目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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近鉄奈良線暴走事故(1948年)

 さあ皆さんならどう反応するだろう。列車が坂道で加速し始め、やがて振り向いた運転士が泣きながらこう告げてきたのである。

「申し訳ありません、車は停車しません。覚悟して下さい」

 これは作り話ではない。そんな恐ろしい出来事が実際にあったのだ。

 

   ☆

 

 時は1948年(昭和23年)3月31日、水曜日。近畿日本鉄道奈良線、生駒駅から花園駅までの鉄路で起きたこの事故は、「近鉄奈良線列車暴走追突事故」「花園事故」「生駒トンネルノーブレーキ事故」など今ではさまざまな名称で呼ばれている。

 奈良発7時20分、大阪の上六行き712急行列車は、朝のラッシュアワー時のため満員の鮨詰め状態だった。

 明らかな異常が発生したのは、生駒駅を発車し、生駒トンネルの下り坂に差しかかった時だった。なんとブレーキが利かなくなったのである。

「あれ、あれれ? どうなってんの」

 運転士は焦ったに違いない。なにせトンネルを出た先の孔舎衛坂駅(くさえざかえき)では線路は半径200メートルの急カーブになっている。しかもその先は、さらに4キロもの連続勾配を一気に駆け下りるのだ。要は、長~い1本の坂道になっているわけだが、よりにもよってそれを下り始めたあたりでブレーキが利かなくなってしまったのである。

 乗り合わせた乗客たちもすぐに異常に気付いた。

「おいおい、この先って急カーブだよな。いつもならここで減速するんじゃなかったっけ?」

 減速どころかスピードは増すばかりである。列車は生駒トンネルを出たあたりで、激しい火花と砂煙を上げ始めた。

 大変だ、これ暴走してるぞ!

 この時、運転士の脳裏では、先に通過していた額田駅と生駒駅での出来事がよぎっていたのではないだろうか。そういえばこの二つの駅でもブレーキの利きが悪く、列車は一両分ほどオーバーランしていたのである。あれはこの予兆だったのか――!

 終戦から4年が経ったとはいえ、日本の工業力はまだ回復には至っていなかった。何しろ物資がない。鉄道に限ってみても車両は老朽化した木造のままで、線路も磨耗と歪みが著しい状態で使われていたという。そんな中、とっくに耐用年数を過ぎたブレーキが、最悪のタイミングで寿命を迎えたのだった。

 このままでは脱線か転覆かはたまた衝突か。乗客たちは騒ぎ始めた。

「ガラスが割れるぞ!」
「窓を開けろ、そうすれば空気抵抗で減速する!」
「後ろに詰めろ、もっと奥に行け」
「それより伏せろ、伏せるんだ! 重心を下げろ」
「立つんじゃない、後ろを向いて座れ」
「舌を噛むぞ、歯を食いしばれ」

 後ろの車両に移動すれば、衝突による被害は抑えられたかも知れない。しかし時代が時代で、当時の列車に車両ごとの貫通扉はなかった。つまり客車は密閉されたただの箱だったわけで、乗客たちはそれぞれ乗り合わせた車両で対策を講じるしかなかった。

 そうこうしているうちに、どんどん増していくスピードのため、なんとパンタグラフが架線を切断。さらにもうひとつのパンタグラフも破損してしまい、あっという間に使い物にならなくなった。

 本当は、このパンタグラフに通電しているうちに、列車がバックする形に操作を行っていれば減速できていたかも知れない。だがこの時の運転士は弱冠21歳、あまりにも経験が乏しすぎた。物資も人材も不足していたのである。

 そこで助役が車両の前方へ移動してきた。

「こうなったらハンドブレーキだ。ハンドルを回せ回せ」

 近くにいた乗客と協力して、助役は手動のハンドブレーキを回し始める。しかし、フルスピードの列車の速度はなかなか落ちず、目に見える効果は現れない。そうこうしているうちに、列車は石切駅を猛スピードで通過した。

 さて次の通過駅である瓢箪山駅には、7時48分に運転司令室からの鉄道電話が入ってきていた。

「準急の752を今すぐ退避させろ! 急行712が石切駅に停まらずに暴走してやがる!」

 なんだと、マジか。駅員たちは慌ててポイントを変えた。ちょうどその時、西大寺発の準急が構内に入ってきたところで、これは無事に待避線に寄せられた。

 ふうやれやれ、と駅員が胸を撫で下ろしたその瞬間である。くだんの暴走列車が、物凄い火花と砂煙を上げながら一瞬で駅を通過していった。この時には100キロを越えるスピードだっただろうとも言われており、まさに間一髪だったのだ。駅の手前のカーブでは、車両が浮いたとの証言もある。

