目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)

 日本の事故史を紐解くと、戦後間もない一時期に「修学旅行中の事故」が頻発していたことが分かる。発生した事故のジャンルも鉄道、バス、海洋と多岐に渡っており、このテーマだけでも一冊の本が書けそうな気がするほどだ。

 鉄道事故の分野でいえば、最も有名なのは参宮線六軒事故ということになるだろうか。あれは多数の死者が出た悲惨さそのものでも有名だが、いっぽう東海道線では火災事故が発生している。知名度はそう高くないのだが、今回はこの事例をご紹介しよう。

 時は1955年(昭和30年)5月17日のこと。

 日付も変わったばかりの午前2時19分。修学旅行中の学生たちを乗せた11両編成の列車が、原―田子の浦間を通過していた。

 この列車は京都発東京行きの3138列車で、乗客は837名という大所帯である。いかにも「事故ったら大変なことになりそうだなあ」と思わせる乗客数だが、とにかく田子の浦駅はダイヤ通りの時刻に通過したし、ここまでは何も問題はなかった。

 問題が起きたのは、静岡県原町の植田という地区の踏切に差しかかった時だった。なんとそこで一台の大型トレーラーが立ち往生していたのである。それは米軍のもので、列車の運転士は慌てて急ブレーキをかけたが間に合わずゴッツンコ。それでも列車は止まらず、百数十メートルもそのまま走行してやっと停止したのだった。

 さあ、大変なのはここからだ。踏切で大破した米軍トレーラーには、よりによって揮発油を原料としたペンキが大量に積まれていたのである。どういう拍子でかそれに引火し、あっという間に周辺は「燃え上が~れ~ガン●ム~♪」状態。

 火炎は、緊急停止した3138列車にもたちまち燃え移っていく。特に3両目はトレーラーに近い場所にあったのか、燃え移るのが最も早かった上に焼け方がひどく、骨組みしか残らないほどだったという。

 また他の客車3両と機関車が全焼、さらに1両が半焼に至った。つまり先頭の5両が焼けたわけだが、6両目以降は切り離して移動させたため無事だったという。 

 この事故の犠牲者は、まず重傷を負った者が2名。そして修学旅行中の子供たち11名を含む31名が軽い怪我を負った。死者はゼロだった。

 え、ゼロ?

 そう、ゼロなのである。

 その場にいた鉄道関係者と乗客たちが、皆で力を合わせたのが良かったのだ。さらに、時刻は草木も眠るなんとやら――だったにも関わらず、周辺住民も駆けつけて協力してくれたのである。

 住民たちにとってはきっと「田子の浦に 打ち出でてみれば火災にぞ 鉄道車両に 火の粉は降りける」という感じだったろうが、とにかくそれで車両の危険回避と乗客らの避難誘導が適切に行われたのだった。いやあ良かった良かった。人間やればできるもんだね。

 戦後の鉄道火災事故といえばなんといっても桜木町火災だろうが、桜木町は鉄道事故史上屈指の死者数、されどこの東田子の浦では死者ゼロと、えらい違いだ。

 ちなみにこの事故で被災した車両は、廃車とはならずに修理されてその後も使用されたという。個人的にはそれがどうしたという感じなのだが、生粋の鉄道好きにとっては外せない話題らしい。資料として読ませて頂いたサイトのどちらにも詳細な説明があった。素人には退屈な文章だが、とりあえず重要事項らしいのでそのまま引用しておこう。ウィキペディアからである。

「被災車両は損傷の著しいものがあったにもかかわらず全車廃車とならずに修復され、EF58 66は浜松工場で修復および甲修繕を施工、客車5両はオハ46形に準じた広窓、切妻、鋼板屋根の構体の新製と台枠の改造が行われ、スハ32 266は名古屋工場で構体載せ替えを受けオハ35 1314に改番、スハフ32 257は小倉工場で構体載せ替えを受けオハフ33 627に改番され、オハ35 342・923, スハ42 63は小倉工場で構体載せ替えが行われ原番号で復旧された。」

 ところで米軍トレーラーはどうして立ち往生していたのだろう。補償はしたのだろうか。その辺りも気になるが、ひとまず今回はこれにて。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト「JS3VXWの鉄道管理局」鉄道写真管理局珍車ギャラリー
http://bit.ly/fZMg7P
◇ウィキペディア

 

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参宮線六軒事故(1956年)

 ATSという装置がある。

 正式にはAutomatic Train Stopという。自動列車停止、すなわち鉄道を強制的に停止させる装置である。たとえば、鉄道車両が速度超過に陥ったり、あるいは信号無視を行ったりすると「はいダメー」ということで自動的に作動する。

 このATS、現在では全ての鉄路に備え付けられているという。まあ安全管理という観点からは当たり前なわけだが、しかしこれが「当たり前」になったのはごく最近のこと。そう、当研究室の読者諸賢ならもうお分かりであろう。これが普及し定着するまでには、戦後のいくつかの大事故の発生を俟たなければならなかったのだ。ATS配備の歴史は、そのまま鉄道事故の歴史と言っても過言ではない。

 今回ご紹介する参宮線六軒事故は、1965年(昭和31年)に発生した。この事故によって、国鉄は「車内警報装置」の全線設置を決めたのだが、この時はまだ列車の停止は手動で行う必要があり、警報装置はいわばATSの単なる前身に過ぎなかった。やっぱりただの警報装置では生ぬるい、ということで問答無用に列車を停止させるシステムへと切り替わったのは、伝説の鉄道事故・三河島事故以降の話である。

 そう考えると、この六軒事故は知名度こそ低いものの、三河島事故の前触れというか予兆みたいなものだったのだろう。それまで鉄道というのは「なにがあっても列車は停めるな」が基本であった。だがそれがこの六軒事故や三河島事故を経て「異常時にはすぐ停めろ」へとパラダイムシフトしたのだ。今となっては地味ではあるが決して外せない前身。プロレスで言えば、力道山に対するボビー・フランスやハロルド坂田。それがこの六軒事故なのである。

 

   ☆

 

 1956年(昭和31年)10月15日18時22分のことだ。

 現在は紀勢本線である、当時の「参宮線」の六軒駅で、上り・下りそれぞれの快速列車がすれ違うことになった。

 本来のダイヤではこのすれ違いはあり得ないのだが、そんな風に急遽変更となったのは、下り快速列車に10分の遅れが出たためだった。よって下り列車は、いつもならもっと先の松坂駅ですれ違うところを急きょ六軒駅で臨時停車し、上りの列車をやり過ごさなければならなくなったのだ。

 ただ問題は、下り列車の運転士に、この緊急の変更内容が伝わっていなかった点であろう。当時は携帯電話なんて便利なものは存在せず、こうした決定が先に駅の内部で行われ、運転士は駅構内で止められた後で事後的に知らされることもあったのだ。

 通信手段が充実している現代の視点で見れば「危なっかしいなあ」と思うのだが、とにかくそうだったのだから仕方がない。なあに、駅でちゃんと信号を操作して確実に列車を止めれば、大丈夫だ問題ない。――というわけで、六軒駅では下り快速列車を受け入れる態勢を整えて待っていた。

 ところが一体どうしたことか。駅に入ってきた下り列車が、停止せずにそのまま駅を通過していくではないか。

 少し進んだところで、運転士がアッと気付いて非常ブレーキをかけたがもう間に合わない。列車は安全側線に突っ込み、そのまま車止めを突破してしまいドンガラガッシャン。機関車2両と客車3両が脱線転覆し、「反対車線」にあたる上り線の線路をふさぐ格好になってしまった。

 これだけでも大事故だが、もしかするとこの段階では死傷者は比較的少なかったかも知れない。このほんの数十秒後に、六軒駅ですれ違うはずだった上り列車が進入してきたからさあ大変、線路をふさいでいた車両に激突してしまった。

 この激突によって、上り列車の機関車2両と客車1両がさらに脱線転覆。しかも、先に転覆していた下り列車は押し潰されてしまった。死者42人、負傷者96人という大惨事のできあがりである。

 下り列車の乗客の多くは、修学旅行中の学生であった。

 この学生たちは、当時の東京教育大学(今の筑波大学)付属坂戸高校の生徒だった。死者42名のうち、24名がこの生徒たちだったというから痛ましい。

 さらにこの事故が悲惨なものになったのは、上り列車の機関車の破損によって、犠牲者たちが蒸気と熱湯を浴びたことだった。蒸気機関のパイプやバルブからそれらが漏れ出したため、生存者は大火傷を負い、死者の遺体は激しく損傷せられたのだ。

 そして救助活動が始まったものの、これもひどく難渋したという。消防署、消防団、機動隊、陸自などが出動したものの列車の破損があまりにひどく、さらに上にのしかかっていた機関車の撤去にも骨が折れたという。

 さあ、裁判である。まあ事故の原因は明らかで、下り列車のオーバーランのせいなのだが、ではそもそもオーバーランはなぜ発生したのか? 裁判ではそこが問題になった。

 救助された下り列車の機関士は、こう証言している。

「六軒駅に入った時、信号は確かに進行を現示の状態でした。だけど駅ホームの半ばあたりまで来たら、出発信号機が停止現示になっていたんです。それで慌てて非常ブレーキをかけたのですが間に合いませんでした」

