目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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鉄道事故

本邦初の鉄道事故は?

「日本でいちばん最初の鉄道事故はなんだろう?」
 まずはその問いから始めようと思い、調べてみた。例えるなら火災史における白木屋火災、即ち「近代鉄道事故の夜明け」にあたるケースである。
 ところがどうも話が単純でなかった。ごく普通に事故の歴史を紐解いていけばそのような事例に突き当たるだろう、と最初は高を括っていたのだが、文献によって微妙にニュアンスが違っているのである。
 世界で最初の鉄道事故がなんだったのかは、これははっきりしている。1830年9月15日、英国ランカシャーのパークサイド駅で発生したのがそれだ。よりによってリヴァプール-マンチェスター鉄道の開業当日というめでたい日に、粗忽者の代議士が轢かれて死亡したのである。
 この代議士は、友人に挨拶をしようとして線路を横切ったのだった。どうやら汽車の接近が思いのほか速かったため轢かれてしまったらしい。乗り物といえばせいぜい馬車くらいしかなかった当時、汽車の速度がどれほどのものなのか、多くの人は想像もつかなかったのだろう。 
 では日本の場合はどうか。
 まず、鉄道事故マニア必読の書である『事故の鉄道史』を観てみると、1877年に発生した「東海道線西ノ宮列車正面衝突事故」が「大事故の事始め」だと記してある。
 しかしこれはどうも本邦初の「大事故」あるいは「死亡事故」であって、人が死なない鉄道事故ならその前にも起きていたようだ。それはウィキペディアをちょっと覗けば分かることで、たとえば1874年には「新橋駅構内列車脱線事故」なるものが発生している。ポイントの故障のせいで機関車と貨車が脱線したというもので、これは死者ゼロである。
 だがこれも「脱線事故」というカテゴリーで見れば確かに本邦初と言えるのだが、「鉄道事故」ということでは必ずしも最初のものではないようだ。
 さあそれで、ここで『鉄道・航空事故全史』(災害情報センター・日外アソシエーツ共編 2007年5月刊)を見てみよう。すると、ここでようやくそれらしいものに行き当たる。1872年9月12日、記念すべき鉄道開業式の当日に、線路に入り込んだ見物人が機関車に引かれて指を切断しているのである。なにしろ開業式当日というくらいだから、おそらくこれが本邦初の鉄道事故だろう。
 この時開通したのは横浜-新橋駅間の路線だった。新橋駅ではこの2年後に、上述の「日本発の脱線事故」が起きているわけだ。
 それにしても、死亡事故と傷害事故という違いはあれど、イギリスでも日本でも、開業式当日からいきなり事故が発生しているというのはおかしな符号である。この奇妙な偶然に、これ以降の鉄道史が辿る苦難の歴史がすでに暗示されていたような気すらするのだが、読者の皆様はどうお思いになるだろうか。

【参考資料】

◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

◇ウィキペディア

◇災害情報センター・日外アソシエーツ編集『鉄道・航空機事故全史―シリーズ災害・事故史〈1〉』(日外選書Fontana シリーズ災害・事故史 1)

 

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東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)

 西南戦争が終結して間もない、1880(明治10)年10月1日の夜のことである――もはや日本史の教科書に出てくるような時代だ!――現在の兵庫県神戸市、阪神間鉄道の住吉駅東方で上り列車と下り列車が正面衝突、死者3名と重傷者2名の大惨事が発生した。

 これは鉄道の衝突事故としても、また鉄道における死亡事故としても本邦初のものである。ネットで検索すると本稿のタイトルのように「タンコブがひっこんじまったい」と言いたくなるような長ったらしい名称がつけられているが、文献によってはシンプルに住吉事故、などとも呼ばれている。

 まずは、当時の鉄道の様子を簡単に説明しておこう。

 当時は、西南戦争に参加した官軍の兵隊たちが帰還する時期だった。よって鉄道としては、普段よりも多く人員の輸送を行う必要があった。

 そこで、神戸駅からは、各駅停車の「定期列車」とは別に、大阪まで停車せずに一気に走る「臨時列車」が出ていた。今で言う快速や特急のようなものだろう。

 この「定期」と「臨時」の2本の列車が出る際は、いつも臨時が先で定期が後、と決まっていた。なぜなら各駅停車の定期列車に対し、臨時列車は停止なしで突っ走るので、臨時列車が後から追いかけていてはどんどん距離が縮まって追突してしまうからだ。

 そしてこの2本の列車は、大阪に到着すると今度はUターンし、神戸へ戻る。この時には、往路では「臨時列車」だった車両は空っぽになるので「回送」になる。そして神戸からは再び兵隊が乗り込む、という寸法だった。

 また、当時の鉄道はほとんどの路線が単線だった。一本の線路を一本の列車が通過することしかできず、いわば列車はかわりばんこに線路を走るのである。上りと下りの列車がすれ違えるのは駅だけで、しかも今のように信号機もないものだから、一方が駅に入ってくるのを確認してからもう一方は発車するというやり方になっていた(まあ、地方の路線では今でもそんな感じだけどね)。

 さてそれで当時は、神戸-大阪間を「上りの定期列車と臨時列車」と「下りの定期列車と回送列車」がかわりばんこに行きつ戻りつしていたわけだ。

 事故当時は雷を伴った豪雨だったという。そのため、当夜は上りと下りの両列車のいずれも遅れが出ており、臨時列車が大阪駅に到着したのは、本来なら後続の定期列車が到着しているはずの時刻だった。

 つまりこの時点で、上り定期列車はまだ線路を神戸から大阪に向けて走っていたのだ。

 しかし、大阪駅で待機していた上り回送列車の英国人運転士はそこで勘違いしてしまった。大阪駅に到着したのが「遅れた上り臨時列車」ではなく「定刻通りの上り定期列車」だと判断し、列車を出発させてしまったのである。

 それで正面衝突となった。

 その結果、回送列車の英国人機関士と、日本人の火夫(ボイラーの取扱担当者)は死亡し、大阪に向かっていた上り定期列車の日本人車長も即死。定期列車の方に乗っていた英国人機関士は右目を失明する重症を負った。乗客に怪我人がいなかったというのは不幸中の幸いであった。

 遺体の状況は凄惨なものだったという。後年発生した参宮線六軒事故もそうだが、蒸気機関車というやつは、ひとたび事故ると蒸気や熱湯で被害が拡大することがしばしばあるのだ。

 ところで面白いのが、当時の鉄道局長の報告書である。事故の責任は、誤って列車を出発させた英国人機関士にある、と決めてかかっているのはともかくとして、同時に「官軍の連中の乗車マナーがなっておらず、そのせいで時刻表が乱れた。それも事故の原因だ」と憤慨しているのである。ふうん、局長あなたひょっとして士族よりだったの? 

 ただ事故原因について言えば、英国人機関士の責任うんぬんよりも、そもそもなぜ彼が回送列車を発車させてしまったのかが問題であろう。この点について『事故の鉄道史』では、彼は当時、下り臨時列車の存在を完全に忘れていたか、あるいは全く知らされていなかったのではないか――という可能性も示唆されている。

 まあどのみちかなり古い事故で、資料も極めて乏しい。真相は藪の中という外はない。

 ともあれこの事故を教訓として、上り下りの列車がかわりばんこに走るこうした「閉塞路線」では、線路を走る時に必ず運転士が通行証を受け取るというやり方が確立されていったのである。

 この通行証を、いわゆる「タブレット」という。

 しかし人間というのは実に厄介なもので、だから事故が起こらなくなったかというとそんなことは決してないのである。このタブレットをいい加減に扱ったせいで逆に大事故に繋がった例もあり、それは別項の「東北本線・古間木―下田間正面衝突事故」に詳しい。

 西南戦争は、ひとつの時代の完全な終息を示す出来事だった。一方で、同時期に起きたこの衝突事故は、鉄道史のこれ以降の苦難の道のりの幕開けを告げる出来事だったのである。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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箒川列車転落事故(1899年)

 箒川(ほうきがわ)は那珂川水系に属する第一級河川である。栃木県の矢板市と大田原市の境界を流れており、延長は47.6キロメートル。大佐飛山地南西部の白倉山付近を源流とし、那須野が原扇状地を東南に流れている。最後は那珂川に合流し、水戸の北部を通って那珂湊で太平洋に注ぐ。

 

 筆者は純粋な鉄道ファンではないのでよく分からないのだが、東北本線を走ってこの箒川にさしかかる辺りというのは、絶好の撮影ポイントらしい。景色がいいのだろう。

 

 この箒川にかかる鉄橋がある。1886(明治19)年に完成したもので、架橋当時は全長約319メートル(現在は全長322メートル。なんで長さが変わったのかはよく分からないが)。川床からの高さは約6メートルあり、橋桁(プレート・ガーダー)14連で結ばれていた。

 

 1899(明治32)年10月7日、当時の鉄道史上最大の事故はここで発生した。

 

 この頃の東北本線はまだ国有化されておらず、日本鉄道株式会社(以下日鉄)の私鉄路線に過ぎなかった。しかし時代の要請を受けて線路はどんどん切り拓かれ、1883(明治16)年7月28日に上野~大宮間の路線が開通したのを皮切りに、路線を北へ北へと延伸。明治19年には宇都宮~西那須野間が、24年には青森までの全線が、さらに31年には田端~岩沼間が開通していた。

 

 箒川の事故が起きたのが、このほぼ1年後である。日鉄は線路の敷設も一段落し、今まさに運輸営業に力を入れようとしていた矢先のことだった。

 

 10月7日当日は、南方洋上で台風が発生しており、本州に接近していた。

 

 そんな悪天候の中、福島行きの第375列車(機関車2両+貨車11両+客車7両)は11時に上野駅を発車。対向列車との行き違いの関係から約50分程の遅れが出ており、矢板駅を出発したのは16時40分頃だった。

 

 結果だけを見ると「そんな天候で出発しちゃったんかい」という感じもする。だが、途中で通過した宇都宮駅で観測された風速は9メートル。まあ徒歩の人が歩きにくくなる程度のものである。これなら大丈夫だろうと判断されたのだった。

 

 列車は矢板駅を出発すると、まっすぐに箒川へと突き進む。この先の針生トンネルをくぐり、橋を渡れば次は野崎駅だ――。

 

 と、ここで矢板駅と野崎駅の間の地形について少し解説しておきたい。両駅周辺の地形は、南に松原山丘陵があり、北には那須野が原扇状地がある。箒川はこの境目を流れており、全体の中ではここでかなりの急流となる。

 

 鉄道敷設に際しては、松原山丘陵にトンネル上の切通しが掘られた。これが針生トンネルで、これを抜けると線路はすぐに箒川と交差する形になる。そこに箒川鉄橋も架かっているわけだが、地形条件のため、ここは風の通り道でもあった。テレビの専門家インタビュー風に言えば「あの場所はもともと強風に遭いやすく、とりわけ冬の時期は北西からの季節風を強く受けることで知られていたんです」といったところだ。まあ後からならいくらでも言えるのだが、とにかくそういうことだった。

 

 第375列車は針生トンネルを抜け、箒川に差しかかる。そして列車が鉄橋の真ん中あたりに来たところで(渡り始めたタイミングだったとも言われているようだ)惨劇は起きた。強烈な北西からの突風が、列車の左側に吹きつけたのだ。

 

 機関士は後方を見た。8両目に連結していた無蓋貨車のシートが風であおられ、吹き飛ばされそうになっている。異常事態だが気付いたときにはもう遅い。次の瞬間には、1等客車の車体が急激に右方向に張り出した。

 

「こりゃイカン!」機関士は警笛を鳴らしてブレーキをかけた。後に機関士は、この時に強い衝撃を感じたと証言している。おそらくそこで貨物緩急車の連結器が外れたのだろう――とも。

 

 第375列車が混合列車であることは、先にチラッと書いた。その内訳はここではあまり細かく書かない。とにかく連結器が外れてしまったことで、後方の貨車1両と、7両あった客車の全部が転覆し、そのまま橋から落下したのである。

 

 この時の風は、瞬間最大風速27~28m/secと推定されている。天気予報の用語では「非常に強い風」と呼ばれるレベルで、人も車も外にはいられず樹木も倒れるほどの強さだ。宇都宮で観測した時とはえらい違いだった。

 

 落下したそれぞれの車両がどうなったのか、詳細がウィキペディアに載っていたので、せっかくだから書いておこう。上から順に、前部車両→後部車両となる。

 

・貨物緩急車(亥120)……橋脚のそばに転落、横転して大破。
・3等緩急車(ハ28)……亥120とほぼ同じ状態でその横に横転し、大破。
・3等客車(ハ179)……屋根が吹っ飛び、車体下部構造は河底に埋没。
・3等客車(ハ249)……橋脚の約27メートル下流に流される。屋根だけを残してその他は粉砕。
・1等客車(イ3)……最初に転落。25メートル下流に車体下部構造を、また18メートル先に屋根を残し、その他は粉砕。
・2等客車(ロ17)……中州の上で圧壊。
・3等客車(ハ275)……転落、3ブロックに大破。
・3等緩急車(ハニ107)……前車(ハ275)の上に転落し、大破。

 

 ひどすぎる。

 

 車両がこんななので、乗客たちがどうなったかは推して知るべし、であろう。

 

 もっとも現代に生きる我々も、車両が脱線転覆し粉砕しぺちゃんこになるような鉄道事故を全く知らないわけではない。そうした事故では数十人から百人単位で人が亡くなることもある。そうした事例に比べればこの死者数は少なめで、そこは不幸中の幸いかも知れない。だが箒川の事故の場合、乗っている人が少なかったから簡単に風で飛ばされてしまったのではないか、という気もする。当時の『國民新聞』では、「前方貨車は肥料雑貨を積み居て、其重量にて危難を免れたるなりと。」とあった。

 

 これが17時頃のこと。転落を免れた機関車2両と貨車10両は、そのまま140メートルほど進んでようやく停車した。機関車1両だけのブレーキでは、即座に停止することはできなかったのだ。

 

 大惨事である。まず機関手が、次の停車駅だったはずの野崎駅に駆けつけて急報。それを受けて駅長は電報を打ったが、またしても暴風雨に邪魔されて混線。矢板駅につながったのは17時20分頃のことだった。

 

 また後部車掌は、自分自身も負傷しながらも――と資料には書いてあるが、まさかこの人、川に落ちて助かったのだろうか?――現場から3.5キロを駆けて矢板駅に現場の状況を報告している。そして矢板駅→宇都宮駅→日鉄、の順で通報がなされた。

 

 時代が時代だから仕方ないのだが、20分とか3.5キロとか、哀しくなるほどの通信状況である。

 

 ともかく急報を受けた宇都宮駅長は、鉄道嘱託医、赤十字社栃木本部、県立宇都宮病院に応援を要請。さらに日鉄本社では、社員十数名と作業員70名を派遣している。また順天堂病院にも要請し、院長、医師、看護婦を派遣させた。

 

 ただしこれらは全て矢板側からの派遣だった。現場に着いても暴風雨のため橋を渡ることはできない。そのため彼らは到着した側の岸で救護活動を行なうしかなかった。

 

 では反対の岸ではどうしていたかというと、こちらには地元の開業医が駆けつけていたという。彼は関係機関からの派遣をまたずに現場に駆けつけて、負傷者の治療を行なったのだった。

 

 また地域の消防組も集まってきた。出動したのは矢板、三島、蓮葉、石上、針生、土屋、山田の人々である。当時は町村単位での自治消防は行なわれておらず、村や大字単位でこうしたグループを結成していた。

 

 しかし暴風のさ中である。救助は簡単なことではなかった。強風のため橋の上は渡れず、命からがら中州へとたどり着いた人々のところへも行けない。しかも箒川は平時に比べて1メートルは増水していた。

 

 当時の救助設備も、縄と梯子、それにトビ口くらいなものだった。川の両岸にかがり火が焚かれ、泳ぎの達人が鉄橋に大縄を結び付けてから負傷者のもとへ行き、背中におんぶして、縄をたぐって元の場所へ行き梯子で上る……。こうした気の遠くなるようなやり方で救助活動は行なわれたのだった。

 

 ちなみに、この時偶然に、事故った車両には埼玉県の加藤政之巡査も乗り合わせていた。彼は職業的使命感から、自分の怪我も省みず溺死寸前の遭難者を救出している(後に見舞金や書状をもらい、昇給もした)。


 こうして多くの乗客が救助されたが、救助されるのと前後して亡くなった人や、激流に流されて後日あちこちで発見された遺体もあった。

 

 10日には、栃木県警察部保安課長の指揮で、箒川や那珂川の周辺が徹底的に捜索された。だが遺留品は多く見つかったものの遺体はなく、大体このへんで死者数は確定したようである。


 最終的な死傷者数は、『日本鉄道株式会社沿革史』によれば死者20名、負傷者45名とされている。公的には、こ

れが正式な数字である。

 

 だが混乱もあるようだ。昭和6年10月の33回忌に建立された石塔婆には19名の故人の名が刻まれているというし、また事故直後の11月に発行された『風俗画報』増刊「各地災害図会」(明治32年10月)によると死者19名、負傷者合計36名とあるらしい。

 

 ちなみに事故った列車の乗客総数は、各駅の切符発売状況を調査した結果、62名とされているという。

 

 最初にも書いたが、これは当時、鉄道事故としては最悪の大惨事であった。だが復旧は意外に早かった。消防組なども参加して転落車両などが撤去され、線路の復旧はせいぜい枕木交換程度。翌日にはもう試運転が行なわれたというから、なんだか拍子抜けだ。

 

 とはいえこの事故、裁判ではけっこう尾を引いた。同年11月20日、第14回帝国議会の衆議院本会議で、福島県選出の代議士・菅野善右衛門がこういう趣旨の質問をしている。

 

「この事故では、暴風雨にも関わらず汽車を走らせている。さらに鉄橋の構造には転落防止についても不備があったのではないか」

 

 実はこの菅野氏、肉親を事故で失っていた。

 

 この時の答弁に菅野氏は納得しなかった。翌年2月20日には東京地方裁判所に対して訴訟を起こし、日鉄に3万円の慰謝料を請求している。

 

 日鉄の言い分はこうである。「確かに気象状況は不安定だった。だが、客車が転落するほどの強風は予想できなかった」

 

 いわゆる「想定外」である。まあ、争うつもりならそう言うわな。

 

 この訴訟、7月7日に一度は菅野が勝訴している。だが9月14日には日鉄が東京控訴院に控訴した。

 

 それから判決が出るまでには4年間かかっている。その間にも日鉄に対しては慰謝料の請求が多く出されたという。

 

 ところがである、明治37年12月10日には、日鉄の勝訴として判決が下された。

 

 そこで菅野氏は大審院に上告したものの、翌年38年5月8日には「原判決を破棄、本件を宮城控訴院に移す」と結論が下された。

 

 その宮城控訴院でようやく決着がついたのが、さらにほぼ一年経った2月28日である。ここでも菅野氏は敗訴した。おそらくこの敗訴は、他の遺族(あるいは直接の被害者)たちの慰謝料請求にも影響したに違いない。

 

 とはいえ、日鉄も支払いを頑として撥ね付けたわけではない。被害者に対する補償はちゃんと行なわれている。その内訳は遺族へ500円、負傷者は1人300円以下の支払いというものだった。これには従業員からも相応の挙金があったという。

 

 また、上記の宮城控訴院での判決の詳細は不明だが、ともあれこの判決の結果を踏まえた示談が行なわれ、成立している。事故発生から実に7年の年月が経過しており、この間には日露戦争もあった。

 

 さらに言えば明治39年3月31日には「鉄道国有法」が公布され、日鉄は11月1日に国に買収されている。

 

 なんだか、こうやって見てみると、この事故の歴史は同時に日鉄という組織の歴史そのもののように思えなくもない。主要な線路の敷設が終わり、ようやく運輸に力を入れるぞ~と思った矢先に事故が起きた。そして最終的な判決が下ったのとほぼ同時に、国によって買い上げられたのである。奇妙な因縁だ。

 

 大雨・強風時の運転抑制については、この事故を踏まえた検討もなされたようだ。だが悪天候の中、運転を続けるかどうかという判定は難しいところがあり、こうしたルールの具体化までにはまだまだ長い時間を要した。

 

 この「悪天候時の運転抑制」の基準の難しさについては、言うまでもない話かも知れない。鉄道事故の歴史を紐解けば、瀬田川列車転覆事故、餘部鉄橋転覆事故、羽越線脱線事故など、悪天候による大事故の例には枚挙に暇がない。天候は、交通機関にとってはある意味最大の強敵である。

 

 現在、この事故の供養碑はふたつ存在する。

 

 ひとつは事故から間もなく作られたものである。事故発生直後から、現場付近では何度か村民による供養が行なわれているが、一周忌にあわせて石塔婆が建立されたのだ。この碑は現在、下り電車に乗って箒川橋梁を渡り切ると、ちょうど左側に見ることができるという。高さ3メートルの大きなもので、欠落箇所があるものの100年前のものにしては立派だという。

 

 もうひとつの慰霊碑は、田代善吉という人によって建立された。この人は事故の直接の被害者だったのだが、その後は教育者かつ郷土史家として地元に貢献した人らしい。箒川の転落事故については、生き残りとして死者の冥福を祈る思いも強かったのだろう。33回忌にあたる昭和6年10月4日、現地での法要に際し卒塔婆を建立した。

 

 この卒塔婆の場所は、箒川の左岸、国道四号線の跨線橋北側である。そこは昭和6年当時は踏み切り道だったようで、道の横に建てたものらしい。

 

 なお、この卒塔婆の建設費は、多くが国鉄職員の浄財によるという。

 

 慰霊の法要については、参考資料を見る限りでは、少なくとも90回忌までは行なわれたのは間違いないようだ。

 

   ☆

 

 最後に、この事故については2つほど付録を添えておこうと思う。

 

 まずひとつは、前掲の田代善吉氏による証言である。『続・事故の鉄道史』からの孫引きであるが、もともとは昭和六年一〇月発行の『下野史談』号外「等川鉄橋汽車顛覆始末」に掲載された「私の遭難体験記」という文章からの一部抜粋らしい。もともとが長文で改行がないため、ここではブログ向けに改行の処置だけさせて頂いた。ぜひ一度目を通して頂きたい。その臨場感から、目線を離せなくなること請け合いである。

 

「私は小学校教員受験の為に宇都官に参りました。試験も終って帰ろうとした日は朝から大雨であった。三時頃の汽車で帰る積りであったが、汽車が遅れて四時頃になった。

 

「雨は増々激しく降って来る。その上風も出た様であった。汽車が進行すると共に風も強くなった。矢板駅に着いたのは恰度午後五時頃であったが強風強雨で気味が悪い様であるから、矢板へ下車しようかとも思った。

 

「箒川の鉄橋に差しかかると、ガタッという音のみであとは気絶して仕舞ったから、何が何やら判らない。ホッと気が付いて見ると自分は濁流に押し流されつつある。

 

「幸いにも汽車両は微塵に砕かれたので汽車の扉が一枚流れて来たのにつかまった。此扉こそ自分の生命の綱である。物体は必ず川岸によるものであるからこれをば放すまいと、其一扉に乗って激流の中を潜んで行った。自分は流れながらも今溺死する此身を両親や兄弟は知らないだろうと胸に涙を浮かべつつ那須野山の方向を眺めた。

 

「六百メートル程も流されて行くと乗っていた扉は河岸に近かづいて来た。川柳のあるのを幸に飛びついたが背は立たない。足の方は流されているが此柳が命の親と思って、つかまってはなさない。やっと砂州に這い上がることが出来た。若しや此の柳が根から切れたら自分も此世から縁が切れて今は斯うして居られないのであった。

 

「其時顔面からは鮮血流れ股や膝のあたりは硝子の破片が澤山這入ってゐました。

 

「川の中州に匐へあがっても風雨はやまない。今後洪水で増水すれば仕方がない合掌して流されて仕舞ふ覚悟をして居った。

 

「時に五時半頃と思った。夕方になって風雨が静まると、半鐘の音がする。村人が河岸に集まって来て呉れた。其時の嬉しさは譬へ様がなかった。川の両岸には篝火が焚かれた。助けて呉れと力あらん限の声をあげると、今助けに行くからと応答があった時、初めて蘇生の思ひがした。

 

「泳ぎの達人が、鉄橋に大縄を結びつけ、其縄に組って助けに来て呉れた。其方の氏名は忘れたが背におぶさつて又其縄を頼りに鉄橋の下まで越えて梯子で上がり、鉄橋を匐ふて川向に行った。

 

「時に大田原町より急派した救護医の手によって応急手当を加へられ直に西那須野駅前川島屋に宿をとった。翌日西那須野の高瀬医に罹って頭や顔に這入ってあった小石を取って貫って宇都宮に来た。

 

「恰度宇都宮停車場に着くと、東京から佐藤博士が来られたので診察を受けた処が軽傷と云う事であった。神野病院は満員なので、県立宇都宮病院に入院した。入院治療中病勢が日増しに重くなって来た。体温が四十度、四十二度と云う状態であるから脳膜炎の罹れがあり、其死線を越えて四十日目で退院した。負傷者中第二番目の重患であって入院期も長かった(以下略)」。

 

