目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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桜木町火災(1951年)

 時は1951(昭和26)年4月24日。戦後の復興も軌道に乗り始めていた頃に起きた大惨事である。

 この当時、横浜市という街は、現在の我々が思い描くようなイメージとは一線を画す、ごみごみした「周縁」にあたる地域であった。東急東横線も根岸線も終点は桜木町であり、横浜スタジアムのオープンもみなとみらい地区の整備もまだまだ先の話、という時代である。

 こうした「周縁」にあたる地域では、都市部に比べるとシステムの整備が遅いわりに、人の動きが大きいので、一度事故が起きると大惨事になりやすい。八高線の事故しかり、後年に起きる三河島事故鶴見事故しかりである。これからお話しする桜木町火災という事故もまた、そうした事象の一例である。

 この桜木町火災、一体どのような事故だったのだろう。それについては、鉄道事故マニアのバイブル「事故の鉄道史」シリーズの中で、著者のひとり網谷りょういち氏がこう述べているのが興味深い。

 「桜木町事故ほど、事故原因が多岐にわたり、どれが最大の要因かわかりにく事故はない」――。

 これはまったくその通りである。とにかく、ここまで多くの要因というか悪条件が重なった事故も珍しい。ひとつひとつを見れば些細な要因だったが、それが積み重なり、そしてそこにほんの少しの人的ミスが加わったことで106名が焼き殺されるという結果になったのである。

 要は、混沌としているのだ。

 

   ☆

 

 午後1時40分頃のことだった。神奈川県横浜市の桜木町駅では、構内の上り線のほうでちょっとした事故が発生した。電線工事の作業員がスパナを落とし、送電に関わる線を切断させてしまったのだ。

 これによって「トロリー線」なるものがダラリと垂れ下がる形になった。このトロリー線とは、電車の車両に直接電気を流す役割を持つものである。

 工事を指揮していたN工手長は急いで駅の信号扱所へ行き、そこにいたT信号掛にこう告げた(とされている)。

「断線事故が起きてしまった。上り線には電車を入れないでくれ」

 そしてこの断線事故があったのと同じ頃、京浜線では下り列車が出発したところだった。これは5両編成で、先頭はモハ63756。この直後に発生した火災事故によって、鉄道史に悪名を刻み込むことになる「63系電車」である。

 当時の桜木町駅では、構造上、上り列車も下り列車も共に上り線の線路を共有する形になっていた。それでこの時も、下り列車の運転士は信号を確認しながら、上り線の線路へと進入していった。

 先述の通り、この上り線は先ほどの断線事故によってストップがかけられていたはずであった。なぜここで列車の進行が止められなかったのかは、後に裁判で争われるタネになるのである。

 さて上り線では断線したトロリー線が垂れ下がっていたわけだが、ここに下り線が進入し、先頭車両のパンタグラフがからまったからたまらない。パンタグラフはたちまちひん曲がり、電車の屋根に接触した。

「ぬおっこれはいかん!」異常に気付いた運転士は非常ブレーキをかけ、このパンタグラフを降下させる。

 通常ならば、その措置で問題はなかった。パンタグラフとは、電車内に電気を送る装置である。これを降下させたことで車内の電源は全てストップすることになる。だから火災は起こらないはずだったが、ところが今の問題はパンタグラフではなくあくまでもトロリー線の方である。パンタグラフを降下させたとて、からまった電線は依然とて通電しているのだ。電気は、パンタグラフを通して、接触していた車両の屋根に放電された。

 一閃――。

 その瞬間、物凄い轟音と閃光があり、木製の車両の屋根は爆発するように燃え上がったという。

 当時、桜木町付近の給電は、横浜変電区と鶴見変電区の2か所からなされていた。当然この事故が起きた瞬間にはそれぞれの変電所でも異常を察知し、給電をストップさせる措置が取られた。

 ところが、である。鶴見変電区だけは、給電を止めるための高速度遮断器という装置が作動しなかった。おいおいしっかりしろよ! と突っ込みたくなるが、とにかくこれにより、くだんの列車には4~5分に渡って電気が送られ続けることになったのだった。

 これでは火勢も弱まらない。結果、事故車両は先頭が全焼、2両目は半焼という憂き目に遭うことになる――。

 ここで、全焼した先頭車両「63系」電車について少し説明しておこう。

 もともとこの63系列車は、1944年に戦時の輸送力増強のために開発されたものである。現在の「全長20メートル、片側4扉」タイプの車両はここから始まっており、当時としてはかなり画期的だった。

 もともと「戦争に勝つまでの間に数年保てば良い」という設計思想があったらしく、現代の目線で見れば「数年あれば勝つと思ってたんかい」と言いたくなるところだが、その実態は即席の間に合わせとしか呼べない代物だった。

 たとえば車内の木造の屋根は骨組みが露出しており、照明はカバーもない8個の裸電球のみ。現代の我々には想像もつかない車両である。

 また火災とのからみで言えば、ガラス節約のため3段に区切られた窓は中段が開かず、極めて脱出しにくいものだった。さらに塗料は可燃性で、天井の内張りはベニヤが使われていたため火災が起きればひとたまりもない。しかも隣の車両へ通じる扉は内開きのため満員の混乱時には使えないし、とどめに非常用ドアコックはどこにあるか分からない――と、もう救いようがない。