 要するに、青信号だったので安心して進んで行ったら、当然青であるべきその先の信号が赤になっていたいうことだ。この話が本当ならば、事故の責任は駅にあることになる。信号機の赤青を変えるのは駅の信号掛の役目だからだ。

 しかし駅はこのミスを全面否定。彼らと、前述の運転士の主張は真っ向から対立した。

 裁判所の最終的な結論は、「事故の原因は運転士による信号の見間違いである」というものだった。六軒駅の関係者は全員無罪、運転士のほうが禁固2年・執行猶予5年、機関助士には同じく禁固1年と執行猶予3年という判決が下っている。しかしこの結論を証拠づける物的証拠は特になく、ぶっちゃけ真相は闇の中である。証拠なしでこんな結論、出しちゃいけないと思うのだが。

 とはいえ、実際のところなにがあったのか、まったく推測できないわけでもない。

 当時は伊勢神宮の大祭が行われており、大勢の人が行き来していたせいでダイヤは乱れがちだった。よって、先述したような列車の遅れや駅での緊急のすれ違いが発生したのである。だが六軒駅ではこのような変更は珍しいことで、慌てた駅員が信号の操作をミスったのかも知れない。全てが手動だった時代、こうした操作がいかに煩雑だったかは想像するしかないが、今までやったことがない操作をその日いきなり「やれ」と言われれば誰だって慌てる。

 また一番最初にも書いたが、下り列車の運転士は、六軒駅でいったん停止することを事前に知らされていたわけではない。ちょっとぼんやりしていれば、青信号を見落として、まったくいつも通りにこの駅を通過しようとしてしまうことだってあり得るだろう。

 いずれにせよ同情せずにはおれないところである。

 

   ☆

 

 最初に述べたように、この事故の直後から、主要幹線では車内警報装置の導入が進められていった。さらに信号も色灯化や自動化が進められ、これでひと安心となるはずだったのだが、6年後に三河島事故が発生したことでぜんぶ台無し。金はかかるけどやっぱりATSでなきゃ駄目だという結論になったのである。

 それにしても、このあたりのエピソードを書いていて思い出すのは、三河島事故が起きた時に付近の住民だか乗客だがか言っていたという言葉である。「人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ」と、その人は憤っていたという。

 だが皮肉なもので、ATSの導入は「やっぱり全ては機械サマ頼み」という結論を示すものだった。人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ――。その答えは簡単で、人間は間違うものだからである。人間なんてアテにならないからである。

 とはいえこのATSという機械も万能ではない。緊急停止したあとは改めて手動で発進させるわけで、けっきょくそれで事故ったというケースもある。いやはや、くり返して言うが人間なんてアテにならないものである。せっかく機械を導入しても、それを台無しにするのはやっぱり人間なのだ。

 この参宮線六軒事故の事故車両は、今でも和歌山県橋本市の運動公園に展示されているという。下り列車を押し潰した、あの上り列車の機関車である。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◇ウィキペディア

 

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三河島事故(1962年)

 三河島事故――。伝説の鉄道事故である。

 あまりにも有名なので、今さらここで記述してもな~という気持ちが正直あるのだが、一方でこの事故のことを書かなければ、鉄道事故史としては明らかに片手落ちだろうとも思う。

 この事故の情報は、これまでにも多くの文献で書かれてきたし、ネット上でも溢れ返っている。よって詳細はそちらに譲るとして、当研究室では大まかに、自由に書かせて頂こう。

 

   ☆

 

 時は1962年5月3日、夜9時半過ぎ。東京都荒川区での出来事である。

 常磐線・三河島駅からほど近い線路上で、下り貨物列車が事故を起こした。

 これはまあ、ちょっとした脱線事故である。赤信号の場所で信号を見落とし、安全側線内で大きく傾いてしまったのだ。それで車両が本線側にはみ出した。

 この状態を乗用車と道路でたとえるなら、反対車線に頭がはみ出す形で停車したようなものだ。当然、反対側から車が来れば衝突の危険がある。危ないことこの上ない。

 おっとこいつぁーウッカリだ! しかし貨物列車の運転士には、額を叩いている余裕もなかった。およそ10秒後に、反対方向から、本線を走ってきた列車があったのだ。これは上野発取手行き下り2117H電車で、7両編成。本線にはみ出していた貨物列車にぶつかったことで、今度はさらにその隣の上り線の線路上にはみ出してしまった。当時、この下り電車は約40km/hの速度だったという。

 言うなれば、ドミノ倒しのようなものである。列車が次々に脱線し、隣へ隣へとはみ出してしまったのだ。だがこの時点では死者は出ておらず、25名が怪我を負っただけだったと言われている。

 なんだ全然大したことないじゃん――などと言うことなかれ。問題はここからだ。

 誰が最初にやらかしたのか知らないが、2117H電車の乗客たちが「非常用ドアコック」を使って車両の扉を開け、ゾロゾロと外へ出始めたのだ。

 まあ確かに、脱線して動かなくなっている電車に閉じこもっていたって仕方がない。「早く外に出て、さっさと別のルートで家に帰ろう」というのは当然の心境だったろう。しかも当時の電車内は、脱線でパンタグラフが外れたことから停電していたのだ。

 乗客たちは、さっき出発したばかりの三河島駅へ戻り始めた。

 ところがここで、彼らの歩いていた線路上へ上野行き上り2000H電車が突っ込んできたのである。人々はデデデデデッと撥ねられた。

 また電車のほうもただでは済まなかった。乗客を撥ね飛ばした挙句、脱線していた下り2117H電車と衝突したことで先頭車両が粉々に粉砕。2両目と4両目は、土手のように盛り上がっていた線路から真下の民家へと転落したのである。その結果、死者160名、負傷者296名の大惨事となった。

 いやはや。最初は「こいつぁーうっかりだ!」で済むところだったのが(いや済まないけどさ)、あれよあれよと言う間に雪だるま式に膨れ上がり、そして伝説へ……。とんでもない事故があったものだ。

 夜に線路を歩いている大勢の人たちが、電車によって一気に撥ねられるというイメージもあまりに強烈である。この強烈さによって、三河島事故は多くの人々にとって忘れがたいものとして記憶に残ったことだろう。

 ちなみに筆者がこの事故のことを話す時に、よく聞かれるのが「なんで線路を歩いていた人たちは、電車をよけなかったの?」ということである。

 これは簡単で、逃げ場所がなかったのだ。

 実際に行ってみると分かるが、事故現場は土手のように高く盛り上がった場所で、おいそれと下りられるようなものではなかった。またそこは鉄道車両が通ることしか想定されていないので非常に狭く、2台もの鉄道車両が並んで脱線している上に大勢の人がいたのでは、逃げ場所もほとんどなかったと思われる。

 さて、当時の事故現場の写真は、今ではネット上でいくらでも見られる。

 ちょっと見ただけだと気付かないのだが、写真に写っているものの中で筆者が特に恐ろしく思ったのは、上り2000H電車の先頭車両の状態である。

 各種資料を読むと「先頭車両は粉々に粉砕」という記述がよくあるのだが、最初は写真を見ても特にひどくない気がした。しかし筆者が先頭車両と思い込んでいたのは、実は2両目だったのだ。よく資料を読むと「2両目以降が土手から転落」とあるではないか。

 ああそうか転落しているのは先頭ではないのか。すると1両目はどこに?

 そこでよく目を凝らし、それを見つけた時には思わずゾッとした。上り2000H電車の先頭車両は本当に原型をとどめないほど破壊されており、まるでボロクズのように打ち捨てられていたのである。

 これは、福知山線の事故のニュース映像を初めて見た時の感慨と似ていた。あれも先頭車両と2両目の破損がひどく、最初はそれが車両だとは気付かなかったものだ。この事故の凄まじさが、いかに想像を絶するものだったかが思われる。

 裁判では、国鉄職員たちの責任が追及された。最初の二重脱線の時点で、上り電車を止めるための措置を取っていれば被害はもっと少なくて済んだことだろう。

 だが乗客の行動にも問題がないとは言えまい。彼らは非常用ドアコックを使って勝手に外に出たのだ。おそらく「皆が行くから自分も」という感じで次から次へとついていった形だったに違いない。

 この「非常用ドアコック」は、1951年の桜木町火災を教訓として設置された。昔からあったのだが、以前は場所が分かりにくかったのだ。桜木町火災では、そのため多数の乗客が脱出できず焼け死んだ。しかし三河島事故では、ドアコックが気軽に使えたことが裏目に出てしまった。

 国鉄職員の対応といい、乗客の行動といい、この事故は「日本人の非常時の行動のまずさ」を如実に浮き彫りにしていると言っていいだろう。

 その意味で、この事故は今でも「生きた事例」であり、教訓であり、事故防止のための教科書である。

 実は福知山線の事故でも、JRは反対の路線から入ってくる電車を止める措置を取っていなかった。それをとっさに非常停止装置で止めたのは、名もない一般市民のおばちゃんだったのである。このおばちゃんがいなければ三河島事故再び、になるところだったのだ(ただしJRはこの事実を認めていないそうな)。

