目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)

 1957(昭和32)年2月6日のことである。

 

 時刻は午後6時。和歌山市民会館前の道路には、4列縦隊で500メートルにも及ぶ人の行列ができていた。街角を幾重にも折れ曲がる行列だったというから、ちょっと異様な光景である。

 

 理由は、会館でこの日開催されていた人気歌手の歌謡大会である(この人気歌手というのが誰なのかは不明)。

 

 資料によると、第3回公演の開場が午後6時からだったとあるから、この日はすでに2回の公演が終わっていたものと思われる。

 

 人々は午後1時頃からすでに集まってきていた。開場の頃にはその人数たるや6,000に達していたそうな。

 

 とはいえ、主催者側もそこは心得ていた。あるいは、前年の大阪劇場の事故の例に鑑みたのかも知れない。会館側・所轄警察署・興行者の3者は事前に相談しており、人々をきっちり並ばせた上で108人の警察官を配備する――などの措置を取っていた。

 

 ここまで読むと「たいへんよくできました」なのだが、それでもなぜか事故は起きた。

 

 開場し、隊列が進み始めて間もなくのことだ。行列の後ろの方にいた人たちが、「入場できないのではないか」と不安になったらしい。せっかくの整列を乱して、前へ前へと押し進み始めたのだった。

 

 これで2人の女の子が押され、胸部圧迫の負傷をした。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)

 1957(昭和32)年5月18日のこと。

 

 秋田県秋田市川尻にある、市営の山王体育館で起きた事故である。

 

 その日は、この体育館で人気歌手のショーが開催されることになっていた(この歌手が誰なのかは不明)。

 

 てゆうか、事故が起きた午後の時刻には、もう1回目の公演が終わったところだったらしい。それが午後1時20分頃のこと。

 

 問題は第2回目の公演である。

 

 この日の人の入りについて、主催者と警察は前もって打ち合わせをしていた。おそらく2回目の公演には6,000人ほどの人が来るだろう。事故を起こしてはならぬ――。

 

 資料を読んでいると、主催者と警察は、群集事故の防止のためにできうる限りの手を打ったようだ。

 

 まず、会場の体育館の正面入口8箇所のうち、左側の4箇所を閉鎖。そして右側だけを開放し、それぞれの入口の前に入場者を並ばせた。

 

 そうして、入場の際には警察官が誘導し、4列を2列に変える。その時に割り込みする不届き者がいないようにと、入口の両脇には長机を置いてガードした。

 

 さらにその長机の傍らには係員を配置。この人が、入場者から半券を受け取るわけである。

 

 体制は万全。もう、正午頃にはさっそく人が集まってきていたようだ。打ち合わせに基づき、4箇所の入口の前で4列に並ばせる。さらに列の随所に、警察官と整備員を配備。

 

 第1回の公演が終わる30分も前から、係員たちは群集に拡声器でこう呼びかけた。

 

「いいですか皆さん、割り込みした人は入場を拒否します。また、切符は一人一枚、各人で持つようにしてください。出入り口には敷居があるので、足元にはくれぐれも気をつけて下さい」

 

 ここまでやれば大丈夫だろう、事故なんて起きないだろう、って普通思うよね。

 

 だがしかし、それでも事故は起きる。考えてみれば、起きるまいと思っていても起きるから事故なのだと言えばそれまでなのだが、その原因が群集心理に取り付かれた脳たりんのせいなのだから実にやり切れない。

 

 てなわけで、残念ながら事故は起きた。

 

 午後2時に入場が開始。最初、人々の流れは順調で、最も前部の20人くらいまでは問題なく入場できたようだ。

 

 午後2時20分。ここで、後ろに並んでいた一部の人間がご乱心あそばした。係員の制止を振り切り、列を乱して入口に殺到したのである。

 

 あーあ。6,000人のうち、たったの20人が入場したばっかりなのに早速これだよ。

 

 場は混乱に陥った。そしてそのさ中、入口を通ろうとしていた一部の人が、長机の足や敷居につまずいて転倒。そこへ人々が折り重なり、7~8人が肋骨亀裂等の負傷を負ったのだった。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
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横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)

 1960(昭和35)年3月2日のことである。横浜市中区の横浜公園体育館とその周辺では、午前中から大勢の人々が集まっていた。

 この体育館は元は米軍体育館で、形はかまぼこ型で面積は約3,000平方メートルの大型のものだった。1958(昭和33)年に接収解除されて興行場法の適用を受け、横浜市が国有財産のまま委託管理していたという。普段はスポーツくらいにしか使えない、粗末な施設だった。

