目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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八高線列車正面衝突事故(1945年)

 これは想像だが、鉄道職員に対して「最も不名誉な鉄道事故はどんなものか?」と問うたら、きっと正面衝突事故だと答えるのではないだろうか。

 なぜなら、正面衝突事故だけはどうにも弁明のしようがないからだ。

 同じ鉄道事故でも、脱線や転覆や火災の場合は原因が人的ミスとは限らない。よってすべてのケースにおいて鉄道職員が恥じ入る必要はない。だが正面衝突だけはもう明らかに人災である。衝突した車両のどちらかは、まず絶対確実に、連絡不足や勘違いなどの人的ミスで発車せられたに違いないからだ。

 その意味で、今回ご紹介する八高線列車正面衝突事故は、日本の鉄道史上最も不名誉な事故と言えるかも知れない。正面衝突事故である上に、死者数は本邦一ではないかとも言われているのだ。

 

   ☆

 

 国鉄八高線(はちこうせん)は、関東地方のローカル線である。東京の八王子駅と、群馬県高崎市の駅を結ぶから「八」「高」線。ふむふむ、なるほど。

 1945年(昭和20年)8月24日。玉音放送もまだ記憶に新しかったであろうこの日、八高線の路線沿いに住む人々が不自然な列車の音を耳にしたのは、午前7時40分のことだった。

「変だな。なんでこんな時刻に列車が?」

 いつもなら、この時刻に列車の通過はないはずだ。住人たちは、列車の通過時刻ならなんとなく身体で覚えている。中には列車の通過音を時計代わりにしていた者もいたほどだ。

 この奇妙な列車が実際に走行しているのを目撃していた人物がいる。当時の昭和町大神に住んでいた男性で、時刻表とは全く合わない時刻に汽車が鉄橋を通過してきたのだ。その鉄橋の北には拝島駅があり、そこから上り列車がやってきているのである。

 そしてさらに奇妙なことには、鉄橋の反対側からも一本の列車が走ってきていた。小宮駅からやってきた下り列車である。

 鉄橋は一本しかなく、しかも単線である。そこに2本の列車が差しかかろうとしている――。だが目撃者の男性も、その見慣れない光景の恐るべき意味にはとっさに思い至らなかった。そしてこの直後、2本の列車は鉄橋上でものの見事に正面衝突と相成ったのである。

 辺りに轟音と地響きと悲鳴が響き渡り、たちまち機関車の先頭部分はめちゃくちゃに破壊された。そしてその一部分と、破壊された客車と乗客たちがボロボロと鉄橋から落下して濁流に呑まれていく――。鉄橋の下を流れる多摩川は、連日の暴風雨で増水していた。

「おい息子! 半鐘だ、半鐘鳴らせ!」
「うんわかったよ父ちゃん!」

 カーン、カーン。事故を目撃した男性はすぐさま息子に半鐘を鳴らさせ、集落に非常事態発生を知らせた。

 村人たちも、それぞれ鉄橋の衝突音や鐘の音を聞きつけて外に飛び出してきた。村全体に緊張が走る。鐘を鳴らしていた少年は、彼らにすぐさま川へ向かうように叫んだ――。

 現場は壮絶だった。衝突した2本の列車は完全に食い込み合っており、少し離れて見ると1本の列車かと見紛う状態になっていた。

 この時代の汽車は、先頭に機関車があり、次に炭水車があり、そして客車、という順序になっている。それでこの衝突事故では、まず上り列車の客車の1両目が、前後の炭水車と2両目の客車から挟まれてしまいバラバラになって多摩川の藻屑と消えた。また2両目以降の客車も大きく破損した。

 下りもひどかった。1両目の客車は2両目によって乗り上げられ、のしいか状態となっていた。

 乗客は、誰もが戦争の時代をやっと生き延びた人ばかり。上りには疎開者、通勤者、女学生などが乗っており、また下りには陸海軍の復員軍人たちが多く乗車していたという。

 車内は押し潰された者、挟まれた者、切断された者、激突した者の血と悲鳴とうめき声で満ち満ちており、この世の地獄のような状態だった。また生き残った乗客も、何人もの人々が助けを求めながら濁流に呑まれて行くのを目撃している。

 最終的な死者は104人に及び(105人という説もあり)、行方不明者は推定20人。そして重軽傷者は約150人という稀に見る大惨事である。

 さらに多摩川に転落した人はもっと多いとも言われており、それを含めればこの事故は本邦の鉄道事故では最大の死者数なのではないか、という説もある。

 現場が鉄橋のド真ん中だったこともあり、負傷者の救助は難航を極めた。とにかく下の川が増水しまくっているので、一体何人の乗客がどこまで流されていったのか見当もつかない。また救助作業をしていても、何かの弾みで怪我人や破砕車両が橋から転落する可能性だってある。

 さらに、粉砕された車両の撤去方法も大問題だった。損傷の少ない車両は牽引すればなんとかなったが、完全にスクラップと化した車両はそれぞれ食い込み合っている上に鉄橋そのものにも嵌まり込んでいる。ちょいとクレーンで引き上げて持って帰るというわけにもいかない。ここはもう、豪快に多摩川へ引き摺り落とすしかなかった。

 こうして、この事故の事故車両は、最終的には多摩川の底に沈めれたのだった。今でも、台風などで川底が浚われると、これがひょっこり顔を出すことがあるという。

 え、なんか締めの文章みたい、だって? もう終わりなのかって?

 いえいえ、そんなことはありません。この事故はここからが本番なのです。そもそもなぜこんな大惨事が発生してしまったのか、次の節からはその経緯をお話しするとしよう。

 長くなるので、じっくりお付き合い頂ければ幸いである。

 

   ☆

 

 終戦直後、関東地方は22日から台風に見舞われた。快晴かと思えば暴風雨が荒れ狂うというおかしな天気だったという。

 この1週間ほど前には終戦を迎えたばかり。まるでその天候は、冷め遣らぬ血気と将来に対する不安が渦巻くすべての日本人の気持ちを代弁しているかのようだった。

 この台風は、こと鉄道に関しては多大な影響を及ぼしていた。例えば東海道線は土砂崩れで一部が不通。山手線や京浜東北線も河川の切断により不通になるという有様だった。

 そんな中での8月24日である。八高線小宮駅の朝の空模様もひどいものだった。夜勤をしていた駅長のFと、駅務掛のMは午前4時半に起床したが、昨夜からの暴風雨は相も変わらず荒れ狂っていた。

 しかも悪いことに、この日は電話までもが不通となった。小宮駅の北には拝島駅があり、南には八王子駅がある。そのどちらにも連絡が取れなくなってしまったのだ。ちょっとした「陸の孤島」状態である。

 おいおい誰ですか、「電話が駄目ならメールすればいいじゃん!」とか言ってるのは。これは終戦直後の話なのである。今の時代から見れば信じられないほど不便な通信状況だったのだ。

 これは大変である。小宮駅にとっては非常事態だ。

 列車の発着にあたり、拝島と八王子への電話連絡は不可欠である。各駅を繋ぐ線路は単線――つまり線路が一本だけの路線――なので、上りと下りは必ず駅と駅の間を交互に走らなければいけないのだ。もし2つの駅で上り下りを発車させれば衝突は必至である。

「今から、こっちから列車出すから、そっちは出すなよ~。どうぞ」
「了解した、こっちは列車出さないよ~。どうぞ」

 というやり取りが必要なのだ。

 では、今回のように駅と駅の間の連絡が不能になったらどうすればいいのだろう?

 答えは簡単である。当時の国鉄職員のいわばコンプライアンス・マニュアルである『運転取扱心得』にちゃんと書いてあるのだが、こういう場合は「指導法」というやり方が採用されることになっているのだ。

 では「指導法」とは何か?

