目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)

 ここまで当「事故災害研究室」では、主として20世紀の日本の火災事例をご紹介してきた。それもいよいよここで一区切りである。

 今回書き記す歌舞伎町・明星56ビル火災が発生したのは2001年のこと。長崎屋火災からすでに10年以上が経過し、火災による大量死などというものはほとんど見受けられなくなった時代である。

 輝かしき新世紀。そう、この頃になると、大規模施設での大火災事故などというしゃらくさいものは日本国内では根絶されていたと言ってもいい。これはひとえに、法律の整備とその徹底した運用の賜物である。何百人もの火災死者という尊い犠牲を払って掴み取った、法治国家の勝利だった。

 だが、そんな勝利の凱歌に冷や水を浴びせたのがこの新宿歌舞伎町で起きた火災だった。

 この火災は、起きた出来事とその結果だけを見れば、それまでの火災と大した違いはないように思える。だがやはり、いま改めて火災の歴史の中で振り返ってみると、確かにこれは「火災の新世紀」の幕開けを告げる事例であった。

 昔ながらの商業施設火災の特徴を兼ね備えつつも、その後の火災は全てこの火災の相似形でしかない。そして恐らく、このタイプの火災は今も完全に乗り越えられてはいないのである。

 

   ☆

 

 この火災が発覚した経緯は、なかなか劇的である。2001年9月1日の午前0時59分頃、路上にいきなり1人の男が「降ってきた」のだ。

 そこは眠らない街・新宿歌舞伎町一番街のメインストリート。深夜とはいえ、行き交う人々にとってはまだまだ宵の口の時刻である。その男の出現は、さぞ多くの通行人を驚かせたことだろう。

「おいどうした。あんた大丈夫か」

 闊歩していた客引きもヤクザも売春婦も鮫島刑事も(注・歌舞伎町という街に対してかなり偏見が入っています)、思わずその男に駆け寄った。すると男はふらふらと立ち上がり、こう言った。

「火事だ。まだ中にお客さんがいるんだ。お客さんが……」

 そして目の前の小汚いビルに入っていこうとする。

 おいおい、なんかコイツ聞き捨てならないこと言ってるぞ――。そういえばそもそもこの男、どこから落ちてきたんだ?

 人々はそこで一斉に上空を見上げた。するとなんたることか、男が入っていこうとしているビルの3階から煙が吹き出しているではないか。

「やめろ、あんた行くな! ここでじっとしてろ!」

 人々は男を止めにかかった。

 言うまでもなく、これは半分想像で書いている。だが煙を逃れて落下してきた店員が、お客のために再びビル内に戻ろうとしたのは本当らしい。また、通りの人々が彼を引き止めたことも。

 半ば余談になるが、このビル火災の話は全体的に「不気味」である。迷宮入りになっているからというのもあるが、事件の背景を調べれば調べるほど、歌舞伎町の闇とでも言うべきものが感じられて気持ち悪くなるのだ。そんな中で、この火災発覚の経緯だけは、唯一どことなく人間味が感じられるエピソードである。

 さて。言うまでもなく、男が降ってきたこのビルこそが「明星56」だった。

 何が明星で何が56なのかは知らないが、それはまさに、我々が「歌舞伎町の繁華街の雑居ビル」と言われて即座に思い描くような建物そのものだった。1階は風俗無料案内所、2階は風俗店、3階は違法麻雀店「一休」、4階はキャバレー、地下にはカジノとクラブ。まったく夢のような建物である。

 しかしこの夜は夢どころではなかった。男の飛び降りがあった時点で、すでにビル内は地獄絵図の様相を呈していた。

 実はこれと前後して、建物内のキャバクラから消防に救助要請があったのだ。従業員の女性の訴えが記録に残っている。

「歌舞伎町なんですけど、火事みたいで煙が凄いんですよ、歌舞伎町一番街の●●(注:店名)です。早くきてください、出られない、助けて」

「火事です、今現場いっぱい、4階、もう避難できないんで、早く助けてください。10人ぐらい。お願い」

 痛ましすぎる。書き写しているだけでも胸が詰まる。この店の従業員と客は全員死亡した。

 火元は3階の麻雀ゲーム店だった。煙はあっという間にフロアに充満。階段は多くの物品で塞がれており防火扉も作動せず、4階も即座に煙で満たされた。火災報知器は誤作動封じのためにスイッチを切られ、さらに内装材で覆われていたという。これがホントの火災放置器…なんて冗談は口が裂けても言えない。

 この火災で助かったのは3人の従業員だけだった。彼らはビルの窓から飛び降りて一命を取り留めている。

 避難誘導は行われなかったらしい。否、とてもそんなことができる状況ではなかったというのが本当のところだろう。煙のみならず、建物内ではバックドラフトまで発生していたのだ。せまっ苦しく暗い雑居ビルの一室でそんなことになったら普通は逃げるだろう。

