目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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大手町官庁街火災(1940年)

 平将門の怨霊によって引き起こされた火災――だそうだ。
 官庁街と言えば今では霞ヶ関だが、戦前は大手町に存在していた。
 そして、いわゆる将門の首塚は、現在も大手町に存在する。つまり昔は官庁街と首塚が同居していたのだ。
 そんなことを踏まえつつ、1940(昭和15)年6月20日のことである。
 もともと、この日は将門の没後千年目という曰くつきの日だった。当時の東京市内はとんでもない悪天候で、人災が多発していたという。
 まずは水不足である。この1940(昭和15)年というのは水道局始まって以来の渇水を記録した年でもある。大手町のみならず、市内では初めての時間給水が行われていたという。
 そうかと思えば、この6月20日という日の天候は豪雨で、夜間はもはや視界が利かないほどの降りっぷりだったという。雨は降るのに渇水とはこれ如何に。
 あげく、落雷も多発した。豪雨と足並みを揃えて関東地域にカミナリ様が来襲。市内でもほうぼうで火災が発生し、消防も大忙し。夜になっても約80台の消防車が出動していた。
 これが将門公の怨念の力なのか…。
 さて官庁街である。怨霊の猛威が荒れ狂っていた22時1分、大手町の逓信省航空局(※1)の煙突に雷が落っこちた。避雷針は壊れており、役に立たない状態だったという。
 この雷が水道管を伝わり、建物の羽目板に火をつけた。当時、この辺りにあった庁舎はどれも関東大震災直後に急ごしらえで造られたものばかりで、防火設備も何も整備されていなかった。さらに屋内にはガソリンや石炭などの燃料も貯蔵されており、なるほどこれでは燃える。たちまち炎に包まれた建物から宿直員は命からがら逃げ出した。
 避難するのに精一杯で、火災報知器は押されなかった。そして先述の豪雨で見通しが悪かったため、望楼勤務員(※2)による火災の発見も遅れた。こうして通報は遅れに遅れた。
 もっとも、仮に通報がすばやく行われたとしても、対応は難しかっただろう。当時、消防は相次ぐ落雷被害のためてんてこまい。猫の手も借りたい状況だった。
 官庁街が炎に包まれていく――。
 よりによってこの時の風速は7.3メートル。向かい風なら、人間は歩けなくなるほどの強さである。
 これを僅か3時間で鎮火させたというから、消防も大したものだ。出火場所が皇居に隣接していたというのもあり、消火活動は本気の本気で行われたに違いない。
 鎮火したのは、日付も変わった午前1時のことである。
 焼損面積は2万422坪(6万7,558平方メートル)。およそ3時間あまりで大蔵省、企画院、中央気象台、厚生省、東京営林局、神田橋税務署などの21棟が全焼した。
 犠牲者は2名。どちらも警防団員で、殉職だった。負傷者も107人に上った。
 復旧作業は迅速に進められた。日中戦争真っ只中、資材の不足も著しい時代である。それでも焼け落ちた官庁街の建物は、それぞれ鉄筋コンクリートかもしくは木造の準防火作りに生まれ変わっていった。
 また、建物と建物との間には大きく空間を作り、防火水槽、屋内消火栓、火災報知機、避難階段も設置された。現代の視点で見れば「えっ今までなかったの?」という気もするが、どうも官庁というのは特別で、建築物に関する法律がそのままでは適用されなかったらしい(今はどうだか分からない)。官庁向けの建築基準法にあたるものが示されたのも昭和26年のことで、「官公庁施設の建築等に関する法律」(官公庁営繕法)の公布によって、これらの建物はやっと「燃えなくなった」のである。
 当時の自然の猛威は、ひょっとすると本当に将門公の怨念のなせる業だったのかも知れない。だが被害がこれほどのものになったのは、純粋に防火設備の不備のせいだった。
 次に将門公の祟りが起きるのは、没後千年と百年目にあたる2040年あたりだろうか。今度は平穏無事に済んでほしいものである。
 
