目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)
ラブパレード事故(2010年・ドイツ)
航空機事故
トランスワールド航空800便墜落事故

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大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)

 年の瀬も迫るクリスマス・イブ、1995(平成7)年12月24日に起きた事故である。

 

 この日は「第40回有馬記念(中山競馬場)」のレースが行なわれていた。――と言っても筆者は競馬はサッパリなので、その意味するところは分からない。これって、大勢の人が集まるようなすごいレースだったのだろうか。

 

 たぶんそうなのだろう。大阪市北区・日本中央競馬会の場外馬券売場「ウインズ梅田」は大勢の人でごった返していた。

 

 この日は日曜日。だからもともと人が多く集まる日だったと思うのだが、この時はそれに輪をかけて多かった。なんといつもの日曜日の1.5倍、約5.600人の人が詰めかけたのだ。身動きもできない状態だったという。

 

 まさかこんなに人が来るとは、主催者側も考えていなかったのだろう。整理員は30人と、いつも通りの人数だったそうな。

 

 事故は午後3時半頃、エスカレーター(幅1.2メートル、長さ9.6メートル)で起きた。

 

 なにやら、この馬券売場にはA館というものが存在しているらしい。その3階から2階へ降りるエスカレーターに、ドッと人が押し寄せたのである。

 

 彼らは、レースが終了したので帰路についたところだった。資料を読んでいると、歌謡ショーのような暴力的な空気ではなかったようだが、おそらくエスカレーターという場所が良くなかったのだろう。一人が転倒したのを皮切りに、バタバタと将棋倒しが発生した。

 

 これに巻き込まれ、怪我をした男性の証言。
「エスカレーターの下で何人かが倒れているのを見て、慌てて逃げようとしたが、降りてくる人に押されて倒れた。生きた心地がしなかった」

 

 また、これは将棋倒しに巻き込まれた別の女性。
「人が下に溜まっており、危ないなぁと思っていた。途中で人に押され、何がなんだか分からないうちに下敷きになっていた」

 

 ギャー、バタバタバタ。場内に悲鳴が響き渡る。それでもエスカレーターはゆるゆると動き続けており、危険な状態だった。これを非常停止ボタンでストップさせたのは、悲鳴を聞いて駆けつけたアルバイトの整理員だったという。

 

 この事故により、下敷きになった人のうち男性5人、女性3人の計8人が負傷。額を切ったり、足首を捻挫するなどの怪我を負った。このうち3人が入院し、一人の男性は重傷だった。

 

 怖いな、エスカレーター。

 

 だが、人がたくさん来たら危ないのでそのときはエスカレーターは止めよう、という考えはあったらしい。

 

 もともと、建物の各階に監視用のモニターが設置されており、あまりに混雑した場合はストップさせる手はずになっていた。それがこのたびは何故か手が回らなかったのだった。

 

 大阪の事故については以上である。

 

 一応、あわせてご紹介しておこう。実はこの日は北海道でも親戚みたいな事故が起きていた。札幌市中央区の場外馬券売場「ウインズ札幌」でも、おんなじような将棋倒しが発生したのだ。

 

 時刻は午後4時10分頃である。B館の3階から2階に降りるエスカレーターで、客が次々に将棋倒しになった。

 

 これにより2人の女性客が、それぞれ左鎖骨を骨折したり足首を強打したりして入院。また4人が腕などに軽症を負ったそうな。

 

「ウインズ○○」にとっては、とんだ厄日だったようである。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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生駒山コンサート事故(1999年)

 奈良県生駒山の上にある遊園地「スカイランドいこま」で発生した事故である。

 と言っても、この「スカイランドいこま」は当時の名称である。現在は「生駒山上遊園地」で通っており、もともとこっちが正式名称らしい。スカイランドというのは、開園70周年にあたる1999(平成11)年以降、しばらく使われていた愛称だそうな。

 ここで行われたロックコンサートで、事故は起きた。

 1999(平成11)年8月28日のことだ。大阪のFMラジオ放送局「エフエムはちまるに」の主催でコンサートが行われた。これにはSNAIL RAMPなど、十代の青少年に人気のある3グループが出演していた。

 会場の敷地は1,500平方メートル、収容人員は二千人。これに対し当時の観客数は1,500人だったそうだから、まあ人数的には特に問題はない。例によって、前日から徹夜で待機していた若者たちが、会場には詰めかけていた。

