目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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天六ガス爆発事故(1970年)

 1970年4月8日、三島由紀夫が割腹自殺を図るよりも半年ほど前に起きた事故である。

 場所は大阪市北区天神橋六丁目、通称「天六」。大阪駅から東北に2キロほど行った所にある繁華街である。

 この頃、この「天六」の地下では大規模な工事が行われていた。地下鉄工事である。ちょうどその年に開催された万国博覧会をきっかけとして、大阪市は再開発が急ピッチで進められていたのだ。そして当時の大阪は世界第9位の地下鉄都市で、今度は周辺都市への路線延長が計画されていたのである。

 工事の方式はオープンカット方式と呼ばれるものだった。道路に穴を掘り、作業員はその穴に下りて作業を行う。そして穴の上にはコンクリートの板を敷いて、車や歩行者はそこを行き来できるようにするというものだ。

 フタをした鍋を想像すると良いかも知れない。フタの上を人々が行き来しており、鍋の中で作業員が工事をしているという構図である。

 さて、大事故の予兆があったのは午後5時15分頃のことである。地下での配管工事が行われている時、いきなり都市ガスが噴出したのだ。

 この段階で作業員27名は即座に脱出したというから、噴出の勢いは相当なものだったのだろう。ガスはたちまち地下の「鍋の中」に充満し、地上にも溢れてきた。道路に敷き詰められたコンクリート板の隙間から不快なガス臭が漏れ出て、付近の住民たちは一体何事かと外へ出てきた。

 そして最初にガス漏れが発生してから5分程経った午後5時20分、ガス会社のパトロールカーもこのガス漏れを発見。緊急車輌や工作車が呼び出され、消防車も駆け付けた。天六周辺はもう大騒ぎである。

 騒然とした中で、野次馬や、通行人や、付近の住民たちに避難が呼びかけられた。

 そしてもちろん、現場は火気厳禁である。しかし作業員たちの必死の呼びかけにも関わらず、結果的には多くの人々が爆発に巻き込まれることになってしまった。

 昔のながいけんならきっと「どぼずばああああああん」と書くところだろうが、笑い事ではない。推定5万立方メートルの規模まで漏れたガスは2トン爆弾に匹敵する破壊力を持つ。たちまち10メートルを超す高さの炎がビルの上まで噴き上がり、工事の穴を塞いでいたコンクリートの板(1枚につき重量400キロ)が何百枚も跳ね上がった。道路は長さ200メートル、深さ150メートルに渡って陥没したという。おいおい戦争じゃないんだからさ、と言いたくなる惨状である。

 結果だけを見れば、最初のガス漏れの段階で自衛隊あたりが駆け付けてもおかしくないほどの事態だったのである。

 言うまでもなく、現場にいた野次馬も、作業員も、事故車輌も、信号待ちの車も、全てがぽぽぽぽーんと爆風で吹き飛んだ。その結果、工事中の地下へ落下して79名が死亡。負傷者は420名に及んだ。

 また悪いことに、そこは夕刻になると仕事帰りの乗用車が多く通過する場所でもあった。

 消火と救助活動は、翌10日の午前1時頃まで続いた。地下に落下した犠牲者をクレーンでまとめて吊り上げたり、電柱に引っかかった遺体を収容したりと、その作業は凄惨かつ難航を極めたものだったらしい。死因のほとんどは全身打撲だった。

 家屋は全部で26戸が全半焼、損壊が336戸。ドアや窓ガラスが破れただけの家も含めれば被害は1000戸を越えた。

 さて問題はガスに引火した原因だが、これが今になってみるとよく分からない。一応、エンストを起こした事故処理車がエンジンをかけ直しているうちに火花が引火した――というのが通説になっているが、それも推測の域を出ないようだ。

 次は裁判である。この工事の施工監督は大阪市で、これが業務上過失致死で起訴された。だが大阪市は、実際に工事を行った建設会社やガス会社と責任をなすり合う形になり、このなすり合いは15年もの長きに渡って続いたのだった。どうもネット上で調べてもどういう判決になったのかよく分からないのだが、きっともうグダグダだったのだろう。

 ただし、補償は早かった。上記3者は、事故の8ヵ月後には被害者や被害者遺族に対する補償を終えていたのである。そしてついでに言えば事故の7ヵ月後には工事も再開されていたというから、とにかくさっさと丸く治めて工事を予定通り進めてしまおうという意図もあったに違いない。

 そうした観点で言えば、被害者や被害者遺族たちは、迅速な補償によってかえってうまくガス抜きをされてしまったのではないかという気もする――ことがガス爆発事故なだけに、と、これは悪い冗談だが――。

 慰霊碑は存在する。天六の近くにある国分寺公園の中にあるそうだが、平成6年を最後に慰霊祭は行われていないという。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇失敗百選
 ◇アサヒグラフ

 

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日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)

 どぼずばああああああん。

 

 2008年4月7日のことである。横浜市金沢区福浦にある日本カーリット株式会社の工場で爆発が起きた。

 

 え、また?