 当時ここに集まっていた人々の目当ては、夕方からこの体育館を会場に開催されるイベントである。開局1周年を迎えたラジオ関東(現アール・エフ・ラジオ日本)が、「開局1周年ゴールデンショー」なる歌謡ショーを催すことになったのだ。

 このショーの出演者がまた豪華で、林家三平、島倉千代子、青木光一に若山彰と、現代でいえばさしずめEXILEとAKB48がいっぺんにやってきたような――すいませんこの例えはテキトーです――絢爛たる顔ぶれだったのである。最高のショーだ。

 当時はこのような、芸能人を呼んで集客を図ろうとするイベントが一般的になりつつあった。ところがこの横浜の歌謡ショーでは、こうした豪華さそのものが仇となった。

 問題は、主催者のラジオ局が前もって配布していた無料招待券の枚数である。ラジオ局側は「招待券を配っても実際には来ない人がたくさんいるだろう」と考えて、会場の定員のなんと2倍近い6,000~8,000人にこの無料招待券を配っていたのだ。

 ところが主催者の予想は完全に外れた。ショーの出演者の顔触れがあまりにも素晴らしいため、欠席する者はほとんどいなかったのである。

 さあ大変、興行場法で決められた横浜公園体育館の定員は3,500名である。立ち見を入れても4,000名がいいところだ。午前10時の段階でも、すでに島倉千代子や青木光一目当ての10代の少女たち2,000人近くが押し寄せていたともいい、会場にはすでに暗雲が立ち込めていた。

 それでも、最初は目立った混乱もなかった。会場の体育館には正面と北側にそれぞれひとつずつ入口があり、それぞれに2列ずつ並ばせることができたからだ。

 いよいよ惨劇の時が近づいてくる。

 17時30分に入場開始となり、最初は人々も整然と入場していた。しかしほどなく館内は満席となり、立ち見として無理やり詰め込んでもこれ以上の収容はもうアカン、という状態になってしまったのだ。

 そこで主催者側がとった措置が、「それ以上の収容はあきらめる」というものだった。会場の入り口で、アルバイトの警備員などが呼びかける。

「館内はもう満席です。これ以上は中へ入れません」

 これを聞いた人々の感想は「はぁ~~?」といったところだったろう。これでは、整然と並んで入場を待っていた招待客こそ好い面の皮である。当然納得して帰るはずもなく、一部の人たちが警備員相手に騒ぎ立てた。

「ふざけるな、こっちは入場券を持ってるんだぞ。中に入れろ!」

 時刻は17時45分頃。3月のこの時刻というとほとんど夜のような暗さだったことだろう。体育館周辺に集まっていた顔の見えない群集が闇の中でわめき始め、警察官の制止を無視して突っ込んできた。

 どうやら、最初は列に並んでいない人々が割り込んできた形だったらしい。しかしそれをきっかけに、整然と並んでいた人々も隊列を崩して我先にと入口へ殺到したのだった。

 当時、会場でもぎりをしていた大学生のアルバイト学生たちによると、主に押し寄せてきたのは「早く入れろ」と叫ぶ10数人の若者だったという。

 かくして惨劇は起きた。北側入口のドアの下に、縁石が12センチほどの段差になっている部分があったのである。おそらくそこに蹴躓いたのだろう、まず2、3名が転倒し、後続の者がさらに折り重なって倒れた。

 将棋倒しは止まらない。ドドドドドッとそのまま100名ほどが巻き込まれ、うち女性や子供ばかり12名が圧死。加えて14名が重軽傷を負った。

 こんな事態になっても、招待客たち数千人はまだ暴れ、わめいていたというから呆れる。現場はかなりの混乱状態だったようだ。

 この事故から2日後に行われた衆議院本会議では、事故について緊急質問が行われている。その際、現場の状況については以下のように述べられている。

 

「……新聞等の描写によれば、倒れた人の上にまた倒れ、その上を踏み越えるというありさまで、一瞬、泣き叫ぶ者、うめく者、助けを求める者、血を見る騒ぎとなりました。そうして、入口付近には、すでに息絶えた者、どろまみれの者など、数十人が小山のように積み重なり、世にもむごたらしい光景を描き出しました。死者十二人、すべて女の人と子供であり、重軽傷十四人も同様であります。……」  (第34回国会衆議院本会議議事録第11号)

