目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)

 今、筆者の手元に、1枚の奇妙な写真がある。

 まず旅客機が1機、画面を横切っている。角度からしておそらく離陸したばかりなのだろう。

 問題はその機体の左下である。人の姿が写っているのがお分かりだろうか。一体なぜこんなところに? なにが起きたというのだろう?

 以下、この写真が掲載された当時の新聞から引用し、その説明にかえさせて頂く。

 

『密航少年、日航機から転落 シドニーで』

 

【シドニー(オーストラリア)二十三日UPI】

 日本航空のDC8型ジェット旅客機が二十二日、シドニーのマスコット空港からマニラに向けて飛立ったさい、機首の車輪格納部に隠れていた少年が転落して死亡した。
 警察の調べによると、この少年はキース・エマニュエル・サプスフォード君(一四)といい、密航しようとして車輪格納部にしのびこんだが、同機が地上約六十㍍に上昇したところで格納部から転落したらしい。義父のサプスフォード教授は「息子の望みは世界を見ることだけだった」と語った。

(写真説明)日航機から転落する密航少年。この写真はアマチュア写真家が撮影した(AP=共同)

 ◇1970年(昭和45年)2月24日・毎日新聞朝刊より

 

 何がなにやら、である。

 大体、いきなり「義父のサプスフォード教授は」とか言われてもアンタ誰? としか言いようがない。

 とにかく、大学教授の義理の息子が家出をし、世界旅行を夢見て事故死したということだ。背景に何かドラマがありそうだが、これ以上の詳細は不明である。

 

【参考資料】
 毎日新聞

 

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聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)

 格闘漫画『バキ』でシンクロニシティという概念が登場する。偶然の一致としか言えない事象の背後になんらかの要因や意志の働きを見出そうとする考え方とでも言おうか。こうしたシンクロニシティの背後に、神秘的な力の存在を見出す立場もあるようだ。

 そして困ったことに、事故災害の歴史を紐解くと、このシンクロニシティの例には枚挙に暇がないのである。日本で言えば八高線での連続事故三河島事故鶴見事故千日デパート火災大洋デパート火災、航空機事故などなどがある。そして話がこのような人災ともなれば、神秘的な力のせいということで簡単に片付けるわけにもいかない。原因の究明が急務となることは言うまでもないだろう。

 今回挙げるのは、1994年にソウルで発生した建造物崩壊事故である。この翌年には三豊百貨店の崩壊事故も起きており、これもまたシンクロニシティであろう。

 その建造物の名は聖水(ソンス)大橋。ソウル市内の漢江にかかり、城東区と江南区を繋いでいた橋だった。これが1994年10月21日の午前7時40分、突然崩壊して20メートル下へ落下したのである。

 崩壊といっても、橋全体が崩れたわけではない。橋の一部分がパキッともげて、その部分だけが落下したのだ。だが間の悪いことに、当時は朝の通勤通学時刻だった。その上、橋上では雨による交通渋滞が発生していたのである。

 さらに、当時の漢江は渇水中だった。よって崩壊した橋のパーツが完全には水中に没せず、落下した車はもろに橋の舗装部分に叩き付けられ大破する結果になった。川の水がクッションの役割をこれっぽっちも果たさなかったのである。

 結果、死者は32人。うち17名は通学のためスクールバスに乗っていた女子中高生だった。

 事故の原因は、手抜き工事と判明した。

 もともとこの聖水大橋は、走行中の揺れが激しいということで多くの苦情が寄せられていたという。それもそのはず、この橋は施工当時から要所要所の溶接がいい加減で、鋼材の腐食やひび割れもひどかった。

 また、その後のチェックによって溶接部分の異常が何度も確認されていたにも関わらず、橋を管理していたソウル東部建設事務所は補修工事を一切行っていなかった。事故当時は、ソウル市のほうでようやく橋の補修を始めたところだったのだ。

 当時の韓国では、都市部での大規模建築が盛んだった。だがしかし、関係者の技術もモラルも危機管理も時代の要請に応えられる状態ではなく、「安く早くドンドン建築すべし」という風潮だけが先走っていたようだ。さらに、橋上の交通量が当初の想定の2倍に上っていた点も惨劇の呼び水になったと言えるであろう。聖水大橋は建造物としては比較的新しいものだったにも関わらずこうして崩壊し、人々に衝撃を与えた。