 もうひとつの付録は、なんと「遭難数え歌」である。これも『続・事故の鉄道史』からの引用なのだが、こちらの出典は不明だ。地元の子供たちの間でこういう歌が歌われていたのだろうか。

 

『遭難数え歌』

 

一つとせ 一つ新版このたびの
 汽車の転覆大事件 ところは下野箒川

 

二つとせ 不意に雨風つのりしが
 箒川へとかかる頃 俄かに吹きまく大つむじ

 

三つとせ 宮の発車は午後の四時
 雨風激しきその中を 矢板の町までつつがなく

 

四つとせ よもや夢にも誰知らう
 橋にかかれる災難を 汽車も暴風雨ついていく

 

五つとせ 今は鎖をねじ切りて
 濁流の中へとさかさまに 落ちるや箱は粉微塵

 

六つとせ 夢中で一時は途方にくれ
 一度は大ぜい声をあげ 助けておくれよ助けてと

 

七つとせ 嘆く其声天地にひびき
 山も崩れん有様は 此の世からなる地獄なり

 

八つとせ やっとおよいで陸に出て
 見れば手足のない人や 頭に大傷うけし人

 

九つとせ これを見るより埼玉の
 職務は巡査で正之氏 川の中へ飛びこんで

 

十とせ 飛ぶが如くに洪水の
 中をいとわず流れ行く 七、八人を救いける

 

 ――いかがであろうか。なんという不謹慎な歌だろう!(←お前が言うな)

 

 それにしても凄い歌である。事故の状況を過不足なく簡潔に伝えている。前掲書がこの事故のルポの冒頭にこの歌を持ってきたのももっともで、とりあえず事故の概要はこの歌を読めば分かるようになっている。

 

 もっとも、九つとせと十とせの部分が、先に挙げた加藤巡査だけの武勇伝になってしまっているのが気になるところだが……。

 

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
◆明治32年10月10日付国民新聞『新聞集成明治編年史』第十巻(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)「暴風汽車を宙に釣り上ぐ」

 

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東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)

 1913年(大正2年)10月17日、午前4時20分を少し回った頃のこと。北陸本線・東岩瀬駅(現在の東富山駅)に、下りの臨時貨物列車が入ってきた。

 この列車は10分ほど前に富山駅を出発したばかり。この東岩瀬駅では、のぼりの旅客列車とすれ違うために停車する予定だった。

 外は、まだ夜も明け切らぬ暗闇である。しかも天候は風雨で見通しも悪かった。

 下り貨物列車は無事に駅の構内に入ってきて、駅長室の前で、上りとのすれ違いのための手続きを行った。

 と・こ・ろ・が、ここで駅長が異変に気付く。

「あれ、なんだこの列車。スピードが落ちないぞ」

 あれよあれよと言う間に、列車の最後部が駅長室を通り過ぎていく。おいおいちょっと待て、そのままじゃ行き過ぎちまうぞ~。

 この「行き過ぎ」というのは、今で言うオーバーランのことである。2005年の福知山線の事故でも、脱線の直前に、運転手が本来停車する場所から行き過ぎてしまうミスを起こしていた。あれと同じだ。

「ちょっと行き過ぎるくらいどうってことないじゃん?」

 うん、そう思っていた時期が筆者にもありました。しかしそこが素人の認識の浅はかさで、このオーバーランという奴を甘く見てはいけないということを示す好例が、この東岩瀬駅の事故なのである。

 さて行き過ぎた貨物列車は、今まさに上り旅客列車が向かってきている線路へ入り込んでしまった。もう上り列車は目と鼻の先、駅員も運転士も慌てて貨物列車を本来停まるべき位置へ戻そうとしたがついに間に合わず、正面衝突と相成った。

 この上り旅客列車に乗っていたのが、善光寺への参詣ツアーに参加していた団体旅行者たちだった。秋の収穫を終えたばかりの北陸の農家たちが大勢乗り込んでおり、彼らは2泊3日の行程をほぼ終えて帰路に着いているところだった。

 旅客列車は12両あったが、そのうち9両目までの客車が脱線転覆。また一部の車両は他の車両に突っ込まれて粉砕してしまった。全部で362名いた乗客のうち26名が死亡し、重軽傷者は104名にも及んだという。大惨事である。

 裁判では、貨物列車・旅客列車の双方の運転士が被告となった。両者はそれぞれこのような主旨のことを述べたという。

 貨物列車「列車が停まらなかったのは雨で滑ったせいだ!」

 旅客列車「あの時の東岩瀬駅の場内信号機は、安全表示になったり危険表示になったりを繰り返していて、めちゃくちゃだったんだ!」

 しかし必死の陳述も空しく、どちらも禁固と罰金の実刑を食らってしまった。

 ちなみに後者の「めちゃくちゃな信号機」については、参考資料『事故の鉄道史』の中でちゃんと論理的な推理が提出されている。オーバーランしてしまった列車を退行させるためにゴチャゴチャと信号機をいじっているうちに、機械と連動していた信号機が青になったり赤になったりしたのではないか? というのだ。なるほど。

 すると残る問題は、そもそもなぜ貨物列車がオーバーランしてしまったのか――という点である。そしてこの事故は、これについて最後にとんでもないオチがついているのだ。

 裁判の判決が確定したあと、当時の鉄道院(運輸省の遠いご先祖にあたる組織)は、富山駅の助役に減棒の処分を下している。それでこの処分の理由というのが、事故を起こした貨物列車の「ヴァキュウムホース」とやらの接続が不完全だったのを見過ごして、それを黙っていたからだというのだ。

 この「ヴァキュウムホース」なるものがなんなのか、説明を読んでも素人にはサッパリなのだが、とにかくこれがちゃんと接続されていないと列車というのは上手く停車できないらしい。

 なんだよ、原因わかってんじゃん。

 つまりこういうことである。貨物列車が富山駅を通過した時、駅の助役は列車のヴァキュウムホースの接続が不完全なのを見過ごしてしまった。だから東岩瀬駅でも停まれなかったのである。あの衝突事故はそれで起きたのだ。

 この助役の怠慢が発覚した――つまり実刑を食らった運転手たちが無実だったことが判明した――時にはとっくの昔に裁判も終わっており、すでに運転手たちは出所したあとだった。しかし本当の事故原因が発覚した以上は処分をしないわけにもいかない。というわけで、助役は減棒となったのである。

 それにしても、ある意味でのどかな時代だったのだなと思う。今だったら「不祥事を内々に処理して隠蔽しようとした」などと言われてマスコミから叩かれることだろう。冤罪でぶち込まれてしまった運転士たちも実にいたたまれない。彼らにもちょっとくらいは補償があったのだろうか? あったと思いたい。

 ところで、鉄道にいわゆる「安全側線」が整備されるようになったのは、この事故がきっかけだった。

 安全側線とは、通常の線路から枝分かれし、中途半端なところで途切れた線路のことである。そしてその先には土が盛ってあり、列車が停まりやすいようになっている。仮に列車がオーバーランしても、そっちの方に誘導されるので正面衝突は避けられるという寸法だ。

 多分、多くの人が一度は見たことがあるだろう。あれはこの大正時代の事故がきっかけで作られたものなのである。もし見かける機会があれば、このルポのことを思い出して「へえ~」と感慨にふけってみるのもまた一興。

 しかしこの安全側線、欠点がないわけでもない。運転手に停車する意志がなかったり、列車そのものが暴走していたりすると簡単に突破することができるのだ。つまり事故防止のシステムとしては不完全なのである。

 鉄道というのは、時と場合によっては問答無用で全ての列車を自動停止させなければならない――。このような認識に鉄道関係者がようやく思い至るには、ここから気の遠くなるほどの年月と、そして多くの重大事故の発生を俟たなければいけないのだ。

 ついでにこの事故にからめて言えば、組織の不祥事についても以下同文、とも言えそうである。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)

 大正5年(1916年)11月29日の夜のこと。

 この夜、青森県三沢市の古間木駅(現在の三沢駅)に勤務していたT助役は、電信掛のNと共に、駅前の旅館で酒宴の真っ最中だった。ちょうど、しばらく列車の発着がない時間帯だったのだ。

 おいおい、勤務時間中になにやってんの。

 古間木駅にいたY駅夫は、頃合を見て二人を呼びにいった。「くそう、あいつら自分ばっかり飲みに行きやがって」と悪態をつきながら夜道を駆けていった、かどうかは知らないが、実はこの直後、電信掛のNは入れ違いに古間木駅に戻ってきたのだった。

 下田駅側の通票閉塞機の電鈴が鳴ったのは、このNが戻ってきたタイミングでのことだった。

 細かい説明は省くが、この「電鈴」というのは、下田駅が古間木駅に向けて「今から下り列車がそっちに行くぞ」という呼びかけの意味を持っていた。そしてNはいつもの習慣に従って、「了解した」という合図を送った。

 さてこの後、Nが何をしていたのかは、資料の文献を読んでも不明である。帰宅したのか、はたまた泥酔して寝てしまったのか……。とにかく彼がここで「了解した」という合図を送ったことが誰にも伝えられなかったことで、事故は起きてしまうのだった。

 はい、てなわけでNは退場。

 そして次に古間木駅に戻ってきたのが、酒宴から戻ってきたT助役と、彼を迎えに行ったY駅夫の2人である。

 酒宴から戻ってきたT助役は、駅舎で居眠りを始めた。すると間もなく上りの貨物列車が古間木駅に到着し、Y駅夫は助役を起こしにかかる。

Y「助役、起きて下さい。上り列車が着きましたよ」
T「うーんむにゃむにゃ、もう食えねえ」

 ああダメだこりゃ。俺がかわりに上り列車を通過させなきゃな……。と、このような次第で、Yはこの上り列車に通行許可を出すことにした。

 さてここで問題になったのが、さっきNがいじった通票閉塞機である。

 先述の通り、Nは「下り列車がそっちに向かうぞ」という電鈴を受けて「了解した」という返事をしている。それでこの通票閉塞機も、いわば「下り列車が古間木駅に向かってきているモード」になっていた。

 この閉塞機の状態だけを見ると、下り列車がこちらに走ってきていることになる。しかしこの日この時刻に下り列車が来るなんて、Y駅夫はまったく記憶になかった。どうなってんの?

 しばらく首をかしげた彼が下した結論は、こうである。

「ははあ、さてはこの機械また壊れやがったな!」

 そう、この通票閉塞機は前にこんな感じで故障したことがあったのだ。Yはその時の裏ワザを思い出した。そうそう、こういう時はT助役がコイツに針金を突っ込むと直るんだっけ。よしよし。

Y「助役、また閉塞機が壊れちゃいました」
T「むにゃむにゃ。仕方ないな、俺がやってやりるれろ」

 まだアルコールの抜け切らぬT助役は、いつものように針金を曲げて機械に突っ込む。そうして、上り列車が古間木駅を通過できるようにしてしまった。

 かくして古間木駅には平和が戻った……かのように思われたが、それは錯覚であった。上り貨物列車が通過した直後に、一本の電話が入ってきたのだ。それは下田駅のO助役で、「下り列車が古間木に向かうぞ」という電鈴を送った張本人だった。

O「もしもし。なんだ、やっと電話が通じたぞ」
Y「すいませんね、ちょいと取り込み中だったもので。どうかしました?」
O「いやなに、さっきウチのほうから下り列車を通過させるって電鈴を送っただろう? あれが14分遅れでさっき通過したから、念のために連絡をと思ってね」
Y「なにを言ってるんです? 下り列車って、そんなの時刻表にないでしょう」
O「こらこらなに言ってるんだ。今日は23時13分に下りの臨時列車が発車してそちらに行くことになってただろう」
Y「ぐはっ、臨時列車!?」

 そんなの聞いてねえ! 真っ青になるY駅夫。その様子を不審に思ったO助役は、T助役に電話を代わらせた。

T「むにゃむにゃ。おはようございます」
O「なんだ酔っ払ってるのか? なあTくん、今夜こっちから臨時列車がそっちに向かうって話は聞いてたよな? それがさっき通過したから連絡したんだが」
T「ぐはっ、臨時列車! 忘れてた――!」

 たちまち酔いがさめたT助役は、さっきの通票閉塞機のことを思い出したに違いない。あの通票閉塞機は壊れてなどいなかったのだ!

 しかしY駅夫とT助役が気付いた時にはもう遅い。下田駅から走ってきた下り臨時列車は、うっかり古間木駅を通過させられてしまった上り列車と正面衝突してしまった。

 下田ー古間木間は単線で、線路は一本だけだった。つまりこの路線を通れるのは常に上りか下りのどちらか一本だけで、本来は2つの駅で連絡を取り合い、かわりばんこに列車を通してやるべき区間だったのである。

 つまりYとTは、古間木駅でしばらくの間上り貨物列車を待機させるべきだったのである。そして反対方向からやってきた下り列車が古間木駅に到着した時点で上り列車を発進させる。そうすれば駅ですれ違う形になり、上りも下りもなんの問題もなく進むことができたのだ。

 それにしても、コトが発覚してからのYとTの心中は一体どれほどのものだったのだろう。きっと処刑を待つ時のような心地だったのではないだろうか。

 やがて、古間木駅に、自分たちがさっき送り出した上り貨物列車の後部16両が逆戻りしてきた。

 2人はそれを見て事故発生を知った。正面衝突の衝撃で、この後部16両分は連結器からちぎれてしまったのだ。

 死者29名(ネットで検索すると34名、とも)、負傷者171名。下り臨時列車には弘前市の第八師団に入営する予定の壮丁たちが619人乗り込んでおり、その3分の1程が死亡した計算である。

 さてその後の経過だが、とにかく通票閉塞機を不正操作したのは悪質だということで、T助役とYは実刑を食らった挙句に懲戒免職と懲戒解雇の憂き目に遭った。また兵隊の候補者達が多数犠牲になったということで陸軍省も事後処理に大きく関わり、話が相当でかくなったようである。

 ちなみに参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故について「通票閉塞機を不正操作したのはT助役である」とはっきり書いてある公式資料は数えるしか存在していないらしい。ものによっては不正操作をしたのが誰なのかがボカしてあったり、ひどいのになるとYに全部罪を擦り付けているのもあるのだとか。

 歴史というのはあちこちで改竄されたり捏造されているものなんだな……と最後に思わされる事故事例である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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北陸線・雪崩直撃事故(1922年)

 大正10年から11年にかけて、日本海側一帯は豪雪に見舞われていた。

 それで当時、県知事と陸軍連帯区司令官から、各市町村に出された通牒がこれである。

「北陸線は重要な軍事路線につき、青年団、在郷軍人分会を動員し、万難を排して交通維持に努められたい」。

 要するに、お前らちゃんと除雪やれよ~、というわけだ。

 そしてそんな中、1922年(大正11年)2月3日13時30分に市振~親不知間の鉄路で大雪崩が発生した。これは犠牲者こそ発生しなかったものの、鉄道を完全に塞いでしまう大規模なものだった。

 さっそく鉄道省と陸軍省からの要請を受け、周辺の村落からは除雪の人夫たちがかき集められた。地元の建設会社「白沢組」が仲介となり、200名(うち30名が鉄道職員)がさっそく作業に取りかかった。

 この日の天候は最悪だった。この間までは大雪だったくせに、なんと季節外れの雨降りである。しかも雨足はどんどん強まり、夕方にはすっかり大雨となった。まーフェアチャイルド時代のYOUだったらきっと「じょだんじゃないよ♪」と歌ったに違いない。

 もちろんこの時代にYOUは生まれていない。人夫たちは歌う余裕もなく除雪作業を進めていった。雨合羽や長靴などなかった時代のことである。厳寒の空気の中で雨水は蓑や笠を伝って服を濡らし、さぞ凍えたに違いない。

 しかもそれだけではない。当時このあたりは「雪崩天国」とでも呼ぶべき状況で、雨のせいで雪崩が頻発していたのだ。この日のうちに市振~親不知間では合計11回も雪崩が起きていたというから、作業員たちは心身共に生きた心地がしなかったことだろう。作業中止の号令が下った時に彼らが心底ほっとしたであろうことは、想像に難くない。

 この時、時刻はすでに夜。作業員たちは我が家へ帰るべく列車に乗り込んだ。蒸気機関車2296(2120型)牽引、6両編成の65列車である。

 しかし「雪崩天国」いやさ「雪崩地獄」の悪魔は彼らを見逃さなかった。この列車が帰路で雪崩の直撃を受けたのである。

 時刻は午後7時~8時の間のこと。親不知駅と青梅駅の間を通過中、勝山トンネルの西口にさしかかった時のことだった。勝山の約6,000立方メートルの雪が滑り落ち、列車に襲いかかったのだ。

 最も被害が大きかったのは3・4両目だった。この車両は雪崩の威力によって木っ端微塵に破壊され、客車の台枠や車輪だけを残してほとんど消えてなくなってしまったという。死亡者も全てこの2車両に集中しており、最終的には乗客89人と鉄道職員1名の計90名が犠牲になっている。

 中には握り飯を手にしたままの遺体もあったというから、この事故が一瞬の出来事だったことが分かる。

 また2両目も大破し、大勢の怪我人が出た。

 さあ大騒ぎである。急報を受けた鉄道省は在郷軍人、青年団員、消防団等で組織された救援隊を、そして赤十字などでもさっそく大がかりな救護班を現場へ送り込んだ。

 だが鉄道は動かない。そりゃ雪崩が起きているんだから当たり前である。なんだか間抜けな話で、手前の駅で引き返さざるを得ない班もあったという。

 このように、山間の豪雪地の事故現場ということで、交通手段には限界があった。海上も波浪のため危険な状態で、陸海ともに最悪の天候状況だったのである。本格的な救助活動が始まる頃には、もはやそれは死体発掘作業の様相を呈していた。

 負傷者と死者は、それぞれ親不知と、反対の糸魚川方面に向けて収容されたという。

 ところでこの現場は42時間後には復旧したが、当時の鉄道省は救援そのものよりも最初から線路の復旧を優先しようとしたため、大いに地元住民の顰蹙を買ったそうな。

 なるほど当時の新聞を見ると「親不知、市振間の雪崩未だ除雪出来ず四日中に開通の見込みである、」などと報道されているが、しばらくすると「4日の朝8時にはまだ雪の下に70~80名の遺体が残っている見込み」とも報道されている。鉄道省も、よもやこんなにひどい事態になるとは思ってもみなかったのだろう。

 ちなみにこの雪崩の原因だが、積雪+雨という自然的要因はもちろんだが、他にも「汽車の汽笛」も影響したのではないかと言われている。トンネル進入前に鳴らした汽笛が、雨でゆるんだ積雪に振動を与えてしまったのだ。こういうのを底雪崩と呼ぶらしい。

 周辺地域の村落は、この事故によって多くの若い働き手を失ったわけだが、その補償について鉄道省と地元住民はずいぶん揉めたようである。

 問題は弔慰金にあった。「犠牲になった作業員は鉄道省が雇ったわけではない」という理屈で、鉄道省がわはなかなか補償に応じなかったのである。

 なるほど、それじゃ遺族は頭に来るよね。

 とはいえ最終的には鉄道省が折れ、犠牲者は「奉仕隊」だったということで無事にお金が支払われたとかなんとか、うんぬんかんぬん。きっと「名目なんざどうでもいいからとっとと払いやがれ」というのが遺族の正直な気持ちだったことだろう。

 参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故は、ひとつの事故に対して複数の慰霊碑が建てられているという全国的にも稀なケースだという。地元住民の、この事故への関心の高さが窺い知れる。

 そしてこの事故をさらに印象深いものにしているのは、未だに一人だけ身元不明の犠牲者がいる、ということである。

 どうも、事故に遭遇した客車にたまたま乗っていたらしい。普通の乗客と思われるが、どこの誰なのかは遂に最後まで分からずじまいだったという。なんだか後年の三河島事故を思い出すような話である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇神戸大学付属図書館 新聞記事文庫

 

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逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)

 ミステリ作家コーネル・ウールリッチの作品に『九一三号室の謎 自殺室』という短編がある。ニューヨークのとあるホテルの913号室に泊まった客が、毎度毎度謎の飛び降り自殺をするというので探偵役が調査を始める――というものだ。

 で、今回ご紹介する事故は、なんだかそれを彷彿とさせる。

 時は大正時代の末。東海道本線の東京―神戸間にある逢坂山トンネルと東山トンネルでは、なぜか多くの乗客が走行中の列車から墜落し、そして死亡していた(当時、丹那トンネルはまだ開通していない)。

 鉄道当局としては、最初は飛び降り自殺かカーブで振り落とされたかのどちらかだろうと考えていたという。だがあまりに死者が多いので調べてみたところ、驚くべき原因が分かった。

 その原因とは、煙だったのだ。

 長大トンネルを走行していると、機関車から噴き出す煙はどうしてもトンネルにたまる。列車が煙よりも早く走れればいいのだが、たまたま追い風だったりすると最悪で、走る機関車に背後から煙がまとわりついてきたりする。それにまた、昔のトンネルというのは、今と比してまたえらく狭く煙もたまりやすいのだ。

 というわけで、トンネル走行中にデッキにいた乗客は煙を吸い、意識が朦朧として転落してしまうのだった。

 これを受けて、鉄道省では煙の排出のために、トンネルの両端に強力扇風機を設置したという。

 この事故の顛末が、『東京日日新聞』で報道されたのが1926(大正15)年2月1日のことだった。しかしこの2年後には、機関車の煤煙が原因で起きた事故としては最悪のものである「柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故」が発生することになる。

 鉄道が「汽車」であった時代、現代人には想像もつかないような課題と苦労があったのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)

 煤煙による窒息事故である。

 念のため言っておくと、「煤煙」というのは機関車が走る時に煙突から吹き出すあの煙のことだ。これが原因で発生した事故は以前にもご紹介したが、今回のは最大の被害が出たケースである。

 この事故、死亡者数こそ3名と少なめであるものの、他の乗務員や救助者もほぼ余すところなくバタバタと倒れており、死亡者3名で済んだのも間一髪だったことが分かる。おそるべきケースである。

 

   ☆

 

 1928(昭和3)年12月6日のことである。

 北陸線敦賀駅から0時37分に発車した貨物列車があった。これは全部で40両の貨車からなっており、先頭と一番後ろにそれぞれ貨物用機関車がついていた。型式は、当時としては最強の馬力を残る機関車である。

 この列車、疋田(ひきだ)駅までは時間に遅れもなく順調だった。だがこれを過ぎた辺りから調子が悪くなった。山間部に入って雪が急に増えたのと、勾配がきつくなったことが原因となり、車輪がシュルシュルと空転し始めたのだ。

「なんだ、調子悪いな。まあ仕方ないか」

 乗務員は皆、そう思ったことだろう。疋田駅から柳ケ瀬トンネルまでの区間は25‰(パーミル)の急勾配になるのだ。

 その上、2日前には鯖江駅で貨物列車の事故が起きており、この日はそのしわ寄せが来ていた。師走でただでさえ多い輸送貨物がさらに増えていたのだ。定められた限界量もすでに超えており、機関車が進まなくなるのもむべなるかなだった。

 だが乗務員には「勝算」があった。

「なに、曽々木トンネルを抜けるとしばらく平らになるから大丈夫だよ。そこで勢いをつけよう」

 そう。この先にある曽々木トンネルを抜けると、しばらくは平らな地面が続くのである。機関車はそこで力を蓄え、あとはその先にある柳ケ瀬トンネルを一気に通過するのが習わしだった。

 しかしこの日は完全に当てが外れた。曽々木トンネル以降の水平の区間でも、またしても機関車は空転を繰り返したのである。おかげでその先の刀根駅に到着した時はすでに予定を3分遅れていた。

 さあ、ここから柳ケ瀬トンネルまではあと1.5キロ。本当に大丈夫なのかね?