 主催者側も、スタッフや警備会社のアルバイト20人を配置していた(資料によっては40人とも)。ステージと観客との間は、奥行き2メートルほどの植木と、さらに鉄柵で仕切られている。うむなるほど、これなら、日比谷のコンサート事故のような事態は起こりにくそうだ。

 ただ強いて難点を挙げるとすれば、芝生の観客席が、ステージに向かって低くなる緩い下り勾配だった点だろう。もっとも、コンサート会場なのだからそういう造りなのは当たり前だとも言えるが、とにかくこれが仇になった点は否めない。

 時刻は13時。資料によると「4人組のロックバンドが一曲目の演奏を始めた」直後に、高校生たちが総立ちになったらしい。そして彼らはステージ前の柵に殺到した。

 で、お約束のすっ転びである。最初の1人に合わせて、約40人が悲鳴を上げながらバタバタと将棋倒しを起こした。

 こういうシチュエーションだと、1人が転んで、さらに後続の者がつまずいて折り重なる――というイメージが頭に浮かぶ。だが資料によると前方の人も巻き込まれたそうだから、下り斜面で後ろから押されたため、体を支えきれずまさしく「将棋倒し」になってしまった人もいたのだろう。下り斜面が仇になったと書いたのは、そういう意味である。

 この転倒で、せっかく設置された仕切りの鉄柵も、15メートルに渡って倒された。会場は騒然、痛い痛いと悲鳴があがる。最前列にいた女性が鉄柵に挟まれて足の親指を骨折するなど、計11名(女性10名、男性1名)が負傷した。

 以下は、巻き込まれた高校生たちの証言である。資料から引っぱってきたのだが、文字や句読点などは少し手を加えさせてもらった。

 

 高校生A

「前方まで人が詰めかけていたので、大丈夫かと心配だった。倒れた時は、人に挟まれて身動きできなかった」。

 

 高校生B

「開演前からすごい盛り上がりで、一曲目の演奏が始まってすぐに、男性が舞台に向かって走り、つられるように多くの人が動いた」。

 

 コンサートは約30分中断したのち、再開された。

 

 それにしても、死者が出ないだけラッキーだった感のある事故である。

 他のジャンルの事故と違い、群集事故というのはちょっと特殊である。どんなに過去の事例に学ぼうとしても、どんなに策を凝らしても、起きる時は起きるのだ。大勢の人間、斜面や突起物などの足場の状況、熱狂的な空気、他人につられての行動…。当研究室の読者は、どうか外出する場合はくれぐれもこういった要素に気をつけてもらいたい。

 コンサート会場で、大ファンだからといって熱狂したあげく怪我をしても、バンドのメンバーが喜んでくれることはないのである。むしろ事故が起きれば、そのバンドは活動自粛の憂き目に遭うか、あるいは30分後にはビミョ~な空気の中でコンサートを再開するしかないのだ。どっちみちイヤな話である。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆朝日新聞

◆ウィキペディア


ラブパレード事故(2010年・ドイツ)

 かつて、ドイツではラブパレード(Love Parade)という野外音楽イベントが毎年開催されていた。なんでドイツなのに英語表記なのか、その理由は不明である。とにかく開催されていた。

 

 このイベントの歴史を簡単に辿っておこう。最初に行われたのは1989(平成元)年だった。東西ドイツの統一直後、壁が崩壊したばかりのベルリンで、約150人が平和運動の一環としてデモ行進をしたのだ。

 

 それが、なぜか音楽イベントへと発展していった。毎年開催するたびに参加者数も増えていき、1999(平成11)年には150万人を突破。大音響スピーカーを搭載した大型トレーラー「フロート」数十台と共に、参加者たちはブランデンブルク門から延びる大通りを歌って踊って練り歩く。いつしか、ラブパレードはドイツを代表する観光イベントとなっていた。

 

 しかし、大規模になればいろいろ問題も出てくる。当初の目的である「平和デモ」という性格が完全に忘れられたのは致し方ないとしても、開催するたびに、毎度毎度膨大な量のゴミを置き土産されるのはベルリン市にとってはたまらなかったようだ。ついに市から開催を拒否られ、スポンサーからの資金援助もストップし、初の開催中止へと追い込まれたのが2004(平成16)年のことだった。

