目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)

 1950年(昭和25年)4月14日、神奈川県横須賀市で発生した事故である。

 時刻は午前11時30分頃。一台の大型バスが、横須賀市林5丁目11番地の国道134号線を走っていたところ、これがいきなり火を噴いたのだ。

 このバスは、横須賀駅発・京急三崎行き京浜急行のトレーラーバスだった。当時の乗客は50人ほどだったと言われており、そしてそのうち16人から17人が即死したという。ただし『横須賀市史』によると19人とも記述されているらしく、おそらく後で死者が増えたのだろう。

 火災の原因ははっきりしていた。生存者の証言によると、当時のバス内には、「こも」をかぶったガソリン缶らしきものが置いてあったというのだ。車内もなんとなくガソリン臭く、あげくそれに引火したのである。

 公共の場所に危険物が持ち込まれていたというだけでも時代を感じさせるが、引火した原因はそれ以上に「いかにも戦後だなア」と思わせる。このガソリンは、一人の乗客が闇売りの目的で所持していたものだった。そこに、別の客が煙草をポイ捨てしたせいでぽぽぽぽ~ん、と引火してしまったのだ(公共交通機関の車内で煙草のポイ捨て、というのも時代を感じるなあ)。

 うおっ、なにしやがる! アチアチアチチ! 持ち主の乗客は慌てて缶を外に捨てようとしたが――ここで外に捨てられてもやっぱり大惨事になっていたような気もするが――このトレーラーバスの窓には鉄の枠がはめ込まれており、それは不可能だった。そして悪いことに車内は木造。床に投げ捨てられたガソリン缶は、火炎を車内にまき散らした。

 さあ、なにしろものがガソリンなのでタダで済むわけがない。大火事である。通報を受けた警察、消防団、そして進駐軍が現場に駆けつけた。だがその時すでに現場のバスは消し墨状態で、焼死者はもはや男女の区別も判然としないような有様だった。負傷者は、病院や交番や付近の民家に担ぎ込まれて治療を受けたという。

 そして冒頭に書いた通りの犠牲者数となったわけだが、ここまで被害が大きくなったのには、当時の交通・輸送状況の事情と、それにトレーラーバスそのものの構造にもその原因があった。

 この事故のタイトルのみならず、ここまでの文章の中でも「トレーラーバス」という名称をずい分使ってきたが、読者の皆さんはトレーラーバスという乗り物がどんなものなのかご存知だろうか。

 終戦直後というのは、とにかく大量輸送が重要視された。なにせ戦争による破壊で交通機関が大ダメージを受けているから、少ない車両や船舶でより多くの人や物を運搬しなければならない。それはバスについても例外ではなく、戦後しばらくの間のバス車両製造は「いかに大型化するか」というテーマに焦点が合わせられていた。

 そこで、いち早く大型バスの製造と生産に乗り出したのが日野産業である。日野は終戦直後の1946年にはトレーラートラックT10/T20型を開発しており、それをベースにして作られたのがトレーラーバスだったのだ。

 トレーラートラックというのは、日本語で言えば「貨物牽引車両」のことである。運転席となる先頭車両と荷台部分とが切り離せるようになっているタイプだ。

 現在の日本でも、運転席後ろの荷台部分に貨物を乗せて走るセミトレーラーはごく普通に走っているが、当時のトレーラートラックはもっと豪快かつ単純だった。先頭の運転車両が、車輪付きの客車や荷台をゴロゴロと引っぱって進むという形態だったのだ。

 さらには終戦直後らしく、軍用車両の部品が各部に用いられたという。

 そして、このようなトラックをもとに造られたトレーラーバスは、まさに大量輸送時代のニーズに応えるものだった。一台で90人から100人が収容でき、しかしでかぶつの割には小回りが利くのも良かった。こうしてこのタイプのバスは、戦後の象徴と呼ばれてもおかしくない勢いでたちまち普及していったのである。