 とにかく列車は進んだ。柳ケ瀬トンネルに入れば、あとはトンネル内の1.3キロを走るのみで、その先はもう下り勾配である。もうひと息辛抱すれば大丈夫だという気持ちで、乗務員たちは機関車を先へ進ませたのだろうか。

 だが事態はますますひどくなる。柳ケ瀬トンネルまでの1.5キロの間にも空転は激しくなり、速度は時速8キロにまで落ち込んだ。

 ハアハア、ゼイゼイ。機関車の息切れと乗務員の苛立ちが伝わってくるようだ。結局、トンネルまでの1.5キロを14分かけて進み、やっと列車はトンネルに入っていった。

 さあ、ここからがこの世の地獄である。スピードは牛歩戦術もいいところ、それなのに煤煙だけはしっかりまき散らすのだからたまらない。トンネル内はもちろん、機関車の運転室もたちまち煙で真っ黒になった。

 しかも、トンネル内でもスピードは落ちる一方。そこへ来て当時は追い風で、吐き出された煤煙は背後から列車にまとわりついてくるのだから、もう悪条件の揃い踏みである。ついに先頭の機関車の乗務員は全員が窒息、昏倒してしまった。

 そこは、トンネルの出口まであと25メートルという地点だった。運転手は昏倒する直前、本能的にブレーキをかけてトンネル内で列車を停止させた。これはまったく妥当な措置だった。そうしないと機関車が力を失い、貨物列車は自由落下で逆走していたところだ。

 列車が停止したので、一番後ろの機関車の指導機関主、後部車掌、荷扱手、前部車掌、荷扱手らは外へ飛び出し、直近の信号所へ助けを求めに行った。

 彼らが目指したのは、トンネルを抜けた先にある雁ケ谷信号所である。ところがこのメンバーも煤煙を吸い、トンネルを出る前に力尽きて倒れた。

 雁ケ谷に停車していた下り貨物列車は、この異変に気付くとすぐ行動を開始した。12時8分、機関車だけを外して救援に向かったのだ。

 この機関車はまず、トンネル内で立ち往生していた上り貨物列車に連結。そして、列車がもと来た方向へ押し出していった。雁ケ谷側に引っぱり出した方が早かったんじゃないかとも思うのだが、恐らく馬力の問題があったのだろう。柳ケ瀬トンネルは雁ケ谷に向かって上り勾配だったわけだから、なるほど雁ケ谷方向からは押し出すほうが簡単な道理だ。

 ところが、列車を押し出している間に、今度は救援機関車に乗っていた2人も窒息し昏睡状態に陥った。二次災害である。

 結果、3名が死亡し9人が負傷と相成った。死亡したのは、トンネル内から徒歩で脱出し救援を求めようとした乗務員たちだった。

 事故原因はまあ、ここまで書いた通りである。荷物が多すぎ、レールの雪で滑り、追い風で煙がまとわりついたためだ。

 だが『事故の鉄道史』ではここでさらに突っ込み、トンネルの狭さも事故の原因だったのではないかと述べている。柳ケ瀬トンネルが建設された明治前半期は、大型の機関車がトンネルを通過することは考えられていなかった。想定されていたのはあくまでも小型の機関車だったのである。そんな時代遅れのトンネルに、近代的な大型機関車が入るようになったのだから煙がたまるのも当たり前やんけ、というわけだ。

 柳ケ瀬トンネルの工事が決まった当時、明治政府は逢坂山トンネルを建設中だった。日本初の山岳トンエンルである。これがうまくいきそうなので政府は変な自信を得てしまったらしく、設計図をそのまま流用したのだ。

 そしてその後、逢坂山トンネルの方は機関車が大型化される前に別のルートに変更された(これが、以前紹介した連続墜落死事故より前なのか後なのかは不明)。だが柳ケ瀬トンネルは、事故後に排煙装置がつけられたとはいえ、こんな具合で1964(昭和39)年まで使われていたのである。このへんの事情を知ると、『事故の鉄道史』の指摘ももっともだと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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久大本線ボイラー爆発事故(1930年)

 事故の経緯は、まず以下の通りである。

 1930(昭和5)年4月6日のこと。福岡と大分にまたがる久大本線(きゅうだいほんせん)の鬼瀬駅と小野屋駅の間の上り坂を走行していた機関車が、大爆発を起こしたのだ。

 時刻は12時10分。この爆発に巻き込まれて、客車に乗っていた22名(ウィキペディアでは23名)が死亡した。犠牲者の状態はそれはもうひどいものだったらしく、全員がもれなく重度の全身火傷。中には、手の皮が手袋のようにすっぽり抜けてしまった者もいたというから、まるではだしのゲンである。

 今まで誰も見たことがないような大惨事である。原因の究明と「犯人探し」が始まり、起訴されたのは機関手と機関助手の2名だった。

 詳しい説明は後述するが、要するに機関助手の不手際で機関車がおかしくなり、中に詰まっていた熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだと考えられたのだ。また機関手は、機関助手を監督する立場にも関わらず、それを怠ったと見なされた。

 しかしこの事故は、上述のような結論がすんなり出たわけではない。原因究明の段階でかなりの混乱があったようだ。

 たとえば、事故直後にはなんの脈絡もなくダイナマイト爆発説が唱えられた。また鉄道局が「なんだかよく分からないが機関車の点検に落ち度はなかった!」と主張すれば、鉄道員たちは「安月給でこき使っておいて、いざとなると罪をなすりつける気か! もっとちゃんと調査しろ!」と吠える始末。で検察はといえば「機関車の構造なんて知るか、専門的すぎてわけわかんねーよ。いま慎重に調査中だよ!」とコメントするばかりだった。

 なぜこんな混乱が生じたのか、その理由も後述するが、とにかくそれくらい不可解な事故だったのである。

 そんな状況にもかかわらず、大分地方裁判所の判決がしれっと下されたのは、ほぼ2年後の昭和7年6月18日だった。過失傷害致死罪と過失汽車破壊罪で機関助手が禁固3カ月、機関手が禁固2カ月というものだった。上告がなされたものの、大審院は11月8日に上告を棄却し刑が確定した。

 

   ☆

 

 さて、事故が発生したメカニズムについて、さらに細かく見ていこう(と言っても大まかだが)。

 まずこの図を見て頂きたい。

 

 

 かなり大ざっぱな、機関車の構造である。

 先に「機関助手の不手際」でこの事故は起きたと書いたが、具体的に何が不手際だったのか。図で言うと「火室(かしつ)」の部分の取り扱いである。

 ここは要するに、蒸気機関車を動かすために石炭をガンガンぶち込んで、火をボーボー燃やす場所だ。大まかに言うと、ここで発生した熱が湯を沸騰させて、その蒸気で機関車は動くのである。

 読者諸君も、テレビなどでも見たことがあるのではないだろうか。機関車内で、スコップを持った人が、暖炉みたいな箱の中に石炭を放り込むのである。あのスコップを持っているのが機関助手、そして助手を指導しながら機関車の操作を行うのが機関手だ。

 さてこの「火室」だが、密閉された箱の中で石炭をガンガン燃やし、最高で1,500度まで上がる。よってそのままでは火室そのものが壊れてしまうので、火室の上は常にお湯で満たされている。

 つまりヤカンと同じである。空っぽのヤカンを火にかければ「空焚き」でヤカンが壊れるだろう。だが水を入れて火にかければヤカンは壊れず、お湯が沸騰するだけで済む。これと同じだ。火室の上部の空間には、沸かされたお湯と水蒸気が溜まっており、このお湯のおかげで火室は壊れずに済むというわけだ。

 では万が一、何かの拍子に火室上部の水が足りなくなったらどうなるか? 例えば今回の事故のように、機関車が急な登り勾配にさしかかった場合など、そうなることが考えられる。機関車そのものが傾けば、火室の上部の「天井板」が水面からむき出しになってしまうわけで、そうすれば空焚きである。

 すると、機関車は爆発するのだ。それも大爆発。マジで機関車も乗務員も原形をとどめないほどバラバラになってしまうのである。

 もちろんそうならないように、対策はなされている。火室の「天井板」のことをクラウンプレート、あるいはクラウンシートというが、このプレートには「溶栓」「熔け栓」「レッドプラグ」「ヘソ」などと呼ばれるネジみたいなものがねじ込まれている。

 このネジ、例えるなら、穴にチーズの詰まったちくわのようなものだ。

 クラウンプレートが異常な高温になると、このちくわの中のチーズが溶ける。そして穴を通して、火室にの上にたまっていたお湯が流れ出すのである。それは火室の中に降り注ぐ。

 つまり、機関車が爆発する前に、火室の温度を下げてしまうという仕掛けだ。

 なるほど、それなら機関助手も安心していられるね! ……とも言ってはいられない。このちくわを溶かしてしまうということは、機関助手にとっては最大の恥なのである。なにしろ火は小さくなるし、溜まっていた蒸気も水と一緒に出てしまうので、機関車はもう止めざるを得ない。こうなったらもう大失態である。

 だから機関助手は、細心の注意を払って「水面計」というメーターを常に睨んでいなければならない。火室の上の水が少なくならないよう、これでチェックするのだ。

 で、ようやく事故の話になるのだが、もう大体お分かりであろう。機関助手の不手際というのは、この火室の上の水を減らしてしまい、空焚きを行ってしまった点にあった。

 経過はこうである。裁判記録によると、鬼瀬を12時6分に発車した機関車が1,300メートルほど進み、25‰の上り坂に入ったところで機関助手が異常を発見した。先述したちくわのチーズにあたる部分が溶けて、ちくわの穴から蒸気が漏れ出しているのに気付いたのだ。

 まあ単純に考えて、上り勾配に差し掛かったため水面も傾いてしまい、クラウンプレートがむき出しになった部分があったのだろう。どうやら水面計のチェックも漏れていたらしい。

 爆発が起きたのは、水漏れに気づいてからほんの数秒後の出来事だった。幸いだったのは、破裂したのは機関車そのものではなく火室だけで済んだということだった。機関助手と機関手は、軽い火傷で済んだようである。そのかわり客車はえらいことになったわけだが――。

 では爆発自体はいいとして、膨大な死者が出た客車内では一体何が起きたのだろう。これが鉄道省、検察、裁判所を大いに悩ませた。

 状況を見れば、爆発によって機関車の正面が吹き飛び、そこから噴出した熱湯と蒸気が客車に注ぎ込んだとしか思えない。類似の事故も過去になくはない。だがそれでも、今回のは被害者たちの火傷の状態といい、その規模といい、あまりにもひどすぎた。本当に熱湯と蒸気だけのせいなのだろうか?

 さてここで、「あれ、変だぞ?」と思われた方もおられよう。そう、今の説明では、蒸気機関車の正面が爆発で吹き飛んだことになる。しかし客車というのは機関車の後ろについているはずだ。正面から水蒸気と熱湯が噴き出したのなら、客車に被害が及ぶはずがない。

 そこで、事故当時の列車について説明が必要になるのである。実はこの列車、先頭の機関車が通常とは反対向きに連結されていたのである。こんな具合だ。

 

 

 昔の機関車は、ごく稀にこういう形で走行することがあった。ある地点からUターンして走行するにもかかわらず、方向転換のための設備が整っていない場合である。当時の鉄道員の間で「バッキ運転」と呼ばれていた方式だった。

 だから、機関車の前部が吹っ飛んだことで、後方にあった客車に被害が及んだのだ。

 客車で何が起きたのかについては、けっきょく不問に付される形になった。うやむやの結論のまま、とりあえず機関手と機関助手が罰せられて事態が収束したのは、先に書いた通りである。

 さあ、ここからが謎解きである。

 以上の事柄を踏まえて、この事故の謎に挑んだのが『事故の鉄道史』の作者である佐々木冨泰と網谷りょういちの二者である。

 佐々木と網谷は、まずこの事故にまつわる疑問をまとめた。それは以下の通りだ。

1・水蒸気だけで、機関車を吹き飛ばすほどの圧力が発生するのか?
2・熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだだけで、全員が一様に死亡するような結果になるだろうか?
3・爆発音は二度上がっている。二度目の爆発とはなんなのか?

 佐々木と網谷は検討を重ね、この爆発事故は裁判で認定されたような単純なものではなく「水性ガス」によるものだと結論を出した。

 「水性ガス」とは何かというと、赤熱したコークスまたは石炭に、水蒸気を吹き付けると発生するガスである。水素と一酸化炭素の混合ガスで、最近は合成ガスという名前で呼ばれているという。

 この水性ガス、液化天然ガスの輸入が始まる前までは頻繁に用いられていたらしい。しかし事故当時の昭和5年頃の日本ではほとんど知られていなかった。

 正直、筆者は化学はちんぷんかんぷんなのだが、ついでなので化学式も引用しておこう。

 

 C+H2O=2H+CO

 

 この化学反応式は、赤熱した炭素を水蒸気があれば常圧で反応する。そして発生した水性ガスは、空気中の酸素と混じり、着火源があれば、次の化学反応式のように燃焼(爆発)して水蒸気と炭酸ガスになる。

 

 2H+CO+O2=H2O+CO2

 

 つまり、こういうことである。事故当時、火室の空焚きによって、先述したようなチーズ入りちくわの溶解が起きた。それでちくわの穴から大量の水蒸気が吹き出て、火室内の石炭に降り注いだのである。そこで水性ガスが発生した。

 火室の中は、水蒸気のため酸素が外へ押し出されており、ここではガスと酸素が結びつくことはない。

 だがガスはボイラーの煙室を通って(前々図参照)機関車の前部に流れ込み、そこで酸素と結び付いた。そして煙室にたまった高熱の燃えカスから引火し、爆発した。

 これが一度目の爆発である。これにより、機関車の前部がまず吹き飛んだ。

 だが裁判では「爆発音は二度あった」という証言があった。単なる火室の爆発なら爆発音は一度だけのはずだ。この、二度に渡る爆発音というのは推理する上での重要な手掛かりであり、また事故の原因が水性ガスであることを示す傍証だった。

 一度目の爆発のあと、機関車から客室へとガスが流れ込んだのだ。これが二度目の爆発を引き起こし、悲劇を招いたのである。

 水蒸気と熱湯による被害であれば、被害者たちの火傷の状況は座席位置によって変わってくるはずだ。だがこの事故はガス爆発だったからこそ、全員が一様の大火傷を負ったのである。『事故の鉄道史』によると、ガス爆発ならば一瞬で1,000度にもなるという。

 ガス爆発が起きたことを示す傍証は他にもあった。爆発現場の周辺の雑草がかなりの範囲で焼け焦げたという記録があったのだ。熱湯と水蒸気だけでこのようなことは起きるとは思われず、爆発により火炎が上がったと考えるのが妥当なのである。

 もっとも、水性ガス爆発などという珍しい現象がなぜこの時に限って発生したのか、その根本的な理由は分からずじまいである。普通――という言い方はおかしいかも知れないが――とにかくこの手の事故では、普通は機関車が停止するか爆発するかのいずれかしかない。なぜそうではなく水性ガス爆発だったのか、その点だけは謎のままである。

 とにかく結果として水性ガス爆発が起きたと、そういうことだ。

 

   ☆

 

 そしてここからは、まとめである。

『事故の鉄道史』の記述は、ちょっとした推理小説を読んでいるようで面白いのだが、サッと読んだだけでは「で、水性ガス爆発だったからそれがどうしたの?」と思えなくもない。この推理の結果、事件の構図がどう変わってくるかが解説されていないのだ。

 よってここで最後に、筆者なりに少しまとめてみようと思う。この事故の原因が水性ガスなのは分かった。では「それがどうした」のかというと、この事故の裁判結果は、冤罪とまではいかずとも誤判の可能性があるということだ。

 そもそもこの事故、明らかに最初から最後まで混乱とうやむやの中で片付けられているのである。

 なんで機関車の火室が破裂しただけでこんな大惨事になったのかが誰も分からず(だからこそダイナマイト説などというのも飛び出してきたのだ)とにかく火室を破裂させたのは機関助手のせいなんだから、こいつブチ込んでおけばそれでいいじゃん! というノリで結論に至っているようにしか見えない。

 まあ当時、水性ガスの爆発に誰一人思い至らなかったのは仕方がない。だがそれならそれで、今になってみると、この事故の結論は「なぜあれほどの被害になったのかは不明」としておくべきだったことが分かる。たぶん熱湯と水蒸気が原因だったのだろうという適当な推測よりも、一体何が起きてこんな大惨事になったのかサッパリ分からない、という混乱のほうが正しかったのだ。

 人々が死亡したのは、誰も予測できず、また理解もできないようなことが起きたからなのだ。だから、責任のすべてを機関助手と機関手に負わせるのは不当だったと言える。彼らは事態収束のための生贄にされたといえる。

 この事故には、運が悪かったとしか言えない要素もあった。まず例のチーズ入りちくわだが、ここから水蒸気が漏れ出しているのを機関助手が発見して、わずか数秒後に火室が破裂したのは前述の通りである。だが数秒というのはあまりにも早すぎる。このチーズ入りちくわ、どうも当時は正常に機能していなかったのではないか。これが溶けるのが遅れたため、火室の破損も発見が遅れてしまったのだ。

 その上、機関車は「バッキ運転」だった。破裂によって流れ出したのが水蒸気と熱湯だけなら、機関車を突き破るほどの圧力があったとは考えられない。それが水性ガスだったため機関車は壊れ、そしてたまたま逆向きに連結されていた客車に被害が及んでしまったのだ。バッキ運転がなされていたこと自体が、こんな爆発事故が誰にも予測不可能だったことの何よりの証拠であろう。

 ちなみに鉄道省はこのバッキ運転について、事故直後には「こういう路線では止むを得ない」と述べていた。だがこの言葉もすぐに撤回され、Uターンが必要な路線の末端駅には必ずそのための設備(転車台)を設置することを原則としたそうである。この事故が残した唯一の教訓だった。

 ちょっと見ると、真の事故原因の解明など大した意味がないように思える事例である。だがこのように改めて考えてみると、当事者への責任の負わせ方について考えるための応用問題であることが分かる。機関車の構造や化学式には閉口してしまうものの、それなりに興味深いケースだった。

 

◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア

 

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瀬田川転覆事故(1934年)

 台風の歴史も調べると結構きりがないのだが、やはり有名なのは昭和の三大台風と呼ばれる室戸・枕崎・伊勢湾台風であろう。

 今回ご紹介する瀬田川脱線転覆事故は、室戸台風のさ中に発生した。マクロな視点で見れば台風による突風事故である。だがミクロな視点で見ると人間の不手際が目立ち、今では鉄道事故の一種として分類されている。

 

   ☆

 

 1934(昭和9)年9月21日のことである。

 東海道本線草津駅~石山駅間(現在の瀬田駅~石山駅間)の、瀬田川にかかった橋の上を列車が通過しようとしていた。

 この列車は、東京発神戸行きの下り急行で11両編成。記録によるとスピードは出しておらず、徐行していたそうだが、実はこの時は列車を運行するのには最悪のタイミングだった。

 滋賀県全域に室戸台風が襲来していたのだ。

 室戸台風――。最大風速31.2m/s、最大瞬間風速39.2m/sを記録することになる、化け物のような巨大台風である。

 こいつが県内で猛威を振るい始めたのが、21日の午前2時から午前4時の間のこと。そしてこの威力がもっとも強まったのが午前8時から9時の間で、先述の下り急行列車が瀬田川に差しかかったのが午前8時30分だったのである。これじゃ、暴風雨被害に遭わせて下さいと言っているようなものだ。

 もっとも、惨劇を防ぐチャンスは皆無ではなかった。通過駅ごとに、気象告知板(ホーロー板などに「暴風雨」とか「警戒」などと書かれたもの)がちゃんとあったのである。これに従って、運転を慎重にしていればよかったのだ。

 とはいえ戦前の話である。現代ならば異常があればすぐに列車を止めるだろうが、当時はどうだったのだろう。「異常があればとにかく運転を止めろ」というのは戦後の三河島事故以降のルールで、終戦より前の時代は逆に「汽車を止めるのは恥」と考えられていたというから、むしろ暴風雨の中でも汽車を進めていくほうが当たり前だったのかも知れない。

 さあ、列車が橋の上に差しかかった時である。風を遮るもののない橋梁で、室戸台風の強風が車両に襲いかかった。

 列車はたちまち脱線、一気に3両目以降の合計9両の客車が転覆してしまう。この現場の画像はネット上でも見ることができるが、9つの車両が綺麗に並んで横倒しになっている様は、なんだか可笑しくすら感じられる。

 だが笑ってもいられない。この脱線転覆によって11名が死亡し、169~202名ほどが負傷したのである(負傷者数は記録によってずいぶん幅がある)。

 さらに、倒れたのが隣の上り線の線路だったからまだよかったものの、これが逆方向だったらどえらいことだった。お分かりだろうか、場所は河川にかかる橋梁である。転覆の方向によっては、客車が水没して死者が十倍くらいに跳ね上がっていた可能性すらあるのだ。

 橋の上の脱線転覆事故というと後年の餘部鉄橋転落事故を思い出す。だがあれは、線路が一本しかなかったため、脱線イコール転落という絶望的な状況だった。それに比べると橋の上が複線になっていたこの瀬田川脱線転覆事故は不幸中の幸いだったといえるかも知れない(もっとも瀬田川のほうが死者数自体は多いのだが)。

 さてそれでこの事故、「脱線したのは台風のせいだ」という見方もあったようだが、京都地検はそうは考えなかった。事故を起こさないようにするチャンスがあったのに注意を怠ったということで、乗務員の過失を認定、起訴したのである。

 裁判がどういう経過をたどったのかは、残念ながら不明である。ネット上で調べた程度では、そのへんの資料は見つからなかった。

 ちなみに、室戸台風で事故った列車はこれだけではない。他にも、東海道本線・摂津富田駅の近くで列車が脱線転覆し25名が死傷しているし、野洲川橋梁では貨物列車が転落し水没している。さらに大阪電気軌道奈良線(現・近鉄奈良線)でも大阪府布施町(現・東大阪市)内での電車の脱線転覆が発生しているのである。

 こうやって見ると、どれも人災とはいえ、乗務員ひとりひとりの責任ではないような気がしてくる。要は全ての鉄道員の意識のあり方や、彼らに対する安全教育自体に問題があったのではないか。

 いわば、「暴風雨の中でも列車を動かす」ことは、鉄道員にとっては自然法則のようなものだったのである。原理ではないが原則だったのだ。

 ともあれこれらの事故がきっかけとなって暴風設備の研究が進められ、鉄道でも風速計が設置されるなどの措置が取られるようになったのだった。

 

【参考資料】

◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◇ウィキペディア

◇神戸大学電子図書館システム

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/da/

◇個人サイト『わだらんの鉄道自由研究』

http://www.geocities.jp/yasummoya/tetudou_index_1.htm

 

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安治川口ガソリンカー火災(1940年)

 筆者が勝手に「小心者の事故」と呼んでいる鉄道事故が3つある。福知山線の事故、昭和18年に起きた常磐線土浦駅での衝突事故、そして今回取り上げる安治川口駅のガソリンカー火災である。

 この3つの事故に共通しているのは、事故が起きる要因を作った鉄道員が当時パニックに陥っており、そのせいで気が動転してまともな判断が出来なくなっていた(と思われる)点である。

 別に彼らが本当に「小心者」であったというわけでは無い。ただ、彼らの所属していた組織や時代の空気が、精神的に多大なストレスをかけていたことは明らかだと言いたいのである。

 筆者はこうした人々の気持ちが痛いほど分かる。焦ってパニックに陥り、自分で自分がコントロール出来なくなり、焦りがさらに焦りを生み被害を拡大していくという出来事は決して珍しくないのだ。だから上記の3つの事故は、筆者にはとても哀れなものに見える。

 さて、1940年(昭和15年)1月29日のことである。

 今からほぼ70年前にあたるその日の朝、大阪発桜島行き下り第1611列車は、超満員の状態で走っていた。乗車していたのは、主に沿線の工場へ出勤する人々であった。

 その路線の名は、西成線といった。現在ではテーマパークへのアクセス路線としても賑わっているJR桜島線である。だが当時は工場施設が集中する臨海地域の出勤路線として用いられていたのだ。時は日中戦争真っ只中。国内では、重工業を中心に軍需産業が大盛況だった。

 下り第1611列車は、間もなく安治川口駅の構内に入ってきた。この時の速度は時速20キロ。当時は国策で燃料の節約が指導されており、下り勾配はアイドリングの状態で惰性で走るよう定められていたのだ。なんかこう、長閑な走り方である。

 ところがこの時、安治川口駅の信号掛にとっては長閑どころの話ではなかった。この下り第1611列車は定刻よりも3分遅れており、そのせいで他の列車の運行にも影響が出そうな状況だったのである。

 何せ、燃料をケチって惰性で鉄道を走らせることを国策で定めていたような時代である。鉄道もまた燃料の消費に対して神経を尖らせていた。もしもダイヤ全体に遅れが出れば、燃料の浪費ということで上司に怒られる……。この信号掛の胸中にあったのはそんな不安だった。

 しかも目の前の第1611列車は、そんな彼の気も知らずにのろのろと呑気な速度で構内に入ってくる。ますます焦りは募り、何を血迷ったのかこの信号掛は、列車が通過中だというのにいきなりポイントの切り替えを行ってしまった。

 本来なら、これは後続の別の列車に対する切り替えとなるはずだった。この切り替えを行うことで、確かに後続の列車に出発の合図を出すことになり、それが通過するための準備も整ったわけである。ただ、肝心の先行列車がポイントの上を通過中だったのが大問題だった。

 通過中だった1611列車にしてみればとんでもない話である。これを乗用車で例えれば、前輪は右に向かって走っているのに後輪だけが無理やり左を向かされたようなものだ。思いも寄らない事態に遭遇した3両目の車両は、あれよあれよと言う間に、枝分かれした線路の間で横向きになって脱線した。そしてそのまま横転して横滑りした挙句、電柱にまでぶつかった。もう散々である。

 とはいえ、なにぶん時速20キロの惰性での走行である。おそらくこの時点では死傷者はほとんど出ていなかったことだろう。

 問題はここからである。この脱線のせいで燃料のガソリンが漏れ出したのが運の尽きだった。

 列車の燃料が、石炭でもなく軽油でもなく電気でもなくガソリンである、と聞いて奇異に思われる方もおられるかも知れない。実は、軽油を使うディーゼルエンジンよりも、ガソリンエンジンの方が小型軽量化が利き技術的には作りやすいのである。

 もちろん総合的に見ればガソリン動車よりもディーゼル動車の方が運転効率は良く経済性も高い。また安全だし馬力もある。それでも鉄道の気動車がディーゼルカーへと切り替わるには、戦後までの技術発展と、何よりもこの事故の教訓を俟たなければならなかったのである。