 それに歌舞伎町では、「火事だ」などという叫びはそれだけでオオカミ少年のたわ言として片付けられるのが関の山だった。誰かが叫べば酔っ払いの仕業、煙が出てくれば誰かのイタズラ、で済まされる空気があったようだ。これもまた一種の「構造的欠陥」であろう。

 通報を受け、消防車101台が到着。現場は騒然とした。

 消防隊員や消防団員361人が協力し、消火と救助が行われたという。

 その甲斐あってか火災そのものは2時間ほどで鎮火し、救助活動も2~3時間で完了している。しかし運び出された人々は例外なく心肺停止状態で、彼らは朝までに次々に息を引き取った。

 死者44名、怪我人は最初に脱出した従業員の3人だけ。まさに生きるか死ぬかの大惨事となった。

 火災の原因はなんだったのか? これについては、新聞やテレビで多くの憶測が飛び交った。火元になったガス管からはガスメーターが外れており、それは誰かが外したのではないか……とか、火災と前後して、爆発に遭遇したような姿で逃げていく男がいた……とか、あるいは火災に遭った3階の麻雀店に恨みを持っている客がいたとか、事故後に外国人からの犯行声明じみた怪電話があったとか、この手の噂話を挙げるともう枚挙に暇がない。

 結論を言えば、まず放火で十中八九間違いないだろう、というのが現在の通説である。下手人は捕まっていない。

 

   ☆

 

 この火災、一体どのへんが「火災の新世紀」の幕開けだったのか。

 それまでは、大勢の死者が出る火災と言えば、デパートやホテルなどの大規模施設で発生するものと相場が決まっていた。

 だが明星56は、そうした大規模施設の範疇に入るものではなかった。このようなこじんまりした狭いビルでも大人数が出入りすることがあるし、その状況で火災が起きれば大惨事になることもある――ということが、この歌舞伎町ビル火災では示されたのである。

 時代は変わった。デパートや高級ホテルなどの大規模施設ばかりが、大衆にとっての娯楽施設ではなくなったのだ。小規模な狭い空間で、少人数もしくは自分ひとりで楽しめる娯楽を人々は求めるようになっていった。居酒屋、カラオケ、ネットカフェ、漫画喫茶……。歌舞伎町ビル火災は、そうした場所でひとたび火災が起きればどうなるかを極端な形で示した先駆けの事例だったのである。

 ――というわけで、ビル関係者が逮捕されるよりも早い2002年10月25日、消防法は改正されることになった。

 内容的にどう変わったかというと、まず火災報知器の設置基準が厳しくなった。また消防署の取り締まり権限が強化され、同時に防火管理者の責任も明確化。その上、違反者に対する罰則も強化されたのだった。

 ひとことで言えば非常にキビシー! といったところか。

 もっとも、その後もこの手の「小規模施設の大火災」は頻発している。火災と法治国家の戦いは今も続いていると言えるだろう。

 

   ☆

 

 さて明星56であるが、その後の捜査で、テナント名義の又貸しが幾重にも行われていたことが判明(暴力団も関わっていたらしい)。一体誰がこのビルの本当の管理者なのか、特定するまでにはだいぶ骨が折れたようだ。

 ともあれ2003年2月には、ビルのオーナーとテナント関係者の6名が業務上過失致死で逮捕。5年後の2008年7月には5人が執行猶予付きの有罪、ひとりが無罪という判決が下された。控訴はなされていない。

 刑事での判決が出るまでの間には、民事でも揉めている。被害者の遺族がオーナーたちに損害賠償を求めたのだが、これは8億6千万円の和解金を払うことで決着した。

 これと歩調を合わせて、忌まわしき明星56も解体されたのだった。

 

【参考資料】

◇ウィキペディア

ブログ『裏の裏は、表…に出せない!』――「歌舞伎町ビル火災事件の闇」

防災システム研究所ホームページ

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夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)

 前代未聞のケースである。炭鉱内の火災を消し止めるため、坑内に取り残された安否不明の人々を「見殺し」にする形で水を流し込んだのだ。

 

   ☆

 

 1975年(昭和50年)に出炭が始まった、北海道の夕張新炭鉱はまさに鳴り物入りの炭鉱だった。

 石油危機を背景に、エネルギー政策上の起死回生を狙って国も援助を注ぎ込んだのである。いわゆる「ビルド炭鉱」だ。最新の設備と規模の大きさは、斜陽化が進んでいた石炭産業にとっても、また夕張市にとっても大きな期待を寄せるに充分なものだった。

 国内最後の、最有望炭鉱――。そんな風に呼ばれもしたものの、労働環境は劣悪だった。夕張北炭鉱の坑内はもともと断層が多く、さらに地圧も高いので坑道の悪化が早い。さらに高温多湿で、気温が常に36度以上、湿度が100パーセント以上という地点も数多くあったという。

