目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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三河島紀行(フィールドワーク)

 三河島へ行ってきた。

 筆者は、常々「鉄道は嫌いではないが、別に鉄ちゃんではない」と公言している。だがさすがに今回のように事後現場巡礼までしてしまうと、「事故鉄」と呼ばれても仕方ないかなと思う。

 まずは、三河島駅に降り立った。

 それから事故現場目指してしばらく歩いた。天気もよく、まさしく巡礼日和であった。

 実は、筆者の父は、むかーし荒川区に住んでいたことがある。それで三河島のあたりというのは街並みが独特だと以前から聞かされていたのだが、今回歩き回ってみて納得した。なにが特徴的って、家々の密集の度合いが半端ではないのである。

 否、密集というよりもむしろ、街の一画一画それぞれが固まってひとつの集合住宅になっているような印象を受ける。ギチギチに詰まっているのだ。

 筆者の住んでいる山形県では、いくら家が隣同士とは言っても、必ず建物と建物の間に隙間がある。しかし三河島にはそれがないのである。これは驚きだった。 

 とにかくギチギチに住居がひしめいている中で、ちゃんと改築されたらしい小奇麗な家もあれば、昔ながらの古びた住宅もある。それらが、並んで建っているというよりもはや「食い込み合っている」とでも言いたくなるような形になっているのである。

 道路の幅は、ほとんどが車一台通るのがやっとである。一体、住宅の改築の時にはトラック等の車はどうやって入ってきたのだろう? と不思議になってくる。

 それでも、街を歩いていると、住民の乗用車は狭い狭いスペースにきちんと車を押しこんで駐車したりしている。きっと三河島に住む人々というのは、昔から車を停めるコツを心得ているのだろう。

 この街は、東京から見るといわゆる「周縁」に属する地域なのだと聞いたことがある。たとえば朝鮮の人たちがこの周辺には多く住んでおり、屠刹場も多くあったと聞く。まあそれは断片的な情報ではあるのだが、そうした事柄が街の独特の雰囲気を形成しているのだと考えると納得のいく部分もある。

 父いわく、三河島あたりに住んでいる人々の連帯意識はとても強かったという。地域の連帯意識ということでいえば、筆者の住んでいる山形県の田舎などももちろんそうだ。だが三河島はそれに引けを取らないほどだというから、人の心は似たり寄ったりなのだなと思ったりもする。所変わっても品変わっても変わらない心はある。そうした心が、遠い時代の、遠い場所の、凄惨な事故の記憶によって共鳴するのである。

 さあ事故現場が近付いてくる。正面にいる2人は筆者の友人である。

 そしてこれが事故現場である。

 この高架のほぼ真上で、あの伝説の三重脱線事故は発生した。

 動画で観て頂くと分かるが、当時の三河島事故の現場は土手の上である。その土手が、今はこのような高架になっている。

 さすがに、高架上に行けるような階段はない。よって下から撮影するしかない。事故現場の正面には小奇麗なマンションが建っているので、建物の後ろから覗き込むようにパチリ。

 昭和37年5月3日、上野行き上り2000H電車はここから脱線・転落したのである。

 ついでに反対側からもパチリ。

 次は慰霊碑である。三河島駅から徒歩で3、4分の場所にある浄正寺という場所にあると聞いているので、さっそく向かう。

 不思議なことに、線路を越えると街の様子が一変する。三河島地区はものすごい住宅密集地域だったが、こちら側はごく普通の住宅街といった趣だった。線路一本挟んだだけでこうも違うのかと少し驚く。

 到着。

 こんな案内板もあった。

  三河島事故の説明もちゃんと書いてあり、きっと遺族以外にも筆者のようなマニアが来たりするのだろうと思う。

 事故の説明もあった。

 慰霊碑である。ちゃんと拝んできた。

 犠牲者の冥福をお祈りします。本当に心からお祈りします。日本の文化を陰から支えている多くの事故死者たち。戦後日本の裏歴史に刻み込まれたすべての英霊たち。それら全てに祈りを捧げます。

 

