目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)
ラブパレード事故(2010年・ドイツ)
航空機事故
トランスワールド航空800便墜落事故

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安治川口ガソリンカー火災(1940年)

 筆者が勝手に「小心者の事故」と呼んでいる鉄道事故が3つある。福知山線の事故、昭和18年に起きた常磐線土浦駅での衝突事故、そして今回取り上げる安治川口駅のガソリンカー火災である。

 この3つの事故に共通しているのは、事故が起きる要因を作った鉄道員が当時パニックに陥っており、そのせいで気が動転してまともな判断が出来なくなっていた(と思われる)点である。

 別に彼らが本当に「小心者」であったというわけでは無い。ただ、彼らの所属していた組織や時代の空気が、精神的に多大なストレスをかけていたことは明らかだと言いたいのである。

 筆者はこうした人々の気持ちが痛いほど分かる。焦ってパニックに陥り、自分で自分がコントロール出来なくなり、焦りがさらに焦りを生み被害を拡大していくという出来事は決して珍しくないのだ。だから上記の3つの事故は、筆者にはとても哀れなものに見える。

 さて、1940年(昭和15年)1月29日のことである。

 今からほぼ70年前にあたるその日の朝、大阪発桜島行き下り第1611列車は、超満員の状態で走っていた。乗車していたのは、主に沿線の工場へ出勤する人々であった。

 その路線の名は、西成線といった。現在ではテーマパークへのアクセス路線としても賑わっているJR桜島線である。だが当時は工場施設が集中する臨海地域の出勤路線として用いられていたのだ。時は日中戦争真っ只中。国内では、重工業を中心に軍需産業が大盛況だった。

 下り第1611列車は、間もなく安治川口駅の構内に入ってきた。この時の速度は時速20キロ。当時は国策で燃料の節約が指導されており、下り勾配はアイドリングの状態で惰性で走るよう定められていたのだ。なんかこう、長閑な走り方である。

 ところがこの時、安治川口駅の信号掛にとっては長閑どころの話ではなかった。この下り第1611列車は定刻よりも3分遅れており、そのせいで他の列車の運行にも影響が出そうな状況だったのである。

 何せ、燃料をケチって惰性で鉄道を走らせることを国策で定めていたような時代である。鉄道もまた燃料の消費に対して神経を尖らせていた。もしもダイヤ全体に遅れが出れば、燃料の浪費ということで上司に怒られる……。この信号掛の胸中にあったのはそんな不安だった。

 しかも目の前の第1611列車は、そんな彼の気も知らずにのろのろと呑気な速度で構内に入ってくる。ますます焦りは募り、何を血迷ったのかこの信号掛は、列車が通過中だというのにいきなりポイントの切り替えを行ってしまった。

 本来なら、これは後続の別の列車に対する切り替えとなるはずだった。この切り替えを行うことで、確かに後続の列車に出発の合図を出すことになり、それが通過するための準備も整ったわけである。ただ、肝心の先行列車がポイントの上を通過中だったのが大問題だった。

 通過中だった1611列車にしてみればとんでもない話である。これを乗用車で例えれば、前輪は右に向かって走っているのに後輪だけが無理やり左を向かされたようなものだ。思いも寄らない事態に遭遇した3両目の車両は、あれよあれよと言う間に、枝分かれした線路の間で横向きになって脱線した。そしてそのまま横転して横滑りした挙句、電柱にまでぶつかった。もう散々である。

 とはいえ、なにぶん時速20キロの惰性での走行である。おそらくこの時点では死傷者はほとんど出ていなかったことだろう。

 問題はここからである。この脱線のせいで燃料のガソリンが漏れ出したのが運の尽きだった。

 列車の燃料が、石炭でもなく軽油でもなく電気でもなくガソリンである、と聞いて奇異に思われる方もおられるかも知れない。実は、軽油を使うディーゼルエンジンよりも、ガソリンエンジンの方が小型軽量化が利き技術的には作りやすいのである。

 もちろん総合的に見ればガソリン動車よりもディーゼル動車の方が運転効率は良く経済性も高い。また安全だし馬力もある。それでも鉄道の気動車がディーゼルカーへと切り替わるには、戦後までの技術発展と、何よりもこの事故の教訓を俟たなければならなかったのである。

 時刻は早朝の6時56分。漏れ出したガソリンに引火し、大阪湾から吹き付ける西風は火勢を煽り、横転した3両目はあっという間に炎に包まれた。発火源が何だったのかは諸説あるようだが、車両の蓄電池回路からのスパークが発火源だった可能性が高いという。

 時速20キロで走る車両がゴロリと横転しただけだったら、まだ可愛いものだった。ところが事態は一転して遂に大惨事である。しかも車両は鮨詰めの超満員。何せ当時のこの路線のラッシュアワー時は、毎朝の乗車率が300%を越えてもまだ通勤客を運び切れない輸送状況だったというからもう無茶苦茶である。こんな状況でガソリンに引火されたらもう笑うしかない。いや、笑わないけどさ。

(余談だが、連休中などの新幹線の乗車率が100%を越えた、などとニュースで報道されているのを聞くと、事故マニアとしては「そんなに乗せていいのか?」といつもゾッとせずにはおれない)

 さて、この横転し炎上した車両の番号は「42056」。後日「死に頃」「死に丸殺し」などと言われることになる(ひでえな)この車両は、横転してしまったため脱出が極めて難しく、そのせいもあって多くの人が逃げ遅れた。

 そんな中、この車両に乗っていた車掌の大味彦太郎氏の行動は今でも伝説的である。当時31歳だった大味車掌は、自らは楽に脱出できる場所にいたにも関わらずすぐには逃げなかった。彼は車掌室の窓ガラスを割って自分の肩を踏み台にし、乗客の脱出と救助にあたったのである。

 大味氏自身が外部から救出された時には、下半身に大火傷を負っていた。氏は痛い痛いと呻きながらも「気の毒なことをしました。乗客の方はどうですか、当時はまったく無我夢中でした」などと語り、その日の夜に妻子に見守られながら亡くなったという。

 31歳と言えば、これを書いている筆者よりも1つか2つ上という程度の年齢である。なんだこの英雄は。書いているこっちまで泣けてくるじゃないか、畜生。

 しかし、もはや一人の死で嘆いているような状況ではなかった。この火災による死者は191人に上り、重軽傷者は82人にまで達していた。死者はほとんどが窒息死で、150名以上が即死だったという。

 奇跡の生還としか言いようのないドラマもあった。燃え上がった車両の中が焼死体で満杯だったのは言うまでもないが、消火後の遺体収容作業の最中、その満杯の遺体の下から2人の生存者が見つかったのである。他の犠牲者達の体で包み込まれていたお陰で、煙も吸わず炎に巻かれることもなかったのだ。

 そしてなんと、この路線は半日で運転を再開した。

 現場が工業地帯として重要拠点だったからなのだろうが、それにしても驚異的なスピードである。この事故、死者数も日本一なら復興速度も日本一なのではないだろうか。

 また事故後の対応も実に速やかだった。事故の原因となった、「列車が通過中のポイントの切り替え」が出来ないように安全装置が据え付けられたし、さらにこの路線はほとんど間を置かずに電車路線へと転換を遂げている。

 なんつーか、ここまで高速で復興されるとかえって非人道的な気がしなくもない。「出来るんなら最初からやっとけ」と突っ込みたくなるのは筆者だけではあるまい。

 事故を起こした哀れな信号掛は、大阪地裁にて有罪判決を受けた。業務上汽車転覆致死罪として禁固2年というものだった。

 現在でも、安治川口駅のそばにはこの事故の慰霊碑があり、そこに刻まれている犠牲者の名前の数は、鉄道事故のものとしては本邦一である。今でも供え物や献花は後を絶たないらしく、70年経っても事故の記憶は完全には風化していないようだ。

 ちなみに、最後にまた縁起の悪い話で恐縮だが、日本の有名な大量殺人事件に『八つ墓村』や『龍臥亭事件』のモデルとなった津山三十人殺しというのがある。これは大量殺人の死者数の世界記録を40年以上も保持し続けた物凄い事件なのだが、これが起きたのが昭和13年。安治川口でガソリンカーが炎上して、鉄道事故での死者数が日本一を記録する僅か2年前のことだった。

