目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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大洋デパート火災(1973年)

  1
 昭和48年11月29日のことである。晩秋の午後、テレビを観ていた人々は、たちまちそのニュースに釘付けになった。熊本の大洋デパートで火災、今なお炎上中。死者20数名――。
 多くの人は「またか」と思ったに違いない。この前年には大阪ミナミでいわゆる千日デパート火災が起きており、さらに済生会八幡病院火災高槻ショッピングセンター火災、旅館やホテルの火災など、日本各地で建造物火災が相次いでいたのだ。
 間もなく映し出された、炎上する大洋デパートの様子は凄まじいものだった。この当時の画像は、今でも様々なインターネットサイトの動画や写真でも観ることが出来るが、窓という窓からもくもくと噴き出してくる濃厚な煙はまるで何かの怪物のようだ。スティーヴン・キングの短編に『灰色のかたまり』というのがあるが、大洋デパートの煙を見るたびに筆者はそれを思い出す。
 地元熊本地方の住人達も、このニュースには驚かされた。なにせ大洋デパートといえば当事の熊本では知らない者のない有名デパートだったのだ。当事、熊本市民は市街地へ出かけることを「大洋へ行く」という程だったという。
 ある者は、上空を飛んでいたヘリコプターを目で追って火災を知った。またある者は外出先から帰ってきてテレビを付けて初めて知った。テレビを観ながらおやつを食べていた娘が突然泣き出し、様子を見に来た親も驚いて、テレビの前で抱き合って震えていたというエピソードもある。慣れ親しんだ有名デパートでの惨事に、熊本の人々は慄然とした。
 だがそれでも、ほとんどの人は想像だにしなかったに違いない。よもや、これが戦後最悪クラスの火災事故として歴史に名を残すことになろうとは――。
 中継ニュースにより報道される犠牲者数は、40名、60名、90名と時を追うごとに着実に増えていった。デパートの常務はこの間、建物の裏口から続々と搬出される遺体を出迎えていたが、やがて「もう堪忍して」と言い失神したという。
 皮肉にも、当事の大洋デパートには「秋の火災予防運動週間」と書かれたアドバルーンが浮かんでいた。そんな中で、最終的な死者数は103名にまで及んだこの火災。一体この大洋デパートという場所で何が起きたのだろう。

 

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 大洋デパートが、当事の熊本では知らない者のない超有名デパートだったのは先述の通りである。
 設立されたのは昭和27年10月。場所は熊本市の中心部の繁華街で、当事の一等地である。ほぼ20年間の営業を通して、熊本県内第二位の規模にまで上り詰めた。
 しかし火災が起きた昭和48年頃ともなると、中央のデパートやスーパーがどんどん地方へ勢力を広げるようになってきた。順調な景気に支えられての進出である。熊本もまた、その例外ではなかった。
 この年には、大洋のライバル店である鶴屋百貨店は増床中だったし、さらに翌年には売り場面積33000平方メートルの新しいデパートが市内で開店する予定だったのだ。こちらは伊勢丹と福岡の岩田屋という店が連合して進出してきたもので(因みに鶴屋百貨店も伊勢丹だったという)、いかな大洋でもこれはうかうかしていられない。経営陣は焦っていた。
 そのような次第で、大洋は三越と提携することに決めた。
 このように中央大手の系列化に置かれた百貨店は、大手同士の競争をそのまま地方で再現する「代理戦争」の形に突入することになる。
 この「戦争」を生き残るために、まず最初に大洋が手を付け始めたのが、店舗の増築と改装である。
 もともと大洋は、売り場面積だけを見ても県内では二番目の規模だった。そこへ、さらに隣接地のビルを借りて別館として増設することにしたのだ。この工事が完了すれば、本館の売り場面積14300平方メートルに加えて、プラス9000平方メートルの別館を持つ大百貨店が完成するはずだった。
 ところが、ここで問題が発生する。消防法や建築基準法との絡みだ。
 大洋デパートが設立されたのはもう20年以上も前のことだった。当事に比べると法制も大分強化され、今になって増改築を行うとなるとそちらの基準に合わせなければいけなくなる。するとスプリンクラーや排煙装置の設置の必要が生じ、費用がかさむのである。
 実は、大洋デパートはこうした設備が存在していなかった。地元の消防局からも「極めて危険な建物」と見なされていたのである。
 少し、当事の社会背景を振り返ってみよう。
 先述したが、この時期は高層ビル火災が社会問題化していた。まず韓国で1971年12月24日、ソウルの大然閣ホテルで火災が発生し163名の犠牲者が出た。これはまだ対岸の――文字通り――火事だったのだが、それに呼応するように日本でも千日デパート火災が発生。これは日本火災史上最大の死者数を出すに至った。
 それで消防庁も事態を重く見て、スプリンクラーの設置、火災報知機の設置強化、避難誘導計画の徹底などを各デパートへ向けて指導。さらに、自治省消防局は消防法を一部改正までしている。改正内容は以下の二点だ。
「増改築や新設のビルの場合、スプリンクラーの設置基準を、従来の総延べ面積9000平方メートル以上から六千平方メートル以上にする」。
「収容人員30人以上のビルは、自主防火体制として各自消防計画を立て各消防署の指導のもとに避難訓練を行う(これまでは50人以上)」。
 これらが全ての高層ビルで実現すれば、大洋デパート火災は発生しなかったかも知れない。だが困ったことに、法律の世界には遡及適用の禁止と言う原則があるのだ。その法律が作られるよりも以前のケースにまで遡って、法律を適用させることはいけないのである。
 つまりこういうことだ。例えば「飲酒運転をした者は死刑」という法律が出来たとしても、その法律が出来るよりもずっと前に飲酒運転で摘発された人には、それは適用させられないのである。法律とは、あくまでもその法律が存在していた時の事態にのみ適用される。これが「遡及適用の禁止」ということである。
 するとどうなるか。消防法をいくら改正しても、改正前に建てられた建造物には適用出来ないのである。適用可能になるのは、その建造物を新たに増改築する時だけだ。
 このような形で法律の適用をすり抜けたものを、今はあまり使わない言葉で「既存不適格」と呼ぶ。
 さらに消防法の改正には猛反発が起こった。設置しなければならない防災設備が多く、あまりに費用がかかり過ぎるというのだ。結局個別の現場では、法令で定められた基準の内いくつかをクリアすれば良いという妥協があったり、査察に来た消防署員に「おみやげ」を渡して見逃してもらうといったこともあったようである。

 

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 さて、大洋デパートである。
 もう言うまでもないが、昭和27年に建てられたこのデパートは既存不適格もいいとこで、スプリンクラーもない、排煙装置もない、非常用電源もない、非常口の電光サインも点いてない、と最早「俺ら東京さ行ぐだ」状態だった。
 よって今から増改築を行うと、防災設備の分だけコストがかかる。
 デパートの経営陣は恐らく、「ああいよいよこの時が来たか」という気持ちだったことだろう。それまでの大洋デパートは、消防局から防災設備の不備を指摘されても完全に黙殺してきた。どんなに警告と指導を受けても平気の平左で、消火訓練への参加を打診されても無視していたという。
 しかし背に腹は変えられない。増改築を行う以上、今度こそ法令の遵守は必須である。かくして、防災設備の整備を視野に入れながら、大洋デパートの拡張工事は開始された。
 と、ここまでは良かった。
 だが大洋の経営陣は、防災設備があろうとなかろうと、実質的にはデパートの営業とは関係のない話だと考えていたのだろう。それからも、大洋デパートはごく普通に営業を続けた。清水建設が入って増改築工事を始めてからも、当たり前のように買い物客を受け入れ続けたのである。
 これが仇となった。工事中のため、スプリンクラーや排煙装置はまだ機能しておらず、さらに工事のために建物の外の非常階段も使えない状態だったのだ。
 こうした経緯を経て、運命の昭和48年11月29日は訪れたのだ。

 

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 大洋デパート。
 鉄筋コンクリート造り、基本的に地下1階から地上7階までの階層からなり、一部は九階建て。床面積の合計は10907平方メートルである。
 地階が食品売り場。
 1階が靴、化粧品、装身具、肌着等の売り場。
 2階が紳士服等の売り場。
 3階が寝具、呉服など。
 4階が婦人衣料品など。
 5階が書籍、文具、スポーツ用品。
 6階が家具、家庭用品、金物など。
 7階が食堂および結婚式場、催物会場である。火災当時は北海道物産展が行われていた。
 増築工事については、7階床面までのコンクリート打ちが終了した段階だったという。
 さて火災当日だが、この日の客の入りは、平素に比べれば実に冴えないものだったという。
 その日は木曜で、本来ならば大洋デパートの定休日だった。だが歳末大売出しということで急遽、臨時営業と相成ったのである。常連客でもそのことを知っている者は少なく、普段ならば1000人単位での客の出入りがあるというのに、この日の来店客は昼過ぎまでに500人程度でしかなかった。
 またお客だけではなく、工事関係者も140人弱がいた。さらに600人以上のデパート従業員の数を合わせると、当時デパート内には1200人程の人がいた計算になる。
 最初に異常を感知したのは、3階呉服売場に勤務する23歳の女性従業員だった。彼女は13時を数分過ぎた頃、階段から薄く煙が上ってくるのを見たのだ。
「あら、煙だわ。火事かしらん?」
 彼女は驚いて交換台に電話をし、それから大声で火事ぶれを行っている。
 知らせを聞きつけた売場主任(61歳)はすっとんで行った。なんだと火事だと、そりゃいかん。しかし彼が階段を覗き込むと、既に踊り場にあった段ボール箱が激しく燃えているところだった。
「バケツ! バケツだ!」
 主任の叫びに、数人の従業員達がさっそくバケツを持ってきた。近くのトイレから、バケツリレーで水を運ぶのだ。
 火勢は著しかった。踊り場の段ボール箱は、主任がちらっと見ただけでは分からないほど激しく燃え盛っていたのである。どこかのタイミングで、火炎は階段のガラス窓を破ってしまったのだ。
 ここから風が吹き込んできたから、さあ大変。踊り場から巻き上げられた燃え屑が、煙が、どんどん3階へ流れ込んできた。
 それにしても、なんで階段の踊り場なんぞに段ボールが積んであったのだろう?
 これは増築工事の影響だった。
 それまで、大洋デパートでは八階を商品倉庫代わりにしていた。そこには文化ホールというスペースがあったのだが、それが工事のため使用出来なくなったのだ。
 歳末商戦の時期である。通常の二倍の量である山のような商品在庫を一体どこに保管しておけばいいか、先にちょっと登場した主任が頭を悩ませた結果が「階段にとりあえず置いておく」という結論だったのだ。
 かくして段ボールは、二段三段に渡って積み上げられたのだった。中には寝具などが入っていたという。言うまでもなく可燃性のもので、これが燃える燃える。窓から風は吹き込んでくるし、しかもこの日は異常乾燥注意報が出ていたのである。これで燃え広がるなという方が無理な話で、最早バケツリレーでの消火など夢のまた夢という状況であった。
 ではここから、火災発生直後の各階の様子を見ていくことにしよう。まずは地階、1階、2階である。
 当時、1階には137名がいたと言われている。まだ地階では169名である。彼らは全員、例外なく店員の呼びかけによって避難することが出来た。煙や炎が押し寄せてくることもなく、せいぜい従業員が慌てふためいていた程度で済んだようである。
 また2階も、特に大きな延焼もなく済んだ。ここからも百名以上が階段やエスカレーターを使って問題なく避難している。
 特に2階は、大洋デパートにおける理想的な避難のひとつのモデルだと言えるだろう。ここでは、火元の階段と、フロアとの境目にある防火シャッターが最初から閉鎖されていた。
 恐らく工事関係の都合か、倉庫代わりの階段への一般客の進入を防ぐためだったのだろう。これによりフロアへ煙や炎が直接進入することはなく、従業員の呼びかけによって速やかに避難した。
 ちなみに火災発生時、社長はどうしていたのだろう? その時の状況について、当時の社長だった山口亀鶴氏はこう述べている。
「私は出火当時、10階(塔屋部分)の応接間にいて横になっていた。火事だといって迎えが来たので一番あとから荷物用エレベーターで外に出た。普段から火事には注意していたのだが、今は申し訳ないとしか言いようもない」。
 つまり、買い物客を見殺しにして自分だけ逃げた形になってしまったのだ。これについては、言うまでも無く轟々たる世間の非難を浴びることになった。
 さて、死者や負傷者が発生するのは3階からである。

