目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)

 1982(昭和57)年10月16日のことである。

 

 この日は愛知県豊橋市今橋町の豊橋市体育館で、中部日本放送による歌謡ショーが行なわれることになっていた。

 

 これは市が主催する「豊橋まつり」の中で、「28回豊橋まつり・青春歌謡スターパレード」と題して実施されたものだった。出演予定は小泉今日子、石川秀美、新井薫子、早見優、そして当時メンバーはまだ高校2年生だったシブがき隊など、まあ錚々たる顔ぶれだったと言っていい。

 

 これほどの顔ぶれによる公開録画である。人が来ない方がおかしい。しかも観客席はすべて先着順の自由席で、なおかつ入場無料ときている。なんと、体育館の前には開演3日前の13日夕方から人が並び始めた。

 

 3日前って……。

 

 この行列が、ショー当日の16日の朝には160名、正午には800名と次第に膨らみ始めた。

 

 体育館の定員は7,000人。そして入場は無料で、この日は5,500枚の入場券が配布されていた。開場時間までに集まった来場者数は約2,000人である(資料によっては1,000人とも)。ほとんどが10代の少年少女で、かなり遠方から来た者もいた。いわゆる追っかけだろうか。

 

 もちろん、主催者側も手をこまねいてはいない。警官22名、市職員40名、アルバイト学生50名、警備5名の総勢117名による群集整理が行なわれた。

 

 体育館の入口から約30メートルの位置に、観客は4列に並ばされた。さらにロープで30メートルの長さの通路を作って割り込みも防止する。そして予定では、先頭から10名ずつのグループに分けてロープで囲い、入口まで警官が誘導する。そういう手筈になっていた。

 

 群集も、最初はきちんと指示通りに並んでいたという。

 

 ところが、である。16時の開場をまたず、15時30分過ぎにいきなり行列が崩れて入口に向かってゾロゾロと動き始めた。

 

 こらこら、ちょっと待て。警備員がハンドマイクで警告、制止しようとするもどうにもならない。行列は乱れて団子のようにひと固まりになってしまった。

 

 どうも雲行きが怪しい。そうこうしている間に16時になってしまったから致し方ないと、主催者側は予定通りに入場を始めた。

 

 それでも、最初はきちんと10人ずつ入場させていたようだ。ところがここで、群集を興奮させるようなアクシデントが発生した。体育館の中から、リハーサルの音楽が聴こえてきたのだ。

(※実はこのリハーサルの音楽が聴こえてきたタイミングというのが、16時だったのか、それともその前に行列が乱れた15時30分のことだったのか、資料を読んでもいまいちはっきりしなかった。)

 

 これにより、待っていた群衆は総立ちに。入口の前は広場でロータリーになっていたのだが、そのあたりで待機していた500人くらいが、係員の制止を振り切って殺到した。

 

 いかん、これはいかん。たまりかねて、主催者側は入場のために開いていた東側の入口を閉鎖した。緊急の措置だったのだろうが、来場者を閉め出すのだからよく考えてみると結構すごい話だ。

 

 もちろんそのままにしておくわけにもいかない。5分後(15分後という資料もある)に西側の入口が開かれた。主催者側としては、そちらから入場させて仕切り直ししよう……というつもりだったのだろう。

 

 だが、逆にこれが事態をかき回す結果になった気もする。閉鎖された東側入口の前で押し合いながら待っていた群集は、「開いたぞ! あっちだ!」とばかりにワッとそちらに押し寄せた。

 

 事故はここで起きた。時刻は16時20~25分頃である。

 

 状況の説明が資料によって少し違うのだが、概況としては、段差で十数人がつまずいて転倒したということらしい。入口から手前6メートルの位置に、5センチほどの段差があったのだ。

 

 別の資料によると、「(群集の)中の一人が圧力に耐えられなくなって入口前の段差付近で失神して倒れ、それにつまずいて十数人が将棋倒しになった」ともある。

 

 つまりこういうことだろうか。東側入口で押し合いをしている間に、失神した人がいた。それが、西側への移動の際に人混みがほぐれて支えを失ったか、意識朦朧としていたために段差につまずいた。それがきっかけで将棋倒しになった、と。

 

 転倒した人数についても、十数人と書いてあるものもあれば、中高生300人と書かれているものもある。また負傷者も1名とか6人とか5人とか23人とか、まちまちだ。これはこれで、当時の混乱した状況を示しているようにも思われる。負傷したのは14~18歳代で、男女ほぼ同数だったそうな。

 

 この事故が発生してから5分後、開場の入口は全て開放された。これは群集の圧力を下げるためだったという。警官80人が応援に駆けつけ、群集を改めて整理した。また負傷者は救急車で運ばれた。

 

 死者は1人。豊橋市立中部中3年の15歳の女子生徒がショック死したという。

 

 歌謡ショーは、中止することも検討されたようだ。だが今中止すれば混乱は大きくなり、ますます収拾がつかなくなるだろう――そんな判断が下され、結局予定通り開催された。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆事件・事故紹介サイト
http://33.xmbs.jp/ryuhpms79-154373-ch.php?guid=on
◆ウェブサイト「警備員の道」
http://keibi.pya.jp/zattoureki.html
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)

 1985(昭和60)年5月29日。この日、ベルギーの首都ブリュッセルで起きた、通称「ヘイゼルの悲劇(Heisel Stadium Disaster)」は、世界のサッカー史上に残る大惨事として知られている。