 

 それでも2007(平成19)年にはまた復活。再開を求める声がよほど多くあったのだろう。今度は、ルール工業地帯のそれぞれの都市が持ち回りで行うことになった。おそらく開催地としては、観光イベントとしての集客効果をあてにしていたところもあったろう。

 

 だがしかし、またしても2009(平成21)年には中止となった。あまりの人の多さに、現場が対応し切れないということになったのだ。そしてまた復活した翌年の2010(平成22)年に、今回ご紹介する凄惨な事故が起きた。

 

 ここまでの経緯を、群集事故の観点から見てみると、既になんとなく事故の予兆みたいなものが散見されて興味深い。対応できないほどの参加者の多さ、コロコロ変わる会場、大量のゴミ問題から推測されるモラルの欠如…。これらの課題を完全に制御できないまま、無理を押して開催したことで事故は発生したのである。

 

   ☆

 

 さて、2010(平成22)年7月24日のことである。

 

 この年のラブパレードの会場は、ドイツ西部のデュースブルク市だった。デュッセルドルからほど近い都市で、人口は約50万人。ルール工業地帯の主要都市のひとつである。

 

 この町の貨物駅の跡地に、廃駅を改造した特設会場が設けられた。会場面積は23万平方メートル。約30万人の収容が可能だった。

 

 ここで、会場へのメインルートについて簡単に説明しておこう。このルートの構造が事故と深く関係してくるのだ。

 

 まず、長さ200メートル、幅20メートルのトンネルが東西に延びており、両側に出入口がある。そして、出入りはどちらからでも可能だった。このトンネルを含め、メインルートは完全に歩行者用である。そしてトンネルの中央あたりに、北向きの出口がある。そこから外に出ると「ランプ」と呼ばれる坂道が延びており、それを上ることで会場に出られるという造りだった。

 

 つまり、T字型の通路を想像してもらうといい。横棒がトンネル、縦棒がランプと呼ばれる坂道である。

 

 さらに、もうちょっとだけ三次元的に説明しておこう。

 

 東西に延びているトンネルというのは、実際には地面の下に掘られた「地下道」のようなものだった。よって、そこからランプに出るのは、いわば道路のアンダーパスをくぐって地上へ出るときのような感じである。想像できるだろうか。ポイントは、こうした地形ゆえに、ランプの周辺は壁に挟まれており「逃げ場がなかった」という点である。

 

 ついでにもうひとつだけ。この「トンネル+ランプ」のメインルートは、会場へ向かう「往路」であると同時に「復路」でもあった。イベントを楽しんだ人々は、もと来たルートを逆戻りして会場を出られるという造りだったのだ(このあたりの構造については、当時の動画で確認すればさらに分かりやすいと思う。検索するとすぐに見つかる)。

 

 祭典が始まると、さっそく大勢が訪れて出たり入ったりした。最終的な来場者数は、資料から推測するに、だいたい46万人前後だったようだ(※1)。

 

(※1・もともと主催者は70~80万人の来場を見込んでいたらしい。後日、140万人が来場したと発表されたが、実はそれは三倍に水増ししていたことが判明している。だから割る3で46万人かな、と。)

 

 最初は大きな混雑もなく、人の流れも順調だった。ところが会場ではフロートの動きが遅く、それに伴って人混みがスムーズに動かなくなってきた。これが16時頃のことである。

 

 そこで主催者側は一計を案じた。「ランプをいったん閉鎖しよう!」ランプの真ん中には仕切りのフェンスがある。現場で警備にあたっていた警察は、指示を受けてそのフェンスをバタンと閉じた。もう通れない。

 

 さらに、ランプの手前のトンネルも、東西それぞれの入口を封鎖した。参考資料では「主催者側の係員が閉鎖した」とあるが、当時の動画を観ると、警察か軍隊っぽい制服を着た人たちが通せんぼしている形である。

 

 つまり、トンネル内部と、ランプの半分ほどまでを完全に封鎖したのである。これにより、T字型のメインルートの中からは、ほとんど人がいなくなったという。

 