(※1)逓信省(ていしんしょう)……戦前の日本で、郵便や通信を管轄していた中央官庁。大まかに言えば、今の総務省、日本郵政(JP)、日本電信電話(NTT)の前身にあたる。
(※2)消防署の監視職員。
 
【参考資料】
 ◇消防防災博物館
 ◇ウィキペディア
 ◇国書刊行会『写真図説 日本消防史』
 

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聖母の園養老院火災(1955年)

 本邦ではここ数年で特別養護老人ホームでの災害が相次いでいるが、その先駆けのような火災事故である。

 1955年2月17日の未明のことだ。通報を受けて消防が駆けつけてみると、その建物からは既に炎が噴き出していたという。そして見る間に建物は猛火に包まれていき、ものの20分で全焼に至った。

 その燃え広がるスピードも当然と言えば当然だった。この「聖母の園養老院」は老朽化した木造2階建てで、しかも防火設備や避難設備は全く整っていなかったのだ。

 もともとは海軍衛生学校の建物だったものを、カトリック系の社会福祉法人「聖母会」が譲り受けたのだという。そして敷地内に養老院、聖堂、修道院を建てたのだが、この時の火災はそれらを全て焼き尽くしたのだった。

 聖母会側も、決して建物の老朽化をよしとしていたわけではない。ただ建物を中途半端に造り変えるのではなく、取り壊して丸ごと建て直すつもりだったのだ。だから防災設備も避難設備も皆無だったのである。

 また、丸焼けになった責任の全てを養老院側に求めるのも酷であろう。火災現場はこれでもかというほど水利が悪かった。なんと、水を引いてくるのに1キロ離れた貯水池までホースを繋げる他なかったのだ。必要なホースの本数は、数にして消防車6台分だったという。

 これは確かに、ホース繋げている間に余裕で燃えるわ。

 消火活動に携わった者の人数は200人。こうして消防と警察が懸命に消し止めにかかったものの、養老院の800坪ぶん、修道院と聖堂の70坪ぶん、そして肥料小屋1棟の全てが焼け落ちた。鎮火は朝の6時過ぎだった。

 聖母の園養老院は、焼け落ちるまでの間、不気味なほどに静まり返っていたという。

 そして遺体の収容作業が始まったのだが出るわ出るわ、もともと聖母の園養老院にいたのは皆、戦災で身寄りを亡くした60歳以上のおばあちゃんたちだった。よってその中には耳の聞こえない者や足腰の立たない者もおり、焼死者が多く出るのも当然と言えば当然だった。

 その後、生存者の証言などから出火前後の状況が明らかになった。

 出火したのは17日の午前4時34分頃である。場所は1階の「ペテロの間」で、原因は不明だが、懐炉の火の不始末か漏電ではないかと言われている。この施設では寝るまでの間は火鉢を使い、就寝後は湯たんぽと懐炉で暖を取るという方法をとっていたのだ。

 この時階上には80人、階下には63人がいたという。もちろん大半は就寝中だったことだろう。最終的な死者数は99人に及び、負傷した者も8人いた。

 余談だが身元不明の遺体も2体あったらしく、これはちょっとしたミステリーである。養老院の中に誰かこっそり忍び込んでいた者がいたのだろうか。

 やり切れないエピソードもあった。比較的元気な者が動けない者を助けようとしている間に逆に逃げられなくなってしまったとか、あるいは90歳代のおばあちゃんが「自分はどうせ助からないから」と火を食い止めて仲間を逃がした、ということがあったらしい。

 それにしても、死者99人という数字はかなりヤバイ。あと1人で死者数が3桁に至るところだったのだ。戦後、死者数が100人以上を記録するのは1972年の千日デパート火災を俟たねばならないわけだが、この聖母の園養老院火災はもうちょっとでそれに先駆けるところだったのである。

 まあ、もう少し詳しく言えばこの火災は戦後の非商業施設では最大の死者数……と言えるわけだが、この「○○としては最大の死者数」という言い方は記録者としてあまり好きではないので蛇足程度に留めておこう。いちいちあんな言い方をしていたら、何でもかんでも死者数が最大ということになってキリがない。死者数の多さを誇る記録者なんて頭がどうかしている。

