目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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白馬プリンスホテル火災(1978年)

 1978(昭和53)年6月15日、午前2時頃のことである。愛知県半田市住吉町で、ある民家の犬が急に吠え出した。

 なんだなんだ、うるさいぞ。目を覚ました住人が庭に出てみたところ、びっくり仰天。なんと隣のホテルが炎上していた。しかも半端な燃え方ではない、大火事だ。

 このホテルが「ビジネスホテル白馬」である。住人はさっそく119番通報し、これが第一報となった。

 つまりこの火災の第一報は、「犬」がきっかけでもたらされたわけである。

 この時すでに、火災発覚から20分が経過していた。

 

   ☆

 

 少しだけ時間を巻き戻す。当時、このホテルには宿泊客33名と従業員3名がいた。

 従業員たちは、比較的早いうちに火災に気付いていた。火災報知器もちゃんと作動していたようだ。それに出火したのも1階の管理人室の前の廊下と、とても分かりやすい場所だった。

 この時、すぐに初期消火がなされたかどうかは不明である。消火活動自体は行われたようだが、それが従業員の脱出前なのか脱出後なのか、資料を読んでもよく分からなかった。

 とりあえず確かなのは、彼らにはもう避難誘導や通報を行う余裕がなかったということだ。命からがら、窓から逃げ出している。

 ここで、なぜか火災報知器のスイッチが切られた。ベルが鳴りっぱなしでは近所迷惑だとでも考えたのだろうか。

 ただ、もしかすると、報知器のスイッチが切られなくとも宿泊客たちにはベルが聞こえていなかったのかも知れない。資料の中には、外に脱出した従業員が火事ぶれを行ったことで、宿泊客たちのほとんどが目を覚ましたと書かれている。ということは報知器の鳴動は目覚ましにならなかったということだ。

 宿泊客たちは、脱出を試みた。しかしビジネスホテル白馬は、繰り返される増改築により建物の中は迷路化していた。さらに階段もひとつしかなく、煙はその階段を伝って瞬く間に2階3階へ及んだというのだからどうしようもない。おそらく、廊下から脱出できた者はほとんどいなかったのではないだろうか。ある者は窓から飛び降り、またある者は隣家の屋根を伝って脱出したという。

 またこのホテルには、鉄格子の嵌まった窓もあった。もとがラブホテルだったそうなので、飾りか何かだったのだろう(他の部屋では窓から脱出できた人もいるようなので、全室鉄格子ではなかったと思われる)。それが一部の宿泊客の脱出を困難にした。

 この鉄格子は、20センチ幅という、大人が通るには厳しい間隔で取り付けられていた。で、その部屋を宛がわれた5名の季節労働者がいたのだが、彼らは鉄格子のため飛び降りることもできず(そこは2階だった)救助が来るまで部屋に閉じこもり続けた。

 この5名のうち1名は途中で廊下に飛び出して命を落としているが、リーダー格の人がドアを閉めて、他の3名を始終落ち着かせていたという。最終的に、消防によって鉄格子の一本が切断されたことで、彼らは助けられた。

 防火シャッターも閉じなかったらしい。最終的に、ビジネスホテル白馬は、本館と別館を合わせて663平方メートルが全焼した。

 死者は7名。すべて宿泊客だった。おそらく煙を吸ったのだろう。こういうケースで、純粋に「焼け死ぬ」ということはほとんどない。大抵は一酸化炭素中毒などである。

 さて、この火災の原因は一体なんだったのだろう。記録には、以下のように記されている。

 

 ●発火源……不明。

 ●火元………たぶん1階の調理場。

 ●延焼の経過……不明。

 ●着火物……不明。

 

 つまり何も分からなかったのだ。

 まあ当時の従業員たちの責任は火を見るよりも明らかなわけで――ことが火災なだけに、と、これは悪い冗談――だからこそ、原因調査もあまり熱心に行われなかったのかも知れない。これは単なる想像だが。

 

【参考資料】

サンコー防災株式会社ホームページ

消防防災博物館

『火災と避難』

 

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大清水トンネル火災(1979年)

 この火災が起きたのは、今(2011年)から30年ほど前である。数字を見ると随分前のようだが、31歳の筆者としては「自分が生まれる前年」と考えるとそう昔にも思われない。

 だが事故の内容はやけに古臭い。北陸トンネル火災の教訓もどこへやらという印象だし、出稼ぎ労働者が現場で大勢犠牲になるというシチュエーションも時代を感じる。まるで40年前か50年前の事故のようだ。

 もっとも、筆者が1歳の頃には夕張新炭鉱ガス突出事故のような事故も起きている。そう考えると、古臭い類型のように見えるこれらの事故は、ひとつの時代の断末魔だったのかも知れない。

 

  ☆

 

 1979(昭和54)年3月20日のことである。

 当時谷川岳では、日本列島改造の気運に押されてトンネルがぼこぼこ掘られていた。手始めに清水トンネル、それから新清水トンネル、とどめに大清水トンネルである。特に大清水トンネルは全長が22.2キロと日本一の長さで、世界でも有数の山岳トンネルだった。

 んで大清水トンネルでは、1971(昭和46)年のの工事着工以来、すでに13人の死者と264人の負傷者が出ていた。

「えっ、そんなひどい工事現場、問題にならないの?」

 ――という声が聞こえてきそうだ。しかし問題にはならないのである。高度経済成長期というのはそういう時代だったのだ。なにせ昭和30年代ならば工事費一億円につき死者が一人出るのは当たり前、少し安全性が高まった昭和40年でも十億円に一人は当たり前、とまで言われていたのである。