 さらに三河島事故は、同じ常磐線で戦時中に起きた土浦事故とも瓜二つの関係にある。土浦事故があまり知られていないのは、当時の通信事情からして致し方のないことだが、こちらの事故の反省がきちんとなされていれば三河島事故は防げたのではないか、とも言われている。

 過去未来のあらゆるケースと、ここまでつながりを持つ鉄道事故もちょっと珍しい気がする。

 三河島駅は今もある。しかし、この事故によって三河島という地名は地図上から消えた。戦後の日本で、陰惨な事件や事故が原因となって地名が地図から消えたのは、おそらく帝銀事件と三河島事故だけではないだろうか。

 最後にこれは余談だが、筆者の父親は事故当時、現場の近くに住んでいた。よって日暮里大火、荒川通り魔事件、吉展ちゃん誘拐事件、そして三河島事故はいまだに身近なものとして覚えているという。曰く「あの夜はひと晩中サイレンが鳴っており、空襲を思い出して不気味だった」。

 そういえば「失敗学」を打ち立てたことで有名な畑村洋太郎も、同じような体験談をある本で書いていたのが印象深い。一度知ったらもう忘れられない伝説の鉄道事故、それがこの三河島事故なのである。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

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鶴見事故(1963年)

 鶴見事故は、戦後の鉄道事故としては最悪のものである。161人が死亡、120人が重軽傷を負うという目を覆わんばかりの大惨事だ。

 しかし、それではその「戦後最悪の鉄道事故」はいかにして起きたのか? 事故原因はなんなのか? という話になると、これが分かりにくい。掴みどころがないのだ。しかも調べれば調べるほど、あろうことかこの事故が起きたのは「運が悪かったから」だという結論に至らざるを得なくなるのである。

 まずは、惨事が起きるまでの経緯をご説明しよう。ただこの事故、なにせ伝説の三河島事故と双璧をなすほどの知名度なので、すでにネット上では写真やイラスト付きでさんざん解説がなされている。よってここでは簡単な説明にとどめたい。

 1963年(昭和38年)11月9日のことである。場所は当時の国鉄東海道線の、新子安駅と鶴見駅の間でのことだった。滝坂不動踏切という踏切があるらしいが、そこから鶴見に近いほうの約500mの地点である。

 まず、きっかけとなる事故が起きたのは午後9時50分頃。下り貨物線を走っていた貨物列車がいきなり脱線したのだ。ホントにいきなり――である。

 この貨物列車は佐原発・野洲行きの下り2365列車で、全部で45両編成。そのうち、後ろの3両がいきなりレールから外れて、線路脇の電柱(架線柱というらしい)に衝突して止まった。前方の42両はそのまましばらく進んだから、この3両はいわば線路上に「置き去り」の状態である。

 だが、これがただの「置き去り」だけならまだ良かった。脱線した3両は、3メートルほど離れた隣の線路にはみ出してしまったのだ。そこは、海岸側を走る東海道本線の上り線だった。

 さて、驚いたのは貨物列車の運転士である。後方で脱線事故が起きたことで急ブレーキがかかり、この列車は線路上で停止した。

「わわわ、やばいよ事故発生だ!」

 というわけで、運転士は急いで列車を下りると発煙筒を焚き、事故を知らせた。しかしこの発煙筒、どういうわけかごく短時間で消えてしまい、事故を知らせるにはほとんど役に立たなかったという。

 さてこの第一事故が発生してから間もなく、東海道本線の下り線を12両編成の列車が走ってきた。東京発・逗子行き下り2113S列車である。

 この列車の運転士は、前方で異常が発生していることにすぐ気付いた。

「あれ? なんかヘンだぞ、パンタグラフが火花を噴いてる。架線もたれ下がってるみたいだ」

 運転士が見たのは、さっき貨物列車がぶつかって壊れてしまった電柱である。彼は異変を感じ、ブレーキを踏んで速度を落としながら進んでいった。この2113S列車が走っていたのは、貨物列車がはみ出してしまった線路の、そのさらに隣の路線である。この時点では、衝突の危険はまだなかった。

 ところが、である。ほとんど間をおかずに、2113S列車の反対方向から久里浜発・東京行きの上り2000S列車(これも12両編成)が走行してきた。

 本来ならば、この2つの列車は、上りと下りの並んだ線路でなんの問題もなくすれ違うはずだった。ところが今、上り線のほうには貨物列車が転がっている。しかも2000S列車の運転士はどうやら貨物列車の事故には気付かなかったか、あるいは気付いていても遅かったらしく、時速90~92km/hという速度で突っ込んできたのだった。

 結果、2000S列車は、例の3両の貨物車両と衝突。

 この衝突の勢いで、2000S列車の先頭車両は横にはじき飛ばされる形になった。そして、隣の下り線を走っていた2113S列車に横から突っ込んでしまったのだ。

 ここからは、物理現象の説明である。

 まず2113S列車の4両目の側面に、斜め横方向から2000S列車の先頭車両が突っ込んだ。

 2000S列車はスピードが出ていたし、後続車両からも押される形になったので簡単には止まらない。あっという間に2113S列車の4両目を破壊し、続けて5両目車両の壁や天井もえぐり取り、合計2両分の車両を蹂躙し尽くした。

 最終的には、2113S列車の5両目と、2000S列車の先頭車両がクロスする形で止まったようである。鶴見事故の写真といえば、このクロスした光景が有名だ。

 衝突の憂き目に遭ったこれらの車両は、原形をとどめないほど破壊された。当時の現場写真を見るとまるで爆発事故でも起きたかのようで、これが鉄道事故だと言われてもちょっとピンとこないかも知れない。

 ちなみに2000S列車の2両目以降は、幸いにして衝突には巻き込まれずに済んだ。衝突と脱線の勢いで先頭車両との連結が外れてしまい、後続の車両は少し進んだ先で脱線して停止したのだ。こちらにどのくらい死傷者がいたのか、あるいはいなかったのかは不明である。だが、死者と負傷者の大半が、木端微塵になった3つの車両に集中していたことは言うまでもない。

 すべては、最初の貨物列車の脱線からほんの2、3分の間の出来事だった。

 さっき登場した2113S列車の運転士や、発煙筒を焚いた貨物列車の運転士は無事だったようだ。だが2000S列車の運転士だけは、さすがに先頭車両から突っ込んでいっただけあって即死している。彼が、貨物車両に衝突する直前にブレーキを踏んだのかどうかは、ついに永遠の謎となった。

 ところで当時は、アメリカのテレビドラマ『ハワイアン・アイ』が放送されており、近所の住民は事故発生の時刻をはっきり覚えていたという。ドラマ鑑賞中に大音響と悲鳴が響き渡ったのだから、確かに嫌でも印象に残ったことだろう。

 そしてすぐに、救急や警察が駆けつけ、近所の住民も手助けに出てきた。現場は血みどろの地獄絵図。サイレンがひっきりなしに鳴り響く中、悪夢のような救助活動が行われたのだった。

 遺体の多くは、總持寺(なんて読むんだ?)という寺に運び込まれた。その縁でか、今でもこの寺には鶴見事故の161名の犠牲者氏名が刻まれた慰霊碑があるという。

 ついでに言えば、この寺にある慰霊碑は鶴見事故のものばかりではない。どうもそういう役回りの寺なのか、かの桜木町火災の慰霊碑も同じ敷地内にある。

 考えてみれば、どっちも横浜市なのである。戦後を代表する鉄道事故が2つも同じ町で起きているというのは、妙に因縁めいたものを感じる。

 ちなみに当時の横浜市というのは、現代の我々が思い描くような都市のイメージとは遥かにかけ離れた、ゴミゴミした町だった。横浜が今のように垢抜けたのはわりと最近のことで、当時はまだ首都圏に対する「周縁」でしかなかったのである。

 そして戦中から戦後にかけての鉄道事故を見ると、五本の指に入るような事例は必ずこの首都圏に対する「周縁」の地域で発生している。三河島八高線桜木町に鶴見事故……。気が向いた方は、これらの事故現場を地図でチェックしてみて欲しい。見事に首都圏をぐるりと囲んでいるのである。

 これがありのままの歴史の姿である。「周縁」は中心部よりも人の動きが大きく、されど鉄道車両は戦時中のボロいやつをそのまま使っていたりするので、ひとたび事故れば大惨事となるのだ。

 さて事故原因の話になるが、そもそも最初の貨物列車の脱線はなぜ起きたのだろう。それがなければこの大惨事は起きなかったのだから、原因究明の焦点は俄然そこに当てられた。

 事故後にさっそく調査が行われ、まず以下のことが判明した。どうやら、脱線した3両の貨物のうち、先頭車両の車輪が線路に乗り上げていたらしいのだ。

 線路に残った痕跡から、乗り上がりが発生したのは脱線の直前であることも分かった。この貨物車両はその状態でしばらく走っただ、ついに車輪が線路から外れたため、脱線して後続の車両もろとも吹っ飛んだのだ。

