目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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箒川列車転落事故(1899年)

 箒川(ほうきがわ)は那珂川水系に属する第一級河川である。栃木県の矢板市と大田原市の境界を流れており、延長は47.6キロメートル。大佐飛山地南西部の白倉山付近を源流とし、那須野が原扇状地を東南に流れている。最後は那珂川に合流し、水戸の北部を通って那珂湊で太平洋に注ぐ。

 

 筆者は純粋な鉄道ファンではないのでよく分からないのだが、東北本線を走ってこの箒川にさしかかる辺りというのは、絶好の撮影ポイントらしい。景色がいいのだろう。

 

 この箒川にかかる鉄橋がある。1886(明治19)年に完成したもので、架橋当時は全長約319メートル(現在は全長322メートル。なんで長さが変わったのかはよく分からないが)。川床からの高さは約6メートルあり、橋桁(プレート・ガーダー)14連で結ばれていた。

 

 1899(明治32)年10月7日、当時の鉄道史上最大の事故はここで発生した。

 

 この頃の東北本線はまだ国有化されておらず、日本鉄道株式会社(以下日鉄)の私鉄路線に過ぎなかった。しかし時代の要請を受けて線路はどんどん切り拓かれ、1883(明治16)年7月28日に上野~大宮間の路線が開通したのを皮切りに、路線を北へ北へと延伸。明治19年には宇都宮~西那須野間が、24年には青森までの全線が、さらに31年には田端~岩沼間が開通していた。

 

 箒川の事故が起きたのが、このほぼ1年後である。日鉄は線路の敷設も一段落し、今まさに運輸営業に力を入れようとしていた矢先のことだった。

 

 10月7日当日は、南方洋上で台風が発生しており、本州に接近していた。

 

 そんな悪天候の中、福島行きの第375列車(機関車2両+貨車11両+客車7両)は11時に上野駅を発車。対向列車との行き違いの関係から約50分程の遅れが出ており、矢板駅を出発したのは16時40分頃だった。

 

 結果だけを見ると「そんな天候で出発しちゃったんかい」という感じもする。だが、途中で通過した宇都宮駅で観測された風速は9メートル。まあ徒歩の人が歩きにくくなる程度のものである。これなら大丈夫だろうと判断されたのだった。

 

 列車は矢板駅を出発すると、まっすぐに箒川へと突き進む。この先の針生トンネルをくぐり、橋を渡れば次は野崎駅だ――。

 

 と、ここで矢板駅と野崎駅の間の地形について少し解説しておきたい。両駅周辺の地形は、南に松原山丘陵があり、北には那須野が原扇状地がある。箒川はこの境目を流れており、全体の中ではここでかなりの急流となる。

 

 鉄道敷設に際しては、松原山丘陵にトンネル上の切通しが掘られた。これが針生トンネルで、これを抜けると線路はすぐに箒川と交差する形になる。そこに箒川鉄橋も架かっているわけだが、地形条件のため、ここは風の通り道でもあった。テレビの専門家インタビュー風に言えば「あの場所はもともと強風に遭いやすく、とりわけ冬の時期は北西からの季節風を強く受けることで知られていたんです」といったところだ。まあ後からならいくらでも言えるのだが、とにかくそういうことだった。

 

 第375列車は針生トンネルを抜け、箒川に差しかかる。そして列車が鉄橋の真ん中あたりに来たところで(渡り始めたタイミングだったとも言われているようだ)惨劇は起きた。強烈な北西からの突風が、列車の左側に吹きつけたのだ。

 

 機関士は後方を見た。8両目に連結していた無蓋貨車のシートが風であおられ、吹き飛ばされそうになっている。異常事態だが気付いたときにはもう遅い。次の瞬間には、1等客車の車体が急激に右方向に張り出した。

 

「こりゃイカン!」機関士は警笛を鳴らしてブレーキをかけた。後に機関士は、この時に強い衝撃を感じたと証言している。おそらくそこで貨物緩急車の連結器が外れたのだろう――とも。

 

 第375列車が混合列車であることは、先にチラッと書いた。その内訳はここではあまり細かく書かない。とにかく連結器が外れてしまったことで、後方の貨車1両と、7両あった客車の全部が転覆し、そのまま橋から落下したのである。

 

 この時の風は、瞬間最大風速27~28m/secと推定されている。天気予報の用語では「非常に強い風」と呼ばれるレベルで、人も車も外にはいられず樹木も倒れるほどの強さだ。宇都宮で観測した時とはえらい違いだった。

 

 落下したそれぞれの車両がどうなったのか、詳細がウィキペディアに載っていたので、せっかくだから書いておこう。上から順に、前部車両→後部車両となる。

 

