目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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参宮線六軒事故(1956年)

 ATSという装置がある。

 正式にはAutomatic Train Stopという。自動列車停止、すなわち鉄道を強制的に停止させる装置である。たとえば、鉄道車両が速度超過に陥ったり、あるいは信号無視を行ったりすると「はいダメー」ということで自動的に作動する。

 このATS、現在では全ての鉄路に備え付けられているという。まあ安全管理という観点からは当たり前なわけだが、しかしこれが「当たり前」になったのはごく最近のこと。そう、当研究室の読者諸賢ならもうお分かりであろう。これが普及し定着するまでには、戦後のいくつかの大事故の発生を俟たなければならなかったのだ。ATS配備の歴史は、そのまま鉄道事故の歴史と言っても過言ではない。

 今回ご紹介する参宮線六軒事故は、1965年(昭和31年)に発生した。この事故によって、国鉄は「車内警報装置」の全線設置を決めたのだが、この時はまだ列車の停止は手動で行う必要があり、警報装置はいわばATSの単なる前身に過ぎなかった。やっぱりただの警報装置では生ぬるい、ということで問答無用に列車を停止させるシステムへと切り替わったのは、伝説の鉄道事故・三河島事故以降の話である。

 そう考えると、この六軒事故は知名度こそ低いものの、三河島事故の前触れというか予兆みたいなものだったのだろう。それまで鉄道というのは「なにがあっても列車は停めるな」が基本であった。だがそれがこの六軒事故や三河島事故を経て「異常時にはすぐ停めろ」へとパラダイムシフトしたのだ。今となっては地味ではあるが決して外せない前身。プロレスで言えば、力道山に対するボビー・フランスやハロルド坂田。それがこの六軒事故なのである。

 

   ☆

 

 1956年(昭和31年)10月15日18時22分のことだ。

 現在は紀勢本線である、当時の「参宮線」の六軒駅で、上り・下りそれぞれの快速列車がすれ違うことになった。

 本来のダイヤではこのすれ違いはあり得ないのだが、そんな風に急遽変更となったのは、下り快速列車に10分の遅れが出たためだった。よって下り列車は、いつもならもっと先の松坂駅ですれ違うところを急きょ六軒駅で臨時停車し、上りの列車をやり過ごさなければならなくなったのだ。

 ただ問題は、下り列車の運転士に、この緊急の変更内容が伝わっていなかった点であろう。当時は携帯電話なんて便利なものは存在せず、こうした決定が先に駅の内部で行われ、運転士は駅構内で止められた後で事後的に知らされることもあったのだ。

 通信手段が充実している現代の視点で見れば「危なっかしいなあ」と思うのだが、とにかくそうだったのだから仕方がない。なあに、駅でちゃんと信号を操作して確実に列車を止めれば、大丈夫だ問題ない。――というわけで、六軒駅では下り快速列車を受け入れる態勢を整えて待っていた。

 ところが一体どうしたことか。駅に入ってきた下り列車が、停止せずにそのまま駅を通過していくではないか。

 少し進んだところで、運転士がアッと気付いて非常ブレーキをかけたがもう間に合わない。列車は安全側線に突っ込み、そのまま車止めを突破してしまいドンガラガッシャン。機関車2両と客車3両が脱線転覆し、「反対車線」にあたる上り線の線路をふさぐ格好になってしまった。

 これだけでも大事故だが、もしかするとこの段階では死傷者は比較的少なかったかも知れない。このほんの数十秒後に、六軒駅ですれ違うはずだった上り列車が進入してきたからさあ大変、線路をふさいでいた車両に激突してしまった。

 この激突によって、上り列車の機関車2両と客車1両がさらに脱線転覆。しかも、先に転覆していた下り列車は押し潰されてしまった。死者42人、負傷者96人という大惨事のできあがりである。

 下り列車の乗客の多くは、修学旅行中の学生であった。

 この学生たちは、当時の東京教育大学(今の筑波大学)付属坂戸高校の生徒だった。死者42名のうち、24名がこの生徒たちだったというから痛ましい。

 さらにこの事故が悲惨なものになったのは、上り列車の機関車の破損によって、犠牲者たちが蒸気と熱湯を浴びたことだった。蒸気機関のパイプやバルブからそれらが漏れ出したため、生存者は大火傷を負い、死者の遺体は激しく損傷せられたのだ。

 そして救助活動が始まったものの、これもひどく難渋したという。消防署、消防団、機動隊、陸自などが出動したものの列車の破損があまりにひどく、さらに上にのしかかっていた機関車の撤去にも骨が折れたという。

 さあ、裁判である。まあ事故の原因は明らかで、下り列車のオーバーランのせいなのだが、ではそもそもオーバーランはなぜ発生したのか? 裁判ではそこが問題になった。

 救助された下り列車の機関士は、こう証言している。

「六軒駅に入った時、信号は確かに進行を現示の状態でした。だけど駅ホームの半ばあたりまで来たら、出発信号機が停止現示になっていたんです。それで慌てて非常ブレーキをかけたのですが間に合いませんでした」

 要するに、青信号だったので安心して進んで行ったら、当然青であるべきその先の信号が赤になっていたいうことだ。この話が本当ならば、事故の責任は駅にあることになる。信号機の赤青を変えるのは駅の信号掛の役目だからだ。

 しかし駅はこのミスを全面否定。彼らと、前述の運転士の主張は真っ向から対立した。

 裁判所の最終的な結論は、「事故の原因は運転士による信号の見間違いである」というものだった。六軒駅の関係者は全員無罪、運転士のほうが禁固2年・執行猶予5年、機関助士には同じく禁固1年と執行猶予3年という判決が下っている。しかしこの結論を証拠づける物的証拠は特になく、ぶっちゃけ真相は闇の中である。証拠なしでこんな結論、出しちゃいけないと思うのだが。

 とはいえ、実際のところなにがあったのか、まったく推測できないわけでもない。

 当時は伊勢神宮の大祭が行われており、大勢の人が行き来していたせいでダイヤは乱れがちだった。よって、先述したような列車の遅れや駅での緊急のすれ違いが発生したのである。だが六軒駅ではこのような変更は珍しいことで、慌てた駅員が信号の操作をミスったのかも知れない。全てが手動だった時代、こうした操作がいかに煩雑だったかは想像するしかないが、今までやったことがない操作をその日いきなり「やれ」と言われれば誰だって慌てる。

 また一番最初にも書いたが、下り列車の運転士は、六軒駅でいったん停止することを事前に知らされていたわけではない。ちょっとぼんやりしていれば、青信号を見落として、まったくいつも通りにこの駅を通過しようとしてしまうことだってあり得るだろう。

 いずれにせよ同情せずにはおれないところである。

 

   ☆

 

 最初に述べたように、この事故の直後から、主要幹線では車内警報装置の導入が進められていった。さらに信号も色灯化や自動化が進められ、これでひと安心となるはずだったのだが、6年後に三河島事故が発生したことでぜんぶ台無し。金はかかるけどやっぱりATSでなきゃ駄目だという結論になったのである。

 それにしても、このあたりのエピソードを書いていて思い出すのは、三河島事故が起きた時に付近の住民だか乗客だがか言っていたという言葉である。「人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ」と、その人は憤っていたという。

 だが皮肉なもので、ATSの導入は「やっぱり全ては機械サマ頼み」という結論を示すものだった。人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ――。その答えは簡単で、人間は間違うものだからである。人間なんてアテにならないからである。

 とはいえこのATSという機械も万能ではない。緊急停止したあとは改めて手動で発進させるわけで、けっきょくそれで事故ったというケースもある。いやはや、くり返して言うが人間なんてアテにならないものである。せっかく機械を導入しても、それを台無しにするのはやっぱり人間なのだ。

 この参宮線六軒事故の事故車両は、今でも和歌山県橋本市の運動公園に展示されているという。下り列車を押し潰した、あの上り列車の機関車である。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◇ウィキペディア

 

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三河島事故(1962年)

 三河島事故――。伝説の鉄道事故である。

 あまりにも有名なので、今さらここで記述してもな~という気持ちが正直あるのだが、一方でこの事故のことを書かなければ、鉄道事故史としては明らかに片手落ちだろうとも思う。

 この事故の情報は、これまでにも多くの文献で書かれてきたし、ネット上でも溢れ返っている。よって詳細はそちらに譲るとして、当研究室では大まかに、自由に書かせて頂こう。

 

   ☆

 

 時は1962年5月3日、夜9時半過ぎ。東京都荒川区での出来事である。

 常磐線・三河島駅からほど近い線路上で、下り貨物列車が事故を起こした。

 これはまあ、ちょっとした脱線事故である。赤信号の場所で信号を見落とし、安全側線内で大きく傾いてしまったのだ。それで車両が本線側にはみ出した。

 この状態を乗用車と道路でたとえるなら、反対車線に頭がはみ出す形で停車したようなものだ。当然、反対側から車が来れば衝突の危険がある。危ないことこの上ない。

 おっとこいつぁーウッカリだ! しかし貨物列車の運転士には、額を叩いている余裕もなかった。およそ10秒後に、反対方向から、本線を走ってきた列車があったのだ。これは上野発取手行き下り2117H電車で、7両編成。本線にはみ出していた貨物列車にぶつかったことで、今度はさらにその隣の上り線の線路上にはみ出してしまった。当時、この下り電車は約40km/hの速度だったという。

 言うなれば、ドミノ倒しのようなものである。列車が次々に脱線し、隣へ隣へとはみ出してしまったのだ。だがこの時点では死者は出ておらず、25名が怪我を負っただけだったと言われている。

 なんだ全然大したことないじゃん――などと言うことなかれ。問題はここからだ。

 誰が最初にやらかしたのか知らないが、2117H電車の乗客たちが「非常用ドアコック」を使って車両の扉を開け、ゾロゾロと外へ出始めたのだ。

 まあ確かに、脱線して動かなくなっている電車に閉じこもっていたって仕方がない。「早く外に出て、さっさと別のルートで家に帰ろう」というのは当然の心境だったろう。しかも当時の電車内は、脱線でパンタグラフが外れたことから停電していたのだ。

 乗客たちは、さっき出発したばかりの三河島駅へ戻り始めた。

 ところがここで、彼らの歩いていた線路上へ上野行き上り2000H電車が突っ込んできたのである。人々はデデデデデッと撥ねられた。

 また電車のほうもただでは済まなかった。乗客を撥ね飛ばした挙句、脱線していた下り2117H電車と衝突したことで先頭車両が粉々に粉砕。2両目と4両目は、土手のように盛り上がっていた線路から真下の民家へと転落したのである。その結果、死者160名、負傷者296名の大惨事となった。

 いやはや。最初は「こいつぁーうっかりだ!」で済むところだったのが(いや済まないけどさ)、あれよあれよと言う間に雪だるま式に膨れ上がり、そして伝説へ……。とんでもない事故があったものだ。

 夜に線路を歩いている大勢の人たちが、電車によって一気に撥ねられるというイメージもあまりに強烈である。この強烈さによって、三河島事故は多くの人々にとって忘れがたいものとして記憶に残ったことだろう。

 ちなみに筆者がこの事故のことを話す時に、よく聞かれるのが「なんで線路を歩いていた人たちは、電車をよけなかったの?」ということである。

 これは簡単で、逃げ場所がなかったのだ。

 実際に行ってみると分かるが、事故現場は土手のように高く盛り上がった場所で、おいそれと下りられるようなものではなかった。またそこは鉄道車両が通ることしか想定されていないので非常に狭く、2台もの鉄道車両が並んで脱線している上に大勢の人がいたのでは、逃げ場所もほとんどなかったと思われる。

 さて、当時の事故現場の写真は、今ではネット上でいくらでも見られる。

 ちょっと見ただけだと気付かないのだが、写真に写っているものの中で筆者が特に恐ろしく思ったのは、上り2000H電車の先頭車両の状態である。

 各種資料を読むと「先頭車両は粉々に粉砕」という記述がよくあるのだが、最初は写真を見ても特にひどくない気がした。しかし筆者が先頭車両と思い込んでいたのは、実は2両目だったのだ。よく資料を読むと「2両目以降が土手から転落」とあるではないか。

 ああそうか転落しているのは先頭ではないのか。すると1両目はどこに?