 よって脱水症状で倒れる者が頻発した。結果、生産はいつまで経っても計画を上回らない。しかし会社側は早く掘れ、もっと掘れと急き立てる。まあよくある悪循環である。目標である「年産2千万トン体制の維持」に貢献できなければ援助しないよ、という国の脅しもあったというから、会社側も必死だった。

 こうした利益優先、人命軽視の傾向の中で起きた事故である。経過を見ていくことにしよう。

 1981年(昭和56年)10月16日、昼の12時40分頃である。昼休み時だった集中監視室で警報ブザーが鳴った。炭鉱内でガス漏れが発生したのだ。ここで言うガスとは、メタンガスのことである。
「北五盤下だ!」
「連絡を急げ、何人いる!?」
 のんびりしていた監視室が、瞬時に緊張に包まれる。

 北五盤下というのは、「北部第五区域」の地表約千メートルの地点を指す。そこからは来年1月より出炭する予定で、95人の作業員が7箇所に分かれて掘進作業に当たっているところだった。

 当時、坑内で作業をしていた電気係員の男性は以下のように証言している。彼は現場から少し離れた場所にいた。
「最初、耳鳴りがしたのでおかしいと思っていたら約五5分後、太鼓のような音と地響きが数回続いた。排気側に逃げようとしたら炭塵が吹き付けてきたので、そばにあった救急バルブの中に頭を突っ込み、新鮮な空気を吸いながらガスの薄まるのを待った。

「午後3時過ぎ、ガスが晴れたようなので、仲間16人と斜坑から自力で脱出した。救急バルブは通常一人用だが、3、4人が一緒に頭を突っ込むなど、生きた心地がしなかった」

 坑道では、メタンガスは壁面の目に見えない程の小さな割れ目から突然噴き出してくるという。炭鉱夫たちはその前兆として、坑内に大きな音が響き渡るのを「やま鳴り」と呼んでいた。

 30年前の事故である。坑内と外を繋ぐ連絡手段は無線だけという、今の時代から見れば驚くほど不便な通信状況だった。炭塵で顔を真っ黒にした作業員達がエレベーターで地上に避難して来るたびに、安否確認のために集っていた家族達はどっと駆け寄ったという。
 だが同時に、タンカに乗せられ毛布をかけられた遺体も次々に運び出されてきた。

 監視室からは、坑内の全箇所に避難命令を発令。会社側では直ちに救護隊を出動させ、負傷者の救出に当たり始めた。

 最初のガス噴出から約10時間後たった午後10時20分の時点では、作業員160名中77人が脱出し、32人の遺体が収容されている。坑内にはまだ行方不明者、生存者、死傷者、救護隊の面々が残っていた。

 だが――

「坑内に煙が出た!」

 これが、坑内に残っていた救護隊員の最後の言葉となった。ガスに引火し火災が発生したのだ。
 この炭鉱では、機械の電気については保安対策上の対策が施されていたから、引火の原因は静電気であろうと言われている。直前まで生存が確認されていた15人も、救護隊10名も、ここで無線が途絶えたことで完全に安否不明になった。

 この後はもう、どうしようもなかった。坑内ではガス濃度や温度は上昇するわ、新たな小爆発は起きるわ、煙は噴き出してくるわで、まともな消火活動や救出活動などとても考えられないような状況に陥ったのだ。
 そんな中、会社側はさり気なく方針を「救助」から「鎮火」の優先へと切り替え、坑道への通気を遮断する作戦に出た。だがこれも大した効果はなく、鎮火のためには坑内へ水を注ぎ込む他に方法はないように思われた。

 実は会社側の社長は、かなり早い段階で「あまり手が付けられないなら水を入れることも考えている」と発言していたため、被害者家族の怒りを買っていたところだった。だがこうなってくると「注水作戦」もいよいよ現実味を帯びてくる。

 想像するだに憂鬱な話である。注水を許可する同意書にハンコをもらうため、会社の人々は家一件一件を回った。「注水を許可する同意書」とは言っても要するにそれは「見殺し許可証」みたいなもので、未だに家族が安否不明のままの人々にとってはたまったものではない。ひと悶着もふた悶着もあって、ようやく注水の段取りは整った。

 10月23日、午後1時半。サイレンが鳴り響く中、坑内への注水は開始された。雷鳴とみぞれの中での注水作業だったという。

 前夜の豪雨で夕張川の水は汚れており、赤茶けた水が海面下800メートルの炭鉱に注ぎ込まれて行く。1分間サイレンが鳴り響く中、夕張市とその周辺の住民達は、大人から子供までが黙祷を捧げた。

 この時、坑内に取り残されていた安否不明者は59人。注水と排水を交互に行った後、遺体がようやく全て回収されたのは、事故発生から163日後の1982年3月28日のことだった。死者数93人。日本の炭鉱事故としては史上3番目の規模である。
 注水という決断を下した当時の社長は、その後手首を切って自殺を図った。一命は取りとめたものの、その後人知れず退社したという。

 

   ☆

 

