目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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豊浜トンネル崩落事故(1996年)

 この事故が起きた時、筆者は中学生だった。

 当時、学校から帰ると、テレビで岩盤の爆破作業の生中継をやっていたのを覚えている。その時の記憶があまりに強烈で、いまだにトンネルを通過するさいに怖くなることがある。

 事故は1996年2月10日、午前8時10分頃に発生した。北海道後志(しりべし)管内の古平町(ふるびらちょう)の豊浜トンネルでのことだった。

 厳密に言えば、この豊浜トンネルは古平町と余市町(よいちちょう)を結ぶもので、事故は古平町側の出入り口付近で起きたのだった。トンネルの真上にあった巨大な岩盤が崩れ落ち、たまたま真下を通過していた路線バスと乗用車を直撃したのである。

 この岩盤のサイズは縦横斜めで70×50×13m、体積1万立方メートル、そして重さ2万7000トンという代物だった。

 とにもかくにも重さ2万7000トンである。この岩盤をどけないことには救出作業もへちまもない。要請を受けた業者がさっそく爆薬による撤去作業を行ったが、地形のせいで準備に手間取り、また生存者がいるかも知れないということで思い切った爆破もできず、この業者は相当難儀したようである。

 この業者は、当時の記録をネット上で書き記している。文中に登場する専門用語はチンプンカンプンであるものの、その時の苦労がじわじわと感じられる文章である。

 犠牲者の家族たちは、遅々として進まない救出作業に焦り、苛立ち、時として逆上したという。だが結局、トンネルに閉じ込められていた20人は全員が遺体で発見された。即死だった。

 この豊浜トンネルでは、事故以前から落盤の危険性が指摘されていたという。「以前から危険性が指摘されていた」というのはこういう事故を説明するさいの常套句だが、書類送検された北海道開発局の元幹部2名は不起訴処分とされた。

 さらに遺族は、国を相手取って民事訴訟を起こす。しかし、賠償金の支払いは命じられたものの、責任の所在についてはうやむやなままという判決になったようだ。

 この事故の裁判の結末を見て思い出すのは、世界屈指のバス事故である飛騨川バス転落事故である。どちらも自然災害によるバス事故であるにもかかわらず、判決は180度違っているのが興味深い。

 現在、この事故があった豊浜トンネルは完全に封印されている。道路が、途中からより安全なルートに接続されたことで、それ以前のルートは寸断され封鎖されたのだ。今では、現場には船を使わないと行けないそうで、おそらくこの事故現場はこのまま「封印」されていくことになるのだろう。

 筆者は冒頭に書いた通りの思い出があるので、たぶん誘われてもこの事故の現場に行く気にはならないだろう。ただ、新しいルートのトンネル出口付近には防災祈念公園なるものがあり、そこには慰霊碑や事故関係の展示コーナーもあるという。そちらなら、出向いて手くらいは合わせたいものだとも思う。

 まあ、どのみち北海道に行く機会なんて特にないと思うので、さしあたりこの記事をもってしてひとつの「合掌」にさせて頂こうと思う。防災祈念大いに結構! 言っても信じられないかも知れないが、それもまた当研究室のテーマのひとつなのである。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア

 

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舞鶴市バス水没事故(2004年)

 2004年の10月20日から21日にかけて日本列島を襲った台風23号は、後に「激甚災害」に指定される程凄まじいものだった。

 まあ日本で「激甚災害」に指定されるのは大概は暴風雨や台風と決まっており、それも言い方は悪いが風物詩のような感もあるので、今さら「2004年の台風23号」と言われてもそれってどの台風だっけ、と記憶がごっちゃになっている方も多かろう。

 しかし「台風23号」では分からなくとも、「舞鶴市で観光バスが水没したあの事故」と言えば思い出す方もおられると思う。暴風雨による濁流のため道路で立ち往生した観光バスが、見る見るうちに水没したという一件だ。

 バスの乗客37名は、辛うじて水面に頭を出していたバスの屋根の上で恐怖の一夜を過ごし、最終的には全員が救助された。安心して読める事例である。

 

   ☆

 

 この37名というのは、兵庫県豊岡市の、もと公務員の年金受給者からなる旅行者の団体だった。よって乗客も年配が多かった。

 予定では10月19日に豊岡を出発し、1泊2日で北陸地方を回る予定だったという。
 最初、台風が接近しているという不安な情報もあったものの、とりあえず19日は予定通りに旅館に到着。雨の中の旅行だったが、ここまでは問題はなかったようだ。

 問題なのは翌朝からである。台風が遂に上陸したのだ。
 テレビのニュースを観た乗客の中には、「大丈夫なのか」と不安になる者もいたようだ。
 だが、旅行会社としてはそうそう融通を利かせることも出来ない。バスは定刻通りに出発し、午後2時までにはなんとか観光の予定を潰していった。

