目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)

『真白き富士の根(もしくは嶺)』という曲がある。メロディーだけならば、耳にしたことがある人も多かろう。

 今回ご紹介するのは、この元ネタとなった事故である。

 時は1910(明治43)年1月23日。惨劇は、12名の子供たちがボートに乗り込んで海に出たところから始まる。

 この12名というのは、神奈川県逗子開成中学校の生徒11名と、それに小学生1名という内訳だった。彼らは「ギグ」と呼ばれる7人乗りの船を学校に無許可で持ち出し、ドウショウ(海鴨)撃ちをするべく出航したのだ。目指すは江の島である。

 海に出る直前には、地元の消防士が声をかけている。

「おいお前たち、なにやってるんだ! 子供たちだけで危ないだろ!」

 まあ当然そう言うわな。ところがやんちゃ小僧たちは平気の平左。天気は明朗で波も高くないし大丈夫大丈夫、さあ出発だ~。

 で、沖で突風にあおられ、あえなく転覆。いわんこっちゃない。少年らは全員が海に投げ出されてしまった。

 当時は基本的に穏やかな天候だったという。だが、彼らが遭難したと言われる七里ヶ浜の行合川の沖あたりは気象が変わりやすく、突風も吹きやすかったのだそうな。

 彼らの遭難は、最初は誰にも気付かれなかった。それが判明したのは午後3時頃のことである。少年の1人が漁船に救い上げられたのだ。

 少年の体は冷え切っていた。焚き火で暖めてやりながら水を吐かせ、人工呼吸を施す。だが彼は言葉を発することなく、ただ海のほうを指差すばかりだったという。それでようやく遭難が発覚したのだった。

 一大事である。さっそく学校、警察、それに漁師たちが総出で、残りの少年たちの捜索にあたった。この捜索活動には、学校の要請を受けて2隻の駆逐艦までもが出動したという。トラブルに「軍」が出動するなどというとまるで外国の話のようだが、かつては日本でもそんな時代があったのだ。

 だが残念ながら、いったんは救助された少年も含めて、全員が帰らぬ人となった。遺体が全て発見されたのは、事故発生から4日後のことだったという。

 この年の2月6日には、中学校で追悼の式典が営まれた。式典のさい、冒頭で挙げた歌が鎮魂歌として披露されたという。

 もう少し詳しく述べると、この歌はもともとは讃美歌だった。それに歌詞がつけられて『七里ヶ浜の哀歌』という鎮魂歌になり、しまいにはレコードまで売り出されるに至ったのだとか。『真白き富士の根』というタイトルは、後年にこの事故を題材にして造られた映画の題名でもある。

 さてその後、1931(昭和6)年には七里ヶ浜の海岸に木製の供養塔が建てられたが、一度は朽ち果てた。

 そしてその後、有志によって新たに記念像が建てられたのが1964(昭和39)年のこと。この記念像の台座には以下のような文言が記されているという。

≪みぞれまじりの氷雨が降りしきるこの七里ヶ浜の沖合いでボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら十二名が遭難転覆したのは一九一〇年(明治四十三年)一月二十三日のひるさがりのことでした。

 前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は当時世間をさわがせましたがその遺体が発見されるにおよんでさらに世の人々を感動させたのは彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした

 友は友をかばい合い、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです

 死にのぞんでもなお友を愛しはらからをいつくしむその友愛と犠牲の精神は生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか

 この像は「真白き富士の嶺」の歌詞とともに永久にその美しく尊い人間愛の精神を賞美するために建立したものです≫ (※改行等は筆者による)

 まあ、そういうことである。遺体となって発見された少年たちの中には、弟を抱きかかえたままの格好の者がいたりした。それが当時の人々の涙を誘ったのだ。

 こうした事柄のインパクトもあってか、この事故については「記念物」が実に多い。先述した記念像もそうだし、『真白き富士の根』もそうだろう。また開成中学校の敷地には1963年に「ボート遭難碑」なるものが建てられている。

   ☆

 さて、読者の皆さんの感想はいかがであろうか。

 実を言えば、筆者はこの事故に対しては醒めた感覚しか持っていない。犠牲者の少年たちが、なんでまたここまで「英霊」のごとく祭り上げられているのか、いまいち理解できないのだ。

 おそらく、現代からは想像もつかないような時代の空気があったのだろう。それが作用して、大衆はこの事故の「悲劇」と「美談」に涙したのである。

 だってこの事故、たとえるなら、卒業式の帰りに大勢で車に乗って事故るケースと似たようなものだと思うのだ。若者のよくある暴走事故である。可哀想だが、同情の余地はあまりない。