 火災直後に駆けつけた遺族はほんの少しであったという。犠牲者は本当に身寄りのない人々ばかりだったのだ。

 追悼ミサは湘南白百合学園で行われ、遺体は焼け跡の裏の林に葬られた。

 また、生き残ったものの施設から焼け出された形になった48人のおばあちゃんは、全員がそれぞれ別の施設に移された。

 火災の翌日には、現在の消防庁の前身にあたる国家消防本部が、「社会福祉施設も火事に強いようにしなくっちゃね~」と通達を出している。と言ってもその実現のために国が補助してくれるようになったのは更に8年後のことで、当の聖母の園養老院は火災があった年の11月には鉄筋ブロック平屋建ての形で建て直された。宗教的使命感のなせる業……と言っては的外れだろうか、悠長な行政に比べると実に迅速なものである。

 火災があったのは神奈川県横浜市戸塚区原宿町。今も同じ場所に老人ホーム・修道院・保育園・医院が存在している。

 ところでこの火災の話は、中井英夫の『虚無への供物』にも出てくるらしい。オペラ「蝶々夫人」の制作に協力した元イタリア公使夫人の奥さんがこの火災で亡くなっており、そのエピソードが用いられているのだそうな。

 虚無への供物を読んだのは中学の時なのでさすがに覚えていない。ただ洞爺丸沈没事故の話などが登場していたのは覚えているので、事故災害を調べる上では再読しておいた方がネタになるかな、とも考えている。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇ウェブサイト「誰か昭和を想わざる」
 ◇『日本消防史』国書刊行会

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日暮里大火(1963年)

 戦後の「大火」には数あれど、この日暮里大火はその中でも妙に知名度が高い。
 新潟、函館、山形などでも、火災史に名を残すような規模の大火は発生している。それらと並べると日暮里大火は比較的被害規模も小さいのだが、とにかく有名なのである。何故か?
 思うに、それが発生した昭和38年代という年代そのものが独特だからなのだろう。高度成長期真っ只中、即ち「三丁目の夕日」の時代である。幸いにして死者が出なかったこともあり、この火災は悲惨な災害としてよりも、安心して語れるひとつの時代のワンシーンとして記録に残されることになったのだ。
 4月2日、午後3時頃のことである。日暮里町(現在の荒川区東日暮里)のさる工場にて、一人の従業員が喫煙していたのだが、彼がマッチの燃えさしを何気なく捨てたのだった。
 彼が捨てた先は、水がなみなみと張られたバケツである。……と、てっきりそう思っていたのだが、そこに満たされていたのは水どころかシンナーだったからさあ大変。爆発するように火炎が上がった。
 ああ、やっちまったよ。そりゃ火事にもなるわ。
 文字通りマッチ一本大火の元、である。
 しかも運の悪いことに、この粗忽者の従業員がシンナーにマッチを投げ込んだこの日は火災警報が発令されていた。北の風10から15メートル、湿度もたったの17パーセントである。乾き切った春風に煽られて飛び火を繰り返し、30棟以上の建物と5000平方メートルを越える面積が7時間で消し炭と化した。
 かくして、日暮里大火は、戦後に東京で起きた火災としては最大規模のものとして語り継がれることになったのである。――ということはこの災害は、東京ではかの東京大空襲に次ぐ火災だということでもある。そう考えるとなんか凄い。
 もともと日暮里という地域は閑散とした場所だったのだが、昭和になってから繊維業者達の移住によって工業地域として発展したという。
 移住者の流入によって発展する町というのは、どうしても「たまり場」のようになる部分が出て来て都市化には至りにくい。そう考えると日暮里という地域は、どちらかと言えば周縁に属する地域と言えそうである。この辺りの事情は、近隣の三河島地区も似通っている部分がある。
 関東大震災や日暮里大火は、そんな日暮里地区の区画整理や道路整備を推し進めるひとつのきっかけとなったのだった。
 ところで、日暮里大火が発生した昭和38年といえば吉展ちゃん誘拐事件が発生している。有名な逸話だが、この誘拐事件で犯人と目された男が「俺は山手から日暮里大火を見た」と取調室で口を滑らせてしまい、その日東京にいなかったというアリバイが一気に瓦解してしまうという出来事があった。
 また筆者の父親も、当時荒川区に住んでいた。
 火災現場から15分程の場所から火事の様子を見ていたそうで、凄まじい黒煙だったという。記録を調べてみると、日暮里大火ではラバー工場のゴムタイヤ500トンが焼けたらしく、それで遠くからも見えたのかも知れない。吉展ちゃん事件の犯人と自分の父が、同日に同じものを見ていたと思うとなかなか感慨深い。
 さらに、である。昭和38年という年号で見れば、この年は鶴見事故や三井三池炭鉱の事故も起きているのである。その上前年にはかの伝説の三河島事故も発生しており、空間的にも時間的にも、戦後を代表する大事故がここに集中していることになる。
 確かにこれは独特の時代だったのだなと思う。大体、吉展ちゃん事件の先述の逸話にしても「出来すぎ」である。釈放寸前の容疑者が日暮里大火のことを口にしてしまったせいでアリバイが崩れるなんて、余りにドラマチックな昭和の香りに満ち満ちた演出ではないか。何か人智を超えた大いなる演出者の見えざる手を感じる……のは筆者だけだろうか。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア他

