目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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バス事故年表(参考)

 今では「バス」と呼ばれているあの乗り物は、かつて「乗合自動車」と呼ばれていた。また東京の市営バスも「円太郎」という名称だったことがあるという。

 さすがに「円太郎」ではその名称だけでバス事故のカテゴリーからはみ出してしまい、調べるのが難しそうだが……。

 「乗合自動車」という表記でのバス事故は、最も古いものでは大正時代まで遡ることが可能なようだ。ただしそれは人身事故で、それ以降になると昭和3年くらいのものに行き当たる(ただし未確認)。

 以下に掲げる年表では、報道されたものとしてはっきり確認されたものを記してある。細かく整理したわけではないので、年代の表記がごちゃごちゃしているが、ご勘弁頂きたい。いずれ段階を踏んで修正する予定である。

 おそらくバス事故というカテゴリーでこのようにまとめているのは当研究室が最初だと思われるので、筆者自身もこの年表を参考にしながら執筆していくつもりである。

 

【戦前】
1932年(昭和7年)1月3日
大軌(現在の近鉄)と奈良自動車バスの踏切衝突事故。死者15人

 

昭和8年4月23日
宮崎でバスと日豊本線衝突で7人死亡

 

1937年(昭和12年)7月12日
福島で常磐線と定期バスとの衝突事故で死者9人

 

1937年(昭和12年)10月18日
島根の坂本峠で省営バスの転落事故で死者11人

 

昭和15年5月26日
山梨の大月でバス転落、5人死亡

 

1942年(昭和17年)3月21日
兵庫で山陽本線と神姫バスの衝突事故で死者11人
 ※ただし詳細な記録は大手新聞にはなし

 

1942年(昭和17年)3月27日
宮崎の高岡で省営バスの転落事故で死者5人

 

1942年(昭和17年)9月7日
神奈川の川崎で東急(いまの京急)と京浜バスの衝突事故で死者9人
 
1942年(昭和17年)10月23日
東京の杉並区で帝都線(現在の京王)と日本無線のバスの衝突事故で死者5人

 

1943年(昭和18年)12月13日
新潟で信越線と中越バスの衝突事故で死者5人
 
1943年(昭和18年)12月14日
宮崎で日の丸バスの転落事故で死者7人
   
昭和19年4月7日
山梨の早川でバス転落、16人死亡
http://www.yy-net.org/blog/01099/blog/archive/2009/06/252046162220.html
(慰霊碑があるようだが、事故の仔細については不明)
 
昭和19年9月13日
山形の鶴岡でバスと羽越線衝突、7人死亡

 

1944年(昭和19年)9月30日
愛媛で宇和島自動車バスの転落事故で死者4人
 
【戦後】
昭和22年6月28日
和歌山の中辺路で省営バス転落、5人死亡

 

昭和24年5月7日
広島の加計でバス転落、12人死亡

 

昭和24年11月13日
仙台でバス転落、3人死亡

 

昭和25年1月4日
長野で犀川にバス転落し4人死亡 
 
昭和25年2月11日
熊本の松尾でバスが池に転落、22人死亡
 
昭和25年4月14日
神奈川の横須賀でバス火災、17人死亡
 
昭和25年11月7日
物部川事故、33人死亡
 
昭和25年12月18日
埼玉の大宮でバス踏切事故、13人死亡
 
昭和26年7月15日
天竜川事故、28人死亡?
 
昭和26年7月26日
札幌でバス火災、7人死亡

昭和26年10月13日
栃木の佐野でバス踏切事故、7人死亡
 
昭和26年11月3日
愛媛の宇和島でバス火災、33人死亡

 

昭和26年11月3日(上と同日)
千葉の船橋でバス踏切事故、6人死亡
 
昭和28年8月14日
広島の安佐でバス転落、10人死亡
 
昭和29年1月26日
福井でバス転落、11人死亡
 
昭和29年10月7日
佐賀の嬉野でバス転落、14人死亡
 
昭和29年10月24日
三重の二見で海にバス転落、13人死亡

 

昭和30年5月14日
北上川事故、12人死亡

 

昭和31年1月28日
愛媛の長浜で海にバス転落、10人死亡

 

昭和31年9月9日
福井の武生でバス転落、10人死亡

 

昭和32年6月28日
高知の中村でバス転落、5人死亡

 

