目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

閉じる


<<最初から読む

91 / 149ページ

安治川口ガソリンカー火災(1940年)

 筆者が勝手に「小心者の事故」と呼んでいる鉄道事故が3つある。福知山線の事故、昭和18年に起きた常磐線土浦駅での衝突事故、そして今回取り上げる安治川口駅のガソリンカー火災である。

 この3つの事故に共通しているのは、事故が起きる要因を作った鉄道員が当時パニックに陥っており、そのせいで気が動転してまともな判断が出来なくなっていた(と思われる)点である。

 別に彼らが本当に「小心者」であったというわけでは無い。ただ、彼らの所属していた組織や時代の空気が、精神的に多大なストレスをかけていたことは明らかだと言いたいのである。

 筆者はこうした人々の気持ちが痛いほど分かる。焦ってパニックに陥り、自分で自分がコントロール出来なくなり、焦りがさらに焦りを生み被害を拡大していくという出来事は決して珍しくないのだ。だから上記の3つの事故は、筆者にはとても哀れなものに見える。

 さて、1940年(昭和15年)1月29日のことである。

 今からほぼ70年前にあたるその日の朝、大阪発桜島行き下り第1611列車は、超満員の状態で走っていた。乗車していたのは、主に沿線の工場へ出勤する人々であった。

 その路線の名は、西成線といった。現在ではテーマパークへのアクセス路線としても賑わっているJR桜島線である。だが当時は工場施設が集中する臨海地域の出勤路線として用いられていたのだ。時は日中戦争真っ只中。国内では、重工業を中心に軍需産業が大盛況だった。

 下り第1611列車は、間もなく安治川口駅の構内に入ってきた。この時の速度は時速20キロ。当時は国策で燃料の節約が指導されており、下り勾配はアイドリングの状態で惰性で走るよう定められていたのだ。なんかこう、長閑な走り方である。

 ところがこの時、安治川口駅の信号掛にとっては長閑どころの話ではなかった。この下り第1611列車は定刻よりも3分遅れており、そのせいで他の列車の運行にも影響が出そうな状況だったのである。

 何せ、燃料をケチって惰性で鉄道を走らせることを国策で定めていたような時代である。鉄道もまた燃料の消費に対して神経を尖らせていた。もしもダイヤ全体に遅れが出れば、燃料の浪費ということで上司に怒られる……。この信号掛の胸中にあったのはそんな不安だった。

 しかも目の前の第1611列車は、そんな彼の気も知らずにのろのろと呑気な速度で構内に入ってくる。ますます焦りは募り、何を血迷ったのかこの信号掛は、列車が通過中だというのにいきなりポイントの切り替えを行ってしまった。

 本来なら、これは後続の別の列車に対する切り替えとなるはずだった。この切り替えを行うことで、確かに後続の列車に出発の合図を出すことになり、それが通過するための準備も整ったわけである。ただ、肝心の先行列車がポイントの上を通過中だったのが大問題だった。

 通過中だった1611列車にしてみればとんでもない話である。これを乗用車で例えれば、前輪は右に向かって走っているのに後輪だけが無理やり左を向かされたようなものだ。思いも寄らない事態に遭遇した3両目の車両は、あれよあれよと言う間に、枝分かれした線路の間で横向きになって脱線した。そしてそのまま横転して横滑りした挙句、電柱にまでぶつかった。もう散々である。

 とはいえ、なにぶん時速20キロの惰性での走行である。おそらくこの時点では死傷者はほとんど出ていなかったことだろう。

 問題はここからである。この脱線のせいで燃料のガソリンが漏れ出したのが運の尽きだった。

 列車の燃料が、石炭でもなく軽油でもなく電気でもなくガソリンである、と聞いて奇異に思われる方もおられるかも知れない。実は、軽油を使うディーゼルエンジンよりも、ガソリンエンジンの方が小型軽量化が利き技術的には作りやすいのである。

 もちろん総合的に見ればガソリン動車よりもディーゼル動車の方が運転効率は良く経済性も高い。また安全だし馬力もある。それでも鉄道の気動車がディーゼルカーへと切り替わるには、戦後までの技術発展と、何よりもこの事故の教訓を俟たなければならなかったのである。

 時刻は早朝の6時56分。漏れ出したガソリンに引火し、大阪湾から吹き付ける西風は火勢を煽り、横転した3両目はあっという間に炎に包まれた。発火源が何だったのかは諸説あるようだが、車両の蓄電池回路からのスパークが発火源だった可能性が高いという。

 時速20キロで走る車両がゴロリと横転しただけだったら、まだ可愛いものだった。ところが事態は一転して遂に大惨事である。しかも車両は鮨詰めの超満員。何せ当時のこの路線のラッシュアワー時は、毎朝の乗車率が300%を越えてもまだ通勤客を運び切れない輸送状況だったというからもう無茶苦茶である。こんな状況でガソリンに引火されたらもう笑うしかない。いや、笑わないけどさ。

(余談だが、連休中などの新幹線の乗車率が100%を越えた、などとニュースで報道されているのを聞くと、事故マニアとしては「そんなに乗せていいのか?」といつもゾッとせずにはおれない)

 さて、この横転し炎上した車両の番号は「42056」。後日「死に頃」「死に丸殺し」などと言われることになる(ひでえな)この車両は、横転してしまったため脱出が極めて難しく、そのせいもあって多くの人が逃げ遅れた。

 そんな中、この車両に乗っていた車掌の大味彦太郎氏の行動は今でも伝説的である。当時31歳だった大味車掌は、自らは楽に脱出できる場所にいたにも関わらずすぐには逃げなかった。彼は車掌室の窓ガラスを割って自分の肩を踏み台にし、乗客の脱出と救助にあたったのである。

 大味氏自身が外部から救出された時には、下半身に大火傷を負っていた。氏は痛い痛いと呻きながらも「気の毒なことをしました。乗客の方はどうですか、当時はまったく無我夢中でした」などと語り、その日の夜に妻子に見守られながら亡くなったという。

 31歳と言えば、これを書いている筆者よりも1つか2つ上という程度の年齢である。なんだこの英雄は。書いているこっちまで泣けてくるじゃないか、畜生。

 しかし、もはや一人の死で嘆いているような状況ではなかった。この火災による死者は191人に上り、重軽傷者は82人にまで達していた。死者はほとんどが窒息死で、150名以上が即死だったという。

 奇跡の生還としか言いようのないドラマもあった。燃え上がった車両の中が焼死体で満杯だったのは言うまでもないが、消火後の遺体収容作業の最中、その満杯の遺体の下から2人の生存者が見つかったのである。他の犠牲者達の体で包み込まれていたお陰で、煙も吸わず炎に巻かれることもなかったのだ。

 そしてなんと、この路線は半日で運転を再開した。

 現場が工業地帯として重要拠点だったからなのだろうが、それにしても驚異的なスピードである。この事故、死者数も日本一なら復興速度も日本一なのではないだろうか。

 また事故後の対応も実に速やかだった。事故の原因となった、「列車が通過中のポイントの切り替え」が出来ないように安全装置が据え付けられたし、さらにこの路線はほとんど間を置かずに電車路線へと転換を遂げている。

 なんつーか、ここまで高速で復興されるとかえって非人道的な気がしなくもない。「出来るんなら最初からやっとけ」と突っ込みたくなるのは筆者だけではあるまい。

 事故を起こした哀れな信号掛は、大阪地裁にて有罪判決を受けた。業務上汽車転覆致死罪として禁固2年というものだった。

 現在でも、安治川口駅のそばにはこの事故の慰霊碑があり、そこに刻まれている犠牲者の名前の数は、鉄道事故のものとしては本邦一である。今でも供え物や献花は後を絶たないらしく、70年経っても事故の記憶は完全には風化していないようだ。

 ちなみに、最後にまた縁起の悪い話で恐縮だが、日本の有名な大量殺人事件に『八つ墓村』や『龍臥亭事件』のモデルとなった津山三十人殺しというのがある。これは大量殺人の死者数の世界記録を40年以上も保持し続けた物凄い事件なのだが、これが起きたのが昭和13年。安治川口でガソリンカーが炎上して、鉄道事故での死者数が日本一を記録する僅か2年前のことだった。