 さあ帰り道である。行きはよいよい帰りは怖い。高速道路が土砂崩れで通行不能という報せが届いたのが、後から考えれば前兆となった。仕方なくバスは一般道を通ることになった。

 そうこうしている内に、台風は紀伊半島に上陸しどんどん接近してくる。夕方には暴風雨も甚だしく、さすがに「今日は旅館かホテルに泊まった方がいい」という判断で乗客も運転手も意見が一致した。

 それ自体は正しい判断だった。だが時はすでに遅し。適当な宿泊施設が見つからないまま、だらだらとバスは進行し続けた。そして7時を過ぎる頃には遂に道路は冠水し、また渋滞のせいで運転もままならなくなってきた。

 7時半。参考文献によると、この時刻に由良川にかかる大川橋なる橋を渡ったところが「運命の分かれ道」だったようだ。国道175線に入って間もなく、バスは立ち往生してしまった。凄まじい冠水によって渋滞の中でエンストを起こした車があり、にっちもさっちも行かない状態に陥ったのだ。たちまちバス内は不安で満たされた。

 さっき渡ったばかりの由良川もついに氾濫し、水位はどんどん上がってくる。いよいよバス内に水が入ってきたのが夜の9時で、昇降口から浸入した泥水はたちまち乗客たちの下半身を水浸しにした。水はマフラーにも入り込んでエンジンも停止。さあ、どうするどうする。

 一時は、カーテンを切り裂いてロープを作り、民家に助けを求めるというアイデアも乗客の中から出たらしい。しかしその頃には道路も足がつかない状態だったため、この案は却下。もうバスの屋根の上に上がるしか道はない。カーテンで作った手製のロープは、この避難作業で使われることになった。
 乗客たちが助け合いながら屋根に避難し終える頃には、もはやバスの車内灯も消えていたという。

 この時、このような形で避難したのはバスの乗客たちだけではなかった。近辺では、他にも電柱に掴まって一夜を過ごしたり、自家用車を乗り捨てて近くの建物の2階に逃げ込んだ人々もいたのである。
 このように助けを待っていた人は、バスの乗客を除いても40名ほど存在していたらしい。ちなみに、乗用車は44台が水没している。

 さて、ここからの10時間が大変だった。なにせほとんどの人間が年配である。ひっきりなしに吹き付けてくる暴風雨と、バスの屋根の上を越えてくる泥水のせいでずぶ濡れになり、とにかく皆、凍えて仕方がなかった。最も高齢の男性は低体温症でかなり危ないところまで行ったようだ。

 そして恐ろしいのは低体温症ばかりではない。バス1台を水没させる程の濁流で、バスそのものもいつ流されることかと全員が気が気でなかった。携帯電話も電池が切れれば通じないし、通じたとしても、救助はいつ来るのかという明確な答えはなかなかもらえない。もう不安で不安で過呼吸に陥る者が出て来るし、持病のある高齢者は体の不調を訴えてくる。居合わせた看護士たちは大忙しだ!
 それでも、乗客たちは励まし合ったり歌を歌ったりして不安を紛らわせ、救助を待ち続けた。
 中には、流れてきた竹竿でもって、バスが流されないように近くの街路樹から支えようとするツワモノもいたという(実は参考文献を読んでも、どうしてこれで「支える」ことになるのかよく分からなかったのだが)。

 ちなみにバスの運転手は、こんな危険なところまでバスを乗り入れてしまったことに責任を感じてションボリしていたそうな。もっとも彼を責める者は誰もいなかったそうである。

 さて最初に書いた通り、彼らはおよそ10時間後には無事に救出されたのだが、救助活動はどのように進んでいたのだろう?

 もちろん、京都府も自衛隊も手をこまねいていた訳では無い。バスが水没する直前の午後9時頃には、連絡を貰った京都府から海上自衛隊に災害派遣要請が出されていた。

 しかし暴風雨、増水、夜闇の中では救助も簡単ではない――てゆうか不可能である――。ヘリは強風で飛べないし、濁流の流れは激しくゴムボートも使えない。結局、明け方に水位が下がってくるまでどうしようもなかったのだ。

 バスが水没した国道175号線からは、最終的にはバスの乗客を含む67人が救出された。こうしてようやく長い夜は明けたのだった。

 この水没事故の詳細は『バス水没事故 幸せをくれた10時間』という本に記されている。

 変なタイトルだなぁ、と思う前に、興味があれば是非一度目を通して頂きたい。この本の作者のスタンスは「この事故によって人を信じることの意味や希望を学ぶことが出来た」というもので、思わず本当かよ、とツッコミを入れたくなるところではあるが、とにかく読めば分かる。平易な文章で描かれた過酷な事故現場の状況の描写は、我々にある感慨を与えてくれるであろう。なるほどこんな極限状況に遭遇して、最後に全員救助というハッピーエンドになればこういうタイトルになるかも知れない。