・貨物緩急車(亥120)……橋脚のそばに転落、横転して大破。
・3等緩急車(ハ28)……亥120とほぼ同じ状態でその横に横転し、大破。
・3等客車(ハ179)……屋根が吹っ飛び、車体下部構造は河底に埋没。
・3等客車(ハ249)……橋脚の約27メートル下流に流される。屋根だけを残してその他は粉砕。
・1等客車(イ3)……最初に転落。25メートル下流に車体下部構造を、また18メートル先に屋根を残し、その他は粉砕。
・2等客車(ロ17)……中州の上で圧壊。
・3等客車(ハ275)……転落、3ブロックに大破。
・3等緩急車(ハニ107)……前車(ハ275)の上に転落し、大破。

 

 ひどすぎる。

 

 車両がこんななので、乗客たちがどうなったかは推して知るべし、であろう。

 

 もっとも現代に生きる我々も、車両が脱線転覆し粉砕しぺちゃんこになるような鉄道事故を全く知らないわけではない。そうした事故では数十人から百人単位で人が亡くなることもある。そうした事例に比べればこの死者数は少なめで、そこは不幸中の幸いかも知れない。だが箒川の事故の場合、乗っている人が少なかったから簡単に風で飛ばされてしまったのではないか、という気もする。当時の『國民新聞』では、「前方貨車は肥料雑貨を積み居て、其重量にて危難を免れたるなりと。」とあった。

 

 これが17時頃のこと。転落を免れた機関車2両と貨車10両は、そのまま140メートルほど進んでようやく停車した。機関車1両だけのブレーキでは、即座に停止することはできなかったのだ。

 

 大惨事である。まず機関手が、次の停車駅だったはずの野崎駅に駆けつけて急報。それを受けて駅長は電報を打ったが、またしても暴風雨に邪魔されて混線。矢板駅につながったのは17時20分頃のことだった。

 

 また後部車掌は、自分自身も負傷しながらも――と資料には書いてあるが、まさかこの人、川に落ちて助かったのだろうか?――現場から3.5キロを駆けて矢板駅に現場の状況を報告している。そして矢板駅→宇都宮駅→日鉄、の順で通報がなされた。

 

 時代が時代だから仕方ないのだが、20分とか3.5キロとか、哀しくなるほどの通信状況である。

 

 ともかく急報を受けた宇都宮駅長は、鉄道嘱託医、赤十字社栃木本部、県立宇都宮病院に応援を要請。さらに日鉄本社では、社員十数名と作業員70名を派遣している。また順天堂病院にも要請し、院長、医師、看護婦を派遣させた。

 

 ただしこれらは全て矢板側からの派遣だった。現場に着いても暴風雨のため橋を渡ることはできない。そのため彼らは到着した側の岸で救護活動を行なうしかなかった。

 

 では反対の岸ではどうしていたかというと、こちらには地元の開業医が駆けつけていたという。彼は関係機関からの派遣をまたずに現場に駆けつけて、負傷者の治療を行なったのだった。

 

 また地域の消防組も集まってきた。出動したのは矢板、三島、蓮葉、石上、針生、土屋、山田の人々である。当時は町村単位での自治消防は行なわれておらず、村や大字単位でこうしたグループを結成していた。

 

 しかし暴風のさ中である。救助は簡単なことではなかった。強風のため橋の上は渡れず、命からがら中州へとたどり着いた人々のところへも行けない。しかも箒川は平時に比べて1メートルは増水していた。

 

 当時の救助設備も、縄と梯子、それにトビ口くらいなものだった。川の両岸にかがり火が焚かれ、泳ぎの達人が鉄橋に大縄を結び付けてから負傷者のもとへ行き、背中におんぶして、縄をたぐって元の場所へ行き梯子で上る……。こうした気の遠くなるようなやり方で救助活動は行なわれたのだった。

 

 ちなみに、この時偶然に、事故った車両には埼玉県の加藤政之巡査も乗り合わせていた。彼は職業的使命感から、自分の怪我も省みず溺死寸前の遭難者を救出している(後に見舞金や書状をもらい、昇給もした)。


 こうして多くの乗客が救助されたが、救助されるのと前後して亡くなった人や、激流に流されて後日あちこちで発見された遺体もあった。

 

 10日には、栃木県警察部保安課長の指揮で、箒川や那珂川の周辺が徹底的に捜索された。だが遺留品は多く見つかったものの遺体はなく、大体このへんで死者数は確定したようである。


 最終的な死傷者数は、『日本鉄道株式会社沿革史』によれば死者20名、負傷者45名とされている。公的には、こ

れが正式な数字である。

 

 だが混乱もあるようだ。昭和6年10月の33回忌に建立された石塔婆には19名の故人の名が刻まれているというし、また事故直後の11月に発行された『風俗画報』増刊「各地災害図会」(明治32年10月)によると死者19名、負傷者合計36名とあるらしい。

 

 ちなみに事故った列車の乗客総数は、各駅の切符発売状況を調査した結果、62名とされているという。

 

 最初にも書いたが、これは当時、鉄道事故としては最悪の大惨事であった。だが復旧は意外に早かった。消防組なども参加して転落車両などが撤去され、線路の復旧はせいぜい枕木交換程度。翌日にはもう試運転が行なわれたというから、なんだか拍子抜けだ。

 