 暴走列車は止まらない。

 途中、開け放たれた窓から飛び降りた者も2人いた。しかし1人は大怪我、1人は死亡。どう足掻いても只では済まない状況だったのだ。

 運転手も必死である。車両の窓から身を乗り出し、パンタグラフを直せないかと試みた。しかし暴走による風圧でいかんともしがたく、なんの足しにもならなかった。

 それでも、現在の花園駅(当時はなかった)あたりから道は平坦になり始めた。手動ブレーキもやっと手応えが感じられ始め、ここでは時速80から70キロくらいには落ちたのではないかと言われている。

 距離にしておよそ6キロ、ここまでの時間は5分。しかしこの暴走は、最悪の形でストップすることになった。花園駅の構内に電車が停まっていたのである。これは瓢箪山駅の時のようには連絡がうまくいかず、待避線にどかす移動させる時間がなかったのだ。

 不幸中の幸いだったのは、追突された列車がまるきり停止しておらず、動きかけだった点である。これにより衝突の衝撃はわずかに緩和された。

 それでも大事故である。7時50分、大音響と同時に暴走列車の先頭車両はものの見事に粉砕された。壁は全てなくなり、残るは天井と床だけ。長さも半分ほどに押し縮められ、乗っていた乗客たちはほとんどが線路脇のドブ川へ放り出されたという。車両の床も、川の水も、たちまち血の色に染まった。

 死亡者49名、負傷者282名。2両目以降も車両の前後が大破したが、死者は先頭車両の乗客のみだった。

 実に不幸な事故である。

 とにかく終戦直後というのは、物資が極端に不足しており鉄道はろくに整備もされていなかった。にも関わらず、人々は交通手段として大いに利用するものだから磨耗のスピードも速く、こうした整備不良が原因となった鉄道事故は数多く起きている。

 それでもこの事故がどこか特別に見えるのは、暴走が始まってから追突するまでの間がどことなくドラマティックで、見る者の心を打つからであろう。実際、乗客たちが力を合わせて、なんとか衝突のダメージを軽減しようと試みたことをひとつの美談として捉える人もいるとかいないとか。

 確かに、追突するまでの数分間を短編小説形式で書いたりしたら、案外面白い作品ができるかも知れない。しかしこれはやっぱり「不幸な事故」であって、美談に仕立て上げようという気には筆者はあまりなれない。この点についてはいみじくも桑田佳祐が歌った通りである。「情熱や美談なんてロクでもないとアナタは言う~♪」

 追突事故が発生した花園駅は、今はもうない(「河内花園駅」がもとの駅より東のほうにあるという)。だが付近の踏切路の西側には、今でも慰霊碑の光明地蔵が建っているそうな。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

 

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桜木町火災(1951年)

 時は1951(昭和26)年4月24日。戦後の復興も軌道に乗り始めていた頃に起きた大惨事である。

 この当時、横浜市という街は、現在の我々が思い描くようなイメージとは一線を画す、ごみごみした「周縁」にあたる地域であった。東急東横線も根岸線も終点は桜木町であり、横浜スタジアムのオープンもみなとみらい地区の整備もまだまだ先の話、という時代である。

 こうした「周縁」にあたる地域では、都市部に比べるとシステムの整備が遅いわりに、人の動きが大きいので、一度事故が起きると大惨事になりやすい。八高線の事故しかり、後年に起きる三河島事故鶴見事故しかりである。これからお話しする桜木町火災という事故もまた、そうした事象の一例である。

 この桜木町火災、一体どのような事故だったのだろう。それについては、鉄道事故マニアのバイブル「事故の鉄道史」シリーズの中で、著者のひとり網谷りょういち氏がこう述べているのが興味深い。

 「桜木町事故ほど、事故原因が多岐にわたり、どれが最大の要因かわかりにく事故はない」――。

 これはまったくその通りである。とにかく、ここまで多くの要因というか悪条件が重なった事故も珍しい。ひとつひとつを見れば些細な要因だったが、それが積み重なり、そしてそこにほんの少しの人的ミスが加わったことで106名が焼き殺されるという結果になったのである。

 要は、混沌としているのだ。

 

   ☆

 

 午後1時40分頃のことだった。神奈川県横浜市の桜木町駅では、構内の上り線のほうでちょっとした事故が発生した。電線工事の作業員がスパナを落とし、送電に関わる線を切断させてしまったのだ。

 これによって「トロリー線」なるものがダラリと垂れ下がる形になった。このトロリー線とは、電車の車両に直接電気を流す役割を持つものである。

 工事を指揮していたN工手長は急いで駅の信号扱所へ行き、そこにいたT信号掛にこう告げた(とされている)。

「断線事故が起きてしまった。上り線には電車を入れないでくれ」

 そしてこの断線事故があったのと同じ頃、京浜線では下り列車が出発したところだった。これは5両編成で、先頭はモハ63756。この直後に発生した火災事故によって、鉄道史に悪名を刻み込むことになる「63系電車」である。