 大量死の時代は、こんな風に始まっていたのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■


米坂線脱線転覆事故(1940年)

 筆者の住んでいる山形県でも、過去にいくつかの大きな事故災害が発生している。

 その内容を見てみると、やはり冬場に起きているものが多い。それで改めて雪国の苦労というものを実感するわけだが、今回ご紹介する米坂線脱線事故もその一例である。

 1940年(昭和15年)3月5日のことである。

 3月の上旬と言えば、山形県では雪解けにはまだ早い。しかしこの日は、雪が雨に変わりそうな気配が朝からあったという。

 そんな中、米沢駅発・坂町行きの下り103列車は、朝8時45分頃に小国駅を出発した。

 当時の米坂線(現在はもちろんJR米坂線)は、開通してからまだ4年弱という新しい路線だった。貨物列車3両と客車2両が一体になった103混合列車は、この線路をガタンゴトンと進んでいく。

 次の停車駅は玉川口駅である。だがしかし、この103列車が玉川口に到着することはなかった。

 

   ☆   ☆   ☆

 

 さて、ところ変わって玉川口駅である。

 当時ここには駅長と駅員、それに除雪の人夫や列車待ちの乗客など大勢の人がいたという。

 実はこの玉川口駅は後年には駅そのものが廃止されてしまっている。あまりにも利用客が少ないというのがその理由だったのだが、当時は地元の人にとっては需要もあったのだろう。

 されこの日、103列車が小国駅を発ったという知らせを受けると、駅員たちはすぐ持ち場へ出た。予定では間もなく到着するはずだ――。

 するとその時である、駅舎の警報ベルが突然鳴り出した。雪崩監視所からの通報である。

 小国駅と玉川口駅の間には、荒川という川がある。列車はこの荒川に掛かっている鉄橋を渡るわけだが、そこで雪崩が発生したという知らせだった。

「おい、雪崩だってよ」
「マジすか先輩」

 駅員たちは線路の向こう、小国駅の方向に目を向ける。小さな山があるため、カーブの向こうの様子は見えない。だが、山の陰から白い煙が上がっているのは見えた。機関車の蒸気である。

 悪い予感がした。列車は大丈夫だろうか?

 駅員たちがそちらの方向へ向かおうとすると、逆方向から保線区員が走ってきた。彼はよっぽど衝撃的な何かを見たらしく、雪の上を何度も転びながら駆けて来る。ああ、こりゃヤバイよ。ただ事じゃないよ。

 果たせるかな、事故であった。

 だがしかし、駅員たちが現場で見た光景は想像を遥かに越えた凄まじいものだった。鉄橋から列車が落っこちて、荒川に向かって中ぶらりんになっていたのである。先頭の列車は水没している。

 橋は無残に破壊されていた。雪崩のせいである。鉄橋の隣の山で雪崩が発生し、それが鉄橋の橋脚を切断してしまったのだ。そして運悪く、103列車はその直後にこの橋に差しかかったらしい。

 あわわ、どうしようどうしよう。玉川口駅から事故現場を見に来た人たちは、なす術もなかった。事故現場は荒川を挟んで向こう岸である。橋は崩壊している上に、荒川は雪解け水で増水している。救出活動なんてできっこない。

 そうこうしているうちに、もっとひどいことになった。

 前の3両の貨物列車は荒川に転落しており、続く1両の客車が宙ぶらりんになっている。そして残る客車は線路の上に残っていて無事だったのだが、宙ぶらりんになっていたほうの客車が突然火を噴いたのだ。

 どうも、車内に備え付けてあった暖房用のストーヴから燃え移ったらしい。客車のガラスが割れて黒煙と炎があがった。

 大惨事である。燃え盛る客車の窓から這い出たものの川へ転落する者がいる。また助けを求める者もいる。しかし玉川口駅から来た駆けつけた人々はどうすることもできなかった。

 ついこの間には安治川口のガソリンカー火災があったばかりだ。しかし東北で雪に埋もれる冬を過ごしている人々にとっては、それはあくまでも遠い世界の出来事のはずだった。よもや、自分達の目前で同じような事故が起きるとは!

 ところでこの事故、橋脚があっさり破壊されてしまった原因は何だったのだろう?

「雪崩でしょ」。それはその通りなのだが、悪い偶然も重なっていた。この時の雪崩の雪の量は5,000平方メートル。まあ規模としては普通なのだが、これがが雪崩防止柵の鉄のレールを叩き壊してしまい、さらにそのレールが、橋脚をピンポイントで破壊してしまったのである。

 橋脚にも問題はあった。

 筆者は専門家ではないので上手くは説明できないが、コンクリートというのは砂利、砂、水の混合物であるため、比重の重い砂利や砂は下に沈む。そのため当然、反対に水っぽくなる部分もある。その状態でコンクリが固まると、どうしても強度に差が生じるらしい。

 で、水っぽいコンクリが固まった部分にさらにコンクリートの塊を繋げると、その接続部分の強度は心もとなくなる。この事故で破壊された橋脚は、まさにその部分をスパッと切断されてしまったのである。

 事故はこのようにして起きたのだった。人々が茫然と見守る中、客車を包んでいく炎はみるみるうちに延焼し、今度は水没した貨物列車の方に引火して数回の爆発を起こした。

 駆けつけた人々は、その場で跪いて合掌するしかなかった。40名以上の者たちが、救出活動を行うこともできないまま雪の上に平伏していたという。

 死者16名、死者30名。開通したばかりで、気象に対する経験が足りなかった路線の悲劇であった。この事故の後、現場の山の斜面には雪崩を分断するための分流堤が設置されている。

 また玉川口駅から駅員たちが駆け付け、平伏していた(と思われる)場所には、今でも慰霊碑が建っている。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■


土浦事故(1943年)

 正真正銘の「忘れられた事故」である。

 1943年(昭和18年)10月26日、18時40分頃のこと。常磐線土浦駅では、一台の貨物列車の入れ替え作業が行われようとしていた。

 駅の「裏一番線」には、ちょうど貨物列車が到着したところ。この列車の先頭の機関車に石炭の補給をするため、別の機関車と交換するわけである。

 まず、到着したばかりの列車の機関車部分が切り離される。そして機関車だけが単独で線路を進み、駅構内の12・13号ポイントをそれぞれ通過して上り本線に入った。そしてその上り本線をさらに移動し、石炭の補給場所に向かっていった。

 つまりこの時、12号ポイント→13号ポイント→上り本線へと機関車が進むようなルートが出来上がっていたわけである。

 さて「裏一番線」に残された貨物車両には、別の機関車がバトンタッチする形で連結した。今度は、この機関車が貨物車両を引っぱって、貨物線と呼ばれる路線に入っていくことになっていた。

 この列車も、さっきの機関車と同様に、いったん12号ポイントを通る。しかし予定ではこの時すでに12号ポイントは切り替えられており、機関車は貨物線のほうにスムーズに入り込んでいく――はずだった。

 ところが、これが切り替えられていなかったのである。本来なら12号ポイント→貨物線というルートになっているはずが、12号ポイント→13号ポイント、というルートのままだったのだ。

 あれあれ、どうなってんの。予定と違うじゃん。機関車と貨物列車は、13号ポイントに向かってゴトゴトと進んでいく。

 そして13号ポイントはどうだったかというと、こちらはちゃんと切り替えられていた。さっきは13号ポイント→上り本線、というルートだったのが、今は13号ポイントはどん詰まり。上り本線は今から別の列車が通過するため、横からの進入禁止の状態になっていた。

 踏切を想像してもらえればいい。上り本線は、遮断機が下りて警報がカンカン鳴っているような状態だったのである。今入ったら危険なのだ。

 機関車はそこへガクン! と突っ込んでしまった。ポイントが切り替えられていたので、それ以上進むこともできず上り本線に中途半端にはみ出す状態で停止してしまったのだ。立往生である。

