目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)

 1961(昭和36)年1月1日、元日のことである。

 岩手県岩手郡松尾村(現八幡平市)の、松尾鉱山小学校の校舎内で、大勢の児童が廊下を駆けていた。午前9時30分を回った頃のことだ。

 この日は、午前9時から新年祝賀会が開催されていた。例年、その後は映画会を行うのが慣例になっており、児童たちはその会場へ向かっていたのだ。

 会場というのは、学校から300メートル離れた鉱業所内の会館である。そこで会社主催の映画会が行われるのだ。

 よって児童たちは、映画を観るために、急いで校舎の外に出る必要があった。目指すは校門に近い西昇降口だ。

 2階の廊下を進み、階段を下りる。時刻は9時40分、その階段下で惨劇が起きた。

 きっかけは、階段を下り切った先頭の児童が、立ち止まって腰をかがめたことだった。靴を履き替えるための、何気ない動きである。

 ここに、後続が押しかけた。早く映画会に行きたい児童たちがワッと階段を下りてきて、先頭の児童のところで一瞬だけ詰まった。そのまま支えきれず倒れ、バタバタと折り重なったのだ。

 後ろの方の児童は何が起きたのか分からず、面白半分に階段の上から飛び降りた者もいたという。群集事故の恐ろしいところだ。その事故が起きた瞬間だけでは、悲劇は終わらない。何が起きているか分からない、後続の人間の動きがさらに事態を悪化させるのだ。

 教諭たちが駆けつけた時には、既に10人が呼吸停止し、13人が負傷していた(負傷は10人という資料も)。死者のほとんどは圧迫窒息死だったという。

 現場は、事故が起きてみると「なるほどこれは危ないわ」と納得してしまうような状況だった。この地域は豪雪地帯で、正月とあって校舎は雪に埋もれていた。そのため利用できる出入り口は限られており、その数少ない入り口の一つに児童が殺到したのだ。

 また、現場の昇降口は暗かった。読者諸君は「雪囲い」というものをご存知だろうか。雪国では、建物や樹木が積雪でダメージを受けないように、板で覆ってロープでくくるなどし、防護壁を作る習慣がある。現場の校舎でもそれが行われていたという。おそらく、それによって窓などが覆われていたのだろう。咄嗟には状況が把握しにくい状態だったという。

 まして、子供たちは映画会を楽しみにして廊下を駆けていたのだ。すぐ先の、薄暗い階段の下で起きていることになど思いが及ばなかったに違いない。

 この事故の、その後については不明である。ここから先は、この松尾村という地域について少し書いておきたい。余談じみるところもあるので、後は読みとばしてもらっても構わない。

 現場の小学校の名前からも分かる通り、この地域は鉱山町だった。その中心にあったのが松尾鉱山である。硫黄鉱石が採れるということで、当時は栄えに栄えた場所だったのだ。

 この鉱山が発見されたのは1882(明治15)年のこと。一時、その採掘量は「東洋一」とまで呼ばれるほどだった。

 さらに戦後、朝鮮特需で景気が良くなった昭和20年代には需要が増し、硫黄鉱石は「黄色いダイヤ」とまで呼ばれるほどになった。

 そこで、労働力確保の必要性もあって、松尾村は一気に整備された。公団住宅が一般的ではなかった時代だったにも関わらず、集合住宅は水洗トイレにセントラルヒーティング完備。また小中学校や病院も建てられ、福利厚生もばっちり。実に近代的な都市だったのだ。

 雪国東北の山間部で、当時こんな場所があったのか――。山形在住の筆者などは、資料を眺めてそんな風に驚いたものだ。実際「雲上の楽園」などと呼ばれたこともあったらしい。

 事故が起きた松尾小学校も、最盛期は児童数1,800人に達したマンモス校だったという。校舎は、立派な鉄筋コンクリ製の近代的な造りだった。

 だが人が増えれば、それだけ群集事故の危険性も高まる。群集というものの発生が近代特有の現象だと考えると、急速に近代化が進んだ松尾村という場所でこういう事故が起きたのは、暗示的だなという気もする。

