目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)
航空機事故
トランスワールド航空800便墜落事故

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ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)

 海外におけるサッカースタジアムでの群集事故は数あれど、突出して酷いのが「ヘイゼルの悲劇(Heisel Stadium Disaster)」と「ヒルズボロの悲劇(HillsboroughDisaster)」である。前者は別項でご紹介したので、今回は後者といこう。

 

(※ なおHillsboroughを「ヒルズバラ」と表記しているサイトもいくつか存在するが、ここでは「ヒルズボロ」で統一する。)

 

 大惨事となったヘイゼルの悲劇から4年後、1989(平成元)年4月15日のことである。イギリス中部イングランド、シェフィールドのヒルズボロ・スタジアムでは、FAカップの決勝戦が行われることになっていた。対戦するのはリヴァプールとノッティンガム。5万4千枚あったチケットは完売し、あとは15時の試合開始を待つだけという状況だった。

 

 先回りして書いてしまうと、事故はこのスタジアムの西側の応援席で発生する。そこはリヴァプールサポーターの専用席で、通称「レッピングス・レーン」と呼ばれていた。試合当日、このレッピングス・レーンには2万4千人のサポーターが訪れる予定だった。

 

 中には15時をまたず、正午頃には到着していた者もいたというから気が早い。どうせなら他のサポーターたちも、キックオフまでに分散して来てくれれば良かったのだが、そうもいかない。14時頃から、急に大勢のサポーターがドッと押し寄せた。

 

 交通事故の影響で臨時列車が遅れたとかなんとか、そんな事情があったらしい。押し寄せてきたサポーターには決して悪気はなかった。また、入場の際のルールとして、リヴァプールサポーターは必ずスタジアムの西側から入るべし、と決められていた(敵対するサポーター同士がかち合わないように、という配慮だったのだろう)。こういった条件が重なって、大勢が一か所に集まる結果になったのだ。

 

 さあ困った。試合開始まであと1時間ほどなのに、レッピングス・レーン側の入口付近は大混雑だ。しかも入場ゲートは7つしかなく、何千人ものサポーターをさばくには時間がなさすぎる――。

 

 ここで、スタジアムの構造について、ちょっと説明しておこう。

 

 リヴァプールの応援席「レッピングス・レーン」は2段になっていた。上は椅子つき、下は立見席である。

 

 たぶん、上が新幹線で言うところの「指定席」みたいなもので、下は「自由席」なのだろう。この上下2段の構造は、少なくともイングランドのサッカースタジアムでは標準的なものらしい(筆者はサッカーには疎いのでよく分からない)。

 

 問題は、下の立見用の「自由席」である。こちらは「テラス」と呼ばれており、チケットが買えなかったり、良い席のチケットを確保できなかったりしたサポーターが入ることになる。

 

 立見席なだけに、大勢の観客を収容できる。よってスタジアムにとっては大きな収入源でもあった。だが一方で、テラスの観客は酒をラッパ飲みして大騒ぎし、時には暴れながら試合観戦するのが常だったとか。

 

 悪いことに、当時の首相マーガレット・サッチャーはサッカーに全く関心がなく、むしろフーリガンという暴徒の温床としか考えていなかった。よって政策的には、テラスはサポーターを閉じ込めて監視すべき場所として位置づけられていたようだ。

 

 そのような背景もあって、ヒルズボロ・スタジアムのテラスは5つの区画に区切られていた。サポーターが暴徒化しても好き勝手に動き回れないように、金網や鉄柵を設置したのだ。当然フィールドにも勝手に出ることはできない。

 

 ここまでの説明を聞いて「なんだか檻みたいだなあ」と思ったあなた、正解である。テラス内の5つの区画は、本当に家畜檻(pen)とも呼ばれていたのだ。

 

 ここまでで、レッピングス・レーンの下の階とか立見席とか自由席とかテラスとか家畜檻(pen)とかいろんな呼び名が出てきたが、とりあえずここから先は「家畜檻」で統一しようと思う。

 

 もともとヒルズボロ・スタジアムは歴史ある由緒正しい施設で、いくつかの名誉ある試合の会場になったこともある。しかし寄る年波には勝てず老朽化も指摘されていたし、暴徒対策についても遅れを取っていた。実際、1981年4月11日にも、死者こそ出なかったもののちょっとした群集事故が発生している。「家畜檻」の設置すらも付け焼刃で、実際にはそれでも厳密な安全基準は満たしていなかった。

 

 ちなみに、当時の状況について、気になったのだがどうしても分からなかったことがある。リヴァプール用応援席「レッピングス・レーン」の2階、即ち椅子付き応援席がいつ満席になり、またその席のチケットを持っていた連中が、一体スタジアムのどこから入場したのか――という点だ。

 

「ヒルズボロの悲劇」において、事故が発生するのは家畜檻の方である。よって、本稿で語られるサポーターたちの動向などは、すべて家畜檻での事故発生に向かって収斂されていくと考えて頂きたい。余計なことかも知れないが、混乱を避けるために一応断っておく。

 

 さて、当時の状況に戻ろう。

 

 西側の入場ゲートでは、14時までには2,140人のサポーターが通過していた。家畜檻への入場者数は、予定では1万100人。よって残りは約8千人である。あと1時間で8千人なんて、本当に大丈夫なのだろうか?

