目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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その他

トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)

 今から100年ほど前にニューヨークで発生した火災である。

 言うまでもなく、ニューヨーク市と言えば今では押しも押されぬ大都市で、産業・商業・情報等の分野における最重要都市である。だがその成長の歴史は意外に短く、当時のニューヨーク市はまだ他の街との合併を果たしたばかり。大都市としては駆け出しもいいところで、成長はこれから――という時期だった。

 そして、日本の例を挙げるまでもなく、こうした都市の成長の陰では多くの人々の犠牲がつきものである。婦人用古着再生工場だったこのトライアングルシャツウェスト工場で発生した火災は、その分かりやすい実例のひとつだといえる。

 さらにこの火災は、その社会的・歴史的な影響のため、災害史のみならずアメリカ史全体においても大きなインパクトを残している。

 当時、アメリカでは労働運動が盛んで、多くの工場で労使間の対立と和解があった。その端緒となったのが他でもないこのトライアングル社であり、そして最後まで決着がつかなかったのもトライアングル社だったのだが、火災が発生し多くの女工が死亡したのが、こんなグダグダの状態のさ中だったのである。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になったのだ――ということで、労働環境の是正がより一層求められるようになったのだ。

 以下で火災の経緯を記すが、その前にひとつお断りしておく。資料によって「トライアングルウエストシャツ工場火災」「トライアングルシャツウエスト工場火災」と2種類の表記があり、当研究室ではどう表記したものか迷ったのだが、ここでは後者を選ぶことにした。「トライアングルシャツの、西工場の火災」がニュアンスとして近いように思われたからだ。

 ただ固有名詞としてあまりに長いので、本文では「トライアングル工場」と表記させて頂く。また「トライアングル社」と表記されているのは、工場ではなく本社という意味で読んで頂ければ幸いである。

 

   ☆

 

 日本では明治44年にあたる1911年、3月25日のことである。

 ワシントン・プレースとグリーン・ストリートが交わる交差点、その北西の角にアッシュ・ビルという10階建ての高層ビルがあった。

 トライアングル工場は、このビルの上から3階分のフロアに施設を構えていた。8階と9階が工場で、10階は事務室である。

 工場での就労時間が終わる午後4時半のことだ。終業ベルが鳴ると、その日の労働を終えた女性たちは帰り支度を始めた。縫製会社とあって、従業員のほとんどが女性である。

 会社の守衛たちもまた、盗難防止のために、社員たちのハンドバックを調べる準備を始めた。

 外は快晴、清々しい天気である。

 しかしこの直後に異変が起きた。8階にいた裁断係の男性が、布の切りくずが入っている箱から出火しているのを見つけたのだ。グリーン・ストリート側の窓のそばにテーブルがあったのだが、その下の箱が火を噴いていたのである。

「うわっ火事だ! 水持ってこい水。支配人にも知らせろ」

 知らせを受けて、9階だか10階だかにいたらしい生産担当支配人、サミュエル・バーンスタインも駆け下りてくる。おお、本当に火事だ。だけど心配ご無用。俺、2週間前にもボヤを消し止めたもんね。さあバケツ持ってこい――!

 そんなに頻繁に火事が起きてたんかい、とツッコミを入れたくなるところだが、それはさておき、バーンスタインは他の男性社員とさっそく水をかけ始めた。この男性社員も、2週間前に一緒に消火活動を行っていた。

 この工場、実は防火設備に関しては意外にしっかりしていた。各階に消火用バケツや屋内消火栓が備え付けられており、それを用いた消火が試みられたのだ。だが火は消えなかった。

 工場内の環境も悪かったのだ。出火場所の周辺には、木綿生地やたくさんの紙型がぶら下げられていた。その上、ミシンからの油漏れのため床は油で汚れており、とどめに予備のミシン油の樽が壁にずらり。洒落にならん。

「くそっ消えない、みんな逃げろ!」

 避難指示の言葉を英語でどう言うのか知らないが、とにかくバーンスタインは、消火活動を行いつつ従業員に避難と脱出を促した。

 こうして8階での混乱が始まった。もともと、この階にいた225人(275人とも)の従業員は、グリーンストリート側のいつも開いているドアから帰宅しようとしており、皆がそこから脱出を始めた。

 同時に、バーンスタインは機械工のルース・ブラウンにこう指示を出した。

「もうひとつドアがあるだろう、そっちの鍵も開けろ」

 そっちというのは、ワシントン・プレース側に出られるドアである。こちらは窃盗とサボり防止のために常に施錠されており、ブラウンはさっそく解錠しようとした。

 ところがこのドアが曲者だった。当時(今はどうなのか不明だが)のニューヨーク州の労働法第80項では、「工場のドアは可能な限り外開きでなければならない」と定められていたのだが、ドアの向こうの踊り場があまりにも狭すぎたため、これは内側に向かって開くように作られていたのだった。

 結果、どうなったか。怯えて脱出をあせる労働者がドアに押しかけたため、内側に向かって開けることができなくなったのである。笑い話のようだが本当にそうなのだ。

 ブラウンは当時のことを、このように語った(意訳)。

「ドアを開けるために、彼女らを押し戻さないといけなかった。ドアにびっしり押し寄せているんだもの。俺が全力でドアを引っぱると少しは開くんだけど、彼女たちはドアに押し寄せてくるからまた閉じる」

 ゾッとする話である。それでもやっとこさドアが開かれ、20インチ(50センチほど)の幅のドアから一人ずつ逃げ始めた――。

 8階からは、こうして大半が無傷で脱出することができた。ところが問題はそのさらに上階である。

 当時、8階にいたダイナ・リフシッツは、社内電話を使って、10階の電話交換手メアリー・オルターに通報している。少し海外ドラマの翻訳風に、当時のやり取りを書いてみよう。

ダイナ「ハーイ、メアリー。大変なのよ、今8階が火事なの! お願いよ、10階と9階の人たちに知らせてくれる? 今8階もパニックで、交換手のあなたに頼むしかないの。お願い」
メアリー「え~? ちょっと待ってちょうだい、それ本当なの? じゃああたしたちも早く逃げないと!」
ダイナ「駄目よメアリー、その前にみんなに連絡して! そうでないと大変なことになるわ、メアリー、メアリーったら!」

 もちろん想像上の会話である。だが大体こんな感じだったのではないだろうか。この交換手のメアリーが交換台をほったらかしにして逃げたため、9階にいた260名~300名の従業員はまったく危険を知らされなかったのだ。

 10階にいた人々は、全員が無事に脱出できた。だが9階にいた従業員は、フロアの窓の外が炎と煙に包まれるまで火災にまったく気付かなかった。

 もともと、アッシュ・ビルの壁はレンガ造りだった。そして窓枠などの部品も金属が用いられており床もコンクリだったので、炎が壁や床を突き抜けることはなかった。しかし8階の窓から噴き出した火炎によって、9階もたちまち火の手に包まれたのだった。

 さあ、9階フロアは大混乱である。トライアングル工場で働いている身内の名を呼ぶ者、縫製機械のそばで呆然と動かなくなる者、即座に逃げ出す者などがいたという。

 逃げ出したグループは、さらに二手に分かれた。8階の従業員たちと同様に、グリーン・ストリート側と、ワシントン・プレース側のドアへ向かったのだ。

 結果、グリーン・ストリート側のドアからは100人ほどが無事に脱出。こちらの螺旋階段は幅33インチ(約84センチ)という狭さでしかも急勾配だったが、避難には充分使えたようだ。

 だがこの階段も途中から使用不能に陥った。火炎のため通れなくなってしまったのだ。

 またワシントン・プレース側のドアは、これも8階と同じように施錠されており使えなかった。不幸にして、解錠できる人間がこの階にはいなかったらしい。

 こうして脱出し損ねた従業員たちは、慌てて別の避難経路を探す。残るは屋外にある非常階段と2基のエレベーターだけだ。

 運命の二者択一である。だがもはや、どちらも安全な避難経路とは到底呼べない状況だった。

 まず屋外非常階段だが、これは幅が17インチ(約43センチ)とひどい狭さだった。しかも避難する人々の重みと、ビルからの火炎の熱でもって、人々が避難している最中に階段そのものが崩壊してしまった。