『真白き富士の根』のメロディはよい。それは認める。また、遺体で発見された少年たちの、その兄弟愛の美しさも理解できる。だがしかし、それでも「美しい事故」などないのである。事故災害というのは徹頭徹尾悲劇的な失敗談なのであり、それが美しく感じられるのであれば、それはきっとその事故を語る言葉が美しいだけであろう。

 

【参考資料】 ◇ウィキペディア『真白き富士の根』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%99%BD%E3%81%8D%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%81%AE%E6%A0%B9

◇逗子開成中学校・高等学校ホームページ「真白き富士の根(連載)」

http://www.zushi-kaisei.ac.jp/history/fujinone/fujinone.html

 

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玄倉川水難事故(1999年)

 1999(平成11年)8月14日。お盆休みのこの時期、神奈川県山北町の玄倉川で発生した事故である。
 神奈川県西部の丹沢山系には、深く削られた谷が多い。そこを流れる玄倉川は普段は流れも緩やか、かつ穏やかなものである。よってアウトドア大好きのキャンパーたちにも人気のスポットなのだが、しかしこの川には、知る人ぞ知るもうひとつの人格があった。ひとたび大雨になれば、たちまち増水し鬼のような激流に変わるのだ。
 その日の朝、神奈川県は豪雨に見舞われていた。前夜から接近してきていた低気圧の影響である。午前5時35分には、大雨・洪水注意報もいよいよ警報に切り替わった。
 そんな中、消防署に救助要請が入ったのが、午前8時4分のことである。内容はこのようなものだった。
「山北町、玄倉第一発電所先約100メートルの中州に、大人12人、子ども6人が取り残されています。孤立していて、徒歩では出られない状態です。お願いします」
 そら、来たよ! 消防隊員たちはさっそく準備を整え始めた。彼らは今日、こういう要請が必ずあるだろうと予測していた。レジャーブームの影響で、毎年この季節になると、やれ山から下りられなくなっただの、やれ川や海から脱出できなくなっただのとという事故が多発するのである。
 実際、昨夜の時点でも、すでに一件そうした救助事案があった。そしてその帰り道に、隊員たちは、キャンプ指定区域から外れた河川敷にいくつものテントが張られているのを目撃している。キャンピングカーもあった。いつ事故が起きてもおかしくない状況だったのだ。
 さあ出動である。大人12人に子供6人とは、また大所帯だ。やれやれこいつは面倒そうだな――などと思いながら救助工作車を走らせ、消防隊員たちは現場に向かった。
 外はとんでもない豪雨だった。今朝はいったん穏やかになったとみえた天候が、またしても荒れてきたのだ。途中で通りかかった橋などは冠水していたという。
 やがて隊員たちは現場に到着したのだが、そこで彼らは想像を絶する光景を目撃することになった。目の前にあったのは、見たことも聞いたこともないような状況だった。
 増水した玄倉川では、水が音を立てて流れていた。濁流、激流、奔流といった言葉が似合いそうな凄まじい勢いだ。そしてなんと、そのド真ん中で、総勢18人が水に流されまいと必死に踏ん張っていたのだった。大人の男女、子供、それに幼児もいる。
 どうやら、彼らは川の中州でテントを張ってキャンプをしていたらしい。そこで水かさが増し、身動きが取れなくなってしまったのだ。
 昔のギャグでいえば「じょ~だんじゃないよ~」である。シンプルではあるが最悪の事態だ。こんな濁流の中に飛び込んで救助を行うなんて無茶に決まっている。しかし、遭難者がなまじ手の届きそうな距離にいるだけに、「火勢がすごくて救助は突入は無理です」とも言っていられない。
 さあ、それではどうやって助けるか?
 のび太だったらきっとここで「ドラえもんヘリコプターで吊り上げてよ~」と泣きつくところかも知れない。だがそれは論外である。こんな大雨と雨雲と強風の中でヘリを出したら、たちまち二次災害だよのび太くん。だから、当時のテレビの報道映像でも上空から撮ったものは残っていないんだよのび太くん。
 では天候が回復するまで待つか? いやいや、そんな悠長なことも言っていられない。そこで次に出たアイデアは「梯子車を使う」というものだった。
 ただ、どうも筆者には想像がつかないのだが、この状況で梯子車でどう救助するのだろう? 吊り上げるのか、それとも梯子を水平に伸ばすという意味だったのだろうか? だがどのみち、それも却下された。現場周辺は路肩が弱く、救助用の車両が乗り入れるのは極めて困難だった。
 残る手段は、川の対岸へロープを張るというものだった。「救命索発射銃」という、これまたひみつ道具みたいな名前の器具で、救助用のリードロープを撃ち出すのだ。
 だがそのためには、隊員があらかじめ対岸へ回り込まねばならない。これが時間を食った。対岸へ回り込むための道はなく、隊員たちは豪雨の山の中、道なき道を探してさまよい歩く羽目になった。
 待っている隊員にとっては、これが非常に辛い時間となった。
「おいこら消防、なにやってんだ! 早く助けてやれよ!」
 心ない人たちもいるものだ。現場を見守っていた他のキャンパーたちは、黙って見てりゃいいのに、隊員たちに罵声を浴びせ始めたのだ。
 もっとも実際には、消防もこの間、完全に手をこまねいていたわけではない。隊員が対岸に到着するまでの間に、川に飛び込んでの直接救助を試みてもいる。だが激流には勝てず、転倒につぐ転倒を繰り返してあえなく断念したのだった。
 この様子を見て、見物人たちもさすがに黙りこんだという。
 その間に、ようやく対岸に隊員が到着した。
「よし準備万端整った、リードロープ発射!」
 しかし、一発目は対岸の樹木に引っかかって失敗。
「たいちょ~、なにやってんすか~」
「う、うむ今のは練習だ練習! 次、本番いくぞ!」
 だが残念ながら、二発目は一発目のロープにからまってしまった。それでも一応、張ることはできたようなのだが、これは水圧のために遭難者たちには届かなかったという(※注1)。
 さて、結論を先取りして言ってしまうと、ここから悲劇の瞬間までほとんど秒読み段階となるのだが、実はそこに至るまでの間がよく分からない。
 リードロープの発射は10時30分に開始されたという。だが、遭難者全員が力尽きて濁流に飲まれたのが11時38分のことである。ずいぶん時間が空いている。ロープの発射作業でそこまで時間がかかったのだろうか。
 『なぜ、人のために命を賭けるのか』という本によると――当研究室で「ザ・誤字脱字」と呼んでいる資料文献なのだが――最後に三発目のロープ発射があったことになっている。それが本当ならば時間がかかるのもむべなるかなだが、ただこの文献はたまにウソが書かれているので油断がならないのである。
 まあ細かいことはいいや。とにかく、結果は前述の通りである。11時38分、18人は力尽きて流された。
 当時、現場にはマスコミも押しかけていた。そのため、流される瞬間はテレビで全国中継された。
 だがまだ終わりではない。ちゃんと一命を取り留めた者もいる。まず、1歳の幼児が、流された直後に救助されている。さらに他にも大人3人と子供1人が奇蹟的に対岸に流れ着き、後に救助されたのだった。生存者はこの5人にとどまった。
 残りの13人はそのまま行方不明に。やっと全員分の遺体が見つかったのは、事故発生からほぼ2週間後の8月29日のことだった。
(※注1 ウィキペディアによると、この二本目のロープは「水圧と流木に妨げられて届かなかった」とある。だが参考文献『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、純粋に水圧でロープが切れたとされている。この本には、二本目のロープが一本目のロープに絡まったという失敗談は書かれていない)
 