 だがさすがに、こんな事故が起きては国民も黙ってはいない。国内に蔓延する手抜き工事への対策を練るべし、という声に押されて、当時の金泳三大統領は全国の道路や橋梁の一斉点検を始めた。

 聖水大橋については、国内の業者ではなく外国の専門企業が復旧工事を行うことになった。この工事契約を落札したのは英国のコンサルタント、レンデル・パルマ-・アンド・トリトン(RPT)社だった。

 まあ「RPT社だった」などと言ってみてもそれがどんな会社なのか筆者はさっぱり分からないのだが、再設計の後に1997年に再び開通した聖水大橋、2001年にはまた手抜き工事が発覚したというから、どうせロクな業者ではなかったのだろう。……というのはちょっと言い過ぎかな。これは根拠のない呟きと思って頂きたい。

 ちなみに、日本の橋はどうなのだろう。

 この聖水大橋の事故は日本にも衝撃を与え、多くの技術者がコメントを寄せている。そしてこの技術者たちの回答は以下のようなものだった。

「日本の橋は、通常の供用条件で、いきなり崩壊落下するようなことが絶対にないように安全に設計され、厳重な品質管理がされている」。

 そして2008年8月28日には、新潟市の朱鷺メッセ連絡デッキ橋が「通常の供用条件」でいきなり崩壊落下した(怪我人なし)のだから、まったくいい加減なものである。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア
◇失敗知識データベース

 

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三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)

 1989年からソウルに存在し、1995年に姿を消した三豊(サンプン)百貨店。

 この百貨店がソウルから「姿を消した」のは、決して閉店して取り壊されたなどという真っ当な理由からではない。冗談のような話だが、この建物は真ッ昼間にいきなり崩壊してしまったのである。

 ソウルの一等地に建てられたこのデパートは、その日、1995年6月25日もごく普通に営業していた。しかし午後5時55分に建物がメキメキグラグラ、ガタガタと音を立て始めたかと思ったら、20秒ほどで崩れ落ちたのだ。

 死者502人、負傷者937名というこの被害の大きさは、もはや天災クラスである。どんなに規模の大きい炭鉱事故や飛行機事故でも、なかなかこうはいかない。

 大変だァ、地震かガス爆発かそれとも北朝鮮のテロか!? 崩壊直後にはそんな憶測が飛び交い、海外の多くのニュースソースがこの大事件に注目した。そして救助活動が難航する中で原因の究明が進められていった。

 しかし、この崩壊がまさか本当に「ただの崩壊事故」だったとは、当初誰もが考えなかったに違いない。地震もガスも爆弾も、ましてやお隣のならず者国家などはこれっぽっちも関係なく、この三豊百貨店はまるきり自分自身の重量を支えきれずに崩れ落ちたのだった。

 実はこの事故、「いずれこういうことになるんじゃないか」と薄々勘付いていたひとりの人物がいた。当時の施設マネージャーだった男性である。

 彼は、事故前夜には「建物から異様な音がする」という報告を受けていた。また彼自身も、あるフロアの床で、柱の周辺がひび割れているのを目撃していたのだ。だがその時は、この柱があった食堂を封鎖する程度でお茶を濁していた。

 まずいな、この建物、まさか崩れるんじゃないだろうな――。彼には、その不安を杞憂として笑い飛ばせないような理由があった。

 そもそも三豊百貨店は、建設の段階からして、その強度には問題があったのである。建設途中で建物の用途を変更してしまったり(もともと地上4階のオフィスビルにする予定が、急遽5階建てデパートになった)、柱の材料をケチったりしたせいで、建物の総重量とそれを支える強度とのバランスがおかしくなっていたのだ。
 しかも事故の前年には、地下の売り場で違法の増改築を行っていた。さらに言えば最上階のレストランにも床暖房を入れたせいでさらに重量が増しており、これで不安に思わないほうがおかしい、というような状態だったのである。

 挙句の果てに、である。事故直前には屋上にあったエアコンを移動する作業を行ったのだが、この時に、屋上の床に盛大にヒビが入っていたからもういよいよ洒落にならない。普通ならクレーンあたりで持ち上げて空中を移動させるべきところを、費用をケチるためにズズズッと引きずって動かしたのだ。それで床が壊れたのである。