「事故発生だ!」機関車の運転士は汽笛を鳴らした。

 まあ、これだけでも確かに「事故」ではある。だがこの第一事故そのものは大したものではなく、問題はこの後である。ここから僅か6分の間に、土浦駅の構内は地獄絵図と化すのだ。

 第一事故発生から3分30秒後のことである。上り本線に貨物列車がフルスピードで進入してきた。駅構内で事故が起きていたにもかかわらず、信号が「青」のままだったのだ。このため、貨物列車は、立往生していた機関車とものの見事に激突してしまった。

 さあ、大事故である。上り本線の貨物列車はたちまち脱線し、脱線した状態のまましばらく走り続けた。そして先頭の機関車は、その先にあった橋の手前で転覆。隣を走る下り線をふさぐ形になってしまった。

 さらに、後続の貨物車両14両もバラバラになって脱線転覆。上り線にも下り線にも車両が散らばってしまった。

 最初に立往生していた機関車と貨物車両も、衝突によってぶっ飛ばされてやっぱり脱線転覆。なんかもう、開いた口がふさがらない惨状である。

 ところが、ここからが本番なのだ。

 この大衝突からさらに2分30秒後、反対方向から下り旅客列車がやってきたからさあ大変。先述の通り、下り線は転覆した機関車によって通せんぼされており、これに衝突してしまった。

 しかも悪いことに、この衝突が起きたのが橋の出口のあたりだったため、衝突時には下り列車の全てが橋の上を通過中の状態だった。たちまち客車の1両目は後ろから押されて棒立ちになり、2両目はゴロリと横転。3両目と4両目は橋から転落し、3両目は宙吊りになったが4両目は川に水没した。

 これでもかといわんばかりの凄まじさである。

 犠牲者は100名を越えた。が、正確な死者数は不明である。それでも参考文献『事故の鉄道史』によると96~120名は堅いようで、いやはやとんでもない事故があったものだ。

 この事故を防ぐすべはなかったのだろうか? あった。単純な話で、第一事故が発生した時点で、そのすぐ近くにあった南信号所がすべての信号を「赤」にするよう動き、指示を出せば良かったのである。

 では何故それができなかったのか。それは時代の空気のせいである。当時は戦時中真っ只中で、しかも戦局は日本に不利になりつつあった。国内ではダイヤが改正され、乗客列車は減らされ、「決戦輸送体制」が整えられていたのだ。

 それで、そもそもの事故原因は12号ポイントの切り替えミスにあったわけだが、このミスは南信号所の職員によるものだった。「決戦輸送体制」のさなかで極度の緊張状態にあった職員は、自分のミスで事故が起きてしまったのでパニックに陥り茫然自失、体が全く動かなかったのである。

 この時、南信号所の掛員には、「国家あげての決戦輸送体制の時期に汽車を止めるとは何事か! この非国民め!」という声が頭の中に響いていたのかも知れない。

 職員の、極度の精神的ストレスのため引き起こされた事故は他にもある。安治川口ガソリンカー火災や、それに最近では福知山線の脱線事故がそうだ。

 よって筆者は、土浦事故も含めたこの3つの事故を、個人的に「小心者の事故」と呼んでいる。筆者自身も非常事態にテキパキ動ける人よりも茫然自失となってしまう人の気持ちの方が分かる部分があり、同情を禁じ得ない。

 ちなみにこの事故、その後の事故処理や裁判の経緯などはまったく不明である。

 

   ☆

 

 この土浦事故は、その詳細が、ずいぶん長い間知られていなかった。戦時中だったため、軍によって報道管制が敷かれたせいだと言われている。

 そしてこの事故の19年後に発生したのが、伝説の鉄道事故・三河島事故である。実は、土浦事故と三河島事故はほとんど瓜二つと言っていいほどよく似ており、土浦事故がもっと国鉄職員によく知られていたならば、三河島の惨事も防げたのではないかとも言われているほどだ。

 しかし土浦事故がきちんと国鉄職員に知らされていたとして、本当に三河島事故を防ぐことができたかどうか――。歴史にイフはないとはいえ、これについて筆者はかなり悲観的な考えを持っている。

 あまり知られていないが、2005年の福知山線の事故の時も、事故現場の反対方向から列車が来ていたのである。これを止めたのはJR職員ではなく一般の名もないおばちゃんで、この人がとっさの機転で踏切の非常停止ボタンを押していなかったら土浦&三河島再び、になっていたのだ(ちなみにJRはこの事実を認めていないそうな)。

 三河島事故という「伝説の鉄道事故」を教訓として職員教育をしてきたはずのJRからして、これである。人間の精神構造を変革し、さらにそれを世代を超えて受け継いでいくというのはこれほど難しいことなのだ。

 そもそもの話、土浦事故が「軍の規制を受けて報道されなかった」というのも、本当かどうか怪しいものである。

 おそらくこういう形で疑問を呈するのは当研究室が初めてであろう。

 戦前から戦中にかけての大事故や大事件の話題を目にする時、この「軍が報道に規制をかけたのであまり知らされなかった」というのはほとんど決まり文句のようになっているが、これは本当なのだろうか。

 当研究室の貴重な参考資料である『事故の鉄道史』でも、当時は「日本国に不利になることを報道するのは利敵行為とされていた」という記述があるが、少し考えてみてほしいのである。戦局と関係のない、いわゆる三面記事的な事件事故の報道をすることが、どうして当時の政府にとって「不利」になるのだろう。おそらくこれに明確に答えられる方はほとんどいないと思う。

 報道は、きちんとされているのである。戦時中から戦後にかけては地震や台風や鉄道事故など、洒落にならない規模の大災害が結構起きているのだが、そういったものはほとんど報道されている。それは当時の新聞を見れば分かることだ。

 確かに、記事の扱いは小さい。例えばこの土浦事故も、中央の大手新聞が、かろうじて簡単な一段記事程度で報じただけだった。

 しかしこの頃は物資が不足していた。新聞の紙面もしまいには一枚の紙の両面だけになったり、紙の材質も藁半紙になったりしていたのだ。現在のように、大事故が起きるとその報道のために2つも3つも紙面を割くような贅沢はできなかったのである。

 また新聞の「取材」も、当時は今からでは到底考えられないようなやり方だった。まず地方にいる記者が現場や関係者から取材をし、そしてそれを電話で本社に伝える。本社の記者は電話口でその記者から「取材」を行い、それを編集に回して、紙面に合わせて文章を添削し、そしてようやく記事が出来上がる――という流れだったのだ。アナログもいいとこである。

 そして戦時中、どこでも人手や物資が不足していた時代に、果たしてこのアナログの手法をどこまで満足に行うことができただろう。

 もちろん、多少の報道管制はあったようだ。実際、軍が絡んだ事件事故で当時は報道されず、戦後になってからようやく明らかになったものはいくつかある。しかしそれらは基本的に「報道されなかった」のであって、土浦事故のように一段記事で報じられることすらなかったのだ。

 以上のことから、筆者はこう考えている。当時、確かに報道管制はあったことだろう。だがそれは極めて限られた時代の、限定された内容のものに限られていたのであろう――と。そして、土浦事故が一般に知らされなかったのは必ずしも報道管制のせいではなく、人出や紙面が足りないという単純な物理的な理由からだったのではないか――と。

 実は、最初は「軍によって報道が規制された」と言われていたものの、実際にはきちんと報じられていたというケースは他にもある。有名な昭和13年の津山事件などがそうで、どうも「軍はどんな情報でも規制した」というのはひとつの都市伝説のパターンであるようだ。

 1945年の終戦直後に起きた八高線正面衝突事故についても、ときどき同じような言われ方がされている。「この事故は被害が甚大であったにも関わらず、あまり一般には知られていない。報道管制のせいである」とうわけだが、これなどは既に戦争が終わった後の事故なのだから、そもそも報道管制を敷く意味が全くない。何かの勘違いであろう。

 それでは、実際に土浦事故があまり一般に知られていないのは何故なのか?