 なんのことはない。駅員が駅と駅の間を直接行き来して、列車の発着の打ち合わせをするというやり方である。

 以前、東北本線の衝突事故のことを書いた折に、「通票」もしくは「タブレット」についてお話ししたことがある。指導法というのはつまり、駅員がこの通票もしくはタブレットの代わりになる方法なのだ。

 有り体に言えば「人間タブレット」である。この役割を担わされた駅員は、連絡係であると同時に、自らが通行許可証そのものとなるのだ。

 というわけで、陸の孤島と化した小宮駅は、この指導法を採ることにした。これによって、北の拝島駅それに南の八王子駅と連絡を取らなければならない。

 では、具体的にどのような段取りで進めるか――。小宮駅のF駅長は考えた。

 ところで、ここで先に断わっておくが、この事故はここから先が少しややこしい。駅と駅の間の列車の発着順序がころころと入れ替わった上に、駅員同士の認識のズレがあるものだから、事実関係が複雑になってしまっているのだ。それに参考資料もどちらかというと事故の悲惨さが強調されており、事故に至る経緯に関する文章はどうも分かりにくかった。ここではできるだけ分かりやすく噛み砕いて書くつもりである。

「よし、とりあえず拝島駅からは、時刻表通りに汽車を発車してもらおう。小宮駅に来るはずの第四列車を出させるのだ」

 駅長Fはそう決定した。

「そしてさらに、小宮駅からは、拝島駅への下り第三列車を出すのだ」

 第三列車とか第四列車とかいうのは、奇数が下り列車、偶数が上り列車という意味らしい。この数字は必ずしも発着の順序を表すものではないので、ご注意頂きたい。

 とりあえずF駅長の決定を図式化すると、こうなる(図1)。

 

(図1)

 

 稚拙なイラストで恐縮だが、まあ読者の皆様は、こんな「ゆるイラスト」で肩の力でも抜いて頂ければいいのかな、と思っておるところでございます(などと官僚的答弁を行っておるところでございます)。

 さてFは、この決定に基づいて、駅務掛のMに指令を下した。

「M君、すまないが君は拝島駅に行ってくれ。そして、いま私が考えた順序で列車を発着させることを伝えてくれ」

 はいはい了解。こうしてMは「人間タブレット」としての役割を担わされた。

 少し細かく言えば、ここではMは、まだ小宮駅から一方的に派遣されるだけの「適任者」という存在である。

 だがMが拝島駅に到着し、拝島駅で駅長Fからのメッセージを了解すると、Mの肩書は「指導者」にランクアップするのだ。

 この「指導者」というのは、この場合で言えば、拝島駅から発車する上り第四列車に乗り込む役割を負うことになる。

 そして指導者Mが乗り込んだ上り第四列車が小宮駅に到着し、Mが再び姿を見せることで、小宮駅ではこう考えるわけである。――「ああ、指導者のMがこの列車に乗ってきたということは、さっきのメッセージは無事に拝島駅に伝わったんだな」と。

 そうすれば、小宮駅は安心して、次の下り第三列車を発車させることができる。

 この時、線路が一本しかない(つまり単線である)この拝島駅~小宮駅間で、安全に列車を行き来させることができる唯一の方法がこれだった。

 安全ということを強調するなら、いっそ「電話が不通になったので無理をせずに運休にする」という選択肢があってもいいんじゃない? とも思うのだが、それは現代の視点から見た話である。この当時はまだ、安易に列車を停めるのは鉄道職員にとっては「恥ずべきこと」とされていたのだ。

 時刻は午前5時20分。指導法における「適任者」としての命を受けたMは、徒歩で拝島駅へ向かった。

 このMはさぞ生きた心地がしなかったことだろう。なにせ未明の暴風雨の中を走らされるのである。しかも途中の多摩川にかかった鉄橋は、もともと人間が渡るための構造にはなっていない。ガードレールもない鉄路をよちよちと進まなければならないのである――。

 さて次に、小宮駅では八王子駅に向かう「適任者」を決めなければいけなかった。

 八王子駅は、拝島駅とは反対方向の駅である。実はこのままだと、八王子駅での発着順序が拝島駅のそれと矛盾するのである。調整しなければならないのだ。

 つまりこういうことである。

 先述した、小宮駅のF駅長の決定通りだと、まず上り第四列車が先に拝島駅から小宮駅に到着することになる。そして次に下り第三列車が小宮駅から拝島駅へ行く――という順序になる。

 だが八王子駅での列車の発着順序は、下り第三列車が先で、上り第四列車がその次――ということになっている。図で記すと以下のようになる(図2)。

 

(図2)


 つまり、下り第三列車と上り第四列車は拝島駅~八王子駅間でひと続きなのである。ただ途中で小宮駅を経由する、ということで、F駅長の決定通りだと拝島駅~小宮駅間、小宮駅~八王子駅間の発着順序が矛盾したものになってしまうのはお分かりだろうか。図の①②の記号と、本稿の説明を見比べて頂くと分かると思う。

 というわけで、八王子駅での上りと下りの発車順序を逆にしてやらねばならない(※1)。

 

(※1)ということは、「拝島駅発の上り第四列車を先に発車させよう」というF駅長の判断は、時刻表とは矛盾したものだったのだろうか? しかし先述の通りF駅長は「時刻表の通りに第四列車を先に発車させよう」と考えたことになっている。これはどういうことか。おそらく、暴風雨のためダイヤに遅れが出ており、順序で言えば後で発車させるべきだった上り第四列車に「先を譲る」ことで無理やり時刻表に合わせようとしたのではないかと思う。ここはあくまでも筆者の想像であるが。

 

F駅長「よしA君、今度は君が八王子に行ってくれ」
A駅務掛「了解しました」

 というわけで午前5時30分、A駅務掛が「適任者」として送り出された。

 ここまでは問題がなかった。

 ところが午前6時5分に、F駅長の判断をぶれさせる出来事が発生した。一台の蒸気機関車が小宮駅に到着したのである。F駅長は驚いた。つい30分ほど前に2人の適任者を送り出したばかりなのに、何事だろう?

「なんだ? こんな機関車が来るなんて時刻表に書かれてないぞ」

 この蒸気機関車は八王子駅から来たものだった。客車がなく、先頭の機関車だけのものである。乗っていた運転轍手のHは、F駅長にこう知らせた。

「電話が壊れて連絡が取れなくなったので、八王子駅から打ち合わせに来ました」

 なるほど、そういうことか。言われてみればそういうすれ違いもありうる。

 H運転轍手は、八王子駅長が発行した打合票(証明書のようなものらしい)を示した。そこには「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」と書いてあったという。

 この「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」という表記もなんだか分かりにくい。少し説明しよう。

 第七〇五一単機、というのは機関車のことである。そして伝令者というのは「ただ伝えに来ただけの人間」という意味である。

 そして最後の「第三列車指導者」だが、これは先述した「指導者」のことである。「適任者」のさらにランクアップした肩書きで、端的に「列車を引っ張ってくる人間」という意味を持っている。

 ということは、このHが指導者である以上、彼が引っぱってきた機関車の後ろからは下り第三列車がやって来るということなのだ。

 どうも八王子駅は、小宮駅のように「適任者」を派遣することもせず、「俺んとこから下り第三列車を出すから、あとはそっちで調整してくれよ~」といきなり「指導者」を送り出したものらしい。こういうやり方もアリなのかと筆者としては首を傾げたくなるのだが、とにかく事実そうだった(※2)。

 

(※2)もっとも、この後で小宮駅に到着した第三列車には、F駅長がさっき送り出したばかりのA駅務掛がきちんと指導者として乗り込んできている。だから結果的には運行上の問題は無かったようなのだが。

 

 さて、この第七〇五一単行機関車の到着によって、小宮駅のF駅長はピンと閃いた。そうだ、こいつを利用しない手はない――!

