当時の新聞は、戦争を煽る記事をけっこう書いていた。だから今「戦前から戦中にかけては報道規制がかかって自由な報道ができなかった」ことにした方が、「いやああの戦争礼讃の記事も軍部に強制されて書かされたものなんですよ~」と言える。

 あとは新聞やテレビで、なにかにつけてちょこっと「当時は報道規制があって云々」というひとことを挟み込んでおくといい。そうすれば、大衆の心には戦争イコール報道規制、という図式が刷り込まれるだろう。なんだか陰謀説めいた書き方になるが、戦後はそんな風に大衆の心が操られた部分もあったのではないだろうか。

 ちなみに『「大列車衝突」の夏』はサンデー毎日に連載されたものがまとめられた本であり、出版元は毎日新聞社である。

 

【参考資料】
舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』毎日新聞社

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■


八高線列車転覆事故(1947年)

 東京の八王子駅と、群馬県高崎市の駅を結ぶ「八」「高」線では、終戦直後の混乱期に2度も鉄道事故が発生していいる。しかも、どちらも鉄道事故史上に名を残す大惨事だ。今回ご紹介するのはそのうちの片方である。

 1947年(昭和22年)2月25日の朝のこと。埼玉県東飯能駅を出発して高麗川駅へ向かっていた一本の列車があった。機関車・C5779号機に牽引される、高崎行きの6両編成である。

 この列車はしかし、尋常な状態ではなかった。客車はすし詰めの超満員で、定員の3倍の2,000人近い乗客が乗り込んでいたのだ。

 とはいえ、そんな状況は、八高線にとっては不思議でもなんでもないものだった。当時この路線は「ヤミ列車」とまで呼ばれており、沿線の農家へ食料を買い出しに行く人々で常に超満員だったのである。

 まあ満員だけなら別に良かったのだが、この東飯能・高麗川間の路線には他にも少しばかり問題があった。高麗川駅まであと1キロというほどの地点に、急勾配の下り坂があったのである。しかも線路は急カーブだ。

 もう少し詳しい数値を言えば、その坂の勾配は20‰(パーミル)である。これは底辺が100メートル、高さが2メートルの直角三角形を想像してもらえればいい。列車はその三角形の斜辺を下っていたわけだ。

 またカーブの角度であるが、これは半径250メートル。2005年に発生した尼崎の脱線事故よりも急なカーブだ。

 こんな線路を超満員の列車が通過するわけだから、今まで無事だったのが不思議なくらいである。

 しかし、その幸運も、この日は遂に訪れなかった。

 時刻は7時50分。上述の急勾配・急カーブの地点に差しかかった時、運転手は減速を試みた。さすがに危険な地点であるということで、ここは時速50キロで運転すべしと決められていたのだ。

 ところがスピードが落ちない。運転手は首をかしげた。

「あれ? なんか変だな」

 減速が利かなかったのは、いくつかの原因があったようだ。まず2,000人も乗っていれば勢いがつくから、そう簡単に原則はできないということ。また同じ理由からカーブの遠心力も大きくなるし、客車の重量も増すので車輪は線路上でひしゃげてしまう。まあ、子供でも理解できる理屈である。

 だがこの時の運転士は若干23歳。経験も浅く、よもや自分の運転する列車がそんなことになるなんて思いも寄らなかったに違いない。

 さらに、この時は乗客が多すぎるためブレーキ関係の装置も壊れてしまっていたらしい。速度も80キロは出ていたのではないか――という説もあるそうな。

 かくして、2両目と3両目を繋いでいた連結器は、たちまち千切れてしまった。

 キキキキキーーーッッッ! 線路と車輪がこすれる物凄い音がしたという。そして6両編成の列車のうち、後部4両がカーブから吹っ飛んで築堤から転落。5メートル下の麦畑で大破した。

 また悪いことに、木造の客車はすっかり老朽化が進んだ代物だった。戦後間もなくということもあり保線管理が不充分だったのだ。お陰で、転落した客車はいとも簡単にバラバラに砕け散った。

 粉砕した車両と土煙の下では、乗客たちが瀕死の状態で横たわっていた。彼らが買出しの交換に使うつもりだった大量のゴールデンバットや、荷物が詰まったリュックサック等があちこちに散乱していたというのが実に痛ましい。

 近所の人が駆け付けて救出活動が行われたものの、現場の状況は酸鼻を極めていた。例えば、下敷きになった人を助けようと客車をテコで動かすと、反対側の乗客が痛いやめろと悲鳴を上げる。また助けようと手を差し出すと、埋まっている皆が皆それを掴んでくるので逆に引っ張り込まれたという。目を覆いたくなるような惨状だ。

 死者184人、負傷者495~497人。鉄道事故について言えば、前に書いた安治川口ガソリンカー火災に次ぐ人数である。

 え、運転手はどうしたのかって?