 大量死の時代は、こんな風に始まっていたのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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米坂線脱線転覆事故(1940年)

 筆者の住んでいる山形県でも、過去にいくつかの大きな事故災害が発生している。

 その内容を見てみると、やはり冬場に起きているものが多い。それで改めて雪国の苦労というものを実感するわけだが、今回ご紹介する米坂線脱線事故もその一例である。

 1940年(昭和15年)3月5日のことである。

 3月の上旬と言えば、山形県では雪解けにはまだ早い。しかしこの日は、雪が雨に変わりそうな気配が朝からあったという。

 そんな中、米沢駅発・坂町行きの下り103列車は、朝8時45分頃に小国駅を出発した。

 当時の米坂線(現在はもちろんJR米坂線)は、開通してからまだ4年弱という新しい路線だった。貨物列車3両と客車2両が一体になった103混合列車は、この線路をガタンゴトンと進んでいく。

 次の停車駅は玉川口駅である。だがしかし、この103列車が玉川口に到着することはなかった。

 

   ☆   ☆   ☆

 

 さて、ところ変わって玉川口駅である。

 当時ここには駅長と駅員、それに除雪の人夫や列車待ちの乗客など大勢の人がいたという。

 実はこの玉川口駅は後年には駅そのものが廃止されてしまっている。あまりにも利用客が少ないというのがその理由だったのだが、当時は地元の人にとっては需要もあったのだろう。

 されこの日、103列車が小国駅を発ったという知らせを受けると、駅員たちはすぐ持ち場へ出た。予定では間もなく到着するはずだ――。

 するとその時である、駅舎の警報ベルが突然鳴り出した。雪崩監視所からの通報である。

 小国駅と玉川口駅の間には、荒川という川がある。列車はこの荒川に掛かっている鉄橋を渡るわけだが、そこで雪崩が発生したという知らせだった。

「おい、雪崩だってよ」
「マジすか先輩」

 駅員たちは線路の向こう、小国駅の方向に目を向ける。小さな山があるため、カーブの向こうの様子は見えない。だが、山の陰から白い煙が上がっているのは見えた。機関車の蒸気である。

 悪い予感がした。列車は大丈夫だろうか?

 駅員たちがそちらの方向へ向かおうとすると、逆方向から保線区員が走ってきた。彼はよっぽど衝撃的な何かを見たらしく、雪の上を何度も転びながら駆けて来る。ああ、こりゃヤバイよ。ただ事じゃないよ。

 果たせるかな、事故であった。

 だがしかし、駅員たちが現場で見た光景は想像を遥かに越えた凄まじいものだった。鉄橋から列車が落っこちて、荒川に向かって中ぶらりんになっていたのである。先頭の列車は水没している。

 橋は無残に破壊されていた。雪崩のせいである。鉄橋の隣の山で雪崩が発生し、それが鉄橋の橋脚を切断してしまったのだ。そして運悪く、103列車はその直後にこの橋に差しかかったらしい。

 あわわ、どうしようどうしよう。玉川口駅から事故現場を見に来た人たちは、なす術もなかった。事故現場は荒川を挟んで向こう岸である。橋は崩壊している上に、荒川は雪解け水で増水している。救出活動なんてできっこない。

 そうこうしているうちに、もっとひどいことになった。

 前の3両の貨物列車は荒川に転落しており、続く1両の客車が宙ぶらりんになっている。そして残る客車は線路の上に残っていて無事だったのだが、宙ぶらりんになっていたほうの客車が突然火を噴いたのだ。

 どうも、車内に備え付けてあった暖房用のストーヴから燃え移ったらしい。客車のガラスが割れて黒煙と炎があがった。

 大惨事である。燃え盛る客車の窓から這い出たものの川へ転落する者がいる。また助けを求める者もいる。しかし玉川口駅から来た駆けつけた人々はどうすることもできなかった。

 ついこの間には安治川口のガソリンカー火災があったばかりだ。しかし東北で雪に埋もれる冬を過ごしている人々にとっては、それはあくまでも遠い世界の出来事のはずだった。よもや、自分達の目前で同じような事故が起きるとは!

 ところでこの事故、橋脚があっさり破壊されてしまった原因は何だったのだろう?

「雪崩でしょ」。それはその通りなのだが、悪い偶然も重なっていた。この時の雪崩の雪の量は5,000平方メートル。まあ規模としては普通なのだが、これがが雪崩防止柵の鉄のレールを叩き壊してしまい、さらにそのレールが、橋脚をピンポイントで破壊してしまったのである。

 橋脚にも問題はあった。

 筆者は専門家ではないので上手くは説明できないが、コンクリートというのは砂利、砂、水の混合物であるため、比重の重い砂利や砂は下に沈む。そのため当然、反対に水っぽくなる部分もある。その状態でコンクリが固まると、どうしても強度に差が生じるらしい。

 で、水っぽいコンクリが固まった部分にさらにコンクリートの塊を繋げると、その接続部分の強度は心もとなくなる。この事故で破壊された橋脚は、まさにその部分をスパッと切断されてしまったのである。

 事故はこのようにして起きたのだった。人々が茫然と見守る中、客車を包んでいく炎はみるみるうちに延焼し、今度は水没した貨物列車の方に引火して数回の爆発を起こした。

 駆けつけた人々は、その場で跪いて合掌するしかなかった。40名以上の者たちが、救出活動を行うこともできないまま雪の上に平伏していたという。

 死者16名、死者30名。開通したばかりで、気象に対する経験が足りなかった路線の悲劇であった。この事故の後、現場の山の斜面には雪崩を分断するための分流堤が設置されている。

 また玉川口駅から駅員たちが駆け付け、平伏していた(と思われる)場所には、今でも慰霊碑が建っている。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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土浦事故(1943年)

 正真正銘の「忘れられた事故」である。

 1943年(昭和18年)10月26日、18時40分頃のこと。常磐線土浦駅では、一台の貨物列車の入れ替え作業が行われようとしていた。

 駅の「裏一番線」には、ちょうど貨物列車が到着したところ。この列車の先頭の機関車に石炭の補給をするため、別の機関車と交換するわけである。

 まず、到着したばかりの列車の機関車部分が切り離される。そして機関車だけが単独で線路を進み、駅構内の12・13号ポイントをそれぞれ通過して上り本線に入った。そしてその上り本線をさらに移動し、石炭の補給場所に向かっていった。

 つまりこの時、12号ポイント→13号ポイント→上り本線へと機関車が進むようなルートが出来上がっていたわけである。

 さて「裏一番線」に残された貨物車両には、別の機関車がバトンタッチする形で連結した。今度は、この機関車が貨物車両を引っぱって、貨物線と呼ばれる路線に入っていくことになっていた。

 この列車も、さっきの機関車と同様に、いったん12号ポイントを通る。しかし予定ではこの時すでに12号ポイントは切り替えられており、機関車は貨物線のほうにスムーズに入り込んでいく――はずだった。

 ところが、これが切り替えられていなかったのである。本来なら12号ポイント→貨物線というルートになっているはずが、12号ポイント→13号ポイント、というルートのままだったのだ。

 あれあれ、どうなってんの。予定と違うじゃん。機関車と貨物列車は、13号ポイントに向かってゴトゴトと進んでいく。

 そして13号ポイントはどうだったかというと、こちらはちゃんと切り替えられていた。さっきは13号ポイント→上り本線、というルートだったのが、今は13号ポイントはどん詰まり。上り本線は今から別の列車が通過するため、横からの進入禁止の状態になっていた。

 踏切を想像してもらえればいい。上り本線は、遮断機が下りて警報がカンカン鳴っているような状態だったのである。今入ったら危険なのだ。

 機関車はそこへガクン! と突っ込んでしまった。ポイントが切り替えられていたので、それ以上進むこともできず上り本線に中途半端にはみ出す状態で停止してしまったのだ。立往生である。

「事故発生だ!」機関車の運転士は汽笛を鳴らした。

 まあ、これだけでも確かに「事故」ではある。だがこの第一事故そのものは大したものではなく、問題はこの後である。ここから僅か6分の間に、土浦駅の構内は地獄絵図と化すのだ。