 次がエレベーターだ。これはワシントン・プレース側に設置されており、運転員もいた。当時の避難の様子について、この運転員はこう証言している(意訳)。

「従業員たちは、私の髪の毛を引っぱって、頭上に飛び込んできた。私も人々の頭の上に人々を詰め込んだ。エレベーターの屋根によじ登る者もいた」

 またこんな証言もある(エレベーターの運転員は2人いたと思われるが、この2つの証言が同一人物のものかどうかは不明である)。

「9階でエレベーターのドアを開くと、避難者の大群がいた。そのすぐ後ろは物凄い炎と煙だった。私は何度かエレベーターを行き来させて人々を脱出させた。そして3回目に9階へ上った時には、もう周辺は火炎だらけ。多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」

 鮨詰めのエレベーターは、こうして数回に渡って上下階を行き来し、多くの被災者を救っている。最後の数回は、実に定員の2倍の人数を輸送したという。

 しかしこの2基のエレベーターも、やがて停止した。一台は火災の熱でエレベーターの通路が歪んだためだった。またもう一台は、炎を逃れようと通路へ飛び降りた者が多数おり、その重みで箱が動かなくなったからだ。

 上階にはまだ逃げ遅れがいたのだ。やがて、停止したエレベータの箱の上に、彼らが飛び降りてくるドシンドシンという音が響いてきたという。後に消防士が確認したところ、エレベーターの箱の上には計19の遺体があった。

 エレベーターが2台とも停止したのが4時45分。火災が発生してから僅か15分のうちに、従業員たちは9階から脱出するすべを失ったのだった。

 不運だったのは、ちゃんとこのビルには火災用の避難口があったのに、大半の者がそれを知らされていなかったことだろう。従業員たちは防火訓練を受けておらず、建物内のいつも見慣れたシャッターの向こうにそれがあることなど、思いつきもしなかった。

 飛び降りも、数え切れないほど発生した。非常階段が崩壊したことは先に述べたが、それ以外にも多くの人が窓から落下している。

 エレベーターの運転員はこう証言していた――「多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」と。つまりこの、「窓枠に立っていた」従業員の末路が「飛び降り」となってしまったのだ。

 当時、現場周辺は野次馬でごった返していた。火だるまになった犠牲者が高層階から落下してくる姿を、大勢が目撃している。

 野次馬の一人の証言。

「最初は、オーナーが高級な製品だけを窓から外に投げているのかと思った。だがよく見ると、それは窓から飛び降りる従業員たちだった」

 また、たまたま近くを通りかかった『ニューヨーク・ワールド』(雑誌か何かだろうか?)の記者はこう証言している。

「500名ほどの群衆が、いっせいに怯えた声をあげた。風で衣服を巻き上げながら落下してきたのは、若い女性だった。彼女は街頭に叩き付けられて即死した。群衆が、なにがなにやら分からずにいると、もう一人の若い娘が窓枠に飛び上がった。彼女は、拳を固めて窓を叩き破ったらしかった。頭髪も衣服も燃えていた。一瞬、両腕を突き出して窓枠で制すると、すぐに落下してきた。同時に、別の窓からも3名の女性が身を投げ、あとからも別の女性たちが窓枠へしがみついていた。息をあえがせ、このまま室内で死ぬか、眼下の歩道や側道で死ぬか、決断しようとしていた」

 なんだか、さすがに筆者も書くのが苦痛になってくる光景である。あまりにも凄惨だ。

 ともあれ、この落下によって46~60名以上が死亡。辺りは死屍累々たる有様だった。消防士の救命網も、高層階からの飛び降りには役に立たなかった。

 消火活動は難航を極めた。梯子が届かない上に、犠牲者が次々に飛び降りてくるので危険極まりなく、消防隊も警官も近寄れない。難航を極めたというよりも、もはや消火活動は「できなかった」というのが本当のところだろう。とにかくボトボト人が降ってくるものだから、エレベーターで無事に脱出した従業員すらも、危なくてビルの外には出られなかったという。

 それでも、消防が到着してから30分以内には鎮火しているようだ。ほほう、なかなか手際がいいね……と言いたいところだが、喜んでなどいられないのである。この1時間弱の火災で、なんと死者は146名というべらぼうな数に上ったのだ。 
 工場内から救助された者は、一人もいなかった。

 最初、遺体は道路に積み上げられていたが、警官たちは大急ぎで棺を調達。そして、東26番ストリートの埠頭に臨時の遺体安置所を作った。

 一部の犠牲者は、賃金を大事に服にしまっていたり、あるいはその手に握り締めたりしていたという。

 また、娘の死を目の当たりにして、埠頭から身を投げようとした母親も十数名いた。警官は彼女たちを止めるのにもひと苦労だった。

 さて、裁判である。この悲惨極まりない事件の責任者は誰なのか?

 これについて、当時ニューヨーク・タイムズはこう書き立てたという――「この恐るべき失態は、何者かが引き起こしたのだ。しかし難しいのは、これだけの人命が失われたことの責任の所在を突き止めることだろう」。

 面白くもなんともない予言だが、これが的中した。アッシュ・ビルと工場の管理に携わった者たちは、誰も彼もが互いに責任をなすり合ったのだ。いわく、

1・州知事「俺じゃねえよ! 悪いのは建築局だ」
2・地方検事の主張「俺じゃねえよ! 悪いのは州の労働局、共同住宅局、水道局、警察だ」
3・トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランク「俺たちじゃねえよ! 悪いのは建築基準法だ」

 素人の印象では「会社が一番悪いんじゃないの?」と感じるところだが、しかしここで注意しなければならないのは、トライアングル工場は法令違反をまったく行っていなかったという点である。

 例えば避難階段も、熱式火災報知システムも、各階の水バケツも、屋上タンクも、屋内消火栓もあった。また外部からの送水も可能だったし、地階の散水設備も充実していた。数十年後のどこぞの国のホテルや旅館やデパートに比べても余程しっかりしているし、またこれは当時の法令の示す基準にもきちんと合致するものだった。

 つまりトライアングル工場火災は、「これだけの設備があれば火災が起きても大丈夫だろう」という行政の予測を遥かに越えていたのである。うんざりするような言い方になるが、いわゆる「想定外」だったというわけだ。

 行政にも、決して落ち度がなかったわけではない。消防設備について言えば、梯子は届かないし放水の水圧も足りなかった。また市の建築課も、アッシュ・ビルの欠陥を認識していながら放置していたフシがあった。

 それでも、結局最終的に起訴されたのは、トライアングル社の2人のオーナーだった。先に名を挙げたアイザック・ハリスとマックス・ブランクである。

 法廷では、遺族からの報復を防ぐため、被告人には常に警備がついていたという。

 裁判では、問題を単純化するべく、死亡した1人の女性について争点が絞り込まれた。ワシントン・プレース側のドアが施錠されていたことが、犠牲者の発生に繋がったのではないか――?

 審理は3週間の長きに渡り、証人は155人に上った。

 そして陪審員が、1時間50分の協議の末に出した結論は「無罪」。

 146人の死者が出た事件で無罪の結論を出すというのも、勇気があるというかなんというか、頭の下がる思いである。「あいつら気に入らないからとりあえず有罪にしちまおう」などという判断は下されなかったのだ。

 だがこれは、当時のアメリカ人にとっても意外な結末だったようだ。民衆は怒った。死んだ従業員たちは犬死になのか、冗談じゃないぞ――そしてこの怒りこそが、アメリカの労働政策の改善に繋がっていくのである。

 

   ☆

 

 さてここからは、この火災がアメリカ社会に与えた影響について記していくことにする。地味な歴史記述になるので、退屈になりそうな方はここで終わりにして頂いても構わない。

 時間を少し遡り、時は1909年。

 トライアングル社の凄惨な大火災が発生するよりも、2年ほど前である。

 この時期は、シャツブラウスという衣服が女性に人気だった。デザイナーによる魅力的なデザインと、一人一人に寸法を合わせる技術のおかげである。ちょうどこの頃は、女性がどんどん社会進出を果たしており、シャツブラウスはそんな彼女たちの標準的な衣装だった。

 さてそんな中で、トライアングル社は業界でも最大大手のメーカーだった。安っぽくもなく、無駄に高級志向でもないバランスの取れた品質と、それに大量生産の技術がこの会社を成功させたのだった。

 ところがこのトライアングル社、職場環境は劣悪もいいとこだった。工場内は不衛生、サボりや盗みの防止のために窓やドアは釘付け。湿度も高く、そんな中で社員たちは週6回、合計56時間働かされていたのだ。

 また賃金は余分に出ることはなく、縫製ミスがあれば賃金から差っ引かれる。さらに私語、喫煙、鼻歌だけでも罰金を取られるという「ヒジョーにキビシー」状況だった。

 そんな中、ひとつの出来事があった。社員の女性が、労働組合を結成する会合に参加したのである。

 これが、トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランクの耳に入ったからさあ大変。会合に参加した女性たちは、職場から閉め出されてしまった。ロックアウトである。

