目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)

 なんか昭和40年代は、岐阜県でバス事故が頻発していたようだ。道路状況が悪かったのだろうか。

 

 1970(昭和45)年11月3日、午後5時35分のことである。

 

 岐阜県の、大野郡高根村中洞の県道・高山木曽福島線(現在の高山市高根町中洞の361号線)を一台のマイクロバスが走っていた。

 

 当時の新聞の記録では、このバスには「南組」という組織のメンバー9人(うち4人は女性)と運転手1名が乗っていたという。目的地は不明だが、砂防工事の手伝いのためだったとか。だから南組というのは建設会社か何かだろう。調べてみると今も㈱南組というのがあるようなので、おそらくそれではないか。

 

 さてそれでこのバス、朝日ダム沿いに差しかかったところで別のバスとすれ違った。これは地元の濃飛バスという会社の定期便である。

 

 で、どうした加減か、南組のマイクロバスの方がすれ違った拍子に10メートル下のダムへと転落してしまったのである。

 

 転落と水没が重なると、バス事故は容易に大惨事になる。乗っていた10人は全員死亡した。

 

 これ、資料を読んだ限りでは原因は不明である。それで朝日ダムのことをウィキペディアでちょっと調べてみると、かつてこのダム沿いの361号線というのは、もともと落石や転落の危険性が高い隘路であったという。だから今は秋神ダム沿いのバイパスが、交通の主流になっているようだ。事故が起きるのもむべなるかな、だったのかも知れない。

 

 ここまで書いて気付いたが、バス事故の「転落+水没」というパターンも、どうも昭和40年代から増えてきている気がする。まず飛騨川の事故がそうだし、さらに時代が下るとスキーバス事故も起きている。

 

 街中を走行するバスの場合は、こういうパターンはそう多くない。人里に、バスが水没するほどの湖や池はないからだ。

 

 つまり、街中を通るバスが安全になっていった代わりに、観光地やレジャー施設を目指すバスが増えてきたのだろう。些細なことだが、このあたりにも当時の時代状況が少し感じられる。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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青木湖バス転落事故(1975年)

 1975年(昭和50年)1月1日、11時20分頃のことである。

 1台のバスが、長野県大町市平区の市道である青木―神城線を走行していた。

 このバスは「平和島観光」という観光会社のスキー客62人を、ホテルへ送迎している真っ最中だった。そして間もなく青木湖畔の道路に差しかかろうとしていた。

 平和島観光というのは、東京都大田区平和島に当時あった(今もあるかどうかは不明)観光会社である。バスの目的地のホテルとスキー場は国鉄簗場駅から北へ約2~3キロほどの場所にあり、これは平和島観光がエビスマの広大な土地を買い取り3年前に開発・建設したものだった。バスは、この区間を1日に14回、無料で往復していた。

 ただし開発が進められたこの大町市エビスマという地区は、都市計画上、自然美の保全が優先される「風致地区」でもあった。よって自然保護団体からの反発も強く、開発するかどうかで揉めたいわくつきのスキー場でもあったという。

 さてこのバス、まず出発時には30人近くを乗車させ、また途中で青木地区の民宿で20人ほどを乗せたものだから、乗客は62人という大人数になっていた。これはすでに定員の倍近くの人数で、ちょっとバランスを崩せば簡単に横転しそうな状態だったのだ。後に救助された乗客も「足の踏み場もなかった」と証言している。

 惨劇は、これが青木湖畔の急カーブに差しかかった時に起きた。そこは幅4メートルの坂道だったのだが、スリップして曲がり切れなくなってしまったのだ。バスはたちまち脱輪して高さ30メートルの崖から落下、バキバキと音を立てて杉や雑木をなぎ倒して青木湖に浸かったのである。

 バスは数秒でいったん沈んだもののすぐに一度浮き上がり、それから5分ほどで完全に水没。ぎゅうぎゅう詰めの車内には女性や子供の悲鳴が響き渡り、何人かが「窓を開けろ」の声に従って夢中で逃げ出したという。

