目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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北陸線・雪崩直撃事故(1922年)

 大正10年から11年にかけて、日本海側一帯は豪雪に見舞われていた。

 それで当時、県知事と陸軍連帯区司令官から、各市町村に出された通牒がこれである。

「北陸線は重要な軍事路線につき、青年団、在郷軍人分会を動員し、万難を排して交通維持に努められたい」。

 要するに、お前らちゃんと除雪やれよ~、というわけだ。

 そしてそんな中、1922年(大正11年)2月3日13時30分に市振~親不知間の鉄路で大雪崩が発生した。これは犠牲者こそ発生しなかったものの、鉄道を完全に塞いでしまう大規模なものだった。

 さっそく鉄道省と陸軍省からの要請を受け、周辺の村落からは除雪の人夫たちがかき集められた。地元の建設会社「白沢組」が仲介となり、200名(うち30名が鉄道職員)がさっそく作業に取りかかった。

 この日の天候は最悪だった。この間までは大雪だったくせに、なんと季節外れの雨降りである。しかも雨足はどんどん強まり、夕方にはすっかり大雨となった。まーフェアチャイルド時代のYOUだったらきっと「じょだんじゃないよ♪」と歌ったに違いない。

 もちろんこの時代にYOUは生まれていない。人夫たちは歌う余裕もなく除雪作業を進めていった。雨合羽や長靴などなかった時代のことである。厳寒の空気の中で雨水は蓑や笠を伝って服を濡らし、さぞ凍えたに違いない。

 しかもそれだけではない。当時このあたりは「雪崩天国」とでも呼ぶべき状況で、雨のせいで雪崩が頻発していたのだ。この日のうちに市振~親不知間では合計11回も雪崩が起きていたというから、作業員たちは心身共に生きた心地がしなかったことだろう。作業中止の号令が下った時に彼らが心底ほっとしたであろうことは、想像に難くない。

 この時、時刻はすでに夜。作業員たちは我が家へ帰るべく列車に乗り込んだ。蒸気機関車2296(2120型)牽引、6両編成の65列車である。

 しかし「雪崩天国」いやさ「雪崩地獄」の悪魔は彼らを見逃さなかった。この列車が帰路で雪崩の直撃を受けたのである。

 時刻は午後7時~8時の間のこと。親不知駅と青梅駅の間を通過中、勝山トンネルの西口にさしかかった時のことだった。勝山の約6,000立方メートルの雪が滑り落ち、列車に襲いかかったのだ。

 最も被害が大きかったのは3・4両目だった。この車両は雪崩の威力によって木っ端微塵に破壊され、客車の台枠や車輪だけを残してほとんど消えてなくなってしまったという。死亡者も全てこの2車両に集中しており、最終的には乗客89人と鉄道職員1名の計90名が犠牲になっている。

 中には握り飯を手にしたままの遺体もあったというから、この事故が一瞬の出来事だったことが分かる。

 また2両目も大破し、大勢の怪我人が出た。

 さあ大騒ぎである。急報を受けた鉄道省は在郷軍人、青年団員、消防団等で組織された救援隊を、そして赤十字などでもさっそく大がかりな救護班を現場へ送り込んだ。

 だが鉄道は動かない。そりゃ雪崩が起きているんだから当たり前である。なんだか間抜けな話で、手前の駅で引き返さざるを得ない班もあったという。

 このように、山間の豪雪地の事故現場ということで、交通手段には限界があった。海上も波浪のため危険な状態で、陸海ともに最悪の天候状況だったのである。本格的な救助活動が始まる頃には、もはやそれは死体発掘作業の様相を呈していた。

 負傷者と死者は、それぞれ親不知と、反対の糸魚川方面に向けて収容されたという。

 ところでこの現場は42時間後には復旧したが、当時の鉄道省は救援そのものよりも最初から線路の復旧を優先しようとしたため、大いに地元住民の顰蹙を買ったそうな。

 なるほど当時の新聞を見ると「親不知、市振間の雪崩未だ除雪出来ず四日中に開通の見込みである、」などと報道されているが、しばらくすると「4日の朝8時にはまだ雪の下に70~80名の遺体が残っている見込み」とも報道されている。鉄道省も、よもやこんなにひどい事態になるとは思ってもみなかったのだろう。