   ☆
 
 この事故、誰が一番悪いのかというと、まあやっぱり犠牲となった当人たちであろう。死者を鞭打つつもりはないが、だがやはり事故発生までの経過を見ると、彼らが死なずに済むチャンスがいくらでもあったことが分かるのである。
 8月13日の午後から、現場付近には低気圧が近づいてきていた。さらに夕方には注意報が発令され、夜には土砂降りの大雨となった。
 犠牲になったキャンパーたちは、この時、もう玄倉川の中州でテントを張っていたのである。もともと、川の中州でキャンプをするというのはその道の人間にとっては禁忌行為だ。その上この夜は、上流のダム管理事務所の職員や警察官などが、水かさが増したら危険だぞと3回ほど警告をしていたのである。にもかかわらず、彼らは判断を誤りそこに留まった。
 現場の中州には、他にもキャンパーたちがいたようだ。だがこの時の警告によって、ほとんどが退避したし、また犠牲者グループの中でも、賢明な3名がそこで避難している。彼らは近くの車の中で一夜を過ごした。
 上流の玄倉ダムに貯水機能はない。よって、降雨量があまりに増せば放水しなければならない。だから管理事務所でも夕方以降に「水を流すぞ~」とサイレンを何度も鳴らし、実際に放流したのだが、それでも中州のキャンパーたちはどこ吹く風。水かさが少し増した程度なら平気の平左、であった。
 そして運命の8月14日。
 この日も、早朝の段階では問題がなかったようだ。
 7時30分頃までの間には、水かさも膝下くらいだったらしい。先に避難したメンバーや警察官が、それぞれ川に入ってテントの様子を確認に来ている。
 だがこの後、状況は一変した。上流の玄倉ダムではまた放流を始めていたし、天候も見る間に本格的な豪雨へと変わっていったのだ。水位はどんどん上がり、ついに8時には移動不可能となった。119番通報したのは、先に避難していたメンバーの男性だった。
 