 これに対する筆者の回答は簡単である。要は、我々がある事件事故について情報を得たり知識を得たりするのは、けっきょくマスコミが大々的に報道するか否かにかかっているということだ。

 どんな事件事故も、マスコミが報じなければ、我々はそれを知り得ないのである。そして報じ方が小さければすぐ忘れてしまうのである。ましてや戦中から戦後にかけての混乱期ならなおさらだ。

「人間は、忘れる動物である」。全てはこのひとことに要約できると思う。土浦事故という大惨事が忘れ去られたのも、また福知山や三河島で過去の教訓が生かされなかったのも、全てはそれがためなのだ。そう筆者は考えている。

 こんな土浦事故なので、記録はほとんど残っていない。唯一、土浦市の医師が戦後になって『木碑からの検証』というタイトルの記録書を出しているそうだが、これは現在は入手困難である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■


沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)

 土浦事故八高線正面衝突事故は、よく「当時は軍の規制があって報道されなかった」と言われたりする。だが、筆者はこれは間違いだと考えている。

 確かに、そうした規制のため報道されなかった事件事故というのは存在する。ただしそれは戦時中であれば日本軍が、そして終戦直後であれば米軍が、大きく関係した出来事に限られるのである。今ふうに言えば、軍がからんだ「スキャンダル」に該当するような事例だ。

 軍がからんでいない事件事故であれば、紙面での扱いは小さくとも(当時はもともと物資の不足で紙面の容量が限られていた)きちんと報道はされている。土浦事故も、八高線の事故もそうだ。

 では、軍が関係していたため報道されなかった事故事例にはどんなものがあるのか。これはしかし、それこそ報道されなかったがゆえに今でも詳細が不明なものが多い。戦時中であれば、軍艦の沈没や火薬庫の爆発事故などの事例がそうだし、また戦後であれば米軍機の墜落事故などがある。ついでに言えば、米兵の日本人に対する婦女暴行の事例などもそうだ。

 今回ご紹介するのは、「これこそまさに」と言える事例である。報道管制下で完全に隠蔽された事故の最たるもの。鉄道における大惨事中の大惨事。土浦事故でも八高線事故でもない、ごく最近まで報道されずじまいだった日本鉄道事故史上最悪の事例がこれだ。

 時は1944(昭和19)年12月11日、沖縄県島尻郡南風原村(現南風原町)神里付近でのことである。

 まだ朝も早い頃、嘉手納駅から一本の列車が出発した。

 路線の名前は糸満線といった。当時、沖縄県内には県営鉄道が存在しており、それによって運営されていた路線である。

 沖縄の鉄道路線は、明治期からずっと資金面の問題があって整備されていなかった。それがやっと県営という形で叶ったと思えば今度はバスがのしてきて、いったんは鉄道の存在感が薄れたものの、軍事輸送に使えるということでまた復活。通常ダイヤを取りやめて、軍用路線として使用されるようになっていた。

 事故当時も兵員の輸送が行われていたという。ちょうど、沖縄に駐屯していた第9師団が台湾へ出て行き、入れ替わりに第24師団が送り込まれたところだったのだ。この移動は大規模なものだった。

 列車は6両編成で、さらに途中の古波蔵駅では2両を増結し8両となった。客車と貨物車両が何両ずつの組み合わせだったのかは不明だが、どちらも相当数あったと思われる。先述の通り兵員も多く運ばれていたし、通学のための女学生も乗り込んでいたというからだ。

 そしてこの列車、糸満駅に向かって発車したのはいいのだが、途中で大爆発を起こしたのだった。

 悪いことに、この列車には弾薬もたっぷり積まれていた。次々に誘爆が発生し、乗っていた兵士も女学生も爆発と火災に巻き込まれて約220人が死亡した。

 220人だぜ220人。これは、西成線ガソリンカー火災の死者数を越える鉄道事故史上最悪の数字である。

 え、爆発の原因はなんだったのかって?

 ごめんなさい、それは不明である。それこそまさに、戦時下の報道管制下で緘口令が敷かれたせいだ。昔のテレビ特捜部で紹介していた番組を真似て言えば「今日、鉄道事故がありました。原因は不明です。」といったところである。素っ裸のお姉さんがそういうニュース報道(笑)をする番組、あったよね。

 あっさりし過ぎているようだが、事故の経過は以上である。この一件は内密に処理され、しかもこの後には沖縄戦が開始。米軍の占領下で鉄道施設も破壊され、県営鉄道も実質廃止となり、事故の記憶は闇から闇へと葬られる形になった。

 もちろん、情報が全くなかったわけではない。昭和50年代には、ごく簡単な記載ではあるが、この事故のことが沖縄関連の書籍に記されるようになった。ただしそれは、地元で発行されている詳細な辞典に限られた。

 では詳細が明らかになったのはいつかというと、驚くなかれ、たったの3年前、2008年なのである(2011年現在)。筆者は未確認なのだが、この記録を発掘したのは桃坂豊氏という鉄道マニアであるという。

 ほぼ断言できるが、当『事故災害研究室』の読者の方も、ほとんどはこの事故のことは知らなかったと思う。あったのですよ、こういう悲劇が。事故発生から60年近くも封印されていた最悪の鉄道事故が、こんなところにあったのだ。

 機会があれば、筆者も詳細を調べてみたいところだ。だが北陸トンネル火災大洋デパート火災などとはわけが違う。山形の図書館程度では資料も全くなかった(そもそも桃坂氏の著作自体が県内にはなかった)。

 ここはひとつ、土浦事故について『木碑からの検証』が書かれたように、どなたかが沖縄で詳細な聞き取りを行って記録書を作ってくれないかと思うのだが、ダメかな。よろしく!

 

   ☆

 

 以上のような状況につき、特にこの事故については随時加筆を行っていきたい。ウィキペディアに載っている以上の情報をお持ちの方は、是非お寄せ頂きたいと思う。

 もちろんそれは、今までご紹介している他の事故災害についても同様である。せっかくなので、そのあたりの注意事項を記しておこう。

 

 *書籍等からの情報であれば、出典が分かる形で。
 *実体験に基づく証言であれば、それと分かる形で。
 *情報の出所が不明な場合は、おぼろな記憶でもいいです(当時のワイドショーで言ってた気がする、とか)。とにかく不明なら不明と明記して下さい。

 

 以上のような形で今まで情報を頂いたケースとしては、川治プリンスホテル火災飛騨川バス転落事故青木湖バス転落事故などのケースがある。メールでもブログのコメント欄でも構わないので、どしどし情報お寄せ下さい。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■


八高線列車正面衝突事故(1945年)

 これは想像だが、鉄道職員に対して「最も不名誉な鉄道事故はどんなものか?」と問うたら、きっと正面衝突事故だと答えるのではないだろうか。

 なぜなら、正面衝突事故だけはどうにも弁明のしようがないからだ。

 同じ鉄道事故でも、脱線や転覆や火災の場合は原因が人的ミスとは限らない。よってすべてのケースにおいて鉄道職員が恥じ入る必要はない。だが正面衝突だけはもう明らかに人災である。衝突した車両のどちらかは、まず絶対確実に、連絡不足や勘違いなどの人的ミスで発車せられたに違いないからだ。

 その意味で、今回ご紹介する八高線列車正面衝突事故は、日本の鉄道史上最も不名誉な事故と言えるかも知れない。正面衝突事故である上に、死者数は本邦一ではないかとも言われているのだ。

 

   ☆

 

 国鉄八高線(はちこうせん)は、関東地方のローカル線である。東京の八王子駅と、群馬県高崎市の駅を結ぶから「八」「高」線。ふむふむ、なるほど。

 1945年(昭和20年)8月24日。玉音放送もまだ記憶に新しかったであろうこの日、八高線の路線沿いに住む人々が不自然な列車の音を耳にしたのは、午前7時40分のことだった。

「変だな。なんでこんな時刻に列車が?」

 いつもなら、この時刻に列車の通過はないはずだ。住人たちは、列車の通過時刻ならなんとなく身体で覚えている。中には列車の通過音を時計代わりにしていた者もいたほどだ。

 この奇妙な列車が実際に走行しているのを目撃していた人物がいる。当時の昭和町大神に住んでいた男性で、時刻表とは全く合わない時刻に汽車が鉄橋を通過してきたのだ。その鉄橋の北には拝島駅があり、そこから上り列車がやってきているのである。