 当時の桜木町駅では、構造上、上り列車も下り列車も共に上り線の線路を共有する形になっていた。それでこの時も、下り列車の運転士は信号を確認しながら、上り線の線路へと進入していった。

 先述の通り、この上り線は先ほどの断線事故によってストップがかけられていたはずであった。なぜここで列車の進行が止められなかったのかは、後に裁判で争われるタネになるのである。

 さて上り線では断線したトロリー線が垂れ下がっていたわけだが、ここに下り線が進入し、先頭車両のパンタグラフがからまったからたまらない。パンタグラフはたちまちひん曲がり、電車の屋根に接触した。

「ぬおっこれはいかん!」異常に気付いた運転士は非常ブレーキをかけ、このパンタグラフを降下させる。

 通常ならば、その措置で問題はなかった。パンタグラフとは、電車内に電気を送る装置である。これを降下させたことで車内の電源は全てストップすることになる。だから火災は起こらないはずだったが、ところが今の問題はパンタグラフではなくあくまでもトロリー線の方である。パンタグラフを降下させたとて、からまった電線は依然とて通電しているのだ。電気は、パンタグラフを通して、接触していた車両の屋根に放電された。

 一閃――。

 その瞬間、物凄い轟音と閃光があり、木製の車両の屋根は爆発するように燃え上がったという。

 当時、桜木町付近の給電は、横浜変電区と鶴見変電区の2か所からなされていた。当然この事故が起きた瞬間にはそれぞれの変電所でも異常を察知し、給電をストップさせる措置が取られた。

 ところが、である。鶴見変電区だけは、給電を止めるための高速度遮断器という装置が作動しなかった。おいおいしっかりしろよ! と突っ込みたくなるが、とにかくこれにより、くだんの列車には4~5分に渡って電気が送られ続けることになったのだった。

 これでは火勢も弱まらない。結果、事故車両は先頭が全焼、2両目は半焼という憂き目に遭うことになる――。

 ここで、全焼した先頭車両「63系」電車について少し説明しておこう。

 もともとこの63系列車は、1944年に戦時の輸送力増強のために開発されたものである。現在の「全長20メートル、片側4扉」タイプの車両はここから始まっており、当時としてはかなり画期的だった。

 もともと「戦争に勝つまでの間に数年保てば良い」という設計思想があったらしく、現代の目線で見れば「数年あれば勝つと思ってたんかい」と言いたくなるところだが、その実態は即席の間に合わせとしか呼べない代物だった。

 たとえば車内の木造の屋根は骨組みが露出しており、照明はカバーもない8個の裸電球のみ。現代の我々には想像もつかない車両である。

 また火災とのからみで言えば、ガラス節約のため3段に区切られた窓は中段が開かず、極めて脱出しにくいものだった。さらに塗料は可燃性で、天井の内張りはベニヤが使われていたため火災が起きればひとたまりもない。しかも隣の車両へ通じる扉は内開きのため満員の混乱時には使えないし、とどめに非常用ドアコックはどこにあるか分からない――と、もう救いようがない。

 とにかく資材を極限まで切り詰め切り詰め、輸送効率だけを追求したのである。ゼロ戦と同じだね。日本人はこういうのを作るのが上手いけれど、それは人命軽視の思想と常に背中合わせであるのだなァと思う。

 それでもなんとか脱出した生存者もいた。その証言を見ていこう。

「その瞬間、天井を黒煙が覆い、私は手ぬぐいで鼻と口を押えてしゃがみ込んだ。黒煙が真っ赤な炎に変わったとき、自分の下に煙を吸って倒れた乗客がたくさんいるのに気づいた。炎が渦を巻いて迫ってきた。死を覚悟した瞬間、家族の顔が浮かんだ。そのときである。ガチャーン、という音に振り向くと、火だるまになった男性が網棚につかまって両足で窓をけ破っていた。後に続けば助かると重い、私も破れた窓から飛び出した。顔や手は焼けただれたが、中古で買った純毛のスーツが炎から体を守ってくれた」

「桜木町の手前で、突然人がかぶさって来たので、何だかわからないまま手で窓ガラスを叩き壊し、窓から飛び降りて頭の火をもみ消して、火のついた上衣を脱ぐのがやっとだったが、セーターまで焼けていた」

 背筋が寒くなるような話である。

 ところでこの時、運転士はなにをしていたのだろう?

 当時、この5両列車にいた鉄道員は3人。先頭車両が焼き尽くされるまでには10分程度しかかからなかったと言われているから、救出のための措置を取れたのは先頭車両の運転士だけだった。

 しかしこの運転士、先頭車両はあまりに火勢が強すぎどうすることもできなかったのだった。よって、比較的火災の規模が小さい2・3両目の乗客を救出したり、車両を切り離したりするのが関の山だった。先頭車両の窓から乗客を引っぱり出したりもしたそうだが、それは最後だったという。

 先頭車両で生きながら焼かれている乗客にとって、窓の外でウロチョロしているだけの運転士の姿はさぞ恨めしく写ったことだろう。

 この時、運転士はなにをすべきだったのだろう?