 乗客の運命の明暗を分けたのは、バスの落下の際の角度であった。前部を下にして落下したため、犠牲者はほとんどそちらに集中したのである(もっとも運転手は助かっているのだが)。逆に、脱出して助かった者の多くは車体後部にいた乗客だった。

 結果、バスの乗員2名と乗客36名の合計38名が無事に脱出。しかし事故発生直後には1人の死亡がすぐに確認され、さらに残る23名が行方不明。イカンこりゃ正月早々洒落にならん、ということで、気温が1度で水温が6度という恐るべき厳寒の中で救出活動が行われた。これには警察署、機動隊、消防団の500人あまりが出動したという。

 しかし水深30メートルとあって救助活動は難航した。ボートで犠牲者を捜索し、さらにロープで造った網と大型レッカー2台を用いてバスを引き揚げようとするが、なかなかうまくいかない。そこで潜水夫が呼び出された。

 ここで呼ばれた潜水夫6名は、1日の夜10時過ぎから潜水で捜索。翌日の午前0時半までに2遺体を収容していったん作業を打ち切り、翌朝8時半から再び開始した。そして夕方までの間には男女21名の遺体を次々に発見した。

 どの犠牲者もバスの下敷きになっていたり、車内に閉じ込められたままになっていたという。遺体は大町市内の大沢寺という寺に収容された。

 乗車していたのは、ほとんどが正月スキーを楽しむためにやってきた都会の若者たちだった。彼らは夏頃から民宿を予約してきたのだが、そこで事故に遭遇してしまったのだった。

 当時運転していたH運転手(36歳)は助かっており、事故の経緯を以下のように説明している。

「当時のバス内は乗客で鮨詰め状態だった。それで乗り降りする時のステップ部分にも乗客がいたため、運転席の左側にあるサイドミラーが見えなくなっていた」。

 これがよくなかった。H運転手は見えない左ばかりを注意するあまり、バスを右へ寄せ過ぎていたのだ。それでいざ左カーブに差しかかった時にスリップして曲がり切れなくなったのである。当時、道路は未舗装でしかも凍結していた。

 これは筆者も経験がある。車のフロントガラスの窓枠やサイドミラーに雪や氷が付着して見えにくくなっていると、そちら側をこすらないように気遣うあまり反対側に車を寄せ過ぎてしまうのだ。

 またH運転手の運転も、あまり丁寧とは言えなかったようである。無事に救助された乗客の一人が「いくら慣れた道とはいえ、乱暴な運転でハラハラしていたんだ」と新聞社の質問に答えているのだ。

 この運転手は、事故が起きた1日の午後2時には業務上過失致死と道交法違反の現行犯で逮捕された。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア
◇個人ブログ記事『重大バス事故の歴史』

http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.html
◇山形新聞

 

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犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)

 1985年に起きたこのバス事故は、「犀川(さいかわ)スキーバス転落事故」「笹平ダムスキーバス転落事故」などの名称で親しまれて――失礼――呼ばれている。まあ別に名称なんてどっちでもいいのだが、ここは両取りで「犀川・笹平ダムスキーバス転落事故」と表記することにしよう。これぞ漁夫の利というやつである(違う)。

 犀川という河川は全国に数あるが、今回の事故の舞台となったのは長野県内を流れるほうだ。

 笹平ダムは、水力発電用にと1952年(昭和27年)に犀川に造られた。管理しているのは、今をときめく東京電力である。治水機能はなく、洪水の原因になるとして周辺住民から批判を受けたこともあるという、なかなか曰くつきの代物だ。

