目次
※読者の皆様へ(2019年4月30日)
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
山陽本線特急列車脱線転覆事故(1926年)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
山陽線列車脱線転覆事故(1938年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
横浜港ドイツ軍艦爆発事故(1942年)
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
京都駅将棋倒し事故(1934年)
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)
ラブパレード事故(2010年・ドイツ)
道頓堀川飛び込み事故(2019年)
航空機事故
トランスワールド航空800便墜落事故

閉じる


<<最初から読む

87 / 162ページ

東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)

 大正5年(1916年)11月29日の夜のこと。

 この夜、青森県三沢市の古間木駅(現在の三沢駅)に勤務していたT助役は、電信掛のNと共に、駅前の旅館で酒宴の真っ最中だった。ちょうど、しばらく列車の発着がない時間帯だったのだ。

 おいおい、勤務時間中になにやってんの。

 古間木駅にいたY駅夫は、頃合を見て二人を呼びにいった。「くそう、あいつら自分ばっかり飲みに行きやがって」と悪態をつきながら夜道を駆けていった、かどうかは知らないが、実はこの直後、電信掛のNは入れ違いに古間木駅に戻ってきたのだった。

 下田駅側の通票閉塞機の電鈴が鳴ったのは、このNが戻ってきたタイミングでのことだった。

 細かい説明は省くが、この「電鈴」というのは、下田駅が古間木駅に向けて「今から下り列車がそっちに行くぞ」という呼びかけの意味を持っていた。そしてNはいつもの習慣に従って、「了解した」という合図を送った。

 さてこの後、Nが何をしていたのかは、資料の文献を読んでも不明である。帰宅したのか、はたまた泥酔して寝てしまったのか……。とにかく彼がここで「了解した」という合図を送ったことが誰にも伝えられなかったことで、事故は起きてしまうのだった。

 はい、てなわけでNは退場。

 そして次に古間木駅に戻ってきたのが、酒宴から戻ってきたT助役と、彼を迎えに行ったY駅夫の2人である。

 酒宴から戻ってきたT助役は、駅舎で居眠りを始めた。すると間もなく上りの貨物列車が古間木駅に到着し、Y駅夫は助役を起こしにかかる。

Y「助役、起きて下さい。上り列車が着きましたよ」
T「うーんむにゃむにゃ、もう食えねえ」

 ああダメだこりゃ。俺がかわりに上り列車を通過させなきゃな……。と、このような次第で、Yはこの上り列車に通行許可を出すことにした。

 さてここで問題になったのが、さっきNがいじった通票閉塞機である。

 先述の通り、Nは「下り列車がそっちに向かうぞ」という電鈴を受けて「了解した」という返事をしている。それでこの通票閉塞機も、いわば「下り列車が古間木駅に向かってきているモード」になっていた。

 この閉塞機の状態だけを見ると、下り列車がこちらに走ってきていることになる。しかしこの日この時刻に下り列車が来るなんて、Y駅夫はまったく記憶になかった。どうなってんの?

 しばらく首をかしげた彼が下した結論は、こうである。

「ははあ、さてはこの機械また壊れやがったな!」

 そう、この通票閉塞機は前にこんな感じで故障したことがあったのだ。Yはその時の裏ワザを思い出した。そうそう、こういう時はT助役がコイツに針金を突っ込むと直るんだっけ。よしよし。

Y「助役、また閉塞機が壊れちゃいました」
T「むにゃむにゃ。仕方ないな、俺がやってやりるれろ」

 まだアルコールの抜け切らぬT助役は、いつものように針金を曲げて機械に突っ込む。そうして、上り列車が古間木駅を通過できるようにしてしまった。

 かくして古間木駅には平和が戻った……かのように思われたが、それは錯覚であった。上り貨物列車が通過した直後に、一本の電話が入ってきたのだ。それは下田駅のO助役で、「下り列車が古間木に向かうぞ」という電鈴を送った張本人だった。

O「もしもし。なんだ、やっと電話が通じたぞ」
Y「すいませんね、ちょいと取り込み中だったもので。どうかしました?」
O「いやなに、さっきウチのほうから下り列車を通過させるって電鈴を送っただろう? あれが14分遅れでさっき通過したから、念のために連絡をと思ってね」
Y「なにを言ってるんです? 下り列車って、そんなの時刻表にないでしょう」
O「こらこらなに言ってるんだ。今日は23時13分に下りの臨時列車が発車してそちらに行くことになってただろう」
Y「ぐはっ、臨時列車!?」

 そんなの聞いてねえ! 真っ青になるY駅夫。その様子を不審に思ったO助役は、T助役に電話を代わらせた。

T「むにゃむにゃ。おはようございます」
O「なんだ酔っ払ってるのか? なあTくん、今夜こっちから臨時列車がそっちに向かうって話は聞いてたよな? それがさっき通過したから連絡したんだが」
T「ぐはっ、臨時列車! 忘れてた――!」

 たちまち酔いがさめたT助役は、さっきの通票閉塞機のことを思い出したに違いない。あの通票閉塞機は壊れてなどいなかったのだ!