 とにかく資材を極限まで切り詰め切り詰め、輸送効率だけを追求したのである。ゼロ戦と同じだね。日本人はこういうのを作るのが上手いけれど、それは人命軽視の思想と常に背中合わせであるのだなァと思う。

 それでもなんとか脱出した生存者もいた。その証言を見ていこう。

「その瞬間、天井を黒煙が覆い、私は手ぬぐいで鼻と口を押えてしゃがみ込んだ。黒煙が真っ赤な炎に変わったとき、自分の下に煙を吸って倒れた乗客がたくさんいるのに気づいた。炎が渦を巻いて迫ってきた。死を覚悟した瞬間、家族の顔が浮かんだ。そのときである。ガチャーン、という音に振り向くと、火だるまになった男性が網棚につかまって両足で窓をけ破っていた。後に続けば助かると重い、私も破れた窓から飛び出した。顔や手は焼けただれたが、中古で買った純毛のスーツが炎から体を守ってくれた」

「桜木町の手前で、突然人がかぶさって来たので、何だかわからないまま手で窓ガラスを叩き壊し、窓から飛び降りて頭の火をもみ消して、火のついた上衣を脱ぐのがやっとだったが、セーターまで焼けていた」

 背筋が寒くなるような話である。

 ところでこの時、運転士はなにをしていたのだろう?

 当時、この5両列車にいた鉄道員は3人。先頭車両が焼き尽くされるまでには10分程度しかかからなかったと言われているから、救出のための措置を取れたのは先頭車両の運転士だけだった。

 しかしこの運転士、先頭車両はあまりに火勢が強すぎどうすることもできなかったのだった。よって、比較的火災の規模が小さい2・3両目の乗客を救出したり、車両を切り離したりするのが関の山だった。先頭車両の窓から乗客を引っぱり出したりもしたそうだが、それは最後だったという。

 先頭車両で生きながら焼かれている乗客にとって、窓の外でウロチョロしているだけの運転士の姿はさぞ恨めしく写ったことだろう。

 この時、運転士はなにをすべきだったのだろう?

 答えは簡単である。実は、車両の外にちゃんと非常用ドアコック――通称「Dコック」――があったのだ。運転室から出てすぐこれさえチョイとひねっていれば、自動ドアも全て手動で開けられたはずだったのである。

 のちにその点を追及された運転士は、コックの存在を「あとで言われて思い出した」という。これでは責められても仕方がない。

 ちなみに、車両内にもこの「Dコック」は設置されており、事故当時、誰かがこれをひねった形跡があることが現場検証で明らかになった。死亡者の中には鉄道関係者もいたらしく、おそらくその人がひねったのだろうと言われている。

 つまり焼け死んだ乗客たちは、実は手動でドアを開けて脱出することが可能だったのだ! やりきれない話である。

 だがそれに気付かれないのも無理のない話だった。火災時の車両内は修羅道かはたまた畜生道かと思わせる有様で、乗客は我先にと唯一の脱出口である窓へ押し寄せ、男が女を引きずり落とすような惨状だったという。誰か一人がコックを捻っても、それだけ混乱した車内では、落ち着いてその旨を説明する前に踏み倒され、煙を吸ってしまうのが関の山だったろう。戦後の混乱とモラルの低下は、こんなところでもまだくすぶっていたのだ。

 今では、非常用ドアコックと言えばどんな車両でも目立つ場所に設置されているのですぐ分かる。だが当時の車両は「隠されている」と言われてもおかしくないような場所にあり、そもそもそうしたコックの存在自体が知られていなかったのである。

 ドアコックに歴史あり。桜木町火災によって、このコックはやっと目に付く場所に設置されるようになったのだった。

 だが、これは余談めくが、それが裏目に出たのが三河島事故である。こちらの事故では、ドアコックをひねって勝手に脱出した乗客たちが、隣の線路に進入してきた別の電車によって片っぱしから轢かれてしまったのだ。難しいものである。

 こうして桜木町火災は、先頭車両と2両目を合わせて焼死者106名、負傷者92名という大惨事になった。この事故は国鉄戦後五大事故の一つとして、今でも鉄道事故史を語る上では欠かせないものである。

 さて裁判だが、これは最高裁まで争われ、最終的には職員5名が有罪となった。

 内訳は、架線工事の工手長のNが禁固10ヶ月。信号掛のT、運転士、工事の工手副長が禁固6ヶ月。最初にスパナを落として電線の切断を起こした工手は執行猶予付きの禁固1年である。

 なお、有罪判決を受けた工事の工手長のNと信号掛のTが、火災直前に交わしたやり取りが裁判では問題になっている。断線事故が起きたにもかかわらず、なぜ下り列車はごく普通に進入してきたのか? というあの一件だ。

*Nの証言
「私は架線を切ったとき信号所にかけつけて、上り線には電車を入れてくれるなと強く主張した」

*Tの証言
「Nは、上り電車を出すのはチョット待ってくれと軽く言った。到着する下りはいいのか、と私が尋ねたら、到着のほうははいいと答えたので渡り線に電車を入れた」

 完全な責任のなすり合いである。どっちかが嘘をついているか、あるいは完全に記憶がおかしくなっているのは明らかだ。だがとにかく、この2人の打ち合わせ不備のため、例の63系列車は断線事故が起きていた上り線に進入してしまったのだった。