 

   5
 高層ビル火災は、とにかく上の階へ行けば行く程、危険の度合いは増す。理由は簡単で、煙も炎も上に昇っていくものだからだ。
 よって地階、1階、2階で被害がなかったのも当然と言えば当然である。特にこれらの階で消火活動や避難誘導が上手く出来たわけではない。ただ、構造上の幸運によって偶々スムーズに脱出出来たに過ぎない(比較的死者の少なかった5階についても同様のことが言えるが、これについては後述)。
 大洋デパートの場合、問題は3階から上なのだ。
 ここで、場面を3階の寝具売場へ戻すことにしよう。
 出火した階段へは、従業員たちが続々と駆けつけてきた。
 中には、延焼するのを防ぐために、階段の段ボール箱を取り除いたり、売場の寝具類を移動させたりする者もいたという。だがそのうち、階段からは風に煽られた火炎がバーナーのように吹き込んで来て、手の付けようがなくなっていった。
 消火器を持ってきた者もいた。だが使用者が使い方を誤ったのか、消火器自体がいかれていたのか、なにやら5、6回叩いても動かなかったという。叩いて使う消火器なんて聞いたことないが……。
「もう駄目だ、シャッターを下ろせ! 急げ!」
 遂に火炎が3階のフロアへ進出してきたのだ。従業員達は、階段とフロアを仕切る防火シャッターのスイッチを押した。
 しかしこの防火シャッター、火災によってモーターが馬鹿になってしまい、途中で止まってしまう。
 そんなにやわじゃ防火シャッターの意味ないじゃん! と思うのだが、実はこれは、火災の熱で温度がある程度にまで達すると自動的に閉まる仕組みでもあったらしい。なんかワケ分からん。
 結局シャッターは閉まったのだが、その間に火炎がフロアに侵入していたであろうことは想像に難くない。
 さらに、シャッターはエスカレーター周辺にも存在した。だがこれについては、真下にあった陳列棚がつっかい棒の役割を果たす結果になってしまい役に立たなかった。
 それでもこの階からは、何とか103名が避難している。下の2階はほとんど被害はがなかったし、エスカレーターが焼けるまで時間があったため比較的避難は容易だったのだろう(ただし最終的には一名が遺体で発見されている)。
 また大洋デパート火災は、着物を着たまま焼け爛れたマネキン人形の写真が有名だが、恐らくあれはこの階の呉服売場のものなのだろう。
 3階の様子については、もう少し書いておこう。実はこの階には電話交換室があり、非常放送を流す設備も整っていた。それが当時は全く機能していなかったのである。
 この交換室にはちゃんと従業員がいたのに、なぜ避難誘導に欠かせない非常放送は流されなかったのだろう?
 答えは簡単で、交換手がもたもたしている内に、たちまち煙が襲ってきたのである。電話交換室にいた3人の女性は、非常放送を流す間もなく避難を余儀なくされたのだ。
 ただ、そうなってしまったのにも理由があった。交換手の女性は以前、店内で事故があり救急車などを呼ぶ時は「よく事情を判断してからするように」と上司から注意を受けていたのである。
 だが事情を確認も何も、火元は交換室の正反対の場所だった。しかも社内規定により、非常放送を流すには上司の許可が必要だったというからお話にならない。こうして交換手は、人事部や社長に連絡することに気を取られているうちに、館内放送を行うチャンスを失ってしまったのだ。
 さらに言えばこの交換室は出来たばかりで、交換手は機械の扱いにも慣れていなかったという。
 こうしていくつもの適切な処置がなされないまま、煙と炎は南階段を伝いながら4階へと上っていった。
 3階の場合は階下が無事だったから良かったが、4階からは状況が大きく変わる。なにせ3階は煙と炎で埋め尽くされており、上へ逃げるしかないのである。
 結果、人々は煙に追い立てられるように上階へと雪崩れ込んでいくことになる。

 

   6
 119番通報がなされたのは、13時23分のことである。
 きっかけは、デパートで工事をしていた作業員の悲鳴だった。外壁塗装をしていたこの作業員は、3階付近のガラス窓が破れ、煙と火炎が噴き出してくるのを見つけたのである。
「火事だ!」
 彼は叫んだ。それを受けて通報したのが、デパートの筋向いにあった理髪店の店主だった。
 結局、デパートの従業員から通報がなされることはなかった。初期消火の手こずり、延焼阻止の失敗、忘れられた通報――。こうして大惨事のお膳立ては揃ったのである。
 13時25分には消防が現場に到着し、消火活動と救助活動が始まった。
 しかし「これでもう大丈夫」とはとても言えない状況だった。何せ大洋デパートは改装工事のためビルの壁面にシートが被せてあるし、窓という窓が内側からベニヤ板で塞がれているのだ。中の様子がさっぱり分からない。
 ついでに言えば、当時の熊本市には梯子車とシュノーケル車がそれぞれ一台しかなかった。おいおい、どうすんの? と言いたくなってくる。
「こりゃいかん、突入だ突入!」
 とりあえず消防隊は建物の中へ飛び込んでいった。しかし防火シャッターがきちんと下ろされていたのが災いして、肝心の3階から先へ進めないだから話にならない。何とかエンジンカッターで切断するも、その先で待っていたのは1メートル先も見えない猛煙と凄まじい火勢だった――。

 

   ※

 さて4階である。当時、この階では婦人服やアクセサリー等が売られていた。
 この階にいた人々が火災に気付いたのは、裁判では13時22分過ぎと見られている。煙がフロアに侵入してきたのだ。
 ここでようやく人々は火災に気付いた。火災報知のベルも鳴らず、非常放送もない中で、ただ静かにもくもくと煙が押し寄せてきたのである。
 煙の主な侵入口となったのは、南階段とエスカレーター口である。南階段というのがつまり火元になった階段で、この後もこの階段は煙突代わりになって煙を上階へ上階へと昇らせることになる。
 4階の人々は、何がなんだか分からないままに逃げ道を探し惑ったことだろう。とにかく煙は下階から昇ってくるのだから、下へ逃げることは出来ない。上だ。煙や炎よりも先に上階へ逃げなければ――。
 この階からの脱出は、主に3箇所からなされた。ひとつは従業員用の階段である。それに増改築工事の作業員達が窓や扉を2箇所ほど破ったことで、一部の人々はそこから新鮮な空気を吸うことが出来、最終的にロープなどで救出されている。
 ただし救出された人々も全て無傷で済んだ訳ではない。窓からアーケードに飛び降りて、足が粉々になってしまった男性もいた。
 問題だったのは、最初に述べた「従業員用の階段」である。この階段に通じるドアの前で、多くの人が命を落としている。
 恐らく、煙に追い詰められた従業員達は、そちらに自分達専用の階段があるのに気付き急いで向かったのだろう。それで逃げ遅れた他の人々も、一縷の望みを賭けて後ろから着いて行ったのではないだろうか。
 実際その階段から脱出できた従業員も多くいた。しかし階段周辺が煙に包まれるまでの時間は余りに短かったのである。実に40名もの人々が、脱出することは叶わず、階段あるいは階段に通じるドアの前で力尽きている。死因は全てCO中毒だった。
 筆者達が想像するよりも遥かに速いスピードで、大洋デパート内部には煙が充満していったのである。建物が完全に停電するまでは少し時間があったが、猛煙の立ち込める中ではもうそんなことは問題ではなかった。煙が、明かりという明かりを覆い尽くし、あっという間に建物の中を暗闇にしてしまったのだ。

 

   7
 次は5階である。この階で火災が覚知されたのは、13時21分とされている。
 販売されていたのは、主にスポーツ用品、文具、玩具などだった。
 この階からは多くの人が脱出に成功しており、死者はほとんど出ていない。黒煙、有毒ガス、火炎、熱気流が押し寄せてくるという恐るべき状況下で、これは実に幸運なことだった。
 まずなんと言っても、5階は防火シャッターが功を奏した。この階ではほとんどのシャッターが熱感知機能によりきちんと閉鎖したのである。また改装工事のために常時閉鎖していたものもあり、それによって下階からの延焼に時間がかかったのだ。
 またこの階には、脱出可能な経路が複数あった。
 まず、隣のビルへの渡り廊下である。このビルとは、別館として工事が進められていたものだ。
 それから本館の増築部分に通じる非常ドアもあり、これは従業員が機転を利かせて開けている。この階では従業員による避難誘導がきちんと行われたのだ。
 それに誘導が間に合わなかったと思われる人々も、最終的にはほとんど窓から救出されている。どうも窓の下に上手い具合にアーケードがあったらしい。資料によって記述が錯綜しているのではっきりしないが、当時ビル内にいた工事関係者が即席の足場を作って買い物客らを避難させた――という話もあり、もしかするとそれはこの階での出来事だったのかも知れない。
 とはいえ死者が皆無だった訳ではない。3階からの逃げ遅れと思われる1名が、後に遺体で発見されている。
 またこの階でお粗末の誹りを免れないのは、従業員達が消火器による「消火活動」を始めたことである。言うまでもなく、ただの煙に消化液を吹き付けても何の意味もない。もしもこの階の脱出経路がもっと少なければ、ここでの時間のロスは大量の逃げ遅れを発生させていたに違いない。
 このように、いくら5階が避難に適した状況だったと言ってもそれはあくまで偶然で、やはり大洋デパートの防災状況は極めて劣悪だったのである。筆者が先に5階のことを「幸運」だったと書いた所以である。
 それに、ここでは水平方向の避難者のことしか書かなかったが、もしかすると5階から6階へと垂直方向に避難した者もいたのではないだろうか。6階と7階でも大量の死者が出たことを思うと、やはり5階の幸運を手放しで喜ぶ気にはなれない。
 ビル火災が、上の階に行けば行く程危険であることも先に書いた。それを裏付けるように、6階と7階は阿鼻叫喚の惨劇の場と化したのだった。

 

   8
 6階での火災覚知は、13時21分以降とされている。
 このフロアでは家具、家庭用品、金物などが売られていた。
 その時の状況については、筆者がくどくど説明するよりも参考資料から引用した方が早い。以下、阿部北夫の『パニックの心理』より、当時の従業員の証言である。

「はじめは階段部分からの、そうです、自分の階の火事だと思ったのです。それでみんなを動員して、消火器をもち出して、一生懸命消火しようとしました。けれども全然効果がありませんし、煙がますますひどくなり、ついに噴出するようになり、黒煙にかわりました。これはダメだ、逃げようというので、エレベーターの方をふり返りましたら、おどろきました。中央階段の方から煙が、それこそ海の大波のようにドッと押し寄せ、もう店の真中、エスカレーターのまわりのところまで来ているのです。いわば両方向から煙にハサミうちになったようなもので、とっさに反対側の、そこだけ窓が外部に開くようになっているアーケード側に逃げようと思いました。煙に追われて、非常口はどこだと叫んでいるお客さんを誘導して、そのアーケードロまで行ったのです。そのころは電灯が消えていました。窓から入ってくる光で、自分が数えた限りでは、十二、三名の人がいましたが、気配でそのまわりにさらに何人かがいたのがわかりました。……窓をいくつか破って外気を導入し、助けを求めましたが、6階ではどうにもなりません。何人かがとび降りましたが、アーケードを破り、血が飛び散るのが見えて、これはダメだと思いました。小さいお子さんがいるとみえて、泣き声や、婦人たちの悲鳴絶叫が聞こえ、それこそほんとに阿鼻叫喚というのか、地獄というのか、悲惨きわまるものでした。そのうち煙がだんだんひどくなり、息をしていられなくなり、のどがハリつきふさがってくるのです。そのうちに、子どもの悲鳴や婦人たちの絶叫がだんだん聞こえなくなってきました。おそらくあのとき、その人たちは亡くなっていったのでしょう。」