 第一事故発生から3分30秒後のことである。上り本線に貨物列車がフルスピードで進入してきた。駅構内で事故が起きていたにもかかわらず、信号が「青」のままだったのだ。このため、貨物列車は、立往生していた機関車とものの見事に激突してしまった。

 さあ、大事故である。上り本線の貨物列車はたちまち脱線し、脱線した状態のまましばらく走り続けた。そして先頭の機関車は、その先にあった橋の手前で転覆。隣を走る下り線をふさぐ形になってしまった。

 さらに、後続の貨物車両14両もバラバラになって脱線転覆。上り線にも下り線にも車両が散らばってしまった。

 最初に立往生していた機関車と貨物車両も、衝突によってぶっ飛ばされてやっぱり脱線転覆。なんかもう、開いた口がふさがらない惨状である。

 ところが、ここからが本番なのだ。

 この大衝突からさらに2分30秒後、反対方向から下り旅客列車がやってきたからさあ大変。先述の通り、下り線は転覆した機関車によって通せんぼされており、これに衝突してしまった。

 しかも悪いことに、この衝突が起きたのが橋の出口のあたりだったため、衝突時には下り列車の全てが橋の上を通過中の状態だった。たちまち客車の1両目は後ろから押されて棒立ちになり、2両目はゴロリと横転。3両目と4両目は橋から転落し、3両目は宙吊りになったが4両目は川に水没した。

 これでもかといわんばかりの凄まじさである。

 犠牲者は100名を越えた。が、正確な死者数は不明である。それでも参考文献『事故の鉄道史』によると96~120名は堅いようで、いやはやとんでもない事故があったものだ。

 この事故を防ぐすべはなかったのだろうか? あった。単純な話で、第一事故が発生した時点で、そのすぐ近くにあった南信号所がすべての信号を「赤」にするよう動き、指示を出せば良かったのである。

 では何故それができなかったのか。それは時代の空気のせいである。当時は戦時中真っ只中で、しかも戦局は日本に不利になりつつあった。国内ではダイヤが改正され、乗客列車は減らされ、「決戦輸送体制」が整えられていたのだ。

 それで、そもそもの事故原因は12号ポイントの切り替えミスにあったわけだが、このミスは南信号所の職員によるものだった。「決戦輸送体制」のさなかで極度の緊張状態にあった職員は、自分のミスで事故が起きてしまったのでパニックに陥り茫然自失、体が全く動かなかったのである。

 この時、南信号所の掛員には、「国家あげての決戦輸送体制の時期に汽車を止めるとは何事か! この非国民め!」という声が頭の中に響いていたのかも知れない。

 職員の、極度の精神的ストレスのため引き起こされた事故は他にもある。安治川口ガソリンカー火災や、それに最近では福知山線の脱線事故がそうだ。

 よって筆者は、土浦事故も含めたこの3つの事故を、個人的に「小心者の事故」と呼んでいる。筆者自身も非常事態にテキパキ動ける人よりも茫然自失となってしまう人の気持ちの方が分かる部分があり、同情を禁じ得ない。

 ちなみにこの事故、その後の事故処理や裁判の経緯などはまったく不明である。

 

   ☆

 

 この土浦事故は、その詳細が、ずいぶん長い間知られていなかった。戦時中だったため、軍によって報道管制が敷かれたせいだと言われている。

 そしてこの事故の19年後に発生したのが、伝説の鉄道事故・三河島事故である。実は、土浦事故と三河島事故はほとんど瓜二つと言っていいほどよく似ており、土浦事故がもっと国鉄職員によく知られていたならば、三河島の惨事も防げたのではないかとも言われているほどだ。

 しかし土浦事故がきちんと国鉄職員に知らされていたとして、本当に三河島事故を防ぐことができたかどうか――。歴史にイフはないとはいえ、これについて筆者はかなり悲観的な考えを持っている。

 あまり知られていないが、2005年の福知山線の事故の時も、事故現場の反対方向から列車が来ていたのである。これを止めたのはJR職員ではなく一般の名もないおばちゃんで、この人がとっさの機転で踏切の非常停止ボタンを押していなかったら土浦&三河島再び、になっていたのだ(ちなみにJRはこの事実を認めていないそうな)。

 三河島事故という「伝説の鉄道事故」を教訓として職員教育をしてきたはずのJRからして、これである。人間の精神構造を変革し、さらにそれを世代を超えて受け継いでいくというのはこれほど難しいことなのだ。

 そもそもの話、土浦事故が「軍の規制を受けて報道されなかった」というのも、本当かどうか怪しいものである。

 おそらくこういう形で疑問を呈するのは当研究室が初めてであろう。

 戦前から戦中にかけての大事故や大事件の話題を目にする時、この「軍が報道に規制をかけたのであまり知らされなかった」というのはほとんど決まり文句のようになっているが、これは本当なのだろうか。

 当研究室の貴重な参考資料である『事故の鉄道史』でも、当時は「日本国に不利になることを報道するのは利敵行為とされていた」という記述があるが、少し考えてみてほしいのである。戦局と関係のない、いわゆる三面記事的な事件事故の報道をすることが、どうして当時の政府にとって「不利」になるのだろう。おそらくこれに明確に答えられる方はほとんどいないと思う。

 報道は、きちんとされているのである。戦時中から戦後にかけては地震や台風や鉄道事故など、洒落にならない規模の大災害が結構起きているのだが、そういったものはほとんど報道されている。それは当時の新聞を見れば分かることだ。

 確かに、記事の扱いは小さい。例えばこの土浦事故も、中央の大手新聞が、かろうじて簡単な一段記事程度で報じただけだった。

 しかしこの頃は物資が不足していた。新聞の紙面もしまいには一枚の紙の両面だけになったり、紙の材質も藁半紙になったりしていたのだ。現在のように、大事故が起きるとその報道のために2つも3つも紙面を割くような贅沢はできなかったのである。

 また新聞の「取材」も、当時は今からでは到底考えられないようなやり方だった。まず地方にいる記者が現場や関係者から取材をし、そしてそれを電話で本社に伝える。本社の記者は電話口でその記者から「取材」を行い、それを編集に回して、紙面に合わせて文章を添削し、そしてようやく記事が出来上がる――という流れだったのだ。アナログもいいとこである。

 そして戦時中、どこでも人手や物資が不足していた時代に、果たしてこのアナログの手法をどこまで満足に行うことができただろう。

 もちろん、多少の報道管制はあったようだ。実際、軍が絡んだ事件事故で当時は報道されず、戦後になってからようやく明らかになったものはいくつかある。しかしそれらは基本的に「報道されなかった」のであって、土浦事故のように一段記事で報じられることすらなかったのだ。

 以上のことから、筆者はこう考えている。当時、確かに報道管制はあったことだろう。だがそれは極めて限られた時代の、限定された内容のものに限られていたのであろう――と。そして、土浦事故が一般に知らされなかったのは必ずしも報道管制のせいではなく、人出や紙面が足りないという単純な物理的な理由からだったのではないか――と。

 実は、最初は「軍によって報道が規制された」と言われていたものの、実際にはきちんと報じられていたというケースは他にもある。有名な昭和13年の津山事件などがそうで、どうも「軍はどんな情報でも規制した」というのはひとつの都市伝説のパターンであるようだ。

 1945年の終戦直後に起きた八高線正面衝突事故についても、ときどき同じような言われ方がされている。「この事故は被害が甚大であったにも関わらず、あまり一般には知られていない。報道管制のせいである」とうわけだが、これなどは既に戦争が終わった後の事故なのだから、そもそも報道管制を敷く意味が全くない。何かの勘違いであろう。

 それでは、実際に土浦事故があまり一般に知られていないのは何故なのか?