 この桜木町事故には「謎」がほとんどない。事故発生から終了に至るまでの経過は全ての局面でほぼはっきりしている。まあ逆に、だからこそどのへんに責任追及の焦点を当てるべきかが分かりにくく混沌としており、裁判でももめているのだが、そんな中でも唯一の「謎」として残っているのがこのNとTの証言の真偽なのである。

 ちなみにこれはおまけのような話だが、桜木町火災は、事故現場の凄惨な写真が新聞に載った最初のケースなのだそうだ。そういえばある写真集で遺体の写真を見たことがあるが、なにがなんだか分からない写りで「こんな写真なんの意味があるんだろう?」と思ったものだが、当時としては相当鮮烈なものだったのだろう。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア

 

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東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)

 日本の事故史を紐解くと、戦後間もない一時期に「修学旅行中の事故」が頻発していたことが分かる。発生した事故のジャンルも鉄道、バス、海洋と多岐に渡っており、このテーマだけでも一冊の本が書けそうな気がするほどだ。

 鉄道事故の分野でいえば、最も有名なのは参宮線六軒事故ということになるだろうか。あれは多数の死者が出た悲惨さそのものでも有名だが、いっぽう東海道線では火災事故が発生している。知名度はそう高くないのだが、今回はこの事例をご紹介しよう。

 時は1955年(昭和30年)5月17日のこと。

 日付も変わったばかりの午前2時19分。修学旅行中の学生たちを乗せた11両編成の列車が、原―田子の浦間を通過していた。

 この列車は京都発東京行きの3138列車で、乗客は837名という大所帯である。いかにも「事故ったら大変なことになりそうだなあ」と思わせる乗客数だが、とにかく田子の浦駅はダイヤ通りの時刻に通過したし、ここまでは何も問題はなかった。

 問題が起きたのは、静岡県原町の植田という地区の踏切に差しかかった時だった。なんとそこで一台の大型トレーラーが立ち往生していたのである。それは米軍のもので、列車の運転士は慌てて急ブレーキをかけたが間に合わずゴッツンコ。それでも列車は止まらず、百数十メートルもそのまま走行してやっと停止したのだった。

 さあ、大変なのはここからだ。踏切で大破した米軍トレーラーには、よりによって揮発油を原料としたペンキが大量に積まれていたのである。どういう拍子でかそれに引火し、あっという間に周辺は「燃え上が~れ~ガン●ム~♪」状態。

 火炎は、緊急停止した3138列車にもたちまち燃え移っていく。特に3両目はトレーラーに近い場所にあったのか、燃え移るのが最も早かった上に焼け方がひどく、骨組みしか残らないほどだったという。

 また他の客車3両と機関車が全焼、さらに1両が半焼に至った。つまり先頭の5両が焼けたわけだが、6両目以降は切り離して移動させたため無事だったという。 

 この事故の犠牲者は、まず重傷を負った者が2名。そして修学旅行中の子供たち11名を含む31名が軽い怪我を負った。死者はゼロだった。

 え、ゼロ?

 そう、ゼロなのである。

 その場にいた鉄道関係者と乗客たちが、皆で力を合わせたのが良かったのだ。さらに、時刻は草木も眠るなんとやら――だったにも関わらず、周辺住民も駆けつけて協力してくれたのである。

 住民たちにとってはきっと「田子の浦に 打ち出でてみれば火災にぞ 鉄道車両に 火の粉は降りける」という感じだったろうが、とにかくそれで車両の危険回避と乗客らの避難誘導が適切に行われたのだった。いやあ良かった良かった。人間やればできるもんだね。

 戦後の鉄道火災事故といえばなんといっても桜木町火災だろうが、桜木町は鉄道事故史上屈指の死者数、されどこの東田子の浦では死者ゼロと、えらい違いだ。

 ちなみにこの事故で被災した車両は、廃車とはならずに修理されてその後も使用されたという。個人的にはそれがどうしたという感じなのだが、生粋の鉄道好きにとっては外せない話題らしい。資料として読ませて頂いたサイトのどちらにも詳細な説明があった。素人には退屈な文章だが、とりあえず重要事項らしいのでそのまま引用しておこう。ウィキペディアからである。

「被災車両は損傷の著しいものがあったにもかかわらず全車廃車とならずに修復され、EF58 66は浜松工場で修復および甲修繕を施工、客車5両はオハ46形に準じた広窓、切妻、鋼板屋根の構体の新製と台枠の改造が行われ、スハ32 266は名古屋工場で構体載せ替えを受けオハ35 1314に改番、スハフ32 257は小倉工場で構体載せ替えを受けオハフ33 627に改番され、オハ35 342・923, スハ42 63は小倉工場で構体載せ替えが行われ原番号で復旧された。」

 ところで米軍トレーラーはどうして立ち往生していたのだろう。補償はしたのだろうか。その辺りも気になるが、ひとまず今回はこれにて。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト「JS3VXWの鉄道管理局」鉄道写真管理局珍車ギャラリー
http://bit.ly/fZMg7P
◇ウィキペディア

 

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参宮線六軒事故(1956年)

 ATSという装置がある。

 正式にはAutomatic Train Stopという。自動列車停止、すなわち鉄道を強制的に停止させる装置である。たとえば、鉄道車両が速度超過に陥ったり、あるいは信号無視を行ったりすると「はいダメー」ということで自動的に作動する。