 このダムが形成する人造湖にて、事故は起きた。

 1985年1月28日の早朝。おそらくまだ夜も明けていなかったであろう、午前5時45分のことである。犀川にかかる大安寺橋という橋に、3台のバスが差しかかった。

 事故を起こしたのは、この3台のうちの最後尾のバスである。

 このバスは三重交通の貸切バスで、くだんの3台目には日本福祉大の学生ら46人が乗車していた。この大学では26日に後期試験が終わったばかりで、28日から30日までの間、体育の授業の一環としてスキー教室を行う予定だったのだ。目的地は北志賀高原の竜王スキー場。深夜の移動ということで、学生たちはバス内で休んでいた。

 問題はこの、大安寺橋のあたりの道路状況である。この道路は国道19号線で、幅は9メートルと決して広くない。そして前日から雪が降っており積雪量は15センチ。冷え込みも激しく、路面は凍結し切っていた。北国の路面状況としては、もっとも恐るべきパターンである。

 にもかかわらず、バスの装備は充分とは言いがたかった。当時はすでにスパイクタイヤが普及していたはずだが、このバスは前輪・後輪ともに普通タイヤ。チェーンは一応巻かれてはいたが、ダブルタイヤのうち外側だけにしか装着していなかったという。

 はい、ここまで説明すればもうお分かりですね。

 事故を起こすことになった最後尾のバスは、橋の手前の直線コースからS字カーブに入ったところで曲がり切れなくなってしまった。しかもそこは緩い下り坂で、ハンドルももう利かない。ガードレールをぶち破り、厳寒のダム湖へダイビングしたのである。

 ガツン、ドーン! 学生諸君が眠りにつき、静かだった車内に突如として異音が響き渡る。なんだなんだと騒ぐ余裕もなく車内灯は消え、バスは6メートル下のダム湖へ落下していった。湖面の一部には氷も張っていたという。

 車体がボチャリと浸かるのと同時に、割れた窓ガラスから凍てつくような湖水が流れ込んできた。ダム湖の水深は4~5メートル。たちまち水没していくバスから、学生たちは命からがら脱出を試みた。湖面には赤、黄色、青などの派手なアノラックや荷物が散乱し、なんとか脱出して湖岸へ泳ぐ者たちの顔は血まみれだったという。地獄絵図だ。

 バスは最終的に、後部がわずかにしか見えなくなるまで水没した。前方から飛び込む形でダイブしたのだろう。

 ただちに救助活動が行われた。当時ダムの近くには、修繕工事を担当していた前田建設工業の作業員が宿泊しており、まず彼らが救助を行い、それから長野中央署、長野南署、機動隊も駆けつけ、凍えるような寒さの中で必死の捜索活動が行われた。

 ちなみにこの時、ひとりの全盲の学生が無事に救助されたことで話題になっている。彼は極めて冷静に「心の目」でもって脱出経路を確認し、無事に岸に泳ぎ着いたのだ。

 とはいえそんなのは奇跡的なエピソードである。乗客46名のうち、大学生22名と引率の教員1名、運転手2名の計25人が脱出できずに水死した。また救助された21名のうち、少なくとも8名は重軽傷を負っている。

 現場の道路には、15メートルのスリップ痕が残っていた。制限速度は50キロと定められていたが、しかしそこは地元の人が「魔のS字カーブ」と呼んでいたとかなんとか(新聞記者が勝手に名前をつけただけのような気もするが。地元の人はせいぜい「危険なカーブ」程度の言い方をしたのだろう)。

 というわけで責任の追及である。裁判である。悪いのは誰なのか?

 まず一番に悪いのはバスの運転手で、これは動かしようがない。この事故は実に典型的なスリップ事故で、要するに運転ミスによって引き起こされたのだ。しかし、当時バス内で交互にハンドルを握っていたという2名の運転手はすでに死亡している。直接的な責任は問えない。

 というわけで、今度はバスの運行管理をしていた三重交通である。さっそく調べてみたところ、運転手に休みなしの「過密勤務」を強いており、それを黙認して勤務表を作っていた実態が明らかになっていったのだ。ビンゴである。運転手は過労状態にあり、おそらく居眠りかなにかで正常な運行能力を欠いていたのだろう。