 こういうのを「せり上がり脱線」という。

 せり上がり脱線――。それは車輪のフランジ(車輪の内側にあるツバ)がレールの上に上がってしまうというという、名前そのまんまの現象である。まあ、わざわざ名称が与えられているぐらいだから全くあり得ない現象ではないのだが、しかし実はこのせり上がり脱線、国鉄でも年に1度くらいしか報告がないような極めて珍しいものらしい。

 ただ困ったことに、そもそもこの「せり上がり脱線」がなぜ起きるのかは誰も知らなかった。当時の国鉄の人たちも、「原因はいろいろ考えられるので今から調べます。てゆうか下り線の電車、スピード落とさないで突っ切ってればもっと犠牲者少なくて済んだんすけどね~」とか言い出す始末。もはやザ・他人事である。

 しかし他人事で済ませてもいられない。鶴見事故の前年には三河島事故があり、国鉄総裁の辞任ものの大惨事が連続して発生したことになるのだ。これはさすがにヤバイと感じたのか、国鉄は大々的な実験を行った。北海道の根室本線の旧線を使い、わざと車両を脱線させて事故原因を突き止めようとしたのである。いやあさすが金持ちはやることが違うね。

 で、その実験の果てに出た結論が「鶴見事故はたくさんの原因が重なって発生した競合脱線でした」というもの。

 ここでいうたくさんの原因とは、車両や線路の状態・積荷の重量・運転状況・過密ダイヤ等々である。これらの不運な要因がたまたまいちどきに重なってしまい、鶴見事故は起きたというのだ。

 読者の皆さんはどうお感じになるだろう? 筆者などは「原因不明って最初から言えよ」と思わず突っ込みたくなるところだ。

 とはいえ、北海道での脱線実験のすべてが単なるパフォーマンスに終わったわけでもない。この実験の際に採取されたデータのおかげで、国鉄の車両はさらに安全に改良されていった。具体的には護輪軌条の追加設置、塗油器の設置、二軸貨車のリンク改良、車輪踏面形状の改良などがなされたそうだが、ごめんなさい筆者には何がなんだか分からない。要するにアレだろう、それまでの国鉄の車両というのはそれだけ粗悪品だったということだ。

 ここまで読めば、冒頭で筆者が「鶴見事故は運が悪かった」と書いた理由ももうお分かりであろう。「たくさんの要因」が重なってたまたま脱線が起き、運転士の焚いた発煙筒がたまたま短時間で消え、そこへたまたま上り下りの両線から電車がやってきて、たまたま夜だったため運転士たちは状況の把握がうまくできず、そしてこの事故は起きたのである。

 鶴見事故が起きたのは誰のせいでもない。むしろこれは、鉄道事故というよりも自然災害に近いものだったのではないかと思う。だから、同時期に起きた三河島事故に比べるといまいち知名度が低いのだ。特定の誰かの失敗談でないからドラマ性に乏しく、自然災害に近いため個性もない――。それがこの鶴見事故なのである。

 余談だが、鶴見事故は、奇しくも日本史上最悪の炭鉱事故・三井三池炭鉱の炭塵爆発事故と同じ日に起きている。おかげでこの1963年11月9日のことは「魔の土曜日」とか「血塗られた土曜日」とか呼ばれたらしい。

 そして皆さんご存じの通り、11月9日というのは今では「119番の日」として定められている。これは1987年に消防庁が制定したもので、周知のごとく、この日から11月15日までの1週間は秋の全国火災予防運動が行われるのである。

 しかしこの「119番の日」は、鶴見事故や三井三池炭鉱事故とはなんの関係もない(笑)。119番ダイヤルが定められたのは戦前のことである。

 まあでも、せっかく覚えやすいのだから、読者諸賢には「11月9日は119番の日で魔の土曜日で血塗られた土曜日である」とぜひ覚えて頂きたいと思う。こうでもしないと、重大事故の記憶なんてすぐに風化してしまうものなのだから。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア
◇図説 鶴見事故
http://homepage3.nifty.com/kiha/SP/anzen-5.html

 

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北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上

 第1章 停止

 

   1・1972年11月6日

 

 1972年(昭和47年)11月6日、日付が変わったばかりの深夜のことである。

 青森行き急行501列車「きたぐに」は、敦賀駅を午前1時4分に出発した。定時を2分回っていたが、その程度ならば特に大きな問題はない。列車はぐんぐんスピードを上げ、時速60キロで進んでいく。

 11月5日は飛び石連休の最終日だった。上野動物園ではジャイアントパンダ・カンカンとランランの一般公開が開始されるなどしており、夜行列車の座席には、連休を楽しんだ帰省客が多く乗っていた。

 午後11時には、前から11両目にあたる食堂車も営業を終了している。乗客たちはそれぞれ眠りにつき、きたぐには夜の静けさに包まれていった。

 列車はスピードを上げて進んでいく。ほどなく、その先に北陸トンネルが見えてきた。

 

   2・歴史

 

 北陸トンネル――。

 昭和30年代、福井県では交通整備が急ピッチで進められていた。いわゆる列島改造論が盛んに述べ立てられるようになった時期で、キャッチフレーズは「のびゆく福井」。そんな時代の空気の中で、5年の歳月をかけて掘られたのがこの北陸トンネルである。

 もともと福井では、重要な交通路である敦賀-今庄間の交通ルートをいかに確保するかが常に重大問題だった。両者の間には海抜762mの鉢伏山がそびえ立ち、さらにその中に屹立する木の芽峠は、古来より人々の交通を妨げてきたのである。

 明治29年には、「北陸トンネル」と呼ばれるトンネルが一度は掘られ、開通している。しかしこれは鉢伏山の最難所を迂回する形を取っており、勾配がきつく決して良い道ではなかった。

 それでも、開通当初は「無いよりまし」だったのだろう。だが高度成長期に入ると、それも時代にそぐわないということで廃線が決定。そのかわりに、最難所を一気に貫通するトンネルが掘られることになったのだった。

 さらに言えば、1967年(昭和42年)には日本原子力発電所敦賀1号機と美浜1号機の建設も始まっている。福井県はまさにこの時期、「改造」の機運に湧いていたのである。

 新・北陸トンネルは、こうして昭和33年から5年の歳月をかけて掘られた。完成したのは昭和37年6月10日のことだった。

 開通の日、トンネル周辺ではセレモニーが行われ、福井県民は日の丸の旗をふってこの日を祝った。トンネル開通の喜びを表現した「イッチョライ節」もスピーカーで流されたという。イッチョライとは一張羅の意味で、「一番良いもの」を指す。

 新・北陸トンネルは全長13.87キロメートルに及ぶ長大なもので、当時としても日本で第2位、世界で第6位の長さを誇るものだった。つまりこの頃、日本には世界級の長さのトンネルが2つもあったのである。日本がいかに山の多い国土であるかが、このことからもよく分かる。

 この新・北陸トンネルこそが、今回の惨劇の舞台である。少し表記が混乱したが、以下では「北陸トンネル」で統一して書くことにしよう。

 そして長さということでいえば、トンネルに進入していった急行列車「きたぐに」もなかなかのものだった。15両編成の列車には寝台車、グリーン車、食堂車が連結されており、一番後ろの15・16号車では郵便や小荷物の輸送も扱っている。さらにこの日の乗客は761名でほぼ満席と、ちょっとした宿泊施設が線路を走っているような状態だった。

 

   3・トンネル進入

 

 きたぐにがトンネルへ進入していった時、乗員はどのような配置だったのだろうか。以下で簡単に記しておこう。

 まず、運転室には作田勝次指導機関士、辻邦義機関士、尾山孝熙機関助士の3人がいた。

 また15両の各車両には、以下の乗員がバラバラに乗り込んでいた。石川進専務車掌、広瀬芳雄車掌ら4人のヒラ車掌、そして鉄道公安員が2人である。

 さらに最後尾の荷物車には3人の荷物掛がおり、郵便車には喜多寅正係長を始めとする郵便関係の乗員9人がいた。

 そんなきたぐにに異変が生じたのは、トンネルのほぼ真ん中に差しかかった午前1時10分頃である。運転席の無線が鳴り、緊急打電が機関士に届いたのだ。車掌からだった。

「501列車、停まれ。火事だ!」

 これに応じ、機関士は列車を停止する措置を取った。

 きたぐにの、長い長い夜の始まりだった。

 

 第2章 通報と救援

 

   1・国鉄と消防

 

 午前1時30分、敦賀駅に一本の電話がかかってきた。それは北陸トンネル内の非常電話からだった。

「なんだ? なんでこんな時刻にトンネルから電話が来るんだ」

 敦賀駅の職員は、訝しく思ったに違いない。だが、受話器から聞こえてきた知らせは驚くべきものだった。20分ほど前に北陸トンネルの中で火災が発生したというのだ。電話口の向こうの国鉄職員はこう告げた。

「火元は食堂車だ! 今はトンネルで緊急停止して、乗員で消火にあたってる」

 なんだとマジですか。知らせを受けた国鉄はたちまち色を失った。そしてさらに、トンネルの反対側にある今庄駅にも同じような通報が入るに至り、1時41分には災害対策本部が設置された。

 すると1時45分には、またしてもトンネル内から連絡があった。おっ、もしかして「消火完了」の知らせかな? 受話器を取った国鉄職員はかすかな期待を抱いたかも知れないが、耳に飛び込んできたのは、さっきよりも一層切羽詰まった叫び声であった。

「火が消えない! すぐに救援列車をよこしてくれ。今、トンネル内では火災車両からの延焼を防ぐために、食堂車と客車を切り離しているところだ!」

 おいおい、消火完了どころか悪化してるみたいだぞ。これはもう、国鉄だけで処理するのは無理だ。消防を呼ぶしかない!