 時刻は早朝の6時56分。漏れ出したガソリンに引火し、大阪湾から吹き付ける西風は火勢を煽り、横転した3両目はあっという間に炎に包まれた。発火源が何だったのかは諸説あるようだが、車両の蓄電池回路からのスパークが発火源だった可能性が高いという。

 時速20キロで走る車両がゴロリと横転しただけだったら、まだ可愛いものだった。ところが事態は一転して遂に大惨事である。しかも車両は鮨詰めの超満員。何せ当時のこの路線のラッシュアワー時は、毎朝の乗車率が300%を越えてもまだ通勤客を運び切れない輸送状況だったというからもう無茶苦茶である。こんな状況でガソリンに引火されたらもう笑うしかない。いや、笑わないけどさ。

(余談だが、連休中などの新幹線の乗車率が100%を越えた、などとニュースで報道されているのを聞くと、事故マニアとしては「そんなに乗せていいのか?」といつもゾッとせずにはおれない)

 さて、この横転し炎上した車両の番号は「42056」。後日「死に頃」「死に丸殺し」などと言われることになる(ひでえな)この車両は、横転してしまったため脱出が極めて難しく、そのせいもあって多くの人が逃げ遅れた。

 そんな中、この車両に乗っていた車掌の大味彦太郎氏の行動は今でも伝説的である。当時31歳だった大味車掌は、自らは楽に脱出できる場所にいたにも関わらずすぐには逃げなかった。彼は車掌室の窓ガラスを割って自分の肩を踏み台にし、乗客の脱出と救助にあたったのである。

 大味氏自身が外部から救出された時には、下半身に大火傷を負っていた。氏は痛い痛いと呻きながらも「気の毒なことをしました。乗客の方はどうですか、当時はまったく無我夢中でした」などと語り、その日の夜に妻子に見守られながら亡くなったという。

 31歳と言えば、これを書いている筆者よりも1つか2つ上という程度の年齢である。なんだこの英雄は。書いているこっちまで泣けてくるじゃないか、畜生。

 しかし、もはや一人の死で嘆いているような状況ではなかった。この火災による死者は191人に上り、重軽傷者は82人にまで達していた。死者はほとんどが窒息死で、150名以上が即死だったという。

 奇跡の生還としか言いようのないドラマもあった。燃え上がった車両の中が焼死体で満杯だったのは言うまでもないが、消火後の遺体収容作業の最中、その満杯の遺体の下から2人の生存者が見つかったのである。他の犠牲者達の体で包み込まれていたお陰で、煙も吸わず炎に巻かれることもなかったのだ。

 そしてなんと、この路線は半日で運転を再開した。

 現場が工業地帯として重要拠点だったからなのだろうが、それにしても驚異的なスピードである。この事故、死者数も日本一なら復興速度も日本一なのではないだろうか。

 また事故後の対応も実に速やかだった。事故の原因となった、「列車が通過中のポイントの切り替え」が出来ないように安全装置が据え付けられたし、さらにこの路線はほとんど間を置かずに電車路線へと転換を遂げている。

 なんつーか、ここまで高速で復興されるとかえって非人道的な気がしなくもない。「出来るんなら最初からやっとけ」と突っ込みたくなるのは筆者だけではあるまい。

 事故を起こした哀れな信号掛は、大阪地裁にて有罪判決を受けた。業務上汽車転覆致死罪として禁固2年というものだった。

 現在でも、安治川口駅のそばにはこの事故の慰霊碑があり、そこに刻まれている犠牲者の名前の数は、鉄道事故のものとしては本邦一である。今でも供え物や献花は後を絶たないらしく、70年経っても事故の記憶は完全には風化していないようだ。

 ちなみに、最後にまた縁起の悪い話で恐縮だが、日本の有名な大量殺人事件に『八つ墓村』や『龍臥亭事件』のモデルとなった津山三十人殺しというのがある。これは大量殺人の死者数の世界記録を40年以上も保持し続けた物凄い事件なのだが、これが起きたのが昭和13年。安治川口でガソリンカーが炎上して、鉄道事故での死者数が日本一を記録する僅か2年前のことだった。

 大量死の時代は、こんな風に始まっていたのだなと思う。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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米坂線脱線転覆事故(1940年)

 筆者の住んでいる山形県でも、過去にいくつかの大きな事故災害が発生している。

 その内容を見てみると、やはり冬場に起きているものが多い。それで改めて雪国の苦労というものを実感するわけだが、今回ご紹介する米坂線脱線事故もその一例である。

 1940年(昭和15年)3月5日のことである。

 3月の上旬と言えば、山形県では雪解けにはまだ早い。しかしこの日は、雪が雨に変わりそうな気配が朝からあったという。

 そんな中、米沢駅発・坂町行きの下り103列車は、朝8時45分頃に小国駅を出発した。

 当時の米坂線(現在はもちろんJR米坂線)は、開通してからまだ4年弱という新しい路線だった。貨物列車3両と客車2両が一体になった103混合列車は、この線路をガタンゴトンと進んでいく。

 次の停車駅は玉川口駅である。だがしかし、この103列車が玉川口に到着することはなかった。

 

   ☆   ☆   ☆

 

 さて、ところ変わって玉川口駅である。

 当時ここには駅長と駅員、それに除雪の人夫や列車待ちの乗客など大勢の人がいたという。

 実はこの玉川口駅は後年には駅そのものが廃止されてしまっている。あまりにも利用客が少ないというのがその理由だったのだが、当時は地元の人にとっては需要もあったのだろう。

 されこの日、103列車が小国駅を発ったという知らせを受けると、駅員たちはすぐ持ち場へ出た。予定では間もなく到着するはずだ――。

 するとその時である、駅舎の警報ベルが突然鳴り出した。雪崩監視所からの通報である。

 小国駅と玉川口駅の間には、荒川という川がある。列車はこの荒川に掛かっている鉄橋を渡るわけだが、そこで雪崩が発生したという知らせだった。

「おい、雪崩だってよ」
「マジすか先輩」

 駅員たちは線路の向こう、小国駅の方向に目を向ける。小さな山があるため、カーブの向こうの様子は見えない。だが、山の陰から白い煙が上がっているのは見えた。機関車の蒸気である。

 悪い予感がした。列車は大丈夫だろうか?

 駅員たちがそちらの方向へ向かおうとすると、逆方向から保線区員が走ってきた。彼はよっぽど衝撃的な何かを見たらしく、雪の上を何度も転びながら駆けて来る。ああ、こりゃヤバイよ。ただ事じゃないよ。

 果たせるかな、事故であった。

 だがしかし、駅員たちが現場で見た光景は想像を遥かに越えた凄まじいものだった。鉄橋から列車が落っこちて、荒川に向かって中ぶらりんになっていたのである。先頭の列車は水没している。

 橋は無残に破壊されていた。雪崩のせいである。鉄橋の隣の山で雪崩が発生し、それが鉄橋の橋脚を切断してしまったのだ。そして運悪く、103列車はその直後にこの橋に差しかかったらしい。

 あわわ、どうしようどうしよう。玉川口駅から事故現場を見に来た人たちは、なす術もなかった。事故現場は荒川を挟んで向こう岸である。橋は崩壊している上に、荒川は雪解け水で増水している。救出活動なんてできっこない。

 そうこうしているうちに、もっとひどいことになった。

 前の3両の貨物列車は荒川に転落しており、続く1両の客車が宙ぶらりんになっている。そして残る客車は線路の上に残っていて無事だったのだが、宙ぶらりんになっていたほうの客車が突然火を噴いたのだ。

 どうも、車内に備え付けてあった暖房用のストーヴから燃え移ったらしい。客車のガラスが割れて黒煙と炎があがった。

 大惨事である。燃え盛る客車の窓から這い出たものの川へ転落する者がいる。また助けを求める者もいる。しかし玉川口駅から来た駆けつけた人々はどうすることもできなかった。

 ついこの間には安治川口のガソリンカー火災があったばかりだ。しかし東北で雪に埋もれる冬を過ごしている人々にとっては、それはあくまでも遠い世界の出来事のはずだった。よもや、自分達の目前で同じような事故が起きるとは!

 ところでこの事故、橋脚があっさり破壊されてしまった原因は何だったのだろう?

「雪崩でしょ」。それはその通りなのだが、悪い偶然も重なっていた。この時の雪崩の雪の量は5,000平方メートル。まあ規模としては普通なのだが、これがが雪崩防止柵の鉄のレールを叩き壊してしまい、さらにそのレールが、橋脚をピンポイントで破壊してしまったのである。

 橋脚にも問題はあった。

 筆者は専門家ではないので上手くは説明できないが、コンクリートというのは砂利、砂、水の混合物であるため、比重の重い砂利や砂は下に沈む。そのため当然、反対に水っぽくなる部分もある。その状態でコンクリが固まると、どうしても強度に差が生じるらしい。

 で、水っぽいコンクリが固まった部分にさらにコンクリートの塊を繋げると、その接続部分の強度は心もとなくなる。この事故で破壊された橋脚は、まさにその部分をスパッと切断されてしまったのである。

 事故はこのようにして起きたのだった。人々が茫然と見守る中、客車を包んでいく炎はみるみるうちに延焼し、今度は水没した貨物列車の方に引火して数回の爆発を起こした。

 駆けつけた人々は、その場で跪いて合掌するしかなかった。40名以上の者たちが、救出活動を行うこともできないまま雪の上に平伏していたという。

 死者16名、死者30名。開通したばかりで、気象に対する経験が足りなかった路線の悲劇であった。この事故の後、現場の山の斜面には雪崩を分断するための分流堤が設置されている。

 また玉川口駅から駅員たちが駆け付け、平伏していた(と思われる)場所には、今でも慰霊碑が建っている。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

 

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土浦事故(1943年)

 正真正銘の「忘れられた事故」である。

 1943年(昭和18年)10月26日、18時40分頃のこと。常磐線土浦駅では、一台の貨物列車の入れ替え作業が行われようとしていた。

 駅の「裏一番線」には、ちょうど貨物列車が到着したところ。この列車の先頭の機関車に石炭の補給をするため、別の機関車と交換するわけである。

 まず、到着したばかりの列車の機関車部分が切り離される。そして機関車だけが単独で線路を進み、駅構内の12・13号ポイントをそれぞれ通過して上り本線に入った。そしてその上り本線をさらに移動し、石炭の補給場所に向かっていった。

 つまりこの時、12号ポイント→13号ポイント→上り本線へと機関車が進むようなルートが出来上がっていたわけである。

 さて「裏一番線」に残された貨物車両には、別の機関車がバトンタッチする形で連結した。今度は、この機関車が貨物車両を引っぱって、貨物線と呼ばれる路線に入っていくことになっていた。

 この列車も、さっきの機関車と同様に、いったん12号ポイントを通る。しかし予定ではこの時すでに12号ポイントは切り替えられており、機関車は貨物線のほうにスムーズに入り込んでいく――はずだった。

 ところが、これが切り替えられていなかったのである。本来なら12号ポイント→貨物線というルートになっているはずが、12号ポイント→13号ポイント、というルートのままだったのだ。

 あれあれ、どうなってんの。予定と違うじゃん。機関車と貨物列車は、13号ポイントに向かってゴトゴトと進んでいく。

 そして13号ポイントはどうだったかというと、こちらはちゃんと切り替えられていた。さっきは13号ポイント→上り本線、というルートだったのが、今は13号ポイントはどん詰まり。上り本線は今から別の列車が通過するため、横からの進入禁止の状態になっていた。

 踏切を想像してもらえればいい。上り本線は、遮断機が下りて警報がカンカン鳴っているような状態だったのである。今入ったら危険なのだ。

 機関車はそこへガクン! と突っ込んでしまった。ポイントが切り替えられていたので、それ以上進むこともできず上り本線に中途半端にはみ出す状態で停止してしまったのだ。立往生である。

「事故発生だ!」機関車の運転士は汽笛を鳴らした。

 まあ、これだけでも確かに「事故」ではある。だがこの第一事故そのものは大したものではなく、問題はこの後である。ここから僅か6分の間に、土浦駅の構内は地獄絵図と化すのだ。

 第一事故発生から3分30秒後のことである。上り本線に貨物列車がフルスピードで進入してきた。駅構内で事故が起きていたにもかかわらず、信号が「青」のままだったのだ。このため、貨物列車は、立往生していた機関車とものの見事に激突してしまった。

 さあ、大事故である。上り本線の貨物列車はたちまち脱線し、脱線した状態のまましばらく走り続けた。そして先頭の機関車は、その先にあった橋の手前で転覆。隣を走る下り線をふさぐ形になってしまった。

 さらに、後続の貨物車両14両もバラバラになって脱線転覆。上り線にも下り線にも車両が散らばってしまった。

 最初に立往生していた機関車と貨物車両も、衝突によってぶっ飛ばされてやっぱり脱線転覆。なんかもう、開いた口がふさがらない惨状である。

 ところが、ここからが本番なのだ。

 この大衝突からさらに2分30秒後、反対方向から下り旅客列車がやってきたからさあ大変。先述の通り、下り線は転覆した機関車によって通せんぼされており、これに衝突してしまった。

 しかも悪いことに、この衝突が起きたのが橋の出口のあたりだったため、衝突時には下り列車の全てが橋の上を通過中の状態だった。たちまち客車の1両目は後ろから押されて棒立ちになり、2両目はゴロリと横転。3両目と4両目は橋から転落し、3両目は宙吊りになったが4両目は川に水没した。

 これでもかといわんばかりの凄まじさである。

 犠牲者は100名を越えた。が、正確な死者数は不明である。それでも参考文献『事故の鉄道史』によると96~120名は堅いようで、いやはやとんでもない事故があったものだ。

 この事故を防ぐすべはなかったのだろうか? あった。単純な話で、第一事故が発生した時点で、そのすぐ近くにあった南信号所がすべての信号を「赤」にするよう動き、指示を出せば良かったのである。

 では何故それができなかったのか。それは時代の空気のせいである。当時は戦時中真っ只中で、しかも戦局は日本に不利になりつつあった。国内ではダイヤが改正され、乗客列車は減らされ、「決戦輸送体制」が整えられていたのだ。

 それで、そもそもの事故原因は12号ポイントの切り替えミスにあったわけだが、このミスは南信号所の職員によるものだった。「決戦輸送体制」のさなかで極度の緊張状態にあった職員は、自分のミスで事故が起きてしまったのでパニックに陥り茫然自失、体が全く動かなかったのである。

 この時、南信号所の掛員には、「国家あげての決戦輸送体制の時期に汽車を止めるとは何事か! この非国民め!」という声が頭の中に響いていたのかも知れない。

 職員の、極度の精神的ストレスのため引き起こされた事故は他にもある。安治川口ガソリンカー火災や、それに最近では福知山線の脱線事故がそうだ。

 よって筆者は、土浦事故も含めたこの3つの事故を、個人的に「小心者の事故」と呼んでいる。筆者自身も非常事態にテキパキ動ける人よりも茫然自失となってしまう人の気持ちの方が分かる部分があり、同情を禁じ得ない。

 ちなみにこの事故、その後の事故処理や裁判の経緯などはまったく不明である。

 

   ☆

 

 この土浦事故は、その詳細が、ずいぶん長い間知られていなかった。戦時中だったため、軍によって報道管制が敷かれたせいだと言われている。

 そしてこの事故の19年後に発生したのが、伝説の鉄道事故・三河島事故である。実は、土浦事故と三河島事故はほとんど瓜二つと言っていいほどよく似ており、土浦事故がもっと国鉄職員によく知られていたならば、三河島の惨事も防げたのではないかとも言われているほどだ。

 しかし土浦事故がきちんと国鉄職員に知らされていたとして、本当に三河島事故を防ぐことができたかどうか――。歴史にイフはないとはいえ、これについて筆者はかなり悲観的な考えを持っている。

 あまり知られていないが、2005年の福知山線の事故の時も、事故現場の反対方向から列車が来ていたのである。これを止めたのはJR職員ではなく一般の名もないおばちゃんで、この人がとっさの機転で踏切の非常停止ボタンを押していなかったら土浦&三河島再び、になっていたのだ(ちなみにJRはこの事実を認めていないそうな)。

 三河島事故という「伝説の鉄道事故」を教訓として職員教育をしてきたはずのJRからして、これである。人間の精神構造を変革し、さらにそれを世代を超えて受け継いでいくというのはこれほど難しいことなのだ。

 そもそもの話、土浦事故が「軍の規制を受けて報道されなかった」というのも、本当かどうか怪しいものである。

 おそらくこういう形で疑問を呈するのは当研究室が初めてであろう。

 戦前から戦中にかけての大事故や大事件の話題を目にする時、この「軍が報道に規制をかけたのであまり知らされなかった」というのはほとんど決まり文句のようになっているが、これは本当なのだろうか。

 当研究室の貴重な参考資料である『事故の鉄道史』でも、当時は「日本国に不利になることを報道するのは利敵行為とされていた」という記述があるが、少し考えてみてほしいのである。戦局と関係のない、いわゆる三面記事的な事件事故の報道をすることが、どうして当時の政府にとって「不利」になるのだろう。おそらくこれに明確に答えられる方はほとんどいないと思う。

 報道は、きちんとされているのである。戦時中から戦後にかけては地震や台風や鉄道事故など、洒落にならない規模の大災害が結構起きているのだが、そういったものはほとんど報道されている。それは当時の新聞を見れば分かることだ。

 確かに、記事の扱いは小さい。例えばこの土浦事故も、中央の大手新聞が、かろうじて簡単な一段記事程度で報じただけだった。

 しかしこの頃は物資が不足していた。新聞の紙面もしまいには一枚の紙の両面だけになったり、紙の材質も藁半紙になったりしていたのだ。現在のように、大事故が起きるとその報道のために2つも3つも紙面を割くような贅沢はできなかったのである。

 また新聞の「取材」も、当時は今からでは到底考えられないようなやり方だった。まず地方にいる記者が現場や関係者から取材をし、そしてそれを電話で本社に伝える。本社の記者は電話口でその記者から「取材」を行い、それを編集に回して、紙面に合わせて文章を添削し、そしてようやく記事が出来上がる――という流れだったのだ。アナログもいいとこである。

 そして戦時中、どこでも人手や物資が不足していた時代に、果たしてこのアナログの手法をどこまで満足に行うことができただろう。

 もちろん、多少の報道管制はあったようだ。実際、軍が絡んだ事件事故で当時は報道されず、戦後になってからようやく明らかになったものはいくつかある。しかしそれらは基本的に「報道されなかった」のであって、土浦事故のように一段記事で報じられることすらなかったのだ。

 以上のことから、筆者はこう考えている。当時、確かに報道管制はあったことだろう。だがそれは極めて限られた時代の、限定された内容のものに限られていたのであろう――と。そして、土浦事故が一般に知らされなかったのは必ずしも報道管制のせいではなく、人出や紙面が足りないという単純な物理的な理由からだったのではないか――と。

 実は、最初は「軍によって報道が規制された」と言われていたものの、実際にはきちんと報じられていたというケースは他にもある。有名な昭和13年の津山事件などがそうで、どうも「軍はどんな情報でも規制した」というのはひとつの都市伝説のパターンであるようだ。

 1945年の終戦直後に起きた八高線正面衝突事故についても、ときどき同じような言われ方がされている。「この事故は被害が甚大であったにも関わらず、あまり一般には知られていない。報道管制のせいである」とうわけだが、これなどは既に戦争が終わった後の事故なのだから、そもそも報道管制を敷く意味が全くない。何かの勘違いであろう。

 それでは、実際に土浦事故があまり一般に知られていないのは何故なのか?

 これに対する筆者の回答は簡単である。要は、我々がある事件事故について情報を得たり知識を得たりするのは、けっきょくマスコミが大々的に報道するか否かにかかっているということだ。

 どんな事件事故も、マスコミが報じなければ、我々はそれを知り得ないのである。そして報じ方が小さければすぐ忘れてしまうのである。ましてや戦中から戦後にかけての混乱期ならなおさらだ。

「人間は、忘れる動物である」。全てはこのひとことに要約できると思う。土浦事故という大惨事が忘れ去られたのも、また福知山や三河島で過去の教訓が生かされなかったのも、全てはそれがためなのだ。そう筆者は考えている。

 こんな土浦事故なので、記録はほとんど残っていない。唯一、土浦市の医師が戦後になって『木碑からの検証』というタイトルの記録書を出しているそうだが、これは現在は入手困難である。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

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沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)

 土浦事故八高線正面衝突事故は、よく「当時は軍の規制があって報道されなかった」と言われたりする。だが、筆者はこれは間違いだと考えている。

 確かに、そうした規制のため報道されなかった事件事故というのは存在する。ただしそれは戦時中であれば日本軍が、そして終戦直後であれば米軍が、大きく関係した出来事に限られるのである。今ふうに言えば、軍がからんだ「スキャンダル」に該当するような事例だ。

 軍がからんでいない事件事故であれば、紙面での扱いは小さくとも(当時はもともと物資の不足で紙面の容量が限られていた)きちんと報道はされている。土浦事故も、八高線の事故もそうだ。

 では、軍が関係していたため報道されなかった事故事例にはどんなものがあるのか。これはしかし、それこそ報道されなかったがゆえに今でも詳細が不明なものが多い。戦時中であれば、軍艦の沈没や火薬庫の爆発事故などの事例がそうだし、また戦後であれば米軍機の墜落事故などがある。ついでに言えば、米兵の日本人に対する婦女暴行の事例などもそうだ。

 今回ご紹介するのは、「これこそまさに」と言える事例である。報道管制下で完全に隠蔽された事故の最たるもの。鉄道における大惨事中の大惨事。土浦事故でも八高線事故でもない、ごく最近まで報道されずじまいだった日本鉄道事故史上最悪の事例がこれだ。

 時は1944(昭和19)年12月11日、沖縄県島尻郡南風原村(現南風原町)神里付近でのことである。

 まだ朝も早い頃、嘉手納駅から一本の列車が出発した。

 路線の名前は糸満線といった。当時、沖縄県内には県営鉄道が存在しており、それによって運営されていた路線である。

 沖縄の鉄道路線は、明治期からずっと資金面の問題があって整備されていなかった。それがやっと県営という形で叶ったと思えば今度はバスがのしてきて、いったんは鉄道の存在感が薄れたものの、軍事輸送に使えるということでまた復活。通常ダイヤを取りやめて、軍用路線として使用されるようになっていた。

 事故当時も兵員の輸送が行われていたという。ちょうど、沖縄に駐屯していた第9師団が台湾へ出て行き、入れ替わりに第24師団が送り込まれたところだったのだ。この移動は大規模なものだった。

 列車は6両編成で、さらに途中の古波蔵駅では2両を増結し8両となった。客車と貨物車両が何両ずつの組み合わせだったのかは不明だが、どちらも相当数あったと思われる。先述の通り兵員も多く運ばれていたし、通学のための女学生も乗り込んでいたというからだ。

 そしてこの列車、糸満駅に向かって発車したのはいいのだが、途中で大爆発を起こしたのだった。

 悪いことに、この列車には弾薬もたっぷり積まれていた。次々に誘爆が発生し、乗っていた兵士も女学生も爆発と火災に巻き込まれて約220人が死亡した。

 220人だぜ220人。これは、西成線ガソリンカー火災の死者数を越える鉄道事故史上最悪の数字である。

 え、爆発の原因はなんだったのかって?

 ごめんなさい、それは不明である。それこそまさに、戦時下の報道管制下で緘口令が敷かれたせいだ。昔のテレビ特捜部で紹介していた番組を真似て言えば「今日、鉄道事故がありました。原因は不明です。」といったところである。素っ裸のお姉さんがそういうニュース報道(笑)をする番組、あったよね。

 あっさりし過ぎているようだが、事故の経過は以上である。この一件は内密に処理され、しかもこの後には沖縄戦が開始。米軍の占領下で鉄道施設も破壊され、県営鉄道も実質廃止となり、事故の記憶は闇から闇へと葬られる形になった。

 もちろん、情報が全くなかったわけではない。昭和50年代には、ごく簡単な記載ではあるが、この事故のことが沖縄関連の書籍に記されるようになった。ただしそれは、地元で発行されている詳細な辞典に限られた。

 では詳細が明らかになったのはいつかというと、驚くなかれ、たったの3年前、2008年なのである(2011年現在)。筆者は未確認なのだが、この記録を発掘したのは桃坂豊氏という鉄道マニアであるという。

 ほぼ断言できるが、当『事故災害研究室』の読者の方も、ほとんどはこの事故のことは知らなかったと思う。あったのですよ、こういう悲劇が。事故発生から60年近くも封印されていた最悪の鉄道事故が、こんなところにあったのだ。

 機会があれば、筆者も詳細を調べてみたいところだ。だが北陸トンネル火災大洋デパート火災などとはわけが違う。山形の図書館程度では資料も全くなかった(そもそも桃坂氏の著作自体が県内にはなかった)。

 ここはひとつ、土浦事故について『木碑からの検証』が書かれたように、どなたかが沖縄で詳細な聞き取りを行って記録書を作ってくれないかと思うのだが、ダメかな。よろしく!