 そしてさらに奇妙なことには、鉄橋の反対側からも一本の列車が走ってきていた。小宮駅からやってきた下り列車である。

 鉄橋は一本しかなく、しかも単線である。そこに2本の列車が差しかかろうとしている――。だが目撃者の男性も、その見慣れない光景の恐るべき意味にはとっさに思い至らなかった。そしてこの直後、2本の列車は鉄橋上でものの見事に正面衝突と相成ったのである。

 辺りに轟音と地響きと悲鳴が響き渡り、たちまち機関車の先頭部分はめちゃくちゃに破壊された。そしてその一部分と、破壊された客車と乗客たちがボロボロと鉄橋から落下して濁流に呑まれていく――。鉄橋の下を流れる多摩川は、連日の暴風雨で増水していた。

「おい息子! 半鐘だ、半鐘鳴らせ!」
「うんわかったよ父ちゃん!」

 カーン、カーン。事故を目撃した男性はすぐさま息子に半鐘を鳴らさせ、集落に非常事態発生を知らせた。

 村人たちも、それぞれ鉄橋の衝突音や鐘の音を聞きつけて外に飛び出してきた。村全体に緊張が走る。鐘を鳴らしていた少年は、彼らにすぐさま川へ向かうように叫んだ――。

 現場は壮絶だった。衝突した2本の列車は完全に食い込み合っており、少し離れて見ると1本の列車かと見紛う状態になっていた。

 この時代の汽車は、先頭に機関車があり、次に炭水車があり、そして客車、という順序になっている。それでこの衝突事故では、まず上り列車の客車の1両目が、前後の炭水車と2両目の客車から挟まれてしまいバラバラになって多摩川の藻屑と消えた。また2両目以降の客車も大きく破損した。

 下りもひどかった。1両目の客車は2両目によって乗り上げられ、のしいか状態となっていた。

 乗客は、誰もが戦争の時代をやっと生き延びた人ばかり。上りには疎開者、通勤者、女学生などが乗っており、また下りには陸海軍の復員軍人たちが多く乗車していたという。

 車内は押し潰された者、挟まれた者、切断された者、激突した者の血と悲鳴とうめき声で満ち満ちており、この世の地獄のような状態だった。また生き残った乗客も、何人もの人々が助けを求めながら濁流に呑まれて行くのを目撃している。

 最終的な死者は104人に及び(105人という説もあり)、行方不明者は推定20人。そして重軽傷者は約150人という稀に見る大惨事である。

 さらに多摩川に転落した人はもっと多いとも言われており、それを含めればこの事故は本邦の鉄道事故では最大の死者数なのではないか、という説もある。

 現場が鉄橋のド真ん中だったこともあり、負傷者の救助は難航を極めた。とにかく下の川が増水しまくっているので、一体何人の乗客がどこまで流されていったのか見当もつかない。また救助作業をしていても、何かの弾みで怪我人や破砕車両が橋から転落する可能性だってある。

 さらに、粉砕された車両の撤去方法も大問題だった。損傷の少ない車両は牽引すればなんとかなったが、完全にスクラップと化した車両はそれぞれ食い込み合っている上に鉄橋そのものにも嵌まり込んでいる。ちょいとクレーンで引き上げて持って帰るというわけにもいかない。ここはもう、豪快に多摩川へ引き摺り落とすしかなかった。

 こうして、この事故の事故車両は、最終的には多摩川の底に沈めれたのだった。今でも、台風などで川底が浚われると、これがひょっこり顔を出すことがあるという。

 え、なんか締めの文章みたい、だって? もう終わりなのかって?

 いえいえ、そんなことはありません。この事故はここからが本番なのです。そもそもなぜこんな大惨事が発生してしまったのか、次の節からはその経緯をお話しするとしよう。

 長くなるので、じっくりお付き合い頂ければ幸いである。

 

   ☆

 

 終戦直後、関東地方は22日から台風に見舞われた。快晴かと思えば暴風雨が荒れ狂うというおかしな天気だったという。

 この1週間ほど前には終戦を迎えたばかり。まるでその天候は、冷め遣らぬ血気と将来に対する不安が渦巻くすべての日本人の気持ちを代弁しているかのようだった。

 この台風は、こと鉄道に関しては多大な影響を及ぼしていた。例えば東海道線は土砂崩れで一部が不通。山手線や京浜東北線も河川の切断により不通になるという有様だった。

 そんな中での8月24日である。八高線小宮駅の朝の空模様もひどいものだった。夜勤をしていた駅長のFと、駅務掛のMは午前4時半に起床したが、昨夜からの暴風雨は相も変わらず荒れ狂っていた。

 しかも悪いことに、この日は電話までもが不通となった。小宮駅の北には拝島駅があり、南には八王子駅がある。そのどちらにも連絡が取れなくなってしまったのだ。ちょっとした「陸の孤島」状態である。

 おいおい誰ですか、「電話が駄目ならメールすればいいじゃん!」とか言ってるのは。これは終戦直後の話なのである。今の時代から見れば信じられないほど不便な通信状況だったのだ。

 これは大変である。小宮駅にとっては非常事態だ。

 列車の発着にあたり、拝島と八王子への電話連絡は不可欠である。各駅を繋ぐ線路は単線――つまり線路が一本だけの路線――なので、上りと下りは必ず駅と駅の間を交互に走らなければいけないのだ。もし2つの駅で上り下りを発車させれば衝突は必至である。

「今から、こっちから列車出すから、そっちは出すなよ~。どうぞ」
「了解した、こっちは列車出さないよ~。どうぞ」

 というやり取りが必要なのだ。

 では、今回のように駅と駅の間の連絡が不能になったらどうすればいいのだろう?

 答えは簡単である。当時の国鉄職員のいわばコンプライアンス・マニュアルである『運転取扱心得』にちゃんと書いてあるのだが、こういう場合は「指導法」というやり方が採用されることになっているのだ。

 では「指導法」とは何か?

 なんのことはない。駅員が駅と駅の間を直接行き来して、列車の発着の打ち合わせをするというやり方である。

 以前、東北本線の衝突事故のことを書いた折に、「通票」もしくは「タブレット」についてお話ししたことがある。指導法というのはつまり、駅員がこの通票もしくはタブレットの代わりになる方法なのだ。

 有り体に言えば「人間タブレット」である。この役割を担わされた駅員は、連絡係であると同時に、自らが通行許可証そのものとなるのだ。

 というわけで、陸の孤島と化した小宮駅は、この指導法を採ることにした。これによって、北の拝島駅それに南の八王子駅と連絡を取らなければならない。

 では、具体的にどのような段取りで進めるか――。小宮駅のF駅長は考えた。

 ところで、ここで先に断わっておくが、この事故はここから先が少しややこしい。駅と駅の間の列車の発着順序がころころと入れ替わった上に、駅員同士の認識のズレがあるものだから、事実関係が複雑になってしまっているのだ。それに参考資料もどちらかというと事故の悲惨さが強調されており、事故に至る経緯に関する文章はどうも分かりにくかった。ここではできるだけ分かりやすく噛み砕いて書くつもりである。

「よし、とりあえず拝島駅からは、時刻表通りに汽車を発車してもらおう。小宮駅に来るはずの第四列車を出させるのだ」

 駅長Fはそう決定した。

「そしてさらに、小宮駅からは、拝島駅への下り第三列車を出すのだ」

 第三列車とか第四列車とかいうのは、奇数が下り列車、偶数が上り列車という意味らしい。この数字は必ずしも発着の順序を表すものではないので、ご注意頂きたい。

 とりあえずF駅長の決定を図式化すると、こうなる(図1)。

 

(図1)

 

 稚拙なイラストで恐縮だが、まあ読者の皆様は、こんな「ゆるイラスト」で肩の力でも抜いて頂ければいいのかな、と思っておるところでございます(などと官僚的答弁を行っておるところでございます)。