 だから、工事がひと段落した時、作業員たちはほっとしたことだろう。

 そう、この日はトンネルの穴掘り作業が終わったばかりだった。あっちとこっちから掘られた穴がやっと貫通したのである。あとは壁面にコンクリを張る簡単な作業で済む。

「あー終わった終わった。さあ機材を片付けるぞ!」

 トンネル内には、掘削作業に使われた鋼製のジャンボドリルが置いてあった。高さは3階建ての建物ほどだったというから、これはちょっとしたガンダムである。工事開始以降、ひたすら穴を掘りまくってきたこのガンダム削岩機も今夜はいよいよお役御免。トンネル内でバラバラに解体して処分することになっていた。 
 この解体作業の直前には、群馬労働基準局沼田監督署の係員がトンネル内の様子を視察に来ている。

「ふーむ。このジャンボ削岩機は油ですっかり汚れていますねえ。機械の周辺も油だらけですねえ。おや、水たまりの中の鉄骨も油だらけですねえ。散らばっているおがくずも油だらけですねえ。ま、問題ないでしょう」

 お前さんの目は節穴どころか大清水トンネルだ! と言いたくなるようなボンクラ視察である。この係員、自分が立ち去った直後に大火災が発生したと聞いてどう思ったのだろう。

 というわけで、夜9時にはガンダム掘削機の解体作業が始まった。

 当夜のトンネル内には54名の夜勤者たちがいた。そのうち11人がガンダムの解体を行う。

 ではアムロいきます。溶断機のアセチレンガスに点火されると、バーナーによってガンダムは切断、ばらばらに解体されていった。火花が飛び散り、真っ赤に焼けた鉄片が落ちてくる。

 トンネル内にあるものといえば、岩盤と岩肌と湧水くらいなものである。まさかここで火事が起きるわけないだろう。誰もがそう思っていた。

 ところが、下に落ちた鉄片の熱によって周辺の水分はたちまち蒸発。油の染み込んだおがくずもすぐに乾き、白い蒸気が上げるとすぐ引火した。

 蒸気が黒煙に変わっていったことに、最初は誰も気付かなかった。解体作業の方に誰もが目を奪われていたのだ。

 そこからはあっという間だった。おがくずに引火した炎は、油だらけのガンダムを舐めるように包んでいったのだ(切断の際の火花が直接にガンダムに引火したとも言われている)。これが9時30分頃のこと。

「おい、これまずいぞ! 消火しろ消火!」

 作業員たちはようやく異変に気づく。しかし発見が遅れただけでも致命的なのに、その上備え付けの消火器は消火剤が出なかった。この消火器は加圧式で湿気に弱かったのである。この事故以降、こういう場所では特に消火器は畜圧式を使用すべしと言われるようになった。

 さあ、発見の遅れ、初期消火の失敗、それによって避難ももたついている。当研究室の読者であれば、これがいかに恐ろしい事態であるかはすぐ察しがつくであろう。

 トンネル内は黒煙で包まれ暗闇になった。作業員たちは命からがら、それぞれ群馬方面と新潟方面に分かれてトンネル内からの脱出を試みる。

 現場から最も近い出口は7キロ先の群馬方面のものである。だがそちらは風下だったため、煙は猛烈なスピードで作業員たちに襲いかかった。54人の作業員のうち46人はそちらに逃げたが、14人が煙と有毒ガスにまかれて死亡している。この14人の死者のうちの3人は、ガンダム解体作業に携わっていた者たちだった。

 また、解体作業をしていた11人のうちの残り8人は、風上の新潟方面へ逃げて事なきを得ている。こちらは現場からトンネル出口まで14キロもあったのだが、風上だった。

 さて。こうして火災が起きてもなお、トンネル関係者たちは事態を甘く見て、こっそり自分たちだけで解決してしまおうと考えた。大清水トンネルは世界有数の山岳トンネルということで、その出来栄えを世界から称賛されたばかりだったのだ。火災なんぞで評判を落とすなんて冗談じゃない、なんとか公にせずに済まそう――というわけだ。

「よし、じゃあ俺たちが様子を見に行ってきます!」

 というわけで、2人の作業員だかが空気呼吸器を装着してトンネルに入って行った。さあ、彼らの命運やいかに。

 シーン。

 まるでドラえもんの「ドロボウホイホイ」である。彼らは途中でボンベの空気を使い果たし、帰らぬ人となったのだ。

 こりゃいかん、公にせずに済ますとかいうレベルじゃない! というわけで、ここでようやく消防に連絡がなされた。

 さっそく工事関係者による対策本部が設置され、特別救助隊が編成。このメンバーには群馬県沼田市の沼田消防署員たちも含まれていた。この消防署には、当時としては画期的だったレスキュー専門の小隊もあったのだ。頼もしい限りである。

 さあ、では煙と有毒ガスで充満しているトンネルで、彼らはいかにして救助を行ったのだろうか。

 ところが、打つ手はもはやなかった(笑)。とにかくトンネルの状況があまりにひどく、いかなレスキュー専門部隊でも中に入れば二次災害は必至である。待つしかなった。

 もちろんその間、手をこまねいていたわけではない――と書ければいいのだが、本当に手をこまねいているしかなかったからなんとも笑えない。一度はちょこっと中に入り、例の後から入った2人のうちの1人を助け出した(後に病院で死亡)が、結局10時間もの間、それ以上のことは何もできなかった。

