目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)
ラブパレード事故(2010年・ドイツ)
航空機事故
トランスワールド航空800便墜落事故

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土浦事故(1943年)

 正真正銘の「忘れられた事故」である。

 1943年(昭和18年)10月26日、18時40分頃のこと。常磐線土浦駅では、一台の貨物列車の入れ替え作業が行われようとしていた。

 駅の「裏一番線」には、ちょうど貨物列車が到着したところ。この列車の先頭の機関車に石炭の補給をするため、別の機関車と交換するわけである。

 まず、到着したばかりの列車の機関車部分が切り離される。そして機関車だけが単独で線路を進み、駅構内の12・13号ポイントをそれぞれ通過して上り本線に入った。そしてその上り本線をさらに移動し、石炭の補給場所に向かっていった。

 つまりこの時、12号ポイント→13号ポイント→上り本線へと機関車が進むようなルートが出来上がっていたわけである。

 さて「裏一番線」に残された貨物車両には、別の機関車がバトンタッチする形で連結した。今度は、この機関車が貨物車両を引っぱって、貨物線と呼ばれる路線に入っていくことになっていた。

 この列車も、さっきの機関車と同様に、いったん12号ポイントを通る。しかし予定ではこの時すでに12号ポイントは切り替えられており、機関車は貨物線のほうにスムーズに入り込んでいく――はずだった。

 ところが、これが切り替えられていなかったのである。本来なら12号ポイント→貨物線というルートになっているはずが、12号ポイント→13号ポイント、というルートのままだったのだ。

 あれあれ、どうなってんの。予定と違うじゃん。機関車と貨物列車は、13号ポイントに向かってゴトゴトと進んでいく。

 そして13号ポイントはどうだったかというと、こちらはちゃんと切り替えられていた。さっきは13号ポイント→上り本線、というルートだったのが、今は13号ポイントはどん詰まり。上り本線は今から別の列車が通過するため、横からの進入禁止の状態になっていた。

 踏切を想像してもらえればいい。上り本線は、遮断機が下りて警報がカンカン鳴っているような状態だったのである。今入ったら危険なのだ。

 機関車はそこへガクン! と突っ込んでしまった。ポイントが切り替えられていたので、それ以上進むこともできず上り本線に中途半端にはみ出す状態で停止してしまったのだ。立往生である。

「事故発生だ!」機関車の運転士は汽笛を鳴らした。

 まあ、これだけでも確かに「事故」ではある。だがこの第一事故そのものは大したものではなく、問題はこの後である。ここから僅か6分の間に、土浦駅の構内は地獄絵図と化すのだ。

 第一事故発生から3分30秒後のことである。上り本線に貨物列車がフルスピードで進入してきた。駅構内で事故が起きていたにもかかわらず、信号が「青」のままだったのだ。このため、貨物列車は、立往生していた機関車とものの見事に激突してしまった。

 さあ、大事故である。上り本線の貨物列車はたちまち脱線し、脱線した状態のまましばらく走り続けた。そして先頭の機関車は、その先にあった橋の手前で転覆。隣を走る下り線をふさぐ形になってしまった。

 さらに、後続の貨物車両14両もバラバラになって脱線転覆。上り線にも下り線にも車両が散らばってしまった。

 最初に立往生していた機関車と貨物車両も、衝突によってぶっ飛ばされてやっぱり脱線転覆。なんかもう、開いた口がふさがらない惨状である。

 ところが、ここからが本番なのだ。

 この大衝突からさらに2分30秒後、反対方向から下り旅客列車がやってきたからさあ大変。先述の通り、下り線は転覆した機関車によって通せんぼされており、これに衝突してしまった。

 しかも悪いことに、この衝突が起きたのが橋の出口のあたりだったため、衝突時には下り列車の全てが橋の上を通過中の状態だった。たちまち客車の1両目は後ろから押されて棒立ちになり、2両目はゴロリと横転。3両目と4両目は橋から転落し、3両目は宙吊りになったが4両目は川に水没した。

 これでもかといわんばかりの凄まじさである。

 犠牲者は100名を越えた。が、正確な死者数は不明である。それでも参考文献『事故の鉄道史』によると96~120名は堅いようで、いやはやとんでもない事故があったものだ。

 この事故を防ぐすべはなかったのだろうか? あった。単純な話で、第一事故が発生した時点で、そのすぐ近くにあった南信号所がすべての信号を「赤」にするよう動き、指示を出せば良かったのである。

 では何故それができなかったのか。それは時代の空気のせいである。当時は戦時中真っ只中で、しかも戦局は日本に不利になりつつあった。国内ではダイヤが改正され、乗客列車は減らされ、「決戦輸送体制」が整えられていたのだ。

 それで、そもそもの事故原因は12号ポイントの切り替えミスにあったわけだが、このミスは南信号所の職員によるものだった。「決戦輸送体制」のさなかで極度の緊張状態にあった職員は、自分のミスで事故が起きてしまったのでパニックに陥り茫然自失、体が全く動かなかったのである。

 この時、南信号所の掛員には、「国家あげての決戦輸送体制の時期に汽車を止めるとは何事か! この非国民め!」という声が頭の中に響いていたのかも知れない。

 職員の、極度の精神的ストレスのため引き起こされた事故は他にもある。安治川口ガソリンカー火災や、それに最近では福知山線の脱線事故がそうだ。

 よって筆者は、土浦事故も含めたこの3つの事故を、個人的に「小心者の事故」と呼んでいる。筆者自身も非常事態にテキパキ動ける人よりも茫然自失となってしまう人の気持ちの方が分かる部分があり、同情を禁じ得ない。

 ちなみにこの事故、その後の事故処理や裁判の経緯などはまったく不明である。

 

   ☆

 

 この土浦事故は、その詳細が、ずいぶん長い間知られていなかった。戦時中だったため、軍によって報道管制が敷かれたせいだと言われている。

 そしてこの事故の19年後に発生したのが、伝説の鉄道事故・三河島事故である。実は、土浦事故と三河島事故はほとんど瓜二つと言っていいほどよく似ており、土浦事故がもっと国鉄職員によく知られていたならば、三河島の惨事も防げたのではないかとも言われているほどだ。

 しかし土浦事故がきちんと国鉄職員に知らされていたとして、本当に三河島事故を防ぐことができたかどうか――。歴史にイフはないとはいえ、これについて筆者はかなり悲観的な考えを持っている。

 あまり知られていないが、2005年の福知山線の事故の時も、事故現場の反対方向から列車が来ていたのである。これを止めたのはJR職員ではなく一般の名もないおばちゃんで、この人がとっさの機転で踏切の非常停止ボタンを押していなかったら土浦&三河島再び、になっていたのだ(ちなみにJRはこの事実を認めていないそうな)。

 三河島事故という「伝説の鉄道事故」を教訓として職員教育をしてきたはずのJRからして、これである。人間の精神構造を変革し、さらにそれを世代を超えて受け継いでいくというのはこれほど難しいことなのだ。

 そもそもの話、土浦事故が「軍の規制を受けて報道されなかった」というのも、本当かどうか怪しいものである。

 おそらくこういう形で疑問を呈するのは当研究室が初めてであろう。

 戦前から戦中にかけての大事故や大事件の話題を目にする時、この「軍が報道に規制をかけたのであまり知らされなかった」というのはほとんど決まり文句のようになっているが、これは本当なのだろうか。

 当研究室の貴重な参考資料である『事故の鉄道史』でも、当時は「日本国に不利になることを報道するのは利敵行為とされていた」という記述があるが、少し考えてみてほしいのである。戦局と関係のない、いわゆる三面記事的な事件事故の報道をすることが、どうして当時の政府にとって「不利」になるのだろう。おそらくこれに明確に答えられる方はほとんどいないと思う。

 報道は、きちんとされているのである。戦時中から戦後にかけては地震や台風や鉄道事故など、洒落にならない規模の大災害が結構起きているのだが、そういったものはほとんど報道されている。それは当時の新聞を見れば分かることだ。

 確かに、記事の扱いは小さい。例えばこの土浦事故も、中央の大手新聞が、かろうじて簡単な一段記事程度で報じただけだった。

 しかしこの頃は物資が不足していた。新聞の紙面もしまいには一枚の紙の両面だけになったり、紙の材質も藁半紙になったりしていたのだ。現在のように、大事故が起きるとその報道のために2つも3つも紙面を割くような贅沢はできなかったのである。

 また新聞の「取材」も、当時は今からでは到底考えられないようなやり方だった。まず地方にいる記者が現場や関係者から取材をし、そしてそれを電話で本社に伝える。本社の記者は電話口でその記者から「取材」を行い、それを編集に回して、紙面に合わせて文章を添削し、そしてようやく記事が出来上がる――という流れだったのだ。アナログもいいとこである。

 そして戦時中、どこでも人手や物資が不足していた時代に、果たしてこのアナログの手法をどこまで満足に行うことができただろう。

 もちろん、多少の報道管制はあったようだ。実際、軍が絡んだ事件事故で当時は報道されず、戦後になってからようやく明らかになったものはいくつかある。しかしそれらは基本的に「報道されなかった」のであって、土浦事故のように一段記事で報じられることすらなかったのだ。

 以上のことから、筆者はこう考えている。当時、確かに報道管制はあったことだろう。だがそれは極めて限られた時代の、限定された内容のものに限られていたのであろう――と。そして、土浦事故が一般に知らされなかったのは必ずしも報道管制のせいではなく、人出や紙面が足りないという単純な物理的な理由からだったのではないか――と。

 実は、最初は「軍によって報道が規制された」と言われていたものの、実際にはきちんと報じられていたというケースは他にもある。有名な昭和13年の津山事件などがそうで、どうも「軍はどんな情報でも規制した」というのはひとつの都市伝説のパターンであるようだ。

 1945年の終戦直後に起きた八高線正面衝突事故についても、ときどき同じような言われ方がされている。「この事故は被害が甚大であったにも関わらず、あまり一般には知られていない。報道管制のせいである」とうわけだが、これなどは既に戦争が終わった後の事故なのだから、そもそも報道管制を敷く意味が全くない。何かの勘違いであろう。

 それでは、実際に土浦事故があまり一般に知られていないのは何故なのか?

 これに対する筆者の回答は簡単である。要は、我々がある事件事故について情報を得たり知識を得たりするのは、けっきょくマスコミが大々的に報道するか否かにかかっているということだ。

 どんな事件事故も、マスコミが報じなければ、我々はそれを知り得ないのである。そして報じ方が小さければすぐ忘れてしまうのである。ましてや戦中から戦後にかけての混乱期ならなおさらだ。

「人間は、忘れる動物である」。全てはこのひとことに要約できると思う。土浦事故という大惨事が忘れ去られたのも、また福知山や三河島で過去の教訓が生かされなかったのも、全てはそれがためなのだ。そう筆者は考えている。

 こんな土浦事故なので、記録はほとんど残っていない。唯一、土浦市の医師が戦後になって『木碑からの検証』というタイトルの記録書を出しているそうだが、これは現在は入手困難である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

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沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1

 土浦事故八高線正面衝突事故は、よく「当時は軍の規制があって報道されなかった」と言われたりする。だが、筆者はこれは間違いだと考えている。

 確かに、そうした規制のため報道されなかった事件事故というのは存在する。ただしそれは戦時中であれば日本軍が、そして終戦直後であれば米軍が、大きく関係した出来事に限られるのである。今ふうに言えば、軍がからんだ「スキャンダル」に該当するような事例だ。

 軍がからんでいない事件事故であれば、紙面での扱いは小さくとも(当時はもともと物資の不足で紙面の容量が限られていた)きちんと報道はされている。土浦事故も、八高線の事故もそうだ。

 では、軍が関係していたため報道されなかった事故事例にはどんなものがあるのか。これはしかし、それこそ報道されなかったがゆえに今でも詳細が不明なものが多い。戦時中であれば、軍艦の沈没や火薬庫の爆発事故などの事例がそうだし、また戦後であれば米軍機の墜落事故などがある。ついでに言えば、米兵の日本人に対する婦女暴行の事例などもそうだ。

 今回ご紹介するのは、「これこそまさに」と言える事例である。報道管制下で完全に隠蔽された事故の最たるもの。鉄道における大惨事中の大惨事。土浦事故でも八高線事故でもない、ごく最近まで報道されずじまいだった日本鉄道事故史上最悪の事例がこれだ。

 時は1944(昭和19)年12月11日、沖縄県島尻郡南風原村(現南風原町)神里付近でのことである。

 まだ朝も早い頃、嘉手納駅から一本の列車が出発した。

 路線の名前は糸満線といった。当時、沖縄県内には県営鉄道が存在しており、それによって運営されていた路線である。

 沖縄の鉄道路線は、明治期からずっと資金面の問題があって整備されていなかった。それがやっと県営という形で叶ったと思えば今度はバスがのしてきて、いったんは鉄道の存在感が薄れたものの、軍事輸送に使えるということでまた復活。通常ダイヤを取りやめて、軍用路線として使用されるようになっていた。

 事故当時も兵員の輸送が行われていたという。ちょうど、沖縄に駐屯していた第9師団が台湾へ出て行き、入れ替わりに第24師団が送り込まれたところだったのだ。この移動は大規模なものだった。

 列車は6両編成で、さらに途中の古波蔵駅では2両を増結し8両となった。客車と貨物車両が何両ずつの組み合わせだったのかは不明だが、どちらも相当数あったと思われる。先述の通り兵員も多く運ばれていたし、通学のための女学生も乗り込んでいたというからだ。

 そしてこの列車、糸満駅に向かって発車したのはいいのだが、途中で大爆発を起こしたのだった。

 悪いことに、この列車には弾薬もたっぷり積まれていた。次々に誘爆が発生し、乗っていた兵士も女学生も爆発と火災に巻き込まれて約220人が死亡した。

 220人だぜ220人。これは、西成線ガソリンカー火災の死者数を越える鉄道事故史上最悪の数字である。

 え、爆発の原因はなんだったのかって?