 

 大丈夫ではなかった。14時15分にはさらに人混みが膨れ上がり、14時30分の段階で入場ゲートを通過できたのは4,383人。ゲート前の混雑ぶりはすさまじく、人混みの中で具合が悪くなるサポーターも現れた。

 

 ちなみにこの時、大きな暴動や騒ぎはなかった。なかなか入場できないためイライラが募るサポーターもいたものの、大混乱というほどではなかった。ただとにかく人の多さだけが問題だった。

 

 慌てたのは、警備をしていた警官たちである。ついさっきまで、場はわりと平穏だった。サポーターたちはスムーズに入場できたし、観客席にも空きがあった。それなのに、試合開始ちょっと前になってこれである。想定外だ。

 

「本部長、これはもう無理です。とても15時のキックオフには間に合いません。どうか試合開始時刻を遅らせて下さい!」

 

 現場の警官は、警備責任者に連絡した。この要請を受けたのはサウス・ヨークシャー警察のダッケンフィールド本部長である。しかし指令室にいた本部長はそれを却下した。

 

 この時の本部長の判断が、後で物議を醸すことになる。ウィキペディアを読むと、当時彼がいた指令室には、現場の状況が分かるモニターが設置されていたとかなんとか書いてある。なぜ要請を却下したのか? 状況を把握していなかったのだろうか? このへんはいまいちよく分からない。裁判のときに「当時は何も考えていなかった」という証言をしたという資料もあるので、単純にそういうことなのかも知れない。

 

 現場は動揺していた。増援を頼んで人混みの整理にあたるも効果なし。回転式の入場ゲートは順調に動いているのだが、とにかく人が多すぎる。14時45分の時点で入場できたのは5,531人である。残るは4千人、さあどうする。

 

 そこで現場ではこう判断した。

 

「まずい、フィールドではそろそろ選手入場だ。このままでは群集が騒いで怪我人も出るかも知れないぞ。仕方ない、出口のゲートも開放して、そこから群集を中に入れるんだ!」

 

 出口ゲートは、入場ゲートのすぐ横にある。現場の警官たちはダッケンフィールド本部長から許可を得てこれを開放した。待ちかねたサポーターたちはドッと入場し、家畜檻に向かって突入していく――。

 

 出口ゲートが開放されていたのは、わずか5分程度だったという。この5分という時間は、スタジアム内で選手入場が行われた時間帯とぴったり重なる。サポーターたちはこれに遅れまいと、一気に家畜檻に押し寄せたのだ。

 

 家畜檻が、鉄柵や金網で5つの区画に区切られていたのは先述した通りである。この5つのうち第3・第4ブロックがゴールのすぐ後ろにあり、サポーターたちはそこに集中した。このブロックの収容人数は1,600人が限界とされていたが、当時は3,000人ほどが詰め込まれたと言われている。

 

 すし詰めである。家畜檻の中の圧力が急激に増した。三方を金網で囲まれているので、逃げ場はない。前列の人々は圧迫されて失神。中には、金網の外の警官に助けを求めるサポーターもいた。

 

「苦しい、死ぬ! フィールド側の扉を開けて脱出させてくれ!」

 

 しかし警官は、家畜檻の中がそんなにひどい状況だとは思っていなかったようだ。フィールドに面する非常口があったにも関わらず、そこを開けてはくれなかった。人々の圧力でその非常口が開いた時、わざわざ閉めた警官もいたとか。一部のサポーターは、たまらず金網を乗り越えて隣の家畜檻へ脱出した。

 

 こんな状況で、とにかく15時には試合開始。キックオフから4分が経過したところで、リヴァプールのピーター・ベアズリーが放ったシュートがクロスバーに直撃した。……と言っても筆者はサッカーに興味がないので「それがどうしたの?」という感じなのだが、とにかくそれでサポーターは大興奮。ただでさえぎゅうぎゅう詰めの家畜檻の中で、群集のうねりが発生した。

 