 ガス突出の直接の原因ははっきり分からないが、恐らくガス層を発破で破壊してしまったためだろうと言われている。当時の夕張は天気の変化も目まぐるしく、急激な気圧の変化でガスが出やすかったようだ。会社は平素からガス抜きの作業を怠って採掘を優先させていたというから、これは起きるべくして起きた大惨事だったと言えそうである。

 なんにせよ会社側への責任追及は免れ得ない。全ての遺族に対して弔慰金を払い、さらに裁判では原告側と和解したものの、和解金も払うことになった。

 だが刑事でも民事でも、会社側がそれ以上の責任を問われることはなかった。民事は今書いた通り和解に漕ぎ着けているし、刑事でも84年には証拠不十分で業務上過失致死傷の適用はならず、と結論づけられている。

 最終的に、夕張新炭鉱は閉山した。最後の遺体が回収されてからおよそ半年後の82年10月のことである。この鉱山を管理運営していた「北炭」は、その前には会社更生法を申請していたが、95年には管理していたほかの炭鉱も全て閉山となり倒産している。
 だがこの事故は、いち鉱山会社が人命軽視と利益優先のために引き起こした単純な事故、とは言い切れないところがある。
 普段からガス抜きの作業を行っていれば事故は未然に防げた――というのは事実その通りだと思うのだが、ガス抜きの穴を開ける1本のボーリング費用でも数千万円から一億円はかかるという。保安対策と採算性のバランスをどう保てばいいのかは極めて難しい問題であっただろう。しかし国は無駄をなくせ合理化を図れ、採算が合わなければもうお金貸さないよ、と迫ってくるのである。
 そう、問題は国の政策である。
 事故が起きる直前には、国は制度融資として200億円以上を貸し付けることを決めていたという。だがこの頃は国の政策も「脱石炭」へと舵切りがなされていた時代でもあった。事故後、最初は「再建可能」と見なされていた夕張新炭鉱だが、国は不採算の不良炭鉱として切り捨てにかかったのだった。手の平返しである。かくして生き残った炭鉱夫たちも職を失い、それをきっかけにして全国の「不採算炭鉱」は潰されていったのである。
 こうした国の方針を後押ししたのは、原子力の活用を推進する電力業界や鉄鋼業界の声であった。
 このように、国のエネルギー政策の変遷を背景として見ないと、この夕張新炭鉱事故の事故の相貌というのは分からないのではないかという気がする。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇朝日新聞
 ◇北海道新聞ウェブサイト
 ◇増谷 栄一『昭和小史 北炭夕張炭鉱の悲劇』彩流社

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バス事故年表(参考)

 今では「バス」と呼ばれているあの乗り物は、かつて「乗合自動車」と呼ばれていた。また東京の市営バスも「円太郎」という名称だったことがあるという。

 さすがに「円太郎」ではその名称だけでバス事故のカテゴリーからはみ出してしまい、調べるのが難しそうだが……。

 「乗合自動車」という表記でのバス事故は、最も古いものでは大正時代まで遡ることが可能なようだ。ただしそれは人身事故で、それ以降になると昭和3年くらいのものに行き当たる(ただし未確認)。

 以下に掲げる年表では、報道されたものとしてはっきり確認されたものを記してある。細かく整理したわけではないので、年代の表記がごちゃごちゃしているが、ご勘弁頂きたい。いずれ段階を踏んで修正する予定である。

 おそらくバス事故というカテゴリーでこのようにまとめているのは当研究室が最初だと思われるので、筆者自身もこの年表を参考にしながら執筆していくつもりである。

 

【戦前】
1932年(昭和7年)1月3日
大軌(現在の近鉄)と奈良自動車バスの踏切衝突事故。死者15人

 

昭和8年4月23日
宮崎でバスと日豊本線衝突で7人死亡

 

1937年(昭和12年)7月12日
福島で常磐線と定期バスとの衝突事故で死者9人

 

1937年(昭和12年)10月18日
島根の坂本峠で省営バスの転落事故で死者11人

 

昭和15年5月26日
山梨の大月でバス転落、5人死亡

 

1942年(昭和17年)3月21日
兵庫で山陽本線と神姫バスの衝突事故で死者11人
 ※ただし詳細な記録は大手新聞にはなし

 

1942年(昭和17年)3月27日
宮崎の高岡で省営バスの転落事故で死者5人

 

1942年(昭和17年)9月7日
神奈川の川崎で東急(いまの京急)と京浜バスの衝突事故で死者9人
 
1942年(昭和17年)10月23日
東京の杉並区で帝都線(現在の京王)と日本無線のバスの衝突事故で死者5人

 

1943年(昭和18年)12月13日
新潟で信越線と中越バスの衝突事故で死者5人
 
1943年(昭和18年)12月14日
宮崎で日の丸バスの転落事故で死者7人
   
昭和19年4月7日
山梨の早川でバス転落、16人死亡
http://www.yy-net.org/blog/01099/blog/archive/2009/06/252046162220.html
(慰霊碑があるようだが、事故の仔細については不明)
 