 凄惨この上ない話である。
 このフロアでの死者数は31名に及んだ。元々は69名ほどの人がいたと言われているので、ほぼ半数が亡くなったことになる。何故ここではこれほどの事態になったのだろう?
 理由は幾つかある。まず他の階と同様に防火シャッターが下りなかったことが第一。しかもこの階については木製の支柱で意図的にシャッターが下りないようにされていたという。
 また煙の流入経路は、階段やエスカレーターなどの全ての逃げ道を一気に断ってしまった。4階や5階では多くの人が「逃げ遅れ」により死亡したが、6階では「追い詰められ」がその原因だったと言えそうである。
 また、各階の窓にベニヤ板が張られていたことも大きい。消防の到着直後の状況を書いた時にちらりと述べたが、大洋デパートの窓はほとんどがベニヤ板で内側から塞がれていた。
 どうもデパートというのは外光が入ることを嫌うらしい。そういえば最近のデパートやスーパーでも、窓がついている建物はあまりない気がする。
 さらに大洋の場合は、改装工事の痕跡を隠すためか、窓以外にも天井にまでベニヤ板と紙が貼られていた。つまり大洋デパートのフロアは見事に密閉されていたのである。
 もちろん、それでも非常用照明設備や排煙設備、誘導灯などが完備されていれば、いい。しかし当時は工事中でそうした設備は一切作動していなかった。
 6階で被災した人々は、フロアの南東部分で死亡している。
 そこには従業員用の休憩スペースがあったのだが、位置的にその場所が最も煙の進行が遅かったらしい。先に証言を引用した従業員が逃げ込んだ場所というのも恐らくここだったのだろう。
 この従業員がどのような形で救出されたのかは不明である。だがこの窓からはロープで救助された人が多くいたそうなので、多分それなのだろう。
 この階でも、5階と同様に、従業員達は意味のない消火活動を行っている。避難誘導を行うべき彼らがその体たらくだったのだから、一般の買い物客がパニックを起こしながら煙にまかれていったのは当然の成り行きだったことだろう。
 人々のこうしたパニックの様子は、一体どんなものだったのだろうか。それをはっきりさせるには、7階フロアから屋上へ避難し無事に生還した人々の証言を俟たねばならない。

 

   9
 7階での火災覚知時刻は、13時25分頃とされている。
 ここでは北海道物産展という催し物が開催されていた。また食堂も多く、昼頃の時間帯ということで食事客も大勢いたのだろう、他の階に比べると257名と人の数も多かった。
 煙が最も早く進入してきたのはエスカレーター周りである。工事のため開口部が大きくなっていたらしい。そして例によって防火シャッターは動かず(工事途中で未完成だった)、フロアにはたちまち濃煙が立ち込めた。
 この時の状況について、物産展に出ていたアルバイト店員の学生はこう証言している。

「煙が立ち上ってくるなんてものじゃありません。シューシューいって耳をならしながら突きのぽり吹きあげるのです」

 エレベーター周りだけでなく、この階では階段からも煙と炎が激しく流入している。たちまちフロアはパニック状態になった。ここからは、当時食堂でレジ係をしてた女性の証言を引用していこう(証言の引用は全て『パニックの心理』より)。

「ちょうどお客さんのこない時間でしたので、自分はチケットを整理していました。すると、何人かのお客さんやウェイトレスがバタパタと入口の方にかけてくるのです。はじめ、きょうが最終日だから、だれか偉い人でも物産展を見にきたのかと思ったのです。どうしたの、ときいたら、火事よ、というのです。後を振り返ってみた
ら、白い煙が波の押し寄せるように客席の半ばまで迫ってきていました。それでとっさにお金の袋をとり出して、エレベーターの方に逃げ出しました。エレベーターは入口のすぐ前のところですが、すでに三〇人くらいの人が集まってエレベーターをまっていました。みるとエレベーターのサインが、2階のところをさしたまま動きません。このころはまだ電気がついていたのですが、だれか男の人が屋上に逃げろといいましたので、みんながいっせいに階段にかけより、かけ上がりました」

 この時点で、7階で使用可能な階段はひとつだけだった。フロアの東にあった、屋上直通の階段である。
 階段そのものは他にもあった。だが火元から直通しているため煙が充満していたり、途中で途切れていたり、遠い場所にあるため辿り着くのが容易でなかったりと、その他の全ての階段は実質的に使い物にならない状況だった。
 結果、人々はたった一本の階段を押し合いへし合い駆け上った。
 幅はたったの1メートル半である。そこに数十名の人々が押し寄せたのだからたまらない、ある人は避難者達の圧力によって身体が宙に浮かび上がり、足が階段についていない状態でもがきながら屋上へ運ばれたという。またある年配の婦人は、着物の裾を踏まれて倒れそうになったが、やはり人混みの圧力で押し上げられたお陰で踏み殺されずに済んだという。
 だがこの階段も、脱出口としての用を成したのはせいぜい2、3分程度だったと思われる。間もなくここも熱気流と黒煙の立ち上る煙突と化した。再び生存者の証言を引用しよう。

「途中で煙があがってきて煙を吸いましたし、屋上にあがったら、自分の上ってきた階段ロからもう黒煙がドス黒くふき出し、自分の後からくる人は、涙やハナを出し。すすで顔がくちゃくちゃに汚れていました」

 消防隊が7階へ到達した時、階段やエレベーター周辺からは、逃げ遅れたらしい者の遺体が見つかっている。フロア全体の最終的な死亡者数は29名に上った。また階段で死亡していた従業員は、残留者がいないかどうかを見届けたことで逃げ遅れたのではないかと言われている。

 

   10
 8階の屋上へ逃げた人々は、全員が救出された。
 ここには遊園地や、工事中の施設があったため、一般の客と工事関係者等を合わせて元々50名ほどの人がいたという。そこに7階からの避難者も加わり、最終的な人数は100名以上に達した。梯子車やロープのによる手助けももちろんあったが、それに清水建設の作業員が増設部分の足場へ誘導したりすることで、彼らは全て生還したのだった。
 また9階と10階からは犠牲者は出ていない。この2フロアは屋上からニョッキリ突き出た塔屋部分であり、どの資料を読んでも詳細はほとんど不明である。まあ先述の山口社長が出火当時10階にいたというから、役員室でもあったのだろうと想像できる程度だ。
 消防による救出活動は、彼らが現場に到着してからほぼ10分後に開始された。
 まず13時35分に男女2名が病院へ搬送されたのを皮切りに、15時55分までの間に27名が続々と搬送。そして梯子車、ロープ、スノーケル車を利用しての救出劇だったという。
 そういえば大洋デパートの救出活動と言えば思い出すのが、一人の女性従業員が下着を丸出しにした姿で救出されているシーンである。この映像は恐らく、大洋デパート火災にまつわるものとしては、あの焼け爛れたマネキン人形に次ぐ有名度なのではないだろうか。
 あの映像は、NHKをはじめとしてどのテレビ局もこぞって撮影しており、今だったら損害賠償を請求されてもおかしくないような激写ぶりである。今から考えると、非常時にテレビは一体何を映しとるんだと突っ込みを入れたくなる所だ。
 遺体の搬出が行われたのは16時20分からのことである。
 この時もまだ炎は燃え続けており、火災そのものが鎮火したのは21時19分。それから23時までに28の遺体が搬出されて、付近の寺や日赤病院へ運び込まれた。焼け焦げたものも多くあり、その後も行方不明者の捜索のために網で骨を篩い分けたとか、複数の遺体の部位が集まったものが一人分の遺体と勘違いされたという話まである。
 デパート側の対応はまるきり後手後手に回った。遺体は棺にも入れられないまま、毛布をかけられただけの状態で安置されていた。
 当時の写真週刊誌を参考にすれば、犠牲者に関する悲劇的な話をここでご紹介するのは簡単である。一家全滅、婚約直後の若い女性の死亡、消火活動に来ていた消防士の妻子がデパート内にいた……等々、耳を塞ぎたくなるような話ばかりだ。だが筆者はそういう話は正直好みではないので、ここはひとつ、生存者にまつわる話だけをご紹介しておこうと思う。
 大洋デパート火災では、煙から逃れるために高層階から飛び降りた者が複数人いた。ただ前年の千日デパート火災とは違い、それによる直接の死者はなかったようだ。その点は奇跡的である。だがその中でもひときわ目立って奇跡的なのは、6階の従業員Tさん(当時21歳)の飛び降りである。
 Tさんは当時、家具や家電の売場にいた。そこで煙に巻き込まれたという。
「それより少し前に『火事だッ』と誰かが叫んだような気がするの。どぎゃんしたらよかろうかと考えるひまもなかったんです」
「でもですね、消火器は全然役に立たなかったんですね。煙が強かですたい」
 煙にまかれながら考えたのは、「このままでは死んでしまう」ということばかりだったという。彼女は煙を避けて逃げた。
「あ、あそこは明るい。見える」
 そうして辿り着いたのが、例の6階フロアの隅にあった従業員用のスペースだった。
「事務所につくと、誰かが窓を割りよったのを覚えています。そしたら、ノドがすうっとして、明るくなった気がしましたですね。夢中で割られたガラス窓から顔を外へ突き出したとですたい」
 しかしそれだけではとても生きた心地はせず、遂に彼女は宙へ身を躍らせたのである。
「もう、息苦しさから逃げたいと思っただけですね。『お母さんッ』と呼ぶ気もしなかった。ただ、死ぬんだ、死ぬんだ、もう最期だ、と思ったのを覚えていますね。飛び降りる意識なんてなかったとですたい。ただただ、息を吸いたかった」
 実に地上10メートル、6階からの飛び降りだった。
「シタにアーケードがあるなんて思ってもみなかったとですね。落ちた瞬間ですか? 意識はありましたですね。足がグニャッとなって、痛くて痛くて仕方が無かったですね。意識の中では、落ちるまで2回転はしたと思います。無意識のうちに足から落ちたとですね」
 彼女が収容された病院の医師の話では、こういう飛び降りの場合は足首と踵の粉砕、骨盤骨折、背骨骨折などの怪我を負うのが普通だという。だがTさんは右大腿部の骨折と、その他擦り傷程度で済んだ。頭もやられなかった。
 他にも少なくとも2人、アーケード上に飛び降りた者がいた。だが4階から飛び降りた男性従業員は足の骨が粉々になり、Tさんと同じ6階から飛び降りた売場主任は頭から突っ込んで重態になり、その時は血まみれで倒れていた。
 同じ状況ならまた飛び降りるか、という週刊誌の記者の阿呆な質問に、Tさんは「今? できませんですたい」と答えたという。
 大洋デパート火災では、このように飛び降りによる怪我を負った人もいたし、またCO中毒で意識不明の状態で救出された人もいたという。よって後遺症を負った人も相当いただろうと筆者は想像している。
 こうして火災そのものは終わった。次は責任の問題である。

 