 マネージャーの脳裏でこうした不安要素がよぎりまくっている間にも、建物の中ではミシミシガタガタと異音が響き渡っていた。「この建物あぶないんじゃないか」という噂が店員の間でも囁かれており、ああもうこれは一刻の猶予もない。マネージャーはオーナーに相談した。

「オーナー、かくかくしかじかで、営業を停止して建物を点検したほうが」
「バカモン、営業を停止するとは何事だ! そんなものは閉店後に行えばいいのだ!」

 ちなみに、三豊百貨店の建物の用途を建築段階でいきなり変えてしまったり、それに反対した建築業者を解雇したりしたのもこのオーナーである。

 オーナーの思いつきで、行き当たりばったり、出たとこ勝負で建築された悲劇の商業施設、三豊百貨店。これは変更に次ぐ変更、追加に次ぐ追加で、気がつけば最早まともな建物ではなくなっていたのだった。しかも、こうした変更を行政に認めてもらう見返りにと、経営陣はちゃ~んと役人に賄賂を渡していたという。

 どうせ労力と費用を注ぎ込むなら、建物の修繕のほうにすればいいのにねえ。思わず「そっちかよ」と突っ込みを入れたくなるのは筆者だけではあるまい。

 かくしてこの百貨店は崩壊した。崩壊一歩手前の状態に最後のとどめを加えたのは、業務用の巨大エアコンだったと言われている。ヒビだらけの建物では、エアコンの振動には耐えられなかったのである。

 百貨店の経営陣は、3人が業務上過失致死傷罪で逮捕された。オーナーは懲役刑を食らい、さらに全財産を没収までされて2003年には病死している。

 まあ、「あり得ないだろうこんなの」と言いたくなる事故ではある。だが少し考えてみれば、我々(日本人)が今までこのような事故に遭遇せずに済んできたのは、たまたま幸運だったからに過ぎない気もするのである。

 建物の崩壊とまではいかなくとも、たとえば日本で70年代に多く発生したビル火災では、やはり建築構造の杜撰さから大量の死者が出ている。結果は違えど、建造物に関するルールをいかに守らせるか――という問題は根っこでしっかり共通していると思う。

 そうした事例を教訓とし、今では建築基準法や消防法の遵守も徹底されるようになってきた。だが、遵守の実態というのは本当に抜き打ちでの点検でもしない限り把握できないものだと思うし、それに一級建築士が強度の偽装を絶対に行わないとも言えないだろう。

 こうしたことを踏まえて考えると、この三豊百貨店の崩壊事故は、日本にとって決して縁遠い「トンデモ事故」ではないのである。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆ディスカバリーチャンネル

 

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三河島紀行(フィールドワーク)

 三河島へ行ってきた。

 筆者は、常々「鉄道は嫌いではないが、別に鉄ちゃんではない」と公言している。だがさすがに今回のように事後現場巡礼までしてしまうと、「事故鉄」と呼ばれても仕方ないかなと思う。

 まずは、三河島駅に降り立った。

 それから事故現場目指してしばらく歩いた。天気もよく、まさしく巡礼日和であった。

 実は、筆者の父は、むかーし荒川区に住んでいたことがある。それで三河島のあたりというのは街並みが独特だと以前から聞かされていたのだが、今回歩き回ってみて納得した。なにが特徴的って、家々の密集の度合いが半端ではないのである。

 否、密集というよりもむしろ、街の一画一画それぞれが固まってひとつの集合住宅になっているような印象を受ける。ギチギチに詰まっているのだ。

 筆者の住んでいる山形県では、いくら家が隣同士とは言っても、必ず建物と建物の間に隙間がある。しかし三河島にはそれがないのである。これは驚きだった。 

 とにかくギチギチに住居がひしめいている中で、ちゃんと改築されたらしい小奇麗な家もあれば、昔ながらの古びた住宅もある。それらが、並んで建っているというよりもはや「食い込み合っている」とでも言いたくなるような形になっているのである。

 道路の幅は、ほとんどが車一台通るのがやっとである。一体、住宅の改築の時にはトラック等の車はどうやって入ってきたのだろう? と不思議になってくる。

 それでも、街を歩いていると、住民の乗用車は狭い狭いスペースにきちんと車を押しこんで駐車したりしている。きっと三河島に住む人々というのは、昔から車を停めるコツを心得ているのだろう。