 この年の「欧州チャンピオンカップ(現チャンピオンズリーグ)」決勝戦の会場がヘイゼル・スタジアムだった。

 決勝進出を決めたのは、当時イタリアで最強と言われていたチーム「ユヴェントス」と、イングランドの「リヴァプール」。この2チームの試合が、くだんのスタジアムで開催されることになった。

 決勝戦とあって、サポーターたちも超興奮。彼らは前日からブリュッセル入りし、街中で気勢を上げていたという。実際に何をしていたかは不明だが、後から考えてみれば、この盛り上がりっぷりが惨劇の予兆だったのかも知れない。

 ここで、「フーリガン」について説明しておこう。

 サッカーのサポーターの中には、時として暴力的に熱狂する者がいる。そういう連中はフーリガンと呼ばれ、1960年代頃から、彼らのやんちゃぶりは問題視されていた。なにせこ奴らは試合にかこつけてスタジアム内外で大暴れし、破壊活動を行うのだ。もはや存在自体が社会問題である。

 で、このフーリガンの中で特に厄介なのが、イングランドのサポーターたちだった。彼らは通称“コップ”と呼ばれ恐れられ、当時すでにフーリガンの代名詞的な存在でもあった。選手に危害を加えることもあり、奴らが来るとなると相手チームも震え上がったという。

 さあ大変、今回は彼らがブリュッセルに遠征だ。

 イングランド国内では、こういうならず者への対策がきちんと取られていた。だが、国外の試合ではさすがにどうしようもない。奴らは、旅の恥はかき捨てとばかりに暴れるだろう。イギリスの警察は、事前にベルギー側に協力を申し出ていた。

「うちのフーリガンどもが暴れ出したら大変だ。国民の不始末は国家の不始末。協力しますよ!」

 ところが、ベルギー側はこれを断った。理由は不明である。当研究室のルポを読み慣れた方にとっては、「あ、このへんから暗雲が立ち込めてきたぞ」といったところだろう。

 不安要素はこればかりではなかった。試合当日、スタジアムの応援席は、ユヴェントスとリヴァプールのサポーター席、そして一般向けの応援席が整然と分かたれていた。ところがダフ屋や偽造チケットの横行のため、実際には無秩序状態になっていたのだ。

 特に、両サポーターの応援席をあらかじめ区別しておき、その間に中立の一般応援席を挟みこむことには大きな意味があった。サポーター同士が隣り合ってしまえば喧嘩になるからだ。

 それなのに、実際には一般応援席やリヴァプール応援席に、ユヴェントス側のサポーターが多く入り込む事態になっていた。その結果、両チームのサポーターが、フェンス一枚を隔てて隣り合う場所が出てきた。これが悲劇を呼ぶことになる。

 一応、少しだけ補足すると、「一般応援席」は中立のベルギー人のためのものだった。だがベルギーにはイタリア系移民も多い。よってユヴェントスびいきの観客も多くいたと思われる。応援席の混乱がなくとも、こういう火種はもともとあったのだ。

 さて、イベントスタートである。

 時刻は午後6時。まずはエキシビジョンマッチだ。ベルギー人の子供チームによる紅白戦が行われた。

 この時の、ユヴェントス側のゴールキーパーの証言。

「試合数時間前までは何もかもいつも通りだったんだ。ピッチでは子供たちが何かパフォーマンスをやっていて、そのときはフェスタの雰囲気さえ感じていた」――。

 応援席で不穏な空気が漂い始めたのは、紅白戦が後半戦に入った午後7時頃のことだった。一部のサポーターが、相手側のサポーターに嫌がらせを始めたのだ。

 場所は、例の、両チームのサポーターが隣り合ってしまったあたりである。酔っ払ったリヴァプールサポーターが、隣のユヴェントスサポーターに爆竹やビン・缶を投げつけたり、フェンスを揺さぶったりしたのだった。

 もちろんユヴェントス側も黙ってはいない。なんだコラ、やんのかコラとばかりに応戦し、投擲合戦が始まった。一体何しに来たんだ、こいつら。コートでは本戦もまだだというのに、こちらは既にキックオフである。

 話の途中でなんだが、ジョークをひとつ思いついたので披露しておこう。サッカーの試合の前に、応援席のサポーターたちに運営側がアナウンスをひとつ――。「会場の皆さんにお知らせします。試合時間は7時からです。喧嘩はそれまでに済ませて頂きますようお願いいたします」。

 ――なんていうジョークで済めばいいのだが、事態はさらにエスカレートしたから、やっぱり悲劇である。小競り合いの果てに、リヴァプールサポーターがお約束の暴徒化と相成った。フーリガンの面目躍如である。彼らは警備の隙をついて、応援席を隔てていたフェンスを破壊。レンガや鉄パイプを手に、一斉にユヴェントスサポーターの側になだれ込んだ。

 漫画のような話である。レンガや鉄パイプって、そんなものいつどうやってなんの意図があって持ち込んだのだろう? 最初からやる気満々じゃないか。

 乱闘が始まった。ユヴェントスサポーターをはじめ、多数の観客が驚いて逃げ出した。

 しかしスタジアムは超満員で壁に囲まれており、逃げ場はほとんどない。一部の観客は壁をよじ登ったり、フェンスを乗り越えたりしてグラウンドへ脱出した。だが残された数千人(!?)の観客は、壁際へ追いやられ包囲されてしまった。 

 ここで壁が倒壊した。

 場所を具体的に説明すると、それはメインスタンドと一般観客席の間にある、高さ3メートルのコンクリート壁だった。追い詰められ、押し寄せたユヴェントスサポーターの圧力に耐え切れなくなったのだ。