昭和19年9月13日
山形の鶴岡でバスと羽越線衝突、7人死亡

 

1944年(昭和19年)9月30日
愛媛で宇和島自動車バスの転落事故で死者4人
 
【戦後】
昭和22年6月28日
和歌山の中辺路で省営バス転落、5人死亡

 

昭和24年5月7日
広島の加計でバス転落、12人死亡

 

昭和24年11月13日
仙台でバス転落、3人死亡

 

昭和25年1月4日
長野で犀川にバス転落し4人死亡 
 
昭和25年2月11日
熊本の松尾でバスが池に転落、22人死亡
 
昭和25年4月14日
神奈川の横須賀でバス火災、17人死亡
 
昭和25年11月7日
物部川事故、33人死亡
 
昭和25年12月18日
埼玉の大宮でバス踏切事故、13人死亡
 
昭和26年7月15日
天竜川事故、28人死亡?
 
昭和26年7月26日
札幌でバス火災、7人死亡

昭和26年10月13日
栃木の佐野でバス踏切事故、7人死亡
 
昭和26年11月3日
愛媛の宇和島でバス火災、33人死亡

 

昭和26年11月3日(上と同日)
千葉の船橋でバス踏切事故、6人死亡
 
昭和28年8月14日
広島の安佐でバス転落、10人死亡
 
昭和29年1月26日
福井でバス転落、11人死亡
 
昭和29年10月7日
佐賀の嬉野でバス転落、14人死亡
 
昭和29年10月24日
三重の二見で海にバス転落、13人死亡

 

昭和30年5月14日
北上川事故、12人死亡

 

昭和31年1月28日
愛媛の長浜で海にバス転落、10人死亡

 

昭和31年9月9日
福井の武生でバス転落、10人死亡

 

昭和32年6月28日
高知の中村でバス転落、5人死亡

 

昭和33年6月10日
京都の亀岡でバス踏切事故、4人死亡

 

昭和33年8月12日
神戸でバス踏切事故、4人死亡

 

昭和34年1月1日
和歌山の高野でバス転落、9人死亡

 

昭和34年1月3日
大阪の新庄でバス踏切事故、7人死亡

 

昭和34年5月23日
岡山の建部でバス転落、5人死亡
 
昭和34年6月5日
長野の安曇野でバス転落、5人死亡
 
昭和34年12月2日
仙台でバス転落、4人死亡
 
昭和35年7月24日
比叡山でバス衝突転落、28人死亡
 
昭和35年12月2日
横浜でバス踏切事故、8人死亡
 
昭和35年12月12日
岡山の真庭でバス踏切事故、10人死亡
 
昭和35年12月26日
長野の松本でバス転落、4人死亡
 
昭和36年11月5日
京都の向日町でバス踏切事故、7人死亡
 
昭和37年10月17日
北海道の渡島で海にバス転落、14人死亡
 
昭和38年5月13日
岡山の久米で川にバス転落、5人死亡
 
長崎の北松浦でバス転落、9人死亡
 
昭和39年1月15日
岡山の倉敷でバス転落、4人死亡
 
昭和39年3月22日
奈良の高田でバス転落、9人死亡
 
昭和39年9月22日
長野の佐久でバス転落、6人死亡
 
昭和40年3月2日
和歌山の新宮で川にバス転落、8人死亡
 
昭和40年12月21日
栃木の日光で湖にバス転落、5人死亡
福岡の大牟田でバス踏切事故、5人死亡
 
昭和42年4月29日
新潟の長岡でバスとトラック衝突、6人死亡
 
昭和42年6月18日
富山の八尾でバス転落、7人死亡
 
昭和43年5月15日
山梨の韮崎でバスとトラック衝突、6人死亡
 
昭和43年7月14日
兵庫の姫路でバス踏切事故、7人死亡
 
昭和43年8月18日
飛騨川事故、104人死亡
 
昭和44年3月19日
岡山の玉野で池にバス転落、9人死亡
 
昭和45年8月29日
徳島の勝浦で川にバス転落、5人死亡
 
昭和45年11月3日
岐阜の高根でダムにバス転落、10人死亡
 
昭和47年8月9日
岐阜の揖斐でバス転落、10人死亡
 
昭和47年9月23日
長野の黒姫で川にバス転落、15人死亡
 
昭和47年11月25日
静岡の東伊豆でバス転落、6人死亡
 
昭和48年10月10日
岩手の江刺でバスとダンプ衝突、9人死亡
 
昭和49年3月7日
福島の三島でバス転落、8人死亡
 
昭和50年1月1日
スキー客送迎バスが長野県大町市近くの青木湖に転落、24人死亡、15人重軽傷(青木湖バス転落事故)

 