 卒塔婆に、お寺の写真。

 どうも都会のお寺は狭苦しい。

 ちなみに、同行してくれた2人の友人は鉄道事故にはまったく興味のない人間である。よって終始「きうり氏、一体なにが面白いの?」という顔をしていた。

 だから筆者もなんとなく悪い気がして、想像していたほどじっくり三河島地区を見物することはできなかった。今思うと、駅のそばの公園で井戸端会議をしていたお婆ちゃんたちにでも話しかけて、事故当時の話でも聞ければ良かったと思う。

 

(三河島紀行・了)

 

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グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)

 1910年、すなわち日本では明治43年にあたる年に、アメリカで発生した鉄道事故である。

 もっともこの事故、鉄道事故というべきか雪崩災害というべきか微妙なところだ。日本の事例との比較でいえば1922年の北陸線の事故と似ており、実際『事故の鉄道史』でもその絡みでこの事例を挙げている。

 アメリカのグレート・ノーザン鉄道は、かつてこの国で売り上げナンバーワンを誇っていた第一級鉄道である。巨大な大陸横断鉄道で、開通は1893年だった。

 実はこの1893年という年は、アメリカ史上でも有名な恐慌のひとつが発生した年でもある。南北戦争直後の産業化によって経済のバランスが崩れてしまったのだ。しかしそんな時代状況でも、このグレート・ノーザン鉄道は生き延びており、すげー生命力である。

 とにかく、アメリカを代表する大鉄道で起きた大事故ということである。

 1910年(明治43年)3月23日、ワシントン州は猛吹雪に見舞われた。

 この日は、グレート・ノーザン鉄道の5両編成の旅客25列車と、それに27郵便列車が、スカポーン-シャトル間の約500キロの距離を走行する予定だった。だがこの大雪のためにまずスティーヴンス峠の手前で丸一日動けなくなってしまい、やっと動いたかと思えば、今度はその先でのウェリントンでも停止せざるを得なくなった。

「なんだこの先は除雪されてないのか! これじゃ進めないよ!」

 というわけで、この2本の列車は、ウェリントン駅の西側の待避線に並んで停車した。

 24日は丸一日スティーヴンス峠の手前で過ごしたが、ウェリントンの場合はもっとひどく、25日も26日も列車を動かすことは叶わなかった。小規模な雪崩もちょこちょこ発生しており、それによって除雪用のロータリー車も動けなくなってしまったのだ。

 さらには電信も不通になり、列車は完全に「陸の孤島」状態。ウェリントンの当時の積雪は3・7メートルと電柱もほとんど埋まってしまうほどのもので、24日から除雪作業ばっかりしていた駅員も、もう体力的に限界だった。

 また、いつ大雪崩が来るかも分からない。それを恐れた乗客の一人は、鉄道会社の監督にこう要請した。

「列車をトンネルに入れてくれよ。俺、怖くてさ」

 だがトンネルはトンネルで水が流れており、中に入ればホテルから食事を届けてもらうことはできなくなる。またトンネル内は湿気はあるし、機関車の煤煙が溜まれば危険だ。要請は却下された。

「まあまあ、除雪車の救援も来るはずですから。もう少し我慢して下さい」

 仕方ねえなあ、ブツブツ。だがこの判断が正しかったのかどうかは、この後で起きた結果を見れば微妙なところであろう。

 2月27日は日曜日で、たまたま乗り合わせていた神父がミサを行ったという。この日、天候はまたしても大荒れになっていが、これで乗客も少しは落ち着いた。

 状況が変わったのは28日からである。急に暖かくなって雪がみぞれになり、さらに雨になったのだ。寒波が去り、南風が吹いてきたことを乗客は素直に喜んだ。……が、これは大惨事の予兆だったのである。日付が変わったばかりの3月1日、ついに雪崩が発生した。

 深夜の午前1時20分のことだった。雨で緩み切った積雪が幅470メートル、長さ700メートルの塊となって列車に襲いかかったのである。二本の列車、二両の蒸気機関車、4両の電気機関車、貨車とロータリー車、しまいには機関庫と給水塔までもがこれに押し流され、何もかもが50メートル下のタイ川に叩きこまれたのだった。

