目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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水難事故

『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)

『真白き富士の根(もしくは嶺)』という曲がある。メロディーだけならば、耳にしたことがある人も多かろう。

 今回ご紹介するのは、この元ネタとなった事故である。

 時は1910(明治43)年1月23日。惨劇は、12名の子供たちがボートに乗り込んで海に出たところから始まる。

 この12名というのは、神奈川県逗子開成中学校の生徒11名と、それに小学生1名という内訳だった。彼らは「ギグ」と呼ばれる7人乗りの船を学校に無許可で持ち出し、ドウショウ(海鴨)撃ちをするべく出航したのだ。目指すは江の島である。

 海に出る直前には、地元の消防士が声をかけている。

「おいお前たち、なにやってるんだ! 子供たちだけで危ないだろ!」

 まあ当然そう言うわな。ところがやんちゃ小僧たちは平気の平左。天気は明朗で波も高くないし大丈夫大丈夫、さあ出発だ~。

 で、沖で突風にあおられ、あえなく転覆。いわんこっちゃない。少年らは全員が海に投げ出されてしまった。

 当時は基本的に穏やかな天候だったという。だが、彼らが遭難したと言われる七里ヶ浜の行合川の沖あたりは気象が変わりやすく、突風も吹きやすかったのだそうな。

 彼らの遭難は、最初は誰にも気付かれなかった。それが判明したのは午後3時頃のことである。少年の1人が漁船に救い上げられたのだ。

 少年の体は冷え切っていた。焚き火で暖めてやりながら水を吐かせ、人工呼吸を施す。だが彼は言葉を発することなく、ただ海のほうを指差すばかりだったという。それでようやく遭難が発覚したのだった。

 一大事である。さっそく学校、警察、それに漁師たちが総出で、残りの少年たちの捜索にあたった。この捜索活動には、学校の要請を受けて2隻の駆逐艦までもが出動したという。トラブルに「軍」が出動するなどというとまるで外国の話のようだが、かつては日本でもそんな時代があったのだ。

 だが残念ながら、いったんは救助された少年も含めて、全員が帰らぬ人となった。遺体が全て発見されたのは、事故発生から4日後のことだったという。

 この年の2月6日には、中学校で追悼の式典が営まれた。式典のさい、冒頭で挙げた歌が鎮魂歌として披露されたという。

 もう少し詳しく述べると、この歌はもともとは讃美歌だった。それに歌詞がつけられて『七里ヶ浜の哀歌』という鎮魂歌になり、しまいにはレコードまで売り出されるに至ったのだとか。『真白き富士の根』というタイトルは、後年にこの事故を題材にして造られた映画の題名でもある。

 さてその後、1931(昭和6)年には七里ヶ浜の海岸に木製の供養塔が建てられたが、一度は朽ち果てた。

 そしてその後、有志によって新たに記念像が建てられたのが1964(昭和39)年のこと。この記念像の台座には以下のような文言が記されているという。

≪みぞれまじりの氷雨が降りしきるこの七里ヶ浜の沖合いでボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら十二名が遭難転覆したのは一九一〇年(明治四十三年)一月二十三日のひるさがりのことでした。

 前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は当時世間をさわがせましたがその遺体が発見されるにおよんでさらに世の人々を感動させたのは彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした

 友は友をかばい合い、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです

 死にのぞんでもなお友を愛しはらからをいつくしむその友愛と犠牲の精神は生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか

 この像は「真白き富士の嶺」の歌詞とともに永久にその美しく尊い人間愛の精神を賞美するために建立したものです≫ (※改行等は筆者による)

 まあ、そういうことである。遺体となって発見された少年たちの中には、弟を抱きかかえたままの格好の者がいたりした。それが当時の人々の涙を誘ったのだ。

 こうした事柄のインパクトもあってか、この事故については「記念物」が実に多い。先述した記念像もそうだし、『真白き富士の根』もそうだろう。また開成中学校の敷地には1963年に「ボート遭難碑」なるものが建てられている。

