日暮里大火(1963年)
戦後の「大火」には数あれど、この日暮里大火はその中でも妙に知名度が高い。
新潟、函館、山形などでも、火災史に名を残すような規模の大火は発生している。それらと並べると日暮里大火は比較的被害規模も小さいのだが、とにかく有名なのである。何故か?
思うに、それが発生した昭和38年代という年代そのものが独特だからなのだろう。高度成長期真っ只中、即ち「三丁目の夕日」の時代である。幸いにして死者が出なかったこともあり、この火災は悲惨な災害としてよりも、安心して語れるひとつの時代のワンシーンとして記録に残されることになったのだ。
4月2日、午後3時頃のことである。日暮里町(現在の荒川区東日暮里)のさる工場にて、一人の従業員が喫煙していたのだが、彼がマッチの燃えさしを何気なく捨てたのだった。
彼が捨てた先は、水がなみなみと張られたバケツである。……と、てっきりそう思っていたのだが、そこに満たされていたのは水どころかシンナーだったからさあ大変。爆発するように火炎が上がった。
ああ、やっちまったよ。そりゃ火事にもなるわ。
文字通りマッチ一本大火の元、である。
しかも運の悪いことに、この粗忽者の従業員がシンナーにマッチを投げ込んだこの日は火災警報が発令されていた。北の風10から15メートル、湿度もたったの17パーセントである。乾き切った春風に煽られて飛び火を繰り返し、30棟以上の建物と5000平方メートルを越える面積が7時間で消し炭と化した。
かくして、日暮里大火は、戦後に東京で起きた火災としては最大規模のものとして語り継がれることになったのである。――ということはこの災害は、東京ではかの東京大空襲に次ぐ火災だということでもある。そう考えるとなんか凄い。
もともと日暮里という地域は閑散とした場所だったのだが、昭和になってから繊維業者達の移住によって工業地域として発展したという。
移住者の流入によって発展する町というのは、どうしても「たまり場」のようになる部分が出て来て都市化には至りにくい。そう考えると日暮里という地域は、どちらかと言えば周縁に属する地域と言えそうである。この辺りの事情は、近隣の三河島地区も似通っている部分がある。
関東大震災や日暮里大火は、そんな日暮里地区の区画整理や道路整備を推し進めるひとつのきっかけとなったのだった。
ところで、日暮里大火が発生した昭和38年といえば吉展ちゃん誘拐事件が発生している。有名な逸話だが、この誘拐事件で犯人と目された男が「俺は山手から日暮里大火を見た」と取調室で口を滑らせてしまい、その日東京にいなかったというアリバイが一気に瓦解してしまうという出来事があった。
また筆者の父親も、当時荒川区に住んでいた。
火災現場から15分程の場所から火事の様子を見ていたそうで、凄まじい黒煙だったという。記録を調べてみると、日暮里大火ではラバー工場のゴムタイヤ500トンが焼けたらしく、それで遠くからも見えたのかも知れない。吉展ちゃん事件の犯人と自分の父が、同日に同じものを見ていたと思うとなかなか感慨深い。
さらに、である。昭和38年という年号で見れば、この年は鶴見事故や三井三池炭鉱の事故も起きているのである。その上前年にはかの伝説の三河島事故も発生しており、空間的にも時間的にも、戦後を代表する大事故がここに集中していることになる。
確かにこれは独特の時代だったのだなと思う。大体、吉展ちゃん事件の先述の逸話にしても「出来すぎ」である。釈放寸前の容疑者が日暮里大火のことを口にしてしまったせいでアリバイが崩れるなんて、余りにドラマチックな昭和の香りに満ち満ちた演出ではないか。何か人智を超えた大いなる演出者の見えざる手を感じる……のは筆者だけだろうか。
【参考資料】
◇ウィキペディア他
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金井ビル火災(1966年)
実は、戦後20年ほどの間は、消防士の社会的地位はさほど高くなかった。むしろ低く見られていたと言っても過言ではない。