 当時の乗客の証言。

「客車は手品師のボールのように、空中に放りあげられてグルグルと回転した。私達は天井と床の間を跳ねとばされて往復した。客車はまるで卵の殻のようにはじけてしまった」

「客車はフワッと空中に浮かび、えもいわれぬ音をたてて谷底へ落ちていった。私は前の方に飛ばされ、気がつくと、パジャマのままで雪の中に倒れていた」

「私はうつぶせに倒れ、背中には重いものがのって身動きができなかった。悪夢のような痛みにうめき、時々意識も薄らいだ。だが背中の割れるような重さだけは頭に残っている。何時間たったかはわからない。私は自分の耳を疑った。人の声でシャベルの音が聞こえたのだ。勇気をふるい起し、しかしかぼそく、助けてくれ、と叫んだ」

 犠牲者96名、生存者22名。死者数こそ2ケタにとどまっているが、死亡者の割合は航空事故並みの高さだという。

 『事故の鉄道史』によると、アメリカと日本では、雪崩というか雪そのものの質が違うのではないかということである。この事故の例を見る限りでは、日本ではさほど珍しくないような積雪量で、あちらでは雪崩が起きてしまっているからだ。

 そのあたりのことは、筆者もいずれ確認することがあるかも知れない。山岳事故や雪崩事故の詳細を調べれば、きっとそういう話になると思うのである。とりあえず今回はこれで話を〆させて頂こう。

 ところでこの記事は、例によって『事故の鉄道史』を参考にしている。まあ、まる写しプラスアルファと考えて頂いて差し支えない。巷には『雪崩・その遭難を防ぐために』という文献があり、それにも詳細が載っているらしいが筆者は未読である。

 その文献に限らず、どこかで資料になりそうなものを見つけたら(無関係と思われた文献に、唐突に事故の話の詳細が載っていたりするのだ)また書き加えていきたい。雪の質の問題とあわせて、事故災害研究室は日々「成長」中である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア

 

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パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)

 核爆弾で意図的に大量殺戮の目標にされたのは、全世界中で今のところ日本人だけである。だが「核爆弾を落とされた」国が日本だけかというと実はそうではない。少なくとも1960年代には、スペインとグリーンランドにもボトボト落とされている。

 落としたのは全部アメリカである。しかも、どれもこれも「間違い」で落としたというのだからたまったもんじゃない。今回ご紹介するのはそんな事例である。

 

   ☆

 

 1966(昭和41)年1月17日。場所はスペイン、アンダルシア州アルメニア。地中海に面する田舎町パロマレスにて、この大失態は発生した。

 発端は、一機の爆撃機の衝突事故だった。上空3万1千フィートで空中パトロールをしていた爆撃機が、空中給油に失敗して給油機に追突したのだ。

 機体は墜落。爆撃機の乗員は全員が脱出したが、給油機のほうは全員が死亡した。

 追突した爆撃機というのは、アメリカのB-52F爆撃機256号機である。そして驚くなかれ、このB-52Fにはマーク28RIという水爆4発が搭載されていた。

 マジかよ、なんでそんなものが!? ――だが冷戦まっただ中の当時、これは不思議でもなんでもないことだった。この頃、米戦略空軍は24時間態勢で爆撃機を旋回させていたのだ。核戦争勃発ということになった場合、ただちにソ連の戦略目標目がけて攻撃できるように、である。

 これを「クロムドーム作戦」と呼ぶ。現代の視点で見ればまるきり常軌を逸した作戦だが、アメリカが過敏になるのももっともな話だった。この頃、ソ連はアメリカに先んじてスプートニクの打ち上げに成功していた。アメリカはいつ上空から爆弾を落とされるかと気が気でなかったのだ。

 さてそれで、パロマレス上空の衝突事故の結果、搭載されていた水爆のうち2発はまっすぐ地上へ落下。残り2発はパラシュートが開き、西風にのってふわふわり、どこかへ行ってしまった。

 前代未聞の事態である。核爆弾が「どっかいっちゃった~♪」(by東京少年)のだ。

 核兵器が関わるこのような事故を、アメリカは「折れた矢」Broken Arrow作戦と呼ぶらしい。

 ヒロシマとナガサキには平気で爆弾を落とした米軍も、これにはさすがに真っ青。慌てて探して、行方不明になった2発のうち1発は海岸で、もう1発は海の底で発見された。特に海の底のやつは回収までに相当難儀したようだ。海軍の深海調査船までもが動員され、水深700メートルの海底から引き揚げられたのは約3カ月後のことだった。