 煙が薄くなったのは夜明け頃である。

 それからさらに午前10時まで待って再び中に入り、もう1人の遺体も収容。それでもやはり、最初に遭難した14名の救助までは無理だった。

 言うまでもなく、トンネル内もめちゃくちゃである。火災の熱によって落盤は起きるわ、水は噴き出すわ、土砂で埋まるわで、せっかく掘ったのに散々である。おまけに天候も雪になった。

 ようやく本格的な救助活動が始まったのは、22日の21時30分のこと。消防隊、警察、建設会社社員の計140人の大捜索隊がぞろぞろとトンネル内に入っていった。

「ところでこのトンネル、ダイナマイトが950本あるんですよ。大丈夫ですかね?」

 この期に及んでそんなことを言い出す奴がいて、そういうことはもっと早く言えよって感じなのだが、幸いにして二次災害は起きずに済んだ。

 遺体は、23日の午前の段階までに全てが収容された。

 その後、補償などがどうなったのは不明である。だがとにかく、この大清水トンネルを今も上越新幹線が行ったり来たりしているのはご承知の通りである。今までこのトンネルを通過した人のうち、一体何割がこの事故のことを知っているのだろう。

 

   ☆

 

 ここからは、完全な余談である。

 筆者は本業の関係で、年配の人々と話をすることがよくある。そうした人たちの中には、高度経済成長期に関東圏へ出稼ぎに行き、建設現場や工場で働いていたという人も少なくない。

 その人たちと話していると、「もしかするとこの人が事故の犠牲になっていたかも知れないんだな」と思う。そして同時に、実際に事故で亡くなった人の中にも、郷里で待つ家族がいたのだろうなとも思ってしまうのである。そうなると、すべての事故がなんだか他人事ではないような気になる。

 当研究室で「あてにならない参考文献」としてケチばっかりつけている『なぜ、人のために命を賭けるのか』という書物があるが、これに印象深いフレーズがあった。「決まって、犠牲者は現場の弱者」というものである。

 それを読んだ時には、まったくその通りだとつい頷いてしまったものだ。事故災害の歴史は、犠牲になった弱者の歴史でもある。そうした名もない弱者の鎮魂も兼ねて、筆者はキーボードを叩く次第である。

 

【参考資料】
◇失敗百選
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年

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日本坂トンネル火災(1979年)

 乗用車による交通事故は、今我々がこうしている間にも、数秒に1件の割合で発生しているという。

 そんな数ある交通事故の中でも最大最悪級の規模を誇るものが、この日本坂トンネル火災である。

 この事故は、鉄道事故やビル火災に比べれば目を見張るような死者数では決してない。だがその被害の甚大さはもはや想像を絶するほどで、ほとんど事故そのものが社会問題であったかのような規模である。

 

   ☆

 

 時は1979年7月11日、夕方を過ぎた頃。

 静岡県・東名高速道路の日本坂トンネル内では、渋滞が発生していた。

 このトンネルは静岡市と焼津市に跨っており、焼津口の近くでトラック同士の小さな接触事故が発生していたのだ。それが原因となり、トンネル内では長蛇の渋滞となってしまったのである。

 もっともその接触事故自体は大したものではなかった。問題はこの後である。渋滞のさなか、トンネルの中で更なる追突事故が起きたのである。

 時刻は午後18時40分。場所は、出口の焼津口まであと400メートルという地点だった。トンネルを走行中していた一台のトラックが、前方の渋滞に気づき慌ててブレーキを踏んだのである。

 キキキキキッ、ピタリ。

 これは100メートル手前で無事に停止した。危機一髪である。

 ところがこの直後にケチがついた。更にこの後ろからやって来た大阪ナンバーのトラックは、停止が間に合わず思い切りゴツーン! と追突してしまったのだ。
 わわわわ、何やってんだバカヤロ~! せっかく間一髪で停止できたトラックも、それでズズズズッと前に押され結局渋滞の最後尾にぶつかってしまった。
 さあ、ここからが地獄である。
 更にまた一台、今度はサニーが走ってきたのだ。これは追突を免れず大阪ナンバーのトラックにドガチャーン! と衝突。しかも勢い余ってトラックの荷台の下に食い込む形になってしまった。
 そこへ次にやって来たのがセドリックである。これはサニーへの追突は回避し、その隣に並ぶ形で停止できた。ちょっと接触した程度で済んだという。
 ところが今度は立て続けに2台のトラックが突っ込んできた。グワシャーン! サニーはトラックとトラックの間に挟まれて大破し、セドリックも後部を押し潰されてしまった。
 かくして合計7台が巻き込まれる多重衝突事故の出来上がりである。これだけでも目を覆いたくなるような惨状だ。
 「衝突事故」が「火災事故」へと変貌するのはここからである。火を噴いたのはサニーで、どうもガソリンタンクが破損したらしい。事故車両の周辺はあっという間に炎と煙に包まれた。
 後続の車両の運転手たちは、車から降りて事故車両の乗員の救出を試みたという。だがこの時点では既に4人が即死していた。最初に追突した大阪ナンバーのトラックの運転手と、最後に追突したトラックの運転手と、それにサニーに乗っていた乗員2名の計4名である。
 またセドリックに乗っていた3名だが、これは火災直後までは生存していたようだ。だが火勢が強すぎて救出には間に合わず、結局最終的な死者は7名となっている。
 そう、もはや他人を救助している場合ではなかった。それ程凄まじい炎と煙だったのである。トンネル内に進入していた車両の運転手たちは、取るものも取りあえず逃げるしかなかった。
 さあ消火である。
 これは迅速に行われた。まず火災が発生した時点ですぐに公団管制室や消防署、管理事務所へ連絡が入っている。そしてトンネル近くの警報表示版に「進入禁止」の表示が出され、スプリンクラーも作動した。頼もしいものである。
 それもそのはずで、なんといっても当時の日本坂トンネルは公団をして「世界最高レベル」と言わしめるほどの防災レベルだったのである。抜かりはなかった。
 ……はずだった(笑)
 ところがせっかく作動したスプリンクラーは余りの猛火に歯が立たず、途中で水が切れてしまう。また排煙装置も想定外の量の煙にまるで効果なし。その上、他の消火設備も火炎のためにケーブルは断線するわヒューズは吹っ飛ぶわで、役立たずここに極まれりといった有様だった。大槻ケンヂならここでこう歌うかも知れない、「まるで、まるで高木ブーのようじゃないか!」