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金井ビル火災(1966年)

 実は、戦後20年ほどの間は、消防士の社会的地位はさほど高くなかった。むしろ低く見られていたと言っても過言ではない。
 経済成長期に突入しつつあった時代である。そうなるのも無理はなかった。消防士は、いつ起きるかも分からない災害のために存在する。そんなもののために投資なんてしていられるかい、というわけだ。規模の小さな地方の財政ならばなおさらである。
 そんな状況が転換するきっかけになったのが今回ご紹介する金井ビル火災である。この火災における息を呑む救出劇が、その後の防災行政に大きな影響を与えたのだ。
 
   ☆
 
 火災が起きたのは1966(昭和41)年1月9日、日付が変わったばかりの0時58分のこと。
 神奈川県川崎市川崎区の駅前に、金井ビルはあった(今もあるらしい)。きらびやかな雑居ビルだったという。コンクリ造りで壁面はガラス張り、周囲のネオンを反射して、高度成長期の景気の良さを象徴しているかのようだった、そうな(参考資料では、この辺りの描写が妙に情緒的である)。
 だがこのビルは、後年発生した千日デパートや太洋デパート火災などをきっかけに、危険性が指摘されることになるタイプの典型でもあった。そういう意味でも時代の象徴だった。
 建物の構造をざっと述べよう。中は地下1階~地上6階建ての7フロア。地下は喫茶店と倉庫、1階がパチンコ店、2階が遊技場(ゲームセンターのことか?)、3階と4階はキャバレー。5階と6階は事務所や住宅が入っており、屋上にはプレハブの住居が設置されていた。
 火災が発生した当時は、ビル内の全店舗が営業を終えており、建物内にお客はいなかった。
 だが、従業員はまだいた。4階のキャバレーの一室を使って、14名が新年会を催していたのだ。他にも6階に11名の従業員がいた。
 火災はそんな中で起きた。原因ははっきりしていないようだが、火元である3階の木製ロッカー内で、煙草の火の不始末があったのではないかと推測されている。
 この火事の煙が、吹き抜けの空間を通ってまず4階へと上って行った。
「あれ、これって新年会の余興? ドッキリ?」
 ってそんなわけねえ。わあ大変だ火事だ! 4階の新年会メンバーは慌てて火元に駆け付けて初期消火を行った。だがこれがちっとも効果がない。命あってのものだねとばかりにみんな一目散に逃げ出した。火事の呼びかけや通報は行われなかった。
 さてこの時、ビルにいたのは従業員だけではなかった。5階にビル所有者の家族が5名おり、屋上のプレハブには4名の親戚がいた。
 当時、5階にいたオーナーの長男は、煙に気づいてすぐ4階へ様子を見に行っている。すると、新年会をやっていたはずの従業員たちが逃げ惑っていた。
「おいおいどうしたんだ。これって新年会の余興? なんかのゲーム?」
 だからそんなわけないっての。モノホンの火事だと分かり、彼は急いで身内の人々へ避難を呼びかけた。
 このあたりの行動は「無我夢中」だったらしい。彼は、気がつくと逃げ遅れの親戚と一緒に屋上にいた。女性4名を含む7名である。
