目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)

 1967(昭和42)年4月29日のことである。新潟県長岡市大積町の国道8号線を、朝から一台のバスが走っていた。

 これは越後交通のバスで、行き先は上山田温泉である。乗っていたのは長岡信用金庫の職員28名で、おそらく慰安旅行か何かだったのだろう。調べてみたところ、当時のこの日は土曜日だった。当時はまだ週休2日制はなかったはずだが、4月29日は昭和の日だ。

 ところが午前9時、これが越路建設という建設会社のトラックと正面衝突してしまう。原因は不明だ。

 バスの方はどうなったのかよく分からないのだが、何も書かれていないということは、とりあえず大事には至らなかったのだろう。

 悲惨なのはトラックの方である。もともとこのトラックは大積町高頭の土木工事に向かう途中だったのだが、荷台に複数人の農婦が乗っていたのだ。おそらく作業の手伝いのために乗車していたのだろう。衝突の衝撃で彼女たちのうち11人が投げ出され、さらにそのうち6人が死亡した。

 この事故については、特にこれ以上書くことはない。現場の状況も救助の様子も補償もどうなったのかは全く不明である。

 よってここからは余談なのだが、この事故が発生したのは、曾地峠という場所の入り口あたりらしい。

 で、この曾地峠というのが、検索してみると実は有名な心霊スポットなのだそうな。

 そういう場所で起きた事故ということで、夜に原稿を書いていたらなんとなくゾッとして後ろを振り向いてしまった筆者である。

 

【参考資料】

◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

◆ウェブサイト『新潟県の心霊スポット』

http://2nd.geocities.jp/inosisicheetah2/niigata.html

 

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富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)

 1967(昭和42)年6月18日のことである。

 

 富山県婦負郡八尾町(現在は富山市に編入)栃折の県道を、一台のマイクロバスが走行していた。

 

 もう少し具体的な場所を言うと、そこは茗ケ島の仁歩発電所から上流へ1キロほど行ったあたりである。

 

 マイクロバスは岡本工業という、おそらく建設関係の会社のものだった(現在も八尾町に同名の会社があるが、同じものかは不明)。乗っていたのは農家の出稼ぎ組の人々15名で、大長谷川の堰堤工事に向かっていた。

 

 ところがこのバスを悲劇が襲う。バスが走行していたのは曲がりくねったカーブ続きの悪路で、これがある地点で左側の路肩からはみ出してしまったのだ。

 

 これによりバスは転落。100メートルもの高さを、大長谷川へ向けて真っ逆さま。乗っていた労務者のうち7人が死亡、運転手を含む9人が死亡した。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 

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山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)

 1968(昭和43)年5月15日のことである。

 

 時刻は午前3時30分、一台のバス(山梨交通観光)が国道20号線韮崎バイパス(山梨県韮崎市韮崎町高河原)を走行していた。

 

 乗っていたのは、参考資料によると「東山梨郡大和村立大和中」という学校の修学旅行参加者たちである。内訳は3年生の生徒が30人と教師3人、運転手2人と添乗員1人だった。

 

(※参考資料によると、とわざわざ書き加えたのは、この中学校がどこにあったものなのか確認できなかったからである。検索してみたところ、大和村立大和中学校」は鹿児島に現存するものだけがヒットしたが、東山梨郡とはかつて山梨県に存在した郡だそうな。)

 

 彼らは午前2時30分に出発したばかりだった(どこから出発したのかは不明)。時刻が時刻なのでほとんどの者が寝ていたのではないだろうか。

 

 そこへ、三郷運送という運送会社のトラックが突っ込んできた。バスの前部右側に激突し、車体の壁面を剥ぎ取るほどの衝撃だったという。

 

 この衝撃によって、バスの椅子が6つ外に投げ出された。おそらくこれらの椅子に乗っていた人だろう、以下の6名が亡くなった。

 

 3年A組担任の女性教師(51)
 男性の教頭(45)
 男子生徒3人(14)
 バスの交代運転手(33)

 

 悲惨な話である。ちなみにぶつかってきたトラックは、愛知から町田に向けて走行中だった。引越し荷物を運んでいたのだ。

 

 運転していたのは19歳。なんと無免許だった。事故現場から2キロほど手前で、それまでの運転手と交代したばかりだったのだ。「走れ走れいす○のトラック~♪」どころの話じゃない。そんなのにハンドル握らせるんじゃないよ。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 