 これに対して、社員の女性たちはさらに反発。ユダヤ系の女性もイタリア系の女性も、この時ばかりは民族の壁を越えて一致団結しストライキに参加した。

 これが、大規模な労働運動に火がつくきっかけとなった。11月には、ニューヨーク市全域の集会場で労働組合の会合が行われ、ストは全ての縫製産業に拡大。今までにないスケールでほとんど冬の間中続けられたという。

 もちろん、雇用者のほうだって黙っちゃいない。当時は「組合潰し」はごく当たり前のことだった。特にトライアングル社のハリスとブランクについて言えば、彼らには警察も味方についている。戦いの準備は万端だった。

 それでも、労働者の抗議活動は止まらない。新聞記者、ソーシャルワーカー、学者から、果ては社会主義思想家やラビなどの僧侶までもがこの運動を擁護。さらに女性労働者によるデモ活動ということで、裕福な女性層も運動を後押しした。

 おそらく、この運動は一部の労働者の単なる思い付きではなかったのだろう。当時の労働者の不満は頂点に達しており、運動が起きるのは当たり前、時代の趨勢だったのだ。

 というわけで、雇用者側も時代の要請に押される形で妥協案を提示した。調停でもって、多くの工場と労働組合が仲直りをし、1910年2月15日にはストライキもほとんど終了した。

 ところが、労使双方の主張がいつまで経っても平行線で、ちっとも示談に至らない会社が13社あった。どれも1,000名以上を雇用する大企業で、その主たるものがトライアングル社だったのである。当時、ある雑誌ではこう書かれた――「トライアングルで始まったストは、トライアングルには勝てなかった」。

 火災が発生したのが、それから1年余り経った頃のことである。

 やるせない巡り合わせだ。労働運動盛んなりし頃はストを潰すために躍起になっていた警官たちも、この火災では労働者たちを弔う側に回ったのだった。

 彼らは、路上に散らばった焼死体が通行人に踏みつけられるのを防ぎ、救急車でもってそれらを運ばせ、それぞれの遺体を棺に入れたのである。彼らの心中にはどんな思いがよぎっていたことだろう。

 そして、裁判で雇用者の2人が無罪とされたことで、市民のやるせない思いは社会運動のほうへと振り向けられることになった。

 ここで登場するのが、フランシス・パーキンスという女性である。トライアングル火災の後、ニューヨークでは工場調査委員会なるものが設立されたのだが、この執行委員に選任されたパーキンス女史は、その後の労働政策に大きく関わっていくことになる。

 この工場調査委員会は、州内におけるあらゆる労働問題の一掃を試みた。とにかく、女性が午前5時に出社して10時間交代勤務していたり、5歳の子供が缶詰工場で働いていたりするこんな社会状況はなんとかしなければいかん、と考えたのである。

 また公聴会を開き、一部の機械の危険性や、適切なトイレ設備が欠如していること、さらに児童労働や病気の蔓延などの問題も証言。そして忘れちゃいけない火災対策についても防火局を設置し、防火安全規則を更新させた。

 こうした流れが、最終的にはアメリカ一洗練された新・労働法の完成へとつながっていき、これは他の州でもお手本にされたという。

 改革に一役買ったパーキンス女史は、さらに州労働局では局長のポストに就き、10年間勤務している。そして、最初はいち執行委員として所属していただけだった工場調査委員会においても局長へと押し上げられたのだった。

 この「押し上げ」を行ったのが、当時はまだニューヨークの州知事だったフランクリン・ルーズベルトである。どうやら、彼はパーキンス女史に絶大な信頼を寄せていたらしい。自分が大統領になると、さっそく彼女を労働長官に任命した。これは女性閣僚としては初めての抜擢だったという。

 ルーズベルト大統領が打ち出したニューディール政策は、かの大恐慌を克服し、アメリカ経済を蘇生させるための一大プロジェクトだった。その中には労働者の待遇改善という問題ももちろん含まれており、ニューディール政策そのものの成否は兎も角としても、パーキンス長官はこの政策の推進のためになくてはならない人材だったのである。

 さてその後、一躍労働長官へとのし上がったパーキンス女史は、講演でこう語っている。

「我々はニューディール政策を公約しているルーズベルト大統領を選んだ。しかしこの政策は、1911年3月25日の恐るべき火災で、哀切極まる犠牲者を多数出したというニューヨーク州の経験がその基盤になっているのである。彼らは犬死したのではない。我々は決して彼らを忘れないであろう」

 火災の犠牲者が、まるで名誉の戦死を遂げた兵士のように語られている。

 実はパーキンス女史は、トライアングル工場火災の惨状を目の当たりにしていたのだ。当時の彼女は、働きながらコロンビア大学の大学院に在籍していたのだが、そんな彼女の目の前で、アッシュ・ビルが火を噴き、そして女工たちがボトボト落下する光景が繰り広げられたのである。これは確かに、政治活動にでも昇華しない限りトラウマになりかねない体験だったことだろう。

 というわけで、もうお分かりであろう。トライアングル工場火災が、その後のアメリカの労働政策に大きな影響を与えたというのは単なるこじつけではない。この火災事故は、その後の国家政策の源流そのものだったのだ。

 そんなこともあってか、この火災事故は今でもかの国で語り継がれている。

 例えば事故の50年後には、今はニューヨーク大学となっているかつての現場に「全国女性縫製労働組合同盟」とやらがブロンズの額を設置している。また、火災の最後の生還者だった女性が107歳で死亡したことも、ニュースで取り上げられたという。

 こういった情勢を見ると不思議に思ってしまうことがある。なぜ日本人は、身内に降りかかった事故災害について、ああもたやすく忘れてしまうのだろう。

 例えば、日本初の高層ビル火災は白木屋火災ということになっているが、これについて語り継がれているのはせいぜい「当時の女性従業員はノーパンだったから避難できなかったらしいよ」というデマばかりである。

 こうした傾向は実に嘆かわしい――と言ったらなにを偉そうにと怒られそうだが、まあでも、やっぱり変えられるものなら変えるに越したことはないよね。こういう精神的風土。

 まあそのへんは、文化や民族性の違いということになるのだろう。アメリカ人にとってはリメンバー・パールハーバーならぬ、リメンバー・トライアングルシャツウエスト・ファクトリー・ファイアといったところなのかも知れない。

「長すぎてタンコブが引っ込んじまったよ!」

 ――というオチをつけられそうな気がしたところで、お後が宜しいようで。

 

【参考資料】
◆『火災教訓が風化している!①』近代消防社
◆アレン・ワインスタイン,デイヴィッド・ルーベル(著)越智 道雄 (訳)『ビジュアル・ヒストリー アメリカ―植民地時代から覇権国家の未来まで』東洋書林 ・2010年

 

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ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)

 ココナッツ・グローブの火災であれほどの死者が出たのは、どうも炎や煙などの単純な理由からではないらしい。

 では何かというと、どうやら火災当時は有毒ガスが発生したらしいのだ。当時、建物の冷房に使われていた媒体がメチル塩化物で、これは熱によってガスを発生させる。それが人間には致命傷になるのである。

 ――と、こんな報告がなされたのが1999年のことである。

 ココナッツ・グローブ火災は、アメリカの火災史を語る上で外せない大火災の一つだ。

 1942年11月28日の深夜、ナイトクラブで出火し488~491人という目を疑うような数の死者が出たのだ。これについて57年後に事故の再調査が行われ、上述のような報告となったのである。

 それにしても57年後の再調査である。別項になるトライアングルウエストシャツ工場火災に関してもそうだが、そんな昔の出来事をよくしつこく調査するものだと思う。過去の出来事に対し、米国人というのはものすごく執念深いようだ。その点には頭が下がるというか呆れるというか、とにかく素直に脱帽である。

 日本でもこれを見習って、古い事故の再調査を行ってみてはどうだろう? 当時は分からなかった新発見なども色々出てくると思うのだが……。例えば鶴見事故の脱線の原因、六軒事故の信号機の謎、大洋デパートの失火の原因、等々。

 もっとも我が国は、縁起の悪い事柄は「水に流す」のが基本である。きっと、負の記憶を蒸し返すことに渋い顔をする方も多かろう。当研究室は、こうしたお国柄に対するささやかなアンチテーゼでもあるのである。