 そして、この松尾村の「その後」である。

 そもそも、硫黄の採掘で栄えた鉱山町があった……などという歴史的事実そのものが、現代に生きる多くの人にとっては初耳か、あるいはすっかり忘れられた話に違いない。

 1960年代後半(昭和40年代)を境に、硫黄の価値は急落した。資源の枯渇、輸入の増加、需要減、そして安価に硫黄が生産されるようになったことなどが、その理由である。国内の硫黄鉱山は、どんどん閉山に追い込まれた。

 こうした流れで、松尾鉱山も1969(昭和44)年に強制的に閉山。翌年の1970(昭和45)年には住民も退去した。当時のアパートは、現在は心霊スポットとして有名だそうだ。

 いくつかのサイトでざっと調べてみたが、事故の現場となった小学校は今は取り壊されたようだ。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆ウィキペディア

 

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大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)

 大阪市北区天満にある大阪造幣局の「通り抜け」は、今も多くの人々に愛されているようだ。地元の人ばかりでなく、遠方から観光バスで訪れる人も大勢いるとか。 

 局の敷地内には南北に貫通する通路があり、長さは568メートル。この両側には127種354本の牡丹桜が植えられており(平成22年時点)、花見のシーズンには一週間ほど無料開放され、訪れた人々の目を楽しませる。 

 開門時間は、平日が午前10時から21時まで。土日は午前9時から21時までである。皆さんどうぞ桜のシーズンにはぜひお越し下さい。 

 ……って、なに宣伝させてるんですか。閑話休題。1967年4月22日、ここで事故は起きた。 

 この桜並木の通路は、狭いところでせいぜい5メートルと、もともとあまり幅広いものではない。 

 そのため、人々は造幣局の南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)への一方通行(距離約560メートル)で進まなければならない。それで「通り抜け」と呼ばれているのだった。 

 これくらいなら、まあ長閑な散歩道という感じがする。だが、管理する側は大変である。何せ、多い年は100万人以上もここを訪れるのだ。土日ならなおさらで、平日の2.5倍の人混みになるという。 

 今も造幣局のホームページを覗いてみると、観光客による交通渋滞やゴミの散乱に頭を悩ませているらしいことが分かる。 

 そして、このような悩ましい混雑ぶりは今に始まったことではなかった。1967年4月22日当日も土曜日で、家族連れや子供が多く訪れる中、警察は機動隊員約100名を含む200名を配備。入口である南門には詰所を設置し、混雑時の群集密度を一平方メートルあたり4人と厳密に設定し、入場者を規制した。 

 めっちゃ、ものものしい。 

 それでも、こうした体制が功を奏したか、閉門直前までは特段のトラブルもなかったようだ。暗雲垂れ込めてきたのは、閉門の21時が迫ってきたあたりである。 

 閉門は21時とはなっているが、実際にはその時刻には構内を空っぽにする、というのが「閉門」の正確な意味だった。よって20時35分には門を閉じることになっていた。 

 21時までは桜が見られる――そう信じて足を運んだ人々からすれば勝手な話ではある。そういう認識のズレも原因になったかどうかは分からないが、閉門が近くなる20時頃には、門周辺は5,000人以上の人が滞留していた。恐ろしいほどの人混みである。 

 警備側は予定通りに35分に門を閉鎖した。しかし人々は帰らない。ますます群集密度は高くなる。これはいかん、危険だと判断した警備側は、仕方ないのでもう一度開門することにした。群集を小さなグループに分けて、寸断しながら少しずつ通過させよう。このままでは事故につながる――。 

 時刻は20時50分頃。門の手前20メートル程にロープを張り、改めて開放した。 

 ところがここで群集はご乱心。せっかく張ったロープを突破し殺到してきたからたまらない。約30名の機動隊員が、殿中でござるとばかりに押し戻そうとしたが失敗し、人々は「通り抜け」の中になだれ込んだ。 

 この時である。門から約2メートルの地点で、最前列にいた女性が転倒。そこへ次々に人が折り重なった。 

 機動隊員80名が急いで負傷者を救出にかかったが、1人が胸部圧迫による窒息で死亡。また男性7名、女性20名の計27名が重軽傷を負った。この27名には、幼児から60歳代の人までが含まれていたという。 