 しかしY駅夫とT助役が気付いた時にはもう遅い。下田駅から走ってきた下り臨時列車は、うっかり古間木駅を通過させられてしまった上り列車と正面衝突してしまった。

 下田ー古間木間は単線で、線路は一本だけだった。つまりこの路線を通れるのは常に上りか下りのどちらか一本だけで、本来は2つの駅で連絡を取り合い、かわりばんこに列車を通してやるべき区間だったのである。

 つまりYとTは、古間木駅でしばらくの間上り貨物列車を待機させるべきだったのである。そして反対方向からやってきた下り列車が古間木駅に到着した時点で上り列車を発進させる。そうすれば駅ですれ違う形になり、上りも下りもなんの問題もなく進むことができたのだ。

 それにしても、コトが発覚してからのYとTの心中は一体どれほどのものだったのだろう。きっと処刑を待つ時のような心地だったのではないだろうか。

 やがて、古間木駅に、自分たちがさっき送り出した上り貨物列車の後部16両が逆戻りしてきた。

 2人はそれを見て事故発生を知った。正面衝突の衝撃で、この後部16両分は連結器からちぎれてしまったのだ。

 死者29名(ネットで検索すると34名、とも)、負傷者171名。下り臨時列車には弘前市の第八師団に入営する予定の壮丁たちが619人乗り込んでおり、その3分の1程が死亡した計算である。

 さてその後の経過だが、とにかく通票閉塞機を不正操作したのは悪質だということで、T助役とYは実刑を食らった挙句に懲戒免職と懲戒解雇の憂き目に遭った。また兵隊の候補者達が多数犠牲になったということで陸軍省も事後処理に大きく関わり、話が相当でかくなったようである。

 ちなみに参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故について「通票閉塞機を不正操作したのはT助役である」とはっきり書いてある公式資料は数えるしか存在していないらしい。ものによっては不正操作をしたのが誰なのかがボカしてあったり、ひどいのになるとYに全部罪を擦り付けているのもあるのだとか。

 歴史というのはあちこちで改竄されたり捏造されているものなんだな……と最後に思わされる事故事例である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■


北陸線・雪崩直撃事故(1922年)

 大正10年から11年にかけて、日本海側一帯は豪雪に見舞われていた。

 それで当時、県知事と陸軍連帯区司令官から、各市町村に出された通牒がこれである。

「北陸線は重要な軍事路線につき、青年団、在郷軍人分会を動員し、万難を排して交通維持に努められたい」。

 要するに、お前らちゃんと除雪やれよ~、というわけだ。

 そしてそんな中、1922年(大正11年)2月3日13時30分に市振~親不知間の鉄路で大雪崩が発生した。これは犠牲者こそ発生しなかったものの、鉄道を完全に塞いでしまう大規模なものだった。

 さっそく鉄道省と陸軍省からの要請を受け、周辺の村落からは除雪の人夫たちがかき集められた。地元の建設会社「白沢組」が仲介となり、200名(うち30名が鉄道職員)がさっそく作業に取りかかった。

 この日の天候は最悪だった。この間までは大雪だったくせに、なんと季節外れの雨降りである。しかも雨足はどんどん強まり、夕方にはすっかり大雨となった。まーフェアチャイルド時代のYOUだったらきっと「じょだんじゃないよ♪」と歌ったに違いない。

 もちろんこの時代にYOUは生まれていない。人夫たちは歌う余裕もなく除雪作業を進めていった。雨合羽や長靴などなかった時代のことである。厳寒の空気の中で雨水は蓑や笠を伝って服を濡らし、さぞ凍えたに違いない。

 しかもそれだけではない。当時このあたりは「雪崩天国」とでも呼ぶべき状況で、雨のせいで雪崩が頻発していたのだ。この日のうちに市振~親不知間では合計11回も雪崩が起きていたというから、作業員たちは心身共に生きた心地がしなかったことだろう。作業中止の号令が下った時に彼らが心底ほっとしたであろうことは、想像に難くない。