 ごめんなさい、それは不明である。それこそまさに、戦時下の報道管制下で緘口令が敷かれたせいだ。昔のテレビ特捜部で紹介していた番組を真似て言えば「今日、鉄道事故がありました。原因は不明です。」といったところである。素っ裸のお姉さんがそういうニュース報道(笑)をする番組、あったよね。

 あっさりし過ぎているようだが、事故の経過は以上である。この一件は内密に処理され、しかもこの後には沖縄戦が開始。米軍の占領下で鉄道施設も破壊され、県営鉄道も実質廃止となり、事故の記憶は闇から闇へと葬られる形になった。

 もちろん、情報が全くなかったわけではない。昭和50年代には、ごく簡単な記載ではあるが、この事故のことが沖縄関連の書籍に記されるようになった。ただしそれは、地元で発行されている詳細な辞典に限られた。

 では詳細が明らかになったのはいつかというと、驚くなかれ、たったの3年前、2008年なのである(2011年現在)。筆者は未確認なのだが、この記録を発掘したのは桃坂豊氏という鉄道マニアであるという。

 ほぼ断言できるが、当『事故災害研究室』の読者の方も、ほとんどはこの事故のことは知らなかったと思う。あったのですよ、こういう悲劇が。事故発生から60年近くも封印されていた最悪の鉄道事故が、こんなところにあったのだ。

 機会があれば、筆者も詳細を調べてみたいところだ。だが北陸トンネル火災大洋デパート火災などとはわけが違う。山形の図書館程度では資料も全くなかった(そもそも桃坂氏の著作自体が県内にはなかった)。

 ここはひとつ、土浦事故について『木碑からの検証』が書かれたように、どなたかが沖縄で詳細な聞き取りを行って記録書を作ってくれないかと思うのだが、ダメかな。よろしく!

 

   ☆

 

 以上のような状況につき、特にこの事故については随時加筆を行っていきたい。ウィキペディアに載っている以上の情報をお持ちの方は、是非お寄せ頂きたいと思う。

 もちろんそれは、今までご紹介している他の事故災害についても同様である。せっかくなので、そのあたりの注意事項を記しておこう。

 

 *書籍等からの情報であれば、出典が分かる形で。
 *実体験に基づく証言であれば、それと分かる形で。
 *情報の出所が不明な場合は、おぼろな記憶でもいいです(当時のワイドショーで言ってた気がする、とか)。とにかく不明なら不明と明記して下さい。

 

 以上のような形で今まで情報を頂いたケースとしては、川治プリンスホテル火災飛騨川バス転落事故青木湖バス転落事故などのケースがある。メールでもブログのコメント欄でも構わないので、どしどし情報お寄せ下さい。

 

※この「沖縄県営鉄道爆発事故」については、その後、詳細な資料が寄せられたことにより、「その2」という形で新たにルポを書き起こしている。関心がある方はぜひ「その2」の方もどうぞ。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア

 

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沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2

1・「その2」を執筆・公開するに至った経緯

 

 まずは前置きである。

 

 1944(昭和19)年に起きた沖縄県営鉄道の爆発事故については、数年前に一度ルポを書いた。それが「その1」である。それとは別に、このほど新しく「その2」を書いて公開することにした。

 

 なんでわざわざ2つも書いたのか。それには、ちょっとした経緯と事情がある。

 

 「その1」の記事をネット上で公開した直後に、ある方から連絡を頂いたのだ。記事の中で名前を挙げた、桃坂豊氏ご本人である。

 

 桃坂氏も、この事故については調査を続けられており、その中で得られた資料の一部を、筆者に提供して下さったのである。内容はDVDと文書データ。「少しでも、この事故のことを多くの人に知ってもらいたい」とのことだった。

 

 ただ、申し訳ないことに、筆者の個人的な事情から、この資料は長い間手つかずの状態だった。資料の内容があまりにも「重く」感じられ、どう扱えばいいか悩んだという部分もあった。

 

 その、迷った末の結論が、「その1」と「その2」をどちらもネット上で公開するというものだった。桃坂氏から寄せられた新資料に基づき「その2」を書く。それを「その1」ならびに資料とあわせて公開すれば、「その1」から「その2」に至る執筆の経緯が分かりやすくなるだろう。また、事故のことを少しでも多くの人に知ってもらいたい…という桃坂氏の希望にもかなうのではないか(資料へのリンクは次節で示す)。

 

 よって読者の皆さんは、まだ情報が少ないうちに書かれた「その1」を読み、次に、加筆修正がなされた新バージョン「その2」を読むことで、まずは事故の内容を大まかに把握できるだろう。それから最後に「資料編」に目を通せば、より詳細な知識が得られるはずだ。

 

 もしくは、「その1」を読んでから「資料編」を読み、それから「その2」を読むのもいいかも知れない。その流れなら、筆者きうりの執筆の流れというか舞台裏のようなものが、なんとなく見えるかも知れない。もちろん、どう読もうが読者諸賢の自由である。

 

 2・資料について

 

 ここでは、桃坂氏から頂いた資料について簡単に説明しておく。

 

  (1) DVDについて

 

 資料のうち、DVDにはニュース番組を録画したものが収められていた。内容は、2008(平成20)年623日にTBSの「ニュース23」という番組で放送されたもので、タイトルは「月ONE ドキュメンタリー23 戦火に消えたケービン」。時間は30分。沖縄慰霊の日に放送されたもので、番組の制作にあたっては、桃坂氏も大きく関わっているとのことだった。

 

  (2) ルポ「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」について

 

 これはおそらく、桃坂豊氏ご本人が書かれたものである。おそらく、というのは、その後、桃坂氏と連絡が取れなくなっているため確認できずにいるからだ。

 

  (3) 「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」について

 

 これは、地元に住むK氏という方が1970(昭和40)年代後半~1980(昭和50)年代にかけて当時の生存者から聞き取った内容である。それを桃坂氏が書き写したものだ。

 

 ――以上のうち、(1)DVDについては、当研究室では動画などの形では公開しない。著作権等の関係上、ちょっと心配な部分があるからだ。ただ、内容的なものはルポに組み込ませてもらった。また、(2)(3)については、実名が記されている箇所は全て消している。

 

 桃坂氏からは「資料はネット上で使用しても大丈夫」という承諾を頂いている。とはいえメールでの簡単なやり取りで頂いたお返事である。また、現在は連絡が取れていないので、頂いた資料を、ほとんど手を加えない形で公開しても大丈夫だったかどうか、筆者としては少し心配な部分もある。

 

 しかしこの資料は、今まで事故の詳細が一切知られていなかったという性質上、一次資料としてそのままの形で公開するべきという気もする。だから、一抹の不安を抱きつつも、まずはとにかく公開しておきたい。

 

◇「その1」を読む方はこちら

◇資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」を読む方はこちら

◇資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」を読む方はこちら

 

 3・注意点

 

 さて、以上の内容を踏まえての注意点である。

 

 桃坂氏からの頂きものである2つの資料については、もしもネット上で引用などされる場合は、引用元をしっかり示すようにして頂きたい。筆者きうりにいちいち断る必要は(今のところ)ないと思うが、よろしくお願いします。以上。

 

 ――で、これは蛇足だが、それ以外の文章――即ち、当「事故災害研究室」で公開されている、筆者きうりが書いた文章――については、基本的に無断引用・無断転載・コピペは全部OKである。どんどんやって下さい。

 

 なぜなら、もともとが、いろんな文章のツギハギだからである。インターネット上の記事、新聞記事、書籍などから拾い集めて繋ぎ合わせたもので当研究室のルポはできている。だから、筆者としてはあまり独自性とかオリジナリティを主張するつもりはない(もちろん、無断引用などするにしても、当研究室のことを紹介してもらえると嬉しいけど)。

 

 ただし、ルポの内容の信憑性については、保障の限りではない。また筆者も著作権を放棄しているわけではない。そんな感じで、重ねてよろしくお願いしたい。

 

 前置きは以上である。

 

 4・「沖縄県営鉄道爆発事故」

 

 現在、沖縄県には「沖縄都市モノレール線」が存在している。

 

 都市の渋滞解消の切り札として活躍しているそうだ。筆者は東北在住なので実物を見たことはないのだが、写真や動画で確認してみた。跨座式モノレールというらしく、線路にしがみつくような形で走行している姿はなんだか可愛らしい。

 

 ところで、このモノレールについてウィキペディアの説明を読むと、「沖縄では戦後初の鉄道開通となった」という一文を見ることができる。この「戦後初の」という何気ない言葉は、戦中以前のことを知らない人はさらっと読み流すだろう。一方、少しでも沖縄の鉄道史を知っている人はハハア、ちゃんと歴史を踏まえて書いているなと思うことだろう。

 

 今回ご紹介する事故事例を知るまで、筆者には、沖縄といえば「鉄道が存在しない県」というイメージしかなかった。本州に住む人はほとんどが同様なのではないか。だが違うのだ。今から70年以上前――あの戦争が終わりを迎える直前まで、沖縄には鉄道が存在していたのである。

 

 その名は、沖縄県営鉄道。

 

 名前の通り、沖縄県による県営である。ただし、この名前はあくまでも当時の鉄道省における書類上の「正式名称」である。県内では「沖縄県軽便(けいびん)鉄道」「沖縄県鉄道」といった名前が使われていた。軽便とは、762mmのやや幅の狭い軌間の鉄道のことで、県民からは「ケイビン」「ケービン」と呼ばれ親しまれていた。

 

 この鉄道について書くだけでも、ちょっとした歴史の説明になる。事故災害のルポとしては、少しばかり冗長に感じられるかも知れない。しかしこの、沖縄県営鉄道が災禍に見舞われるまでの経緯は、その歴史と密接不可分の関係にある。少し長く感じられてもお付き合い頂ければと思う。

 

   ☆

 

 沖縄で、主要な道路が開通したり改修されたりしたのは、明治末期から大正初期にかけてである。それまでは、県内での交通機関といえば荷馬車や自転車くらいだった。それも使えるならまだいい方で、お金がなければ荷物を肩に乗せて運ぶしかなかった。いわば「前近代的」な状況だったのである。

 

 このままではあまりにもひどい。鉄道を敷かなければならない。……というわけで、株式会社による運営ではどうか? いやいやここは県による運営でいきましょう、といった紆余曲折を経て、1911(明治44)年に敷設が決定した。実際に那覇~与那覇間の工事が始まったのは1913(大正2)年のことだった。

 

 このタイミングは、経済ブームの波とも連動する形だった。第一次世界大戦(1914(大正3)~1918(大正7)年)の影響で、中心都市である那覇と、周辺の地方都市の経済交流は活発になっていった。こういった情勢と鉄道敷設の動きがどれくらい呼応し合ったものだったのかは分からないが、とにかくまあ、いいタイミングだったと言えるだろう。那覇~与那覇間は1914(大正3)に開通している。資金は三十万だった。

 

 沖縄県営鉄道の誕生である。住民の念願が叶って開通したこの路線は、その後も1922(大正11)年には嘉手納へ、翌1923(大正12)年には糸満へと延び、「糸満線」と呼ばれた。総延長はのべ約48キロ。山手線よりも長いものだった。

 

 おそらく当時としては、華々しいデビューだったのではないだろうか。とはいえ、その後も、事業的には決して潤っていたわけではない。資料によると、形式上は赤字経営だったそうな。毎年鉄道省の事務監査を受けつつ、地方鉄道法に基づく国庫補助金を受けていたという。

 

 それでも確かに、県営鉄道の開通は、沖縄に「交通革命」をもたらした。那覇と農村の間で、砂糖や農作物、輸入物資の行き来が活発になり、製糖業などの産業も盛り上がった。また通勤通学にも鉄道は大いに利用された。のどかな沿線で、汽笛を鳴らしながら走る列車は、さぞ多くの人々に親しまれたことだろう。なんだか、その後のことを思うと、このへんの歴史を記述しているだけで涙が出てきそうになる。「涙そうそう」である。

 

 こうして、沖縄本島の交通網は、県営鉄道を主軸として展開していった。1936(昭和11)年の末頃にバスが登場したことで、その存在感が薄れたこともあったようだ。それでも軍事輸送ではまだまだ使い道があるということで、通常ダイヤを取りやめて軍用路線としても活用されるようになった。

 

 1936(昭和11)年と言えば、かの226事件があった年である。日本の政党政治が終わりを告げ、軍国主義的な空気が増していく時代の始まりだ。県営鉄道が軍用路線として活用されるようになったのは、そうした時代の空気を反映しているように思える。

 

 1941(昭和16)年には日米戦争が始まった。日本と、日本人にとっての地獄の始まりである。沖縄も戦時体制に突入し、夏には、中城湾という場所に築かれた臨時の要塞へ司令部が設置された。そこへ軍の資材や食糧が運ばれるようになるなどの動きもあった。それでも、まだこの頃は平和だった。軍事輸送での活用と言っても、まだ軍人の姿は僅かである。時折、兵隊がいたずらで列車を揺り動かすようなことがあっても、それはまだのどかな風景の範疇だった。

 

 1944(昭和19)年3月頃には、県営鉄道は、本格的に軍事物資の補給機関として活用され、運搬優先、軍専用も同然の扱いとなっていた。戦況が際どくなるにつれ、軍需物資の運搬が増えていったのだ。客車は物資運搬のために貨車へと変わり(それでも女学生が通学に使用することは黙認されていたという)、毎朝、部隊の武器弾薬や兵員の輸送に追われる。ときどき、敵の偵察機が飛来しては騒然となる――。沖縄県中南部の山や丘、海岸などには、地下壕や蛸壺壕などがどんどん築かれ、あらゆる公共の施設から農家の民家までもが軍専用のものとして接収。沖縄は戦時体制一色に染まっていった。

 

 

 そして、沖縄の人々にとって忘れがたい日が訪れる。1944(昭和19)年1010日、のちに「十・十空襲」と呼ばれることになる米軍による大空襲の日である。これにより255名が死亡し、那覇市の市街地の9割が消失。火災は翌日まで続いた。県営鉄道も機関車4両、ガソリンカー4両、客車6両などが損害を受け、鉄道管理所と那覇駅は焼き払われた。

 

 この十・十空襲の日の、ある女学生の証言を掲載しておこう。彼女は県営鉄道を利用している時に空襲に遭遇した。鉄道の事故そのものとはさしあたり関係ないが、当時の沖縄県の空気が感じられる一文だ(掲載にあたり、内容の改変にならない程度に手を加えている)。

 

「ある朝、いつもの通り学校へ行くため列車に乗り一息ついていると、高射砲の音が聞こえてきた。列車は国場駅まで進んでいたが、そこから前進しなくなった。何かと思っているうちに、那覇は空襲があり、それ以上列車は運行できないので全員降りて自宅に帰るようにと指示された。列車から降りてしばらくすると戦闘機が飛んでおり、ポンポンしている音が聞こえてきた。次第に空襲は本物であることがわかり、急いで自宅へ逃げ帰った。

 皆ビックリして不安そうに空を眺め、音のする那覇の方向を仰いでいた。その時初めて米軍の沖縄上陸を予想し、深刻に受け止めるようになっていた。私たちの学校は市内にあったが直接の被害は受けず、以前と同じように学校へ通うことができた。しかし街は焼野原となり瓦礫の山となっていた。」

 

 この日以降、沖縄の人々は、空襲のみならず米軍の上陸にも怯えて暮らすことになった。県外疎開も進んだという。そんな中でも、県営鉄道の運行は続いた。

 