 今、筆者の手元には当時のトレーラーバスの写真がある。それを見ると、なるほど犬の頭のような形の先頭車両が、電車の車両にしか見えない巨大な箱型の客車を牽引しており、なかなかユニークな形であると思う。そして巨大で、今の時代の目線で見ると新鮮である。

 しかし今回ネタにされているこの事故事例では、トレーラーバスの構造が完全に災いした。このバスは運転席と客車が完全に分離しているから、客車でトラブルがあっても運転手は気付きにくいのだ。よって、火災が起きてからも運転手はごく普通にバスを走らせており、火の車になったバスがしばらくの間街中をブロロロと普通に走り続けていたのだった。なんと申しましょうか、この世のものならざる光景である。

 もちろん運賃の精算の関係もあるだろうし、客車には車掌がいた。そして運転席に連絡するためのブザーもあった。だがおそらく、ガソリンに引火して一瞬で猛火に包まれたであろう車内では、誰もブザーを鳴らす余裕はなかったのではないだろうか。

 トレーラーバスは、この後、急速に姿を消していくことになる。歴史的には、新たに登場した単体型バス(運転席と客席が一緒の車両にある、今の形態に近いバス)に主役の座を取って変わられたことになっているが、おそらくこの横須賀での火災も多いに影響しているに違いない。

 さらに、この事故が影響を及ぼしたのはバスの流行だけではなかった。旅客・運送にまつわる関係法令がこの直後に改正され、ガソリン類を始めとする危険物を車内に持ち込むことが禁止されるようになったのだ。

 しかし、あらかじめ年表を見ていると分かるのだが、その後もバスの中の危険物から出火して大事故に至るケースは後を絶たなかった。現在のように、人々が当たり前のように安全にバスに乗れるようになるには、まだいくつかのステップが必要だったのである。

 事故現場には「殉難者供養塔」が建てられたというが、今も残っているかどうかは不明である。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウェブサイト『三浦半島へ行こう!』
http://miurahanto.net/index.html
◇鈴木文彦『日本のバス年代記』グランプリ出版 1999年
◇社団法人日本バス協会『バス事業100年史』2008年

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物部川バス転落事故(1950年)

 1950年(昭和25年)11月7日のことだ。

 時刻は午後6時50分。場所は高知県香美郡美良布町、橋川野という地域である。国道195号線を走っていた国鉄バスが64メートル下の物部川に転落したのである。

 64メートルとは、また物凄い高さだ。

 これでタダで済むわけがない。33人が死亡、25人が重傷を負い、4人が軽傷を負う大惨事となった。遺体の引き上げや救助の作業もロープを用いざるを得ず、大変難航した模様である。

 事故原因はなんだったのかというと、これがまたトンでもない話で、よりにもよって「酒酔い運転」だったのである。事故当日は現場から西にある山田町で秋祭りが行われており、それで21歳の運転手も酒をかっくらっており、直前にはジグザグ運転を繰り返していたというから恐ろしい。乗客の中には、身の危険を感じて途中下車した者もいた。

「なんて運転手だ! いくら祭りでも飲酒運転するなんて!」

 とまあ、多くの人が思われるだろうが、どうも悪いのはこの若い運転手ばかりではないらしい。この事故が起きた大栃線というバス路線では、祭りに限らず飲酒運転が常態化していたようなのだ。

 事故当日も例外ではなかった。事故を起こした土佐山田駅~在所村間の路線の運転手は、全員もれなくアルコールが入っていたのである。「11月は秋祭り~で酒が飲めるぞ~♪」というわけだ。

 いつ誰が事故を起こしてもおかしくない状況だったのである。現に、運転手の酩酊ぶりがあまりにひどかったため1本遅らせてバスに乗ったところ、この度の転落事故に遭遇してしまった――という不運な乗客もいた。

 さらに、当時のバス内も尋常な状況ではなかった。このバスは高知市の官公庁や通勤者も多く利用しており、それに加えて当時は祭りの客もいたものだから車内は超満員、乗客数も限界の2倍を超えていたというからまるで買出し列車である。ちょっとでもバランスを崩せば一巻の終わりという状態だったのだ。