 実はF駅長は、先だって拝島駅に送り出したM駅務掛が心配だったのだ。Fは勤続26年のベテランで、もちろん与えられた役割はきちんとこなすだろう。だがこの未明の暗闇の中、しかも暴風雨の状況で送り出したことが気がかりだったのである。

「うん、やっぱりMが可哀想だ。予定を変更して別の運行順序にしよう!」

 おいおい、大丈夫なんかい。

 誰かが止めてあげれば良かったのだが、駅長に助言できるような駅員はもう残っていなかった。

 それに、F駅長の衝動的な判断には、他にも理由があった。

 上り第四列車を先に発車させ、その後で下り第三列車を発車させるというのが当初の計画だったことは先に述べた。実は、小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車は、このまま「上り第四列車」として再び小宮駅に戻って来る汽車だったのである。

 つまりこういうことだ。第七〇五一単行機関車は、このまま小宮駅を通過すると拝島駅もさらに通り抜け、その先の東飯能駅へ着く。そしてそこで客車を牽引しながらUターンし、「上り第四列車」としてやってくる予定だったのである。

 第七〇五一単行機関車と上り第四列車は、こういう関係だったわけだ(図3)。

 

(図3)

 

 するとどうなるか。

 今、第七〇五一単行機関車の後ろからはすぐに下り第三列車が来るという。

 よってF駅長の最初の決定通りに、その下り第三列車を上り第四列車の到着後に小宮駅から発車させるとなると、下り第三列車は小宮駅でかなりの時間待たされることになる。

 なぜなら、第七〇五一単行機関車が東飯能駅でUターンして、客車を牽引しながら上り第四列車として小宮駅に到着するのを待たなければいけないからだ。

 そうすれば、時刻表にもさらなる大幅な遅れが出るだろう。それは、F駅長としては出来るだけ避けたかった。

 そこでF駅長は考えた。

「間もなく小宮駅に到着する下り第三列車を、さっさと拝島駅に送り出してしまった方が、遅れも出ないで済むなぁ」

 そしてこう結論した。

「よし、さっきは拝島駅に上り第四列車を先に発車させるよう伝令を送ったけど、反対にしてしまおう。小宮駅から先に下り第三列車を発車させるのだ!」

 さらに解説しておこう。要するにこういうことである(図4)。

 

(図4)


 (図1)と比べて頂くと分かるであろう。まるきり逆である。

 ここまで読んで、おいおいそれって大丈夫なの? と思った方もおられよう。

 そう。さっきF駅長は、上り第四列車を先に発車させよ、という伝令をMに託して拝島駅に送り出している。それなのに、こちらから第三列車を送り出したら正面衝突になるのではないか?

 ところが大丈夫。F駅長には目算があった。

 先述の通り、上り第四列車が小宮駅に向かってくるのは、第七〇五一単行機関車が東飯能駅に到着して以降ということになる。

 その、第七〇五一単行機関車の東飯能駅でのUターンにはある程度の時間を食うのである。

 よって、上り第四列車が拝島駅に到着・発車するタイミングよりも先に、小宮駅を発車した下り第三列車は拝島駅に着くだろう――。F駅長はそう考えたのである。

 まあ確かに、その通りなら小宮駅・拝島駅間で列車が正面衝突することはない。それにしても、素人にはほとんど綱渡りにしか見えないやり方だ。

「というわけでOちゃん。君ちょっと拝島駅に行って、運転の順序が変更になったって伝えてくれる?」

 F駅長がそう命じたのは部下のOという女性である。まだ19歳の若い子だ。

 O嬢には、先ほど小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車に乗ってもらった。そして彼女には拝島駅で下りてもらい、後でそこから発車する上り第四列車に「指導者」として乗り込んでもらうのだ。

 つまり彼女は、第七〇五一単行機関車に乗り込んで一度拝島駅で下り、さらに東飯能駅で客車に連結してUターンし戻ってきた第七〇五一単行機関車(つまりこれが上り第四列車である)に乗り込み、また小宮駅へと戻って来るのである。

 F駅長は、さらにこう付け加えた。

「それで、拝島駅に向かう途中でM君を拾ってよ。彼、今もまだ暴風雨の中で走ってるはずだからさ」

 そしてO嬢には一枚の紙切れを渡した。

「大丈夫、これを拝島駅で示せば、全部分かるはずだから」

 このF駅長、おそらく部下思いの人ではあったのだろう。O嬢にこの紙切れを渡したのも、おそらく彼女に対する思いやりだったに違いない。きっと彼女は複雑な話などまったく分からなかったに違いない。またMのこともかように終始心配している。

 こうして、O嬢は第七〇五一単行機関車に乗り込んで拝島駅へ向かった。途中では無事にM駅務掛も拾っており、そして無事に午前6時25分には拝島駅へ到着している。

 さあ、ここからが大変である。

 O嬢は、F駅長から言われた通りに、拝島駅の駅員にメモ書きを渡した。しかしこのメモ書き、他人が見てもまったく理解に苦しむような代物だったのである。

「え? え? これってどういう意味?」

 F駅長は、列車の発着順序の変更について、「見ればすぐ分かる」ようにメモを作ったつもりだった。だがよくある話で、それは本人の独りよがりでしかなかった。他の駅員たちから見れば、それはまったく意味不明の代物だったのである。 

 このメモ、実物の写真でもあればいいのだが、残念ながらどこにも載ってなかった。裁判の記録でも本気でひっくり返さない限り見つからなさそうである。よってこのメモがいかに意味不明のものであったかは、ここでは想像で書くしかない。

 まずポイントとして、このメモは「図」ではなかった。そこに書かれていたのは、走り書きの「文章」であったらしい。

 そして混乱を招いたのは、「変更する」という明確な記述がなかったことだった。いきなり「次は下り第三列車が来るよ」としか解釈しようのない文言が記載されていただけだったのだ。

 さらに、O嬢が持参していた「第七〇五一機関車の適任者」と「第三列車指導者」の肩書きが記入された紙片も問題だった。これには、第三列車指導者とやらが具体的に誰であるのかがまったく書かれておらず、さらに出発駅も到着駅も書かれていない。よって、一体どの駅の発着のことを示しているのかがさっぱり分からないのである。

 まあここで答えを述べておくと、この「第三列車指導者」というのは、小宮駅から八王子駅に派遣されていたAのことだったらしい。最初に小宮駅から「適任者」として派遣されたAが、後で下り第三列車の「指導者」として拝島駅に来るよ――という意味だったのである。

 だがとにかく、そうしたF駅長の意図はこれっぽっちも伝わらなかった。

 それに、メモ云々以前に、O嬢が「適任者」として拝島駅に来ているのも問題だった。

 ここまでじっくり読んで頂ければ分かると思うが、通常、一本の線路を2人以上の「適任者」あるいは「指導者」が行き来することはあり得ない。そんなことをしてあっちでもこっちでも列車を出したら、それこそ正面衝突になりかねないからだ。

 ところが、拝島駅には、先だってM駅務掛が「適任者」として派遣されている。そこへ2人目の適任者としてO嬢が登場したことで、場はすっかり混乱してしまった。

 そこで頭に血が上ったのは、先に拝島駅に派遣されていたMである。

「Oさんも適任者だって!? どういうことだ。先に適任者に任命されたのは私のほうなのに!」

 当初、彼はこう思っていた。――O嬢はあくまでも自分を途中で拾い上げるために第七〇五一機関車に乗り込んだのだ――と。そのO嬢がなんと2人目の適任者に任命されていたなど、思いも寄らないことだった。

 またM駅務掛は、勤続年数26年というベテランである。19歳の若輩に対するプライドもあったかも知れない。

 こうして混乱した拝島駅で、最終的な判断を求められたのは駅長代理であるK(同時に信号掛兼運転掛でもあった)だった。

「困ったな。一体なにが正しいんだろう? オタオタ」

 ここで、M駅務掛が詰め寄ったからたまらない。

「正しいのは私です。あとからO嬢が持ってきたメモは間違いです。最初の指示通りに、私が指導者として上り第四列車に乗って出発します!」

 ああもう困ったな、この人ムキになってるよ。

 そこでK駅長代理は、当時拝島駅にいた助役にも判断を仰いだ。だがこの助役はやる気がなく、こんなことしか言わなかった。

「あーうん、このメモちょっと変だね」

 もういいよ、頼りにならないなあ。

 では、ちゃんと事情を知っていそうなO嬢はどうだろう?