 この時、時刻はすでに夜。作業員たちは我が家へ帰るべく列車に乗り込んだ。蒸気機関車2296(2120型)牽引、6両編成の65列車である。

 しかし「雪崩天国」いやさ「雪崩地獄」の悪魔は彼らを見逃さなかった。この列車が帰路で雪崩の直撃を受けたのである。

 時刻は午後7時~8時の間のこと。親不知駅と青梅駅の間を通過中、勝山トンネルの西口にさしかかった時のことだった。勝山の約6,000立方メートルの雪が滑り落ち、列車に襲いかかったのだ。

 最も被害が大きかったのは3・4両目だった。この車両は雪崩の威力によって木っ端微塵に破壊され、客車の台枠や車輪だけを残してほとんど消えてなくなってしまったという。死亡者も全てこの2車両に集中しており、最終的には乗客89人と鉄道職員1名の計90名が犠牲になっている。

 中には握り飯を手にしたままの遺体もあったというから、この事故が一瞬の出来事だったことが分かる。

 また2両目も大破し、大勢の怪我人が出た。

 さあ大騒ぎである。急報を受けた鉄道省は在郷軍人、青年団員、消防団等で組織された救援隊を、そして赤十字などでもさっそく大がかりな救護班を現場へ送り込んだ。

 だが鉄道は動かない。そりゃ雪崩が起きているんだから当たり前である。なんだか間抜けな話で、手前の駅で引き返さざるを得ない班もあったという。

 このように、山間の豪雪地の事故現場ということで、交通手段には限界があった。海上も波浪のため危険な状態で、陸海ともに最悪の天候状況だったのである。本格的な救助活動が始まる頃には、もはやそれは死体発掘作業の様相を呈していた。

 負傷者と死者は、それぞれ親不知と、反対の糸魚川方面に向けて収容されたという。

 ところでこの現場は42時間後には復旧したが、当時の鉄道省は救援そのものよりも最初から線路の復旧を優先しようとしたため、大いに地元住民の顰蹙を買ったそうな。

 なるほど当時の新聞を見ると「親不知、市振間の雪崩未だ除雪出来ず四日中に開通の見込みである、」などと報道されているが、しばらくすると「4日の朝8時にはまだ雪の下に70~80名の遺体が残っている見込み」とも報道されている。鉄道省も、よもやこんなにひどい事態になるとは思ってもみなかったのだろう。

 ちなみにこの雪崩の原因だが、積雪+雨という自然的要因はもちろんだが、他にも「汽車の汽笛」も影響したのではないかと言われている。トンネル進入前に鳴らした汽笛が、雨でゆるんだ積雪に振動を与えてしまったのだ。こういうのを底雪崩と呼ぶらしい。

 周辺地域の村落は、この事故によって多くの若い働き手を失ったわけだが、その補償について鉄道省と地元住民はずいぶん揉めたようである。

 問題は弔慰金にあった。「犠牲になった作業員は鉄道省が雇ったわけではない」という理屈で、鉄道省がわはなかなか補償に応じなかったのである。

 なるほど、それじゃ遺族は頭に来るよね。

 とはいえ最終的には鉄道省が折れ、犠牲者は「奉仕隊」だったということで無事にお金が支払われたとかなんとか、うんぬんかんぬん。きっと「名目なんざどうでもいいからとっとと払いやがれ」というのが遺族の正直な気持ちだったことだろう。

 参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故は、ひとつの事故に対して複数の慰霊碑が建てられているという全国的にも稀なケースだという。地元住民の、この事故への関心の高さが窺い知れる。

 そしてこの事故をさらに印象深いものにしているのは、未だに一人だけ身元不明の犠牲者がいる、ということである。

 どうも、事故に遭遇した客車にたまたま乗っていたらしい。普通の乗客と思われるが、どこの誰なのかは遂に最後まで分からずじまいだったという。なんだか後年の三河島事故を思い出すような話である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇神戸大学付属図書館 新聞記事文庫

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■


逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)

 ミステリ作家コーネル・ウールリッチの作品に『九一三号室の謎 自殺室』という短編がある。ニューヨークのとあるホテルの913号室に泊まった客が、毎度毎度謎の飛び降り自殺をするというので探偵役が調査を始める――というものだ。

 で、今回ご紹介する事故は、なんだかそれを彷彿とさせる。

 時は大正時代の末。東海道本線の東京―神戸間にある逢坂山トンネルと東山トンネルでは、なぜか多くの乗客が走行中の列車から墜落し、そして死亡していた(当時、丹那トンネルはまだ開通していない)。