 ……と、ここまで書いておいてなんだが、実はこの「メインルートを封鎖する」ことによって、どうしてそこから人がいなくなるのか、資料を読んでも筆者にはよく分からなかった。出る人だけ出して、新たに人が入らないようにしたということだろうか。

 

 とりあえず、ここでの要点は「主催者側が勝手に通路を閉鎖して、混雑を解消しようとした」ということである。

 

 当研究室で、群集事故の項目をいくつか読んだ方は、ここでピンと来るかも知れない。群衆整理の際は、「途中で勝手にルールを変える」のは御法度である。会場が想像以上に混雑したからといって、急に出入り口を封鎖したり、並ぶ場所を変えたり、順路を変更したりすると、群衆というのは意外とあっさり暴徒化するのだ。これは歴史の法則である。

 

 そして、ラブパレード会場でもそれは起きた。「なんでメインルートを封鎖するんだ!通れないやんけ!」とばかりに、群集がトンネルの東西の入口を突破したのだ。

 

 資料の内容から察するに、だいたい16時45~50分頃だろうか。閉鎖していた反動で、トンネル内にドドッと人が押し寄せた。そしてトンネルからランプまでの範囲が、急に来場者で膨れ上がったのだ。言わんこっちゃない。

 

 それでも、この群集がスムーズにランプを通過してくれれば、特に問題は起きないはずだった。ところがこれがうまくいかなかったのだ。

 

 先述した通り、この時ランプはフェンスによって「閉鎖」されていた。トンネルにはフェンスはなかったので、警備の人を押しのければ通せんぼの突破も簡単だったろうが、ここではそうもいかない。群集はランプ内で立往生となった。

 

 さらに、ここで混乱に輪をかける出来事が起きた。会場があまりに混雑していたため、早めに帰ろうとする集団がランプに押し寄せたのだ。これについては、会場で早めの退出を呼びかけるようなアナウンスもあったとかなかったとか。

 

 弥彦神社事故のパターンである。群集の往路と復路が完全に分かたれていなかったため、来場者と退場者の集団が衝突したのだ。

 

 時刻は17時頃。ランプは、ここからがぎゅうぎゅう詰めの地獄絵図となった。結論を先に言うと、この混雑により21名が死亡、500名以上が負傷している。

 

 当時現場にいた人の証言。「あちこちに真っ青になった人たちがいました。私のボーイフレンドがあの人たちの体の上に私を引き上げてくれたんです。そうしてくれなければ私たちは2人ともあそこで死んでいたでしょう」

 

 他の群集事故と比べてちょっと興味深いのは、このラブパレード事故では「事故の瞬間」とも呼べるタイミングがないという点だ。他のケースでは、誰かが転倒したり将棋倒しが発生したりと「その時歴史が動いた」的な瞬間があるものだが、この事故ではそれはない。資料を読んでいると、逃げ場がない空間で群集がもみくちゃになっているうちに、そこここで続々と死人が出たような印象を受ける(※2)。

 

(※2・当時の日本でのニュース記事を読むと、将棋倒しという言葉が多く使われている。特に日本について言えば、ぎゅうぎゅう詰めの圧死でも群集雪崩でも、とにかく群集事故ならばぜんぶ「将棋倒し」と書くのだろう。)

 

 ただ、逃げ場が皆無だったわけではない。ランプの横には地上に通じる階段があった。しかしこれも幅が狭くフェンスで閉鎖されており、普通の脱出ルートとしては使えなかった。

 

 むしろ、この階段のせいで圧死者が増えたとも言える。ランプの混雑がひどくなったことで、多くの人が逃げ道を求めて階段を目指したのだ。このため群集の圧力が偏ったのである。中には電柱や鉄塔をよじ登ったり、地上から引き上げてもらったりした人もいたようだが、それは幸運な例だろう。

 

 また、現場には転倒を誘発しかねない凹凸もあったとか。将棋倒しのような派手な転倒は起きていないとはいえ、これも事故の発生の一因になったのかも知れない。

 

 それにしても、こんな状況になって、一体全体主催者や警備の人は何をしていたのだろう? それがよく分からない。たぶんランプのフェンスを開放して混雑を解消しようとか、来る人と帰る人を分けようとか、何か手を打とうとはしたと思うのだが……。

 

 この、現場の責任者たちが「一体何をしていたのか」は、2018(平成30)年6月現在で不明である。とにかく資料がない。また後述するが、この事故の裁判は最近始まったばかりで、公的な責任追及も端緒についたばかりなのだ。

 

 さて皮肉なことに、ラブパレードは、この事故が起きた年に初めてネット動画による生中継を実施していた。ライブストリーミングというやつだ。しかし、事件が発覚した18時頃には中継は全て切断され、公式サイトには以下のような文言が表示されたという。

 

“Our wish to arrange a happy togetherness was overshadowed by the tragic accidents today.”