 こうやって当時の状況を見てみると、事故を起こした21歳の運転手は「ババを引いた」形だったということが分かる。

 事故後、彼は「発車の少し前にコップ1杯ほどの酒を呑んだだけで、日ごろ腕に自信があったので運転したが、こんな結果になって申し訳ない」と謝罪したという。これだけ読むと若気の至りという印象を受けるが、真相が分かってみると哀れと言うほかはない。

 地図を見ると、祭りが行われていた山田町からバスの終着点である大栃までは、物部川と国道はぴったりと並行している。乗車率200パーセントのバスが飲酒運転でこんな道路を走っていたのだから、これはまったく恐ろしいお祭りである。

 さてバスが走った国道195号線の脇の山腹には宝珠寺という寺があり、事故後にここの住職が現場付近に供養塔を建てている。ちょっとネットで検索すると写真を見ることができるが、地蔵菩薩と一緒に並んだなかなか立派なものだ。

 記録上は「忘れられた事故」ではあるが、限られた地域内でも、こうして地道に事故の記憶が受け継がれているのは喜ばしいことである。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア
◇個人ブログ記事『重大バス事故の歴史』

http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.html
◇高知県香美市『広報かみ』平成22年12月号
http://www.city.kami.kochi.jp/uploaded/pr/108_pdf3.pdf
◇個人サイト『高知県香美市香北町お宮、お寺、お堂をめ ぐる』
http://hanasakiyama.web.fc2.com/odou/index.htm

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埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)

 読者諸君は「踏切番」という職業をご存じだろうか。

 何もかもが機械じかけで動く現代では信じられないような話かも知れない。昔は、交通量の多い踏切には「踏切番」という人がついており、ハンドルのようなものを回して手動で遮断機の上げ下ろしを行っていたのだ。そして白旗を振って列車を通過させるのである。

 そういえばドラえもんの秘密道具で、小さな遮断機のような形態のものがあったように思うが(「通せんぼう」だったか「ふみきりセット」だったか定かでないが)、たしかそれにはハンドルがついていたはずだ。子供の頃それを見て、なぜ遮断機にハンドルがついているのかと奇妙に感じたので覚えているのだが、今にして思えば、あれは「踏切番」がいた頃の遮断機をイメージして描かれたものだったのだろう。

 今回の事故は、その「踏切番」にまつわる事故である。

 時は1950年(昭和25年)12月18日に起きた。時刻は不明である。

 場所は埼玉県大宮市、土呂の原市街道という場所にあった東北線の踏切でのこと。大宮発、原市町行きの東武中型バスがそこを通過しようとしたところ、時速80キロでやってきた列車と衝突したのだ。

 この事故によってバスは200メートルも引きずられ、乗っていた13人が死亡した。当時乗っていたのは運転手と車掌を合わせて15人だったというから、ほとんどが死亡したのだ。情報の少ない事故ではあるが、バスは相当の衝撃を受けたものと思われる。

 衝突した列車は、郡山発上野行き122列車。詳細は分からないが、どうやらくだんの踏切番が遮断機の操作にもたついてしまったらしい。そこへバスがやってきて、遮断機の下り切っていないのをいいことに突っ込んでいった結果、大惨事となったのだ。当時このバスは発着時刻に遅れが出ており、運転手は焦っていたという。

 おそらくこの事故に触発されたのだろう、12月23日の産経新聞の朝刊には「危ない踏切の現状」という記事が掲載された。

 それによると、当時の踏切番というのは、多くの場合、家族と一緒に「踏切小屋」という小屋に住んでいたという。かつて列車の保線の仕事をしていた人が、年を取ってこの職に就くケースが多く「安月給」だった(※)。

(※)参考資料には「踏切番の仕事は安月給で勤続20年でも家族5人で手取り8000円」とあるが、現代の目線から見ると安いのかそうでないのかいまいちよく分からない。まず給与の相場が分からないし、家族全員で働いているのかも不明だし、金額も月給なのか年間手取りなのかが明示されていないからだ。