 

 こんな阿鼻叫喚の地獄の中、横浜市内の中、南、磯子の各消防署から救急車が出動して、さらに現場は騒然とした。怪我人は警友病院、横浜中央病院、花園橋病院、国際親善病院、大仁病院などに搬送されたが、人出が足りず、警察車両や通りすがりのタクシーなども動員されたという。

 この事故のため、歌謡ショーはもちろん中止。ラジオ関東はこの日の夜の番組放送もすべて取りやめた。

 19時には神奈川県警による現場検証と関係者からの事情聴取も始まっている。群集の混乱や先述の縁石の存在ももちろんのこと、現場の北側入口のドアが狭いうえに当時は片側しか開いていなかったのも事故の原因と考えられた。

 一応、当時の現場にはラジオ関東の社員10名、アルバイト学生25名、制服警官12名、私服警官7名が配備されており、招待客の誘導や現場の警備にあたっていた。派遣された警官の数は通常の3倍だったというが、だがそれでも数千人の群集には勝てず、事故は防ぎ切れなかったのである。

 この事故のあと、警備にあたっていた加賀町警察署から、読売新聞に対してこのようなコメントが寄せられた。

「主催者(ラジオ関東)からの届出では来場者数は4千人程度との事でその数なら混乱は発生しないと判断し特に警備を通常より増員する事などしなかった」。

 まあさすがに、警察も、よもや主催者側が定員の倍以上の人々に招待券を送っていたなんて想像だにしなかったことだろう。

 後からではなんとでも言えるが、そもそも入場整理の時点でも、アルバイト学生や警察たちの連携は杜撰なものだったという。人手は足りず連絡も不十分、さらに言えば整理のための設備も不手際だらけと、これは完全に主催者側の判断ミスによって引き起こされた事故だった。

 当のラジオ関東は、先述したように事故直後には当日のイベントとラジオ放送をぜんぶ取りやめ、そして事故の詳細について報じた。さらに翌日には当時の社長が新聞にお詫びの広告も出している。

 歌謡ショーに出演することになっていたという林家三平にちなみ、ここは最後に「もう大変なんすから」でシめようかと思ったが、なんか笑えないのでやめておこう。どうもすいません。

 

【参考資料】

◆ウィキペディア

◆事件事故まとめサイト(仮名)

http://16.xmbs.jp/ryuhpms78-164978-ch.php?guid=on

◆ウェブサイト『警備員の道』

http://keibi.pya.jp/saito.html

◆衆議院会議録情報 第034回国会 本会議 第11号

 

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松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)

 1961(昭和36)年1月1日、元日のことである。

 岩手県岩手郡松尾村(現八幡平市)の、松尾鉱山小学校の校舎内で、大勢の児童が廊下を駆けていた。午前9時30分を回った頃のことだ。

 この日は、午前9時から新年祝賀会が開催されていた。例年、その後は映画会を行うのが慣例になっており、児童たちはその会場へ向かっていたのだ。

 会場というのは、学校から300メートル離れた鉱業所内の会館である。そこで会社主催の映画会が行われるのだ。

 よって児童たちは、映画を観るために、急いで校舎の外に出る必要があった。目指すは校門に近い西昇降口だ。

 2階の廊下を進み、階段を下りる。時刻は9時40分、その階段下で惨劇が起きた。

 きっかけは、階段を下り切った先頭の児童が、立ち止まって腰をかがめたことだった。靴を履き替えるための、何気ない動きである。

 ここに、後続が押しかけた。早く映画会に行きたい児童たちがワッと階段を下りてきて、先頭の児童のところで一瞬だけ詰まった。そのまま支えきれず倒れ、バタバタと折り重なったのだ。

 後ろの方の児童は何が起きたのか分からず、面白半分に階段の上から飛び降りた者もいたという。群集事故の恐ろしいところだ。その事故が起きた瞬間だけでは、悲劇は終わらない。何が起きているか分からない、後続の人間の動きがさらに事態を悪化させるのだ。

 教諭たちが駆けつけた時には、既に10人が呼吸停止し、13人が負傷していた(負傷は10人という資料も)。死者のほとんどは圧迫窒息死だったという。

 現場は、事故が起きてみると「なるほどこれは危ないわ」と納得してしまうような状況だった。この地域は豪雪地帯で、正月とあって校舎は雪に埋もれていた。そのため利用できる出入り口は限られており、その数少ない入り口の一つに児童が殺到したのだ。