 いやあ、それは筆者の口からはとてもとても……。

 まさか「事故に気付かずに走り去った」なんて言うわけにはいきませんよ。本人の名誉のためにも、ねえ。

 あまつさえ「次の駅に到着して、駅員から知らされて初めて事故を知った」だなんて! だめだめ、口が裂けても言えません。

 ともあれ、そういうわけである。

 この運転士は被告人席に立たされ、責任を追及される羽目になった。

 裁判は最高裁まで争われたという。検察は、運転士が急ブレーキを踏んだのが事故の発生に繋がったと主張した。

 しかし結果は無罪。判決文の詳細を読んでいないのでなんとも言えないが、運転士の運転は適正だったと判断されたのだろうか。だがまあ確かに、事故の直接の原因が国鉄の路線管理の不備にあったのは、素人目にも明らかなように思われる。

 この事故の現場には、今では慰霊碑が建立されているという。

 ちなみに戦後間もなくの事故ではあるが、車両の残骸は、けっこう最近まで現場周辺に残っていたらしい。

 八高線で残骸、と言えば思い出すのが、この2年前に起きた同じ八高線での正面衝突事故である。こちらは残骸が拾い上げられて記念碑代わりにされていると聞くが、いずれにせよ後処理がずいぶんざっくばらんだなあ、という印象を受ける。土地柄だろうか? もしそうなら、ここはみのもんた御大にご登場願わねばなるまい。「埼玉県民カミング~アウト!」である。

 まあ冗談はともかく、八高線の2つの事故は、土地柄とも決して無関係ではないと思うのである。桜木町しかり、三河島しかり、鶴見しかり、戦後の代表的な鉄道事故はすべて、大都会の周縁の地域で起きている。こういった地域はそもそも路盤が弱く、そのわりに大都会に近いので乗客も多い。だからいったん事故が起きると大惨事になりやすいということは言えそうだ。

 

【参考資料】
鉄道チャレンジクラブホームページ

http://www5a.biglobe.ne.jp/~techare/29144280/

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■


近鉄奈良線暴走事故(1948年)

 さあ皆さんならどう反応するだろう。列車が坂道で加速し始め、やがて振り向いた運転士が泣きながらこう告げてきたのである。

「申し訳ありません、車は停車しません。覚悟して下さい」

 これは作り話ではない。そんな恐ろしい出来事が実際にあったのだ。

 

   ☆

 

 時は1948年(昭和23年)3月31日、水曜日。近畿日本鉄道奈良線、生駒駅から花園駅までの鉄路で起きたこの事故は、「近鉄奈良線列車暴走追突事故」「花園事故」「生駒トンネルノーブレーキ事故」など今ではさまざまな名称で呼ばれている。

 奈良発7時20分、大阪の上六行き712急行列車は、朝のラッシュアワー時のため満員の鮨詰め状態だった。

 明らかな異常が発生したのは、生駒駅を発車し、生駒トンネルの下り坂に差しかかった時だった。なんとブレーキが利かなくなったのである。

「あれ、あれれ? どうなってんの」

 運転士は焦ったに違いない。なにせトンネルを出た先の孔舎衛坂駅(くさえざかえき)では線路は半径200メートルの急カーブになっている。しかもその先は、さらに4キロもの連続勾配を一気に駆け下りるのだ。要は、長~い1本の坂道になっているわけだが、よりにもよってそれを下り始めたあたりでブレーキが利かなくなってしまったのである。

 乗り合わせた乗客たちもすぐに異常に気付いた。

「おいおい、この先って急カーブだよな。いつもならここで減速するんじゃなかったっけ?」

 減速どころかスピードは増すばかりである。列車は生駒トンネルを出たあたりで、激しい火花と砂煙を上げ始めた。

 大変だ、これ暴走してるぞ!

 この時、運転士の脳裏では、先に通過していた額田駅と生駒駅での出来事がよぎっていたのではないだろうか。そういえばこの二つの駅でもブレーキの利きが悪く、列車は一両分ほどオーバーランしていたのである。あれはこの予兆だったのか――!