(幸福な結束をもたらさんとする我々の願いは、今日の悲劇により絶たれた。)

 

 あわせて、公式サイトでは、参加者の安否を確認するためのホットラインの番号が掲載された。またツイッターでも安否確認の訴えが多く書き込まれたという。

 

 テレビでもイベントの模様を生中継していたが、事故の発生により、途中からはそのままニュース速報番組になってしまった。この当時の番組も、検索すれば動画で観ることができる。ドイツ語なので何を言っているかはさっぱり分からないが、途中からアナウンサーが神妙な面持ちになっており、事故の発生を報道しているのが何となく分かる。

 

 イベントそのものは23時まで続けられた。実際には午前0時きっかりに終了する予定だったというから、終了は1時間早まったわけだ。事故当時、すでに会場に入っていた観客には事故の情報は伏せられ、何も知らずに夜まで踊り続けていた人もいたとか。

 

 「死者が出たのにイベントを続けるとは何事だ!」と憤る向きもありそうだ。だがもしイベントを即座に中止していたら、現場はますます混乱したに違いない。

 

   ☆

 

 さて、事故の責任は誰にあるのか。さしあたり「容疑者」と言えるのは、イベントの主催者、警察、デュースブルク市の3者である。それぞれの主張は次の通りだ。

 

イベント主催者

「警察が悪い! トンネルとランプをちゃんと閉鎖して、混雑を止めるようにお願いしてたじゃないか!」

 

警察

「俺たちは1,900人を動員してきちんと警備にあたっていた。現場の警備責任は主催者にある。俺たちも、会場の安全については危険が伴うし不安があるっていろいろ意見を出してたじゃないか!」

 

デュースブルク市の市長

「私は確かにラブパレード開催にはこだわりを持っていた。イベントをキャンセルすべきだという意見があったのも事実だ。しかし私は悪くない! 辞めないぞ!」

 

 といったあんばいである。

 

 このままでは埒が開かないとみてか、9月30日には、事故で怪我をした人が訴訟を起こした。主催者に対して損害賠償を求める内容である。ただ実際には賠償そのものは目的ではなく、とにかく責任の所在を明確にせんがためのものだったらしい。

 

 この訴訟がどのような経緯を辿ったのかは不明である。ともあれ、イベント関係者4名と市の関係者6名が、過失致死と過失致傷で訴追されたのが2014(平成26)年2月のこと。そして、この10名について裁判が始まったのが2017(平成29)年の12月である。ついこの間だ! しかも時効が2020(平成32)年に迫っているというのに、被告は全員が無罪を主張しているというから悩ましい。戦後ドイツでは最大規模の裁判になるだろうとも言われている。

 

 つまりこのラブパレード事故は、いまだ「歴史」とはなっていないのである。それが、内容をまとめにくくしている一因になっている。実際、事態そのものがまとまっていないのだから仕方ない。

 

 とはいえ、もはや10年ほど前の、しかも海外での事故である。裁判の結果がどうなっても、それが日本で大きく報じられることはおそらくないだろう。今度も見落とすことなく情報をチェックしていきたい。

 

 ちなみに、ラブパレードは2011(平成23)年以降は永久に中止となった。主催者側の決定である。

 

 しかし、このイベントはよほど多くの人を魅了したらしい。ネット上で調べていたら、2012(平成24)年7月に「B-Parade」という名称で復活するとかしないとかいう情報を見つけた。おそらく主催者は別の人なのだろう。ただこれもやけに情報に乏しく、本当に開催されたのか、どれくらい盛り上がったのか、その後も続いているのかどうかは全く不明である。

 