 米軍がフィリピンに上陸したのが、同年の1018日である。これを受けて、大本営陸軍部はフィリピン方面を決戦場と決め「「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」と大号令を発した。

 

 こうして、沖縄周辺の兵隊も大きく移動することになる。大まかに書くと、当時、沖縄本島の島尻郡に駐留していた第9師団が、まず台湾へ移動。これは一万三千人を超える大所帯だった。で、その第9師団が築いていた陣地は、第24師団が引き継ぐことになった。こちらも一万四千人以上の人数である。

 

 この第24師団が、島尻郡へ向かう途中で事故に遭遇することになる。

 

 第24師団について少し説明すると――筆者は旧日本軍の体制や歴史について明るくないのでうまく書けないのだが――1939(昭和14)年10月に満州のハルビンで編成されたものだったらしい。1944(昭和19年)2月以降はメレヨン島やサイパン島での戦闘にも関わっている。そんな中で、台湾へ移動した第9師団の担任区域を引き継ぐ形で、駐留していた満州から島尻郡へ移ることになったのだった。あちこちでの戦闘により人員が欠けていたため、沖縄の現地召集者などによって補充しながら再編成されたという(この再編成の動きが、事故よりも前のことだったのか、後のことだったのかは不明)。

 

 余談めくが、この第24師団の中には、山形県の鶴岡で編成された部隊も含まれていたという情報もある。もしもこれが本当なら、山形県出身・在住である筆者としては何かの縁を感じずにはおれない。

 

 さて、第24師団に配備変更の命令が発せられたのは、1126日である。スケジュールとしては、1267日に、主力である歩兵連隊がまず移動し、続いて89日に他の連隊が、そして10日に衛生兵が出発することになった。彼らの島尻郡への移動は11日には完了する予定だった。

 

 基本的に、10日までの兵員の移動は順調に進んだようだ。人の運搬がほとんど終わったところで、次は武器弾薬である。これは嘉手納駅に集められて、県営鉄道によって島尻へ運ばれることになった。

 

 また、これと一緒に移動する兵員もいた。多くは610日の夜間行軍で移動を済ませていたが、病気などで夜間の移動に耐えられない一般兵や初年兵がいたのだ。彼らは、移動スケジュール最終日の11日に、武器弾薬とともに県営鉄道に乗り込んだ。

 

 こうして、悲劇の1944(昭和19)年1211日を迎えることになる。

 

   ☆

 

 月曜日、天候は晴れときどき曇り。この日の夕刻に、糸満線の嘉手納駅から一本の汽車が出発した。沖縄の人々が、親しみを持って「ケービン」と呼んでいた小ぶりな機関車である。しかしそれが引っぱる貨車の積み荷は剣呑だった。6両の無蓋貨車には枯れススキがかぶせられ、その下には弾薬がぎっしり。車両には、他にも150人前後の兵員が乗っていた。

 

 ケービンは南へ進んだ。最初に到着したのは古波蔵(こはぐら)駅である。衛生兵約60名と、帰宅する女学生45人が乗り込んだ。

 

 ここで、燃料補給のために機関車が貨車から切り離され、いたん那覇駅へ移動。再び戻ってきた機関車は、帰宅中の女学生5名と、ドラム缶と医薬品が積まれた貨車2両を引っぱってきた。古波蔵駅の6両と合体し、合計8両となって出発。

 

 次は津嘉山(つかやま)駅に到着。午後4時のことである。ここでも女学生2人が乗り込んだ。

 

 さらにケービンは進む。150人以上の乗客と武器弾薬を積み込んでいるので、スピードはかなり落ちていた。しかも、山川駅と喜屋武(きゃん)駅を過ぎれば今度は上り坂である。真っ黒い石炭の煙を吐きながら、列車は這うようなスピードで進んでいった。

 

 やがて列車は神里(かみざと)の東側のはずれ、南風原(はえばる)村(現・南風原町)神里に入り、田園と小川を横切っていく。午後四時三十分。稲嶺に向かう切通し付近で、上り坂に差しかかった――。

 

 そこでケービンが突如として大爆発を起こした。この時の轟音は、那覇市をはじめ、島の全域に響き渡り、付近では地響きもあったという。

 

 最初の発火(爆発)の原因は、一両目に積まれていたガソリンだったようだ。火炎は、貨車に積まれた弾薬にも引火し、次々に誘爆が発生。周辺一帯はたちまち火の海と化した。乗っていた人々も爆発と火炎の餌食となっていった――。

 

 以下では、この現場に居合わせた人々の証言である(掲載にあたり、内容の改変にならない程度に手を加えている)。まずは、当時48歳だった機関手。

 

【証言1】

1211日も、朝から緊急輸送命令を受けて、武器弾薬と兵員の輸送に当たっていた。

 私は直ちにブレーキをかけたが、強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み、頭部、両手、両足に火傷を受け、さらに両耳に爆風が吹き込んだ。それ以来、耳に不調をきたした。

 私は列車より脱出し、近くの稲嶺駅に駆け込み本部に電話連絡しようとした。しかし電話線が切れ不通となっていた。さらに東風平駅まで走ったが、同様に不通であった。

 私は茫然となり、県道を那覇へ向って進んだ。奇跡的にも私は生き残っている。どうして助かったのか私自身よくわからない。同乗者の機関助手一人と車掌二人はその場で不明となった。

 その時の火傷の後遺症と耳の不調は、私の一生につきまとう。

 数百人の人間が日本軍の弾薬によって畑に散り、虫けらのように死に絶えて行った事実は殆んどの人が知らない。

 沖縄での戦争は、米軍との決戦以前から、一般住民に対して犠牲をしいるだけであった。

 罪のない多くの国民を大量に殺していくのが戦争の実態である。

 あの時の、恐ろしい悪夢の思い出は八十才過ぎた今日でも脳裏に焼きついて離れない。」

 

 次は、当時乗り合わせた女学生の証言。那覇駅で乗り込んだ女の子たちの一人である。

 

【証言2】

「三、四人は有蓋貨車の外側に立ち乗りした。

 古波蔵駅に着くと、兵隊がいっぱい乗っている貨車六両くらいにつながれ、ゆっくりと糸満に向けて発車した。

 前方で火を見たとたん非常に危険を感じ直ぐ飛び降りた。

 火の海の中を走り抜けたような気がする。

 しかし、その時は気が動転して記憶もさだかではないが、逃げ出した時には髪の毛と着物に火がついていた。

 たまたまそこに小川があったので、飛び込んで火を消したが、気が遠くなるような気がして座り込んでいた。

 そこへ、遠巻きにしていた兵隊が走ってきて肩を貸してもらい、付近の農家に案内された。しばらくしてからトラックで南風原小学校の陸軍病院へ運ばれた。

 運び込まれた陸軍病院には、黒焦になった者、全身皮がむけた者、何十人もの人々が床の上でうめき声を上げ、殺してくれと叫びながらのたうち回っていた。

 一週間の間に、ほとんどの者たちがバタバタと死んでいった。

 自宅治療をしたが、二ヶ月間痛さで苦しみぬいた。」

 

 この二つの証言だけでも気が滅入ってくるが、事故の全体像から見ればまだ序の口である。爆発と火災が発生したのは、鉄道車両だけではなかった。当時、線路周辺――神里の東原という場所だそうだ――のサトウキビ畑には、折悪しく日本軍の弾薬が隠されていたのだ。これにも火が燃え移って誘爆が発生し、爆発現場から200300メートル離れた民家にまで被害が及んだという。村人たちは、近くの壕や山川地区方面へ急いで逃げるしかなかった。

 

 大惨事である。鉄道車両が大爆発し、そこを中心に辺り一帯が激しい火災に見舞われたのだ。現場には誰も近寄れなかった。ちなみに、事故を起こした列車の最後尾の一両は連結がブチ切れてしまい、火災の状態のまま津嘉山駅へ流れていったという。積まれていた弾薬と乗客は、全て火炎に呑まれた後だった。

 

 事故の急報は、この時の第24師団の病院である東風平(こちんだ)国民学校(現在の東風平中学校)にもたらされた。そこには、師団の移動によって910日のうちに移っていた衛生兵――医療に従事する兵隊のことだ――たちがいた。

 

 彼らはただちに現場へ急行。しかし凄まじい火災で、遠巻きに眺めているしかなかったという。先の証言から推測すると、彼らにできることといえば、火災の中から脱出してくる人を救助することくらいだったろう。

 

 事故発生が四時半と夕方だったので、ようやく救助活動が可能になった頃は、あたりは夕闇に包まれていた。衛生兵たちは携帯の電灯などを使って現場へ踏み込んだ。そして手探りの状態で、まだ息のある者を助け出しては、当時の陸軍病院である南風原小学校へ運搬。既に息絶えた者は、東風平国民学校へ安置された。

 

 しかし、さすがに暗闇の中では作業も進まない。おそらく当時は、投光器のような便利な道具は当地にはなかったのだろう。救出・収容作業は翌日に持ち越され、翌12日はさらに多くの人が作業に駆り出された。

 

 陸軍病院に収容された者の多くも、事故後一~二週間の間に苦悶のうちに息を引き取っていった。詳細はここでは書かないが、資料によるとその場所は「地獄のような有様」だったという。また、火傷の状態が比較的軽い女学生たちは家族に引き取られ、自家治療することになった。怪我の回復には何十日もかかった。このあたりは、先の証言の通りである。

 

 もちろん警察も放ってはおかない。事故発生を知った与那原(よなばる)署は、密かに現場へ警官を送り込んでいる。しかしそこでは軍が縄を張って復旧作業と原因調査にあたっており、立ち入ることはできなかった。

 

 この時から、すでに軍では「不祥事隠し」が進んでいたのだろう。事故が起きた年の3月に沖縄本島に司令部を置いたばかりだった第32軍(「軍」は「師団」よりも上位にあたる)は、民間人の動揺と、大本営から怒られるのとを恐れて隠蔽にかかっていた。縄を張って現場を封鎖したのは、いわば「隠蔽工作その一」である。

 

 次に、隠蔽工作その二。この事故で死亡した兵員はかなりの人数に上ったが、その遺体は密かに火葬された。遺体の安置所となった東風平国民学校では、兵員による合同の葬儀が行われたそうだが、それは民間人の知るところではなかった。

 

 隠蔽工作その三。それ以外の犠牲者の遺骨も、密かに処理された。女学生の骨箱は遺族へ。軍人のものは各中隊へ――。事故の内容自体が民間人には秘密とされたので、遺族は泣き寝入りするしかなかった。

 

 その四。地元の新聞には記事が一切載らず、完全な箝口令が敷かれた。例えば戦後に基地問題を訴え続けたかの大田昌秀元県知事すらも、この事故のことは知らなかったというし、戦後に戦史を整理してきた防衛庁戦史室も、この事故のことは第62師団の会報綴によって初めて知ったという。

 

 よって、この事故の詳細な被害状況が明らかになるのは、もっとずっと後のことである。なのでこれは時系列的には矛盾するのだが、最終的に判明した被害状況について、死者数をまとめておくと以下の通りになる。

 

・軍人の死者……210名前後

・女学生の死者……8

・鉄道職員の死者……3

・生存者……3

 

 鉄道事故として見れば、この死者数は日本の鉄道事故史上最悪である。西成線ガソリンカー火災よりもひどい。

 

 一体、爆発の原因はなんだったのか。今となっては推測するしかないが、最も有力なのは「石炭の火の粉が引火した」説である。

 

 県営鉄道は石炭を燃料としていたため、火の粉がよく出たのだ。しかも事故が起きた現場は急な上り坂なので走行するには馬力がいる。そこで無理がかかる。鉄道員たちは、この坂に差しかかると古い石炭の燃えカスを捨てて、新しいのと交換して火力を上げるようにしていた。

 

 そのため、周辺のサトウキビ畑では、毎日のようにボヤ騒ぎが起きていたという。今から見ればとんでもない話だ。周辺の農家たちは、毎度「またか!」とぼやきながら消火にあたっていたという。

 

 このような状況で、ガソリンと武器弾薬を積んだ列車が通過したのである。むしろ、何も起きない方が奇跡的とすら思えるのは筆者だけではないだろう。……もちろん、本当のことは誰にも分からないのだけれど。

 

 さてところで、純粋な事故のレポからは少しずれるが、ひとつ興味を引く資料がある。事故直後の13日に、第32軍の参謀長から各部隊へ出された「注意事項」である。以下に掲載するが、今の時代から見るとはなはだ読みにくいので、後ろの方で簡単にまとめてみた。よかったらそちらをどうぞ。

 

「山兵団ハ神里付近ニ於テ列車輸送中兵器弾薬ヲ爆発セシメ莫大ナル損耗ヲ来セリ一〇・一〇空襲ニ依リ受ケタル被害ニ比較ニナラザル厖大ナル被害ニシテ国軍創設以来初メテノ不祥事件ナリ、此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナラズ、此レ一二兵団ノ軍紀弛緩ノ証左ニシテ上司ノ注意及規定ヲ無視シタル為惹起セルモノナリ、無蓋車ニ爆弾ガソリン等ヲ積載スベカラザルコトハ規定ニ明確ニテサレアルトコロニシテ常識ヲ以テ判断スルモ明ラカナリ、輸送セル兵団ハ言フニ及バズ此レガ援助ヲ為セル兵器兵姑地区隊モ不可ニシテ夫々責任者ハ厳罰ニ処セラルベシ、該事件ノ如キハ署亜罰ノミニテ終ルベキ性質ノモノニ非ズ、戦争ニ勝タンガ為、第一線ニテ不自由ナカラシメンガ為銃後国民ガ爪ニ火ヲ燈すが如ク総テヲ犠牲ニシテ日夜奮闘シテ生産セルモノニシテ銃後国民ノ赤誠ニヨルモノナリ、作戦上ノ必要ニヨル消耗ハ止ムヲ得ザルモ敵一兵ヲモ殺傷スルコトナク莫大ナル消耗ヲ来セルハ面目ナキ次第ナリ、兵器弾薬燃料ノ分散格納不十分ナリシ為カカル莫大ナル損耗ヲ来セリ各兵団ノ兵器、弾薬ノ他ノ軍需品ノ分散格納モ極メテ不十分ニシテ普天間、宜野湾付近ノ道路ノ両側ニ多量ヲ集積シテアリタルモ艦砲射撃ヲ愛クレバ必ズ爆発燃焼スルハ明瞭ナリ、各部隊、兵器弾薬ハ速カニ掩蔽部ニ格納スベシ人員ノ掩蔽壕ハ遅ルルモ兵器弾薬速カニ掩蔽部ニ格納スルヲ要ス。戦ハ大和魂ノミニテ勝チ得ルモノニ非ズ兵器弾薬ハ戦勝上欠クベカラザルモノナルハ言ヲ俟ズ、軍ハ該被害ニヨリ戦カノ半数以上ヲ減ジ如何ニシテ之ガ前後策ヲ講ズルカニ腐心シアリテ軍ノ戦闘方針ヲ一変セザルベカラザル状況ニ立到レリ、今敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状ニシテ今後弾薬等ノ補給ハ至難事ナラン、将来兵団ニ交付シアル兵器弾薬、其ノ他ノ軍需品ヲ焼失爆発等セシメタル際ハ軍ニ於テ補給セズ、其ノ余力ナシ兵器、弾薬等国情ヨリ見ルモ豊富ナラズ各隊ハ極力兵器ノ愛護、弾薬ノ節用ニ勉メ仮初ニモ過失ニヨリ戦力ヲ失セザル如ク注意セラレ度、軍司令官ノ心痛ヲ見ルニ忍ビズ其ノ意図ヲ体シ各部隊ニ一言注意ス」

(昭和191214日付、石兵団会報94号より)

 

 要点を簡潔に書くと、

「ガソリンをむき出しで積んで輸送すんなって言っただろ!