 これに対する筆者の回答は簡単である。要は、我々がある事件事故について情報を得たり知識を得たりするのは、けっきょくマスコミが大々的に報道するか否かにかかっているということだ。

 どんな事件事故も、マスコミが報じなければ、我々はそれを知り得ないのである。そして報じ方が小さければすぐ忘れてしまうのである。ましてや戦中から戦後にかけての混乱期ならなおさらだ。

「人間は、忘れる動物である」。全てはこのひとことに要約できると思う。土浦事故という大惨事が忘れ去られたのも、また福知山や三河島で過去の教訓が生かされなかったのも、全てはそれがためなのだ。そう筆者は考えている。

 こんな土浦事故なので、記録はほとんど残っていない。唯一、土浦市の医師が戦後になって『木碑からの検証』というタイトルの記録書を出しているそうだが、これは現在は入手困難である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

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沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1

 土浦事故八高線正面衝突事故は、よく「当時は軍の規制があって報道されなかった」と言われたりする。だが、筆者はこれは間違いだと考えている。

 確かに、そうした規制のため報道されなかった事件事故というのは存在する。ただしそれは戦時中であれば日本軍が、そして終戦直後であれば米軍が、大きく関係した出来事に限られるのである。今ふうに言えば、軍がからんだ「スキャンダル」に該当するような事例だ。

 軍がからんでいない事件事故であれば、紙面での扱いは小さくとも(当時はもともと物資の不足で紙面の容量が限られていた)きちんと報道はされている。土浦事故も、八高線の事故もそうだ。

 では、軍が関係していたため報道されなかった事故事例にはどんなものがあるのか。これはしかし、それこそ報道されなかったがゆえに今でも詳細が不明なものが多い。戦時中であれば、軍艦の沈没や火薬庫の爆発事故などの事例がそうだし、また戦後であれば米軍機の墜落事故などがある。ついでに言えば、米兵の日本人に対する婦女暴行の事例などもそうだ。

 今回ご紹介するのは、「これこそまさに」と言える事例である。報道管制下で完全に隠蔽された事故の最たるもの。鉄道における大惨事中の大惨事。土浦事故でも八高線事故でもない、ごく最近まで報道されずじまいだった日本鉄道事故史上最悪の事例がこれだ。

 時は1944(昭和19)年12月11日、沖縄県島尻郡南風原村(現南風原町)神里付近でのことである。

 まだ朝も早い頃、嘉手納駅から一本の列車が出発した。

 路線の名前は糸満線といった。当時、沖縄県内には県営鉄道が存在しており、それによって運営されていた路線である。

 沖縄の鉄道路線は、明治期からずっと資金面の問題があって整備されていなかった。それがやっと県営という形で叶ったと思えば今度はバスがのしてきて、いったんは鉄道の存在感が薄れたものの、軍事輸送に使えるということでまた復活。通常ダイヤを取りやめて、軍用路線として使用されるようになっていた。

 事故当時も兵員の輸送が行われていたという。ちょうど、沖縄に駐屯していた第9師団が台湾へ出て行き、入れ替わりに第24師団が送り込まれたところだったのだ。この移動は大規模なものだった。

 列車は6両編成で、さらに途中の古波蔵駅では2両を増結し8両となった。客車と貨物車両が何両ずつの組み合わせだったのかは不明だが、どちらも相当数あったと思われる。先述の通り兵員も多く運ばれていたし、通学のための女学生も乗り込んでいたというからだ。

 そしてこの列車、糸満駅に向かって発車したのはいいのだが、途中で大爆発を起こしたのだった。

 悪いことに、この列車には弾薬もたっぷり積まれていた。次々に誘爆が発生し、乗っていた兵士も女学生も爆発と火災に巻き込まれて約220人が死亡した。

 220人だぜ220人。これは、西成線ガソリンカー火災の死者数を越える鉄道事故史上最悪の数字である。

 え、爆発の原因はなんだったのかって?

 ごめんなさい、それは不明である。それこそまさに、戦時下の報道管制下で緘口令が敷かれたせいだ。昔のテレビ特捜部で紹介していた番組を真似て言えば「今日、鉄道事故がありました。原因は不明です。」といったところである。素っ裸のお姉さんがそういうニュース報道(笑)をする番組、あったよね。

 あっさりし過ぎているようだが、事故の経過は以上である。この一件は内密に処理され、しかもこの後には沖縄戦が開始。米軍の占領下で鉄道施設も破壊され、県営鉄道も実質廃止となり、事故の記憶は闇から闇へと葬られる形になった。

 もちろん、情報が全くなかったわけではない。昭和50年代には、ごく簡単な記載ではあるが、この事故のことが沖縄関連の書籍に記されるようになった。ただしそれは、地元で発行されている詳細な辞典に限られた。

 では詳細が明らかになったのはいつかというと、驚くなかれ、たったの3年前、2008年なのである(2011年現在)。筆者は未確認なのだが、この記録を発掘したのは桃坂豊氏という鉄道マニアであるという。

 ほぼ断言できるが、当『事故災害研究室』の読者の方も、ほとんどはこの事故のことは知らなかったと思う。あったのですよ、こういう悲劇が。事故発生から60年近くも封印されていた最悪の鉄道事故が、こんなところにあったのだ。

 機会があれば、筆者も詳細を調べてみたいところだ。だが北陸トンネル火災大洋デパート火災などとはわけが違う。山形の図書館程度では資料も全くなかった(そもそも桃坂氏の著作自体が県内にはなかった)。

 ここはひとつ、土浦事故について『木碑からの検証』が書かれたように、どなたかが沖縄で詳細な聞き取りを行って記録書を作ってくれないかと思うのだが、ダメかな。よろしく!

 

   ☆

 

 以上のような状況につき、特にこの事故については随時加筆を行っていきたい。ウィキペディアに載っている以上の情報をお持ちの方は、是非お寄せ頂きたいと思う。

 もちろんそれは、今までご紹介している他の事故災害についても同様である。せっかくなので、そのあたりの注意事項を記しておこう。

 

 *書籍等からの情報であれば、出典が分かる形で。
 *実体験に基づく証言であれば、それと分かる形で。
 *情報の出所が不明な場合は、おぼろな記憶でもいいです(当時のワイドショーで言ってた気がする、とか)。とにかく不明なら不明と明記して下さい。

 

 以上のような形で今まで情報を頂いたケースとしては、川治プリンスホテル火災飛騨川バス転落事故青木湖バス転落事故などのケースがある。メールでもブログのコメント欄でも構わないので、どしどし情報お寄せ下さい。

 

※この「沖縄県営鉄道爆発事故」については、その後、詳細な資料が寄せられたことにより、「その2」という形で新たにルポを書き起こしている。関心がある方はぜひ「その2」の方もどうぞ。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア

 

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沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2

1・「その2」を執筆・公開するに至った経緯

 

 まずは前置きである。

 

 1944(昭和19)年に起きた沖縄県営鉄道の爆発事故については、数年前に一度ルポを書いた。それが「その1」である。それとは別に、このほど新しく「その2」を書いて公開することにした。

 

 なんでわざわざ2つも書いたのか。それには、ちょっとした経緯と事情がある。

 

 「その1」の記事をネット上で公開した直後に、ある方から連絡を頂いたのだ。記事の中で名前を挙げた、桃坂豊氏ご本人である。

 

 桃坂氏も、この事故については調査を続けられており、その中で得られた資料の一部を、筆者に提供して下さったのである。内容はDVDと文書データ。「少しでも、この事故のことを多くの人に知ってもらいたい」とのことだった。

 

 ただ、申し訳ないことに、筆者の個人的な事情から、この資料は長い間手つかずの状態だった。資料の内容があまりにも「重く」感じられ、どう扱えばいいか悩んだという部分もあった。

 

 その、迷った末の結論が、「その1」と「その2」をどちらもネット上で公開するというものだった。桃坂氏から寄せられた新資料に基づき「その2」を書く。それを「その1」ならびに資料とあわせて公開すれば、「その1」から「その2」に至る執筆の経緯が分かりやすくなるだろう。また、事故のことを少しでも多くの人に知ってもらいたい…という桃坂氏の希望にもかなうのではないか(資料へのリンクは次節で示す)。

 

 よって読者の皆さんは、まだ情報が少ないうちに書かれた「その1」を読み、次に、加筆修正がなされた新バージョン「その2」を読むことで、まずは事故の内容を大まかに把握できるだろう。それから最後に「資料編」に目を通せば、より詳細な知識が得られるはずだ。

 