 だがしかし、陸上に落ちたほうの爆弾はもっと大変である。

 爆発したのだ、落下の衝撃で。

 とはいえヒロシマ・ナガサキのようにキノコ雲が上がるような大爆発ではなく、起爆剤が破裂したという程度だったらしい。少なくとも怪我人や死者が出たという規模ではなかったようだ。

 だが、汚染物質を撒き散らすにはそれで充分だった。おかげさまで周辺はプルトニウムまみれ、辺り一帯の土地と海水はたちまち高濃度の放射線に汚染された。

 アメリカは、汚染された土砂と農作物のトマト合計1,400トン(1,750トンという資料も)分を本国へ持ち帰る羽目になった。数にしてドラム缶4,810個。これらはサウスカロライナ州の核廃棄場で処理されたという。

 またアメリカは、スペインの人々に対しても必死に取り繕った。引き揚げられた核爆弾の傍らで軍高官が笑顔で立っている写真を公開したり、アメリカ大使を海で泳がせて「汚染の心配はないですよ~」とアピールしたりと、実に涙ぐましい努力である。

 スペイン政府も、アメリカに歩調を合わせてすぐ「安全宣言」を出した。間の悪いことに、当時のスペインには原子力発電を推進中だったのだ。原発利権が絡むと、どの国もやることは一緒である。

 そしてこの事故には、しょうもない「続き」がある。それがグリーンランドの一件だ。2年後の1968(昭和43年)1月21日に、アメリカの爆撃機がチュール空軍基地に墜落、炎上したのである。

 これが、スペインの時とおんなじB-52F爆撃機というだけでも「またお前か!」という感じなのだが、恐ろしいことにこの爆撃機、やっぱり同じ型式の核爆弾4発を搭載していた。冷戦の中の懲りない面々。またしてもクロムドーム作戦である。

 墜落した爆撃機は炎上すること6時間。グリーンランドの氷を3メートルも溶かし、海底へ沈んでいった。

 そしてここでも爆弾はしっかり爆発した。怪しい爆弾セシウムさんならぬプルトニウムさんに汚染された氷、雪、水およそ6,700リットル分を、アメリカは4カ月かけて本国へ持ち帰った。この回収作業を行った米兵はどうなったのか気になるところだが、ちなみに残骸の処理を行った地元のイヌイットたちはしっかり被爆したという。

 たった2年の間でこのザマである。冷戦時代全体で見たらこの手の事故はもっと起きているのでは? 誰しもそう思うことだろう。

 実際、噂は存在する。落下場所や落下後の経緯については極秘情報として不明であるものの、アメリカは他にも30件以上もの爆弾落下事故を起こしているとかいないとか。そんな風に言われている。

 この2度の事故を受けて、さすがのアメリカ政府も「クロムドーム作戦はもうやめよう」という結論に達した。

 しかしこの事故の話は、これで終わりではない。特にパロマレスでの一件は現代も尾を引いている。どうも新世紀になった頃から、パロマレスは急に危険地域と見なされるようになったらしいのだ。

 それまでスペイン政府は「パロマレスの大気中の放射線値は基準値より低く、住民の健康にも影響はない」と述べていた。しかし環境団体はそれはウソだと主張しており、そんな中でパロマレスでは普通に農業が営まれていた。

 ところが2004年、政府は突然パロマレスの土地2ヘクタールを買収。2006年には660ヘクタールの土地の調査を始め、地中5メートルの深きに渡り規制値以上のプルトニウム汚染が進行していることを確認した。そしてその中でも特に汚染のひどい41ヘクタールは、2007年までに柵で囲われ、立入禁止になっている。

 現在も、パロマレスの土地にはプルトニウムが残留しているという。土地の回復を含め、事後処理をどうするかについてスペインとアメリカは協議中だそうな。

 まあ、これについてはきっとオバマ大統領がなんとかしてくれるだろう。ノーベル平和賞もらってるしね。我々も応援しようではないか、「宿題やれよ! 歯ぁみがけよ! 責任とれよ!」てなもんである。

 

【参考資料】
◆西村直紀『世紀の失敗物語 兵器・乗物編―他人の失敗は蜜の味!』グリーンアロー出版社 1998年
◆ウィキペディア

 