 決まりを守らないからこんなことになっちまったじゃないか…。

 敵と戦ったわけでもないのに、戦力が半分以下になっちまったよ!!

 今、敵が上陸してきたら俺たち玉砕するしかないんだぜ!?

 残りの弾薬、大事にしろよな!!!

 ――という感じだろうか。

 

 先に、事故の被害状況について、後に判明した死者数を記した。今度は、事故によって失われた物品の数量を書いておこうと思う。

 

・武器弾薬……貨車6輌分

・ガソリン……貨車1輌分

・医薬品……貨車1輌分

・畑に積まれた弾薬……数千トン

 

 である。以上のことから推測するに、この鉄道爆発事故で軍は物品不足となり、窮地に陥ったのだ。だとすると、この物品不足の状況は、その後の沖縄戦にも大きな影響を及ぼしたのではないだろうか。単純で荒っぽい言い方をすれば、事故のあるなしで、沖縄戦の結果も少しは違っていた、かも知れない。その後の沖縄の歴史を考えれば、この事故は単なるいち失敗談ではなく、歴史的事件と言える、かも知れないのだ。

 

 また、最近はあまり論じられることがなくなってきた気がするが、集団自決の強制問題にも少しばかり関わりそうだ。沖縄戦で、住民が自殺したのは自発的なものだったのか軍の強制があったのかという論争である。上記のように、軍では武器弾薬が大量に失われて、なけなしの残り物は徹底的に管理されていたはずである。だとすれば、強制があったとする立場から見れば「きちんと管理されていた手榴弾が、簡単に民間人の手に渡るはずがない。やっぱり軍の強制だったんだ」となるだろうし、反対の立場から見れば「残り少ない稀少な武器を、民間人の自殺なんかで無駄に使わせるもんか。軍の強制は考えられない」となりそうである。

 

 もちろん、ここでなんらかの結論を出すことはできない。これはただのルポである。推測は推測として読んで頂きたい。

 

   ☆

 

 その後の話である。

 

 振り返ってみれば、沖縄県営鉄道が活躍した年数は、決して長くはなかった。辛うじて運行が続いていたのは1945(昭和20)年3月までで、4月には米軍の上陸に伴って完全破壊されている。

 

 当時の那覇駅は、現在はバスセンターである。線路も、戦後には農道になったりつぶされたりした。そもそも戦争末期の頃には線路のレールまでもが軍に供出され、戦闘の現場で銃眼を作るのに使われたりしている。かつての鉄道の痕跡は、今ではほとんどない。ただ関係者の記憶と写真だけが、歴史を辿るよすがとなっている。

 

 資料によると、戦争末期の沖縄戦における戦没者数は、1975(昭和50)年3月の時点で以下の通りに数えられている(ちなみに戦没者の遺骨は「柱」という単位で数える)。

 

・軍人軍属……94,136柱(うち沖縄県外の人は65,908柱、沖縄出身の人は28,228柱)

・一般住民……94,000

 

 合計で188,136柱である。完全に網羅されているとは思えないので、おそらく一般住民の戦没者は10万人を超えるだろうと言われている。一般住民の犠牲者が軍人軍属をこれほど上回る悲惨な戦闘は、世界でも類例がないそうだ。

 

 言い方はよくないかも知れないが、これほどの犠牲者数では、軍による箝口令がなくとも、鉄道事故の悲劇がかすんでしまうこともあったかも知れない。そんな風にも感じる。

 

 筆者の勝手なイメージになるが、いわゆる「あの戦争」もまた、国家単位での壮大な「過失」「事故」「失敗事例」と捉えられるだろう。であれば沖縄県営鉄道の爆発事故もまた、あの戦争の一部だったと言えると思う。

 

 当研究室では、戦時中から戦後にかけて起きた事故災害のうち、今では忘れられかけているものが、どれもこれも「軍部によって隠蔽された」とというのは真実ではないだろうと書いてきた。だが、特に軍部の不祥事にあたるケースでは、確かに隠蔽工作が行われたものもあるようだ。例えば、ずっと前に書いた玉栄丸の爆発事故がそうである。当研究室では、そうした事例も分かる範囲でコツコツ掘り起こしてまとめられたら……という思いでいる。

 

 軍部のグダグダのせいで「なかった」ことにされてしまった死者たちは、一体どれほどに上るのだろうか。都合により報道されずじまいだったというならまだしも、である。隠蔽された事故などというのは、教訓が将来に引き継がれることもなく、死者が慰霊されることもなく、遺族の悲しみが癒されることもないのである。ただ知られざる犠牲があるだけだ。

 

 沖縄県営鉄道の事故については、今までもウィキペディアなどである程度書かれてはいた。そこへ、もっと詳細な内容を肉付けして、これくらいの密度でインターネットで公開するのは、おそらく当研究室が初めてだろう。

 

 余談だが、県営鉄道で破壊された機関車は、もともとは大船渡あたりの鉄道から譲渡あるいは払い下げられたものだったらしい。真偽のほどは未確認だが、これが本当なら、先述の第24師団の出自といい、奇妙なところで東北と縁がある事故事例だと思う。そのルポを、山形在住の筆者が発信するのだから。

 

 本稿を執筆するに至った経緯については、既に書いた。より詳細な内容を知りたい方は、別掲の資料に目を通して頂きたい。

 

 この事故のことが、より多くの人に知られますように。

 

 資料を提供して下さった桃坂豊氏にも、心より御礼申し上げます。

 

【参考資料】

◆ウィキペディア

◆TBSニュース23「月ONE ドキュメンタリー23 戦火に消えたケービン」(2008(平成20)年6月23日放送)

資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」

資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」

 

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沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)

弾薬輸送列車大爆発事件

闇に包まれた爆発事件

 

 1945年(昭和20年)の沖縄決戦における戦没者は県援護課の資料(1975年3月調)によると沖縄県外軍人軍属65,908柱、沖縄出身軍人軍属28,228柱、一般住民94,000柱計188,136柱となっている。しかし申告漏れがかなりあるため一般住民の戦没者は実際には10万人を超すといわれている。このように一般住民の犠牲が軍人軍属の犠牲を上回る悲惨な戦争は世界に例がないといわれている。

 この厖大な犠牲は米軍の砲弾によるものだけではなく日本軍の事件事故によってつくり出された犠牲も含まれている。ところが日本軍に係る事件事故はこれまで隠されてきたのが多く俊々の証言によって明るみに出される例が多い。これから明らかにしようとする列車の爆発事件もその類である。

 この爆発事件は二百数十人の人間が一瞬のうちに空中へ吹き飛び或いは火に焼かれて死亡するという大惨事であった。三十二軍首脳もこの事件によって大量の武器弾薬を失った為に動揺し参謀長は直ちに各部隊へ厳重な注意事項を発していさめた。ところが三十二軍首脳は決戦を控えて一般住民の動揺を恐れたのか外部に対して全く秘密であり、お叱り受けるのを恐れたのか大本営に対しても全く報告されてなかった(防衛庁戦史室は後々にこの事件を第62師団会報綴によって知った、戦史叢書沖縄方面陸軍作戦)。

 当時は報道機関も軍の検閲下にありそのためにこの事件の報道は一切なく県鉄関係者も口止めされ、被害関係者も軍を恐れて口を閉ざし今日まで無言の闇に包まれて来た。この惨事も戦争の実態の一つであることを県民が知ってもらうために弾薬輸送列車の爆発事件を報告することにする。

 

事件の背景

武部隊の台湾転出

 1942年(昭和17年)三月に日本軍はフィリピンを占領した。その時南太平洋の米軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍は「I・SHALL・RETURN」私は必ずまた来る、という予言を残してフィリピンからオーストラリアへ脱出していた。しかし日本軍はその後太平洋諸島においてことごとく敗北を喫し彼の予言通り1944年(昭和19年)10月20日からダグラス・マッカーサー将軍の指揮する米南太平洋軍団は猛烈な艦砲射撃の支援を受けながらレイテ島東海岸に上陸を開始してきた。それを受けて大本営はフィリピン方面を決戦場と決め「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」の大号令を発した。

 レイテ決戦の決意に伴い11月20日台湾在の第十師団と朝鮮在第十九師団がフィリピンの第十四方面軍に増加され、更に沖縄の三十二軍からも一個師団フィリピン方面へ抽出することになっていた。勿論三十二軍は沖縄から一個師団抽出することに強く反対したが大本営の至上命令に押切られ止むなく一個師団の抽出となった。一方台湾の第十方面軍では多くの兵員がフィリピンに抽出された為に台湾守備が手薄になっているとして台湾に兵力増強を要請していた。大本営は当初沖縄から抽出する一個師団も比島方面へ投入する考えを持っていたが海上輸送に大きな危険が伴うため差当り台湾へ移すことになり、沖縄本島南部の島尻郡で陣地構築中の第九師団(武部隊)が11月中旬台湾へ抽出されることに決定された。武部隊は昭和19年6、7月の夏から11月の秋にかけて多くの現地住民も使い陣地構築は完成間近であった。10月15日には現地入隊の初年兵もかなり加わり一万三千人を超える大所帯の師団で光輝ある精鋭師団として評判が高かった。配備以来住民との接触も多くなじむ頃であったが転出の軍令を受けて密かに移動を準備していた。

 11月末にこれまで汗を流して築き上げて来た各陣地を第二十四師団(山部隊)へ引継ぎ那覇へ集結して12月中旬から20年1月上旬にかけて那覇港を夜間出港し米軍の魚雷攻撃を避けながらかなりの時間をかけて島づたいに台湾へ渡った。軍の行動は秘密であり殆どの住民は武部隊が台湾へ去ったことを後で知った。武部隊の他第三十二軍配下から三十二軍直轄の中迫撃第五、第六大隊の二個大隊が11月21日那覇港を出港しフィリピンの第十四方面軍に編入されていた。第三十二軍首脳は第九師団と砲兵二個大隊の代替兵団の派遣を期待したが実現せずがっかりしていたが戦況は油断を許さない状勢にあったので止むなく次の新作戦を立案し実施することになった。

 

新作製計画を発令

 第三十二軍は第九師団(武部隊)の台湾転出に伴い従来の沖縄本島決戦防禦方針から接久防禦方針へ転換して軍主力を宜野湾以南の浦添、首里、南部島尻地区に配備する新作戦計画を作定し各兵団へ発令した。

 1944年(昭和19年)11月26日新作戦計画に基づいて配備変更の軍命令が発せられ、第二十四師団は第九師団が築いた陣地を引継ぎ島尻方面の警備の任に当ることになった。しかし配備変更は軍事機密のため下の一般兵に対して伝達されず「は」号演習と下命された。先発隊は11月27日から出発したが師団主力は12月6日から11日にかけて移動することが確定し、その準備に取りかかった。第二十四師団の将兵達は沖縄上陸以来五ヶ月余り読谷村、恩納村、石川、美里、具志川方面で日夜汗を流して精魂を込め造り上げた地下道陣地の完成を目前にしてこれを自分達の手で取壊し捨てなければならない羽目になり割切れない気持ちであったが軍命令であってみれば止むを得なかった。

 12月6日軍命令を受けた第二十四師団は各連隊ごとに近くの国民学校へ集結し島尻郡の南西部へ移動を開始した。日暮れと同時に出発して夜間行軍の大移動であり、折からの雨で重い背ノウと完全軍装の将兵達はびしょ濡れのまま黙々と三十余キロの道のりを南下した。途中休憩ともなれば疲れきった将兵達は所かまわず崩れるように倒れて容易に立ち上がろうともしなかった。翌朝未明に各連隊は新任地に続々と到着したが僅かな休養も許されず次の準備に忙殺された。新任地での宿舎の設営や、第九師団から引継いだ戦斗壕を各部隊に合うように完成させる作業が待ち受けていた。歩兵連隊が先に移動すると師団の各隊は計画図に従って次々に新任地へ移動していた。

 

事件の概要

 第二十四師団の主力である歩兵三個連隊(第二十二連隊、第三十二連隊、第八十九連隊)は12月6日から7日にかけて新任地の島尻南西部へ移動し、8、9日には他の連隊(捜索隊、野砲隊、工兵隊、通信隊、輜重隊)が移動し10日には衛生隊が移動した。

 師団司令部としては兵員の移動が済み次第引続き兵器弾薬の運搬を急がなければならなかった。読谷、具志川辺に置かれていた二十四師団の兵器弾薬は嘉手納駅に集められた軽便列車を利用して島尻の南西部へ運ぶことになった。1944年(昭和19年)12月11日月曜日晴れ時々曇りで兵器弾薬の運搬に支障はなかった。そのために朝から弾薬輸送列車は休むいとまもなく慌しい中をつっ走っていた。二十四師団は一万四千人を超える大所帯であったが6日から10日までの5日間にほとんど夜間行軍で移動していた。

 しかしその中にはたまたま病気などで夜間行軍に耐えられない一般兵や初年兵があり、その人達は嘉手納駅に集められ列車で運ばれることになった。12月11日の午後も嘉手納駅で無蓋貨車六両に弾薬が積み込まれ、その上に枯れススキを広げて150人前後の兵員が乗せられ南部へ向かって走った。