 そこでよく目を凝らし、それを見つけた時には思わずゾッとした。上り2000H電車の先頭車両は本当に原型をとどめないほど破壊されており、まるでボロクズのように打ち捨てられていたのである。

 これは、福知山線の事故のニュース映像を初めて見た時の感慨と似ていた。あれも先頭車両と2両目の破損がひどく、最初はそれが車両だとは気付かなかったものだ。この事故の凄まじさが、いかに想像を絶するものだったかが思われる。

 裁判では、国鉄職員たちの責任が追及された。最初の二重脱線の時点で、上り電車を止めるための措置を取っていれば被害はもっと少なくて済んだことだろう。

 だが乗客の行動にも問題がないとは言えまい。彼らは非常用ドアコックを使って勝手に外に出たのだ。おそらく「皆が行くから自分も」という感じで次から次へとついていった形だったに違いない。

 この「非常用ドアコック」は、1951年の桜木町火災を教訓として設置された。昔からあったのだが、以前は場所が分かりにくかったのだ。桜木町火災では、そのため多数の乗客が脱出できず焼け死んだ。しかし三河島事故では、ドアコックが気軽に使えたことが裏目に出てしまった。

 国鉄職員の対応といい、乗客の行動といい、この事故は「日本人の非常時の行動のまずさ」を如実に浮き彫りにしていると言っていいだろう。

 その意味で、この事故は今でも「生きた事例」であり、教訓であり、事故防止のための教科書である。

 実は福知山線の事故でも、JRは反対の路線から入ってくる電車を止める措置を取っていなかった。それをとっさに非常停止装置で止めたのは、名もない一般市民のおばちゃんだったのである。このおばちゃんがいなければ三河島事故再び、になるところだったのだ(ただしJRはこの事実を認めていないそうな)。

 さらに三河島事故は、同じ常磐線で戦時中に起きた土浦事故とも瓜二つの関係にある。土浦事故があまり知られていないのは、当時の通信事情からして致し方のないことだが、こちらの事故の反省がきちんとなされていれば三河島事故は防げたのではないか、とも言われている。

 過去未来のあらゆるケースと、ここまでつながりを持つ鉄道事故もちょっと珍しい気がする。

 三河島駅は今もある。しかし、この事故によって三河島という地名は地図上から消えた。戦後の日本で、陰惨な事件や事故が原因となって地名が地図から消えたのは、おそらく帝銀事件と三河島事故だけではないだろうか。

 最後にこれは余談だが、筆者の父親は事故当時、現場の近くに住んでいた。よって日暮里大火、荒川通り魔事件、吉展ちゃん誘拐事件、そして三河島事故はいまだに身近なものとして覚えているという。曰く「あの夜はひと晩中サイレンが鳴っており、空襲を思い出して不気味だった」。

 そういえば「失敗学」を打ち立てたことで有名な畑村洋太郎も、同じような体験談をある本で書いていたのが印象深い。一度知ったらもう忘れられない伝説の鉄道事故、それがこの三河島事故なのである。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

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鶴見事故(1963年)

 鶴見事故は、戦後の鉄道事故としては最悪のものである。161人が死亡、120人が重軽傷を負うという目を覆わんばかりの大惨事だ。

 しかし、それではその「戦後最悪の鉄道事故」はいかにして起きたのか? 事故原因はなんなのか? という話になると、これが分かりにくい。掴みどころがないのだ。しかも調べれば調べるほど、あろうことかこの事故が起きたのは「運が悪かったから」だという結論に至らざるを得なくなるのである。

 まずは、惨事が起きるまでの経緯をご説明しよう。ただこの事故、なにせ伝説の三河島事故と双璧をなすほどの知名度なので、すでにネット上では写真やイラスト付きでさんざん解説がなされている。よってここでは簡単な説明にとどめたい。

 1963年(昭和38年)11月9日のことである。場所は当時の国鉄東海道線の、新子安駅と鶴見駅の間でのことだった。滝坂不動踏切という踏切があるらしいが、そこから鶴見に近いほうの約500mの地点である。

 まず、きっかけとなる事故が起きたのは午後9時50分頃。下り貨物線を走っていた貨物列車がいきなり脱線したのだ。ホントにいきなり――である。

 この貨物列車は佐原発・野洲行きの下り2365列車で、全部で45両編成。そのうち、後ろの3両がいきなりレールから外れて、線路脇の電柱(架線柱というらしい)に衝突して止まった。前方の42両はそのまましばらく進んだから、この3両はいわば線路上に「置き去り」の状態である。

 だが、これがただの「置き去り」だけならまだ良かった。脱線した3両は、3メートルほど離れた隣の線路にはみ出してしまったのだ。そこは、海岸側を走る東海道本線の上り線だった。

 さて、驚いたのは貨物列車の運転士である。後方で脱線事故が起きたことで急ブレーキがかかり、この列車は線路上で停止した。

「わわわ、やばいよ事故発生だ!」

 というわけで、運転士は急いで列車を下りると発煙筒を焚き、事故を知らせた。しかしこの発煙筒、どういうわけかごく短時間で消えてしまい、事故を知らせるにはほとんど役に立たなかったという。

 さてこの第一事故が発生してから間もなく、東海道本線の下り線を12両編成の列車が走ってきた。東京発・逗子行き下り2113S列車である。

 この列車の運転士は、前方で異常が発生していることにすぐ気付いた。

「あれ? なんかヘンだぞ、パンタグラフが火花を噴いてる。架線もたれ下がってるみたいだ」

 運転士が見たのは、さっき貨物列車がぶつかって壊れてしまった電柱である。彼は異変を感じ、ブレーキを踏んで速度を落としながら進んでいった。この2113S列車が走っていたのは、貨物列車がはみ出してしまった線路の、そのさらに隣の路線である。この時点では、衝突の危険はまだなかった。

 ところが、である。ほとんど間をおかずに、2113S列車の反対方向から久里浜発・東京行きの上り2000S列車(これも12両編成)が走行してきた。

 本来ならば、この2つの列車は、上りと下りの並んだ線路でなんの問題もなくすれ違うはずだった。ところが今、上り線のほうには貨物列車が転がっている。しかも2000S列車の運転士はどうやら貨物列車の事故には気付かなかったか、あるいは気付いていても遅かったらしく、時速90~92km/hという速度で突っ込んできたのだった。

 結果、2000S列車は、例の3両の貨物車両と衝突。

 この衝突の勢いで、2000S列車の先頭車両は横にはじき飛ばされる形になった。そして、隣の下り線を走っていた2113S列車に横から突っ込んでしまったのだ。

 ここからは、物理現象の説明である。

 まず2113S列車の4両目の側面に、斜め横方向から2000S列車の先頭車両が突っ込んだ。

 2000S列車はスピードが出ていたし、後続車両からも押される形になったので簡単には止まらない。あっという間に2113S列車の4両目を破壊し、続けて5両目車両の壁や天井もえぐり取り、合計2両分の車両を蹂躙し尽くした。

 最終的には、2113S列車の5両目と、2000S列車の先頭車両がクロスする形で止まったようである。鶴見事故の写真といえば、このクロスした光景が有名だ。

 衝突の憂き目に遭ったこれらの車両は、原形をとどめないほど破壊された。当時の現場写真を見るとまるで爆発事故でも起きたかのようで、これが鉄道事故だと言われてもちょっとピンとこないかも知れない。

 ちなみに2000S列車の2両目以降は、幸いにして衝突には巻き込まれずに済んだ。衝突と脱線の勢いで先頭車両との連結が外れてしまい、後続の車両は少し進んだ先で脱線して停止したのだ。こちらにどのくらい死傷者がいたのか、あるいはいなかったのかは不明である。だが、死者と負傷者の大半が、木端微塵になった3つの車両に集中していたことは言うまでもない。

 すべては、最初の貨物列車の脱線からほんの2、3分の間の出来事だった。

 さっき登場した2113S列車の運転士や、発煙筒を焚いた貨物列車の運転士は無事だったようだ。だが2000S列車の運転士だけは、さすがに先頭車両から突っ込んでいっただけあって即死している。彼が、貨物車両に衝突する直前にブレーキを踏んだのかどうかは、ついに永遠の謎となった。

 ところで当時は、アメリカのテレビドラマ『ハワイアン・アイ』が放送されており、近所の住民は事故発生の時刻をはっきり覚えていたという。ドラマ鑑賞中に大音響と悲鳴が響き渡ったのだから、確かに嫌でも印象に残ったことだろう。

 そしてすぐに、救急や警察が駆けつけ、近所の住民も手助けに出てきた。現場は血みどろの地獄絵図。サイレンがひっきりなしに鳴り響く中、悪夢のような救助活動が行われたのだった。

 遺体の多くは、總持寺(なんて読むんだ?)という寺に運び込まれた。その縁でか、今でもこの寺には鶴見事故の161名の犠牲者氏名が刻まれた慰霊碑があるという。

 ついでに言えば、この寺にある慰霊碑は鶴見事故のものばかりではない。どうもそういう役回りの寺なのか、かの桜木町火災の慰霊碑も同じ敷地内にある。

 考えてみれば、どっちも横浜市なのである。戦後を代表する鉄道事故が2つも同じ町で起きているというのは、妙に因縁めいたものを感じる。

 ちなみに当時の横浜市というのは、現代の我々が思い描くような都市のイメージとは遥かにかけ離れた、ゴミゴミした町だった。横浜が今のように垢抜けたのはわりと最近のことで、当時はまだ首都圏に対する「周縁」でしかなかったのである。

 そして戦中から戦後にかけての鉄道事故を見ると、五本の指に入るような事例は必ずこの首都圏に対する「周縁」の地域で発生している。三河島八高線桜木町に鶴見事故……。気が向いた方は、これらの事故現場を地図でチェックしてみて欲しい。見事に首都圏をぐるりと囲んでいるのである。

 これがありのままの歴史の姿である。「周縁」は中心部よりも人の動きが大きく、されど鉄道車両は戦時中のボロいやつをそのまま使っていたりするので、ひとたび事故れば大惨事となるのだ。

 さて事故原因の話になるが、そもそも最初の貨物列車の脱線はなぜ起きたのだろう。それがなければこの大惨事は起きなかったのだから、原因究明の焦点は俄然そこに当てられた。

 事故後にさっそく調査が行われ、まず以下のことが判明した。どうやら、脱線した3両の貨物のうち、先頭車両の車輪が線路に乗り上げていたらしいのだ。

 線路に残った痕跡から、乗り上がりが発生したのは脱線の直前であることも分かった。この貨物車両はその状態でしばらく走っただ、ついに車輪が線路から外れたため、脱線して後続の車両もろとも吹っ飛んだのだ。

 こういうのを「せり上がり脱線」という。

 せり上がり脱線――。それは車輪のフランジ(車輪の内側にあるツバ)がレールの上に上がってしまうというという、名前そのまんまの現象である。まあ、わざわざ名称が与えられているぐらいだから全くあり得ない現象ではないのだが、しかし実はこのせり上がり脱線、国鉄でも年に1度くらいしか報告がないような極めて珍しいものらしい。

 ただ困ったことに、そもそもこの「せり上がり脱線」がなぜ起きるのかは誰も知らなかった。当時の国鉄の人たちも、「原因はいろいろ考えられるので今から調べます。てゆうか下り線の電車、スピード落とさないで突っ切ってればもっと犠牲者少なくて済んだんすけどね~」とか言い出す始末。もはやザ・他人事である。

 しかし他人事で済ませてもいられない。鶴見事故の前年には三河島事故があり、国鉄総裁の辞任ものの大惨事が連続して発生したことになるのだ。これはさすがにヤバイと感じたのか、国鉄は大々的な実験を行った。北海道の根室本線の旧線を使い、わざと車両を脱線させて事故原因を突き止めようとしたのである。いやあさすが金持ちはやることが違うね。

 で、その実験の果てに出た結論が「鶴見事故はたくさんの原因が重なって発生した競合脱線でした」というもの。

 ここでいうたくさんの原因とは、車両や線路の状態・積荷の重量・運転状況・過密ダイヤ等々である。これらの不運な要因がたまたまいちどきに重なってしまい、鶴見事故は起きたというのだ。

 読者の皆さんはどうお感じになるだろう? 筆者などは「原因不明って最初から言えよ」と思わず突っ込みたくなるところだ。

 とはいえ、北海道での脱線実験のすべてが単なるパフォーマンスに終わったわけでもない。この実験の際に採取されたデータのおかげで、国鉄の車両はさらに安全に改良されていった。具体的には護輪軌条の追加設置、塗油器の設置、二軸貨車のリンク改良、車輪踏面形状の改良などがなされたそうだが、ごめんなさい筆者には何がなんだか分からない。要するにアレだろう、それまでの国鉄の車両というのはそれだけ粗悪品だったということだ。

 ここまで読めば、冒頭で筆者が「鶴見事故は運が悪かった」と書いた理由ももうお分かりであろう。「たくさんの要因」が重なってたまたま脱線が起き、運転士の焚いた発煙筒がたまたま短時間で消え、そこへたまたま上り下りの両線から電車がやってきて、たまたま夜だったため運転士たちは状況の把握がうまくできず、そしてこの事故は起きたのである。

 鶴見事故が起きたのは誰のせいでもない。むしろこれは、鉄道事故というよりも自然災害に近いものだったのではないかと思う。だから、同時期に起きた三河島事故に比べるといまいち知名度が低いのだ。特定の誰かの失敗談でないからドラマ性に乏しく、自然災害に近いため個性もない――。それがこの鶴見事故なのである。

 余談だが、鶴見事故は、奇しくも日本史上最悪の炭鉱事故・三井三池炭鉱の炭塵爆発事故と同じ日に起きている。おかげでこの1963年11月9日のことは「魔の土曜日」とか「血塗られた土曜日」とか呼ばれたらしい。