 鉄道当局としては、最初は飛び降り自殺かカーブで振り落とされたかのどちらかだろうと考えていたという。だがあまりに死者が多いので調べてみたところ、驚くべき原因が分かった。

 その原因とは、煙だったのだ。

 長大トンネルを走行していると、機関車から噴き出す煙はどうしてもトンネルにたまる。列車が煙よりも早く走れればいいのだが、たまたま追い風だったりすると最悪で、走る機関車に背後から煙がまとわりついてきたりする。それにまた、昔のトンネルというのは、今と比してまたえらく狭く煙もたまりやすいのだ。

 というわけで、トンネル走行中にデッキにいた乗客は煙を吸い、意識が朦朧として転落してしまうのだった。

 これを受けて、鉄道省では煙の排出のために、トンネルの両端に強力扇風機を設置したという。

 この事故の顛末が、『東京日日新聞』で報道されたのが1926(大正15)年2月1日のことだった。しかしこの2年後には、機関車の煤煙が原因で起きた事故としては最悪のものである「柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故」が発生することになる。

 鉄道が「汽車」であった時代、現代人には想像もつかないような課題と苦労があったのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■


山陽本線特急列車脱線転覆事故(1926年)

 昔は、大惨事の記憶を「歌」によって残そうとする習俗があったのだろうか。今回ご紹介する事故も、以下のような形で歌われている。いつもの『事故の鉄道史』に載っていた。

 

列車転覆の歌

作詞 秋月四郎(地元の歌人)

 

一、ああ大正は十五年 時は九月の廿三夜

      山陽線は安芸中野 聞くも哀れな大惨事

二、知るや知らずや黒けむり 特急列車は轟然と

      数多(あまた)の旅客を打ち乗せて 全速力で進行中

三、如何なる神の戯れか にわかに豪雨が襲いきて

      かの恐ろしき激流に 無慚(むざん)や列車は転覆す

四、狭き車内の負傷者は 阿鼻叫喚の修羅の声

      親は子を呼び子は親を 呼びつ呼ばれつ雨の中

五、救いを求むる哀れさに 中野の村の人々は

      村長三戸松初めとし 救助の道を施せり

六、数多旅客のその中に 鹿児島市長上野氏は

      ひとり子篤孝諸共に 無惨な惨死を遂げにけり

七、上り下りの汽車の笛 ひとと哀れを告げにけり

      三十余名の霊魂は 中野の村雨とこしえに

 

 余談だが、作詞した秋月四郎という人は、かの「ヨサホイ節」を全国に広める火付け役となった人らしい。何者だろう。

 

 ともあれ、こういう事故である。人呼んで山陽本線特急列車脱線転覆事故は、1926(大正15)年923日、山陽本線の安芸中野駅~海田市駅間で発生した。

 

 この年は、風水害の当たり年でもあった(※)。特に9月は、11日に広島市で集中豪雨による甚大な被害が出るなど、ひどかったらしい。「らしい」というのは、さすがに90年以上前の出来事とあって、ネットで調べた程度では記録がほとんど見つからなかったからだ。まあ地元の郷土資料などにあたれば詳細も分かるのだろうが。

 

 (※参考資料『事故の鉄道史』によると、この年、愛知県豊橋市では某小学校の校舎が水害によって倒壊し、児童15人が死亡した事故が紹介されている。大変気になる事例である。この事故が起きたのが事実なら詳細を知りたいのだが、とにかく情報がない。どなたかご存じでないだろうか……。)

 

 今回ご紹介する事故も、この風水害の影響で発生した。しかしこの事故だけはしっかり記録に残された。それほどの重大事故だったのだ。

 

 事故が発生したのは23日。その前日の22日には、事故の現場となる地域でも雨が降り出し、これが午前23時頃に豪雨に変貌した。この雨で、周辺地域の畑賀村(現在の安芸区畑賀)で36名が、中野村(現在の安芸郡府中町)で3名が亡くなっている。

 

 災禍に見舞われることになる下り特別急行列車第一列車が、東京駅を出発したのは22日午前のことだった。資料によって、9時半とか8:45分とか書いてある。これは28977号蒸気機関車が11両の荷物車と客車を牽引する形で走っており、以下のような経路を辿っていった。

 