 このATS、現在では全ての鉄路に備え付けられているという。まあ安全管理という観点からは当たり前なわけだが、しかしこれが「当たり前」になったのはごく最近のこと。そう、当研究室の読者諸賢ならもうお分かりであろう。これが普及し定着するまでには、戦後のいくつかの大事故の発生を俟たなければならなかったのだ。ATS配備の歴史は、そのまま鉄道事故の歴史と言っても過言ではない。

 今回ご紹介する参宮線六軒事故は、1965年(昭和31年)に発生した。この事故によって、国鉄は「車内警報装置」の全線設置を決めたのだが、この時はまだ列車の停止は手動で行う必要があり、警報装置はいわばATSの単なる前身に過ぎなかった。やっぱりただの警報装置では生ぬるい、ということで問答無用に列車を停止させるシステムへと切り替わったのは、伝説の鉄道事故・三河島事故以降の話である。

 そう考えると、この六軒事故は知名度こそ低いものの、三河島事故の前触れというか予兆みたいなものだったのだろう。それまで鉄道というのは「なにがあっても列車は停めるな」が基本であった。だがそれがこの六軒事故や三河島事故を経て「異常時にはすぐ停めろ」へとパラダイムシフトしたのだ。今となっては地味ではあるが決して外せない前身。プロレスで言えば、力道山に対するボビー・フランスやハロルド坂田。それがこの六軒事故なのである。

 

   ☆

 

 1956年(昭和31年)10月15日18時22分のことだ。

 現在は紀勢本線である、当時の「参宮線」の六軒駅で、上り・下りそれぞれの快速列車がすれ違うことになった。

 本来のダイヤではこのすれ違いはあり得ないのだが、そんな風に急遽変更となったのは、下り快速列車に10分の遅れが出たためだった。よって下り列車は、いつもならもっと先の松坂駅ですれ違うところを急きょ六軒駅で臨時停車し、上りの列車をやり過ごさなければならなくなったのだ。

 ただ問題は、下り列車の運転士に、この緊急の変更内容が伝わっていなかった点であろう。当時は携帯電話なんて便利なものは存在せず、こうした決定が先に駅の内部で行われ、運転士は駅構内で止められた後で事後的に知らされることもあったのだ。

 通信手段が充実している現代の視点で見れば「危なっかしいなあ」と思うのだが、とにかくそうだったのだから仕方がない。なあに、駅でちゃんと信号を操作して確実に列車を止めれば、大丈夫だ問題ない。――というわけで、六軒駅では下り快速列車を受け入れる態勢を整えて待っていた。

 ところが一体どうしたことか。駅に入ってきた下り列車が、停止せずにそのまま駅を通過していくではないか。

 少し進んだところで、運転士がアッと気付いて非常ブレーキをかけたがもう間に合わない。列車は安全側線に突っ込み、そのまま車止めを突破してしまいドンガラガッシャン。機関車2両と客車3両が脱線転覆し、「反対車線」にあたる上り線の線路をふさぐ格好になってしまった。

 これだけでも大事故だが、もしかするとこの段階では死傷者は比較的少なかったかも知れない。このほんの数十秒後に、六軒駅ですれ違うはずだった上り列車が進入してきたからさあ大変、線路をふさいでいた車両に激突してしまった。

 この激突によって、上り列車の機関車2両と客車1両がさらに脱線転覆。しかも、先に転覆していた下り列車は押し潰されてしまった。死者42人、負傷者96人という大惨事のできあがりである。

 下り列車の乗客の多くは、修学旅行中の学生であった。

 この学生たちは、当時の東京教育大学(今の筑波大学)付属坂戸高校の生徒だった。死者42名のうち、24名がこの生徒たちだったというから痛ましい。

 さらにこの事故が悲惨なものになったのは、上り列車の機関車の破損によって、犠牲者たちが蒸気と熱湯を浴びたことだった。蒸気機関のパイプやバルブからそれらが漏れ出したため、生存者は大火傷を負い、死者の遺体は激しく損傷せられたのだ。

 そして救助活動が始まったものの、これもひどく難渋したという。消防署、消防団、機動隊、陸自などが出動したものの列車の破損があまりにひどく、さらに上にのしかかっていた機関車の撤去にも骨が折れたという。

 さあ、裁判である。まあ事故の原因は明らかで、下り列車のオーバーランのせいなのだが、ではそもそもオーバーランはなぜ発生したのか? 裁判ではそこが問題になった。

 救助された下り列車の機関士は、こう証言している。

「六軒駅に入った時、信号は確かに進行を現示の状態でした。だけど駅ホームの半ばあたりまで来たら、出発信号機が停止現示になっていたんです。それで慌てて非常ブレーキをかけたのですが間に合いませんでした」

 要するに、青信号だったので安心して進んで行ったら、当然青であるべきその先の信号が赤になっていたいうことだ。この話が本当ならば、事故の責任は駅にあることになる。信号機の赤青を変えるのは駅の信号掛の役目だからだ。

 しかし駅はこのミスを全面否定。彼らと、前述の運転士の主張は真っ向から対立した。

 裁判所の最終的な結論は、「事故の原因は運転士による信号の見間違いである」というものだった。六軒駅の関係者は全員無罪、運転士のほうが禁固2年・執行猶予5年、機関助士には同じく禁固1年と執行猶予3年という判決が下っている。しかしこの結論を証拠づける物的証拠は特になく、ぶっちゃけ真相は闇の中である。証拠なしでこんな結論、出しちゃいけないと思うのだが。