 しかしこの時は、まだ10代の女の子に「これはどういう意味だ」と問いただせるような雰囲気ではなかった。皆、なんとなく彼女には気を使っていたらしい。

 さあ、拝島駅は実にビミョ~な空気である。

 このK駅長代理という人も、なんだか可哀想である。小宮駅から2人のMとO嬢がやってきた時、彼は仮眠中だった。そして、叩き起こされたことでようやく外の暴風雨と通信の不能に気付いたのである。なんだかのんびり屋だ。

 そんな寝ボケた状態のところに、意味不明の紙切れを突き付けられて「さあ結論を出せ」と詰め寄られているのである。これで困るなというほうが無理だ。

 筆者が思うに、このK駅長代理は押しに弱い血液型O型タイプだったのではないか。結局、場の空気に負けて出した結論がこれだった。

「まあいいや。Mの言う通りにしよう! きっとあの紙切れはなにかの間違いなんだ」

 なんかこう、「あらまほし」という感じの結論である。

 さあ、こうして雲行きが怪しくなってきた。小宮駅からは、F駅長が下り第三列車を拝島駅に向かわせようとしている。いっぽうの拝島駅では、K駅長代理の判断によって、Mの乗り込んだ上り第四列車が発車しようとしている――。

 

   ☆

 

 一方、小宮駅には八王子駅からの下り第三列車が到着していた。これに乗り込んでいたのは、先だって小宮駅から適任者として派遣されていたAである。彼は「指導者」としていったん小宮駅に戻ってきた形である。

 拝島駅での混乱など知る由もないF駅長は、O嬢に手渡した意味不明の内容の紙切れによって、全ての段取りは整っているはずだ――と勘違いしている。よって彼はAにこう指示した。

「運航の順序を変更したから、このまま下り第三列車に乗って拝島駅に行ってくれるかい? 大丈夫、最初に拝島駅から来ることになていた第四列車は、私がストップさせておいたから」

 ほほう、そうですか。

 Aとしても、駅長が自信満々でそう指示を出すのだから迷う理由もない。小宮駅では30秒ほどのやり取りをして、すぐに出発した――。

 さて拝島駅はというと、ちょっとだけ予定外の出来事があった。東飯能駅で上り第四列車に連結して牽引してくる予定だった機関車が、なにやら上記気力が不十分な状態になったとかで、使い物にならなくなったのだ。

 それで、上り第六列車が先に出発することになった。これは、第四列車の後に出発する予定だったものである。

 この第六列車が到着すると、拝島駅では、時刻表の上ではこれを上り第四列車の代わりとする形で送り出したのだった。

 そしてこの列車には、小宮駅から適任者として派遣されていたMが乗り込んだ。彼はいよいよ、拝島駅から「指導者」の肩書をひっさげて小宮駅へと戻っていくことになったのだ。

 こうして、冒頭の事故は発生したのである。

 F駅長は、自信満々で下り列車を送り出した。そして拝島駅のK駅長代理は、なんとな~くその場の空気に流されて上り列車を送り出した。その結果、このふたつの列車は多摩川の鉄橋上で激突大破したのだった。

 ここまでの登場人物のうち、MとAはこの事故によって死亡している。O嬢やHは拝島駅で待機していたところだった。

 

   ☆

 

 事故によって、言うまでもなく八高線は全線ストップ。特に拝島駅と小宮駅は大混乱に陥り、F駅長とK駅長代理は逮捕され取り調べを受けるという憂き目に遭った。

 F駅長は「自分の手渡した紙きれをちゃんと読めば、正面衝突なんてありえなかったはずだ!」と主張していたという。だがさすがに取り調べの直後には割腹自殺を図っており、なんとか一命を取り留めた。

 拝島駅のK駅長代理はと言えば、いざ事故発生の知らせを受けて、ようやく「あのメモはそういう意味だったのか!」と合点がいったという。これぞ正真正銘の「アホが見るブタのケツ~♪」というやつであろう。

 この二人は「業務上過失致死並びに業務上過失列車破壊罪」という物凄い罪名で起訴され、裁判にかけられた。F駅長は、裁判所でも「私の書いた図表は普通に見ればすぐ分かるはずだ」とマジ切れしていたという。

 責任の所在は、まあ誰に目にも明らかであろう。悪いのはいい加減な独断を下したF駅長と、それについて確認せずに適当な判断をしてしまったK駅長代理の2人である。

 ではF駅長のやり方はどこまで間違っていたのだろう? 現代の視点で見ると、当時の彼の判断はあまりにも綱渡りめいたものに見えるが、もしかするとそういうやり方は「現場の習慣」として昔からあったのではないだろうか――?

 これについてはしかし、運輸省東京鉄道局教習所の教官が証言台に立って「そんな習慣ありえない。そんなのを許可した覚えもない」とう旨の証言をしている。

 結局、第一審判決ではF駅長に禁固一年、K駅長代理に禁固6ヶ月の判決が下った。さらに第二審ではF駅長が禁固8ヶ月の実刑、Kについては2年の執行猶予付きの禁固6ヶ月という判決が出て、これで確定した。事故から2年後のことだった。

 2人は職を追われ、共にひっそりと第二の人生を送ったという。これもまた、終戦直後という混乱期、時代に翻弄された人間のひとつの姿であったか――。

 

   ☆

 

 さて、この事故は思いのほか知名度が低い。死者数でいえば日本の鉄道事故史上屈指の大惨事であるにも関わらず……である。これは何故だろう?

 ここに一冊の参考文献がある。この八高線正面衝突事故の詳細が記された、おそらく唯一の本と思われる舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』(毎日新聞社)である。この本には、報道に際して検閲だか報道規制だかが行われたせいで事故のことが記録に残らなかった――という趣旨の記述があるが、これは本当なのだろうか。

 筆者の考えを言えば、これはどうも違う気がする。

 土浦事故の項目でも書いたが、戦前から終戦直後の報道に関してはなにかにつけて「当時は報道規制がかかって一般にはあまり知られなかった」と言われることが多い。しかし、当『事故災害研究室』の読者には、今後なにかの文献でそういう記述を見かけたら、まず眉に唾をつけてかかることをお勧めしたい。この八高線正面衝突事故も、当時は新聞でちゃ~んと報道されていたのだ。

 ここに、読者の方からご提供頂いた当時の新聞がある。事故翌日の朝日と読売、それから翌々日の朝日新聞である。カメラ撮影によるものになるが、掲載しておこう。

 

事故翌日の朝日新聞。

事故翌々日の朝日新聞。

事故翌日の読売新聞。

 ※著作権のからみがよく分からないが、問題があれば削除するので、その場合はご指摘頂ければ幸いである。

 

 ご覧の通り、しっかり報道されているのである。

 「でもやっぱり扱いが小さいじゃないか。普通だったら紙面の第一面を飾るような事件だぞ? やっぱり報道管制が敷かれたんじゃないか!」と思われる方もおられるかも知れない。これに対する反論を以下で述べる。

 これも土浦事故の項目で書いているが、物資の不足から、当時の新聞は紙面が極端に少なかったのだ。紙一枚の裏表に印字されていたり、それがさらに半分サイズになったり、しかも紙がワラ半紙だったりしていたのである。