 もしくは、「その1」を読んでから「資料編」を読み、それから「その2」を読むのもいいかも知れない。その流れなら、筆者きうりの執筆の流れというか舞台裏のようなものが、なんとなく見えるかも知れない。もちろん、どう読もうが読者諸賢の自由である。

 

 2・資料について

 

 ここでは、桃坂氏から頂いた資料について簡単に説明しておく。

 

  (1) DVDについて

 

 資料のうち、DVDにはニュース番組を録画したものが収められていた。内容は、2008(平成20)年623日にTBSの「ニュース23」という番組で放送されたもので、タイトルは「月ONE ドキュメンタリー23 戦火に消えたケービン」。時間は30分。沖縄慰霊の日に放送されたもので、番組の制作にあたっては、桃坂氏も大きく関わっているとのことだった。

 

  (2) ルポ「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」について

 

 これはおそらく、桃坂豊氏ご本人が書かれたものである。おそらく、というのは、その後、桃坂氏と連絡が取れなくなっているため確認できずにいるからだ。

 

  (3) 「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」について

 

 これは、地元に住むK氏という方が1970(昭和40)年代後半~1980(昭和50)年代にかけて当時の生存者から聞き取った内容である。それを桃坂氏が書き写したものだ。

 

 ――以上のうち、(1)DVDについては、当研究室では動画などの形では公開しない。著作権等の関係上、ちょっと心配な部分があるからだ。ただ、内容的なものはルポに組み込ませてもらった。また、(2)(3)については、実名が記されている箇所は全て消している。

 

 桃坂氏からは「資料はネット上で使用しても大丈夫」という承諾を頂いている。とはいえメールでの簡単なやり取りで頂いたお返事である。また、現在は連絡が取れていないので、頂いた資料を、ほとんど手を加えない形で公開しても大丈夫だったかどうか、筆者としては少し心配な部分もある。

 

 しかしこの資料は、今まで事故の詳細が一切知られていなかったという性質上、一次資料としてそのままの形で公開するべきという気もする。だから、一抹の不安を抱きつつも、まずはとにかく公開しておきたい。

 

◇「その1」を読む方はこちら

◇資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」を読む方はこちら

◇資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」を読む方はこちら

 

 3・注意点

 

 さて、以上の内容を踏まえての注意点である。

 

 桃坂氏からの頂きものである2つの資料については、もしもネット上で引用などされる場合は、引用元をしっかり示すようにして頂きたい。筆者きうりにいちいち断る必要は(今のところ)ないと思うが、よろしくお願いします。以上。

 

 ――で、これは蛇足だが、それ以外の文章――即ち、当「事故災害研究室」で公開されている、筆者きうりが書いた文章――については、基本的に無断引用・無断転載・コピペは全部OKである。どんどんやって下さい。

 

 なぜなら、もともとが、いろんな文章のツギハギだからである。インターネット上の記事、新聞記事、書籍などから拾い集めて繋ぎ合わせたもので当研究室のルポはできている。だから、筆者としてはあまり独自性とかオリジナリティを主張するつもりはない(もちろん、無断引用などするにしても、当研究室のことを紹介してもらえると嬉しいけど)。

 

 ただし、ルポの内容の信憑性については、保障の限りではない。また筆者も著作権を放棄しているわけではない。そんな感じで、重ねてよろしくお願いしたい。

 

 前置きは以上である。

 

 4・「沖縄県営鉄道爆発事故」

 

 現在、沖縄県には「沖縄都市モノレール線」が存在している。

 

 都市の渋滞解消の切り札として活躍しているそうだ。筆者は東北在住なので実物を見たことはないのだが、写真や動画で確認してみた。跨座式モノレールというらしく、線路にしがみつくような形で走行している姿はなんだか可愛らしい。

 

 ところで、このモノレールについてウィキペディアの説明を読むと、「沖縄では戦後初の鉄道開通となった」という一文を見ることができる。この「戦後初の」という何気ない言葉は、戦中以前のことを知らない人はさらっと読み流すだろう。一方、少しでも沖縄の鉄道史を知っている人はハハア、ちゃんと歴史を踏まえて書いているなと思うことだろう。

 

 今回ご紹介する事故事例を知るまで、筆者には、沖縄といえば「鉄道が存在しない県」というイメージしかなかった。本州に住む人はほとんどが同様なのではないか。だが違うのだ。今から70年以上前――あの戦争が終わりを迎える直前まで、沖縄には鉄道が存在していたのである。

 

 その名は、沖縄県営鉄道。

 

 名前の通り、沖縄県による県営である。ただし、この名前はあくまでも当時の鉄道省における書類上の「正式名称」である。県内では「沖縄県軽便(けいびん)鉄道」「沖縄県鉄道」といった名前が使われていた。軽便とは、762mmのやや幅の狭い軌間の鉄道のことで、県民からは「ケイビン」「ケービン」と呼ばれ親しまれていた。

 

 この鉄道について書くだけでも、ちょっとした歴史の説明になる。事故災害のルポとしては、少しばかり冗長に感じられるかも知れない。しかしこの、沖縄県営鉄道が災禍に見舞われるまでの経緯は、その歴史と密接不可分の関係にある。少し長く感じられてもお付き合い頂ければと思う。

 

   ☆

 

 沖縄で、主要な道路が開通したり改修されたりしたのは、明治末期から大正初期にかけてである。それまでは、県内での交通機関といえば荷馬車や自転車くらいだった。それも使えるならまだいい方で、お金がなければ荷物を肩に乗せて運ぶしかなかった。いわば「前近代的」な状況だったのである。

 

 このままではあまりにもひどい。鉄道を敷かなければならない。……というわけで、株式会社による運営ではどうか? いやいやここは県による運営でいきましょう、といった紆余曲折を経て、1911(明治44)年に敷設が決定した。実際に那覇~与那覇間の工事が始まったのは1913(大正2)年のことだった。

 

 このタイミングは、経済ブームの波とも連動する形だった。第一次世界大戦(1914(大正3)~1918(大正7)年)の影響で、中心都市である那覇と、周辺の地方都市の経済交流は活発になっていった。こういった情勢と鉄道敷設の動きがどれくらい呼応し合ったものだったのかは分からないが、とにかくまあ、いいタイミングだったと言えるだろう。那覇~与那覇間は1914(大正3)に開通している。資金は三十万だった。

 

 沖縄県営鉄道の誕生である。住民の念願が叶って開通したこの路線は、その後も1922(大正11)年には嘉手納へ、翌1923(大正12)年には糸満へと延び、「糸満線」と呼ばれた。総延長はのべ約48キロ。山手線よりも長いものだった。

 

 おそらく当時としては、華々しいデビューだったのではないだろうか。とはいえ、その後も、事業的には決して潤っていたわけではない。資料によると、形式上は赤字経営だったそうな。毎年鉄道省の事務監査を受けつつ、地方鉄道法に基づく国庫補助金を受けていたという。

 

 それでも確かに、県営鉄道の開通は、沖縄に「交通革命」をもたらした。那覇と農村の間で、砂糖や農作物、輸入物資の行き来が活発になり、製糖業などの産業も盛り上がった。また通勤通学にも鉄道は大いに利用された。のどかな沿線で、汽笛を鳴らしながら走る列車は、さぞ多くの人々に親しまれたことだろう。なんだか、その後のことを思うと、このへんの歴史を記述しているだけで涙が出てきそうになる。「涙そうそう」である。

 

 こうして、沖縄本島の交通網は、県営鉄道を主軸として展開していった。1936(昭和11)年の末頃にバスが登場したことで、その存在感が薄れたこともあったようだ。それでも軍事輸送ではまだまだ使い道があるということで、通常ダイヤを取りやめて軍用路線としても活用されるようになった。

 

 1936(昭和11)年と言えば、かの226事件があった年である。日本の政党政治が終わりを告げ、軍国主義的な空気が増していく時代の始まりだ。県営鉄道が軍用路線として活用されるようになったのは、そうした時代の空気を反映しているように思える。

 