 これが決定打になった。第3ブロック内の仕切りの鉄柵が倒壊し、大勢がバタバタと将棋倒しになったのだ。15時6分、試合は止められた。この頃には、警備の警官たちも、さすがに異常事態に気付いていた。

 

 家畜檻に残っていたサポーターたちも、余力がある者はそれぞれ避難を始めた。ある者はフェンスを乗り越えて隣へ移動。またある者は上階のサポーターに引っぱり上げられた。

 

 金網も切除。地獄と化していた家畜檻から、サポーターたちはようやく解放された。生存者は脱出し、怪我人や心肺停止状態の者が次々に救助される。最初、試合ストップの理由が分からなかった他の観客たちも、フィールドに続々と運び出される人の姿を見て色を失った。

 

 救急隊と警官も集まり、無事だったサポーターたちも救助に協力。スタジアム内の広告看板がタンカ代わりに使われ、負傷者が搬出された。しかしほとんどがこの時点では致命的なダメージを負っていたらしく、96人という最終的な死者数のうち、病院に収容されたのはわずか14人だった。

 

 ところで、少し先回りして書くが、この事故は責任の所在をめぐって約30年も裁判で争われることになる。2016(平成28)年8月現在でその大まかな結論は出ているが、それでも賠償などの決着はこれからになりそうだ。とにかくこの事故の裁判は揉めに揉めた。

 

 で、その理由は一体何なのか。実はそのきっかけは、事故当日にあった。裁判での喧嘩の火種が生まれた“その一瞬”があったのだ。松平アナ風に言えば「いよいよ、今日のその時がやってまいります」というやつである。

 

 事故の発生を受け、FAの最高経営責任者であるグレアム・ケリーとシェフィールド・ウェンズデイの関係者は、すぐさま指令室の警備責任者のところに足を運んだ。この責任者とは、先ほどから何度か名前が出ているダッケンフィールド本部長である。状況の説明を求められた彼は、こう答えた。

 

「リヴァプールサポーターが、入場ゲートを破壊して場内に突入したんです。」

 

 嗚呼、その時、事故史が動いた…(泣)彼は、責任をサポーターに転嫁したのだった。彼らの暴動をでっちあげて、警備態勢の不備については説明しなかったのだ。

 

 この後、グレアム・ケリーも、ラジオ局のインタビューでダッケンフィールド本部長の言葉をそのまましゃべってしまった。それが、警察の見解としてそのまんま放送され、事故の真相として流布していった。

 

 もっとも、この“真相”に人々が納得する理由もあった。4年前にはヘイゼルの悲劇が起きている。リヴァプールサポーターといえばフーリガンだ。「やっぱりまたあいつらか!」と思った人が大多数だったのではないか。

 

 ちなみに、リヴァプールサポーターの名誉のために補足しておくが、ヘイゼルの悲劇後、彼らが大きな騒動を起こしたという記録は(ざっと見た限りでは)存在しないようだ。ヒルズボロの悲劇が起きた年の4月には、「サポーター達が自重自戒を続ける」ことを条件に、UEFAはイングランドのサッカークラブの国際大会復帰を決定している。かなり自重したのだろう。

 

 ヒルズボロでの事故を受けて、しばらくの間はリヴァプール叩きが続いた。警察はダッケンフィールド本部長の出まかせをどんどん補強し、一部の雑誌は、警察が流したウソ情報を真に受けた記事を掲載。いわく、リヴァプールサポーターが救助活動にあたっている警官に放尿したとか、どさくさに紛れて犠牲者から財布を抜き取ったとか、そんなことを書き立てたらしい(この雑誌は、後に謝罪している)。

 

 一方で、責任の所在については疑問の声もあった。この時点で、最もしっかりした形で「悪いのはリヴァプールサポーターではなく警察だ」と言い切ったのが、事故調査を担当した控訴院のピーター・テイラーによる報告書である。この報告書は8月4日に発表され、事故は警察の失態が原因だと結論づけた。

 

 にもかかわらず、裁判は振るわなかった。かの国の訴訟の仕組みがよく分からないので細かい点は端折るが、証拠不十分で誰も彼も不起訴になったり、遺族がダッケンフィールド本部長とその助手の責任を追及するも、無罪になったり結論が出なかったり時間切れになったりと、まことに切ない結果になったようだ。

 

 もちろん、遺族は諦めない。彼らの活動と怨念は、事故から27年後にようやく実を結んだ。

 

 事故から20周年を迎えた2009(平成21)年。7人のメンバーからなる「ヒルズボロ独立調査委員会」が設立され、それまで未公開だった事故の全記録文書を再精査したのだ。その量たるやなんと45万ページ。彼らは2012年9月12日に報告書を発表した。そこでは、当時の警察と救急隊が、かなり厳しく非難されていた。