 

 そう、またなのである。――と言っても前回の事故からは50年も経っているのだが。

 

 ネット上の情報をざっと眺めてみたが、この2008年の爆発の時刻は定かではない。当時の新聞もチェックしてみたのだが、事故のニュース自体が全然載っていなかった。

 

 現場は敷地内の実験棟で、従業員2人が病院送りとなった。うち1人は死亡している。なんだか死傷者数までもが、50年前の同社の爆発事故と似通っていて不気味だ。

 

 爆発の原因だが、「化学物質トリクロロシランなどの液体をオートクレーブで混ぜる際、加湿装置から蒸気が漏れ、薬品と混ざって化学反応を起こして圧力が異常に上がり、釜が爆発した」らしい。素人としては、ハァそうですかとしか言いようがない。

 

 まあ、それは物理現象としての原因である。人的ミスがあったのではないか、という観点で調べたところ、加湿装置とやらの自主検査を10年以上もサボッていたことが判明。これにより装置の劣化に気付かなかったのではないかと考えられた。

 

 この加湿装置の自主検査について、当時の工場長はしなくてもいいと勘違いしていたらしい。ただ、死亡した従業員からは装置の老朽化を訴えられていたというから、これでは工場長、言い逃れもしにくかったことだろう。2009年12月16日、当時の工場長と副工場長は横浜地裁へ書類送検された。容疑は業務上過失致死傷である。

 

 だがこれについては不起訴となった。仮に自主検査を行なっていたとしても、爆発の原因となった装置の亀裂を見つけるのは難しかっただろう――と横浜地検は判断したのだ。

 

 この不起訴の方針が確定したのは、2009年12月28日のことである。資料によると、年明けには不起訴にすることが決まった――とあるが、実を言えばその後本当に不起訴になったのかは不明だ。これも新聞には載っていなかった。

 

 さらに言えば、不起訴になったのは「3人」らしい。工場と副工場長、あと死亡した人の3人である。しかし死亡した人が副工場長だったのか、副工場長は2人いたのか、助かった人は副工場長だったのか、などの詳細は不明である。

 

 ついでに、県警は消防法違反で日本カーリットとその営業課長も書類送検した。こちらは、トリクロロシランなる化学物質を、市の許可を得ずに法定貯蔵量を超えて貯蔵したのが引っかかってしまったらしい。これについては、不起訴になったという記述は見つかっていない。

 

【参考資料】
◆「化学業界の話題」
http://knak.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-d037.html

 

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日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)

 どぼずばああああああん。

 

 2010(平成22)年1月7日のことである。横浜市金沢区福浦にある日本カーリット株式会社の工場で爆発が……

え、それはもう聞いたって?

 

 いやいや。よく見て下さい。日付と時刻が違うでしょう。2年前と同じ場所で起きちゃったんです、またしても爆発が――。

 

 時刻は、資料によってまちまちだが、大体17時45分~48分頃で間違いないようだ。場所は、横浜新都市交通金沢シーサイドライン・産業振興センター駅からおよそ600メートル東の工業団地の一角である。

 

 一大事である。消防車40台が出動して、20時15分頃には鎮火した。

 

 幸いなことに死者はいなかったが、従業員8人と、通りすがりの車に乗っていた男性2人、そして付近の工場の従業員1人が怪我を負っている。資料によっては合計12人となっているのもあるが、ここではとりあえず合計11人ということにしておく。

 

 このように、近くの乗用車や他の工場にまで被害が及んだほどである。爆発した建物もただでは済まなかった。工場敷地内の3棟が全焼、1棟が半焼。さらに全壊が4棟、半壊が3棟、部分壊は6棟に及んだ。

 

 また周辺では、他の企業のものだろうか、61の事業所のうち82棟、車両69台、動産及び工作物10件が損壊している。全体の損害額は約5億に上った。

 

 さっそく日本カーリットでは、社長がその日の22時から記者会見。謝罪し、原因追究をしっかりやることを宣言した。

 

 翌日には神奈川県警が実況見分を始めて、有機製造室棟にあった高圧釜が敷地外の道路まで吹き飛んでいることを確認。またこの棟の焼損と、周囲の損壊が最も激しいことから、この付近で爆発が起きたと睨んだ。さらに業務上過失致傷の容疑で事情聴取も行っている。

 

 爆発の原因は、オートクレーブという装置が暴走したためと推測された。オートクレーブとは圧力鍋みたいなもので、中を高圧にして作業を行なう耐圧式の装置である。この中で圧力が急激に高まったため、ドカーンといってしまったらしい。

 

 では、なんでそのオートクレープの圧力が高まったのか……、その理由は、資料を読んでも筆者にはよく分からなかった。

 

 だがとりあえず、ほぼ一年後の12月20日には、会社と従業員3人が注意義務を怠って爆発を起こしたとして書類送検された。容疑は業務上過失傷害や業務上過失爆発物破裂罪、そして労働安全衛生法違反である。

 

 そして横浜簡裁は1月4日までに、この3人に罰金計200万円の略式命令を出した。決定はいずれも昨年12月27日付けである。

 

 この日付を見て、「あれ?」と思ったのは筆者だけだろうか。そういえば前回の2008年の事故でも、年末ギリギリに起訴されて、年明け早々にどさくさ紛れという感じで一瞬で処理されていた。今回と全く同じである。