 取り残された人々は、他にもいた。先述した6階の従業員11名と、それにオーナーの妻。この人は、火事を発見したオーナーの長男の母親でもある(119番通報はこの人が行った)。さらにその7歳の息子も一緒にいた。ちなみにビルのオーナー本人は、当夜は不在だった。合計20名。
 金井ビルは灼熱地獄と化していた。火炎はみるみるうちに拡大し、破れたガラス窓からは炎と煙が噴出。建物内は濃煙と熱気で満たされた。
 程なく、川崎消防署の署員たちが到着。しかしここで混乱が生じた。「中に誰か残っているか?」という署員の問いに、先に避難したキャバレーの従業員はこう答えたのだ。
「大丈夫っす、みんな逃げました!」
 言葉ってのは恐ろしいものである。この従業員の言う「みんな」とは「新年会をしていた仲間たち」のことだった。消防士はこれを「ビル内の全ての人」と勘違いし、救助よりも消火を優先したのだ。
 だが間もなく、7人の人が屋上に取り残されているの野次馬が発見する。おいおい逃げ遅れおるやんけ。話が違うぞ。現場は騒然とした。
「梯子車を伸ばせ!」
「駄目っす、届きません」
「じゃあ突入だ!」
「無理っす、炎と煙がやばいです」
 おいおい、どうすんだよ。
「よし、確かナイロンの紐があったはずだ。それで隣のビルから救出しよう!」
 はあ? ナイロンロープ?
 そう。
 聞いて驚け、ナイロンロープなのである。
 マジかよ、いかにも熱に弱そうじゃないか。もっとまともな救助道具はなかったの? という声が聞こえてきそうだが、本当になかったのだ。
 この時代、消防の装備は驚くほどちゃちだった。先述の通り梯子車は届かねえ、ガスマスクもおもちゃみたいなもの、呼吸保護器の数も申し訳程度。消火や救助の器具は鳶口やノコギリという有様で、エンジンカッターなにそれ食べられるの? という状況だったのだ。
 人は痛い目に遭わないと気付かないもの。高度成長期のこの時代、防災への投資は全くアウトオブ眼中(死語)だったのである。
 くだんのナイロンロープにしても、この火災が起きるわずか3か月前に消防署へ配られたばかり。しかもそれは、もともと火災ではなく水難事故の救助用だった。
 さあ、脱出ゲームDEROも真っ青の救出劇の始まりである。命綱もない深夜の暗闇で、逃げ遅れの人々は決死の空中滑降をする羽目になった。ナイロンロープを伝って隣のビルへ飛び移るのだ。
 地上23メートル。中には幼い子供もいたが、それでも奇蹟的に屋上の全員が救助された。なんというか本当に、レスキュー911とかプロジェクトXの世界である。
 しかしビル内に取り残されていた13人のうち、1人は自力で脱出したものの、結局12人が死亡した。死因は全員が一酸化炭素中毒で、中には最初に通報したビルオーナーの妻とその息子も含まれていた。
 川崎市消防局に、人命救助専門の「消防特別救助隊」が編成されたのはこの火災の直後である。さらに、急増する高層ビル火災に対応すべく、さらに長大な梯子車も配備された。
 しかしその後の火災の歴史を見ると、消防の装備をいくら充実させても結局は付け焼刃だった、と言わざるを得ない(念のため言っておくが、無駄だったという意味ではない)。激増する高層ビル火災と、歯止めが利かない死亡者数の増加に最終的にストップをかけたのは、純粋な法的強制力だった。
 その決定的な転換点になったのが千日デパート火災と大洋デパート火災である。金井ビル火災は、この「法と火災の戦い」の前哨戦だったと言えるだろう。
 