 ちなみにこの雪崩の原因だが、積雪+雨という自然的要因はもちろんだが、他にも「汽車の汽笛」も影響したのではないかと言われている。トンネル進入前に鳴らした汽笛が、雨でゆるんだ積雪に振動を与えてしまったのだ。こういうのを底雪崩と呼ぶらしい。

 周辺地域の村落は、この事故によって多くの若い働き手を失ったわけだが、その補償について鉄道省と地元住民はずいぶん揉めたようである。

 問題は弔慰金にあった。「犠牲になった作業員は鉄道省が雇ったわけではない」という理屈で、鉄道省がわはなかなか補償に応じなかったのである。

 なるほど、それじゃ遺族は頭に来るよね。

 とはいえ最終的には鉄道省が折れ、犠牲者は「奉仕隊」だったということで無事にお金が支払われたとかなんとか、うんぬんかんぬん。きっと「名目なんざどうでもいいからとっとと払いやがれ」というのが遺族の正直な気持ちだったことだろう。

 参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故は、ひとつの事故に対して複数の慰霊碑が建てられているという全国的にも稀なケースだという。地元住民の、この事故への関心の高さが窺い知れる。

 そしてこの事故をさらに印象深いものにしているのは、未だに一人だけ身元不明の犠牲者がいる、ということである。

 どうも、事故に遭遇した客車にたまたま乗っていたらしい。普通の乗客と思われるが、どこの誰なのかは遂に最後まで分からずじまいだったという。なんだか後年の三河島事故を思い出すような話である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇神戸大学付属図書館 新聞記事文庫

 

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逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)

 ミステリ作家コーネル・ウールリッチの作品に『九一三号室の謎 自殺室』という短編がある。ニューヨークのとあるホテルの913号室に泊まった客が、毎度毎度謎の飛び降り自殺をするというので探偵役が調査を始める――というものだ。

 で、今回ご紹介する事故は、なんだかそれを彷彿とさせる。

 時は大正時代の末。東海道本線の東京―神戸間にある逢坂山トンネルと東山トンネルでは、なぜか多くの乗客が走行中の列車から墜落し、そして死亡していた(当時、丹那トンネルはまだ開通していない)。

 鉄道当局としては、最初は飛び降り自殺かカーブで振り落とされたかのどちらかだろうと考えていたという。だがあまりに死者が多いので調べてみたところ、驚くべき原因が分かった。

 その原因とは、煙だったのだ。

 長大トンネルを走行していると、機関車から噴き出す煙はどうしてもトンネルにたまる。列車が煙よりも早く走れればいいのだが、たまたま追い風だったりすると最悪で、走る機関車に背後から煙がまとわりついてきたりする。それにまた、昔のトンネルというのは、今と比してまたえらく狭く煙もたまりやすいのだ。

 というわけで、トンネル走行中にデッキにいた乗客は煙を吸い、意識が朦朧として転落してしまうのだった。

 これを受けて、鉄道省では煙の排出のために、トンネルの両端に強力扇風機を設置したという。

 この事故の顛末が、『東京日日新聞』で報道されたのが1926(大正15)年2月1日のことだった。しかしこの2年後には、機関車の煤煙が原因で起きた事故としては最悪のものである「柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故」が発生することになる。

 鉄道が「汽車」であった時代、現代人には想像もつかないような課題と苦労があったのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)

 煤煙による窒息事故である。

 念のため言っておくと、「煤煙」というのは機関車が走る時に煙突から吹き出すあの煙のことだ。これが原因で発生した事故は以前にもご紹介したが、今回のは最大の被害が出たケースである。

 この事故、死亡者数こそ3名と少なめであるものの、他の乗務員や救助者もほぼ余すところなくバタバタと倒れており、死亡者3名で済んだのも間一髪だったことが分かる。おそるべきケースである。

 

   ☆

 

 1928(昭和3)年12月6日のことである。

 北陸線敦賀駅から0時37分に発車した貨物列車があった。これは全部で40両の貨車からなっており、先頭と一番後ろにそれぞれ貨物用機関車がついていた。型式は、当時としては最強の馬力を残る機関車である。