 そして皆さんご存じの通り、11月9日というのは今では「119番の日」として定められている。これは1987年に消防庁が制定したもので、周知のごとく、この日から11月15日までの1週間は秋の全国火災予防運動が行われるのである。

 しかしこの「119番の日」は、鶴見事故や三井三池炭鉱事故とはなんの関係もない(笑)。119番ダイヤルが定められたのは戦前のことである。

 まあでも、せっかく覚えやすいのだから、読者諸賢には「11月9日は119番の日で魔の土曜日で血塗られた土曜日である」とぜひ覚えて頂きたいと思う。こうでもしないと、重大事故の記憶なんてすぐに風化してしまうものなのだから。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア
◇図説 鶴見事故
http://homepage3.nifty.com/kiha/SP/anzen-5.html

 

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北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上

 第1章 停止

 

   1・1972年11月6日

 

 1972年(昭和47年)11月6日、日付が変わったばかりの深夜のことである。

 青森行き急行501列車「きたぐに」は、敦賀駅を午前1時4分に出発した。定時を2分回っていたが、その程度ならば特に大きな問題はない。列車はぐんぐんスピードを上げ、時速60キロで進んでいく。

 11月5日は飛び石連休の最終日だった。上野動物園ではジャイアントパンダ・カンカンとランランの一般公開が開始されるなどしており、夜行列車の座席には、連休を楽しんだ帰省客が多く乗っていた。

 午後11時には、前から11両目にあたる食堂車も営業を終了している。乗客たちはそれぞれ眠りにつき、きたぐには夜の静けさに包まれていった。

 列車はスピードを上げて進んでいく。ほどなく、その先に北陸トンネルが見えてきた。

 

   2・歴史

 

 北陸トンネル――。

 昭和30年代、福井県では交通整備が急ピッチで進められていた。いわゆる列島改造論が盛んに述べ立てられるようになった時期で、キャッチフレーズは「のびゆく福井」。そんな時代の空気の中で、5年の歳月をかけて掘られたのがこの北陸トンネルである。

 もともと福井では、重要な交通路である敦賀-今庄間の交通ルートをいかに確保するかが常に重大問題だった。両者の間には海抜762mの鉢伏山がそびえ立ち、さらにその中に屹立する木の芽峠は、古来より人々の交通を妨げてきたのである。

 明治29年には、「北陸トンネル」と呼ばれるトンネルが一度は掘られ、開通している。しかしこれは鉢伏山の最難所を迂回する形を取っており、勾配がきつく決して良い道ではなかった。

 それでも、開通当初は「無いよりまし」だったのだろう。だが高度成長期に入ると、それも時代にそぐわないということで廃線が決定。そのかわりに、最難所を一気に貫通するトンネルが掘られることになったのだった。

 さらに言えば、1967年(昭和42年)には日本原子力発電所敦賀1号機と美浜1号機の建設も始まっている。福井県はまさにこの時期、「改造」の機運に湧いていたのである。

 新・北陸トンネルは、こうして昭和33年から5年の歳月をかけて掘られた。完成したのは昭和37年6月10日のことだった。

 開通の日、トンネル周辺ではセレモニーが行われ、福井県民は日の丸の旗をふってこの日を祝った。トンネル開通の喜びを表現した「イッチョライ節」もスピーカーで流されたという。イッチョライとは一張羅の意味で、「一番良いもの」を指す。

 新・北陸トンネルは全長13.87キロメートルに及ぶ長大なもので、当時としても日本で第2位、世界で第6位の長さを誇るものだった。つまりこの頃、日本には世界級の長さのトンネルが2つもあったのである。日本がいかに山の多い国土であるかが、このことからもよく分かる。

 この新・北陸トンネルこそが、今回の惨劇の舞台である。少し表記が混乱したが、以下では「北陸トンネル」で統一して書くことにしよう。

 そして長さということでいえば、トンネルに進入していった急行列車「きたぐに」もなかなかのものだった。15両編成の列車には寝台車、グリーン車、食堂車が連結されており、一番後ろの15・16号車では郵便や小荷物の輸送も扱っている。さらにこの日の乗客は761名でほぼ満席と、ちょっとした宿泊施設が線路を走っているような状態だった。

 

   3・トンネル進入

 

 きたぐにがトンネルへ進入していった時、乗員はどのような配置だったのだろうか。以下で簡単に記しておこう。

 まず、運転室には作田勝次指導機関士、辻邦義機関士、尾山孝熙機関助士の3人がいた。

 また15両の各車両には、以下の乗員がバラバラに乗り込んでいた。石川進専務車掌、広瀬芳雄車掌ら4人のヒラ車掌、そして鉄道公安員が2人である。

 さらに最後尾の荷物車には3人の荷物掛がおり、郵便車には喜多寅正係長を始めとする郵便関係の乗員9人がいた。

 そんなきたぐにに異変が生じたのは、トンネルのほぼ真ん中に差しかかった午前1時10分頃である。運転席の無線が鳴り、緊急打電が機関士に届いたのだ。車掌からだった。

「501列車、停まれ。火事だ!」

 これに応じ、機関士は列車を停止する措置を取った。

 きたぐにの、長い長い夜の始まりだった。

 

 第2章 通報と救援

 

   1・国鉄と消防

 

 午前1時30分、敦賀駅に一本の電話がかかってきた。それは北陸トンネル内の非常電話からだった。

「なんだ? なんでこんな時刻にトンネルから電話が来るんだ」

 敦賀駅の職員は、訝しく思ったに違いない。だが、受話器から聞こえてきた知らせは驚くべきものだった。20分ほど前に北陸トンネルの中で火災が発生したというのだ。電話口の向こうの国鉄職員はこう告げた。

「火元は食堂車だ! 今はトンネルで緊急停止して、乗員で消火にあたってる」

 なんだとマジですか。知らせを受けた国鉄はたちまち色を失った。そしてさらに、トンネルの反対側にある今庄駅にも同じような通報が入るに至り、1時41分には災害対策本部が設置された。

 すると1時45分には、またしてもトンネル内から連絡があった。おっ、もしかして「消火完了」の知らせかな? 受話器を取った国鉄職員はかすかな期待を抱いたかも知れないが、耳に飛び込んできたのは、さっきよりも一層切羽詰まった叫び声であった。

「火が消えない! すぐに救援列車をよこしてくれ。今、トンネル内では火災車両からの延焼を防ぐために、食堂車と客車を切り離しているところだ!」

 おいおい、消火完了どころか悪化してるみたいだぞ。これはもう、国鉄だけで処理するのは無理だ。消防を呼ぶしかない!

 というわけで、敦賀美方消防組合に連絡が入ったのが午前1時51分のこと。しかしその通報の内容は、まことに要領を得ないものだった。

国鉄「あのー、トンネルで火事が起きたんすけど」
消防「なんだって! 燃えているのは客車ですか、貨物車両のほうですか」
国鉄「客車だけど、詳しいことは分かりません」
消防「燃えているんですよね?」
国鉄「分かりません」
消防「乗客は?」
国鉄「分かりません。もういいでしょう、ガチャン」

 なんだか、昔テレビ特捜部で紹介していた海外番組を思い出すやり取りである。ご存じであろうか、意味もなく素っ裸のお姉さんがニュースを読み上げるというもので、その台詞がケッサクなのだ。「今日、火事がありました。原因は、不明です」。

 話を戻そう。第一報を聞かされた時、消防隊員が真っ先に思ったのは「恐れていたことが現実になった」ということだった。実は消防は、北陸トンネルではそのうち大火災が発生するのではないかとヒヤヒヤしていたのだ。

 北陸トンネルは当時の科学技術の粋を集結させた電気式トンネルで、そんな最新式の建造物で火災など起きるわけがない――と国鉄は豪語していた。しかしこのトンネル、見る者が見れば、ひとたび火災が起きると大惨事に発展しかねないとんでもないブツなのは明らかだった。なにしろ長大なくせに消火設備も排煙装置もまったく存在していなかったのだ。よって、それまでも消防は再三警告していたのだが、それに対し国鉄は完全に黙殺を決め込んでいたのである。今回、通報を受けた消防にしてみれば「いわんこっちゃない」といったところだったろう。

 とにかく、出動せねばならない。消防設備の一切ない長大トンネルでの火災では、未曾有の大惨事に発展する可能性だってある。もはや事態は裸のお姉さんのニュース番組どころか、まるきりレスキュー911である。隊員たちは第1・第2分隊のポンプ車なども一緒に繰り出して、さっそく現場に向かった。

 この時、一人の隊員が関係機関への情報伝達掛として留守番を命じられている。それで彼はさっそく情報収集のため国鉄の各関係機関に連絡を取ったのだが、この時のやり取りもまた大変に面白おかしいものだった。

消防「もしもし。列車は燃えているんですか? 乗客はどうしてますか」
国鉄「トンネル内の様子は分かりません」
消防「消防隊員が中に入らないといけませんね?」
国鉄「いえ中に入るには許可がいります」
消防「そういう問題じゃないでしょ」
国鉄「でもまあ、トンネル内で停車してるってことは、別に燃えてはいないのかも」
消防「えっそうなんですか?」
国鉄「いえ分かりませんけど」
消防「(イライラ)消防隊は、すでにトンネルの敦賀口に出動しています。国鉄も責任者を派遣して下さい」
国鉄「でも今ここに責任者はいないんで……」

 もはや漫才である。

 この、清々しいほどの連携のなさが、後の救助活動にも大きく影響してくるのである。

 

   2・立山3号

 

 さて、ここで場面は変わる。

 前段まではトンネルの敦賀駅側の初動について記したわけだが、今度はトンネルを挟んで反対側の動向を記すことにしよう。こちらの最寄り駅は今庄駅である。「今庄側」といった形で記述させて頂く。

 きたぐにが緊急停止してまだ間もない、午前1時30分から40分頃のことである。今庄駅から北陸トンネルに向かって走行していた列車があった。

 その列車の名は、上り急行列車「立山3号」。

 これが時速50キロでトンネルに進入していったのである。だが、中に入った直後に乗員が異常に気がついた。信号機が赤になっていたのだ。

「おかしいな、なんでこんなところで赤に?」

 いつもならここは青である。奇妙なことだった。

 とりあえず列車を停止させて、立山3号の運転士はしばらく待ってみた。トンネルは静かだったという。声もなく、逃げてくる者もなく、煙もない。この時点ではまだ、外からトンネル内の様子を窺い知ることはできなかった。

 さてしかし、立山3号の乗員にはそんな事情は知る由もない。それでついに痺れを切らして敦賀駅に連絡を取ってみたところ、たまたま傍受した電波の内容に彼らは驚愕した。トンネル内からの悲痛な叫びが耳に飛び込んできたのだ。

「北陸トンネル内で火事です。早く救援列車を――!」

 きたぐにの乗員が救援を求めていたのだ。

 ちょうど、敦賀・今庄の両駅に対して第一報がもたらされたタイミングだったのである。立山3号はそれを傍受したのだ。

 こいつは大変だ、放っておけるわけがない! 立山3号はそこに留まることにした(これが独自の判断だったのか、それとも駅と連絡を取りながらだったのかは不明)。

 電波の傍受によって、トンネル内の状況は大まかに把握できた。現在、きたぐにはトンネル内で消火作業と車両の切り離しを行っているという。なるほど、それはまさにマニュアル通りの正確な対応だった。

 また、信号を赤に変えたのもきたぐにの乗員に違いなかった。別の列車がトンネル内に進入しないように、軌道短絡器で線路の電流をいじったのである。この緊急停止の措置も、事故発生時の対応として実に正確なものだった。

 

(※ちなみに気付かれた方もおられると思うが、この列車停止の措置を取らなかったために大惨事となったのが土浦事故三河島事故である)

 

 しかし、である。待てど暮らせど、トンネルからは誰も出てこない。乗客乗員は無事なのだろうか? 中の様子は一体どうなっているのだろう――?

 立山3号の乗員たちは、さぞやきもきしていたことだろう。考えてみれば立山3号にも乗客はいたのだから、状況が分からず文句のひとつやふたつ言われたかも知れない。だがとにかく立山3号はじっと待った。

 再びトンネル内からの電波が傍受されたのは、赤信号で停められてから20分が経った午前1時55分のことである。しかしその内容を聞いた乗員たちは、たちまち背筋を凍らせた。それは、きたぐにが最悪の状況に陥ったことを告げるものだった。

「停電だ、停電してしまった。これじゃ列車が動かせない! 電気を送ってくれ!」

 よりによって停電の発生である。これでは、せっかく車両の連結を切り離しても、電気が通っていないのだから動かしようがない。きたぐには完全にトンネル内で立ち往生したのだった。

 そこで電波が途切れた。トンネル内から必死に送電を訴えていた声が聞こえなくなっていく――。

 まずいぞまずいぞ、何かいい手はないか! 立山3号の乗員たちは動揺したことだろう。だが午前2時1分、ようやく動きがあった。それまで赤だった信号が、なぜか突如として青に変わったのだ。

 あれ? なんだこれ。進んでいいのか?