 さてFは、この決定に基づいて、駅務掛のMに指令を下した。

「M君、すまないが君は拝島駅に行ってくれ。そして、いま私が考えた順序で列車を発着させることを伝えてくれ」

 はいはい了解。こうしてMは「人間タブレット」としての役割を担わされた。

 少し細かく言えば、ここではMは、まだ小宮駅から一方的に派遣されるだけの「適任者」という存在である。

 だがMが拝島駅に到着し、拝島駅で駅長Fからのメッセージを了解すると、Mの肩書は「指導者」にランクアップするのだ。

 この「指導者」というのは、この場合で言えば、拝島駅から発車する上り第四列車に乗り込む役割を負うことになる。

 そして指導者Mが乗り込んだ上り第四列車が小宮駅に到着し、Mが再び姿を見せることで、小宮駅ではこう考えるわけである。――「ああ、指導者のMがこの列車に乗ってきたということは、さっきのメッセージは無事に拝島駅に伝わったんだな」と。

 そうすれば、小宮駅は安心して、次の下り第三列車を発車させることができる。

 この時、線路が一本しかない(つまり単線である)この拝島駅~小宮駅間で、安全に列車を行き来させることができる唯一の方法がこれだった。

 安全ということを強調するなら、いっそ「電話が不通になったので無理をせずに運休にする」という選択肢があってもいいんじゃない? とも思うのだが、それは現代の視点から見た話である。この当時はまだ、安易に列車を停めるのは鉄道職員にとっては「恥ずべきこと」とされていたのだ。

 時刻は午前5時20分。指導法における「適任者」としての命を受けたMは、徒歩で拝島駅へ向かった。

 このMはさぞ生きた心地がしなかったことだろう。なにせ未明の暴風雨の中を走らされるのである。しかも途中の多摩川にかかった鉄橋は、もともと人間が渡るための構造にはなっていない。ガードレールもない鉄路をよちよちと進まなければならないのである――。

 さて次に、小宮駅では八王子駅に向かう「適任者」を決めなければいけなかった。

 八王子駅は、拝島駅とは反対方向の駅である。実はこのままだと、八王子駅での発着順序が拝島駅のそれと矛盾するのである。調整しなければならないのだ。

 つまりこういうことである。

 先述した、小宮駅のF駅長の決定通りだと、まず上り第四列車が先に拝島駅から小宮駅に到着することになる。そして次に下り第三列車が小宮駅から拝島駅へ行く――という順序になる。

 だが八王子駅での列車の発着順序は、下り第三列車が先で、上り第四列車がその次――ということになっている。図で記すと以下のようになる(図2)。

 

(図2)


 つまり、下り第三列車と上り第四列車は拝島駅~八王子駅間でひと続きなのである。ただ途中で小宮駅を経由する、ということで、F駅長の決定通りだと拝島駅~小宮駅間、小宮駅~八王子駅間の発着順序が矛盾したものになってしまうのはお分かりだろうか。図の①②の記号と、本稿の説明を見比べて頂くと分かると思う。

 というわけで、八王子駅での上りと下りの発車順序を逆にしてやらねばならない(※1)。

 

(※1)ということは、「拝島駅発の上り第四列車を先に発車させよう」というF駅長の判断は、時刻表とは矛盾したものだったのだろうか? しかし先述の通りF駅長は「時刻表の通りに第四列車を先に発車させよう」と考えたことになっている。これはどういうことか。おそらく、暴風雨のためダイヤに遅れが出ており、順序で言えば後で発車させるべきだった上り第四列車に「先を譲る」ことで無理やり時刻表に合わせようとしたのではないかと思う。ここはあくまでも筆者の想像であるが。

 

F駅長「よしA君、今度は君が八王子に行ってくれ」
A駅務掛「了解しました」

 というわけで午前5時30分、A駅務掛が「適任者」として送り出された。

 ここまでは問題がなかった。

 ところが午前6時5分に、F駅長の判断をぶれさせる出来事が発生した。一台の蒸気機関車が小宮駅に到着したのである。F駅長は驚いた。つい30分ほど前に2人の適任者を送り出したばかりなのに、何事だろう?

「なんだ? こんな機関車が来るなんて時刻表に書かれてないぞ」

 この蒸気機関車は八王子駅から来たものだった。客車がなく、先頭の機関車だけのものである。乗っていた運転轍手のHは、F駅長にこう知らせた。

「電話が壊れて連絡が取れなくなったので、八王子駅から打ち合わせに来ました」

 なるほど、そういうことか。言われてみればそういうすれ違いもありうる。

 H運転轍手は、八王子駅長が発行した打合票(証明書のようなものらしい)を示した。そこには「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」と書いてあったという。

 この「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」という表記もなんだか分かりにくい。少し説明しよう。

 第七〇五一単機、というのは機関車のことである。そして伝令者というのは「ただ伝えに来ただけの人間」という意味である。

 そして最後の「第三列車指導者」だが、これは先述した「指導者」のことである。「適任者」のさらにランクアップした肩書きで、端的に「列車を引っ張ってくる人間」という意味を持っている。

 ということは、このHが指導者である以上、彼が引っぱってきた機関車の後ろからは下り第三列車がやって来るということなのだ。

 どうも八王子駅は、小宮駅のように「適任者」を派遣することもせず、「俺んとこから下り第三列車を出すから、あとはそっちで調整してくれよ~」といきなり「指導者」を送り出したものらしい。こういうやり方もアリなのかと筆者としては首を傾げたくなるのだが、とにかく事実そうだった(※2)。

 

(※2)もっとも、この後で小宮駅に到着した第三列車には、F駅長がさっき送り出したばかりのA駅務掛がきちんと指導者として乗り込んできている。だから結果的には運行上の問題は無かったようなのだが。

 

 さて、この第七〇五一単行機関車の到着によって、小宮駅のF駅長はピンと閃いた。そうだ、こいつを利用しない手はない――!

 実はF駅長は、先だって拝島駅に送り出したM駅務掛が心配だったのだ。Fは勤続26年のベテランで、もちろん与えられた役割はきちんとこなすだろう。だがこの未明の暗闇の中、しかも暴風雨の状況で送り出したことが気がかりだったのである。

「うん、やっぱりMが可哀想だ。予定を変更して別の運行順序にしよう!」

 おいおい、大丈夫なんかい。

 誰かが止めてあげれば良かったのだが、駅長に助言できるような駅員はもう残っていなかった。

 それに、F駅長の衝動的な判断には、他にも理由があった。

 上り第四列車を先に発車させ、その後で下り第三列車を発車させるというのが当初の計画だったことは先に述べた。実は、小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車は、このまま「上り第四列車」として再び小宮駅に戻って来る汽車だったのである。

 つまりこういうことだ。第七〇五一単行機関車は、このまま小宮駅を通過すると拝島駅もさらに通り抜け、その先の東飯能駅へ着く。そしてそこで客車を牽引しながらUターンし、「上り第四列車」としてやってくる予定だったのである。

 第七〇五一単行機関車と上り第四列車は、こういう関係だったわけだ(図3)。

 

(図3)

 

 するとどうなるか。

 今、第七〇五一単行機関車の後ろからはすぐに下り第三列車が来るという。

 よってF駅長の最初の決定通りに、その下り第三列車を上り第四列車の到着後に小宮駅から発車させるとなると、下り第三列車は小宮駅でかなりの時間待たされることになる。

 なぜなら、第七〇五一単行機関車が東飯能駅でUターンして、客車を牽引しながら上り第四列車として小宮駅に到着するのを待たなければいけないからだ。

 そうすれば、時刻表にもさらなる大幅な遅れが出るだろう。それは、F駅長としては出来るだけ避けたかった。

 そこでF駅長は考えた。

「間もなく小宮駅に到着する下り第三列車を、さっさと拝島駅に送り出してしまった方が、遅れも出ないで済むなぁ」

 そしてこう結論した。

「よし、さっきは拝島駅に上り第四列車を先に発車させるよう伝令を送ったけど、反対にしてしまおう。小宮駅から先に下り第三列車を発車させるのだ!」

 さらに解説しておこう。要するにこういうことである(図4)。

 

(図4)


 (図1)と比べて頂くと分かるであろう。まるきり逆である。

 ここまで読んで、おいおいそれって大丈夫なの? と思った方もおられよう。

 そう。さっきF駅長は、上り第四列車を先に発車させよ、という伝令をMに託して拝島駅に送り出している。それなのに、こちらから第三列車を送り出したら正面衝突になるのではないか?