 とりあえず、「ラブパレードの懲りない面々」くらいのことは言えそうだ。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆サイト「ドイツと日本のまちづくり」

http://abej.sakura.ne.jp/index.htm

◆ドイツの音楽イベントで観客多数が転倒、死傷者多数

http://www.afpbb.com/articles/-/2742694

◆2010年のラヴパレード圧死事故をめぐって、関係者10名が訴追される

https://rockinon.com/news/detail/97144

◆21人の命を奪った”LOVE PARADE”の悲劇に関しての裁判が始まる

https://www.mixmag.jp/news/171209-love-parade.html

◆「ラブパレードの復活か?」と囁かれているベルリンの「B-Parade」とは一体何なのか

https://buzzap.jp/news/20120618-b-parade2012/

◆ウィキペディア

 

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トランスワールド航空800便墜落事故

 1996(平成8)年7月17日のことである。一機の旅客機が、ニューヨークのJFK国際空港に到着した。

 

 この旅客機は、トランスワールド航空(以下TWA)881便のボーイング747-131(N93119、製造番号20083)である。TWAはアメリカの企業で、同機はこれからJFK空港での給油と乗客の乗り降りを経て、今度は「TWA800便」に切り替わることになっていた。次の目的地はフランスのシャルル・ド・ゴール空港だ。

 

 ところが、JFK空港でやたらとトラブルが発生した。まず、空港到着時に第3エンジンのスラスト・リバーサー(※1)のセンサーに問題が発生し、その交換作業が行われた。また、給油作業も手間取ったようだ。参考資料をざっと読んだ感じだと、燃料タンクが満タンになる前に自動的に補給作業が中断され、仕方なくいろいろ手動に切り替えて加圧方式での給油を続けたとかなんとか。

 

(※1)スラスト・リバーサー…逆推力装置のこと。ジェットエンジンの向きを逆にすることで飛行機を減速させる装置。主に着陸時の減速・制動に使われる。

 

 しかも、である。「乗客と預け手荷物の数が一致しない」と騒ぎになった。手荷物を預けた本人が搭乗をすっぽかすのが、航空機爆破テロのやり口である。実際、以前この手口で事件が起きている。よって厳密な確認作業が行われたが、実は勘違いだったと判明。飛行機はやっとこさ離陸することになった。19時発の予定だったTWA800便がゲートを離れたのは、約1時間遅れの20時2分だった。

 

 エンジン始動チェックを済ませた同便は、20時14分に滑走路22Rへの地上滑走を開始。20時18分21秒に離陸許可を得て離陸した。ここで管制もニューヨーク・ターミナルレーダーからボストン航空路交通管制センター(以下ボストンARTCC)へ引き継がれている

 

 程なくボストンARTCCは、同便に対して高度13,000フィート(3,962メートル)に上昇しそれを維持するよう指示した。20時26分24秒のことである。この3分後に、乗員が次のように口にしているのが記録されている。

 

「見てみろ、第4(エンジン)の燃料流量がおかしい。なんだこれは?」

 

 だがそれ自体は問題にはならなかったようだ。ボストンARTCCは、さらに15,000フィート(4,572メートル)への上昇指示を出した。

 

「TWA800、上昇して15,000フィートを維持して下さい」

 

 同便のパイロットもそれを了解した。

 

「TWA800ヘビー、(中略)3,000フィートから上昇して15,000フィートを維持します」

 

 依然、問題はなかった。ところが、離陸から12分経った20時31分12秒、レーダー画面から突如としてTWA800便の機影が消えた。場所はJFK空港の東約45キロ地点、ニューヨーク州ロングアイランドのイースト・モリチェスから南へ約13キロの大西洋上である。同便はそこを飛行していたはずだった。

 

 なんだ、一体何が起きた――。管制官は必死に応答を呼びかけるが返事はない。この直後、周辺を飛行していた他の航空機のパイロットたちから、続々と目撃情報がもたらされた。

 

「こちらスティンガー・ビー507、たった今向こうで爆発が見えた。あー、前方のおよそ16,000フィートくらいで何かが爆発して落ちた…水中に」(イーストウィンド航空507便)

 

「ボストン、こちらヴァージン609、九時の方角、5,6マイルほどで爆発らしきものを見た」(ヴァージン・アトランティック航空609便)

 

 TWA800便が姿を消した地点の周辺が人口の多い地帯だったこともあり、一般市民からの通報もかなりあったようだ。また航空・海上警備隊の人々も、爆発の瞬間と残骸の降下を目の当たりにしてすぐさま出動している。