 立山3号はライトでトンネル内を照らしつつ、徐行で前進してみた。すると5キロほど進んだ地点で、線路上に人がいるのを発見。慌てて停車した。

「きたぐにからの避難者だ。こっちに引き上げろ!」

 時刻は午前2時3分。それはまさしくきたぐにの乗客だった。それも1人や2人ではなく、トンネルの奥から続々とやってくる。煙に追われながら、命からがら脱出してきた人々だった。

 赤信号がひとりでに青信号に変わったのは、この乗客たちが原因だろうと言われている。彼らのうちの誰かが、線路上の軌道短絡器を蹴っ飛ばしたのだ。

 記録によると、ここで立山3号によって救助されたのは225名。立山3号の乗員乗客で力を合わせ、この被害者たちを車内へ助け上げたのである。彼らは皆、煤と汗で顔を真っ黒にしており、そしてなにより水を求めていたという。

 ところでちょっと付け加えておくと、資料によってはここでの救助者数が「5、6人」となっているのもある。だが、これは明らかに何かの間違いであろう。225人のうち5人は死亡したという記録があるのでその数字を取り違えたか、あるいは立山3号が最初に見つけた数名を全てだと思い込んだと考えられる。

 しかし立山3号も、長時間の救助活動はできなかった。いよいよ煙が押し寄せてきたのだ。車両が完全に煙にまかれれば、いくら車内とはいっても危険である。よって225名を脱出した時点で列車は逆走し、トンネルから脱出した。

 トンネル内には、もっと負傷者がいたのかも知れない。だが彼らは置き去りにせざるを得ない状況だった。

 立山3号が幸運だったのは――すなわち、これによって救出された225名が幸運だったのは――、列車が停止した位置では停電が起きておらず、車両を通常通りに動かすことができた点であろう。おそらく、立山3号がある程度の段階でトンネルから脱出したのは、もたもたしているうちに火災と停電がこちらにまで及んでは元も子もない、という判断もあったのではないか。

 こうして、たまたま偶然現場に行き当たった立山3号は、ある意味命懸けともいえる状況で、ギリギリまで人命救助を行ったのだった。

 負傷者たちを乗せたこの車両は、そのままバック運転で武生という駅まで行き、乗客と負傷者を下ろした。そしてさらに、午前2時40分過ぎには今庄駅にも戻っている。

 これだけでも大した救出劇である。しかし、トンネル内に残ったきたぐにの受難は、まだ始まったばかりだった。

 

   3・来ない国鉄

 

 場面は、再びトンネルの敦賀側に戻る。

 午前2時。この時刻には、すでに敦賀美方消防の隊員たちがトンネルの付近に集結していた。出張所の隊員や非番の者もかき集められ、総勢80名が出動している。

 この段階では、トンネルの敦賀口から脱出してくる乗客などは皆無だった。敦賀側では「本当に火事なんて起きてんのか?」と問いたくなるような静けさだったのだ。

 しかしこの時、今庄口では立山3号による救助活動が始まっていた。火事なんて起きてんのかどころか、すでに一刻を争う状況だったのだ。

 ところが、である。どうしたことか、この敦賀口には国鉄職員の姿がまったくなかった。

「なにやってんだ国鉄!」

 消防が怒るのも当然である。消防長は、すぐにモーターカーを出動させて救助活動にあたるよう国鉄に要請した。ところが国鉄の回答はこうだった。

「あー無理無理。うち(敦賀駅)じゃ臨時に列車を走らせる権限がないんですよ。金沢鉄道管理局の許可が必要なもんで」

 これでは、通報を受けて駆けつけた消防隊員こそいい面の皮である。なんとかトンネル内に進入して、消防は消防で救助を開始しなければならない――。

 午前2時25分には、6人の保線掛がトンネル内への進入を試みている。しかし少し進んだところで猛煙に阻まれており断念。まともに中に入るのは不可能な状況だった。

 では、国鉄をあてにせず、なおかつ安全を確保できる救助方法はないものだろうか。そこで思いついたのが、「斜坑から進入する」という方法だった。

 

   4・斜坑からの救助活動

 

 さてこの段では、「斜坑」を利用した救助活動について説明させて頂こう。

 ここではさしあたって、本稿の参考資料のひとつである『なぜ、人のために命を賭けるのか―消防士の決断―』(中澤昭著・近代消防社平成16年刊)という書籍の内容に沿って記述していくことにする。

 ここで、わざわざ「この書籍の内容に沿って記述する」と前置きをするのには理由があるのだが、それは後述する。

 斜坑というのは、簡単にいえばトンネルに対するトンネルである。これを通って、トンネルに「上から」進入することができるのだ。

 トンネル工事の際には、土砂や機材を搬送するために別方向からそれ専用の穴が掘られる。これを斜坑とか竪抗とかいう。そして工事が終わった後も、修理や点検の際に使えるため、これらの穴は残される。北陸トンネルにはこれが3本あった。

「よし、それだ。そこから入って救助にあたるぞ」

 というわけで、消防隊は進入の準備を始めた。

 斜坑から救出活動を行うことについて、消防が独自に思いついたとは考えにくいから、おそらく保線員あたりが助言をしたのだろう。

 さて字面の通り、「斜坑」はトンネルに対して斜めに掘られている。「竪坑」のほうは垂直だ。となると、人間の足で進入するには斜坑のほうがいいことになる。消防は2本ある斜坑からの進入を決断した。

 まず消防長が、ようやく到着した国鉄職員4人と組み、計5人で葉原斜坑という穴から入る。それから、もう一方の樫曲斜坑からは、消防分隊長4人が入っていくのだ。

 進入する際、これらの斜坑からは、もう相当な量の煙が立ち上っていたという。

 さて、ここからは、主に葉原斜坑の話が中心になる。

 消防長たちが、長さ400メートルの葉原斜坑を抜けてトンネル内に下り立つと、そこは敦賀口から約4・5キロメートルの地点だった。

 一行は、まず今庄側から押し寄せてくる煙に襲われた。それでもめげずに100メートルほど進んでいくと、そこで4両の車両が停車しているのに出くわした。

 これは「きたぐに」後部の12~15両目にあたる車両である。内訳は普通車、グリーン車、郵便車、荷物車だった。この4両は火災直後に延焼を防ぐために連結を切り離され、そのままになっていたのだった。つまり切り離しがなされた時点では、11両目までが燃えていたのである。

 この、置き去り状態になっていた4両の中では、「100人以上」の乗客が閉じ込められて救助を待っていたという。彼らがただちに助け出されたのは言うまでもない。

 だがしかし、トンネルのもっと奥では、さらに残りの11両が煙に捲かれて立ち往生しているはずだ。その場所までは、距離にして200メートル。数字としては大したことはないが、トンネル内の煙は凄まじい。近づくのはちょっと無理だった。

 さらにその時、いやなタイミングで風向きが変わった。それまで今庄側に吹き抜けていた煙が、今度はこちらに押し寄せてきたのだ。これでは、現時点ではそれ以上の救助は諦めざるを得ない。

 とにかく、彼らは後部4両に閉じ込められていた乗員乗客を助け出した。そして、自分たちも同行しながら敦賀口へ避難させたのだった。

 救援列車とばったり出くわしたのは、その途中でのことである。この列車は国鉄がようやく出動させたもので、敦賀口から入ってきたところだったのだ。

 こうして、救助された人々と消防隊は、全員がそれに乗り込んでトンネルを脱出した――。

 と、以上が『なぜ、人のために命を賭けるのか』に書かれている救助活動の内容である。

 だがここまで記述しておいてなんだが、実はこれには矛盾や疑問点が多く、鵜呑みにできそうにない部分がいくつかあるのだ。

 結果だけを見れば、大きな矛盾はない。葉原斜坑から進入した消防隊がいたこと、後部4両に閉じ込められていた人々が救助されたこと、国鉄の救援列車で最終的に脱出したことなどは事実である。

 だが、その経緯の説明には問題があるのだ。先に結論を言うと、この『なぜ、人のために命を賭けるのか』という本は消防隊の活躍を強調しようするあまり、ところどころに嘘や誇張を交えているふしがある。そのため、国鉄の果たした役割などが極度に小さく描かれているのである。

 次の項目では、各種資料の内容を突き合わせて、この時実際にはどのような救助活動が行われたのかを検討していく。そこでは、さしあたりこの『なぜ、人のために命を賭けるのか』の内容を叩き台としていくことになるだろう。

 だが先に書いた通り、結果的に大きな間違いはないので、人によってはこうした検討作業は退屈なものに思われるかも知れない。事故の大まかな経過だけを知りたいという方は、次の項目は飛ばして頂いても結構である。

 

   5・「斜坑」の問題の検討

 

 そもそも、事故当時「斜坑」が果たした役割についても、資料によってまちまちなのだ。

 例えば、NHKが作成した『プロジェクトX』ではこの事故が取り上げられているが(2004年6月15日放送「第147回「列車炎上 救出せよ北陸トンネル火災」)、この番組内では、消防隊が進入する前に斜坑から自力で脱出してきた乗客たちがいた、とされている。

 この『プロジェクトX』も、筆者と同様に『なぜ、人のために命を賭けるのか―消防士の決断―』を参考文献としている。しかしこの参考文献のほうを見てみると、前述の斜坑からの脱出者のことは一切書かれていない。

 では他の文献はどうだろう。たとえば事故鉄道マニアのバイブルであり、当研究室でも参考文献として大いにお世話になっている『事故の鉄道史』では、斜坑からの救助者はいなかったのではないかと述べており、よってここからの救助活動は行われなかったのだ――と結論を下している。事故の査察報告書にはその記述が見受けられなかったためだ。

 さらに訳が分からないのは、当時の国鉄総裁・磯崎叡の国会答弁(1972年11月10日)の内容である。この人は、斜坑は避難路としては全く役に立たなかったと述べている。

 その上、である。これは『事故の鉄道史』からの孫引きになるのだが、11月6日の毎日新聞の夕刊では、「誰かが出口を閉じてしまったことで、斜坑は脱出口としては使えなくなった」という旨の報告がなされているという。

 いやはや、ひどい混乱ぶりである。

 だが、これらの資料を読み込んでいくと、当時実際になにがあったのかを読み解くのはそう難しくない。以下では、筆者の「読み解き」を述べていこうと思う。

 まず大前提として、斜坑からの救助活動そのものは行われたのだと思う。消防隊員や国鉄職員がそこから進入し、トンネルに取り残された人々を助けに行ったのはおそらく本当なのだ。

 まず『事故の鉄道史』では、この点からして疑わしいと書かれていた。だがそれは、事故の査察報告書のある部分では「斜坑からの救助者がいた」と書かれており、別の部分ではそれが書かれていないから、だからそういう結論が下されただけのことだ。

 しかしこれを「救助者」ではなく、自力で避難してきた「避難者」と考えればどうか。つまり当時、自力で斜坑から避難してきた人は確かにいたのだが、消防隊や国鉄職員によって斜坑から「救助」された人はいなかったのだ。

 つまり『事故の鉄道史』が参考にしている資料では、斜坑から自力で避難したものを「救助者」には含めていないのである。救助活動自体は行われたのだ。

 では、救助隊が進入したあと、トンネル内では何が起きていたのだろう。

 ここで我々が突き当たるのは、『プロジェクトX』と『なぜ、人のために命を賭けるのか』の矛盾である。

 まず『プロジェクトX』だが、こちらでは、斜坑から入った救助隊が「すぐに」救援列車に行き当たったとされている。この救援列車は、きたぐにの後部4両からの救助活動をすでに終えていた。

 そこで消防隊が「トンネル内にもう乗客はいないのか?」と尋ねたところ、国鉄職員は「もういません」と答えたのだった。それで消防隊も安心して救援列車に乗ったのだが、これによって、トンネル内に多くの乗客が取り残される羽目になったのだ。

 では『なぜ、人のために命を賭けるのか』では、ここの所はどう書かれていたか。斜坑から進入した消防隊はさっそく人命救助にあたったが、煙がひどくて奥へは進めず、取り残された人がいるのを分かっていながら泣く泣く退散した――ということになっている。そして帰りに救援列車に出くわしたのだ。

 明らかに矛盾である。救助隊と救援列車の到着した順序が正反対なのだ。さあ、本当はどうだったのだろう。

 筆者の考えをズバッと書かせてもらうと、信憑性が高いのは『プロジェクトX』のほうだと思う。

 なぜなら――詳細は後述することになるが――ここで一度救助活動が行われたあと、しばらくしてから、トンネル内に取り残された乗客がまだいることが判明しているのだ。それで国鉄は真っ青になって、慌てて救援列車の第2弾を出動させているのである。この辺りの動向は他の資料でははっきり書かれていないが、どうもこれは本当らしい。『事故の鉄道史』でも、乗客がトンネル内に取り残されている、という通報が4時40分頃にあったとされている。