昭和33年6月10日
京都の亀岡でバス踏切事故、4人死亡

 

昭和33年8月12日
神戸でバス踏切事故、4人死亡

 

昭和34年1月1日
和歌山の高野でバス転落、9人死亡

 

昭和34年1月3日
大阪の新庄でバス踏切事故、7人死亡

 

昭和34年5月23日
岡山の建部でバス転落、5人死亡
 
昭和34年6月5日
長野の安曇野でバス転落、5人死亡
 
昭和34年12月2日
仙台でバス転落、4人死亡
 
昭和35年7月24日
比叡山でバス衝突転落、28人死亡
 
昭和35年12月2日
横浜でバス踏切事故、8人死亡
 
昭和35年12月12日
岡山の真庭でバス踏切事故、10人死亡
 
昭和35年12月26日
長野の松本でバス転落、4人死亡
 
昭和36年11月5日
京都の向日町でバス踏切事故、7人死亡
 
昭和37年10月17日
北海道の渡島で海にバス転落、14人死亡
 
昭和38年5月13日
岡山の久米で川にバス転落、5人死亡
 
長崎の北松浦でバス転落、9人死亡
 
昭和39年1月15日
岡山の倉敷でバス転落、4人死亡
 
昭和39年3月22日
奈良の高田でバス転落、9人死亡
 
昭和39年9月22日
長野の佐久でバス転落、6人死亡
 
昭和40年3月2日
和歌山の新宮で川にバス転落、8人死亡
 
昭和40年12月21日
栃木の日光で湖にバス転落、5人死亡
福岡の大牟田でバス踏切事故、5人死亡
 
昭和42年4月29日
新潟の長岡でバスとトラック衝突、6人死亡
 
昭和42年6月18日
富山の八尾でバス転落、7人死亡
 
昭和43年5月15日
山梨の韮崎でバスとトラック衝突、6人死亡
 
昭和43年7月14日
兵庫の姫路でバス踏切事故、7人死亡
 
昭和43年8月18日
飛騨川事故、104人死亡
 
昭和44年3月19日
岡山の玉野で池にバス転落、9人死亡
 
昭和45年8月29日
徳島の勝浦で川にバス転落、5人死亡
 
昭和45年11月3日
岐阜の高根でダムにバス転落、10人死亡
 
昭和47年8月9日
岐阜の揖斐でバス転落、10人死亡
 
昭和47年9月23日
長野の黒姫で川にバス転落、15人死亡
 
昭和47年11月25日
静岡の東伊豆でバス転落、6人死亡
 
昭和48年10月10日
岩手の江刺でバスとダンプ衝突、9人死亡
 
昭和49年3月7日
福島の三島でバス転落、8人死亡
 
昭和50年1月1日
スキー客送迎バスが長野県大町市近くの青木湖に転落、24人死亡、15人重軽傷(青木湖バス転落事故)

 

1977年(昭和52年)7月6日
長野県中野市岩井の国道で定期バスと乗用車が衝突、バスが3メートル下の草原に転落、68人重軽傷
 
昭和52年8月11日
山梨県甲府市の昇仙峡で観光バスが転落、10~11人死亡、35人重軽傷
 
昭和53年1月14日
静岡の湯ヶ島で地震によりバスに落石、4人死亡
 
昭和54年10月5日
北海道の深川でバス転落、6人死亡
 
昭和55年8月19日
新宿駅バス放火、6人死亡

 

1981年(昭和56年)10月19日
千葉県野田市の国道で通園バスにトラックが衝突、園児2人が死亡、10人が重軽傷

 

1982年(昭和57年)10月2日
静岡県駿東郡小山町の町道でセンターラインを越えた乗用車が対向のマイクロバスに正面衝突、2人死亡、14人負傷
 
昭和58年6月5日
岡山県上房郡の県道で兵庫県の老人会員16人が乗ったマイクロバスが約55メートル下の谷底に転落、5人死亡、12人が重軽傷

 

1983年(昭和58年)8月6日
群馬県群馬榛名町の国道406号で、マイクロバスと乗用車が正面衝突、1人死亡、20人が重軽傷

 

1983年(昭和58年)11月10日
山形県大蔵村の県道で旅館の送迎用マイクロバスが転落、酒田市の老人クラブ会員2人が死亡、23人が重軽傷

 