【参考資料】
◇ウィキペディア
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年

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菊富士ホテル火災(1966年)

 1966(昭和41)年3月11日、夜明け前の午前午前3時30~40分頃のことである。

 群馬県利根郡、水上温泉「菊富士ホテル」の従業員宿舎に、一人の男が駆け込んできた。ホテル新館の控え室で寝泊りしているはずの夜間警備員だった。

「大変だ、ホテルが火事になった!」

 なんだと、一大事だ。叩き起こされた従業員たちは、宿舎からそう遠くない新館へ向かった。だがこの時、建物の玄関ロビーはすでに火の海。中に入るのは不可能だった。

 彼らは、すぐに近隣の旅館へ火災発生を知らせて回った。通報は誰も行わなかったという。火災を知らされた釣堀の店員が、ようやく加入電話を使って役場へ連絡したのが3時58分のこと。この時点で、火災発生から少なくとも18分程度は経っていたと考えられる。

 火炎は、みるみるうちに菊富士ホテル新館を呑み込んでいった――。

 

   ☆

 

 菊富士ホテルは、国際観光旅館としてランキング入りを果たすほどの一流ホテルだった。

 規模も大きかった。木造3階建ての「渓流閣」、4階建ての「秀嶺閣」、地下1~地上3階建ての新館、木造の離れ2棟、大浴場などで構成されていた。

 火災が起きたのは新館である。深夜に仮眠していた警備員が、灯油ストーヴを倒してしまったらしい。目が覚めた時は、辺り一面が火の海だったという。

 もともと、火がつけばたちまち燃え広がるような部屋だった。室内には不要の段ボールや新聞が積まれていた上に、内壁も天井もベニヤが張られている。警備員はジャンパーで叩いて消そうとしたが、かえって火の手は拡大した。

 消火器を使って、初期消火も試みたようだ。だが駄目だった。この「駄目」の理由は資料により書き方がまちまちなのだが、どうも消火器自体に何らかの不備があったフシがある。

 警備員は、次に火災報知機へ手を伸ばした。新館全体へベルが鳴り響く――。

 だが、このベル音に気付いた宿泊客はほとんどいなかった。人によっては「遠くで電話が鳴っている」程度にしか聞こえなかったらしい。

 警備員は、この措置によって、宿泊客は避難してくれると考えたのかも知れない。彼は次に「加入電話」なるもので役場へ通報した。なんで119番にかけないの? 加入電話って何? と、約50年後の時代に生きている我々としては首をかしげるところだが、資料にそう書いてあるんだから仕方がない。ともあれ、いくら待っても役場は電話に出なかった。

 そうこうしているうちに火の手は回る。悠長に構えている場合ではない――。

 全体としては、こういう流れだったのだろう。最終的に、初期消火はブッブー、火事ぶれも避難誘導もブッブー、消防への通報もブッブー、という結果になってしまった。

 さらに、火元となってしまったこの警備員が、逃げた時に新館の玄関のドアを開けっ放しにしたのも良くなかった。風通しが良くなったのだ。当時の風速は4~5メートルだったといわれており、火勢がますます拡大したのである。

 この警備員は、鎮火した3月11日の夜9時頃には失火で逮捕されている。

 さて、火炎に包まれていく菊富士ホテル新館は、1964(昭和39)年春に鉄筋造りになっていた。だが出火場所の周辺には木造の部分もあり、炎はまずホテルロビーと従業員通路へ延焼。さらにロビー天井と階段を伝って2~3階にも伝播した。

 防火区画は存在していたが、防火シャッターが開放されていたので意味なし。さらに、内装材には可燃材が使用され、床材のカーペットの下地には「速燃性」のクッション用フェルトが使われていた。また床などの貫通部の埋め戻しも不完全で、これらの要因が、火の手の拡大を許したと思われる。