 ところが大丈夫。F駅長には目算があった。

 先述の通り、上り第四列車が小宮駅に向かってくるのは、第七〇五一単行機関車が東飯能駅に到着して以降ということになる。

 その、第七〇五一単行機関車の東飯能駅でのUターンにはある程度の時間を食うのである。

 よって、上り第四列車が拝島駅に到着・発車するタイミングよりも先に、小宮駅を発車した下り第三列車は拝島駅に着くだろう――。F駅長はそう考えたのである。

 まあ確かに、その通りなら小宮駅・拝島駅間で列車が正面衝突することはない。それにしても、素人にはほとんど綱渡りにしか見えないやり方だ。

「というわけでOちゃん。君ちょっと拝島駅に行って、運転の順序が変更になったって伝えてくれる?」

 F駅長がそう命じたのは部下のOという女性である。まだ19歳の若い子だ。

 O嬢には、先ほど小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車に乗ってもらった。そして彼女には拝島駅で下りてもらい、後でそこから発車する上り第四列車に「指導者」として乗り込んでもらうのだ。

 つまり彼女は、第七〇五一単行機関車に乗り込んで一度拝島駅で下り、さらに東飯能駅で客車に連結してUターンし戻ってきた第七〇五一単行機関車(つまりこれが上り第四列車である)に乗り込み、また小宮駅へと戻って来るのである。

 F駅長は、さらにこう付け加えた。

「それで、拝島駅に向かう途中でM君を拾ってよ。彼、今もまだ暴風雨の中で走ってるはずだからさ」

 そしてO嬢には一枚の紙切れを渡した。

「大丈夫、これを拝島駅で示せば、全部分かるはずだから」

 このF駅長、おそらく部下思いの人ではあったのだろう。O嬢にこの紙切れを渡したのも、おそらく彼女に対する思いやりだったに違いない。きっと彼女は複雑な話などまったく分からなかったに違いない。またMのこともかように終始心配している。

 こうして、O嬢は第七〇五一単行機関車に乗り込んで拝島駅へ向かった。途中では無事にM駅務掛も拾っており、そして無事に午前6時25分には拝島駅へ到着している。

 さあ、ここからが大変である。

 O嬢は、F駅長から言われた通りに、拝島駅の駅員にメモ書きを渡した。しかしこのメモ書き、他人が見てもまったく理解に苦しむような代物だったのである。

「え? え? これってどういう意味?」

 F駅長は、列車の発着順序の変更について、「見ればすぐ分かる」ようにメモを作ったつもりだった。だがよくある話で、それは本人の独りよがりでしかなかった。他の駅員たちから見れば、それはまったく意味不明の代物だったのである。 

 このメモ、実物の写真でもあればいいのだが、残念ながらどこにも載ってなかった。裁判の記録でも本気でひっくり返さない限り見つからなさそうである。よってこのメモがいかに意味不明のものであったかは、ここでは想像で書くしかない。

 まずポイントとして、このメモは「図」ではなかった。そこに書かれていたのは、走り書きの「文章」であったらしい。

 そして混乱を招いたのは、「変更する」という明確な記述がなかったことだった。いきなり「次は下り第三列車が来るよ」としか解釈しようのない文言が記載されていただけだったのだ。

 さらに、O嬢が持参していた「第七〇五一機関車の適任者」と「第三列車指導者」の肩書きが記入された紙片も問題だった。これには、第三列車指導者とやらが具体的に誰であるのかがまったく書かれておらず、さらに出発駅も到着駅も書かれていない。よって、一体どの駅の発着のことを示しているのかがさっぱり分からないのである。

 まあここで答えを述べておくと、この「第三列車指導者」というのは、小宮駅から八王子駅に派遣されていたAのことだったらしい。最初に小宮駅から「適任者」として派遣されたAが、後で下り第三列車の「指導者」として拝島駅に来るよ――という意味だったのである。

 だがとにかく、そうしたF駅長の意図はこれっぽっちも伝わらなかった。

 それに、メモ云々以前に、O嬢が「適任者」として拝島駅に来ているのも問題だった。

 ここまでじっくり読んで頂ければ分かると思うが、通常、一本の線路を2人以上の「適任者」あるいは「指導者」が行き来することはあり得ない。そんなことをしてあっちでもこっちでも列車を出したら、それこそ正面衝突になりかねないからだ。

 ところが、拝島駅には、先だってM駅務掛が「適任者」として派遣されている。そこへ2人目の適任者としてO嬢が登場したことで、場はすっかり混乱してしまった。

 そこで頭に血が上ったのは、先に拝島駅に派遣されていたMである。

「Oさんも適任者だって!? どういうことだ。先に適任者に任命されたのは私のほうなのに!」

 当初、彼はこう思っていた。――O嬢はあくまでも自分を途中で拾い上げるために第七〇五一機関車に乗り込んだのだ――と。そのO嬢がなんと2人目の適任者に任命されていたなど、思いも寄らないことだった。

 またM駅務掛は、勤続年数26年というベテランである。19歳の若輩に対するプライドもあったかも知れない。

 こうして混乱した拝島駅で、最終的な判断を求められたのは駅長代理であるK(同時に信号掛兼運転掛でもあった)だった。

「困ったな。一体なにが正しいんだろう? オタオタ」

 ここで、M駅務掛が詰め寄ったからたまらない。

「正しいのは私です。あとからO嬢が持ってきたメモは間違いです。最初の指示通りに、私が指導者として上り第四列車に乗って出発します!」

 ああもう困ったな、この人ムキになってるよ。

 そこでK駅長代理は、当時拝島駅にいた助役にも判断を仰いだ。だがこの助役はやる気がなく、こんなことしか言わなかった。

「あーうん、このメモちょっと変だね」

 もういいよ、頼りにならないなあ。

 では、ちゃんと事情を知っていそうなO嬢はどうだろう?

 しかしこの時は、まだ10代の女の子に「これはどういう意味だ」と問いただせるような雰囲気ではなかった。皆、なんとなく彼女には気を使っていたらしい。

 さあ、拝島駅は実にビミョ~な空気である。

 このK駅長代理という人も、なんだか可哀想である。小宮駅から2人のMとO嬢がやってきた時、彼は仮眠中だった。そして、叩き起こされたことでようやく外の暴風雨と通信の不能に気付いたのである。なんだかのんびり屋だ。

 そんな寝ボケた状態のところに、意味不明の紙切れを突き付けられて「さあ結論を出せ」と詰め寄られているのである。これで困るなというほうが無理だ。

 筆者が思うに、このK駅長代理は押しに弱い血液型O型タイプだったのではないか。結局、場の空気に負けて出した結論がこれだった。

「まあいいや。Mの言う通りにしよう! きっとあの紙切れはなにかの間違いなんだ」

 なんかこう、「あらまほし」という感じの結論である。

 さあ、こうして雲行きが怪しくなってきた。小宮駅からは、F駅長が下り第三列車を拝島駅に向かわせようとしている。いっぽうの拝島駅では、K駅長代理の判断によって、Mの乗り込んだ上り第四列車が発車しようとしている――。

 

   ☆

 

 一方、小宮駅には八王子駅からの下り第三列車が到着していた。これに乗り込んでいたのは、先だって小宮駅から適任者として派遣されていたAである。彼は「指導者」としていったん小宮駅に戻ってきた形である。

 拝島駅での混乱など知る由もないF駅長は、O嬢に手渡した意味不明の内容の紙切れによって、全ての段取りは整っているはずだ――と勘違いしている。よって彼はAにこう指示した。

「運航の順序を変更したから、このまま下り第三列車に乗って拝島駅に行ってくれるかい? 大丈夫、最初に拝島駅から来ることになていた第四列車は、私がストップさせておいたから」