 答えは簡単である。実は、車両の外にちゃんと非常用ドアコック――通称「Dコック」――があったのだ。運転室から出てすぐこれさえチョイとひねっていれば、自動ドアも全て手動で開けられたはずだったのである。

 のちにその点を追及された運転士は、コックの存在を「あとで言われて思い出した」という。これでは責められても仕方がない。

 ちなみに、車両内にもこの「Dコック」は設置されており、事故当時、誰かがこれをひねった形跡があることが現場検証で明らかになった。死亡者の中には鉄道関係者もいたらしく、おそらくその人がひねったのだろうと言われている。

 つまり焼け死んだ乗客たちは、実は手動でドアを開けて脱出することが可能だったのだ! やりきれない話である。

 だがそれに気付かれないのも無理のない話だった。火災時の車両内は修羅道かはたまた畜生道かと思わせる有様で、乗客は我先にと唯一の脱出口である窓へ押し寄せ、男が女を引きずり落とすような惨状だったという。誰か一人がコックを捻っても、それだけ混乱した車内では、落ち着いてその旨を説明する前に踏み倒され、煙を吸ってしまうのが関の山だったろう。戦後の混乱とモラルの低下は、こんなところでもまだくすぶっていたのだ。

 今では、非常用ドアコックと言えばどんな車両でも目立つ場所に設置されているのですぐ分かる。だが当時の車両は「隠されている」と言われてもおかしくないような場所にあり、そもそもそうしたコックの存在自体が知られていなかったのである。

 ドアコックに歴史あり。桜木町火災によって、このコックはやっと目に付く場所に設置されるようになったのだった。

 だが、これは余談めくが、それが裏目に出たのが三河島事故である。こちらの事故では、ドアコックをひねって勝手に脱出した乗客たちが、隣の線路に進入してきた別の電車によって片っぱしから轢かれてしまったのだ。難しいものである。

 こうして桜木町火災は、先頭車両と2両目を合わせて焼死者106名、負傷者92名という大惨事になった。この事故は国鉄戦後五大事故の一つとして、今でも鉄道事故史を語る上では欠かせないものである。

 さて裁判だが、これは最高裁まで争われ、最終的には職員5名が有罪となった。

 内訳は、架線工事の工手長のNが禁固10ヶ月。信号掛のT、運転士、工事の工手副長が禁固6ヶ月。最初にスパナを落として電線の切断を起こした工手は執行猶予付きの禁固1年である。

 なお、有罪判決を受けた工事の工手長のNと信号掛のTが、火災直前に交わしたやり取りが裁判では問題になっている。断線事故が起きたにもかかわらず、なぜ下り列車はごく普通に進入してきたのか? というあの一件だ。

*Nの証言
「私は架線を切ったとき信号所にかけつけて、上り線には電車を入れてくれるなと強く主張した」

*Tの証言
「Nは、上り電車を出すのはチョット待ってくれと軽く言った。到着する下りはいいのか、と私が尋ねたら、到着のほうははいいと答えたので渡り線に電車を入れた」

 完全な責任のなすり合いである。どっちかが嘘をついているか、あるいは完全に記憶がおかしくなっているのは明らかだ。だがとにかく、この2人の打ち合わせ不備のため、例の63系列車は断線事故が起きていた上り線に進入してしまったのだった。

 この桜木町事故には「謎」がほとんどない。事故発生から終了に至るまでの経過は全ての局面でほぼはっきりしている。まあ逆に、だからこそどのへんに責任追及の焦点を当てるべきかが分かりにくく混沌としており、裁判でももめているのだが、そんな中でも唯一の「謎」として残っているのがこのNとTの証言の真偽なのである。

 ちなみにこれはおまけのような話だが、桜木町火災は、事故現場の凄惨な写真が新聞に載った最初のケースなのだそうだ。そういえばある写真集で遺体の写真を見たことがあるが、なにがなんだか分からない写りで「こんな写真なんの意味があるんだろう?」と思ったものだが、当時としては相当鮮烈なものだったのだろう。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア

 

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東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)

 日本の事故史を紐解くと、戦後間もない一時期に「修学旅行中の事故」が頻発していたことが分かる。発生した事故のジャンルも鉄道、バス、海洋と多岐に渡っており、このテーマだけでも一冊の本が書けそうな気がするほどだ。

 鉄道事故の分野でいえば、最も有名なのは参宮線六軒事故ということになるだろうか。あれは多数の死者が出た悲惨さそのものでも有名だが、いっぽう東海道線では火災事故が発生している。知名度はそう高くないのだが、今回はこの事例をご紹介しよう。