 また、敦賀側から進入した最初の救援列車が、救助を終えて敦賀駅に戻ったのは4時26分のことだった。しかし、次に敦賀側から救援列車が出たのが6時43分で、いくらなんでも遅すぎるのである。

 おそらく国鉄は、最初の救助活動だけで安心してしまったのだ。今庄側で立山3号が救助活動を行っていると聞き、もう自分たちはこれ以上の救助活動をしなくてもいい、と思い込んだのである。

 だから正しいのは『プロジェクトX』の方なのである。トンネルの奥にはまだ多くの人が取り残されていた。しかし勘違いした国鉄と、それを鵜呑みにしてしまった消防はのこのこ帰ってしまったのだ。

 先に書いた通り、『なぜ、人のために命を賭けるのか』はどうも信用できない文献なのである。どのくらい信用できないかというと、まあ読めばわかる。とにかく誤字脱字だらけでとても見られた文章ではなく、まともに校正されていないのがモロ分かりなのだ。ならば事実関係の照合だってまともになされてはいないだろう。

 当研究室で、この本を資料として採用したのは「ネタ」あるいは「悪い例」と考えて頂いて結構である(笑)

 さてそうなると残る疑問は、「斜坑は救助活動の役に立たなかった」という記述や証言は一体なぜ生じたのか? ということである。だがこれに対し回答するのは、ここまでの推理を踏まえればおそらくそう難しくはない。

 斜坑は、乗客自身による「避難」には使われた。しかし消防隊や国鉄による「救助」には使われなかったのである。この「使わなかった」が、素朴に「使えなかった」ことにいつの間にか変わってしまったのではないだろうか。

 それに、少し意地悪な想像になるが、「そもそも斜坑は使えなかった」ことにした方が、国鉄にとっても都合が良かったのではないだろうか。そうすれば、トンネル内に取り残された人がいるのに気付かずにそのまま立ち去ってしまったことへの非難も避けられる。そしてもちろん、斜坑の入り口を閉じてしまったことへの非難だって――。

 斜坑の問題については、以上である。

 実を言えば、筆者ははじめは全然違う結論を想像していた。斜坑が、葉原斜坑と樫曲斜坑の2本あったことは先述したが、例えば片方が救助に使えなかったりしたため、資料の記述に矛盾が生じたのではないかと考えたのだ。

 そう考えたのも故なきことではない。参考資料において、「斜坑」と書かれているのが葉原斜坑なのか樫曲斜坑なのか、はっきりしないことが多かったのだ。まあ大抵は葉原斜坑のことがメインに書かれているようなのだが。

 ここではとりあえず「葉原か樫曲か」という問題はおいておいて、上述の推理を一応の結論としておきたい。

 

   6・国鉄の動向

 

 ここまでは消防隊の救助活動を中心に書いてきた。では、通報を受けたあと、国鉄はどのように動いたのだろうか。時間的に少し前後するが、ここからは視点を変えて記述していくことにしよう。

「がんばれ国鉄」である。通報を受けた後、国鉄も決して手をこまねいていたわけではない。ありがちな縦割り体制の中でのもたつきはあったが、ちゃんと救援に向けて準備を進めていた。

 記録では、最初の救援列車が敦賀駅から出動したのは午前2時27分から43分の間となっている。モーターカーが客車4両を牽引する、立派な列車だった。

 1972年11月10日・国鉄総裁磯崎叡の答弁によると、救援列車の運転は2時27分から始まっている。またウィキペディアによると、救援用モーターカーの出動の許可が下りたのが2時半で実際に出動したのが2時42分。さらに『事故の鉄道史』と当時の国鉄運輸局長・鈴木宏の証言によると出動が2時37分。ウェブサイト「失敗百選」では2時43分である。嘘つきばっかりで、どれが嘘なのかすら分かりゃしない。

 2時30分の時点で、すでに最初の通報から1時間が経過していた。また立山3号も救助活動をひと段落させて退却するところで、さらに消防隊も痺れを切らして斜坑からの進入を決行している。敦賀側からの救援は、すっかり出遅れていた。

 ライトで煙と暗闇を切り裂きながら、国鉄戦隊ゴーゴーファイブは奥へ奥へと進んでいった。「待ってろよ♪(ゴーファイブ)生きてろよ♪(ゴーファイブ)」という感じである。もっとも救助隊は10人くらい乗り込んでいたそうだが……。

 途中、この救援列車は、命からがら逃げてきた乗客に出くわしている。

「あっ停まれ、人がいるぞ」

 10人ほどの乗客が、線路上を避難していたのだ。救援列車が助けようとすると、彼らは「自分たちはいいから早く奥へ」と見送ったという。

 このように、比較的早い段階で、自力で脱出した人も何人かいたようだ。先述の、斜坑から脱出してきた人たちもそうだし、また『プロジェクトX』では、消防が斜坑から入る直前、トンネルの敦賀口から徒歩で出てきた者が何人かいたとされている。

 救援列車はさらに進んでいった。

「おい停まれ、前になにか見えるぞ」

 途中で救援列車が見つけたのは、貨物列車だった。

 実は、きたぐにが火災を起こして立ち往生した後、敦賀口からトンネルに進入していった貨物列車があったのだ。これは、きたぐにの乗員による緊急停止の措置で停められたのだが、その後停電になってしまったせいで、きたぐにに続く形で立ち往生してしまったのだった。

 この貨物列車によって行く手を塞がれている以上、救援列車も先へ進むことはできない。国鉄の救助隊は、列車から下りて奥へ向かった。

 まず、この貨物列車の先にあったのが、例のきたぐにの後部4両である。救助隊が駆け付けた時、車内からは歓声があがったという。

「助けに来てくれたぞ!」

 中にいたのは、まず乗員は車掌が4人、鉄道公安員が2人、荷物掛が3人だった。では乗客の数はどうかというと、これは資料によって50人とか70人とか80人とか100人とか書いてあってどれもあてにならない。まあとにかくそんな感じの人数だったらしい(なげやり)。

 この4両に取り残された人々にとって、乗員が比較的多くいたのは幸運だった。乗員たちが機転を利かせて、煙が入って来ないように窓や扉、通気口を全て閉じるという措置を取っていたのだ。窓や扉はともかく、通気口までをも塞ぐというのは、国鉄職員ならではの機転だったことだろう。

 こうして第一救援列車は、この4両に乗っていた人々を全員助け出した。

 この時、救援列車に乗っていた国鉄職員たちは、さらに奥で停止しているはずの前部11両についてどう認識していたのだろう? 切り離された車両が煙地獄の中で立ち往生しているのは知っていたはずだし、そこでさらに取り残されている人たちがいることも分かっていたはずである。立山3号が今庄側から救助してくれていると楽観していたのだろうか? そうかも知れない。あるいは、それに加えて「煙がひどくてこれ以上先に進めない」ことを自分自身に対する言い訳にしてしまったのかも知れない。

 とにかく、この第一救援列車の救援部隊はその先へは進まなかった。そしてあろうことか、「こちら側からの救援はこれで終わった」と結論付けたのだった。

 彼らは敦賀駅への帰り道に、斜坑から進入した消防隊と出くわした。そこで「これにて一件落着」を告げたのは、前節で記した通りである。

 第一救援列車が敦賀駅に到着したのは、4時26分のことだった。

 なんだかやけに時間がかかっている気がするのだが、どうなのだろう。トンネルから敦賀駅まではそんなに距離があるのだろうか。だがまあ、この列車は、トンネル内で立ち往生していた例の貨物列車を牽引してきたというから、その連結のための作業で手こずったのかも知れない。とりあえずこの4時26分という時刻は、運輸局長の国会答弁でも『事故の鉄道史』でも一致しているので間違いないようだ。

 あるいは、負傷者たちを病院に搬送するのに時間がかかったのかも知れない。国鉄総裁の証言によると、3時半には国鉄のバス3台を動員し、トンネルの入り口に待機させて病院へピストン輸送を行ったという。だから、第一救援列車で救助された数十名はそれで運ばれていったのかも知れない。そして空になった救援列車が敦賀駅に到着したのが4時26分だった、とか……。

 まあそのへんは、想像である。

 とにかく、時刻は午前4時26分。敦賀駅に列車が帰着した時点で、救助活動はもう完了したはずだった。

 寝耳に水の通報が入ってきたのは、4時40分のことである。トンネル内の非常電話から男性が連絡してきたのだ。

「トンネル内にまだ取り残されている。早く救助に来てくれ!」

 というわけで真っ青になった国鉄は、慌ててもう1本の救援列車を出すことになった。

 ひどい話である。トンネル中央部では、乗員乗客が4時間弱もほったらかしにされていたのだ。火災の熱気と煙が充満する地獄の中で、である。

 この時には、トンネル周辺は騒然としていた。マスコミ各社も集まってきていたのだ。国鉄、消防、マスコミたちは、北陸トンネルの中へこぞって突入していった。

 

   7・今庄側からの救援活動

 

 ところで、今庄側の救助活動はどうなっていたのだろう? 立山3号による救援の後、どのような動きがあったのだろうか?

 これは結論を言うと「よく分からない」のである。お前本当にルポルタージュ書く気あんのかと言われそうだが、本当によく分からないのだから仕方ない。

 立山3号が偶然に救助活動を行い、今庄駅に戻ったのが2時40分(ウィキペディアによる。ただしこの「戻った」が、「戻っていった」のか「戻ってきた」のかは不明)。この後、今庄側からは確かに救援列車が出動している。しかしその発車時刻は4時10分と、かなり時間が空いている。

 本当にこれだけだったのだろうか? 他にも救援列車は出なかったのだろうか? だが実は、当時の新聞報道などをチェックしてみると、敦賀側から取材された内容が圧倒的に多いためはっきり分からないのである。今庄側の救援の動向について報じたものはほとんどないのだ。

 よって、ここは推測するしかない。

 まず、そもそも報道が敦賀側に偏っていた理由だが、これは単純にマスコミも「取材できなかった」からであろう。当時、トンネルの今庄側は煙の噴出口となっていた。

 当時のトンネル内の煙の様子を見ると、火災が起きて以降の数時間は、敦賀から今庄に向けて風が吹いていたのである。このことは他の資料にも書いてあり、よって敦賀側からの救援活動はスムーズに行われたのだ。だがそれは、逆に言えばトンネルの今庄側が煙の出口になっていたということだ。それで、救援や取材どころか進入自体ができなかったのではないか。

 またもうひとつ、考えられることがある。実際にはかなりの本数の救援列車が動いていたのだが、混乱のためうやむやになってしまったのではないか、ということだ。

 資料を読んでいくと、多くの場合、救援列車は全部で4本出動したと書かれている。当時の新聞を確認しても、確かに敦賀から3回と今庄から1回ずつ救援列車が出たとあるのだが、実はひとつだけ、これと矛盾する内容の資料があるのだ。

 それは、当時の国鉄運輸局長の国会答弁である。この答弁において、救援列車は敦賀側と今庄側からそれぞれ5本ずつ出動しており、合計10本動いたと述べられているのだ。一体どういうことなのだろう?