 ところで、集団が一斉に事故に巻き込まれるという事例はいくらでもあるが、筆者が個人的に、この舞鶴市の事故と比較せずにおれないのは2009年に起きたトムラウシ山の遭難事故である。大人数のグループが遭難したという状況までは同じだが、かたや助け合って全員救助、かたやバラバラに離散して半分以上が凍死と、結果は180度違っている。

 もちろん細かな状況は全然違うので一概には言えないだろう。だがとにかく、被災した際に一緒にいる他人がどんな人格であるか――注意深いか、人生経験は豊富かそうでないか、思いやりがあるか――実はその程度の要因によって、人間の運命というのは呆気なく変わってしまうものなのである。

 ちなみに話ついでに言うと、この事故のことは他にも本が出ており、なんとそれは「童話」であるという。ある意味で、読んでみたい気がしなくもない。

 

【参考資料】
 ◇中島明子『バス水没事故 幸せをくれた10時間 人を深く信じた奇跡の瞬間』朝日新聞出版

 

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本邦初の鉄道事故は?

「日本でいちばん最初の鉄道事故はなんだろう?」
 まずはその問いから始めようと思い、調べてみた。例えるなら火災史における白木屋火災、即ち「近代鉄道事故の夜明け」にあたるケースである。
 ところがどうも話が単純でなかった。ごく普通に事故の歴史を紐解いていけばそのような事例に突き当たるだろう、と最初は高を括っていたのだが、文献によって微妙にニュアンスが違っているのである。
 世界で最初の鉄道事故がなんだったのかは、これははっきりしている。1830年9月15日、英国ランカシャーのパークサイド駅で発生したのがそれだ。よりによってリヴァプール-マンチェスター鉄道の開業当日というめでたい日に、粗忽者の代議士が轢かれて死亡したのである。
 この代議士は、友人に挨拶をしようとして線路を横切ったのだった。どうやら汽車の接近が思いのほか速かったため轢かれてしまったらしい。乗り物といえばせいぜい馬車くらいしかなかった当時、汽車の速度がどれほどのものなのか、多くの人は想像もつかなかったのだろう。 
 では日本の場合はどうか。
 まず、鉄道事故マニア必読の書である『事故の鉄道史』を観てみると、1877年に発生した「東海道線西ノ宮列車正面衝突事故」が「大事故の事始め」だと記してある。
 しかしこれはどうも本邦初の「大事故」あるいは「死亡事故」であって、人が死なない鉄道事故ならその前にも起きていたようだ。それはウィキペディアをちょっと覗けば分かることで、たとえば1874年には「新橋駅構内列車脱線事故」なるものが発生している。ポイントの故障のせいで機関車と貨車が脱線したというもので、これは死者ゼロである。
 だがこれも「脱線事故」というカテゴリーで見れば確かに本邦初と言えるのだが、「鉄道事故」ということでは必ずしも最初のものではないようだ。
 さあそれで、ここで『鉄道・航空事故全史』(災害情報センター・日外アソシエーツ共編 2007年5月刊)を見てみよう。すると、ここでようやくそれらしいものに行き当たる。1872年9月12日、記念すべき鉄道開業式の当日に、線路に入り込んだ見物人が機関車に引かれて指を切断しているのである。なにしろ開業式当日というくらいだから、おそらくこれが本邦初の鉄道事故だろう。
 この時開通したのは横浜-新橋駅間の路線だった。新橋駅ではこの2年後に、上述の「日本発の脱線事故」が起きているわけだ。
 それにしても、死亡事故と傷害事故という違いはあれど、イギリスでも日本でも、開業式当日からいきなり事故が発生しているというのはおかしな符号である。この奇妙な偶然に、これ以降の鉄道史が辿る苦難の歴史がすでに暗示されていたような気すらするのだが、読者の皆様はどうお思いになるだろうか。

【参考資料】

◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

◇ウィキペディア

◇災害情報センター・日外アソシエーツ編集『鉄道・航空機事故全史―シリーズ災害・事故史〈1〉』(日外選書Fontana シリーズ災害・事故史 1)

 

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東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)

 西南戦争が終結して間もない、1880(明治10)年10月1日の夜のことである――もはや日本史の教科書に出てくるような時代だ!――現在の兵庫県神戸市、阪神間鉄道の住吉駅東方で上り列車と下り列車が正面衝突、死者3名と重傷者2名の大惨事が発生した。

 これは鉄道の衝突事故としても、また鉄道における死亡事故としても本邦初のものである。ネットで検索すると本稿のタイトルのように「タンコブがひっこんじまったい」と言いたくなるような長ったらしい名称がつけられているが、文献によってはシンプルに住吉事故、などとも呼ばれている。