 おそらく、元々これらの消火設備は「トンネル内での車両火災」を想定したものだったのだろう。トンネルそのものが灼熱地獄になるような火災など誰も考えていなかったに違いない。

 そう、この時の日本坂トンネルはちょっとしたこの世の地獄だった。引火に次ぐ引火でトンネル内にあった173台もの車両が焼き尽くされ、しまいにはコンクリートの壁は破損して剥がれ落ち、鉄の支柱も完全に折れ曲がっていたという。

 内部設備に頼らない外部からの消火活動も、決して行われなかったわけではない。ただ2,045メートルに及ぶトンネルの大火災は、ポンプ車で外からちょっと水をかけたからどうなるというレベルでは最早なかった。何より危険である。自然鎮火を待つより他に手はなかった。
 火災そのものがようやく終息したのは事故発生から3日後である。
 しかしトンネルの中は結局1週間は高温のままだったし、人が入って仕上げの消火や後片付けを行うには酸素があまりにも不足していた。かと言って下手に酸素が入り込むとその辺の炎が再び燃え上がったりすることもあり危険極まりない。全てが難航した。

 流通の大動脈でもある東名高速道路でこんな事態が生じたのである。交通網は乱れに乱れた。

 火災の影響をあまり受けずに済んだ上り線は、比較的早く復旧したようである。
 また下り線の復旧作業のためにも、それは必要なことだった。だが上り下りの対面交通という形にせざるを得なかったため、下り線が正式に復旧するまではやはり渋滞が絶えなかったという。

 この不通は物流にも大きな影響を及ぼし、復旧するまでの間に国鉄貨物の売り上げが大幅にアップしたとかなんとかいう話もある。結局、迂回や代替輸送による社会全体の被害総額は60億円にも上ったという。

 

   ☆

 

 日本坂トンネルでの火災は、何故ここまで被害が拡大したのだろう?

 まあ大まかな答えは明らかである。最初に追突した大型トラックの運転手の前方不注意と、それにトンネル内の消火設備の不備が大きな原因だろう。

 ただもう一つ付け加えるならば、当時の日本坂トンネルの入口には「警報表示板」がなかったということも挙げられる。

 あれ? さっき、火災の直後には警報表示版に火災の表示が出たって書かなかったっけ? 
 ――その通りである。しかしこの表示板があったのは、日本坂トンネルのちょっと手前にある「小坂トンネル」の方だった。

 この小坂トンネルに入り、通り抜けてから、さらに日本坂トンネルの入口に達するまでおよそ500メートルの中途半端な距離があったのである。これは高速道路の走行距離としては長いほうではなく、大して離れていない複数のトンネルにいちいち警報表示版をつける必要もあるまい、というのが当時の道路公団の考え方だったようだ。
 つまりその警報表示版は、小坂トンネルと日本坂トンネルの2つのトンネルの分を兼ねていたのである。

 ゆえに、日本坂トンネルで火災が起きてから小坂トンネルに進入した車両は、火災のことなど全く知らずに日本坂トンネルへ入っていったことになる。

 だから被害が拡大したのである。警報表示版に火災の表示が出たにもかかわらず、なおもトンネル内に80台もの乗用車が進入し、そして引火の火種が増えることになってしまった。
 またドライバーたちにも問題はあった。小坂トンネルの表示板に「入ってくんな」と表示されているにも関わらず、前の車両は進入していったんだし大丈夫だろう、警報表示板みんなで無視すりゃ怖くない……というノリで突入していった者もいたのである。
 もっとも高速道路で安易に停車すること自体、大変な危険が伴う。ここで停まるか停まらないか、という一瞬の判断を迫られて、仕方なく「流れ」でトンネルに進入してしまいマイカーを焼失してしまったドライバーもきっと多かったことだろう。

 さてこの火災では、ホテル火災やデパート火災のように、特定の被害者やその遺族へ補償が行われたという話はあまりない。ただ、流通にまつわる補償の問題で道路公団が支払う分があったとかなかったとかいう話をネット上で目にした程度だ。

 その後、全国の高速道路で防災設備が徹底的に整備されるようになったのは言うまでもない。

 それにしても、である。例えば鉄道事故ならば、大事故がきっかけになって事故防止の仕組みが整備されることは多い。非常用ドアコックやATSの歴史などは、そのまま事故の歴史ですらある。
 だが道路での交通事故は発生の頻度も高く、全てが大々的に報じされる訳でもないので注目されにくく、どちらかというと問題にもなりにくい。よって、ひとつひとつの防災設備の裏にどんな歴史があるのかを知るのは難しい。
 だが、この日本坂トンネル火災だけは稀有な例外である。この事故は日本の高速道路の運営手法が見直しを迫られる強烈なきっかけになった。その意味ではこの事故、単なる「事故」という枠組みを越えた歴史的「事件」だったと言えるだろう。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇JST失敗知識データベース
 ◇杉山孝治『災害・事故を読む―その後損保は何をしたか』文芸社