 また仕事内容も、なかなかの重労働だったと思われる。24時間勤務で2交代制、踏切では列車が近付いてくるとベルが鳴ることになっているが、鳴らないことも多かった。よって実際には立ちっぱなしで、列車が来るかどうかは肉眼で確認していた。

 そして多くの踏切番は、この仕事をしつつ内職も手がけていたという。

 こういう書き方はアレかも知れないが、踏切番というのはいわゆる「底辺の仕事」だったのだろう。

 もっとも現代は現代で、踏切ではなく駅のホームや駐輪場で、人材センターあたりから派遣されてきたと思しき「見張り」の方々をよく見かける。そこらへんは踏切番とはちょっと違うけれど、とにかく駅といい踏切といい、鉄道というのは常になにかしらの「見張り」を必要とするものなのかも知れない。

 いかん、踏切番の話をしていたら、バス事故よりも鉄道事故の話のようになってしまったな。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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天竜川バス転落事故(1951年)

 1951年(昭和26年)7月15日、午後1時頃のことである。

 場所は静岡県磐田郡浦川町川合の県道だった。一台のバスが道路から20メートル下の天竜川へ転落し、死者21~30名、負傷者4名という大惨事が発生した。

 この事故の経緯は、どことなく後年の飛騨川バス転落事故と似ている。きっかけは悪天候で、国鉄飯田線の浦山-佐久間間の列車が不通になったことだった。浦山で足止めを食ってしまった乗客を、2台のバスに分乗させて運んでいる最中の悲劇だった。

 2台あったうちの国鉄臨時バスのうち、1台が急カーブを曲がり切れなかったのである。しかも地盤が脆くなっていたのも災いし、先述の通り天竜川へ転落。その上当時の天竜川は雨で増水しており、水深も10メートルに達していたというから実に間が悪い。バスはたちまち流され、水没し、ずいぶん長い間行方不明だったそうで、発見されるまでには3年の月を俟たなければならなかった。

 さてこの事故、最初に「死者21~30名」というひどく曖昧な書き方をしたが、それは上記のように事故車両がしばらく発見されなかったこととも無関係ではない。とにかく何もかもが水没してしまったせいで正確な乗客乗員数も犠牲者数もまったく分からず、報道機関はそれぞれ勝手に「推理」を働かせて犠牲者数を報じたのである。

 

新聞記者「編集長、犠牲者数が分からないっす!」
編集長 「バカお前、当時バスは満員だったんだろ。定員プラス乗員2名てことで37人乗ってたってことじゃないか。生存者は何人だ? 7人? じゃあマイナス7で犠牲者は30人だな」
新聞記者「ええーマジっすか、それでいいんですか? 生存者9名なんて情報もあるっすよ。乗員ふたりも助かったそうですし」
編集長 「だったら死んだのは28人か。いや26人? えいくそ、ややこしいな」

 ――翌日――

新聞記者「編集長、国鉄の発表がありました!」
編集長 「おう、それで正確な犠牲者は何人だ」
新聞記者「死者2名、生存者8人、行方不明15人、乗車未確認10人だそうです!」
編集長 「よしじゃあ決まりだな。やっぱり定員35人ぶんか!」
新聞記者「でも名鉄局の事故対策本部は死者1人、生存者7人、身元不明の行方不明者23人って報告を受けてるそうです」
編集者 「身元不明の行方不明者って、なんか論理的におかしくないか? まあいいや。で、どの発表が正しいんだよ」
新聞記者「分かりません」

 ――翌々日――

編集長 「引っぱるなあ。で、今日の発表ではどうなった?」
新聞記者「国鉄によると死者2名、行方不明19名、行方不明1人だそうです」
編集長 「なんだ昨日とずいぶん変わったな」
新聞記者「警察は死者2名、行方不明26名、行方不明4人って言ってますね」
編集長 「もうどうでもよくなってきたよ」
新聞記者「まったく、マスコミなんていい加減なものっすね!」
編集長 「お前が言うな」