   11
 火災があったその翌日、即ち30日の時点で、死者は既に100人に及んでいた。内訳は男29人、女71人である。
 他にも、避難の途中に階段で転ぶなどして怪我をした者が11名。煙による気管支炎、CO中毒、ガス中毒などの憂き目に遭った者が22名。怪我と中毒のダブルパンチを食らった者が10名。アーケードへの転落やロープによる避難によって怪我を負った者が9名。そして増築部分からの避難中に怪我を負った者が7名。……これでは警察も黙っているはずがない。
 熊本県警は、さっそく大洋デパート火災捜査本部を設置し現場検証を始めた。
 捜査本部には、最初からひとつの仮説があった。
 まず失火者を特定しないといけないのは勿論だが、それとは別に、デパートの防火態勢の問題を指摘することも可能なのではないかという見込みがあったのだ。つまりデパート側を業務上過失致死で起訴できないか、ということである。
 意地の悪い見方をすれば、これは見込み捜査である。だが現場検証を行い、従業人たちから事情を聞いていけば行く程、この仮説は俄然妥当性を帯びてくるのだった。
 とにかく避難訓練はしたことがない、消火器の使い方は知らない、防災設備は使い物にならないと、なんだここはデパートはデパートでも欠陥防災設備の見本市じゃないか! と言いたくなるような状況である。熊本県警は、いよいよ12月7日には強制捜査に踏み切った。
 そしてさらに、熊本労働基準局も18日には、安全管理を怠ったとして3人の責任者を書類送検することに決めた。
 最終的に県警によって起訴されたのは5人である。事件からほぼ1年が経過した1974年の11月のことだ。まず当時の社長山口亀鶴氏。それから常務の山内氏。そして取締役人事部長Y、売場課長兼営業部第三課長M、営業部営業課員Sである。
 そして裁判が始まったわけだが、起訴された5人のうち、社長の山口氏と、それに常務の山内氏は共に一審の公判中に死亡した。恐らく、文字通り死ぬほどストレスが溜まっていたのだろう。常務の方については結局死因は分からずじまいだったが、火災当時買い物客を見殺しにして避難する形になってしまった社長の山口氏は、高血圧症で病院に入院している間に急性肺炎を引き起こして死亡したのだった。この2人は兄弟だった。
 死んでしまっては責任追及も出来ない。よって、裁判では残る3人が被告人席に立つことになった。
 この裁判の経緯については、簡潔に記しておこう。とにかく83年には一審で無罪判決、88年には二審で有罪判決、91年には最高裁で無罪判決と、長ったらしい上に結論が二転三転しているのである。
 最終的な結論を手短に言えば、「死んだワンマン社長がぜんぶ悪い」ということである。少し商法上の法解釈も入ってくるのだが、法的にも防火・防災の管理者は代表取締役一人であるし、実質的にも、被告の3名は大洋デパートの防火防災について何か助言をしたり方策を考えたりする権限は与えられていなかった、ゆえに責任を問うことは出来ない、という結論が下されたのだ。
 少し付け加えると、起訴された売場課長兼営業部第三課長のM氏というのは、デパートの3階で火災が発覚した当時、必死に消火活動と延焼防止の手立てを講じたあの人である(資料によっては主任と書かれているのだが、この辺りの矛盾の理由はよく分からない)。彼もまた、火災発生時には最低限出来る限りの消火活動を行ったとして、細かな判断のミスは不問に付された。
 ちなみに、火災の原因は分からなかった。確かに火元の場所は間違いないし、そこが普段から従業員の喫煙所と化していたことも事実だし、その焼け跡からは吸殻も見つかっているという。……だがその煙草を吸っていたのは誰なのか? それは本当に出火原因なのか? 山と積まれた段ボール箱がその程度で燃え広がるものなのか? 等々の疑問が実験に実験を重ねて検証されたというが、この失火の原因は今に至るまで不明のままである。
 さて刑事裁判についてはこの調子で、誰にも責任を負わせられないまま終了した。関係者にとっては後味の悪い判決であったことだろう。
 だが、民事に関してはきちんと事が進んだ。
 そもそもデパート側は火災によって商品だけでも20億以上の損失を蒙ったのだが、被害者への補償や見舞金等々も当然払うことになった。
 で、その損害賠償請求額だが、これが総額30億にまで上ったという。これは最早公害補償並みで、内訳は死者1人につき3,300万円、その配偶者に600万円、その父母には300万円というものだった。 
 さすがに熊本有数のデパートとはいえ、これは全額耳を揃えて払えという方が無理だ。デパート側は遺族や負傷者との間で示談や和解を成立させ、何とか一部を支払い、さらに負傷者の治療費負担の軽減に尽力。また死亡した山口社長の遺族も、22億円あまりの私財を会社に提供し被害弁済に協力し、昭和56年、1981年3月31日までには総額12億5687万円の弁済を行ったと裁判の記録には記されている。
 大洋デパートは、正式には「株式会社太洋」の本店という位置付けの建造物である。上述の被害弁済は、株式会社太洋による会社更生手続きの一環として進められたものと思われる。この時既に、この企業は倒産していた。

 

   12
 ここからは、「大洋デパートその後」の話である。
 以下に記述するのは、公的な資料に基づいたレポートばかりではなく、ネット上の噂話めいたものを集めた部分があることも、あらかじめお断りしておく。
(ネット上の記述と、書籍として出ている記録の、どこまでが公的でどこまでがそうでないのか、曖昧に感じる所もあるが)
 実は、大洋デパートは、火災当時の社長達が起訴されてからほぼ1年後の1975年11月16日には再オープンしている。いやはや、あれだけの火災を起こしながらよくもぬけぬけと、などと言ったら言い過ぎかも知れないが、とにかく凄まじい生命力ではある。
 もちろん、今度は防災設備は完備されていた。ただ、防災を最優先させるあまり売り場面積の縮小を迫られたり、柱が補強のため馬鹿でかくなってしまったりと、やはり影響は引き摺っていたようである。再生大洋デパートは、結局この翌年に倒産してしまった。
 こうして株式会社太洋は被害債務を弁済するためだけの企業と化してしまった訳だが、ネット上で調べていた時に、株式会社太洋という法人そのものは今でも残っている、という記述を見た記憶がなくもない。申し訳ないことにどこで見たのかという記憶も定かでないのだが、もし本当ならばつくづく物凄い生命力である。
 大洋デパートの話はもう少し続く。1979年の10月には、デパート跡地に「熊本城屋」というデパートがオープンした。これはユニードというスーパーマーケット企業が出資した店らしいのだが、この5年後の84年にとんでもないことが起きた。この熊本城屋の1階で火災が発生したのだ。
 おいおい、またかよ!
 その時はボヤで済んだらしい。だが歴史とは奇妙な繰り返し方をするもので、これが大洋デパートの同じように改装工事中の火災で、しかも火災報知機が鳴っているにも関わらず、店は「これは火災ではない」と主張したとか。言うまでもなく熊本城屋はマスコミから叩かれ、店員達は地域の家々に詫びて回ったという。
 実に大洋デパート火災からおよそ10年後の出来事である。地元の人々は何を思っただろう。あの日、建物の隙間という隙間からもくもくと噴き出し、日差しすらも遮ったという怪物のような煙を思い出した者も多かったのではないだろうか。 
 そしてさらにその後の経緯だが、これは正直、情報がごちゃごちゃしていて何がなんだかよく分からない、というのが本音である。
 熊本城屋に出資してたユニードがダイエーと合併したとかしないとか、それに伴って熊本城屋の店舗名が城屋ダイエーとかダイエー城屋に代わったとか、最終的には単なるダイエーになったとか、なんか色々と紆余曲折があったようだ。少なくともその後、火災は起きていないようである。
 こうして現在、大洋デパート跡地には「ダイエー熊本下通店」がある。
 かつてこの建物の横には巨大な慰霊碑があったが、現在はそこから程近い白川という川の河川敷に移されており、今でも遺族が慰霊に訪れるらしい。
 そういえば慰霊碑と言えば、筆者にとってこの火災の最大の謎は「デパートの正式名称」である。公の記録などを読むと、火災を起こしたあのデパートは大抵は「大洋デパート」と書かれている。だが慰霊碑に刻まれた文字や、火災当時の建物の写真を見ると、そこにははっきり「太洋」と書かれているのである。点がついているのだ。
 不思議なことにこの矛盾を正そうとする文章は一度も見たことがない。こんな事柄からも、今やこのデパート火災がいかに「忘れられた災害」であるかが思われるのである。
 この火災の翌年には消防法も改正された。
 法律の原則に「遡及適用の禁止」というものがあることは一番最初に述べたが、1974年の消防法の改正で最も画期的だったのは、この法律の大原則に例外を定めた点であろう。公共的要素の高い旅館やホテル、デパート、病院、地下街などについては、過去に建造したものであっても現在の基準に適合させるよう義務付けたのである。
 筆者が思うに、戦後の建造物火災の頻発と、それに伴う法令強化のイタチごっこはここに至ってようやく決着をみたのだ。消防法は、近代法の大原則を踏み越えるという掟破りをあえて行うことで、戦後日本の建造物火災という黒歴史にピリオドを打った。その最後の決定打になったのが大洋デパート火災だったのである。
 消防関係の法令や条例の厳格さについては、今でも熊本市は全国一であるという。

 

(大洋デパート火災・了)

 

【参考資料】
 ◇『建設庁大洋デパート火災事故調査委員会調査報告書』昭和49年3月
 ◇阿倍北夫『パニックの心理』講談社現代新書
 ◇杉山孝治『災害・事故を読む』文芸舎
 ◇朝日新聞・昭和48年(1973年)11月30日~平成3年(1991年)11月15日
 ◇第一法規『判例体系』
 ◇ウィキペディア他
 ◇消防防災博物館-特異火災事例
 ◇アサヒ芸能「人ごとではない大洋デパート大惨事」1973.12.13
 ◇週刊新潮「グラビア 死の商戦 熊本・大洋デパートの恐怖」1973.12.13
 ◇週刊新潮「今だからいわれる「熊本・大洋デパート山口亀鶴社長は葬儀屋から出世した男」1973.12.13
 ◇週刊平凡「熊本・大洋デパート 史上最大のデパート惨事!いま涙をさそう2つの悲話」1973.12.13
 ◇週刊朝日「グラビア 100余人の命を奪った巨大な火葬場 熊本・大洋デパートの火事」1973.12.14
 ◇週刊朝日「大洋デパート惨事の教訓 生死を分けたこの人間ドラマ」1973.12.14
 ◇週刊ポスト「大洋デパート惨事の危険はこんなに転がっている 歳末商戦たけなわ!考えてもゾーッとする」1973.12.14
 ◇週刊読売「6階からとびおりて助かった女性「奇跡」の内容 大洋デパート火事」1973.12.15
 ◇女性自身「熊本現地取材・大洋デパート大惨事 黒コゲの新妻にすがりつく若き夫」1973.12.15
 ◇サンデー毎日「熊本・大洋デパート炎上 歳末商魂の中に消えた101人」1973.12.16
 ◇週刊文春「デパート惨事の火元は「代理戦争」?大洋デパート惨事」1973.12.17
 ◇平凡パンチ「歳末のデパートは恐怖の焼場だ!!熊本の惨事が教える百貨店の致命的な欠陥」1973.12.17
 ◇ヤングレディ「緊急解く方 悲惨!熊本デパート火災!猛火に出会った100人 地獄に誘いこまれた運命」1973.12.17
 ◇女性セブン「大惨事のかげの悲しみのドラマ 熊本・大洋デパート」1973.12.19
 ◇週刊女性「これを読んでからデパートで買い物を!緊急提案 大洋デパート惨事に学ぶ」1973.12.22
 ◇週刊新潮「ワンマン社長亡きあとの大洋デパート経営陣 欠陥デパートの山口亀鶴社長が病死した」1974.12.19


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酒田大火(1976年)・上

「おうちが やけた」 一年 おがた さとこ(新井田町)
 
みんなでごはんをたべていたら、となりのおじちゃんが「どこかがかじだぞ。」とあわててはいってきました。
 
わたしはごはんをはんぱして、みせの二かいにいって空をみました。グリーンハウスから火がでていました。
 
おじいちゃんが、ごはんをはんぱして
「おれ、みいてくっさげの。」とでていきました。
 
どうろにでてみると、空がまっかで、すごいかぜです。
 
きんじょの人たちは、車ににもつをいっぱいつんでいる人や、あたまの上までしょって、はしっていく人がいっぱいです。そのべさんの車には、じてんしゃをいっぱいつんで川ばたのほうに はしっていきました。
 