   ☆

 ココナッツ・グローブ火災が発生したのは、先述の通り1942年11月28日のことである。土曜日の深夜だった。

 ボストンにあったこの店はナイトクラブの老舗で、当時はフットボールの応援客が大勢来ていたという。その人数たるや1,000人をゆうに越すほどで、これはすでに定員を数倍上回る人の入りだった。

 時刻は午後10時。失火があったのは地階だった。

 メロディ・ラウンジ(筆者はメロディ・ラウンジと言われてもどういう場所なのかよく分からないのだが)に作り物の椰子の木が飾られていたのだが、それがいきなり燃え出したのである。ココナッツ・グローブという名前に相応しく、店内にはこうした飾りの椰子の木がたくさんあった。

 出火の原因だが、これは火災直後には16歳のウェイターの少年のせいではないかと言われた。電球の取り付けを行おうとしてマッチを擦ったのだが、それが引火したのではないかと考えられたのだ。

 もっとも、それも憶測に過ぎなかった。そしてこの火災の責任の追及は、最後の結論に至るまでに二転三転することになるのである。その点は後述しよう。

 火災発生直後には、ボーイやバーテンダーが協力して消火を試みている。だが失敗。あげく、燃える椰子の木を移動させようとして倒してしまい、このため火は一気に燃え広がってしまった。

 さあ、パニックである。地階の客達は出口の階段へ殺到した。

 だが火勢は想像以上だった。2分から4分ほどで階段は炎に包まれ、ほとんどは脱出出来なかったという。火炎はたちまち1階へ上っていった。

 人々は一斉に避難を開始したが、この時に仇となったのが「回転ドア」である。客たちがこぞって正面玄関の回転ドアに殺到したものだから、ドアが詰まって回らなくなってしまったのだ。

 犠牲者たちはこのドアの後ろで折り重なって倒れており、回転ドアはギチギチに詰まっていたという。消防士が中に入る際にはドアを分解しなければいけなかったそうだ。

 では他の出入り口はどうだったのかというと、これは全て従業員によって閂がかけられており、脱出には使えなかった。お客が料金を踏み倒すのを避けるための措置だったそうだが、考えてみればどっちみち死んでしまえば踏み倒されたようなものだろう。皮肉な話だ。

 そして建物の中は可燃物だらけだった。店内の椰子の木は紙で出来ていたし、布製のカーテンがあちこちにかけられて可燃性の家具を覆っていた。おかげで玄関や食堂など、建物の主要な部分が炎に包まれるまで5分程度しかかからなかったという。

 消防署が通報を受けたのは10時23分。別件で出動していた消防隊が、帰りにこの火災を発見したのである。

 さあ救出作業である。だが消防隊がココナッツ・グローブに接近した途端、出入り口から猛火が噴き出して来たからたまらない。突入は無理だ。しかも正面の回転ドアも先述のような有様で使い物にならない。

「まずは火を消せ!」

 消防隊は焦りに焦ったことだろう。通りに面した建物の壁の一部はガラスブロックで出来ており、屋内で次々に人々が倒れるのが見えたというのだ。悲惨この上ない。

 可能な限り迅速に、消火活動は進められた。だが消防隊が間もなく店内に入ると、もう中は遺体だらけ。犠牲者の中にはちょっと火傷を負った程度でテーブルに座ったままの者もいたらしく、おそらくこれが、最初に書いた有毒ガスの犠牲者だったのだろう。

 さあてお待ちかね、吊るし上げタイムである。

 なにせ500人弱というのは、米国の火災史上でも2番目の犠牲者数である。新聞でも、いっとき第二次世界大戦がらみのニュースの見出しに取って代わるほどの注目度だったのだ。世論が黙っているわけがない。

 まず叩かれたのが、先述した16歳のウェイターだ。

 しかし、彼の素性がはっきりするにつれて世間の非難は止んだ。彼は病気の母親の世話とアルバイトに精を出す成績優秀な少年だったのである。また自分が火元であることを自ら認めた潔さも、非難の矛先をかわす結果に繋がった。

 だが実際には、この少年が本当に火元なのかは謎のままである。彼はマッチの火はちゃんと消したというし、それが椰子の木に燃え移った瞬間を目撃した者は誰もいないのだ。厳密にはこれは定説ではない。

「さて、それじゃ次に悪いのは誰だ?」

 というわけで次に叩かれたのが、ココナッツ・グローブに営業許可を出していた監督官庁である。この場合は消防署ということになるが、実は火災の1週間前には、査察担当の消防職員が「この建物は問題なし」という判断を下していたのだ。

 よしコイツで決まりだ――。というわけでこの職員は殺人の従犯および故意の職務怠慢の容疑で起訴されたが、陪審員の結論は「無罪」。彼は別にいい加減な査察を行ったわけではなく、ちゃんと査察要領に従って職務をこなしただけったのである。要するに、制度のほうが現実の火災の実態に即していなかったのだ。

「だったら本当に悪いのは誰なんだ!」

 それで今度は、ココナッツ・グローブのオーナーがつつかれる羽目になった。

 このユダヤ人のオーナーは「悪徳オーナー」として世間の非難を浴び、たちまち悪者扱いされた。一体何が悪徳だったのか詳細は不明だが、ウィキペディアで調べてみるとマフィアや市長との繋がりが云々という文章があったので、そのあたりが都合よく標的にされたのだろう。

 結局、検察はこのオーナーひとりを起訴した。19の訴因に基づく殺人罪である。

 こうして12年から15年の懲役刑を食らったこのオーナー、その後は比較的短期間で出てきているものの、ほどなくして病死した。

 しかしこれは明らかに「横井秀樹現象」であろう。火災の責任を一人の人間におっかぶせて、とりあえず生贄にするというアレである。当時、捜査と裁判の成り行きに釈然としなかった人もきっといたに違いない。

 この火災によって、当時のアメリカの建築基準法は大幅に改正された。レストランやクラブなど、大勢が出入りする場所では、回転ドアだけではなく普通のドアも取りつけるべし。店内の装飾は不燃材を使うべし。非常灯とスプリンクラーは必ず設置すべし――などといった内容である。

 それらの決まりごとは、今の時代から見れば当たり前のようなものばかりである。だがその「当たり前」も、たくさんの犠牲者が出ないとなかなかものにならないのは、どこの国も同じらしい。

 

【参考資料】
◇『火災教訓が風化している!①』
◇『人はなぜ逃げおくれるのか』
◇ウィキペディア

 

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シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)

 今、筆者の手元に、1枚の奇妙な写真がある。

 まず旅客機が1機、画面を横切っている。角度からしておそらく離陸したばかりなのだろう。

 問題はその機体の左下である。人の姿が写っているのがお分かりだろうか。一体なぜこんなところに? なにが起きたというのだろう?

 以下、この写真が掲載された当時の新聞から引用し、その説明にかえさせて頂く。

 

『密航少年、日航機から転落 シドニーで』

 

【シドニー(オーストラリア)二十三日UPI】

 日本航空のDC8型ジェット旅客機が二十二日、シドニーのマスコット空港からマニラに向けて飛立ったさい、機首の車輪格納部に隠れていた少年が転落して死亡した。
 警察の調べによると、この少年はキース・エマニュエル・サプスフォード君(一四)といい、密航しようとして車輪格納部にしのびこんだが、同機が地上約六十㍍に上昇したところで格納部から転落したらしい。義父のサプスフォード教授は「息子の望みは世界を見ることだけだった」と語った。

(写真説明)日航機から転落する密航少年。この写真はアマチュア写真家が撮影した(AP=共同)

 ◇1970年(昭和45年)2月24日・毎日新聞朝刊より

 

 何がなにやら、である。

 大体、いきなり「義父のサプスフォード教授は」とか言われてもアンタ誰? としか言いようがない。

 とにかく、大学教授の義理の息子が家出をし、世界旅行を夢見て事故死したということだ。背景に何かドラマがありそうだが、これ以上の詳細は不明である。

 

【参考資料】
 毎日新聞

 

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聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)

 格闘漫画『バキ』でシンクロニシティという概念が登場する。偶然の一致としか言えない事象の背後になんらかの要因や意志の働きを見出そうとする考え方とでも言おうか。こうしたシンクロニシティの背後に、神秘的な力の存在を見出す立場もあるようだ。

 そして困ったことに、事故災害の歴史を紐解くと、このシンクロニシティの例には枚挙に暇がないのである。日本で言えば八高線での連続事故三河島事故鶴見事故千日デパート火災大洋デパート火災、航空機事故などなどがある。そして話がこのような人災ともなれば、神秘的な力のせいということで簡単に片付けるわけにもいかない。原因の究明が急務となることは言うまでもないだろう。