 そこで、こんな想像ができる。出動したものの、猛煙のため救助活動に至らなかった「暗数」があったのではないか。あるいは、出動した4本の救援列車が計10回往復して、トンネル内の人々をどんどん運び出したのかも知れない。

 この仮説については、傍証がないわけでもない。最初、筆者もてっきり今庄側から出動した救援列車は1本だけだと思っていた。それでその出動時刻を調べてみたところ、国鉄運輸局長は4時10分と述べており、新聞では5時半とされており、『事故の鉄道史』では5時と書かれていたのだ。ここまで無茶苦茶だと、救援列車は1本ではなく複数回出たと考えたほうが妥当ではないだろうか。それらは煙のためトンネルの途中までしか入れなかったか、もしくはトンネル進入そのものを諦めざるを得なかったのかも知れない。

 以上を踏まえて、今庄側からの救援の動向について改めて書かせて頂こう。記録によると、まず先述の通り4時10分には、ディーゼル機関車と貨車10両で編成された救援列車が今庄駅を出発している。これは160人の負傷者を収容し、7時26分に戻ってきた。

 この列車の救援活動も、簡単ではなかったようだ。トンネル内の猛煙のため事故現場には到達できず、事故車両の手前で停止した。そして防毒マスクをつけた50~60人の作業部隊が線路に降り立ち、救助を行ったという。

 また別の資料では、4時45分に10人の機動隊がトンネルに入っていったとある。もちろん防毒マスク付きだ。

 さらに5時半にも別の救援列車がトンネルに入っていった。これには機動隊員15人が乗り込んでいたが、トンネル進入後5キロほど進んだ地点で猛煙のため退却している。その途中、徒歩で避難していた負傷者を何人か救助し、7時にはトンネルを出た。

 ……5時半に出発して7時にトンネル脱出って、先に入っていった救援列車と完全にブッキングしてるんだけどね(笑)まあそれは見なかったことにしよう。

 そして午前8時10分以降になると、いよいよ煙の噴出は激しくなり、これ以降およそ2時間の間、救助活動は完全に不可能となった。午前10時には、今庄口から15メートルの地点で一酸化炭素の濃度が400PPMにも及んだというから、これはちょっとした毒ガス攻撃である。

 最終的な結果として、トンネルの今庄側からは160名が救助された。しかし、このうち9名が亡くなったという。

 

   8・救援列車ふたたび

 

 さあ、いよいよ敦賀側から2度目の救援列車の出動である。

 なんてこった、中心部に取り残された人たちがいるのをほったらかしにしてきちまった――! この時の国鉄と消防の焦りは相当なものだったろう。そうでなきゃおかしい。長く暗く寒いトンネル内で、人々はもう3時間以上も置き去りにされていた。

 だが、気付いたからハイ出動、といくわけにもいかなかった。何故なら、トンネル内の一定の場所から先は煙地獄であることがすでに分かっている。そこでは、いかな訓練を積んだ消防士でも命が危うい。

 そこで、国鉄が必死こいて第2救援列車の準備を整えている間に、消防隊は特別救助隊の編成と、それによるトンネルへの突入を決断した。本部勤務を命じた留守番隊員までをも呼びつけて、選りすぐりの5人の精鋭部隊に命令を下したのだ。

 選ばれた隊員のほとんどは、独身の男性だったという。この救助活動で万が一のことがあっても悲しむ者ができるだけ少ないように――という哀しい配慮だった。

 そうこうしている間に、敦賀駅からの第二救援列車がトンネル付近に到着した。消防隊はそれに乗り込む。

 時刻は午前6時43分。樽弓清一敦賀駅運輸長の指揮のもと、保線区員、敦賀消防署員、鉄道診療所員、看護婦ら約40人を乗せ、第2救援列車はトンネル内へ突入していった(『なぜ、人のために~』では6時39分とある)。もう火災発生から5時間が経過していた。

 それにしても考えてみると、救助する側も本当に命がけである。

 この第2救援列車は、結果的には救助活動において一番大きな働きをした。だがそれは、あくまでも煙が今庄側にうまく吹き抜けてくれていたからである。救助隊員が列車から下りて救助を行っている間に風向きが変われば、大規模な二次災害を引き起こす可能性だってあった。――ミイラ取りがミイラ、という奴だ。

 そんな状況の中、救援列車は何度も一時停止を繰り返しつつ、慎重にトンネルの奥へ奥へと進んでいった。

 そして責任者である運輸長は、ある地点から消防隊の下車とさらに先への進入を指示した。いよいよである。

 下車した隊員たちは、予備の酸素ボンベを手にし、呼吸器を装着しながら奥へ進んでいく。しかしこれらの器具は負傷者のために使う必要があり、隊員たちは無駄遣いもできない。

「いいか、我々はこの呼吸器を使ってはいかん。そして絶対に単独行動も取るな。生きて帰るぞ!」

 救助隊が先行して走り、後ろから救援列車が徐行していく。

 やがて、列車のライトがきたぐにの後部4両の影を捉えた。それはさっき、第一救援列車によって救助がなされた車両である。空っぽだ。

 この先である。この先に、取り残された人たちがいる――。

 きたぐにの後部車両4両に阻まれる形になったため、救援列車はそこから先へは進めない。あとは人海戦術である。

 さらに数百メートル先の猛煙の中へ、消防隊員たちは突入していく。そこはすでに火災の中心であり、敦賀口から5.1キロの地点だった。
 

(「北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)下 へ続く)

 

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北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下

 第3章 火災

 

   1・発見~停電まで

 

 さて、ここからは時間を数時間巻き戻して、火災発生直後のきたぐにの様子を描いていくことにしよう。最初の緊急停止のあと、トンネル内では何が起きていたのだろう?

 まず、列車がトンネルに侵入する直前の1時5分には、乗員の広瀬車掌が見回りを行っている。その際、火元となる食堂車の喫煙室も覗いているが、この時はまだ火の気もなかった。

 そのほんの少し後、火災を最初に発見したのは、当時「きたぐに」に乗車していた3人の学生だったという。彼らは、食堂車である11両目と、12両目との間のデッキで立ち話をしていた。

「おい、なんかきな臭くないか?」 
 匂いに気付いたのは、おそらく列車がトンネルに入ったことで換気が悪くなったためだろう。彼らはクンクン、スンスンと匂いをたどっていった。

 時刻は午前1時7分。学生諸君が11両目の食堂車の喫煙室を覗いてみると、そこは既に白煙が充満していた。しかもシートの下から火炎が吹き出している――。

「大変だ、車掌さん車掌さん!」

 1時8分。1両目の車掌へ火災発生が知らされた。

 この第一報を受けたのは石川専務車掌で、この直前に車内の見回りを終えたところだった。

 彼は通報を受けると、急いで消火器2本を手に取り、さっそく火元へ向かった。

 そこでは学生と、食堂車で就寝していたコックたちが、力を合わせて消火作業にあたっていた。

 当時、この食堂車にはコックが3人とウエイトレス5人が乗車していたのだが、火災発覚時には寝ていたのだった。食堂車というものの構造を筆者はよく知らないのだが、もし発見が遅れていたら彼らも命が危なかったのではないかと思う。

 さて炎は消えるどころか、ますますその勢いを増していった。これはまずいぞ、緊急停止だ!

「501列車、止まれ! 火事だ!」

 午前1時11分。石川専務車掌は車掌室に引き返し、非常弁を引くとそう指示を出した。

 これにより、運転室の辻機関士が列車を緊急停止。3分ほどの時間をかけて、きたぐにはトンネル内のほぼ真ん中でストップした。

 「異常が発生した場合、なにがなんでもとりあえず停車すべし」――。このルールは、当時の鉄道関係者にとっては絶対的なものであった。

 石川専務車掌は食堂車に戻り、他の乗務員や、さらに一緒に乗っていた鉄道公安員と力を合わせて消火作業を続行。ここには、機関室にいた辻機関士と尾山機関助士も駆けつけた。

 しかし状況は一向に好転しない。火が消えないのだ。後述するがこの食堂車はとんでもなく古く、燃えやすいことこの上ない代物だった。

 列車は停めたものの火は消えない。こういう場合にどうすべきかは、規程でこう定められていた。

「消火器等での消火が不可能と判断した時は、ほかの車両への延焼を防止し、被害を最小限にとどめるため、火災車両の前後を切り離すこと」。なるほど理に適っている。

 午前1時25分。運転室に戻った尾山機関助士から報告を受けた作田指導機関士は、ただちに食堂車の切り離しを命じた。なんとしても火災の延焼を防ぐのだ――。指令を受けた乗務員たちは、さっそく周囲の車両の切り離しに取りかかる。

 作田指導機関士は、列車の10メートルほど前方にあった非常電話に取りつくと、トンネルの両側にある敦賀駅と今庄駅へ、それぞれ事故を報告した。

 また発煙筒が焚かれ、後続の貨物列車と、反対から来る上り急行・立山3号に事故発生を通知(立山3号は1時23分に今庄駅を通過した)。さらに線路の信号を赤にする軌道短絡器もセットされ、衝突回避の措置が取られた。午前1時30分のことだった。

 さあ、車両の切り離しである。

 と言っても、具体的に何をどうするのか、筆者はよく知らない。それでも当時の状況を考えれば、それがかなり難航したであろうことは容易に想像がつく。なにせそこは暗闇のトンネルで、しかも上り勾配の傾斜地だった。乗務員たちも、連結器の切り離し作業などほとんど未経験だったのである。

 この時、照明は切られており、北陸トンネル内は暗闇に包まれていた。これについては、予算削減のため国鉄が常時点灯させるのを渋ったからだとか、逆に国鉄の労組が「運転の妨げになるからつけるな」と言ったからだとか、後になって色々言われている。

 しかも、きたぐにの乗員は照明のスイッチの在りかを知らされていなかった。最悪である。それでも彼らは、規定通りの作業を的確かつ迅速に進めていった。

 午前1時38分。連結器が、ようやくひとつはずされた。12両目以降の4両が切り離されたのだ。

 さっそく作田指導機関士は運転室へ戻り、1~11両目を5メートルほど前進させた。11両目の食堂車の火災は相変わらずだが、とにかくこれで後部車両への延焼は避けられる。さっそく敦賀駅に状況の報告がなされた。1時45分のことだ。

「後部車両の切り離しが完了した。これからさらに前部を切り離し、今庄へ出発する」

 同時に、救援の要請もなされた。

 乗務員たちは、次の作業に取りかかった。次は11両目(火元の食堂車)と10両目の間を切り離されなければいけない。

 ところが、このあたりから雲行きが怪しくなっていく。火災の煙がトンネル内に充満し始めたのだ。

 ゲホゲホゴホゴホ、うわーっこいつはたまらん! というわけで、乗務員たちは11両目と10両目の切り離しを断念。仕方なく、そのひとつ手前の10両目と9両目の間を切り離すことにした。

 また同時に、1~11両目をさらに82メートルほど移動させた。先に切り離した12両目以降に延焼しないよう、念を入れての措置だった。

 この時、1~11両目に残っていた乗務員は、機関士の作田、辻、尾山の3名と、さらに乗務掛の1名のみ。きたぐに全体では総勢20数名の乗務員がいたのだが、なにかの配慮があったのか、それともたまたまだったのか、ほとんどは後部の12両目以降に残ったのである。

 12両目以降の乗務員たちは、次第に遠ざかっていく11両目の後ろ姿を見送りながら考えた。「ああ、1~11両目の車両はこのままトンネルを出て、今庄へ向かうんだな」と――。

 今ここまで書いてふと考えたのだが、第一救援列車が、トンネルの奥に取り残された人々を救助せずほったらかしにしてしまったのは、ここでの勘違いも影響したのかも知れない。後部4両に残っていた人々が「前方の車両はもうトンネルを出たはずですよ」と言ってしまった、とか。まあ想像であるが。

 しかし、前方の1~11両目は、トンネルを出るどころの話ではなかった。9両目と10両目の切り離し作業を行っているさ中に、ついに最悪の事態に陥ったのだ。列車の全ての明かりが消えたのである。

「ありゃあ、辻、停電じゃ!」

 作田指導機関士は、悲痛な声をあげたという。

 

   2・避難

 

 停電の原因は、排水用の樋が火災の熱で溶け、それが架線にかかってショートしたことだった(もっとも筆者も実際に見たことはないので、排水用の樋とか言われても想像するしかないのだが)。

 停電という事態に、乗務員たちは絶望感から脱力した。もう電車は動かない。ここで切り離し作業をしても、延焼を防ぐための移動ができないのだ。

 乗客乗員たちは、全員が暗闇のトンネル内に取り残されたのだった。

 こうなったら、乗客には自力での脱出を促さねばならん。乗員たちはすぐに客車の中に呼びかけを始めた。

「火災が発生しています。いま、停電になり列車は動けません。逃げて下さい、お願いします!」

 これが午前2時頃のことである。

 さてところで、それまでの間、乗客は何をしていたのだろう? すでにこの時点で、火災発見から1時間弱が経過しているのだ。何も動きはなかったのだろうか。

 実を言えば、この点についても資料の内容は錯綜している。

 例えば、当時の新聞記事では、車内アナウンスで「危険だからすぐに車両から降りてくれ」と「危険だから車内に残ってくれ」という内容が入り交じって放送されていた、とある。

 アナウンスがなされたのだから、これは停電前であろう。だが『プロジェクトX』では、既に1時20分の時点で客車内に大量の煙が流れ込み、それでたちまち乗客はパニックに陥った――と描写されている(さらに後の国会答弁によると、列車が分離することで車内放送はできなくなったはずだ、と述べられている)。

 かと思えば『事故の鉄道史』では、乗務員からの誘導があるまでは車内は静かで、騒ぐ者もほとんどなかったと書かれている。

 これはまあ、結局のところ「どれも事実」なのだろう。
 当時、乗客は大勢いた。中には就寝中の者もいただろう。また、消火作業のただならぬ気配にすぐ反応した者もいただろうし、逆に反応の鈍い者もいただろう。また何両目の車両に乗っていたかによって、目に映る光景はそれぞれ違っていたと思う。

 よってここでは、あまり厳密な資料分析は行わない。その内容の羅列と、想像を交えた若干の内容修正にとどめたい。

 まず基本的に、車内アナウンスが「遅かった」ということは全ての証言で一致している。

 乗員たちは、消火作業に躍起になっていた。また救援依頼もしなければいけないし、他の列車にも停止を促さねばならない。アナウンスまでは気が回らなかったことだろう。

 ただ、全く通知がなかったわけでもない。断片的に確認できるものとして、9両目と10両目に鉄道公安班長が「食堂車が火災である」旨を口頭で告げていたようだし(『事故の鉄道史』)、国会答弁では、一部の乗客に降りるように指示し、また別の乗客には車内にとどまるよう指示したとも説明されている。