 

   ☆

 

 以上のような状況につき、特にこの事故については随時加筆を行っていきたい。ウィキペディアに載っている以上の情報をお持ちの方は、是非お寄せ頂きたいと思う。

 もちろんそれは、今までご紹介している他の事故災害についても同様である。せっかくなので、そのあたりの注意事項を記しておこう。

 

 *書籍等からの情報であれば、出典が分かる形で。
 *実体験に基づく証言であれば、それと分かる形で。
 *情報の出所が不明な場合は、おぼろな記憶でもいいです(当時のワイドショーで言ってた気がする、とか)。とにかく不明なら不明と明記して下さい。

 

 以上のような形で今まで情報を頂いたケースとしては、川治プリンスホテル火災飛騨川バス転落事故青木湖バス転落事故などのケースがある。メールでもブログのコメント欄でも構わないので、どしどし情報お寄せ下さい。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア

 

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八高線列車正面衝突事故(1945年)

 これは想像だが、鉄道職員に対して「最も不名誉な鉄道事故はどんなものか?」と問うたら、きっと正面衝突事故だと答えるのではないだろうか。

 なぜなら、正面衝突事故だけはどうにも弁明のしようがないからだ。

 同じ鉄道事故でも、脱線や転覆や火災の場合は原因が人的ミスとは限らない。よってすべてのケースにおいて鉄道職員が恥じ入る必要はない。だが正面衝突だけはもう明らかに人災である。衝突した車両のどちらかは、まず絶対確実に、連絡不足や勘違いなどの人的ミスで発車せられたに違いないからだ。

 その意味で、今回ご紹介する八高線列車正面衝突事故は、日本の鉄道史上最も不名誉な事故と言えるかも知れない。正面衝突事故である上に、死者数は本邦一ではないかとも言われているのだ。

 

   ☆

 

 国鉄八高線(はちこうせん)は、関東地方のローカル線である。東京の八王子駅と、群馬県高崎市の駅を結ぶから「八」「高」線。ふむふむ、なるほど。

 1945年(昭和20年)8月24日。玉音放送もまだ記憶に新しかったであろうこの日、八高線の路線沿いに住む人々が不自然な列車の音を耳にしたのは、午前7時40分のことだった。

「変だな。なんでこんな時刻に列車が?」

 いつもなら、この時刻に列車の通過はないはずだ。住人たちは、列車の通過時刻ならなんとなく身体で覚えている。中には列車の通過音を時計代わりにしていた者もいたほどだ。

 この奇妙な列車が実際に走行しているのを目撃していた人物がいる。当時の昭和町大神に住んでいた男性で、時刻表とは全く合わない時刻に汽車が鉄橋を通過してきたのだ。その鉄橋の北には拝島駅があり、そこから上り列車がやってきているのである。

 そしてさらに奇妙なことには、鉄橋の反対側からも一本の列車が走ってきていた。小宮駅からやってきた下り列車である。

 鉄橋は一本しかなく、しかも単線である。そこに2本の列車が差しかかろうとしている――。だが目撃者の男性も、その見慣れない光景の恐るべき意味にはとっさに思い至らなかった。そしてこの直後、2本の列車は鉄橋上でものの見事に正面衝突と相成ったのである。

 辺りに轟音と地響きと悲鳴が響き渡り、たちまち機関車の先頭部分はめちゃくちゃに破壊された。そしてその一部分と、破壊された客車と乗客たちがボロボロと鉄橋から落下して濁流に呑まれていく――。鉄橋の下を流れる多摩川は、連日の暴風雨で増水していた。

「おい息子! 半鐘だ、半鐘鳴らせ!」
「うんわかったよ父ちゃん!」

 カーン、カーン。事故を目撃した男性はすぐさま息子に半鐘を鳴らさせ、集落に非常事態発生を知らせた。

 村人たちも、それぞれ鉄橋の衝突音や鐘の音を聞きつけて外に飛び出してきた。村全体に緊張が走る。鐘を鳴らしていた少年は、彼らにすぐさま川へ向かうように叫んだ――。

 現場は壮絶だった。衝突した2本の列車は完全に食い込み合っており、少し離れて見ると1本の列車かと見紛う状態になっていた。

 この時代の汽車は、先頭に機関車があり、次に炭水車があり、そして客車、という順序になっている。それでこの衝突事故では、まず上り列車の客車の1両目が、前後の炭水車と2両目の客車から挟まれてしまいバラバラになって多摩川の藻屑と消えた。また2両目以降の客車も大きく破損した。

 下りもひどかった。1両目の客車は2両目によって乗り上げられ、のしいか状態となっていた。

 乗客は、誰もが戦争の時代をやっと生き延びた人ばかり。上りには疎開者、通勤者、女学生などが乗っており、また下りには陸海軍の復員軍人たちが多く乗車していたという。

 車内は押し潰された者、挟まれた者、切断された者、激突した者の血と悲鳴とうめき声で満ち満ちており、この世の地獄のような状態だった。また生き残った乗客も、何人もの人々が助けを求めながら濁流に呑まれて行くのを目撃している。

 最終的な死者は104人に及び(105人という説もあり)、行方不明者は推定20人。そして重軽傷者は約150人という稀に見る大惨事である。

 さらに多摩川に転落した人はもっと多いとも言われており、それを含めればこの事故は本邦の鉄道事故では最大の死者数なのではないか、という説もある。

 現場が鉄橋のド真ん中だったこともあり、負傷者の救助は難航を極めた。とにかく下の川が増水しまくっているので、一体何人の乗客がどこまで流されていったのか見当もつかない。また救助作業をしていても、何かの弾みで怪我人や破砕車両が橋から転落する可能性だってある。

 さらに、粉砕された車両の撤去方法も大問題だった。損傷の少ない車両は牽引すればなんとかなったが、完全にスクラップと化した車両はそれぞれ食い込み合っている上に鉄橋そのものにも嵌まり込んでいる。ちょいとクレーンで引き上げて持って帰るというわけにもいかない。ここはもう、豪快に多摩川へ引き摺り落とすしかなかった。

 こうして、この事故の事故車両は、最終的には多摩川の底に沈めれたのだった。今でも、台風などで川底が浚われると、これがひょっこり顔を出すことがあるという。

 え、なんか締めの文章みたい、だって? もう終わりなのかって?

 いえいえ、そんなことはありません。この事故はここからが本番なのです。そもそもなぜこんな大惨事が発生してしまったのか、次の節からはその経緯をお話しするとしよう。

 長くなるので、じっくりお付き合い頂ければ幸いである。

 

   ☆

 

 終戦直後、関東地方は22日から台風に見舞われた。快晴かと思えば暴風雨が荒れ狂うというおかしな天気だったという。

 この1週間ほど前には終戦を迎えたばかり。まるでその天候は、冷め遣らぬ血気と将来に対する不安が渦巻くすべての日本人の気持ちを代弁しているかのようだった。

 この台風は、こと鉄道に関しては多大な影響を及ぼしていた。例えば東海道線は土砂崩れで一部が不通。山手線や京浜東北線も河川の切断により不通になるという有様だった。

 そんな中での8月24日である。八高線小宮駅の朝の空模様もひどいものだった。夜勤をしていた駅長のFと、駅務掛のMは午前4時半に起床したが、昨夜からの暴風雨は相も変わらず荒れ狂っていた。

 しかも悪いことに、この日は電話までもが不通となった。小宮駅の北には拝島駅があり、南には八王子駅がある。そのどちらにも連絡が取れなくなってしまったのだ。ちょっとした「陸の孤島」状態である。

 おいおい誰ですか、「電話が駄目ならメールすればいいじゃん!」とか言ってるのは。これは終戦直後の話なのである。今の時代から見れば信じられないほど不便な通信状況だったのだ。

 これは大変である。小宮駅にとっては非常事態だ。

 列車の発着にあたり、拝島と八王子への電話連絡は不可欠である。各駅を繋ぐ線路は単線――つまり線路が一本だけの路線――なので、上りと下りは必ず駅と駅の間を交互に走らなければいけないのだ。もし2つの駅で上り下りを発車させれば衝突は必至である。

「今から、こっちから列車出すから、そっちは出すなよ~。どうぞ」
「了解した、こっちは列車出さないよ~。どうぞ」

 というやり取りが必要なのだ。

 では、今回のように駅と駅の間の連絡が不能になったらどうすればいいのだろう?

 答えは簡単である。当時の国鉄職員のいわばコンプライアンス・マニュアルである『運転取扱心得』にちゃんと書いてあるのだが、こういう場合は「指導法」というやり方が採用されることになっているのだ。

 では「指導法」とは何か?

 なんのことはない。駅員が駅と駅の間を直接行き来して、列車の発着の打ち合わせをするというやり方である。

 以前、東北本線の衝突事故のことを書いた折に、「通票」もしくは「タブレット」についてお話ししたことがある。指導法というのはつまり、駅員がこの通票もしくはタブレットの代わりになる方法なのだ。

 有り体に言えば「人間タブレット」である。この役割を担わされた駅員は、連絡係であると同時に、自らが通行許可証そのものとなるのだ。

 というわけで、陸の孤島と化した小宮駅は、この指導法を採ることにした。これによって、北の拝島駅それに南の八王子駅と連絡を取らなければならない。

 では、具体的にどのような段取りで進めるか――。小宮駅のF駅長は考えた。

 ところで、ここで先に断わっておくが、この事故はここから先が少しややこしい。駅と駅の間の列車の発着順序がころころと入れ替わった上に、駅員同士の認識のズレがあるものだから、事実関係が複雑になってしまっているのだ。それに参考資料もどちらかというと事故の悲惨さが強調されており、事故に至る経緯に関する文章はどうも分かりにくかった。ここではできるだけ分かりやすく噛み砕いて書くつもりである。

「よし、とりあえず拝島駅からは、時刻表通りに汽車を発車してもらおう。小宮駅に来るはずの第四列車を出させるのだ」

 駅長Fはそう決定した。

「そしてさらに、小宮駅からは、拝島駅への下り第三列車を出すのだ」

 第三列車とか第四列車とかいうのは、奇数が下り列車、偶数が上り列車という意味らしい。この数字は必ずしも発着の順序を表すものではないので、ご注意頂きたい。

 とりあえずF駅長の決定を図式化すると、こうなる(図1)。

 

(図1)

 

 稚拙なイラストで恐縮だが、まあ読者の皆様は、こんな「ゆるイラスト」で肩の力でも抜いて頂ければいいのかな、と思っておるところでございます(などと官僚的答弁を行っておるところでございます)。

 さてFは、この決定に基づいて、駅務掛のMに指令を下した。

「M君、すまないが君は拝島駅に行ってくれ。そして、いま私が考えた順序で列車を発着させることを伝えてくれ」

 はいはい了解。こうしてMは「人間タブレット」としての役割を担わされた。

 少し細かく言えば、ここではMは、まだ小宮駅から一方的に派遣されるだけの「適任者」という存在である。

 だがMが拝島駅に到着し、拝島駅で駅長Fからのメッセージを了解すると、Mの肩書は「指導者」にランクアップするのだ。

 この「指導者」というのは、この場合で言えば、拝島駅から発車する上り第四列車に乗り込む役割を負うことになる。

 そして指導者Mが乗り込んだ上り第四列車が小宮駅に到着し、Mが再び姿を見せることで、小宮駅ではこう考えるわけである。――「ああ、指導者のMがこの列車に乗ってきたということは、さっきのメッセージは無事に拝島駅に伝わったんだな」と。

 そうすれば、小宮駅は安心して、次の下り第三列車を発車させることができる。

 この時、線路が一本しかない(つまり単線である)この拝島駅~小宮駅間で、安全に列車を行き来させることができる唯一の方法がこれだった。

 安全ということを強調するなら、いっそ「電話が不通になったので無理をせずに運休にする」という選択肢があってもいいんじゃない? とも思うのだが、それは現代の視点から見た話である。この当時はまだ、安易に列車を停めるのは鉄道職員にとっては「恥ずべきこと」とされていたのだ。

 時刻は午前5時20分。指導法における「適任者」としての命を受けたMは、徒歩で拝島駅へ向かった。

 このMはさぞ生きた心地がしなかったことだろう。なにせ未明の暴風雨の中を走らされるのである。しかも途中の多摩川にかかった鉄橋は、もともと人間が渡るための構造にはなっていない。ガードレールもない鉄路をよちよちと進まなければならないのである――。

 さて次に、小宮駅では八王子駅に向かう「適任者」を決めなければいけなかった。

 八王子駅は、拝島駅とは反対方向の駅である。実はこのままだと、八王子駅での発着順序が拝島駅のそれと矛盾するのである。調整しなければならないのだ。

 つまりこういうことである。

 先述した、小宮駅のF駅長の決定通りだと、まず上り第四列車が先に拝島駅から小宮駅に到着することになる。そして次に下り第三列車が小宮駅から拝島駅へ行く――という順序になる。

 だが八王子駅での列車の発着順序は、下り第三列車が先で、上り第四列車がその次――ということになっている。図で記すと以下のようになる(図2)。

 

(図2)


 つまり、下り第三列車と上り第四列車は拝島駅~八王子駅間でひと続きなのである。ただ途中で小宮駅を経由する、ということで、F駅長の決定通りだと拝島駅~小宮駅間、小宮駅~八王子駅間の発着順序が矛盾したものになってしまうのはお分かりだろうか。図の①②の記号と、本稿の説明を見比べて頂くと分かると思う。

 というわけで、八王子駅での上りと下りの発車順序を逆にしてやらねばならない(※1)。

 

(※1)ということは、「拝島駅発の上り第四列車を先に発車させよう」というF駅長の判断は、時刻表とは矛盾したものだったのだろうか? しかし先述の通りF駅長は「時刻表の通りに第四列車を先に発車させよう」と考えたことになっている。これはどういうことか。おそらく、暴風雨のためダイヤに遅れが出ており、順序で言えば後で発車させるべきだった上り第四列車に「先を譲る」ことで無理やり時刻表に合わせようとしたのではないかと思う。ここはあくまでも筆者の想像であるが。

 

F駅長「よしA君、今度は君が八王子に行ってくれ」
A駅務掛「了解しました」

 というわけで午前5時30分、A駅務掛が「適任者」として送り出された。

 ここまでは問題がなかった。

 ところが午前6時5分に、F駅長の判断をぶれさせる出来事が発生した。一台の蒸気機関車が小宮駅に到着したのである。F駅長は驚いた。つい30分ほど前に2人の適任者を送り出したばかりなのに、何事だろう?

「なんだ? こんな機関車が来るなんて時刻表に書かれてないぞ」

 この蒸気機関車は八王子駅から来たものだった。客車がなく、先頭の機関車だけのものである。乗っていた運転轍手のHは、F駅長にこう知らせた。

「電話が壊れて連絡が取れなくなったので、八王子駅から打ち合わせに来ました」

 なるほど、そういうことか。言われてみればそういうすれ違いもありうる。

 H運転轍手は、八王子駅長が発行した打合票(証明書のようなものらしい)を示した。そこには「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」と書いてあったという。

 この「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」という表記もなんだか分かりにくい。少し説明しよう。

 第七〇五一単機、というのは機関車のことである。そして伝令者というのは「ただ伝えに来ただけの人間」という意味である。

 そして最後の「第三列車指導者」だが、これは先述した「指導者」のことである。「適任者」のさらにランクアップした肩書きで、端的に「列車を引っ張ってくる人間」という意味を持っている。

 ということは、このHが指導者である以上、彼が引っぱってきた機関車の後ろからは下り第三列車がやって来るということなのだ。

 どうも八王子駅は、小宮駅のように「適任者」を派遣することもせず、「俺んとこから下り第三列車を出すから、あとはそっちで調整してくれよ~」といきなり「指導者」を送り出したものらしい。こういうやり方もアリなのかと筆者としては首を傾げたくなるのだが、とにかく事実そうだった(※2)。

 

(※2)もっとも、この後で小宮駅に到着した第三列車には、F駅長がさっき送り出したばかりのA駅務掛がきちんと指導者として乗り込んできている。だから結果的には運行上の問題は無かったようなのだが。

 

 さて、この第七〇五一単行機関車の到着によって、小宮駅のF駅長はピンと閃いた。そうだ、こいつを利用しない手はない――!

 実はF駅長は、先だって拝島駅に送り出したM駅務掛が心配だったのだ。Fは勤続26年のベテランで、もちろん与えられた役割はきちんとこなすだろう。だがこの未明の暗闇の中、しかも暴風雨の状況で送り出したことが気がかりだったのである。

「うん、やっぱりMが可哀想だ。予定を変更して別の運行順序にしよう!」

 おいおい、大丈夫なんかい。

 誰かが止めてあげれば良かったのだが、駅長に助言できるような駅員はもう残っていなかった。

 それに、F駅長の衝動的な判断には、他にも理由があった。

 上り第四列車を先に発車させ、その後で下り第三列車を発車させるというのが当初の計画だったことは先に述べた。実は、小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車は、このまま「上り第四列車」として再び小宮駅に戻って来る汽車だったのである。

 つまりこういうことだ。第七〇五一単行機関車は、このまま小宮駅を通過すると拝島駅もさらに通り抜け、その先の東飯能駅へ着く。そしてそこで客車を牽引しながらUターンし、「上り第四列車」としてやってくる予定だったのである。

 第七〇五一単行機関車と上り第四列車は、こういう関係だったわけだ(図3)。

 

(図3)

 

 するとどうなるか。

 今、第七〇五一単行機関車の後ろからはすぐに下り第三列車が来るという。

 よってF駅長の最初の決定通りに、その下り第三列車を上り第四列車の到着後に小宮駅から発車させるとなると、下り第三列車は小宮駅でかなりの時間待たされることになる。

 なぜなら、第七〇五一単行機関車が東飯能駅でUターンして、客車を牽引しながら上り第四列車として小宮駅に到着するのを待たなければいけないからだ。

 そうすれば、時刻表にもさらなる大幅な遅れが出るだろう。それは、F駅長としては出来るだけ避けたかった。

 そこでF駅長は考えた。

「間もなく小宮駅に到着する下り第三列車を、さっさと拝島駅に送り出してしまった方が、遅れも出ないで済むなぁ」

 そしてこう結論した。

「よし、さっきは拝島駅に上り第四列車を先に発車させるよう伝令を送ったけど、反対にしてしまおう。小宮駅から先に下り第三列車を発車させるのだ!」

 さらに解説しておこう。要するにこういうことである(図4)。

 

(図4)


 (図1)と比べて頂くと分かるであろう。まるきり逆である。

 ここまで読んで、おいおいそれって大丈夫なの? と思った方もおられよう。

 そう。さっきF駅長は、上り第四列車を先に発車させよ、という伝令をMに託して拝島駅に送り出している。それなのに、こちらから第三列車を送り出したら正面衝突になるのではないか?

 ところが大丈夫。F駅長には目算があった。

 先述の通り、上り第四列車が小宮駅に向かってくるのは、第七〇五一単行機関車が東飯能駅に到着して以降ということになる。

 その、第七〇五一単行機関車の東飯能駅でのUターンにはある程度の時間を食うのである。

 よって、上り第四列車が拝島駅に到着・発車するタイミングよりも先に、小宮駅を発車した下り第三列車は拝島駅に着くだろう――。F駅長はそう考えたのである。

 まあ確かに、その通りなら小宮駅・拝島駅間で列車が正面衝突することはない。それにしても、素人にはほとんど綱渡りにしか見えないやり方だ。

「というわけでOちゃん。君ちょっと拝島駅に行って、運転の順序が変更になったって伝えてくれる?」

 F駅長がそう命じたのは部下のOという女性である。まだ19歳の若い子だ。

 O嬢には、先ほど小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車に乗ってもらった。そして彼女には拝島駅で下りてもらい、後でそこから発車する上り第四列車に「指導者」として乗り込んでもらうのだ。

 つまり彼女は、第七〇五一単行機関車に乗り込んで一度拝島駅で下り、さらに東飯能駅で客車に連結してUターンし戻ってきた第七〇五一単行機関車(つまりこれが上り第四列車である)に乗り込み、また小宮駅へと戻って来るのである。

 F駅長は、さらにこう付け加えた。

「それで、拝島駅に向かう途中でM君を拾ってよ。彼、今もまだ暴風雨の中で走ってるはずだからさ」

 そしてO嬢には一枚の紙切れを渡した。

「大丈夫、これを拝島駅で示せば、全部分かるはずだから」

 このF駅長、おそらく部下思いの人ではあったのだろう。O嬢にこの紙切れを渡したのも、おそらく彼女に対する思いやりだったに違いない。きっと彼女は複雑な話などまったく分からなかったに違いない。またMのこともかように終始心配している。

 こうして、O嬢は第七〇五一単行機関車に乗り込んで拝島駅へ向かった。途中では無事にM駅務掛も拾っており、そして無事に午前6時25分には拝島駅へ到着している。

 さあ、ここからが大変である。

 O嬢は、F駅長から言われた通りに、拝島駅の駅員にメモ書きを渡した。しかしこのメモ書き、他人が見てもまったく理解に苦しむような代物だったのである。

「え? え? これってどういう意味?」

 F駅長は、列車の発着順序の変更について、「見ればすぐ分かる」ようにメモを作ったつもりだった。だがよくある話で、それは本人の独りよがりでしかなかった。他の駅員たちから見れば、それはまったく意味不明の代物だったのである。 

 このメモ、実物の写真でもあればいいのだが、残念ながらどこにも載ってなかった。裁判の記録でも本気でひっくり返さない限り見つからなさそうである。よってこのメモがいかに意味不明のものであったかは、ここでは想像で書くしかない。

 まずポイントとして、このメモは「図」ではなかった。そこに書かれていたのは、走り書きの「文章」であったらしい。

 そして混乱を招いたのは、「変更する」という明確な記述がなかったことだった。いきなり「次は下り第三列車が来るよ」としか解釈しようのない文言が記載されていただけだったのだ。

 さらに、O嬢が持参していた「第七〇五一機関車の適任者」と「第三列車指導者」の肩書きが記入された紙片も問題だった。これには、第三列車指導者とやらが具体的に誰であるのかがまったく書かれておらず、さらに出発駅も到着駅も書かれていない。よって、一体どの駅の発着のことを示しているのかがさっぱり分からないのである。

 まあここで答えを述べておくと、この「第三列車指導者」というのは、小宮駅から八王子駅に派遣されていたAのことだったらしい。最初に小宮駅から「適任者」として派遣されたAが、後で下り第三列車の「指導者」として拝島駅に来るよ――という意味だったのである。

 だがとにかく、そうしたF駅長の意図はこれっぽっちも伝わらなかった。

 それに、メモ云々以前に、O嬢が「適任者」として拝島駅に来ているのも問題だった。

 ここまでじっくり読んで頂ければ分かると思うが、通常、一本の線路を2人以上の「適任者」あるいは「指導者」が行き来することはあり得ない。そんなことをしてあっちでもこっちでも列車を出したら、それこそ正面衝突になりかねないからだ。

 ところが、拝島駅には、先だってM駅務掛が「適任者」として派遣されている。そこへ2人目の適任者としてO嬢が登場したことで、場はすっかり混乱してしまった。

 そこで頭に血が上ったのは、先に拝島駅に派遣されていたMである。

「Oさんも適任者だって!? どういうことだ。先に適任者に任命されたのは私のほうなのに!」

 当初、彼はこう思っていた。――O嬢はあくまでも自分を途中で拾い上げるために第七〇五一機関車に乗り込んだのだ――と。そのO嬢がなんと2人目の適任者に任命されていたなど、思いも寄らないことだった。

 またM駅務掛は、勤続年数26年というベテランである。19歳の若輩に対するプライドもあったかも知れない。

 こうして混乱した拝島駅で、最終的な判断を求められたのは駅長代理であるK(同時に信号掛兼運転掛でもあった)だった。

「困ったな。一体なにが正しいんだろう? オタオタ」

 ここで、M駅務掛が詰め寄ったからたまらない。

「正しいのは私です。あとからO嬢が持ってきたメモは間違いです。最初の指示通りに、私が指導者として上り第四列車に乗って出発します!」

 ああもう困ったな、この人ムキになってるよ。

 そこでK駅長代理は、当時拝島駅にいた助役にも判断を仰いだ。だがこの助役はやる気がなく、こんなことしか言わなかった。

「あーうん、このメモちょっと変だね」

 もういいよ、頼りにならないなあ。

 では、ちゃんと事情を知っていそうなO嬢はどうだろう?