 

 多分これは――半ば「邪推」と考えてもらって結構だが――国の側の配慮だろう。

 

 戦前からの大規模火薬産業で、3回も爆発事故を起こしているのに(うち2回は死亡者あり)まだきちんと存続しており、そのわりにあまり名前の知られていない一流企業で、しかも2008年と2010年いずれの事故もあまり大きく報道されていない……ということで、なんとなくそういうバックがついていそうだなーとは思っていた。

 

 チッソなんかと同じだね。もし株を買う機会があったら、ぜひ日本カーリットにしよう。そうしよう。

 

 事故があった工場の跡地は、その後更地になって売却の話が進められたりしたようだ。ネット上ではそこまで確認できたが、今どうなっているかは不明である。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
はまれぽ
日本カーリット㈱横浜工場における爆発火災の火災原因調査結果について
takumi296's diary
ウィキニュース『横浜の化学工場で爆発事故 従業員ら11人けが』
カナロコ
日本カーリット:横浜市の工場で爆発、4人が負傷し炎上中-地元署
化学業界の話題
コトバンク

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青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)

 1945(昭和20)年3月22日のことである。青森県青森県西津軽郡赤石村(現在の鰺ヶ沢町)の大字・大然(おおじかり)地区にて奇妙なことが起きていた。村を流れる赤石川の水かさが、やけに少なくなっていたのだ。

 

 村人たちはこの異常事態に気付いたが、その意味するところまでは誰も考えなかったようだ。

 

「なんだこれ? 変だな。まあいいや、明日確認しようか」

 

 とまあ、こんな感じだったのかも知れない。こうして、村はそのままで夜を迎えた。

 

 だがもはや状況は手遅れだった。実は、赤石川の上流では水の流れがせき止められていたのだ。おそらく、この冬の豪雪と雪崩によってダムができたのだろう。さらにこの日の夜の天候は豪雨であり、これによって雪の天然ダムは決壊してしまった。

 

 時刻は23時頃から、翌午前3時頃の間と言われている。大量の雪、土砂、水が村に襲いかかった。

 

 このような雪混じりの鉄砲水を、専門用語では「雪泥流」と呼ぶらしい。これの直撃を受けた集落は家も住民もたちまち押し流され、大然では13戸、佐内沢という集落では7戸が一瞬にして流されて88名が死亡(87名という記録もある)した。死者の内訳は男性が41名、女性が46名というものだった。遺体は7月11日になってようやく全て発見されたという。

 

 これほどの人数が死亡し、しかも村落がほぼ壊滅したのである。国内の土石流災害の被害としてはかなりものだ。だがこの災害、一般的にはほとんど知られていない。それは何故か?

 

 答えは簡単で、報道されなかったのである。

 

 時期が1945(昭和20)年という微妙な時期だったためだ。終戦直前である。メディアの側にも詳細を報じる余裕がなかったのか、あるいは士気を殺いではいかんということで報道管制がかかったのか、とにかく少なくとも中央では全く報道されなかったのだ。おかげで終戦を迎えて以後も、この災害は、地元民しか知らないモノホンの「知られざる災害」としてのみ語り継がれていたのだった。

 

 そんな災害の記憶の「発掘作業」が始まったのが1987(昭和62)年のことである。東奥日報新聞社が、「消えた村」と題して3月16日から26日にかけて惨劇の顛末を連載。さらに翌年には郷土史家の手によって単行本にまとめられた。

 

天然ダムの崩壊と雪泥流による被害事例は、国内でもあまり例がないという。よってこの事例研究は、専門の研究者にとっても極めて貴重なものだった。

 

 この災害が起きた赤石川の周辺は、もともと地滑りなどの土砂災害が発生しやすい地質だった。地滑りと地質の関係については前にバス事故の項目でちょっと書いたことがあるが、第三紀層を形成する箇所が多く存在するのだ。

 

 雪泥流はあくまでも雪と水の組み合わせで発生するが、水流が発生すると途中で土砂などを巻き込んでいくことになる。よってそこが脆い地層であれば被害も拡大することになる。この水害はこうした悪条件が重なって発生したものだった。

 

 青森県で最初の砂防ダムが設置されたのがこの赤石川だったというのも、決してゆえなきことではないのである。「青森県砂防発祥地」の記念の石碑もあるそうだが、そこには「雪泥流」という言葉もきちんと刻み込まれているという。

 

 なお、慰霊碑も存在する。なんでも「鰺ヶ沢町自然観察館ハロー白神」なる施設のそばにあるそうで、これは昭和26年11月に建立された。そしてその裏面ではこのような説明がなされているという。

 

「昭和二十年三月二十二日夜来の豪雨により流雪渓谷に充塞河水氾濫し舎氷雪に埋まり大然部落二十有戸悉く其影を失ふ夜来のこととて死者八十七名生存者僅かに十六名のみ實に稀有の惨事たり爾来七星霜犬方の同情と復員者の苦闘により漸く復典の緒を見るに至る茲に浄資を集め遭難者追悼の碑を建て以て厥の冥福を祈らんとすと爾云