1977年(昭和52年)7月6日
長野県中野市岩井の国道で定期バスと乗用車が衝突、バスが3メートル下の草原に転落、68人重軽傷
 
昭和52年8月11日
山梨県甲府市の昇仙峡で観光バスが転落、10~11人死亡、35人重軽傷
 
昭和53年1月14日
静岡の湯ヶ島で地震によりバスに落石、4人死亡
 
昭和54年10月5日
北海道の深川でバス転落、6人死亡
 
昭和55年8月19日
新宿駅バス放火、6人死亡

 

1981年(昭和56年)10月19日
千葉県野田市の国道で通園バスにトラックが衝突、園児2人が死亡、10人が重軽傷

 

1982年(昭和57年)10月2日
静岡県駿東郡小山町の町道でセンターラインを越えた乗用車が対向のマイクロバスに正面衝突、2人死亡、14人負傷
 
昭和58年6月5日
岡山県上房郡の県道で兵庫県の老人会員16人が乗ったマイクロバスが約55メートル下の谷底に転落、5人死亡、12人が重軽傷

 

1983年(昭和58年)8月6日
群馬県群馬榛名町の国道406号で、マイクロバスと乗用車が正面衝突、1人死亡、20人が重軽傷

 

1983年(昭和58年)11月10日
山形県大蔵村の県道で旅館の送迎用マイクロバスが転落、酒田市の老人クラブ会員2人が死亡、23人が重軽傷

 

1984年(昭和59年)10月18日
群馬県伊香保町の県道で、東京都品川区の観光バスが道路わきの土手に衝突。車内旅行の会社員ら26人が怪我。
 
昭和60年1月28日
笹平ダム事故、25人死亡

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 

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北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)

 襟裳岬からみて、国道336号線を北西へ走っていくと、海沿いに平宇という地域がある。

 

 北海道様似郡様似町平宇――。

 

 今回ご紹介するのは、この町で発生した事故である。終戦直前のタイミングだったため、おそらく中央ではほとんど報じられることのなかった「知られざるバス事故」だ。

 

   ☆

 

 1945(昭和20)年3月21日のことである。

 

 お昼を少し過ぎた頃、一台のバスが、北海道様似村(現在の様似町)平宇の国道・省営自動車日勝線を走行していた。

 

 このバスは当時の鉄道省が運営していた、いわゆる省営バスである。営業が始まったのは昭和18年8月1日と、ついこの間だった。

 

 終点は、幌泉村の庶野という地域だ。地図で言えば、様似村から襟裳岬の北側を横断するルートである。

 

 さて、このバスの状態が問題だった。定員29名のところに、乗客乗員合わせて48人が乗り込んでいたのだ。完全に定員オーバーの鮨詰め状態で、まずはここからしてアブない雰囲気である。

 

 こんな乗車率になったのには理由があった。バスの運行時刻に遅れが出ていたのだ。

 

 少し詳しく書くと、もともとは、幌泉からの上りバスが本様似まで来て折り返して、それで下り便となり、幌泉行き日勝線旅客第5便に切り替わるというのが本来のダイヤだった。だがこれに遅れが出てしまったため、下りバスが急遽手配されたのである。この下りバスが途中で上りと出くわせば、乗客に乗り換えてもらうという手筈だったそうな。

 

 ではその上りバスの「遅れ」はなぜ生じたかというと、その原因は戦時中ゆえの物資不足にあった。当時はろくな燃料がなく、ガソリンよりもはるかに馬力の劣る「ガス」でバスを動かしていたのである。

 

 それでも、ガスボンベでも搭載していれば少しはさまになったかも知れない。ところがこの当時のここいらのバスは、車両後部で薪を焚き、そのガスで走行するという代物だったのである。いわゆる代用燃料車だ。

 

 この代用燃料車の馬力のなさといったらもう笑ってしまうほどで、バス会社の開業初日からしてトラックで牽引しながらエンジンをかけたほどだったという。また坂道では乗客が押すこともあったとかで、これではダイヤに遅れを出すなというほうが無理な話だ。

 

 とことん、モノが不足していた時代だったのだ。燃料の問題はさておいても、バスそのものも故障続きだったというから、こういっちゃなんだがもともと不良品というか粗悪品だったのだろう。

 

 このような事情もあって、ようやく準備された下りの代行バスに、待ちかねた乗客たちは我先にと乗り込んだのだった。人々の中には、出征兵の送別客も大勢いたという。

 

 これだけでも、いつ大事故が起きてもおかしくない状況である。だが問題は他にもあった。当時このバスには、当研究室の読者ならば「あ~あ」といいたくなるようなブツが搭載されていたのだ。

 

 そのブツとは、映画のフィルムである。

 

 どうもこの頃のバスは、こうした物品の運搬も請け負っていたらしいのだ。当時のことを知る方の話によると、法律で決まっていたかどうかは不明だが、限られた物品をバスで運ぶことは確かにあったという(また戦後の一時期も、手荷物程度のものならば切符を切って運搬することもあったそうだ)。

 