 しかし古波蔵駅に到着するとそこで一時ストップとなり機関車は燃料補給のため貨車から離れ那覇駅へ走った。その間に古波蔵駅では初年衛生兵達が研修の帰り60人くらいが乗り込み、帰宅の女学生も4、5人くらい乗り込んだ。暫くすると機関車は那覇駅から、ドラム缶を積み込んだ無蓋貨車一両と医薬品が積み込まれた有蓋貨車一輌に帰宅の女学生5人が乗り込んだ計2輌を引いて再び古波蔵駅へやって来た。一時停車していた古波蔵駅の貨車に連結され8輌の列車は高嶺駅方面を目指して発車した。すでに時計の針は午後四時を回っていた。途中の津嘉山駅で軍の壕堀作業から糸満へ帰るため一高女性二人が割り込むようにして乗り込んだ。列車は荷物が重いためかなり速力が落ちていた。山川駅を通り喜屋武駅を過ぎると上り坂に差しかかった。丘の麓からゆっくりと真黒い石炭の煙を吐きながら這い出すようにして進んだ。上り坂を這い上がるとそこは南風原村字神里の東側外れである。田園と小川を横切り稲峯駅へ向う切通し附近に差しかかるや突如として轟音を発し一帯は火の海と化した。その爆発音は那覇市をはじめ島尻全域に響き渡った。時計の針は午後四時三十分前後を指していた。大音響を同時に乗り込んでいた二百数十名の人間はこなごなになって飛び散り、あるいはガソリンと火薬の火によって焼き尽くされた。火は周辺の砂糖きび畑に広がり所々に積まれていた日本軍の弾薬にまで引火し、一帯は騒然となった。その火の海から何十人かは体に火が着いたまま数百メートルも自力で這い出し、遠巻きに待っていた兵員達の協力で体の火が消され陸軍病院の南風原小学校に運び込まれた。爆発は一輌目のガソリンが発火し後方の人と弾薬が積まれた貨車に火を被り爆発炎上した。最後方の一輌は連結点から吹切れ積込まれた弾薬と人は既に飛び散り火が付いたまま後方へ押し流され津嘉山駅に流れ着いた。宇神里の東原は畑に積まれていた日本軍の弾薬に誘爆を起し数時間も火災が続いた。そのためにニ、三百メートル離れた村の民家が数軒燃え上がり村人達は混乱の中を近くの壕や隣村の山川方面へ狼狽しながら逃げた。

 

焼死体の散乱する現場

 東風平の国民学校へ一足先に夜間行軍で移動していた二十四師団の衛生隊員達は爆発事件の通報を受けて直ちに現場へ緊急出動したが火災と畑に置かれていた弾薬の誘爆により近寄ることができず遠巻きに待構え、火の中から這い出して来る人々を救助しながら誘爆と火災が鎮まるのを待った。

 間もなく辺りは夕闇に包まれたが誘爆と火災はなお続きその間に多くの人々が焼き尽くされた。数時間後にようやく誘爆と火災が鎮まりかけたので遠巻きに待構えていた隊員たちは夕闇の中を携帯電燈など使い爆発現場に踏み込んだ。

 惨たるかな惨状、火にまみれた命四辺に散乱する。青春のかばね、天は非情を悼むか、戦雲の夕べに悲嘆のうめきは、風声にこだます。二百数十八の人々は手足もばらばらとなり、或いは人の区別もつかない程焼け爛れ散乱していた。隊員達は手探りの状態でまだ息のかかった者は南風原小学校の陸軍病院へ運び既に息絶えた者は東風平の国民学校へ運び安置する作業にかかった。しかし闇の中十分な片付けができず作業は翌日に持ち越された。12日は朝から字神里の男子稼動者も片付作業に動員され木に掛かった遺体や散乱する手足を担架に拾い集める作業を応援した。

 一方、軍の方では直ちに爆発現場へ縄を張り復旧作業と原因調査を始めた。乗込員のタバコの噂あり、機関車から吐き出される石炭の煤煙説あり、一部にはスパイ説もあった。特に軍はスパイの噂に神経をとがらしたが、究明するに到らなかった。与那原署でも事件発生を知りひそかに刑事を廻したが相手は軍であり深く立入ることができずうやむやに終った。体験者の証言と参謀長の注意事項中上司の注意規定を無視したる為惹起せるものなり云々からすれば爆発の原因は煤煙からの引火と考えられるが調査発表がなかったので、結局二百数十人の生命を奪った不祥事件の真相は謎になった。

 

地獄絵図化する陸軍病院

 まだ息のかかった何十人かの被害者は南風原国民学校(現小学校)に設営されていた陸軍病院に収容された。真黒く焼け爛れた者達が運び込まれごった返す中を応急手当が施された。しかし収容された者達の怪我や火傷があまりにもひどく数十人が毎日毎夜の如く水をくれ、殺してくれの叫びとうめきが続き、当てがわれた各教室は地獄絵図の様相を呈した。しかし手当の甲斐もなく収容された殆んどの者達が大きなうめき声を上げながら一、二週間のうちにバタバタと息を引取っていった。比較的火傷の軽い女学生の何人かは家族に引取られ何十日間の日数を要して自家治療をし、ようやく治したのがいた。

 

密かに合同葬儀

 第二十四師団の衛生部隊は沖縄上陸後、美里の国民学校に本部を設営し、師団兵員の病人対策を取る傍ら、同衛生隊に現地入隊した沖縄出身の初年兵達を衛生兵として各中隊に配属する前の隊員教育や研修を行なっていた。

 しかし師団の移動に伴い同衛生隊も12月9日から10日にかけて東風平国民学校(現中学校)へ移動した。そのために東風平国民学校は二十四師団の病院となり、その一方には歩兵第八十九連隊の本部が置かれた。しかし衛生隊は東風平の国民学校に移動して来た二日後に列車爆発事件と遭遇し、息つく間もなく遺体の収容作業に追われた。同衛生隊員からもかなりの犠牲者を出して運び込まれて来たが識別し難い程焼かれあるいはバラバラになって収容されて来た。遺体は密かに火葬され、校内で兵員による合同葬儀が行なわれた。しかしこの葬儀を知る民間人は殆んどいなかった。そのようにして軍の手により可能な限り犠牲者が識別され、骨箱が準備された。女学生は遺族に通知し引取ってもらい、軍人の犠牲者は各中隊に骨箱が送り届けられ密かに事件の後片付が行なわれた。

 

事件の伝播恐れた軍

 事件の発生により軍は緊張し大きく動揺した。12月13日、三十二軍参謀長は直ちに各部隊に対し次のような注意事項を発生した。「山兵団ハ神里付近ニ於テ列車輸送中兵器弾薬ヲ爆発セシメ莫大ナル損耗ヲ来セリ一〇・一〇空襲ニ依リ受ケタル被害ニ比較ニナラザル厖大ナル被害ニシテ国軍創設以来初メテノ不祥事件ナリ、此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナラズ、此レ一二兵団ノ軍紀弛緩ノ証左ニシテ上司ノ注意及規定ヲ無視シタル為惹起セルモノナリ、無蓋軍ニ爆弾ガソリン等ヲ積載スベカラザルコトハ規定ニ明確ニテサレアルトコロニシテ常識ヲ以テ判断スルモ明ラカナリ、輸送セル兵団ハ言フニ及バズ此レガ援助ヲ為セル兵器●兵姑地区隊モ不可ニシテ夫々責任者ハ厳罰ニ処セラルベシ、該事件ノ如キハ署亜罰ノミニテ終ルベキ性質ノモノニ非ズ、戦争ニ勝タンガ為、第一線ニテ不自由ナカラシメンガ為銃後国民ガ爪ニ火ヲ燈すが8如ク総テヲ犠牲ニシテ日夜奮闘シテ生産セルモノニシテ銃後国民ノ赤誠ニヨルモノナリ、作戦上ノ必要ニヨル消耗ハ止ムヲ得ザルモ敵一兵ヲモ殺傷スルコトナク莫大ナル消耗ヲ来セルハ面目ナキ次第ナリ、兵器弾薬燃料ノ分散格納不十分ナリシ為カカル莫大ナル損耗ヲ来セリ各兵団ノ兵器、弾薬ノ他ノ軍需品ノ分散格納モ極メテ不十分ニシテ普天間、宜野湾付近ノ道路ノ両側ニ多量ヲ集積シテアリタルモ艦砲射撃ヲ愛クレバ必ズ爆発燃焼スルハ明瞭ナリ、各部隊、兵器弾薬ハ速カニ掩蔽部ニ格納スベシ人員ノ掩蔽壕ハ遅ルルモ兵器弾薬速カニ掩蔽部ニ格納スルヲ要ス。戦ハ大和魂ノミニテ勝チ得ルモノニ非ズ兵器弾薬ハ戦勝上欠クベカラザルモノナルハ言ヲ俟ズ、軍ハ該被害ニヨリ戦カノ半数以上ヲ減ジ如何ニシテ之ガ前後策ヲ講ズルカニ腐心シアリテ軍ノ戦闘方針ヲ一変セザルベカラザル状況ニ立到レリ、今敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状ニシテ今後弾薬等ノ補給ハ至難事ナラン、将来兵団ニ交付シアル兵器弾薬、其ノ他ノ軍需品ヲ焼失爆発等セシメタル際ハ軍ニ於テ補給セズ、其ノ余力ナシ兵器、弾薬等国情ヨリ見ルモ豊富ナラズ各隊ハ極力兵器ノ愛護、弾薬ノ節用ニ勉メ仮初ニモ過失ニヨリ戦力ヲ失セザル如ク注意セラレ度、軍司令官ノ心痛ヲ見ルニ忍ビズ其ノ意図ヲ体シ各部隊ニ一言注意ス」(昭和19年12月14日付、石兵団会報94号より)

 

もの言えば口唇寒し

 このようにして軍司令部は国軍創設以来、初めての不祥事件であり武器弾薬の厖大な損害のため当軍(二十四師団)の戦力が半減したとして直ちに軍内部の各部隊へ注意を喚起したが外部の民間人に対してはできるだけ、事件の内容が伝播しないように秘密処理された。軍としては決戦を控え民心の動揺を恐れあるいは敵に対して情報のもれを憂慮したに違いない。それにしてもあまりの残酷なできごとであり処理であった。

 不吉な事件に遭遇し娘を失った遺族は気も狂わんばかりに衝撃を受けたが当時軍にもの言える状況でなくただは泣き寝入りするだけであった。敵を殺すために日本の工場で生産された弾薬は容赦なく同胞の人間を吹き飛ばし肉を引き裂き、焼き尽くした惨劇であった。沖縄戦は米軍上陸以前から悲惨な事件や事故によって犠牲者が続出していたがヤミからヤミへ葬り去られていた。

 

 これまでに判明した被害状況

軍人    死亡   二百十人前後

女学生   死亡   八人

生存   二人

県鉄職員  死亡   三人

      生存   一人

 

武器弾薬  貨車6輌分   喪失

ガソリン  貨車1輌分   喪失

医薬品   貨車1輌分   喪失

 

畑に積まれた弾薬 数千トン喪失

 

証言 Ⅰ

沖縄県営鉄道二十四年間

 私は那覇に生れ大正中期青年の頃、大阪商船の貨物船名瀬丸や桜木丸、京都丸などに乗り込み船員としての生活を送っていた。

 しかし、二十五才で結婚したので船に乗るのを止め1921年(大正10年)3月28日から県営鉄道の車輌夫として働くことになった。日給五十銭であったがそれで夫婦生活はなんとか間に合っていた。二年に十銭づつ上り昭和2年4月1日から日給八十銭となった。それから二年後の昭和4年4月1日から機関助手となり更に二年後の昭和6年6月30日沖縄県鉄道管理所雇いとなる。

 それまで無我夢中に頑張って来たが振り返ってみると日給で働くこと十年間である。十年一昔頑張って来たのだ。我ながらにして感慨深い。しかし運送業務に従事する者は決して油断できない仕事である。

 

晴れて機関手に

 機関助手として世年間働いた後昭和8年4月1日から機関手(列車運転手)として採用され月棒三十円支給された。当時は昭和恐慌で金融逼迫の時代であり三十円の棒給取りはどこからでも肩を張って歩けた。しかしその替り何百人の命を一度に預る責任は重大であった。昭和13年4月1日に沖縄県鉄道技手の免許が与えられ月棒四十円が支給された。昭和12、13年といえば支那大陸では日華戦争が始まりいよいよ本格的な戦争へ発展して日本は泥沼の戦時体制へ追い込まれる頃であり、我が沖縄からもそれ以後多くの青年達が兵隊に送られて行った。農村からの出征兵士は列車を利用して那覇へ集められていた。出征兵士が出る時は駅に多くの学生や青年達が集められ次の歌を歌いながら日の丸の小旗を振って見送っていた。

 

  勝ってくるぞと勇ましく

  誓って国を出たからは

  手柄立てずに死なれよか

  進軍ラッパ聞くたびに

  まぶたに浮かぶ旗の波

         (露営の歌)

 

 私達もその見送りを背に列車を運転することしばしばであった。

 沖縄県営鉄道は1914年(大正3年)に那覇与那原間開通、私が日給で県鉄へ入って間もない頃大正11年に那覇嘉手納開通、1923年(大正12年)に那覇糸満間の三路線が開通した。鉄軌道の開通は沖縄に交通革命をもたらし経済復興や産業活動に大きく貢献していた。

 農村から農産物を那覇に那覇から農村へ輸入物資が運ばれ、高嶺製糖工場ができてからは砂糖キビも運搬し、その製品は輸出物資として那覇へ運ばれた。のどかな沿線に汽笛を鳴らして走った軽便列車は多くの人々に親しまれ利用されていた。

 

武器弾薬輸送列車へ

 昭和16年から日米開戦となり我が沖縄も戦時体制の慌しい世相に進みつつあったが、まだ沖縄には平和が在った。しかし昭和19年に入ると日本軍が大挙那覇に上陸して来た為軍需物資の運搬が増加した。

 夏頃になると通堂町に置かれていた後方部隊の球兵站本部から停車場指令が派遣され那覇駅に指令部が設置され運送係が何人か常駐し軍需品の運搬手配をしていた。

 軍需品の運送も日を追って増加していたが、十・十空襲によって那覇駅も焼き払われた。しかし列車とその路線は残されたので運送業務はそのまま続行された。十・十空襲以後はますます軍需物資の運搬が増加し軍事優先となり民間人の利用が非常に少なくなっていた。そのために毎日朝から各部隊の武器弾薬その他軍事貨物、兵員の輸送に追い立てられていた。そのような慌しい中を敵の偵察機が度々飛来し騒然となり戦時体制一色に包まれていた。

 

輸送列車大爆発

 1944年(昭和19年)12月11日も朝から緊急輸送命令を受けて武器弾薬それに兵員の輸送に当っていた。最終便で高嶺駅を目差して進行中稲峯駅附近に指しかかった際、突如列車が大音響と共に大爆発を起し、列車は火に包まれ運転不能となった。同乗者の機関助手一人と車掌二人はその場で不明となり、兵員も多数爆死した。

