目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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岡山県玉野市バス転落事故(1969年)

 1969(昭和44)年3月19日のことである。

 

 場所は岡山県玉野市槌ヶ原の国道30号線。早朝の午前7時、ここを玉野発岡山行きのバスが走行していた。

 

 このバスは両備バスと呼ばれるもので、なんか岡山県南部を主要営業エリアとしている両備グループというのがあるらしい。そこで運営しているバスだった。

 

 中には通勤通学のために20人ほどの人が乗っていた。ところが、そこへセンターラインを越えて、中西運送という運送会社のトラックが接近してきたのである。

 

 バスとトラックは接触。トラックがどうなったのかは不明だが、不運なのはバスの方だった。道路から8メートル下の池へ転落したのである。ご丁寧に、参考資料にはこの池のサイズも書いてあったので記しておくと、縦50メートル、横60メートル、深さ5メートル。なかなかの大きさである。

 

 これにより、乗客20人のうち9人が死亡。この中には、短大受験に向かう途中だった18歳の女の子2人も含まれていたという。

 

 トラックの運転手は無事だったようだ。事故当時は材木を運んでいる最中だったのだが、朝っぱらからの運転だったせいか居眠り運転をしていたらしい。


【参考資料】

◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

 

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徳島県勝浦バス転落事故(1970年)

 ここまでバス事故の歴史を書いてきて、おやっと気付いたことがある。昭和40年代に入ったら、事故の発生ペースがぐっと落ち込んだのだ。

 

 ひどい場合には1~2年で何回も発生していた大規模なバス事故が、昭和40年代からは1年に1回程度のペースに落ち着いている。

 

 とはいえ、交通事故そのものが減ったわけでもなさそうだ。試しに、昭和46年版の犯罪白書を紐解いてみよう。それによると、自家用乗用車の普及によって、バスなどの事業用自動車の事故の割合が減った――のだそうな。

 

 つまり、交通事故のパターンに変化が出てきたのである。それまで人々は、たびたび大型交通機関を利用して大人数で移動していた。だが家庭でもマイカー(この言葉が広まり始めるのも昭和40年代)を持つことができるようになり、個人や家族単位での小規模な移動が増えたのだ。

 

 その結果、交通事故のパターンも変わったのだろう。マイカーでの事故が増えるかわりに、バスの事故は減った。そういうことだ。

 

 昭和40年代、確かに当「事故災害研究室」で取り上げる程の規模の事故は減ったのだ。だが実際にはその裏で、マイカーによる事故が数え切れないくらい起きていたに違いない。

 

 また、めったに事故が起きない交通機関がひとたび事故ると、その被害は大規模かつ悲惨なものになってしまうという事故災害の法則も存在する。

 

 少し思い出してもらえば分かる。航空機や鉄道は、自家用車ほど事故発生率が高くない。だが一度事故れば大惨事になる。変な言い方になるが、小規模な事故が多発することにより、事故が「小出し」にされて、大規模な事故は抑えられているとも言えるかも知れない。

 

 バス事故の発生件数は確かに減った。だがそれは同時に、ひとたび事故れば大惨事、ということで殿堂入りしたということも意味するのである。

 

 実際、名神高速道路の開通によってハイウェイバスというものが開業したのが1964(昭和39)年で、東名高速道路の開通に合わせて夜行バスが誕生したのが1969(昭和44)年。

 

 そして高速バスが事故ればどんなことになるか、我々は知らないわけではない。

 

 今回ご紹介するのは、高速バスとは関係ない。とりあえず、そんな時代状況の中で発生したケースである。

 

 1970(昭和45)年、8月29日のこと。

 

 時刻は午後7時30分。徳島県勝浦郡、上勝町正木の県道を一台のバスが走っていた。小松市で出していた市営の貸切バスである。

 

 乗っていたのは、勝浦農業改良普及所管内の農業団体のメンバーが17人。この日は、徳島市文化センターで「全国農業コンクール」とやらが開催されており、その帰り道だった。

 

 もともと、このバスには運転手や車掌を含めて40人程が乗っていたという。各地で乗客を下ろしたため、この人数になったのだ。

 

 時刻も時刻だし、あとは残りの乗客を下ろして店じまい――。きっとそういうタイミングだったに違いない。

 

 ところがここで不幸が起きる。なんと、一匹の猫がバスの前を横切ったのだ。

 

「わっ、ぬこ!」

 