 まずは、当時の鉄道の様子を簡単に説明しておこう。

 当時は、西南戦争に参加した官軍の兵隊たちが帰還する時期だった。よって鉄道としては、普段よりも多く人員の輸送を行う必要があった。

 そこで、神戸駅からは、各駅停車の「定期列車」とは別に、大阪まで停車せずに一気に走る「臨時列車」が出ていた。今で言う快速や特急のようなものだろう。

 この「定期」と「臨時」の2本の列車が出る際は、いつも臨時が先で定期が後、と決まっていた。なぜなら各駅停車の定期列車に対し、臨時列車は停止なしで突っ走るので、臨時列車が後から追いかけていてはどんどん距離が縮まって追突してしまうからだ。

 そしてこの2本の列車は、大阪に到着すると今度はUターンし、神戸へ戻る。この時には、往路では「臨時列車」だった車両は空っぽになるので「回送」になる。そして神戸からは再び兵隊が乗り込む、という寸法だった。

 また、当時の鉄道はほとんどの路線が単線だった。一本の線路を一本の列車が通過することしかできず、いわば列車はかわりばんこに線路を走るのである。上りと下りの列車がすれ違えるのは駅だけで、しかも今のように信号機もないものだから、一方が駅に入ってくるのを確認してからもう一方は発車するというやり方になっていた(まあ、地方の路線では今でもそんな感じだけどね)。

 さてそれで当時は、神戸-大阪間を「上りの定期列車と臨時列車」と「下りの定期列車と回送列車」がかわりばんこに行きつ戻りつしていたわけだ。

 事故当時は雷を伴った豪雨だったという。そのため、当夜は上りと下りの両列車のいずれも遅れが出ており、臨時列車が大阪駅に到着したのは、本来なら後続の定期列車が到着しているはずの時刻だった。

 つまりこの時点で、上り定期列車はまだ線路を神戸から大阪に向けて走っていたのだ。

 しかし、大阪駅で待機していた上り回送列車の英国人運転士はそこで勘違いしてしまった。大阪駅に到着したのが「遅れた上り臨時列車」ではなく「定刻通りの上り定期列車」だと判断し、列車を出発させてしまったのである。

 それで正面衝突となった。

 その結果、回送列車の英国人機関士と、日本人の火夫(ボイラーの取扱担当者)は死亡し、大阪に向かっていた上り定期列車の日本人車長も即死。定期列車の方に乗っていた英国人機関士は右目を失明する重症を負った。乗客に怪我人がいなかったというのは不幸中の幸いであった。

 遺体の状況は凄惨なものだったという。後年発生した参宮線六軒事故もそうだが、蒸気機関車というやつは、ひとたび事故ると蒸気や熱湯で被害が拡大することがしばしばあるのだ。

 ところで面白いのが、当時の鉄道局長の報告書である。事故の責任は、誤って列車を出発させた英国人機関士にある、と決めてかかっているのはともかくとして、同時に「官軍の連中の乗車マナーがなっておらず、そのせいで時刻表が乱れた。それも事故の原因だ」と憤慨しているのである。ふうん、局長あなたひょっとして士族よりだったの? 

 ただ事故原因について言えば、英国人機関士の責任うんぬんよりも、そもそもなぜ彼が回送列車を発車させてしまったのかが問題であろう。この点について『事故の鉄道史』では、彼は当時、下り臨時列車の存在を完全に忘れていたか、あるいは全く知らされていなかったのではないか――という可能性も示唆されている。

 まあどのみちかなり古い事故で、資料も極めて乏しい。真相は藪の中という外はない。

 ともあれこの事故を教訓として、上り下りの列車がかわりばんこに走るこうした「閉塞路線」では、線路を走る時に必ず運転士が通行証を受け取るというやり方が確立されていったのである。

 この通行証を、いわゆる「タブレット」という。

 しかし人間というのは実に厄介なもので、だから事故が起こらなくなったかというとそんなことは決してないのである。このタブレットをいい加減に扱ったせいで逆に大事故に繋がった例もあり、それは別項の「東北本線・古間木―下田間正面衝突事故」に詳しい。

 西南戦争は、ひとつの時代の完全な終息を示す出来事だった。一方で、同時期に起きたこの衝突事故は、鉄道史のこれ以降の苦難の道のりの幕開けを告げる出来事だったのである。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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箒川列車転落事故(1899年)

 箒川(ほうきがわ)は那珂川水系に属する第一級河川である。栃木県の矢板市と大田原市の境界を流れており、延長は47.6キロメートル。大佐飛山地南西部の白倉山付近を源流とし、那須野が原扇状地を東南に流れている。最後は那珂川に合流し、水戸の北部を通って那珂湊で太平洋に注ぐ。

 

 筆者は純粋な鉄道ファンではないのでよく分からないのだが、東北本線を走ってこの箒川にさしかかる辺りというのは、絶好の撮影ポイントらしい。景色がいいのだろう。

 