経済成長期に突入しつつあった時代である。そうなるのも無理はなかった。消防士は、いつ起きるかも分からない災害のために存在する。そんなもののために投資なんてしていられるかい、というわけだ。規模の小さな地方の財政ならばなおさらである。
そんな状況が転換するきっかけになったのが今回ご紹介する金井ビル火災である。この火災における息を呑む救出劇が、その後の防災行政に大きな影響を与えたのだ。
☆
火災が起きたのは1966(昭和41)年1月9日、日付が変わったばかりの0時58分のこと。
神奈川県川崎市川崎区の駅前に、金井ビルはあった(今もあるらしい)。きらびやかな雑居ビルだったという。コンクリ造りで壁面はガラス張り、周囲のネオンを反射して、高度成長期の景気の良さを象徴しているかのようだった、そうな(参考資料では、この辺りの描写が妙に情緒的である)。
だがこのビルは、後年発生した千日デパートや太洋デパート火災などをきっかけに、危険性が指摘されることになるタイプの典型でもあった。そういう意味でも時代の象徴だった。
建物の構造をざっと述べよう。中は地下1階~地上6階建ての7フロア。地下は喫茶店と倉庫、1階がパチンコ店、2階が遊技場(ゲームセンターのことか?)、3階と4階はキャバレー。5階と6階は事務所や住宅が入っており、屋上にはプレハブの住居が設置されていた。
火災が発生した当時は、ビル内の全店舗が営業を終えており、建物内にお客はいなかった。
だが、従業員はまだいた。4階のキャバレーの一室を使って、14名が新年会を催していたのだ。他にも6階に11名の従業員がいた。
火災はそんな中で起きた。原因ははっきりしていないようだが、火元である3階の木製ロッカー内で、煙草の火の不始末があったのではないかと推測されている。
この火事の煙が、吹き抜けの空間を通ってまず4階へと上って行った。
「あれ、これって新年会の余興? ドッキリ?」
ってそんなわけねえ。わあ大変だ火事だ! 4階の新年会メンバーは慌てて火元に駆け付けて初期消火を行った。だがこれがちっとも効果がない。命あってのものだねとばかりにみんな一目散に逃げ出した。火事の呼びかけや通報は行われなかった。
さてこの時、ビルにいたのは従業員だけではなかった。5階にビル所有者の家族が5名おり、屋上のプレハブには4名の親戚がいた。
当時、5階にいたオーナーの長男は、煙に気づいてすぐ4階へ様子を見に行っている。すると、新年会をやっていたはずの従業員たちが逃げ惑っていた。
「おいおいどうしたんだ。これって新年会の余興? なんかのゲーム?」
だからそんなわけないっての。モノホンの火事だと分かり、彼は急いで身内の人々へ避難を呼びかけた。
このあたりの行動は「無我夢中」だったらしい。彼は、気がつくと逃げ遅れの親戚と一緒に屋上にいた。女性4名を含む7名である。
取り残された人々は、他にもいた。先述した6階の従業員11名と、それにオーナーの妻。この人は、火事を発見したオーナーの長男の母親でもある(119番通報はこの人が行った)。さらにその7歳の息子も一緒にいた。ちなみにビルのオーナー本人は、当夜は不在だった。合計20名。
金井ビルは灼熱地獄と化していた。火炎はみるみるうちに拡大し、破れたガラス窓からは炎と煙が噴出。建物内は濃煙と熱気で満たされた。
程なく、川崎消防署の署員たちが到着。しかしここで混乱が生じた。「中に誰か残っているか?」という署員の問いに、先に避難したキャバレーの従業員はこう答えたのだ。
「大丈夫っす、みんな逃げました!」
言葉ってのは恐ろしいものである。この従業員の言う「みんな」とは「新年会をしていた仲間たち」のことだった。消防士はこれを「ビル内の全ての人」と勘違いし、救助よりも消火を優先したのだ。
だが間もなく、7人の人が屋上に取り残されているの野次馬が発見する。おいおい逃げ遅れおるやんけ。話が違うぞ。現場は騒然とした。
「梯子車を伸ばせ!」
「駄目っす、届きません」
「じゃあ突入だ!」
「無理っす、炎と煙がやばいです」
おいおい、どうすんだよ。
「よし、確かナイロンの紐があったはずだ。それで隣のビルから救出しよう!」
はあ? ナイロンロープ?