 というわけで事故である。運転手は、これを避けようとしてハンドルを切った。それでバスは道路から外れてしまい、60メートル下の勝浦川に転落したのだった。

 

 これにより5人が死亡した。

 

 ハンドル操作をミスった運転手が無事だったかどうかは不明だが、やり切れない話だ。ぬことは言え、ひとつの命を救うための咄嗟の判断が、逆に複数の命を奪う結果になってしまったのだから。

 

 これ、事故とは全然関係ない話で恐縮なのだが、「多数の命を救うために一人を殺すのは正義か?」という倫理学上の難問がある。

 

 ひと頃話題になったサンデル教授も取り上げていたが、その例でよく出されるのが「トロッコ問題」だ。煩雑になるので詳細は省くが、この「トロッコ問題」はややこしすぎる。もっと、こういうバス事故のようなシンプルかつ身近な事例でいいと思う。

 

 なんかまとまりのない文章になってしまったが、まあいいか。

 

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆ウェブサイト『高速バスの歴史』
http://www.paraguaycrawler.com/rekishi.html

 

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岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)

 なんか昭和40年代は、岐阜県でバス事故が頻発していたようだ。道路状況が悪かったのだろうか。

 

 1970(昭和45)年11月3日、午後5時35分のことである。

 

 岐阜県の、大野郡高根村中洞の県道・高山木曽福島線(現在の高山市高根町中洞の361号線)を一台のマイクロバスが走っていた。

 

 当時の新聞の記録では、このバスには「南組」という組織のメンバー9人(うち4人は女性)と運転手1名が乗っていたという。目的地は不明だが、砂防工事の手伝いのためだったとか。だから南組というのは建設会社か何かだろう。調べてみると今も㈱南組というのがあるようなので、おそらくそれではないか。

 

 さてそれでこのバス、朝日ダム沿いに差しかかったところで別のバスとすれ違った。これは地元の濃飛バスという会社の定期便である。

 

 で、どうした加減か、南組のマイクロバスの方がすれ違った拍子に10メートル下のダムへと転落してしまったのである。

 

 転落と水没が重なると、バス事故は容易に大惨事になる。乗っていた10人は全員死亡した。

 

 これ、資料を読んだ限りでは原因は不明である。それで朝日ダムのことをウィキペディアでちょっと調べてみると、かつてこのダム沿いの361号線というのは、もともと落石や転落の危険性が高い隘路であったという。だから今は秋神ダム沿いのバイパスが、交通の主流になっているようだ。事故が起きるのもむべなるかな、だったのかも知れない。

 

 ここまで書いて気付いたが、バス事故の「転落+水没」というパターンも、どうも昭和40年代から増えてきている気がする。まず飛騨川の事故がそうだし、さらに時代が下るとスキーバス事故も起きている。

 

 街中を走行するバスの場合は、こういうパターンはそう多くない。人里に、バスが水没するほどの湖や池はないからだ。

 

 つまり、街中を通るバスが安全になっていった代わりに、観光地やレジャー施設を目指すバスが増えてきたのだろう。些細なことだが、このあたりにも当時の時代状況が少し感じられる。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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青木湖バス転落事故(1975年)

 1975年(昭和50年)1月1日、11時20分頃のことである。

 1台のバスが、長野県大町市平区の市道である青木―神城線を走行していた。

 このバスは「平和島観光」という観光会社のスキー客62人を、ホテルへ送迎している真っ最中だった。そして間もなく青木湖畔の道路に差しかかろうとしていた。

 平和島観光というのは、東京都大田区平和島に当時あった(今もあるかどうかは不明)観光会社である。バスの目的地のホテルとスキー場は国鉄簗場駅から北へ約2~3キロほどの場所にあり、これは平和島観光がエビスマの広大な土地を買い取り3年前に開発・建設したものだった。バスは、この区間を1日に14回、無料で往復していた。

 ただし開発が進められたこの大町市エビスマという地区は、都市計画上、自然美の保全が優先される「風致地区」でもあった。よって自然保護団体からの反発も強く、開発するかどうかで揉めたいわくつきのスキー場でもあったという。

 さてこのバス、まず出発時には30人近くを乗車させ、また途中で青木地区の民宿で20人ほどを乗せたものだから、乗客は62人という大人数になっていた。これはすでに定員の倍近くの人数で、ちょっとバランスを崩せば簡単に横転しそうな状態だったのだ。後に救助された乗客も「足の踏み場もなかった」と証言している。