 この倒壊により、多くの人々がメインスタンドへ転落。落下しただけなら怪我で済んだかも知れないが、壊れた壁の破片や、後から落下してきたサポーターたちの下敷きになる人が続出した。

 もはや試合どころではない。グラウンドや、陸上競技用のトラックは、数百人の負傷者や避難者で溢れかえった。重傷者はロッカールームへ運び込まれ、心肺蘇生措置が行われたのち病院へ搬送。すでに息絶えた者については、さしあたりスタジアム正面入口の仮設テントに並べられた。

 先に結果を述べておくと、この騒ぎによって負傷者は400人以上、死者は39名に及んだ。死傷者の大多数はイタリア人、つまりユヴェントス側のサポーターである。死因は主に圧死や、物を投げつけられた外傷だった。

 さて、凄惨な事故が起きたというのに、暴動は収まらなかった。サポーターたちは興奮して衝突を繰り返す。両チームの監督が呼びかけようが、場内放送で冷静になれとアナウンスしようが、焼け石に水。警官隊も出動したが、人数が少なく多勢に無勢、逆に石をぶつけられるなどの憂き目に遭った。 

 また資料によっては、警官たちはフーリガンの扱いに不慣れで、暴動をただ傍観するしかなかった――とも書かれている。どうやら総括して、警官たちは「手も足も出なかった」と表現して間違いなさそうだ。

 騒ぎが鎮圧されたのは、約1時間後のことだった。警官隊700人と軍隊1,000人が動員され、やっとこさ落ち着いたらしい。これは翌日の話だが、ベルギー内務省は、この騒ぎでイギリス人12人を含む15人を逮捕したと発表した。

 ところで、気になる試合の結果だが……。

 え? 何を馬鹿なことを言っているのかって?

 こんな騒ぎの後で、試合が行われたはずないだろうって??

 ところが、行われたのだ。

 それを聞いて目を丸くする読者もいそうだ。実際、資料を読んでいて筆者も驚いた。

 だが、この期に及んで試合を続行したのには理由があった。試合が中止になれば、サポーターたちがまた街中で暴れかねない。だから主催者側は、スタートを大幅に遅らせながらも試合を決行したのだ。

 当時の会場の空気を想像すると、実にやり切れない。大勢の死傷者が出たばかりなのだ。それなのに、スカポンタンの頭を冷やすためだけに、試合は行われたのである。

 勝ったのはユヴェントスだった。優勝カップは、人目につかない更衣室で渡された。

 最後にPKを決めたユヴェントスの選手の一人は、「もうサッカーやりたくねえ」と話し、罪悪感にさいなまれながら2年後に引退している。

 ついでに言えば、この人こそ、サッカーファンから「将軍」と呼ばれ、2015年12月現在、欧州サッカー連盟(UEFA)会長、国際サッカー連盟(FIFA)副会長、フランスサッカー連盟(FFF)副会長を勤めているミシェル・プラティニである。

 

   ☆

 

 さて、このヘイゼル・スタジアムでの事故が、これ程の大惨事になったのは何故だったのか。

 もちろん、一番悪いのはフーリガンの連中に決まっている。だが競技場の老朽化も看過できない。当時リヴァプール側のキャプテンだったフィル・ニールはこう話している。

「あのスタジアムの設備は最悪だった。両サポーターを隔てる壁は、10歳の子供でもよじ登れるほど貧弱なものだった。当時のイングランドのスタジアムは今のように近代的ではなかったが、それでもあのヘイゼルに比べれば数段良かった」。

 これは、崩落した壁そのものについての証言ではないのだが、まあ老朽化についての傍証と言えるだろう。

 事故が起きた当時、ヘイゼル・スタジアムは建設から55年が経過していた。その間、改修がどのくらい行われたのかは不明だが、いくつかの資料の文脈から察するに、ほとんどほったらかしだったのではないかと思われる。

 またこのスタジアムは、非常口の数も極端に少なかった。いざというときに、咄嗟に逃げることができない造りだったのだ。

 過去には国際大会の会場になったこともある、収容人員6万人を誇る実績あるスタジアム――。しかしそれは、実際にはいつ事故が起きてもおかしくない状態だったのだ。

 このたびの大会を主催していたベルギーのサッカー協会には、「カップ戦の決勝戦の開催地となる権利の剥奪」という処分が下されている。

 また、処分ということで書いておくと、この事故により――事故というよりもはや「事件」だと思うが――イングランドのクラブは、国際大会への出場の無期限停止を食らった(※)。

(※筆者はまるきりサッカーに疎いので申し訳ないのだが、この「クラブ」というのは、選手チームのことなのかなんなのか、いまいちよく分からない。とりあえず別の資料には、リヴァプールチームも無期限の出場停止となって、この停止期間はその後7年に、そしてさらに5年に変更された――とも書いてあるので、クラブ=チームのことなのかも知れない。だがそれとは別に、別の資料には「欧州サッカー連盟 (UEFA) は制裁措置としてリヴァプールに対して6年間の」UEFA主催の国際試合への出場停止処分を下した、とも記されていた。)

 

   ☆

 

 さてその後、リヴァプールとユヴェントスは、親善試合の機会はあったものの(それも企画倒れだったとする資料もある)、しばらくの間、公式戦で顔を合わせる機会はなかった。

 因縁の両チームの対戦が再び実現したのは、事故からちょうど20年後の2005(平成17)年のことである。スイス・ニヨンの欧州サッカー連盟(UEFA)本部で3月18日、「欧州チャンピオンズリーグ」の準々決勝の抽選会が行われ、そこでこの組み合わせが決まったのだ。