 

 この報告書の内容は、大筋では、27年前のものと変わりなかった。新しかったのは、スタジアムの欠陥と救急隊の対応の不備を明らかにした点だった。それによると、適切な医療措置を講じていれば、犠牲者のうちほぼ半数の41人は救えた可能性があるとのことだった。

 

 これにより、ようやく再審の扉が開かれたのだ。

 

 新報告書の公開により大騒ぎになった。まず当時のキャメロン首相が謝罪。その他、いろんな関係者や関係機関の長が謝罪した。公的機関による、新証拠の精査もスタートした。

 

 それからさらに4年。2016年4月26日、陪審団は評決を下した。この事故の原因は、警備責任者の悪質な業務上の過失にあったと認定されたのだ。

 

 たぶん、最終的な結論が出るまでに、大方の趨勢は決まっていたのだろう。判決が出るや否や警察が謝罪した。救急サービスも謝罪した。ついでに言えば、例のダッケンフィールド元本部長も裁判中に証言台に立ち、事故は自分(たち)のミスだったと全面的に認めている。

 

 余談めいてくるが、イギリスには死因審問という、日本人にとって耳慣れない司法制度がある。どうも不審死の場合、犠牲者の死因を徹底的に調べて、それを裁判の中心に据えて白黒をはっきりさせるものらしい。ヒルズボロの悲劇の審判で大きな争点になったのも、どうやらこの死因審問だったようだ。

 

 ただこの事故の場合、再審における逆転判決に対して死因審問がどれくらい直接的に影響したのか、部外者の素人である筆者にはその理屈がよく分からなかった。世間の認識として、もしかすると最初から結論ははっきりしていたのではないだろうか。ただ制度上、再審のためにはそのきっかけが必要だ。そのために死因審問の結果が活用されたのではないかと思う。

 

 もちろんそれは想像である。どのみちここでは深く突っ込まないので、興味のある方は独自に調べてみて下さい。

 

 ヒルズボロの悲劇の何が悲劇かって、死者が出たことはもちろんだが、警察の嘘の上塗りのせいでウン十年も揉めたのが、遺族にとっては何よりも悲劇的だったろう。しかも補償の問題や、当時の警察関係者への懲罰がどうなるかについても、それはこれからの話なのだ。ヒルズボロの悲劇は、「いつまで経っても最終的な決着がつかない」という悲劇的な形で、今も続いている。

 

 今後書くつもりだが、2010(平成22)年にドイツで起きたラブパレード事故や、2001(平成13)年に日本で起きた兵庫県明石市の歩道橋での事故でも、ヒルズボロ同様に関係者による資料の改竄、情報の隠蔽・誘導などが積極的に行われたフシがある。どうも群集事故というのは、どこも似たような経過を辿るものらしい。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆プレミア・ゴシップ B6通信

 http://astonvillabrummie.blog.fc2.com/blog-entry-244.html

◆PremierMood-英国在住ライター原田公樹のプレミアシップコラム #196ヒルズボロの悲劇~23年目の真実

 http://www.jsports.co.jp/press/article/N2012091419344302.html

◆サッカー名言集

 http://blog.livedoor.jp/jeep_55/archives/52567536.html

◆BBC news japan「1989年「ヒルズバラの悲劇」、96人圧死は警察過失が原因と」

 http://www.bbc.com/japanese/36147329

◆スカパー!SOCCER海外サッカー世界のサッカーニュース/ヒルズボロの悲劇、当時の警察責任者が「ひどい嘘」をついたと認める

 http://soccer.skyperfectv.co.jp/international/12339

◆フットボールチャンネル 英スポーツ史最悪の悲劇から26年。警察が「ヒルズボロ」での誘導ミスを認める

 http://www.footballchannel.jp/2015/03/18/post77516/

◆Onlineジャーニー「ヒルズバラの悲劇」要因は警察の過失と認定―運命の「ゲートC」、開けたのは警察だった

 http://www.japanjournals.com/uk-today/7912-160506-1.html

◆ウィキペディア


大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)

 年の瀬も迫るクリスマス・イブ、1995(平成7)年12月24日に起きた事故である。

 

 この日は「第40回有馬記念(中山競馬場)」のレースが行なわれていた。――と言っても筆者は競馬はサッパリなので、その意味するところは分からない。これって、大勢の人が集まるようなすごいレースだったのだろうか。

 

 たぶんそうなのだろう。大阪市北区・日本中央競馬会の場外馬券売場「ウインズ梅田」は大勢の人でごった返していた。

 