     昭和二十六年十一月

     赤石村有志代表

     村長正七位 兼平清衛識」

 

 この記事を書くにあたり、本当は先述の「郷土史家がまとめた記録」とやらを読んでみたかったのだが、ついにそれは叶わなかった。たぶん青森の地元とか国会図書館とかそれ専門の大学の図書館でないと置いてなかったりするのだろう。

 

 というわけで、筆者はネット上の情報をつなぎ合わせて今回の記事を書くしかなかったのだが、一応文献のタイトルも掲載しておこう。興味がある方は読んでみて下さい。

 

『岩壁(くら)――昭和20年・大然部落遭難記録』

 著者・鶴田要一郎

 発行・青沼社

 昭和63年12月20日初版発行

 

 まあ仙台から青森まではそう遠くないし、山形在住の筆者としては、青森県の図書館にそのうち直接調べに行こうかな~なんて思わなくもないのだが。

 

【参考資料】

レポート『新しい雪氷災害「雪泥流」とその予測』小林俊一

 総務省消防庁防災課『災害伝承情報データベース整備検討報告書(平成16年度分)』平成17年3月発行

個人ブログ『砂防に関する石碑 碑文が語る土砂災害との闘いの歴史』2008年06月30日公開記事「2-1.大然部落遭難者追悼碑」

ウェブサイト『東北自然ネット』内記事「赤石川の砂防と大然部落の全滅」

 

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トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)

 今から100年ほど前にニューヨークで発生した火災である。

 言うまでもなく、ニューヨーク市と言えば今では押しも押されぬ大都市で、産業・商業・情報等の分野における最重要都市である。だがその成長の歴史は意外に短く、当時のニューヨーク市はまだ他の街との合併を果たしたばかり。大都市としては駆け出しもいいところで、成長はこれから――という時期だった。

 そして、日本の例を挙げるまでもなく、こうした都市の成長の陰では多くの人々の犠牲がつきものである。婦人用古着再生工場だったこのトライアングルシャツウェスト工場で発生した火災は、その分かりやすい実例のひとつだといえる。

 さらにこの火災は、その社会的・歴史的な影響のため、災害史のみならずアメリカ史全体においても大きなインパクトを残している。

 当時、アメリカでは労働運動が盛んで、多くの工場で労使間の対立と和解があった。その端緒となったのが他でもないこのトライアングル社であり、そして最後まで決着がつかなかったのもトライアングル社だったのだが、火災が発生し多くの女工が死亡したのが、こんなグダグダの状態のさ中だったのである。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になったのだ――ということで、労働環境の是正がより一層求められるようになったのだ。

 以下で火災の経緯を記すが、その前にひとつお断りしておく。資料によって「トライアングルウエストシャツ工場火災」「トライアングルシャツウエスト工場火災」と2種類の表記があり、当研究室ではどう表記したものか迷ったのだが、ここでは後者を選ぶことにした。「トライアングルシャツの、西工場の火災」がニュアンスとして近いように思われたからだ。

 ただ固有名詞としてあまりに長いので、本文では「トライアングル工場」と表記させて頂く。また「トライアングル社」と表記されているのは、工場ではなく本社という意味で読んで頂ければ幸いである。

 

   ☆

 

 日本では明治44年にあたる1911年、3月25日のことである。

 ワシントン・プレースとグリーン・ストリートが交わる交差点、その北西の角にアッシュ・ビルという10階建ての高層ビルがあった。

 トライアングル工場は、このビルの上から3階分のフロアに施設を構えていた。8階と9階が工場で、10階は事務室である。

 工場での就労時間が終わる午後4時半のことだ。終業ベルが鳴ると、その日の労働を終えた女性たちは帰り支度を始めた。縫製会社とあって、従業員のほとんどが女性である。

 会社の守衛たちもまた、盗難防止のために、社員たちのハンドバックを調べる準備を始めた。

 外は快晴、清々しい天気である。

 しかしこの直後に異変が起きた。8階にいた裁断係の男性が、布の切りくずが入っている箱から出火しているのを見つけたのだ。グリーン・ストリート側の窓のそばにテーブルがあったのだが、その下の箱が火を噴いていたのである。

「うわっ火事だ! 水持ってこい水。支配人にも知らせろ」

 知らせを受けて、9階だか10階だかにいたらしい生産担当支配人、サミュエル・バーンスタインも駆け下りてくる。おお、本当に火事だ。だけど心配ご無用。俺、2週間前にもボヤを消し止めたもんね。さあバケツ持ってこい――!