 この列車、疋田(ひきだ)駅までは時間に遅れもなく順調だった。だがこれを過ぎた辺りから調子が悪くなった。山間部に入って雪が急に増えたのと、勾配がきつくなったことが原因となり、車輪がシュルシュルと空転し始めたのだ。

「なんだ、調子悪いな。まあ仕方ないか」

 乗務員は皆、そう思ったことだろう。疋田駅から柳ケ瀬トンネルまでの区間は25‰(パーミル)の急勾配になるのだ。

 その上、2日前には鯖江駅で貨物列車の事故が起きており、この日はそのしわ寄せが来ていた。師走でただでさえ多い輸送貨物がさらに増えていたのだ。定められた限界量もすでに超えており、機関車が進まなくなるのもむべなるかなだった。

 だが乗務員には「勝算」があった。

「なに、曽々木トンネルを抜けるとしばらく平らになるから大丈夫だよ。そこで勢いをつけよう」

 そう。この先にある曽々木トンネルを抜けると、しばらくは平らな地面が続くのである。機関車はそこで力を蓄え、あとはその先にある柳ケ瀬トンネルを一気に通過するのが習わしだった。

 しかしこの日は完全に当てが外れた。曽々木トンネル以降の水平の区間でも、またしても機関車は空転を繰り返したのである。おかげでその先の刀根駅に到着した時はすでに予定を3分遅れていた。

 さあ、ここから柳ケ瀬トンネルまではあと1.5キロ。本当に大丈夫なのかね?

 とにかく列車は進んだ。柳ケ瀬トンネルに入れば、あとはトンネル内の1.3キロを走るのみで、その先はもう下り勾配である。もうひと息辛抱すれば大丈夫だという気持ちで、乗務員たちは機関車を先へ進ませたのだろうか。

 だが事態はますますひどくなる。柳ケ瀬トンネルまでの1.5キロの間にも空転は激しくなり、速度は時速8キロにまで落ち込んだ。

 ハアハア、ゼイゼイ。機関車の息切れと乗務員の苛立ちが伝わってくるようだ。結局、トンネルまでの1.5キロを14分かけて進み、やっと列車はトンネルに入っていった。

 さあ、ここからがこの世の地獄である。スピードは牛歩戦術もいいところ、それなのに煤煙だけはしっかりまき散らすのだからたまらない。トンネル内はもちろん、機関車の運転室もたちまち煙で真っ黒になった。

 しかも、トンネル内でもスピードは落ちる一方。そこへ来て当時は追い風で、吐き出された煤煙は背後から列車にまとわりついてくるのだから、もう悪条件の揃い踏みである。ついに先頭の機関車の乗務員は全員が窒息、昏倒してしまった。

 そこは、トンネルの出口まであと25メートルという地点だった。運転手は昏倒する直前、本能的にブレーキをかけてトンネル内で列車を停止させた。これはまったく妥当な措置だった。そうしないと機関車が力を失い、貨物列車は自由落下で逆走していたところだ。

 列車が停止したので、一番後ろの機関車の指導機関主、後部車掌、荷扱手、前部車掌、荷扱手らは外へ飛び出し、直近の信号所へ助けを求めに行った。

 彼らが目指したのは、トンネルを抜けた先にある雁ケ谷信号所である。ところがこのメンバーも煤煙を吸い、トンネルを出る前に力尽きて倒れた。

 雁ケ谷に停車していた下り貨物列車は、この異変に気付くとすぐ行動を開始した。12時8分、機関車だけを外して救援に向かったのだ。

 この機関車はまず、トンネル内で立ち往生していた上り貨物列車に連結。そして、列車がもと来た方向へ押し出していった。雁ケ谷側に引っぱり出した方が早かったんじゃないかとも思うのだが、恐らく馬力の問題があったのだろう。柳ケ瀬トンネルは雁ケ谷に向かって上り勾配だったわけだから、なるほど雁ケ谷方向からは押し出すほうが簡単な道理だ。