 惨劇は、これが青木湖畔の急カーブに差しかかった時に起きた。そこは幅4メートルの坂道だったのだが、スリップして曲がり切れなくなってしまったのだ。バスはたちまち脱輪して高さ30メートルの崖から落下、バキバキと音を立てて杉や雑木をなぎ倒して青木湖に浸かったのである。

 バスは数秒でいったん沈んだもののすぐに一度浮き上がり、それから5分ほどで完全に水没。ぎゅうぎゅう詰めの車内には女性や子供の悲鳴が響き渡り、何人かが「窓を開けろ」の声に従って夢中で逃げ出したという。

 乗客の運命の明暗を分けたのは、バスの落下の際の角度であった。前部を下にして落下したため、犠牲者はほとんどそちらに集中したのである(もっとも運転手は助かっているのだが)。逆に、脱出して助かった者の多くは車体後部にいた乗客だった。

 結果、バスの乗員2名と乗客36名の合計38名が無事に脱出。しかし事故発生直後には1人の死亡がすぐに確認され、さらに残る23名が行方不明。イカンこりゃ正月早々洒落にならん、ということで、気温が1度で水温が6度という恐るべき厳寒の中で救出活動が行われた。これには警察署、機動隊、消防団の500人あまりが出動したという。

 しかし水深30メートルとあって救助活動は難航した。ボートで犠牲者を捜索し、さらにロープで造った網と大型レッカー2台を用いてバスを引き揚げようとするが、なかなかうまくいかない。そこで潜水夫が呼び出された。

 ここで呼ばれた潜水夫6名は、1日の夜10時過ぎから潜水で捜索。翌日の午前0時半までに2遺体を収容していったん作業を打ち切り、翌朝8時半から再び開始した。そして夕方までの間には男女21名の遺体を次々に発見した。

 どの犠牲者もバスの下敷きになっていたり、車内に閉じ込められたままになっていたという。遺体は大町市内の大沢寺という寺に収容された。

 乗車していたのは、ほとんどが正月スキーを楽しむためにやってきた都会の若者たちだった。彼らは夏頃から民宿を予約してきたのだが、そこで事故に遭遇してしまったのだった。

 当時運転していたH運転手(36歳)は助かっており、事故の経緯を以下のように説明している。

「当時のバス内は乗客で鮨詰め状態だった。それで乗り降りする時のステップ部分にも乗客がいたため、運転席の左側にあるサイドミラーが見えなくなっていた」。

 これがよくなかった。H運転手は見えない左ばかりを注意するあまり、バスを右へ寄せ過ぎていたのだ。それでいざ左カーブに差しかかった時にスリップして曲がり切れなくなったのである。当時、道路は未舗装でしかも凍結していた。

 これは筆者も経験がある。車のフロントガラスの窓枠やサイドミラーに雪や氷が付着して見えにくくなっていると、そちら側をこすらないように気遣うあまり反対側に車を寄せ過ぎてしまうのだ。

 またH運転手の運転も、あまり丁寧とは言えなかったようである。無事に救助された乗客の一人が「いくら慣れた道とはいえ、乱暴な運転でハラハラしていたんだ」と新聞社の質問に答えているのだ。

 この運転手は、事故が起きた1日の午後2時には業務上過失致死と道交法違反の現行犯で逮捕された。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア
◇個人ブログ記事『重大バス事故の歴史』

http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.html
◇山形新聞

 

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犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)

 1985年に起きたこのバス事故は、「犀川(さいかわ)スキーバス転落事故」「笹平ダムスキーバス転落事故」などの名称で親しまれて――失礼――呼ばれている。まあ別に名称なんてどっちでもいいのだが、ここは両取りで「犀川・笹平ダムスキーバス転落事故」と表記することにしよう。これぞ漁夫の利というやつである(違う)。

 犀川という河川は全国に数あるが、今回の事故の舞台となったのは長野県内を流れるほうだ。

 笹平ダムは、水力発電用にと1952年(昭和27年)に犀川に造られた。管理しているのは、今をときめく東京電力である。治水機能はなく、洪水の原因になるとして周辺住民から批判を受けたこともあるという、なかなか曰くつきの代物だ。