 しかしこの時は、まだ10代の女の子に「これはどういう意味だ」と問いただせるような雰囲気ではなかった。皆、なんとなく彼女には気を使っていたらしい。

 さあ、拝島駅は実にビミョ~な空気である。

 このK駅長代理という人も、なんだか可哀想である。小宮駅から2人のMとO嬢がやってきた時、彼は仮眠中だった。そして、叩き起こされたことでようやく外の暴風雨と通信の不能に気付いたのである。なんだかのんびり屋だ。

 そんな寝ボケた状態のところに、意味不明の紙切れを突き付けられて「さあ結論を出せ」と詰め寄られているのである。これで困るなというほうが無理だ。

 筆者が思うに、このK駅長代理は押しに弱い血液型O型タイプだったのではないか。結局、場の空気に負けて出した結論がこれだった。

「まあいいや。Mの言う通りにしよう! きっとあの紙切れはなにかの間違いなんだ」

 なんかこう、「あらまほし」という感じの結論である。

 さあ、こうして雲行きが怪しくなってきた。小宮駅からは、F駅長が下り第三列車を拝島駅に向かわせようとしている。いっぽうの拝島駅では、K駅長代理の判断によって、Mの乗り込んだ上り第四列車が発車しようとしている――。

 

   ☆

 

 一方、小宮駅には八王子駅からの下り第三列車が到着していた。これに乗り込んでいたのは、先だって小宮駅から適任者として派遣されていたAである。彼は「指導者」としていったん小宮駅に戻ってきた形である。

 拝島駅での混乱など知る由もないF駅長は、O嬢に手渡した意味不明の内容の紙切れによって、全ての段取りは整っているはずだ――と勘違いしている。よって彼はAにこう指示した。

「運航の順序を変更したから、このまま下り第三列車に乗って拝島駅に行ってくれるかい? 大丈夫、最初に拝島駅から来ることになていた第四列車は、私がストップさせておいたから」

 ほほう、そうですか。

 Aとしても、駅長が自信満々でそう指示を出すのだから迷う理由もない。小宮駅では30秒ほどのやり取りをして、すぐに出発した――。

 さて拝島駅はというと、ちょっとだけ予定外の出来事があった。東飯能駅で上り第四列車に連結して牽引してくる予定だった機関車が、なにやら上記気力が不十分な状態になったとかで、使い物にならなくなったのだ。

 それで、上り第六列車が先に出発することになった。これは、第四列車の後に出発する予定だったものである。

 この第六列車が到着すると、拝島駅では、時刻表の上ではこれを上り第四列車の代わりとする形で送り出したのだった。

 そしてこの列車には、小宮駅から適任者として派遣されていたMが乗り込んだ。彼はいよいよ、拝島駅から「指導者」の肩書をひっさげて小宮駅へと戻っていくことになったのだ。

 こうして、冒頭の事故は発生したのである。

 F駅長は、自信満々で下り列車を送り出した。そして拝島駅のK駅長代理は、なんとな~くその場の空気に流されて上り列車を送り出した。その結果、このふたつの列車は多摩川の鉄橋上で激突大破したのだった。

 ここまでの登場人物のうち、MとAはこの事故によって死亡している。O嬢やHは拝島駅で待機していたところだった。

 

   ☆

 

 事故によって、言うまでもなく八高線は全線ストップ。特に拝島駅と小宮駅は大混乱に陥り、F駅長とK駅長代理は逮捕され取り調べを受けるという憂き目に遭った。

 F駅長は「自分の手渡した紙きれをちゃんと読めば、正面衝突なんてありえなかったはずだ!」と主張していたという。だがさすがに取り調べの直後には割腹自殺を図っており、なんとか一命を取り留めた。

 拝島駅のK駅長代理はと言えば、いざ事故発生の知らせを受けて、ようやく「あのメモはそういう意味だったのか!」と合点がいったという。これぞ正真正銘の「アホが見るブタのケツ~♪」というやつであろう。

 この二人は「業務上過失致死並びに業務上過失列車破壊罪」という物凄い罪名で起訴され、裁判にかけられた。F駅長は、裁判所でも「私の書いた図表は普通に見ればすぐ分かるはずだ」とマジ切れしていたという。

 責任の所在は、まあ誰に目にも明らかであろう。悪いのはいい加減な独断を下したF駅長と、それについて確認せずに適当な判断をしてしまったK駅長代理の2人である。

 ではF駅長のやり方はどこまで間違っていたのだろう? 現代の視点で見ると、当時の彼の判断はあまりにも綱渡りめいたものに見えるが、もしかするとそういうやり方は「現場の習慣」として昔からあったのではないだろうか――?

 これについてはしかし、運輸省東京鉄道局教習所の教官が証言台に立って「そんな習慣ありえない。そんなのを許可した覚えもない」とう旨の証言をしている。

 結局、第一審判決ではF駅長に禁固一年、K駅長代理に禁固6ヶ月の判決が下った。さらに第二審ではF駅長が禁固8ヶ月の実刑、Kについては2年の執行猶予付きの禁固6ヶ月という判決が出て、これで確定した。事故から2年後のことだった。

 2人は職を追われ、共にひっそりと第二の人生を送ったという。これもまた、終戦直後という混乱期、時代に翻弄された人間のひとつの姿であったか――。

 

   ☆

 

 さて、この事故は思いのほか知名度が低い。死者数でいえば日本の鉄道事故史上屈指の大惨事であるにも関わらず……である。これは何故だろう?

 ここに一冊の参考文献がある。この八高線正面衝突事故の詳細が記された、おそらく唯一の本と思われる舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』(毎日新聞社)である。この本には、報道に際して検閲だか報道規制だかが行われたせいで事故のことが記録に残らなかった――という趣旨の記述があるが、これは本当なのだろうか。

 筆者の考えを言えば、これはどうも違う気がする。

 土浦事故の項目でも書いたが、戦前から終戦直後の報道に関してはなにかにつけて「当時は報道規制がかかって一般にはあまり知られなかった」と言われることが多い。しかし、当『事故災害研究室』の読者には、今後なにかの文献でそういう記述を見かけたら、まず眉に唾をつけてかかることをお勧めしたい。この八高線正面衝突事故も、当時は新聞でちゃ~んと報道されていたのだ。

 ここに、読者の方からご提供頂いた当時の新聞がある。事故翌日の朝日と読売、それから翌々日の朝日新聞である。カメラ撮影によるものになるが、掲載しておこう。

 

事故翌日の朝日新聞。

事故翌々日の朝日新聞。

事故翌日の読売新聞。

 ※著作権のからみがよく分からないが、問題があれば削除するので、その場合はご指摘頂ければ幸いである。

 

 ご覧の通り、しっかり報道されているのである。

 「でもやっぱり扱いが小さいじゃないか。普通だったら紙面の第一面を飾るような事件だぞ? やっぱり報道管制が敷かれたんじゃないか!」と思われる方もおられるかも知れない。これに対する反論を以下で述べる。

 これも土浦事故の項目で書いているが、物資の不足から、当時の新聞は紙面が極端に少なかったのだ。紙一枚の裏表に印字されていたり、それがさらに半分サイズになったり、しかも紙がワラ半紙だったりしていたのである。

 いくら大事件とはいえ、ひとつの事件だけで、今のように2つも3つも紙面を割けるような贅沢はできなかったのだ。

 また通信上の問題もあった。今のようにデータを添付してワンクリックで全ての情報が送れるような時代ではなかったのである。地元記者からの電話通信や伝書鳩を駆使して情報を集めていた当時、終戦直後の人手不足と混乱の中ではこうした通信もままならなかったに違いない。

 そもそも、報道管制が敷かれたのならば、完全に報道されないはずである。実際に政府によって報道規制が敷かれ、報道を握りつぶされたケースは確かにあるが、それは詳細な空襲の情報のような軍事機密にまつわる事柄など、ごく僅かな数である。中途半端な形であれちゃんと報道されている事柄は、当時としては精一杯報道されたことを意味しているのである。

 「政府によって報道規制がなされた」という都市伝説は「当時、国民を動揺させるようなニュースは規制されるようになっていた」という文脈で語られることが多い。だがこの八高線の衝突事故について言えば、もう戦争は終わっているのだから国民の動揺もへったくれもない。

 そして、人間というのは基本的に忘れる動物である。どんな大事件でも、何度も繰り返し報道されなければ、他の事件の情報に埋もれてしまうし、そうでなくとも忘れてしまうものだ。こうして八高線の正面衝突事故は、知る人ぞ知る伝説の事故となってしまったのだろう。

 たぶんこういった事柄は、ここでの文章を読んで初めて知ったという方も多かろうと思う。当時「政府による報道規制」という現象は確かにあった。だが、いつの間にかその規制の及ぶ範囲が際限なく拡大されて、猫も杓子も規制されたように書かれることが多いがそれは嘘である。

 ではなぜ、そんな嘘がまかり通るようになったのだろう?

 ここからは筆者の想像になるが、これは多分、新聞社がその嘘を積極的に否定していないからだと思う。当時の新聞は、戦争を煽る記事をけっこう書いていた。だから今「戦前から戦中にかけては報道規制がかかって自由な報道ができなかった」ことにした方が、「いやああの戦争礼讃の記事も軍部に強制されて書かされたものなんですよ~」と言える。

 あとは新聞やテレビで、なにかにつけてちょこっと「当時は報道規制があって云々」というひとことを挟み込んでおくといい。そうすれば、大衆の心には戦争イコール報道規制、という図式が刷り込まれるだろう。なんだか陰謀説めいた書き方になるが、戦後はそんな風に大衆の心が操られた部分もあったのではないだろうか。

 ちなみに『「大列車衝突」の夏』はサンデー毎日に連載されたものがまとめられた本であり、出版元は毎日新聞社である。

 

【参考資料】
舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』毎日新聞社

 

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八高線列車転覆事故(1947年)

 東京の八王子駅と、群馬県高崎市の駅を結ぶ「八」「高」線では、終戦直後の混乱期に2度も鉄道事故が発生していいる。しかも、どちらも鉄道事故史上に名を残す大惨事だ。今回ご紹介するのはそのうちの片方である。

 1947年(昭和22年)2月25日の朝のこと。埼玉県東飯能駅を出発して高麗川駅へ向かっていた一本の列車があった。機関車・C5779号機に牽引される、高崎行きの6両編成である。

 この列車はしかし、尋常な状態ではなかった。客車はすし詰めの超満員で、定員の3倍の2,000人近い乗客が乗り込んでいたのだ。

 とはいえ、そんな状況は、八高線にとっては不思議でもなんでもないものだった。当時この路線は「ヤミ列車」とまで呼ばれており、沿線の農家へ食料を買い出しに行く人々で常に超満員だったのである。

 まあ満員だけなら別に良かったのだが、この東飯能・高麗川間の路線には他にも少しばかり問題があった。高麗川駅まであと1キロというほどの地点に、急勾配の下り坂があったのである。しかも線路は急カーブだ。

 もう少し詳しい数値を言えば、その坂の勾配は20‰(パーミル)である。これは底辺が100メートル、高さが2メートルの直角三角形を想像してもらえればいい。列車はその三角形の斜辺を下っていたわけだ。

 またカーブの角度であるが、これは半径250メートル。2005年に発生した尼崎の脱線事故よりも急なカーブだ。

 こんな線路を超満員の列車が通過するわけだから、今まで無事だったのが不思議なくらいである。

 しかし、その幸運も、この日は遂に訪れなかった。

 時刻は7時50分。上述の急勾配・急カーブの地点に差しかかった時、運転手は減速を試みた。さすがに危険な地点であるということで、ここは時速50キロで運転すべしと決められていたのだ。

 ところがスピードが落ちない。運転手は首をかしげた。

「あれ? なんか変だな」

 減速が利かなかったのは、いくつかの原因があったようだ。まず2,000人も乗っていれば勢いがつくから、そう簡単に原則はできないということ。また同じ理由からカーブの遠心力も大きくなるし、客車の重量も増すので車輪は線路上でひしゃげてしまう。まあ、子供でも理解できる理屈である。

 だがこの時の運転士は若干23歳。経験も浅く、よもや自分の運転する列車がそんなことになるなんて思いも寄らなかったに違いない。

 さらに、この時は乗客が多すぎるためブレーキ関係の装置も壊れてしまっていたらしい。速度も80キロは出ていたのではないか――という説もあるそうな。

 かくして、2両目と3両目を繋いでいた連結器は、たちまち千切れてしまった。

 キキキキキーーーッッッ! 線路と車輪がこすれる物凄い音がしたという。そして6両編成の列車のうち、後部4両がカーブから吹っ飛んで築堤から転落。5メートル下の麦畑で大破した。

 また悪いことに、木造の客車はすっかり老朽化が進んだ代物だった。戦後間もなくということもあり保線管理が不充分だったのだ。お陰で、転落した客車はいとも簡単にバラバラに砕け散った。

 粉砕した車両と土煙の下では、乗客たちが瀕死の状態で横たわっていた。彼らが買出しの交換に使うつもりだった大量のゴールデンバットや、荷物が詰まったリュックサック等があちこちに散乱していたというのが実に痛ましい。

 近所の人が駆け付けて救出活動が行われたものの、現場の状況は酸鼻を極めていた。例えば、下敷きになった人を助けようと客車をテコで動かすと、反対側の乗客が痛いやめろと悲鳴を上げる。また助けようと手を差し出すと、埋まっている皆が皆それを掴んでくるので逆に引っ張り込まれたという。目を覆いたくなるような惨状だ。

 死者184人、負傷者495~497人。鉄道事故について言えば、前に書いた安治川口ガソリンカー火災に次ぐ人数である。

 え、運転手はどうしたのかって?

 いやあ、それは筆者の口からはとてもとても……。

 まさか「事故に気付かずに走り去った」なんて言うわけにはいきませんよ。本人の名誉のためにも、ねえ。

 あまつさえ「次の駅に到着して、駅員から知らされて初めて事故を知った」だなんて! だめだめ、口が裂けても言えません。

 ともあれ、そういうわけである。

 この運転士は被告人席に立たされ、責任を追及される羽目になった。

 裁判は最高裁まで争われたという。検察は、運転士が急ブレーキを踏んだのが事故の発生に繋がったと主張した。

 しかし結果は無罪。判決文の詳細を読んでいないのでなんとも言えないが、運転士の運転は適正だったと判断されたのだろうか。だがまあ確かに、事故の直接の原因が国鉄の路線管理の不備にあったのは、素人目にも明らかなように思われる。

 この事故の現場には、今では慰霊碑が建立されているという。

 ちなみに戦後間もなくの事故ではあるが、車両の残骸は、けっこう最近まで現場周辺に残っていたらしい。

 八高線で残骸、と言えば思い出すのが、この2年前に起きた同じ八高線での正面衝突事故である。こちらは残骸が拾い上げられて記念碑代わりにされていると聞くが、いずれにせよ後処理がずいぶんざっくばらんだなあ、という印象を受ける。土地柄だろうか? もしそうなら、ここはみのもんた御大にご登場願わねばなるまい。「埼玉県民カミング~アウト!」である。

 まあ冗談はともかく、八高線の2つの事故は、土地柄とも決して無関係ではないと思うのである。桜木町しかり、三河島しかり、鶴見しかり、戦後の代表的な鉄道事故はすべて、大都会の周縁の地域で起きている。こういった地域はそもそも路盤が弱く、そのわりに大都会に近いので乗客も多い。だからいったん事故が起きると大惨事になりやすいということは言えそうだ。

 

【参考資料】
鉄道チャレンジクラブホームページ

http://www5a.biglobe.ne.jp/~techare/29144280/

 

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近鉄奈良線暴走事故(1948年)

 さあ皆さんならどう反応するだろう。列車が坂道で加速し始め、やがて振り向いた運転士が泣きながらこう告げてきたのである。

「申し訳ありません、車は停車しません。覚悟して下さい」

 これは作り話ではない。そんな恐ろしい出来事が実際にあったのだ。

 

   ☆

 

 時は1948年(昭和23年)3月31日、水曜日。近畿日本鉄道奈良線、生駒駅から花園駅までの鉄路で起きたこの事故は、「近鉄奈良線列車暴走追突事故」「花園事故」「生駒トンネルノーブレーキ事故」など今ではさまざまな名称で呼ばれている。

 奈良発7時20分、大阪の上六行き712急行列車は、朝のラッシュアワー時のため満員の鮨詰め状態だった。

 明らかな異常が発生したのは、生駒駅を発車し、生駒トンネルの下り坂に差しかかった時だった。なんとブレーキが利かなくなったのである。

「あれ、あれれ? どうなってんの」

 運転士は焦ったに違いない。なにせトンネルを出た先の孔舎衛坂駅(くさえざかえき)では線路は半径200メートルの急カーブになっている。しかもその先は、さらに4キロもの連続勾配を一気に駆け下りるのだ。要は、長~い1本の坂道になっているわけだが、よりにもよってそれを下り始めたあたりでブレーキが利かなくなってしまったのである。

 乗り合わせた乗客たちもすぐに異常に気付いた。

「おいおい、この先って急カーブだよな。いつもならここで減速するんじゃなかったっけ?」

 減速どころかスピードは増すばかりである。列車は生駒トンネルを出たあたりで、激しい火花と砂煙を上げ始めた。

 大変だ、これ暴走してるぞ!

 この時、運転士の脳裏では、先に通過していた額田駅と生駒駅での出来事がよぎっていたのではないだろうか。そういえばこの二つの駅でもブレーキの利きが悪く、列車は一両分ほどオーバーランしていたのである。あれはこの予兆だったのか――!

 終戦から4年が経ったとはいえ、日本の工業力はまだ回復には至っていなかった。何しろ物資がない。鉄道に限ってみても車両は老朽化した木造のままで、線路も磨耗と歪みが著しい状態で使われていたという。そんな中、とっくに耐用年数を過ぎたブレーキが、最悪のタイミングで寿命を迎えたのだった。

 このままでは脱線か転覆かはたまた衝突か。乗客たちは騒ぎ始めた。

「ガラスが割れるぞ!」
「窓を開けろ、そうすれば空気抵抗で減速する!」
「後ろに詰めろ、もっと奥に行け」
「それより伏せろ、伏せるんだ! 重心を下げろ」
「立つんじゃない、後ろを向いて座れ」
「舌を噛むぞ、歯を食いしばれ」

 後ろの車両に移動すれば、衝突による被害は抑えられたかも知れない。しかし時代が時代で、当時の列車に車両ごとの貫通扉はなかった。つまり客車は密閉されたただの箱だったわけで、乗客たちはそれぞれ乗り合わせた車両で対策を講じるしかなかった。

 そうこうしているうちに、どんどん増していくスピードのため、なんとパンタグラフが架線を切断。さらにもうひとつのパンタグラフも破損してしまい、あっという間に使い物にならなくなった。

 本当は、このパンタグラフに通電しているうちに、列車がバックする形に操作を行っていれば減速できていたかも知れない。だがこの時の運転士は弱冠21歳、あまりにも経験が乏しすぎた。物資も人材も不足していたのである。

 そこで助役が車両の前方へ移動してきた。

「こうなったらハンドブレーキだ。ハンドルを回せ回せ」

 近くにいた乗客と協力して、助役は手動のハンドブレーキを回し始める。しかし、フルスピードの列車の速度はなかなか落ちず、目に見える効果は現れない。そうこうしているうちに、列車は石切駅を猛スピードで通過した。

 さて次の通過駅である瓢箪山駅には、7時48分に運転司令室からの鉄道電話が入ってきていた。

「準急の752を今すぐ退避させろ! 急行712が石切駅に停まらずに暴走してやがる!」

 なんだと、マジか。駅員たちは慌ててポイントを変えた。ちょうどその時、西大寺発の準急が構内に入ってきたところで、これは無事に待避線に寄せられた。

 ふうやれやれ、と駅員が胸を撫で下ろしたその瞬間である。くだんの暴走列車が、物凄い火花と砂煙を上げながら一瞬で駅を通過していった。この時には100キロを越えるスピードだっただろうとも言われており、まさに間一髪だったのだ。駅の手前のカーブでは、車両が浮いたとの証言もある。

 暴走列車は止まらない。

 途中、開け放たれた窓から飛び降りた者も2人いた。しかし1人は大怪我、1人は死亡。どう足掻いても只では済まない状況だったのだ。

 運転手も必死である。車両の窓から身を乗り出し、パンタグラフを直せないかと試みた。しかし暴走による風圧でいかんともしがたく、なんの足しにもならなかった。

 それでも、現在の花園駅(当時はなかった)あたりから道は平坦になり始めた。手動ブレーキもやっと手応えが感じられ始め、ここでは時速80から70キロくらいには落ちたのではないかと言われている。

 距離にしておよそ6キロ、ここまでの時間は5分。しかしこの暴走は、最悪の形でストップすることになった。花園駅の構内に電車が停まっていたのである。これは瓢箪山駅の時のようには連絡がうまくいかず、待避線にどかす移動させる時間がなかったのだ。

 不幸中の幸いだったのは、追突された列車がまるきり停止しておらず、動きかけだった点である。これにより衝突の衝撃はわずかに緩和された。

 それでも大事故である。7時50分、大音響と同時に暴走列車の先頭車両はものの見事に粉砕された。壁は全てなくなり、残るは天井と床だけ。長さも半分ほどに押し縮められ、乗っていた乗客たちはほとんどが線路脇のドブ川へ放り出されたという。車両の床も、川の水も、たちまち血の色に染まった。

 死亡者49名、負傷者282名。2両目以降も車両の前後が大破したが、死者は先頭車両の乗客のみだった。

 実に不幸な事故である。

 とにかく終戦直後というのは、物資が極端に不足しており鉄道はろくに整備もされていなかった。にも関わらず、人々は交通手段として大いに利用するものだから磨耗のスピードも速く、こうした整備不良が原因となった鉄道事故は数多く起きている。

 それでもこの事故がどこか特別に見えるのは、暴走が始まってから追突するまでの間がどことなくドラマティックで、見る者の心を打つからであろう。実際、乗客たちが力を合わせて、なんとか衝突のダメージを軽減しようと試みたことをひとつの美談として捉える人もいるとかいないとか。

 確かに、追突するまでの数分間を短編小説形式で書いたりしたら、案外面白い作品ができるかも知れない。しかしこれはやっぱり「不幸な事故」であって、美談に仕立て上げようという気には筆者はあまりなれない。この点についてはいみじくも桑田佳祐が歌った通りである。「情熱や美談なんてロクでもないとアナタは言う~♪」

 追突事故が発生した花園駅は、今はもうない(「河内花園駅」がもとの駅より東のほうにあるという)。だが付近の踏切路の西側には、今でも慰霊碑の光明地蔵が建っているそうな。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

 

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桜木町火災(1951年)

 時は1951(昭和26)年4月24日。戦後の復興も軌道に乗り始めていた頃に起きた大惨事である。

 この当時、横浜市という街は、現在の我々が思い描くようなイメージとは一線を画す、ごみごみした「周縁」にあたる地域であった。東急東横線も根岸線も終点は桜木町であり、横浜スタジアムのオープンもみなとみらい地区の整備もまだまだ先の話、という時代である。

 こうした「周縁」にあたる地域では、都市部に比べるとシステムの整備が遅いわりに、人の動きが大きいので、一度事故が起きると大惨事になりやすい。八高線の事故しかり、後年に起きる三河島事故鶴見事故しかりである。これからお話しする桜木町火災という事故もまた、そうした事象の一例である。

 この桜木町火災、一体どのような事故だったのだろう。それについては、鉄道事故マニアのバイブル「事故の鉄道史」シリーズの中で、著者のひとり網谷りょういち氏がこう述べているのが興味深い。

 「桜木町事故ほど、事故原因が多岐にわたり、どれが最大の要因かわかりにく事故はない」――。

 これはまったくその通りである。とにかく、ここまで多くの要因というか悪条件が重なった事故も珍しい。ひとつひとつを見れば些細な要因だったが、それが積み重なり、そしてそこにほんの少しの人的ミスが加わったことで106名が焼き殺されるという結果になったのである。

 要は、混沌としているのだ。

 

   ☆

 

 午後1時40分頃のことだった。神奈川県横浜市の桜木町駅では、構内の上り線のほうでちょっとした事故が発生した。電線工事の作業員がスパナを落とし、送電に関わる線を切断させてしまったのだ。

 これによって「トロリー線」なるものがダラリと垂れ下がる形になった。このトロリー線とは、電車の車両に直接電気を流す役割を持つものである。

 工事を指揮していたN工手長は急いで駅の信号扱所へ行き、そこにいたT信号掛にこう告げた(とされている)。

「断線事故が起きてしまった。上り線には電車を入れないでくれ」

 そしてこの断線事故があったのと同じ頃、京浜線では下り列車が出発したところだった。これは5両編成で、先頭はモハ63756。この直後に発生した火災事故によって、鉄道史に悪名を刻み込むことになる「63系電車」である。

 当時の桜木町駅では、構造上、上り列車も下り列車も共に上り線の線路を共有する形になっていた。それでこの時も、下り列車の運転士は信号を確認しながら、上り線の線路へと進入していった。

 先述の通り、この上り線は先ほどの断線事故によってストップがかけられていたはずであった。なぜここで列車の進行が止められなかったのかは、後に裁判で争われるタネになるのである。

 さて上り線では断線したトロリー線が垂れ下がっていたわけだが、ここに下り線が進入し、先頭車両のパンタグラフがからまったからたまらない。パンタグラフはたちまちひん曲がり、電車の屋根に接触した。

「ぬおっこれはいかん!」異常に気付いた運転士は非常ブレーキをかけ、このパンタグラフを降下させる。

 通常ならば、その措置で問題はなかった。パンタグラフとは、電車内に電気を送る装置である。これを降下させたことで車内の電源は全てストップすることになる。だから火災は起こらないはずだったが、ところが今の問題はパンタグラフではなくあくまでもトロリー線の方である。パンタグラフを降下させたとて、からまった電線は依然とて通電しているのだ。電気は、パンタグラフを通して、接触していた車両の屋根に放電された。

 一閃――。

 その瞬間、物凄い轟音と閃光があり、木製の車両の屋根は爆発するように燃え上がったという。

 当時、桜木町付近の給電は、横浜変電区と鶴見変電区の2か所からなされていた。当然この事故が起きた瞬間にはそれぞれの変電所でも異常を察知し、給電をストップさせる措置が取られた。

 ところが、である。鶴見変電区だけは、給電を止めるための高速度遮断器という装置が作動しなかった。おいおいしっかりしろよ! と突っ込みたくなるが、とにかくこれにより、くだんの列車には4~5分に渡って電気が送られ続けることになったのだった。

 これでは火勢も弱まらない。結果、事故車両は先頭が全焼、2両目は半焼という憂き目に遭うことになる――。

 ここで、全焼した先頭車両「63系」電車について少し説明しておこう。

 もともとこの63系列車は、1944年に戦時の輸送力増強のために開発されたものである。現在の「全長20メートル、片側4扉」タイプの車両はここから始まっており、当時としてはかなり画期的だった。

 もともと「戦争に勝つまでの間に数年保てば良い」という設計思想があったらしく、現代の目線で見れば「数年あれば勝つと思ってたんかい」と言いたくなるところだが、その実態は即席の間に合わせとしか呼べない代物だった。

 たとえば車内の木造の屋根は骨組みが露出しており、照明はカバーもない8個の裸電球のみ。現代の我々には想像もつかない車両である。

 また火災とのからみで言えば、ガラス節約のため3段に区切られた窓は中段が開かず、極めて脱出しにくいものだった。さらに塗料は可燃性で、天井の内張りはベニヤが使われていたため火災が起きればひとたまりもない。しかも隣の車両へ通じる扉は内開きのため満員の混乱時には使えないし、とどめに非常用ドアコックはどこにあるか分からない――と、もう救いようがない。

 とにかく資材を極限まで切り詰め切り詰め、輸送効率だけを追求したのである。ゼロ戦と同じだね。日本人はこういうのを作るのが上手いけれど、それは人命軽視の思想と常に背中合わせであるのだなァと思う。

 それでもなんとか脱出した生存者もいた。その証言を見ていこう。

「その瞬間、天井を黒煙が覆い、私は手ぬぐいで鼻と口を押えてしゃがみ込んだ。黒煙が真っ赤な炎に変わったとき、自分の下に煙を吸って倒れた乗客がたくさんいるのに気づいた。炎が渦を巻いて迫ってきた。死を覚悟した瞬間、家族の顔が浮かんだ。そのときである。ガチャーン、という音に振り向くと、火だるまになった男性が網棚につかまって両足で窓をけ破っていた。後に続けば助かると重い、私も破れた窓から飛び出した。顔や手は焼けただれたが、中古で買った純毛のスーツが炎から体を守ってくれた」

「桜木町の手前で、突然人がかぶさって来たので、何だかわからないまま手で窓ガラスを叩き壊し、窓から飛び降りて頭の火をもみ消して、火のついた上衣を脱ぐのがやっとだったが、セーターまで焼けていた」

 背筋が寒くなるような話である。

 ところでこの時、運転士はなにをしていたのだろう?