 というわけで、敦賀美方消防組合に連絡が入ったのが午前1時51分のこと。しかしその通報の内容は、まことに要領を得ないものだった。

国鉄「あのー、トンネルで火事が起きたんすけど」
消防「なんだって! 燃えているのは客車ですか、貨物車両のほうですか」
国鉄「客車だけど、詳しいことは分かりません」
消防「燃えているんですよね?」
国鉄「分かりません」
消防「乗客は?」
国鉄「分かりません。もういいでしょう、ガチャン」

 なんだか、昔テレビ特捜部で紹介していた海外番組を思い出すやり取りである。ご存じであろうか、意味もなく素っ裸のお姉さんがニュースを読み上げるというもので、その台詞がケッサクなのだ。「今日、火事がありました。原因は、不明です」。

 話を戻そう。第一報を聞かされた時、消防隊員が真っ先に思ったのは「恐れていたことが現実になった」ということだった。実は消防は、北陸トンネルではそのうち大火災が発生するのではないかとヒヤヒヤしていたのだ。

 北陸トンネルは当時の科学技術の粋を集結させた電気式トンネルで、そんな最新式の建造物で火災など起きるわけがない――と国鉄は豪語していた。しかしこのトンネル、見る者が見れば、ひとたび火災が起きると大惨事に発展しかねないとんでもないブツなのは明らかだった。なにしろ長大なくせに消火設備も排煙装置もまったく存在していなかったのだ。よって、それまでも消防は再三警告していたのだが、それに対し国鉄は完全に黙殺を決め込んでいたのである。今回、通報を受けた消防にしてみれば「いわんこっちゃない」といったところだったろう。

 とにかく、出動せねばならない。消防設備の一切ない長大トンネルでの火災では、未曾有の大惨事に発展する可能性だってある。もはや事態は裸のお姉さんのニュース番組どころか、まるきりレスキュー911である。隊員たちは第1・第2分隊のポンプ車なども一緒に繰り出して、さっそく現場に向かった。

 この時、一人の隊員が関係機関への情報伝達掛として留守番を命じられている。それで彼はさっそく情報収集のため国鉄の各関係機関に連絡を取ったのだが、この時のやり取りもまた大変に面白おかしいものだった。

消防「もしもし。列車は燃えているんですか? 乗客はどうしてますか」
国鉄「トンネル内の様子は分かりません」
消防「消防隊員が中に入らないといけませんね?」
国鉄「いえ中に入るには許可がいります」
消防「そういう問題じゃないでしょ」
国鉄「でもまあ、トンネル内で停車してるってことは、別に燃えてはいないのかも」
消防「えっそうなんですか?」
国鉄「いえ分かりませんけど」
消防「(イライラ)消防隊は、すでにトンネルの敦賀口に出動しています。国鉄も責任者を派遣して下さい」
国鉄「でも今ここに責任者はいないんで……」

 もはや漫才である。

 この、清々しいほどの連携のなさが、後の救助活動にも大きく影響してくるのである。

 

   2・立山3号

 

 さて、ここで場面は変わる。

 前段まではトンネルの敦賀駅側の初動について記したわけだが、今度はトンネルを挟んで反対側の動向を記すことにしよう。こちらの最寄り駅は今庄駅である。「今庄側」といった形で記述させて頂く。

 きたぐにが緊急停止してまだ間もない、午前1時30分から40分頃のことである。今庄駅から北陸トンネルに向かって走行していた列車があった。

 その列車の名は、上り急行列車「立山3号」。

 これが時速50キロでトンネルに進入していったのである。だが、中に入った直後に乗員が異常に気がついた。信号機が赤になっていたのだ。

「おかしいな、なんでこんなところで赤に?」

 いつもならここは青である。奇妙なことだった。

 とりあえず列車を停止させて、立山3号の運転士はしばらく待ってみた。トンネルは静かだったという。声もなく、逃げてくる者もなく、煙もない。この時点ではまだ、外からトンネル内の様子を窺い知ることはできなかった。

 さてしかし、立山3号の乗員にはそんな事情は知る由もない。それでついに痺れを切らして敦賀駅に連絡を取ってみたところ、たまたま傍受した電波の内容に彼らは驚愕した。トンネル内からの悲痛な叫びが耳に飛び込んできたのだ。

「北陸トンネル内で火事です。早く救援列車を――!」

 きたぐにの乗員が救援を求めていたのだ。

 ちょうど、敦賀・今庄の両駅に対して第一報がもたらされたタイミングだったのである。立山3号はそれを傍受したのだ。

 こいつは大変だ、放っておけるわけがない! 立山3号はそこに留まることにした(これが独自の判断だったのか、それとも駅と連絡を取りながらだったのかは不明)。

 電波の傍受によって、トンネル内の状況は大まかに把握できた。現在、きたぐにはトンネル内で消火作業と車両の切り離しを行っているという。なるほど、それはまさにマニュアル通りの正確な対応だった。

 また、信号を赤に変えたのもきたぐにの乗員に違いなかった。別の列車がトンネル内に進入しないように、軌道短絡器で線路の電流をいじったのである。この緊急停止の措置も、事故発生時の対応として実に正確なものだった。

 

(※ちなみに気付かれた方もおられると思うが、この列車停止の措置を取らなかったために大惨事となったのが土浦事故三河島事故である)

 

 しかし、である。待てど暮らせど、トンネルからは誰も出てこない。乗客乗員は無事なのだろうか? 中の様子は一体どうなっているのだろう――?

 立山3号の乗員たちは、さぞやきもきしていたことだろう。考えてみれば立山3号にも乗客はいたのだから、状況が分からず文句のひとつやふたつ言われたかも知れない。だがとにかく立山3号はじっと待った。

 再びトンネル内からの電波が傍受されたのは、赤信号で停められてから20分が経った午前1時55分のことである。しかしその内容を聞いた乗員たちは、たちまち背筋を凍らせた。それは、きたぐにが最悪の状況に陥ったことを告げるものだった。

「停電だ、停電してしまった。これじゃ列車が動かせない! 電気を送ってくれ!」

 よりによって停電の発生である。これでは、せっかく車両の連結を切り離しても、電気が通っていないのだから動かしようがない。きたぐには完全にトンネル内で立ち往生したのだった。

 そこで電波が途切れた。トンネル内から必死に送電を訴えていた声が聞こえなくなっていく――。

 まずいぞまずいぞ、何かいい手はないか! 立山3号の乗員たちは動揺したことだろう。だが午前2時1分、ようやく動きがあった。それまで赤だった信号が、なぜか突如として青に変わったのだ。

 あれ? なんだこれ。進んでいいのか?

 立山3号はライトでトンネル内を照らしつつ、徐行で前進してみた。すると5キロほど進んだ地点で、線路上に人がいるのを発見。慌てて停車した。

「きたぐにからの避難者だ。こっちに引き上げろ!」

 時刻は午前2時3分。それはまさしくきたぐにの乗客だった。それも1人や2人ではなく、トンネルの奥から続々とやってくる。煙に追われながら、命からがら脱出してきた人々だった。

 赤信号がひとりでに青信号に変わったのは、この乗客たちが原因だろうと言われている。彼らのうちの誰かが、線路上の軌道短絡器を蹴っ飛ばしたのだ。

 記録によると、ここで立山3号によって救助されたのは225名。立山3号の乗員乗客で力を合わせ、この被害者たちを車内へ助け上げたのである。彼らは皆、煤と汗で顔を真っ黒にしており、そしてなにより水を求めていたという。

 ところでちょっと付け加えておくと、資料によってはここでの救助者数が「5、6人」となっているのもある。だが、これは明らかに何かの間違いであろう。225人のうち5人は死亡したという記録があるのでその数字を取り違えたか、あるいは立山3号が最初に見つけた数名を全てだと思い込んだと考えられる。

 しかし立山3号も、長時間の救助活動はできなかった。いよいよ煙が押し寄せてきたのだ。車両が完全に煙にまかれれば、いくら車内とはいっても危険である。よって225名を脱出した時点で列車は逆走し、トンネルから脱出した。

 トンネル内には、もっと負傷者がいたのかも知れない。だが彼らは置き去りにせざるを得ない状況だった。

 立山3号が幸運だったのは――すなわち、これによって救出された225名が幸運だったのは――、列車が停止した位置では停電が起きておらず、車両を通常通りに動かすことができた点であろう。おそらく、立山3号がある程度の段階でトンネルから脱出したのは、もたもたしているうちに火災と停電がこちらにまで及んでは元も子もない、という判断もあったのではないか。