 時は1955年(昭和30年)5月17日のこと。

 日付も変わったばかりの午前2時19分。修学旅行中の学生たちを乗せた11両編成の列車が、原―田子の浦間を通過していた。

 この列車は京都発東京行きの3138列車で、乗客は837名という大所帯である。いかにも「事故ったら大変なことになりそうだなあ」と思わせる乗客数だが、とにかく田子の浦駅はダイヤ通りの時刻に通過したし、ここまでは何も問題はなかった。

 問題が起きたのは、静岡県原町の植田という地区の踏切に差しかかった時だった。なんとそこで一台の大型トレーラーが立ち往生していたのである。それは米軍のもので、列車の運転士は慌てて急ブレーキをかけたが間に合わずゴッツンコ。それでも列車は止まらず、百数十メートルもそのまま走行してやっと停止したのだった。

 さあ、大変なのはここからだ。踏切で大破した米軍トレーラーには、よりによって揮発油を原料としたペンキが大量に積まれていたのである。どういう拍子でかそれに引火し、あっという間に周辺は「燃え上が~れ~ガン●ム~♪」状態。

 火炎は、緊急停止した3138列車にもたちまち燃え移っていく。特に3両目はトレーラーに近い場所にあったのか、燃え移るのが最も早かった上に焼け方がひどく、骨組みしか残らないほどだったという。

 また他の客車3両と機関車が全焼、さらに1両が半焼に至った。つまり先頭の5両が焼けたわけだが、6両目以降は切り離して移動させたため無事だったという。 

 この事故の犠牲者は、まず重傷を負った者が2名。そして修学旅行中の子供たち11名を含む31名が軽い怪我を負った。死者はゼロだった。

 え、ゼロ?

 そう、ゼロなのである。

 その場にいた鉄道関係者と乗客たちが、皆で力を合わせたのが良かったのだ。さらに、時刻は草木も眠るなんとやら――だったにも関わらず、周辺住民も駆けつけて協力してくれたのである。

 住民たちにとってはきっと「田子の浦に 打ち出でてみれば火災にぞ 鉄道車両に 火の粉は降りける」という感じだったろうが、とにかくそれで車両の危険回避と乗客らの避難誘導が適切に行われたのだった。いやあ良かった良かった。人間やればできるもんだね。

 戦後の鉄道火災事故といえばなんといっても桜木町火災だろうが、桜木町は鉄道事故史上屈指の死者数、されどこの東田子の浦では死者ゼロと、えらい違いだ。

 ちなみにこの事故で被災した車両は、廃車とはならずに修理されてその後も使用されたという。個人的にはそれがどうしたという感じなのだが、生粋の鉄道好きにとっては外せない話題らしい。資料として読ませて頂いたサイトのどちらにも詳細な説明があった。素人には退屈な文章だが、とりあえず重要事項らしいのでそのまま引用しておこう。ウィキペディアからである。

「被災車両は損傷の著しいものがあったにもかかわらず全車廃車とならずに修復され、EF58 66は浜松工場で修復および甲修繕を施工、客車5両はオハ46形に準じた広窓、切妻、鋼板屋根の構体の新製と台枠の改造が行われ、スハ32 266は名古屋工場で構体載せ替えを受けオハ35 1314に改番、スハフ32 257は小倉工場で構体載せ替えを受けオハフ33 627に改番され、オハ35 342・923, スハ42 63は小倉工場で構体載せ替えが行われ原番号で復旧された。」

 ところで米軍トレーラーはどうして立ち往生していたのだろう。補償はしたのだろうか。その辺りも気になるが、ひとまず今回はこれにて。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト「JS3VXWの鉄道管理局」鉄道写真管理局珍車ギャラリー
http://bit.ly/fZMg7P
◇ウィキペディア

 

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参宮線六軒事故(1956年)

 ATSという装置がある。

 正式にはAutomatic Train Stopという。自動列車停止、すなわち鉄道を強制的に停止させる装置である。たとえば、鉄道車両が速度超過に陥ったり、あるいは信号無視を行ったりすると「はいダメー」ということで自動的に作動する。

 このATS、現在では全ての鉄路に備え付けられているという。まあ安全管理という観点からは当たり前なわけだが、しかしこれが「当たり前」になったのはごく最近のこと。そう、当研究室の読者諸賢ならもうお分かりであろう。これが普及し定着するまでには、戦後のいくつかの大事故の発生を俟たなければならなかったのだ。ATS配備の歴史は、そのまま鉄道事故の歴史と言っても過言ではない。

 今回ご紹介する参宮線六軒事故は、1965年(昭和31年)に発生した。この事故によって、国鉄は「車内警報装置」の全線設置を決めたのだが、この時はまだ列車の停止は手動で行う必要があり、警報装置はいわばATSの単なる前身に過ぎなかった。やっぱりただの警報装置では生ぬるい、ということで問答無用に列車を停止させるシステムへと切り替わったのは、伝説の鉄道事故・三河島事故以降の話である。