 ところが、列車を押し出している間に、今度は救援機関車に乗っていた2人も窒息し昏睡状態に陥った。二次災害である。

 結果、3名が死亡し9人が負傷と相成った。死亡したのは、トンネル内から徒歩で脱出し救援を求めようとした乗務員たちだった。

 事故原因はまあ、ここまで書いた通りである。荷物が多すぎ、レールの雪で滑り、追い風で煙がまとわりついたためだ。

 だが『事故の鉄道史』ではここでさらに突っ込み、トンネルの狭さも事故の原因だったのではないかと述べている。柳ケ瀬トンネルが建設された明治前半期は、大型の機関車がトンネルを通過することは考えられていなかった。想定されていたのはあくまでも小型の機関車だったのである。そんな時代遅れのトンネルに、近代的な大型機関車が入るようになったのだから煙がたまるのも当たり前やんけ、というわけだ。

 柳ケ瀬トンネルの工事が決まった当時、明治政府は逢坂山トンネルを建設中だった。日本初の山岳トンエンルである。これがうまくいきそうなので政府は変な自信を得てしまったらしく、設計図をそのまま流用したのだ。

 そしてその後、逢坂山トンネルの方は機関車が大型化される前に別のルートに変更された(これが、以前紹介した連続墜落死事故より前なのか後なのかは不明)。だが柳ケ瀬トンネルは、事故後に排煙装置がつけられたとはいえ、こんな具合で1964(昭和39)年まで使われていたのである。このへんの事情を知ると、『事故の鉄道史』の指摘ももっともだと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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久大本線ボイラー爆発事故(1930年)

 事故の経緯は、まず以下の通りである。

 1930(昭和5)年4月6日のこと。福岡と大分にまたがる久大本線(きゅうだいほんせん)の鬼瀬駅と小野屋駅の間の上り坂を走行していた機関車が、大爆発を起こしたのだ。

 時刻は12時10分。この爆発に巻き込まれて、客車に乗っていた22名(ウィキペディアでは23名)が死亡した。犠牲者の状態はそれはもうひどいものだったらしく、全員がもれなく重度の全身火傷。中には、手の皮が手袋のようにすっぽり抜けてしまった者もいたというから、まるではだしのゲンである。

 今まで誰も見たことがないような大惨事である。原因の究明と「犯人探し」が始まり、起訴されたのは機関手と機関助手の2名だった。

 詳しい説明は後述するが、要するに機関助手の不手際で機関車がおかしくなり、中に詰まっていた熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだと考えられたのだ。また機関手は、機関助手を監督する立場にも関わらず、それを怠ったと見なされた。

 しかしこの事故は、上述のような結論がすんなり出たわけではない。原因究明の段階でかなりの混乱があったようだ。

 たとえば、事故直後にはなんの脈絡もなくダイナマイト爆発説が唱えられた。また鉄道局が「なんだかよく分からないが機関車の点検に落ち度はなかった!」と主張すれば、鉄道員たちは「安月給でこき使っておいて、いざとなると罪をなすりつける気か! もっとちゃんと調査しろ!」と吠える始末。で検察はといえば「機関車の構造なんて知るか、専門的すぎてわけわかんねーよ。いま慎重に調査中だよ!」とコメントするばかりだった。

 なぜこんな混乱が生じたのか、その理由も後述するが、とにかくそれくらい不可解な事故だったのである。

 そんな状況にもかかわらず、大分地方裁判所の判決がしれっと下されたのは、ほぼ2年後の昭和7年6月18日だった。過失傷害致死罪と過失汽車破壊罪で機関助手が禁固3カ月、機関手が禁固2カ月というものだった。上告がなされたものの、大審院は11月8日に上告を棄却し刑が確定した。

 

   ☆

 

 さて、事故が発生したメカニズムについて、さらに細かく見ていこう(と言っても大まかだが)。

 まずこの図を見て頂きたい。

 

 

 かなり大ざっぱな、機関車の構造である。

 先に「機関助手の不手際」でこの事故は起きたと書いたが、具体的に何が不手際だったのか。図で言うと「火室(かしつ)」の部分の取り扱いである。

 ここは要するに、蒸気機関車を動かすために石炭をガンガンぶち込んで、火をボーボー燃やす場所だ。大まかに言うと、ここで発生した熱が湯を沸騰させて、その蒸気で機関車は動くのである。