 この日は日曜日。だからもともと人が多く集まる日だったと思うのだが、この時はそれに輪をかけて多かった。なんといつもの日曜日の1.5倍、約5.600人の人が詰めかけたのだ。身動きもできない状態だったという。

 

 まさかこんなに人が来るとは、主催者側も考えていなかったのだろう。整理員は30人と、いつも通りの人数だったそうな。

 

 事故は午後3時半頃、エスカレーター(幅1.2メートル、長さ9.6メートル)で起きた。

 

 なにやら、この馬券売場にはA館というものが存在しているらしい。その3階から2階へ降りるエスカレーターに、ドッと人が押し寄せたのである。

 

 彼らは、レースが終了したので帰路についたところだった。資料を読んでいると、歌謡ショーのような暴力的な空気ではなかったようだが、おそらくエスカレーターという場所が良くなかったのだろう。一人が転倒したのを皮切りに、バタバタと将棋倒しが発生した。

 

 これに巻き込まれ、怪我をした男性の証言。
「エスカレーターの下で何人かが倒れているのを見て、慌てて逃げようとしたが、降りてくる人に押されて倒れた。生きた心地がしなかった」

 

 また、これは将棋倒しに巻き込まれた別の女性。
「人が下に溜まっており、危ないなぁと思っていた。途中で人に押され、何がなんだか分からないうちに下敷きになっていた」

 

 ギャー、バタバタバタ。場内に悲鳴が響き渡る。それでもエスカレーターはゆるゆると動き続けており、危険な状態だった。これを非常停止ボタンでストップさせたのは、悲鳴を聞いて駆けつけたアルバイトの整理員だったという。

 

 この事故により、下敷きになった人のうち男性5人、女性3人の計8人が負傷。額を切ったり、足首を捻挫するなどの怪我を負った。このうち3人が入院し、一人の男性は重傷だった。

 

 怖いな、エスカレーター。

 

 だが、人がたくさん来たら危ないのでそのときはエスカレーターは止めよう、という考えはあったらしい。

 

 もともと、建物の各階に監視用のモニターが設置されており、あまりに混雑した場合はストップさせる手はずになっていた。それがこのたびは何故か手が回らなかったのだった。

 

 大阪の事故については以上である。

 

 一応、あわせてご紹介しておこう。実はこの日は北海道でも親戚みたいな事故が起きていた。札幌市中央区の場外馬券売場「ウインズ札幌」でも、おんなじような将棋倒しが発生したのだ。

 

 時刻は午後4時10分頃である。B館の3階から2階に降りるエスカレーターで、客が次々に将棋倒しになった。

 

 これにより2人の女性客が、それぞれ左鎖骨を骨折したり足首を強打したりして入院。また4人が腕などに軽症を負ったそうな。

 

「ウインズ○○」にとっては、とんだ厄日だったようである。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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生駒山コンサート事故(1999年)

 奈良県生駒山の上にある遊園地「スカイランドいこま」で発生した事故である。

 と言っても、この「スカイランドいこま」は当時の名称である。現在は「生駒山上遊園地」で通っており、もともとこっちが正式名称らしい。スカイランドというのは、開園70周年にあたる1999(平成11)年以降、しばらく使われていた愛称だそうな。

 ここで行われたロックコンサートで、事故は起きた。

 1999(平成11)年8月28日のことだ。大阪のFMラジオ放送局「エフエムはちまるに」の主催でコンサートが行われた。これにはSNAIL RAMPなど、十代の青少年に人気のある3グループが出演していた。

 会場の敷地は1,500平方メートル、収容人員は二千人。これに対し当時の観客数は1,500人だったそうだから、まあ人数的には特に問題はない。例によって、前日から徹夜で待機していた若者たちが、会場には詰めかけていた。

 主催者側も、スタッフや警備会社のアルバイト20人を配置していた(資料によっては40人とも)。ステージと観客との間は、奥行き2メートルほどの植木と、さらに鉄柵で仕切られている。うむなるほど、これなら、日比谷のコンサート事故のような事態は起こりにくそうだ。

 ただ強いて難点を挙げるとすれば、芝生の観客席が、ステージに向かって低くなる緩い下り勾配だった点だろう。もっとも、コンサート会場なのだからそういう造りなのは当たり前だとも言えるが、とにかくこれが仇になった点は否めない。

 時刻は13時。資料によると「4人組のロックバンドが一曲目の演奏を始めた」直後に、高校生たちが総立ちになったらしい。そして彼らはステージ前の柵に殺到した。

 で、お約束のすっ転びである。最初の1人に合わせて、約40人が悲鳴を上げながらバタバタと将棋倒しを起こした。

 こういうシチュエーションだと、1人が転んで、さらに後続の者がつまずいて折り重なる――というイメージが頭に浮かぶ。だが資料によると前方の人も巻き込まれたそうだから、下り斜面で後ろから押されたため、体を支えきれずまさしく「将棋倒し」になってしまった人もいたのだろう。下り斜面が仇になったと書いたのは、そういう意味である。