 このダムが形成する人造湖にて、事故は起きた。

 1985年1月28日の早朝。おそらくまだ夜も明けていなかったであろう、午前5時45分のことである。犀川にかかる大安寺橋という橋に、3台のバスが差しかかった。

 事故を起こしたのは、この3台のうちの最後尾のバスである。

 このバスは三重交通の貸切バスで、くだんの3台目には日本福祉大の学生ら46人が乗車していた。この大学では26日に後期試験が終わったばかりで、28日から30日までの間、体育の授業の一環としてスキー教室を行う予定だったのだ。目的地は北志賀高原の竜王スキー場。深夜の移動ということで、学生たちはバス内で休んでいた。

 問題はこの、大安寺橋のあたりの道路状況である。この道路は国道19号線で、幅は9メートルと決して広くない。そして前日から雪が降っており積雪量は15センチ。冷え込みも激しく、路面は凍結し切っていた。北国の路面状況としては、もっとも恐るべきパターンである。

 にもかかわらず、バスの装備は充分とは言いがたかった。当時はすでにスパイクタイヤが普及していたはずだが、このバスは前輪・後輪ともに普通タイヤ。チェーンは一応巻かれてはいたが、ダブルタイヤのうち外側だけにしか装着していなかったという。

 はい、ここまで説明すればもうお分かりですね。

 事故を起こすことになった最後尾のバスは、橋の手前の直線コースからS字カーブに入ったところで曲がり切れなくなってしまった。しかもそこは緩い下り坂で、ハンドルももう利かない。ガードレールをぶち破り、厳寒のダム湖へダイビングしたのである。

 ガツン、ドーン! 学生諸君が眠りにつき、静かだった車内に突如として異音が響き渡る。なんだなんだと騒ぐ余裕もなく車内灯は消え、バスは6メートル下のダム湖へ落下していった。湖面の一部には氷も張っていたという。

 車体がボチャリと浸かるのと同時に、割れた窓ガラスから凍てつくような湖水が流れ込んできた。ダム湖の水深は4~5メートル。たちまち水没していくバスから、学生たちは命からがら脱出を試みた。湖面には赤、黄色、青などの派手なアノラックや荷物が散乱し、なんとか脱出して湖岸へ泳ぐ者たちの顔は血まみれだったという。地獄絵図だ。

 バスは最終的に、後部がわずかにしか見えなくなるまで水没した。前方から飛び込む形でダイブしたのだろう。

 ただちに救助活動が行われた。当時ダムの近くには、修繕工事を担当していた前田建設工業の作業員が宿泊しており、まず彼らが救助を行い、それから長野中央署、長野南署、機動隊も駆けつけ、凍えるような寒さの中で必死の捜索活動が行われた。

 ちなみにこの時、ひとりの全盲の学生が無事に救助されたことで話題になっている。彼は極めて冷静に「心の目」でもって脱出経路を確認し、無事に岸に泳ぎ着いたのだ。

 とはいえそんなのは奇跡的なエピソードである。乗客46名のうち、大学生22名と引率の教員1名、運転手2名の計25人が脱出できずに水死した。また救助された21名のうち、少なくとも8名は重軽傷を負っている。

 現場の道路には、15メートルのスリップ痕が残っていた。制限速度は50キロと定められていたが、しかしそこは地元の人が「魔のS字カーブ」と呼んでいたとかなんとか(新聞記者が勝手に名前をつけただけのような気もするが。地元の人はせいぜい「危険なカーブ」程度の言い方をしたのだろう)。

 というわけで責任の追及である。裁判である。悪いのは誰なのか?

 まず一番に悪いのはバスの運転手で、これは動かしようがない。この事故は実に典型的なスリップ事故で、要するに運転ミスによって引き起こされたのだ。しかし、当時バス内で交互にハンドルを握っていたという2名の運転手はすでに死亡している。直接的な責任は問えない。

 というわけで、今度はバスの運行管理をしていた三重交通である。さっそく調べてみたところ、運転手に休みなしの「過密勤務」を強いており、それを黙認して勤務表を作っていた実態が明らかになっていったのだ。ビンゴである。運転手は過労状態にあり、おそらく居眠りかなにかで正常な運行能力を欠いていたのだろう。

 死亡した運転手は、事故の前には2週間も休みをもらえず、深夜の長距離バス運転で働きづめだったという。筆者はその2週間分の勤務状況までは入手できなかったが、事故直前の3日分ほどは分かったので記しておこう。

 ●1月24日:新潟県の赤倉温泉スキー場へお客の送迎。
 ●1月25日~26日:早朝から、通常の路線バス業務。
 ●1月27日:3時間の休憩後、長野県の竜王スキー場へ送迎。ここで事故る。