 22日、2012分に大阪駅に到着。20分発。

 23日、広島県の山陽本線糸崎駅を午前146分に出発して広島駅へ。

 広島県安芸郡中野村にある、安芸中野駅を、定刻よりも3分遅れの32830秒に通過――

 

 そして、列車はこの後に脱線転覆してしまうのだが、実は事故直前に、安芸中野駅の少し先の方では、畑賀川の増水により、溢れた水が線路を支障しているのが発見されていた。水が線路の築堤に溜まり、盛土が崩れ出していたのだ。これを見つけたのは、地元の中野村消防組(当時の消防団にあたる)のHである。

 

「これはヤバイ、安芸中野駅に知らせなければ!」

 

 彼は駅へ駆け出した。

 

 そこへ、328分に安芸中野駅を発車したばかりの特急列車がやってきた。ヘッドライドがこちらに驀進してくる……。提灯を持っていなかったHは、差していた番傘を必死になって振った。しかし見えるはずもない。

 

 こうして午前330分、特急列車は脱線転覆した。Hが、事故の瞬間そのものを目の当たりにしたかどうかは定かでない。

 

 実は、このたった5分前には、貨物列車が何事もなく現場を通過していた。盛土が崩れたのはその直後だったのだ。実に不幸なタイミングである。もしも、事故った列車に3分の遅れがなければ、惨劇は起きていなかったかも知れない。

 

 Hは色を失い、安芸中野駅に向かって走った。すると駅の手前で安芸中野丁場線路工手組頭の男性と出くわした。以下は、時系列を分かりやすくするためのエア会話である。

 

H「大変だ、この先で列車が脱線した!」

組頭「なんだと。今の時刻だと、貨物列車と特急列車が続けて通過したはずだが、どっちもか?」

H「いや、脱線したのは特急列車の方だけだ。貨物列車は無事に通過している。その直後に線路の盛土が崩れたんだ!」

組頭「なんてタイミングだ! 俺は今、川の増水について駅に報告に来たところだったんだ。危険な場合は列車を止めようって決めたばっかりだったんだが。そういえば、俺が電話で話している324分には、貨物列車が通過したっけ。あれは無事だったってことか。そしてその直後に通過した特急が脱線した……

H「で、あんたはどうして外に出てきたんだ」

組頭「駅長に言われたんだ、様子を見てこいって。特急列車が駅を通過して2分かそこらで、遠雷みたいなすごい音が聞こえたんだよ。あれが脱線事故の音だったんだな」

 

 豪雨で差し迫った状況の中、事故はタッチの差で発生していたことが分かる。

 

 鉄道関係者は即座に対応した。先のHと組頭は前後の列車の停車の手配と、上部機関への連絡を行っている。またHは機転を利かせて、駅の近くにある専念寺という寺で梵鐘を突いて仲間を呼び寄せた。非常時に通常使われる半鐘は、駅から距離が遠すぎたのだ。これにより、200名の消防組員が迅速に集まった。

 

 ところで。

 

 この事故に遭遇した特急列車だが、これは当時の時代状況を反映したかなり特殊な造りの車両だった。発生した事故そのものとは直接関係ないが、その出自は日本の近代史に深く関わっており、事故を少し広い視野で見るための豆知識にはなると思う。簡単にご紹介しておきたい。

 

 この特急列車の正式名称は「一、二等特別急行列車」といった。日本初の特別急行列車として、1912(明治45)年615日に運行がスタートしたものである。

 

 日露戦争後、日本は大陸への膨張政策を採り始めた。これに合わせて下関から釜山へ連絡船が運航され、それが朝鮮総督府鉄道とシベリア鉄道と連結し、中華民国・パリ・ロンドンに至ることで、国際連絡運輸の態勢が整っていた。先述の「一、二等特別急行列車」はこうした動きに対応すべく造られた超高級列車で、国際連絡の一翼を担う形で運行されていたのである。

 

 ちなみに、現在の公益財団法人日本交通公社の前進であるジャパン・ツーリスト・ビューローが設立されたのも1912(明治45)年のことだ。

 

 この特急列車がどれくらい豪華だったかというと、最後部の一等展望車には貴賓・高官用の特別室が設けられ、豪華な彫刻や飾りつけが外国人の目を引いたという。また、当時としては珍しかった「洋食堂車」が連結された上、接客は英会話ができる青年が行うなど、その設備やサービス内容は当時の最高水準ともいえるものだった。

 

 これが、無惨にも脱線転覆したのだった。

 