そう。
聞いて驚け、ナイロンロープなのである。
マジかよ、いかにも熱に弱そうじゃないか。もっとまともな救助道具はなかったの? という声が聞こえてきそうだが、本当になかったのだ。
この時代、消防の装備は驚くほどちゃちだった。先述の通り梯子車は届かねえ、ガスマスクもおもちゃみたいなもの、呼吸保護器の数も申し訳程度。消火や救助の器具は鳶口やノコギリという有様で、エンジンカッターなにそれ食べられるの? という状況だったのだ。
人は痛い目に遭わないと気付かないもの。高度成長期のこの時代、防災への投資は全くアウトオブ眼中(死語)だったのである。
くだんのナイロンロープにしても、この火災が起きるわずか3か月前に消防署へ配られたばかり。しかもそれは、もともと火災ではなく水難事故の救助用だった。
さあ、脱出ゲームDEROも真っ青の救出劇の始まりである。命綱もない深夜の暗闇で、逃げ遅れの人々は決死の空中滑降をする羽目になった。ナイロンロープを伝って隣のビルへ飛び移るのだ。
地上23メートル。中には幼い子供もいたが、それでも奇蹟的に屋上の全員が救助された。なんというか本当に、レスキュー911とかプロジェクトXの世界である。
しかしビル内に取り残されていた13人のうち、1人は自力で脱出したものの、結局12人が死亡した。死因は全員が一酸化炭素中毒で、中には最初に通報したビルオーナーの妻とその息子も含まれていた。
川崎市消防局に、人命救助専門の「消防特別救助隊」が編成されたのはこの火災の直後である。さらに、急増する高層ビル火災に対応すべく、さらに長大な梯子車も配備された。
しかしその後の火災の歴史を見ると、消防の装備をいくら充実させても結局は付け焼刃だった、と言わざるを得ない(念のため言っておくが、無駄だったという意味ではない)。激増する高層ビル火災と、歯止めが利かない死亡者数の増加に最終的にストップをかけたのは、純粋な法的強制力だった。
その決定的な転換点になったのが千日デパート火災と大洋デパート火災である。金井ビル火災は、この「法と火災の戦い」の前哨戦だったと言えるだろう。
【参考資料】
◇ウィキペディア
◇特異火災事例
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年
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菊富士ホテル火災(1966年)
1966(昭和41)年3月11日、夜明け前の午前午前3時30~40分頃のことである。
群馬県利根郡、水上温泉「菊富士ホテル」の従業員宿舎に、一人の男が駆け込んできた。ホテル新館の控え室で寝泊りしているはずの夜間警備員だった。
「大変だ、ホテルが火事になった!」
なんだと、一大事だ。叩き起こされた従業員たちは、宿舎からそう遠くない新館へ向かった。だがこの時、建物の玄関ロビーはすでに火の海。中に入るのは不可能だった。
彼らは、すぐに近隣の旅館へ火災発生を知らせて回った。通報は誰も行わなかったという。火災を知らされた釣堀の店員が、ようやく加入電話を使って役場へ連絡したのが3時58分のこと。この時点で、火災発生から少なくとも18分程度は経っていたと考えられる。
火炎は、みるみるうちに菊富士ホテル新館を呑み込んでいった――。
☆
菊富士ホテルは、国際観光旅館としてランキング入りを果たすほどの一流ホテルだった。
規模も大きかった。木造3階建ての「渓流閣」、4階建ての「秀嶺閣」、地下1~地上3階建ての新館、木造の離れ2棟、大浴場などで構成されていた。
火災が起きたのは新館である。深夜に仮眠していた警備員が、灯油ストーヴを倒してしまったらしい。目が覚めた時は、辺り一面が火の海だったという。
もともと、火がつけばたちまち燃え広がるような部屋だった。室内には不要の段ボールや新聞が積まれていた上に、内壁も天井もベニヤが張られている。警備員はジャンパーで叩いて消そうとしたが、かえって火の手は拡大した。
消火器を使って、初期消火も試みたようだ。だが駄目だった。この「駄目」の理由は資料により書き方がまちまちなのだが、どうも消火器自体に何らかの不備があったフシがある。
警備員は、次に火災報知機へ手を伸ばした。新館全体へベルが鳴り響く――。
だが、このベル音に気付いた宿泊客はほとんどいなかった。人によっては「遠くで電話が鳴っている」程度にしか聞こえなかったらしい。
警備員は、この措置によって、宿泊客は避難してくれると考えたのかも知れない。彼は次に「加入電話」なるもので役場へ通報した。なんで119番にかけないの? 加入電話って何? と、約50年後の時代に生きている我々としては首をかしげるところだが、資料にそう書いてあるんだから仕方がない。ともあれ、いくら待っても役場は電話に出なかった。