   ☆
 
 ちなみに、この事故で救出活動を行った消防の面々は、当初は凄まじいバッシングを受けたという。電話での非難のみならず、テレビの評論家が余計なことを言ったせいですっかり悪者扱い。13人もの人々を見殺しにした役立たず、と罵られた。
 ところが、ある時を境にそれが180度変わった。
 事故が起きる前、警告に応じて避難した男性がいたのは先述の通りだ。その男性が、テレビでキャンパー側の非を認める証言をしたのである。そして同時に、消防や警官たちの当時の動きについても説明したため、消防の面々は今度はあちこちから称賛されたのだった。
 当時の消防関係者の一人は、この状況について「マスコミの威力を知り、マスコミの力で助かった」と述べたという。
 で、一方でこの事故の記録をネット上で調べていると、今度は犠牲になったキャンパーたちを「DQN」扱いする言説にけっこう行き当たる。DQNとはネット用語で「社会常識のない人たち」を指すそうな(テレビ番組『目撃ドキュン!』にそういう若者がよく出ていたため、ドキュン、をDQNともじって使うようになったらしい)。
 まあ、この辺りのエピソードは余談と考えて頂いて結構である。
 とりあえず余談ついでに筆者が思うのは、匿名性と感情に任せてあれこれ言うのは控えようよ……ということである。事故はいつだって、テレビの画面やネット上で起きているのではない。現場で起きているのだ。
 
【参考資料】
◆ウィキペディア
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社(2004)
 

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日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)

 まず最初に、1952(昭和27)年当時の日暮里駅の状況を説明しておこう。

 と言っても、もちろん筆者は実際に見てきたわけではないし、現在の日暮里駅も行ったことがないので当時と今の比較もできない。ただ、当時の図面を説明するだけだ。

 ざっくり書こう。東から順に「京成電車ホーム」「常盤線ホーム」「東北線上りホーム」「東北線下りホーム」「電車線(山手線のこと?)ホーム」の5つのプラットホームが並んでいる。それぞれ南北に延びており(南が上野方面、北が大宮方面)、当然各ホームの間を、線路が走っている。

 このうち、常磐線ホームから電車線ホームまでを横断する形で繋いでいる「南跨線橋」で事故は起きた。

 1952(昭和27)年6月18日、午前7時40分頃のことである。

 国鉄・日暮里駅構内の南跨線橋は、どうしたことか、朝っぱらから超満員のすし詰め状態になっていた。

 なんだなんだ、一体全体何が起きた。朝の通勤時間で、混雑自体は珍しいことではない。だがこの日の人の量はちょっと異常だった。

 実はこの日、日暮里駅では臨時停車や運行停止の電車が相次いでいたのである。

 最初のきっかけは、未明に起きた上野駅の信号所での火災だった。これによりポイント操作ができなくなり、京浜東北線の上り電車が臨時停車したのだ。

 さらに他の電車でも、車軸が破損して運行中止というトラブルが発生した。

 正直このへんの経緯については、ちょっと分かりにくい。資料によって路線の書き方がまちまちなので、どの路線の列車がどういう理由で停止したのか、鉄道の素人にはうまく読み取れないのだ。とにかく結論を言えば、上記の事情から合計4本の列車がストップしていたのである。

 もちろん乗客たちは、ストップしたからハイそのまま待機、というわけにもいかない。出勤時刻は迫っている。しかも季節は梅雨で、車内は冷房もなく暑苦しい。さしずめチャイルズクエストで言えば、フマンドパラーメータ90%といったところだ。

 そこで駅は判断した。

「乗客をいったん下ろそう!」

 こうして乗客たちは蒸し暑い車両から解放されたわけだが、もちろん涼んでいる余裕などない。今動いている電車はどれだ、山手線か、じゃあそっちに乗り換えよう――! というわけで、あっちのホームに移動すべく、みんなで南跨線橋に押し寄せたのだった。

 こうして、跨線橋は尋常でない状態になった。この稀有な密集ぶりはさすがに駅も放っておけず、駅長自らが現場に赴いて人の整理に当たったという。

 しかしそれでも、幅2.5メートルの通路は押し合いへし合い。木造の跨線橋の壁に不穏な圧力がかかり始める……。

 ところで読者諸賢は、『岸和田博士の科学的愛情』というギャグマンガをご存知だろうか。あれで、実験台にされそうになって逃げ回る助手の安川君が、複数人で研究所の壁を突き破るシーンがあった。午前7時45分、ここで起きたのはまさにそういう事態だった。