 この箒川にかかる鉄橋がある。1886(明治19)年に完成したもので、架橋当時は全長約319メートル(現在は全長322メートル。なんで長さが変わったのかはよく分からないが)。川床からの高さは約6メートルあり、橋桁(プレート・ガーダー)14連で結ばれていた。

 

 1899(明治32)年10月7日、当時の鉄道史上最大の事故はここで発生した。

 

 この頃の東北本線はまだ国有化されておらず、日本鉄道株式会社(以下日鉄)の私鉄路線に過ぎなかった。しかし時代の要請を受けて線路はどんどん切り拓かれ、1883(明治16)年7月28日に上野~大宮間の路線が開通したのを皮切りに、路線を北へ北へと延伸。明治19年には宇都宮~西那須野間が、24年には青森までの全線が、さらに31年には田端~岩沼間が開通していた。

 

 箒川の事故が起きたのが、このほぼ1年後である。日鉄は線路の敷設も一段落し、今まさに運輸営業に力を入れようとしていた矢先のことだった。

 

 10月7日当日は、南方洋上で台風が発生しており、本州に接近していた。

 

 そんな悪天候の中、福島行きの第375列車(機関車2両+貨車11両+客車7両)は11時に上野駅を発車。対向列車との行き違いの関係から約50分程の遅れが出ており、矢板駅を出発したのは16時40分頃だった。

 

 結果だけを見ると「そんな天候で出発しちゃったんかい」という感じもする。だが、途中で通過した宇都宮駅で観測された風速は9メートル。まあ徒歩の人が歩きにくくなる程度のものである。これなら大丈夫だろうと判断されたのだった。

 

 列車は矢板駅を出発すると、まっすぐに箒川へと突き進む。この先の針生トンネルをくぐり、橋を渡れば次は野崎駅だ――。

 

 と、ここで矢板駅と野崎駅の間の地形について少し解説しておきたい。両駅周辺の地形は、南に松原山丘陵があり、北には那須野が原扇状地がある。箒川はこの境目を流れており、全体の中ではここでかなりの急流となる。

 

 鉄道敷設に際しては、松原山丘陵にトンネル上の切通しが掘られた。これが針生トンネルで、これを抜けると線路はすぐに箒川と交差する形になる。そこに箒川鉄橋も架かっているわけだが、地形条件のため、ここは風の通り道でもあった。テレビの専門家インタビュー風に言えば「あの場所はもともと強風に遭いやすく、とりわけ冬の時期は北西からの季節風を強く受けることで知られていたんです」といったところだ。まあ後からならいくらでも言えるのだが、とにかくそういうことだった。

 

 第375列車は針生トンネルを抜け、箒川に差しかかる。そして列車が鉄橋の真ん中あたりに来たところで(渡り始めたタイミングだったとも言われているようだ)惨劇は起きた。強烈な北西からの突風が、列車の左側に吹きつけたのだ。

 

 機関士は後方を見た。8両目に連結していた無蓋貨車のシートが風であおられ、吹き飛ばされそうになっている。異常事態だが気付いたときにはもう遅い。次の瞬間には、1等客車の車体が急激に右方向に張り出した。

 

「こりゃイカン!」機関士は警笛を鳴らしてブレーキをかけた。後に機関士は、この時に強い衝撃を感じたと証言している。おそらくそこで貨物緩急車の連結器が外れたのだろう――とも。

 

 第375列車が混合列車であることは、先にチラッと書いた。その内訳はここではあまり細かく書かない。とにかく連結器が外れてしまったことで、後方の貨車1両と、7両あった客車の全部が転覆し、そのまま橋から落下したのである。

 

 この時の風は、瞬間最大風速27~28m/secと推定されている。天気予報の用語では「非常に強い風」と呼ばれるレベルで、人も車も外にはいられず樹木も倒れるほどの強さだ。宇都宮で観測した時とはえらい違いだった。

 

 落下したそれぞれの車両がどうなったのか、詳細がウィキペディアに載っていたので、せっかくだから書いておこう。上から順に、前部車両→後部車両となる。

 

・貨物緩急車(亥120)……橋脚のそばに転落、横転して大破。
・3等緩急車(ハ28)……亥120とほぼ同じ状態でその横に横転し、大破。
・3等客車(ハ179)……屋根が吹っ飛び、車体下部構造は河底に埋没。
・3等客車(ハ249)……橋脚の約27メートル下流に流される。屋根だけを残してその他は粉砕。
・1等客車(イ3)……最初に転落。25メートル下流に車体下部構造を、また18メートル先に屋根を残し、その他は粉砕。
・2等客車(ロ17)……中州の上で圧壊。
・3等客車(ハ275)……転落、3ブロックに大破。
・3等緩急車(ハニ107)……前車(ハ275)の上に転落し、大破。

 

 ひどすぎる。

 