 もちろん、事故のことは記憶に新しい。関係者はサポーターたちに冷静な対応を呼びかけ、また両クラブ(チーム?)も「友好的な試合にする」ことを誓ったという。

 引退したミシェル・プラティニも、この時は欧州サッカー連盟(UEFA)の次期会長と呼ばれる存在になっていた。この試合について彼は、「あの時の犠牲者の冥福を祈るために、2試合とも現地で観戦するつもりだ」と話したという。

 そしてさらに5年後、2010(平成22)年5月29日には、会長の座についたプラティニさんは、トリノで行われた記念式典に出席。犠牲者たちに教会で祈りを捧げた。またこの日はブリュッセルとリヴァプールでも同じく追悼式典が開かれた。アンフィールドでは、追悼の記念碑の除幕式も開催されている。

 で、さらに書くと、事故から30周年となる2015(平成27)年3月には、リヴァプールとユヴェントスの記念試合が開催された。場所はトリノのユヴェントス・スタジアムである。

 この時、イングランドサッカー協会は、30周年を記念するモニュメントとして、リース(花輪)の設置を提案した。しかしユヴェントスはそれを拒否。試合開催だけに留める意向を示したという。

 想像だが、おそらくこれは恨みゆえの「拒絶」ではないだろう(と思いたい)。ユヴェントスとしては、そっとしておいてくれ、という気持ちだったのではないだろうか。

 30年である。生まれたばかりの赤ちゃんが、中年に差しかかる程の歳月だ。事故を忘れないようにするのは大切だが、節目のたびにやれ記念だウン十周年だと言われ続けては、逆に思い出しちゃって試合に差し障る部分もあるだろう。

 事故の現場となったヘイゼル・スタジアムは、その後は陸上競技のみに使用された。事故の10年後には再建・改修され、かつての国王の名を冠した「ボードゥアン国王競技場」という名称で蘇っている。これはサッカー用グラウンドと、陸上競技用トラック、フィールド競技用の設備を兼ね備えた施設であるという。

 

   ☆

 

 ヨーロッパ人にとって、サッカー競技にまつわる事故やアクシデントには、独特の意味合いがあるらしい。あっちの国の伝統だと思うのだが、試合中の選手の失敗から乱闘、暴動、事故に至るまで、多くが「○○の悲劇」という名称で呼ばれている。

 資料を読んでいて感じたのだが、この「ヘイゼルの悲劇」は、そうした数々の「○○の悲劇」の中でも、特に忘れがたい悪夢として今もサッカーファンの記憶に焼きついているようである。

 だが恐ろしいことに、悪夢はこれだけでは終わらない。欧州では、サッカー場の群集事故として有名な事例がもうひとつ存在する。それが、ヘイゼルの悲劇から4年後に発生した「ヒルズボロの悲劇」である。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆「サッカーで大切なこと」

http://blog.livedoor.jp/jigga_1_900_hustler/archives/18057764.html

◆「サッカー名言集」

http://blog.livedoor.jp/jeep_55/archives/51273917.html

◆ウィキペディア

http://jp.uefa.com/news/newsid=1493683.html

◆「We Are Red's #リバプールを心の底から応援するブログ。」

http://wearereds331.blog.fc2.com/


日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)

 1987(昭和62)年4月19日に起きた事故である。

 東京都千代田区、日比谷野外音楽堂は多くの観客でごった返していた。パンクロックバンド「ラフィン・ノーズ」のコンサートが行われるのだ。3千席が、ほとんど十代の若者で埋まっていた。

 今の若い人は、ラフィン・ノーズと言われてもピンと来ないかも知れない。筆者もそうだった。

 このバンドは、かつて有頂天、ウィラードと並び「インディーズ御三家」と言われていた。大槻ケンヂや銀杏BOYZの峯田和伸、タレントで歌手の千秋などにも影響を与えたとか。

 筆者は筋肉少女帯は好きだ。だがロック史はよく知らないので、「へー」という感じだ。

 当時は、売り上げでも日本のロックグループの十指に入る程の人気だったという。反権力的なイメージで、「80年代のキャロル」と呼ぶ向きもあったとか。熱狂的なファンも多かったようで、事故当日は2日前から野宿して開場を待っていたファンもいたという。

 事故はこのコンサートで起きた。

 演奏開始は午後6時半(7時という資料も)。しばらくの間は、何事もなかったようだ。

 だが4曲目に差しかかった時のことだった。一部のファンが写真を撮ろうとした。これを見た後方のファンが、自分も前に出ようとした。そして、熱狂していた彼らは、ステージ上にまで上がった……。参考資料の言葉をつなぎ合わせると、経緯はそんな感じだったらしい。

 それにしても、ファンが「写真を撮影しようとした」ことが、なぜ「熱狂してステージに上がる」ことにまで繋がるのかよく分からない。筆者はちょっとしたライブ程度なら行ったことがあるが(パーキッツのやつだ)、コンサートというのはよく分からない。きっとそういう場の独特の空気というものがあるのだろう。

 こうして、将棋倒しが発生した。

 コンサートは中断。ラフィン・ノーズのメンバーが、後ろに下がるように客席に呼びかける。それで人の波は引いたものの、ぐったりしたファンが何人かステージ上に担ぎ上げられていた。

 さすがに演奏どころではない。コンサートは7時15分に中止となった。

 この日の夜、男女2名が収容先の病院で死亡。その後、重態だったもう一人の女性も死亡し死者は3人となった。全員が十代だった。負傷者は26人に上った。

 会場の警備は、一応それなりに行われていたようだ。当時の新聞の速報を読むと、80人の警備員が組織され、観客の誘導や周辺警備がなされており、さらにステージ裏にある詰所で3人の職員も警戒にあたっていた――とある。