 この街は、東京から見るといわゆる「周縁」に属する地域なのだと聞いたことがある。たとえば朝鮮の人たちがこの周辺には多く住んでおり、屠刹場も多くあったと聞く。まあそれは断片的な情報ではあるのだが、そうした事柄が街の独特の雰囲気を形成しているのだと考えると納得のいく部分もある。

 父いわく、三河島あたりに住んでいる人々の連帯意識はとても強かったという。地域の連帯意識ということでいえば、筆者の住んでいる山形県の田舎などももちろんそうだ。だが三河島はそれに引けを取らないほどだというから、人の心は似たり寄ったりなのだなと思ったりもする。所変わっても品変わっても変わらない心はある。そうした心が、遠い時代の、遠い場所の、凄惨な事故の記憶によって共鳴するのである。

 さあ事故現場が近付いてくる。正面にいる2人は筆者の友人である。

 そしてこれが事故現場である。

 この高架のほぼ真上で、あの伝説の三重脱線事故は発生した。

 動画で観て頂くと分かるが、当時の三河島事故の現場は土手の上である。その土手が、今はこのような高架になっている。

 さすがに、高架上に行けるような階段はない。よって下から撮影するしかない。事故現場の正面には小奇麗なマンションが建っているので、建物の後ろから覗き込むようにパチリ。

 昭和37年5月3日、上野行き上り2000H電車はここから脱線・転落したのである。

 ついでに反対側からもパチリ。

 次は慰霊碑である。三河島駅から徒歩で3、4分の場所にある浄正寺という場所にあると聞いているので、さっそく向かう。

 不思議なことに、線路を越えると街の様子が一変する。三河島地区はものすごい住宅密集地域だったが、こちら側はごく普通の住宅街といった趣だった。線路一本挟んだだけでこうも違うのかと少し驚く。

 到着。

 こんな案内板もあった。

  三河島事故の説明もちゃんと書いてあり、きっと遺族以外にも筆者のようなマニアが来たりするのだろうと思う。

 事故の説明もあった。

 慰霊碑である。ちゃんと拝んできた。

 犠牲者の冥福をお祈りします。本当に心からお祈りします。日本の文化を陰から支えている多くの事故死者たち。戦後日本の裏歴史に刻み込まれたすべての英霊たち。それら全てに祈りを捧げます。

 

 卒塔婆に、お寺の写真。

 どうも都会のお寺は狭苦しい。

 ちなみに、同行してくれた2人の友人は鉄道事故にはまったく興味のない人間である。よって終始「きうり氏、一体なにが面白いの?」という顔をしていた。

 だから筆者もなんとなく悪い気がして、想像していたほどじっくり三河島地区を見物することはできなかった。今思うと、駅のそばの公園で井戸端会議をしていたお婆ちゃんたちにでも話しかけて、事故当時の話でも聞ければ良かったと思う。

 

(三河島紀行・了)

 

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グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)

 1910年、すなわち日本では明治43年にあたる年に、アメリカで発生した鉄道事故である。

 もっともこの事故、鉄道事故というべきか雪崩災害というべきか微妙なところだ。日本の事例との比較でいえば1922年の北陸線の事故と似ており、実際『事故の鉄道史』でもその絡みでこの事例を挙げている。

 アメリカのグレート・ノーザン鉄道は、かつてこの国で売り上げナンバーワンを誇っていた第一級鉄道である。巨大な大陸横断鉄道で、開通は1893年だった。

 実はこの1893年という年は、アメリカ史上でも有名な恐慌のひとつが発生した年でもある。南北戦争直後の産業化によって経済のバランスが崩れてしまったのだ。しかしそんな時代状況でも、このグレート・ノーザン鉄道は生き延びており、すげー生命力である。

 とにかく、アメリカを代表する大鉄道で起きた大事故ということである。

 1910年(明治43年)3月23日、ワシントン州は猛吹雪に見舞われた。

 この日は、グレート・ノーザン鉄道の5両編成の旅客25列車と、それに27郵便列車が、スカポーン-シャトル間の約500キロの距離を走行する予定だった。だがこの大雪のためにまずスティーヴンス峠の手前で丸一日動けなくなってしまい、やっと動いたかと思えば、今度はその先でのウェリントンでも停止せざるを得なくなった。