   ☆

 さて、読者の皆さんの感想はいかがであろうか。

 実を言えば、筆者はこの事故に対しては醒めた感覚しか持っていない。犠牲者の少年たちが、なんでまたここまで「英霊」のごとく祭り上げられているのか、いまいち理解できないのだ。

 おそらく、現代からは想像もつかないような時代の空気があったのだろう。それが作用して、大衆はこの事故の「悲劇」と「美談」に涙したのである。

 だってこの事故、たとえるなら、卒業式の帰りに大勢で車に乗って事故るケースと似たようなものだと思うのだ。若者のよくある暴走事故である。可哀想だが、同情の余地はあまりない。

『真白き富士の根』のメロディはよい。それは認める。また、遺体で発見された少年たちの、その兄弟愛の美しさも理解できる。だがしかし、それでも「美しい事故」などないのである。事故災害というのは徹頭徹尾悲劇的な失敗談なのであり、それが美しく感じられるのであれば、それはきっとその事故を語る言葉が美しいだけであろう。

 

【参考資料】 ◇ウィキペディア『真白き富士の根』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%99%BD%E3%81%8D%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%81%AE%E6%A0%B9

◇逗子開成中学校・高等学校ホームページ「真白き富士の根(連載)」

http://www.zushi-kaisei.ac.jp/history/fujinone/fujinone.html

 

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玄倉川水難事故(1999年)