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飛騨川バス転落事故(1968年)

 飛騨川バス転落事故は、1968年(昭和43年)8月18日に発生した。死者104人という大惨事である。

 厳密に調べたわけではないが、バス事故というカテゴリーで死者104人というのは世界規模で見ても最悪クラスのもののようだ。ひょっとすると死者数は世界一かも知れない。これが本当なら、航空機事故でも世界最高の死者数を記録したことがある我が国は、些か不名誉なワールド・レコードを2つも保有していることになる。

 まあ他にも、日本は「個人が浴びた放射能の量が世界一」とか「ひとつの山での遭難者数が世界一」とか、ろくでもない世界記録が他にも色々とあるんだけどね。その辺りはいずれお話する機会もあろう。

 

   ☆

 

 さてバス転落事故だが、これは少し角度を変えればバス事故ではなく「豪雨災害」あるいは「土砂災害」と見ることもできる。実際、災害関係の本を何冊か紐解いてみると、この事故はどのカテゴリにも跨る形で紹介されている。
 観光ツアーに来ていた数台のバスが、豪雨に見舞われて引き返すことになったのである。だがその引き返しの途中で2台が土砂崩れに巻き込まれ、増水した飛騨川へ転落したのだ。
 現場は岐阜県加茂郡、白川町地内の国道41号である。
 もともとこの日の岐阜県は、台風の影響による集中豪雨に見舞われていた。時間雨量149ミリという地方気象台始まって以来の規模で、これによって県内ではバス事故以外にも14名の死者が出ている。
 事故に遭ったのは「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」なるツアーに参加していた人々だった。
 これは名古屋市で無料新聞を発行していた「奥様ジャーナル」と名鉄観光が組んで企画したツアーで、700人以上が参加した。
 計画では、夜中に犬山市の成田山へ集合し、そこから片道160キロの乗鞍岳へ出発する。そして車内で睡眠を取ってから早朝に登山をし、山頂で朝日を見る……という予定だったらしい。
 当初、ツアーは予定通りに出発した。しかしあまりの雨の酷さと道路状況の悪さから、主催者と運転手たちはツアーを一週間延期することに決定。全てのバスはもと来た道を戻ることにした。
 そして午前0時20分頃。5号車の運転手が消防団員に呼び止められた。白川口駅近くにある、飛泉橋という橋でのことだ。
「この先は危険ですよ。飛騨川の水位が上がるかも知れない。落石の可能性もある」
 そう言われて運転手は考えた。
「しかし1号車から3号車はすでにここを通過している(4号車はゲンを担いで存在していなかった)。通行規制もまだ実施されていない。まあ、通過したって大丈夫だろう。名古屋まではもう2時間以内に着く距離なんだし……」
 こうして5、6、7号車は危険地帯を突破することにした。
 後になって考えてみれば、これがまさに運命の別れ道だった。この時点でもまだ敷かれていなかった交通規制、バスに対して強硬にストップをかけなかった消防団員、そしてバスの運転手の甘い判断――。これらの要素が重なり合って、危機を逃れる最後のチャンスは見逃されたのである。
 さて前方で走っている1、2、3号車も含めたこの合計6台のバスは、左は崖下で増水している飛騨川、そして右が絶壁という道路を進んでいった。
 そしてこの6台は、途中で何度か小規模な土砂崩れに遭遇している。まあこれは手作業で土砂を取り除いて先へ進むことができたのだが、ところがさらに進んだところで、もっと規模の大きい土砂崩れが発生。完全に道を塞がれて、遂にいかんともしがたくなってしまった。
 こりゃイカン、さすがに引き返すしかないよ――。
 すると間の悪いことに、今度は後方でも土砂崩れが発生。バスやその他の乗用車は前も後ろも土砂に挟まれてしまい、進退窮まった。
 このように、現場周辺では大小取り混ぜた土砂崩れが複数発生していたのだった。考えてみれば実にとんでもない状況だったわけだが、バスにとって「とどめの一撃」となったのは、午前2時11分に発生したものだった。
 高さ100メートル、幅30メートル、推定740立方メートル、ダンプカーにして250台分――。こんな量の土砂が押し寄せてきては、もはや人間になす術はあるまい。立ち往生していたバスのうち、5号車と6号車がこれの直撃を受けた。2台は、増水した飛騨川へあっと言う間に転落していったという。
 それ以上の土砂崩れがなかったのは不幸中の幸いだった。バスの運転手たちは、残りのバスの乗客たちを、急いで比較的安全な場所に避難させてから、救助を求めて一路ダム見張所へ向かう。ようやく第一報が齎された時には、事故発生から3時間以上が経過していた。
 ちなみに8号車以降のグループは、消防団の警告に応じて白川口駅前広場で待機したことで難を逃れている。
 さて救助活動だが、これが困難を極めた。
 なにせ犠牲者たちは大半がバスから投げ出され、増水で荒れ狂う激流に飲まれたのである。事故翌日には知多半島にまで遺体が漂着し、捜索範囲は岐阜・愛知・三重の3県に跨ることになった。
 救助のための人員数は最終的に3万人にも上り、一時はダム湖を空っぽにして捜索活動が行われたという。それでも最終的には9名が行方不明のままになった。
 転落したバスには総数で107名が乗っており、助かったのは3名だけだった。家族連れツアーだったこともあり、一家全滅や、あるいは家族一人だけが生き残ったケースなどもあったらしく痛ましい限りである。
 事故の責任問題は、そう長くかからずに解決した。最終的には国を相手取った訴訟にまで展開した上に、争点が「天災か人災か」という判断の難しいものだったにも関わらず6年で結審しているのには感心する。
 まあ、ここまで見て頂ければ分かると思うが、具体的な責任主体を特定するのが非常に難しい事故である。コトは土砂崩れという自然災害であるし、そもそも当日の天候も予測が困難なものだった。ツアー主催者側だって出発前には気象台に問い合わせ、「天気は好転し翌朝は晴れるでしょう」という予報を聞いたからこそツアーを決行したのである。その1時間後に注意報が、さらに2時間後には警報が発令されるとは誰が考えただろう?
 では、消防団の警告を無視して危険地域に入り込んだバスの運転手の責任はどうか。しかしこれも、進退窮まった段階ではちゃんと引き返す判断をしているし、二次災害の回避に全力を尽くしてもいる。裁判では無罪となった。
 だが、遺族側としてはそれで収まるはずもない。主催者と観光会社を相手取って損害賠償を請求し、こちらでは示談が成立。さらに道路の管理を怠っていたとして国に対しても国家賠償を請求、粘り強く訴え続けて最終的には控訴審で全面勝訴している。天晴れという他はない。