 いくら大事件とはいえ、ひとつの事件だけで、今のように2つも3つも紙面を割けるような贅沢はできなかったのだ。

 また通信上の問題もあった。今のようにデータを添付してワンクリックで全ての情報が送れるような時代ではなかったのである。地元記者からの電話通信や伝書鳩を駆使して情報を集めていた当時、終戦直後の人手不足と混乱の中ではこうした通信もままならなかったに違いない。

 そもそも、報道管制が敷かれたのならば、完全に報道されないはずである。実際に政府によって報道規制が敷かれ、報道を握りつぶされたケースは確かにあるが、それは詳細な空襲の情報のような軍事機密にまつわる事柄など、ごく僅かな数である。中途半端な形であれちゃんと報道されている事柄は、当時としては精一杯報道されたことを意味しているのである。

 「政府によって報道規制がなされた」という都市伝説は「当時、国民を動揺させるようなニュースは規制されるようになっていた」という文脈で語られることが多い。だがこの八高線の衝突事故について言えば、もう戦争は終わっているのだから国民の動揺もへったくれもない。

 そして、人間というのは基本的に忘れる動物である。どんな大事件でも、何度も繰り返し報道されなければ、他の事件の情報に埋もれてしまうし、そうでなくとも忘れてしまうものだ。こうして八高線の正面衝突事故は、知る人ぞ知る伝説の事故となってしまったのだろう。

 たぶんこういった事柄は、ここでの文章を読んで初めて知ったという方も多かろうと思う。当時「政府による報道規制」という現象は確かにあった。だが、いつの間にかその規制の及ぶ範囲が際限なく拡大されて、猫も杓子も規制されたように書かれることが多いがそれは嘘である。

 ではなぜ、そんな嘘がまかり通るようになったのだろう?

 ここからは筆者の想像になるが、これは多分、新聞社がその嘘を積極的に否定していないからだと思う。当時の新聞は、戦争を煽る記事をけっこう書いていた。だから今「戦前から戦中にかけては報道規制がかかって自由な報道ができなかった」ことにした方が、「いやああの戦争礼讃の記事も軍部に強制されて書かされたものなんですよ~」と言える。

 あとは新聞やテレビで、なにかにつけてちょこっと「当時は報道規制があって云々」というひとことを挟み込んでおくといい。そうすれば、大衆の心には戦争イコール報道規制、という図式が刷り込まれるだろう。なんだか陰謀説めいた書き方になるが、戦後はそんな風に大衆の心が操られた部分もあったのではないだろうか。

 ちなみに『「大列車衝突」の夏』はサンデー毎日に連載されたものがまとめられた本であり、出版元は毎日新聞社である。

 

【参考資料】
舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』毎日新聞社

 

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八高線列車転覆事故(1947年)

 東京の八王子駅と、群馬県高崎市の駅を結ぶ「八」「高」線では、終戦直後の混乱期に2度も鉄道事故が発生していいる。しかも、どちらも鉄道事故史上に名を残す大惨事だ。今回ご紹介するのはそのうちの片方である。

 1947年(昭和22年)2月25日の朝のこと。埼玉県東飯能駅を出発して高麗川駅へ向かっていた一本の列車があった。機関車・C5779号機に牽引される、高崎行きの6両編成である。

 この列車はしかし、尋常な状態ではなかった。客車はすし詰めの超満員で、定員の3倍の2,000人近い乗客が乗り込んでいたのだ。

 とはいえ、そんな状況は、八高線にとっては不思議でもなんでもないものだった。当時この路線は「ヤミ列車」とまで呼ばれており、沿線の農家へ食料を買い出しに行く人々で常に超満員だったのである。

 まあ満員だけなら別に良かったのだが、この東飯能・高麗川間の路線には他にも少しばかり問題があった。高麗川駅まであと1キロというほどの地点に、急勾配の下り坂があったのである。しかも線路は急カーブだ。

 もう少し詳しい数値を言えば、その坂の勾配は20‰(パーミル)である。これは底辺が100メートル、高さが2メートルの直角三角形を想像してもらえればいい。列車はその三角形の斜辺を下っていたわけだ。

 またカーブの角度であるが、これは半径250メートル。2005年に発生した尼崎の脱線事故よりも急なカーブだ。

 こんな線路を超満員の列車が通過するわけだから、今まで無事だったのが不思議なくらいである。

 しかし、その幸運も、この日は遂に訪れなかった。

 時刻は7時50分。上述の急勾配・急カーブの地点に差しかかった時、運転手は減速を試みた。さすがに危険な地点であるということで、ここは時速50キロで運転すべしと決められていたのだ。

 ところがスピードが落ちない。運転手は首をかしげた。

「あれ? なんか変だな」

 減速が利かなかったのは、いくつかの原因があったようだ。まず2,000人も乗っていれば勢いがつくから、そう簡単に原則はできないということ。また同じ理由からカーブの遠心力も大きくなるし、客車の重量も増すので車輪は線路上でひしゃげてしまう。まあ、子供でも理解できる理屈である。

 だがこの時の運転士は若干23歳。経験も浅く、よもや自分の運転する列車がそんなことになるなんて思いも寄らなかったに違いない。

 さらに、この時は乗客が多すぎるためブレーキ関係の装置も壊れてしまっていたらしい。速度も80キロは出ていたのではないか――という説もあるそうな。

 かくして、2両目と3両目を繋いでいた連結器は、たちまち千切れてしまった。

 キキキキキーーーッッッ! 線路と車輪がこすれる物凄い音がしたという。そして6両編成の列車のうち、後部4両がカーブから吹っ飛んで築堤から転落。5メートル下の麦畑で大破した。

 また悪いことに、木造の客車はすっかり老朽化が進んだ代物だった。戦後間もなくということもあり保線管理が不充分だったのだ。お陰で、転落した客車はいとも簡単にバラバラに砕け散った。

 粉砕した車両と土煙の下では、乗客たちが瀕死の状態で横たわっていた。彼らが買出しの交換に使うつもりだった大量のゴールデンバットや、荷物が詰まったリュックサック等があちこちに散乱していたというのが実に痛ましい。

 近所の人が駆け付けて救出活動が行われたものの、現場の状況は酸鼻を極めていた。例えば、下敷きになった人を助けようと客車をテコで動かすと、反対側の乗客が痛いやめろと悲鳴を上げる。また助けようと手を差し出すと、埋まっている皆が皆それを掴んでくるので逆に引っ張り込まれたという。目を覆いたくなるような惨状だ。

 死者184人、負傷者495~497人。鉄道事故について言えば、前に書いた安治川口ガソリンカー火災に次ぐ人数である。

 え、運転手はどうしたのかって?

 いやあ、それは筆者の口からはとてもとても……。

 まさか「事故に気付かずに走り去った」なんて言うわけにはいきませんよ。本人の名誉のためにも、ねえ。

 あまつさえ「次の駅に到着して、駅員から知らされて初めて事故を知った」だなんて! だめだめ、口が裂けても言えません。

 ともあれ、そういうわけである。

 この運転士は被告人席に立たされ、責任を追及される羽目になった。

 裁判は最高裁まで争われたという。検察は、運転士が急ブレーキを踏んだのが事故の発生に繋がったと主張した。

 しかし結果は無罪。判決文の詳細を読んでいないのでなんとも言えないが、運転士の運転は適正だったと判断されたのだろうか。だがまあ確かに、事故の直接の原因が国鉄の路線管理の不備にあったのは、素人目にも明らかなように思われる。

 この事故の現場には、今では慰霊碑が建立されているという。

 ちなみに戦後間もなくの事故ではあるが、車両の残骸は、けっこう最近まで現場周辺に残っていたらしい。

 八高線で残骸、と言えば思い出すのが、この2年前に起きた同じ八高線での正面衝突事故である。こちらは残骸が拾い上げられて記念碑代わりにされていると聞くが、いずれにせよ後処理がずいぶんざっくばらんだなあ、という印象を受ける。土地柄だろうか? もしそうなら、ここはみのもんた御大にご登場願わねばなるまい。「埼玉県民カミング~アウト!」である。