 私は直ちにブレーキをかけたが数秒間のうちに強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み頭部、両手、両足に火傷を受け更に両耳に爆風が吹き込みそれ以来、耳に不調をきたした。私は火の列車より脱出し近くの稲嶺駅に駆け込み本部に電話連絡しようとしたが電話線が切れ普通となっていた。更に東風平駅まで走ったが同様に不通であった。

私は茫然となり県道を那覇へ向って進んだ。奇跡的にも私は生き残っている。どうして助かったのか私自身よくわからない。

 その内火傷が痛み出したがようやく山川駅に辿り着いて休んでいると県内務局の職員が車をもって来た。爆発現場には行けないということでそこから引返したが私はその車で那覇駅へ行き、報告をしてから泉崎の官舎宅へ帰った。

 翌日から二高女裏に在った軍病院に通い火傷の治療に当った。火傷の痛みが出て苦しくなったニ、三日後、軍の憲兵が自宅に来てその時の状況や原因について取調べを受けた。一週間くらい後で県鉄側から早く職場復帰するよう通知が来たが最早、私には精神的にも肉体的にも働く力が無く火傷の治療が精一杯であった。県鉄三十四年間の生活は私の半生であったが日本軍の弾薬を運んだ為にその火で焼き出され県鉄最後の日となった。

 数百人が飛び散り焼き尽くされる修羅場の中からようやく這い出し、生きのびて来たがその時の火傷の後遺症と耳の不調は私の一生につきまとう。数百人の人間が日本軍の弾薬によって畑に散り、虫けらのように死に絶えて行った事実は殆んどの人が知らない。

 沖縄での戦争は米軍との決戦以前から一般住民に対して犠牲をしいたげるだけであった。罪の無い多くの国民を大量に殺して行くのが戦争の実態である。あの時の恐ろしい悪夢の思い出は八十才過ぎた今日でも脳裏に焼きついて離れない。

元沖縄県鉄機関手 当時四十八才

 

証言Ⅱ

火あぶりの青春

 昭和17年といえば日米開戦の翌年で日本は全土に戦時体制が敷かれ慌しくなる年であった。沖縄も戦時体制であったがまだ平穏な庶民生活の面も残されていた。しかし次第に体制の影響を受けて庶民生活は苦しくなり、物資不足で金はあっても買う者が極度に不足する状況にあった。かしし農民ではあるもので間に合せて生活は成り立っていた。そのような時期に私は●元寺町に在った昭和女学校に席をおくことができ通学することになった。幸い村の近くから糸満線の列車が通っていたので時間さえ問い合せば不自由なく那覇へ通学できた。毎日列車に乗る生活となり周辺市町村からも次第に通学生が増えていた。

 昭和18年に入ると防空演習や竹槍訓練が盛んになり戦時体制は一段と進んでいた。7月に東条首相が沖縄に立ち寄った時は学生全員が動員され那覇の沿道で小旗を持って出迎えさせられた。沖縄もいよいよ戦時体制一色の感となり社会情勢は急激に変化し、ますます不安の方向へ流れていった。標準語運動から皇民化運動、更には戦時体制へと庶民にとっては重苦しい社会であった。

 昭和19年に入ると守備軍が大挙上陸して来て中南部の山や丘、海岸などに地下壕やたこ壷が次々と築かれ、あらゆる公共建物が軍専用となり、農村の民家まで軍人が入り込んで来た。私の家は慰安所になるとのことで家族は他に引越さざると得なくなっていた。その頃から軽便列車も軍需物資の運搬専用として客車から貨車になっていた。そのために民間人の使用ができなくなっていたが女学生の通学は黙認のかたちでなんとか続けることができた。

 

十・十空襲

 ある朝いつもの通り学校へ行くため列車に乗り一息ついていると頃高射砲の音が聞えていた。そのうち列車は国場駅まで進んでいたがそこから前進しなくなった。何のことかと思っているうちに那覇は空襲があるのでそれ以上列車は運行できないので全員降りて自宅に帰るよう指示された。列車から降りて暫くすると戦闘機が飛んでおりポンポンしている音が聞えて来た。次第に空襲は本物であることがわかり急いで自宅へ逃げ帰った。

 地方でも皆ビックリして不安そうに空を眺め音のする那覇の方向を仰いでいた。その時初めて米軍の沖縄上陸を予想し深刻に受け止めるようになっていた。私達の学校は市内に在ったが直接の被害は受けず以前と同じように学校へ通うことができた。しかし街は焼野原となり瓦礫の山となっていた。

 それ以後地方でも避難壕堀が盛んとなり、私達もモンペイ姿で学校へ行くようになっていた。十・十空襲以後は軍民騒然となり米軍上陸の不安は充満し県外疎開などでますます慌しい日々となっていた。

 

火の海から這い出す

 12月の初旬は朝夕肌寒くなっていた。11日月曜日は晴れ時々曇りで普段と変らず学校へ行き帰りは那覇駅で友人四、五人と一緒に貨車へ乗った。一輌目の有蓋列車は軍用の医薬品が積まれて中に入れず私達三、四人は有蓋貨車の外側に立ち乗りした。古波蔵駅に着くと兵隊が一杯乗っている貨車六輌くらいにつながれゆっくりと糸満に向けて発車した。喜屋武駅をすぎると登板を上って字神里附近を通過する頃列車は速度が落ち次の瞬間前方で火を見たとたん非常に危険を感じ直ぐ飛び降りたけれども既に火の海になっていた。その中を走り抜けたような気がする。しかしその時には気が動転して記憶もさだかではないが逃げ出した時には髪の毛と着物に火がついていた。たまたまそこに小川が在ったので飛び込んで火を消したが気が遠くなるような気がして座り込んでいた。そこへ遠巻きにしていた兵隊が走って来て肩を貸してもらい附近の農家に案内された。暫くしてからトラックで南風原小学校の陸軍病院へ運ばれた。

 

生地獄陸軍病院

 運び込まれた陸軍病院には何十人もの人々が黒焦になった者、全身皮がむけた者達が床の上でうめき声を上げ殺してくれと叫びながらのたうち回っていた。私は一週間程そこで火傷の治療をしていたがその間に殆んどの者達がバタバタと死んでいった。

 そのうち母親が連れに来たので家へ帰り自宅治療をしたが二ヶ月間痛さで苦しみぬいた。運よく私は生きのびたがいつも列車で通学していたあの人達は火の中に消え、あたら少女の身を失ってしまった。二度と甦ることのない彼女達は今人々の記憶からも忘れ去られようとしていた。哀れなあの姿を何時も切なく私は想い出す。三十余年が過ぎた今日ではその鉄軌道も形を変えて農道となり作物と草木は何気なく辺を静め、昔の惨状を偲ばせる跡形はもう何もない。時の流れがかくもはかなく何ごともなかったように形を変えてしなうものかと思い知らされるだけである。

当時学生

昭和女学校三年生

 

証言Ⅲ

衛生研修隊初年兵

 私は昭和19年10月15日「十・十空襲」直後沖縄全体が恐怖におびえる状況下で恩納村山田国民学校において現地入隊の山部隊初年兵となった。入隊後中隊付衛生兵に編入され美里の国民学校で衛生兵の研修を受けていた。「十・十空襲」直後米軍上陸の噂が流れる中でありどういうことになるかという不安は持っていたが色々と考える余裕はなかった。12月上旬、私達の研修隊は本当中部の美里村から島尻へ移動があり、夜間行軍で東風平国民学校へ辿り着いた。東風平国民学校へ着いて翌日は夕方南風原村で弾薬輸送中の列車爆発があり、東風平国民学校に駐屯していた部隊は通報を受けると直ちに現場へ緊急出動となった。しかし現場は大火災が発生し畑に積まれていた弾薬に誘爆を起しいきなり近よることができず誘爆の鎮まるのを待った。救助作業は夕闇に包まれた為、その日の内にできず翌日までかかった。現場は焼死体が散乱し目を追うばかりであった。既に息絶えた者は東風平国民学校へ運ばれたが私達の部隊からもかなり犠牲者が出て別室に安置されたが識別しがたい程焼けただれていた。安置後の処理については直接タッチしてないので詳しいことについてはしならいが東風平の国民学校は山部隊の衛生隊本部となっていたので事故処理はそこでなされたのではないかと思われる。私は東風平国民学校で研修を了えた後歩兵第三十二連隊の第十一令鉾田中隊付衛生兵として糸満市名城に配置され二十年の決戦を向えたが戦争の惨事は到るところ発生していた。

元現地入隊一等兵、当時二十歳

 

沖縄県営鉄道

 明治末期から大正の初めにかけて県内主要道路の開通や改修が相次ぎようやく人や物の交流が盛んになった。民謡の県道節が生れたのもこの頃である。しかし遠隔地間の大量輸送手段は全くないため主要道路の開通や改修だけでは県民の需要と満たすことはできなかった。県内におけるそれまでの上陸交通機関といえば貨物運搬に荷馬車、少量で軽い物は人の肩、人員輸送は首里那覇を中心とする人力車、自転車等が主であった。しかし金のない者や農村からの往来は専ら足に頼る以外になかった。第一次世界大戦の影響もあって経済のブームが訪れ地方と那覇の経済交流は年々増加する一方であり、砂糖産業の勃興などによっていよいよ大量輸送手段の必要性は高まっていた。

 

県営鉄道敷設

 鉄道敷設については最初沖縄鉄道株式会社の企画があったがお流れとなり明治44年の県会において県営鉄道を敷設する県議が採択され、それを県当局が受け入れて政府に敷設許可申請を出していた。大正2年に県営鉄道敷設の許可が降り直ちに建設取組を始めた。建設費については県債を起し日本赤十字社から利息付で借入れることになり三十万円の資金で那覇与那原間の敷設工事にかかった。東京に遅れること四十ニ年にして1914年(大正3年)に沖縄で初めて県営鉄道が那覇与那原間に開通した。色々な経緯を経て次に大正11年に那覇嘉手納間、翌年の12年に糸満線が開通し鉄軌道延べ約48キロの沿線が実現した。建設費も三路線が竣工するまでには二百万円以上の負債となっていた。

 那覇駅構内に鉄道管理所が置かれ独立会計の事業体として二百人前後の職員が配置され運営されたが形式上赤字経営となっていたので毎年鉄道省の事務監査を受けて地方鉄道法に基づく国庫補助を受けていた。

 県営鉄道の開通は期待通りの多くの県民に便益をもたらし僅かの金で地方と那覇の往来が可能となり人々に活気を与えると同時に製糖業を始めとする県下の産業発展に重要な役割を果たすことになった。以前の交通機関に比べ県営鉄道の開通は一台飛躍であり、県内上陸交通の一大革命であった。昭和11年の末には東風平駅から具志頭村を経て玉城村、大里村の稲峯駅を結ぶ県鉄バスが一本加えられた。又県内交通にはき業交通機関として那覇糸満間に昭和バス、那覇名護間に新垣バス、与那原泡瀬間に安田バス、宮城バス、与那原佐敷間に安田バス、宮城バスが通り本島内は県営鉄道を軸とする交通網が一応できていた。

 

軍事利用始まる

 昭和16年の夏頃になると中城湾要塞指令部築城のため弓削部隊(隊長弓削保大佐)の設営隊が与那原に駐留するようになりそのために軍の資材、食糧等の運搬に利用されるようになった。しかしまだ昭和16年当時までは軍といっても僅かであり県民の足としてのどかな沿線にフィ、フィ、フィーの汽笛を鳴らし通勤通学、商用雑用に利用され親しまれていた。

 昭和19年3月頃から球部隊の兵站本部が通堂町に置かれ、そこから停車場指令が那覇駅に派遣され本格的な軍事物資の補給機関として利用されるようになった。更に7月頃から武部隊の停車場指令が鉄道管理所長室に置かれ軍事品輸送が優先されるようになった。

 10月10日の大空襲によって鉄道管理所と那覇駅の建物は焼き払われたが列車、レール等の施設は残されたので空襲以後も列車の運行は続いたが軍事利用は次第に拡大し軍専用列車同様となり民間人の利用は困難になっていた。12月に入り山部隊の移動になってからは兵員や資材運搬、弾薬輸送などに使用され19年12月上旬弾薬輸送中南風原村で爆発事件に遭い破壊したが線路の破壊は突貫工事で復旧し残された他の列車を使い軍事輸送列車として運行していたが民間人の利用は全く途絶え実質的に糸満線はその時機能を失っていた。県民の負債で敷設され県民の足として三十二年間働いて来た県営鉄道は昭和19年3月から日本の大軍配備により戦争の準備用具として使用され昭和20年3月まで運行を続け4月の米軍上陸によって完全破壊され喪失する運命を辿った。那覇駅跡は現在バスセンターになっており、線路跡も農道になったり、つぶされたりしてその跡形を失い今となっては関係者の記憶と部分的な写真のみとなった。

 

駅 長 

助 役 

 

(県経済部土木課)

(沖縄県鉄道管理所)

独立会計職員約二百人

   |

「庶務課」「運輸課」「会計課」「車輌課」「公務課」

  |    |     |    |     |

 人事   各駅   収支   機関庫 建設、路線

       |          | 

      駅長        機関手   

      助役        機関助手

      車掌        車輌夫

      出札係

      貨物係

      転徹手

      駅手

      掃除婦

 

参考資料

防衛庁戦史室沖縄戦史料

沖縄県援護課 戦没者台帳

参考文献

戦史業書 沖縄方面陸軍作戦

沖縄戦記 霞城●隊の最後

歩兵第八十九聯隊史 破竹


沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)

(※掲載者注)

・本稿は「読み物」というよりもK氏の「メモ」の書き起こしである。

・個人情報は削除あるいは伏字とした(読みやすさを考慮した結果、削除と伏字が混在している)。

・以上のことから、決して「読みやすい読み物」ではないのでご注意を。

・公の文書としては「不適切」な言葉遣いがあるかも知れないが、できるだけ原型のままの文章を掲載している。

 

軽便鉄道糸満線

爆発事故調査資料

 

53.12.28日

面接 76才

沖縄自動車学校の第1期生

 

県営鉄道は大正13年に開通

事故があったのは那覇の十・十空襲の日の午後3~4時

機関車の火が貨車のガソリンに引火した。7、8輌のうち2、3輌の貨車が吹き飛び機関車はその後も使用された。

後方の2、3輌は後に押し戻されて、津嘉山あたりまで押し流された。(燃えながら)

現場は人間の肉がちらばり、火災が発生し周囲のキビ畑を焼き、民家3棟を焼き、更に周辺に置かれた日本軍の弾薬が置かれ、それに引する。

翌日神里の部落民が後かたづけをした。空襲みたいに騒然となる。しかし死亡人員不明

東風平村、字屋宜原、東風平あたりの学生ではなかったのかとのこと、当時は軍統制で被害人員不明、自爆だろうとのこと、生存者不明。

 