1984年(昭和59年)10月18日
群馬県伊香保町の県道で、東京都品川区の観光バスが道路わきの土手に衝突。車内旅行の会社員ら26人が怪我。
 
昭和60年1月28日
笹平ダム事故、25人死亡

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 

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北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)

 襟裳岬からみて、国道336号線を北西へ走っていくと、海沿いに平宇という地域がある。

 

 北海道様似郡様似町平宇――。

 

 今回ご紹介するのは、この町で発生した事故である。終戦直前のタイミングだったため、おそらく中央ではほとんど報じられることのなかった「知られざるバス事故」だ。

 

   ☆

 

 1945(昭和20)年3月21日のことである。

 

 お昼を少し過ぎた頃、一台のバスが、北海道様似村(現在の様似町)平宇の国道・省営自動車日勝線を走行していた。

 

 このバスは当時の鉄道省が運営していた、いわゆる省営バスである。営業が始まったのは昭和18年8月1日と、ついこの間だった。

 

 終点は、幌泉村の庶野という地域だ。地図で言えば、様似村から襟裳岬の北側を横断するルートである。

 

 さて、このバスの状態が問題だった。定員29名のところに、乗客乗員合わせて48人が乗り込んでいたのだ。完全に定員オーバーの鮨詰め状態で、まずはここからしてアブない雰囲気である。

 

 こんな乗車率になったのには理由があった。バスの運行時刻に遅れが出ていたのだ。

 

 少し詳しく書くと、もともとは、幌泉からの上りバスが本様似まで来て折り返して、それで下り便となり、幌泉行き日勝線旅客第5便に切り替わるというのが本来のダイヤだった。だがこれに遅れが出てしまったため、下りバスが急遽手配されたのである。この下りバスが途中で上りと出くわせば、乗客に乗り換えてもらうという手筈だったそうな。

 

 ではその上りバスの「遅れ」はなぜ生じたかというと、その原因は戦時中ゆえの物資不足にあった。当時はろくな燃料がなく、ガソリンよりもはるかに馬力の劣る「ガス」でバスを動かしていたのである。

 

 それでも、ガスボンベでも搭載していれば少しはさまになったかも知れない。ところがこの当時のここいらのバスは、車両後部で薪を焚き、そのガスで走行するという代物だったのである。いわゆる代用燃料車だ。

 

 この代用燃料車の馬力のなさといったらもう笑ってしまうほどで、バス会社の開業初日からしてトラックで牽引しながらエンジンをかけたほどだったという。また坂道では乗客が押すこともあったとかで、これではダイヤに遅れを出すなというほうが無理な話だ。

 

 とことん、モノが不足していた時代だったのだ。燃料の問題はさておいても、バスそのものも故障続きだったというから、こういっちゃなんだがもともと不良品というか粗悪品だったのだろう。

 

 このような事情もあって、ようやく準備された下りの代行バスに、待ちかねた乗客たちは我先にと乗り込んだのだった。人々の中には、出征兵の送別客も大勢いたという。

 

 これだけでも、いつ大事故が起きてもおかしくない状況である。だが問題は他にもあった。当時このバスには、当研究室の読者ならば「あ~あ」といいたくなるようなブツが搭載されていたのだ。

 

 そのブツとは、映画のフィルムである。

 

 どうもこの頃のバスは、こうした物品の運搬も請け負っていたらしいのだ。当時のことを知る方の話によると、法律で決まっていたかどうかは不明だが、限られた物品をバスで運ぶことは確かにあったという(また戦後の一時期も、手荷物程度のものならば切符を切って運搬することもあったそうだ)。

 

 そして、これは「こち亀」でも描かれていたことがあるが、戦前から戦後にかけて使用されていた映画のフィルムというのは、発火しやすい危険な素材でできていたのである。これの発火による事故事例は、当研究室でもいくつかご紹介してきた。

 

 このとき運搬されていたのは、35ミリフィルムが18巻。浦河大黒座から、幌泉の松川座へと運ばれる予定だった。

 

 フィルムは、平素は運転手の左横の位置に積まれ運ばれていた。だがこの日は先述の通り大勢の人がドッと乗ってきたため余裕がない。そこでこんなやり取りがなされた。

 

 駅の係員Tさんは言う。

「車掌さん、フィルムの積み込みをお願いしたいんですけど~」

 