 

 などというやり取りがあったかどうかは不明だが、けっきょく本ッ当に最終的に収容された遺体は21名分。これは間違いないようだ。そして行方不明者はまあ7名というのが妥当なところらしく、犠牲者は28名ということでここでは「定説」としておこう。

 ついでに言っておくと、行方不明者のうちの2名は、後に発見されたバスの中から見つかっている。

 バスは不明、死者数は不明と、なんとも混沌とした事故である。

 現在は、現場になった道路の脇に「供養之碑」が建てられているという。

 

【参考資料】
◇各種ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
http://yama-machi.beblog.jp/sakumab/2008/12/267-1436.html
http://63164201.at.webry.info/200904/article_13.html

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札幌バス火災事故(1951年)

 1951年(昭和26年)7月26日の出来事である。

 時刻は、昼過ぎの午後1時。札幌発、石狩行きの路線バスの運転席後部にて、突然火災が発生。乗客7人が死亡、32名が重軽傷を負った(資料によっては死亡者12名と書かれているので、後で増えたのかも知れない)。

 このバスは、北海道中央バス会社のものだった。運転手と車掌の他に46名の乗客が乗り込んでおり、札幌駅前の五番館(後の札幌西武)前を発車して30~40メートルほど走ったところで火災になったのだ。

 一体どうして、走行中のバスが突如として火事になったのだろう? 別項の横須賀トレーラー火災事故のように、ガソリンを持ち込んだ者でもいたのだろうか?

 その答えは今から述べる。実は、ここからがちょっとしたトリビアなのだ。

 この火災がこれほどまで大規模なものになったのは、なんと「映画のフィルム」のせいであった。石狩の映画館からの依頼があったとかで、当時、車内には映画フィルムが約20巻乗せられていたのである。

 昔の映画フィルムというのは、ちょっとした拍子に発火・あるいは引火してしまうほど危険な代物だったのである。以前、大日本セルロイド工場火災の項目で「意外な危険物」としてセルロイドをご紹介したが、これもなかなかのものだ。

 この事故で火災を起こしたフィルムは、バスに積まれる直前の約2時間ほど強い日差しにさらされていたという。それで加熱状態になったためフィルムそのものが摩擦熱で発火したか、あるいは何か別のものから引火したのではないかと思われた。

 こうした可燃性フィルム(ナイトレート・フィルム)は1950年代まで世界中で使われていた。おかげさまで、日本でも現像所や映画館ではよく火災が発生しており、例えば照明器具に接触しただけで燃えたという話もある。

 この恐るべき可燃性フィルムは1950年代初頭に生産中止となり、今では日本でも消防法によって危険物第5分類に指定されているという。ちょうど札幌のバス火災が起きた時期というのは、映画フィルムが安全なものに切り替わる過渡期だったのだ。

 もっともこの事故、死傷者が多く出たのはフィルムのせいばかりではない。車両の窓に破損防止の鉄棒が取りつけてあったり、非常時に脱出しにくい構造だったりしたため逃げられなかったという事情もあったようだ。この事故の影響もあったのか、直後にはバスの保安基準の強化も図られている。

 先述した通り、発火の直接の原因は不明である。煙草の不始末やバッテリーのリード線からの引火という可能性もあったようだが、とにかくフィルムの管理が杜撰だったということで乗務員が逮捕された。

 ちなみに同じ1951年(昭和26年)には、愛媛県宇和島でも映画フィルムの発火によるバス事故が発生している。なんとも嫌な偶然だ。

 で、偶然ついでに言えば、あの桜木町火災が発生したのもこの年である。あれも、火災が発生した車両から逃げることができずに大勢の死傷者が出た悲惨な事例で、その意味ではよく似ている。交通機関を利用するのも命懸け、そういう時代だったのだろう。

 

【参考資料】

◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

◇日本映画学会会報第7号(2007年2月号)

http://jscs.h.kyoto-u.ac.jp/nl0702.html

◇ウィキペディア「北海道中央バス」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%90%E3%82%B9

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