そうこうしているうちに火の手は回る。悠長に構えている場合ではない――。
全体としては、こういう流れだったのだろう。最終的に、初期消火はブッブー、火事ぶれも避難誘導もブッブー、消防への通報もブッブー、という結果になってしまった。
さらに、火元となってしまったこの警備員が、逃げた時に新館の玄関のドアを開けっ放しにしたのも良くなかった。風通しが良くなったのだ。当時の風速は4~5メートルだったといわれており、火勢がますます拡大したのである。
この警備員は、鎮火した3月11日の夜9時頃には失火で逮捕されている。
さて、火炎に包まれていく菊富士ホテル新館は、1964(昭和39)年春に鉄筋造りになっていた。だが出火場所の周辺には木造の部分もあり、炎はまずホテルロビーと従業員通路へ延焼。さらにロビー天井と階段を伝って2~3階にも伝播した。
防火区画は存在していたが、防火シャッターが開放されていたので意味なし。さらに、内装材には可燃材が使用され、床材のカーペットの下地には「速燃性」のクッション用フェルトが使われていた。また床などの貫通部の埋め戻しも不完全で、これらの要因が、火の手の拡大を許したと思われる。
宿泊客が火災に気付いた時には、既に館内は停電していた。
当時の、菊富士ホテル全体の宿泊者数は総勢213名(225名という資料もある)。うち、火災が起きた新館には83名がいた。
中には、警報ベルの鳴動によって火災に気付いた者もいたらしい。それが、警備員があの申し訳程度に火災報知機を鳴らした時のことを指すのか、あるいは異常に気付いた宿泊客が鳴らしたものなのかは不明だが、いずれにせよ、宿泊客の大半は、煙と慌しい物音によってようやく事態を察したようだ。
先述の通り、新館は、地下1階つきの3階建てである。地上1階で発生した火炎と煙が、廊下も階段も覆い尽くしたため、2階と3階の宿泊客は追い詰められる形になった。火事に気が付いた時には、もう1階へ下りられる状況ではなかったのだ。
まず2階では、205~208号室が、幅5メートルのバルコニーに面していたのが幸いした。その部屋の客24名は、従業員の指示によって、隣のホテル「白雲閣」への石垣の上に避難したり、近所の旅館が持ってきた布団をクッションにして飛び降りたりしている。結果、2人が軽傷を負った程度で、全員が救助された。
だが201~203号室にバルコニーはない。まず202・203号室ではなすすべなく計10名が死亡した。201号室の客5名は廊下に出て、すぐ近くにあった南側の非常口へ取り付いている。だが不幸なことに、いわゆるモノロックタイプの扉の開け方が分からず、3名がそのまま廊下で死亡。残る2名は部屋に戻ったが、おそらく煙を吸ったのだろう、その場で1人が死亡。残る1人は飛び降りて助かったものの、重傷を負った。
次は3階である。こちらは、一部の部屋――305から307号室――が2階のバルコニーに面していたので、宿泊者は投げ落とした布団をクッションにする形で飛び降りている。総勢28名。大半がこの飛び降りで重軽傷を負い、また1人が死亡した。
301から303の15名は全員が亡くなっている。煙を吸ったのだろう。室内も衣類も焼けておらず、布団の中に入ったままの人もいたという。
☆
鎮火したのは午前6時。意外と早い気がする。だがその分、短時間でこれだけの死者が出たのかと驚かされる事例でもある。実際、一酸化炭素中毒による死者が注目を浴びる大きなきっかけにもなったそうだ。おそらく歴史的に見ても、この菊富士ホテルの事例は、大規模な宿泊施設での火災の恐ろしさを世間に知らしめた最初の事例だったのではないか。
ホテル新館は半焼2640平方メートルが半焼。先に名前を挙げた、隣接するホテル「白雲閣」もとばっちりを受けて1650平方メートルが類焼した。
死者は30名、負傷者は29名に上った。死亡したのは、多くが茨城県のタバコ耕作組合のメンバーだった。
新館から渡り廊下でつながっていた「渓流閣」と「秀嶺閣」の建物は、被害がなかった。そちらの宿泊客についても、従業員がきちんと誘導したことで、しっかり身支度を整えて非常口などから避難できたという。警報ベルもちゃんと鳴らされたそうだ。
当時の基準で言えば、このホテルの消防用設備に不備はなかった。問題は、それが活用されないまま終わってしまった点である。
実際、全体的に見てみると、まあやることはそれなりにやっているという印象を受ける。逮捕された警備員は、初期消火も火災報知も通報も「試みて」はいるし、新館以外の建物では宿泊客の避難誘導も行われたというのだから。