 だが車掌のSさんはそれどろじゃない。

「あーもう忙しくて余裕ないよ! 運転手に積んでもらって!」

 

 この二人は女性で、しかもどちらも19歳という若さだった。物資どころか、みんな出征して人材も不足していたのだろう。

        

 一方、運転手は20歳の男性である。上位職なので「何やってんだ早く持ってこい」と声を荒げたか、あるいは女性二人の困っている様子に「オオ、どらどらもってこい持って来い」と様似弁で引き受けてくれたか……。

 

 ともあれ、運転席側の窓を通して、フィルムは受け取られた。そして積まれたのが運転席右横のバッテリーの上だった。

 

「なんでそんなところにバッテリーが?」

 

 その疑問はもっともである。そう、バッテリーは普通ならそんな場所にはない。このバスにおいても、本来ならば床下にあるべきものだった。だが当時は度重なる故障と修理のため、たまたまそこに裸で置かれていたのだ。

 

 また、フィルムの状況もよくなかった。普段は麻布袋で梱包されるところが、この時は映画ポスターでくるまれ、荒縄で十文字に縛られただけだったという。つまり熱を通しやすい状態でバッテリーの上に置かれてしまったのだ。

 

 この時の措置について、救出された車掌は後になって「先に新聞を積めばよかった」と回顧したという。「フィルムが安全な所に置かれたのを確認しないで『発車願います』と言って出発させた私が一番悪かった」――。

 

 こうしてバスは出発し、惨劇が起きたのは平宇を過ぎたあたりでのことだった。おそらく爆発音だろう、「大きな音」と同時に、フィルムが入れられていたブリキ缶が吹き飛んだのだ。梱包していた紙も燃え出した。

 

 わわわわ、こいつは大変だ! ――運転手は、慌ててフィルムを外へ投げ出そうとした。手掴みでやろうとしたのか、そのへんは不明だが、とにかくバスをきちんと停止させる余裕もなかったのだろう。ハンドルを取られてバスは横転、国道の築堤からはみ出すと、1メートルほどの高さを海浜に落下した。

 

 車内に乗客の悲鳴が響き渡る。さらに、横転のため脱出が困難になっていた車内では、発火したフィルムが蛇のように飛び散った。一部の乗客は衣服に着火し、たちまち煙が充満。この世の地獄である。

 

 鉄道事故の項目で安治川口ガソリンカー火災を紹介したが、あれと似た状況である。あのケースも、車両の横転に火災が加わったため大惨事になったのだ。

 

 事故を最初に発見し、通報したのは近くで遊んでいた子供たちだった。石蹴りをして遊んでいたところ、バスが黒煙を上げて燃えていたのだ。

 

 ただちに大人たちが駆け付け、救助活動が行われた。

 

 ちなみに、この事故の情報を筆者に提供して下さったIさんという方がおられるのだが、その奥様が当時現場にいたという。小学3年生で、第一発見者の子供たちの一人だった。救助活動の修羅場の中で立ち竦んでいたのを今でもご記憶されているそうだ。

 

 また、当時やはり子供だったIさんご自身も、病院での惨状を目の当たりにしている。そこは現場から4~5キロ離れた本様似の病院で、怪我人たちがかつぎ込まれていたのだった。その時の状況について、せっかくなのでメールで頂いた言葉をそのまま引用させていただく(文法的なところでちょっとだけ修正した)。

 

「太田、高田両病院の待合室、廊下はおろか玄関口まで30人の重傷者があふれ、爪や髪の毛の焼ける臭い、焼け焦げた衣服、熱さと痛さに耐えられず震え、痙攣を起こし、体を折り曲げてうめき声を発している阿鼻叫喚の惨状を記憶しております。」

 

 悲惨極まりない。たくさんのバス事故を紹介していると、事故事例それぞれの個別の悲惨さについてつい忘れがちだが、それを改めて自覚させてくれるような証言である。

 

 最初に火災に気付き、フィルムを投げ捨てようとした運転手も、ひどい火傷を負った。彼はそれでいながらも乗客の救助にあたり、翌日に亡くなっている。

 

 最終的には17名が死亡、13名が負傷した。国鉄の年表によっては死者13名と記録されているのもあるそうだが、これは死者が増える過程での数字だったか、あるいは負傷者数と間違えたか。

 

 さて、気になるのは補償である。

 