 また、現場の昇降口は暗かった。読者諸君は「雪囲い」というものをご存知だろうか。雪国では、建物や樹木が積雪でダメージを受けないように、板で覆ってロープでくくるなどし、防護壁を作る習慣がある。現場の校舎でもそれが行われていたという。おそらく、それによって窓などが覆われていたのだろう。咄嗟には状況が把握しにくい状態だったという。

 まして、子供たちは映画会を楽しみにして廊下を駆けていたのだ。すぐ先の、薄暗い階段の下で起きていることになど思いが及ばなかったに違いない。

 この事故の、その後については不明である。ここから先は、この松尾村という地域について少し書いておきたい。余談じみるところもあるので、後は読みとばしてもらっても構わない。

 現場の小学校の名前からも分かる通り、この地域は鉱山町だった。その中心にあったのが松尾鉱山である。硫黄鉱石が採れるということで、当時は栄えに栄えた場所だったのだ。

 この鉱山が発見されたのは1882(明治15)年のこと。一時、その採掘量は「東洋一」とまで呼ばれるほどだった。

 さらに戦後、朝鮮特需で景気が良くなった昭和20年代には需要が増し、硫黄鉱石は「黄色いダイヤ」とまで呼ばれるほどになった。

 そこで、労働力確保の必要性もあって、松尾村は一気に整備された。公団住宅が一般的ではなかった時代だったにも関わらず、集合住宅は水洗トイレにセントラルヒーティング完備。また小中学校や病院も建てられ、福利厚生もばっちり。実に近代的な都市だったのだ。

 雪国東北の山間部で、当時こんな場所があったのか――。山形在住の筆者などは、資料を眺めてそんな風に驚いたものだ。実際「雲上の楽園」などと呼ばれたこともあったらしい。

 事故が起きた松尾小学校も、最盛期は児童数1,800人に達したマンモス校だったという。校舎は、立派な鉄筋コンクリ製の近代的な造りだった。

 だが人が増えれば、それだけ群集事故の危険性も高まる。群集というものの発生が近代特有の現象だと考えると、急速に近代化が進んだ松尾村という場所でこういう事故が起きたのは、暗示的だなという気もする。

 そして、この松尾村の「その後」である。

 そもそも、硫黄の採掘で栄えた鉱山町があった……などという歴史的事実そのものが、現代に生きる多くの人にとっては初耳か、あるいはすっかり忘れられた話に違いない。

 1960年代後半(昭和40年代)を境に、硫黄の価値は急落した。資源の枯渇、輸入の増加、需要減、そして安価に硫黄が生産されるようになったことなどが、その理由である。国内の硫黄鉱山は、どんどん閉山に追い込まれた。

 こうした流れで、松尾鉱山も1969(昭和44)年に強制的に閉山。翌年の1970(昭和45)年には住民も退去した。当時のアパートは、現在は心霊スポットとして有名だそうだ。

 いくつかのサイトでざっと調べてみたが、事故の現場となった小学校は今は取り壊されたようだ。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆ウィキペディア

 

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大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)

 大阪市北区天満にある大阪造幣局の「通り抜け」は、今も多くの人々に愛されているようだ。地元の人ばかりでなく、遠方から観光バスで訪れる人も大勢いるとか。 

 局の敷地内には南北に貫通する通路があり、長さは568メートル。この両側には127種354本の牡丹桜が植えられており(平成22年時点)、花見のシーズンには一週間ほど無料開放され、訪れた人々の目を楽しませる。 

 開門時間は、平日が午前10時から21時まで。土日は午前9時から21時までである。皆さんどうぞ桜のシーズンにはぜひお越し下さい。 

 ……って、なに宣伝させてるんですか。閑話休題。1967年4月22日、ここで事故は起きた。 

 この桜並木の通路は、狭いところでせいぜい5メートルと、もともとあまり幅広いものではない。 

 そのため、人々は造幣局の南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)への一方通行(距離約560メートル)で進まなければならない。それで「通り抜け」と呼ばれているのだった。 

 これくらいなら、まあ長閑な散歩道という感じがする。だが、管理する側は大変である。何せ、多い年は100万人以上もここを訪れるのだ。土日ならなおさらで、平日の2.5倍の人混みになるという。 