ただ、消防計画の作成や、消防訓練は行われていなかった。
この事例がきっかけとなって、防火管理関係の法令が改正されている。具体的には、防火管理者の義務強化や、ホテルのような施設では難燃性の材質のものを用いるべし、といった内容が定められたのだった。
だが――戦後の大規模施設火災の黒歴史は、まだ幕を開けたばかりだった。頻発する火災と法令強化とのイタチごっこの歴史はここから始まる。これ以降、このタイプの火災は数え切れないほどの件数発生して社会問題化し、それが終息するまでには、さらに何百人もの犠牲と数十年の時間を要することになるのである。
【参考資料】
◇消防防災博物館-特異火災事例
◇サンコー防災株式会社「ホテル・旅館火災の特徴と事例」
◇ウィキペディア
◇何かのサイト
【参考資料】
◇ウィキペディア
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池之坊満月城火災(1968年)
伝統ある有馬温泉に1968年当時存在していた池之坊満月城は、古くから経営されていた「池之坊」に由来する由緒正しい旅館であった(※資料によっては「池の坊」の表記のものもある)。
しかしこの池之坊満月城、正しいのが「由緒」だけだったからかなわない。その実態は法令違反しまくりの恐るべき建物で、ツギハギだらけの増築と度重なる消防署からの指導の無視を繰り返していたとんでもない代物だった。これが火事になったのだからさあ大変、というお話である。
時は1968年(昭和43年)11月2日、午前2時40分。
居室で休んでいた従業員の一人が、異様な煙たさで目を覚ました。
「むにゃむにゃ。まさか火事じゃあるまいな」
この従業員は、妻と共に様子を見に行った。どうもサービスルーム付近がおかしい。それで覗いてみると、なんとサービスルーム周辺が燃え、煙が出ているではないか。火事だ!
「大変だ。火事だ火事だ避難して下さい!」
この従業員夫婦は、館内を駆け回りそう連呼した。
それで、館内に分散して休んでいた従業員もびっくり仰天。試しにバケツで水を2、3杯かけてみたが効果はなかった。
ちなみにサービスルームとは、宴会などの際に料理や飲み物を準備するための部屋であるという。出火原因は最後まで不明のままだったが、この部屋、出火後ほとんど間をおかず、フラッシュオーバーのため爆発的に火炎が拡大していたことが判明している。
「火事だ火事だ避難して下さ~い!」
その間にも火事ぶれを行っていたこの従業員、玄関ロビーに出たところで夜間警備員と出くわした。
従業員「消防はそろそろ来るのかな?」
警備員「間もなく来るでしょう。すぐに通報したんですよね?」
従業員「いや誰かしてくれたんじゃないの?」
警備員「してないと思いますよ」
従業員は真っ青になり、慌てて電話機に取り付く。この時、既に最初の火災発見から25分以上が経過していた。
「なんということだ、私がすぐ通報していれば良かった! お客さんの身に何かあったらどうすればいいんだ……」
口惜しがりながらダイヤルを回す従業員。その目の前に一人の男が現れた。宿泊客の一人である。
宿泊客「大丈夫です。あなたに責任はありませんよ」
従業員「いえそんな、気を使って頂かなくても」
宿泊客「だって私はもっと先に火災を発見していたんです」
従業員「だったら通報しろよ!」
言うまでもないと思うが、以上の会話部分は全てフィクションである。だが発見者の宿泊客も従業員も当初まったく通報を行わなかったことや、屋内消火栓も使わず初期消火に失敗してしまったのは本当のことだ。
さてサービスルームから発した火炎は、廊下を伝って上方へと燃え広がっていった。そのため、上階にいた宿泊客たちは、かなり早い段階で火炎と煙に逃げ道を塞がれる形になった。
しかも従業員が火事だ火事だと知らせて回ったのと相前後して、館内は完全に停電。さらに煙と、建材の材質の問題で有毒ガスまで立ち込めて、これでなんとか脱出しろという方が無理な話である。
最初に述べた通り、この旅館は増築に増築を重ねて無駄に膨れ上がったマンモス旅館だった。アミダくじのような廊下はあるわ、隙間はあるわ段差はあるわで気分は風雲たけし城。そのうえ異常なまでに延焼のスピードも速く、逃げ惑っている内に、あるいはなす術もなく死亡した者が大勢いた。
燃えるのもそりゃ当たり前で、この建物、棟同士の接合部はガラス戸一枚で区画されており、防火扉は木製(!)だった。しかも延焼しそうな部分には普通のガラス窓が嵌め込まれているという有様だったのだ。まったくイイ時代があったものである。