 先述の通り、列車は全11両編成。このうち、まず機関車が海側に倒れ、荷物車だった一・二両目も原型をとどめないほど粉砕された。そこへ、客車である三両目が食い込んで大破。続く四・五両目は折り重なって転覆大破し、さらにこの五両目に六両目が突っ込んだ。七両目以降は惨事を免れた()。

 

(※記録によると、一両目は「増」の荷物車。よって厳密には、事故った二~六両目は「15号車」として番号がふられている)

 

 大破した客車はいずれも「二等車」あるいは「二等寝台車」で、当時の乗客108名中75名がこれに乗車していた。そしてこのうち、即死者と、後に死亡した者を合わせて34名が犠牲になった。

 

 高級列車とあって、犠牲者の中には、当時の鹿児島市長や三菱造船常務取締役、日本メソジスト教会伝道局長など社会的地位の高い人物も多くいた。

 

 とにかくひどい惨状だったようだ。救援には、広島保線事務所から派出された約200名のほか地元の消防組、在郷軍人会、青年団など、あわせて2千名が駆け付けたが、手の付けようがないほど現場はめちゃくちゃだったのだ。

 

 また、広島運輸事務局からの連絡で、広島治療所の医師と看護婦、市内病院の医師、看護婦、開業医が救援列車で駆け付けている。さらに駅周辺の開業医や、その他の病院の医師も加わった。

 

 遺体は損傷がひどいものが多く、最寄りの専念寺へ収容された。事故発生直後に、消防組のHが梵鐘を鳴らしたあの寺である。

 

 負傷者や、無傷の者は広島へ送られていった。遺体収容は翌日24日までかかり、自宅に送られたものも、遺族の希望で広島で荼毘に付されたものもあった。

 

 復旧工事も進められた。広島や瀬野から、工具資材を積んだ復旧作業用列車が駆け付け、小倉や下関の工場からも技工が派遣されている。現場では転覆した車両をどかす作業が進められたが、食い込んで噛み合ってしまった車両を引き離すのはかなり難儀したようだ。その他、客車や炭水車はガス切断などの方法で分断されて回収されている。

 

 当時の鉄道大臣は、慰問と現地視察のため、26日の未明に第一特急列車で広島へ駆け付けた。また鉄道省は、翌月の10月初めには弔慰金の支出を決定。犠牲者の社会的身分を考慮し、死者には5千円を、負傷者には2千円を限度として個々に支出した。

 

 裁判では、以下の三名が起訴されている。

 

1・門司鉄道局広島保線区の主任事務取扱

2・広島保線区海田市駐在所の保線助手

3・海田市駐在所安芸中野丁場の線路工手組頭

 

 このうち1は、水害のあとで線路に応急工事を施したものの、その後は警戒の措置を何も講じなかった……とされた。

 

 また2は、22日の夕方に、3に対して、受け持ちの範囲内にある橋と線路の巡回を命じただけで自分は仮眠し、豪雨のため危険な状況になっていることに気付かなかった……とされた。

 

 そして3は、2の命令を受けて巡視警戒をしたり、手堤信号などで汽車を止めるべきだったが、電話連絡に手間取ってそれらの任務を怠った……とされた。

 

 参考資料『事故の鉄道史』によると、少なくとも1は大審院で破棄無罪となった、とある。これが昭和3127日のこと。23がどうなったかは不明である。

 

 事故が発生した築堤は、その後、鉄路の安全確保のために工夫がなされている。盛土にすると大雨で崩壊してしまうので、ならば水の逃げ道を用意しよう、ということになった。築堤のかさ上げと合わせて、約20メートルの鉄橋が架設されたのだ。この鉄橋の写真はウィキペディアでも見ることができる。一見すると下に道路も水路もない奇妙な橋だが、洪水の際、下の空間から水が抜けられるようになっているのだ。

 

 何の情報もないまま見れば、ごく普通の風景写真である。しかしこの風景にも、34名が死亡した大惨事の歴史があるのだ。

 

 犠牲者を悼む慰霊碑は、遺体が収容された専念寺に建立されている。梵鐘の形をした慰霊碑の上に仏像があり、その仏像の台座に、犠牲者の氏名が刻まれている。

 

 さて、この事故は、日本の鉄道車両が「木造」から「鋼製」へと変わっていく大きなきっかけとなった。

 

 もともと、この事故が起きた頃というのは、鉄道の客車を、頑丈な「鋼製」へ変えていこうという機運が高まっていた時期でもあった。

 