 そう考えると、この六軒事故は知名度こそ低いものの、三河島事故の前触れというか予兆みたいなものだったのだろう。それまで鉄道というのは「なにがあっても列車は停めるな」が基本であった。だがそれがこの六軒事故や三河島事故を経て「異常時にはすぐ停めろ」へとパラダイムシフトしたのだ。今となっては地味ではあるが決して外せない前身。プロレスで言えば、力道山に対するボビー・フランスやハロルド坂田。それがこの六軒事故なのである。

 

   ☆

 

 1956年(昭和31年)10月15日18時22分のことだ。

 現在は紀勢本線である、当時の「参宮線」の六軒駅で、上り・下りそれぞれの快速列車がすれ違うことになった。

 本来のダイヤではこのすれ違いはあり得ないのだが、そんな風に急遽変更となったのは、下り快速列車に10分の遅れが出たためだった。よって下り列車は、いつもならもっと先の松坂駅ですれ違うところを急きょ六軒駅で臨時停車し、上りの列車をやり過ごさなければならなくなったのだ。

 ただ問題は、下り列車の運転士に、この緊急の変更内容が伝わっていなかった点であろう。当時は携帯電話なんて便利なものは存在せず、こうした決定が先に駅の内部で行われ、運転士は駅構内で止められた後で事後的に知らされることもあったのだ。

 通信手段が充実している現代の視点で見れば「危なっかしいなあ」と思うのだが、とにかくそうだったのだから仕方がない。なあに、駅でちゃんと信号を操作して確実に列車を止めれば、大丈夫だ問題ない。――というわけで、六軒駅では下り快速列車を受け入れる態勢を整えて待っていた。

 ところが一体どうしたことか。駅に入ってきた下り列車が、停止せずにそのまま駅を通過していくではないか。

 少し進んだところで、運転士がアッと気付いて非常ブレーキをかけたがもう間に合わない。列車は安全側線に突っ込み、そのまま車止めを突破してしまいドンガラガッシャン。機関車2両と客車3両が脱線転覆し、「反対車線」にあたる上り線の線路をふさぐ格好になってしまった。

 これだけでも大事故だが、もしかするとこの段階では死傷者は比較的少なかったかも知れない。このほんの数十秒後に、六軒駅ですれ違うはずだった上り列車が進入してきたからさあ大変、線路をふさいでいた車両に激突してしまった。

 この激突によって、上り列車の機関車2両と客車1両がさらに脱線転覆。しかも、先に転覆していた下り列車は押し潰されてしまった。死者42人、負傷者96人という大惨事のできあがりである。

 下り列車の乗客の多くは、修学旅行中の学生であった。

 この学生たちは、当時の東京教育大学(今の筑波大学)付属坂戸高校の生徒だった。死者42名のうち、24名がこの生徒たちだったというから痛ましい。

 さらにこの事故が悲惨なものになったのは、上り列車の機関車の破損によって、犠牲者たちが蒸気と熱湯を浴びたことだった。蒸気機関のパイプやバルブからそれらが漏れ出したため、生存者は大火傷を負い、死者の遺体は激しく損傷せられたのだ。

 そして救助活動が始まったものの、これもひどく難渋したという。消防署、消防団、機動隊、陸自などが出動したものの列車の破損があまりにひどく、さらに上にのしかかっていた機関車の撤去にも骨が折れたという。

 さあ、裁判である。まあ事故の原因は明らかで、下り列車のオーバーランのせいなのだが、ではそもそもオーバーランはなぜ発生したのか? 裁判ではそこが問題になった。

 救助された下り列車の機関士は、こう証言している。

「六軒駅に入った時、信号は確かに進行を現示の状態でした。だけど駅ホームの半ばあたりまで来たら、出発信号機が停止現示になっていたんです。それで慌てて非常ブレーキをかけたのですが間に合いませんでした」

 要するに、青信号だったので安心して進んで行ったら、当然青であるべきその先の信号が赤になっていたいうことだ。この話が本当ならば、事故の責任は駅にあることになる。信号機の赤青を変えるのは駅の信号掛の役目だからだ。

 しかし駅はこのミスを全面否定。彼らと、前述の運転士の主張は真っ向から対立した。

 裁判所の最終的な結論は、「事故の原因は運転士による信号の見間違いである」というものだった。六軒駅の関係者は全員無罪、運転士のほうが禁固2年・執行猶予5年、機関助士には同じく禁固1年と執行猶予3年という判決が下っている。しかしこの結論を証拠づける物的証拠は特になく、ぶっちゃけ真相は闇の中である。証拠なしでこんな結論、出しちゃいけないと思うのだが。