 1941(昭和16)年には日米戦争が始まった。日本と、日本人にとっての地獄の始まりである。沖縄も戦時体制に突入し、夏には、中城湾という場所に築かれた臨時の要塞へ司令部が設置された。そこへ軍の資材や食糧が運ばれるようになるなどの動きもあった。それでも、まだこの頃は平和だった。軍事輸送での活用と言っても、まだ軍人の姿は僅かである。時折、兵隊がいたずらで列車を揺り動かすようなことがあっても、それはまだのどかな風景の範疇だった。

 

 1944(昭和19)年3月頃には、県営鉄道は、本格的に軍事物資の補給機関として活用され、運搬優先、軍専用も同然の扱いとなっていた。戦況が際どくなるにつれ、軍需物資の運搬が増えていったのだ。客車は物資運搬のために貨車へと変わり(それでも女学生が通学に使用することは黙認されていたという)、毎朝、部隊の武器弾薬や兵員の輸送に追われる。ときどき、敵の偵察機が飛来しては騒然となる――。沖縄県中南部の山や丘、海岸などには、地下壕や蛸壺壕などがどんどん築かれ、あらゆる公共の施設から農家の民家までもが軍専用のものとして接収。沖縄は戦時体制一色に染まっていった。

 

 

 そして、沖縄の人々にとって忘れがたい日が訪れる。1944(昭和19)年1010日、のちに「十・十空襲」と呼ばれることになる米軍による大空襲の日である。これにより255名が死亡し、那覇市の市街地の9割が消失。火災は翌日まで続いた。県営鉄道も機関車4両、ガソリンカー4両、客車6両などが損害を受け、鉄道管理所と那覇駅は焼き払われた。

 

 この十・十空襲の日の、ある女学生の証言を掲載しておこう。彼女は県営鉄道を利用している時に空襲に遭遇した。鉄道の事故そのものとはさしあたり関係ないが、当時の沖縄県の空気が感じられる一文だ(掲載にあたり、内容の改変にならない程度に手を加えている)。

 

「ある朝、いつもの通り学校へ行くため列車に乗り一息ついていると、高射砲の音が聞こえてきた。列車は国場駅まで進んでいたが、そこから前進しなくなった。何かと思っているうちに、那覇は空襲があり、それ以上列車は運行できないので全員降りて自宅に帰るようにと指示された。列車から降りてしばらくすると戦闘機が飛んでおり、ポンポンしている音が聞こえてきた。次第に空襲は本物であることがわかり、急いで自宅へ逃げ帰った。

 皆ビックリして不安そうに空を眺め、音のする那覇の方向を仰いでいた。その時初めて米軍の沖縄上陸を予想し、深刻に受け止めるようになっていた。私たちの学校は市内にあったが直接の被害は受けず、以前と同じように学校へ通うことができた。しかし街は焼野原となり瓦礫の山となっていた。」

 

 この日以降、沖縄の人々は、空襲のみならず米軍の上陸にも怯えて暮らすことになった。県外疎開も進んだという。そんな中でも、県営鉄道の運行は続いた。

 

 米軍がフィリピンに上陸したのが、同年の1018日である。これを受けて、大本営陸軍部はフィリピン方面を決戦場と決め「「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」と大号令を発した。

 

 こうして、沖縄周辺の兵隊も大きく移動することになる。大まかに書くと、当時、沖縄本島の島尻郡に駐留していた第9師団が、まず台湾へ移動。これは一万三千人を超える大所帯だった。で、その第9師団が築いていた陣地は、第24師団が引き継ぐことになった。こちらも一万四千人以上の人数である。

 

 この第24師団が、島尻郡へ向かう途中で事故に遭遇することになる。

 

 第24師団について少し説明すると――筆者は旧日本軍の体制や歴史について明るくないのでうまく書けないのだが――1939(昭和14)年10月に満州のハルビンで編成されたものだったらしい。1944(昭和19年)2月以降はメレヨン島やサイパン島での戦闘にも関わっている。そんな中で、台湾へ移動した第9師団の担任区域を引き継ぐ形で、駐留していた満州から島尻郡へ移ることになったのだった。あちこちでの戦闘により人員が欠けていたため、沖縄の現地召集者などによって補充しながら再編成されたという(この再編成の動きが、事故よりも前のことだったのか、後のことだったのかは不明)。

 

 余談めくが、この第24師団の中には、山形県の鶴岡で編成された部隊も含まれていたという情報もある。もしもこれが本当なら、山形県出身・在住である筆者としては何かの縁を感じずにはおれない。

 

 さて、第24師団に配備変更の命令が発せられたのは、1126日である。スケジュールとしては、1267日に、主力である歩兵連隊がまず移動し、続いて89日に他の連隊が、そして10日に衛生兵が出発することになった。彼らの島尻郡への移動は11日には完了する予定だった。

 

 基本的に、10日までの兵員の移動は順調に進んだようだ。人の運搬がほとんど終わったところで、次は武器弾薬である。これは嘉手納駅に集められて、県営鉄道によって島尻へ運ばれることになった。

 

 また、これと一緒に移動する兵員もいた。多くは610日の夜間行軍で移動を済ませていたが、病気などで夜間の移動に耐えられない一般兵や初年兵がいたのだ。彼らは、移動スケジュール最終日の11日に、武器弾薬とともに県営鉄道に乗り込んだ。

 

 こうして、悲劇の1944(昭和19)年1211日を迎えることになる。

 

   ☆

 

 月曜日、天候は晴れときどき曇り。この日の夕刻に、糸満線の嘉手納駅から一本の汽車が出発した。沖縄の人々が、親しみを持って「ケービン」と呼んでいた小ぶりな機関車である。しかしそれが引っぱる貨車の積み荷は剣呑だった。6両の無蓋貨車には枯れススキがかぶせられ、その下には弾薬がぎっしり。車両には、他にも150人前後の兵員が乗っていた。

 

 ケービンは南へ進んだ。最初に到着したのは古波蔵(こはぐら)駅である。衛生兵約60名と、帰宅する女学生45人が乗り込んだ。

 

 ここで、燃料補給のために機関車が貨車から切り離され、いたん那覇駅へ移動。再び戻ってきた機関車は、帰宅中の女学生5名と、ドラム缶と医薬品が積まれた貨車2両を引っぱってきた。古波蔵駅の6両と合体し、合計8両となって出発。

 

 次は津嘉山(つかやま)駅に到着。午後4時のことである。ここでも女学生2人が乗り込んだ。

 

 さらにケービンは進む。150人以上の乗客と武器弾薬を積み込んでいるので、スピードはかなり落ちていた。しかも、山川駅と喜屋武(きゃん)駅を過ぎれば今度は上り坂である。真っ黒い石炭の煙を吐きながら、列車は這うようなスピードで進んでいった。

 

 やがて列車は神里(かみざと)の東側のはずれ、南風原(はえばる)村(現・南風原町)神里に入り、田園と小川を横切っていく。午後四時三十分。稲嶺に向かう切通し付近で、上り坂に差しかかった――。

 

 そこでケービンが突如として大爆発を起こした。この時の轟音は、那覇市をはじめ、島の全域に響き渡り、付近では地響きもあったという。

 

 最初の発火(爆発)の原因は、一両目に積まれていたガソリンだったようだ。火炎は、貨車に積まれた弾薬にも引火し、次々に誘爆が発生。周辺一帯はたちまち火の海と化した。乗っていた人々も爆発と火炎の餌食となっていった――。

 

 以下では、この現場に居合わせた人々の証言である(掲載にあたり、内容の改変にならない程度に手を加えている)。まずは、当時48歳だった機関手。

 

【証言1】

1211日も、朝から緊急輸送命令を受けて、武器弾薬と兵員の輸送に当たっていた。

 私は直ちにブレーキをかけたが、強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み、頭部、両手、両足に火傷を受け、さらに両耳に爆風が吹き込んだ。それ以来、耳に不調をきたした。

 私は列車より脱出し、近くの稲嶺駅に駆け込み本部に電話連絡しようとした。しかし電話線が切れ不通となっていた。さらに東風平駅まで走ったが、同様に不通であった。

 私は茫然となり、県道を那覇へ向って進んだ。奇跡的にも私は生き残っている。どうして助かったのか私自身よくわからない。同乗者の機関助手一人と車掌二人はその場で不明となった。