 この転倒で、せっかく設置された仕切りの鉄柵も、15メートルに渡って倒された。会場は騒然、痛い痛いと悲鳴があがる。最前列にいた女性が鉄柵に挟まれて足の親指を骨折するなど、計11名(女性10名、男性1名)が負傷した。

 以下は、巻き込まれた高校生たちの証言である。資料から引っぱってきたのだが、文字や句読点などは少し手を加えさせてもらった。

 

 高校生A

「前方まで人が詰めかけていたので、大丈夫かと心配だった。倒れた時は、人に挟まれて身動きできなかった」。

 

 高校生B

「開演前からすごい盛り上がりで、一曲目の演奏が始まってすぐに、男性が舞台に向かって走り、つられるように多くの人が動いた」。

 

 コンサートは約30分中断したのち、再開された。

 

 それにしても、死者が出ないだけラッキーだった感のある事故である。

 他のジャンルの事故と違い、群集事故というのはちょっと特殊である。どんなに過去の事例に学ぼうとしても、どんなに策を凝らしても、起きる時は起きるのだ。大勢の人間、斜面や突起物などの足場の状況、熱狂的な空気、他人につられての行動…。当研究室の読者は、どうか外出する場合はくれぐれもこういった要素に気をつけてもらいたい。

 コンサート会場で、大ファンだからといって熱狂したあげく怪我をしても、バンドのメンバーが喜んでくれることはないのである。むしろ事故が起きれば、そのバンドは活動自粛の憂き目に遭うか、あるいは30分後にはビミョ~な空気の中でコンサートを再開するしかないのだ。どっちみちイヤな話である。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆朝日新聞

◆ウィキペディア


トランスワールド航空800便墜落事故

 

 1996(平成8)年7月17日のことである。一機の旅客機が、ニューヨークのJFK国際空港に到着した。

 この旅客機は、トランスワールド航空(以下TWA)881便のボーイング747-131(N93119、製造番号20083)である。TWAはアメリカの企業で、同機はこれからJFK空港での給油と乗客の乗り降りを経て、今度は「TWA800便」に切り替わることになっていた。次の目的地はフランスのシャルル・ド・ゴール空港だ。

 ところが、JFK空港でやたらとトラブルが発生した。まず、空港到着時に第3エンジンのスラスト・リバーサー(※1)のセンサーに問題が発生し、その交換作業が行われた。また、給油作業も手間取ったようだ。参考資料をざっと読んだ感じだと、燃料タンクが満タンになる前に自動的に補給作業が中断され、仕方なくいろいろ手動に切り替えて加圧方式での給油を続けたとかなんとか。

(※1)スラスト・リバーサー…逆推力装置のこと。ジェットエンジンの向きを逆にすることで飛行機を減速させる装置。主に着陸時の減速・制動に使われる。

 しかも、である。「乗客と預け手荷物の数が一致しない」と騒ぎになった。手荷物を預けた本人が搭乗をすっぽかすのが、航空機爆破テロのやり口である。実際、以前この手口で事件が起きている。よって厳密な確認作業が行われたが、実は勘違いだったと判明。飛行機はやっとこさ離陸することになった。19時発の予定だったTWA800便がゲートを離れたのは、約1時間遅れの20時2分だった。

 エンジン始動チェックを済ませた同便は、20時14分に滑走路22Rへの地上滑走を開始。20時18分21秒に離陸許可を得て離陸した。ここで管制もニューヨーク・ターミナルレーダーからボストン航空路交通管制センター(以下ボストンARTCC)へ引き継がれている

 程なくボストンARTCCは、同便に対して高度13,000フィート(3,962メートル)に上昇しそれを維持するよう指示した。20時26分24秒のことである。この3分後に、乗員が次のように口にしているのが記録されている。

「見てみろ、第4(エンジン)の燃料流量がおかしい。なんだこれは?」

 だがそれ自体は問題にはならなかったようだ。ボストンARTCCは、さらに15,000フィート(4,572メートル)への上昇指示を出した。

「TWA800、上昇して15,000フィートを維持して下さい」

 同便のパイロットもそれを了解した。

「TWA800ヘビー、(中略)3,000フィートから上昇して15,000フィートを維持します」

 依然、問題はなかった。ところが、離陸から12分経った20時31分12秒、レーダー画面から突如としてTWA800便の機影が消えた。場所はJFK空港の東約45キロ地点、ニューヨーク州ロングアイランドのイースト・モリチェスから南へ約13キロの大西洋上である。同便はそこを飛行していたはずだった。