 104名という死者数がものを言ったのか、それとも国の側に明らかな落ち度があったのかはよく分からないが、この事故に関しては国側はかなり譲歩しているようにも見える。控訴審判決に対して上告していないし、一度は拒否された自賠責の適用を、当時の運輸省の判断で撤回させている程だ(この時の運輸省の閣議報告の論理がなかなか面白いのだが詳細は割愛)。
 とにかく、最終的に国を相手取った訴訟にまで発展しているだけに、当時の首相や運輸省までをも巻き込んでスケールの大きい話題になっている。
 ところでこの事故が「自然災害」ではなく「バス事故」と呼ばれるようになったのは、恐らく104人という死者数ゆえだろうと筆者は想像している。
 もしも土砂崩れに巻き込まれたバスが1台だけで、それに乗っていたのが運転手1名だけであったなら、それはバス事故ではなく「バスが被害に遭った土砂災害」と呼ばれただろうと思う。
 だが土砂災害や自然災害といったカテゴリーに分類してしまうと、恐らく具体的な責任主体をはっきりさせるのが、文脈上、難しくなる。104人も死んだ以上、これはあくまでも自然災害ではなくバス事故と呼ばなければいけない――そうした重力がどこかで働いたのではないだろうか。
 こうした「重力」があったとすれば、それが発生したのは、被害者遺族の大半がマンションの住民だったので、そこで強い結束が生まれたからではないだろうか。あくまでも想像だが、筆者はそんな物語をイメージしている。

 

   ☆

 

 ところで、この事故の話は正直あまり書く気がしなかった。
 もちろん事故そのものは興味深いのだが、ウィキペディアで既に詳細な内容が解説されているのだ。あれを読むと、今さら自分が書く意味ないじゃん、という気持ちになる。書いているのが事故の関係者なのか研究者なのかは不明だが、この事故の記憶を風化させまいと努めている方がおられるようである。
 それでも今回この記事を書いたのは、三河島事故の記事と同様に「この事故のことを書かなかったら片手落ちだろう」という気持ちがあったからだ。よってここでは大まかな内容の紹介にとどめてある。もっと詳細を知りたい方はインターネットで検索して頂きたい。