 その時の火傷の後遺症と耳の不調は、私の一生につきまとう。

 数百人の人間が日本軍の弾薬によって畑に散り、虫けらのように死に絶えて行った事実は殆んどの人が知らない。

 沖縄での戦争は、米軍との決戦以前から、一般住民に対して犠牲をしいるだけであった。

 罪のない多くの国民を大量に殺していくのが戦争の実態である。

 あの時の、恐ろしい悪夢の思い出は八十才過ぎた今日でも脳裏に焼きついて離れない。」

 

 次は、当時乗り合わせた女学生の証言。那覇駅で乗り込んだ女の子たちの一人である。

 

【証言2】

「三、四人は有蓋貨車の外側に立ち乗りした。

 古波蔵駅に着くと、兵隊がいっぱい乗っている貨車六両くらいにつながれ、ゆっくりと糸満に向けて発車した。

 前方で火を見たとたん非常に危険を感じ直ぐ飛び降りた。

 火の海の中を走り抜けたような気がする。

 しかし、その時は気が動転して記憶もさだかではないが、逃げ出した時には髪の毛と着物に火がついていた。

 たまたまそこに小川があったので、飛び込んで火を消したが、気が遠くなるような気がして座り込んでいた。

 そこへ、遠巻きにしていた兵隊が走ってきて肩を貸してもらい、付近の農家に案内された。しばらくしてからトラックで南風原小学校の陸軍病院へ運ばれた。

 運び込まれた陸軍病院には、黒焦になった者、全身皮がむけた者、何十人もの人々が床の上でうめき声を上げ、殺してくれと叫びながらのたうち回っていた。

 一週間の間に、ほとんどの者たちがバタバタと死んでいった。

 自宅治療をしたが、二ヶ月間痛さで苦しみぬいた。」

 

 この二つの証言だけでも気が滅入ってくるが、事故の全体像から見ればまだ序の口である。爆発と火災が発生したのは、鉄道車両だけではなかった。当時、線路周辺――神里の東原という場所だそうだ――のサトウキビ畑には、折悪しく日本軍の弾薬が隠されていたのだ。これにも火が燃え移って誘爆が発生し、爆発現場から200300メートル離れた民家にまで被害が及んだという。村人たちは、近くの壕や山川地区方面へ急いで逃げるしかなかった。

 

 大惨事である。鉄道車両が大爆発し、そこを中心に辺り一帯が激しい火災に見舞われたのだ。現場には誰も近寄れなかった。ちなみに、事故を起こした列車の最後尾の一両は連結がブチ切れてしまい、火災の状態のまま津嘉山駅へ流れていったという。積まれていた弾薬と乗客は、全て火炎に呑まれた後だった。

 

 事故の急報は、この時の第24師団の病院である東風平(こちんだ)国民学校(現在の東風平中学校)にもたらされた。そこには、師団の移動によって910日のうちに移っていた衛生兵――医療に従事する兵隊のことだ――たちがいた。

 

 彼らはただちに現場へ急行。しかし凄まじい火災で、遠巻きに眺めているしかなかったという。先の証言から推測すると、彼らにできることといえば、火災の中から脱出してくる人を救助することくらいだったろう。

 

 事故発生が四時半と夕方だったので、ようやく救助活動が可能になった頃は、あたりは夕闇に包まれていた。衛生兵たちは携帯の電灯などを使って現場へ踏み込んだ。そして手探りの状態で、まだ息のある者を助け出しては、当時の陸軍病院である南風原小学校へ運搬。既に息絶えた者は、東風平国民学校へ安置された。

 

 しかし、さすがに暗闇の中では作業も進まない。おそらく当時は、投光器のような便利な道具は当地にはなかったのだろう。救出・収容作業は翌日に持ち越され、翌12日はさらに多くの人が作業に駆り出された。

 

 陸軍病院に収容された者の多くも、事故後一~二週間の間に苦悶のうちに息を引き取っていった。詳細はここでは書かないが、資料によるとその場所は「地獄のような有様」だったという。また、火傷の状態が比較的軽い女学生たちは家族に引き取られ、自家治療することになった。怪我の回復には何十日もかかった。このあたりは、先の証言の通りである。

 

 もちろん警察も放ってはおかない。事故発生を知った与那原(よなばる)署は、密かに現場へ警官を送り込んでいる。しかしそこでは軍が縄を張って復旧作業と原因調査にあたっており、立ち入ることはできなかった。

 

 この時から、すでに軍では「不祥事隠し」が進んでいたのだろう。事故が起きた年の3月に沖縄本島に司令部を置いたばかりだった第32軍(「軍」は「師団」よりも上位にあたる)は、民間人の動揺と、大本営から怒られるのとを恐れて隠蔽にかかっていた。縄を張って現場を封鎖したのは、いわば「隠蔽工作その一」である。

 

 次に、隠蔽工作その二。この事故で死亡した兵員はかなりの人数に上ったが、その遺体は密かに火葬された。遺体の安置所となった東風平国民学校では、兵員による合同の葬儀が行われたそうだが、それは民間人の知るところではなかった。

 

 隠蔽工作その三。それ以外の犠牲者の遺骨も、密かに処理された。女学生の骨箱は遺族へ。軍人のものは各中隊へ――。事故の内容自体が民間人には秘密とされたので、遺族は泣き寝入りするしかなかった。

 

 その四。地元の新聞には記事が一切載らず、完全な箝口令が敷かれた。例えば戦後に基地問題を訴え続けたかの大田昌秀元県知事すらも、この事故のことは知らなかったというし、戦後に戦史を整理してきた防衛庁戦史室も、この事故のことは第62師団の会報綴によって初めて知ったという。

 

 よって、この事故の詳細な被害状況が明らかになるのは、もっとずっと後のことである。なのでこれは時系列的には矛盾するのだが、最終的に判明した被害状況について、死者数をまとめておくと以下の通りになる。

 

・軍人の死者……210名前後

・女学生の死者……8

・鉄道職員の死者……3

・生存者……3

 

 鉄道事故として見れば、この死者数は日本の鉄道事故史上最悪である。西成線ガソリンカー火災よりもひどい。

 

 一体、爆発の原因はなんだったのか。今となっては推測するしかないが、最も有力なのは「石炭の火の粉が引火した」説である。

 

 県営鉄道は石炭を燃料としていたため、火の粉がよく出たのだ。しかも事故が起きた現場は急な上り坂なので走行するには馬力がいる。そこで無理がかかる。鉄道員たちは、この坂に差しかかると古い石炭の燃えカスを捨てて、新しいのと交換して火力を上げるようにしていた。

 

 そのため、周辺のサトウキビ畑では、毎日のようにボヤ騒ぎが起きていたという。今から見ればとんでもない話だ。周辺の農家たちは、毎度「またか!」とぼやきながら消火にあたっていたという。

 

 このような状況で、ガソリンと武器弾薬を積んだ列車が通過したのである。むしろ、何も起きない方が奇跡的とすら思えるのは筆者だけではないだろう。……もちろん、本当のことは誰にも分からないのだけれど。

 

 さてところで、純粋な事故のレポからは少しずれるが、ひとつ興味を引く資料がある。事故直後の13日に、第32軍の参謀長から各部隊へ出された「注意事項」である。以下に掲載するが、今の時代から見るとはなはだ読みにくいので、後ろの方で簡単にまとめてみた。よかったらそちらをどうぞ。

 