 しかし現在、ネット上の情報を拾い集めると、当日は主催者側のスタッフが配置されていただけで、いわゆる「警備員」はいなかったらしいという話もある。

 ラフィン・ノーズは、この事故をきっかけに活動を中止した。

 パンクロックバンドという肩書きゆえだろうか、当時は「お前たちのせいで事故が起きたんだから責任を取れ」という趣旨のバッシングもあったようだ。活動を中止したというよりも、中止に追い込まれたと言えるかも知れない。

 現代の目線で見ると理不尽な気もするが、彼らが観客を煽った部分もあったのだろうか? 今となっては想像するしかない。

 その後は、ファンの希望で復帰して、解散したり活動を再開したり、メンバーがトラブルを起こしたりと、色々あったようだ。今も活動はしているみたいである。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

インディーズ御三家のひとつラフィン・ノーズが起こした事故と現在

Laughin' Nose伝説13 - So-net

ラフィン・ノーズHP

◆ウィキペディア


ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)

 海外におけるサッカースタジアムでの群集事故は数あれど、突出して酷いのが「ヘイゼルの悲劇(Heisel Stadium Disaster)」と「ヒルズボロの悲劇(HillsboroughDisaster)」である。前者は別項でご紹介したので、今回は後者といこう。

 

(※ なおHillsboroughを「ヒルズバラ」と表記しているサイトもいくつか存在するが、ここでは「ヒルズボロ」で統一する。)

 

 大惨事となったヘイゼルの悲劇から4年後、1989(平成元)年4月15日のことである。イギリス中部イングランド、シェフィールドのヒルズボロ・スタジアムでは、FAカップの決勝戦が行われることになっていた。対戦するのはリヴァプールとノッティンガム。5万4千枚あったチケットは完売し、あとは15時の試合開始を待つだけという状況だった。

 

 先回りして書いてしまうと、事故はこのスタジアムの西側の応援席で発生する。そこはリヴァプールサポーターの専用席で、通称「レッピングス・レーン」と呼ばれていた。試合当日、このレッピングス・レーンには2万4千人のサポーターが訪れる予定だった。

 

 中には15時をまたず、正午頃には到着していた者もいたというから気が早い。どうせなら他のサポーターたちも、キックオフまでに分散して来てくれれば良かったのだが、そうもいかない。14時頃から、急に大勢のサポーターがドッと押し寄せた。

 

 交通事故の影響で臨時列車が遅れたとかなんとか、そんな事情があったらしい。押し寄せてきたサポーターには決して悪気はなかった。また、入場の際のルールとして、リヴァプールサポーターは必ずスタジアムの西側から入るべし、と決められていた(敵対するサポーター同士がかち合わないように、という配慮だったのだろう)。こういった条件が重なって、大勢が一か所に集まる結果になったのだ。

 

 さあ困った。試合開始まであと1時間ほどなのに、レッピングス・レーン側の入口付近は大混雑だ。しかも入場ゲートは7つしかなく、何千人ものサポーターをさばくには時間がなさすぎる――。

 

 ここで、スタジアムの構造について、ちょっと説明しておこう。

 

 リヴァプールの応援席「レッピングス・レーン」は2段になっていた。上は椅子つき、下は立見席である。

 

 たぶん、上が新幹線で言うところの「指定席」みたいなもので、下は「自由席」なのだろう。この上下2段の構造は、少なくともイングランドのサッカースタジアムでは標準的なものらしい(筆者はサッカーには疎いのでよく分からない)。

 

 問題は、下の立見用の「自由席」である。こちらは「テラス」と呼ばれており、チケットが買えなかったり、良い席のチケットを確保できなかったりしたサポーターが入ることになる。

 

 立見席なだけに、大勢の観客を収容できる。よってスタジアムにとっては大きな収入源でもあった。だが一方で、テラスの観客は酒をラッパ飲みして大騒ぎし、時には暴れながら試合観戦するのが常だったとか。

 

 悪いことに、当時の首相マーガレット・サッチャーはサッカーに全く関心がなく、むしろフーリガンという暴徒の温床としか考えていなかった。よって政策的には、テラスはサポーターを閉じ込めて監視すべき場所として位置づけられていたようだ。

 

 そのような背景もあって、ヒルズボロ・スタジアムのテラスは5つの区画に区切られていた。サポーターが暴徒化しても好き勝手に動き回れないように、金網や鉄柵を設置したのだ。当然フィールドにも勝手に出ることはできない。

 

 ここまでの説明を聞いて「なんだか檻みたいだなあ」と思ったあなた、正解である。テラス内の5つの区画は、本当に家畜檻(pen)とも呼ばれていたのだ。

 

 ここまでで、レッピングス・レーンの下の階とか立見席とか自由席とかテラスとか家畜檻(pen)とかいろんな呼び名が出てきたが、とりあえずここから先は「家畜檻」で統一しようと思う。

 

 もともとヒルズボロ・スタジアムは歴史ある由緒正しい施設で、いくつかの名誉ある試合の会場になったこともある。しかし寄る年波には勝てず老朽化も指摘されていたし、暴徒対策についても遅れを取っていた。実際、1981年4月11日にも、死者こそ出なかったもののちょっとした群集事故が発生している。「家畜檻」の設置すらも付け焼刃で、実際にはそれでも厳密な安全基準は満たしていなかった。

 

 ちなみに、当時の状況について、気になったのだがどうしても分からなかったことがある。リヴァプール用応援席「レッピングス・レーン」の2階、即ち椅子付き応援席がいつ満席になり、またその席のチケットを持っていた連中が、一体スタジアムのどこから入場したのか――という点だ。

 

「ヒルズボロの悲劇」において、事故が発生するのは家畜檻の方である。よって、本稿で語られるサポーターたちの動向などは、すべて家畜檻での事故発生に向かって収斂されていくと考えて頂きたい。余計なことかも知れないが、混乱を避けるために一応断っておく。

 

 さて、当時の状況に戻ろう。

 

 西側の入場ゲートでは、14時までには2,140人のサポーターが通過していた。家畜檻への入場者数は、予定では1万100人。よって残りは約8千人である。あと1時間で8千人なんて、本当に大丈夫なのだろうか?