 跨線橋の一番端っこである西側(電車線ホーム側)の壁が、群集の圧力でボガーンと吹っ飛んだのである。そして十数名が7メートル下の線路に落下した。

 それだけなら、死者は出なかったかも知れない。だが、そこへ京浜東北線の浦和行き(大宮行との資料もあるのだが…)電車が通りかかった。現場手前には急カーブがあったため、運転士が気付いた時にはもう遅い。これに撥ねられ6名が即死、8名が重軽傷。うち2名が後に死亡し、合計8名が死亡という結果になった。

 大惨事である。電車の運行ストップの事態といい、電車の通りかかったタイミングといい、この日の日暮里駅は呪われていたとしか思えない。

 壁が破られた跨線橋は、1928(昭和3)年に作られたものだった。資料を見ると、老朽化していたとか破損箇所があったとかいろいろ書いてある。

 それだけ読むと「ああやっぱりか」と頷きたくなるところだ。しかし実際にはそれほどヤワでもなかったようだ。主要な部分は鉄筋コンクリ製だったというし、耐用年数は40年くらい想定されていたそうだ。

 やはり当時の混雑、ぎゅうぎゅう詰めの状態が異常だったのだろう。そんな印象もあり、ウィキペディアでは鉄道事故のカテゴリで括られているこの事故は、ここでは群集事故の一種とさせてもらった。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

参議院会議録情報 第013回国会 運輸委員会 第31号

◆ウィキペディア


弥彦神社事故(1955~56年)

 格式ある弥彦神社の、おそらく最大の黒歴史である。

 越後平野西部の弥彦山(標高634m)の山麓にあり、弥彦山そのものを神体山として祀っているこの神社。古代から多くの人に親しまれ、万葉集にもその名が登場する。

 今回ご紹介するのは、ここで1956(昭和31)年1月1日に発生した惨劇である。近代以降の、本邦の群集事故の中では最大の死者数で、その数たるや他の群集事故と比較してもケタ違いというシロモノだ。

 一体、この由緒正しい神社で何が起きたのだろう?

 

   ☆

 

 1955(昭和30)年の大晦日から1956(昭和31)年の元日にかけての時間帯、弥彦神社は大勢の初詣客でひどく混雑していた。

 特にこの時間帯、参拝客が集中するのには理由があった。弥彦神社では1931~1932(昭和6~7)年頃から「二年参り」という参拝方法が推奨されていたのだ。

 普通、初詣は一度参拝すれば終わりである。だが二年参りの場合は、旧年と新年に一度ずつお参りをする。大晦日のうちに旧年中の無事を感謝し、そして次に、除夜の鐘を合図に新年の無病息災を願うのである。

 信仰心のない人にとっては「二度手間」にしか見えないやり方だろう。だがとにかくこれこそが、弥彦神社の名物とも言うべき参拝方法だった。だから、日付が変わる前後に初詣客が集中していたのだった。

 また、神社側としても、大勢の参拝者は大歓迎だった。戦後に公的保護がなくなって以降、神社の経営も楽ではなかった。神社周辺の旅館、料理屋、土産物屋からも、「もっと参拝者誘致を!」と要望が出ていたのだ。

 そんな状況の中、神社はさらにあるイベントを企画していた。餅まきである。

 これは去年も行われており、結果は大成功だった。じゃあ今年も…というわけで、神社は前もって交通機関にポスターを配布するなどして、大々的に宣伝していた。

 しかし、課題もあった。前年の餅まきでは、神社の拝殿から広場に向かって餅をまいた。その結果、餅を奪い合って土足で拝殿に上がったり、餅を入れた三宝を持ち出そうとする不届き者が現れたのだ。

 というわけで、今年は餅まきの場所を変更したい。どこがいいだろう?