 とはいえこの事故、裁判ではけっこう尾を引いた。同年11月20日、第14回帝国議会の衆議院本会議で、福島県選出の代議士・菅野善右衛門がこういう趣旨の質問をしている。

 

「この事故では、暴風雨にも関わらず汽車を走らせている。さらに鉄橋の構造には転落防止についても不備があったのではないか」

 

 実はこの菅野氏、肉親を事故で失っていた。

 

 この時の答弁に菅野氏は納得しなかった。翌年2月20日には東京地方裁判所に対して訴訟を起こし、日鉄に3万円の慰謝料を請求している。

 

 日鉄の言い分はこうである。「確かに気象状況は不安定だった。だが、客車が転落するほどの強風は予想できなかった」

 

 いわゆる「想定外」である。まあ、争うつもりならそう言うわな。

 

 この訴訟、7月7日に一度は菅野が勝訴している。だが9月14日には日鉄が東京控訴院に控訴した。

 

 それから判決が出るまでには4年間かかっている。その間にも日鉄に対しては慰謝料の請求が多く出されたという。

 

 ところがである、明治37年12月10日には、日鉄の勝訴として判決が下された。

 

 そこで菅野氏は大審院に上告したものの、翌年38年5月8日には「原判決を破棄、本件を宮城控訴院に移す」と結論が下された。

 

 その宮城控訴院でようやく決着がついたのが、さらにほぼ一年経った2月28日である。ここでも菅野氏は敗訴した。おそらくこの敗訴は、他の遺族(あるいは直接の被害者)たちの慰謝料請求にも影響したに違いない。

 

 とはいえ、日鉄も支払いを頑として撥ね付けたわけではない。被害者に対する補償はちゃんと行なわれている。その内訳は遺族へ500円、負傷者は1人300円以下の支払いというものだった。これには従業員からも相応の挙金があったという。

 

 また、上記の宮城控訴院での判決の詳細は不明だが、ともあれこの判決の結果を踏まえた示談が行なわれ、成立している。事故発生から実に7年の年月が経過しており、この間には日露戦争もあった。

 

 さらに言えば明治39年3月31日には「鉄道国有法」が公布され、日鉄は11月1日に国に買収されている。

 

 なんだか、こうやって見てみると、この事故の歴史は同時に日鉄という組織の歴史そのもののように思えなくもない。主要な線路の敷設が終わり、ようやく運輸に力を入れるぞ~と思った矢先に事故が起きた。そして最終的な判決が下ったのとほぼ同時に、国によって買い上げられたのである。奇妙な因縁だ。

 

 大雨・強風時の運転抑制については、この事故を踏まえた検討もなされたようだ。だが悪天候の中、運転を続けるかどうかという判定は難しいところがあり、こうしたルールの具体化までにはまだまだ長い時間を要した。

 

 この「悪天候時の運転抑制」の基準の難しさについては、言うまでもない話かも知れない。鉄道事故の歴史を紐解けば、瀬田川列車転覆事故、餘部鉄橋転覆事故、羽越線脱線事故など、悪天候による大事故の例には枚挙に暇がない。天候は、交通機関にとってはある意味最大の強敵である。

 

 現在、この事故の供養碑はふたつ存在する。

 

 ひとつは事故から間もなく作られたものである。事故発生直後から、現場付近では何度か村民による供養が行なわれているが、一周忌にあわせて石塔婆が建立されたのだ。この碑は現在、下り電車に乗って箒川橋梁を渡り切ると、ちょうど左側に見ることができるという。高さ3メートルの大きなもので、欠落箇所があるものの100年前のものにしては立派だという。

 

 もうひとつの慰霊碑は、田代善吉という人によって建立された。この人は事故の直接の被害者だったのだが、その後は教育者かつ郷土史家として地元に貢献した人らしい。箒川の転落事故については、生き残りとして死者の冥福を祈る思いも強かったのだろう。33回忌にあたる昭和6年10月4日、現地での法要に際し卒塔婆を建立した。

 

 この卒塔婆の場所は、箒川の左岸、国道四号線の跨線橋北側である。そこは昭和6年当時は踏み切り道だったようで、道の横に建てたものらしい。

 

 なお、この卒塔婆の建設費は、多くが国鉄職員の浄財によるという。

 

 慰霊の法要については、参考資料を見る限りでは、少なくとも90回忌までは行なわれたのは間違いないようだ。

 

   ☆

 

 最後に、この事故については2つほど付録を添えておこうと思う。

 

 まずひとつは、前掲の田代善吉氏による証言である。『続・事故の鉄道史』からの孫引きであるが、もともとは昭和六年一〇月発行の『下野史談』号外「等川鉄橋汽車顛覆始末」に掲載された「私の遭難体験記」という文章からの一部抜粋らしい。もともとが長文で改行がないため、ここではブログ向けに改行の処置だけさせて頂いた。ぜひ一度目を通して頂きたい。その臨場感から、目線を離せなくなること請け合いである。

 

「私は小学校教員受験の為に宇都官に参りました。試験も終って帰ろうとした日は朝から大雨であった。三時頃の汽車で帰る積りであったが、汽車が遅れて四時頃になった。

 