 

 大丈夫ではなかった。14時15分にはさらに人混みが膨れ上がり、14時30分の段階で入場ゲートを通過できたのは4,383人。ゲート前の混雑ぶりはすさまじく、人混みの中で具合が悪くなるサポーターも現れた。

 

 ちなみにこの時、大きな暴動や騒ぎはなかった。なかなか入場できないためイライラが募るサポーターもいたものの、大混乱というほどではなかった。ただとにかく人の多さだけが問題だった。

 

 慌てたのは、警備をしていた警官たちである。ついさっきまで、場はわりと平穏だった。サポーターたちはスムーズに入場できたし、観客席にも空きがあった。それなのに、試合開始ちょっと前になってこれである。想定外だ。

 

「本部長、これはもう無理です。とても15時のキックオフには間に合いません。どうか試合開始時刻を遅らせて下さい!」

 

 現場の警官は、警備責任者に連絡した。この要請を受けたのはサウス・ヨークシャー警察のダッケンフィールド本部長である。しかし指令室にいた本部長はそれを却下した。

 

 この時の本部長の判断が、後で物議を醸すことになる。ウィキペディアを読むと、当時彼がいた指令室には、現場の状況が分かるモニターが設置されていたとかなんとか書いてある。なぜ要請を却下したのか? 状況を把握していなかったのだろうか? このへんはいまいちよく分からない。裁判のときに「当時は何も考えていなかった」という証言をしたという資料もあるので、単純にそういうことなのかも知れない。

 

 現場は動揺していた。増援を頼んで人混みの整理にあたるも効果なし。回転式の入場ゲートは順調に動いているのだが、とにかく人が多すぎる。14時45分の時点で入場できたのは5,531人である。残るは4千人、さあどうする。

 

 そこで現場ではこう判断した。

 

「まずい、フィールドではそろそろ選手入場だ。このままでは群集が騒いで怪我人も出るかも知れないぞ。仕方ない、出口のゲートも開放して、そこから群集を中に入れるんだ!」

 

 出口ゲートは、入場ゲートのすぐ横にある。現場の警官たちはダッケンフィールド本部長から許可を得てこれを開放した。待ちかねたサポーターたちはドッと入場し、家畜檻に向かって突入していく――。

 

 出口ゲートが開放されていたのは、わずか5分程度だったという。この5分という時間は、スタジアム内で選手入場が行われた時間帯とぴったり重なる。サポーターたちはこれに遅れまいと、一気に家畜檻に押し寄せたのだ。

 

 家畜檻が、鉄柵や金網で5つの区画に区切られていたのは先述した通りである。この5つのうち第3・第4ブロックがゴールのすぐ後ろにあり、サポーターたちはそこに集中した。このブロックの収容人数は1,600人が限界とされていたが、当時は3,000人ほどが詰め込まれたと言われている。

 

 すし詰めである。家畜檻の中の圧力が急激に増した。三方を金網で囲まれているので、逃げ場はない。前列の人々は圧迫されて失神。中には、金網の外の警官に助けを求めるサポーターもいた。

 

「苦しい、死ぬ! フィールド側の扉を開けて脱出させてくれ!」

 

 しかし警官は、家畜檻の中がそんなにひどい状況だとは思っていなかったようだ。フィールドに面する非常口があったにも関わらず、そこを開けてはくれなかった。人々の圧力でその非常口が開いた時、わざわざ閉めた警官もいたとか。一部のサポーターは、たまらず金網を乗り越えて隣の家畜檻へ脱出した。

 

 こんな状況で、とにかく15時には試合開始。キックオフから4分が経過したところで、リヴァプールのピーター・ベアズリーが放ったシュートがクロスバーに直撃した。……と言っても筆者はサッカーに興味がないので「それがどうしたの?」という感じなのだが、とにかくそれでサポーターは大興奮。ただでさえぎゅうぎゅう詰めの家畜檻の中で、群集のうねりが発生した。

 

 これが決定打になった。第3ブロック内の仕切りの鉄柵が倒壊し、大勢がバタバタと将棋倒しになったのだ。15時6分、試合は止められた。この頃には、警備の警官たちも、さすがに異常事態に気付いていた。

 

 家畜檻に残っていたサポーターたちも、余力がある者はそれぞれ避難を始めた。ある者はフェンスを乗り越えて隣へ移動。またある者は上階のサポーターに引っぱり上げられた。

 

 金網も切除。地獄と化していた家畜檻から、サポーターたちはようやく解放された。生存者は脱出し、怪我人や心肺停止状態の者が次々に救助される。最初、試合ストップの理由が分からなかった他の観客たちも、フィールドに続々と運び出される人の姿を見て色を失った。

 

 救急隊と警官も集まり、無事だったサポーターたちも救助に協力。スタジアム内の広告看板がタンカ代わりに使われ、負傷者が搬出された。しかしほとんどがこの時点では致命的なダメージを負っていたらしく、96人という最終的な死者数のうち、病院に収容されたのはわずか14人だった。