 いやあ、これは死ぬよ。この調子で、この倍以上の時間も働かせてたんかい。

 当世ふうの言い方をすれば三重交通は「ブラック企業」で、死亡した運転手は「社畜」だったということだろう。

 ちなみに柳田邦夫によると、事故がもっとも起きやすい時間帯というのがあって、それが早朝の4時から5時にかけてだという。この事故はなにからなにまで典型的な過労事故でもあった、といえそうだ。

 バス会社には運行主任という役職があるらしい。それで三重交通四日市営業所の路線バス運行主任は、運転手の勤務実態を知りながら無茶苦茶な勤務表を作ったのだった。そして会社もそれを黙認していたのだ。

 ちなみに三重交通は、これより前の3月の時点で中部運輸局による行政処分を受けている。「罪状」は輸送の安全確保に手落ちがあったというもので、8台の観光バスについて14日間ずつ、つまりのべ112日間の使用停止を食らったのだった。これはバス会社に対する行政処分としては当時最高のものだったそうだが、この記録は今も破られていないのかどうかが気になるところである。

 さてしかし、裁判は意外な展開を辿った。

 まず長野県警と長野中央警察署は、以下の内容でそれぞれ長野地方検察庁に書類送検(※1)している。

 ●運行主任:道路交通法75条違反(過労運転の命令)
 ●三重交通:道路交通法123条違反(両罰規定)
 ●死亡した運転手:業務上過失致死傷罪と道路交通法66条違反(過労運転)

 事故から半年以上が経った、1985年9月4日のことだった。

 ところが、である。長野地方検察庁は1986年6月30日、「運転手の過労を科学的に立証するのは困難」だという結論を下したのだった。不起訴処分である。

 おそらくこれは、誰にとっても意外な結論だっただろう。事故の被害者や遺族はこれを不服として、7月28日に長野検察審査会へ審査申し立てを行った。だがそれも、翌年の4月28日には「やっぱり不起訴でいんじゃね」という回答が出されている。

 まあ確かにね。運転手が死亡している以上、その疲労度を具体的に確認するのは難しいところであろう。解剖すれば体内からポコンと証拠が飛び出してくる、というわけでもないだろうし……。

 また同じ疲労度でも、事故を起こす人と起こさない人もいるだろう。もちろん普通の感覚ならば「2週間も徹夜で働かされて疲れない奴がおるかい」と、もの申したいところではあるが。

 ただし津地方検察庁は、上述の路線バス運行主任と三重交通本社・四日市営業所を、労働法違反ということで四日市簡易裁判所へ略式起訴(※2)している。

 (※1)ちなみに豆知識だが、書類送検というのは「逮捕しないで起訴する」やり方であり、(※2)略式起訴というのは「簡単な裁判」と考えて頂ければよろしい。争う必要がなく、罰金や科料で済む程度の簡単な事件はこれでもって処理されるのだ。この事件に関しては、略式起訴された3者は、労働法に関する罰金と、営業停止の行政処分で済んだということである。

 こうして、犀川・笹平ダムスキーバス転落事故は一応の完結をみた。

 1987年9月13日には事故現場に慰霊碑が建立され、今もダム湖畔にはこれが静かに佇んでいるという。事故が起きた道路そのものはまだ残っているが、バスが渡るはずだった大安寺橋はその後撤去された。現場では、慰霊碑のみが事故を偲ぶ手がかりとなっているようである。

 とはいえ事故当時、25名の遺体を収容した正源寺では、今も命日と盆には遺族会と三重交通と日本福祉大による法要が営まれている。

 さらに日本福祉大では事故のあった1月28日を「安全の日」と定め、慰霊行事を行っている。ウィキペディアによると、この行事は2005年以降は不定期になったと書かれているが、確認してみたところ2011年はちゃんと1月28日に執り行われていた。

 この大学のキャンパス内には、当時犠牲になった学生と同じ数の桜が植えられているという。桜の成長のスピードがどれくらいなのかはよく知らないが、20数年も経てばそれなりの大きさになっていることだろう。どうやらこの事故で、現在もっとも簡単に触れられる「慰霊碑」は、この桜ということになりそうだ。

 さしずめ「慰霊樹」とでもいったところか。

 名古屋まで行く機会はなかなかないけれども、見て手を合わせてみたいものだと思う。

 

【参考資料】
 ◆ウィキペディア
 ◆山形新聞
 ◆日本福祉大ホームページ

 

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