 車両がこんななので、乗客たちがどうなったかは推して知るべし、であろう。

 

 もっとも現代に生きる我々も、車両が脱線転覆し粉砕しぺちゃんこになるような鉄道事故を全く知らないわけではない。そうした事故では数十人から百人単位で人が亡くなることもある。そうした事例に比べればこの死者数は少なめで、そこは不幸中の幸いかも知れない。だが箒川の事故の場合、乗っている人が少なかったから簡単に風で飛ばされてしまったのではないか、という気もする。当時の『國民新聞』では、「前方貨車は肥料雑貨を積み居て、其重量にて危難を免れたるなりと。」とあった。

 

 これが17時頃のこと。転落を免れた機関車2両と貨車10両は、そのまま140メートルほど進んでようやく停車した。機関車1両だけのブレーキでは、即座に停止することはできなかったのだ。

 

 大惨事である。まず機関手が、次の停車駅だったはずの野崎駅に駆けつけて急報。それを受けて駅長は電報を打ったが、またしても暴風雨に邪魔されて混線。矢板駅につながったのは17時20分頃のことだった。

 

 また後部車掌は、自分自身も負傷しながらも――と資料には書いてあるが、まさかこの人、川に落ちて助かったのだろうか?――現場から3.5キロを駆けて矢板駅に現場の状況を報告している。そして矢板駅→宇都宮駅→日鉄、の順で通報がなされた。

 

 時代が時代だから仕方ないのだが、20分とか3.5キロとか、哀しくなるほどの通信状況である。

 

 ともかく急報を受けた宇都宮駅長は、鉄道嘱託医、赤十字社栃木本部、県立宇都宮病院に応援を要請。さらに日鉄本社では、社員十数名と作業員70名を派遣している。また順天堂病院にも要請し、院長、医師、看護婦を派遣させた。

 

 ただしこれらは全て矢板側からの派遣だった。現場に着いても暴風雨のため橋を渡ることはできない。そのため彼らは到着した側の岸で救護活動を行なうしかなかった。

 

 では反対の岸ではどうしていたかというと、こちらには地元の開業医が駆けつけていたという。彼は関係機関からの派遣をまたずに現場に駆けつけて、負傷者の治療を行なったのだった。

 

 また地域の消防組も集まってきた。出動したのは矢板、三島、蓮葉、石上、針生、土屋、山田の人々である。当時は町村単位での自治消防は行なわれておらず、村や大字単位でこうしたグループを結成していた。

 

 しかし暴風のさ中である。救助は簡単なことではなかった。強風のため橋の上は渡れず、命からがら中州へとたどり着いた人々のところへも行けない。しかも箒川は平時に比べて1メートルは増水していた。

 

 当時の救助設備も、縄と梯子、それにトビ口くらいなものだった。川の両岸にかがり火が焚かれ、泳ぎの達人が鉄橋に大縄を結び付けてから負傷者のもとへ行き、背中におんぶして、縄をたぐって元の場所へ行き梯子で上る……。こうした気の遠くなるようなやり方で救助活動は行なわれたのだった。

 

 ちなみに、この時偶然に、事故った車両には埼玉県の加藤政之巡査も乗り合わせていた。彼は職業的使命感から、自分の怪我も省みず溺死寸前の遭難者を救出している(後に見舞金や書状をもらい、昇給もした)。


 こうして多くの乗客が救助されたが、救助されるのと前後して亡くなった人や、激流に流されて後日あちこちで発見された遺体もあった。

 

 10日には、栃木県警察部保安課長の指揮で、箒川や那珂川の周辺が徹底的に捜索された。だが遺留品は多く見つかったものの遺体はなく、大体このへんで死者数は確定したようである。


 最終的な死傷者数は、『日本鉄道株式会社沿革史』によれば死者20名、負傷者45名とされている。公的には、こ

れが正式な数字である。

 

 だが混乱もあるようだ。昭和6年10月の33回忌に建立された石塔婆には19名の故人の名が刻まれているというし、また事故直後の11月に発行された『風俗画報』増刊「各地災害図会」(明治32年10月)によると死者19名、負傷者合計36名とあるらしい。

 

 ちなみに事故った列車の乗客総数は、各駅の切符発売状況を調査した結果、62名とされているという。

 

 最初にも書いたが、これは当時、鉄道事故としては最悪の大惨事であった。だが復旧は意外に早かった。消防組なども参加して転落車両などが撤去され、線路の復旧はせいぜい枕木交換程度。翌日にはもう試運転が行なわれたというから、なんだか拍子抜けだ。

 

 とはいえこの事故、裁判ではけっこう尾を引いた。同年11月20日、第14回帝国議会の衆議院本会議で、福島県選出の代議士・菅野善右衛門がこういう趣旨の質問をしている。

 

「この事故では、暴風雨にも関わらず汽車を走らせている。さらに鉄橋の構造には転落防止についても不備があったのではないか」

 