 今回挙げるのは、1994年にソウルで発生した建造物崩壊事故である。この翌年には三豊百貨店の崩壊事故も起きており、これもまたシンクロニシティであろう。

 その建造物の名は聖水(ソンス)大橋。ソウル市内の漢江にかかり、城東区と江南区を繋いでいた橋だった。これが1994年10月21日の午前7時40分、突然崩壊して20メートル下へ落下したのである。

 崩壊といっても、橋全体が崩れたわけではない。橋の一部分がパキッともげて、その部分だけが落下したのだ。だが間の悪いことに、当時は朝の通勤通学時刻だった。その上、橋上では雨による交通渋滞が発生していたのである。

 さらに、当時の漢江は渇水中だった。よって崩壊した橋のパーツが完全には水中に没せず、落下した車はもろに橋の舗装部分に叩き付けられ大破する結果になった。川の水がクッションの役割をこれっぽっちも果たさなかったのである。

 結果、死者は32人。うち17名は通学のためスクールバスに乗っていた女子中高生だった。

 事故の原因は、手抜き工事と判明した。

 もともとこの聖水大橋は、走行中の揺れが激しいということで多くの苦情が寄せられていたという。それもそのはず、この橋は施工当時から要所要所の溶接がいい加減で、鋼材の腐食やひび割れもひどかった。

 また、その後のチェックによって溶接部分の異常が何度も確認されていたにも関わらず、橋を管理していたソウル東部建設事務所は補修工事を一切行っていなかった。事故当時は、ソウル市のほうでようやく橋の補修を始めたところだったのだ。

 当時の韓国では、都市部での大規模建築が盛んだった。だがしかし、関係者の技術もモラルも危機管理も時代の要請に応えられる状態ではなく、「安く早くドンドン建築すべし」という風潮だけが先走っていたようだ。さらに、橋上の交通量が当初の想定の2倍に上っていた点も惨劇の呼び水になったと言えるであろう。聖水大橋は建造物としては比較的新しいものだったにも関わらずこうして崩壊し、人々に衝撃を与えた。

 だがさすがに、こんな事故が起きては国民も黙ってはいない。国内に蔓延する手抜き工事への対策を練るべし、という声に押されて、当時の金泳三大統領は全国の道路や橋梁の一斉点検を始めた。

 聖水大橋については、国内の業者ではなく外国の専門企業が復旧工事を行うことになった。この工事契約を落札したのは英国のコンサルタント、レンデル・パルマ-・アンド・トリトン(RPT)社だった。

 まあ「RPT社だった」などと言ってみてもそれがどんな会社なのか筆者はさっぱり分からないのだが、再設計の後に1997年に再び開通した聖水大橋、2001年にはまた手抜き工事が発覚したというから、どうせロクな業者ではなかったのだろう。……というのはちょっと言い過ぎかな。これは根拠のない呟きと思って頂きたい。

 ちなみに、日本の橋はどうなのだろう。

 この聖水大橋の事故は日本にも衝撃を与え、多くの技術者がコメントを寄せている。そしてこの技術者たちの回答は以下のようなものだった。

「日本の橋は、通常の供用条件で、いきなり崩壊落下するようなことが絶対にないように安全に設計され、厳重な品質管理がされている」。

 そして2008年8月28日には、新潟市の朱鷺メッセ連絡デッキ橋が「通常の供用条件」でいきなり崩壊落下した(怪我人なし)のだから、まったくいい加減なものである。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア
◇失敗知識データベース

 

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三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)

 1989年からソウルに存在し、1995年に姿を消した三豊(サンプン)百貨店。

 この百貨店がソウルから「姿を消した」のは、決して閉店して取り壊されたなどという真っ当な理由からではない。冗談のような話だが、この建物は真ッ昼間にいきなり崩壊してしまったのである。

 ソウルの一等地に建てられたこのデパートは、その日、1995年6月25日もごく普通に営業していた。しかし午後5時55分に建物がメキメキグラグラ、ガタガタと音を立て始めたかと思ったら、20秒ほどで崩れ落ちたのだ。

 死者502人、負傷者937名というこの被害の大きさは、もはや天災クラスである。どんなに規模の大きい炭鉱事故や飛行機事故でも、なかなかこうはいかない。

 大変だァ、地震かガス爆発かそれとも北朝鮮のテロか!? 崩壊直後にはそんな憶測が飛び交い、海外の多くのニュースソースがこの大事件に注目した。そして救助活動が難航する中で原因の究明が進められていった。

 しかし、この崩壊がまさか本当に「ただの崩壊事故」だったとは、当初誰もが考えなかったに違いない。地震もガスも爆弾も、ましてやお隣のならず者国家などはこれっぽっちも関係なく、この三豊百貨店はまるきり自分自身の重量を支えきれずに崩れ落ちたのだった。

 実はこの事故、「いずれこういうことになるんじゃないか」と薄々勘付いていたひとりの人物がいた。当時の施設マネージャーだった男性である。

 彼は、事故前夜には「建物から異様な音がする」という報告を受けていた。また彼自身も、あるフロアの床で、柱の周辺がひび割れているのを目撃していたのだ。だがその時は、この柱があった食堂を封鎖する程度でお茶を濁していた。

 まずいな、この建物、まさか崩れるんじゃないだろうな――。彼には、その不安を杞憂として笑い飛ばせないような理由があった。

 そもそも三豊百貨店は、建設の段階からして、その強度には問題があったのである。建設途中で建物の用途を変更してしまったり(もともと地上4階のオフィスビルにする予定が、急遽5階建てデパートになった)、柱の材料をケチったりしたせいで、建物の総重量とそれを支える強度とのバランスがおかしくなっていたのだ。
 しかも事故の前年には、地下の売り場で違法の増改築を行っていた。さらに言えば最上階のレストランにも床暖房を入れたせいでさらに重量が増しており、これで不安に思わないほうがおかしい、というような状態だったのである。

 挙句の果てに、である。事故直前には屋上にあったエアコンを移動する作業を行ったのだが、この時に、屋上の床に盛大にヒビが入っていたからもういよいよ洒落にならない。普通ならクレーンあたりで持ち上げて空中を移動させるべきところを、費用をケチるためにズズズッと引きずって動かしたのだ。それで床が壊れたのである。

 マネージャーの脳裏でこうした不安要素がよぎりまくっている間にも、建物の中ではミシミシガタガタと異音が響き渡っていた。「この建物あぶないんじゃないか」という噂が店員の間でも囁かれており、ああもうこれは一刻の猶予もない。マネージャーはオーナーに相談した。

「オーナー、かくかくしかじかで、営業を停止して建物を点検したほうが」
「バカモン、営業を停止するとは何事だ! そんなものは閉店後に行えばいいのだ!」

 ちなみに、三豊百貨店の建物の用途を建築段階でいきなり変えてしまったり、それに反対した建築業者を解雇したりしたのもこのオーナーである。

 オーナーの思いつきで、行き当たりばったり、出たとこ勝負で建築された悲劇の商業施設、三豊百貨店。これは変更に次ぐ変更、追加に次ぐ追加で、気がつけば最早まともな建物ではなくなっていたのだった。しかも、こうした変更を行政に認めてもらう見返りにと、経営陣はちゃ~んと役人に賄賂を渡していたという。

 どうせ労力と費用を注ぎ込むなら、建物の修繕のほうにすればいいのにねえ。思わず「そっちかよ」と突っ込みを入れたくなるのは筆者だけではあるまい。

 かくしてこの百貨店は崩壊した。崩壊一歩手前の状態に最後のとどめを加えたのは、業務用の巨大エアコンだったと言われている。ヒビだらけの建物では、エアコンの振動には耐えられなかったのである。

 百貨店の経営陣は、3人が業務上過失致死傷罪で逮捕された。オーナーは懲役刑を食らい、さらに全財産を没収までされて2003年には病死している。

 まあ、「あり得ないだろうこんなの」と言いたくなる事故ではある。だが少し考えてみれば、我々(日本人)が今までこのような事故に遭遇せずに済んできたのは、たまたま幸運だったからに過ぎない気もするのである。

 建物の崩壊とまではいかなくとも、たとえば日本で70年代に多く発生したビル火災では、やはり建築構造の杜撰さから大量の死者が出ている。結果は違えど、建造物に関するルールをいかに守らせるか――という問題は根っこでしっかり共通していると思う。

 そうした事例を教訓とし、今では建築基準法や消防法の遵守も徹底されるようになってきた。だが、遵守の実態というのは本当に抜き打ちでの点検でもしない限り把握できないものだと思うし、それに一級建築士が強度の偽装を絶対に行わないとも言えないだろう。