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川治プリンスホテル火災(1980年)

 川治プリンスホテル火災は、戦後の火災による大量死としては上から4位の惨事である。ついでに言えば商業施設の火災としては3位、宿泊施設の火災としては1位だ。 
 時は1980年11月20日、15時12分頃のことである。

 栃木県塩谷郡藤原町川治(現在の日光市)にあった川治プリンスホテルで、火災報知機が鳴動したのだ。

 あれ、火事じゃないのか? 逃げないとまずいよ。

 とまあ、誰もがそう思ったことだろう。

 ところがこの直後、ホテルの従業員が特に状況の確認もせずに「これはテストなのでご安心下さい」と館内放送を流してしまう。実はこの1時間前には本当に火災報知機のテストが行われていたそうで、それで勘違いが生じたのだった。

 なんだテストかよ、やれやれ人騒がせな……。ところがこれは本物の火事だった。1階の露天風呂で解体工事が行われており、工事のために使われていたガスバーナーが引火していたのである。作業員が休憩をしている間に燃え広がったのだ。

 とにかく1回目の非常ベルは、従業員が嘘の館内放送を流したことでほとんど黙殺された。

 そして悪いことに、この日川治プリンスホテルに滞在していた宿泊客は、その大半が高齢者だった。「高南長寿会」と「成一長寿会」の2つの老人クラブが紅葉見物に訪れていたのである。

 その平均年齢は72歳。今で言うところの「災害弱者」に該当する人々である。その彼らの足元で火災が起こり、嘘の館内放送が流されたのだ。もはや大惨事のお膳立ては万端、という他はない。

 お客の中には、まだ宴会までは時間があるからと、客室で茶を飲んで一服している者もいたという。

「なあ、火災報知機が鳴ってるけど大丈夫かな」
「大丈夫だよテストだって言ってたじゃん」
「でも様子が変だぞ。ほら窓の外で煙が上がってる」
「なにビクビクしてるのさ、ありゃ焚き火だよ」

 ちなみに結果だけを言うと、1回目の非常ベルを不審に思って避難したグループは全員が助かっている。

 そして15時18分、またしても火災警報のベルが鳴った。

 さすがにこりゃ様子がおかしい。そこでようやく従業員が大浴場へ見に行くと、既に炎と煙で手の付けようのない有様だった。

 そしてここに至り、ようやくお客たちも不審さを募らせ始めていた。客室から見える、窓の外の煙がどんどん濃くなってきていたのだ。

 いかんこりゃ焚き火じゃない、モノホンの火事だ!

 さあ避難の開始である。この時、従業員による火事ぶれや避難誘導がどのように行われたのかは、正直なところ資料の内容が錯綜していてよく分からない。ただ、出火場所の大浴場周辺にいた老人たちがとっさの案内を受けた程度で、全体として適切さを欠いた避難誘導だったことは間違いないようだ。

 状況は最悪だった。従業員の交代時間だったため、ホテル内もすっかり手薄になっていたのだ。

 炎と煙は、みるみるうちに客室へ迫っていった。

 老人たちが避難を開始した時、どうも館内では階下に下りることがほとんど不可能に近かったようだ。なにせこのホテル、1階へ下りるためにはいったん新館へ行かなければいけないのに、肝心の新館へ繋がる廊下が1本しかない上にそれはあっという間に煙の通路になってしまったのだ。

 3階と4階にいたおじいちゃん、おばあちゃんは煙と炎に追い詰められたのである。この時の様子について、生存者の一人はこう語っている。

「風呂から上がってお茶を飲んでいたら煙たくなってきた。初めは風呂場の煙と思ったが、廊下から、出て下さい、という大きな声がした。同室に足の弱いおばあさんがいた。間もなく電気が消え、助けてえ、という悲鳴が全館に響いた」

 使える避難経路は、あとは窓だけだった。

 不幸中の幸いで、3階のいくつかの部屋の窓の下には2階屋根があり、そこへ降りたことで一命を取りとめた人が多くいた。窓の下にいた人々が、工事用シートと布団を並べてくれたのも良かった。

 大変だったのは4階の人々だ。さすがにこれは2階屋根へ飛び降りても無傷とはいかず、それで助かった者も全員が病院送りになっている。だがやはり救助された者はそれだけマシだとここでは書いておこう、この4階では他にも多くの客が逃げ遅れて死亡しているのだ。

 消火活動も難航した。通報によって消防団が駆け付けたものの水利が悪く、そうこうしている内にホテルは完全に焼け落ちたのである。鉄骨造りだった4階建ての本館も、木造の2階建て新館も、合わせて3.582平方メートルがお釈迦になった。

 夜になると、栃木県警本部は今市署に「川治プリンスホテルの多数死傷者出火事件特捜本部」を設置。消防団の協力を得て犠牲者の捜索活動を開始した。

 犠牲者の数は、事故当日の夜には10数人程度だった。だが翌日の昼になるとこれが20人超に膨れ上がり、最終的には宿泊客40名、従業員3名、東都観光のバスガイド1名、旅行会社の添乗員1名の合計45名の死者が確認された。負傷者も22名に上った。

 当時の川治プリンスホテルには客と従業員合わせて132人がいたというから、3分の1が犠牲になったことになる。

 ちなみにバスガイドと添乗員が死亡しているのは、これは取り残されたお客を助けようとして殉職したものである。特にバスガイドは、当時のワイドショーの情報の又聞きによると30~40代のベテランの女性だったらしく、最後に目撃されたのは階段を上っていく後姿だったという。