「雨は増々激しく降って来る。その上風も出た様であった。汽車が進行すると共に風も強くなった。矢板駅に着いたのは恰度午後五時頃であったが強風強雨で気味が悪い様であるから、矢板へ下車しようかとも思った。

 

「箒川の鉄橋に差しかかると、ガタッという音のみであとは気絶して仕舞ったから、何が何やら判らない。ホッと気が付いて見ると自分は濁流に押し流されつつある。

 

「幸いにも汽車両は微塵に砕かれたので汽車の扉が一枚流れて来たのにつかまった。此扉こそ自分の生命の綱である。物体は必ず川岸によるものであるからこれをば放すまいと、其一扉に乗って激流の中を潜んで行った。自分は流れながらも今溺死する此身を両親や兄弟は知らないだろうと胸に涙を浮かべつつ那須野山の方向を眺めた。

 

「六百メートル程も流されて行くと乗っていた扉は河岸に近かづいて来た。川柳のあるのを幸に飛びついたが背は立たない。足の方は流されているが此柳が命の親と思って、つかまってはなさない。やっと砂州に這い上がることが出来た。若しや此の柳が根から切れたら自分も此世から縁が切れて今は斯うして居られないのであった。

 

「其時顔面からは鮮血流れ股や膝のあたりは硝子の破片が澤山這入ってゐました。

 

「川の中州に匐へあがっても風雨はやまない。今後洪水で増水すれば仕方がない合掌して流されて仕舞ふ覚悟をして居った。

 

「時に五時半頃と思った。夕方になって風雨が静まると、半鐘の音がする。村人が河岸に集まって来て呉れた。其時の嬉しさは譬へ様がなかった。川の両岸には篝火が焚かれた。助けて呉れと力あらん限の声をあげると、今助けに行くからと応答があった時、初めて蘇生の思ひがした。

 

「泳ぎの達人が、鉄橋に大縄を結びつけ、其縄に組って助けに来て呉れた。其方の氏名は忘れたが背におぶさつて又其縄を頼りに鉄橋の下まで越えて梯子で上がり、鉄橋を匐ふて川向に行った。

 

「時に大田原町より急派した救護医の手によって応急手当を加へられ直に西那須野駅前川島屋に宿をとった。翌日西那須野の高瀬医に罹って頭や顔に這入ってあった小石を取って貫って宇都宮に来た。

 

「恰度宇都宮停車場に着くと、東京から佐藤博士が来られたので診察を受けた処が軽傷と云う事であった。神野病院は満員なので、県立宇都宮病院に入院した。入院治療中病勢が日増しに重くなって来た。体温が四十度、四十二度と云う状態であるから脳膜炎の罹れがあり、其死線を越えて四十日目で退院した。負傷者中第二番目の重患であって入院期も長かった(以下略)」。

 

 もうひとつの付録は、なんと「遭難数え歌」である。これも『続・事故の鉄道史』からの引用なのだが、こちらの出典は不明だ。地元の子供たちの間でこういう歌が歌われていたのだろうか。

 

『遭難数え歌』

 

一つとせ 一つ新版このたびの
 汽車の転覆大事件 ところは下野箒川

 

二つとせ 不意に雨風つのりしが
 箒川へとかかる頃 俄かに吹きまく大つむじ

 

三つとせ 宮の発車は午後の四時
 雨風激しきその中を 矢板の町までつつがなく

 

四つとせ よもや夢にも誰知らう
 橋にかかれる災難を 汽車も暴風雨ついていく

 

五つとせ 今は鎖をねじ切りて
 濁流の中へとさかさまに 落ちるや箱は粉微塵

 

六つとせ 夢中で一時は途方にくれ
 一度は大ぜい声をあげ 助けておくれよ助けてと

 

七つとせ 嘆く其声天地にひびき
 山も崩れん有様は 此の世からなる地獄なり

 

八つとせ やっとおよいで陸に出て
 見れば手足のない人や 頭に大傷うけし人

 

九つとせ これを見るより埼玉の
 職務は巡査で正之氏 川の中へ飛びこんで

 

十とせ 飛ぶが如くに洪水の
 中をいとわず流れ行く 七、八人を救いける

 

 ――いかがであろうか。なんという不謹慎な歌だろう!(←お前が言うな)

 

 それにしても凄い歌である。事故の状況を過不足なく簡潔に伝えている。前掲書がこの事故のルポの冒頭にこの歌を持ってきたのももっともで、とりあえず事故の概要はこの歌を読めば分かるようになっている。

 

 もっとも、九つとせと十とせの部分が、先に挙げた加藤巡査だけの武勇伝になってしまっているのが気になるところだが……。

 

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
◆明治32年10月10日付国民新聞『新聞集成明治編年史』第十巻(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)「暴風汽車を宙に釣り上ぐ」

 

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東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)