 読者諸君も、テレビなどでも見たことがあるのではないだろうか。機関車内で、スコップを持った人が、暖炉みたいな箱の中に石炭を放り込むのである。あのスコップを持っているのが機関助手、そして助手を指導しながら機関車の操作を行うのが機関手だ。

 さてこの「火室」だが、密閉された箱の中で石炭をガンガン燃やし、最高で1,500度まで上がる。よってそのままでは火室そのものが壊れてしまうので、火室の上は常にお湯で満たされている。

 つまりヤカンと同じである。空っぽのヤカンを火にかければ「空焚き」でヤカンが壊れるだろう。だが水を入れて火にかければヤカンは壊れず、お湯が沸騰するだけで済む。これと同じだ。火室の上部の空間には、沸かされたお湯と水蒸気が溜まっており、このお湯のおかげで火室は壊れずに済むというわけだ。

 では万が一、何かの拍子に火室上部の水が足りなくなったらどうなるか? 例えば今回の事故のように、機関車が急な登り勾配にさしかかった場合など、そうなることが考えられる。機関車そのものが傾けば、火室の上部の「天井板」が水面からむき出しになってしまうわけで、そうすれば空焚きである。

 すると、機関車は爆発するのだ。それも大爆発。マジで機関車も乗務員も原形をとどめないほどバラバラになってしまうのである。

 もちろんそうならないように、対策はなされている。火室の「天井板」のことをクラウンプレート、あるいはクラウンシートというが、このプレートには「溶栓」「熔け栓」「レッドプラグ」「ヘソ」などと呼ばれるネジみたいなものがねじ込まれている。

 このネジ、例えるなら、穴にチーズの詰まったちくわのようなものだ。

 クラウンプレートが異常な高温になると、このちくわの中のチーズが溶ける。そして穴を通して、火室にの上にたまっていたお湯が流れ出すのである。それは火室の中に降り注ぐ。

 つまり、機関車が爆発する前に、火室の温度を下げてしまうという仕掛けだ。

 なるほど、それなら機関助手も安心していられるね! ……とも言ってはいられない。このちくわを溶かしてしまうということは、機関助手にとっては最大の恥なのである。なにしろ火は小さくなるし、溜まっていた蒸気も水と一緒に出てしまうので、機関車はもう止めざるを得ない。こうなったらもう大失態である。

 だから機関助手は、細心の注意を払って「水面計」というメーターを常に睨んでいなければならない。火室の上の水が少なくならないよう、これでチェックするのだ。

 で、ようやく事故の話になるのだが、もう大体お分かりであろう。機関助手の不手際というのは、この火室の上の水を減らしてしまい、空焚きを行ってしまった点にあった。

 経過はこうである。裁判記録によると、鬼瀬を12時6分に発車した機関車が1,300メートルほど進み、25‰の上り坂に入ったところで機関助手が異常を発見した。先述したちくわのチーズにあたる部分が溶けて、ちくわの穴から蒸気が漏れ出しているのに気付いたのだ。

 まあ単純に考えて、上り勾配に差し掛かったため水面も傾いてしまい、クラウンプレートがむき出しになった部分があったのだろう。どうやら水面計のチェックも漏れていたらしい。

 爆発が起きたのは、水漏れに気づいてからほんの数秒後の出来事だった。幸いだったのは、破裂したのは機関車そのものではなく火室だけで済んだということだった。機関助手と機関手は、軽い火傷で済んだようである。そのかわり客車はえらいことになったわけだが――。

 では爆発自体はいいとして、膨大な死者が出た客車内では一体何が起きたのだろう。これが鉄道省、検察、裁判所を大いに悩ませた。

 状況を見れば、爆発によって機関車の正面が吹き飛び、そこから噴出した熱湯と蒸気が客車に注ぎ込んだとしか思えない。類似の事故も過去になくはない。だがそれでも、今回のは被害者たちの火傷の状態といい、その規模といい、あまりにもひどすぎた。本当に熱湯と蒸気だけのせいなのだろうか?