 木造の車両は、はっきり言ってもろい。1920年代には、アメリカを始めとする鉄道先進国ではこのもろさが既に問題となっていた。ひとたび事故れば木材が裂けて死傷者が増えるのも問題だったし、車両の長さを伸ばして速度も向上させていくには、木造ではとても強度が間に合わない。鋼製車両への切り替えは世界の趨勢だった。

 

 よって日本でも、前々からそういうことは言われていた。ただ木造の方が軽くてイイという意見は根強くあったようで、そのためかどうか、当時の鉄道省は1927(昭和2)年度の新製車両計画において、もともとあった600台の客車のうち半分を半鋼製車にする予定を立てていた。全部、ではなかったのだ。

 

 ちなみに半鋼製車両とは、台枠、側構、外板が鋼製で、天井、内羽目などの車内の仕上げを木製にしたものである。それら全てを鋼製としたものを全鋼製車両というらしい。

 

 そこへきて今回の事故が発生し、ダメだ半分なんてケチケチせずに、一気に全車両を鋼製にしよう! ということになった。一般的には、事故がきっかけでいきなり木造車両の見直しが始まったかのように思われているらしい。だが実際にはそうではなく、前から案が出ていた鋼製への総とっかえを、この事故が後押しした形だった。

 

 このような経過を経て、車体を鋼製とした、いわゆる国鉄オハ31系客車などが誕生した。

 

 事故に見舞われた特急列車一・二列車はその後も運行され、1929(昭和4)年には鉄道省の公募により「富士」の愛称がつけられた。さらに翌1930(昭和5)年にかけて、それまでの木造車両は鋼製車両へと交換された。

 

 余談も余談なのだが、この時に作られた一等展望車の内装デザインには2種類あったそうで、そのうちの片方が「白木屋式」と呼ばれていたとか。なんでも、同じ時期に新築された白木屋百貨店の内装デザインとと似ていたらしい。事故災害のことをいろいろ調べて書いていると、なぜか白木屋百貨店の名前があちこちで登場するので驚く。

 

 「富士」は、その後もシャワールームが設置されるなど相変わらずの高級ぶりで運用され、輸送量の増大に伴って車両の規模もどんどん大きくなっていった。だが戦争の激化により一部の車両は輸送力増強のため通常使用がままならくなり、1944(昭和19)年には運行中止となった。儚い。

 

【参考資料】

◆佐々木冨泰・網谷りょういち『事故の鉄道史-疑問への挑戦』(日本経済評論社、1993年)

◆ウィキペディア


柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)

 煤煙による窒息事故である。

 念のため言っておくと、「煤煙」というのは機関車が走る時に煙突から吹き出すあの煙のことだ。これが原因で発生した事故は以前にもご紹介したが、今回のは最大の被害が出たケースである。

 この事故、死亡者数こそ3名と少なめであるものの、他の乗務員や救助者もほぼ余すところなくバタバタと倒れており、死亡者3名で済んだのも間一髪だったことが分かる。おそるべきケースである。

 

   ☆

 

 1928(昭和3)年12月6日のことである。

 北陸線敦賀駅から0時37分に発車した貨物列車があった。これは全部で40両の貨車からなっており、先頭と一番後ろにそれぞれ貨物用機関車がついていた。型式は、当時としては最強の馬力を残る機関車である。

 この列車、疋田(ひきだ)駅までは時間に遅れもなく順調だった。だがこれを過ぎた辺りから調子が悪くなった。山間部に入って雪が急に増えたのと、勾配がきつくなったことが原因となり、車輪がシュルシュルと空転し始めたのだ。

「なんだ、調子悪いな。まあ仕方ないか」

 乗務員は皆、そう思ったことだろう。疋田駅から柳ケ瀬トンネルまでの区間は25‰(パーミル)の急勾配になるのだ。

 その上、2日前には鯖江駅で貨物列車の事故が起きており、この日はそのしわ寄せが来ていた。師走でただでさえ多い輸送貨物がさらに増えていたのだ。定められた限界量もすでに超えており、機関車が進まなくなるのもむべなるかなだった。

 だが乗務員には「勝算」があった。

「なに、曽々木トンネルを抜けるとしばらく平らになるから大丈夫だよ。そこで勢いをつけよう」

 そう。この先にある曽々木トンネルを抜けると、しばらくは平らな地面が続くのである。機関車はそこで力を蓄え、あとはその先にある柳ケ瀬トンネルを一気に通過するのが習わしだった。

 しかしこの日は完全に当てが外れた。曽々木トンネル以降の水平の区間でも、またしても機関車は空転を繰り返したのである。おかげでその先の刀根駅に到着した時はすでに予定を3分遅れていた。

 さあ、ここから柳ケ瀬トンネルまではあと1.5キロ。本当に大丈夫なのかね?