 

 ところで、少し先回りして書くが、この事故は責任の所在をめぐって約30年も裁判で争われることになる。2016(平成28)年8月現在でその大まかな結論は出ているが、それでも賠償などの決着はこれからになりそうだ。とにかくこの事故の裁判は揉めに揉めた。

 

 で、その理由は一体何なのか。実はそのきっかけは、事故当日にあった。裁判での喧嘩の火種が生まれた“その一瞬”があったのだ。松平アナ風に言えば「いよいよ、今日のその時がやってまいります」というやつである。

 

 事故の発生を受け、FAの最高経営責任者であるグレアム・ケリーとシェフィールド・ウェンズデイの関係者は、すぐさま指令室の警備責任者のところに足を運んだ。この責任者とは、先ほどから何度か名前が出ているダッケンフィールド本部長である。状況の説明を求められた彼は、こう答えた。

 

「リヴァプールサポーターが、入場ゲートを破壊して場内に突入したんです。」

 

 嗚呼、その時、事故史が動いた…(泣)彼は、責任をサポーターに転嫁したのだった。彼らの暴動をでっちあげて、警備態勢の不備については説明しなかったのだ。

 

 この後、グレアム・ケリーも、ラジオ局のインタビューでダッケンフィールド本部長の言葉をそのまましゃべってしまった。それが、警察の見解としてそのまんま放送され、事故の真相として流布していった。

 

 もっとも、この“真相”に人々が納得する理由もあった。4年前にはヘイゼルの悲劇が起きている。リヴァプールサポーターといえばフーリガンだ。「やっぱりまたあいつらか!」と思った人が大多数だったのではないか。

 

 ちなみに、リヴァプールサポーターの名誉のために補足しておくが、ヘイゼルの悲劇後、彼らが大きな騒動を起こしたという記録は(ざっと見た限りでは)存在しないようだ。ヒルズボロの悲劇が起きた年の4月には、「サポーター達が自重自戒を続ける」ことを条件に、UEFAはイングランドのサッカークラブの国際大会復帰を決定している。かなり自重したのだろう。

 

 ヒルズボロでの事故を受けて、しばらくの間はリヴァプール叩きが続いた。警察はダッケンフィールド本部長の出まかせをどんどん補強し、一部の雑誌は、警察が流したウソ情報を真に受けた記事を掲載。いわく、リヴァプールサポーターが救助活動にあたっている警官に放尿したとか、どさくさに紛れて犠牲者から財布を抜き取ったとか、そんなことを書き立てたらしい(この雑誌は、後に謝罪している)。

 

 一方で、責任の所在については疑問の声もあった。この時点で、最もしっかりした形で「悪いのはリヴァプールサポーターではなく警察だ」と言い切ったのが、事故調査を担当した控訴院のピーター・テイラーによる報告書である。この報告書は8月4日に発表され、事故は警察の失態が原因だと結論づけた。

 

 にもかかわらず、裁判は振るわなかった。かの国の訴訟の仕組みがよく分からないので細かい点は端折るが、証拠不十分で誰も彼も不起訴になったり、遺族がダッケンフィールド本部長とその助手の責任を追及するも、無罪になったり結論が出なかったり時間切れになったりと、まことに切ない結果になったようだ。

 

 もちろん、遺族は諦めない。彼らの活動と怨念は、事故から27年後にようやく実を結んだ。

 

 事故から20周年を迎えた2009(平成21)年。7人のメンバーからなる「ヒルズボロ独立調査委員会」が設立され、それまで未公開だった事故の全記録文書を再精査したのだ。その量たるやなんと45万ページ。彼らは2012年9月12日に報告書を発表した。そこでは、当時の警察と救急隊が、かなり厳しく非難されていた。

 

 この報告書の内容は、大筋では、27年前のものと変わりなかった。新しかったのは、スタジアムの欠陥と救急隊の対応の不備を明らかにした点だった。それによると、適切な医療措置を講じていれば、犠牲者のうちほぼ半数の41人は救えた可能性があるとのことだった。

 

 これにより、ようやく再審の扉が開かれたのだ。

 

 新報告書の公開により大騒ぎになった。まず当時のキャメロン首相が謝罪。その他、いろんな関係者や関係機関の長が謝罪した。公的機関による、新証拠の精査もスタートした。

 

 それからさらに4年。2016年4月26日、陪審団は評決を下した。この事故の原因は、警備責任者の悪質な業務上の過失にあったと認定されたのだ。

 

 たぶん、最終的な結論が出るまでに、大方の趨勢は決まっていたのだろう。判決が出るや否や警察が謝罪した。救急サービスも謝罪した。ついでに言えば、例のダッケンフィールド元本部長も裁判中に証言台に立ち、事故は自分(たち)のミスだったと全面的に認めている。

 

 余談めいてくるが、イギリスには死因審問という、日本人にとって耳慣れない司法制度がある。どうも不審死の場合、犠牲者の死因を徹底的に調べて、それを裁判の中心に据えて白黒をはっきりさせるものらしい。ヒルズボロの悲劇の審判で大きな争点になったのも、どうやらこの死因審問だったようだ。

 

 ただこの事故の場合、再審における逆転判決に対して死因審問がどれくらい直接的に影響したのか、部外者の素人である筆者にはその理屈がよく分からなかった。世間の認識として、もしかすると最初から結論ははっきりしていたのではないだろうか。ただ制度上、再審のためにはそのきっかけが必要だ。そのために死因審問の結果が活用されたのではないかと思う。