 とはいえ、実際のところなにがあったのか、まったく推測できないわけでもない。

 当時は伊勢神宮の大祭が行われており、大勢の人が行き来していたせいでダイヤは乱れがちだった。よって、先述したような列車の遅れや駅での緊急のすれ違いが発生したのである。だが六軒駅ではこのような変更は珍しいことで、慌てた駅員が信号の操作をミスったのかも知れない。全てが手動だった時代、こうした操作がいかに煩雑だったかは想像するしかないが、今までやったことがない操作をその日いきなり「やれ」と言われれば誰だって慌てる。

 また一番最初にも書いたが、下り列車の運転士は、六軒駅でいったん停止することを事前に知らされていたわけではない。ちょっとぼんやりしていれば、青信号を見落として、まったくいつも通りにこの駅を通過しようとしてしまうことだってあり得るだろう。

 いずれにせよ同情せずにはおれないところである。

 

   ☆

 

 最初に述べたように、この事故の直後から、主要幹線では車内警報装置の導入が進められていった。さらに信号も色灯化や自動化が進められ、これでひと安心となるはずだったのだが、6年後に三河島事故が発生したことでぜんぶ台無し。金はかかるけどやっぱりATSでなきゃ駄目だという結論になったのである。

 それにしても、このあたりのエピソードを書いていて思い出すのは、三河島事故が起きた時に付近の住民だか乗客だがか言っていたという言葉である。「人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ」と、その人は憤っていたという。

 だが皮肉なもので、ATSの導入は「やっぱり全ては機械サマ頼み」という結論を示すものだった。人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ――。その答えは簡単で、人間は間違うものだからである。人間なんてアテにならないからである。

 とはいえこのATSという機械も万能ではない。緊急停止したあとは改めて手動で発進させるわけで、けっきょくそれで事故ったというケースもある。いやはや、くり返して言うが人間なんてアテにならないものである。せっかく機械を導入しても、それを台無しにするのはやっぱり人間なのだ。

 この参宮線六軒事故の事故車両は、今でも和歌山県橋本市の運動公園に展示されているという。下り列車を押し潰した、あの上り列車の機関車である。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◇ウィキペディア

 

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三河島事故(1962年)

 三河島事故――。伝説の鉄道事故である。

 あまりにも有名なので、今さらここで記述してもな~という気持ちが正直あるのだが、一方でこの事故のことを書かなければ、鉄道事故史としては明らかに片手落ちだろうとも思う。

 この事故の情報は、これまでにも多くの文献で書かれてきたし、ネット上でも溢れ返っている。よって詳細はそちらに譲るとして、当研究室では大まかに、自由に書かせて頂こう。

 

   ☆

 

 時は1962年5月3日、夜9時半過ぎ。東京都荒川区での出来事である。

 常磐線・三河島駅からほど近い線路上で、下り貨物列車が事故を起こした。

 これはまあ、ちょっとした脱線事故である。赤信号の場所で信号を見落とし、安全側線内で大きく傾いてしまったのだ。それで車両が本線側にはみ出した。

 この状態を乗用車と道路でたとえるなら、反対車線に頭がはみ出す形で停車したようなものだ。当然、反対側から車が来れば衝突の危険がある。危ないことこの上ない。

 おっとこいつぁーウッカリだ! しかし貨物列車の運転士には、額を叩いている余裕もなかった。およそ10秒後に、反対方向から、本線を走ってきた列車があったのだ。これは上野発取手行き下り2117H電車で、7両編成。本線にはみ出していた貨物列車にぶつかったことで、今度はさらにその隣の上り線の線路上にはみ出してしまった。当時、この下り電車は約40km/hの速度だったという。

 言うなれば、ドミノ倒しのようなものである。列車が次々に脱線し、隣へ隣へとはみ出してしまったのだ。だがこの時点では死者は出ておらず、25名が怪我を負っただけだったと言われている。

 なんだ全然大したことないじゃん――などと言うことなかれ。問題はここからだ。

 誰が最初にやらかしたのか知らないが、2117H電車の乗客たちが「非常用ドアコック」を使って車両の扉を開け、ゾロゾロと外へ出始めたのだ。

 まあ確かに、脱線して動かなくなっている電車に閉じこもっていたって仕方がない。「早く外に出て、さっさと別のルートで家に帰ろう」というのは当然の心境だったろう。しかも当時の電車内は、脱線でパンタグラフが外れたことから停電していたのだ。

 乗客たちは、さっき出発したばかりの三河島駅へ戻り始めた。

 ところがここで、彼らの歩いていた線路上へ上野行き上り2000H電車が突っ込んできたのである。人々はデデデデデッと撥ねられた。

 また電車のほうもただでは済まなかった。乗客を撥ね飛ばした挙句、脱線していた下り2117H電車と衝突したことで先頭車両が粉々に粉砕。2両目と4両目は、土手のように盛り上がっていた線路から真下の民家へと転落したのである。その結果、死者160名、負傷者296名の大惨事となった。