 そんなに頻繁に火事が起きてたんかい、とツッコミを入れたくなるところだが、それはさておき、バーンスタインは他の男性社員とさっそく水をかけ始めた。この男性社員も、2週間前に一緒に消火活動を行っていた。

 この工場、実は防火設備に関しては意外にしっかりしていた。各階に消火用バケツや屋内消火栓が備え付けられており、それを用いた消火が試みられたのだ。だが火は消えなかった。

 工場内の環境も悪かったのだ。出火場所の周辺には、木綿生地やたくさんの紙型がぶら下げられていた。その上、ミシンからの油漏れのため床は油で汚れており、とどめに予備のミシン油の樽が壁にずらり。洒落にならん。

「くそっ消えない、みんな逃げろ!」

 避難指示の言葉を英語でどう言うのか知らないが、とにかくバーンスタインは、消火活動を行いつつ従業員に避難と脱出を促した。

 こうして8階での混乱が始まった。もともと、この階にいた225人(275人とも)の従業員は、グリーンストリート側のいつも開いているドアから帰宅しようとしており、皆がそこから脱出を始めた。

 同時に、バーンスタインは機械工のルース・ブラウンにこう指示を出した。

「もうひとつドアがあるだろう、そっちの鍵も開けろ」

 そっちというのは、ワシントン・プレース側に出られるドアである。こちらは窃盗とサボり防止のために常に施錠されており、ブラウンはさっそく解錠しようとした。

 ところがこのドアが曲者だった。当時(今はどうなのか不明だが)のニューヨーク州の労働法第80項では、「工場のドアは可能な限り外開きでなければならない」と定められていたのだが、ドアの向こうの踊り場があまりにも狭すぎたため、これは内側に向かって開くように作られていたのだった。

 結果、どうなったか。怯えて脱出をあせる労働者がドアに押しかけたため、内側に向かって開けることができなくなったのである。笑い話のようだが本当にそうなのだ。

 ブラウンは当時のことを、このように語った(意訳)。

「ドアを開けるために、彼女らを押し戻さないといけなかった。ドアにびっしり押し寄せているんだもの。俺が全力でドアを引っぱると少しは開くんだけど、彼女たちはドアに押し寄せてくるからまた閉じる」

 ゾッとする話である。それでもやっとこさドアが開かれ、20インチ(50センチほど)の幅のドアから一人ずつ逃げ始めた――。

 8階からは、こうして大半が無傷で脱出することができた。ところが問題はそのさらに上階である。

 当時、8階にいたダイナ・リフシッツは、社内電話を使って、10階の電話交換手メアリー・オルターに通報している。少し海外ドラマの翻訳風に、当時のやり取りを書いてみよう。

ダイナ「ハーイ、メアリー。大変なのよ、今8階が火事なの! お願いよ、10階と9階の人たちに知らせてくれる? 今8階もパニックで、交換手のあなたに頼むしかないの。お願い」
メアリー「え~? ちょっと待ってちょうだい、それ本当なの? じゃああたしたちも早く逃げないと!」
ダイナ「駄目よメアリー、その前にみんなに連絡して! そうでないと大変なことになるわ、メアリー、メアリーったら!」

 もちろん想像上の会話である。だが大体こんな感じだったのではないだろうか。この交換手のメアリーが交換台をほったらかしにして逃げたため、9階にいた260名~300名の従業員はまったく危険を知らされなかったのだ。

 10階にいた人々は、全員が無事に脱出できた。だが9階にいた従業員は、フロアの窓の外が炎と煙に包まれるまで火災にまったく気付かなかった。

 もともと、アッシュ・ビルの壁はレンガ造りだった。そして窓枠などの部品も金属が用いられており床もコンクリだったので、炎が壁や床を突き抜けることはなかった。しかし8階の窓から噴き出した火炎によって、9階もたちまち火の手に包まれたのだった。

 さあ、9階フロアは大混乱である。トライアングル工場で働いている身内の名を呼ぶ者、縫製機械のそばで呆然と動かなくなる者、即座に逃げ出す者などがいたという。

 逃げ出したグループは、さらに二手に分かれた。8階の従業員たちと同様に、グリーン・ストリート側と、ワシントン・プレース側のドアへ向かったのだ。

 結果、グリーン・ストリート側のドアからは100人ほどが無事に脱出。こちらの螺旋階段は幅33インチ(約84センチ)という狭さでしかも急勾配だったが、避難には充分使えたようだ。

 だがこの階段も途中から使用不能に陥った。火炎のため通れなくなってしまったのだ。

 またワシントン・プレース側のドアは、これも8階と同じように施錠されており使えなかった。不幸にして、解錠できる人間がこの階にはいなかったらしい。

 こうして脱出し損ねた従業員たちは、慌てて別の避難経路を探す。残るは屋外にある非常階段と2基のエレベーターだけだ。

 運命の二者択一である。だがもはや、どちらも安全な避難経路とは到底呼べない状況だった。

 まず屋外非常階段だが、これは幅が17インチ(約43センチ)とひどい狭さだった。しかも避難する人々の重みと、ビルからの火炎の熱でもって、人々が避難している最中に階段そのものが崩壊してしまった。

 次がエレベーターだ。これはワシントン・プレース側に設置されており、運転員もいた。当時の避難の様子について、この運転員はこう証言している(意訳)。

「従業員たちは、私の髪の毛を引っぱって、頭上に飛び込んできた。私も人々の頭の上に人々を詰め込んだ。エレベーターの屋根によじ登る者もいた」

 またこんな証言もある(エレベーターの運転員は2人いたと思われるが、この2つの証言が同一人物のものかどうかは不明である)。

「9階でエレベーターのドアを開くと、避難者の大群がいた。そのすぐ後ろは物凄い炎と煙だった。私は何度かエレベーターを行き来させて人々を脱出させた。そして3回目に9階へ上った時には、もう周辺は火炎だらけ。多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」