 実はこの菅野氏、肉親を事故で失っていた。

 

 この時の答弁に菅野氏は納得しなかった。翌年2月20日には東京地方裁判所に対して訴訟を起こし、日鉄に3万円の慰謝料を請求している。

 

 日鉄の言い分はこうである。「確かに気象状況は不安定だった。だが、客車が転落するほどの強風は予想できなかった」

 

 いわゆる「想定外」である。まあ、争うつもりならそう言うわな。

 

 この訴訟、7月7日に一度は菅野が勝訴している。だが9月14日には日鉄が東京控訴院に控訴した。

 

 それから判決が出るまでには4年間かかっている。その間にも日鉄に対しては慰謝料の請求が多く出されたという。

 

 ところがである、明治37年12月10日には、日鉄の勝訴として判決が下された。

 

 そこで菅野氏は大審院に上告したものの、翌年38年5月8日には「原判決を破棄、本件を宮城控訴院に移す」と結論が下された。

 

 その宮城控訴院でようやく決着がついたのが、さらにほぼ一年経った2月28日である。ここでも菅野氏は敗訴した。おそらくこの敗訴は、他の遺族(あるいは直接の被害者)たちの慰謝料請求にも影響したに違いない。

 

 とはいえ、日鉄も支払いを頑として撥ね付けたわけではない。被害者に対する補償はちゃんと行なわれている。その内訳は遺族へ500円、負傷者は1人300円以下の支払いというものだった。これには従業員からも相応の挙金があったという。

 

 また、上記の宮城控訴院での判決の詳細は不明だが、ともあれこの判決の結果を踏まえた示談が行なわれ、成立している。事故発生から実に7年の年月が経過しており、この間には日露戦争もあった。

 

 さらに言えば明治39年3月31日には「鉄道国有法」が公布され、日鉄は11月1日に国に買収されている。

 

 なんだか、こうやって見てみると、この事故の歴史は同時に日鉄という組織の歴史そのもののように思えなくもない。主要な線路の敷設が終わり、ようやく運輸に力を入れるぞ~と思った矢先に事故が起きた。そして最終的な判決が下ったのとほぼ同時に、国によって買い上げられたのである。奇妙な因縁だ。

 

 大雨・強風時の運転抑制については、この事故を踏まえた検討もなされたようだ。だが悪天候の中、運転を続けるかどうかという判定は難しいところがあり、こうしたルールの具体化までにはまだまだ長い時間を要した。

 

 この「悪天候時の運転抑制」の基準の難しさについては、言うまでもない話かも知れない。鉄道事故の歴史を紐解けば、瀬田川列車転覆事故、餘部鉄橋転覆事故、羽越線脱線事故など、悪天候による大事故の例には枚挙に暇がない。天候は、交通機関にとってはある意味最大の強敵である。

 

 現在、この事故の供養碑はふたつ存在する。

 

 ひとつは事故から間もなく作られたものである。事故発生直後から、現場付近では何度か村民による供養が行なわれているが、一周忌にあわせて石塔婆が建立されたのだ。この碑は現在、下り電車に乗って箒川橋梁を渡り切ると、ちょうど左側に見ることができるという。高さ3メートルの大きなもので、欠落箇所があるものの100年前のものにしては立派だという。

 

 もうひとつの慰霊碑は、田代善吉という人によって建立された。この人は事故の直接の被害者だったのだが、その後は教育者かつ郷土史家として地元に貢献した人らしい。箒川の転落事故については、生き残りとして死者の冥福を祈る思いも強かったのだろう。33回忌にあたる昭和6年10月4日、現地での法要に際し卒塔婆を建立した。

 

 この卒塔婆の場所は、箒川の左岸、国道四号線の跨線橋北側である。そこは昭和6年当時は踏み切り道だったようで、道の横に建てたものらしい。

 

 なお、この卒塔婆の建設費は、多くが国鉄職員の浄財によるという。

 

 慰霊の法要については、参考資料を見る限りでは、少なくとも90回忌までは行なわれたのは間違いないようだ。

 

   ☆

 

 最後に、この事故については2つほど付録を添えておこうと思う。

 

 まずひとつは、前掲の田代善吉氏による証言である。『続・事故の鉄道史』からの孫引きであるが、もともとは昭和六年一〇月発行の『下野史談』号外「等川鉄橋汽車顛覆始末」に掲載された「私の遭難体験記」という文章からの一部抜粋らしい。もともとが長文で改行がないため、ここではブログ向けに改行の処置だけさせて頂いた。ぜひ一度目を通して頂きたい。その臨場感から、目線を離せなくなること請け合いである。

 

「私は小学校教員受験の為に宇都官に参りました。試験も終って帰ろうとした日は朝から大雨であった。三時頃の汽車で帰る積りであったが、汽車が遅れて四時頃になった。

 