 ほほう、そうですか。

 Aとしても、駅長が自信満々でそう指示を出すのだから迷う理由もない。小宮駅では30秒ほどのやり取りをして、すぐに出発した――。

 さて拝島駅はというと、ちょっとだけ予定外の出来事があった。東飯能駅で上り第四列車に連結して牽引してくる予定だった機関車が、なにやら上記気力が不十分な状態になったとかで、使い物にならなくなったのだ。

 それで、上り第六列車が先に出発することになった。これは、第四列車の後に出発する予定だったものである。

 この第六列車が到着すると、拝島駅では、時刻表の上ではこれを上り第四列車の代わりとする形で送り出したのだった。

 そしてこの列車には、小宮駅から適任者として派遣されていたMが乗り込んだ。彼はいよいよ、拝島駅から「指導者」の肩書をひっさげて小宮駅へと戻っていくことになったのだ。

 こうして、冒頭の事故は発生したのである。

 F駅長は、自信満々で下り列車を送り出した。そして拝島駅のK駅長代理は、なんとな~くその場の空気に流されて上り列車を送り出した。その結果、このふたつの列車は多摩川の鉄橋上で激突大破したのだった。

 ここまでの登場人物のうち、MとAはこの事故によって死亡している。O嬢やHは拝島駅で待機していたところだった。

 

   ☆

 

 事故によって、言うまでもなく八高線は全線ストップ。特に拝島駅と小宮駅は大混乱に陥り、F駅長とK駅長代理は逮捕され取り調べを受けるという憂き目に遭った。

 F駅長は「自分の手渡した紙きれをちゃんと読めば、正面衝突なんてありえなかったはずだ!」と主張していたという。だがさすがに取り調べの直後には割腹自殺を図っており、なんとか一命を取り留めた。

 拝島駅のK駅長代理はと言えば、いざ事故発生の知らせを受けて、ようやく「あのメモはそういう意味だったのか!」と合点がいったという。これぞ正真正銘の「アホが見るブタのケツ~♪」というやつであろう。

 この二人は「業務上過失致死並びに業務上過失列車破壊罪」という物凄い罪名で起訴され、裁判にかけられた。F駅長は、裁判所でも「私の書いた図表は普通に見ればすぐ分かるはずだ」とマジ切れしていたという。

 責任の所在は、まあ誰に目にも明らかであろう。悪いのはいい加減な独断を下したF駅長と、それについて確認せずに適当な判断をしてしまったK駅長代理の2人である。

 ではF駅長のやり方はどこまで間違っていたのだろう? 現代の視点で見ると、当時の彼の判断はあまりにも綱渡りめいたものに見えるが、もしかするとそういうやり方は「現場の習慣」として昔からあったのではないだろうか――?

 これについてはしかし、運輸省東京鉄道局教習所の教官が証言台に立って「そんな習慣ありえない。そんなのを許可した覚えもない」とう旨の証言をしている。

 結局、第一審判決ではF駅長に禁固一年、K駅長代理に禁固6ヶ月の判決が下った。さらに第二審ではF駅長が禁固8ヶ月の実刑、Kについては2年の執行猶予付きの禁固6ヶ月という判決が出て、これで確定した。事故から2年後のことだった。

 2人は職を追われ、共にひっそりと第二の人生を送ったという。これもまた、終戦直後という混乱期、時代に翻弄された人間のひとつの姿であったか――。

 

   ☆

 

 さて、この事故は思いのほか知名度が低い。死者数でいえば日本の鉄道事故史上屈指の大惨事であるにも関わらず……である。これは何故だろう?

 ここに一冊の参考文献がある。この八高線正面衝突事故の詳細が記された、おそらく唯一の本と思われる舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』(毎日新聞社)である。この本には、報道に際して検閲だか報道規制だかが行われたせいで事故のことが記録に残らなかった――という趣旨の記述があるが、これは本当なのだろうか。

 筆者の考えを言えば、これはどうも違う気がする。

 土浦事故の項目でも書いたが、戦前から終戦直後の報道に関してはなにかにつけて「当時は報道規制がかかって一般にはあまり知られなかった」と言われることが多い。しかし、当『事故災害研究室』の読者には、今後なにかの文献でそういう記述を見かけたら、まず眉に唾をつけてかかることをお勧めしたい。この八高線正面衝突事故も、当時は新聞でちゃ~んと報道されていたのだ。

 ここに、読者の方からご提供頂いた当時の新聞がある。事故翌日の朝日と読売、それから翌々日の朝日新聞である。カメラ撮影によるものになるが、掲載しておこう。

 

事故翌日の朝日新聞。

事故翌々日の朝日新聞。

事故翌日の読売新聞。

 ※著作権のからみがよく分からないが、問題があれば削除するので、その場合はご指摘頂ければ幸いである。

 

 ご覧の通り、しっかり報道されているのである。

 「でもやっぱり扱いが小さいじゃないか。普通だったら紙面の第一面を飾るような事件だぞ? やっぱり報道管制が敷かれたんじゃないか!」と思われる方もおられるかも知れない。これに対する反論を以下で述べる。

 これも土浦事故の項目で書いているが、物資の不足から、当時の新聞は紙面が極端に少なかったのだ。紙一枚の裏表に印字されていたり、それがさらに半分サイズになったり、しかも紙がワラ半紙だったりしていたのである。

 いくら大事件とはいえ、ひとつの事件だけで、今のように2つも3つも紙面を割けるような贅沢はできなかったのだ。

 また通信上の問題もあった。今のようにデータを添付してワンクリックで全ての情報が送れるような時代ではなかったのである。地元記者からの電話通信や伝書鳩を駆使して情報を集めていた当時、終戦直後の人手不足と混乱の中ではこうした通信もままならなかったに違いない。

 そもそも、報道管制が敷かれたのならば、完全に報道されないはずである。実際に政府によって報道規制が敷かれ、報道を握りつぶされたケースは確かにあるが、それは詳細な空襲の情報のような軍事機密にまつわる事柄など、ごく僅かな数である。中途半端な形であれちゃんと報道されている事柄は、当時としては精一杯報道されたことを意味しているのである。

 「政府によって報道規制がなされた」という都市伝説は「当時、国民を動揺させるようなニュースは規制されるようになっていた」という文脈で語られることが多い。だがこの八高線の衝突事故について言えば、もう戦争は終わっているのだから国民の動揺もへったくれもない。

 そして、人間というのは基本的に忘れる動物である。どんな大事件でも、何度も繰り返し報道されなければ、他の事件の情報に埋もれてしまうし、そうでなくとも忘れてしまうものだ。こうして八高線の正面衝突事故は、知る人ぞ知る伝説の事故となってしまったのだろう。

 たぶんこういった事柄は、ここでの文章を読んで初めて知ったという方も多かろうと思う。当時「政府による報道規制」という現象は確かにあった。だが、いつの間にかその規制の及ぶ範囲が際限なく拡大されて、猫も杓子も規制されたように書かれることが多いがそれは嘘である。

 ではなぜ、そんな嘘がまかり通るようになったのだろう?

 ここからは筆者の想像になるが、これは多分、新聞社がその嘘を積極的に否定していないからだと思う。当時の新聞は、戦争を煽る記事をけっこう書いていた。だから今「戦前から戦中にかけては報道規制がかかって自由な報道ができなかった」ことにした方が、「いやああの戦争礼讃の記事も軍部に強制されて書かされたものなんですよ~」と言える。

 あとは新聞やテレビで、なにかにつけてちょこっと「当時は報道規制があって云々」というひとことを挟み込んでおくといい。そうすれば、大衆の心には戦争イコール報道規制、という図式が刷り込まれるだろう。なんだか陰謀説めいた書き方になるが、戦後はそんな風に大衆の心が操られた部分もあったのではないだろうか。

 ちなみに『「大列車衝突」の夏』はサンデー毎日に連載されたものがまとめられた本であり、出版元は毎日新聞社である。

 

【参考資料】
舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』毎日新聞社

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■



読者登録

きうりさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について