 なんだ、一体何が起きた――。管制官は必死に応答を呼びかけるが返事はない。この直後、周辺を飛行していた他の航空機のパイロットたちから、続々と目撃情報がもたらされた。

「こちらスティンガー・ビー507、たった今向こうで爆発が見えた。あー、前方のおよそ16,000フィートくらいで何かが爆発して落ちた…水中に」(イーストウィンド航空507便)

「ボストン、こちらヴァージン609、九時の方角、5,6マイルほどで爆発らしきものを見た」(ヴァージン・アトランティック航空609便)

 TWA800便が姿を消した地点の周辺が人口の多い地帯だったこともあり、一般市民からの通報もかなりあったようだ。また航空・海上警備隊の人々も、爆発の瞬間と残骸の降下を目の当たりにしてすぐさま出動している。

 TWA800便は、空中で爆発し大西洋に墜落したのだった。夜の海上には機体の残骸が散らばり、3メートルほどの炎を上げているものもあったという。

 乗客212名と乗員18名は全員死亡。「トランスワールド航空800便墜落事故」の発生だった。

 

   ☆

 

 墜落の原因は何だったのか。最初に浮上した説は次の2つだった。

①イスラム原理主義者によるテロ

②アメリカ海軍によるミサイル誤射

 まず①だが、これは、事故の発生がアトランタ・オリンピックの開会式2日前だった(実際、開会後の7月27日にはアトランタ中心部で爆発テロが起きている)ことや、事故機が墜落前にアテネにいたことなどによる憶測である。アテネは何度も航空テロの舞台になっているし、そこで爆弾仕掛けられたんじゃないのか……。また、事故直後にはイスラム原理主義者を名乗るお調子者が「犯行声明」を発信している。その上、機体の残骸から爆弾の痕跡っぽいものも検出されもした。だが最終的に犯行声明はウソ、爆弾の痕跡は無関係として否定された。

 次に②である。事故当時、ニューヨーク周辺では海軍の軍艦や軍用機が訓練中だった。また、墜落の瞬間を見た目撃者の多くが、ミサイルらしきものを見たと証言している。これらが結びついて憶測が生まれたのだが、これも最終的にFBIによって否定された。

 じゃあ一体何なんだ、という話だ。アメリカ国家運輸安全委員会(以下NTSB)による事故調査は地道かつ緻密だった。7.5キロ×6.5キロの範囲に四散した機体の残骸を10カ月かけて拾い集め、最終的に全体の95%まで回収。それを組み立てて主要構造部分を再現するという気の遠くなるような作業を行ったのだ。ブラックボックスも早い段階で回収している。

 現在でも、この事故についてネットで検索すると、組み立て中の機体の画像がたくさん出てくる。最もこの事故を象徴する画像なのだろう。原因調査には多くの専門家が参加し、ウィキペディアいわく「アメリカの航空事故史上類を見ないほどの時間と労力と費用が投入された」という。ココナッツ・グローブ火災について書いた時も感じたことだが、米国の、事故災害の原因調査に対する執念というのはそういうものなのかも知れない。

 この組み立て作業によって、事故機の空中分解の経緯も明らかになった。ちょっと悲惨すぎるのでサラッと書かせてもらうが、まず機体の下部が爆発し、そこから発生した亀裂が、あっという間に機体を一周した。これにより機首が切り離される形になり、先に海上へ落下。機体の残り部分は数秒だけ暴走してから完全に失速し、きりもみ状に大西洋へ墜落したのだった。墜落の途中で、左主翼も吹っ飛んでいる。

 この悲惨な空中分解を引き起こした原因はなんだったのか。最終結論が公表されたのは、事故発生からほぼ4年後の2000(平成12)年8月23日のことだった。それは「電気配線がショートし、中央燃料タンク内の燃料に引火した」という内容だった。

 あまりにも意外な真犯人である。爆破テロか、はたまた軍の過失かという壮大な話だったのが、下手人は「小さな火花」だったのだから、にわかには信じがたい話だ。実際、現在でもこの事故については陰謀説が存在する。しかし素人目にも、「小さな火花犯人説」は説得力も信憑性も陰謀説を上回っているように見える。

 具体的に、事故当時に何が起きたのだろうか。

 まず、「燃料が気化しまくっていて危険な状態だった」ことがポイントである。事故機の離陸が予定よりも約一時間遅れたことは先述したが、この一時間の間にエアコンがガンガン使われたのだ。真夏なので当然と言えば当然だが、問題は空調装置が燃料タンクの真下にあったことだった。フル稼働した空調装置の熱がタンク内の燃料を温めてしまい、気化を促したのだ。航空燃料というやつは、液体の状態では簡単には引火しないが、気化すると途端に燃えやすくなるという特徴がある。