 当時、現場には仕事を終えて一杯機嫌で花見に来た人も多く、事故が起きてからも面白半分に騒ぎをあおった酔っ払いがいたとか。 

 結局、この日の総入場人員は20万人に及んだ。 

 事故の翌日の日曜日には、大阪府警は506人を出動させて、10メートルごとに2~3人の割合で警官を配置するという措置をとった。これに加えてパトロールも行い、より一層厳重な警備体制で臨んだという。 

 もはや花見の雰囲気ではない。こんなんだったら、行かない方がいいと思うのは筆者だけだろうか。きっと今はもっと穏やかだろうと思うのだが。 

 ところで、群集事故を記録するにあたり大いに参考にしている、岡田光正の『群集安全工学』(2011年、鹿島出版会)という本がある。 

 これによると、群集整理のさなかに、急に規制内容や整理の計画を変更するのは大変危険だとある。例えば入口を変更したり、入場の順序を変えたり、行列の位置を変えたりする、などである。 

 これをやってしまうと、沸点が低くなっている群集は頭に血が上り興奮するらしい。主催者への信頼が失われ、敵視すらされてしまうのである。「なんだあいつら、ずっと並んでるこっちの気も知らないで!」という感じだろうか。 

 その結果、ロープを張っても無視して殺到するという結果になるのだ。なにせ群集だから、怒りに任せてルールを破っても責任は問われにくい。だから平気になる。恐ろしいことである。 

 言われてみればこの「通り抜け」の事故もそうだし、横浜の歌謡ショー事故や、豊橋市の体育館での事故もそうだ。人間というのは、かくも簡単に群集心理に取り付かれてしまうものなのか。 

 おそらく、安全に日常を過ごしたいのならば、人混みにはできるだけ近付かない方がいいのである。それは単に群集事故に巻き込まれるから――ということではなく、我々自身がそういう群集心理に取り付かれないように気をつけなければならないから、でもあるのだ。 

 人混みに行くな、行列に並ぶな、と言うわけじゃない。ただそういう群集の中に身を置くとき、自分自身も含めて、人間は簡単に悪魔に変貌するということは肝に銘じておくべきなのである。

 

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12
独立行政法人造幣局ホームページ
 

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豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)

 1982(昭和57)年10月16日のことである。

 

 この日は愛知県豊橋市今橋町の豊橋市体育館で、中部日本放送による歌謡ショーが行なわれることになっていた。

 

 これは市が主催する「豊橋まつり」の中で、「28回豊橋まつり・青春歌謡スターパレード」と題して実施されたものだった。出演予定は小泉今日子、石川秀美、新井薫子、早見優、そして当時メンバーはまだ高校2年生だったシブがき隊など、まあ錚々たる顔ぶれだったと言っていい。

 

 これほどの顔ぶれによる公開録画である。人が来ない方がおかしい。しかも観客席はすべて先着順の自由席で、なおかつ入場無料ときている。なんと、体育館の前には開演3日前の13日夕方から人が並び始めた。

 

 3日前って……。

 

 この行列が、ショー当日の16日の朝には160名、正午には800名と次第に膨らみ始めた。

 

 体育館の定員は7,000人。そして入場は無料で、この日は5,500枚の入場券が配布されていた。開場時間までに集まった来場者数は約2,000人である(資料によっては1,000人とも)。ほとんどが10代の少年少女で、かなり遠方から来た者もいた。いわゆる追っかけだろうか。

 

 もちろん、主催者側も手をこまねいてはいない。警官22名、市職員40名、アルバイト学生50名、警備5名の総勢117名による群集整理が行なわれた。

 

 体育館の入口から約30メートルの位置に、観客は4列に並ばされた。さらにロープで30メートルの長さの通路を作って割り込みも防止する。そして予定では、先頭から10名ずつのグループに分けてロープで囲い、入口まで警官が誘導する。そういう手筈になっていた。

 

 群集も、最初はきちんと指示通りに並んでいたという。

 

 ところが、である。16時の開場をまたず、15時30分過ぎにいきなり行列が崩れて入口に向かってゾロゾロと動き始めた。

 

 こらこら、ちょっと待て。警備員がハンドマイクで警告、制止しようとするもどうにもならない。行列は乱れて団子のようにひと固まりになってしまった。

 

 どうも雲行きが怪しい。そうこうしている間に16時になってしまったから致し方ないと、主催者側は予定通りに入場を始めた。

 