 こうしたことを踏まえて考えると、この三豊百貨店の崩壊事故は、日本にとって決して縁遠い「トンデモ事故」ではないのである。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆ディスカバリーチャンネル

 

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三河島紀行(フィールドワーク)

 三河島へ行ってきた。

 筆者は、常々「鉄道は嫌いではないが、別に鉄ちゃんではない」と公言している。だがさすがに今回のように事後現場巡礼までしてしまうと、「事故鉄」と呼ばれても仕方ないかなと思う。

 まずは、三河島駅に降り立った。

 それから事故現場目指してしばらく歩いた。天気もよく、まさしく巡礼日和であった。

 実は、筆者の父は、むかーし荒川区に住んでいたことがある。それで三河島のあたりというのは街並みが独特だと以前から聞かされていたのだが、今回歩き回ってみて納得した。なにが特徴的って、家々の密集の度合いが半端ではないのである。

 否、密集というよりもむしろ、街の一画一画それぞれが固まってひとつの集合住宅になっているような印象を受ける。ギチギチに詰まっているのだ。

 筆者の住んでいる山形県では、いくら家が隣同士とは言っても、必ず建物と建物の間に隙間がある。しかし三河島にはそれがないのである。これは驚きだった。 

 とにかくギチギチに住居がひしめいている中で、ちゃんと改築されたらしい小奇麗な家もあれば、昔ながらの古びた住宅もある。それらが、並んで建っているというよりもはや「食い込み合っている」とでも言いたくなるような形になっているのである。

 道路の幅は、ほとんどが車一台通るのがやっとである。一体、住宅の改築の時にはトラック等の車はどうやって入ってきたのだろう? と不思議になってくる。

 それでも、街を歩いていると、住民の乗用車は狭い狭いスペースにきちんと車を押しこんで駐車したりしている。きっと三河島に住む人々というのは、昔から車を停めるコツを心得ているのだろう。

 この街は、東京から見るといわゆる「周縁」に属する地域なのだと聞いたことがある。たとえば朝鮮の人たちがこの周辺には多く住んでおり、屠刹場も多くあったと聞く。まあそれは断片的な情報ではあるのだが、そうした事柄が街の独特の雰囲気を形成しているのだと考えると納得のいく部分もある。

 父いわく、三河島あたりに住んでいる人々の連帯意識はとても強かったという。地域の連帯意識ということでいえば、筆者の住んでいる山形県の田舎などももちろんそうだ。だが三河島はそれに引けを取らないほどだというから、人の心は似たり寄ったりなのだなと思ったりもする。所変わっても品変わっても変わらない心はある。そうした心が、遠い時代の、遠い場所の、凄惨な事故の記憶によって共鳴するのである。

 さあ事故現場が近付いてくる。正面にいる2人は筆者の友人である。

 そしてこれが事故現場である。

 この高架のほぼ真上で、あの伝説の三重脱線事故は発生した。

 動画で観て頂くと分かるが、当時の三河島事故の現場は土手の上である。その土手が、今はこのような高架になっている。

 さすがに、高架上に行けるような階段はない。よって下から撮影するしかない。事故現場の正面には小奇麗なマンションが建っているので、建物の後ろから覗き込むようにパチリ。

 昭和37年5月3日、上野行き上り2000H電車はここから脱線・転落したのである。

 ついでに反対側からもパチリ。

 次は慰霊碑である。三河島駅から徒歩で3、4分の場所にある浄正寺という場所にあると聞いているので、さっそく向かう。

 不思議なことに、線路を越えると街の様子が一変する。三河島地区はものすごい住宅密集地域だったが、こちら側はごく普通の住宅街といった趣だった。線路一本挟んだだけでこうも違うのかと少し驚く。

 到着。

 こんな案内板もあった。

  三河島事故の説明もちゃんと書いてあり、きっと遺族以外にも筆者のようなマニアが来たりするのだろうと思う。

 事故の説明もあった。

 慰霊碑である。ちゃんと拝んできた。

 犠牲者の冥福をお祈りします。本当に心からお祈りします。日本の文化を陰から支えている多くの事故死者たち。戦後日本の裏歴史に刻み込まれたすべての英霊たち。それら全てに祈りを捧げます。

 

 卒塔婆に、お寺の写真。

 どうも都会のお寺は狭苦しい。

 ちなみに、同行してくれた2人の友人は鉄道事故にはまったく興味のない人間である。よって終始「きうり氏、一体なにが面白いの?」という顔をしていた。

 だから筆者もなんとなく悪い気がして、想像していたほどじっくり三河島地区を見物することはできなかった。今思うと、駅のそばの公園で井戸端会議をしていたお婆ちゃんたちにでも話しかけて、事故当時の話でも聞ければ良かったと思う。

 

(三河島紀行・了)

 

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グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)

 1910年、すなわち日本では明治43年にあたる年に、アメリカで発生した鉄道事故である。

 もっともこの事故、鉄道事故というべきか雪崩災害というべきか微妙なところだ。日本の事例との比較でいえば1922年の北陸線の事故と似ており、実際『事故の鉄道史』でもその絡みでこの事例を挙げている。

 アメリカのグレート・ノーザン鉄道は、かつてこの国で売り上げナンバーワンを誇っていた第一級鉄道である。巨大な大陸横断鉄道で、開通は1893年だった。

 実はこの1893年という年は、アメリカ史上でも有名な恐慌のひとつが発生した年でもある。南北戦争直後の産業化によって経済のバランスが崩れてしまったのだ。しかしそんな時代状況でも、このグレート・ノーザン鉄道は生き延びており、すげー生命力である。

 とにかく、アメリカを代表する大鉄道で起きた大事故ということである。

 1910年(明治43年)3月23日、ワシントン州は猛吹雪に見舞われた。

 この日は、グレート・ノーザン鉄道の5両編成の旅客25列車と、それに27郵便列車が、スカポーン-シャトル間の約500キロの距離を走行する予定だった。だがこの大雪のためにまずスティーヴンス峠の手前で丸一日動けなくなってしまい、やっと動いたかと思えば、今度はその先でのウェリントンでも停止せざるを得なくなった。

「なんだこの先は除雪されてないのか! これじゃ進めないよ!」

 というわけで、この2本の列車は、ウェリントン駅の西側の待避線に並んで停車した。

 24日は丸一日スティーヴンス峠の手前で過ごしたが、ウェリントンの場合はもっとひどく、25日も26日も列車を動かすことは叶わなかった。小規模な雪崩もちょこちょこ発生しており、それによって除雪用のロータリー車も動けなくなってしまったのだ。

 さらには電信も不通になり、列車は完全に「陸の孤島」状態。ウェリントンの当時の積雪は3・7メートルと電柱もほとんど埋まってしまうほどのもので、24日から除雪作業ばっかりしていた駅員も、もう体力的に限界だった。

 また、いつ大雪崩が来るかも分からない。それを恐れた乗客の一人は、鉄道会社の監督にこう要請した。

「列車をトンネルに入れてくれよ。俺、怖くてさ」

 だがトンネルはトンネルで水が流れており、中に入ればホテルから食事を届けてもらうことはできなくなる。またトンネル内は湿気はあるし、機関車の煤煙が溜まれば危険だ。要請は却下された。

「まあまあ、除雪車の救援も来るはずですから。もう少し我慢して下さい」

 仕方ねえなあ、ブツブツ。だがこの判断が正しかったのかどうかは、この後で起きた結果を見れば微妙なところであろう。

 2月27日は日曜日で、たまたま乗り合わせていた神父がミサを行ったという。この日、天候はまたしても大荒れになっていが、これで乗客も少しは落ち着いた。

 状況が変わったのは28日からである。急に暖かくなって雪がみぞれになり、さらに雨になったのだ。寒波が去り、南風が吹いてきたことを乗客は素直に喜んだ。……が、これは大惨事の予兆だったのである。日付が変わったばかりの3月1日、ついに雪崩が発生した。

 深夜の午前1時20分のことだった。雨で緩み切った積雪が幅470メートル、長さ700メートルの塊となって列車に襲いかかったのである。二本の列車、二両の蒸気機関車、4両の電気機関車、貨車とロータリー車、しまいには機関庫と給水塔までもがこれに押し流され、何もかもが50メートル下のタイ川に叩きこまれたのだった。