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イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)

 この「イノバシオン百貨店火災」は、以前一度記事を書いたことがある。

 

 その時は岡田正光氏の『群集安全工学』だけを参考にしたのだが、このたび、同じ著者の『火災安全学入門』という著作に、より詳細な内容が載っているのを見つけた。よって加筆修正したのが本稿である。

 

 つまりイノバシオン百貨店火災は、まったく違うテーマの2冊の本に跨って紹介されているわけだ。このことからも、この事故が火災+群集事故のコラボによって大惨事に至ったことが分かる。しかもデパート火災としては、世界一の死者数である。

 

   ☆

 

 1967(昭和42)年5月22日。ベルギーの首都・ブリュッセルにあるイノバシオン百貨店は、大勢の人でにぎわっていた。

 

 この百貨店は1919(大正8)年に創立。当時のベルギーの大手百貨店のひとつで、RC造6階建て、延床面積は9,500平方メートル。従業員は1,200人おり、パリにも店舗があったというから、かなりイケイケである。 

 

 時刻は13時半頃。店内には約2,500名のお客がいたと考えられている。特に、4階の食堂は350席あるテーブルがほぼ満席だった。

 

 日本人の感覚だと、「えっ、なんで昼休みの時間を過ぎてるのに食堂にそんなに人がいるの?」と思うところだ。どうも、ベルギーの生活時間というのはラテン系だそうで、それで13~15時が昼休みになっているのだとか。

 

 ここで火災が起きる。火元は2階だった。婦人服売り場の、天井近くにぶら下がっていた少女服のあたりが燻っていたのだ。発見したのは女性店員だった。

 

 いけない、火事だわ――! この店員は30メートル離れた消防センターという場所に行き、粉末消火器を持ってきた。周囲には紙製の吊り天井もあり、燃えやすいことこの上ない状況である。早く消火しなければ――。

 

 だが、時すでに遅し。この時点で、もはや消火器程度では手に負えないほどに燃え広がっていた。

 

 そこで彼女は消防センターに戻り、火災報知器と非常ボタンで火災の発生を知らせた。時刻は13時34分。初期消火も火災の報知も全部ひとりでやったのだから、大変お疲れ様である。

 

 この後、非常ベルで事態に気付いた2人の自衛消防隊員が、消火栓からホースを伸ばして消火にあたったりもした。しかし彼らの奮闘もむなしく、炎も煙もひどくなる一方。従業員たちは退却せざるを得なかった。

 

 火炎はどんどん延焼した。火元の近くに、吹き抜けと階段とエレベーターがあるという、ただでさえ伝播しやすい状況だったのに加え、当時は店内にポスターや旗などの燃えやすい飾りが多くあったという。「アメリカ週間」と銘打ってバーゲンセール中だったのだ。

 

 煙は、5~6分で全館に拡がった。信じられないほどの速度である。

 

 この建物、消防設備はしっかり整備されていた。消火栓96箇所、消火器450個、煙感知器144個、押しボタン式警報装置60個が設置されており、また消防専従の職員も16名いたという。頼もしい限りだが、資料によると、従業員がこれらの設備を利用してどのような行動をとったのかについては「何をしていたのかよくわからない」らしい。おそらく、炎と煙の伝播が早すぎて、気付いた時にはもはや消火どころではなかったのではないか。

 

 ただ、店員たちは避難誘導はかなりしっかり行っていた。これについては後述する。

 

 中には、明らかな不手際もあった。13時半には、従業員の交代を知らせるベルが鳴っており、34分に鳴った非常ベルも同じものだと勘違いした従業員がいたのだ。彼は、騒ぎ始めたお客を「なんでもない」となだめたという。

 

 13時40分に消防の先発隊が到着した。この時、既に2階以上は煙に包まれており、おそらく最上階にあったのであろう「吹き抜けのドーム」なるものからも煙が出ていたという。つまり天井に穴が開いたのだ。いわゆる煙突作用で、ますます火勢は強くなっていった。

 

 1階にいた人たちは、全員無事に脱出した。中にはマネキン人形で窓を破った人もいたというから、それなりに難儀もしたのだろうが、とにかく死者は出なかった。

 