 弥彦神社には、参道から石段を上ったところに「随神門」という正面入口がある。この門をくぐると、「斎庭」と称する拝殿前の広場に出る。前回、餅まきが行われた広場というのがここである。これは東西47メートル、南北29メートルで面積は136平方メートルとかなり広い。

 最初は、この広場にやぐらを組んで、そこから餅をまくという案もあった。だが経費がかかる等の理由から却下。代案として、門の両側にやぐらを組み、そこから拝殿の方に向かって餅をまくことになった。

 かくして1956(昭和31)年元日午前0時、花火を合図に餅まきがスタートした。

 拝殿前の広場には、数にして約8千名の参拝客が集まっている。そこへ、やぐらの上から約2千個の餅がバラまかれた。

 8千名である、これだけでも事故が起きそうなものだ。実際、ちょっとした混乱はあって、悲鳴を上げる者もいたというが、餅まき自体は3分ほどで無事に終了した。

 問題はここからだ。餅まきも終わり、群集たちは帰路に着いた。人混みが一斉に動き始め、密集状態のまま、随神門を出て階段へと進む――。これが0時5~8分頃のことだ。

 多くの人々が急いでいたであろうことは、想像に難くない。バスで来た人は集合時間があっただろうし、また列車で来た人も帰りのダイヤが気になったことだろう。

 ところがそこで、反対方向から、到着したばかりの別の参拝客の一団がやってきた。

 折悪しく、ふたつの集団は石段の途中でかち合ってしまった。これが現代なら、往路は階段の右側を、復路は左側を…という形で区別して誘導していたかも知れない。だが当時は、群集をそんな形できめ細かに誘導するようなやり方は一般的でなかった。

 お正月カウントダウンどころか、ここからは惨劇に向かってのカウントダウンである。衝突した群集は押し合いへし合い、お祭り気分で飲酒していた者は面白半分に押す。中に挟まれた人は、逃げ場を失って場は大混乱に陥った――。

 ここからは、現場に居合わせた人々の証言を挟みながら経過を見ていきたい。なお、証言の文章は基本的に参考資料からの引用だが、ここに掲載するにあたり手を加えている。

 まずは、その場に居合わせた人の証言。

 

「花火の打ち上げが終わって5~6分経ったかと思われる頃、石段の下の方から異様な叫び声が聞こえ始めた」――。

 

 おそらくこの時、群集の衝突が始まったのだろう。

 次は、餅まき終了後に随神門から出ようとした人。

 

「12時40分の汽車に乗ろうと、門を出た。だが、出ようとする人と、入ろうとする人が階段の最下段あたりでぶつかった。石段を上ってこようとする人の顔が、最下段から参道にずっと続いていた」

 

「前後左右ぎっしりで身動きできなかった。押されながら3、4段下りたが、いくらもがいても体は自由にならない。胸が圧迫され、息が止まったかと思われた」

 

 一方、参拝に訪れて、反対に随神門に入ろうとした人の方はこう証言している。

 

「石段の下までたどり着いたが、立往生になった。後ろから押されて2、3段上ったが、また立往生。石段の上の方の人は、全員が下を向いていた」

 

「石段の途中で、両方向からの人波がぶつかって動きが取れず、胸を押されて息苦しくなった」

 

 この石段は15段。全体の高さは2.5メートルあり、幅は7.74メートルと比較的ゆったりしている。勾配も約17度とゆるやかで、普通ならばなんの問題もない造りだった。そう、普通の状況ならば……。

 石段の途中では、群集の圧力に耐えられず失神する人が続出。証言の中には「石段の上から押す者が多かった」というのもあり、力の加わりやすい最下段のあたりでも失神者が現れたという。

 そして0時10~15分頃、惨劇が起きる。大勢が折り重なって石段の下にダーッと転落したのだ。以下は、落ちた人の証言。

 

「足が宙に浮いたまま、3段くらい降りたかなと思ったとたんに、一斉に前の方へのめってバターンと倒れた。私の下にはたくさんの人がいた。みんなが悲鳴をあげていて、私も意識不明になった」――。

 

「後から押されて足が宙に浮いてしまい、2、3段降りると前に倒れた。下にも倒れた人が重なっていたので、下へ落ちたという感じはなかったが、後ろからも倒れてくるので挟まれて苦しくなった。苦しい苦しいという声も弱くなってきた。石段の下の方には人が一面に倒れて死んでいた」。

 

 なんとか脱出できた者もいた。

 

「上と下の両方から押されて苦しかった。前の方の人がどんどん倒れて折り重なり、一緒に倒されて死ぬかと思ったが、石段から飛び降りて脱出した」

 

「石段の中ほどの人たちが折り重なって倒れた。すぐ足を抜いて参道の脇に脱出したが、なおも押し合いが続き、石段には次から次へと人が倒れていった。その凄さはなんとも表現できなかった」

 

「上からの人波に押されて、石段の下に倒れた。だが起き上がって林の中に逃げ込んだ。石段の上から10人ほどの人が一度に落ちるのを2回ほど見た」

 

「石垣のそばの木に登ってみると、石段の下のあたりで人が3、4人くらい重なって倒れており、1.2メートルほどの厚みがあるように見えた」

 