 当時の乗客の証言。

「客車は手品師のボールのように、空中に放りあげられてグルグルと回転した。私達は天井と床の間を跳ねとばされて往復した。客車はまるで卵の殻のようにはじけてしまった」

「客車はフワッと空中に浮かび、えもいわれぬ音をたてて谷底へ落ちていった。私は前の方に飛ばされ、気がつくと、パジャマのままで雪の中に倒れていた」

「私はうつぶせに倒れ、背中には重いものがのって身動きができなかった。悪夢のような痛みにうめき、時々意識も薄らいだ。だが背中の割れるような重さだけは頭に残っている。何時間たったかはわからない。私は自分の耳を疑った。人の声でシャベルの音が聞こえたのだ。勇気をふるい起し、しかしかぼそく、助けてくれ、と叫んだ」

 犠牲者96名、生存者22名。死者数こそ2ケタにとどまっているが、死亡者の割合は航空事故並みの高さだという。

 『事故の鉄道史』によると、アメリカと日本では、雪崩というか雪そのものの質が違うのではないかということである。この事故の例を見る限りでは、日本ではさほど珍しくないような積雪量で、あちらでは雪崩が起きてしまっているからだ。

 そのあたりのことは、筆者もいずれ確認することがあるかも知れない。山岳事故や雪崩事故の詳細を調べれば、きっとそういう話になると思うのである。とりあえず今回はこれで話を〆させて頂こう。

 ところでこの記事は、例によって『事故の鉄道史』を参考にしている。まあ、まる写しプラスアルファと考えて頂いて差し支えない。巷には『雪崩・その遭難を防ぐために』という文献があり、それにも詳細が載っているらしいが筆者は未読である。

 その文献に限らず、どこかで資料になりそうなものを見つけたら(無関係と思われた文献に、唐突に事故の話の詳細が載っていたりするのだ)また書き加えていきたい。雪の質の問題とあわせて、事故災害研究室は日々「成長」中である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア

 

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パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)

 核爆弾で意図的に大量殺戮の目標にされたのは、全世界中で今のところ日本人だけである。だが「核爆弾を落とされた」国が日本だけかというと実はそうではない。少なくとも1960年代には、スペインとグリーンランドにもボトボト落とされている。

 落としたのは全部アメリカである。しかも、どれもこれも「間違い」で落としたというのだからたまったもんじゃない。今回ご紹介するのはそんな事例である。

 

   ☆

 

 1966(昭和41)年1月17日。場所はスペイン、アンダルシア州アルメニア。地中海に面する田舎町パロマレスにて、この大失態は発生した。

 発端は、一機の爆撃機の衝突事故だった。上空3万1千フィートで空中パトロールをしていた爆撃機が、空中給油に失敗して給油機に追突したのだ。

 機体は墜落。爆撃機の乗員は全員が脱出したが、給油機のほうは全員が死亡した。

 追突した爆撃機というのは、アメリカのB-52F爆撃機256号機である。そして驚くなかれ、このB-52Fにはマーク28RIという水爆4発が搭載されていた。

 マジかよ、なんでそんなものが!? ――だが冷戦まっただ中の当時、これは不思議でもなんでもないことだった。この頃、米戦略空軍は24時間態勢で爆撃機を旋回させていたのだ。核戦争勃発ということになった場合、ただちにソ連の戦略目標目がけて攻撃できるように、である。

 これを「クロムドーム作戦」と呼ぶ。現代の視点で見ればまるきり常軌を逸した作戦だが、アメリカが過敏になるのももっともな話だった。この頃、ソ連はアメリカに先んじてスプートニクの打ち上げに成功していた。アメリカはいつ上空から爆弾を落とされるかと気が気でなかったのだ。

 さてそれで、パロマレス上空の衝突事故の結果、搭載されていた水爆のうち2発はまっすぐ地上へ落下。残り2発はパラシュートが開き、西風にのってふわふわり、どこかへ行ってしまった。

 前代未聞の事態である。核爆弾が「どっかいっちゃった~♪」(by東京少年)のだ。

 核兵器が関わるこのような事故を、アメリカは「折れた矢」Broken Arrow作戦と呼ぶらしい。

 ヒロシマとナガサキには平気で爆弾を落とした米軍も、これにはさすがに真っ青。慌てて探して、行方不明になった2発のうち1発は海岸で、もう1発は海の底で発見された。特に海の底のやつは回収までに相当難儀したようだ。海軍の深海調査船までもが動員され、水深700メートルの海底から引き揚げられたのは約3カ月後のことだった。

 だがしかし、陸上に落ちたほうの爆弾はもっと大変である。

 爆発したのだ、落下の衝撃で。

 とはいえヒロシマ・ナガサキのようにキノコ雲が上がるような大爆発ではなく、起爆剤が破裂したという程度だったらしい。少なくとも怪我人や死者が出たという規模ではなかったようだ。

 だが、汚染物質を撒き散らすにはそれで充分だった。おかげさまで周辺はプルトニウムまみれ、辺り一帯の土地と海水はたちまち高濃度の放射線に汚染された。

 アメリカは、汚染された土砂と農作物のトマト合計1,400トン(1,750トンという資料も)分を本国へ持ち帰る羽目になった。数にしてドラム缶4,810個。これらはサウスカロライナ州の核廃棄場で処理されたという。

 またアメリカは、スペインの人々に対しても必死に取り繕った。引き揚げられた核爆弾の傍らで軍高官が笑顔で立っている写真を公開したり、アメリカ大使を海で泳がせて「汚染の心配はないですよ~」とアピールしたりと、実に涙ぐましい努力である。

 スペイン政府も、アメリカに歩調を合わせてすぐ「安全宣言」を出した。間の悪いことに、当時のスペインには原子力発電を推進中だったのだ。原発利権が絡むと、どの国もやることは一緒である。

 そしてこの事故には、しょうもない「続き」がある。それがグリーンランドの一件だ。2年後の1968(昭和43年)1月21日に、アメリカの爆撃機がチュール空軍基地に墜落、炎上したのである。

 これが、スペインの時とおんなじB-52F爆撃機というだけでも「またお前か!」という感じなのだが、恐ろしいことにこの爆撃機、やっぱり同じ型式の核爆弾4発を搭載していた。冷戦の中の懲りない面々。またしてもクロムドーム作戦である。

 墜落した爆撃機は炎上すること6時間。グリーンランドの氷を3メートルも溶かし、海底へ沈んでいった。

 そしてここでも爆弾はしっかり爆発した。怪しい爆弾セシウムさんならぬプルトニウムさんに汚染された氷、雪、水およそ6,700リットル分を、アメリカは4カ月かけて本国へ持ち帰った。この回収作業を行った米兵はどうなったのか気になるところだが、ちなみに残骸の処理を行った地元のイヌイットたちはしっかり被爆したという。

 たった2年の間でこのザマである。冷戦時代全体で見たらこの手の事故はもっと起きているのでは? 誰しもそう思うことだろう。

 実際、噂は存在する。落下場所や落下後の経緯については極秘情報として不明であるものの、アメリカは他にも30件以上もの爆弾落下事故を起こしているとかいないとか。そんな風に言われている。

 この2度の事故を受けて、さすがのアメリカ政府も「クロムドーム作戦はもうやめよう」という結論に達した。

 しかしこの事故の話は、これで終わりではない。特にパロマレスでの一件は現代も尾を引いている。どうも新世紀になった頃から、パロマレスは急に危険地域と見なされるようになったらしいのだ。

 それまでスペイン政府は「パロマレスの大気中の放射線値は基準値より低く、住民の健康にも影響はない」と述べていた。しかし環境団体はそれはウソだと主張しており、そんな中でパロマレスでは普通に農業が営まれていた。

 ところが2004年、政府は突然パロマレスの土地2ヘクタールを買収。2006年には660ヘクタールの土地の調査を始め、地中5メートルの深きに渡り規制値以上のプルトニウム汚染が進行していることを確認した。そしてその中でも特に汚染のひどい41ヘクタールは、2007年までに柵で囲われ、立入禁止になっている。

 現在も、パロマレスの土地にはプルトニウムが残留しているという。土地の回復を含め、事後処理をどうするかについてスペインとアメリカは協議中だそうな。

 まあ、これについてはきっとオバマ大統領がなんとかしてくれるだろう。ノーベル平和賞もらってるしね。我々も応援しようではないか、「宿題やれよ! 歯ぁみがけよ! 責任とれよ!」てなもんである。

 

【参考資料】
◆西村直紀『世紀の失敗物語 兵器・乗物編―他人の失敗は蜜の味!』グリーンアロー出版社 1998年
◆ウィキペディア

 

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イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)

 この「イノバシオン百貨店火災」は、以前一度記事を書いたことがある。

 