 1913年(大正2年)10月17日、午前4時20分を少し回った頃のこと。北陸本線・東岩瀬駅(現在の東富山駅)に、下りの臨時貨物列車が入ってきた。

 この列車は10分ほど前に富山駅を出発したばかり。この東岩瀬駅では、のぼりの旅客列車とすれ違うために停車する予定だった。

 外は、まだ夜も明け切らぬ暗闇である。しかも天候は風雨で見通しも悪かった。

 下り貨物列車は無事に駅の構内に入ってきて、駅長室の前で、上りとのすれ違いのための手続きを行った。

 と・こ・ろ・が、ここで駅長が異変に気付く。

「あれ、なんだこの列車。スピードが落ちないぞ」

 あれよあれよと言う間に、列車の最後部が駅長室を通り過ぎていく。おいおいちょっと待て、そのままじゃ行き過ぎちまうぞ~。

 この「行き過ぎ」というのは、今で言うオーバーランのことである。2005年の福知山線の事故でも、脱線の直前に、運転手が本来停車する場所から行き過ぎてしまうミスを起こしていた。あれと同じだ。

「ちょっと行き過ぎるくらいどうってことないじゃん?」

 うん、そう思っていた時期が筆者にもありました。しかしそこが素人の認識の浅はかさで、このオーバーランという奴を甘く見てはいけないということを示す好例が、この東岩瀬駅の事故なのである。

 さて行き過ぎた貨物列車は、今まさに上り旅客列車が向かってきている線路へ入り込んでしまった。もう上り列車は目と鼻の先、駅員も運転士も慌てて貨物列車を本来停まるべき位置へ戻そうとしたがついに間に合わず、正面衝突と相成った。

 この上り旅客列車に乗っていたのが、善光寺への参詣ツアーに参加していた団体旅行者たちだった。秋の収穫を終えたばかりの北陸の農家たちが大勢乗り込んでおり、彼らは2泊3日の行程をほぼ終えて帰路に着いているところだった。

 旅客列車は12両あったが、そのうち9両目までの客車が脱線転覆。また一部の車両は他の車両に突っ込まれて粉砕してしまった。全部で362名いた乗客のうち26名が死亡し、重軽傷者は104名にも及んだという。大惨事である。

 裁判では、貨物列車・旅客列車の双方の運転士が被告となった。両者はそれぞれこのような主旨のことを述べたという。

 貨物列車「列車が停まらなかったのは雨で滑ったせいだ!」

 旅客列車「あの時の東岩瀬駅の場内信号機は、安全表示になったり危険表示になったりを繰り返していて、めちゃくちゃだったんだ!」

 しかし必死の陳述も空しく、どちらも禁固と罰金の実刑を食らってしまった。

 ちなみに後者の「めちゃくちゃな信号機」については、参考資料『事故の鉄道史』の中でちゃんと論理的な推理が提出されている。オーバーランしてしまった列車を退行させるためにゴチャゴチャと信号機をいじっているうちに、機械と連動していた信号機が青になったり赤になったりしたのではないか? というのだ。なるほど。

 すると残る問題は、そもそもなぜ貨物列車がオーバーランしてしまったのか――という点である。そしてこの事故は、これについて最後にとんでもないオチがついているのだ。

 裁判の判決が確定したあと、当時の鉄道院(運輸省の遠いご先祖にあたる組織)は、富山駅の助役に減棒の処分を下している。それでこの処分の理由というのが、事故を起こした貨物列車の「ヴァキュウムホース」とやらの接続が不完全だったのを見過ごして、それを黙っていたからだというのだ。

 この「ヴァキュウムホース」なるものがなんなのか、説明を読んでも素人にはサッパリなのだが、とにかくこれがちゃんと接続されていないと列車というのは上手く停車できないらしい。

 なんだよ、原因わかってんじゃん。

 つまりこういうことである。貨物列車が富山駅を通過した時、駅の助役は列車のヴァキュウムホースの接続が不完全なのを見過ごしてしまった。だから東岩瀬駅でも停まれなかったのである。あの衝突事故はそれで起きたのだ。

 この助役の怠慢が発覚した――つまり実刑を食らった運転手たちが無実だったことが判明した――時にはとっくの昔に裁判も終わっており、すでに運転手たちは出所したあとだった。しかし本当の事故原因が発覚した以上は処分をしないわけにもいかない。というわけで、助役は減棒となったのである。

 それにしても、ある意味でのどかな時代だったのだなと思う。今だったら「不祥事を内々に処理して隠蔽しようとした」などと言われてマスコミから叩かれることだろう。冤罪でぶち込まれてしまった運転士たちも実にいたたまれない。彼らにもちょっとくらいは補償があったのだろうか? あったと思いたい。

 ところで、鉄道にいわゆる「安全側線」が整備されるようになったのは、この事故がきっかけだった。

 安全側線とは、通常の線路から枝分かれし、中途半端なところで途切れた線路のことである。そしてその先には土が盛ってあり、列車が停まりやすいようになっている。仮に列車がオーバーランしても、そっちの方に誘導されるので正面衝突は避けられるという寸法だ。