おじいちゃんもかえってきてうらにおちてくる火のこをふくでたたいていました。
 
そのうちに、ジャンパーの男の人が
 
「ひなんせー」
 
と大ごえではしってきました。おばあちゃんが
 
「じぶんのものどご、かばんさいっでもてこい。」
 
といいました。わたしは、入学式に買ってもらった筆入れも入れました。お姉ちゃんは、このまえかってもらったさいふももちました。ことりのみみと、犬の、チロも、いっしょに車にのせました。
 
車のうしろをみると、どんどん火が、こっちのほうにきました。わたしは、はんぶんなきながら、もう、おうちはやけるな、と、おもいました。
 
おかあさんたちは、まだのこりました。
 
ゆう子おばあちゃんのいえにつきましたが、まっくらで、なんにもみえません。でんちでしましたが、だれがだれだかよくわかりません。カバンをおろして
「さとこねむて。」というと、
「ふとんしいてやっがらまってれよ。」
と、すぐしいてくれました。ふくのままでねました。
 
あさ、「さとこ、え、みなやけた。」
 
と、お母さんがいいました。わたしはなきました。ねえちゃんも、おかあさんもなきました。
 
おじちゃんから、車でがっこうへおくってもらいました。
とちゅう、とおるくんのうちも、さとみちゃんのいえもみかちゃんのいえも、みんな、やけていました。
 
   ☆
 
 酒田大火――。1976(昭和51)年10月29日の夕方から深夜にかけて、山形県酒田市の繁華街を焼き尽くした火災である。
 火元は、中町という場所にあった「グリーンハウス」という映画館だった。
 このグリーンハウスは、当時としては日本一か世界一かと言われるほど斬新な映画館だった。中には喫煙可能な特別個室や十名限定のミニシアターなどというものがあり、さらには演奏会やファッションショー、小演劇まで行われていたというからすごい。もはや映画館というよりも、ちょっとした総合文化施設である。
 映画産業が不振だった当時でも黒字経営を続けており、今でも山形県内では知る人ぞ知る伝説の映画館として語り継がれているこのグリーンハウス。しかしその末路は、街を焼き尽くした大火の火元という極めて不名誉なものだった。
 時刻は17時40分。映画館の従業員が、ボイラー室の周辺できな臭い匂いが漂っていることに気づいた。しかも停電も起きており、ただ事ではない。
 火災報知機のベルが鳴動したのは、ちょうどそれらの異常を支配人に報せに行った時だった。支配人は消火器を手にすると、火元と思われるボイラー室に向かって駆け出した。
 ところがボイラー室は施錠されており開かない。2階から侵入を試みるも、すでに黒煙が充満しており近づくことはできなかった。もはや素人の消火活動ではどうにもならない状況である。
「火事だ! 消防に電話してくれ!」
 支配人は大声で指示を出し、窓から避難している。
 いつもならばここで、やれ通報が遅かっただの初期消火がの手際が悪かっただのとケチをつけるところだ。だがこの後、街全体が消し炭と化した恐るべき事実に比べれば、そんなのは瑣末事であろう。
 グリーンハウスの火事そのものは、確かに初期消火にもたついているし、通報も遅れている。だが避難誘導はきちんとなされているし、出火原因も不明だ(最終的に、消去法で漏電という結論に落ち着いた)。グリーンハウスの従業員に目立った落ち度はない。街全体が焼けたのは、端的に言って消防体勢と消火設備の不備のためである。
 また運も悪かった。最悪の天候だったのだ。この日の山形県の気圧配置は絵に描いたような冬型で荒れに荒れていた。内陸部では初雪を観測しているし、まして酒田のような海沿いの町ともなれば、強風が吹き荒れるのはごく自然なことだった。
 17時50分。通報を受け、消防はさっそく出動した。駆け付けた消防士たちは、まず建物内での消火を試みている。しかし時すでに遅しで、間もなく炎と濃煙と熱気が押し寄せてきて隊員たちは退却を余儀なくされた。
 どうやら、火炎に対して積極的に攻勢に出るのは難しそうだ。そこで消防隊は、せめて延焼だけは防ごうと、防御の態勢で臨んだ。グリーンハウスの風下では、木造二階建てのビルが密集していたのだ。隊員はグリーンハウス周辺の一角を取り囲むようにして、屋根に上って放水を始めた。
 ところが、今度は隊員たちの身に危険が迫ってきた。グリーンハウスをみるみるうちに焼き尽くした火炎が、強風に煽られて襲いかかってきたのだ。トタン屋根も焼けた鉄板と化し、隊員たちもアチアチアチチ、と下りざるを得ない。火力はちっとも衰えなかった。
 とにかくぜんぶ強風のせいだった。風があまりに強すぎ、炎を煽る上に消防の放水も飛び散らせてしまう。水を撒くだけ無駄という状況だった。
 火の粉も凄まじかった。地面といわず中空といわず辺り一面を覆い尽くし、赤い吹雪のように消防隊員たちの視界を遮るのだ。あげく目に入って痛いのなんの、とても開けていられない。さらに現場周辺では、、煙と熱気のコラボレーションで呼吸もままならなかったというから、もういかんともしがたい。もはや消火どころじゃなかった。
 こうして、延焼を食い止めることは遂に叶わなかった。吹き続ける強風によって火の粉と火の玉が飛散し、木造の建物に次々に燃え移っていく――。大火事である。
 日も暮れた東北の海辺の町で、サイレンがけたたましく鳴り響く。消防隊は非番の職員も全て駆り出して戦力を増強していった。しかし皮肉なことに、人員が増えれば増えただけ、隊員たちは火炎によって翻弄されていった。
「おい、こっちに燃え移るぞ、ホースを伸ばせ!」
「届かないっす」
「だったら他のホースを繋げ」
「みんな使っちゃってます!」
 カンカンカン、ウーウーウー。野次馬や、心配になって様子を見に来た近隣住民たちも集まり始めた。真っ赤に染まる闇空。その真下では、風に煽られて撒きあがる火炎が見える。場は混乱の極みだ。
「皆さん危険ですから近寄らないで下さい! 消火の邪魔になります! 近寄らないで下さい!」
「他の消防車をこっちに移動させろ、応援を呼べ!」
「うわっまた火がついた!」
「危ない、そこの消防車こっちに来るな! 今その建物に火がついた、さっさと移動させろ!」
 強風は止まない。消防の放水も火の粉もいっしょくたになって消防隊員、警官、野次馬たちに降り注ぐ。しかも、そうこうしているうちに今度は風向きが変わったからさあ大変。人々は逃げ惑い、翻弄されっぱなしだった。
「うわっ火の粉が目に入った、目がぁ~、目がぁ~!」
「ぎゃあッ、ホースが焼き切れた!」
「ぼやぼやするな、あっちの火を消せ、その次はこっちだ、くっそー熱い!」
「おい崩れるぞ、逃げろ~ッ!」
 酒田市の冬の空が真っ赤に照らされる。出火から20分が経過した18時頃の段階で、火の粉は1キロ先の酒田駅にまで飛来したという。
 その少し前、17時53分に通報を受けていた山形県警では、県内の警察署に指示を出して厳戒態勢を敷いた。出火からそう時間は経っていないが、これは迅速な措置だった。この火災はタダでは済むまいという予感があったのだろう。なにせ当時、酒田市には強風波浪注意報と海上暴風警報が発令されていたのだ。
「全署員出動せよ! それから山形、天童、寒河江、村山、尾花沢、新庄、余目、鶴岡、温海の各署にも応援を要請し、全警官に待機命令を出せ。おっとそれから機動隊も呼ぶんだ」
 いやはや、県警も本気である。山形県民でないとピンと来ないかも知れないが、県内の上半分の地域の主たる警察署が全て応援要請を受けたのだ。さらにこの後には、北隣の秋田県からも応援が駆け付けている。ありがとう秋田県、感謝してるぜ! 鳥海山はあくまでも山形のものだけどね!
 18時10分には、酒田警察署に「酒田市繁華街大火災警備本部」を設置した。グリーンハウス付近の交通規制を行い、近隣住民には風上へ避難するよう誘導を始めている。
 18時30分頃になると、この火災は「何件かが焼ける」程度のものではなくなっていた。グリーンハウス周辺の建物をすっかりねぶり尽くした火炎は、気がつけば街区単位でその魔の手を拡大させていたのだ。火災の拡大が、次の段階に入ったのである。
 きっかけは「大沼デパート」に炎が進入したことだった。熱で窓ガラスが壊れ、そこから火が入り込み、5階の窓から火炎放射器のような勢いで噴き出し始めたのだ。窓ガラスの破壊によって風通しがよくなり、強風がもろに吹き抜けるようになってしまったためだった。デパートは中町通りという大通りに面して建っていたのだが、それが炎を噴出したことで、火の粉と火の玉が通りを飛び越えて飛散したのだ。
 これにより、向かいの街区の建物に次々に着火。19時30分には消防も移動し、こちらへの延焼を食い止めようとするがこれもダメ、火勢と強風が凄まじくいかんともしがたい。撤退線を余儀なくされた。
 そこへ来て、またしても風向きが変わった。北へ北へと移動していた炎が、今度は東側へ流れ始めたのだ。それだけでももう「勘弁してくれよ」と言いたくなるが、この風はさらに南へぐるりと回転。Uターンする形で、さらに別の街区へも及び始めた。
 消防関係者はさぞ泣きたい気持ちだったろう。炎は強風で煽りに煽られ、密集した建物の隙間に潜り込む。そして周辺を舐めつくしたあげく彼らに襲いかかり、消火活動の邪魔をするのだ。
 映画館グリーンハウスからスタートしたこの火災は、こうして「大火」の様相を帯びていった。
 
   ☆
 
 ところで「大火」の定義とは何だろうか。
 結論を言えば、明確な定義は特にない。ただ広範囲に渡って何件もの建物を焼けば、それが大火と呼ばれるだけだ。
 明治時代以降、学者などは便宜的に定義づけたりしているようである。だが定説になっているものはなく、おそらく一般的には大火の定義などどうでもいい問題なのだろうと思う。
 だが「大火」という言葉には、やはり「小火(ボヤ)」とは区別される独特のイメージがある。空が真っ赤に染まり、街が焼け、多くの人が焼け出される。パニック、騒音、飛び交う怒号……。酒田大火はまさにこうしたイメージ通りの出来事だった。
 もともと、山形県酒田市という地域は「大火の名所」でもある。とにかく風がやばいのだ。
 海沿いの港町ということで、まず冬季にはシベリアからの季節風が吹き込んでくる。また湿度の低い3月から5月にかけては、フェーン現象とダシの風によってひどいことになる。そんな中で一度出火すれば消火は極めて困難になる、それはこの街の昔からの伝統でもあった。
 しかも、水利も悪い。もともと砂丘の上に作られた町なので、掘って水を引き入れるのが難しいのだ。
 そんな環境なので、明暦から幕末までの間にも火災は68回起きており、うち45回は100戸以上が被害に遭っている。5年に1回は火がついている計算だ(明暦以前はまともな記録がない)。
 1976(昭和51)年の酒田大火は、そんな酒田市の歴史の中で見れば実に久方ぶりの「忘れた頃にやってきた」人災であった。それも全国的に見ても焼損棟数の規模は戦後の大火でも5番目、山形県内で見れば最大のものである。
 さらに言えばこの事例は、カラーで撮影され記録された大火事例としては、日本史上最初で最後のものである(地震による火災を除く)。
 その後のことを少し先回りして述べておくと、この大火後の復興作業は実に迅速なものだった。その異例ともいえるスピードと手際の良さは、あの阪神淡路大震災の時にも参考にされたといわれている。
 これらの観点から俯瞰して考えてみると、こういうことが言えると思う。この酒田大火というのは、災害史上における近代以前・以後の結節点にあたるものである――と。
 この昭和50年代くらいになると、大火というのは過去のもので、火災の古臭い形態のひとつとしてしか記憶されていなかった。鉄筋コンクリートの建物がほとんど存在しない、前近代的な地域でしか起こり得ない災害というわけである。記録として残されている他の県の大火の写真も、実際みんな白黒だ。
 それが戦後の現代社会で、突如として蘇ったのが酒田大火だったのである。そしてなお、後世の災害復旧でもその記録は役立てられている。大火自体は不幸なことではあったが、このような形で一度丸焼けになったのは、神様が酒田市に割り振ったひとつの「試練」であり「役割」だったのではないかという気もするのだ。街全体が破壊されるような災害が決して過去のものではないということを、日本人はこの大火によって一度思い知らされたのである(注:ちなみにこの文章を最初に書いたのは、東日本大震災が発生するよりも前のことである)。
 まあ筆者は山形県民なので、こうやって酒田大火をちょっと「持ち上げ」ておきたい気持ちもあるんだけどね。
 とりあえず話を戻そう。
 