 当時、この5両列車にいた鉄道員は3人。先頭車両が焼き尽くされるまでには10分程度しかかからなかったと言われているから、救出のための措置を取れたのは先頭車両の運転士だけだった。

 しかしこの運転士、先頭車両はあまりに火勢が強すぎどうすることもできなかったのだった。よって、比較的火災の規模が小さい2・3両目の乗客を救出したり、車両を切り離したりするのが関の山だった。先頭車両の窓から乗客を引っぱり出したりもしたそうだが、それは最後だったという。

 先頭車両で生きながら焼かれている乗客にとって、窓の外でウロチョロしているだけの運転士の姿はさぞ恨めしく写ったことだろう。

 この時、運転士はなにをすべきだったのだろう?

 答えは簡単である。実は、車両の外にちゃんと非常用ドアコック――通称「Dコック」――があったのだ。運転室から出てすぐこれさえチョイとひねっていれば、自動ドアも全て手動で開けられたはずだったのである。

 のちにその点を追及された運転士は、コックの存在を「あとで言われて思い出した」という。これでは責められても仕方がない。

 ちなみに、車両内にもこの「Dコック」は設置されており、事故当時、誰かがこれをひねった形跡があることが現場検証で明らかになった。死亡者の中には鉄道関係者もいたらしく、おそらくその人がひねったのだろうと言われている。

 つまり焼け死んだ乗客たちは、実は手動でドアを開けて脱出することが可能だったのだ! やりきれない話である。

 だがそれに気付かれないのも無理のない話だった。火災時の車両内は修羅道かはたまた畜生道かと思わせる有様で、乗客は我先にと唯一の脱出口である窓へ押し寄せ、男が女を引きずり落とすような惨状だったという。誰か一人がコックを捻っても、それだけ混乱した車内では、落ち着いてその旨を説明する前に踏み倒され、煙を吸ってしまうのが関の山だったろう。戦後の混乱とモラルの低下は、こんなところでもまだくすぶっていたのだ。

 今では、非常用ドアコックと言えばどんな車両でも目立つ場所に設置されているのですぐ分かる。だが当時の車両は「隠されている」と言われてもおかしくないような場所にあり、そもそもそうしたコックの存在自体が知られていなかったのである。

 ドアコックに歴史あり。桜木町火災によって、このコックはやっと目に付く場所に設置されるようになったのだった。

 だが、これは余談めくが、それが裏目に出たのが三河島事故である。こちらの事故では、ドアコックをひねって勝手に脱出した乗客たちが、隣の線路に進入してきた別の電車によって片っぱしから轢かれてしまったのだ。難しいものである。

 こうして桜木町火災は、先頭車両と2両目を合わせて焼死者106名、負傷者92名という大惨事になった。この事故は国鉄戦後五大事故の一つとして、今でも鉄道事故史を語る上では欠かせないものである。

 さて裁判だが、これは最高裁まで争われ、最終的には職員5名が有罪となった。

 内訳は、架線工事の工手長のNが禁固10ヶ月。信号掛のT、運転士、工事の工手副長が禁固6ヶ月。最初にスパナを落として電線の切断を起こした工手は執行猶予付きの禁固1年である。

 なお、有罪判決を受けた工事の工手長のNと信号掛のTが、火災直前に交わしたやり取りが裁判では問題になっている。断線事故が起きたにもかかわらず、なぜ下り列車はごく普通に進入してきたのか? というあの一件だ。

*Nの証言
「私は架線を切ったとき信号所にかけつけて、上り線には電車を入れてくれるなと強く主張した」

*Tの証言
「Nは、上り電車を出すのはチョット待ってくれと軽く言った。到着する下りはいいのか、と私が尋ねたら、到着のほうははいいと答えたので渡り線に電車を入れた」

 完全な責任のなすり合いである。どっちかが嘘をついているか、あるいは完全に記憶がおかしくなっているのは明らかだ。だがとにかく、この2人の打ち合わせ不備のため、例の63系列車は断線事故が起きていた上り線に進入してしまったのだった。

 この桜木町事故には「謎」がほとんどない。事故発生から終了に至るまでの経過は全ての局面でほぼはっきりしている。まあ逆に、だからこそどのへんに責任追及の焦点を当てるべきかが分かりにくく混沌としており、裁判でももめているのだが、そんな中でも唯一の「謎」として残っているのがこのNとTの証言の真偽なのである。

 ちなみにこれはおまけのような話だが、桜木町火災は、事故現場の凄惨な写真が新聞に載った最初のケースなのだそうだ。そういえばある写真集で遺体の写真を見たことがあるが、なにがなんだか分からない写りで「こんな写真なんの意味があるんだろう?」と思ったものだが、当時としては相当鮮烈なものだったのだろう。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア

 

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東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)

 日本の事故史を紐解くと、戦後間もない一時期に「修学旅行中の事故」が頻発していたことが分かる。発生した事故のジャンルも鉄道、バス、海洋と多岐に渡っており、このテーマだけでも一冊の本が書けそうな気がするほどだ。

 鉄道事故の分野でいえば、最も有名なのは参宮線六軒事故ということになるだろうか。あれは多数の死者が出た悲惨さそのものでも有名だが、いっぽう東海道線では火災事故が発生している。知名度はそう高くないのだが、今回はこの事例をご紹介しよう。

 時は1955年(昭和30年)5月17日のこと。

 日付も変わったばかりの午前2時19分。修学旅行中の学生たちを乗せた11両編成の列車が、原―田子の浦間を通過していた。

 この列車は京都発東京行きの3138列車で、乗客は837名という大所帯である。いかにも「事故ったら大変なことになりそうだなあ」と思わせる乗客数だが、とにかく田子の浦駅はダイヤ通りの時刻に通過したし、ここまでは何も問題はなかった。

 問題が起きたのは、静岡県原町の植田という地区の踏切に差しかかった時だった。なんとそこで一台の大型トレーラーが立ち往生していたのである。それは米軍のもので、列車の運転士は慌てて急ブレーキをかけたが間に合わずゴッツンコ。それでも列車は止まらず、百数十メートルもそのまま走行してやっと停止したのだった。

 さあ、大変なのはここからだ。踏切で大破した米軍トレーラーには、よりによって揮発油を原料としたペンキが大量に積まれていたのである。どういう拍子でかそれに引火し、あっという間に周辺は「燃え上が~れ~ガン●ム~♪」状態。

 火炎は、緊急停止した3138列車にもたちまち燃え移っていく。特に3両目はトレーラーに近い場所にあったのか、燃え移るのが最も早かった上に焼け方がひどく、骨組みしか残らないほどだったという。

 また他の客車3両と機関車が全焼、さらに1両が半焼に至った。つまり先頭の5両が焼けたわけだが、6両目以降は切り離して移動させたため無事だったという。 

 この事故の犠牲者は、まず重傷を負った者が2名。そして修学旅行中の子供たち11名を含む31名が軽い怪我を負った。死者はゼロだった。

 え、ゼロ?

 そう、ゼロなのである。

 その場にいた鉄道関係者と乗客たちが、皆で力を合わせたのが良かったのだ。さらに、時刻は草木も眠るなんとやら――だったにも関わらず、周辺住民も駆けつけて協力してくれたのである。

 住民たちにとってはきっと「田子の浦に 打ち出でてみれば火災にぞ 鉄道車両に 火の粉は降りける」という感じだったろうが、とにかくそれで車両の危険回避と乗客らの避難誘導が適切に行われたのだった。いやあ良かった良かった。人間やればできるもんだね。

 戦後の鉄道火災事故といえばなんといっても桜木町火災だろうが、桜木町は鉄道事故史上屈指の死者数、されどこの東田子の浦では死者ゼロと、えらい違いだ。

 ちなみにこの事故で被災した車両は、廃車とはならずに修理されてその後も使用されたという。個人的にはそれがどうしたという感じなのだが、生粋の鉄道好きにとっては外せない話題らしい。資料として読ませて頂いたサイトのどちらにも詳細な説明があった。素人には退屈な文章だが、とりあえず重要事項らしいのでそのまま引用しておこう。ウィキペディアからである。

「被災車両は損傷の著しいものがあったにもかかわらず全車廃車とならずに修復され、EF58 66は浜松工場で修復および甲修繕を施工、客車5両はオハ46形に準じた広窓、切妻、鋼板屋根の構体の新製と台枠の改造が行われ、スハ32 266は名古屋工場で構体載せ替えを受けオハ35 1314に改番、スハフ32 257は小倉工場で構体載せ替えを受けオハフ33 627に改番され、オハ35 342・923, スハ42 63は小倉工場で構体載せ替えが行われ原番号で復旧された。」

 ところで米軍トレーラーはどうして立ち往生していたのだろう。補償はしたのだろうか。その辺りも気になるが、ひとまず今回はこれにて。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト「JS3VXWの鉄道管理局」鉄道写真管理局珍車ギャラリー
http://bit.ly/fZMg7P
◇ウィキペディア

 

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参宮線六軒事故(1956年)

 ATSという装置がある。

 正式にはAutomatic Train Stopという。自動列車停止、すなわち鉄道を強制的に停止させる装置である。たとえば、鉄道車両が速度超過に陥ったり、あるいは信号無視を行ったりすると「はいダメー」ということで自動的に作動する。

 このATS、現在では全ての鉄路に備え付けられているという。まあ安全管理という観点からは当たり前なわけだが、しかしこれが「当たり前」になったのはごく最近のこと。そう、当研究室の読者諸賢ならもうお分かりであろう。これが普及し定着するまでには、戦後のいくつかの大事故の発生を俟たなければならなかったのだ。ATS配備の歴史は、そのまま鉄道事故の歴史と言っても過言ではない。

 今回ご紹介する参宮線六軒事故は、1965年(昭和31年)に発生した。この事故によって、国鉄は「車内警報装置」の全線設置を決めたのだが、この時はまだ列車の停止は手動で行う必要があり、警報装置はいわばATSの単なる前身に過ぎなかった。やっぱりただの警報装置では生ぬるい、ということで問答無用に列車を停止させるシステムへと切り替わったのは、伝説の鉄道事故・三河島事故以降の話である。

 そう考えると、この六軒事故は知名度こそ低いものの、三河島事故の前触れというか予兆みたいなものだったのだろう。それまで鉄道というのは「なにがあっても列車は停めるな」が基本であった。だがそれがこの六軒事故や三河島事故を経て「異常時にはすぐ停めろ」へとパラダイムシフトしたのだ。今となっては地味ではあるが決して外せない前身。プロレスで言えば、力道山に対するボビー・フランスやハロルド坂田。それがこの六軒事故なのである。

 

   ☆

 

 1956年(昭和31年)10月15日18時22分のことだ。

 現在は紀勢本線である、当時の「参宮線」の六軒駅で、上り・下りそれぞれの快速列車がすれ違うことになった。

 本来のダイヤではこのすれ違いはあり得ないのだが、そんな風に急遽変更となったのは、下り快速列車に10分の遅れが出たためだった。よって下り列車は、いつもならもっと先の松坂駅ですれ違うところを急きょ六軒駅で臨時停車し、上りの列車をやり過ごさなければならなくなったのだ。

 ただ問題は、下り列車の運転士に、この緊急の変更内容が伝わっていなかった点であろう。当時は携帯電話なんて便利なものは存在せず、こうした決定が先に駅の内部で行われ、運転士は駅構内で止められた後で事後的に知らされることもあったのだ。

 通信手段が充実している現代の視点で見れば「危なっかしいなあ」と思うのだが、とにかくそうだったのだから仕方がない。なあに、駅でちゃんと信号を操作して確実に列車を止めれば、大丈夫だ問題ない。――というわけで、六軒駅では下り快速列車を受け入れる態勢を整えて待っていた。

 ところが一体どうしたことか。駅に入ってきた下り列車が、停止せずにそのまま駅を通過していくではないか。

 少し進んだところで、運転士がアッと気付いて非常ブレーキをかけたがもう間に合わない。列車は安全側線に突っ込み、そのまま車止めを突破してしまいドンガラガッシャン。機関車2両と客車3両が脱線転覆し、「反対車線」にあたる上り線の線路をふさぐ格好になってしまった。

 これだけでも大事故だが、もしかするとこの段階では死傷者は比較的少なかったかも知れない。このほんの数十秒後に、六軒駅ですれ違うはずだった上り列車が進入してきたからさあ大変、線路をふさいでいた車両に激突してしまった。

 この激突によって、上り列車の機関車2両と客車1両がさらに脱線転覆。しかも、先に転覆していた下り列車は押し潰されてしまった。死者42人、負傷者96人という大惨事のできあがりである。

 下り列車の乗客の多くは、修学旅行中の学生であった。

 この学生たちは、当時の東京教育大学(今の筑波大学)付属坂戸高校の生徒だった。死者42名のうち、24名がこの生徒たちだったというから痛ましい。

 さらにこの事故が悲惨なものになったのは、上り列車の機関車の破損によって、犠牲者たちが蒸気と熱湯を浴びたことだった。蒸気機関のパイプやバルブからそれらが漏れ出したため、生存者は大火傷を負い、死者の遺体は激しく損傷せられたのだ。

 そして救助活動が始まったものの、これもひどく難渋したという。消防署、消防団、機動隊、陸自などが出動したものの列車の破損があまりにひどく、さらに上にのしかかっていた機関車の撤去にも骨が折れたという。

 さあ、裁判である。まあ事故の原因は明らかで、下り列車のオーバーランのせいなのだが、ではそもそもオーバーランはなぜ発生したのか? 裁判ではそこが問題になった。

 救助された下り列車の機関士は、こう証言している。

「六軒駅に入った時、信号は確かに進行を現示の状態でした。だけど駅ホームの半ばあたりまで来たら、出発信号機が停止現示になっていたんです。それで慌てて非常ブレーキをかけたのですが間に合いませんでした」

 要するに、青信号だったので安心して進んで行ったら、当然青であるべきその先の信号が赤になっていたいうことだ。この話が本当ならば、事故の責任は駅にあることになる。信号機の赤青を変えるのは駅の信号掛の役目だからだ。

 しかし駅はこのミスを全面否定。彼らと、前述の運転士の主張は真っ向から対立した。

 裁判所の最終的な結論は、「事故の原因は運転士による信号の見間違いである」というものだった。六軒駅の関係者は全員無罪、運転士のほうが禁固2年・執行猶予5年、機関助士には同じく禁固1年と執行猶予3年という判決が下っている。しかしこの結論を証拠づける物的証拠は特になく、ぶっちゃけ真相は闇の中である。証拠なしでこんな結論、出しちゃいけないと思うのだが。

 とはいえ、実際のところなにがあったのか、まったく推測できないわけでもない。

 当時は伊勢神宮の大祭が行われており、大勢の人が行き来していたせいでダイヤは乱れがちだった。よって、先述したような列車の遅れや駅での緊急のすれ違いが発生したのである。だが六軒駅ではこのような変更は珍しいことで、慌てた駅員が信号の操作をミスったのかも知れない。全てが手動だった時代、こうした操作がいかに煩雑だったかは想像するしかないが、今までやったことがない操作をその日いきなり「やれ」と言われれば誰だって慌てる。

 また一番最初にも書いたが、下り列車の運転士は、六軒駅でいったん停止することを事前に知らされていたわけではない。ちょっとぼんやりしていれば、青信号を見落として、まったくいつも通りにこの駅を通過しようとしてしまうことだってあり得るだろう。

 いずれにせよ同情せずにはおれないところである。

 

   ☆

 

 最初に述べたように、この事故の直後から、主要幹線では車内警報装置の導入が進められていった。さらに信号も色灯化や自動化が進められ、これでひと安心となるはずだったのだが、6年後に三河島事故が発生したことでぜんぶ台無し。金はかかるけどやっぱりATSでなきゃ駄目だという結論になったのである。

 それにしても、このあたりのエピソードを書いていて思い出すのは、三河島事故が起きた時に付近の住民だか乗客だがか言っていたという言葉である。「人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ」と、その人は憤っていたという。

 だが皮肉なもので、ATSの導入は「やっぱり全ては機械サマ頼み」という結論を示すものだった。人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ――。その答えは簡単で、人間は間違うものだからである。人間なんてアテにならないからである。

 とはいえこのATSという機械も万能ではない。緊急停止したあとは改めて手動で発進させるわけで、けっきょくそれで事故ったというケースもある。いやはや、くり返して言うが人間なんてアテにならないものである。せっかく機械を導入しても、それを台無しにするのはやっぱり人間なのだ。

 この参宮線六軒事故の事故車両は、今でも和歌山県橋本市の運動公園に展示されているという。下り列車を押し潰した、あの上り列車の機関車である。

 

【参考資料】
◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◇ウィキペディア

 

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三河島事故(1962年)

 三河島事故――。伝説の鉄道事故である。

 あまりにも有名なので、今さらここで記述してもな~という気持ちが正直あるのだが、一方でこの事故のことを書かなければ、鉄道事故史としては明らかに片手落ちだろうとも思う。

 この事故の情報は、これまでにも多くの文献で書かれてきたし、ネット上でも溢れ返っている。よって詳細はそちらに譲るとして、当研究室では大まかに、自由に書かせて頂こう。

 

   ☆

 

 時は1962年5月3日、夜9時半過ぎ。東京都荒川区での出来事である。

 常磐線・三河島駅からほど近い線路上で、下り貨物列車が事故を起こした。

 これはまあ、ちょっとした脱線事故である。赤信号の場所で信号を見落とし、安全側線内で大きく傾いてしまったのだ。それで車両が本線側にはみ出した。

 この状態を乗用車と道路でたとえるなら、反対車線に頭がはみ出す形で停車したようなものだ。当然、反対側から車が来れば衝突の危険がある。危ないことこの上ない。

 おっとこいつぁーウッカリだ! しかし貨物列車の運転士には、額を叩いている余裕もなかった。およそ10秒後に、反対方向から、本線を走ってきた列車があったのだ。これは上野発取手行き下り2117H電車で、7両編成。本線にはみ出していた貨物列車にぶつかったことで、今度はさらにその隣の上り線の線路上にはみ出してしまった。当時、この下り電車は約40km/hの速度だったという。

 言うなれば、ドミノ倒しのようなものである。列車が次々に脱線し、隣へ隣へとはみ出してしまったのだ。だがこの時点では死者は出ておらず、25名が怪我を負っただけだったと言われている。

 なんだ全然大したことないじゃん――などと言うことなかれ。問題はここからだ。

 誰が最初にやらかしたのか知らないが、2117H電車の乗客たちが「非常用ドアコック」を使って車両の扉を開け、ゾロゾロと外へ出始めたのだ。

 まあ確かに、脱線して動かなくなっている電車に閉じこもっていたって仕方がない。「早く外に出て、さっさと別のルートで家に帰ろう」というのは当然の心境だったろう。しかも当時の電車内は、脱線でパンタグラフが外れたことから停電していたのだ。

 乗客たちは、さっき出発したばかりの三河島駅へ戻り始めた。

 ところがここで、彼らの歩いていた線路上へ上野行き上り2000H電車が突っ込んできたのである。人々はデデデデデッと撥ねられた。

 また電車のほうもただでは済まなかった。乗客を撥ね飛ばした挙句、脱線していた下り2117H電車と衝突したことで先頭車両が粉々に粉砕。2両目と4両目は、土手のように盛り上がっていた線路から真下の民家へと転落したのである。その結果、死者160名、負傷者296名の大惨事となった。

 いやはや。最初は「こいつぁーうっかりだ!」で済むところだったのが(いや済まないけどさ)、あれよあれよと言う間に雪だるま式に膨れ上がり、そして伝説へ……。とんでもない事故があったものだ。

 夜に線路を歩いている大勢の人たちが、電車によって一気に撥ねられるというイメージもあまりに強烈である。この強烈さによって、三河島事故は多くの人々にとって忘れがたいものとして記憶に残ったことだろう。

 ちなみに筆者がこの事故のことを話す時に、よく聞かれるのが「なんで線路を歩いていた人たちは、電車をよけなかったの?」ということである。

 これは簡単で、逃げ場所がなかったのだ。

 実際に行ってみると分かるが、事故現場は土手のように高く盛り上がった場所で、おいそれと下りられるようなものではなかった。またそこは鉄道車両が通ることしか想定されていないので非常に狭く、2台もの鉄道車両が並んで脱線している上に大勢の人がいたのでは、逃げ場所もほとんどなかったと思われる。

 さて、当時の事故現場の写真は、今ではネット上でいくらでも見られる。

 ちょっと見ただけだと気付かないのだが、写真に写っているものの中で筆者が特に恐ろしく思ったのは、上り2000H電車の先頭車両の状態である。

 各種資料を読むと「先頭車両は粉々に粉砕」という記述がよくあるのだが、最初は写真を見ても特にひどくない気がした。しかし筆者が先頭車両と思い込んでいたのは、実は2両目だったのだ。よく資料を読むと「2両目以降が土手から転落」とあるではないか。

 ああそうか転落しているのは先頭ではないのか。すると1両目はどこに?