 断言するが、このガイドさんと添乗員の魂は確実に天国へ昇っていったことだろう。

 さて火災後、このホテルは消防査察で「火災報知機やスプリンクラーが少ない」「定期的な防災訓練の結果を報告していない」など8項目に渡って問題点を指摘されていたことが明らかになった。それでも経営側は無視して営業を続けていたのだ。

 結果、社長夫婦と、1階の工事の担当者が業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴された。

 ちなみにプリンスホテルの社長は出火時には不在で、火災の翌朝に現場に現れると放心したように焼け跡を見上げていたという。

「スプリンクラーもなかったんですか?」
「防火責任者もいなかったんですか?」
相次ぐ報道陣の質問には、
「よく分からない。防火責任者は今はいなかった…」
と肩を落として答えるばかりだったとか。

 そして最終的には、この社長の妻が禁固の実刑判決を受けた。彼女はプリンスホテルの実質上の経営者で、専務と女将を兼務していたという。彼女以外の2人も禁固刑の判決が下ったが、これはいずれも執行猶予がついている。

 もともと、川治プリンスホテルは経営的にはあまり芳しくなかったらしい。それで社長はホテル業を辞めることも考えていたのだが、彼の妻はホテル経営を諦めたくない一心で、半ば強引に実質的な管理者として経営規模を拡大させたのだった。その結果、防災対策がおろそかになったのである。

 だがとにかく被害者や遺族への補償は迅速に進められ、示談は比較的早く成立した。

 当初、遺族から石をぶつけられたりもしたらしい被告人夫婦だが、裁判の記録によると彼らは総額8億円余りを被害者全員に対して支払い、また毎年死者の供養にも出向いていた。そのような誠意が身を結んでか、控訴審に至った際には、遺族らから「被告人に対しては寛大な処分を希望したい」という旨の上申書が提出されたという。

 個人的に、筆者はこの最後の上申書云々のエピソードを発見した時にはちょっと感動した。「そうかこの被告人たちは許されたんだな」という感慨が湧いたのである。ともすればやり切れなさばかりが残りがちな事故災害の記述における、ささやかな気持ちの落ち着けどころだった。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇防災システム研究所ホームページ
 ◇サンコー防災株式会社ホームページ
 ◇消防防災博物館「特異火災事例」
 ◇朝日新聞
 ◇判例時報1233号

 

 ※ この文章は、一度ブログにて「下書き」という形で掲載・公開しております。その際に頂いたコメントの内容も、今回清書するにあたって参考にさせて頂きました。

 

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ホテルニュージャパン火災(1982年)

 1982(昭和57)年2月8日、午前3時39分。その火災の第一報は、タクシー運転手からもたらされた。ホテルニュージャパンが燃えているというのだ。

 はいはい、それじゃ~出動しましょう。……などというお気楽なノリでは決してなかったと思うが、しかし、消防隊員の誰もが思いも寄らなかったに違いない。この火災が、まさか後世まで語り草になるほどの「伝説の火災」になろうとは――。

 1980年代。消防法も改正され、かつてろくでもない旅館火災やビル火災が相次いだ10年前から見れば、日本の建築物は遥かに安全になっていた。まして、ホテルニュージャパンは東京都の一等地・永田町に建つ超豪華ホテルである。一昔前のような大惨事など起こるはずもない。

 ところが、である。現場に接近するに従い、隊員たちの悪い予感は募った。国会議事堂の向こうの空が真っ赤に染まっている。

 おいおい、何年か消防やってるけどこんな光景見たことないぞ――。

 午前3時44分。現場の前に立った隊員たちはたちまち色を失った。

 大火事である。ホテルニュージャパンは10階建てで、1階から8階まではとりあえず無事だが、9階では客室の窓から火柱が立ち上っている。そのため10階も炎に炙られていた。

 このままでは下階に燃え広がるのも時間の問題だった。なにせ「火柱」が立ち上っているのだ。普通に燃えているのとはワケが違う。

 この火災は異常だった。

 普通、こういう建物は燃えない。内部で可燃物に火がつくことがあっても、木造のボロ屋でもない限り「建物そのもの」に火がつくはずがないのだ。それなのに目の前のホテルは、建物そのものが燃えているように見えた。

 また、法改正によってスプリンクラーの設置も義務付けられている。炎さえ消えれば煙も出ないわけで、だからこの時代の高層建築物は安全なはずだったのだ。それなのに、スプリンクラーなどまるで最初からなかったかのように火炎は燃え盛っている。

 一体どういうことだ。今この時代に、この規模の建物でこれ程の規模の火災が起きること自体があり得ない――。

 さらにショッキングなことが起きた。呆然としている消防隊の目の前で、9階の宿泊客が飛び降りて即死したのだ。それはほとんどの隊員にとって初めて目にする光景だったという。

 もう一刻の猶予もない。彼らは建物に飛び込んだ。

 ホテルの中には守衛がおり、なにやら電話をかけている。隊長はさっそく声をかけた。

 消防隊長「おい、すぐに9階に案内しろ!」

 守衛さん「待って下さい、いま社長と電話中でして。勝手なことをすると叱られちゃうんですよ」

 これで隊長はブチ切れた。思わず守衛の胸倉を掴み、「助けを求めてる人がいるんだ!」。

 こんな調子で時間を食いながらも、隊員たちは非常階段を上り始めた。目指すは9階である。

 だが、この非常階段にはとっくに煙が回っていた。しかも9階の廊下に通じる扉は熱で歪んで開かない。屋内での救助活動は無理だ。隊員たちは屋上への移動を余儀なくされた。

 火の回り方といい、さっきの守衛の対応といい、あり得ないことばかりだ。一体このホテルはどうなっているんだ? そう思った隊員も多かったのではないだろうか。

 結論を言えば、要するにこのホテルの防災設備ならびに防災体制は不備だらけだったのである。責任者には防災意識などかけらもなく、いったん火がつけば既に大惨事が予定されている。ホテルニュージャパンとはそういう建物だったのだ。