 鮨詰めのエレベーターは、こうして数回に渡って上下階を行き来し、多くの被災者を救っている。最後の数回は、実に定員の2倍の人数を輸送したという。

 しかしこの2基のエレベーターも、やがて停止した。一台は火災の熱でエレベーターの通路が歪んだためだった。またもう一台は、炎を逃れようと通路へ飛び降りた者が多数おり、その重みで箱が動かなくなったからだ。

 上階にはまだ逃げ遅れがいたのだ。やがて、停止したエレベータの箱の上に、彼らが飛び降りてくるドシンドシンという音が響いてきたという。後に消防士が確認したところ、エレベーターの箱の上には計19の遺体があった。

 エレベーターが2台とも停止したのが4時45分。火災が発生してから僅か15分のうちに、従業員たちは9階から脱出するすべを失ったのだった。

 不運だったのは、ちゃんとこのビルには火災用の避難口があったのに、大半の者がそれを知らされていなかったことだろう。従業員たちは防火訓練を受けておらず、建物内のいつも見慣れたシャッターの向こうにそれがあることなど、思いつきもしなかった。

 飛び降りも、数え切れないほど発生した。非常階段が崩壊したことは先に述べたが、それ以外にも多くの人が窓から落下している。

 エレベーターの運転員はこう証言していた――「多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」と。つまりこの、「窓枠に立っていた」従業員の末路が「飛び降り」となってしまったのだ。

 当時、現場周辺は野次馬でごった返していた。火だるまになった犠牲者が高層階から落下してくる姿を、大勢が目撃している。

 野次馬の一人の証言。

「最初は、オーナーが高級な製品だけを窓から外に投げているのかと思った。だがよく見ると、それは窓から飛び降りる従業員たちだった」

 また、たまたま近くを通りかかった『ニューヨーク・ワールド』(雑誌か何かだろうか?)の記者はこう証言している。

「500名ほどの群衆が、いっせいに怯えた声をあげた。風で衣服を巻き上げながら落下してきたのは、若い女性だった。彼女は街頭に叩き付けられて即死した。群衆が、なにがなにやら分からずにいると、もう一人の若い娘が窓枠に飛び上がった。彼女は、拳を固めて窓を叩き破ったらしかった。頭髪も衣服も燃えていた。一瞬、両腕を突き出して窓枠で制すると、すぐに落下してきた。同時に、別の窓からも3名の女性が身を投げ、あとからも別の女性たちが窓枠へしがみついていた。息をあえがせ、このまま室内で死ぬか、眼下の歩道や側道で死ぬか、決断しようとしていた」

 なんだか、さすがに筆者も書くのが苦痛になってくる光景である。あまりにも凄惨だ。

 ともあれ、この落下によって46~60名以上が死亡。辺りは死屍累々たる有様だった。消防士の救命網も、高層階からの飛び降りには役に立たなかった。

 消火活動は難航を極めた。梯子が届かない上に、犠牲者が次々に飛び降りてくるので危険極まりなく、消防隊も警官も近寄れない。難航を極めたというよりも、もはや消火活動は「できなかった」というのが本当のところだろう。とにかくボトボト人が降ってくるものだから、エレベーターで無事に脱出した従業員すらも、危なくてビルの外には出られなかったという。

 それでも、消防が到着してから30分以内には鎮火しているようだ。ほほう、なかなか手際がいいね……と言いたいところだが、喜んでなどいられないのである。この1時間弱の火災で、なんと死者は146名というべらぼうな数に上ったのだ。 
 工場内から救助された者は、一人もいなかった。

 最初、遺体は道路に積み上げられていたが、警官たちは大急ぎで棺を調達。そして、東26番ストリートの埠頭に臨時の遺体安置所を作った。

 一部の犠牲者は、賃金を大事に服にしまっていたり、あるいはその手に握り締めたりしていたという。

 また、娘の死を目の当たりにして、埠頭から身を投げようとした母親も十数名いた。警官は彼女たちを止めるのにもひと苦労だった。

 さて、裁判である。この悲惨極まりない事件の責任者は誰なのか?

 これについて、当時ニューヨーク・タイムズはこう書き立てたという――「この恐るべき失態は、何者かが引き起こしたのだ。しかし難しいのは、これだけの人命が失われたことの責任の所在を突き止めることだろう」。

 面白くもなんともない予言だが、これが的中した。アッシュ・ビルと工場の管理に携わった者たちは、誰も彼もが互いに責任をなすり合ったのだ。いわく、

1・州知事「俺じゃねえよ! 悪いのは建築局だ」
2・地方検事の主張「俺じゃねえよ! 悪いのは州の労働局、共同住宅局、水道局、警察だ」
3・トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランク「俺たちじゃねえよ! 悪いのは建築基準法だ」

 素人の印象では「会社が一番悪いんじゃないの?」と感じるところだが、しかしここで注意しなければならないのは、トライアングル工場は法令違反をまったく行っていなかったという点である。