辛うじて脱出できた宿泊客達も、避難すべき方向の判断さえまともに出来ない状況の中、必死に火の粉をかいくぐったという。雨樋を利用したり、投げ下ろした布団に飛び降りるという方策で一命を取り止めた者もいた。
こんな旅館で防災設備の充実を期待できるわけもない。防火扉は火災当時どれもこれも開けっぱなしで、火災報知機や屋内消火栓も結局全然利用されずに終わった(もっとも報知器も消火栓も充分な数がなかったという)。
こうして、由緒正しき池之坊満月城は燃えるに任せて焼け落ちた。焼失面積6,630平方メートル。246人の宿泊客のうち30人が死亡、44人が負傷する大惨事である。
犠牲者の多くは、富山から来ていた会社従業員達だったという。また、他にも新婚旅行でここを訪れていた2組の夫婦も命を落としたというから悲惨にも程がある。もう40年以上も前の火災ではあるが、今からでも冥福を祈りたくなる。
さて、こんな調子の満月城なので、経営者は責任問題を免れない。消防署の指導を受けていたにも関わらず形だけ誓約書を提出してその場逃れを行っていたことなども暴露され、結局有罪判決が下されている。ただし消防でも指導が甘かった部分があり、執行猶予がついた。
残った池之坊満月城は、無事だった建物でしばらく営業を続けていたようだ。
だがそれも間もなく取り止め、跡地は駐車場になった。当時を偲ぶ唯一の手掛かりは、有馬温泉に残る慰霊碑のみであるという。
ところで、あからさまな法令違反によって大火災が起き、管理者が裁かれたといえばホテルニュージャパン火災であろう。満月城火災から12年後の事故である。
筆者は長らく、ホテルニュージャパン火災というのは余りに特異で例外的な事例だと思っていた。しかしこうして火災の歴史に目を向けてみると、今回ご紹介した満月城火災とニュージャパン火災は実によく似ていることに気付く。
ニュージャパン火災は、あのオーナーの特異なキャラクターばかりに焦点が合わせられがちだった。だがあの火災の特殊性はもっと別の部分にあったのである。80年代になって建造物の防災レベルが向上したにも関わらず、12年前と同じような火災がまた繰り返されてしまった。本来ならばこれが一番の問題だったのだ。その問題に気付くには、こうした歴史的背景をまず把握しておくことが必要だったわけである。
【参考資料】
◇第一法規『判例体系』
◇ウィキペディア他
◇消防防災博物館-特異火災事例
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磐光ホテル火災(1969年)
かつて、福島県郡山市熱海町には、磐光ホテルという宿泊施設が存在した。
資料によると、どうやらこれは、後年のバブル期に乱立したリゾート施設の先駆みたいなものだったらしい。
それが完成するまでの経過を簡単に書くと、まず1965年に鉄筋コンクリート4階建ての本館が建てられた。そしてそれを皮切りに、今度は10億円規模の資本が注ぎ込まれた「新館」と「別館」が造られた。
それだけでもすげえなあと思うのに、その上さらに「磐光パラダイス」という娯楽施設までもが建設されている。その内訳はキャバレー、温泉プール、映画館、外人ホステスクラブ、それにゲームコーナーてなもので、もう笑ってしまうほどの節操のなさである。
これらを総称した磐光ホテルのキャッチフレーズは、「来て見てびっくり」。よく言ったものだ。こっちは、調べてみて呆れてびっくり、である。
んで最終的には全体の客室が220室、収納可能人数は1,300人(220の客室に1,300人をどう詰め込むのか、少し不思議ではあるが)という巨大娯楽施設の出来上がりである。元々、磐梯熱海温泉街というのははイイ感じにひなびた温泉地だったのだが、磐光ホテルはそこに突如として出現した不夜城だった。
だが、こんな天国のような娯楽施設も、ひとたび火がつけば灰燼に帰すのだから儚いものだ。しかも運命の女神は変なところで公平で、磐光ホテルの最期を彩ったこの火災は、今では数あるホテル火災の典型的な一事例として記録されているに過ぎない。
☆
1969(昭和44)年2月5日、午後9時過ぎの出来事である。
その日、磐光ホテルの外は猛吹雪だった。この悪天候のせいでホテルでは停電も相次いでいたという。
後述するが、この時福島県は豆台風とでも呼ぶべき強風に見舞われていた。昔ながらの温泉街のほうはこの嵐が立ち去るのを静かにじっと待っていたのだが、磐光ホテルは宴もたけなわ、停電なんてなんのその。1階の大広間では、当ホテルの目玉イベントである「金粉ショウ」が行われるところだった。