 終戦から4年が経ったとはいえ、日本の工業力はまだ回復には至っていなかった。何しろ物資がない。鉄道に限ってみても車両は老朽化した木造のままで、線路も磨耗と歪みが著しい状態で使われていたという。そんな中、とっくに耐用年数を過ぎたブレーキが、最悪のタイミングで寿命を迎えたのだった。

 このままでは脱線か転覆かはたまた衝突か。乗客たちは騒ぎ始めた。

「ガラスが割れるぞ!」
「窓を開けろ、そうすれば空気抵抗で減速する!」
「後ろに詰めろ、もっと奥に行け」
「それより伏せろ、伏せるんだ! 重心を下げろ」
「立つんじゃない、後ろを向いて座れ」
「舌を噛むぞ、歯を食いしばれ」

 後ろの車両に移動すれば、衝突による被害は抑えられたかも知れない。しかし時代が時代で、当時の列車に車両ごとの貫通扉はなかった。つまり客車は密閉されたただの箱だったわけで、乗客たちはそれぞれ乗り合わせた車両で対策を講じるしかなかった。

 そうこうしているうちに、どんどん増していくスピードのため、なんとパンタグラフが架線を切断。さらにもうひとつのパンタグラフも破損してしまい、あっという間に使い物にならなくなった。

 本当は、このパンタグラフに通電しているうちに、列車がバックする形に操作を行っていれば減速できていたかも知れない。だがこの時の運転士は弱冠21歳、あまりにも経験が乏しすぎた。物資も人材も不足していたのである。

 そこで助役が車両の前方へ移動してきた。

「こうなったらハンドブレーキだ。ハンドルを回せ回せ」

 近くにいた乗客と協力して、助役は手動のハンドブレーキを回し始める。しかし、フルスピードの列車の速度はなかなか落ちず、目に見える効果は現れない。そうこうしているうちに、列車は石切駅を猛スピードで通過した。

 さて次の通過駅である瓢箪山駅には、7時48分に運転司令室からの鉄道電話が入ってきていた。

「準急の752を今すぐ退避させろ! 急行712が石切駅に停まらずに暴走してやがる!」

 なんだと、マジか。駅員たちは慌ててポイントを変えた。ちょうどその時、西大寺発の準急が構内に入ってきたところで、これは無事に待避線に寄せられた。

 ふうやれやれ、と駅員が胸を撫で下ろしたその瞬間である。くだんの暴走列車が、物凄い火花と砂煙を上げながら一瞬で駅を通過していった。この時には100キロを越えるスピードだっただろうとも言われており、まさに間一髪だったのだ。駅の手前のカーブでは、車両が浮いたとの証言もある。

 暴走列車は止まらない。

 途中、開け放たれた窓から飛び降りた者も2人いた。しかし1人は大怪我、1人は死亡。どう足掻いても只では済まない状況だったのだ。

 運転手も必死である。車両の窓から身を乗り出し、パンタグラフを直せないかと試みた。しかし暴走による風圧でいかんともしがたく、なんの足しにもならなかった。

 それでも、現在の花園駅(当時はなかった)あたりから道は平坦になり始めた。手動ブレーキもやっと手応えが感じられ始め、ここでは時速80から70キロくらいには落ちたのではないかと言われている。

 距離にしておよそ6キロ、ここまでの時間は5分。しかしこの暴走は、最悪の形でストップすることになった。花園駅の構内に電車が停まっていたのである。これは瓢箪山駅の時のようには連絡がうまくいかず、待避線にどかす移動させる時間がなかったのだ。

 不幸中の幸いだったのは、追突された列車がまるきり停止しておらず、動きかけだった点である。これにより衝突の衝撃はわずかに緩和された。

 それでも大事故である。7時50分、大音響と同時に暴走列車の先頭車両はものの見事に粉砕された。壁は全てなくなり、残るは天井と床だけ。長さも半分ほどに押し縮められ、乗っていた乗客たちはほとんどが線路脇のドブ川へ放り出されたという。車両の床も、川の水も、たちまち血の色に染まった。

 死亡者49名、負傷者282名。2両目以降も車両の前後が大破したが、死者は先頭車両の乗客のみだった。

 実に不幸な事故である。

 とにかく終戦直後というのは、物資が極端に不足しており鉄道はろくに整備もされていなかった。にも関わらず、人々は交通手段として大いに利用するものだから磨耗のスピードも速く、こうした整備不良が原因となった鉄道事故は数多く起きている。

 それでもこの事故がどこか特別に見えるのは、暴走が始まってから追突するまでの間がどことなくドラマティックで、見る者の心を打つからであろう。実際、乗客たちが力を合わせて、なんとか衝突のダメージを軽減しようと試みたことをひとつの美談として捉える人もいるとかいないとか。

 確かに、追突するまでの数分間を短編小説形式で書いたりしたら、案外面白い作品ができるかも知れない。しかしこれはやっぱり「不幸な事故」であって、美談に仕立て上げようという気には筆者はあまりなれない。この点についてはいみじくも桑田佳祐が歌った通りである。「情熱や美談なんてロクでもないとアナタは言う~♪」

 追突事故が発生した花園駅は、今はもうない(「河内花園駅」がもとの駅より東のほうにあるという)。だが付近の踏切路の西側には、今でも慰霊碑の光明地蔵が建っているそうな。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

 



読者登録

きうりさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について