 さてここで、「あれ、変だぞ?」と思われた方もおられよう。そう、今の説明では、蒸気機関車の正面が爆発で吹き飛んだことになる。しかし客車というのは機関車の後ろについているはずだ。正面から水蒸気と熱湯が噴き出したのなら、客車に被害が及ぶはずがない。

 そこで、事故当時の列車について説明が必要になるのである。実はこの列車、先頭の機関車が通常とは反対向きに連結されていたのである。こんな具合だ。

 

 

 昔の機関車は、ごく稀にこういう形で走行することがあった。ある地点からUターンして走行するにもかかわらず、方向転換のための設備が整っていない場合である。当時の鉄道員の間で「バッキ運転」と呼ばれていた方式だった。

 だから、機関車の前部が吹っ飛んだことで、後方にあった客車に被害が及んだのだ。

 客車で何が起きたのかについては、けっきょく不問に付される形になった。うやむやの結論のまま、とりあえず機関手と機関助手が罰せられて事態が収束したのは、先に書いた通りである。

 さあ、ここからが謎解きである。

 以上の事柄を踏まえて、この事故の謎に挑んだのが『事故の鉄道史』の作者である佐々木冨泰と網谷りょういちの二者である。

 佐々木と網谷は、まずこの事故にまつわる疑問をまとめた。それは以下の通りだ。

1・水蒸気だけで、機関車を吹き飛ばすほどの圧力が発生するのか?
2・熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだだけで、全員が一様に死亡するような結果になるだろうか?
3・爆発音は二度上がっている。二度目の爆発とはなんなのか?

 佐々木と網谷は検討を重ね、この爆発事故は裁判で認定されたような単純なものではなく「水性ガス」によるものだと結論を出した。

 「水性ガス」とは何かというと、赤熱したコークスまたは石炭に、水蒸気を吹き付けると発生するガスである。水素と一酸化炭素の混合ガスで、最近は合成ガスという名前で呼ばれているという。

 この水性ガス、液化天然ガスの輸入が始まる前までは頻繁に用いられていたらしい。しかし事故当時の昭和5年頃の日本ではほとんど知られていなかった。

 正直、筆者は化学はちんぷんかんぷんなのだが、ついでなので化学式も引用しておこう。

 

 C+H2O=2H+CO

 

 この化学反応式は、赤熱した炭素を水蒸気があれば常圧で反応する。そして発生した水性ガスは、空気中の酸素と混じり、着火源があれば、次の化学反応式のように燃焼(爆発)して水蒸気と炭酸ガスになる。

 

 2H+CO+O2=H2O+CO2

 

 つまり、こういうことである。事故当時、火室の空焚きによって、先述したようなチーズ入りちくわの溶解が起きた。それでちくわの穴から大量の水蒸気が吹き出て、火室内の石炭に降り注いだのである。そこで水性ガスが発生した。

 火室の中は、水蒸気のため酸素が外へ押し出されており、ここではガスと酸素が結びつくことはない。

 だがガスはボイラーの煙室を通って(前々図参照)機関車の前部に流れ込み、そこで酸素と結び付いた。そして煙室にたまった高熱の燃えカスから引火し、爆発した。

 これが一度目の爆発である。これにより、機関車の前部がまず吹き飛んだ。

 だが裁判では「爆発音は二度あった」という証言があった。単なる火室の爆発なら爆発音は一度だけのはずだ。この、二度に渡る爆発音というのは推理する上での重要な手掛かりであり、また事故の原因が水性ガスであることを示す傍証だった。

 一度目の爆発のあと、機関車から客室へとガスが流れ込んだのだ。これが二度目の爆発を引き起こし、悲劇を招いたのである。

 水蒸気と熱湯による被害であれば、被害者たちの火傷の状況は座席位置によって変わってくるはずだ。だがこの事故はガス爆発だったからこそ、全員が一様の大火傷を負ったのである。『事故の鉄道史』によると、ガス爆発ならば一瞬で1,000度にもなるという。

 ガス爆発が起きたことを示す傍証は他にもあった。爆発現場の周辺の雑草がかなりの範囲で焼け焦げたという記録があったのだ。熱湯と水蒸気だけでこのようなことは起きるとは思われず、爆発により火炎が上がったと考えるのが妥当なのである。