 問題は2階より上である。特に4階の食堂がやばかった。出火当時、この食堂がほぼ満席状態だったことは先に記したが、ここで260名が死亡することになる。

 

 この食堂について、もう少し詳しく書いておこう。ここはセルフサービス方式だった。お客は入口から一列で食堂内に入り、カウンターで好きな料理の皿を取って代金を払う。そして食後は、食器をコンベアに置いて出口から退出するというシステムである。

 

 この、入口と出口が問題だった。どちらも狭い上に一つずつしかなかったのだ。そこで濃煙が室内に進入してきたものだから、お客たちは一気にドアへ殺到。結果、多くの人が人混みに遮られ、食堂を脱出する前に煙あるいは有毒ガスを吸うことになった。

 

 イノバシオン百貨店の死者数は325名。うち8割が、この4階の食堂で死亡したことになる。死因は、大部分が窒息死。参考資料の言葉を借りれば、死者たちは食堂内で「袋のねずみ」状態だったという。

 

 一方で、当時4階にいたものの助かった人もいた。部屋の隅に避難用のハシゴがあり、そこから25名が脱出している。また、事務室を通って難を逃れた者や、外に飛び降りた者もいたという(もっとも、4階から飛び降りた全員が無事だったとはちょっと考えにくいが)。

 

 つまり、一応4階でも避難は不可能ではなかったのである。だが、助かった人によると、当時は猛煙で1メートル先も見えない状態だったという。よっぽど最初から避難ルートを心得ているか、あるいは幸運に恵まれなければ、脱出は難しかっただろう。

 

 その他、参考資料には当時の悲惨な状況がいろいろ書かれている。パニックに陥った人々が、避難通路に殺到して折り重なって死亡したとか、バルコニーから12名が次々に飛び降りたとか、衣服に火がついて逃げ惑う人々がいたとか……。ただ、具体的にどの光景がどの階で見られたものなのかは不明である。

 

 気が滅入るような大惨事だ。だが救助された人も大勢いた。例えば、2階のバルコニーに避難した約200名は、ハシゴ車で無事に助けられている。また店員や消防隊員の中には、窓ガラスを破って突入したり、火傷も厭わずに熱く焼けた階段を通り、人々を救出した猛者もいたという。隣接するビルのオーナーが、ロープを投げて約20名を救助したとか、消防隊が建物の下で救助幕を広げた時に多くの市民が協力したなどのエピソードは、美談と言ってもいいだろう。

 

 そして、この百貨店の店長は殉職している。お客を非常階段へ誘導して25名を助けた彼だが、この誘導のために何度も往復しているうちに店内で死亡したのだ。

 

 この他、従業員たちも上役の指示で避難誘導に努めたというから、非常時に備えた社員教育はきちんとしていたのだろう。

 

 さて、そうこうしているうちに、いよいよイノバシオン百貨店は崩壊し始めた。まず15時15分に、先述した吹き抜けドームが大音響と共に崩れた。さらに16時頃には、食堂のあるブロックも以下同文。大百貨店は数時間で焼け落ち、その残骸からは夜になっても火炎が上がっていたという。

 

   ☆

 

 それにしてもイノバシオン百貨店、何故これほど呆気なく焼け落ちたのだろう。消火設備はきちんとしていたのに、「いとも簡単に」と言っても差し支えないような焼けっぷりである。

 

 参考資料によると、この建物が造られたのは、百貨店の創立よりも約20年前の1901(明治34)年だった。さらに1904(明治37)年以降、5回にわたって改築が行われ、ツギハギの増築がなされている。これにより、全体の構造の統一性に欠けるところがあったようだ。

 

 詳しく記すと、本館は6階建てでRC造とSRC造が混在。中央部は最上階まで吹き抜けになっており、てっぺんはガラスの屋根がスライドして開くようになっていた。1~5階が売り場で、地下1階は倉庫と従業員用の控室。そして6階は管理部門である。これに、さらに4つの建物がくっついており、こちらはRC、鉄骨、レンガ作りが混在していた。

 

 で、ここまで書いておいてなんだが、筆者は建築の専門家ではないので、こうした構造にどういう問題があったのかはよく分からない。わざわざ資料に書かれているくらいだから、きっと何か問題があったのだろうと推測できる程度だ。

 