 死亡した運転手は、事故の前には2週間も休みをもらえず、深夜の長距離バス運転で働きづめだったという。筆者はその2週間分の勤務状況までは入手できなかったが、事故直前の3日分ほどは分かったので記しておこう。

 ●1月24日:新潟県の赤倉温泉スキー場へお客の送迎。
 ●1月25日~26日:早朝から、通常の路線バス業務。
 ●1月27日:3時間の休憩後、長野県の竜王スキー場へ送迎。ここで事故る。

 いやあ、これは死ぬよ。この調子で、この倍以上の時間も働かせてたんかい。

 当世ふうの言い方をすれば三重交通は「ブラック企業」で、死亡した運転手は「社畜」だったということだろう。

 ちなみに柳田邦夫によると、事故がもっとも起きやすい時間帯というのがあって、それが早朝の4時から5時にかけてだという。この事故はなにからなにまで典型的な過労事故でもあった、といえそうだ。

 バス会社には運行主任という役職があるらしい。それで三重交通四日市営業所の路線バス運行主任は、運転手の勤務実態を知りながら無茶苦茶な勤務表を作ったのだった。そして会社もそれを黙認していたのだ。

 ちなみに三重交通は、これより前の3月の時点で中部運輸局による行政処分を受けている。「罪状」は輸送の安全確保に手落ちがあったというもので、8台の観光バスについて14日間ずつ、つまりのべ112日間の使用停止を食らったのだった。これはバス会社に対する行政処分としては当時最高のものだったそうだが、この記録は今も破られていないのかどうかが気になるところである。

 さてしかし、裁判は意外な展開を辿った。

 まず長野県警と長野中央警察署は、以下の内容でそれぞれ長野地方検察庁に書類送検(※1)している。

 ●運行主任:道路交通法75条違反(過労運転の命令)
 ●三重交通:道路交通法123条違反(両罰規定)
 ●死亡した運転手:業務上過失致死傷罪と道路交通法66条違反(過労運転)

 事故から半年以上が経った、1985年9月4日のことだった。

 ところが、である。長野地方検察庁は1986年6月30日、「運転手の過労を科学的に立証するのは困難」だという結論を下したのだった。不起訴処分である。

 おそらくこれは、誰にとっても意外な結論だっただろう。事故の被害者や遺族はこれを不服として、7月28日に長野検察審査会へ審査申し立てを行った。だがそれも、翌年の4月28日には「やっぱり不起訴でいんじゃね」という回答が出されている。

 まあ確かにね。運転手が死亡している以上、その疲労度を具体的に確認するのは難しいところであろう。解剖すれば体内からポコンと証拠が飛び出してくる、というわけでもないだろうし……。

 また同じ疲労度でも、事故を起こす人と起こさない人もいるだろう。もちろん普通の感覚ならば「2週間も徹夜で働かされて疲れない奴がおるかい」と、もの申したいところではあるが。

 ただし津地方検察庁は、上述の路線バス運行主任と三重交通本社・四日市営業所を、労働法違反ということで四日市簡易裁判所へ略式起訴(※2)している。

 (※1)ちなみに豆知識だが、書類送検というのは「逮捕しないで起訴する」やり方であり、(※2)略式起訴というのは「簡単な裁判」と考えて頂ければよろしい。争う必要がなく、罰金や科料で済む程度の簡単な事件はこれでもって処理されるのだ。この事件に関しては、略式起訴された3者は、労働法に関する罰金と、営業停止の行政処分で済んだということである。

 こうして、犀川・笹平ダムスキーバス転落事故は一応の完結をみた。

 1987年9月13日には事故現場に慰霊碑が建立され、今もダム湖畔にはこれが静かに佇んでいるという。事故が起きた道路そのものはまだ残っているが、バスが渡るはずだった大安寺橋はその後撤去された。現場では、慰霊碑のみが事故を偲ぶ手がかりとなっているようである。