 とはいえ、実際のところなにがあったのか、まったく推測できないわけでもない。

 当時は伊勢神宮の大祭が行われており、大勢の人が行き来していたせいでダイヤは乱れがちだった。よって、先述したような列車の遅れや駅での緊急のすれ違いが発生したのである。だが六軒駅ではこのような変更は珍しいことで、慌てた駅員が信号の操作をミスったのかも知れない。全てが手動だった時代、こうした操作がいかに煩雑だったかは想像するしかないが、今までやったことがない操作をその日いきなり「やれ」と言われれば誰だって慌てる。

 また一番最初にも書いたが、下り列車の運転士は、六軒駅でいったん停止することを事前に知らされていたわけではない。ちょっとぼんやりしていれば、青信号を見落として、まったくいつも通りにこの駅を通過しようとしてしまうことだってあり得るだろう。

 いずれにせよ同情せずにはおれないところである。

 

   ☆

 

 最初に述べたように、この事故の直後から、主要幹線では車内警報装置の導入が進められていった。さらに信号も色灯化や自動化が進められ、これでひと安心となるはずだったのだが、6年後に三河島事故が発生したことでぜんぶ台無し。金はかかるけどやっぱりATSでなきゃ駄目だという結論になったのである。

 それにしても、このあたりのエピソードを書いていて思い出すのは、三河島事故が起きた時に付近の住民だか乗客だがか言っていたという言葉である。「人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ」と、その人は憤っていたという。

 だが皮肉なもので、ATSの導入は「やっぱり全ては機械サマ頼み」という結論を示すものだった。人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ――。その答えは簡単で、人間は間違うものだからである。人間なんてアテにならないからである。

 とはいえこのATSという機械も万能ではない。緊急停止したあとは改めて手動で発進させるわけで、けっきょくそれで事故ったというケースもある。いやはや、くり返して言うが人間なんてアテにならないものである。せっかく機械を導入しても、それを台無しにするのはやっぱり人間なのだ。

 この参宮線六軒事故の事故車両は、今でも和歌山県橋本市の運動公園に展示されているという。下り列車を押し潰した、あの上り列車の機関車である。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◇ウィキペディア

 

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三河島事故(1962年)

 三河島事故――。伝説の鉄道事故である。

 あまりにも有名なので、今さらここで記述してもな~という気持ちが正直あるのだが、一方でこの事故のことを書かなければ、鉄道事故史としては明らかに片手落ちだろうとも思う。

 この事故の情報は、これまでにも多くの文献で書かれてきたし、ネット上でも溢れ返っている。よって詳細はそちらに譲るとして、当研究室では大まかに、自由に書かせて頂こう。

 

   ☆

 

 時は1962年5月3日、夜9時半過ぎ。東京都荒川区での出来事である。

 常磐線・三河島駅からほど近い線路上で、下り貨物列車が事故を起こした。

 これはまあ、ちょっとした脱線事故である。赤信号の場所で信号を見落とし、安全側線内で大きく傾いてしまったのだ。それで車両が本線側にはみ出した。

 この状態を乗用車と道路でたとえるなら、反対車線に頭がはみ出す形で停車したようなものだ。当然、反対側から車が来れば衝突の危険がある。危ないことこの上ない。

 おっとこいつぁーウッカリだ! しかし貨物列車の運転士には、額を叩いている余裕もなかった。およそ10秒後に、反対方向から、本線を走ってきた列車があったのだ。これは上野発取手行き下り2117H電車で、7両編成。本線にはみ出していた貨物列車にぶつかったことで、今度はさらにその隣の上り線の線路上にはみ出してしまった。当時、この下り電車は約40km/hの速度だったという。

 言うなれば、ドミノ倒しのようなものである。列車が次々に脱線し、隣へ隣へとはみ出してしまったのだ。だがこの時点では死者は出ておらず、25名が怪我を負っただけだったと言われている。

 なんだ全然大したことないじゃん――などと言うことなかれ。問題はここからだ。

 誰が最初にやらかしたのか知らないが、2117H電車の乗客たちが「非常用ドアコック」を使って車両の扉を開け、ゾロゾロと外へ出始めたのだ。

 まあ確かに、脱線して動かなくなっている電車に閉じこもっていたって仕方がない。「早く外に出て、さっさと別のルートで家に帰ろう」というのは当然の心境だったろう。しかも当時の電車内は、脱線でパンタグラフが外れたことから停電していたのだ。

 乗客たちは、さっき出発したばかりの三河島駅へ戻り始めた。

 ところがここで、彼らの歩いていた線路上へ上野行き上り2000H電車が突っ込んできたのである。人々はデデデデデッと撥ねられた。

 また電車のほうもただでは済まなかった。乗客を撥ね飛ばした挙句、脱線していた下り2117H電車と衝突したことで先頭車両が粉々に粉砕。2両目と4両目は、土手のように盛り上がっていた線路から真下の民家へと転落したのである。その結果、死者160名、負傷者296名の大惨事となった。

 いやはや。最初は「こいつぁーうっかりだ!」で済むところだったのが(いや済まないけどさ)、あれよあれよと言う間に雪だるま式に膨れ上がり、そして伝説へ……。とんでもない事故があったものだ。

 夜に線路を歩いている大勢の人たちが、電車によって一気に撥ねられるというイメージもあまりに強烈である。この強烈さによって、三河島事故は多くの人々にとって忘れがたいものとして記憶に残ったことだろう。