 そして、これは「こち亀」でも描かれていたことがあるが、戦前から戦後にかけて使用されていた映画のフィルムというのは、発火しやすい危険な素材でできていたのである。これの発火による事故事例は、当研究室でもいくつかご紹介してきた。

 

 このとき運搬されていたのは、35ミリフィルムが18巻。浦河大黒座から、幌泉の松川座へと運ばれる予定だった。

 

 フィルムは、平素は運転手の左横の位置に積まれ運ばれていた。だがこの日は先述の通り大勢の人がドッと乗ってきたため余裕がない。そこでこんなやり取りがなされた。

 

 駅の係員Tさんは言う。

「車掌さん、フィルムの積み込みをお願いしたいんですけど~」

 

 だが車掌のSさんはそれどろじゃない。

「あーもう忙しくて余裕ないよ! 運転手に積んでもらって!」

 

 この二人は女性で、しかもどちらも19歳という若さだった。物資どころか、みんな出征して人材も不足していたのだろう。

        

 一方、運転手は20歳の男性である。上位職なので「何やってんだ早く持ってこい」と声を荒げたか、あるいは女性二人の困っている様子に「オオ、どらどらもってこい持って来い」と様似弁で引き受けてくれたか……。

 

 ともあれ、運転席側の窓を通して、フィルムは受け取られた。そして積まれたのが運転席右横のバッテリーの上だった。

 

「なんでそんなところにバッテリーが?」

 

 その疑問はもっともである。そう、バッテリーは普通ならそんな場所にはない。このバスにおいても、本来ならば床下にあるべきものだった。だが当時は度重なる故障と修理のため、たまたまそこに裸で置かれていたのだ。

 

 また、フィルムの状況もよくなかった。普段は麻布袋で梱包されるところが、この時は映画ポスターでくるまれ、荒縄で十文字に縛られただけだったという。つまり熱を通しやすい状態でバッテリーの上に置かれてしまったのだ。

 

 この時の措置について、救出された車掌は後になって「先に新聞を積めばよかった」と回顧したという。「フィルムが安全な所に置かれたのを確認しないで『発車願います』と言って出発させた私が一番悪かった」――。

 

 こうしてバスは出発し、惨劇が起きたのは平宇を過ぎたあたりでのことだった。おそらく爆発音だろう、「大きな音」と同時に、フィルムが入れられていたブリキ缶が吹き飛んだのだ。梱包していた紙も燃え出した。

 

 わわわわ、こいつは大変だ! ――運転手は、慌ててフィルムを外へ投げ出そうとした。手掴みでやろうとしたのか、そのへんは不明だが、とにかくバスをきちんと停止させる余裕もなかったのだろう。ハンドルを取られてバスは横転、国道の築堤からはみ出すと、1メートルほどの高さを海浜に落下した。

 

 車内に乗客の悲鳴が響き渡る。さらに、横転のため脱出が困難になっていた車内では、発火したフィルムが蛇のように飛び散った。一部の乗客は衣服に着火し、たちまち煙が充満。この世の地獄である。

 

 鉄道事故の項目で安治川口ガソリンカー火災を紹介したが、あれと似た状況である。あのケースも、車両の横転に火災が加わったため大惨事になったのだ。

 

 事故を最初に発見し、通報したのは近くで遊んでいた子供たちだった。石蹴りをして遊んでいたところ、バスが黒煙を上げて燃えていたのだ。

 

 ただちに大人たちが駆け付け、救助活動が行われた。

 

 ちなみに、この事故の情報を筆者に提供して下さったIさんという方がおられるのだが、その奥様が当時現場にいたという。小学3年生で、第一発見者の子供たちの一人だった。救助活動の修羅場の中で立ち竦んでいたのを今でもご記憶されているそうだ。

 

 また、当時やはり子供だったIさんご自身も、病院での惨状を目の当たりにしている。そこは現場から4~5キロ離れた本様似の病院で、怪我人たちがかつぎ込まれていたのだった。その時の状況について、せっかくなのでメールで頂いた言葉をそのまま引用させていただく(文法的なところでちょっとだけ修正した)。

 

「太田、高田両病院の待合室、廊下はおろか玄関口まで30人の重傷者があふれ、爪や髪の毛の焼ける臭い、焼け焦げた衣服、熱さと痛さに耐えられず震え、痙攣を起こし、体を折り曲げてうめき声を発している阿鼻叫喚の惨状を記憶しております。」

 

 悲惨極まりない。たくさんのバス事故を紹介していると、事故事例それぞれの個別の悲惨さについてつい忘れがちだが、それを改めて自覚させてくれるような証言である。

 

 最初に火災に気付き、フィルムを投げ捨てようとした運転手も、ひどい火傷を負った。彼はそれでいながらも乗客の救助にあたり、翌日に亡くなっている。

 

 最終的には17名が死亡、13名が負傷した。国鉄の年表によっては死者13名と記録されているのもあるそうだが、これは死者が増える過程での数字だったか、あるいは負傷者数と間違えたか。