 こうして、たまたま偶然現場に行き当たった立山3号は、ある意味命懸けともいえる状況で、ギリギリまで人命救助を行ったのだった。

 負傷者たちを乗せたこの車両は、そのままバック運転で武生という駅まで行き、乗客と負傷者を下ろした。そしてさらに、午前2時40分過ぎには今庄駅にも戻っている。

 これだけでも大した救出劇である。しかし、トンネル内に残ったきたぐにの受難は、まだ始まったばかりだった。

 

   3・来ない国鉄

 

 場面は、再びトンネルの敦賀側に戻る。

 午前2時。この時刻には、すでに敦賀美方消防の隊員たちがトンネルの付近に集結していた。出張所の隊員や非番の者もかき集められ、総勢80名が出動している。

 この段階では、トンネルの敦賀口から脱出してくる乗客などは皆無だった。敦賀側では「本当に火事なんて起きてんのか?」と問いたくなるような静けさだったのだ。

 しかしこの時、今庄口では立山3号による救助活動が始まっていた。火事なんて起きてんのかどころか、すでに一刻を争う状況だったのだ。

 ところが、である。どうしたことか、この敦賀口には国鉄職員の姿がまったくなかった。

「なにやってんだ国鉄!」

 消防が怒るのも当然である。消防長は、すぐにモーターカーを出動させて救助活動にあたるよう国鉄に要請した。ところが国鉄の回答はこうだった。

「あー無理無理。うち(敦賀駅)じゃ臨時に列車を走らせる権限がないんですよ。金沢鉄道管理局の許可が必要なもんで」

 これでは、通報を受けて駆けつけた消防隊員こそいい面の皮である。なんとかトンネル内に進入して、消防は消防で救助を開始しなければならない――。

 午前2時25分には、6人の保線掛がトンネル内への進入を試みている。しかし少し進んだところで猛煙に阻まれており断念。まともに中に入るのは不可能な状況だった。

 では、国鉄をあてにせず、なおかつ安全を確保できる救助方法はないものだろうか。そこで思いついたのが、「斜坑から進入する」という方法だった。

 

   4・斜坑からの救助活動

 

 さてこの段では、「斜坑」を利用した救助活動について説明させて頂こう。

 ここではさしあたって、本稿の参考資料のひとつである『なぜ、人のために命を賭けるのか―消防士の決断―』(中澤昭著・近代消防社平成16年刊)という書籍の内容に沿って記述していくことにする。

 ここで、わざわざ「この書籍の内容に沿って記述する」と前置きをするのには理由があるのだが、それは後述する。

 斜坑というのは、簡単にいえばトンネルに対するトンネルである。これを通って、トンネルに「上から」進入することができるのだ。

 トンネル工事の際には、土砂や機材を搬送するために別方向からそれ専用の穴が掘られる。これを斜坑とか竪抗とかいう。そして工事が終わった後も、修理や点検の際に使えるため、これらの穴は残される。北陸トンネルにはこれが3本あった。

「よし、それだ。そこから入って救助にあたるぞ」

 というわけで、消防隊は進入の準備を始めた。

 斜坑から救出活動を行うことについて、消防が独自に思いついたとは考えにくいから、おそらく保線員あたりが助言をしたのだろう。

 さて字面の通り、「斜坑」はトンネルに対して斜めに掘られている。「竪坑」のほうは垂直だ。となると、人間の足で進入するには斜坑のほうがいいことになる。消防は2本ある斜坑からの進入を決断した。

 まず消防長が、ようやく到着した国鉄職員4人と組み、計5人で葉原斜坑という穴から入る。それから、もう一方の樫曲斜坑からは、消防分隊長4人が入っていくのだ。

 進入する際、これらの斜坑からは、もう相当な量の煙が立ち上っていたという。

 さて、ここからは、主に葉原斜坑の話が中心になる。

 消防長たちが、長さ400メートルの葉原斜坑を抜けてトンネル内に下り立つと、そこは敦賀口から約4・5キロメートルの地点だった。

 一行は、まず今庄側から押し寄せてくる煙に襲われた。それでもめげずに100メートルほど進んでいくと、そこで4両の車両が停車しているのに出くわした。

 これは「きたぐに」後部の12~15両目にあたる車両である。内訳は普通車、グリーン車、郵便車、荷物車だった。この4両は火災直後に延焼を防ぐために連結を切り離され、そのままになっていたのだった。つまり切り離しがなされた時点では、11両目までが燃えていたのである。

 この、置き去り状態になっていた4両の中では、「100人以上」の乗客が閉じ込められて救助を待っていたという。彼らがただちに助け出されたのは言うまでもない。

 だがしかし、トンネルのもっと奥では、さらに残りの11両が煙に捲かれて立ち往生しているはずだ。その場所までは、距離にして200メートル。数字としては大したことはないが、トンネル内の煙は凄まじい。近づくのはちょっと無理だった。

 さらにその時、いやなタイミングで風向きが変わった。それまで今庄側に吹き抜けていた煙が、今度はこちらに押し寄せてきたのだ。これでは、現時点ではそれ以上の救助は諦めざるを得ない。

 とにかく、彼らは後部4両に閉じ込められていた乗員乗客を助け出した。そして、自分たちも同行しながら敦賀口へ避難させたのだった。

 救援列車とばったり出くわしたのは、その途中でのことである。この列車は国鉄がようやく出動させたもので、敦賀口から入ってきたところだったのだ。

 こうして、救助された人々と消防隊は、全員がそれに乗り込んでトンネルを脱出した――。

 と、以上が『なぜ、人のために命を賭けるのか』に書かれている救助活動の内容である。

 だがここまで記述しておいてなんだが、実はこれには矛盾や疑問点が多く、鵜呑みにできそうにない部分がいくつかあるのだ。

 結果だけを見れば、大きな矛盾はない。葉原斜坑から進入した消防隊がいたこと、後部4両に閉じ込められていた人々が救助されたこと、国鉄の救援列車で最終的に脱出したことなどは事実である。

 だが、その経緯の説明には問題があるのだ。先に結論を言うと、この『なぜ、人のために命を賭けるのか』という本は消防隊の活躍を強調しようするあまり、ところどころに嘘や誇張を交えているふしがある。そのため、国鉄の果たした役割などが極度に小さく描かれているのである。

 次の項目では、各種資料の内容を突き合わせて、この時実際にはどのような救助活動が行われたのかを検討していく。そこでは、さしあたりこの『なぜ、人のために命を賭けるのか』の内容を叩き台としていくことになるだろう。

 だが先に書いた通り、結果的に大きな間違いはないので、人によってはこうした検討作業は退屈なものに思われるかも知れない。事故の大まかな経過だけを知りたいという方は、次の項目は飛ばして頂いても結構である。

 

   5・「斜坑」の問題の検討

 

 そもそも、事故当時「斜坑」が果たした役割についても、資料によってまちまちなのだ。

 例えば、NHKが作成した『プロジェクトX』ではこの事故が取り上げられているが(2004年6月15日放送「第147回「列車炎上 救出せよ北陸トンネル火災」)、この番組内では、消防隊が進入する前に斜坑から自力で脱出してきた乗客たちがいた、とされている。

 この『プロジェクトX』も、筆者と同様に『なぜ、人のために命を賭けるのか―消防士の決断―』を参考文献としている。しかしこの参考文献のほうを見てみると、前述の斜坑からの脱出者のことは一切書かれていない。

 では他の文献はどうだろう。たとえば事故鉄道マニアのバイブルであり、当研究室でも参考文献として大いにお世話になっている『事故の鉄道史』では、斜坑からの救助者はいなかったのではないかと述べており、よってここからの救助活動は行われなかったのだ――と結論を下している。事故の査察報告書にはその記述が見受けられなかったためだ。

 さらに訳が分からないのは、当時の国鉄総裁・磯崎叡の国会答弁(1972年11月10日)の内容である。この人は、斜坑は避難路としては全く役に立たなかったと述べている。

 その上、である。これは『事故の鉄道史』からの孫引きになるのだが、11月6日の毎日新聞の夕刊では、「誰かが出口を閉じてしまったことで、斜坑は脱出口としては使えなくなった」という旨の報告がなされているという。

 いやはや、ひどい混乱ぶりである。

 だが、これらの資料を読み込んでいくと、当時実際になにがあったのかを読み解くのはそう難しくない。以下では、筆者の「読み解き」を述べていこうと思う。

 まず大前提として、斜坑からの救助活動そのものは行われたのだと思う。消防隊員や国鉄職員がそこから進入し、トンネルに取り残された人々を助けに行ったのはおそらく本当なのだ。

 まず『事故の鉄道史』では、この点からして疑わしいと書かれていた。だがそれは、事故の査察報告書のある部分では「斜坑からの救助者がいた」と書かれており、別の部分ではそれが書かれていないから、だからそういう結論が下されただけのことだ。

 しかしこれを「救助者」ではなく、自力で避難してきた「避難者」と考えればどうか。つまり当時、自力で斜坑から避難してきた人は確かにいたのだが、消防隊や国鉄職員によって斜坑から「救助」された人はいなかったのだ。