 多分、多くの人が一度は見たことがあるだろう。あれはこの大正時代の事故がきっかけで作られたものなのである。もし見かける機会があれば、このルポのことを思い出して「へえ~」と感慨にふけってみるのもまた一興。

 しかしこの安全側線、欠点がないわけでもない。運転手に停車する意志がなかったり、列車そのものが暴走していたりすると簡単に突破することができるのだ。つまり事故防止のシステムとしては不完全なのである。

 鉄道というのは、時と場合によっては問答無用で全ての列車を自動停止させなければならない――。このような認識に鉄道関係者がようやく思い至るには、ここから気の遠くなるほどの年月と、そして多くの重大事故の発生を俟たなければいけないのだ。

 ついでにこの事故にからめて言えば、組織の不祥事についても以下同文、とも言えそうである。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)

 大正5年(1916年)11月29日の夜のこと。

 この夜、青森県三沢市の古間木駅(現在の三沢駅)に勤務していたT助役は、電信掛のNと共に、駅前の旅館で酒宴の真っ最中だった。ちょうど、しばらく列車の発着がない時間帯だったのだ。

 おいおい、勤務時間中になにやってんの。

 古間木駅にいたY駅夫は、頃合を見て二人を呼びにいった。「くそう、あいつら自分ばっかり飲みに行きやがって」と悪態をつきながら夜道を駆けていった、かどうかは知らないが、実はこの直後、電信掛のNは入れ違いに古間木駅に戻ってきたのだった。

 下田駅側の通票閉塞機の電鈴が鳴ったのは、このNが戻ってきたタイミングでのことだった。

 細かい説明は省くが、この「電鈴」というのは、下田駅が古間木駅に向けて「今から下り列車がそっちに行くぞ」という呼びかけの意味を持っていた。そしてNはいつもの習慣に従って、「了解した」という合図を送った。

 さてこの後、Nが何をしていたのかは、資料の文献を読んでも不明である。帰宅したのか、はたまた泥酔して寝てしまったのか……。とにかく彼がここで「了解した」という合図を送ったことが誰にも伝えられなかったことで、事故は起きてしまうのだった。

 はい、てなわけでNは退場。

 そして次に古間木駅に戻ってきたのが、酒宴から戻ってきたT助役と、彼を迎えに行ったY駅夫の2人である。

 酒宴から戻ってきたT助役は、駅舎で居眠りを始めた。すると間もなく上りの貨物列車が古間木駅に到着し、Y駅夫は助役を起こしにかかる。

Y「助役、起きて下さい。上り列車が着きましたよ」
T「うーんむにゃむにゃ、もう食えねえ」

 ああダメだこりゃ。俺がかわりに上り列車を通過させなきゃな……。と、このような次第で、Yはこの上り列車に通行許可を出すことにした。

 さてここで問題になったのが、さっきNがいじった通票閉塞機である。

 先述の通り、Nは「下り列車がそっちに向かうぞ」という電鈴を受けて「了解した」という返事をしている。それでこの通票閉塞機も、いわば「下り列車が古間木駅に向かってきているモード」になっていた。

 この閉塞機の状態だけを見ると、下り列車がこちらに走ってきていることになる。しかしこの日この時刻に下り列車が来るなんて、Y駅夫はまったく記憶になかった。どうなってんの?

 しばらく首をかしげた彼が下した結論は、こうである。

「ははあ、さてはこの機械また壊れやがったな!」

 そう、この通票閉塞機は前にこんな感じで故障したことがあったのだ。Yはその時の裏ワザを思い出した。そうそう、こういう時はT助役がコイツに針金を突っ込むと直るんだっけ。よしよし。

Y「助役、また閉塞機が壊れちゃいました」
T「むにゃむにゃ。仕方ないな、俺がやってやりるれろ」

 まだアルコールの抜け切らぬT助役は、いつものように針金を曲げて機械に突っ込む。そうして、上り列車が古間木駅を通過できるようにしてしまった。

 かくして古間木駅には平和が戻った……かのように思われたが、それは錯覚であった。上り貨物列車が通過した直後に、一本の電話が入ってきたのだ。それは下田駅のO助役で、「下り列車が古間木に向かうぞ」という電鈴を送った張本人だった。

O「もしもし。なんだ、やっと電話が通じたぞ」
Y「すいませんね、ちょいと取り込み中だったもので。どうかしました?」
O「いやなに、さっきウチのほうから下り列車を通過させるって電鈴を送っただろう? あれが14分遅れでさっき通過したから、念のために連絡をと思ってね」
Y「なにを言ってるんです? 下り列車って、そんなの時刻表にないでしょう」
O「こらこらなに言ってるんだ。今日は23時13分に下りの臨時列車が発車してそちらに行くことになってただろう」
Y「ぐはっ、臨時列車!?」

 そんなの聞いてねえ! 真っ青になるY駅夫。その様子を不審に思ったO助役は、T助役に電話を代わらせた。

T「むにゃむにゃ。おはようございます」
O「なんだ酔っ払ってるのか? なあTくん、今夜こっちから臨時列車がそっちに向かうって話は聞いてたよな? それがさっき通過したから連絡したんだが」
T「ぐはっ、臨時列車! 忘れてた――!」

 たちまち酔いがさめたT助役は、さっきの通票閉塞機のことを思い出したに違いない。あの通票閉塞機は壊れてなどいなかったのだ!