 例えば避難階段も、熱式火災報知システムも、各階の水バケツも、屋上タンクも、屋内消火栓もあった。また外部からの送水も可能だったし、地階の散水設備も充実していた。数十年後のどこぞの国のホテルや旅館やデパートに比べても余程しっかりしているし、またこれは当時の法令の示す基準にもきちんと合致するものだった。

 つまりトライアングル工場火災は、「これだけの設備があれば火災が起きても大丈夫だろう」という行政の予測を遥かに越えていたのである。うんざりするような言い方になるが、いわゆる「想定外」だったというわけだ。

 行政にも、決して落ち度がなかったわけではない。消防設備について言えば、梯子は届かないし放水の水圧も足りなかった。また市の建築課も、アッシュ・ビルの欠陥を認識していながら放置していたフシがあった。

 それでも、結局最終的に起訴されたのは、トライアングル社の2人のオーナーだった。先に名を挙げたアイザック・ハリスとマックス・ブランクである。

 法廷では、遺族からの報復を防ぐため、被告人には常に警備がついていたという。

 裁判では、問題を単純化するべく、死亡した1人の女性について争点が絞り込まれた。ワシントン・プレース側のドアが施錠されていたことが、犠牲者の発生に繋がったのではないか――?

 審理は3週間の長きに渡り、証人は155人に上った。

 そして陪審員が、1時間50分の協議の末に出した結論は「無罪」。

 146人の死者が出た事件で無罪の結論を出すというのも、勇気があるというかなんというか、頭の下がる思いである。「あいつら気に入らないからとりあえず有罪にしちまおう」などという判断は下されなかったのだ。

 だがこれは、当時のアメリカ人にとっても意外な結末だったようだ。民衆は怒った。死んだ従業員たちは犬死になのか、冗談じゃないぞ――そしてこの怒りこそが、アメリカの労働政策の改善に繋がっていくのである。

 

   ☆

 

 さてここからは、この火災がアメリカ社会に与えた影響について記していくことにする。地味な歴史記述になるので、退屈になりそうな方はここで終わりにして頂いても構わない。

 時間を少し遡り、時は1909年。

 トライアングル社の凄惨な大火災が発生するよりも、2年ほど前である。

 この時期は、シャツブラウスという衣服が女性に人気だった。デザイナーによる魅力的なデザインと、一人一人に寸法を合わせる技術のおかげである。ちょうどこの頃は、女性がどんどん社会進出を果たしており、シャツブラウスはそんな彼女たちの標準的な衣装だった。

 さてそんな中で、トライアングル社は業界でも最大大手のメーカーだった。安っぽくもなく、無駄に高級志向でもないバランスの取れた品質と、それに大量生産の技術がこの会社を成功させたのだった。

 ところがこのトライアングル社、職場環境は劣悪もいいとこだった。工場内は不衛生、サボりや盗みの防止のために窓やドアは釘付け。湿度も高く、そんな中で社員たちは週6回、合計56時間働かされていたのだ。

 また賃金は余分に出ることはなく、縫製ミスがあれば賃金から差っ引かれる。さらに私語、喫煙、鼻歌だけでも罰金を取られるという「ヒジョーにキビシー」状況だった。

 そんな中、ひとつの出来事があった。社員の女性が、労働組合を結成する会合に参加したのである。

 これが、トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランクの耳に入ったからさあ大変。会合に参加した女性たちは、職場から閉め出されてしまった。ロックアウトである。

 これに対して、社員の女性たちはさらに反発。ユダヤ系の女性もイタリア系の女性も、この時ばかりは民族の壁を越えて一致団結しストライキに参加した。

 これが、大規模な労働運動に火がつくきっかけとなった。11月には、ニューヨーク市全域の集会場で労働組合の会合が行われ、ストは全ての縫製産業に拡大。今までにないスケールでほとんど冬の間中続けられたという。

 もちろん、雇用者のほうだって黙っちゃいない。当時は「組合潰し」はごく当たり前のことだった。特にトライアングル社のハリスとブランクについて言えば、彼らには警察も味方についている。戦いの準備は万端だった。

 それでも、労働者の抗議活動は止まらない。新聞記者、ソーシャルワーカー、学者から、果ては社会主義思想家やラビなどの僧侶までもがこの運動を擁護。さらに女性労働者によるデモ活動ということで、裕福な女性層も運動を後押しした。

 おそらく、この運動は一部の労働者の単なる思い付きではなかったのだろう。当時の労働者の不満は頂点に達しており、運動が起きるのは当たり前、時代の趨勢だったのだ。

 というわけで、雇用者側も時代の要請に押される形で妥協案を提示した。調停でもって、多くの工場と労働組合が仲直りをし、1910年2月15日にはストライキもほとんど終了した。

 ところが、労使双方の主張がいつまで経っても平行線で、ちっとも示談に至らない会社が13社あった。どれも1,000名以上を雇用する大企業で、その主たるものがトライアングル社だったのである。当時、ある雑誌ではこう書かれた――「トライアングルで始まったストは、トライアングルには勝てなかった」。