 つまり『事故の鉄道史』が参考にしている資料では、斜坑から自力で避難したものを「救助者」には含めていないのである。救助活動自体は行われたのだ。

 では、救助隊が進入したあと、トンネル内では何が起きていたのだろう。

 ここで我々が突き当たるのは、『プロジェクトX』と『なぜ、人のために命を賭けるのか』の矛盾である。

 まず『プロジェクトX』だが、こちらでは、斜坑から入った救助隊が「すぐに」救援列車に行き当たったとされている。この救援列車は、きたぐにの後部4両からの救助活動をすでに終えていた。

 そこで消防隊が「トンネル内にもう乗客はいないのか?」と尋ねたところ、国鉄職員は「もういません」と答えたのだった。それで消防隊も安心して救援列車に乗ったのだが、これによって、トンネル内に多くの乗客が取り残される羽目になったのだ。

 では『なぜ、人のために命を賭けるのか』では、ここの所はどう書かれていたか。斜坑から進入した消防隊はさっそく人命救助にあたったが、煙がひどくて奥へは進めず、取り残された人がいるのを分かっていながら泣く泣く退散した――ということになっている。そして帰りに救援列車に出くわしたのだ。

 明らかに矛盾である。救助隊と救援列車の到着した順序が正反対なのだ。さあ、本当はどうだったのだろう。

 筆者の考えをズバッと書かせてもらうと、信憑性が高いのは『プロジェクトX』のほうだと思う。

 なぜなら――詳細は後述することになるが――ここで一度救助活動が行われたあと、しばらくしてから、トンネル内に取り残された乗客がまだいることが判明しているのだ。それで国鉄は真っ青になって、慌てて救援列車の第2弾を出動させているのである。この辺りの動向は他の資料でははっきり書かれていないが、どうもこれは本当らしい。『事故の鉄道史』でも、乗客がトンネル内に取り残されている、という通報が4時40分頃にあったとされている。

 また、敦賀側から進入した最初の救援列車が、救助を終えて敦賀駅に戻ったのは4時26分のことだった。しかし、次に敦賀側から救援列車が出たのが6時43分で、いくらなんでも遅すぎるのである。

 おそらく国鉄は、最初の救助活動だけで安心してしまったのだ。今庄側で立山3号が救助活動を行っていると聞き、もう自分たちはこれ以上の救助活動をしなくてもいい、と思い込んだのである。

 だから正しいのは『プロジェクトX』の方なのである。トンネルの奥にはまだ多くの人が取り残されていた。しかし勘違いした国鉄と、それを鵜呑みにしてしまった消防はのこのこ帰ってしまったのだ。

 先に書いた通り、『なぜ、人のために命を賭けるのか』はどうも信用できない文献なのである。どのくらい信用できないかというと、まあ読めばわかる。とにかく誤字脱字だらけでとても見られた文章ではなく、まともに校正されていないのがモロ分かりなのだ。ならば事実関係の照合だってまともになされてはいないだろう。

 当研究室で、この本を資料として採用したのは「ネタ」あるいは「悪い例」と考えて頂いて結構である(笑)

 さてそうなると残る疑問は、「斜坑は救助活動の役に立たなかった」という記述や証言は一体なぜ生じたのか? ということである。だがこれに対し回答するのは、ここまでの推理を踏まえればおそらくそう難しくはない。

 斜坑は、乗客自身による「避難」には使われた。しかし消防隊や国鉄による「救助」には使われなかったのである。この「使わなかった」が、素朴に「使えなかった」ことにいつの間にか変わってしまったのではないだろうか。

 それに、少し意地悪な想像になるが、「そもそも斜坑は使えなかった」ことにした方が、国鉄にとっても都合が良かったのではないだろうか。そうすれば、トンネル内に取り残された人がいるのに気付かずにそのまま立ち去ってしまったことへの非難も避けられる。そしてもちろん、斜坑の入り口を閉じてしまったことへの非難だって――。

 斜坑の問題については、以上である。

 実を言えば、筆者ははじめは全然違う結論を想像していた。斜坑が、葉原斜坑と樫曲斜坑の2本あったことは先述したが、例えば片方が救助に使えなかったりしたため、資料の記述に矛盾が生じたのではないかと考えたのだ。

 そう考えたのも故なきことではない。参考資料において、「斜坑」と書かれているのが葉原斜坑なのか樫曲斜坑なのか、はっきりしないことが多かったのだ。まあ大抵は葉原斜坑のことがメインに書かれているようなのだが。

 ここではとりあえず「葉原か樫曲か」という問題はおいておいて、上述の推理を一応の結論としておきたい。

 

   6・国鉄の動向

 

 ここまでは消防隊の救助活動を中心に書いてきた。では、通報を受けたあと、国鉄はどのように動いたのだろうか。時間的に少し前後するが、ここからは視点を変えて記述していくことにしよう。

「がんばれ国鉄」である。通報を受けた後、国鉄も決して手をこまねいていたわけではない。ありがちな縦割り体制の中でのもたつきはあったが、ちゃんと救援に向けて準備を進めていた。

 記録では、最初の救援列車が敦賀駅から出動したのは午前2時27分から43分の間となっている。モーターカーが客車4両を牽引する、立派な列車だった。

 1972年11月10日・国鉄総裁磯崎叡の答弁によると、救援列車の運転は2時27分から始まっている。またウィキペディアによると、救援用モーターカーの出動の許可が下りたのが2時半で実際に出動したのが2時42分。さらに『事故の鉄道史』と当時の国鉄運輸局長・鈴木宏の証言によると出動が2時37分。ウェブサイト「失敗百選」では2時43分である。嘘つきばっかりで、どれが嘘なのかすら分かりゃしない。

 2時30分の時点で、すでに最初の通報から1時間が経過していた。また立山3号も救助活動をひと段落させて退却するところで、さらに消防隊も痺れを切らして斜坑からの進入を決行している。敦賀側からの救援は、すっかり出遅れていた。

 ライトで煙と暗闇を切り裂きながら、国鉄戦隊ゴーゴーファイブは奥へ奥へと進んでいった。「待ってろよ♪(ゴーファイブ)生きてろよ♪(ゴーファイブ)」という感じである。もっとも救助隊は10人くらい乗り込んでいたそうだが……。

 途中、この救援列車は、命からがら逃げてきた乗客に出くわしている。

「あっ停まれ、人がいるぞ」

 10人ほどの乗客が、線路上を避難していたのだ。救援列車が助けようとすると、彼らは「自分たちはいいから早く奥へ」と見送ったという。

 このように、比較的早い段階で、自力で脱出した人も何人かいたようだ。先述の、斜坑から脱出してきた人たちもそうだし、また『プロジェクトX』では、消防が斜坑から入る直前、トンネルの敦賀口から徒歩で出てきた者が何人かいたとされている。

 救援列車はさらに進んでいった。

「おい停まれ、前になにか見えるぞ」

 途中で救援列車が見つけたのは、貨物列車だった。

 実は、きたぐにが火災を起こして立ち往生した後、敦賀口からトンネルに進入していった貨物列車があったのだ。これは、きたぐにの乗員による緊急停止の措置で停められたのだが、その後停電になってしまったせいで、きたぐにに続く形で立ち往生してしまったのだった。

 この貨物列車によって行く手を塞がれている以上、救援列車も先へ進むことはできない。国鉄の救助隊は、列車から下りて奥へ向かった。

 まず、この貨物列車の先にあったのが、例のきたぐにの後部4両である。救助隊が駆け付けた時、車内からは歓声があがったという。

「助けに来てくれたぞ!」

 中にいたのは、まず乗員は車掌が4人、鉄道公安員が2人、荷物掛が3人だった。では乗客の数はどうかというと、これは資料によって50人とか70人とか80人とか100人とか書いてあってどれもあてにならない。まあとにかくそんな感じの人数だったらしい(なげやり)。

 この4両に取り残された人々にとって、乗員が比較的多くいたのは幸運だった。乗員たちが機転を利かせて、煙が入って来ないように窓や扉、通気口を全て閉じるという措置を取っていたのだ。窓や扉はともかく、通気口までをも塞ぐというのは、国鉄職員ならではの機転だったことだろう。

 こうして第一救援列車は、この4両に乗っていた人々を全員助け出した。

 この時、救援列車に乗っていた国鉄職員たちは、さらに奥で停止しているはずの前部11両についてどう認識していたのだろう? 切り離された車両が煙地獄の中で立ち往生しているのは知っていたはずだし、そこでさらに取り残されている人たちがいることも分かっていたはずである。立山3号が今庄側から救助してくれていると楽観していたのだろうか? そうかも知れない。あるいは、それに加えて「煙がひどくてこれ以上先に進めない」ことを自分自身に対する言い訳にしてしまったのかも知れない。

 とにかく、この第一救援列車の救援部隊はその先へは進まなかった。そしてあろうことか、「こちら側からの救援はこれで終わった」と結論付けたのだった。

 彼らは敦賀駅への帰り道に、斜坑から進入した消防隊と出くわした。そこで「これにて一件落着」を告げたのは、前節で記した通りである。

 第一救援列車が敦賀駅に到着したのは、4時26分のことだった。

 なんだかやけに時間がかかっている気がするのだが、どうなのだろう。トンネルから敦賀駅まではそんなに距離があるのだろうか。だがまあ、この列車は、トンネル内で立ち往生していた例の貨物列車を牽引してきたというから、その連結のための作業で手こずったのかも知れない。とりあえずこの4時26分という時刻は、運輸局長の国会答弁でも『事故の鉄道史』でも一致しているので間違いないようだ。