 しかしY駅夫とT助役が気付いた時にはもう遅い。下田駅から走ってきた下り臨時列車は、うっかり古間木駅を通過させられてしまった上り列車と正面衝突してしまった。

 下田ー古間木間は単線で、線路は一本だけだった。つまりこの路線を通れるのは常に上りか下りのどちらか一本だけで、本来は2つの駅で連絡を取り合い、かわりばんこに列車を通してやるべき区間だったのである。

 つまりYとTは、古間木駅でしばらくの間上り貨物列車を待機させるべきだったのである。そして反対方向からやってきた下り列車が古間木駅に到着した時点で上り列車を発進させる。そうすれば駅ですれ違う形になり、上りも下りもなんの問題もなく進むことができたのだ。

 それにしても、コトが発覚してからのYとTの心中は一体どれほどのものだったのだろう。きっと処刑を待つ時のような心地だったのではないだろうか。

 やがて、古間木駅に、自分たちがさっき送り出した上り貨物列車の後部16両が逆戻りしてきた。

 2人はそれを見て事故発生を知った。正面衝突の衝撃で、この後部16両分は連結器からちぎれてしまったのだ。

 死者29名(ネットで検索すると34名、とも)、負傷者171名。下り臨時列車には弘前市の第八師団に入営する予定の壮丁たちが619人乗り込んでおり、その3分の1程が死亡した計算である。

 さてその後の経過だが、とにかく通票閉塞機を不正操作したのは悪質だということで、T助役とYは実刑を食らった挙句に懲戒免職と懲戒解雇の憂き目に遭った。また兵隊の候補者達が多数犠牲になったということで陸軍省も事後処理に大きく関わり、話が相当でかくなったようである。

 ちなみに参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故について「通票閉塞機を不正操作したのはT助役である」とはっきり書いてある公式資料は数えるしか存在していないらしい。ものによっては不正操作をしたのが誰なのかがボカしてあったり、ひどいのになるとYに全部罪を擦り付けているのもあるのだとか。

 歴史というのはあちこちで改竄されたり捏造されているものなんだな……と最後に思わされる事故事例である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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北陸線・雪崩直撃事故(1922年)

 大正10年から11年にかけて、日本海側一帯は豪雪に見舞われていた。

 それで当時、県知事と陸軍連帯区司令官から、各市町村に出された通牒がこれである。

「北陸線は重要な軍事路線につき、青年団、在郷軍人分会を動員し、万難を排して交通維持に努められたい」。

 要するに、お前らちゃんと除雪やれよ~、というわけだ。

 そしてそんな中、1922年(大正11年)2月3日13時30分に市振~親不知間の鉄路で大雪崩が発生した。これは犠牲者こそ発生しなかったものの、鉄道を完全に塞いでしまう大規模なものだった。

 さっそく鉄道省と陸軍省からの要請を受け、周辺の村落からは除雪の人夫たちがかき集められた。地元の建設会社「白沢組」が仲介となり、200名(うち30名が鉄道職員)がさっそく作業に取りかかった。

 この日の天候は最悪だった。この間までは大雪だったくせに、なんと季節外れの雨降りである。しかも雨足はどんどん強まり、夕方にはすっかり大雨となった。まーフェアチャイルド時代のYOUだったらきっと「じょだんじゃないよ♪」と歌ったに違いない。

 もちろんこの時代にYOUは生まれていない。人夫たちは歌う余裕もなく除雪作業を進めていった。雨合羽や長靴などなかった時代のことである。厳寒の空気の中で雨水は蓑や笠を伝って服を濡らし、さぞ凍えたに違いない。

 しかもそれだけではない。当時このあたりは「雪崩天国」とでも呼ぶべき状況で、雨のせいで雪崩が頻発していたのだ。この日のうちに市振~親不知間では合計11回も雪崩が起きていたというから、作業員たちは心身共に生きた心地がしなかったことだろう。作業中止の号令が下った時に彼らが心底ほっとしたであろうことは、想像に難くない。

 この時、時刻はすでに夜。作業員たちは我が家へ帰るべく列車に乗り込んだ。蒸気機関車2296(2120型)牽引、6両編成の65列車である。

 しかし「雪崩天国」いやさ「雪崩地獄」の悪魔は彼らを見逃さなかった。この列車が帰路で雪崩の直撃を受けたのである。

 時刻は午後7時~8時の間のこと。親不知駅と青梅駅の間を通過中、勝山トンネルの西口にさしかかった時のことだった。勝山の約6,000立方メートルの雪が滑り落ち、列車に襲いかかったのだ。