 とはいえ事故当時、25名の遺体を収容した正源寺では、今も命日と盆には遺族会と三重交通と日本福祉大による法要が営まれている。

 さらに日本福祉大では事故のあった1月28日を「安全の日」と定め、慰霊行事を行っている。ウィキペディアによると、この行事は2005年以降は不定期になったと書かれているが、確認してみたところ2011年はちゃんと1月28日に執り行われていた。

 この大学のキャンパス内には、当時犠牲になった学生と同じ数の桜が植えられているという。桜の成長のスピードがどれくらいなのかはよく知らないが、20数年も経てばそれなりの大きさになっていることだろう。どうやらこの事故で、現在もっとも簡単に触れられる「慰霊碑」は、この桜ということになりそうだ。

 さしずめ「慰霊樹」とでもいったところか。

 名古屋まで行く機会はなかなかないけれども、見て手を合わせてみたいものだと思う。

 

【参考資料】
 ◆ウィキペディア
 ◆山形新聞
 ◆日本福祉大ホームページ

 

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豊浜トンネル崩落事故(1996年)

 この事故が起きた時、筆者は中学生だった。

 当時、学校から帰ると、テレビで岩盤の爆破作業の生中継をやっていたのを覚えている。その時の記憶があまりに強烈で、いまだにトンネルを通過するさいに怖くなることがある。

 事故は1996年2月10日、午前8時10分頃に発生した。北海道後志(しりべし)管内の古平町(ふるびらちょう)の豊浜トンネルでのことだった。

 厳密に言えば、この豊浜トンネルは古平町と余市町(よいちちょう)を結ぶもので、事故は古平町側の出入り口付近で起きたのだった。トンネルの真上にあった巨大な岩盤が崩れ落ち、たまたま真下を通過していた路線バスと乗用車を直撃したのである。

 この岩盤のサイズは縦横斜めで70×50×13m、体積1万立方メートル、そして重さ2万7000トンという代物だった。

 とにもかくにも重さ2万7000トンである。この岩盤をどけないことには救出作業もへちまもない。要請を受けた業者がさっそく爆薬による撤去作業を行ったが、地形のせいで準備に手間取り、また生存者がいるかも知れないということで思い切った爆破もできず、この業者は相当難儀したようである。

 この業者は、当時の記録をネット上で書き記している。文中に登場する専門用語はチンプンカンプンであるものの、その時の苦労がじわじわと感じられる文章である。

 犠牲者の家族たちは、遅々として進まない救出作業に焦り、苛立ち、時として逆上したという。だが結局、トンネルに閉じ込められていた20人は全員が遺体で発見された。即死だった。

 この豊浜トンネルでは、事故以前から落盤の危険性が指摘されていたという。「以前から危険性が指摘されていた」というのはこういう事故を説明するさいの常套句だが、書類送検された北海道開発局の元幹部2名は不起訴処分とされた。

 さらに遺族は、国を相手取って民事訴訟を起こす。しかし、賠償金の支払いは命じられたものの、責任の所在についてはうやむやなままという判決になったようだ。

 この事故の裁判の結末を見て思い出すのは、世界屈指のバス事故である飛騨川バス転落事故である。どちらも自然災害によるバス事故であるにもかかわらず、判決は180度違っているのが興味深い。

 現在、この事故があった豊浜トンネルは完全に封印されている。道路が、途中からより安全なルートに接続されたことで、それ以前のルートは寸断され封鎖されたのだ。今では、現場には船を使わないと行けないそうで、おそらくこの事故現場はこのまま「封印」されていくことになるのだろう。

 筆者は冒頭に書いた通りの思い出があるので、たぶん誘われてもこの事故の現場に行く気にはならないだろう。ただ、新しいルートのトンネル出口付近には防災祈念公園なるものがあり、そこには慰霊碑や事故関係の展示コーナーもあるという。そちらなら、出向いて手くらいは合わせたいものだとも思う。