 

   ☆

 

<補足>
 この事故について筆者が驚き、なおかつ興味深く思ったのが、コメントの多さである。
 当『事故災害研究室』は、現在のように電子書籍化する前は、ブログ上の手作りのいちコーナーとして存在していた。この「飛騨川バス転落事故」もそこで一度公開しているのだが、「ブログコメント」という形で、事故の関係者の方からメッセージを頂く機会がもっとも多いのがこの事例なのである。
 それも、例えばひとつの事例につきいつも3つのコメントをもらっていて、飛騨川バス転落事故は5つ、というようなバランスではない。突出しているのだ。事故災害ルポにコメントを頂くこと自体まれなのに、この事故だけは3つも連続するから驚いた。
 先述したような「重力」の気配が感じられる点といい、ウィキペディアの詳細情報といい、つくづくこの事故を記録に残そうと意志については、他の事故とは一線を画す格別さがある。
 折角なので、以下では、この事故のルポに対して頂いた「コメント」をご紹介させて頂こうと思う。もともとが「公開コメント」なので問題ないとは思うが、もし自分の書いたコメントがここで公開されるのは困る、という方がおられたら、言って頂けると幸いである。

 

■33歳の娘より (CHIE)
2010-05-26 21:50:49
私がこの記事・ブログを検索した目的は、実はこの事故で被害に合ったバスのすぐ後ろのバスに祖母・両親が乗っていたからです。
この事故の話は、子供の頃から何度となく聞かされてきました。
またこの現場を通る時、父が何度も手を合わせるのを見てきました。
長い年月が過ぎ、この事故を語るのは父しかいませんが、違う方向からこの事故を知る事ができよかったと思います。
書いてくださって ありがとう。

 

■Unknown (spock)
2010-07-18 00:27:31
当時中学生だった私は思春期ということもあって家族で行動することはいやだったのでそのツア-には参加しませんでしたが、父母、妹が参加していましてちょうど7号車に乗っていたんだと思います。父が後から聞かせてくれたとこによると前のバスの赤いテ-ルランプがゆっくりと川のほうへ落ちていったと。もうその父はなくなり、大正生まれの母も高齢になりました。
(中略)
当時私たちは幸心住宅というところに住んでいて事故の日は確か日曜日だったと思うんですが、昼過ぎまで大曽根あたりをふらついていて家に帰ると叔父から電話があり大変なことが起きた、なんで知らないんだ?って怒られたことを覚えています。

 

■Unknown (いつのゆめ)
2011-08-24 21:04:58
初めまして。飛騨川事故を検索していて、読ませていただきました。当時6歳で、大幸住宅に住んでいてました。バスが出る日の夕方まで友達と遊んでいて「夜に旅行に行くから早く家に帰るね」と別れたその子達は全員事故にあってしまいました。団地の子供会で子供だけの葬儀?お別れ会もありました。事故から40年以上になりますが、色々な場面が鮮明でいまだに忘れていません。記録として・・とコメントされていますが書いて下さってありがとうございます。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇『日本消防史』国書刊行会

 

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岡山県玉野市バス転落事故(1969年)

 1969(昭和44)年3月19日のことである。

 

 場所は岡山県玉野市槌ヶ原の国道30号線。早朝の午前7時、ここを玉野発岡山行きのバスが走行していた。

 

 このバスは両備バスと呼ばれるもので、なんか岡山県南部を主要営業エリアとしている両備グループというのがあるらしい。そこで運営しているバスだった。

 

 中には通勤通学のために20人ほどの人が乗っていた。ところが、そこへセンターラインを越えて、中西運送という運送会社のトラックが接近してきたのである。

 

 バスとトラックは接触。トラックがどうなったのかは不明だが、不運なのはバスの方だった。道路から8メートル下の池へ転落したのである。ご丁寧に、参考資料にはこの池のサイズも書いてあったので記しておくと、縦50メートル、横60メートル、深さ5メートル。なかなかの大きさである。

 

 これにより、乗客20人のうち9人が死亡。この中には、短大受験に向かう途中だった18歳の女の子2人も含まれていたという。

 

 トラックの運転手は無事だったようだ。事故当時は材木を運んでいる最中だったのだが、朝っぱらからの運転だったせいか居眠り運転をしていたらしい。


【参考資料】

◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

 

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