 東京の一等地のど真ん中に屹立する豪華ホテルが、どうしてそんなことになってしまったのか? その理由を知るには、歴史を振り返ってみる必要がある。

 

   ☆

 

 かつて、第一次ホテルブームというものがあった。

 東京オリンピック開催に伴う旅行者の増加を見越して、都内に高級ホテルが乱立したのである(ちなみに第二次ホテルブームは、後年の大阪万国博覧会の前後の時期)。好景気の波で、これらのホテルは「金のなる木」とまで呼ばれた程だった。

 いわゆる「ユニットバス方式」というものが生まれたのもこの頃だ。筆者も知らなかったのだが、あれは設備の組み立てを簡素化すべく日本人が考え出した方式らしい。

 そんな時代の空気の中、ホテルニュージャパンは開業した。1960年のことである。

 政治家の藤山愛一郎が率いる藤山コンツェルンが設立母体となり、建築や設計は一流の設計士やデザイナーが手がけたという。

 この辺の記録を読んでいると、ホテルニュージャパンはいわゆる「豪華ホテル」と呼ばれるものの先駆け的な存在だったらしいことが分かる。実際、ホテルオークラやニューオータニといった名のあるホテルが建てられたのもこの頃だ。

 しかしニュージャパンは、藤山コンツェルンの衰退や他の豪華ホテルとの競争が原因となって経営難に陥っていく。

 そこで横井秀樹の登場である。

 白木屋乗っ取り騒動でも名前が出てきた、あの「買収王」だ。

 横井はこの斜陽ホテルを買収し、自ら社長に就任。そして、徹底的に合理化を進めるという独自の経営路線を突き進んでいった。そして彼のやり方が功を奏し、ニュージャパンは一流ホテルとして息を吹き返した。

 彼の合理化戦略とは、具体的にどんなものだったのだろう? 以下でその一部をご紹介しよう。これが実に斬新なのだ。

 

1・スプリンクラーをつけない。

2・消防庁から警告を受けても絶対にスプリンクラーをつけない。

3・何度も警告を受けたら、スプリンクラーのニセモノを設置してごまかす。

4・建築資材は安いものを使う。

5・ブロックも空洞つきの安いものを使う。

6・火災時に空洞のせいで炎が伝播しやすくなるとしても、空洞つきの安いものを使う。

7・加湿器は設置しない。

8・空気が乾燥するけど、絶対に加湿器は設置しない。

9・宿直の従業員を減らす。

10・危機管理とかは気にしない。宿直を減らす。減らすったら減らす。

 

 もちろん皮肉である。

 個人的に思い出すのが、映画『バトル・ロワイアル』に出ていたビートたけしの台詞である。「はいダメ。ダメー。皆さん、このホテルはダメになってしまいました!」というわけだ。

 さらに構造について言えば、内装材に可燃物が用いられていたこと、防火区画の不完全さ、パイプシャフトやダクトの貫通部分も埋め戻しの不完全さ(これにより延焼と煙の伝播が早まった)なども、後々被害を大きくする要因になった。

 横井秀樹によって、表向きは一流ホテルとして再生したホテルニュージャパン。だがそれは、裏から見れば超一流の違法建造ホテルでもあったのだ。

 全く、とんだ疫病神がいたもんだ――と言いたくもなるが、しかし横井秀樹を疫病神呼ばわりできるのは、現代の我々がこのホテルの末路を知っているからである。火災さえなければ、案外普通に経営されていたかも知れない。そして彼が伝説的存在になることもなかったかも知れない。後述するが、横井秀樹という人は運も悪かったと筆者は思う。

 火災の話に戻ろう。

 

   ☆

 

 消防が到着するよりも早く、火災の発生はホテル内でも把握されていた。

 ただしその発覚はあくまでも偶然によるものだった。火元である9階の938号室の付近を、たまたまフロント係が通りかかったのだ。すると廊下に白煙が淀んでいたのである。

 やばい、これって火事じゃないのか。彼はフロントへ戻り同僚に言った。

「9階が火事みたいなんだよ。俺はあの部屋の客の名前を確認するから、お前は消火しといてくれ」

 やや理解に苦しむ行動である。彼は初期消火を人任せにして、まず宿泊者の氏名を調べた。VIP客でも宿泊していて何か間違いがあったら大変だとでも考えたのだろうか。

 当該客室の宿泊者は、飛び込みのイギリス人だった。

 フロント係は再び9階へ。そこで、先に来ていた同僚と一緒に消火を試みた。だが失敗。

 やばいぞやばい、消えないぞ。他の宿泊客にも知らせなくちゃ――。彼はまたフロントへ戻った。何回行き来すれば気が済むのやら。そして9階の客室のひとつひとつに電話をかけようとしたのだが、手が震えてダイヤルが回せなかった。

 そこで彼は最後の手段(!)として、防災放送盤で火災を知らせようとした。ところが放送盤の操作経験はない、説明書は見当たらない、やっと操作できたと思ったら配線が焼けていて既に使い物にならないと、大事故にありがちなないない尽くしだった。

 ちなみに火災報知器はというと、これはスイッチが最初から切られていた。

 資料によると、この報知器はホテル側が勝手に改造していたらしい。フロントで操作することで、各階にベルを鳴らす仕組みになっていたそうだ。結局使われなかったので、改造も無意味だったわけだが(※)。