 まあ、どのみち北海道に行く機会なんて特にないと思うので、さしあたりこの記事をもってしてひとつの「合掌」にさせて頂こうと思う。防災祈念大いに結構! 言っても信じられないかも知れないが、それもまた当研究室のテーマのひとつなのである。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア

 

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舞鶴市バス水没事故(2004年)

 2004年の10月20日から21日にかけて日本列島を襲った台風23号は、後に「激甚災害」に指定される程凄まじいものだった。

 まあ日本で「激甚災害」に指定されるのは大概は暴風雨や台風と決まっており、それも言い方は悪いが風物詩のような感もあるので、今さら「2004年の台風23号」と言われてもそれってどの台風だっけ、と記憶がごっちゃになっている方も多かろう。

 しかし「台風23号」では分からなくとも、「舞鶴市で観光バスが水没したあの事故」と言えば思い出す方もおられると思う。暴風雨による濁流のため道路で立ち往生した観光バスが、見る見るうちに水没したという一件だ。

 バスの乗客37名は、辛うじて水面に頭を出していたバスの屋根の上で恐怖の一夜を過ごし、最終的には全員が救助された。安心して読める事例である。

 

   ☆

 

 この37名というのは、兵庫県豊岡市の、もと公務員の年金受給者からなる旅行者の団体だった。よって乗客も年配が多かった。

 予定では10月19日に豊岡を出発し、1泊2日で北陸地方を回る予定だったという。
 最初、台風が接近しているという不安な情報もあったものの、とりあえず19日は予定通りに旅館に到着。雨の中の旅行だったが、ここまでは問題はなかったようだ。

 問題なのは翌朝からである。台風が遂に上陸したのだ。
 テレビのニュースを観た乗客の中には、「大丈夫なのか」と不安になる者もいたようだ。
 だが、旅行会社としてはそうそう融通を利かせることも出来ない。バスは定刻通りに出発し、午後2時までにはなんとか観光の予定を潰していった。

 さあ帰り道である。行きはよいよい帰りは怖い。高速道路が土砂崩れで通行不能という報せが届いたのが、後から考えれば前兆となった。仕方なくバスは一般道を通ることになった。

 そうこうしている内に、台風は紀伊半島に上陸しどんどん接近してくる。夕方には暴風雨も甚だしく、さすがに「今日は旅館かホテルに泊まった方がいい」という判断で乗客も運転手も意見が一致した。

 それ自体は正しい判断だった。だが時はすでに遅し。適当な宿泊施設が見つからないまま、だらだらとバスは進行し続けた。そして7時を過ぎる頃には遂に道路は冠水し、また渋滞のせいで運転もままならなくなってきた。

 7時半。参考文献によると、この時刻に由良川にかかる大川橋なる橋を渡ったところが「運命の分かれ道」だったようだ。国道175線に入って間もなく、バスは立ち往生してしまった。凄まじい冠水によって渋滞の中でエンストを起こした車があり、にっちもさっちも行かない状態に陥ったのだ。たちまちバス内は不安で満たされた。

 さっき渡ったばかりの由良川もついに氾濫し、水位はどんどん上がってくる。いよいよバス内に水が入ってきたのが夜の9時で、昇降口から浸入した泥水はたちまち乗客たちの下半身を水浸しにした。水はマフラーにも入り込んでエンジンも停止。さあ、どうするどうする。

 一時は、カーテンを切り裂いてロープを作り、民家に助けを求めるというアイデアも乗客の中から出たらしい。しかしその頃には道路も足がつかない状態だったため、この案は却下。もうバスの屋根の上に上がるしか道はない。カーテンで作った手製のロープは、この避難作業で使われることになった。
 乗客たちが助け合いながら屋根に避難し終える頃には、もはやバスの車内灯も消えていたという。