   ☆
 
「火のたまがとんできた」一年 すず木 しげのり(新井田町)
 
そらが まっかになって、
ひのたまが とんできた。
しょうぼうしゃが水をかけても きえなかった。
ちかくの にいだ川が あかくなった。
みんなは、
「だめだ。」
といって にげた。
僕も、かばんやえんぴつけずりやおもちゃをもって、にげた。
おかあさんのともだちのうちににげた。
「ねれ。」
といわれたけど、ぼくは ねれなかった。
ぼぼぼぼぼっと やけたかじ、
おもいだすと おっかない。
おとうさんが おるすじゃなかったらよかった。
 
   ☆
 
「ただいま中町で火災が発生しました。現在も延焼中です。近隣にお住まいの方はただちに避難して下さい!」
 市の職員や警官が、メガホンでもって呼びかける。
 実際には、住民の多くは自主的に避難していた。外の騒ぎを聞きつけて非常事態を察知したのだ。
 道路は、避難する市民と、彼らの荷物でごった返した。
 筆者は、この時の情景を想像するに、えもいわれぬ感慨をおぼえる。夜闇の中、煙と火の粉と強風を浴びながら、人々はあの酒田の街をぞろぞろと歩いて行ったのか。真っ赤に染まる空を背にしながら――。
 しかし、皆が皆、素直に避難したわけでもない。立入禁止になった区域へ強硬に入り込もうとする者もいた。
「通してくれ、俺の店の商品が焼けちまう!」
「大事な家財道具を忘れた。ちょっとでいいから戻らせてくれ!」
 と、こんな具合である。もちろん警官らは全力で彼らを説得し、時には実力行使という形でもって対抗した。
 また当時の記録を読んでいて個人的に印象に残ったのは、動物に関するエピソードである。避難の時に家を飛び出し、それきり行方不明になった飼い猫の話。また一緒に避難できないからと、逃げる際に別れを告げざるを得なかった小鳥。見捨てて逃げざるを得なかった飼い犬が、焼け跡でもきちんと生存しており飼い主の帰宅を待っていたなどというエピソードもあった。避難活動ひとつ取っても、ひとりひとりにこうしたドラマがあるのだなと改めて感じる。
 消火活動に対する要望も尽きなかった。
「俺の家が燃える。消防のホースをもっと入れてくれッ」
「よせよせ、この強風じゃ水だけでは消せないよ。破壊活動をやって対処しろ!」
「400リットルの工業用油が保管してある。持ち出さないと危険だ~っ」
 消防隊員にしてみれば、んなこたぁ分かってるよ! いいからさっさと避難してくれ! と言いたいところだったろう。混乱しきりである。そりゃま、住み慣れた街が、そして我が家が、目前で焼けようとしているのだから落ち着いていられるわけもないのだが――。
 現場周辺ではデマも飛び交った。やれ火事場泥棒が出ただの、どさくさに紛れて婦女暴行を働いた奴がいただの、煙の中を白狐が飛んでいっただのと、さすがにここまで来ると「少し落ち着け」とも言いたくなる。
 こんな調子ではあったが、とにかく人々は命からがら公民館や小学校に避難した。この時、火の粉がまるで吹雪のように舞っていたというのは、酒田大火を体験した多くの人が証言しているところである。
 また火の粉のみならず「火の玉」も恐ろしい。延焼し焼け落ちた家屋から焦げた板きれ、紙くずなどが飛び出してくる。もっとひどいのになると瓦屋根、雨樋、外壁、看板の破片などがコブシ大の火の玉になって飛散するものだから、火災はネズミ算式に拡大していく。いったい次はいつどこに延焼するのか、予想できる者は誰もいなかった。
「家やげだ人たち、グリーンハウス恨んでだがもの」
「ほんなごどね、しかたないもんだ」
 避難した先で、人々はこんなことを言い合いながら恐怖の一夜を過ごしたのだった。
 
 

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酒田大火(1976年)・下

 大沼デパートに延焼したあたりから、戦況は泥沼化。消防関係者たちは、なんとか消火の糸口を掴もうと躍起になっていた。
 天候は、相変わらずの強風に加えて雨も降ってきた。もちろん生半可な雨で大火が収まるはずもなく、雨水を吸った泥のような煤が街中に散らばり、火の粉と共に宙を舞っていく。
 それでも、20時頃には一度だけ延焼の勢いが弱まった。大沼デパートの東にマルイチ中町マートという商店があったのだが、ここに炎が入り込んだのである。南北に長い建物だったため、火炎の通過に時間がかかったのだ。
 もちろん決して火が消えたわけではない。この商店を通過した炎は、結果として一街区を横断する形になり、向かいの街区へ延焼をもたらす結果となった(この中町マートの中で消火することはできなかったのだろうか?)。
 こうして延焼は続く。まだ戦いは始まったばかりだった。この大火は、ここまで焼けた範囲の、さらに数倍の面積をこれから焼き尽くすことになるのだ。
「こんな火事、どうやって消すんじゃい!」
 消防関係者の嘆きの声が聞こえてきそうだ。
 負け戦の泥仕合である。彼らの疲弊も著しかった。
 当時、例えば消防団は、酒田市のほぼ全域の団員が出動したという。だが、よもやこんな事態になるとは思わず軽装で出てきた者も多くいた。
 皮肉なものである。降雨はちっとも消火の足しにならず、薄着の消防団員を凍えさせるばかり。まさか炎で暖を取るわけにもいかないし。
 もっとも厄介なのは、街中のそこいらに飛び散った火の粉や火の玉だった。ヤツらは建物の看板の陰や、屋根の低い部分などにゲリラのように潜り込んでいる。消防隊は梯子を使って屋根から屋根へと渡り、それを片端から消して回らなければならなかった。
 それに水も足りない。水の使用を控えるよう住民に呼びかけたものの――みんな避難しているんだから使用もへったくれもないわけだが――それでも消防隊はあっちで放水、こっちで放水と盛大にやっているため、結局は共倒れになる。どうしようもない。
 目をやられる者も続出した。火災発生から1~2時間の間に、ほとんどの消防隊員が目をやられている。激痛でとても開けていられなかったという。火災には慣れているはずの隊員でも体験したことがないようなひどい症状で、指でまぶたをつまみ上げないとものが見えない。その上、水で目を洗おうものなら飛び上がるほどに痛むのである。輻射熱と火の粉による結膜炎だ。
 そうした隊員たちはとりあえず病院送り。麻酔薬入りの目薬のおかげでようやく症状は和らぎ、また現場へ。でも煙が怖いので、今度は放水を腹ばいで行ったという。
 彼らの仕事は、直接的な消火活動ばかりではなかった。危険物の撤去なども重要な使命である。例えば街の駐車場に停めてあった車などがそうで、ガソリンに引火しないよう移動しなければならない。だが持ち主が避難しており施錠されていたらどうしようもなく、これは消防団や消防隊員がひとつひとつどかしたという。
 タチが悪いのは、野次馬の乗り捨てた車だった。とにかく無造作に放置してあるので、ダイレクトに消火の邪魔になる。このへんはもう、ガラスをぶち破って移動させたそうな。
「街が焼ける」とひとくちに言っても、避難や消火以外に、このように様々な要素があるのである。消防関係者以外にも、火災対応で出動した職業人たちは大勢いた。例えばガス屋さんである。家々に備え付けられたプロパンボンベは、火災発生と同時にただちに業者が回収し、回収し切れない分も爆発だけはしないように処置がなされたという。
 また東北電力も頑張った。最初、消防だか警察あたりから「不安を起こさないように、街をできるだけ停電させないでくれ」と要請があったらしい。これを受けて、東北電力酒田営業所の従業員はぎりぎりまで電柱で粘り、火炎の迫った区間からひとつひとつスイッチを切って回った。
 電柱の変圧器の中には、火災によって爆発したものもあったという。電力会社の職員だって命懸けだったのだ。
 こうして戦争は続く。警官の中には、真っ赤な炎の白鳥が空を舞うのを見た、などと言い出すのが出てくる始末。そして寒さと疲労、長時間の泥仕合と来れば、次の問題は「空腹」だ。腹が減っては消火もできぬ。このままでは士気も下がると、一時帰宅を許された消防団もあった。また農協の婦人部は千人分の炊き出しも行っている。
 おにぎりとお茶の差し入れをしてくれたおばさんは、警官にこんな風に声をかけたという。
「やれ、若いしゅドゴ、めじょけねちゃ。若いうちだばすぐ腹減るもんだでば、めじょけねちゃ」
 ちなみに「めじょけねちゃ」とは「可哀想だ」という意味だ。この差し入れを受けた警官は、泣いた。
 
   ☆
 
 21時頃になると、火災は商店街に及び始める。
 酒田市一の繁華街・中町通りはアーケードによって飾られており、当時としては近代的な造りだった。だが酒田大火ではこれが完全な仇となり、アーケードの屋根の上と下でそれぞれ火がつくという二段攻撃に、消防隊員たちは苦戦を強いられた。
 もともと、アーケード自体が放水の邪魔だったのだ。また商店街はどの店もシャッターを下ろして施錠していたため、屋根に上るのも難しい。看板も邪魔だ。これは完全に「恨みのアーケード」であった。
 そうこうしているうちに22時。火炎は中町通りと内匠(たくみ)通りという二本の道路を、強風に乗って流れていく。
 この二本の火炎流は、交互に火の勢いが入れ替わったり、またある時には交わったりと、まるで有機体のようにうねりながら街を舐めつくしていく。23時頃までには中町、浜町、新井田町へと延焼していった。
 消防も、もうこの火災は普通のやり方では鎮火できないと判断。延焼を食い止めるために、炎の流れに対して横から放水するなどの方策を取っている。だが水もホースも足りない、隊員は疲労困憊、延焼の範囲が広すぎて命令も上手く伝わらないという状況で、効率は下がる一方だった。
 そして23時ちょうどに、消防本部ではついにある決断が下された。破壊消防を行うことになったのだ。
 破壊消防とは何かというと、延焼を防ぐために、焼けそうな建物を前もってぶっ壊してしまうというものである。火炎に真正面から立ち向かっても敵わないならば、可燃物を絶つ兵糧作戦でいこうというわけだ。
 もちろん、これは一般市民からすれば素直に許容できるものでもない。「消火を諦めて、俺たちの家をぶっ壊す気か!」まあ当然、そういう意見も出るだろう。
 だが、だからこそ「決断」なのである。これ以上の火炎の拡大を抑えるには他に方法はなかった。
 そしてさらに、もうひとつの決断が下された。消防は遂に最後の防衛線を定めたのだ。
 火炎は、いまだに強風であおられ街中を呑みこもうとしている。その進行方向に対して垂直に横切る形で、一本の川があったのだ。この南北に伸びる川は、新井田川といった。
 消防の決定が下される――。
「新井田川の堤防に消防隊を配置せよ。放水によって水の幕を作り、火の粉の飛散を止めるのだ」
「それでも防ぎ切れない飛び火があったらどうします」
「さらに後方にも消防隊を配置する。川向こうの市民にも協力を仰いで、飛び火に対する警戒態勢を敷け。絶対に、新井田川を越えた先では火災を起こさせるな!」
 新井田川は、消防隊にとっては最初にして最後の「地の利」だった。南北に流れるこの川は、ちょうど押し寄せる火炎に対して通せんぼする形になっている。また水も豊富だ。ここで消せなければ末代までの恥、消防関係者の踏ん張りどころである。
 火災との最後の対決が始まったのは、深夜の12時を回った頃だった。
 まずは破壊消防である。これはもう駄目だと判断された家屋が、ショベルカーで壊されていった。
 そして新井田川だ。押し寄せる火炎は、川にほど近い一番町と新井田町をついに呑み込み始め、いよいよ川向うの東栄街、若浜町、緑町方面へと火の粉と火の玉を飛び散らせ始めた。
 呑み込まれたふたつの町は、たちまち火の海である。大火を海に例えれば、迫りくる火炎はさしずめ高潮か津波のようなものだったろう。
 火の手が目前に迫る新井田川の岸に、40台の消防車が配置された。さあ、火の粉封じの一斉放水である。
 やい消えろ、いい加減に消えやがれ――!
 また幸運なことに、激しい雨が降り始めていた。これによってさしもの大火もようやくその勢力を弱めていく。
 ……こうして火災は鎮まっていった。炎は新井田川を越えることはなく、完全に鎮火したのが午前5時のこと。およそ10時間に渡って街中を焼き尽くした怪物は、夜明けを待たずに消えたのだった。
 焼失面積は22万5千平方メートル。焼けた建物は1767棟、被災者は約3,300名。被害総額は405億円と、気の遠くなるような被害状況である。
 火災の翌朝、街はその無残な姿を人々の前にさらした。
 焦土と化した街に、信号機やアーケードの骨組みだけがむなしく残っていた。まるで空襲のあとだ。焼け出された人々は、雨の中で傘を差しながら、変わり果てた街を見て回った。
 さて、これからが大変である。
 なにせ街がまるまる一個、しかも市一番の繁華街が灰燼に帰したのだ。この地域が人々の生活の場として復興を遂げるまでは、これからおよそ3年の月日を俟たなければならない。
 