 もっとも、水性ガス爆発などという珍しい現象がなぜこの時に限って発生したのか、その根本的な理由は分からずじまいである。普通――という言い方はおかしいかも知れないが――とにかくこの手の事故では、普通は機関車が停止するか爆発するかのいずれかしかない。なぜそうではなく水性ガス爆発だったのか、その点だけは謎のままである。

 とにかく結果として水性ガス爆発が起きたと、そういうことだ。

 

   ☆

 

 そしてここからは、まとめである。

『事故の鉄道史』の記述は、ちょっとした推理小説を読んでいるようで面白いのだが、サッと読んだだけでは「で、水性ガス爆発だったからそれがどうしたの?」と思えなくもない。この推理の結果、事件の構図がどう変わってくるかが解説されていないのだ。

 よってここで最後に、筆者なりに少しまとめてみようと思う。この事故の原因が水性ガスなのは分かった。では「それがどうした」のかというと、この事故の裁判結果は、冤罪とまではいかずとも誤判の可能性があるということだ。

 そもそもこの事故、明らかに最初から最後まで混乱とうやむやの中で片付けられているのである。

 なんで機関車の火室が破裂しただけでこんな大惨事になったのかが誰も分からず(だからこそダイナマイト説などというのも飛び出してきたのだ)とにかく火室を破裂させたのは機関助手のせいなんだから、こいつブチ込んでおけばそれでいいじゃん! というノリで結論に至っているようにしか見えない。

 まあ当時、水性ガスの爆発に誰一人思い至らなかったのは仕方がない。だがそれならそれで、今になってみると、この事故の結論は「なぜあれほどの被害になったのかは不明」としておくべきだったことが分かる。たぶん熱湯と水蒸気が原因だったのだろうという適当な推測よりも、一体何が起きてこんな大惨事になったのかサッパリ分からない、という混乱のほうが正しかったのだ。

 人々が死亡したのは、誰も予測できず、また理解もできないようなことが起きたからなのだ。だから、責任のすべてを機関助手と機関手に負わせるのは不当だったと言える。彼らは事態収束のための生贄にされたといえる。

 この事故には、運が悪かったとしか言えない要素もあった。まず例のチーズ入りちくわだが、ここから水蒸気が漏れ出しているのを機関助手が発見して、わずか数秒後に火室が破裂したのは前述の通りである。だが数秒というのはあまりにも早すぎる。このチーズ入りちくわ、どうも当時は正常に機能していなかったのではないか。これが溶けるのが遅れたため、火室の破損も発見が遅れてしまったのだ。

 その上、機関車は「バッキ運転」だった。破裂によって流れ出したのが水蒸気と熱湯だけなら、機関車を突き破るほどの圧力があったとは考えられない。それが水性ガスだったため機関車は壊れ、そしてたまたま逆向きに連結されていた客車に被害が及んでしまったのだ。バッキ運転がなされていたこと自体が、こんな爆発事故が誰にも予測不可能だったことの何よりの証拠であろう。

 ちなみに鉄道省はこのバッキ運転について、事故直後には「こういう路線では止むを得ない」と述べていた。だがこの言葉もすぐに撤回され、Uターンが必要な路線の末端駅には必ずそのための設備(転車台)を設置することを原則としたそうである。この事故が残した唯一の教訓だった。

 ちょっと見ると、真の事故原因の解明など大した意味がないように思える事例である。だがこのように改めて考えてみると、当事者への責任の負わせ方について考えるための応用問題であることが分かる。機関車の構造や化学式には閉口してしまうものの、それなりに興味深いケースだった。

 

◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア

 

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瀬田川転覆事故(1934年)

 台風の歴史も調べると結構きりがないのだが、やはり有名なのは昭和の三大台風と呼ばれる室戸・枕崎・伊勢湾台風であろう。

 今回ご紹介する瀬田川脱線転覆事故は、室戸台風のさ中に発生した。マクロな視点で見れば台風による突風事故である。だがミクロな視点で見ると人間の不手際が目立ち、今では鉄道事故の一種として分類されている。

 

   ☆

 

 1934(昭和9)年9月21日のことである。

 東海道本線草津駅~石山駅間(現在の瀬田駅~石山駅間)の、瀬田川にかかった橋の上を列車が通過しようとしていた。

 この列車は、東京発神戸行きの下り急行で11両編成。記録によるとスピードは出しておらず、徐行していたそうだが、実はこの時は列車を運行するのには最悪のタイミングだった。