53.12.28日

私は爆発時にはびっくりして出産間もない時であったが字山川へ逃げ3、4日くらい居た。

夫は当時区長であったが2、3年前亡くなった。ほとんど外に出なかったので詳しくは知らないが誰かが爆破したのではないかという噂もあった。爆発は午後であった。

 

53.12.30日

(当時13才)(夫妻)

(母親は畑にいた)

十・十空襲以前の3ヶ月くらい前のことであった。村の遊び場で爆発を見た。あわてふためき逃げ出した。

現場はしばらく軍が管理し立入禁止がしかれて一般の人々には知らされなかった。列車にはたくさんの人が乗っていた。

 

(兵隊、学生)

当時の学生

爆発は午後3、4時頃であった。

附近は人間が散らばっていた。死亡人員不明、何十人も死んだかも知らない。

戦後供養しに来る人もあった。爆発の原因は機関車の煙とつがらの引火と聞いた。

 

54.1.2 夫妻

爆発は十・十空襲以前であった。

屋宜原のモーの上で見た。原因は機関車からの引火と聞いた。大里村湧稲国に犠牲者が居たと聞く、

 

54.1.12

昭和19年の10月下旬か11月の上旬と覚えている。

私はニ中生であった。私が乗りはずした汽車が爆発した。十・十空襲以後も汽車は通っていた。東風平村に■■という人、当時ニ中2年生男子の犠牲者が居たと聞く、当時の新聞にも記事が出ていた。

?うるま新報、字富盛の■■■■、■■■■■も知っているのではないかと思う。

軍事教練によって敵と戦う気持ちであった。(正常でない)今日とは気の持ち方が違いよった。

 

54.1.12 労商総務課

犠牲者が居たと聞く。

当時一高女2年生

私は疎開していたために詳しく知らないが同窓生で詳しく知っている人が居る。

 

54.1.22

当時一高女2年

爆発は昭和19年11月初め頃に間違いない。

午後3時頃

当時既に那覇は焼かれ殆んどの人々が地方に下っていた。私達もその例で私は糸満に叔父が居たので糸満から1日置きに学校(一高女)へ通い、1日置きは■■■■■■の壕堀の手伝のため通っていた。

その日も■■■■■■■■■■も一緒で彼女達は一足先に汽車で帰った為事故に会った。その直後事故現場に走って行ったが何もかも吹き飛んで残ったものはなかった。

 

母親は戦後も生存していた

同期生生存者

 

54.2.6

それは昭和19年12月11日午後4時30分であった。

■■■■■とあと一人と3人で同年生■■もいた。

生存者

私もノイローゼ気味で明確には覚えてないが親戚の人につれられて東風平の学校だったと思うが■■の白木を取りに行った。十数人の中から■■のだけ持ち帰った、事故の数日後の或る日だったと思う。事故によって娘が奪われたことはまちがいない。■■に尋ねればもっと詳しく解るかも知れない。

 

54.2.8

爆発は■■さんの母が言っている通りだと思う。同年だがクラスが違うため、私はその日休みで自宅に居た。母親と一緒に葬儀に行った覚えがある。■■の腕は拾って来たと母は言っていた。それは弁当函とフロ式で解ったとのことである。

 

54.2.15

遺族なし、隣の人より聞く

間違いなくその時の犠牲者である。葬儀もやったはず

姉妹も一人■■■■が居るが■■。

 

54.2.16

母親より聴取

南風原の病院に収容されていた。

病院が満員で長くおれなくて家へ帰された。

帰宅して50日は自分で食事できなかった。

汽車には多数の衛生兵も乗っていたと聞く、■■。

 

54.2.17

その時3年生で昭和4年生16才であった。

昭和19年の末であったと思う

もう一人の生存者は■■■■である

 

沖縄出身の初年衛生兵が60人研修からの帰り乗っていたが全員死亡したと聞く

その時は汽車は一輌目がガソリン、二輌目は医療薬品が積み込まれ三輌目から後7台は貨車がつながれ弾薬が積み込まれて、その上に兵隊がたくさん(沢山)乗り込んでいた。

 

私達友人5人は二輌目の医薬品の間あるいはその外側にぶら下がるように乗り込んでいた。

 

一番後の貨車にも女学生が6、7人くらい乗り込んでいたと見受けたが、私は那覇駅から乗ったが既にガソリンと弾薬が積み込まれていた。兵隊のほとんどと後の貨車に乗った学生は古波蔵駅から乗りよった。神里あたり行くと汽車は止まるような状態になり、その瞬間パーと火が広がり、その瞬間私達4、5人(ぶら下がるように乗った者)は飛び降りて転がり、汽車の進む反対方向へ逃げ出した。

 

気がつくのと着けた着物と髪の毛に火が着いていた。夢中になって火を消しながらどんどん畑に逃げた。そのうちに兵隊につかまり着いた火も消され、■■の一軒屋に連れていかれ更に1時間くらい後で南風原小学校に運ばれていた。南風原小学校は臨時の野戦病院みたいになり、真黒く焼けた人、半身焼けた人、負傷者でごった返していた。

 

1週間くらい南風原小学校で手当をうけたがその間に母が来たし、■■で医者をやっていた■■も見えたし、その時の車掌の親も見えた。ほとんどの人が焼かれているので2、3日後からどんどん死んでいくみたいだった。

1週間後には家へ返され、自家手当であった。

 

友人の状況

■■■■ 生存

■■■■ 戦後病死

■■■■ その場で死亡

■■■■ その場で死亡

■■■■ その場は生存したが戦争で死亡

 

聞いた話だが飛び散人体の肉は拾い集めたら担架の13杯分あったとか

 

その当時から作業や学校には防空頭巾をかぶり、救急袋を持っていた。学校にもモンペイと学生の上衣くらいであった。

 

那覇駅は既に建物は焼き払われてなかったがホームは在り、汽車も通っていたので通学に利用していた、その日も私を含めて4、5人那覇駅で乗り込んだ。弾薬は既に積み込まれていた。

 

古波蔵駅に着くと60人くらいの初年兵と女学生(2高女)5、6人、それに山兵団百ニ、三十人が乗り込んだ。

津嘉山駅あたりでも女学生(1高女)2、3人作業帰りに乗り込んだ。

私は十・十空襲の時も学校へと汽車を乗っていたが那覇市が空襲であることを知り、汽車は国場辺りで止まった。そのため歩いて帰宅した。

その時の爆発は中部からだったと思う。

前の方から爆発していたらおそらく私達2人も生きてなかったと思う。

 

■■

 

■■は昭和4年生でその時2高女4年生、

その時は帰りが非常に遅いので歩いて捜した、すると南風原小学校の野戦病院に火傷して入っていた。その晩はそのまま泊めて翌日馬車を捜して連れ帰った、自宅で手当をした。その後戦争直前になってから最終便の船で大分県へ疎開させた。

 

54.2.22(木)■■

爆発があったのは昭和19年12月11日であった。その日は知事官舎で授業があり、古波蔵駅で乗り込み帰るところであった。

(校舎が十・十空襲で焼けた為)知事官舎で授業、南風原小学校の野戦病院で聞いたことだが兵隊は山部隊の2中隊だったとのこと、2輌目に女学生4、5人と兵隊7、8人が乗り込んでいた。私は医薬品の積み込まれている上に座っていた。事故の時は振り落とされるように溝に落ち、私の上に2、3人負いかぶさって来た。腕に火が着いていたので汽車の進む反対方に逃げた。そのうちに近くに来ていた兵隊につかまり、一軒家に行き間もなく南風原小の病院へトラックで運ばれて行った。

 

南風原小学校の病院では30人くらい見た。同病院には生きている人だけ運ばれ、その場で死んだ者は東風平の学校に運ばれたと聞いた。

 

同病院でもその晩に4、5人焼けただれた兵隊が死んでいった。苦しんでいた、その時の汽車に10人くらいは学生だったと思う、その時の事故で生き残った者は殆んどなくて結局私と良子と2人くらいじゃないかと思われる。他に生存者が居たと聞いた覚えはない。

 

乗込員兵隊2個小隊(1個小隊は60人)女学生10数人

 

54.3.6(火)(晴れ)

夕方、5時頃から糸■■、■■、3人で爆発地点踏査を行なう、一軒家確認喜屋武益駅確認

 

54.3.15 ■■(当時鉄道管理所勤務)

爆発は十・十空襲以後であった。十・十空襲以後は壕の中で事務処理をした

当時は軍が独占使用していたので爆発の原因など調査してない、従って被害状況も知らない。

 

54.3.18■■(73才)

中部から南部へ移動があったと聞く、嘉手納線の無蓋車(貨車)を古波蔵駅で継ぎ替えて糸満線に引かしたのだと思う、その時■■さん(車掌)が亡くなったと聞く。

 

十・十空襲以後は軍の勝手であり、私も直接見てないのでそれ以上知る余地はない。県鉄で手に負える状態ではなかった。

 

原因も機関車からの火花と聞くが人命の被害についても全く知らない。与那原に昭和16年から築城部隊が来たことはよく知っている。

 

54.3.18■■(当時■■勤務76才)

爆発事故があり人命の被害もあったと聞くが詳しいことは知らない。学生と兵隊だったと聞く。

当時■■駅長の■■紹介す

 

54.3.18■■(当時■■駅長) 

私は十・十空襲の時、■■と共に那覇駅に居た。その後11月頃大分県へ疎開す。家族と共に沖縄に帰って来てから事故があったことを聞く。

 

十・十空襲、疎開以前には軍の弾薬輸送も当ったことはあったが全く軍の勝手であった。

生存者が居たらその人達の証言が正しいのではないかと思う。その後機関車がどこに行ったのか私も考えたことがあるが不思議にも知らない。

八重山産の石炭を燃料に使っていたので機関車の煙突から火花が散るのは当然考えられる。しかし原因については調査もされてないし関係者もほとんど死んで居ないので究明不可能と思う。人命の被害についても詳しく知らない。

 

1931(昭和6年)満州事変

平和の状態、別に不安はなし、方言札は大正の頃からあった。

 

1937(昭和12年)日華事変 2.2.6事変

平和の状態、農村ではそれ程影響はなし、不安はそれ程なし。

1938(昭和13年)国家総動員法公布

廃娼運動起る、遊郭通い自粛せよとの時代。

不安及びその他の動きはなし。生活への影響なし。建築資材については許可性となる、特に釘。

 

1939(昭和14年)物価統制命下におかれる

 

1940(昭和15年)日独伊3国同盟締結 大政翼賛会結成

皇民化運動が一段と県民生活の上に圧迫感を与えてきた時代である。

不安あり、生活物資は不自由が出始めた。特にガソリンは許可性となる。

あかがりがあった、特に教員

(日米間の緊張が極度に高まり世情も騒然となる)

「標準語運動」が拡大され沖縄方言撲滅運動に発展する。(方言論争白熱化す)

一般農村にもかなり不安と圧迫あり

柳宗悦ら同人26人「民芸協会」の一行は沖縄を訪れ、「標準語も沖縄語も日本の国語として共に尊重せられるべきである」と主張した。それに対して県当局は「沖縄は他府県と事情が異なるから同一に扱うことはできぬ」と反論、同化政策をじゃましては困るという態度をとった。これは沖縄にとって屈辱的な文化的自殺行為の強要であり、やがて「本土防衛」のために強要され引継がれる。標準語運動は農村でもあった。教員の監視きびしくなる。

 

1941(昭和16年)12月8日 英米へ宣戦布告 太平洋戦争始まる

真珠湾攻撃を知って喜んでいた状態である。

 

1943(昭和18年)特高警察の監視強まる

農村ではなし、目立つ動きはなし、しかし政治家に対しては監視強まる。民家でも慰安女が配置されていた。

戦局が著しく不利になってくる。

 

2月ガダルカナル島に転進、4月山本五十六戦死

 

5月アッシ島玉砕、そのために沖縄を軍事的に再認識し総理大臣東条英機が南方視察の帰途7月立ち寄る

 

昭和19年南方の戦局が不利になってきたので敵を迎え撃つための諸準備があわただしく進められるようになった。

 

1944(昭和19年)7月6日 サイパン陥落

沖縄から老人、幼児、婦女子、10万人島外へ引上げを政府から命令(疎開)

男子は病人、不具者60才以上16才未満とのこと(足手まといになるので退去させ、沖縄を要塞化するための強行措置であった。)

 

沖縄守備軍の沖縄本島集結は19年3月から20年2月の1年間に約10万に達した。

軍官民の昼夜兼行の工事、本島中南部の山や丘、海岸を掘り、地下壕、砲座、銃眼、たこ壷、特攻基地が次々と築かれ、そしてあらゆる建物は軍用に徴用された。

 

1944(昭和19年8月22日) 学童疎開船対馬丸7000トン撃沈さる

学童766人、疎開者を含めて1484人が悪石島近くの夜の海底に沈んだ、そのうち生存者は全部で177名(遺族会資料)

 

1944(昭和19年10月10日) 那覇市の大空襲

人口6万人の町は一日のうちに焼け野原となり市民はすべてを失った。

農村でも不安がつのる。

戦争前夜の異常性

 

1945(昭和20年) 3月上旬までには九州や台湾に8万人以上が引上げた

地獄絵図さながらの沖縄南部、壕を求めてあてどもなくさまよい歩く、砲煙弾雨の中を逃げ回る。

物凄い硝煙と地響きに魂消してしまう。

 

1945(昭和20年6月23日) 牛島軍司令官の割腹

自決によって沖縄戦は終結した。3ヶ月の戦いで沖縄県は壕滅した。学徒隊も男女合わせて980人が戦死。

 

未曽有の戦争犯罪

日本国民は悲痛な戦争体験を決して忘れてはならないし、水に流してはいけない。重要なことは戦犯追求をたな上げにして政治の反動化と軍国主義の復活を阻止することである。

 

54.3.28 ■■(当時機関助手)52才

私は爆発があったときは与那原に居た。

住宅は官舎

爆発した列車の機関手は■■

翌日は県鉄の職員同士で現場に調査に出かけた。現場には職員の持物など一切なく線路、枕木も吹き飛んでいた。(その後復旧して列車は再び運行していた)

その場で機関助手の■■は不明。機関手の■■は火傷はしたが生存。古波蔵駅長は■■

200人以上乗っていたと思う。

 

津嘉山に流されていた貨車には■■の定期乗車券が落ちていた。爆発現場は軍が縄張してあったが私達は調査のため入った。

 

54.3.28 ■■ 83才

爆発列車の機関手

(隠居で耳が多少遠くなっているが昼間なら何時でも会って話しが出来る)

 