 

 TWA800便は、空中で爆発し大西洋に墜落したのだった。夜の海上には機体の残骸が散らばり、3メートルほどの炎を上げているものもあったという。

 

 乗客212名と乗員18名は全員死亡。「トランスワールド航空800便墜落事故」の発生だった。

 

   ☆

 

 墜落の原因は何だったのか。最初に浮上した説は次の2つだった。

 

①イスラム原理主義者によるテロ

②アメリカ海軍によるミサイル誤射

 

 まず①だが、これは、事故の発生がアトランタ・オリンピックの開会式2日前だった(実際、開会後の7月27日にはアトランタ中心部で爆発テロが起きている)ことや、事故機が墜落前にアテネにいたことなどによる憶測である。アテネは何度も航空テロの舞台になっているし、そこで爆弾仕掛けられたんじゃないのか……。また、事故直後にはイスラム原理主義者を名乗るお調子者が「犯行声明」を発信している。その上、機体の残骸から爆弾の痕跡っぽいものも検出されもした。だが最終的に犯行声明はウソ、爆弾の痕跡は無関係として否定された。

 

 次に②である。事故当時、ニューヨーク周辺では海軍の軍艦や軍用機が訓練中だった。また、墜落の瞬間を見た目撃者の多くが、ミサイルらしきものを見たと証言している。これらが結びついて憶測が生まれたのだが、これも最終的にFBIによって否定された。

 

 じゃあ一体何なんだ、という話だ。アメリカ国家運輸安全委員会(以下NTSB)による事故調査は地道かつ緻密だった。7.5キロ×6.5キロの範囲に四散した機体の残骸を10カ月かけて拾い集め、最終的に全体の95%まで回収。それを組み立てて主要構造部分を再現するという気の遠くなるような作業を行ったのだ。ブラックボックスも早い段階で回収している。

 

 現在でも、この事故についてネットで検索すると、組み立て中の機体の画像がたくさん出てくる。最もこの事故を象徴する画像なのだろう。原因調査には多くの専門家が参加し、ウィキペディアいわく「アメリカの航空事故史上類を見ないほどの時間と労力と費用が投入された」という。ココナッツ・グローブ火災について書いた時も感じたことだが、米国の、事故災害の原因調査に対する執念というのはそういうものなのかも知れない。

 

 この組み立て作業によって、事故機の空中分解の経緯も明らかになった。ちょっと悲惨すぎるのでサラッと書かせてもらうが、まず機体の下部が爆発し、そこから発生した亀裂が、あっという間に機体を一周した。これにより機首が切り離される形になり、先に海上へ落下。機体の残り部分は数秒だけ暴走してから完全に失速し、きりもみ状に大西洋へ墜落したのだった。墜落の途中で、左主翼も吹っ飛んでいる。

 

 この悲惨な空中分解を引き起こした原因はなんだったのか。最終結論が公表されたのは、事故発生からほぼ4年後の2000(平成12)年8月23日のことだった。それは「電気配線がショートし、中央燃料タンク内の燃料に引火した」という内容だった。

 

 あまりにも意外な真犯人である。爆破テロか、はたまた軍の過失かという壮大な話だったのが、下手人は「小さな火花」だったのだから、にわかには信じがたい話だ。実際、現在でもこの事故については陰謀説が存在する。しかし素人目にも、「小さな火花犯人説」は説得力も信憑性も陰謀説を上回っているように見える。

 

 具体的に、事故当時に何が起きたのだろうか。

 

 まず、「燃料が気化しまくっていて危険な状態だった」ことがポイントである。事故機の離陸が予定よりも約一時間遅れたことは先述したが、この一時間の間にエアコンがガンガン使われたのだ。真夏なので当然と言えば当然だが、問題は空調装置が燃料タンクの真下にあったことだった。フル稼働した空調装置の熱がタンク内の燃料を温めてしまい、気化を促したのだ。航空燃料というやつは、液体の状態では簡単には引火しないが、気化すると途端に燃えやすくなるという特徴がある。

 