 それでも、最初はきちんと10人ずつ入場させていたようだ。ところがここで、群集を興奮させるようなアクシデントが発生した。体育館の中から、リハーサルの音楽が聴こえてきたのだ。

(※実はこのリハーサルの音楽が聴こえてきたタイミングというのが、16時だったのか、それともその前に行列が乱れた15時30分のことだったのか、資料を読んでもいまいちはっきりしなかった。)

 

 これにより、待っていた群衆は総立ちに。入口の前は広場でロータリーになっていたのだが、そのあたりで待機していた500人くらいが、係員の制止を振り切って殺到した。

 

 いかん、これはいかん。たまりかねて、主催者側は入場のために開いていた東側の入口を閉鎖した。緊急の措置だったのだろうが、来場者を閉め出すのだからよく考えてみると結構すごい話だ。

 

 もちろんそのままにしておくわけにもいかない。5分後(15分後という資料もある)に西側の入口が開かれた。主催者側としては、そちらから入場させて仕切り直ししよう……というつもりだったのだろう。

 

 だが、逆にこれが事態をかき回す結果になった気もする。閉鎖された東側入口の前で押し合いながら待っていた群集は、「開いたぞ! あっちだ!」とばかりにワッとそちらに押し寄せた。

 

 事故はここで起きた。時刻は16時20~25分頃である。

 

 状況の説明が資料によって少し違うのだが、概況としては、段差で十数人がつまずいて転倒したということらしい。入口から手前6メートルの位置に、5センチほどの段差があったのだ。

 

 別の資料によると、「(群集の)中の一人が圧力に耐えられなくなって入口前の段差付近で失神して倒れ、それにつまずいて十数人が将棋倒しになった」ともある。

 

 つまりこういうことだろうか。東側入口で押し合いをしている間に、失神した人がいた。それが、西側への移動の際に人混みがほぐれて支えを失ったか、意識朦朧としていたために段差につまずいた。それがきっかけで将棋倒しになった、と。

 

 転倒した人数についても、十数人と書いてあるものもあれば、中高生300人と書かれているものもある。また負傷者も1名とか6人とか5人とか23人とか、まちまちだ。これはこれで、当時の混乱した状況を示しているようにも思われる。負傷したのは14~18歳代で、男女ほぼ同数だったそうな。

 

 この事故が発生してから5分後、開場の入口は全て開放された。これは群集の圧力を下げるためだったという。警官80人が応援に駆けつけ、群集を改めて整理した。また負傷者は救急車で運ばれた。

 

 死者は1人。豊橋市立中部中3年の15歳の女子生徒がショック死したという。

 

 歌謡ショーは、中止することも検討されたようだ。だが今中止すれば混乱は大きくなり、ますます収拾がつかなくなるだろう――そんな判断が下され、結局予定通り開催された。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆事件・事故紹介サイト
http://33.xmbs.jp/ryuhpms79-154373-ch.php?guid=on
◆ウェブサイト「警備員の道」
http://keibi.pya.jp/zattoureki.html
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)

 1985(昭和60)年5月29日。この日、ベルギーの首都ブリュッセルで起きた、通称「ヘイゼルの悲劇(Heisel Stadium Disaster)」は、世界のサッカー史上に残る大惨事として知られている。

 この年の「欧州チャンピオンカップ(現チャンピオンズリーグ)」決勝戦の会場がヘイゼル・スタジアムだった。

 決勝進出を決めたのは、当時イタリアで最強と言われていたチーム「ユヴェントス」と、イングランドの「リヴァプール」。この2チームの試合が、くだんのスタジアムで開催されることになった。

 決勝戦とあって、サポーターたちも超興奮。彼らは前日からブリュッセル入りし、街中で気勢を上げていたという。実際に何をしていたかは不明だが、後から考えてみれば、この盛り上がりっぷりが惨劇の予兆だったのかも知れない。

 ここで、「フーリガン」について説明しておこう。

 サッカーのサポーターの中には、時として暴力的に熱狂する者がいる。そういう連中はフーリガンと呼ばれ、1960年代頃から、彼らのやんちゃぶりは問題視されていた。なにせこ奴らは試合にかこつけてスタジアム内外で大暴れし、破壊活動を行うのだ。もはや存在自体が社会問題である。