 

 もちろんそれは想像である。どのみちここでは深く突っ込まないので、興味のある方は独自に調べてみて下さい。

 

 ヒルズボロの悲劇の何が悲劇かって、死者が出たことはもちろんだが、警察の嘘の上塗りのせいでウン十年も揉めたのが、遺族にとっては何よりも悲劇的だったろう。しかも補償の問題や、当時の警察関係者への懲罰がどうなるかについても、それはこれからの話なのだ。ヒルズボロの悲劇は、「いつまで経っても最終的な決着がつかない」という悲劇的な形で、今も続いている。

 

 今後書くつもりだが、2010(平成22)年にドイツで起きたラブパレード事故や、2001(平成13)年に日本で起きた兵庫県明石市の歩道橋での事故でも、ヒルズボロ同様に関係者による資料の改竄、情報の隠蔽・誘導などが積極的に行われたフシがある。どうも群集事故というのは、どこも似たような経過を辿るものらしい。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆プレミア・ゴシップ B6通信

 http://astonvillabrummie.blog.fc2.com/blog-entry-244.html

◆PremierMood-英国在住ライター原田公樹のプレミアシップコラム #196ヒルズボロの悲劇~23年目の真実

 http://www.jsports.co.jp/press/article/N2012091419344302.html

◆サッカー名言集

 http://blog.livedoor.jp/jeep_55/archives/52567536.html

◆BBC news japan「1989年「ヒルズバラの悲劇」、96人圧死は警察過失が原因と」

 http://www.bbc.com/japanese/36147329

◆スカパー!SOCCER海外サッカー世界のサッカーニュース/ヒルズボロの悲劇、当時の警察責任者が「ひどい嘘」をついたと認める

 http://soccer.skyperfectv.co.jp/international/12339

◆フットボールチャンネル 英スポーツ史最悪の悲劇から26年。警察が「ヒルズボロ」での誘導ミスを認める

 http://www.footballchannel.jp/2015/03/18/post77516/

◆Onlineジャーニー「ヒルズバラの悲劇」要因は警察の過失と認定―運命の「ゲートC」、開けたのは警察だった

 http://www.japanjournals.com/uk-today/7912-160506-1.html

◆ウィキペディア


大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)

 年の瀬も迫るクリスマス・イブ、1995(平成7)年12月24日に起きた事故である。

 

 この日は「第40回有馬記念(中山競馬場)」のレースが行なわれていた。――と言っても筆者は競馬はサッパリなので、その意味するところは分からない。これって、大勢の人が集まるようなすごいレースだったのだろうか。

 

 たぶんそうなのだろう。大阪市北区・日本中央競馬会の場外馬券売場「ウインズ梅田」は大勢の人でごった返していた。

 

 この日は日曜日。だからもともと人が多く集まる日だったと思うのだが、この時はそれに輪をかけて多かった。なんといつもの日曜日の1.5倍、約5.600人の人が詰めかけたのだ。身動きもできない状態だったという。

 

 まさかこんなに人が来るとは、主催者側も考えていなかったのだろう。整理員は30人と、いつも通りの人数だったそうな。

 

 事故は午後3時半頃、エスカレーター(幅1.2メートル、長さ9.6メートル)で起きた。

 

 なにやら、この馬券売場にはA館というものが存在しているらしい。その3階から2階へ降りるエスカレーターに、ドッと人が押し寄せたのである。

 

 彼らは、レースが終了したので帰路についたところだった。資料を読んでいると、歌謡ショーのような暴力的な空気ではなかったようだが、おそらくエスカレーターという場所が良くなかったのだろう。一人が転倒したのを皮切りに、バタバタと将棋倒しが発生した。

 

 これに巻き込まれ、怪我をした男性の証言。
「エスカレーターの下で何人かが倒れているのを見て、慌てて逃げようとしたが、降りてくる人に押されて倒れた。生きた心地がしなかった」

 

 また、これは将棋倒しに巻き込まれた別の女性。
「人が下に溜まっており、危ないなぁと思っていた。途中で人に押され、何がなんだか分からないうちに下敷きになっていた」

 

 ギャー、バタバタバタ。場内に悲鳴が響き渡る。それでもエスカレーターはゆるゆると動き続けており、危険な状態だった。これを非常停止ボタンでストップさせたのは、悲鳴を聞いて駆けつけたアルバイトの整理員だったという。

 

 この事故により、下敷きになった人のうち男性5人、女性3人の計8人が負傷。額を切ったり、足首を捻挫するなどの怪我を負った。このうち3人が入院し、一人の男性は重傷だった。

 

 怖いな、エスカレーター。

 

 だが、人がたくさん来たら危ないのでそのときはエスカレーターは止めよう、という考えはあったらしい。

 

 もともと、建物の各階に監視用のモニターが設置されており、あまりに混雑した場合はストップさせる手はずになっていた。それがこのたびは何故か手が回らなかったのだった。

 

 大阪の事故については以上である。

 

 一応、あわせてご紹介しておこう。実はこの日は北海道でも親戚みたいな事故が起きていた。札幌市中央区の場外馬券売場「ウインズ札幌」でも、おんなじような将棋倒しが発生したのだ。

 

 時刻は午後4時10分頃である。B館の3階から2階に降りるエスカレーターで、客が次々に将棋倒しになった。

 

 これにより2人の女性客が、それぞれ左鎖骨を骨折したり足首を強打したりして入院。また4人が腕などに軽症を負ったそうな。

 

「ウインズ○○」にとっては、とんだ厄日だったようである。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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