「雨は増々激しく降って来る。その上風も出た様であった。汽車が進行すると共に風も強くなった。矢板駅に着いたのは恰度午後五時頃であったが強風強雨で気味が悪い様であるから、矢板へ下車しようかとも思った。

 

「箒川の鉄橋に差しかかると、ガタッという音のみであとは気絶して仕舞ったから、何が何やら判らない。ホッと気が付いて見ると自分は濁流に押し流されつつある。

 

「幸いにも汽車両は微塵に砕かれたので汽車の扉が一枚流れて来たのにつかまった。此扉こそ自分の生命の綱である。物体は必ず川岸によるものであるからこれをば放すまいと、其一扉に乗って激流の中を潜んで行った。自分は流れながらも今溺死する此身を両親や兄弟は知らないだろうと胸に涙を浮かべつつ那須野山の方向を眺めた。

 

「六百メートル程も流されて行くと乗っていた扉は河岸に近かづいて来た。川柳のあるのを幸に飛びついたが背は立たない。足の方は流されているが此柳が命の親と思って、つかまってはなさない。やっと砂州に這い上がることが出来た。若しや此の柳が根から切れたら自分も此世から縁が切れて今は斯うして居られないのであった。

 

「其時顔面からは鮮血流れ股や膝のあたりは硝子の破片が澤山這入ってゐました。

 

「川の中州に匐へあがっても風雨はやまない。今後洪水で増水すれば仕方がない合掌して流されて仕舞ふ覚悟をして居った。

 

「時に五時半頃と思った。夕方になって風雨が静まると、半鐘の音がする。村人が河岸に集まって来て呉れた。其時の嬉しさは譬へ様がなかった。川の両岸には篝火が焚かれた。助けて呉れと力あらん限の声をあげると、今助けに行くからと応答があった時、初めて蘇生の思ひがした。

 

「泳ぎの達人が、鉄橋に大縄を結びつけ、其縄に組って助けに来て呉れた。其方の氏名は忘れたが背におぶさつて又其縄を頼りに鉄橋の下まで越えて梯子で上がり、鉄橋を匐ふて川向に行った。

 

「時に大田原町より急派した救護医の手によって応急手当を加へられ直に西那須野駅前川島屋に宿をとった。翌日西那須野の高瀬医に罹って頭や顔に這入ってあった小石を取って貫って宇都宮に来た。

 

「恰度宇都宮停車場に着くと、東京から佐藤博士が来られたので診察を受けた処が軽傷と云う事であった。神野病院は満員なので、県立宇都宮病院に入院した。入院治療中病勢が日増しに重くなって来た。体温が四十度、四十二度と云う状態であるから脳膜炎の罹れがあり、其死線を越えて四十日目で退院した。負傷者中第二番目の重患であって入院期も長かった(以下略)」。

 

 もうひとつの付録は、なんと「遭難数え歌」である。これも『続・事故の鉄道史』からの引用なのだが、こちらの出典は不明だ。地元の子供たちの間でこういう歌が歌われていたのだろうか。

 

『遭難数え歌』

 

一つとせ 一つ新版このたびの
 汽車の転覆大事件 ところは下野箒川

 

二つとせ 不意に雨風つのりしが
 箒川へとかかる頃 俄かに吹きまく大つむじ

 

三つとせ 宮の発車は午後の四時
 雨風激しきその中を 矢板の町までつつがなく

 

四つとせ よもや夢にも誰知らう
 橋にかかれる災難を 汽車も暴風雨ついていく

 

五つとせ 今は鎖をねじ切りて
 濁流の中へとさかさまに 落ちるや箱は粉微塵

 

六つとせ 夢中で一時は途方にくれ
 一度は大ぜい声をあげ 助けておくれよ助けてと

 

七つとせ 嘆く其声天地にひびき
 山も崩れん有様は 此の世からなる地獄なり

 

八つとせ やっとおよいで陸に出て
 見れば手足のない人や 頭に大傷うけし人

 

九つとせ これを見るより埼玉の
 職務は巡査で正之氏 川の中へ飛びこんで

 

十とせ 飛ぶが如くに洪水の
 中をいとわず流れ行く 七、八人を救いける

 

 ――いかがであろうか。なんという不謹慎な歌だろう!(←お前が言うな)

 

 それにしても凄い歌である。事故の状況を過不足なく簡潔に伝えている。前掲書がこの事故のルポの冒頭にこの歌を持ってきたのももっともで、とりあえず事故の概要はこの歌を読めば分かるようになっている。

 

 もっとも、九つとせと十とせの部分が、先に挙げた加藤巡査だけの武勇伝になってしまっているのが気になるところだが……。

 

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
◆明治32年10月10日付国民新聞『新聞集成明治編年史』第十巻(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)「暴風汽車を宙に釣り上ぐ」

 

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