 で、このフーリガンの中で特に厄介なのが、イングランドのサポーターたちだった。彼らは通称“コップ”と呼ばれ恐れられ、当時すでにフーリガンの代名詞的な存在でもあった。選手に危害を加えることもあり、奴らが来るとなると相手チームも震え上がったという。

 さあ大変、今回は彼らがブリュッセルに遠征だ。

 イングランド国内では、こういうならず者への対策がきちんと取られていた。だが、国外の試合ではさすがにどうしようもない。奴らは、旅の恥はかき捨てとばかりに暴れるだろう。イギリスの警察は、事前にベルギー側に協力を申し出ていた。

「うちのフーリガンどもが暴れ出したら大変だ。国民の不始末は国家の不始末。協力しますよ!」

 ところが、ベルギー側はこれを断った。理由は不明である。当研究室のルポを読み慣れた方にとっては、「あ、このへんから暗雲が立ち込めてきたぞ」といったところだろう。

 不安要素はこればかりではなかった。試合当日、スタジアムの応援席は、ユヴェントスとリヴァプールのサポーター席、そして一般向けの応援席が整然と分かたれていた。ところがダフ屋や偽造チケットの横行のため、実際には無秩序状態になっていたのだ。

 特に、両サポーターの応援席をあらかじめ区別しておき、その間に中立の一般応援席を挟みこむことには大きな意味があった。サポーター同士が隣り合ってしまえば喧嘩になるからだ。

 それなのに、実際には一般応援席やリヴァプール応援席に、ユヴェントス側のサポーターが多く入り込む事態になっていた。その結果、両チームのサポーターが、フェンス一枚を隔てて隣り合う場所が出てきた。これが悲劇を呼ぶことになる。

 一応、少しだけ補足すると、「一般応援席」は中立のベルギー人のためのものだった。だがベルギーにはイタリア系移民も多い。よってユヴェントスびいきの観客も多くいたと思われる。応援席の混乱がなくとも、こういう火種はもともとあったのだ。

 さて、イベントスタートである。

 時刻は午後6時。まずはエキシビジョンマッチだ。ベルギー人の子供チームによる紅白戦が行われた。

 この時の、ユヴェントス側のゴールキーパーの証言。

「試合数時間前までは何もかもいつも通りだったんだ。ピッチでは子供たちが何かパフォーマンスをやっていて、そのときはフェスタの雰囲気さえ感じていた」――。

 応援席で不穏な空気が漂い始めたのは、紅白戦が後半戦に入った午後7時頃のことだった。一部のサポーターが、相手側のサポーターに嫌がらせを始めたのだ。

 場所は、例の、両チームのサポーターが隣り合ってしまったあたりである。酔っ払ったリヴァプールサポーターが、隣のユヴェントスサポーターに爆竹やビン・缶を投げつけたり、フェンスを揺さぶったりしたのだった。

 もちろんユヴェントス側も黙ってはいない。なんだコラ、やんのかコラとばかりに応戦し、投擲合戦が始まった。一体何しに来たんだ、こいつら。コートでは本戦もまだだというのに、こちらは既にキックオフである。

 話の途中でなんだが、ジョークをひとつ思いついたので披露しておこう。サッカーの試合の前に、応援席のサポーターたちに運営側がアナウンスをひとつ――。「会場の皆さんにお知らせします。試合時間は7時からです。喧嘩はそれまでに済ませて頂きますようお願いいたします」。

 ――なんていうジョークで済めばいいのだが、事態はさらにエスカレートしたから、やっぱり悲劇である。小競り合いの果てに、リヴァプールサポーターがお約束の暴徒化と相成った。フーリガンの面目躍如である。彼らは警備の隙をついて、応援席を隔てていたフェンスを破壊。レンガや鉄パイプを手に、一斉にユヴェントスサポーターの側になだれ込んだ。

 漫画のような話である。レンガや鉄パイプって、そんなものいつどうやってなんの意図があって持ち込んだのだろう? 最初からやる気満々じゃないか。

 乱闘が始まった。ユヴェントスサポーターをはじめ、多数の観客が驚いて逃げ出した。

 しかしスタジアムは超満員で壁に囲まれており、逃げ場はほとんどない。一部の観客は壁をよじ登ったり、フェンスを乗り越えたりしてグラウンドへ脱出した。だが残された数千人(!?)の観客は、壁際へ追いやられ包囲されてしまった。 