「石段の下のほうでは人が一面に倒れて死んでいた」

 

 これだけで「もうたくさん」と言いたくなる惨状だが、実は事故が起きたのはこの石段だけではなかった。

 随神門を出てすぐ、石段との間には、左右に踊り場のようなスペースがあった。広さはそれぞれ奥行き2.3メートル、幅8.3メートル。そのスペースに入れば、随神門と石段を行き来する人をやり過ごすことができるような位置関係である。電車の待避線のようなものと考えてもらえればいいかも知れない。

 だが、この時はとてもやり過ごすという状況ではなかった。むしろ石段で人の流れが詰まったこともあり、この左右の踊り場の方へ押しやられる形になった人が多かったようだ。

 ここで事故が起きた。

 左右の踊り場には、玉垣があった。神社独特の設備で、ベランダの手すりのようなものである。その玉垣が、断続的な群集の衝突によってそれぞれ崩壊したのだ。

 この崩壊は、石段で転倒が起きたのとほぼ同じ、0時10~15分頃のタイミングと見られている。玉垣には鉄骨などの支えはなく、ごくシンプルな石造り。横から大きな力がかかるのは「想定外」だった。

 むちゃくちゃに膨れ上がった群集は、支えを失って高さ2.5メートル下に落下した。やぐらの上で餅まきをしていた人は、経過についてこう証言している。

 

「石段の付近は混乱状態に陥り、左右に膨れ上がった人波で玉垣が崩れた。転落した人の上に、密集から避難しようとする人々が飛び降りて、全く手のつけようもない状態になってしまった」

 

 以下は、現場に居合わせた人の証言。

 

「玉垣と一緒に2.5メートル下の地面に転落した人の上に、さらに人々が飛び降りてきて、人の山ができた」

 

「3~4人が重なって倒れており、足にすがって助けてくれという。引っぱっても抜けないし、大勢の人が頭の上を踏んでいく状況だった」

 

「倒れた人の山は高さ2メートル以上もあり、下になった人が死んだ」

 

 人々は地獄を目の当たりにした。石段には転倒した人の山。その両脇には、転落した人の山――。

 群集事故で恐ろしいのは、一箇所でこうした惨事が起きても、狂騒にすぐさまストップをかけることができない点である。

 当時、現場では照明設備も不足していた。また多くの警察官が交通整理の方に割り振られており、境内にいなかった。このため混乱は午前1時頃まで30~40分間も続いた。

 石段の上が大混乱になったのを見て、神社側では門(おそらく随神門だろう)の入口に梯子を横たえるなどの措置を取ろうとしたという。だが群集の罵声と暴行に妨害され、これは失敗した。

 こうして、わずか数分間の混乱で124名が死亡、77~91名の重軽傷者が出るに至った。死者のうち102名が窒息死。骨折や外傷による死亡は3名にとどまったという(残りは不明)。

 午前1時を過ぎた頃から、警察、地元の青年団、消防団などが救助作業を開始。負傷者は病院へ搬送、遺体は神社の拝殿や拝観所、また小学校の体育館などに安置された。

 正月のめでたさも一転、とんでもない大惨事になってしまった。原因は一体なんだったのだろう? これは資料によっていろいろ書かれている。以下で、簡単に箇条書きにしておく。

 

1・雪が少ない元日で、外出しやすかった。

2・前年が豊作で、経済的に余裕のある家庭が多かった。

3・公共交通手段が大きく発達し、遠方からの参拝者も多かった。

4・約1万3千人の参拝者に対し、警備の警察官は16人と少なかった(前年の参拝者は約1万人。ただし別の説では去年が2万人、事故当時は3万だったとするものもある)。

5・警察官がほとんど交通整理に回されていた(参道の雑踏警備に3人のみ配置されていた、とだけ書いてある資料もある)。

6・境内は照明が不足していた。

7・二年参りの習慣のため、午前0時を中心とする時間帯に群集が集中した。

8・餅まきを、危険な石段の近くで実施した。

9・列車が延着した。

10・一方通行の規制をしなかった。

11・事前に警察から、ロープや手すりを設置する提案があったが、神社はやらなかった。

12・参拝客が、現場の横の入口を使わなかった(使えなかった?)。

 

 この事故を受けて、国家公安委員会は、警備にあたった新潟県警察本部の責任を検討。その結果、県警本部長が引責辞任し、幹部たちも戒告・異動処分を受けた。

 また弥彦神社では、正宮司と権宮司2人が引責辞職している。

 最高裁の判決は、1967年(昭和42年)5月25日に下された(判例集 刑集第21巻4号584頁)。原文は長いので、趣旨を簡単にまとめるとこんな感じである。

 