 いやはや。最初は「こいつぁーうっかりだ!」で済むところだったのが(いや済まないけどさ)、あれよあれよと言う間に雪だるま式に膨れ上がり、そして伝説へ……。とんでもない事故があったものだ。

 夜に線路を歩いている大勢の人たちが、電車によって一気に撥ねられるというイメージもあまりに強烈である。この強烈さによって、三河島事故は多くの人々にとって忘れがたいものとして記憶に残ったことだろう。

 ちなみに筆者がこの事故のことを話す時に、よく聞かれるのが「なんで線路を歩いていた人たちは、電車をよけなかったの?」ということである。

 これは簡単で、逃げ場所がなかったのだ。

 実際に行ってみると分かるが、事故現場は土手のように高く盛り上がった場所で、おいそれと下りられるようなものではなかった。またそこは鉄道車両が通ることしか想定されていないので非常に狭く、2台もの鉄道車両が並んで脱線している上に大勢の人がいたのでは、逃げ場所もほとんどなかったと思われる。

 さて、当時の事故現場の写真は、今ではネット上でいくらでも見られる。

 ちょっと見ただけだと気付かないのだが、写真に写っているものの中で筆者が特に恐ろしく思ったのは、上り2000H電車の先頭車両の状態である。

 各種資料を読むと「先頭車両は粉々に粉砕」という記述がよくあるのだが、最初は写真を見ても特にひどくない気がした。しかし筆者が先頭車両と思い込んでいたのは、実は2両目だったのだ。よく資料を読むと「2両目以降が土手から転落」とあるではないか。

 ああそうか転落しているのは先頭ではないのか。すると1両目はどこに?

 そこでよく目を凝らし、それを見つけた時には思わずゾッとした。上り2000H電車の先頭車両は本当に原型をとどめないほど破壊されており、まるでボロクズのように打ち捨てられていたのである。

 これは、福知山線の事故のニュース映像を初めて見た時の感慨と似ていた。あれも先頭車両と2両目の破損がひどく、最初はそれが車両だとは気付かなかったものだ。この事故の凄まじさが、いかに想像を絶するものだったかが思われる。

 裁判では、国鉄職員たちの責任が追及された。最初の二重脱線の時点で、上り電車を止めるための措置を取っていれば被害はもっと少なくて済んだことだろう。

 だが乗客の行動にも問題がないとは言えまい。彼らは非常用ドアコックを使って勝手に外に出たのだ。おそらく「皆が行くから自分も」という感じで次から次へとついていった形だったに違いない。

 この「非常用ドアコック」は、1951年の桜木町火災を教訓として設置された。昔からあったのだが、以前は場所が分かりにくかったのだ。桜木町火災では、そのため多数の乗客が脱出できず焼け死んだ。しかし三河島事故では、ドアコックが気軽に使えたことが裏目に出てしまった。

 国鉄職員の対応といい、乗客の行動といい、この事故は「日本人の非常時の行動のまずさ」を如実に浮き彫りにしていると言っていいだろう。

 その意味で、この事故は今でも「生きた事例」であり、教訓であり、事故防止のための教科書である。

 実は福知山線の事故でも、JRは反対の路線から入ってくる電車を止める措置を取っていなかった。それをとっさに非常停止装置で止めたのは、名もない一般市民のおばちゃんだったのである。このおばちゃんがいなければ三河島事故再び、になるところだったのだ(ただしJRはこの事実を認めていないそうな)。

 さらに三河島事故は、同じ常磐線で戦時中に起きた土浦事故とも瓜二つの関係にある。土浦事故があまり知られていないのは、当時の通信事情からして致し方のないことだが、こちらの事故の反省がきちんとなされていれば三河島事故は防げたのではないか、とも言われている。

 過去未来のあらゆるケースと、ここまでつながりを持つ鉄道事故もちょっと珍しい気がする。

 三河島駅は今もある。しかし、この事故によって三河島という地名は地図上から消えた。戦後の日本で、陰惨な事件や事故が原因となって地名が地図から消えたのは、おそらく帝銀事件と三河島事故だけではないだろうか。

 最後にこれは余談だが、筆者の父親は事故当時、現場の近くに住んでいた。よって日暮里大火、荒川通り魔事件、吉展ちゃん誘拐事件、そして三河島事故はいまだに身近なものとして覚えているという。曰く「あの夜はひと晩中サイレンが鳴っており、空襲を思い出して不気味だった」。

 そういえば「失敗学」を打ち立てたことで有名な畑村洋太郎も、同じような体験談をある本で書いていたのが印象深い。一度知ったらもう忘れられない伝説の鉄道事故、それがこの三河島事故なのである。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

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