 ここで壁が倒壊した。

 場所を具体的に説明すると、それはメインスタンドと一般観客席の間にある、高さ3メートルのコンクリート壁だった。追い詰められ、押し寄せたユヴェントスサポーターの圧力に耐え切れなくなったのだ。

 この倒壊により、多くの人々がメインスタンドへ転落。落下しただけなら怪我で済んだかも知れないが、壊れた壁の破片や、後から落下してきたサポーターたちの下敷きになる人が続出した。

 もはや試合どころではない。グラウンドや、陸上競技用のトラックは、数百人の負傷者や避難者で溢れかえった。重傷者はロッカールームへ運び込まれ、心肺蘇生措置が行われたのち病院へ搬送。すでに息絶えた者については、さしあたりスタジアム正面入口の仮設テントに並べられた。

 先に結果を述べておくと、この騒ぎによって負傷者は400人以上、死者は39名に及んだ。死傷者の大多数はイタリア人、つまりユヴェントス側のサポーターである。死因は主に圧死や、物を投げつけられた外傷だった。

 さて、凄惨な事故が起きたというのに、暴動は収まらなかった。サポーターたちは興奮して衝突を繰り返す。両チームの監督が呼びかけようが、場内放送で冷静になれとアナウンスしようが、焼け石に水。警官隊も出動したが、人数が少なく多勢に無勢、逆に石をぶつけられるなどの憂き目に遭った。 

 また資料によっては、警官たちはフーリガンの扱いに不慣れで、暴動をただ傍観するしかなかった――とも書かれている。どうやら総括して、警官たちは「手も足も出なかった」と表現して間違いなさそうだ。

 騒ぎが鎮圧されたのは、約1時間後のことだった。警官隊700人と軍隊1,000人が動員され、やっとこさ落ち着いたらしい。これは翌日の話だが、ベルギー内務省は、この騒ぎでイギリス人12人を含む15人を逮捕したと発表した。

 ところで、気になる試合の結果だが……。

 え? 何を馬鹿なことを言っているのかって?

 こんな騒ぎの後で、試合が行われたはずないだろうって??

 ところが、行われたのだ。

 それを聞いて目を丸くする読者もいそうだ。実際、資料を読んでいて筆者も驚いた。

 だが、この期に及んで試合を続行したのには理由があった。試合が中止になれば、サポーターたちがまた街中で暴れかねない。だから主催者側は、スタートを大幅に遅らせながらも試合を決行したのだ。

 当時の会場の空気を想像すると、実にやり切れない。大勢の死傷者が出たばかりなのだ。それなのに、スカポンタンの頭を冷やすためだけに、試合は行われたのである。

 勝ったのはユヴェントスだった。優勝カップは、人目につかない更衣室で渡された。

 最後にPKを決めたユヴェントスの選手の一人は、「もうサッカーやりたくねえ」と話し、罪悪感にさいなまれながら2年後に引退している。

 ついでに言えば、この人こそ、サッカーファンから「将軍」と呼ばれ、2015年12月現在、欧州サッカー連盟(UEFA)会長、国際サッカー連盟(FIFA)副会長、フランスサッカー連盟(FFF)副会長を勤めているミシェル・プラティニである。

 

   ☆

 

 さて、このヘイゼル・スタジアムでの事故が、これ程の大惨事になったのは何故だったのか。

 もちろん、一番悪いのはフーリガンの連中に決まっている。だが競技場の老朽化も看過できない。当時リヴァプール側のキャプテンだったフィル・ニールはこう話している。

「あのスタジアムの設備は最悪だった。両サポーターを隔てる壁は、10歳の子供でもよじ登れるほど貧弱なものだった。当時のイングランドのスタジアムは今のように近代的ではなかったが、それでもあのヘイゼルに比べれば数段良かった」。

 これは、崩落した壁そのものについての証言ではないのだが、まあ老朽化についての傍証と言えるだろう。

 事故が起きた当時、ヘイゼル・スタジアムは建設から55年が経過していた。その間、改修がどのくらい行われたのかは不明だが、いくつかの資料の文脈から察するに、ほとんどほったらかしだったのではないかと思われる。