 

 さて、気になるのは補償である。

 

 一応、事故直後にはそれなりに支払われている。内訳は札幌鉄道管理局から50円、浦河駅長の名で20円、退院時の付き添い料が400円というものだった(被害者たちに一律に支払われたのかどうかは不明)。

 

 またさらに、それでは納得いかないと、10年後の昭和30年に被害者の一人が補償交渉を行っている。しかし国鉄様似自動車区に乗り込んだはいいものの「水掛け論」に終わってしまい、追い払われる形になってしまったとか。

 

 事故の情報をご提供下さったIさんも、またその周囲におられるという関係者の皆さんも、裁判が行われたという記憶はないそうである。

 

   ☆

 

 冒頭に書いた通り、筆者はこの事故のことをまったく知らなかった。中央の新聞で報道されていなかったためだ。

 

 だが一切報じられなかったわけでもない。Iさんから頂いた情報によれば、当時の北海道新聞の昭和20年3月23日付の記事で、「様似、幌泉間で満員自動車顚覆死傷者30名」という見出しで以下のように報じられているという。

 

「(札鉄局発表)21日12時50分省営自動車日勝線旅客第5便様似より幌泉方面に運転中車内に発火し急拠制動手配したるも右方にそれ高さ1メートルの築堤から海浜に横転し即死3名負傷者27名を出せリ、運転手は負傷したるも付近の部落民と協力救出につとめたるのち目下危篤状態にあり、原因取調中」

 

 記事にはさらに「5名死亡」という小見出しがあり、「右事故による重傷者は様似村太田、高田両病院に収容手当て中である死者次の如し」そしてその5名の住所と氏名が続いているという。

 

 よって、地元では知られているのだろう。「北海道の平宇でこういう事故があったよ」とIさんから指摘を頂いたのだった。これがなければ、筆者は永久にこの事故を知らなかったかも知れない。

 

 Iさんによると、赤旗新聞の付録として発行されていた「様似民報」に、この事故のドキュメントが連載されていたのだという。

 

 これは森勇二という郷土史研究家がまとめたもので、連載は1985(昭和60)年3月から2年に渡っていた。Iさんは図書館でそれを確認しながら当時の記憶を解きほぐし、筆者へ情報を提供して下さったのだった。

 

 ご協力頂いたIさんには、この場を借りて御礼申し上げたい。少しでも、事故の記憶の風化防止に役立てば幸いである。

 

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和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)

 事故の内容はとても単純である。

 1947年(昭和22年)6月28日、朝の7時10分。1台のバスが走行していたところ、道路で山崩れが起きていたのだ。前日は雨が降っており、それで山の地盤が緩んだものらしい。

 で、それを避けようとハンドルを切ったところ、滑って50メートル下の川へドボーン。5人が死亡した。

 面倒臭いのはここからである。一体この事故の発生地点がどこなのか、正確なところが不明なのだ。

 事故を起こしたバスは、和歌山県西牟婁郡(むろのこおり、とか、むるぐん、と読むらしい)近野村を出発した省営バスだった。そして当時の新聞では、事故が起きたのは「二川村高原の川合」とあるのだが、これは現在の「田辺市中辺路町高原」か「田辺市中辺路町川合」のどちらかを指すらしい。

 で、どっちなんだよ、という話である。

 どうも新聞記事を書いた人物は、高原と川合がごっちゃになっていたようだ。昔の新聞は、記者同士の電話による伝言ゲームや伝書鳩でもって情報をやり取りするしか手段がなく、このように地方ニュースに関しては情報がめちゃくちゃになることが珍しくなかったのである。

 手掛かりになりそうなのは、バスが出発した「近野村」と、それからバスが落下した「富田川」という名前の川である。近野村は現在の「田辺市中辺路町近露」であり、そこからとにかく富田川に隣接するような道路を走っていて転落したわけだから、地図を見るとその道路は国道311号線である可能性が高い。そしてこの311号線が通っているのは川合の方である。

 というわけでこの事故が起きたのは、「田辺市中辺路町川合」の国道と思われる。しかし慰霊碑があるという情報も特に見つからず、これ以上の詳細は不明である(※)。

 ちなみに事故が起きた道路はこの1週間前に開通したばかりで、しかもやはり昭和20年代には別のバス事故も起きており死傷者も出ているのである。どんだけ道路状況悪かったんだよと言いたくなる。どこに行っても当たり前のように舗装道路を走行できる今の時代がいかにありがたいものか、考えさせられる事例であろう。

 バス事故の歴史をざっと眺めていると、「道路状況の劣悪さ」「定員オーバー」「可燃物の出火」「運転手の疲労」などいくつかのパターンに分類することが可能なように思われる。

 

(※)余談になるが、この田辺市というのは2011年、台風12号によって「せき止めダム」ができたあの地域である。合気道の開祖・植芝盛平の出生地でもある。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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