「なんだこの先は除雪されてないのか! これじゃ進めないよ!」

 というわけで、この2本の列車は、ウェリントン駅の西側の待避線に並んで停車した。

 24日は丸一日スティーヴンス峠の手前で過ごしたが、ウェリントンの場合はもっとひどく、25日も26日も列車を動かすことは叶わなかった。小規模な雪崩もちょこちょこ発生しており、それによって除雪用のロータリー車も動けなくなってしまったのだ。

 さらには電信も不通になり、列車は完全に「陸の孤島」状態。ウェリントンの当時の積雪は3・7メートルと電柱もほとんど埋まってしまうほどのもので、24日から除雪作業ばっかりしていた駅員も、もう体力的に限界だった。

 また、いつ大雪崩が来るかも分からない。それを恐れた乗客の一人は、鉄道会社の監督にこう要請した。

「列車をトンネルに入れてくれよ。俺、怖くてさ」

 だがトンネルはトンネルで水が流れており、中に入ればホテルから食事を届けてもらうことはできなくなる。またトンネル内は湿気はあるし、機関車の煤煙が溜まれば危険だ。要請は却下された。

「まあまあ、除雪車の救援も来るはずですから。もう少し我慢して下さい」

 仕方ねえなあ、ブツブツ。だがこの判断が正しかったのかどうかは、この後で起きた結果を見れば微妙なところであろう。

 2月27日は日曜日で、たまたま乗り合わせていた神父がミサを行ったという。この日、天候はまたしても大荒れになっていが、これで乗客も少しは落ち着いた。

 状況が変わったのは28日からである。急に暖かくなって雪がみぞれになり、さらに雨になったのだ。寒波が去り、南風が吹いてきたことを乗客は素直に喜んだ。……が、これは大惨事の予兆だったのである。日付が変わったばかりの3月1日、ついに雪崩が発生した。

 深夜の午前1時20分のことだった。雨で緩み切った積雪が幅470メートル、長さ700メートルの塊となって列車に襲いかかったのである。二本の列車、二両の蒸気機関車、4両の電気機関車、貨車とロータリー車、しまいには機関庫と給水塔までもがこれに押し流され、何もかもが50メートル下のタイ川に叩きこまれたのだった。

 当時の乗客の証言。

「客車は手品師のボールのように、空中に放りあげられてグルグルと回転した。私達は天井と床の間を跳ねとばされて往復した。客車はまるで卵の殻のようにはじけてしまった」

「客車はフワッと空中に浮かび、えもいわれぬ音をたてて谷底へ落ちていった。私は前の方に飛ばされ、気がつくと、パジャマのままで雪の中に倒れていた」

「私はうつぶせに倒れ、背中には重いものがのって身動きができなかった。悪夢のような痛みにうめき、時々意識も薄らいだ。だが背中の割れるような重さだけは頭に残っている。何時間たったかはわからない。私は自分の耳を疑った。人の声でシャベルの音が聞こえたのだ。勇気をふるい起し、しかしかぼそく、助けてくれ、と叫んだ」

 犠牲者96名、生存者22名。死者数こそ2ケタにとどまっているが、死亡者の割合は航空事故並みの高さだという。

 『事故の鉄道史』によると、アメリカと日本では、雪崩というか雪そのものの質が違うのではないかということである。この事故の例を見る限りでは、日本ではさほど珍しくないような積雪量で、あちらでは雪崩が起きてしまっているからだ。

 そのあたりのことは、筆者もいずれ確認することがあるかも知れない。山岳事故や雪崩事故の詳細を調べれば、きっとそういう話になると思うのである。とりあえず今回はこれで話を〆させて頂こう。

 ところでこの記事は、例によって『事故の鉄道史』を参考にしている。まあ、まる写しプラスアルファと考えて頂いて差し支えない。巷には『雪崩・その遭難を防ぐために』という文献があり、それにも詳細が載っているらしいが筆者は未読である。

 その文献に限らず、どこかで資料になりそうなものを見つけたら(無関係と思われた文献に、唐突に事故の話の詳細が載っていたりするのだ)また書き加えていきたい。雪の質の問題とあわせて、事故災害研究室は日々「成長」中である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア

 

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