 1999(平成11年)8月14日。お盆休みのこの時期、神奈川県山北町の玄倉川で発生した事故である。
 神奈川県西部の丹沢山系には、深く削られた谷が多い。そこを流れる玄倉川は普段は流れも緩やか、かつ穏やかなものである。よってアウトドア大好きのキャンパーたちにも人気のスポットなのだが、しかしこの川には、知る人ぞ知るもうひとつの人格があった。ひとたび大雨になれば、たちまち増水し鬼のような激流に変わるのだ。
 その日の朝、神奈川県は豪雨に見舞われていた。前夜から接近してきていた低気圧の影響である。午前5時35分には、大雨・洪水注意報もいよいよ警報に切り替わった。
 そんな中、消防署に救助要請が入ったのが、午前8時4分のことである。内容はこのようなものだった。
「山北町、玄倉第一発電所先約100メートルの中州に、大人12人、子ども6人が取り残されています。孤立していて、徒歩では出られない状態です。お願いします」
 そら、来たよ! 消防隊員たちはさっそく準備を整え始めた。彼らは今日、こういう要請が必ずあるだろうと予測していた。レジャーブームの影響で、毎年この季節になると、やれ山から下りられなくなっただの、やれ川や海から脱出できなくなっただのとという事故が多発するのである。
 実際、昨夜の時点でも、すでに一件そうした救助事案があった。そしてその帰り道に、隊員たちは、キャンプ指定区域から外れた河川敷にいくつものテントが張られているのを目撃している。キャンピングカーもあった。いつ事故が起きてもおかしくない状況だったのだ。
 さあ出動である。大人12人に子供6人とは、また大所帯だ。やれやれこいつは面倒そうだな――などと思いながら救助工作車を走らせ、消防隊員たちは現場に向かった。
 外はとんでもない豪雨だった。今朝はいったん穏やかになったとみえた天候が、またしても荒れてきたのだ。途中で通りかかった橋などは冠水していたという。
 やがて隊員たちは現場に到着したのだが、そこで彼らは想像を絶する光景を目撃することになった。目の前にあったのは、見たことも聞いたこともないような状況だった。
 増水した玄倉川では、水が音を立てて流れていた。濁流、激流、奔流といった言葉が似合いそうな凄まじい勢いだ。そしてなんと、そのド真ん中で、総勢18人が水に流されまいと必死に踏ん張っていたのだった。大人の男女、子供、それに幼児もいる。
 どうやら、彼らは川の中州でテントを張ってキャンプをしていたらしい。そこで水かさが増し、身動きが取れなくなってしまったのだ。
 昔のギャグでいえば「じょ~だんじゃないよ~」である。シンプルではあるが最悪の事態だ。こんな濁流の中に飛び込んで救助を行うなんて無茶に決まっている。しかし、遭難者がなまじ手の届きそうな距離にいるだけに、「火勢がすごくて救助は突入は無理です」とも言っていられない。
 さあ、それではどうやって助けるか?
 のび太だったらきっとここで「ドラえもんヘリコプターで吊り上げてよ~」と泣きつくところかも知れない。だがそれは論外である。こんな大雨と雨雲と強風の中でヘリを出したら、たちまち二次災害だよのび太くん。だから、当時のテレビの報道映像でも上空から撮ったものは残っていないんだよのび太くん。
 では天候が回復するまで待つか? いやいや、そんな悠長なことも言っていられない。そこで次に出たアイデアは「梯子車を使う」というものだった。
 ただ、どうも筆者には想像がつかないのだが、この状況で梯子車でどう救助するのだろう? 吊り上げるのか、それとも梯子を水平に伸ばすという意味だったのだろうか? だがどのみち、それも却下された。現場周辺は路肩が弱く、救助用の車両が乗り入れるのは極めて困難だった。
 残る手段は、川の対岸へロープを張るというものだった。「救命索発射銃」という、これまたひみつ道具みたいな名前の器具で、救助用のリードロープを撃ち出すのだ。
 だがそのためには、隊員があらかじめ対岸へ回り込まねばならない。これが時間を食った。対岸へ回り込むための道はなく、隊員たちは豪雨の山の中、道なき道を探してさまよい歩く羽目になった。
 待っている隊員にとっては、これが非常に辛い時間となった。
「おいこら消防、なにやってんだ! 早く助けてやれよ!」
 心ない人たちもいるものだ。現場を見守っていた他のキャンパーたちは、黙って見てりゃいいのに、隊員たちに罵声を浴びせ始めたのだ。
 もっとも実際には、消防もこの間、完全に手をこまねいていたわけではない。隊員が対岸に到着するまでの間に、川に飛び込んでの直接救助を試みてもいる。だが激流には勝てず、転倒につぐ転倒を繰り返してあえなく断念したのだった。
 この様子を見て、見物人たちもさすがに黙りこんだという。
 その間に、ようやく対岸に隊員が到着した。
「よし準備万端整った、リードロープ発射!」
 しかし、一発目は対岸の樹木に引っかかって失敗。
「たいちょ~、なにやってんすか~」
「う、うむ今のは練習だ練習! 次、本番いくぞ!」
 だが残念ながら、二発目は一発目のロープにからまってしまった。それでも一応、張ることはできたようなのだが、これは水圧のために遭難者たちには届かなかったという(※注1)。
 さて、結論を先取りして言ってしまうと、ここから悲劇の瞬間までほとんど秒読み段階となるのだが、実はそこに至るまでの間がよく分からない。
 リードロープの発射は10時30分に開始されたという。だが、遭難者全員が力尽きて濁流に飲まれたのが11時38分のことである。ずいぶん時間が空いている。ロープの発射作業でそこまで時間がかかったのだろうか。
 『なぜ、人のために命を賭けるのか』という本によると――当研究室で「ザ・誤字脱字」と呼んでいる資料文献なのだが――最後に三発目のロープ発射があったことになっている。それが本当ならば時間がかかるのもむべなるかなだが、ただこの文献はたまにウソが書かれているので油断がならないのである。
 まあ細かいことはいいや。とにかく、結果は前述の通りである。11時38分、18人は力尽きて流された。
 当時、現場にはマスコミも押しかけていた。そのため、流される瞬間はテレビで全国中継された。
 だがまだ終わりではない。ちゃんと一命を取り留めた者もいる。まず、1歳の幼児が、流された直後に救助されている。さらに他にも大人3人と子供1人が奇蹟的に対岸に流れ着き、後に救助されたのだった。生存者はこの5人にとどまった。
 残りの13人はそのまま行方不明に。やっと全員分の遺体が見つかったのは、事故発生からほぼ2週間後の8月29日のことだった。
(※注1 ウィキペディアによると、この二本目のロープは「水圧と流木に妨げられて届かなかった」とある。だが参考文献『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、純粋に水圧でロープが切れたとされている。この本には、二本目のロープが一本目のロープに絡まったという失敗談は書かれていない)
 