「毎年たくさんお客が来るんだから、これからは足りるくらいの警備員を配置しなさい。あと一方通行にするとか、雑踏整理をすること。それから餅まきをするなら、時間と場所とやり方を工夫しなさい。そして最後に、お客が安全に帰れるように注意して、誘導とかするように」。

 

 今の時代から見ると、ごく普通のことを言っている気がする。

 逆に言えば、現在では「ごく普通」と思われている群集整理の措置は、こうした大事故の黒歴史を経てようやく整備され、そして一般化していったのである。

 以後、弥彦神社では、今日に至るまで餅まきは実施していない。

 また、参拝ルートも工夫された。まず中央の参道から入って参拝し、帰りは両側の小道を使う。そして境内では、所轄の西蒲警察署が参拝者の整理を行っているという。

 この神聖な神社で、こんな事故が起きることはもう二度とないだろう。

 

【参考資料】

◆ウィキペディア

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年


大阪劇場事故(1956年)

 かつて、大阪市南河原町には、大阪劇場――通称「大劇」なるものが存在していたらしい。

 

 らしい、というのは、現在この劇場は存在していないからである。なんでも、日本ドリーム観光という総合観光企業が運営というか管理というか、そんな感じでやっていたようだ。

 

 このドリーム観光、ウィキペディアでざっと見てみただけでも、相当イケイケな企業だったことが分かる。大阪劇場だけを見ても、少女歌劇団や人気歌手の歌謡ショー、映画俳優の演劇など、かなり面白いことをやっていたようだ。

 

 で、こういうショー全般を「実演興行」という独特の名前で呼んでいたそうな。今回ご紹介する事故は、この実演興行にからんで発生した。

 

 1956(昭和31)年1月15日のことである。くだんの大阪劇場では、早朝から人の列ができていた。

 

 なにせその日の実演興行では、美空ひばりがやってくるのである。大勢の人がやってくるのもむべなるかな。劇場側ももちろん心得ており、行列整理のために柵を設けてロープも張って、列なす人々を2列に分けて並ばせた。

 

 午前8時30分に、切符売り場では出札が開始。しかし窓口が2つしかないため、行列は遅々として進まない。15分ほどでやっと600人をさばいたものの、その間にも行列はどんどん伸びていく。この時、行列の長さは200メートルをゆうに越えるほどだったという。

 

 それでも、記録を読む限りでは、目だった混乱はなかったようである。ただ、みんな若干イライラしていたのではないかな、と想像できる程度だ。

 

 これが一転して大惨事になったのは、ひとえにたった一人の不届き者のせいである。時刻は午前8時45分。事もあろうに、この行列の中に蛇の死体を投げ込んだ者がいたのだ。

 

 ひゃあ蛇だ。そんなもの、誰もお近づきにはなりたくない。並んでいた人々はびっくりしてそれを避けた。主体が群集なだけに、きっとエーリッヒ・フロムならこう言うことだろう。「自由からの逃走ならぬ、蛇からの逃走だね!」

 

 失礼。だがつまんない冗談をほざいている場合ではない。人々が蛇を避けた結果、人混みの中に隙間ができたのだ。そしてできるだけ列を詰めようとする動きがあり、その隙間に対して急に人が流れ込む形になった。

 

 ここで将棋倒しである。思いがけない動きにバタバタバタッと転倒者が発生し、その結果1人が圧死。9人が重軽傷を負う惨事になってしまった。

 

 この事故については、ここまでである。

 

 この手の群集事故は、少なくともこの頃は、大きな刑事事件として扱われることは滅多になかったようだ。だから犠牲者の年齢性別は不明であるし、肝心の、人混みに蛇を投げ込んだ者は一体誰なのか、という点についても以下同文である。過去の群集事故には、こういう後味の悪さ、歯切れの悪さがある。

 

 それにしてもこの事故、「人混みの隙間をできるだけ詰めようとして」という、何気ない動きから大惨事になったのだから恐ろしい話た。こういう心理は日常生活の中でもままある。車の行列で並んでいるとき、前の車がちょっとでも動くと、つられるように前に出てしまったりするものだ。だがそういう場合も気をつけなければいけないのである。

 

 ちなみに余談だが、この大阪劇場の管理会社として名前を挙げた日本ドリーム観光は、かの千日デパートの管理運営も行なっていたらしい。なんだか事故に縁のある企業である。似たような企業に白木屋があって、こういう形で他の事故とのつながりを発見したりすると、思わず「おう奇遇だね」と、友人にばったり出会ったような気持ちになったりするのは筆者だけだろうか。たぶん筆者だけだろう。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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