 ごろうじろ、こうしてホテル・ハリボテ・ニュージャパンは焼け落ちた。東京都心の真っ只中の一等地で、超豪華(とされる)ホテルが9時間も燃えに燃えまくったあげく33名が死亡、34名が負傷したのである。

 炎は、最終的に7階から10階までの範囲を舐め尽くしたという。

 消火に際しては、東京消防庁も必死だった。火災の規模が想像以上だった上に、大勢の宿泊客が取り残されていたのだ。部隊はどんどん増強された。

 最終的には、23区全域の消防車128台を駆り出す「火災第4出場」、基本運用規程外の応援部隊を出場させる「増強特命出場」、多数の負傷者に対応するための「救急特別第2出場」という空前の組み合わせの指令が発動。さらに、なんと消防総監が直々に現場最高指揮を執っている。大火か、もしくは大地震でも起きた時のような物凄い態勢である。

 その甲斐あってか、この火災は、史上例を見ないほど救助率が高いという。

 さて鎮火した後は、もちろん「責任者呼んで来い!」である。

 だが呼ぶまでもなかった。横井秀樹社長は鎮火直後の現場にノコノコ顔を出した。そして拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただき有難うございます」という伝説のご挨拶をぶちかました。

 空気を読まないにも程がある。この人の心臓はどんだけ毛深かったのだろう。

 この火災にまつわる「横井秀樹伝説」は、他にも色々ある。当時のことをテレビなどでリアルタイムで見聞きした人なら、思い出すことも多いのではないか。

 たとえば、火災の知らせを受けた時、真っ先に「ロビーの家具の運び出せ」と指示したことが後に発覚している。また記者会見では「悪いのは寝煙草をした客である」とか「賠償金は手形で支払う」とか、厚顔無恥を絵に描いたような発言を繰り返した。

 結局この横井社長は裁判にかけられ、高齢者であったにも関わらず禁固3年の実刑を科された。

 また防火管理者は禁固1年6ヶ月、執行猶予5年の判決を受けた。消防計画の作成を怠り、訓練を実施せず、防災設備を不備のままにしておいた責任は明らかだった。

 

(※ただ、この辺りの、火災発見から通報までの経緯は資料により食い違いがある。筆者は近代消防ブックレット『火災教訓が風化している!①』を参考にした)

 

   ☆

 

 さて、少し冷静に考えてみると、横井秀樹という人はこの火災については不運だったと思う。事故後30年以上が経過して今改めて見てみると、筆者の目にはそのように映る。

 横井は商売上手ではあった。だがその手腕は山師的で、決して空気を読むのが上手な営業マンタイプではなかったと思う。そして、空気が読めないという致命的な欠点は、テレビカメラの前で遺憾なく発揮されたのだ。

 だが言うまでもなく、空気が読める読めないは火災の責任とは関係ない。

 彼があそこまで叩かれたのは、要するにマスコミにとって「叩きやすい」相手だったからだろう。ちょっと面白い発言が餌になり、食いついたマスコミは法的責任と道義的責任をごっちゃにした形で責め立てたのだ(もちろん、視聴者もそれを求めていたわけだが)。

 確かに、「乗っ取り屋」としての横井には悪辣な面もあったのかも知れない。例えば、火災時に救助活動に当たった特別救助隊の隊長に「口止め料」として贈賄を送ろうとし、逆に追い返されたなどというエピソードもあるし、特に友達になりたいとは思えないタイプである。

 だが、それはそれ、これはこれである。悪い奴だから叩いてやれ、というのは責任の追及ではなくただのバッシングだ。責任者を過剰に責めるのも、またついでに言えば、その裏返しで被害者をやたらと美化したりするのも、決してまともなことではない。

 横井秀樹という人は、そういう意味ではスケープゴートにされてしまった部分があったと思う。悲惨な火災事故のやるせなさを中和するための生贄だったのだ。

 ホテルニュージャパンは焼け跡のままで長年放置されていたが、火災後14年経った1996年にようやく取り壊された。

 それと、これは全くの余談だが、かつてニュージャパンの地下に存在していたナイトクラブでは1963(昭和38)年、力道山の死亡の原因になった傷害事件も発生している。このクラブはホテルとは完全に別物で、1989(昭和64・平成元)年までは営業を続けていたそうだ。どうも縁起の良くない土地である。

 それからも紆余曲折を経て、この敷地には新しいビルが建てられた。外資系のプルデンシャル生命が所有するプルデンシャルタワーがそれである。

 筆者はこのプルデンシャルタワーの近くへ行ったことがある。その際、タクシーの運ちゃんに「プルデンシャルタワーへ」と言ってもさっぱり通じなかったのだが、「ホテルニュージャパンがあった場所です」と言ったら、ああはいはいと即座に理解してくれた。数十年経った今でも、あの火災は多くの人の記憶に残っているらしい。

 かつてのホテルニュージャパンの写真は、今でもネット上で見ることができる。しかしその面影は、現場にはもう残っていない。

 横井秀樹もと社長は、98年に死去した。

 

【参考資料】

◆ウィキペディア

消防防災博物館―特異火災事例

『火災と避難』

◆森本宏『火災教訓が風化している!①』近代消防ブックレット

◆広瀬 弘忠『なぜ人は逃げおくれるのか』光文社新書

◆DVD『プロジェクトX 挑戦者たち 炎上 男たちは飛び込んだ~ホテルニュージャパン・伝説の消防士たち~』NHKエンタープライズ2011年

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