 滋賀県全域に室戸台風が襲来していたのだ。

 室戸台風――。最大風速31.2m/s、最大瞬間風速39.2m/sを記録することになる、化け物のような巨大台風である。

 こいつが県内で猛威を振るい始めたのが、21日の午前2時から午前4時の間のこと。そしてこの威力がもっとも強まったのが午前8時から9時の間で、先述の下り急行列車が瀬田川に差しかかったのが午前8時30分だったのである。これじゃ、暴風雨被害に遭わせて下さいと言っているようなものだ。

 もっとも、惨劇を防ぐチャンスは皆無ではなかった。通過駅ごとに、気象告知板(ホーロー板などに「暴風雨」とか「警戒」などと書かれたもの)がちゃんとあったのである。これに従って、運転を慎重にしていればよかったのだ。

 とはいえ戦前の話である。現代ならば異常があればすぐに列車を止めるだろうが、当時はどうだったのだろう。「異常があればとにかく運転を止めろ」というのは戦後の三河島事故以降のルールで、終戦より前の時代は逆に「汽車を止めるのは恥」と考えられていたというから、むしろ暴風雨の中でも汽車を進めていくほうが当たり前だったのかも知れない。

 さあ、列車が橋の上に差しかかった時である。風を遮るもののない橋梁で、室戸台風の強風が車両に襲いかかった。

 列車はたちまち脱線、一気に3両目以降の合計9両の客車が転覆してしまう。この現場の画像はネット上でも見ることができるが、9つの車両が綺麗に並んで横倒しになっている様は、なんだか可笑しくすら感じられる。

 だが笑ってもいられない。この脱線転覆によって11名が死亡し、169~202名ほどが負傷したのである(負傷者数は記録によってずいぶん幅がある)。

 さらに、倒れたのが隣の上り線の線路だったからまだよかったものの、これが逆方向だったらどえらいことだった。お分かりだろうか、場所は河川にかかる橋梁である。転覆の方向によっては、客車が水没して死者が十倍くらいに跳ね上がっていた可能性すらあるのだ。

 橋の上の脱線転覆事故というと後年の餘部鉄橋転落事故を思い出す。だがあれは、線路が一本しかなかったため、脱線イコール転落という絶望的な状況だった。それに比べると橋の上が複線になっていたこの瀬田川脱線転覆事故は不幸中の幸いだったといえるかも知れない(もっとも瀬田川のほうが死者数自体は多いのだが)。

 さてそれでこの事故、「脱線したのは台風のせいだ」という見方もあったようだが、京都地検はそうは考えなかった。事故を起こさないようにするチャンスがあったのに注意を怠ったということで、乗務員の過失を認定、起訴したのである。

 裁判がどういう経過をたどったのかは、残念ながら不明である。ネット上で調べた程度では、そのへんの資料は見つからなかった。

 ちなみに、室戸台風で事故った列車はこれだけではない。他にも、東海道本線・摂津富田駅の近くで列車が脱線転覆し25名が死傷しているし、野洲川橋梁では貨物列車が転落し水没している。さらに大阪電気軌道奈良線(現・近鉄奈良線)でも大阪府布施町(現・東大阪市)内での電車の脱線転覆が発生しているのである。

 こうやって見ると、どれも人災とはいえ、乗務員ひとりひとりの責任ではないような気がしてくる。要は全ての鉄道員の意識のあり方や、彼らに対する安全教育自体に問題があったのではないか。

 いわば、「暴風雨の中でも列車を動かす」ことは、鉄道員にとっては自然法則のようなものだったのである。原理ではないが原則だったのだ。

 ともあれこれらの事故がきっかけとなって暴風設備の研究が進められ、鉄道でも風速計が設置されるなどの措置が取られるようになったのだった。

 

【参考資料】

◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◇ウィキペディア

◇神戸大学電子図書館システム

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/da/

◇個人サイト『わだらんの鉄道自由研究』

http://www.geocities.jp/yasummoya/tetudou_index_1.htm

 

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