 ちなみに筆者がこの事故のことを話す時に、よく聞かれるのが「なんで線路を歩いていた人たちは、電車をよけなかったの?」ということである。

 これは簡単で、逃げ場所がなかったのだ。

 実際に行ってみると分かるが、事故現場は土手のように高く盛り上がった場所で、おいそれと下りられるようなものではなかった。またそこは鉄道車両が通ることしか想定されていないので非常に狭く、2台もの鉄道車両が並んで脱線している上に大勢の人がいたのでは、逃げ場所もほとんどなかったと思われる。

 さて、当時の事故現場の写真は、今ではネット上でいくらでも見られる。

 ちょっと見ただけだと気付かないのだが、写真に写っているものの中で筆者が特に恐ろしく思ったのは、上り2000H電車の先頭車両の状態である。

 各種資料を読むと「先頭車両は粉々に粉砕」という記述がよくあるのだが、最初は写真を見ても特にひどくない気がした。しかし筆者が先頭車両と思い込んでいたのは、実は2両目だったのだ。よく資料を読むと「2両目以降が土手から転落」とあるではないか。

 ああそうか転落しているのは先頭ではないのか。すると1両目はどこに?

 そこでよく目を凝らし、それを見つけた時には思わずゾッとした。上り2000H電車の先頭車両は本当に原型をとどめないほど破壊されており、まるでボロクズのように打ち捨てられていたのである。

 これは、福知山線の事故のニュース映像を初めて見た時の感慨と似ていた。あれも先頭車両と2両目の破損がひどく、最初はそれが車両だとは気付かなかったものだ。この事故の凄まじさが、いかに想像を絶するものだったかが思われる。

 裁判では、国鉄職員たちの責任が追及された。最初の二重脱線の時点で、上り電車を止めるための措置を取っていれば被害はもっと少なくて済んだことだろう。

 だが乗客の行動にも問題がないとは言えまい。彼らは非常用ドアコックを使って勝手に外に出たのだ。おそらく「皆が行くから自分も」という感じで次から次へとついていった形だったに違いない。

 この「非常用ドアコック」は、1951年の桜木町火災を教訓として設置された。昔からあったのだが、以前は場所が分かりにくかったのだ。桜木町火災では、そのため多数の乗客が脱出できず焼け死んだ。しかし三河島事故では、ドアコックが気軽に使えたことが裏目に出てしまった。

 国鉄職員の対応といい、乗客の行動といい、この事故は「日本人の非常時の行動のまずさ」を如実に浮き彫りにしていると言っていいだろう。

 その意味で、この事故は今でも「生きた事例」であり、教訓であり、事故防止のための教科書である。

 実は福知山線の事故でも、JRは反対の路線から入ってくる電車を止める措置を取っていなかった。それをとっさに非常停止装置で止めたのは、名もない一般市民のおばちゃんだったのである。このおばちゃんがいなければ三河島事故再び、になるところだったのだ(ただしJRはこの事実を認めていないそうな)。

 さらに三河島事故は、同じ常磐線で戦時中に起きた土浦事故とも瓜二つの関係にある。土浦事故があまり知られていないのは、当時の通信事情からして致し方のないことだが、こちらの事故の反省がきちんとなされていれば三河島事故は防げたのではないか、とも言われている。

 過去未来のあらゆるケースと、ここまでつながりを持つ鉄道事故もちょっと珍しい気がする。

 三河島駅は今もある。しかし、この事故によって三河島という地名は地図上から消えた。戦後の日本で、陰惨な事件や事故が原因となって地名が地図から消えたのは、おそらく帝銀事件と三河島事故だけではないだろうか。

 最後にこれは余談だが、筆者の父親は事故当時、現場の近くに住んでいた。よって日暮里大火、荒川通り魔事件、吉展ちゃん誘拐事件、そして三河島事故はいまだに身近なものとして覚えているという。曰く「あの夜はひと晩中サイレンが鳴っており、空襲を思い出して不気味だった」。

 そういえば「失敗学」を打ち立てたことで有名な畑村洋太郎も、同じような体験談をある本で書いていたのが印象深い。一度知ったらもう忘れられない伝説の鉄道事故、それがこの三河島事故なのである。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

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鶴見事故(1963年)

 鶴見事故は、戦後の鉄道事故としては最悪のものである。161人が死亡、120人が重軽傷を負うという目を覆わんばかりの大惨事だ。

 しかし、それではその「戦後最悪の鉄道事故」はいかにして起きたのか? 事故原因はなんなのか? という話になると、これが分かりにくい。掴みどころがないのだ。しかも調べれば調べるほど、あろうことかこの事故が起きたのは「運が悪かったから」だという結論に至らざるを得なくなるのである。

 まずは、惨事が起きるまでの経緯をご説明しよう。ただこの事故、なにせ伝説の三河島事故と双璧をなすほどの知名度なので、すでにネット上では写真やイラスト付きでさんざん解説がなされている。よってここでは簡単な説明にとどめたい。

 1963年(昭和38年)11月9日のことである。場所は当時の国鉄東海道線の、新子安駅と鶴見駅の間でのことだった。滝坂不動踏切という踏切があるらしいが、そこから鶴見に近いほうの約500mの地点である。