 トンネル内に残った人々が命の危険にさらされたという結果を見ると、なぜ「危険だから車内にとどまるように」という指示がなされたのか不思議ではある。だがこれは、煙がトンネル内に充満すればかえって車外のほうが危険だ――という判断があったのかも知れない。

 また「きたぐに」の12両目以降の乗客は、先述の通り、そこに立てこもることで全員無事に救出された。よってこの乗客たちは、基本的には最初から最後まで車内にとどまっていたのだろう。車両が切り離された直後には、徒歩で脱出しようという動きもあったようだが、これは半分以上が猛煙のため断念している。

 だが間もなく――特に切り離しを断念せざるを得なかった前方車両ということになるが――、煙は車内に立ち込めてきた。煙が進入してきた具体的な時刻は不明だが、これによって「すぐにパニックになった」という証言もあれば(『プロジェクトX』)「最初は乗員がなんとかしてくれるだろうと思い誰も騒がず、危ないと思ってから自主的に避難した」という証言もある(『事故の鉄道史』『なぜ人のために命を賭けるのか』)。

 このあたりは些細な矛盾ではあるが、こんな風に想像することが出来るだろう。火災車両に近いほうの客車では、乗員が目の前で消火活動をやっている。だから安心だ。だが煙も濃くなってきて、危なくなってきたので車両内で避難を始めたところ、のんびり構えていた他の車両の者も、それで慌ててパニック気味に「じゃあ自分も」と逃げ始めた――。

 あるいは、火炎の勢いと、煙の噴出が、ある時点から急に悪化したのかも知れない。資料を読んでいると、最初はわりとのんびりした状態だったのだが、どこかで急激に混乱が生じたような印象も受ける。

 ちなみにどの資料にも「停電がきっかけで車内に混乱が生じた」とは書かれていない。車内で生じた混乱は、停電ではなく、あくまでも煙の流入が引き金だったようだ。

 煙は、あれよあれよという間に客車全体に流入していった。そしてトンネル全体にも煙が充満し始め、乗員によって「車外に出てトンネルの外へ逃げるように」とはっきり指示があったのは、この段階に至ってからだった。

 もはや一刻の猶予もない。この時、トンネル内ではもう腰の上くらいの高さまで煙が充満していたのである。ここから徒歩で脱出するのは命がけ以外の何ものでもなかった。

「降りたら左へ逃げろ! 左だ!」

 辻機関士はこう叫んで避難誘導したという。彼の言う「左」とは「きたぐに」の本来の進行方向である今庄側のことだった。火災車両とは反対の方向である。

 さらに、辻機関士は乗客をおぶったり、抱いたり、肩車をしたり、時には自らが踏み台になったりして乗客の脱出に尽力した。

 中には、「言われなくても」とばかりに先んじて脱出を試みた人々もいた。列車内には、新潟から来ていた約30名程の団体がいたのだが、たまたま乗り合わせていた現役の国鉄職員が彼らを誘導したのである。

 また、さっきの停電時に「ありゃあ」と叫んだ作田指導機関士は、非常電話に取りついて送電の要請を続けていた。

 トンネル内には、マンホールと呼ばれる待機用の空間がある。その非常電話から、トンネルにすぐ電気を送ってくれるよう連絡をしていたのだ。電気さえ通れば列車をトンネルの外へ出せる。

 だが、連絡を受けた電力指令も、うかつに再送電するわけにいかなかった。混乱した火災現場からの通報だけでは停電の理由は分からない。今ここで2万ボルトの高電圧を流して感電事故でも発生したらえらいことだ。

 結果だけを見れば、再送電しても特に問題はなかった。だがやはり、二次災害の危険性を考慮すれば、この判断にはやむを得ないものがあった。けっきょく電気は流されず、きたぐにがトンネルから脱出する道はここで断たれたのだった。

 またたく間に、トンネル内は煙地獄と化していった。

 列車の外に出た乗客たちは、壁伝いに暗闇のトンネル内を進んでいく。しかし逃げ切れなかった乗客たちは、窒息などの目に遭いながら「助けて」「殺してくれ」と叫び、煙の中で倒れて行ったという。

 乗客のために孤軍奮闘していた辻機関士も、煙によってやられた一人である。

 彼は車内の様子を片っぱしから見て回った。しかし視界も悪く、意識も途絶えがちな状況で、車内の荷物を逃げ遅れの乗客と見間違うこともあった。

 また途中で、脱出し切れず坑内で倒れている乗客にも出くわしたようだ。だがもう、彼らを現実的に助ける体力は辻機関士には残っていなかった。それでもトンネル内に残り最後まで駆けずり回ったのは、ひとえに職業的使命感のなせる業だったのだろう。

 やがて彼は意識の混濁に加えて呼吸困難に陥った。さらには、煙によって嘔吐神経を刺激されたのだろう、何度も吐き戻してもはや全身に力も入らなくなり、トンネル内の側溝で昏倒した。

 また作田指導機関士も殉職した。非常電話の近くで、口元にぼろ布を当てた状態で絶命していたという。享年50歳。

 

(細かい話だが、この作田機関士の遺体の状況について『事故の鉄道史』ではうつ伏せだったとあり、『なぜ、人のために命を賭けるのか』では仰向けだったとある。なんでこうも矛盾するのか不思議なことだ)

 

 さてしかし、辻機関士の奮闘にも関わらず、車内に取り残された乗客がいた。

 『プロジェクトX』によると、その乗客たちは8号車の車内で追いつめられる形になっていたという。

 11両目から押し寄せてくる煙を避けるため、乗客たちは車内を前方へ前方へと移動していった。だが、8号車には隣の車両に移るための貫通扉が存在していなかったのだ。つまりそこは行き止まりだった。さらに車外も煙が充満しており、外にも出られない。

 えーと、ただここでもひとつ、資料の矛盾があるんだよね。『事故の鉄道史』では、車内を移動して5~6号車あたりまで避難した人がいた、と書かれていた。『プロジェクトX』の描写と説明を鵜呑みにすると、その人たちは貫通扉もないのにどうやって壁をすり抜けたんじゃい、という話になるのだが、これはよく分からんので追究しない。パスパス。話を戻そう。

 ――以上のことを考慮すると、辻機関士が乗客の避難誘導を行って自らも昏倒するまでは、ほとんど間がなかったのではないかと思う。彼の必死の避難誘導ぶりは『事故の鉄道史』を読んでいるともう涙が出てきそうになるほどだが、そんな彼でも、8両目に取り残された乗客にまでは手が回らなかったのである。

 さて、この時点で今庄側へ脱出した乗客は、その多くが立山3号によって救出された。

 そして切り離された後部4両の乗員乗客たちも、敦賀側からの第一救援列車によって無事に助け出されている。このあたりの経緯は、前章までで述べた通りである。

 さらに記録によると、徒歩でトンネルから脱出した負傷者も10~30名ほどいたという。

 

   3・救助

 

「トンネル内にまだ人が取り残されている。なんで来てくれないんだ、このままでは全員死ぬ!」

 という内容の通報があったのが4時40分。やれやれ救助活動も無事に終わった、と胸を撫で下ろしていた人々に、この通報が冷や水を浴びせることになったのは既に述べた通りである。

 この通報は、きたぐに内に取り残された負傷者からなされたものだった。8両目に追い詰められていたのだ。

 この時は、車内も車外も完全に煙地獄と化していた。

「このままでは全員確実に死ぬ。外に助けを求めないと」

 そう思い立って行動を起こしたのは一人の男性であった。彼は渾身の力を込めて窓を叩き割り、車外の非常電話から救助を求めたのだ。

 それまでの間、何も動きがなかったわけでもない。この頃には、立山3号や第一救援列車、それに今庄側からの救援列車などによって、トンネル内の惨状がようやくはっきりしてきたところだった。また午前4時には、敦賀署員の先導によってマスコミもトンネルへ進入している。そのことは先にも少し述べた。

 それでも、敦賀側にとっても今庄側にとっても、トンネル中心部の事故現場の状況はまったく分からない状態だった。そんな中で、この通報はなされたのだった。

 いよいよ第二救援列車の出動だ。取り残された大勢の乗客がいることに気付かずに引き揚げてしまった国鉄は大慌てである。今度の救援列車で救助活動をきちんと行わなければ面目丸潰れだ。

「さあ到着したぞ。負傷者はどこだ」

 そんなこんなで消防隊が到着した時、トンネルの中心部であるその場所は、文字通り死屍累々たる有様だった。最初は人々がどこに倒れているかも分からなかったが、散乱した毛布やシーツ、荷物の下に乗客たちは埋まっていたという。

 誰も彼もが失神しているか朦朧としているか、あるいは明らかに絶命していた。消防隊員たちは、かろうじて息のある者に自分の酸素ボンベを与え、片端から担いでいった。

 この時点では、おそらく百数十人が救出されたと思われる。一連の救援列車の中で、最も大きな働きをしたのがこの第二救援列車だろう。

 またこの時、きたぐにの車両の窓を割って通報したあの男性も無事に救助されている。この辺りの詳しい経緯は『プロジェクトX』で描写されており、当研究室でもそれを参考にしている。興味のある方は一度見てみるといいと思う。

 人々はおよそ600メートルの範囲で線路や側溝に伏せ、壁にもたれ、うずくまり、そして倒れていたという。その数たるや百数十人。顔は泥や煤で真っ黒になっており、煙を避けるために被ったのか、毛布やシーツを巻き付けている人が大勢いた。トンネル内の湧水によって体は濡れており、辺り一面には荷物や靴も散乱していたという。

 ここで助け出された乗客は、きたぐにの後部4両に乗せられた。例の切り離された車両である。これに救援列車が連結し、牽引する形で救助は行われたのだった。午前7時10分のことだった。

 ところで午前4時頃には、敦賀署員の先導によってマスコミがトンネル内に徒歩で進入している。そのことは前章でもすこし述べたが、この事故の報道写真は、ほとんどがこの時以降に撮影されたものだ。

 顔中を煤だらけにして髪を乱した人々が、呆然とした表情で抱えられ、あるいはおぶられて救助されている様は凄まじい。

 またこれらの報道写真には、トンネル内で昏倒した夥しい人数の乗客の姿も収められている。これはおそらく途中まで避難してきたか、トンネル中心部で取り残された人々だろう。

 そういえばこれは半ば蛇足だが、こうした事故災害事例を集めた「失敗百選」というサイトがある。ここでは、このきたぐにの火災について「2時43分に第1次救援列車、 6時43分に第2次救援列車が敦賀駅から現場に送り込んだが、煙がひどくて近寄れず、トンネル内を避難する乗客を乗せて引き返した。」という記述があるが、ここまで読まれた読者ならば、事態はそんなに単純でなかったことがお分かりであろう。

 どうもこの、第一・第二救援列車がどちらも煙がひどくて近寄れなかった――という情報は、11月6日の朝日新聞の夕刊(つまり事故の第一報)によるものらしい。朝日新聞の第一報というのは縮刷版がどこの図書館にもあり、また市販の書籍にも紙面がそのまま掲載されていることが多い。だから引用されやすいのである。

 この朝日の夕刊だけでは、詳細は分からない。本当は第一・第二救援列車ともに近寄れるところまで近寄り、それぞれ行く手を阻む形になっていた列車を牽引し、それで戻っているのである。読売、産経などの続報に目を通さないと、この辺りの細かい経緯は分からないと思われる。

 その後、敦賀側からはさらにもう一本の救援列車が出ている。おそらく第二救援列車と入れ違いの形だったのだろう、7時10分頃にトンネルに入り、8時40分頃には敦賀駅に戻ってきている。「救援列車」としての出動はこれが最後になった(ちなみにウィキペディアだけは、敦賀に戻った時刻が10時半となっている。なんの資料からの引用なのだろう?)。

 そして、トンネルに残された車両は、11月6日の昼頃にようやく収容された。

 全乗客・乗員の収容が終わったということで、トンネル内に残された1~11両目をまず半分に分割。それを、それぞれ敦賀側と今庄側に運んで行き、午後12時40分までに片付けたのである。

 それから、これも「救援列車」とされているのだが、午後2時20分頃には、最後の緊急車両がトンネル内に進入している。これによって救助された人がいたのかどうかは不明だ。

 やがて現場検証も行われ、上下線ともに復旧したのは22時45分。なんだかすごい復旧スピードである。安治川口ガソリンカー火災や、少し前の中国の高速鉄道の事故を思わせる。

 ……と思ったら、実はここでも国鉄は手抜きをしていたのだった。先に「全乗客の収容を確認した」と書いたが、それはあくまでも国鉄の主観でしかなかったのだ。事故からほぼ1週間後の11月13日に、最後の遺体がトンネルから発見されたのである。

 この遺体が見つかったのは、上下線の間にある排水溝だった。現場から今庄側におよそ70メートルの地点で、膝を折り、前かがみになった状態で発見されたという。言うまでもなく、国鉄は轟々たる非難を浴びた。