 とにかく列車は進んだ。柳ケ瀬トンネルに入れば、あとはトンネル内の1.3キロを走るのみで、その先はもう下り勾配である。もうひと息辛抱すれば大丈夫だという気持ちで、乗務員たちは機関車を先へ進ませたのだろうか。

 だが事態はますますひどくなる。柳ケ瀬トンネルまでの1.5キロの間にも空転は激しくなり、速度は時速8キロにまで落ち込んだ。

 ハアハア、ゼイゼイ。機関車の息切れと乗務員の苛立ちが伝わってくるようだ。結局、トンネルまでの1.5キロを14分かけて進み、やっと列車はトンネルに入っていった。

 さあ、ここからがこの世の地獄である。スピードは牛歩戦術もいいところ、それなのに煤煙だけはしっかりまき散らすのだからたまらない。トンネル内はもちろん、機関車の運転室もたちまち煙で真っ黒になった。

 しかも、トンネル内でもスピードは落ちる一方。そこへ来て当時は追い風で、吐き出された煤煙は背後から列車にまとわりついてくるのだから、もう悪条件の揃い踏みである。ついに先頭の機関車の乗務員は全員が窒息、昏倒してしまった。

 そこは、トンネルの出口まであと25メートルという地点だった。運転手は昏倒する直前、本能的にブレーキをかけてトンネル内で列車を停止させた。これはまったく妥当な措置だった。そうしないと機関車が力を失い、貨物列車は自由落下で逆走していたところだ。

 列車が停止したので、一番後ろの機関車の指導機関主、後部車掌、荷扱手、前部車掌、荷扱手らは外へ飛び出し、直近の信号所へ助けを求めに行った。

 彼らが目指したのは、トンネルを抜けた先にある雁ケ谷信号所である。ところがこのメンバーも煤煙を吸い、トンネルを出る前に力尽きて倒れた。

 雁ケ谷に停車していた下り貨物列車は、この異変に気付くとすぐ行動を開始した。12時8分、機関車だけを外して救援に向かったのだ。

 この機関車はまず、トンネル内で立ち往生していた上り貨物列車に連結。そして、列車がもと来た方向へ押し出していった。雁ケ谷側に引っぱり出した方が早かったんじゃないかとも思うのだが、恐らく馬力の問題があったのだろう。柳ケ瀬トンネルは雁ケ谷に向かって上り勾配だったわけだから、なるほど雁ケ谷方向からは押し出すほうが簡単な道理だ。

 ところが、列車を押し出している間に、今度は救援機関車に乗っていた2人も窒息し昏睡状態に陥った。二次災害である。

 結果、3名が死亡し9人が負傷と相成った。死亡したのは、トンネル内から徒歩で脱出し救援を求めようとした乗務員たちだった。

 事故原因はまあ、ここまで書いた通りである。荷物が多すぎ、レールの雪で滑り、追い風で煙がまとわりついたためだ。

 だが『事故の鉄道史』ではここでさらに突っ込み、トンネルの狭さも事故の原因だったのではないかと述べている。柳ケ瀬トンネルが建設された明治前半期は、大型の機関車がトンネルを通過することは考えられていなかった。想定されていたのはあくまでも小型の機関車だったのである。そんな時代遅れのトンネルに、近代的な大型機関車が入るようになったのだから煙がたまるのも当たり前やんけ、というわけだ。

 柳ケ瀬トンネルの工事が決まった当時、明治政府は逢坂山トンネルを建設中だった。日本初の山岳トンエンルである。これがうまくいきそうなので政府は変な自信を得てしまったらしく、設計図をそのまま流用したのだ。

 そしてその後、逢坂山トンネルの方は機関車が大型化される前に別のルートに変更された(これが、以前紹介した連続墜落死事故より前なのか後なのかは不明)。だが柳ケ瀬トンネルは、事故後に排煙装置がつけられたとはいえ、こんな具合で1964(昭和39)年まで使われていたのである。このへんの事情を知ると、『事故の鉄道史』の指摘ももっともだと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■

『事故災害研究室』著者・きうりの小説を読んでみませんか?

 青春、恋愛、推理、純文学…。「えっこういうのも書くんだ!?」

 驚きの一冊がきっとある。

 こちらへどうぞ。

 

■□■━━━━━━━━━━━━━━━━■□■



読者登録

きうりさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について