   ☆
 
 この事故、誰が一番悪いのかというと、まあやっぱり犠牲となった当人たちであろう。死者を鞭打つつもりはないが、だがやはり事故発生までの経過を見ると、彼らが死なずに済むチャンスがいくらでもあったことが分かるのである。
 8月13日の午後から、現場付近には低気圧が近づいてきていた。さらに夕方には注意報が発令され、夜には土砂降りの大雨となった。
 犠牲になったキャンパーたちは、この時、もう玄倉川の中州でテントを張っていたのである。もともと、川の中州でキャンプをするというのはその道の人間にとっては禁忌行為だ。その上この夜は、上流のダム管理事務所の職員や警察官などが、水かさが増したら危険だぞと3回ほど警告をしていたのである。にもかかわらず、彼らは判断を誤りそこに留まった。
 現場の中州には、他にもキャンパーたちがいたようだ。だがこの時の警告によって、ほとんどが退避したし、また犠牲者グループの中でも、賢明な3名がそこで避難している。彼らは近くの車の中で一夜を過ごした。
 上流の玄倉ダムに貯水機能はない。よって、降雨量があまりに増せば放水しなければならない。だから管理事務所でも夕方以降に「水を流すぞ~」とサイレンを何度も鳴らし、実際に放流したのだが、それでも中州のキャンパーたちはどこ吹く風。水かさが少し増した程度なら平気の平左、であった。
 そして運命の8月14日。
 この日も、早朝の段階では問題がなかったようだ。
 7時30分頃までの間には、水かさも膝下くらいだったらしい。先に避難したメンバーや警察官が、それぞれ川に入ってテントの様子を確認に来ている。
 だがこの後、状況は一変した。上流の玄倉ダムではまた放流を始めていたし、天候も見る間に本格的な豪雨へと変わっていったのだ。水位はどんどん上がり、ついに8時には移動不可能となった。119番通報したのは、先に避難していたメンバーの男性だった。
 
   ☆
 
 ちなみに、この事故で救出活動を行った消防の面々は、当初は凄まじいバッシングを受けたという。電話での非難のみならず、テレビの評論家が余計なことを言ったせいですっかり悪者扱い。13人もの人々を見殺しにした役立たず、と罵られた。
 ところが、ある時を境にそれが180度変わった。
 事故が起きる前、警告に応じて避難した男性がいたのは先述の通りだ。その男性が、テレビでキャンパー側の非を認める証言をしたのである。そして同時に、消防や警官たちの当時の動きについても説明したため、消防の面々は今度はあちこちから称賛されたのだった。
 当時の消防関係者の一人は、この状況について「マスコミの威力を知り、マスコミの力で助かった」と述べたという。
 で、一方でこの事故の記録をネット上で調べていると、今度は犠牲になったキャンパーたちを「DQN」扱いする言説にけっこう行き当たる。DQNとはネット用語で「社会常識のない人たち」を指すそうな(テレビ番組『目撃ドキュン!』にそういう若者がよく出ていたため、ドキュン、をDQNともじって使うようになったらしい)。
 まあ、この辺りのエピソードは余談と考えて頂いて結構である。
 とりあえず余談ついでに筆者が思うのは、匿名性と感情に任せてあれこれ言うのは控えようよ……ということである。事故はいつだって、テレビの画面やネット上で起きているのではない。現場で起きているのだ。
 
【参考資料】
◆ウィキペディア
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社(2004)
 

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