 またこのスタジアムは、非常口の数も極端に少なかった。いざというときに、咄嗟に逃げることができない造りだったのだ。

 過去には国際大会の会場になったこともある、収容人員6万人を誇る実績あるスタジアム――。しかしそれは、実際にはいつ事故が起きてもおかしくない状態だったのだ。

 このたびの大会を主催していたベルギーのサッカー協会には、「カップ戦の決勝戦の開催地となる権利の剥奪」という処分が下されている。

 また、処分ということで書いておくと、この事故により――事故というよりもはや「事件」だと思うが――イングランドのクラブは、国際大会への出場の無期限停止を食らった(※)。

(※筆者はまるきりサッカーに疎いので申し訳ないのだが、この「クラブ」というのは、選手チームのことなのかなんなのか、いまいちよく分からない。とりあえず別の資料には、リヴァプールチームも無期限の出場停止となって、この停止期間はその後7年に、そしてさらに5年に変更された――とも書いてあるので、クラブ=チームのことなのかも知れない。だがそれとは別に、別の資料には「欧州サッカー連盟 (UEFA) は制裁措置としてリヴァプールに対して6年間の」UEFA主催の国際試合への出場停止処分を下した、とも記されていた。)

 

   ☆

 

 さてその後、リヴァプールとユヴェントスは、親善試合の機会はあったものの(それも企画倒れだったとする資料もある)、しばらくの間、公式戦で顔を合わせる機会はなかった。

 因縁の両チームの対戦が再び実現したのは、事故からちょうど20年後の2005(平成17)年のことである。スイス・ニヨンの欧州サッカー連盟(UEFA)本部で3月18日、「欧州チャンピオンズリーグ」の準々決勝の抽選会が行われ、そこでこの組み合わせが決まったのだ。

 もちろん、事故のことは記憶に新しい。関係者はサポーターたちに冷静な対応を呼びかけ、また両クラブ(チーム?)も「友好的な試合にする」ことを誓ったという。

 引退したミシェル・プラティニも、この時は欧州サッカー連盟(UEFA)の次期会長と呼ばれる存在になっていた。この試合について彼は、「あの時の犠牲者の冥福を祈るために、2試合とも現地で観戦するつもりだ」と話したという。

 そしてさらに5年後、2010(平成22)年5月29日には、会長の座についたプラティニさんは、トリノで行われた記念式典に出席。犠牲者たちに教会で祈りを捧げた。またこの日はブリュッセルとリヴァプールでも同じく追悼式典が開かれた。アンフィールドでは、追悼の記念碑の除幕式も開催されている。

 で、さらに書くと、事故から30周年となる2015(平成27)年3月には、リヴァプールとユヴェントスの記念試合が開催された。場所はトリノのユヴェントス・スタジアムである。

 この時、イングランドサッカー協会は、30周年を記念するモニュメントとして、リース(花輪)の設置を提案した。しかしユヴェントスはそれを拒否。試合開催だけに留める意向を示したという。

 想像だが、おそらくこれは恨みゆえの「拒絶」ではないだろう(と思いたい)。ユヴェントスとしては、そっとしておいてくれ、という気持ちだったのではないだろうか。

 30年である。生まれたばかりの赤ちゃんが、中年に差しかかる程の歳月だ。事故を忘れないようにするのは大切だが、節目のたびにやれ記念だウン十周年だと言われ続けては、逆に思い出しちゃって試合に差し障る部分もあるだろう。

 事故の現場となったヘイゼル・スタジアムは、その後は陸上競技のみに使用された。事故の10年後には再建・改修され、かつての国王の名を冠した「ボードゥアン国王競技場」という名称で蘇っている。これはサッカー用グラウンドと、陸上競技用トラック、フィールド競技用の設備を兼ね備えた施設であるという。

 

   ☆

 

 ヨーロッパ人にとって、サッカー競技にまつわる事故やアクシデントには、独特の意味合いがあるらしい。あっちの国の伝統だと思うのだが、試合中の選手の失敗から乱闘、暴動、事故に至るまで、多くが「○○の悲劇」という名称で呼ばれている。

 資料を読んでいて感じたのだが、この「ヘイゼルの悲劇」は、そうした数々の「○○の悲劇」の中でも、特に忘れがたい悪夢として今もサッカーファンの記憶に焼きついているようである。