 まず、きっかけとなる事故が起きたのは午後9時50分頃。下り貨物線を走っていた貨物列車がいきなり脱線したのだ。ホントにいきなり――である。

 この貨物列車は佐原発・野洲行きの下り2365列車で、全部で45両編成。そのうち、後ろの3両がいきなりレールから外れて、線路脇の電柱(架線柱というらしい)に衝突して止まった。前方の42両はそのまましばらく進んだから、この3両はいわば線路上に「置き去り」の状態である。

 だが、これがただの「置き去り」だけならまだ良かった。脱線した3両は、3メートルほど離れた隣の線路にはみ出してしまったのだ。そこは、海岸側を走る東海道本線の上り線だった。

 さて、驚いたのは貨物列車の運転士である。後方で脱線事故が起きたことで急ブレーキがかかり、この列車は線路上で停止した。

「わわわ、やばいよ事故発生だ!」

 というわけで、運転士は急いで列車を下りると発煙筒を焚き、事故を知らせた。しかしこの発煙筒、どういうわけかごく短時間で消えてしまい、事故を知らせるにはほとんど役に立たなかったという。

 さてこの第一事故が発生してから間もなく、東海道本線の下り線を12両編成の列車が走ってきた。東京発・逗子行き下り2113S列車である。

 この列車の運転士は、前方で異常が発生していることにすぐ気付いた。

「あれ? なんかヘンだぞ、パンタグラフが火花を噴いてる。架線もたれ下がってるみたいだ」

 運転士が見たのは、さっき貨物列車がぶつかって壊れてしまった電柱である。彼は異変を感じ、ブレーキを踏んで速度を落としながら進んでいった。この2113S列車が走っていたのは、貨物列車がはみ出してしまった線路の、そのさらに隣の路線である。この時点では、衝突の危険はまだなかった。

 ところが、である。ほとんど間をおかずに、2113S列車の反対方向から久里浜発・東京行きの上り2000S列車(これも12両編成)が走行してきた。

 本来ならば、この2つの列車は、上りと下りの並んだ線路でなんの問題もなくすれ違うはずだった。ところが今、上り線のほうには貨物列車が転がっている。しかも2000S列車の運転士はどうやら貨物列車の事故には気付かなかったか、あるいは気付いていても遅かったらしく、時速90~92km/hという速度で突っ込んできたのだった。

 結果、2000S列車は、例の3両の貨物車両と衝突。

 この衝突の勢いで、2000S列車の先頭車両は横にはじき飛ばされる形になった。そして、隣の下り線を走っていた2113S列車に横から突っ込んでしまったのだ。

 ここからは、物理現象の説明である。

 まず2113S列車の4両目の側面に、斜め横方向から2000S列車の先頭車両が突っ込んだ。

 2000S列車はスピードが出ていたし、後続車両からも押される形になったので簡単には止まらない。あっという間に2113S列車の4両目を破壊し、続けて5両目車両の壁や天井もえぐり取り、合計2両分の車両を蹂躙し尽くした。

 最終的には、2113S列車の5両目と、2000S列車の先頭車両がクロスする形で止まったようである。鶴見事故の写真といえば、このクロスした光景が有名だ。

 衝突の憂き目に遭ったこれらの車両は、原形をとどめないほど破壊された。当時の現場写真を見るとまるで爆発事故でも起きたかのようで、これが鉄道事故だと言われてもちょっとピンとこないかも知れない。

 ちなみに2000S列車の2両目以降は、幸いにして衝突には巻き込まれずに済んだ。衝突と脱線の勢いで先頭車両との連結が外れてしまい、後続の車両は少し進んだ先で脱線して停止したのだ。こちらにどのくらい死傷者がいたのか、あるいはいなかったのかは不明である。だが、死者と負傷者の大半が、木端微塵になった3つの車両に集中していたことは言うまでもない。

 すべては、最初の貨物列車の脱線からほんの2、3分の間の出来事だった。

 さっき登場した2113S列車の運転士や、発煙筒を焚いた貨物列車の運転士は無事だったようだ。だが2000S列車の運転士だけは、さすがに先頭車両から突っ込んでいっただけあって即死している。彼が、貨物車両に衝突する直前にブレーキを踏んだのかどうかは、ついに永遠の謎となった。

 ところで当時は、アメリカのテレビドラマ『ハワイアン・アイ』が放送されており、近所の住民は事故発生の時刻をはっきり覚えていたという。ドラマ鑑賞中に大音響と悲鳴が響き渡ったのだから、確かに嫌でも印象に残ったことだろう。

 そしてすぐに、救急や警察が駆けつけ、近所の住民も手助けに出てきた。現場は血みどろの地獄絵図。サイレンがひっきりなしに鳴り響く中、悪夢のような救助活動が行われたのだった。

 遺体の多くは、總持寺(なんて読むんだ?)という寺に運び込まれた。その縁でか、今でもこの寺には鶴見事故の161名の犠牲者氏名が刻まれた慰霊碑があるという。

 ついでに言えば、この寺にある慰霊碑は鶴見事故のものばかりではない。どうもそういう役回りの寺なのか、かの桜木町火災の慰霊碑も同じ敷地内にある。

 考えてみれば、どっちも横浜市なのである。戦後を代表する鉄道事故が2つも同じ町で起きているというのは、妙に因縁めいたものを感じる。

 ちなみに当時の横浜市というのは、現代の我々が思い描くような都市のイメージとは遥かにかけ離れた、ゴミゴミした町だった。横浜が今のように垢抜けたのはわりと最近のことで、当時はまだ首都圏に対する「周縁」でしかなかったのである。