 あるいは、負傷者たちを病院に搬送するのに時間がかかったのかも知れない。国鉄総裁の証言によると、3時半には国鉄のバス3台を動員し、トンネルの入り口に待機させて病院へピストン輸送を行ったという。だから、第一救援列車で救助された数十名はそれで運ばれていったのかも知れない。そして空になった救援列車が敦賀駅に到着したのが4時26分だった、とか……。

 まあそのへんは、想像である。

 とにかく、時刻は午前4時26分。敦賀駅に列車が帰着した時点で、救助活動はもう完了したはずだった。

 寝耳に水の通報が入ってきたのは、4時40分のことである。トンネル内の非常電話から男性が連絡してきたのだ。

「トンネル内にまだ取り残されている。早く救助に来てくれ!」

 というわけで真っ青になった国鉄は、慌ててもう1本の救援列車を出すことになった。

 ひどい話である。トンネル中央部では、乗員乗客が4時間弱もほったらかしにされていたのだ。火災の熱気と煙が充満する地獄の中で、である。

 この時には、トンネル周辺は騒然としていた。マスコミ各社も集まってきていたのだ。国鉄、消防、マスコミたちは、北陸トンネルの中へこぞって突入していった。

 

   7・今庄側からの救援活動

 

 ところで、今庄側の救助活動はどうなっていたのだろう? 立山3号による救援の後、どのような動きがあったのだろうか?

 これは結論を言うと「よく分からない」のである。お前本当にルポルタージュ書く気あんのかと言われそうだが、本当によく分からないのだから仕方ない。

 立山3号が偶然に救助活動を行い、今庄駅に戻ったのが2時40分(ウィキペディアによる。ただしこの「戻った」が、「戻っていった」のか「戻ってきた」のかは不明)。この後、今庄側からは確かに救援列車が出動している。しかしその発車時刻は4時10分と、かなり時間が空いている。

 本当にこれだけだったのだろうか? 他にも救援列車は出なかったのだろうか? だが実は、当時の新聞報道などをチェックしてみると、敦賀側から取材された内容が圧倒的に多いためはっきり分からないのである。今庄側の救援の動向について報じたものはほとんどないのだ。

 よって、ここは推測するしかない。

 まず、そもそも報道が敦賀側に偏っていた理由だが、これは単純にマスコミも「取材できなかった」からであろう。当時、トンネルの今庄側は煙の噴出口となっていた。

 当時のトンネル内の煙の様子を見ると、火災が起きて以降の数時間は、敦賀から今庄に向けて風が吹いていたのである。このことは他の資料にも書いてあり、よって敦賀側からの救援活動はスムーズに行われたのだ。だがそれは、逆に言えばトンネルの今庄側が煙の出口になっていたということだ。それで、救援や取材どころか進入自体ができなかったのではないか。

 またもうひとつ、考えられることがある。実際にはかなりの本数の救援列車が動いていたのだが、混乱のためうやむやになってしまったのではないか、ということだ。

 資料を読んでいくと、多くの場合、救援列車は全部で4本出動したと書かれている。当時の新聞を確認しても、確かに敦賀から3回と今庄から1回ずつ救援列車が出たとあるのだが、実はひとつだけ、これと矛盾する内容の資料があるのだ。

 それは、当時の国鉄運輸局長の国会答弁である。この答弁において、救援列車は敦賀側と今庄側からそれぞれ5本ずつ出動しており、合計10本動いたと述べられているのだ。一体どういうことなのだろう?

 そこで、こんな想像ができる。出動したものの、猛煙のため救助活動に至らなかった「暗数」があったのではないか。あるいは、出動した4本の救援列車が計10回往復して、トンネル内の人々をどんどん運び出したのかも知れない。

 この仮説については、傍証がないわけでもない。最初、筆者もてっきり今庄側から出動した救援列車は1本だけだと思っていた。それでその出動時刻を調べてみたところ、国鉄運輸局長は4時10分と述べており、新聞では5時半とされており、『事故の鉄道史』では5時と書かれていたのだ。ここまで無茶苦茶だと、救援列車は1本ではなく複数回出たと考えたほうが妥当ではないだろうか。それらは煙のためトンネルの途中までしか入れなかったか、もしくはトンネル進入そのものを諦めざるを得なかったのかも知れない。

 以上を踏まえて、今庄側からの救援の動向について改めて書かせて頂こう。記録によると、まず先述の通り4時10分には、ディーゼル機関車と貨車10両で編成された救援列車が今庄駅を出発している。これは160人の負傷者を収容し、7時26分に戻ってきた。

 この列車の救援活動も、簡単ではなかったようだ。トンネル内の猛煙のため事故現場には到達できず、事故車両の手前で停止した。そして防毒マスクをつけた50~60人の作業部隊が線路に降り立ち、救助を行ったという。

 また別の資料では、4時45分に10人の機動隊がトンネルに入っていったとある。もちろん防毒マスク付きだ。

 さらに5時半にも別の救援列車がトンネルに入っていった。これには機動隊員15人が乗り込んでいたが、トンネル進入後5キロほど進んだ地点で猛煙のため退却している。その途中、徒歩で避難していた負傷者を何人か救助し、7時にはトンネルを出た。

 ……5時半に出発して7時にトンネル脱出って、先に入っていった救援列車と完全にブッキングしてるんだけどね(笑)まあそれは見なかったことにしよう。

 そして午前8時10分以降になると、いよいよ煙の噴出は激しくなり、これ以降およそ2時間の間、救助活動は完全に不可能となった。午前10時には、今庄口から15メートルの地点で一酸化炭素の濃度が400PPMにも及んだというから、これはちょっとした毒ガス攻撃である。

 最終的な結果として、トンネルの今庄側からは160名が救助された。しかし、このうち9名が亡くなったという。

 

   8・救援列車ふたたび

 

 さあ、いよいよ敦賀側から2度目の救援列車の出動である。

 なんてこった、中心部に取り残された人たちがいるのをほったらかしにしてきちまった――! この時の国鉄と消防の焦りは相当なものだったろう。そうでなきゃおかしい。長く暗く寒いトンネル内で、人々はもう3時間以上も置き去りにされていた。

 だが、気付いたからハイ出動、といくわけにもいかなかった。何故なら、トンネル内の一定の場所から先は煙地獄であることがすでに分かっている。そこでは、いかな訓練を積んだ消防士でも命が危うい。

 そこで、国鉄が必死こいて第2救援列車の準備を整えている間に、消防隊は特別救助隊の編成と、それによるトンネルへの突入を決断した。本部勤務を命じた留守番隊員までをも呼びつけて、選りすぐりの5人の精鋭部隊に命令を下したのだ。

 選ばれた隊員のほとんどは、独身の男性だったという。この救助活動で万が一のことがあっても悲しむ者ができるだけ少ないように――という哀しい配慮だった。

 そうこうしている間に、敦賀駅からの第二救援列車がトンネル付近に到着した。消防隊はそれに乗り込む。

 時刻は午前6時43分。樽弓清一敦賀駅運輸長の指揮のもと、保線区員、敦賀消防署員、鉄道診療所員、看護婦ら約40人を乗せ、第2救援列車はトンネル内へ突入していった(『なぜ、人のために~』では6時39分とある)。もう火災発生から5時間が経過していた。

 それにしても考えてみると、救助する側も本当に命がけである。

 この第2救援列車は、結果的には救助活動において一番大きな働きをした。だがそれは、あくまでも煙が今庄側にうまく吹き抜けてくれていたからである。救助隊員が列車から下りて救助を行っている間に風向きが変われば、大規模な二次災害を引き起こす可能性だってあった。――ミイラ取りがミイラ、という奴だ。

 そんな状況の中、救援列車は何度も一時停止を繰り返しつつ、慎重にトンネルの奥へ奥へと進んでいった。

 そして責任者である運輸長は、ある地点から消防隊の下車とさらに先への進入を指示した。いよいよである。

 下車した隊員たちは、予備の酸素ボンベを手にし、呼吸器を装着しながら奥へ進んでいく。しかしこれらの器具は負傷者のために使う必要があり、隊員たちは無駄遣いもできない。

「いいか、我々はこの呼吸器を使ってはいかん。そして絶対に単独行動も取るな。生きて帰るぞ!」

 救助隊が先行して走り、後ろから救援列車が徐行していく。

 やがて、列車のライトがきたぐにの後部4両の影を捉えた。それはさっき、第一救援列車によって救助がなされた車両である。空っぽだ。

 この先である。この先に、取り残された人たちがいる――。

 きたぐにの後部車両4両に阻まれる形になったため、救援列車はそこから先へは進めない。あとは人海戦術である。

 さらに数百メートル先の猛煙の中へ、消防隊員たちは突入していく。そこはすでに火災の中心であり、敦賀口から5.1キロの地点だった。
 

(「北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)下 へ続く)

 

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