 気化が進んで危険な状態になったのには、もうひとつ理由があった。事故機の機体中央の燃料タンクには13,000ガロン(49,210リットル)の燃料を入れることが可能だったのだが、離陸当時は50ガロン(189リットル)しか入っておらず、ほとんど空っぽだったのだ――とはいえそれ自体には特に問題はない。もともと、TWA800便が飛行するはずだった大西洋線は航空機の飛行距離としては大したものではないため、燃料は機体の両側の主翼タンクに入っていれば十分だった。しかし揮発性の高い燃料を容器に入れて保管する場合、容器内の空間が多いと、気化して酸素と結びつきやすくなる。だから一般的に、そうした保管の場合は容器いっぱいに詰めるのが望ましいのである。その意味でも、事故当時の機体は大変よろしくない状態だったのだ。事故機が離陸した直後に記録された、「見てみろ、第4(エンジン)の燃料流量がおかしい。なんだこれは?」という言葉も、これと関係があったのだろう。

 

(ちなみに、これはちょっとよく分からないところなのだが、事故機がJFK空港に到着した直後、給油に手間取ったらしいことは先に書いた。この点が事故にどう影響したのか、単に「手間取ったから時間を食って燃料の気化が進んだ」のか、それとも「手間取ったから中央タンクの給油量がほんのちょっとになってしまった」のか、文脈的に、参考資料からは読み取れなかった。)

 

 それでも、この程度の状況でいちいち爆発して墜落されたらたまったもんじゃない。火種がなければ爆発することはないわけで、実際NTSBも、事故当時と同量の燃料をエアコンで長時間温めたらどれくらい気化するか――を、わざわざ航空機を一機使って実験している。この程度の事態はいくらでもありうるものだった。

 事故当時は、ここでもうひとつ不幸な出来事が重なったのだ。それが電気回線のショートである。事故機は製造後25年を経た古いもので、電気配線の腐食が進んでいた。このため漏電が発生し、一緒に束ねられていた油量計システムの配線に電流が流れ込んだのだ。この電流が、中央燃料タンク内にあった燃料測定器をショートさせ、その時の火花が、気化した航空燃料に引火したのである。

 こうして改めて書いてみると、なんだか不幸な偶然が重なりすぎており、風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話である。人によっては、「そんなできすぎた話あるかい!」と、陰謀論にリアリティを感じることもあるかも知れない。2013(平成25)年には、NTSBの元調査官が「あの最終報告は嘘だ。FBIに証拠を消された」と広言しているほどだ。頭の痛い話である。この調子では、万人が納得できるような「解決編」が示されるのはずっと先になりそうだ。

 できすぎといえば、この事故は、全体としてあまりにもドラマチックであり、その真相についてはミステリアスである。衆人環視の中での空中爆発、悲惨な機体破壊、各方面の専門家による爆発原因の「推理」、そして意外な真犯人、それでも残る陰謀説…。実際、この事故を再現・解説したドキュメンタリー動画を観てみると、ちょっとドラマ性が強調されすぎている気がしなくもない。

 こういうイメージが先行してしまうと、どうしても人はそこに「面白いドラマ」を幻視してしまうものだ。日本における、例の日本航空123便墜落事故などその最たるものである。また1952(昭和27)年に起きたもく星号墜落や、1902(明治35)年の八甲田山遭難事故も同様で、さらに言えば、これは犯罪の話なのでジャンル違いではあるが、1938(昭和13)年の津山事件もそうだ。今のように情報媒体が充実していた時代とは違い、かつてはこうした「イメージ先行」の壁を打ち破るのは難しかったことだろう。今挙げた事例で、憶測とイメージによって実態が覆い隠されて後世に悪影響を残した点というについては、一部の文筆家にも責任があると思う。

 この事故の後、ボーイング社は、燃料タンク内での引火を防止するシステムを開発した。また経営難だったTWAは、800便事故が致命傷となって2001(平成13)年にアメリカン航空に吸収された。

 

【参考資料】

・青木謙知『飛行機事故はなぜなくならないのか』講談社ブルーバックス、2015年

・ナショナルジオグラフィックチャンネル『メーデー!:航空機事故の真実と真相』第15シーズン第4話「Explosive Proof」

・pixiv百科事典「TWA800便墜落事故」

・youtube「航空事故の瞬間:補完編(音声編)」

・ウィキペディア

 


この本の内容は以上です。


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