   ☆
 
「やけあと」 二年 とよだ たけはる(新井田町)
 
やけあとにいきたいなあ。
どんなふうになっているか、いきたいなあ。
ぼくは、やけあとをいちども見ていない。
僕は、心で思った。
僕の家はどうなっているかな、
あとかたなく、せいりされているかな。
やけあとは、せいりしてあって、
一けんか、二けん、おみせがたっただろうな。
やけあとを通りたいなあ。
でも、おかあさんはいそがしくて、
つれていってくれない。
だか、ぼくは、いつも、心で思う。
心で思えばそこへ行かなくてもいいんだ。
 
   ☆
 
 その後の話である。
 まずは犠牲者のことを説明しておこう。この火災における死者数は1名。一般市民ではなく消防関係者で、いわゆる殉職である。
 名前を挙げておこう。当時の酒田地区消防組合消防長・上林銀一郎氏である。享年57歳。筆者の手元には氏の生前の写真があるが、いかにも責任感の強そうな「親分」ふうの顔立ちである。
 消防組合の消防長といえば重要ポストである。この上林氏、実はグリーンハウスでの出火直後から行方不明になっており、そのため消火活動中も現場では若干の混乱が生じていたのだった。
 氏の遺体が発見されたのは、火災から2日後のことだった。場所は火元のグリーンハウスである。遺体は完全に炭化しており、所持していた腕時計や家の鍵などから本人と確認されたという。
 火元のグリーンハウスで発見されたという事実は、氏がかなり早い段階から出火場所へ駆けつけていたことを物語る。後には、火災の知らせを受けた氏が、ヒッチハイクで現場へ到着していたことが判明した。
 おそらく、取り残されている人がいないか確認しようとしたのだろう。それでグリーンハウスに入ったはいいものの、倒れてきた機材の下敷きになったか、あるいは煙を吸ったなどの原因から脱出できなくなったのだ。
 余談だが、筆者が以前酒田市に住んでいた時、地元の人からこんな話を聞いたことがある。「あの消防長は責任感の強い人だったから、大火災になった責任を感じての自決だったのではないかと言われている」と。
 それを聞いた筆者の感想は「んなわけあるかい」だった。嘉門達夫ならきっと「お前は間違っとる!」と歌ったに違いない。本当に責任感があるなら、消防長なんだからそのまま消火活動の陣頭指揮を取るだろう。殉死というとすぐ自決を連想する人がいるのかも知れないが、これは明らかにあってはならない不慮の事故死である。
 上林氏の死は、酒田大火が残した多くの教訓のうちのひとつであろう。この大火の負傷者は100名以上に上ったが、そのうち、火災が原因で入院を余儀なくされたのはたったの9名。これだけの大火でこの程度の人的被害で済んだというのは素晴らしいことで、その点は要領がよかったのだと思う。だから上林氏も、グリーンハウスでミスりさえしなければ充分死なずに済んだはずなのだ。やっぱり責任感はあったんだろうけど、燃え盛る火災現場に一人で突入するのはよくないよ。うん。
 
   ☆
 
 酒田大火は、マスコミ報道でも大きく取り上げられた。東北の田舎町とはいえ、近代都市の繁華街がまるまる一個焼けてしまったのだからまあ当然だろう。
 そんな中、この大火の中にあっても「焼けなかった」いくつかの建物が注目を集めた。耐火構造の建物までもが被害に遭ったこの火災で、外壁はやられても中のものは完全に無事という建造物があったのである。
 ひとつは「土蔵」だった。
 茶や漬物の販売店、それに酒造所などでは、商品を土蔵で保存していた。それで火の手が回ってきた時に、水を入れたバケツやコップを置いておいて、あとは完全に閉め切って避難したのである。すると土蔵が火炎に包まれても蒸気がこもるだけで、外壁が崩壊さえしなければあとは安泰というわけだ(土蔵の外壁はもともと耐火構造である)。この古来より伝わる防災対策のおかげで、鎮火後も中の商品は無傷だったという。
 それからもうひとつ、この大火を無傷で凌いだのが「本間家旧本邸」である。これは酒田市一の豪商・本間一族がかつて住んでいた建物だった。
 この家は、東西南北を塀や土蔵や樹木、神社の敷地、駐車場、お堀、大通りに囲まれていた。建物が密接していない上に、風上に対して二重三重のガードをかけていたのが功を奏したのだった。
 面白いのが、樹木の効果である。樹木なんて火災の時にはすぐに焼けそうで危ない気もするが、実はそうでもないのだ。枝や葉が生い茂っていると、たった一本の樹木でも全体の表面積はかなり大きくなる。よって少々の火の粉では簡単に燃え広がらないのだという。
 また、先述の塀・樹木・土蔵がちょうど雪崩防止の分流堤のような効果をもたらし、火炎が建物を避けていく形になったのも幸運だった。
 酒田大火は、近代都市を焼き尽くした古式ゆかしいタイプの災害である。しかしそれに対して勝利を収めたのは近代的な消防設備ではなく、昔ながらの火災防止の知恵だったのである(本間家が建てられたのは江戸時代)。これは面白いというべきなのか、皮肉というべきなのか。
 この本間家旧本邸は、今では酒田市屈指の観光名所のひとつである。
 
   ☆
 
 さて、長かった酒田大火の概要も、ようやくこの辺りでひと段落となる。どうも地元・山形県の災害ということで調査に力が入ってしまい、簡潔に済ませることができなかった。
 この大火については、小学校の時、社会科のテキストにまで写真が載っていたのを覚えている。まさかそれから20年余りも後になって、自分がこんな文章を書くことになるとはまったく思わなんだ。
 酒田市はいっとき住んでいたことがある。火炎が走り抜けた繁華街も、延焼を食い止めた新井田川も、何度もこの目で見た。
 ただ、当時の筆者はさほど事故災害に対して興味を持っておらず、火災のことに思いを馳せながら街を散策することはなかった。これは今にして思えばもったいないことだった。
 だから直接見に行くこともなかったのだが、今でも酒田市の繁華街には火災を「記念」したモニュメントもあるし、大火関係の記録物を集めた資料館もあるらしい。次に機会があれば、どちらもこの目で確かめてみたいものである。
 かつて消し炭と化した繁華街は、その後の区画整理と復興工事によって、実にハイカラな街に生まれ変わった。本当に、なかなかの味わいがある街並みだと思う。
 だが田舎の中都市の哀しさで、人通りはいつも少ない。例によってシャッターの閉まっている店も多かった。
 酒田という都市は、昔から独創性に満ちていた。オリジナリティ溢れる独自の文化を築き、そしてそれを外に向かって発信することを得意としていたのである。大火の原因になった「グリーンハウス」などはその一例であるし、また最近でもローカル・アイドルユニット「SHIP」をプロデュースするなど、普通の田舎町ではなかなかできないことをやってのけた歴史もある。
 それは、海に向かって開かれた都市ゆえの気風なのだろう。新しい文化を柔軟に受け入れ、吸収し自家薬籠中のものとしてしまう文化的土壌があるのだと思う。
 現在、酒田の繁華街の機能は、国道7号線沿いなどのかつての郊外地に分散してしまった。まあよくある中都市の姿である。その原因のすべてが酒田大火そのものにあるのか、それともその後の復興計画の失敗にあったのか、そのへんは分からない。だがとにかく、歴史的に見れば、あの大火が酒田市の歴史のひとつの節目になっているのは間違いないようである。
 最後に蛇足になるが、資料を集める過程で、筆者は酒田大火を記録した作文集があるのを知った。それは当時被災した小学生たちの作文を集めたもので、子供が素直な感性で書いているのでグッときて泣けるものも多い。山形県民の方は、ぜひ県内の図書館から取り寄せて読んでもらいたいと思う。下手なルポなんぞよりずっと臨場感がある。
 ちなみに「下手なルポ」の代表格である本稿でも、その文集からはいくつか引用させて頂いた。最後の締めに、もうひとつ引用しておくことにしよう。
 
「ひっこし」 二年 伊藤あき(二番町)
 
きょう、ひっこしをした。
家をかりたのだ。
とても いい家だった。
おとなの人は、あせびっしょりになって
「よいっしょ。」
「よいっしょ。」
いろいろなものを はこぶ。
わたしは、
「やったあ。
 家だ、家だ。」
と いった。
その日、一日おもしろかった。
あたらしいお友だちも
たくさん
できると いいな。
 
(了)
 
【参考資料】
(書籍)
「酒田大火の記録と復興への道」
「酒田大火復興建設のあゆみ」
「酒田大火 学校文集「海なり」別冊特集号」
「昭和51年10月29日酒田大火の概要」
「もう一つの地域社会論 酒田大火30年、「メディア文化の街」ふたたび」
(サイト等)
ウィキペディア
酒田市「酒田大火について」
酒田河川国道事務所HP
 

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白馬プリンスホテル火災(1978年)

 1978(昭和53)年6月15日、午前2時頃のことである。愛知県半田市住吉町で、ある民家の犬が急に吠え出した。

 なんだなんだ、うるさいぞ。目を覚ました住人が庭に出てみたところ、びっくり仰天。なんと隣のホテルが炎上していた。しかも半端な燃え方ではない、大火事だ。

 このホテルが「ビジネスホテル白馬」である。住人はさっそく119番通報し、これが第一報となった。

 つまりこの火災の第一報は、「犬」がきっかけでもたらされたわけである。

 この時すでに、火災発覚から20分が経過していた。

 

   ☆

 

 少しだけ時間を巻き戻す。当時、このホテルには宿泊客33名と従業員3名がいた。

 従業員たちは、比較的早いうちに火災に気付いていた。火災報知器もちゃんと作動していたようだ。それに出火したのも1階の管理人室の前の廊下と、とても分かりやすい場所だった。