 今も造幣局のホームページを覗いてみると、観光客による交通渋滞やゴミの散乱に頭を悩ませているらしいことが分かる。 

 そして、このような悩ましい混雑ぶりは今に始まったことではなかった。1967年4月22日当日も土曜日で、家族連れや子供が多く訪れる中、警察は機動隊員約100名を含む200名を配備。入口である南門には詰所を設置し、混雑時の群集密度を一平方メートルあたり4人と厳密に設定し、入場者を規制した。 

 めっちゃ、ものものしい。 

 それでも、こうした体制が功を奏したか、閉門直前までは特段のトラブルもなかったようだ。暗雲垂れ込めてきたのは、閉門の21時が迫ってきたあたりである。 

 閉門は21時とはなっているが、実際にはその時刻には構内を空っぽにする、というのが「閉門」の正確な意味だった。よって20時35分には門を閉じることになっていた。 

 21時までは桜が見られる――そう信じて足を運んだ人々からすれば勝手な話ではある。そういう認識のズレも原因になったかどうかは分からないが、閉門が近くなる20時頃には、門周辺は5,000人以上の人が滞留していた。恐ろしいほどの人混みである。 

 警備側は予定通りに35分に門を閉鎖した。しかし人々は帰らない。ますます群集密度は高くなる。これはいかん、危険だと判断した警備側は、仕方ないのでもう一度開門することにした。群集を小さなグループに分けて、寸断しながら少しずつ通過させよう。このままでは事故につながる――。 

 時刻は20時50分頃。門の手前20メートル程にロープを張り、改めて開放した。 

 ところがここで群集はご乱心。せっかく張ったロープを突破し殺到してきたからたまらない。約30名の機動隊員が、殿中でござるとばかりに押し戻そうとしたが失敗し、人々は「通り抜け」の中になだれ込んだ。 

 この時である。門から約2メートルの地点で、最前列にいた女性が転倒。そこへ次々に人が折り重なった。 

 機動隊員80名が急いで負傷者を救出にかかったが、1人が胸部圧迫による窒息で死亡。また男性7名、女性20名の計27名が重軽傷を負った。この27名には、幼児から60歳代の人までが含まれていたという。 

 当時、現場には仕事を終えて一杯機嫌で花見に来た人も多く、事故が起きてからも面白半分に騒ぎをあおった酔っ払いがいたとか。 

 結局、この日の総入場人員は20万人に及んだ。 

 事故の翌日の日曜日には、大阪府警は506人を出動させて、10メートルごとに2~3人の割合で警官を配置するという措置をとった。これに加えてパトロールも行い、より一層厳重な警備体制で臨んだという。 

 もはや花見の雰囲気ではない。こんなんだったら、行かない方がいいと思うのは筆者だけだろうか。きっと今はもっと穏やかだろうと思うのだが。 

 ところで、群集事故を記録するにあたり大いに参考にしている、岡田光正の『群集安全工学』(2011年、鹿島出版会)という本がある。 

 これによると、群集整理のさなかに、急に規制内容や整理の計画を変更するのは大変危険だとある。例えば入口を変更したり、入場の順序を変えたり、行列の位置を変えたりする、などである。 

 これをやってしまうと、沸点が低くなっている群集は頭に血が上り興奮するらしい。主催者への信頼が失われ、敵視すらされてしまうのである。「なんだあいつら、ずっと並んでるこっちの気も知らないで!」という感じだろうか。 

 その結果、ロープを張っても無視して殺到するという結果になるのだ。なにせ群集だから、怒りに任せてルールを破っても責任は問われにくい。だから平気になる。恐ろしいことである。 

 言われてみればこの「通り抜け」の事故もそうだし、横浜の歌謡ショー事故や、豊橋市の体育館での事故もそうだ。人間というのは、かくも簡単に群集心理に取り付かれてしまうものなのか。 

 おそらく、安全に日常を過ごしたいのならば、人混みにはできるだけ近付かない方がいいのである。それは単に群集事故に巻き込まれるから――ということではなく、我々自身がそういう群集心理に取り付かれないように気をつけなければならないから、でもあるのだ。 

 人混みに行くな、行列に並ぶな、と言うわけじゃない。ただそういう群集の中に身を置くとき、自分自身も含めて、人間は簡単に悪魔に変貌するということは肝に銘じておくべきなのである。

 

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12
独立行政法人造幣局ホームページ
 

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