 ちなみに事故から遡ること31年前には、国立火災予防協会のブルーウェル氏(誰?)が、既にこの建物の危険性を指摘していたらしい。参考資料にも、竪穴としての階段とエレベーターが区画されていれば、これほどの大惨事にはならなかっただろうと記されている。それが本当なら、実にやり切れない。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年

◆ウィキペディア


ルクソール熱気球墜落事故(2013年)

 エジプトのルクソールで、現地時間の2013(平成25)年2月26日に発生した事故である。観光用の熱気球が、爆発と火災で墜落したのだ。

 

 ルクソールは、エジプトの超有名観光地である。首都カイロからナイル川沿いに南東へ約650キロ、王家の谷やカルナック神殿、ハトシェプスト神殿などの名所がずらりと揃っている。

 

 事故を起こした熱気球は、こうした観光名所を上空から一望するためのもので、運営していたのはスカイ・クルーズ社という地元企業。後からは何とでも言えるが、もともと現地では「危ない会社」と言われていたとか。

 

 当日、熱気球に乗り込んだのは、アジア・ヨーロッパの各国から訪れた観光客19名と、地元エジプト人の乗員2名。時刻は午前6時頃だったようだ。筆者は、こういう観光の一般的なスケジュールをよく知らないのだが、ずいぶん早朝から人が動くらしい。

 

 少し細かい話をすると、事故が起きたのは、ほとんどの参考資料の中で午前6時半と書かれている。だが日本経済新聞の記事にだけは、午前7時と推測できる形で書いてあった。ただこの記事は、情報が曖昧なままの状況で書かれたっぽいので、午前6時半説の方が正しい気がする。

 

 というわけで午前6時半のこと。遊覧飛行を終えた熱気球が、着陸のために高度3~7メートルまで降下したところで、ゴンドラの中で火災が発生した。

 

 火災の原因はガス爆発だった。着陸直前にゴンドラから投げ下ろされたロープが、ガス用のホースに引っかかるか何かしたのだ。ロープは、本来ならば、地上にいる者が熱気球を引き下ろすために使われるはずだった。

 

 もともとこの熱気球は、ボンベから供給されるガスを4つのバーナーで燃やし、熱したその空気で浮き上がる構造だった。だがホースが外れたことでガスが漏れて引火、爆発したのだ。

 

 この、最初の爆発だけで一気に燃え広がったようだ。奇跡的に助かった操縦士の男性は、ホースが切れた次の瞬間には火炎に襲われ、最終的には全身の7割に及ぶ大火傷を負っている。彼はその時、乗客たちに「ジャンプ!ジャンプ!」と飛び降りるよう促したという。

 

 気球は急上昇した。火災のため、気球内の空気が一気に温められたのだ。この時点で、既に気球本体にも炎が及んでいた。

 

 高度10メートルまで上昇したところで、乗員乗客のうち3名がゴンドラから飛び降りている。先述した操縦士の男性と、観光客のイギリス人男性2名だ。後者のうち1名は怪我を負い、もう1名は死亡した。

 

 黒煙を上げながら、気球はさらに上空200メートルまで上昇。コントロールは完全に失われており漂流状態だったという。この間にも8名の乗客が次々に飛び降りた。

 

 ゴンドラが軽くなったことで、気球はさらに300メートルまで上昇した。当時撮影された動画がネット上に残っているが、それを見ると、この上空300メートルに到達した時点でゴンドラは完全に炎に包まれていたようだ。程なく、全焼した気球は一気にしぼんで墜落した。

 

 墜落したのは麦畑である。途中で飛び降りた8名も、ゴンドラに取り残された10名も助からなかった。先述したイギリス人男性を含め、最終的な死者は19名。中には日本人4名も含まれていた。

 

 一命をとりとめた操縦士の男性は、乗客を救助することなく、いち早く逃げた形である。よって事故直後の報道では、彼を非難する声もあったようだ。その後、彼は過失致死容疑で逮捕された。

 

 とはいえ、最初のガス爆発が起きた直後、現実的に彼が人命救助を行い、なおかつ乗客たちが脱出をはかるような余裕があったかどうか、ちょっと微妙な気もする。気球は急上昇しながら小爆発を繰り返していたというし、これは筆者の推測だが、上空200メートルから8名が飛び降りたのも、炎から逃れようとするための行動だったのだろう。気球の墜落というショッキングさが際立つ事故だが、爆発と火災の威力も相当なものだったと思われる。被害者の死因は何だったんだろう?