 一応、事故直後にはそれなりに支払われている。内訳は札幌鉄道管理局から50円、浦河駅長の名で20円、退院時の付き添い料が400円というものだった(被害者たちに一律に支払われたのかどうかは不明)。

 

 またさらに、それでは納得いかないと、10年後の昭和30年に被害者の一人が補償交渉を行っている。しかし国鉄様似自動車区に乗り込んだはいいものの「水掛け論」に終わってしまい、追い払われる形になってしまったとか。

 

 事故の情報をご提供下さったIさんも、またその周囲におられるという関係者の皆さんも、裁判が行われたという記憶はないそうである。

 

   ☆

 

 冒頭に書いた通り、筆者はこの事故のことをまったく知らなかった。中央の新聞で報道されていなかったためだ。

 

 だが一切報じられなかったわけでもない。Iさんから頂いた情報によれば、当時の北海道新聞の昭和20年3月23日付の記事で、「様似、幌泉間で満員自動車顚覆死傷者30名」という見出しで以下のように報じられているという。

 

「(札鉄局発表)21日12時50分省営自動車日勝線旅客第5便様似より幌泉方面に運転中車内に発火し急拠制動手配したるも右方にそれ高さ1メートルの築堤から海浜に横転し即死3名負傷者27名を出せリ、運転手は負傷したるも付近の部落民と協力救出につとめたるのち目下危篤状態にあり、原因取調中」

 

 記事にはさらに「5名死亡」という小見出しがあり、「右事故による重傷者は様似村太田、高田両病院に収容手当て中である死者次の如し」そしてその5名の住所と氏名が続いているという。

 

 よって、地元では知られているのだろう。「北海道の平宇でこういう事故があったよ」とIさんから指摘を頂いたのだった。これがなければ、筆者は永久にこの事故を知らなかったかも知れない。

 

 Iさんによると、赤旗新聞の付録として発行されていた「様似民報」に、この事故のドキュメントが連載されていたのだという。

 

 これは森勇二という郷土史研究家がまとめたもので、連載は1985(昭和60)年3月から2年に渡っていた。Iさんは図書館でそれを確認しながら当時の記憶を解きほぐし、筆者へ情報を提供して下さったのだった。

 

 ご協力頂いたIさんには、この場を借りて御礼申し上げたい。少しでも、事故の記憶の風化防止に役立てば幸いである。

 

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和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)

 事故の内容はとても単純である。

 1947年(昭和22年)6月28日、朝の7時10分。1台のバスが走行していたところ、道路で山崩れが起きていたのだ。前日は雨が降っており、それで山の地盤が緩んだものらしい。

 で、それを避けようとハンドルを切ったところ、滑って50メートル下の川へドボーン。5人が死亡した。

 面倒臭いのはここからである。一体この事故の発生地点がどこなのか、正確なところが不明なのだ。

 事故を起こしたバスは、和歌山県西牟婁郡(むろのこおり、とか、むるぐん、と読むらしい)近野村を出発した省営バスだった。そして当時の新聞では、事故が起きたのは「二川村高原の川合」とあるのだが、これは現在の「田辺市中辺路町高原」か「田辺市中辺路町川合」のどちらかを指すらしい。

 で、どっちなんだよ、という話である。

 どうも新聞記事を書いた人物は、高原と川合がごっちゃになっていたようだ。昔の新聞は、記者同士の電話による伝言ゲームや伝書鳩でもって情報をやり取りするしか手段がなく、このように地方ニュースに関しては情報がめちゃくちゃになることが珍しくなかったのである。

 手掛かりになりそうなのは、バスが出発した「近野村」と、それからバスが落下した「富田川」という名前の川である。近野村は現在の「田辺市中辺路町近露」であり、そこからとにかく富田川に隣接するような道路を走っていて転落したわけだから、地図を見るとその道路は国道311号線である可能性が高い。そしてこの311号線が通っているのは川合の方である。

 というわけでこの事故が起きたのは、「田辺市中辺路町川合」の国道と思われる。しかし慰霊碑があるという情報も特に見つからず、これ以上の詳細は不明である(※)。

 ちなみに事故が起きた道路はこの1週間前に開通したばかりで、しかもやはり昭和20年代には別のバス事故も起きており死傷者も出ているのである。どんだけ道路状況悪かったんだよと言いたくなる。どこに行っても当たり前のように舗装道路を走行できる今の時代がいかにありがたいものか、考えさせられる事例であろう。