 この時、このような形で避難したのはバスの乗客たちだけではなかった。近辺では、他にも電柱に掴まって一夜を過ごしたり、自家用車を乗り捨てて近くの建物の2階に逃げ込んだ人々もいたのである。
 このように助けを待っていた人は、バスの乗客を除いても40名ほど存在していたらしい。ちなみに、乗用車は44台が水没している。

 さて、ここからの10時間が大変だった。なにせほとんどの人間が年配である。ひっきりなしに吹き付けてくる暴風雨と、バスの屋根の上を越えてくる泥水のせいでずぶ濡れになり、とにかく皆、凍えて仕方がなかった。最も高齢の男性は低体温症でかなり危ないところまで行ったようだ。

 そして恐ろしいのは低体温症ばかりではない。バス1台を水没させる程の濁流で、バスそのものもいつ流されることかと全員が気が気でなかった。携帯電話も電池が切れれば通じないし、通じたとしても、救助はいつ来るのかという明確な答えはなかなかもらえない。もう不安で不安で過呼吸に陥る者が出て来るし、持病のある高齢者は体の不調を訴えてくる。居合わせた看護士たちは大忙しだ!
 それでも、乗客たちは励まし合ったり歌を歌ったりして不安を紛らわせ、救助を待ち続けた。
 中には、流れてきた竹竿でもって、バスが流されないように近くの街路樹から支えようとするツワモノもいたという(実は参考文献を読んでも、どうしてこれで「支える」ことになるのかよく分からなかったのだが)。

 ちなみにバスの運転手は、こんな危険なところまでバスを乗り入れてしまったことに責任を感じてションボリしていたそうな。もっとも彼を責める者は誰もいなかったそうである。

 さて最初に書いた通り、彼らはおよそ10時間後には無事に救出されたのだが、救助活動はどのように進んでいたのだろう?

 もちろん、京都府も自衛隊も手をこまねいていた訳では無い。バスが水没する直前の午後9時頃には、連絡を貰った京都府から海上自衛隊に災害派遣要請が出されていた。

 しかし暴風雨、増水、夜闇の中では救助も簡単ではない――てゆうか不可能である――。ヘリは強風で飛べないし、濁流の流れは激しくゴムボートも使えない。結局、明け方に水位が下がってくるまでどうしようもなかったのだ。

 バスが水没した国道175号線からは、最終的にはバスの乗客を含む67人が救出された。こうしてようやく長い夜は明けたのだった。

 この水没事故の詳細は『バス水没事故 幸せをくれた10時間』という本に記されている。

 変なタイトルだなぁ、と思う前に、興味があれば是非一度目を通して頂きたい。この本の作者のスタンスは「この事故によって人を信じることの意味や希望を学ぶことが出来た」というもので、思わず本当かよ、とツッコミを入れたくなるところではあるが、とにかく読めば分かる。平易な文章で描かれた過酷な事故現場の状況の描写は、我々にある感慨を与えてくれるであろう。なるほどこんな極限状況に遭遇して、最後に全員救助というハッピーエンドになればこういうタイトルになるかも知れない。

 ところで、集団が一斉に事故に巻き込まれるという事例はいくらでもあるが、筆者が個人的に、この舞鶴市の事故と比較せずにおれないのは2009年に起きたトムラウシ山の遭難事故である。大人数のグループが遭難したという状況までは同じだが、かたや助け合って全員救助、かたやバラバラに離散して半分以上が凍死と、結果は180度違っている。

 もちろん細かな状況は全然違うので一概には言えないだろう。だがとにかく、被災した際に一緒にいる他人がどんな人格であるか――注意深いか、人生経験は豊富かそうでないか、思いやりがあるか――実はその程度の要因によって、人間の運命というのは呆気なく変わってしまうものなのである。

 ちなみに話ついでに言うと、この事故のことは他にも本が出ており、なんとそれは「童話」であるという。ある意味で、読んでみたい気がしなくもない。

 

【参考資料】
 ◇中島明子『バス水没事故 幸せをくれた10時間 人を深く信じた奇跡の瞬間』朝日新聞出版

 

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