 

 この事故を受け、エジプト政府は調査委員会を設置して原因を調査。当時の民間航空相は「再発防止策が取られなければ、気球の運航は再開しない」と述べたそうだ。それから4年経った現在はどうなっているのだろう。

 

 ちなみに、熱気球による死亡事故は、このルクソールのものが史上最悪である(2017年10月現在)。その前は、1989(平成元)年にオーストラリアで熱気球同士が衝突し13名が死亡したのが最悪だったが、ルクソールのはこれを超えた。

 

 ところでエジプトでは、2011(平成23)年のエジプト革命でムバラク大統領が退任し、モルシ大統領に替わったという経緯があった。観光産業の安全管理が甘くなったのはそのせいではないか、という説もある。いわく、各分野での管理者が軍人から文民に替わったため、安全の監査が緩くなったのではないか…ということだ。

 

 しかし、この説がどの程度まで妥当なものかは分からない。モルシ大統領側も、安全体制の緩みは前政権の負の遺産だと反論しているし、そもそもルクソールでの熱気球ツアーでは、2009年と2008年にも、それぞれ16人と9人が負傷する事故が起きている。もともと熱気球というものは事故る確率が高いのかも知れないし、あるいはそういう土地柄なのかも知れない。

 

 土地柄ということで言えば、革命で統治者が軍人から文民に替わるという状況自体が、我々日本人から見れば剣呑である。やや余談じみるが、ルクソールでは1997(平成9)年11月17日に、テロで外国人旅行者など63名が殺害される事件も起きている(被害者のうち10名は日本人)。これは当時のテロリストが、地域の観光業にダメージを与えて政府転覆に繋げようとしたものらしい。

 

 別に、エジプトの観光関係者の安全管理がみんないい加減だとか、人命を軽視する風土だとか、そこまで言うつもりはない。ただ、海外にツアー客として出かけた場合、多人数で行動する場所では、事故れば大惨事になるし、テロリストによる派手な大量殺人の標的になることもある。そういう可能性を踏まえた慎重さは必要だ…ということくらいは言えると思う。そうした危険を可能な限り回避するには、やっぱり勉強が必要なのだ。

 

 このあたり、ツアー客が事故に遭遇することの現状と展望については、吉田春生『ツアー事故はなぜ起こるのか』(平凡社新書2014年)が興味深い。この本の中でも、熱気球の事故の危険性の高さについては、もともとツアー関係者の間でも共通の認識だったということが書かれている(ちなみにルクソールで事故った熱気球ツアーは、ツアーの本来のスケジュールとは無関係の、現地で申し込みをするオプショナルツアーだった)。

 

 余談ついでだが、この事故の遺族は、スカイ・クルーズが契約していた保険会社から、補償として一応お金が支払われている。被害者一人につき7万円程度だったそうな。もともと、人間ではなくゴンドラの方に掛けていた保険から下りたお金だったので、それくらいになったらしい。やり切れない話だ。

 

 海外に行くときは、気を付けよう。

 

 ましてや熱気球に乗るならなおさらだ。

 

【参考資料】

◆吉田春生『ツアー事故はなぜ起こるのか』平凡社新書、2014年

◆CNN.co.jp「エジプトで熱気球墜落、日本人含む外国人観光客ら死亡」(2013年2月26日付)

https://www.cnn.co.jp/world/35028785.html

◆日本経済新聞「気球から次々飛び降り エジプト墜落、出火後に急上昇」(2013/2/28付)

https://www.nikkei.com/article/DGXNZO52234680Y3A220C1CC1000/

◆AERAdot「気球事故、遺族へはわずか7万円 海外ツアーのリスク」(2013.3.4付)

https://dot.asahi.com/aera/2013030400038.html

◆NEVERまとめ

https://matome.naver.jp/odai/2136200422042064701

◆NewSphere

https://newsphere.jp/world-report/20130227-8/

◆J-CASTテレビウォッチ

https://www.j-cast.com/tv/2013/02/27167118.html?p=all

◆ウィキペディア



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