 バス事故の歴史をざっと眺めていると、「道路状況の劣悪さ」「定員オーバー」「可燃物の出火」「運転手の疲労」などいくつかのパターンに分類することが可能なように思われる。

 

(※)余談になるが、この田辺市というのは2011年、台風12号によって「せき止めダム」ができたあの地域である。合気道の開祖・植芝盛平の出生地でもある。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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熊本県・松尾バス転落事故(1950年)

 1950年(昭和25年)2月11日のことである。

 事故が起きたのは、熊本県飽託郡松江村要江の梅洞堤という場所だった。

 この「梅洞堤」というのは、かつて熊本に存在した古い地名らしい。今では飽託郡そのものが熊本市に編入されたので完全に埋もれた形だが、とにかく当時は確かにそういう地区があったようだ。

 時刻は9時20分。この梅洞堤のカーブを、1台のバスが通過しようとしていた。

 このバスは九州産業交通というところで出しているもので、同県の玉名郡高瀬町を出発して熊本へ向かっているところだった。

 ただ実を言うと、このバス会社名も新聞によって諸説あるという。ある新聞では「熊本交通バス」とされているらしい。ただ「九州産業交通」と書いてある共同通信では転落したバスの写真が添付されるほど詳細な記事だったし、朝日でも同様の記述があることから、参考資料ではそちらが採用されている。よって当研究室もそれに準ずることにする。

 このバスの定員は35名。ところが当時は60名も乗車していた。詳しい資料がないので不明だが、なんだろう? 通勤ラッシュの時間帯でもないのにこんなにぎゅうぎゅう詰めだったというのは、何か理由がありそうだ。まあ今から見ると驚くほど交通が不便だった時代である。本数の希少なバスに大勢が乗り込むこともあったかも知れない。

 だがとにかく、このぎゅうぎゅう詰めが仇になった。定員をオーバーしまくっていたためバスは動揺し、ゆらゆらり。おいおいなんか危ないぞ、このバス大丈夫か?

 大丈夫ではなかった。乗客のものだろうか、当時のバス内には荷物が積まれていたらしく、これが運転手の腕に当たりハンドル操作を誤ってしまったのだ。

 そしてその場所が最初に述べたカーブだった上に、前夜の雨で地盤が緩んでいたから「ワッチャ~♪」である。13メートル下にあった養魚池へ転落、どつぼにはまってさあ大変。運転手や車掌ら22人が死亡、4人が重傷、27人が軽傷を負うという大惨事になったのだった。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)

 1950年(昭和25年)4月14日、神奈川県横須賀市で発生した事故である。

 時刻は午前11時30分頃。一台の大型バスが、横須賀市林5丁目11番地の国道134号線を走っていたところ、これがいきなり火を噴いたのだ。

 このバスは、横須賀駅発・京急三崎行き京浜急行のトレーラーバスだった。当時の乗客は50人ほどだったと言われており、そしてそのうち16人から17人が即死したという。ただし『横須賀市史』によると19人とも記述されているらしく、おそらく後で死者が増えたのだろう。

 火災の原因ははっきりしていた。生存者の証言によると、当時のバス内には、「こも」をかぶったガソリン缶らしきものが置いてあったというのだ。車内もなんとなくガソリン臭く、あげくそれに引火したのである。

 公共の場所に危険物が持ち込まれていたというだけでも時代を感じさせるが、引火した原因はそれ以上に「いかにも戦後だなア」と思わせる。このガソリンは、一人の乗客が闇売りの目的で所持していたものだった。そこに、別の客が煙草をポイ捨てしたせいでぽぽぽぽ~ん、と引火してしまったのだ(公共交通機関の車内で煙草のポイ捨て、というのも時代を感じるなあ)。

 うおっ、なにしやがる! アチアチアチチ! 持ち主の乗客は慌てて缶を外に捨てようとしたが――ここで外に捨てられてもやっぱり大惨事になっていたような気もするが――このトレーラーバスの窓には鉄の枠がはめ込まれており、それは不可能だった。そして悪いことに車内は木造。床に投げ捨てられたガソリン缶は、火炎を車内にまき散らした。