「山兵団ハ神里付近ニ於テ列車輸送中兵器弾薬ヲ爆発セシメ莫大ナル損耗ヲ来セリ一〇・一〇空襲ニ依リ受ケタル被害ニ比較ニナラザル厖大ナル被害ニシテ国軍創設以来初メテノ不祥事件ナリ、此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナラズ、此レ一二兵団ノ軍紀弛緩ノ証左ニシテ上司ノ注意及規定ヲ無視シタル為惹起セルモノナリ、無蓋車ニ爆弾ガソリン等ヲ積載スベカラザルコトハ規定ニ明確ニテサレアルトコロニシテ常識ヲ以テ判断スルモ明ラカナリ、輸送セル兵団ハ言フニ及バズ此レガ援助ヲ為セル兵器兵姑地区隊モ不可ニシテ夫々責任者ハ厳罰ニ処セラルベシ、該事件ノ如キハ署亜罰ノミニテ終ルベキ性質ノモノニ非ズ、戦争ニ勝タンガ為、第一線ニテ不自由ナカラシメンガ為銃後国民ガ爪ニ火ヲ燈すが如ク総テヲ犠牲ニシテ日夜奮闘シテ生産セルモノニシテ銃後国民ノ赤誠ニヨルモノナリ、作戦上ノ必要ニヨル消耗ハ止ムヲ得ザルモ敵一兵ヲモ殺傷スルコトナク莫大ナル消耗ヲ来セルハ面目ナキ次第ナリ、兵器弾薬燃料ノ分散格納不十分ナリシ為カカル莫大ナル損耗ヲ来セリ各兵団ノ兵器、弾薬ノ他ノ軍需品ノ分散格納モ極メテ不十分ニシテ普天間、宜野湾付近ノ道路ノ両側ニ多量ヲ集積シテアリタルモ艦砲射撃ヲ愛クレバ必ズ爆発燃焼スルハ明瞭ナリ、各部隊、兵器弾薬ハ速カニ掩蔽部ニ格納スベシ人員ノ掩蔽壕ハ遅ルルモ兵器弾薬速カニ掩蔽部ニ格納スルヲ要ス。戦ハ大和魂ノミニテ勝チ得ルモノニ非ズ兵器弾薬ハ戦勝上欠クベカラザルモノナルハ言ヲ俟ズ、軍ハ該被害ニヨリ戦カノ半数以上ヲ減ジ如何ニシテ之ガ前後策ヲ講ズルカニ腐心シアリテ軍ノ戦闘方針ヲ一変セザルベカラザル状況ニ立到レリ、今敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状ニシテ今後弾薬等ノ補給ハ至難事ナラン、将来兵団ニ交付シアル兵器弾薬、其ノ他ノ軍需品ヲ焼失爆発等セシメタル際ハ軍ニ於テ補給セズ、其ノ余力ナシ兵器、弾薬等国情ヨリ見ルモ豊富ナラズ各隊ハ極力兵器ノ愛護、弾薬ノ節用ニ勉メ仮初ニモ過失ニヨリ戦力ヲ失セザル如ク注意セラレ度、軍司令官ノ心痛ヲ見ルニ忍ビズ其ノ意図ヲ体シ各部隊ニ一言注意ス」

(昭和191214日付、石兵団会報94号より)

 

 要点を簡潔に書くと、

「ガソリンをむき出しで積んで輸送すんなって言っただろ!

 決まりを守らないからこんなことになっちまったじゃないか…。

 敵と戦ったわけでもないのに、戦力が半分以下になっちまったよ!!

 今、敵が上陸してきたら俺たち玉砕するしかないんだぜ!?

 残りの弾薬、大事にしろよな!!!

 ――という感じだろうか。

 

 先に、事故の被害状況について、後に判明した死者数を記した。今度は、事故によって失われた物品の数量を書いておこうと思う。

 

・武器弾薬……貨車6輌分

・ガソリン……貨車1輌分

・医薬品……貨車1輌分

・畑に積まれた弾薬……数千トン

 

 である。以上のことから推測するに、この鉄道爆発事故で軍は物品不足となり、窮地に陥ったのだ。だとすると、この物品不足の状況は、その後の沖縄戦にも大きな影響を及ぼしたのではないだろうか。単純で荒っぽい言い方をすれば、事故のあるなしで、沖縄戦の結果も少しは違っていた、かも知れない。その後の沖縄の歴史を考えれば、この事故は単なるいち失敗談ではなく、歴史的事件と言える、かも知れないのだ。

 

 また、最近はあまり論じられることがなくなってきた気がするが、集団自決の強制問題にも少しばかり関わりそうだ。沖縄戦で、住民が自殺したのは自発的なものだったのか軍の強制があったのかという論争である。上記のように、軍では武器弾薬が大量に失われて、なけなしの残り物は徹底的に管理されていたはずである。だとすれば、強制があったとする立場から見れば「きちんと管理されていた手榴弾が、簡単に民間人の手に渡るはずがない。やっぱり軍の強制だったんだ」となるだろうし、反対の立場から見れば「残り少ない稀少な武器を、民間人の自殺なんかで無駄に使わせるもんか。軍の強制は考えられない」となりそうである。

 

 もちろん、ここでなんらかの結論を出すことはできない。これはただのルポである。推測は推測として読んで頂きたい。

 

   ☆

 

 その後の話である。

 

 振り返ってみれば、沖縄県営鉄道が活躍した年数は、決して長くはなかった。辛うじて運行が続いていたのは1945(昭和20)年3月までで、4月には米軍の上陸に伴って完全破壊されている。

 

 当時の那覇駅は、現在はバスセンターである。線路も、戦後には農道になったりつぶされたりした。そもそも戦争末期の頃には線路のレールまでもが軍に供出され、戦闘の現場で銃眼を作るのに使われたりしている。かつての鉄道の痕跡は、今ではほとんどない。ただ関係者の記憶と写真だけが、歴史を辿るよすがとなっている。

 

 資料によると、戦争末期の沖縄戦における戦没者数は、1975(昭和50)年3月の時点で以下の通りに数えられている(ちなみに戦没者の遺骨は「柱」という単位で数える)。

 

・軍人軍属……94,136柱(うち沖縄県外の人は65,908柱、沖縄出身の人は28,228柱)

・一般住民……94,000

 

 合計で188,136柱である。完全に網羅されているとは思えないので、おそらく一般住民の戦没者は10万人を超えるだろうと言われている。一般住民の犠牲者が軍人軍属をこれほど上回る悲惨な戦闘は、世界でも類例がないそうだ。

 

 言い方はよくないかも知れないが、これほどの犠牲者数では、軍による箝口令がなくとも、鉄道事故の悲劇がかすんでしまうこともあったかも知れない。そんな風にも感じる。

 

 筆者の勝手なイメージになるが、いわゆる「あの戦争」もまた、国家単位での壮大な「過失」「事故」「失敗事例」と捉えられるだろう。であれば沖縄県営鉄道の爆発事故もまた、あの戦争の一部だったと言えると思う。

 

 当研究室では、戦時中から戦後にかけて起きた事故災害のうち、今では忘れられかけているものが、どれもこれも「軍部によって隠蔽された」とというのは真実ではないだろうと書いてきた。だが、特に軍部の不祥事にあたるケースでは、確かに隠蔽工作が行われたものもあるようだ。例えば、ずっと前に書いた玉栄丸の爆発事故がそうである。当研究室では、そうした事例も分かる範囲でコツコツ掘り起こしてまとめられたら……という思いでいる。

 

 軍部のグダグダのせいで「なかった」ことにされてしまった死者たちは、一体どれほどに上るのだろうか。都合により報道されずじまいだったというならまだしも、である。隠蔽された事故などというのは、教訓が将来に引き継がれることもなく、死者が慰霊されることもなく、遺族の悲しみが癒されることもないのである。ただ知られざる犠牲があるだけだ。

 

 沖縄県営鉄道の事故については、今までもウィキペディアなどである程度書かれてはいた。そこへ、もっと詳細な内容を肉付けして、これくらいの密度でインターネットで公開するのは、おそらく当研究室が初めてだろう。

 

 余談だが、県営鉄道で破壊された機関車は、もともとは大船渡あたりの鉄道から譲渡あるいは払い下げられたものだったらしい。真偽のほどは未確認だが、これが本当なら、先述の第24師団の出自といい、奇妙なところで東北と縁がある事故事例だと思う。そのルポを、山形在住の筆者が発信するのだから。

 

 本稿を執筆するに至った経緯については、既に書いた。より詳細な内容を知りたい方は、別掲の資料に目を通して頂きたい。

 

 この事故のことが、より多くの人に知られますように。

 

 資料を提供して下さった桃坂豊氏にも、心より御礼申し上げます。

 

【参考資料】

◆ウィキペディア

◆TBSニュース23「月ONE ドキュメンタリー23 戦火に消えたケービン」(2008(平成20)年6月23日放送)

資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」

資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」

 

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