 最も被害が大きかったのは3・4両目だった。この車両は雪崩の威力によって木っ端微塵に破壊され、客車の台枠や車輪だけを残してほとんど消えてなくなってしまったという。死亡者も全てこの2車両に集中しており、最終的には乗客89人と鉄道職員1名の計90名が犠牲になっている。

 中には握り飯を手にしたままの遺体もあったというから、この事故が一瞬の出来事だったことが分かる。

 また2両目も大破し、大勢の怪我人が出た。

 さあ大騒ぎである。急報を受けた鉄道省は在郷軍人、青年団員、消防団等で組織された救援隊を、そして赤十字などでもさっそく大がかりな救護班を現場へ送り込んだ。

 だが鉄道は動かない。そりゃ雪崩が起きているんだから当たり前である。なんだか間抜けな話で、手前の駅で引き返さざるを得ない班もあったという。

 このように、山間の豪雪地の事故現場ということで、交通手段には限界があった。海上も波浪のため危険な状態で、陸海ともに最悪の天候状況だったのである。本格的な救助活動が始まる頃には、もはやそれは死体発掘作業の様相を呈していた。

 負傷者と死者は、それぞれ親不知と、反対の糸魚川方面に向けて収容されたという。

 ところでこの現場は42時間後には復旧したが、当時の鉄道省は救援そのものよりも最初から線路の復旧を優先しようとしたため、大いに地元住民の顰蹙を買ったそうな。

 なるほど当時の新聞を見ると「親不知、市振間の雪崩未だ除雪出来ず四日中に開通の見込みである、」などと報道されているが、しばらくすると「4日の朝8時にはまだ雪の下に70~80名の遺体が残っている見込み」とも報道されている。鉄道省も、よもやこんなにひどい事態になるとは思ってもみなかったのだろう。

 ちなみにこの雪崩の原因だが、積雪+雨という自然的要因はもちろんだが、他にも「汽車の汽笛」も影響したのではないかと言われている。トンネル進入前に鳴らした汽笛が、雨でゆるんだ積雪に振動を与えてしまったのだ。こういうのを底雪崩と呼ぶらしい。

 周辺地域の村落は、この事故によって多くの若い働き手を失ったわけだが、その補償について鉄道省と地元住民はずいぶん揉めたようである。

 問題は弔慰金にあった。「犠牲になった作業員は鉄道省が雇ったわけではない」という理屈で、鉄道省がわはなかなか補償に応じなかったのである。

 なるほど、それじゃ遺族は頭に来るよね。

 とはいえ最終的には鉄道省が折れ、犠牲者は「奉仕隊」だったということで無事にお金が支払われたとかなんとか、うんぬんかんぬん。きっと「名目なんざどうでもいいからとっとと払いやがれ」というのが遺族の正直な気持ちだったことだろう。

 参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故は、ひとつの事故に対して複数の慰霊碑が建てられているという全国的にも稀なケースだという。地元住民の、この事故への関心の高さが窺い知れる。

 そしてこの事故をさらに印象深いものにしているのは、未だに一人だけ身元不明の犠牲者がいる、ということである。

 どうも、事故に遭遇した客車にたまたま乗っていたらしい。普通の乗客と思われるが、どこの誰なのかは遂に最後まで分からずじまいだったという。なんだか後年の三河島事故を思い出すような話である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇神戸大学付属図書館 新聞記事文庫

 

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逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)

 ミステリ作家コーネル・ウールリッチの作品に『九一三号室の謎 自殺室』という短編がある。ニューヨークのとあるホテルの913号室に泊まった客が、毎度毎度謎の飛び降り自殺をするというので探偵役が調査を始める――というものだ。

 で、今回ご紹介する事故は、なんだかそれを彷彿とさせる。

 時は大正時代の末。東海道本線の東京―神戸間にある逢坂山トンネルと東山トンネルでは、なぜか多くの乗客が走行中の列車から墜落し、そして死亡していた(当時、丹那トンネルはまだ開通していない)。

 鉄道当局としては、最初は飛び降り自殺かカーブで振り落とされたかのどちらかだろうと考えていたという。だがあまりに死者が多いので調べてみたところ、驚くべき原因が分かった。

 その原因とは、煙だったのだ。

 長大トンネルを走行していると、機関車から噴き出す煙はどうしてもトンネルにたまる。列車が煙よりも早く走れればいいのだが、たまたま追い風だったりすると最悪で、走る機関車に背後から煙がまとわりついてきたりする。それにまた、昔のトンネルというのは、今と比してまたえらく狭く煙もたまりやすいのだ。

 というわけで、トンネル走行中にデッキにいた乗客は煙を吸い、意識が朦朧として転落してしまうのだった。

 これを受けて、鉄道省では煙の排出のために、トンネルの両端に強力扇風機を設置したという。

 この事故の顛末が、『東京日日新聞』で報道されたのが1926(大正15)年2月1日のことだった。しかしこの2年後には、機関車の煤煙が原因で起きた事故としては最悪のものである「柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故」が発生することになる。

 鉄道が「汽車」であった時代、現代人には想像もつかないような課題と苦労があったのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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