 さあ、なにしろものがガソリンなのでタダで済むわけがない。大火事である。通報を受けた警察、消防団、そして進駐軍が現場に駆けつけた。だがその時すでに現場のバスは消し墨状態で、焼死者はもはや男女の区別も判然としないような有様だった。負傷者は、病院や交番や付近の民家に担ぎ込まれて治療を受けたという。

 そして冒頭に書いた通りの犠牲者数となったわけだが、ここまで被害が大きくなったのには、当時の交通・輸送状況の事情と、それにトレーラーバスそのものの構造にもその原因があった。

 この事故のタイトルのみならず、ここまでの文章の中でも「トレーラーバス」という名称をずい分使ってきたが、読者の皆さんはトレーラーバスという乗り物がどんなものなのかご存知だろうか。

 終戦直後というのは、とにかく大量輸送が重要視された。なにせ戦争による破壊で交通機関が大ダメージを受けているから、少ない車両や船舶でより多くの人や物を運搬しなければならない。それはバスについても例外ではなく、戦後しばらくの間のバス車両製造は「いかに大型化するか」というテーマに焦点が合わせられていた。

 そこで、いち早く大型バスの製造と生産に乗り出したのが日野産業である。日野は終戦直後の1946年にはトレーラートラックT10/T20型を開発しており、それをベースにして作られたのがトレーラーバスだったのだ。

 トレーラートラックというのは、日本語で言えば「貨物牽引車両」のことである。運転席となる先頭車両と荷台部分とが切り離せるようになっているタイプだ。

 現在の日本でも、運転席後ろの荷台部分に貨物を乗せて走るセミトレーラーはごく普通に走っているが、当時のトレーラートラックはもっと豪快かつ単純だった。先頭の運転車両が、車輪付きの客車や荷台をゴロゴロと引っぱって進むという形態だったのだ。

 さらには終戦直後らしく、軍用車両の部品が各部に用いられたという。

 そして、このようなトラックをもとに造られたトレーラーバスは、まさに大量輸送時代のニーズに応えるものだった。一台で90人から100人が収容でき、しかしでかぶつの割には小回りが利くのも良かった。こうしてこのタイプのバスは、戦後の象徴と呼ばれてもおかしくない勢いでたちまち普及していったのである。

 今、筆者の手元には当時のトレーラーバスの写真がある。それを見ると、なるほど犬の頭のような形の先頭車両が、電車の車両にしか見えない巨大な箱型の客車を牽引しており、なかなかユニークな形であると思う。そして巨大で、今の時代の目線で見ると新鮮である。

 しかし今回ネタにされているこの事故事例では、トレーラーバスの構造が完全に災いした。このバスは運転席と客車が完全に分離しているから、客車でトラブルがあっても運転手は気付きにくいのだ。よって、火災が起きてからも運転手はごく普通にバスを走らせており、火の車になったバスがしばらくの間街中をブロロロと普通に走り続けていたのだった。なんと申しましょうか、この世のものならざる光景である。

 もちろん運賃の精算の関係もあるだろうし、客車には車掌がいた。そして運転席に連絡するためのブザーもあった。だがおそらく、ガソリンに引火して一瞬で猛火に包まれたであろう車内では、誰もブザーを鳴らす余裕はなかったのではないだろうか。

 トレーラーバスは、この後、急速に姿を消していくことになる。歴史的には、新たに登場した単体型バス(運転席と客席が一緒の車両にある、今の形態に近いバス)に主役の座を取って変わられたことになっているが、おそらくこの横須賀での火災も多いに影響しているに違いない。

 さらに、この事故が影響を及ぼしたのはバスの流行だけではなかった。旅客・運送にまつわる関係法令がこの直後に改正され、ガソリン類を始めとする危険物を車内に持ち込むことが禁止されるようになったのだ。

 しかし、あらかじめ年表を見ていると分かるのだが、その後もバスの中の危険物から出火して大事故に至るケースは後を絶たなかった。現在のように、人々が当たり前のように安全にバスに乗れるようになるには、まだいくつかのステップが必要だったのである。

 事故現場には「殉難者供養塔」が建てられたというが、今も残っているかどうかは不明である。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウェブサイト『三浦半島へ行こう!』
http://miurahanto.net/index.html
◇鈴木文彦『日本のバス年代記』グランプリ出版 1999年
◇社団法人日本バス協会『バス事業100年史』2008年

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