私は昭和19年12月11日午前10時30分那覇駅発高嶺駅までの目的で軍事物資及び兵員の緊急輸送の為列車を運転、進行中稲嶺駅附近に差しかかった際突如列車に大音響と共に大爆発が発生し、列車は火に包まれ運転不能となった。同乗者の機関助手■■はその場で行方不明となり、兵員も多数爆死した。私は直ちにブレーキをかけたが数秒間の内に強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み頭部、両手、両足に火傷を受けまた両耳は爆風で不調となった。

私は火の列車より脱出し近くの稲嶺駅に駆込み本部に電話連絡しようとしたが電話線が切れていて不能であった、そのため東風平駅まで行ったが同様不能であった。その後那覇の自宅へ帰り、那覇市若狭町に在った軍病院で火傷の治療を受けた。私はあの時奇跡的にも助かった、九死に一生を得たが今では精神的にも肉体的も苦痛の毎日を送っている。

あの頃は那覇駅は軍の物資集積所であった。機関車は11号、(那覇駅は十・十空襲の後も残っていた。焼けなかった。■■)

乗車兵員は300人くらい、貨車6、7輌 

爆発原因は知らない。煙突から石炭の火花は出よった。

 

米軍(敵)を殺すために日本の工場で生産された武器と弾薬で同胞の人間が吹き飛び、肉が引き裂かれ、血を吹き出し、焼かれて死ぬのはまるで屠殺である。

 

54.3.31 ■■(71才)

私は十・十空襲以前から20年の3月まで那覇駅を見ていた、列車の爆発は午後4時頃だったと思うが那覇駅から機関車を出して現場に向ったが山川あたりから先へ進むことができず引き返した。

弾薬は那覇港で積み、那覇駅を経由して行ったと思う、爆発した列車には■■さんと、機関助手の■■に車掌2人、■■4人であったが■■さん一人が奇跡的に生き残った。

当時の貨車には一輌につき25人くらい乗れよった。

那覇駅は十・十空襲に焼かれ、貨物取扱い所だけが残っていた。それも軍が使っていた。

 

54.4.17 ■■ 71才

(電話による聞取調査)

私は爆発のあった日は■■駅に勤めていた。

何かと連絡があるかと思いそのまま東風平駅に滞在して居た。時間は午後の4、5時だったと思う。その汽車に乗って居た機関助手と車掌は死んだと聞くが人身の被害については知らない。その後の汽車は通らなくなっていた。

 

爆発の原因については他人の話しによるとタバコの火、又は煤煙ではなかったか?と聞くが確かなことは知らない。

機関手の屋嘉比さんが東風平駅に来ていたかどうかについても良く覚えていない。

当時稲嶺駅の■■は東京へ行ったが死亡したと聞く。

私は20年の2月に■■へ避難(家族と共に)したので助かった。

 

54.4.19 ■■ (当時機関助手 18才)

私達が乗った列車はその時上り列車で爆発した列車と国場駅で擦れ違い那覇駅に到着した時爆発音がした。その為何人かで那覇駅から機関車を出し爆発現場へ向ったが喜屋武駅から先へは機関銃や小銃弾の爆発によって進むことができず引き返した。焼けた貨車が津嘉山辺りに在るのを見たがその貨車には軍の毛布や衣類が積まれていたと見受けた、那覇駅での輸送責任者は■■、その人は捕虜になって東京へ帰った。

話しによると、その時の弾薬は嘉手納から那覇駅に運ばれ、そこから高嶺へ運ぶものであったとのこと、那覇駅は十・十空襲に焼け機関部の修理工場が残っていた。爆発は午後4時頃    原因・・・不明

その時の貨車は7輌くらい(1輌につき25人くらい乗れた)

その時の機関車11号

その時乗っていた人、100人くらい

 

54.4.19 ■■ (当時県鉄工事技手)75才

その時私は高嶺駅に居た。(事務所)午後2時頃

その時の貨車5、6輌

乗った兵員 50~60人

乗った学生 50~60人

原因は確かなことは知らないが煤煙ではなかったのかな・・・?

あるいは煙草も考えられる。

爆発の2、3日後から復旧工事を始めた。まだ処々に人間の肉が散らばり列車の車輪や破片が散らかっていた。

爆発地点は大きな穴となり、列車の一部も突っ込まれていた。

糸満線は大正12年に建設された。

 

54.4.21 ■■

那覇駅には球部隊司令部運送係■■(五長)がいた、

それを知る人■■(当時軍属)■■勤務、

11号車では8輌くらい引くのは十分可能、客車は35人くらい、貨車には30人くらい乗れた。

 

54.4.21 ■■(当時天鉄)

爆発は11月中旬頃だったかと思う。

私は那覇駅にいた。

時間 午後4時頃

その武器弾薬は嘉手納辺から那覇駅に運ばれ、那覇駅から高峯駅へ運ばれるもの、現場へ行った。国場で降りて津嘉山で貨車を発見、翌日も同僚を捜しに行った。

布切を探して来た。

移動は部隊の入れ替えだったと思う。

(武部隊の後)

貨車7、8輌くらい

人数、兵隊150~200人、学生30人くらい。

 

■■  (伍長、運送係)

事故は何時?

部隊名は?

被害者の人数・兵員?民間人?

武器弾薬の輸送経路は?

事故後の措置は?

被害者の公務扶助について?

 

54.6.21 TEL 

35年前のことで記憶にないとのこと、事故があった時からおさえる役を授かったとの返事、しかし記憶にないとのこと。

 

54.5.9 ■■ (■■勤務)

(TEL聴取)

球兵站本部は十・十空襲以前は通堂町にあった。事故に関連して護国寺で慰霊祭が行われていたと覚えている。

■■がくるとすれば私の所へ連絡がある。何かあったら連絡し会うことを約す。

後で連絡を頼んだ。

 

事故の在った日、昭和19年12月11日午後4時30分

運転手(機関手)■■

その日は晴れていた、しかし昼後は小雨があった。

貨車  9輌・・・当時の機関車の力では無理

8輌  7輌

    8輌

    8輌

    7輌

乗車人員220人

10人+60+150・・・1個中隊  中尉指揮

女学生、初年兵(衛生)

300人・・運転手  100人助手

170(兵)+300(学生)・・・助手

25×8=200 1車輌につき25~30人

220人、300人、100人、200人・・・平均205人

学生死亡者 ■■、■■、■■、■■、■■、■■、

■■、■■(生存 ■■、■■)

 

国民は、国策という名のもとに軍隊に駆り出され帝国主義戦争行為を行ってきた。

(戦争へ加担してきた)ことにはまちがいない。

 

54.6.29 ■■(当時看護婦)

TELにて事情聞く、知らない 協力は約す。

知っていそうな人は ■■病院 外科婦長

 

54.6.29 ■■(当時車掌)

その時の弾薬は北谷から運ばれた、そのことを知っている人

 

54.6.30 ■■(当時■■駅捜査係)

山部隊

120~130人くらい、7輌くらい

その時■■軍曹も一緒に山川まで行った。津嘉山駅まで無蓋車流れてきて7、8人の学生が(男子含む)助かっていた。

翌日も現場に行った。軍からは口止されていた。■■軍曹は■■さんか、■■

■■軍曹は死亡している。

 

54.7.15 ■■(当時軍属)

私は昭和19年3月に女学校を卒業し間もなく武部隊へ軍属として配属された。しかし武部隊が台湾へ転出したので次の山部隊へ配属となり、家に帰ることはできなかった。

 

私達女子3人は軍属として■■に宿を取り、衛生隊の仕事を手伝う。私達が山部隊へ配属された当時東風平の国民学校で調済の仕事をしている時、隣では列車爆発事件の死亡者の集団葬儀が行われているのを見た。又、私達の宿の後(安谷屋小)は同部隊の事務所であったが、その中の一軍曹は列車爆発事件の生き残りでかなり火傷をしている人であったがその後■■で死亡した。私達はその後八重瀬の第1野戦病院に転勤となり、■■で捕虜となった。生存者は私と同僚1人で他の者の生存者を知らない。

 

54.7.19 ■■(当時富盛駐屯輜重連隊6中隊)(電話聴取)

輜重隊員も20人くらいは爆発事件に合ったと聞く、弾薬の輸送は輜重隊と、その部隊たとえば(砲兵隊)と一緒であるから与座当りの砲兵隊も被害を受けたのではないかと思われる。

 

54.7.22 ■■

読谷村から島尻への移動は歩いて、列車は全く利用してない。爆発については全く知らないし、聞いたこともない。西線を歩いて来た。

 

54.7.23 ■■

全く知らない、読谷村から西線を歩いて糸満に着いた。爆発事件については全く知らない。聞いたこともない。

 

54.7.23 ■■

第2大隊は具志頭村与座へ進駐

第2機関銃渡辺中隊

連隊長は東風平国民学校へ駐屯

歩兵第89連隊史あり(破竹)

その中に19年12月11日神里の爆発事故で第2中隊の■■1等兵第5中隊の■■1等兵が重症とある。

東風平野戦病院で死亡 (302ページ)

 

(ヤミからヤミへ葬り去る  奪われた人生を取り戻す意味がある)

 

54.7.30 ■■ (戦時中 中隊長)

爆発事故について知っている。しかし調べて文書でないといけない。協力を約す。

 

54.7.31 ■■ 再聴取

■■は曹長であった。生存については不明

爆発事故のあった字神里は暫くの間私服刑事が回って居た。刑事の一人は顔見知りでよく見かけた。したがって警察の方でも一応知っていたとみなければならない。スパイの嫌疑をかけていたかもしれない。

 

54.8.18 ■■

遊覧船の中で話し合う。しかし爆発事件については知らない。■■紹介す。

 

54.8.18 ■■

私は昭和19年10月15日山田国民学校で入隊し、それから美里国民学校で軍隊の教育を受けた。特に衛生兵に指命されて衛生兵の研修を受けていた。しかし部隊の移動があり12月の初旬に東風平の国民学校に移り、約2ヶ月くらい研修を受けていたがその後冷鉾田(ヒヤムタ)中隊付の衛生兵として配属された(名城)大隊は真栄里駐屯連隊本部は大城森であったと覚えている。

 

部隊名と部隊長名は忘れている。私達が東風平の国民学校に着いた2日くらい後で爆発事件は起っている。その日現場に行かされ東風平の学校に死体を運びそこへ安置する作業をさせられた。その後はタッチしてないのでどうなったか知らない。研修も上の学校で美里から東風平へ移動する時は夜を徹して行軍であった。行軍できないものは一般兵も初年兵も嘉手納へ送られ列車で運ばれたのでその人達が爆発に遭遇している。

 

県鉄 史市編集室

大正3年11月28日

 那覇――(8キロ)――与那原

大正11年3月

 那覇――――――嘉手納

大正13年7月

 那覇――――――糸満

最後 昭和20年4月5日頃

事件直後、日本の憲兵による取調べを受けた。

その時の状況は?

原因については?

県鉄に入る前は船乗り

大阪商船の荷物船→名瀬丸へ乗る

次の荷物船→桜木丸 600屯

次の荷物船→京都丸2500屯  青年の頃

 

54.9.7 ■■

那覇停車場指令は十・十空襲以前からあった。しかし、十・十空襲以後は軍は優先的に貨物運搬をし、郡の独占となって行った。

 

54.11.9 ■■

元沖縄県鉄道技手 ■■ 明治■■日生

1921年(大正10)3.28 県鉄車輌夫となる

(次の天皇来島) 機関課勤務 日給50銭

1923年(大正12)6.30 日給60銭

1925年(大正14)3.31 日給70銭

1927年(昭和 2)3.31 日給80銭

1929年(昭和 4)4.1  機関助手となる 日給90銭

1931年(昭和 6)6.30 沖縄県鉄道管理所雇となる 日給99銭

1933年(昭和 8)4.1  機関手となる 月棒30円

1935年(昭和10)12.31        月棒33円

1937年(昭和12)3.1         月棒36円

1938年(昭和13)4.1 沖縄県鉄道技手 月棒40円(免許)

1940年(昭和15)3.31        月棒43円

1941年(昭和16)6.30        月棒47円

1942年(昭和17)12.31        月棒57円

1943年(昭和18)9.30         月棒64円

1944年(昭和19)12.31        月棒70円

1967年12月4日政府保険庁年金課へ提出

 

青年の頃■才までは船乗をした。結婚によって県鉄に入る。昭和19年運転手12人で4回交代のダイヤが組まれていた。

昭和18年東条英機来島の時見た。

機関車の次の貨車は必ず有蓋車をつなぐことになっていた。

爆発の時スピードは落ちた。

稲嶺駅へ走り、東風平駅へ走ったが電話通じなかった。東風平駅で電報を打つ、東風平駅から県道沿いに歩き、山川駅で休んでいたら、県内務局の職員が車をもって来ていたので、その車で那覇駅へ行き、自宅へ帰った。

翌日から県立2高女裏にあった軍病院に通い焼け傷の治療を4、5日間やった。その後また県鉄(運転)で働くよう通知があったが行かなかった。

 

内務部→土木課→沖縄県鉄道管理所(独立会計)→各駅

学務部

警察部      雇員以上は知事の辞令 以下は管理所長辞令

 

庶務課→人事

運輸課→各駅の指導

鉄道管理所     会計課→会計及監査を受ける為の事務

車輌課→機関庫、車輌管理

工務課→建課、線路建設(土木)

 

 

那覇駅―駅長―助役2人   機関手、機関助手、転徹(徹手)、駅手、車掌

              出礼係、貨物係

 

独立会計

鉄道

鉄道建設資金は日本赤十字社から借入3路線建設までには200万円負債となっていた。各年の財務諸表には200万円記債戦争前までには10万~20万くらいになっていた。

日赤から借入れする場合は県が保証人となり、赤字が出れば県が保証することになっており、黒字が出れば県の資金になることもあった。2高女が焼けた後の復興資金に3万円取上げられたこともあった。

地方鉄道法に基づいて鉄道省から5万円くらいの補助があった。

そのためには毎年鉄道省の監督局から鉄道管理所の会計監査を受けなければならなかた。

 

県鉄は―沖縄県鉄、岩手県鉄、宮崎県鉄 あったと聞く

 

県鉄職員  総員200人くらい

管理所  約30人

機関手  約20人

機関助手 約30人

車 掌  約30人

駅 手  約20人

徹 手  約15人

その他  約55人

計     200人

 

55.2.1 ■■

 

那覇駅 総員40人くらい

 

駅長(1人)→ 助役(2人)→ その他

 

19年の6、7月から停車場指令が置かれる。(武部隊)指令員5人くらい、事務所は管理所長室に置かれた。

十・十空襲後は駅員は貨物小屋へ

19年3月球部隊→ 6月から武部隊→ 十・十空襲後球



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