 火災が発生したのが、それから1年余り経った頃のことである。

 やるせない巡り合わせだ。労働運動盛んなりし頃はストを潰すために躍起になっていた警官たちも、この火災では労働者たちを弔う側に回ったのだった。

 彼らは、路上に散らばった焼死体が通行人に踏みつけられるのを防ぎ、救急車でもってそれらを運ばせ、それぞれの遺体を棺に入れたのである。彼らの心中にはどんな思いがよぎっていたことだろう。

 そして、裁判で雇用者の2人が無罪とされたことで、市民のやるせない思いは社会運動のほうへと振り向けられることになった。

 ここで登場するのが、フランシス・パーキンスという女性である。トライアングル火災の後、ニューヨークでは工場調査委員会なるものが設立されたのだが、この執行委員に選任されたパーキンス女史は、その後の労働政策に大きく関わっていくことになる。

 この工場調査委員会は、州内におけるあらゆる労働問題の一掃を試みた。とにかく、女性が午前5時に出社して10時間交代勤務していたり、5歳の子供が缶詰工場で働いていたりするこんな社会状況はなんとかしなければいかん、と考えたのである。

 また公聴会を開き、一部の機械の危険性や、適切なトイレ設備が欠如していること、さらに児童労働や病気の蔓延などの問題も証言。そして忘れちゃいけない火災対策についても防火局を設置し、防火安全規則を更新させた。

 こうした流れが、最終的にはアメリカ一洗練された新・労働法の完成へとつながっていき、これは他の州でもお手本にされたという。

 改革に一役買ったパーキンス女史は、さらに州労働局では局長のポストに就き、10年間勤務している。そして、最初はいち執行委員として所属していただけだった工場調査委員会においても局長へと押し上げられたのだった。

 この「押し上げ」を行ったのが、当時はまだニューヨークの州知事だったフランクリン・ルーズベルトである。どうやら、彼はパーキンス女史に絶大な信頼を寄せていたらしい。自分が大統領になると、さっそく彼女を労働長官に任命した。これは女性閣僚としては初めての抜擢だったという。

 ルーズベルト大統領が打ち出したニューディール政策は、かの大恐慌を克服し、アメリカ経済を蘇生させるための一大プロジェクトだった。その中には労働者の待遇改善という問題ももちろん含まれており、ニューディール政策そのものの成否は兎も角としても、パーキンス長官はこの政策の推進のためになくてはならない人材だったのである。

 さてその後、一躍労働長官へとのし上がったパーキンス女史は、講演でこう語っている。

「我々はニューディール政策を公約しているルーズベルト大統領を選んだ。しかしこの政策は、1911年3月25日の恐るべき火災で、哀切極まる犠牲者を多数出したというニューヨーク州の経験がその基盤になっているのである。彼らは犬死したのではない。我々は決して彼らを忘れないであろう」

 火災の犠牲者が、まるで名誉の戦死を遂げた兵士のように語られている。

 実はパーキンス女史は、トライアングル工場火災の惨状を目の当たりにしていたのだ。当時の彼女は、働きながらコロンビア大学の大学院に在籍していたのだが、そんな彼女の目の前で、アッシュ・ビルが火を噴き、そして女工たちがボトボト落下する光景が繰り広げられたのである。これは確かに、政治活動にでも昇華しない限りトラウマになりかねない体験だったことだろう。

 というわけで、もうお分かりであろう。トライアングル工場火災が、その後のアメリカの労働政策に大きな影響を与えたというのは単なるこじつけではない。この火災事故は、その後の国家政策の源流そのものだったのだ。

 そんなこともあってか、この火災事故は今でもかの国で語り継がれている。

 例えば事故の50年後には、今はニューヨーク大学となっているかつての現場に「全国女性縫製労働組合同盟」とやらがブロンズの額を設置している。また、火災の最後の生還者だった女性が107歳で死亡したことも、ニュースで取り上げられたという。

 こういった情勢を見ると不思議に思ってしまうことがある。なぜ日本人は、身内に降りかかった事故災害について、ああもたやすく忘れてしまうのだろう。

 例えば、日本初の高層ビル火災は白木屋火災ということになっているが、これについて語り継がれているのはせいぜい「当時の女性従業員はノーパンだったから避難できなかったらしいよ」というデマばかりである。

 こうした傾向は実に嘆かわしい――と言ったらなにを偉そうにと怒られそうだが、まあでも、やっぱり変えられるものなら変えるに越したことはないよね。こういう精神的風土。

 まあそのへんは、文化や民族性の違いということになるのだろう。アメリカ人にとってはリメンバー・パールハーバーならぬ、リメンバー・トライアングルシャツウエスト・ファクトリー・ファイアといったところなのかも知れない。

「長すぎてタンコブが引っ込んじまったよ!」

 ――というオチをつけられそうな気がしたところで、お後が宜しいようで。

 

【参考資料】
◆『火災教訓が風化している!①』近代消防社
◆アレン・ワインスタイン,デイヴィッド・ルーベル(著)越智 道雄 (訳)『ビジュアル・ヒストリー アメリカ―植民地時代から覇権国家の未来まで』東洋書林 ・2010年

 

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