 こうして最終的な死者は30名、負傷者は714名に上った。

 

 第4章 裁判

 

   1・被害拡大の原因

 

 この北陸トンネル「きたぐに」火災は、なぜこれほど被害が拡大したのだろう? まあ細かい原因を挙げていけばきりがないのだが、主だったものを適当に並べてみよう(適当かよ)。

 まず、最初に車両を切り離した際の、乗務員の残留の度合いである。これは事故直後から問題にされていたらしい。

 つまり、こういうことだ。切り離されたきたぐにの前部車両には600人近くの乗客がいたのだが、こちらには乗務員がほんの数名しか残らなかった。だが一方、後部4両では90人の乗客に対して6人の乗務員がつく形になっていたのだ。

 しかも後部4両の「乗客」の中には、荷物掛や食堂関係や郵便関係者など、鉄道慣れしていて頼りになりそうな者もいたのである。

 こういった人数の差が、乗客を避難誘導する際の手際に影響したのではないか、ということだ。

 また問題といえば、トンネル内の照明のことがある。

 事故が発生した時、トンネル内は照明がついておらず真っ暗だった。これは国鉄が費用をケチッてつけなかったとか、労組が運転の邪魔になるからつけないように要請したとか、色々言われている。

 とにかく、真っ暗なのは良くなかった。明かりがついていれば、車両の切り離しももっとスムーズにできたかも知れない。それに何より、乗客の避難にも影響があった。きたぐにから脱出した乗客の中には、しばらく行けば明るくなるだろうと思っていたのにずっと真っ暗だったため、仕方なく引き返した者もいたのである。

 トンネル内にあった照明は680個。これが20メートルおきに並んでおり、さらに50メートルおきに500個のスイッチがあったという。

 事故発生後、これらの照明が灯されたのは、第一救援列車がトンネルに入ってからのことだった。同乗していた保線区員がスイッチを入れたのだ。

 しかしそれも途中までだった。今庄側は猛煙のため入れないし、第一救援列車も途中で引き返してしまっている。

 こういった内容を踏まえ、照明がもっとちゃんとついていれば被害も少なくて済んだのではないか、という追究が後に国会でなされた。

 さてそれから、被害拡大の原因は他にもある。そもそもの話になるのだが、北陸トンネルでは災害時のための対策が一切なされていなかったのだ。

 事故が起きる5年前の昭和42年10月14日には、敦賀消防署は火災時の酸素不足に備えるよう国鉄に申し入れていた。救助器具や酸素マスクを常備するよう求めたのである。だがこれは黙殺された。もともと排煙設備も消火設備もなかった北陸トンネルは、めまいがするほど危険な設備だったのである。

 それから、ATSが整備されていないのも問題になった。立山3号や、敦賀側からの後続の貨物列車が停止したのは、きたぐにの乗員が手際よく停止の措置を取ったからである。その措置自体はもちろん正しいものだったが、それでも後続の貨物列車にトンネル進入を許したことは、後の救助活動の妨げになった。こういう場合、周辺の列車が即座に、あるいは自動で緊急停止できるような仕組みを作って欲しい――消防は、以前から国鉄に対しそう依頼していたのだ。

 まだまだある。出火した食堂車だが、これは問題だらけの代物だった。造られたのが昭和3年という時代物で、当時の日本には7両しか残っていないという骨董品だったのだ。老朽化した電線が直接床に這わせてあったりして、これは当時の基準に照らし合わせても規格違反の代物だった。既存不適格というやつだ。さぞよく燃えたことだろう。

 また国鉄ばかりではなく、消防にも問題はあった。排煙車がない、ホースの長さが足りないなどの消防の問題点を、北陸トンネル火災は浮き彫りにしたのだった。

 以上、細々とした事柄を挙げていったが、しかし実を言えば、ここまで書いたことは基本的に枝葉の問題、すなわち瑣末事である。この事故の最大の問題点はひとつ、「トンネル内で列車を停めてしまったこと」に他ならない。

 これがどういう意味なのかは、次節で説明させて頂く。

 

   2・国鉄のコンプライアンスと裁判の判決

 

 この火災事故、実は犠牲者をゼロで済ませることも可能だったのである。

 その方法は簡単で「列車を止めずにトンネルを出ればよかった」のだ。

 これは実験によって証明されている。火災が起きても、消火活動を行いながら列車を走らせれば8分ほどでトンネルを脱出することが可能だった。そして乗客乗員すべてが安全に避難できたのである。

 つまり、きたぐにの乗員たちは最初から――あるいは後部車両を切り離してしまった時点で、さっさとトンネルを脱出してしまえばよかったのだ。

 というわけで、裁判では2人の国鉄職員が訴えられることになった。1人は新潟車掌区客扱専務車掌の石川車掌。そしてもう1人は、金沢運転所電気機関士の辻機関士である。

 辻機関士は、自らが事故の当事者でもあった。文字通り「必死」の状況で身を挺して乗客の救助に当たり、途中で力尽きて倒れたあの人である。彼はなんとか救助され一命を取り留めたものの、回復後にこうして被告席に立たされたのだった。

 ちなみに、火災の原因は今に至るまで不明のままである。最初は、煙草の不始末や調理室の石炭レンジが原因ではないかと言われた。そして最終的には暖房装置がショートした可能性がもっとも高いとされたのだが、結局断定には至っていない。

 ちなみに個人のあるサイトで、きたぐには敦賀駅を出発した時点ですでに煙を上げており、しかも放火が疑われている――という記述があった。それは「現場のみ知る話」とのことだったが、出典は明記されていないし他の資料でも新聞でもそうした記述は一切なく、これはかなり信憑性に欠ける(ちなみにこのサイトは今、見られなくなっている)。

 よって検察は、火災の直接の原因については追及しなかった。あくまでも、「きたぐに」をトンネルのど真ん中で停止させてしまったことに関してのみ、2人の刑事責任を問うたのである。

 しかしそれでは、なぜ石川車掌と辻機関士の2人は、きたぐにをトンネル内で停止させてしまったのだろう?

 そこには、単なる判断ミスで片付けてしまうにはあまりにも重い事情があった。当時の鉄道員たちにとって、「異常事態が起きた場合は何がなんでも列車を停止させる」のは常識中の常識だったのである。

 ここで読者諸賢に思い出して頂きたいのが、昭和37年に発生した伝説の鉄道事故・三河島事故である。あれは最初は軽微な脱線事故だったのだが、その時に他の列車を停める措置を取らなかったため大惨事になったのだ。

 また三河島事故だけではなく、六軒事故鶴見事故など、昭和30年代には同じような事故が相次いだ。どれもこれも、異常時に列車が速やかに停止できていれば避けられたものばかりだ。

 こうして、これらの教訓を踏まえてATS(自動列車停止装置)も普及したわけだが、それと同時に「非常時には必ず列車を停止させるべし」というのが鉄道員の大大原則になったのである。

 この方針転換は革命的だった。戦前の軍事輸送時代も、高度成長期の大量輸送時代も、鉄道は「何があっても止めてはならぬ」が基本方針だった。それが180度転換したのである。やや浅薄な言い方になるが、人命軽視から人命重視へとパラダイムシフトが起きたと言えるだろう。

 だからきたぐには停止したのである。2人の国鉄職員は、非常時にはとにかく一にも二にも列車を停めるべし、と叩き込まれてきたのだ。彼らは忠実にその原則に従ったのである。この事故ではそれが完全に裏目に出たのだ。

 被告の2人は心外極まりなかったに違いない。列車停止の措置についても、乗客の救助についても、彼らはやれる限りのことを規定通りにやったのだ。それなのに「トンネルをさっさと出れば良かったんだよ」と責められ被告席に立たされたのだ。

 というわけで、2人は無罪となった。

 昭和55年11月25日に福井地裁で無罪判決が言い渡され、これに対し福井地裁は控訴を断念。無罪が確定したのである。

 11月25日の判決の日には、辻機関士に対し450人の動労(国鉄動力車労働組合)の支援者が駆けつけた。また石川車掌に対しても200人の鉄労(鉄道労働組合)の支援者が駆けつけ、会場を借りて陣取っていたという。

 組合の側は、「国鉄の現業職員を裁判にかけるならストを起こす」とも言っていたらしい。なんだかずいぶん不穏な空気だったようだ。

 だがまあ、仮に検察が組合の圧力に負けて控訴を断念したのだとしても、この無罪判決は妥当だと誰もが感じるのではないだろうか。国鉄が、再三に渡る消防の改善勧告を無視していたことはまことに由々しき事態だった。

   3・事故の反省について

 実は、北陸トンネルで列車火災が発生したのはこれが初めてではなかった。

 去る1969(昭和44)年、トンネルを通過中の特急「日本海」が火災を起こしたのだ。だが、この時は乗員がとっさの判断でトンネルから脱出したため怪我人はなかった。

 だがこの時、この乗員は処罰された。緊急時に列車を停止させなかったのは規則違反と見なされたのだ。彼のこの処分は、北陸トンネル火災の判決が確定した直後に撤回されたという。

 こういった背景を併せて考えれば、事故の当事者だった石川車掌と辻機関士だけに責任を負わせるのはやはり不当だった。「国鉄にも重大な責任あり」と暗に断じた裁判所の判断は、当を得たものだったと言えよう。

 この北陸トンネル火災事故ののち、国鉄は大規模な実験を行った。本物の列車で火災を起こしてトンネルを通過させたのだ。これにより、トンネル火災では列車を停めずに脱出した方が安全だと証明されたとして、規定も改められた。

(もっともそれまでの規定でも「非常時のトンネル内での停車はなるべく避けること」という程度の曖昧な記述はあったらしい。それがより厳密に改められたのだろう)

 そして、国鉄もさすがに反省したのか、長大なトンネルにおける火災対策を色々と講じるようになった。救援用動力車の導入、排煙設備の設置、避難経路の確立、放送設備の充実などなどを進めていったのである。こうしたトンネル事故対策は、かの青函トンネルにおいても活かされているという。

 とはいえ、どうもそれだけで国鉄を簡単に評価するわけにはいかないようだ。監査委員会による事故報告書が、当時の新聞では厳しく批判されている。

 例えば昭和48年1月17日の朝日新聞朝刊では、1面で「国鉄に甘い特別監査」「事故後の措置ほぼ肯定」とあり、さらに中を見ると「『乗客の安全』はどこに」「国鉄の体質触れず」「結局は“身内”の監査」などなど、タイトルだけでも溜息が出るような辛辣な記事が書かれている。信楽鉄道事故や福知山線事故を目の当たりにしてきた身としては、なるほどこうした国鉄の体質はそのままJRに受け継がれたんだなあ――と妙に納得してしまうところである。 
 国鉄で監査委員会が入ったのは、三河島、鶴見に続いて3例目だったという。この事故がいかに重大な事例であるかが分かる。

 なお、この事故と同日には日本航空351便ハイジャック事件が発生しており、相次ぐ大事件のニュースに人心は動揺したことだろう。なんだか鶴見事故と三井三池炭鉱事故が起きた「魔の土曜日」を思い出す。

 しかしよく考えてみると、この北陸トンネル火災の半年前には千日デパート火災が発生しており、さらに翌年には大洋デパート火災が起きているのである。「魔の土曜日」ほど衝撃的な符合ではないものの、どうもここら辺の1、2年は火災の当たり年だったようだ。

 

   4・おしまい

 

 以上で、この長~いルポルタージュもひと段落である。

 変な言い方になるが、この北陸トンネル火災は過去の大事故に比べれば死者数も比較的少なく、また派手さにも欠ける地味な事故である。だがお米のようなもので、噛めば噛むほど味が出る。調べれば調べるほど、鉄道の歴史を語る上で欠かせない重要ケースであることが分かる。そういう内容の事例でもあった。

 それなのに、資料が少ないのには参った。いや資料は存在するのだが、肝心な個所の欠如や細部の矛盾が甚だしく、全体像を掴むのに実に骨が折れたのだ(実は今でも詳細が分からず、ぼかしたりごまかしたりして書いた部分が結構ある)。

 筆者の個人的な心境としては、欠如と矛盾だらけの資料には恨み事を言いたいところである。だが一人だけ、この記事を書くにあたり多大なお力添えを頂いた「山猫さん」には深く御礼を申し上げたい。この北陸トンネル火災の記事がうまく書けているかどうかは分からないが、氏の協力がなかったら確実にもっとひどい内容のルポになっていたことだろう。

 

(おしまい)

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『続・事故の鉄道史』日本経済評論社 (1995)
◇ウィキペディア
◇JSI失敗知識データベース
◇柳田邦男『緊急発言 いのちへ(2)医療事故・鉄道事故・臨界事故・大震災』講談社(2001)
◇ブログ『在りし日』――暗闇の災禍…北陸トンネル列車火災事故
http://41-31.at.webry.info/200805/article_3.html
◇NHK「プロジェクトX ~第147回 列車炎上 救出せよ北陸トンネル火災~」2004年6月15日放送
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社(2004)

 

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