筆者は金粉ショウなるものを実際に見たことはないが、なんか体中に金粉を塗った踊り子が、火のついた松明を使って踊ったりするものらしい。
それでこの時、ダンサーたちは舞台裏の控室で準備を整えていた。
ところが、そのショウで使う予定だった松明が、石油ストーヴから引火したからさあ大変。松明にはベンジンが染み込ませてあったのだが、それを火気のそばに置いておいたのが運の尽きだった。
「まずいぞこれ、早く消せ!」
てなわけでダンサーたちは消火を試みた。そうそう、火災は初期消火が大事なのである。
ところがここからが問題だった。ステージの向こうには大勢のお客が詰めかけている。騒ぎにしてはまずい、ここは自分たちだけで手早く消火してしまおう――彼らはそう判断したのである。それで急いで中幕を下ろすと、その裏でこっそり消火を始めた。
まあそれで本当に火が消えれば良かったのだが、なんとここで採られた方法が「口で吹き消す」という、ショウの時とまったく同じやり方だったから「あ~あ」である。火勢はさらに拡大。そのうち、舞台の緞帳にも燃え移った。
それまでにも、煙がステージの方に流れ出したりしていたらしい。だがそれは金粉ショウの演出と勘違いされており、当初は誰も騒がなかった。それでもさすがに緞帳が燃え出したところで、舞台に立っていた歌手が異変に気付き、マイクで一声。
「火事だ~!」
これが最初の火災覚知となった。
資料によると、これによって大広間は大混乱になったという。人々は一気に出口へ殺到した。まあ当然そうなるわな。
だがまあ、ここでホテルの従業員たちはわりと的確に動いていたようだ。大部分のお客は、避難誘導によって脱出に成功した。この点は、他のホテル火災やデパート火災に比べれば遥かに感心する。
だが100点満点をあげるわけにはいかない。この火災の死者30名のうち、少なくとも25名はこの大広間からの逃げ遅れだったとされている。
もともと、火事のきっかけになった金粉ショウは3階のホールで行われる予定だった。だがこの日は強風で屋根が壊れたとかいう理由で、開場が急遽1階の宴会場に変更されていたのである。炎を扱う催し物があったことを考えると、これは消防法上も問題のある措置だった。
「3階よりも1階のほうが、外に逃げやすいんじゃないの?」
という声も聞こえてきそうだ。しかし1階には土産物の売店やゲームコーナーがあり、これが避難の邪魔になったのである。煙によって視界も利かなくなっていた。
さらには、火災報知機のスイッチも切られていたのだ。停電のたびに鳴るのでうるさい、というのがその理由である。よって2階以上の階のお客らは避難が遅れ、多くはなんとか救助されたものの、最終的に3階の2名が死亡している。
当時、このホテルは全館で暖房が利いており、それで乾燥し切っていた。そのため、火炎が上階や他の施設にまで簡単に延焼したのだった。
この他にも、ホテル火災にありがちな防災面での欠陥が多くあったようだ。非常口の扉が針金で固定されていたというし、また防火扉はないわ防火シャッターも動かないわでもはや防火区画もへったくれもなく、延焼し放題だった。
もちろん、それらは見過ごせない過失である。だがこの磐光ホテル火災について言えば、これほどの悪条件にも見舞われた火災もちょっと珍しい気がする。
その悪条件とは、天候である。
いやもう本当に、これについては運が悪かったとしか言いようがないのだ。まず当時、外が猛吹雪だったことは先述した。5日と6日は中部・関東地方以北で強風が吹き荒れていたのである。この少し前に、台湾沖と日本海の西部で発生した2つの低気圧のためだった。
暦で言えば立春の時期である。だが5日の朝には福島県下には大雪・強風注意報も出ており、参考文献によると、現場の付近では大型バスが転倒する事故も起きていたらしい。
もともとこの地域では、強風が風物詩みたいなところがあった。猪苗代湖と磐梯山の方向から吹いてくる風がぶつかり合い、風速計が使い物にならなくなることすらあるという。それが冬場なら、吹雪でなおさらひどいことになるわけだ。で、火災時の風速は平均20メートル。人間の手で延焼を防ぐすべなどなかった。
そこでようやく、消防の登場である。
しかし、消火活動も救助活動も難航した。いや、もはや難航とかいうレベルではなく、なんか混乱の上乗せみたいな結果になってしまったのだった。
まずは風である。消火しようにも、とてつもない強風のため放水した端から飛び散ってしまう。しかもマイナス7度という気温のため、建物にかかった水も片端から凍った。これでは、屋根に上って消火活動をしている隊員もいつ転倒するか気が気でない。あげくその屋根が熱で膨らんで破裂したり火を噴いたりするのである。もう悪条件の揃い踏みである。