 この時、すぐに初期消火がなされたかどうかは不明である。消火活動自体は行われたようだが、それが従業員の脱出前なのか脱出後なのか、資料を読んでもよく分からなかった。

 とりあえず確かなのは、彼らにはもう避難誘導や通報を行う余裕がなかったということだ。命からがら、窓から逃げ出している。

 ここで、なぜか火災報知器のスイッチが切られた。ベルが鳴りっぱなしでは近所迷惑だとでも考えたのだろうか。

 ただ、もしかすると、報知器のスイッチが切られなくとも宿泊客たちにはベルが聞こえていなかったのかも知れない。資料の中には、外に脱出した従業員が火事ぶれを行ったことで、宿泊客たちのほとんどが目を覚ましたと書かれている。ということは報知器の鳴動は目覚ましにならなかったということだ。

 宿泊客たちは、脱出を試みた。しかしビジネスホテル白馬は、繰り返される増改築により建物の中は迷路化していた。さらに階段もひとつしかなく、煙はその階段を伝って瞬く間に2階3階へ及んだというのだからどうしようもない。おそらく、廊下から脱出できた者はほとんどいなかったのではないだろうか。ある者は窓から飛び降り、またある者は隣家の屋根を伝って脱出したという。

 またこのホテルには、鉄格子の嵌まった窓もあった。もとがラブホテルだったそうなので、飾りか何かだったのだろう(他の部屋では窓から脱出できた人もいるようなので、全室鉄格子ではなかったと思われる)。それが一部の宿泊客の脱出を困難にした。

 この鉄格子は、20センチ幅という、大人が通るには厳しい間隔で取り付けられていた。で、その部屋を宛がわれた5名の季節労働者がいたのだが、彼らは鉄格子のため飛び降りることもできず(そこは2階だった)救助が来るまで部屋に閉じこもり続けた。

 この5名のうち1名は途中で廊下に飛び出して命を落としているが、リーダー格の人がドアを閉めて、他の3名を始終落ち着かせていたという。最終的に、消防によって鉄格子の一本が切断されたことで、彼らは助けられた。

 防火シャッターも閉じなかったらしい。最終的に、ビジネスホテル白馬は、本館と別館を合わせて663平方メートルが全焼した。

 死者は7名。すべて宿泊客だった。おそらく煙を吸ったのだろう。こういうケースで、純粋に「焼け死ぬ」ということはほとんどない。大抵は一酸化炭素中毒などである。

 さて、この火災の原因は一体なんだったのだろう。記録には、以下のように記されている。

 

 ●発火源……不明。

 ●火元………たぶん1階の調理場。

 ●延焼の経過……不明。

 ●着火物……不明。

 

 つまり何も分からなかったのだ。

 まあ当時の従業員たちの責任は火を見るよりも明らかなわけで――ことが火災なだけに、と、これは悪い冗談――だからこそ、原因調査もあまり熱心に行われなかったのかも知れない。これは単なる想像だが。

 

【参考資料】

サンコー防災株式会社ホームページ

消防防災博物館

『火災と避難』

 

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大清水トンネル火災(1979年)

 この火災が起きたのは、今(2011年)から30年ほど前である。数字を見ると随分前のようだが、31歳の筆者としては「自分が生まれる前年」と考えるとそう昔にも思われない。

 だが事故の内容はやけに古臭い。北陸トンネル火災の教訓もどこへやらという印象だし、出稼ぎ労働者が現場で大勢犠牲になるというシチュエーションも時代を感じる。まるで40年前か50年前の事故のようだ。

 もっとも、筆者が1歳の頃には夕張新炭鉱ガス突出事故のような事故も起きている。そう考えると、古臭い類型のように見えるこれらの事故は、ひとつの時代の断末魔だったのかも知れない。

 

  ☆

 

 1979(昭和54)年3月20日のことである。

 当時谷川岳では、日本列島改造の気運に押されてトンネルがぼこぼこ掘られていた。手始めに清水トンネル、それから新清水トンネル、とどめに大清水トンネルである。特に大清水トンネルは全長が22.2キロと日本一の長さで、世界でも有数の山岳トンネルだった。

 んで大清水トンネルでは、1971(昭和46)年のの工事着工以来、すでに13人の死者と264人の負傷者が出ていた。

「えっ、そんなひどい工事現場、問題にならないの?」

 ――という声が聞こえてきそうだ。しかし問題にはならないのである。高度経済成長期というのはそういう時代だったのだ。なにせ昭和30年代ならば工事費一億円につき死者が一人出るのは当たり前、少し安全性が高まった昭和40年でも十億円に一人は当たり前、とまで言われていたのである。

 だから、工事がひと段落した時、作業員たちはほっとしたことだろう。

 そう、この日はトンネルの穴掘り作業が終わったばかりだった。あっちとこっちから掘られた穴がやっと貫通したのである。あとは壁面にコンクリを張る簡単な作業で済む。

「あー終わった終わった。さあ機材を片付けるぞ!」

 トンネル内には、掘削作業に使われた鋼製のジャンボドリルが置いてあった。高さは3階建ての建物ほどだったというから、これはちょっとしたガンダムである。工事開始以降、ひたすら穴を掘りまくってきたこのガンダム削岩機も今夜はいよいよお役御免。トンネル内でバラバラに解体して処分することになっていた。 
 この解体作業の直前には、群馬労働基準局沼田監督署の係員がトンネル内の様子を視察に来ている。

「ふーむ。このジャンボ削岩機は油ですっかり汚れていますねえ。機械の周辺も油だらけですねえ。おや、水たまりの中の鉄骨も油だらけですねえ。散らばっているおがくずも油だらけですねえ。ま、問題ないでしょう」

 お前さんの目は節穴どころか大清水トンネルだ! と言いたくなるようなボンクラ視察である。この係員、自分が立ち去った直後に大火災が発生したと聞いてどう思ったのだろう。

 というわけで、夜9時にはガンダム掘削機の解体作業が始まった。

 当夜のトンネル内には54名の夜勤者たちがいた。そのうち11人がガンダムの解体を行う。

 ではアムロいきます。溶断機のアセチレンガスに点火されると、バーナーによってガンダムは切断、ばらばらに解体されていった。火花が飛び散り、真っ赤に焼けた鉄片が落ちてくる。

 トンネル内にあるものといえば、岩盤と岩肌と湧水くらいなものである。まさかここで火事が起きるわけないだろう。誰もがそう思っていた。

 ところが、下に落ちた鉄片の熱によって周辺の水分はたちまち蒸発。油の染み込んだおがくずもすぐに乾き、白い蒸気が上げるとすぐ引火した。

 蒸気が黒煙に変わっていったことに、最初は誰も気付かなかった。解体作業の方に誰もが目を奪われていたのだ。

 そこからはあっという間だった。おがくずに引火した炎は、油だらけのガンダムを舐めるように包んでいったのだ(切断の際の火花が直接にガンダムに引火したとも言われている)。これが9時30分頃のこと。

「おい、これまずいぞ! 消火しろ消火!」

 作業員たちはようやく異変に気づく。しかし発見が遅れただけでも致命的なのに、その上備え付けの消火器は消火剤が出なかった。この消火器は加圧式で湿気に弱かったのである。この事故以降、こういう場所では特に消火器は畜圧式を使用すべしと言われるようになった。

 さあ、発見の遅れ、初期消火の失敗、それによって避難ももたついている。当研究室の読者であれば、これがいかに恐ろしい事態であるかはすぐ察しがつくであろう。

 トンネル内は黒煙で包まれ暗闇になった。作業員たちは命からがら、それぞれ群馬方面と新潟方面に分かれてトンネル内からの脱出を試みる。

 現場から最も近い出口は7キロ先の群馬方面のものである。だがそちらは風下だったため、煙は猛烈なスピードで作業員たちに襲いかかった。54人の作業員のうち46人はそちらに逃げたが、14人が煙と有毒ガスにまかれて死亡している。この14人の死者のうちの3人は、ガンダム解体作業に携わっていた者たちだった。

 また、解体作業をしていた11人のうちの残り8人は、風上の新潟方面へ逃げて事なきを得ている。こちらは現場からトンネル出口まで14キロもあったのだが、風上だった。

 さて。こうして火災が起きてもなお、トンネル関係者たちは事態を甘く見て、こっそり自分たちだけで解決してしまおうと考えた。大清水トンネルは世界有数の山岳トンネルということで、その出来栄えを世界から称賛されたばかりだったのだ。火災なんぞで評判を落とすなんて冗談じゃない、なんとか公にせずに済まそう――というわけだ。

「よし、じゃあ俺たちが様子を見に行ってきます!」

 というわけで、2人の作業員だかが空気呼吸器を装着してトンネルに入って行った。さあ、彼らの命運やいかに。

 シーン。

 まるでドラえもんの「ドロボウホイホイ」である。彼らは途中でボンベの空気を使い果たし、帰らぬ人となったのだ。

 こりゃいかん、公にせずに済ますとかいうレベルじゃない! というわけで、ここでようやく消防に連絡がなされた。

 さっそく工事関係者による対策本部が設置され、特別救助隊が編成。このメンバーには群馬県沼田市の沼田消防署員たちも含まれていた。この消防署には、当時としては画期的だったレスキュー専門の小隊もあったのだ。頼もしい限りである。

 さあ、では煙と有毒ガスで充満しているトンネルで、彼らはいかにして救助を行ったのだろうか。

 ところが、打つ手はもはやなかった(笑)。とにかくトンネルの状況があまりにひどく、いかなレスキュー専門部隊でも中に入れば二次災害は必至である。待つしかなった。

 もちろんその間、手をこまねいていたわけではない――と書ければいいのだが、本当に手をこまねいているしかなかったからなんとも笑えない。一度はちょこっと中に入り、例の後から入った2人のうちの1人を助け出した(後に病院で死亡)が、結局10時間もの間、それ以上のことは何もできなかった。

 煙が薄くなったのは夜明け頃である。

 それからさらに午前10時まで待って再び中に入り、もう1人の遺体も収容。それでもやはり、最初に遭難した14名の救助までは無理だった。

 言うまでもなく、トンネル内もめちゃくちゃである。火災の熱によって落盤は起きるわ、水は噴き出すわ、土砂で埋まるわで、せっかく掘ったのに散々である。おまけに天候も雪になった。

 ようやく本格的な救助活動が始まったのは、22日の21時30分のこと。消防隊、警察、建設会社社員の計140人の大捜索隊がぞろぞろとトンネル内に入っていった。

「ところでこのトンネル、ダイナマイトが950本あるんですよ。大丈夫ですかね?」

 この期に及んでそんなことを言い出す奴がいて、そういうことはもっと早く言えよって感じなのだが、幸いにして二次災害は起きずに済んだ。

 遺体は、23日の午前の段階までに全てが収容された。

 その後、補償などがどうなったのは不明である。だがとにかく、この大清水トンネルを今も上越新幹線が行ったり来たりしているのはご承知の通りである。今までこのトンネルを通過した人のうち、一体何割がこの事故のことを知っているのだろう。

 

   ☆

 

 ここからは、完全な余談である。

 筆者は本業の関係で、年配の人々と話をすることがよくある。そうした人たちの中には、高度経済成長期に関東圏へ出稼ぎに行き、建設現場や工場で働いていたという人も少なくない。

 その人たちと話していると、「もしかするとこの人が事故の犠牲になっていたかも知れないんだな」と思う。そして同時に、実際に事故で亡くなった人の中にも、郷里で待つ家族がいたのだろうなとも思ってしまうのである。そうなると、すべての事故がなんだか他人事ではないような気になる。

 当研究室で「あてにならない参考文献」としてケチばっかりつけている『なぜ、人のために命を賭けるのか』という書物があるが、これに印象深いフレーズがあった。「決まって、犠牲者は現場の弱者」というものである。

 それを読んだ時には、まったくその通りだとつい頷いてしまったものだ。事故災害の歴史は、犠牲になった弱者の歴史でもある。そうした名もない弱者の鎮魂も兼ねて、筆者はキーボードを叩く次第である。

 

【参考資料】
◇失敗百選
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年

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