 宿泊客が火災に気付いた時には、既に館内は停電していた。

 当時の、菊富士ホテル全体の宿泊者数は総勢213名(225名という資料もある)。うち、火災が起きた新館には83名がいた。

 中には、警報ベルの鳴動によって火災に気付いた者もいたらしい。それが、警備員があの申し訳程度に火災報知機を鳴らした時のことを指すのか、あるいは異常に気付いた宿泊客が鳴らしたものなのかは不明だが、いずれにせよ、宿泊客の大半は、煙と慌しい物音によってようやく事態を察したようだ。

 先述の通り、新館は、地下1階つきの3階建てである。地上1階で発生した火炎と煙が、廊下も階段も覆い尽くしたため、2階と3階の宿泊客は追い詰められる形になった。火事に気が付いた時には、もう1階へ下りられる状況ではなかったのだ。

 まず2階では、205~208号室が、幅5メートルのバルコニーに面していたのが幸いした。その部屋の客24名は、従業員の指示によって、隣のホテル「白雲閣」への石垣の上に避難したり、近所の旅館が持ってきた布団をクッションにして飛び降りたりしている。結果、2人が軽傷を負った程度で、全員が救助された。

 だが201~203号室にバルコニーはない。まず202・203号室ではなすすべなく計10名が死亡した。201号室の客5名は廊下に出て、すぐ近くにあった南側の非常口へ取り付いている。だが不幸なことに、いわゆるモノロックタイプの扉の開け方が分からず、3名がそのまま廊下で死亡。残る2名は部屋に戻ったが、おそらく煙を吸ったのだろう、その場で1人が死亡。残る1人は飛び降りて助かったものの、重傷を負った。

 次は3階である。こちらは、一部の部屋――305から307号室――が2階のバルコニーに面していたので、宿泊者は投げ落とした布団をクッションにする形で飛び降りている。総勢28名。大半がこの飛び降りで重軽傷を負い、また1人が死亡した。

 301から303の15名は全員が亡くなっている。煙を吸ったのだろう。室内も衣類も焼けておらず、布団の中に入ったままの人もいたという。

 

   ☆

 

 鎮火したのは午前6時。意外と早い気がする。だがその分、短時間でこれだけの死者が出たのかと驚かされる事例でもある。実際、一酸化炭素中毒による死者が注目を浴びる大きなきっかけにもなったそうだ。おそらく歴史的に見ても、この菊富士ホテルの事例は、大規模な宿泊施設での火災の恐ろしさを世間に知らしめた最初の事例だったのではないか。

 ホテル新館は半焼2640平方メートルが半焼。先に名前を挙げた、隣接するホテル「白雲閣」もとばっちりを受けて1650平方メートルが類焼した。

 死者は30名、負傷者は29名に上った。死亡したのは、多くが茨城県のタバコ耕作組合のメンバーだった。

 新館から渡り廊下でつながっていた「渓流閣」と「秀嶺閣」の建物は、被害がなかった。そちらの宿泊客についても、従業員がきちんと誘導したことで、しっかり身支度を整えて非常口などから避難できたという。警報ベルもちゃんと鳴らされたそうだ。

 当時の基準で言えば、このホテルの消防用設備に不備はなかった。問題は、それが活用されないまま終わってしまった点である。

 実際、全体的に見てみると、まあやることはそれなりにやっているという印象を受ける。逮捕された警備員は、初期消火も火災報知も通報も「試みて」はいるし、新館以外の建物では宿泊客の避難誘導も行われたというのだから。

 ただ、消防計画の作成や、消防訓練は行われていなかった。

 この事例がきっかけとなって、防火管理関係の法令が改正されている。具体的には、防火管理者の義務強化や、ホテルのような施設では難燃性の材質のものを用いるべし、といった内容が定められたのだった。

 だが――戦後の大規模施設火災の黒歴史は、まだ幕を開けたばかりだった。頻発する火災と法令強化とのイタチごっこの歴史はここから始まる。これ以降、このタイプの火災は数え切れないほどの件数発生して社会問題化し、それが終息するまでには、さらに何百人もの犠牲と数十年の時間を要することになるのである。

 

【参考資料】

 ◇消防防災博物館-特異火災事例

 ◇サンコー防災株式会社「ホテル・旅館火災の特徴と事例」

 ◇ウィキペディア

 ◇何かのサイト

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