 その時は岡田正光氏の『群集安全工学』だけを参考にしたのだが、このたび、同じ著者の『火災安全学入門』という著作に、より詳細な内容が載っているのを見つけた。よって加筆修正したのが本稿である。

 

 つまりイノバシオン百貨店火災は、まったく違うテーマの2冊の本に跨って紹介されているわけだ。このことからも、この事故が火災+群集事故のコラボによって大惨事に至ったことが分かる。しかもデパート火災としては、世界一の死者数である。

 

   ☆

 

 1967(昭和42)年5月22日。ベルギーの首都・ブリュッセルにあるイノバシオン百貨店は、大勢の人でにぎわっていた。

 

 この百貨店は1919(大正8)年に創立。当時のベルギーの大手百貨店のひとつで、RC造6階建て、延床面積は9,500平方メートル。従業員は1,200人おり、パリにも店舗があったというから、かなりイケイケである。 

 

 時刻は13時半頃。店内には約2,500名のお客がいたと考えられている。特に、4階の食堂は350席あるテーブルがほぼ満席だった。

 

 日本人の感覚だと、「えっ、なんで昼休みの時間を過ぎてるのに食堂にそんなに人がいるの?」と思うところだ。どうも、ベルギーの生活時間というのはラテン系だそうで、それで13~15時が昼休みになっているのだとか。

 

 ここで火災が起きる。火元は2階だった。婦人服売り場の、天井近くにぶら下がっていた少女服のあたりが燻っていたのだ。発見したのは女性店員だった。

 

 いけない、火事だわ――! この店員は30メートル離れた消防センターという場所に行き、粉末消火器を持ってきた。周囲には紙製の吊り天井もあり、燃えやすいことこの上ない状況である。早く消火しなければ――。

 

 だが、時すでに遅し。この時点で、もはや消火器程度では手に負えないほどに燃え広がっていた。

 

 そこで彼女は消防センターに戻り、火災報知器と非常ボタンで火災の発生を知らせた。時刻は13時34分。初期消火も火災の報知も全部ひとりでやったのだから、大変お疲れ様である。

 

 この後、非常ベルで事態に気付いた2人の自衛消防隊員が、消火栓からホースを伸ばして消火にあたったりもした。しかし彼らの奮闘もむなしく、炎も煙もひどくなる一方。従業員たちは退却せざるを得なかった。

 

 火炎はどんどん延焼した。火元の近くに、吹き抜けと階段とエレベーターがあるという、ただでさえ伝播しやすい状況だったのに加え、当時は店内にポスターや旗などの燃えやすい飾りが多くあったという。「アメリカ週間」と銘打ってバーゲンセール中だったのだ。

 

 煙は、5~6分で全館に拡がった。信じられないほどの速度である。

 

 この建物、消防設備はしっかり整備されていた。消火栓96箇所、消火器450個、煙感知器144個、押しボタン式警報装置60個が設置されており、また消防専従の職員も16名いたという。頼もしい限りだが、資料によると、従業員がこれらの設備を利用してどのような行動をとったのかについては「何をしていたのかよくわからない」らしい。おそらく、炎と煙の伝播が早すぎて、気付いた時にはもはや消火どころではなかったのではないか。

 

 ただ、店員たちは避難誘導はかなりしっかり行っていた。これについては後述する。

 

 中には、明らかな不手際もあった。13時半には、従業員の交代を知らせるベルが鳴っており、34分に鳴った非常ベルも同じものだと勘違いした従業員がいたのだ。彼は、騒ぎ始めたお客を「なんでもない」となだめたという。

 

 13時40分に消防の先発隊が到着した。この時、既に2階以上は煙に包まれており、おそらく最上階にあったのであろう「吹き抜けのドーム」なるものからも煙が出ていたという。つまり天井に穴が開いたのだ。いわゆる煙突作用で、ますます火勢は強くなっていった。

 

 1階にいた人たちは、全員無事に脱出した。中にはマネキン人形で窓を破った人もいたというから、それなりに難儀もしたのだろうが、とにかく死者は出なかった。

 

 問題は2階より上である。特に4階の食堂がやばかった。出火当時、この食堂がほぼ満席状態だったことは先に記したが、ここで260名が死亡することになる。

 

 この食堂について、もう少し詳しく書いておこう。ここはセルフサービス方式だった。お客は入口から一列で食堂内に入り、カウンターで好きな料理の皿を取って代金を払う。そして食後は、食器をコンベアに置いて出口から退出するというシステムである。

 

 この、入口と出口が問題だった。どちらも狭い上に一つずつしかなかったのだ。そこで濃煙が室内に進入してきたものだから、お客たちは一気にドアへ殺到。結果、多くの人が人混みに遮られ、食堂を脱出する前に煙あるいは有毒ガスを吸うことになった。

 

 イノバシオン百貨店の死者数は325名。うち8割が、この4階の食堂で死亡したことになる。死因は、大部分が窒息死。参考資料の言葉を借りれば、死者たちは食堂内で「袋のねずみ」状態だったという。

 

 一方で、当時4階にいたものの助かった人もいた。部屋の隅に避難用のハシゴがあり、そこから25名が脱出している。また、事務室を通って難を逃れた者や、外に飛び降りた者もいたという(もっとも、4階から飛び降りた全員が無事だったとはちょっと考えにくいが)。

 

 つまり、一応4階でも避難は不可能ではなかったのである。だが、助かった人によると、当時は猛煙で1メートル先も見えない状態だったという。よっぽど最初から避難ルートを心得ているか、あるいは幸運に恵まれなければ、脱出は難しかっただろう。

 

 その他、参考資料には当時の悲惨な状況がいろいろ書かれている。パニックに陥った人々が、避難通路に殺到して折り重なって死亡したとか、バルコニーから12名が次々に飛び降りたとか、衣服に火がついて逃げ惑う人々がいたとか……。ただ、具体的にどの光景がどの階で見られたものなのかは不明である。

 

 気が滅入るような大惨事だ。だが救助された人も大勢いた。例えば、2階のバルコニーに避難した約200名は、ハシゴ車で無事に助けられている。また店員や消防隊員の中には、窓ガラスを破って突入したり、火傷も厭わずに熱く焼けた階段を通り、人々を救出した猛者もいたという。隣接するビルのオーナーが、ロープを投げて約20名を救助したとか、消防隊が建物の下で救助幕を広げた時に多くの市民が協力したなどのエピソードは、美談と言ってもいいだろう。

 

 そして、この百貨店の店長は殉職している。お客を非常階段へ誘導して25名を助けた彼だが、この誘導のために何度も往復しているうちに店内で死亡したのだ。

 

 この他、従業員たちも上役の指示で避難誘導に努めたというから、非常時に備えた社員教育はきちんとしていたのだろう。

 

 さて、そうこうしているうちに、いよいよイノバシオン百貨店は崩壊し始めた。まず15時15分に、先述した吹き抜けドームが大音響と共に崩れた。さらに16時頃には、食堂のあるブロックも以下同文。大百貨店は数時間で焼け落ち、その残骸からは夜になっても火炎が上がっていたという。

 

   ☆

 

 それにしてもイノバシオン百貨店、何故これほど呆気なく焼け落ちたのだろう。消火設備はきちんとしていたのに、「いとも簡単に」と言っても差し支えないような焼けっぷりである。

 

 参考資料によると、この建物が造られたのは、百貨店の創立よりも約20年前の1901(明治34)年だった。さらに1904(明治37)年以降、5回にわたって改築が行われ、ツギハギの増築がなされている。これにより、全体の構造の統一性に欠けるところがあったようだ。

 

 詳しく記すと、本館は6階建てでRC造とSRC造が混在。中央部は最上階まで吹き抜けになっており、てっぺんはガラスの屋根がスライドして開くようになっていた。1~5階が売り場で、地下1階は倉庫と従業員用の控室。そして6階は管理部門である。これに、さらに4つの建物がくっついており、こちらはRC、鉄骨、レンガ作りが混在していた。

 

 で、ここまで書いておいてなんだが、筆者は建築の専門家ではないので、こうした構造にどういう問題があったのかはよく分からない。わざわざ資料に書かれているくらいだから、きっと何か問題があったのだろうと推測できる程度だ。

 

 ちなみに事故から遡ること31年前には、国立火災予防協会のブルーウェル氏(誰?)が、既にこの建物の危険性を指摘していたらしい。参考資料にも、竪穴としての階段とエレベーターが区画されていれば、これほどの大惨事にはならなかっただろうと記されている。それが本当なら、実にやり切れない。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年

◆ウィキペディア