 まあ冗談はともかく、八高線の2つの事故は、土地柄とも決して無関係ではないと思うのである。桜木町しかり、三河島しかり、鶴見しかり、戦後の代表的な鉄道事故はすべて、大都会の周縁の地域で起きている。こういった地域はそもそも路盤が弱く、そのわりに大都会に近いので乗客も多い。だからいったん事故が起きると大惨事になりやすいということは言えそうだ。

 

【参考資料】
鉄道チャレンジクラブホームページ

http://www5a.biglobe.ne.jp/~techare/29144280/

 

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近鉄奈良線暴走事故(1948年)

 さあ皆さんならどう反応するだろう。列車が坂道で加速し始め、やがて振り向いた運転士が泣きながらこう告げてきたのである。

「申し訳ありません、車は停車しません。覚悟して下さい」

 これは作り話ではない。そんな恐ろしい出来事が実際にあったのだ。

 

   ☆

 

 時は1948年(昭和23年)3月31日、水曜日。近畿日本鉄道奈良線、生駒駅から花園駅までの鉄路で起きたこの事故は、「近鉄奈良線列車暴走追突事故」「花園事故」「生駒トンネルノーブレーキ事故」など今ではさまざまな名称で呼ばれている。

 奈良発7時20分、大阪の上六行き712急行列車は、朝のラッシュアワー時のため満員の鮨詰め状態だった。

 明らかな異常が発生したのは、生駒駅を発車し、生駒トンネルの下り坂に差しかかった時だった。なんとブレーキが利かなくなったのである。

「あれ、あれれ? どうなってんの」

 運転士は焦ったに違いない。なにせトンネルを出た先の孔舎衛坂駅(くさえざかえき)では線路は半径200メートルの急カーブになっている。しかもその先は、さらに4キロもの連続勾配を一気に駆け下りるのだ。要は、長~い1本の坂道になっているわけだが、よりにもよってそれを下り始めたあたりでブレーキが利かなくなってしまったのである。

 乗り合わせた乗客たちもすぐに異常に気付いた。

「おいおい、この先って急カーブだよな。いつもならここで減速するんじゃなかったっけ?」

 減速どころかスピードは増すばかりである。列車は生駒トンネルを出たあたりで、激しい火花と砂煙を上げ始めた。

 大変だ、これ暴走してるぞ!

 この時、運転士の脳裏では、先に通過していた額田駅と生駒駅での出来事がよぎっていたのではないだろうか。そういえばこの二つの駅でもブレーキの利きが悪く、列車は一両分ほどオーバーランしていたのである。あれはこの予兆だったのか――!

 終戦から4年が経ったとはいえ、日本の工業力はまだ回復には至っていなかった。何しろ物資がない。鉄道に限ってみても車両は老朽化した木造のままで、線路も磨耗と歪みが著しい状態で使われていたという。そんな中、とっくに耐用年数を過ぎたブレーキが、最悪のタイミングで寿命を迎えたのだった。

 このままでは脱線か転覆かはたまた衝突か。乗客たちは騒ぎ始めた。

「ガラスが割れるぞ!」
「窓を開けろ、そうすれば空気抵抗で減速する!」
「後ろに詰めろ、もっと奥に行け」
「それより伏せろ、伏せるんだ! 重心を下げろ」
「立つんじゃない、後ろを向いて座れ」
「舌を噛むぞ、歯を食いしばれ」

 後ろの車両に移動すれば、衝突による被害は抑えられたかも知れない。しかし時代が時代で、当時の列車に車両ごとの貫通扉はなかった。つまり客車は密閉されたただの箱だったわけで、乗客たちはそれぞれ乗り合わせた車両で対策を講じるしかなかった。

 そうこうしているうちに、どんどん増していくスピードのため、なんとパンタグラフが架線を切断。さらにもうひとつのパンタグラフも破損してしまい、あっという間に使い物にならなくなった。

 本当は、このパンタグラフに通電しているうちに、列車がバックする形に操作を行っていれば減速できていたかも知れない。だがこの時の運転士は弱冠21歳、あまりにも経験が乏しすぎた。物資も人材も不足していたのである。

 そこで助役が車両の前方へ移動してきた。

「こうなったらハンドブレーキだ。ハンドルを回せ回せ」

 近くにいた乗客と協力して、助役は手動のハンドブレーキを回し始める。しかし、フルスピードの列車の速度はなかなか落ちず、目に見える効果は現れない。そうこうしているうちに、列車は石切駅を猛スピードで通過した。

 さて次の通過駅である瓢箪山駅には、7時48分に運転司令室からの鉄道電話が入ってきていた。

「準急の752を今すぐ退避させろ! 急行712が石切駅に停まらずに暴走してやがる!」

 なんだと、マジか。駅員たちは慌ててポイントを変えた。ちょうどその時、西大寺発の準急が構内に入ってきたところで、これは無事に待避線に寄せられた。

 ふうやれやれ、と駅員が胸を撫で下ろしたその瞬間である。くだんの暴走列車が、物凄い火花と砂煙を上げながら一瞬で駅を通過していった。この時には100キロを越えるスピードだっただろうとも言われており、まさに間一髪だったのだ。駅の手前のカーブでは、車両が浮いたとの証言もある。

 暴走列車は止まらない。

 途中、開け放たれた窓から飛び降りた者も2人いた。しかし1人は大怪我、1人は死亡。どう足掻いても只では済まない状況だったのだ。

 運転手も必死である。車両の窓から身を乗り出し、パンタグラフを直せないかと試みた。しかし暴走による風圧でいかんともしがたく、なんの足しにもならなかった。

 それでも、現在の花園駅(当時はなかった)あたりから道は平坦になり始めた。手動ブレーキもやっと手応えが感じられ始め、ここでは時速80から70キロくらいには落ちたのではないかと言われている。

 距離にしておよそ6キロ、ここまでの時間は5分。しかしこの暴走は、最悪の形でストップすることになった。花園駅の構内に電車が停まっていたのである。これは瓢箪山駅の時のようには連絡がうまくいかず、待避線にどかす移動させる時間がなかったのだ。

 不幸中の幸いだったのは、追突された列車がまるきり停止しておらず、動きかけだった点である。これにより衝突の衝撃はわずかに緩和された。

 それでも大事故である。7時50分、大音響と同時に暴走列車の先頭車両はものの見事に粉砕された。壁は全てなくなり、残るは天井と床だけ。長さも半分ほどに押し縮められ、乗っていた乗客たちはほとんどが線路脇のドブ川へ放り出されたという。車両の床も、川の水も、たちまち血の色に染まった。

 死亡者49名、負傷者282名。2両目以降も車両の前後が大破したが、死者は先頭車両の乗客のみだった。

 実に不幸な事故である。

 とにかく終戦直後というのは、物資が極端に不足しており鉄道はろくに整備もされていなかった。にも関わらず、人々は交通手段として大いに利用するものだから磨耗のスピードも速く、こうした整備不良が原因となった鉄道事故は数多く起きている。

 それでもこの事故がどこか特別に見えるのは、暴走が始まってから追突するまでの間がどことなくドラマティックで、見る者の心を打つからであろう。実際、乗客たちが力を合わせて、なんとか衝突のダメージを軽減しようと試みたことをひとつの美談として捉える人もいるとかいないとか。

 確かに、追突するまでの数分間を短編小説形式で書いたりしたら、案外面白い作品ができるかも知れない。しかしこれはやっぱり「不幸な事故」であって、美談に仕立て上げようという気には筆者はあまりなれない。この点についてはいみじくも桑田佳祐が歌った通りである。「情熱や美談なんてロクでもないとアナタは言う~♪」