 だが恐ろしいことに、悪夢はこれだけでは終わらない。欧州では、サッカー場の群集事故として有名な事例がもうひとつ存在する。それが、ヘイゼルの悲劇から4年後に発生した「ヒルズボロの悲劇」である。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆「サッカーで大切なこと」

http://blog.livedoor.jp/jigga_1_900_hustler/archives/18057764.html

◆「サッカー名言集」

http://blog.livedoor.jp/jeep_55/archives/51273917.html

◆ウィキペディア

http://jp.uefa.com/news/newsid=1493683.html

◆「We Are Red's #リバプールを心の底から応援するブログ。」

http://wearereds331.blog.fc2.com/


日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)

 1987(昭和62)年4月19日に起きた事故である。

 東京都千代田区、日比谷野外音楽堂は多くの観客でごった返していた。パンクロックバンド「ラフィン・ノーズ」のコンサートが行われるのだ。3千席が、ほとんど十代の若者で埋まっていた。

 今の若い人は、ラフィン・ノーズと言われてもピンと来ないかも知れない。筆者もそうだった。

 このバンドは、かつて有頂天、ウィラードと並び「インディーズ御三家」と言われていた。大槻ケンヂや銀杏BOYZの峯田和伸、タレントで歌手の千秋などにも影響を与えたとか。

 筆者は筋肉少女帯は好きだ。だがロック史はよく知らないので、「へー」という感じだ。

 当時は、売り上げでも日本のロックグループの十指に入る程の人気だったという。反権力的なイメージで、「80年代のキャロル」と呼ぶ向きもあったとか。熱狂的なファンも多かったようで、事故当日は2日前から野宿して開場を待っていたファンもいたという。

 事故はこのコンサートで起きた。

 演奏開始は午後6時半(7時という資料も)。しばらくの間は、何事もなかったようだ。

 だが4曲目に差しかかった時のことだった。一部のファンが写真を撮ろうとした。これを見た後方のファンが、自分も前に出ようとした。そして、熱狂していた彼らは、ステージ上にまで上がった……。参考資料の言葉をつなぎ合わせると、経緯はそんな感じだったらしい。

 それにしても、ファンが「写真を撮影しようとした」ことが、なぜ「熱狂してステージに上がる」ことにまで繋がるのかよく分からない。筆者はちょっとしたライブ程度なら行ったことがあるが(パーキッツのやつだ)、コンサートというのはよく分からない。きっとそういう場の独特の空気というものがあるのだろう。

 こうして、将棋倒しが発生した。

 コンサートは中断。ラフィン・ノーズのメンバーが、後ろに下がるように客席に呼びかける。それで人の波は引いたものの、ぐったりしたファンが何人かステージ上に担ぎ上げられていた。

 さすがに演奏どころではない。コンサートは7時15分に中止となった。

 この日の夜、男女2名が収容先の病院で死亡。その後、重態だったもう一人の女性も死亡し死者は3人となった。全員が十代だった。負傷者は26人に上った。

 会場の警備は、一応それなりに行われていたようだ。当時の新聞の速報を読むと、80人の警備員が組織され、観客の誘導や周辺警備がなされており、さらにステージ裏にある詰所で3人の職員も警戒にあたっていた――とある。

 しかし現在、ネット上の情報を拾い集めると、当日は主催者側のスタッフが配置されていただけで、いわゆる「警備員」はいなかったらしいという話もある。

 ラフィン・ノーズは、この事故をきっかけに活動を中止した。

 パンクロックバンドという肩書きゆえだろうか、当時は「お前たちのせいで事故が起きたんだから責任を取れ」という趣旨のバッシングもあったようだ。活動を中止したというよりも、中止に追い込まれたと言えるかも知れない。

 現代の目線で見ると理不尽な気もするが、彼らが観客を煽った部分もあったのだろうか? 今となっては想像するしかない。

 その後は、ファンの希望で復帰して、解散したり活動を再開したり、メンバーがトラブルを起こしたりと、色々あったようだ。今も活動はしているみたいである。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

インディーズ御三家のひとつラフィン・ノーズが起こした事故と現在

Laughin' Nose伝説13 - So-net

ラフィン・ノーズHP

◆ウィキペディア



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