 そして戦中から戦後にかけての鉄道事故を見ると、五本の指に入るような事例は必ずこの首都圏に対する「周縁」の地域で発生している。三河島八高線桜木町に鶴見事故……。気が向いた方は、これらの事故現場を地図でチェックしてみて欲しい。見事に首都圏をぐるりと囲んでいるのである。

 これがありのままの歴史の姿である。「周縁」は中心部よりも人の動きが大きく、されど鉄道車両は戦時中のボロいやつをそのまま使っていたりするので、ひとたび事故れば大惨事となるのだ。

 さて事故原因の話になるが、そもそも最初の貨物列車の脱線はなぜ起きたのだろう。それがなければこの大惨事は起きなかったのだから、原因究明の焦点は俄然そこに当てられた。

 事故後にさっそく調査が行われ、まず以下のことが判明した。どうやら、脱線した3両の貨物のうち、先頭車両の車輪が線路に乗り上げていたらしいのだ。

 線路に残った痕跡から、乗り上がりが発生したのは脱線の直前であることも分かった。この貨物車両はその状態でしばらく走っただ、ついに車輪が線路から外れたため、脱線して後続の車両もろとも吹っ飛んだのだ。

 こういうのを「せり上がり脱線」という。

 せり上がり脱線――。それは車輪のフランジ(車輪の内側にあるツバ)がレールの上に上がってしまうというという、名前そのまんまの現象である。まあ、わざわざ名称が与えられているぐらいだから全くあり得ない現象ではないのだが、しかし実はこのせり上がり脱線、国鉄でも年に1度くらいしか報告がないような極めて珍しいものらしい。

 ただ困ったことに、そもそもこの「せり上がり脱線」がなぜ起きるのかは誰も知らなかった。当時の国鉄の人たちも、「原因はいろいろ考えられるので今から調べます。てゆうか下り線の電車、スピード落とさないで突っ切ってればもっと犠牲者少なくて済んだんすけどね~」とか言い出す始末。もはやザ・他人事である。

 しかし他人事で済ませてもいられない。鶴見事故の前年には三河島事故があり、国鉄総裁の辞任ものの大惨事が連続して発生したことになるのだ。これはさすがにヤバイと感じたのか、国鉄は大々的な実験を行った。北海道の根室本線の旧線を使い、わざと車両を脱線させて事故原因を突き止めようとしたのである。いやあさすが金持ちはやることが違うね。

 で、その実験の果てに出た結論が「鶴見事故はたくさんの原因が重なって発生した競合脱線でした」というもの。

 ここでいうたくさんの原因とは、車両や線路の状態・積荷の重量・運転状況・過密ダイヤ等々である。これらの不運な要因がたまたまいちどきに重なってしまい、鶴見事故は起きたというのだ。

 読者の皆さんはどうお感じになるだろう? 筆者などは「原因不明って最初から言えよ」と思わず突っ込みたくなるところだ。

 とはいえ、北海道での脱線実験のすべてが単なるパフォーマンスに終わったわけでもない。この実験の際に採取されたデータのおかげで、国鉄の車両はさらに安全に改良されていった。具体的には護輪軌条の追加設置、塗油器の設置、二軸貨車のリンク改良、車輪踏面形状の改良などがなされたそうだが、ごめんなさい筆者には何がなんだか分からない。要するにアレだろう、それまでの国鉄の車両というのはそれだけ粗悪品だったということだ。

 ここまで読めば、冒頭で筆者が「鶴見事故は運が悪かった」と書いた理由ももうお分かりであろう。「たくさんの要因」が重なってたまたま脱線が起き、運転士の焚いた発煙筒がたまたま短時間で消え、そこへたまたま上り下りの両線から電車がやってきて、たまたま夜だったため運転士たちは状況の把握がうまくできず、そしてこの事故は起きたのである。

 鶴見事故が起きたのは誰のせいでもない。むしろこれは、鉄道事故というよりも自然災害に近いものだったのではないかと思う。だから、同時期に起きた三河島事故に比べるといまいち知名度が低いのだ。特定の誰かの失敗談でないからドラマ性に乏しく、自然災害に近いため個性もない――。それがこの鶴見事故なのである。

 余談だが、鶴見事故は、奇しくも日本史上最悪の炭鉱事故・三井三池炭鉱の炭塵爆発事故と同じ日に起きている。おかげでこの1963年11月9日のことは「魔の土曜日」とか「血塗られた土曜日」とか呼ばれたらしい。

 そして皆さんご存じの通り、11月9日というのは今では「119番の日」として定められている。これは1987年に消防庁が制定したもので、周知のごとく、この日から11月15日までの1週間は秋の全国火災予防運動が行われるのである。

 しかしこの「119番の日」は、鶴見事故や三井三池炭鉱事故とはなんの関係もない(笑)。119番ダイヤルが定められたのは戦前のことである。

 まあでも、せっかく覚えやすいのだから、読者諸賢には「11月9日は119番の日で魔の土曜日で血塗られた土曜日である」とぜひ覚えて頂きたいと思う。こうでもしないと、重大事故の記憶なんてすぐに風化してしまうものなのだから。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア
◇図説 鶴見事故
http://homepage3.nifty.com/kiha/SP/anzen-5.html

 

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