 追突事故が発生した花園駅は、今はもうない(「河内花園駅」がもとの駅より東のほうにあるという)。だが付近の踏切路の西側には、今でも慰霊碑の光明地蔵が建っているそうな。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

 

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桜木町火災(1951年)

 時は1951(昭和26)年4月24日。戦後の復興も軌道に乗り始めていた頃に起きた大惨事である。

 この当時、横浜市という街は、現在の我々が思い描くようなイメージとは一線を画す、ごみごみした「周縁」にあたる地域であった。東急東横線も根岸線も終点は桜木町であり、横浜スタジアムのオープンもみなとみらい地区の整備もまだまだ先の話、という時代である。

 こうした「周縁」にあたる地域では、都市部に比べるとシステムの整備が遅いわりに、人の動きが大きいので、一度事故が起きると大惨事になりやすい。八高線の事故しかり、後年に起きる三河島事故鶴見事故しかりである。これからお話しする桜木町火災という事故もまた、そうした事象の一例である。

 この桜木町火災、一体どのような事故だったのだろう。それについては、鉄道事故マニアのバイブル「事故の鉄道史」シリーズの中で、著者のひとり網谷りょういち氏がこう述べているのが興味深い。

 「桜木町事故ほど、事故原因が多岐にわたり、どれが最大の要因かわかりにく事故はない」――。

 これはまったくその通りである。とにかく、ここまで多くの要因というか悪条件が重なった事故も珍しい。ひとつひとつを見れば些細な要因だったが、それが積み重なり、そしてそこにほんの少しの人的ミスが加わったことで106名が焼き殺されるという結果になったのである。

 要は、混沌としているのだ。

 

   ☆

 

 午後1時40分頃のことだった。神奈川県横浜市の桜木町駅では、構内の上り線のほうでちょっとした事故が発生した。電線工事の作業員がスパナを落とし、送電に関わる線を切断させてしまったのだ。

 これによって「トロリー線」なるものがダラリと垂れ下がる形になった。このトロリー線とは、電車の車両に直接電気を流す役割を持つものである。

 工事を指揮していたN工手長は急いで駅の信号扱所へ行き、そこにいたT信号掛にこう告げた(とされている)。

「断線事故が起きてしまった。上り線には電車を入れないでくれ」

 そしてこの断線事故があったのと同じ頃、京浜線では下り列車が出発したところだった。これは5両編成で、先頭はモハ63756。この直後に発生した火災事故によって、鉄道史に悪名を刻み込むことになる「63系電車」である。

 当時の桜木町駅では、構造上、上り列車も下り列車も共に上り線の線路を共有する形になっていた。それでこの時も、下り列車の運転士は信号を確認しながら、上り線の線路へと進入していった。

 先述の通り、この上り線は先ほどの断線事故によってストップがかけられていたはずであった。なぜここで列車の進行が止められなかったのかは、後に裁判で争われるタネになるのである。

 さて上り線では断線したトロリー線が垂れ下がっていたわけだが、ここに下り線が進入し、先頭車両のパンタグラフがからまったからたまらない。パンタグラフはたちまちひん曲がり、電車の屋根に接触した。

「ぬおっこれはいかん!」異常に気付いた運転士は非常ブレーキをかけ、このパンタグラフを降下させる。

 通常ならば、その措置で問題はなかった。パンタグラフとは、電車内に電気を送る装置である。これを降下させたことで車内の電源は全てストップすることになる。だから火災は起こらないはずだったが、ところが今の問題はパンタグラフではなくあくまでもトロリー線の方である。パンタグラフを降下させたとて、からまった電線は依然とて通電しているのだ。電気は、パンタグラフを通して、接触していた車両の屋根に放電された。

 一閃――。

 その瞬間、物凄い轟音と閃光があり、木製の車両の屋根は爆発するように燃え上がったという。

 当時、桜木町付近の給電は、横浜変電区と鶴見変電区の2か所からなされていた。当然この事故が起きた瞬間にはそれぞれの変電所でも異常を察知し、給電をストップさせる措置が取られた。

 ところが、である。鶴見変電区だけは、給電を止めるための高速度遮断器という装置が作動しなかった。おいおいしっかりしろよ! と突っ込みたくなるが、とにかくこれにより、くだんの列車には4~5分に渡って電気が送られ続けることになったのだった。

 これでは火勢も弱まらない。結果、事故車両は先頭が全焼、2両目は半焼という憂き目に遭うことになる――。

 ここで、全焼した先頭車両「63系」電車について少し説明しておこう。

 もともとこの63系列車は、1944年に戦時の輸送力増強のために開発されたものである。現在の「全長20メートル、片側4扉」タイプの車両はここから始まっており、当時としてはかなり画期的だった。

 もともと「戦争に勝つまでの間に数年保てば良い」という設計思想があったらしく、現代の目線で見れば「数年あれば勝つと思ってたんかい」と言いたくなるところだが、その実態は即席の間に合わせとしか呼べない代物だった。

 たとえば車内の木造の屋根は骨組みが露出しており、照明はカバーもない8個の裸電球のみ。現代の我々には想像もつかない車両である。

 また火災とのからみで言えば、ガラス節約のため3段に区切られた窓は中段が開かず、極めて脱出しにくいものだった。さらに塗料は可燃性で、天井の内張りはベニヤが使われていたため火災が起きればひとたまりもない。しかも隣の車両へ通じる扉は内開きのため満員の混乱時には使えないし、とどめに非常用ドアコックはどこにあるか分からない――と、もう救いようがない。

 とにかく資材を極限まで切り詰め切り詰め、輸送効率だけを追求したのである。ゼロ戦と同じだね。日本人はこういうのを作るのが上手いけれど、それは人命軽視の思想と常に背中合わせであるのだなァと思う。

 それでもなんとか脱出した生存者もいた。その証言を見ていこう。

「その瞬間、天井を黒煙が覆い、私は手ぬぐいで鼻と口を押えてしゃがみ込んだ。黒煙が真っ赤な炎に変わったとき、自分の下に煙を吸って倒れた乗客がたくさんいるのに気づいた。炎が渦を巻いて迫ってきた。死を覚悟した瞬間、家族の顔が浮かんだ。そのときである。ガチャーン、という音に振り向くと、火だるまになった男性が網棚につかまって両足で窓をけ破っていた。後に続けば助かると重い、私も破れた窓から飛び出した。顔や手は焼けただれたが、中古で買った純毛のスーツが炎から体を守ってくれた」

「桜木町の手前で、突然人がかぶさって来たので、何だかわからないまま手で窓ガラスを叩き壊し、窓から飛び降りて頭の火をもみ消して、火のついた上衣を脱ぐのがやっとだったが、セーターまで焼けていた」

 背筋が寒くなるような話である。

 ところでこの時、運転士はなにをしていたのだろう?

 当時、この5両列車にいた鉄道員は3人。先頭車両が焼き尽くされるまでには10分程度しかかからなかったと言われているから、救出のための措置を取れたのは先頭車両の運転士だけだった。

 しかしこの運転士、先頭車両はあまりに火勢が強すぎどうすることもできなかったのだった。よって、比較的火災の規模が小さい2・3両目の乗客を救出したり、車両を切り離したりするのが関の山だった。先頭車両の窓から乗客を引っぱり出したりもしたそうだが、それは最後だったという。

 先頭車両で生きながら焼かれている乗客にとって、窓の外でウロチョロしているだけの運転士の姿はさぞ恨めしく写ったことだろう。

 この時、運転士はなにをすべきだったのだろう?