 気化が進んで危険な状態になったのには、もうひとつ理由があった。事故機の機体中央の燃料タンクには13,000ガロン(49,210リットル)の燃料を入れることが可能だったのだが、離陸当時は50ガロン(189リットル)しか入っておらず、ほとんど空っぽだったのだ――とはいえそれ自体には特に問題はない。もともと、TWA800便が飛行するはずだった大西洋線は航空機の飛行距離としては大したものではないため、燃料は機体の両側の主翼タンクに入っていれば十分だった。しかし揮発性の高い燃料を容器に入れて保管する場合、容器内の空間が多いと、気化して酸素と結びつきやすくなる。だから一般的に、そうした保管の場合は容器いっぱいに詰めるのが望ましいのである。その意味でも、事故当時の機体は大変よろしくない状態だったのだ。事故機が離陸した直後に記録された、「見てみろ、第4(エンジン)の燃料流量がおかしい。なんだこれは?」という言葉も、これと関係があったのだろう。

 

(ちなみに、これはちょっとよく分からないところなのだが、事故機がJFK空港に到着した直後、給油に手間取ったらしいことは先に書いた。この点が事故にどう影響したのか、単に「手間取ったから時間を食って燃料の気化が進んだ」のか、それとも「手間取ったから中央タンクの給油量がほんのちょっとになってしまった」のか、文脈的に、参考資料からは読み取れなかった。)

 

 それでも、この程度の状況でいちいち爆発して墜落されたらたまったもんじゃない。火種がなければ爆発することはないわけで、実際NTSBも、事故当時と同量の燃料をエアコンで長時間温めたらどれくらい気化するか――を、わざわざ航空機を一機使って実験している。この程度の事態はいくらでもありうるものだった。

 

 事故当時は、ここでもうひとつ不幸な出来事が重なったのだ。それが電気回線のショートである。事故機は製造後25年を経た古いもので、電気配線の腐食が進んでいた。このため漏電が発生し、一緒に束ねられていた油量計システムの配線に電流が流れ込んだのだ。この電流が、中央燃料タンク内にあった燃料測定器をショートさせ、その時の火花が、気化した航空燃料に引火したのである。

 

 こうして改めて書いてみると、なんだか不幸な偶然が重なりすぎており、風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話である。人によっては、「そんなできすぎた話あるかい!」と、陰謀論にリアリティを感じることもあるかも知れない。2013(平成25)年には、NTSBの元調査官が「あの最終報告は嘘だ。FBIに証拠を消された」と広言しているほどだ。頭の痛い話である。この調子では、万人が納得できるような「解決編」が示されるのはずっと先になりそうだ。

 

 できすぎといえば、この事故は、全体としてあまりにもドラマチックであり、その真相についてはミステリアスである。衆人環視の中での空中爆発、悲惨な機体破壊、各方面の専門家による爆発原因の「推理」、そして意外な真犯人、それでも残る陰謀説…。実際、この事故を再現・解説したドキュメンタリー動画を観てみると、ちょっとドラマ性が強調されすぎている気がしなくもない。

 

 こういうイメージが先行してしまうと、どうしても人はそこに「面白いドラマ」を幻視してしまうものだ。日本における、例の日本航空123便墜落事故などその最たるものである。また1952(昭和27)年に起きたもく星号墜落や、1902(明治35)年の八甲田山遭難事故も同様で、さらに言えば、これは犯罪の話なのでジャンル違いではあるが、1938(昭和13)年の津山事件もそうだ。今のように情報媒体が充実していた時代とは違い、かつてはこうした「イメージ先行」の壁を打ち破るのは難しかったことだろう。今挙げた事例で、憶測とイメージによって実態が覆い隠されて後世に悪影響を残した点というについては、一部の文筆家にも責任があると思う。

 

 この事故の後、ボーイング社は、燃料タンク内での引火を防止するシステムを開発した。また経営難だったTWAは、800便事故が致命傷となって2001(平成13)年にアメリカン航空に吸収された。

 

【参考資料】

◆青木謙知『飛行機事故はなぜなくならないのか』講談社ブルーバックス、2015年

◆ナショナルジオグラフィックチャンネル『メーデー!:航空機事故の真実と真相』第15シーズン第4話「Explosive Proof」

◆pixiv百科事典「TWA800便墜落事故」

◆youtube「航空事故の瞬間:補完編(音声編)」

◆ウィキペディア

 

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