もちろん、ホテルの従業員たちも手をこまねいていたわけではない。以前から自衛消防隊とやらを組織しており、この時も自主的に消火活動を行っていた。しかしやっぱり強風と凍結のため、せっかく伸ばした屋外消火栓も全然使い物にならなかったという。戦力外である。
またさらに、この頃の消防の設備はお粗末もいいところだった。ポンプ車はおんぼろのポンコツ、防毒マスクは濡れタオルと大差ないおもちゃ同然の代物。梯子車だって高層階には届かない。おまけに水利も悪いと来ては消火も救助もまともにできるわけがなく、なんと消防自らが、やむを得ず被災者に屋上からの飛び降りを促す場面もあったという。
こんな調子なので、ほどなく消防隊員の中にも疲労と低体温症でぶっ倒れるものが出た。暖を取るために、火災現場の一部の炎を消さないでおく必要すらあったというから、これはなんとも笑えない喜劇である。
そんなこんなで、ようやく鎮火したのが翌朝の午前6時30分。消防が到着してから9時間後のことだった。
磐光ホテルの当時の宿泊人数は295人。死亡者数は、先にもちょっと書いた通り30人(31人という資料もある)で、負傷者も41人に上った。
ホテルは完全に焼き尽くされ、焼損面積は15,511平方メートル。そして損害金額は10億9,826万円。なんだか面積も金額も数字が大きすぎ、筆者などにはどうもピンと来ないのだが読者の皆さんはいかがであろうか。しかもこれは1969年当時の金額である。
資料によると、火災の翌日には、出火の原因となった粗忽者のダンサーが、重失火と重過失致死容疑で逮捕されたという。
だがさらに資料を辿っていくと、実際に起訴され有罪とされらのはホテルの総務課長の方だったらしく、こちらは禁固2年、執行猶予2年の判決となっている。ダンサーの逮捕からこの判決に至るまで、一体どんな経緯があったのだろう? また遺族への補償はどうなったのだろう? 気になるところである。
これについては「調べて書けよ」という声が聞こえてきそうだが、資料が見つからないので仕方がない。だって山形県立図書館に、この火災の判決文が載ってる判例時報、置いてないんだもん。
☆
最後にこれは余談だが、参考資料『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、当時現場に駆け付けた消防士の一人が「この火災では30人が死ぬ」という不吉な予言をしていたという。
それで本当に30人が亡くなっているので、ちょっと読んだ限りだとこれは神秘的な予言という感じがする。
んで、この消防士だが、引退後に回顧録として「磐光ホテル火災」という文章を書き、平成14年に脱稿しているという。
もしこんな予言があったのが事実ならば、この回顧録は是非読んでみたいところだ。しかし平成23年10月22日現在、この文章がどこで読めるのかは全くもって不明である。
ネットで公開されているのだろうか。あるいは、どこからか出版されているのだろうか。副題がまたケッサクで、「私は火災発生と死者数を予言し、的中してしまった」というふざけたものらしいが、もしこの文書をどこかで見かけた方がおられたら、是非教えて頂きたい。
まあ実を言えば、筆者はこの予言うんぬんのエピソードは全部デタラメだと考えているのだが。
『なぜ、人のために命を賭けるのか』は極端に消防の活躍を美化して描いた書物である。よってこのエピソードは、消防側の不手際をごまかすために著者が捏造したものだろう。「この火災では消防が火災に完全敗北した。しかしそれは予定調和の出来事であったのだ」――というわけだ。
捏造というほど強烈な意図はなかったとしても、消防側の不手際を、文学的表現で薄めようとしたところはあると思う。
だからおそらく、先に述べた「磐光ホテル火災 ~私は火災発生と死者数を予言し、的中してしまった~」というタイトルだけで爆笑ものの回顧録はどこにも存在していないと思う。
この火災は、消防の完全なる敗北譚である。だがこれを端緒とするいくつかの敗北があったからこそ、現在の消防設備はあれほどまで整備されたのだ。こうした歴史の経緯をごまかしてはいかんよ。必死の思いで消火作業にあたった消防士たちはもちろん、亡くなった人に対しても失礼だ。
【参考資料】
◇ウィキペディア他
◇消防防災博物館-特異火災事例
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社2004年
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