 答えは簡単である。実は、車両の外にちゃんと非常用ドアコック――通称「Dコック」――があったのだ。運転室から出てすぐこれさえチョイとひねっていれば、自動ドアも全て手動で開けられたはずだったのである。

 のちにその点を追及された運転士は、コックの存在を「あとで言われて思い出した」という。これでは責められても仕方がない。

 ちなみに、車両内にもこの「Dコック」は設置されており、事故当時、誰かがこれをひねった形跡があることが現場検証で明らかになった。死亡者の中には鉄道関係者もいたらしく、おそらくその人がひねったのだろうと言われている。

 つまり焼け死んだ乗客たちは、実は手動でドアを開けて脱出することが可能だったのだ! やりきれない話である。

 だがそれに気付かれないのも無理のない話だった。火災時の車両内は修羅道かはたまた畜生道かと思わせる有様で、乗客は我先にと唯一の脱出口である窓へ押し寄せ、男が女を引きずり落とすような惨状だったという。誰か一人がコックを捻っても、それだけ混乱した車内では、落ち着いてその旨を説明する前に踏み倒され、煙を吸ってしまうのが関の山だったろう。戦後の混乱とモラルの低下は、こんなところでもまだくすぶっていたのだ。

 今では、非常用ドアコックと言えばどんな車両でも目立つ場所に設置されているのですぐ分かる。だが当時の車両は「隠されている」と言われてもおかしくないような場所にあり、そもそもそうしたコックの存在自体が知られていなかったのである。

 ドアコックに歴史あり。桜木町火災によって、このコックはやっと目に付く場所に設置されるようになったのだった。

 だが、これは余談めくが、それが裏目に出たのが三河島事故である。こちらの事故では、ドアコックをひねって勝手に脱出した乗客たちが、隣の線路に進入してきた別の電車によって片っぱしから轢かれてしまったのだ。難しいものである。

 こうして桜木町火災は、先頭車両と2両目を合わせて焼死者106名、負傷者92名という大惨事になった。この事故は国鉄戦後五大事故の一つとして、今でも鉄道事故史を語る上では欠かせないものである。

 さて裁判だが、これは最高裁まで争われ、最終的には職員5名が有罪となった。

 内訳は、架線工事の工手長のNが禁固10ヶ月。信号掛のT、運転士、工事の工手副長が禁固6ヶ月。最初にスパナを落として電線の切断を起こした工手は執行猶予付きの禁固1年である。

 なお、有罪判決を受けた工事の工手長のNと信号掛のTが、火災直前に交わしたやり取りが裁判では問題になっている。断線事故が起きたにもかかわらず、なぜ下り列車はごく普通に進入してきたのか? というあの一件だ。

*Nの証言
「私は架線を切ったとき信号所にかけつけて、上り線には電車を入れてくれるなと強く主張した」

*Tの証言
「Nは、上り電車を出すのはチョット待ってくれと軽く言った。到着する下りはいいのか、と私が尋ねたら、到着のほうははいいと答えたので渡り線に電車を入れた」

 完全な責任のなすり合いである。どっちかが嘘をついているか、あるいは完全に記憶がおかしくなっているのは明らかだ。だがとにかく、この2人の打ち合わせ不備のため、例の63系列車は断線事故が起きていた上り線に進入してしまったのだった。

 この桜木町事故には「謎」がほとんどない。事故発生から終了に至るまでの経過は全ての局面でほぼはっきりしている。まあ逆に、だからこそどのへんに責任追及の焦点を当てるべきかが分かりにくく混沌としており、裁判でももめているのだが、そんな中でも唯一の「謎」として残っているのがこのNとTの証言の真偽なのである。

 ちなみにこれはおまけのような話だが、桜木町火災は、事故現場の凄惨な写真が新聞に載った最初のケースなのだそうだ。そういえばある写真集で遺体の写真を見たことがあるが、なにがなんだか分からない写りで「こんな写真なんの意味があるんだろう?」と思ったものだが、当時としては相当鮮烈なものだったのだろう。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア

 

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東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)

 日本の事故史を紐解くと、戦後間もない一時期に「修学旅行中の事故」が頻発していたことが分かる。発生した事故のジャンルも鉄道、バス、海洋と多岐に渡っており、このテーマだけでも一冊の本が書けそうな気がするほどだ。

 鉄道事故の分野でいえば、最も有名なのは参宮線六軒事故ということになるだろうか。あれは多数の死者が出た悲惨さそのものでも有名だが、いっぽう東海道線では火災事故が発生している。知名度はそう高くないのだが、今回はこの事例をご紹介しよう。

 時は1955年(昭和30年)5月17日のこと。

 日付も変わったばかりの午前2時19分。修学旅行中の学生たちを乗せた11両編成の列車が、原―田子の浦間を通過していた。

 この列車は京都発東京行きの3138列車で、乗客は837名という大所帯である。いかにも「事故ったら大変なことになりそうだなあ」と思わせる乗客数だが、とにかく田子の浦駅はダイヤ通りの時刻に通過したし、ここまでは何も問題はなかった。

 問題が起きたのは、静岡県原町の植田という地区の踏切に差しかかった時だった。なんとそこで一台の大型トレーラーが立ち往生していたのである。それは米軍のもので、列車の運転士は慌てて急ブレーキをかけたが間に合わずゴッツンコ。それでも列車は止まらず、百数十メートルもそのまま走行してやっと停止したのだった。

 さあ、大変なのはここからだ。踏切で大破した米軍トレーラーには、よりによって揮発油を原料としたペンキが大量に積まれていたのである。どういう拍子でかそれに引火し、あっという間に周辺は「燃え上が~れ~ガン●ム~♪」状態。

 火炎は、緊急停止した3138列車にもたちまち燃え移っていく。特に3両目はトレーラーに近い場所にあったのか、燃え移るのが最も早かった上に焼け方がひどく、骨組みしか残らないほどだったという。

 また他の客車3両と機関車が全焼、さらに1両が半焼に至った。つまり先頭の5両が焼けたわけだが、6両目以降は切り離して移動させたため無事だったという。 

 この事故の犠牲者は、まず重傷を負った者が2名。そして修学旅行中の子供たち11名を含む31名が軽い怪我を負った。死者はゼロだった。

 え、ゼロ?

 そう、ゼロなのである。

 その場にいた鉄道関係者と乗客たちが、皆で力を合わせたのが良かったのだ。さらに、時刻は草木も眠るなんとやら――だったにも関わらず、周辺住民も駆けつけて協力してくれたのである。

 住民たちにとってはきっと「田子の浦に 打ち出でてみれば火災にぞ 鉄道車両に 火の粉は降りける」という感じだったろうが、とにかくそれで車両の危険回避と乗客らの避難誘導が適切に行われたのだった。いやあ良かった良かった。人間やればできるもんだね。

 戦後の鉄道火災事故といえばなんといっても桜木町火災だろうが、桜木町は鉄道事故史上屈指の死者数、されどこの東田子の浦では死者ゼロと、えらい違いだ。

 ちなみにこの事故で被災した車両は、廃車とはならずに修理されてその後も使用されたという。個人的にはそれがどうしたという感じなのだが、生粋の鉄道好きにとっては外せない話題らしい。資料として読ませて頂いたサイトのどちらにも詳細な説明があった。素人には退屈な文章だが、とりあえず重要事項らしいのでそのまま引用しておこう。ウィキペディアからである。

「被災車両は損傷の著しいものがあったにもかかわらず全車廃車とならずに修復され、EF58 66は浜松工場で修復および甲修繕を施工、客車5両はオハ46形に準じた広窓、切妻、鋼板屋根の構体の新製と台枠の改造が行われ、スハ32 266は名古屋工場で構体載せ替えを受けオハ35 1314に改番、スハフ32 257は小倉工場で構体載せ替えを受けオハフ33 627に改番され、オハ35 342・923, スハ42 63は小倉工場で構体載せ替えが行われ原番号で復旧された。」

 ところで米軍トレーラーはどうして立ち往生していたのだろう。補償はしたのだろうか。その辺りも気になるが、ひとまず今回はこれにて。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト「JS3VXWの鉄道管理局」鉄道写真管理局珍車ギャラリー
http://bit.ly/fZMg7P
◇ウィキペディア

 

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