 そこでよく目を凝らし、それを見つけた時には思わずゾッとした。上り2000H電車の先頭車両は本当に原型をとどめないほど破壊されており、まるでボロクズのように打ち捨てられていたのである。

 これは、福知山線の事故のニュース映像を初めて見た時の感慨と似ていた。あれも先頭車両と2両目の破損がひどく、最初はそれが車両だとは気付かなかったものだ。この事故の凄まじさが、いかに想像を絶するものだったかが思われる。

 裁判では、国鉄職員たちの責任が追及された。最初の二重脱線の時点で、上り電車を止めるための措置を取っていれば被害はもっと少なくて済んだことだろう。

 だが乗客の行動にも問題がないとは言えまい。彼らは非常用ドアコックを使って勝手に外に出たのだ。おそらく「皆が行くから自分も」という感じで次から次へとついていった形だったに違いない。

 この「非常用ドアコック」は、1951年の桜木町火災を教訓として設置された。昔からあったのだが、以前は場所が分かりにくかったのだ。桜木町火災では、そのため多数の乗客が脱出できず焼け死んだ。しかし三河島事故では、ドアコックが気軽に使えたことが裏目に出てしまった。

 国鉄職員の対応といい、乗客の行動といい、この事故は「日本人の非常時の行動のまずさ」を如実に浮き彫りにしていると言っていいだろう。

 その意味で、この事故は今でも「生きた事例」であり、教訓であり、事故防止のための教科書である。

 実は福知山線の事故でも、JRは反対の路線から入ってくる電車を止める措置を取っていなかった。それをとっさに非常停止装置で止めたのは、名もない一般市民のおばちゃんだったのである。このおばちゃんがいなければ三河島事故再び、になるところだったのだ(ただしJRはこの事実を認めていないそうな)。

 さらに三河島事故は、同じ常磐線で戦時中に起きた土浦事故とも瓜二つの関係にある。土浦事故があまり知られていないのは、当時の通信事情からして致し方のないことだが、こちらの事故の反省がきちんとなされていれば三河島事故は防げたのではないか、とも言われている。

 過去未来のあらゆるケースと、ここまでつながりを持つ鉄道事故もちょっと珍しい気がする。

 三河島駅は今もある。しかし、この事故によって三河島という地名は地図上から消えた。戦後の日本で、陰惨な事件や事故が原因となって地名が地図から消えたのは、おそらく帝銀事件と三河島事故だけではないだろうか。

 最後にこれは余談だが、筆者の父親は事故当時、現場の近くに住んでいた。よって日暮里大火、荒川通り魔事件、吉展ちゃん誘拐事件、そして三河島事故はいまだに身近なものとして覚えているという。曰く「あの夜はひと晩中サイレンが鳴っており、空襲を思い出して不気味だった」。

 そういえば「失敗学」を打ち立てたことで有名な畑村洋太郎も、同じような体験談をある本で書いていたのが印象深い。一度知ったらもう忘れられない伝説の鉄道事故、それがこの三河島事故なのである。

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

 

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鶴見事故(1963年)

 鶴見事故は、戦後の鉄道事故としては最悪のものである。161人が死亡、120人が重軽傷を負うという目を覆わんばかりの大惨事だ。

 しかし、それではその「戦後最悪の鉄道事故」はいかにして起きたのか? 事故原因はなんなのか? という話になると、これが分かりにくい。掴みどころがないのだ。しかも調べれば調べるほど、あろうことかこの事故が起きたのは「運が悪かったから」だという結論に至らざるを得なくなるのである。

 まずは、惨事が起きるまでの経緯をご説明しよう。ただこの事故、なにせ伝説の三河島事故と双璧をなすほどの知名度なので、すでにネット上では写真やイラスト付きでさんざん解説がなされている。よってここでは簡単な説明にとどめたい。

 1963年(昭和38年)11月9日のことである。場所は当時の国鉄東海道線の、新子安駅と鶴見駅の間でのことだった。滝坂不動踏切という踏切があるらしいが、そこから鶴見に近いほうの約500mの地点である。

 まず、きっかけとなる事故が起きたのは午後9時50分頃。下り貨物線を走っていた貨物列車がいきなり脱線したのだ。ホントにいきなり――である。

 この貨物列車は佐原発・野洲行きの下り2365列車で、全部で45両編成。そのうち、後ろの3両がいきなりレールから外れて、線路脇の電柱(架線柱というらしい)に衝突して止まった。前方の42両はそのまましばらく進んだから、この3両はいわば線路上に「置き去り」の状態である。

 だが、これがただの「置き去り」だけならまだ良かった。脱線した3両は、3メートルほど離れた隣の線路にはみ出してしまったのだ。そこは、海岸側を走る東海道本線の上り線だった。

 さて、驚いたのは貨物列車の運転士である。後方で脱線事故が起きたことで急ブレーキがかかり、この列車は線路上で停止した。

「わわわ、やばいよ事故発生だ!」

 というわけで、運転士は急いで列車を下りると発煙筒を焚き、事故を知らせた。しかしこの発煙筒、どういうわけかごく短時間で消えてしまい、事故を知らせるにはほとんど役に立たなかったという。

 さてこの第一事故が発生してから間もなく、東海道本線の下り線を12両編成の列車が走ってきた。東京発・逗子行き下り2113S列車である。

 この列車の運転士は、前方で異常が発生していることにすぐ気付いた。

「あれ? なんかヘンだぞ、パンタグラフが火花を噴いてる。架線もたれ下がってるみたいだ」

 運転士が見たのは、さっき貨物列車がぶつかって壊れてしまった電柱である。彼は異変を感じ、ブレーキを踏んで速度を落としながら進んでいった。この2113S列車が走っていたのは、貨物列車がはみ出してしまった線路の、そのさらに隣の路線である。この時点では、衝突の危険はまだなかった。

 ところが、である。ほとんど間をおかずに、2113S列車の反対方向から久里浜発・東京行きの上り2000S列車(これも12両編成)が走行してきた。

 本来ならば、この2つの列車は、上りと下りの並んだ線路でなんの問題もなくすれ違うはずだった。ところが今、上り線のほうには貨物列車が転がっている。しかも2000S列車の運転士はどうやら貨物列車の事故には気付かなかったか、あるいは気付いていても遅かったらしく、時速90~92km/hという速度で突っ込んできたのだった。

 結果、2000S列車は、例の3両の貨物車両と衝突。

 この衝突の勢いで、2000S列車の先頭車両は横にはじき飛ばされる形になった。そして、隣の下り線を走っていた2113S列車に横から突っ込んでしまったのだ。

 ここからは、物理現象の説明である。

 まず2113S列車の4両目の側面に、斜め横方向から2000S列車の先頭車両が突っ込んだ。

 2000S列車はスピードが出ていたし、後続車両からも押される形になったので簡単には止まらない。あっという間に2113S列車の4両目を破壊し、続けて5両目車両の壁や天井もえぐり取り、合計2両分の車両を蹂躙し尽くした。

 最終的には、2113S列車の5両目と、2000S列車の先頭車両がクロスする形で止まったようである。鶴見事故の写真といえば、このクロスした光景が有名だ。

 衝突の憂き目に遭ったこれらの車両は、原形をとどめないほど破壊された。当時の現場写真を見るとまるで爆発事故でも起きたかのようで、これが鉄道事故だと言われてもちょっとピンとこないかも知れない。

 ちなみに2000S列車の2両目以降は、幸いにして衝突には巻き込まれずに済んだ。衝突と脱線の勢いで先頭車両との連結が外れてしまい、後続の車両は少し進んだ先で脱線して停止したのだ。こちらにどのくらい死傷者がいたのか、あるいはいなかったのかは不明である。だが、死者と負傷者の大半が、木端微塵になった3つの車両に集中していたことは言うまでもない。

 すべては、最初の貨物列車の脱線からほんの2、3分の間の出来事だった。

 さっき登場した2113S列車の運転士や、発煙筒を焚いた貨物列車の運転士は無事だったようだ。だが2000S列車の運転士だけは、さすがに先頭車両から突っ込んでいっただけあって即死している。彼が、貨物車両に衝突する直前にブレーキを踏んだのかどうかは、ついに永遠の謎となった。

 ところで当時は、アメリカのテレビドラマ『ハワイアン・アイ』が放送されており、近所の住民は事故発生の時刻をはっきり覚えていたという。ドラマ鑑賞中に大音響と悲鳴が響き渡ったのだから、確かに嫌でも印象に残ったことだろう。

 そしてすぐに、救急や警察が駆けつけ、近所の住民も手助けに出てきた。現場は血みどろの地獄絵図。サイレンがひっきりなしに鳴り響く中、悪夢のような救助活動が行われたのだった。

 遺体の多くは、總持寺(なんて読むんだ?)という寺に運び込まれた。その縁でか、今でもこの寺には鶴見事故の161名の犠牲者氏名が刻まれた慰霊碑があるという。

 ついでに言えば、この寺にある慰霊碑は鶴見事故のものばかりではない。どうもそういう役回りの寺なのか、かの桜木町火災の慰霊碑も同じ敷地内にある。

 考えてみれば、どっちも横浜市なのである。戦後を代表する鉄道事故が2つも同じ町で起きているというのは、妙に因縁めいたものを感じる。

 ちなみに当時の横浜市というのは、現代の我々が思い描くような都市のイメージとは遥かにかけ離れた、ゴミゴミした町だった。横浜が今のように垢抜けたのはわりと最近のことで、当時はまだ首都圏に対する「周縁」でしかなかったのである。

 そして戦中から戦後にかけての鉄道事故を見ると、五本の指に入るような事例は必ずこの首都圏に対する「周縁」の地域で発生している。三河島八高線桜木町に鶴見事故……。気が向いた方は、これらの事故現場を地図でチェックしてみて欲しい。見事に首都圏をぐるりと囲んでいるのである。

 これがありのままの歴史の姿である。「周縁」は中心部よりも人の動きが大きく、されど鉄道車両は戦時中のボロいやつをそのまま使っていたりするので、ひとたび事故れば大惨事となるのだ。

 さて事故原因の話になるが、そもそも最初の貨物列車の脱線はなぜ起きたのだろう。それがなければこの大惨事は起きなかったのだから、原因究明の焦点は俄然そこに当てられた。

 事故後にさっそく調査が行われ、まず以下のことが判明した。どうやら、脱線した3両の貨物のうち、先頭車両の車輪が線路に乗り上げていたらしいのだ。

 線路に残った痕跡から、乗り上がりが発生したのは脱線の直前であることも分かった。この貨物車両はその状態でしばらく走っただ、ついに車輪が線路から外れたため、脱線して後続の車両もろとも吹っ飛んだのだ。

 こういうのを「せり上がり脱線」という。

 せり上がり脱線――。それは車輪のフランジ(車輪の内側にあるツバ)がレールの上に上がってしまうというという、名前そのまんまの現象である。まあ、わざわざ名称が与えられているぐらいだから全くあり得ない現象ではないのだが、しかし実はこのせり上がり脱線、国鉄でも年に1度くらいしか報告がないような極めて珍しいものらしい。

 ただ困ったことに、そもそもこの「せり上がり脱線」がなぜ起きるのかは誰も知らなかった。当時の国鉄の人たちも、「原因はいろいろ考えられるので今から調べます。てゆうか下り線の電車、スピード落とさないで突っ切ってればもっと犠牲者少なくて済んだんすけどね~」とか言い出す始末。もはやザ・他人事である。

 しかし他人事で済ませてもいられない。鶴見事故の前年には三河島事故があり、国鉄総裁の辞任ものの大惨事が連続して発生したことになるのだ。これはさすがにヤバイと感じたのか、国鉄は大々的な実験を行った。北海道の根室本線の旧線を使い、わざと車両を脱線させて事故原因を突き止めようとしたのである。いやあさすが金持ちはやることが違うね。

 で、その実験の果てに出た結論が「鶴見事故はたくさんの原因が重なって発生した競合脱線でした」というもの。

 ここでいうたくさんの原因とは、車両や線路の状態・積荷の重量・運転状況・過密ダイヤ等々である。これらの不運な要因がたまたまいちどきに重なってしまい、鶴見事故は起きたというのだ。

 読者の皆さんはどうお感じになるだろう? 筆者などは「原因不明って最初から言えよ」と思わず突っ込みたくなるところだ。

 とはいえ、北海道での脱線実験のすべてが単なるパフォーマンスに終わったわけでもない。この実験の際に採取されたデータのおかげで、国鉄の車両はさらに安全に改良されていった。具体的には護輪軌条の追加設置、塗油器の設置、二軸貨車のリンク改良、車輪踏面形状の改良などがなされたそうだが、ごめんなさい筆者には何がなんだか分からない。要するにアレだろう、それまでの国鉄の車両というのはそれだけ粗悪品だったということだ。

 ここまで読めば、冒頭で筆者が「鶴見事故は運が悪かった」と書いた理由ももうお分かりであろう。「たくさんの要因」が重なってたまたま脱線が起き、運転士の焚いた発煙筒がたまたま短時間で消え、そこへたまたま上り下りの両線から電車がやってきて、たまたま夜だったため運転士たちは状況の把握がうまくできず、そしてこの事故は起きたのである。

 鶴見事故が起きたのは誰のせいでもない。むしろこれは、鉄道事故というよりも自然災害に近いものだったのではないかと思う。だから、同時期に起きた三河島事故に比べるといまいち知名度が低いのだ。特定の誰かの失敗談でないからドラマ性に乏しく、自然災害に近いため個性もない――。それがこの鶴見事故なのである。

 余談だが、鶴見事故は、奇しくも日本史上最悪の炭鉱事故・三井三池炭鉱の炭塵爆発事故と同じ日に起きている。おかげでこの1963年11月9日のことは「魔の土曜日」とか「血塗られた土曜日」とか呼ばれたらしい。

 そして皆さんご存じの通り、11月9日というのは今では「119番の日」として定められている。これは1987年に消防庁が制定したもので、周知のごとく、この日から11月15日までの1週間は秋の全国火災予防運動が行われるのである。

 しかしこの「119番の日」は、鶴見事故や三井三池炭鉱事故とはなんの関係もない(笑)。119番ダイヤルが定められたのは戦前のことである。

 まあでも、せっかく覚えやすいのだから、読者諸賢には「11月9日は119番の日で魔の土曜日で血塗られた土曜日である」とぜひ覚えて頂きたいと思う。こうでもしないと、重大事故の記憶なんてすぐに風化してしまうものなのだから。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア
◇図説 鶴見事故
http://homepage3.nifty.com/kiha/SP/anzen-5.html

 

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北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上

 第1章 停止

 

   1・1972年11月6日

 

 1972年(昭和47年)11月6日、日付が変わったばかりの深夜のことである。

 青森行き急行501列車「きたぐに」は、敦賀駅を午前1時4分に出発した。定時を2分回っていたが、その程度ならば特に大きな問題はない。列車はぐんぐんスピードを上げ、時速60キロで進んでいく。

 11月5日は飛び石連休の最終日だった。上野動物園ではジャイアントパンダ・カンカンとランランの一般公開が開始されるなどしており、夜行列車の座席には、連休を楽しんだ帰省客が多く乗っていた。

 午後11時には、前から11両目にあたる食堂車も営業を終了している。乗客たちはそれぞれ眠りにつき、きたぐには夜の静けさに包まれていった。

 列車はスピードを上げて進んでいく。ほどなく、その先に北陸トンネルが見えてきた。

 

   2・歴史

 

 北陸トンネル――。

 昭和30年代、福井県では交通整備が急ピッチで進められていた。いわゆる列島改造論が盛んに述べ立てられるようになった時期で、キャッチフレーズは「のびゆく福井」。そんな時代の空気の中で、5年の歳月をかけて掘られたのがこの北陸トンネルである。

 もともと福井では、重要な交通路である敦賀-今庄間の交通ルートをいかに確保するかが常に重大問題だった。両者の間には海抜762mの鉢伏山がそびえ立ち、さらにその中に屹立する木の芽峠は、古来より人々の交通を妨げてきたのである。

 明治29年には、「北陸トンネル」と呼ばれるトンネルが一度は掘られ、開通している。しかしこれは鉢伏山の最難所を迂回する形を取っており、勾配がきつく決して良い道ではなかった。

 それでも、開通当初は「無いよりまし」だったのだろう。だが高度成長期に入ると、それも時代にそぐわないということで廃線が決定。そのかわりに、最難所を一気に貫通するトンネルが掘られることになったのだった。

 さらに言えば、1967年(昭和42年)には日本原子力発電所敦賀1号機と美浜1号機の建設も始まっている。福井県はまさにこの時期、「改造」の機運に湧いていたのである。

 新・北陸トンネルは、こうして昭和33年から5年の歳月をかけて掘られた。完成したのは昭和37年6月10日のことだった。

 開通の日、トンネル周辺ではセレモニーが行われ、福井県民は日の丸の旗をふってこの日を祝った。トンネル開通の喜びを表現した「イッチョライ節」もスピーカーで流されたという。イッチョライとは一張羅の意味で、「一番良いもの」を指す。

 新・北陸トンネルは全長13.87キロメートルに及ぶ長大なもので、当時としても日本で第2位、世界で第6位の長さを誇るものだった。つまりこの頃、日本には世界級の長さのトンネルが2つもあったのである。日本がいかに山の多い国土であるかが、このことからもよく分かる。

 この新・北陸トンネルこそが、今回の惨劇の舞台である。少し表記が混乱したが、以下では「北陸トンネル」で統一して書くことにしよう。

 そして長さということでいえば、トンネルに進入していった急行列車「きたぐに」もなかなかのものだった。15両編成の列車には寝台車、グリーン車、食堂車が連結されており、一番後ろの15・16号車では郵便や小荷物の輸送も扱っている。さらにこの日の乗客は761名でほぼ満席と、ちょっとした宿泊施設が線路を走っているような状態だった。

 

   3・トンネル進入

 

 きたぐにがトンネルへ進入していった時、乗員はどのような配置だったのだろうか。以下で簡単に記しておこう。

 まず、運転室には作田勝次指導機関士、辻邦義機関士、尾山孝熙機関助士の3人がいた。

 また15両の各車両には、以下の乗員がバラバラに乗り込んでいた。石川進専務車掌、広瀬芳雄車掌ら4人のヒラ車掌、そして鉄道公安員が2人である。

 さらに最後尾の荷物車には3人の荷物掛がおり、郵便車には喜多寅正係長を始めとする郵便関係の乗員9人がいた。

 そんなきたぐにに異変が生じたのは、トンネルのほぼ真ん中に差しかかった午前1時10分頃である。運転席の無線が鳴り、緊急打電が機関士に届いたのだ。車掌からだった。

「501列車、停まれ。火事だ!」

 これに応じ、機関士は列車を停止する措置を取った。

 きたぐにの、長い長い夜の始まりだった。

 

 第2章 通報と救援

 

   1・国鉄と消防

 

 午前1時30分、敦賀駅に一本の電話がかかってきた。それは北陸トンネル内の非常電話からだった。

「なんだ? なんでこんな時刻にトンネルから電話が来るんだ」

 敦賀駅の職員は、訝しく思ったに違いない。だが、受話器から聞こえてきた知らせは驚くべきものだった。20分ほど前に北陸トンネルの中で火災が発生したというのだ。電話口の向こうの国鉄職員はこう告げた。

「火元は食堂車だ! 今はトンネルで緊急停止して、乗員で消火にあたってる」

 なんだとマジですか。知らせを受けた国鉄はたちまち色を失った。そしてさらに、トンネルの反対側にある今庄駅にも同じような通報が入るに至り、1時41分には災害対策本部が設置された。

 すると1時45分には、またしてもトンネル内から連絡があった。おっ、もしかして「消火完了」の知らせかな? 受話器を取った国鉄職員はかすかな期待を抱いたかも知れないが、耳に飛び込んできたのは、さっきよりも一層切羽詰まった叫び声であった。

「火が消えない! すぐに救援列車をよこしてくれ。今、トンネル内では火災車両からの延焼を防ぐために、食堂車と客車を切り離しているところだ!」

 おいおい、消火完了どころか悪化してるみたいだぞ。これはもう、国鉄だけで処理するのは無理だ。消防を呼ぶしかない!

 というわけで、敦賀美方消防組合に連絡が入ったのが午前1時51分のこと。しかしその通報の内容は、まことに要領を得ないものだった。

国鉄「あのー、トンネルで火事が起きたんすけど」
消防「なんだって! 燃えているのは客車ですか、貨物車両のほうですか」
国鉄「客車だけど、詳しいことは分かりません」
消防「燃えているんですよね?」
国鉄「分かりません」
消防「乗客は?」
国鉄「分かりません。もういいでしょう、ガチャン」

 なんだか、昔テレビ特捜部で紹介していた海外番組を思い出すやり取りである。ご存じであろうか、意味もなく素っ裸のお姉さんがニュースを読み上げるというもので、その台詞がケッサクなのだ。「今日、火事がありました。原因は、不明です」。

 話を戻そう。第一報を聞かされた時、消防隊員が真っ先に思ったのは「恐れていたことが現実になった」ということだった。実は消防は、北陸トンネルではそのうち大火災が発生するのではないかとヒヤヒヤしていたのだ。

 北陸トンネルは当時の科学技術の粋を集結させた電気式トンネルで、そんな最新式の建造物で火災など起きるわけがない――と国鉄は豪語していた。しかしこのトンネル、見る者が見れば、ひとたび火災が起きると大惨事に発展しかねないとんでもないブツなのは明らかだった。なにしろ長大なくせに消火設備も排煙装置もまったく存在していなかったのだ。よって、それまでも消防は再三警告していたのだが、それに対し国鉄は完全に黙殺を決め込んでいたのである。今回、通報を受けた消防にしてみれば「いわんこっちゃない」といったところだったろう。

 とにかく、出動せねばならない。消防設備の一切ない長大トンネルでの火災では、未曾有の大惨事に発展する可能性だってある。もはや事態は裸のお姉さんのニュース番組どころか、まるきりレスキュー911である。隊員たちは第1・第2分隊のポンプ車なども一緒に繰り出して、さっそく現場に向かった。

 この時、一人の隊員が関係機関への情報伝達掛として留守番を命じられている。それで彼はさっそく情報収集のため国鉄の各関係機関に連絡を取ったのだが、この時のやり取りもまた大変に面白おかしいものだった。

消防「もしもし。列車は燃えているんですか? 乗客はどうしてますか」
国鉄「トンネル内の様子は分かりません」
消防「消防隊員が中に入らないといけませんね?」
国鉄「いえ中に入るには許可がいります」
消防「そういう問題じゃないでしょ」
国鉄「でもまあ、トンネル内で停車してるってことは、別に燃えてはいないのかも」
消防「えっそうなんですか?」
国鉄「いえ分かりませんけど」
消防「(イライラ)消防隊は、すでにトンネルの敦賀口に出動しています。国鉄も責任者を派遣して下さい」
国鉄「でも今ここに責任者はいないんで……」

 もはや漫才である。

 この、清々しいほどの連携のなさが、後の救助活動にも大きく影響してくるのである。

 

   2・立山3号

 

 さて、ここで場面は変わる。

 前段まではトンネルの敦賀駅側の初動について記したわけだが、今度はトンネルを挟んで反対側の動向を記すことにしよう。こちらの最寄り駅は今庄駅である。「今庄側」といった形で記述させて頂く。

 きたぐにが緊急停止してまだ間もない、午前1時30分から40分頃のことである。今庄駅から北陸トンネルに向かって走行していた列車があった。

 その列車の名は、上り急行列車「立山3号」。

 これが時速50キロでトンネルに進入していったのである。だが、中に入った直後に乗員が異常に気がついた。信号機が赤になっていたのだ。

「おかしいな、なんでこんなところで赤に?」

 いつもならここは青である。奇妙なことだった。

 とりあえず列車を停止させて、立山3号の運転士はしばらく待ってみた。トンネルは静かだったという。声もなく、逃げてくる者もなく、煙もない。この時点ではまだ、外からトンネル内の様子を窺い知ることはできなかった。

 さてしかし、立山3号の乗員にはそんな事情は知る由もない。それでついに痺れを切らして敦賀駅に連絡を取ってみたところ、たまたま傍受した電波の内容に彼らは驚愕した。トンネル内からの悲痛な叫びが耳に飛び込んできたのだ。

「北陸トンネル内で火事です。早く救援列車を――!」

 きたぐにの乗員が救援を求めていたのだ。

 ちょうど、敦賀・今庄の両駅に対して第一報がもたらされたタイミングだったのである。立山3号はそれを傍受したのだ。

 こいつは大変だ、放っておけるわけがない! 立山3号はそこに留まることにした(これが独自の判断だったのか、それとも駅と連絡を取りながらだったのかは不明)。

 電波の傍受によって、トンネル内の状況は大まかに把握できた。現在、きたぐにはトンネル内で消火作業と車両の切り離しを行っているという。なるほど、それはまさにマニュアル通りの正確な対応だった。

 また、信号を赤に変えたのもきたぐにの乗員に違いなかった。別の列車がトンネル内に進入しないように、軌道短絡器で線路の電流をいじったのである。この緊急停止の措置も、事故発生時の対応として実に正確なものだった。

 

(※ちなみに気付かれた方もおられると思うが、この列車停止の措置を取らなかったために大惨事となったのが土浦事故三河島事故である)

 

 しかし、である。待てど暮らせど、トンネルからは誰も出てこない。乗客乗員は無事なのだろうか? 中の様子は一体どうなっているのだろう――?

 立山3号の乗員たちは、さぞやきもきしていたことだろう。考えてみれば立山3号にも乗客はいたのだから、状況が分からず文句のひとつやふたつ言われたかも知れない。だがとにかく立山3号はじっと待った。

 再びトンネル内からの電波が傍受されたのは、赤信号で停められてから20分が経った午前1時55分のことである。しかしその内容を聞いた乗員たちは、たちまち背筋を凍らせた。それは、きたぐにが最悪の状況に陥ったことを告げるものだった。

「停電だ、停電してしまった。これじゃ列車が動かせない! 電気を送ってくれ!」

 よりによって停電の発生である。これでは、せっかく車両の連結を切り離しても、電気が通っていないのだから動かしようがない。きたぐには完全にトンネル内で立ち往生したのだった。

 そこで電波が途切れた。トンネル内から必死に送電を訴えていた声が聞こえなくなっていく――。

 まずいぞまずいぞ、何かいい手はないか! 立山3号の乗員たちは動揺したことだろう。だが午前2時1分、ようやく動きがあった。それまで赤だった信号が、なぜか突如として青に変わったのだ。

 あれ? なんだこれ。進んでいいのか?

 立山3号はライトでトンネル内を照らしつつ、徐行で前進してみた。すると5キロほど進んだ地点で、線路上に人がいるのを発見。慌てて停車した。

「きたぐにからの避難者だ。こっちに引き上げろ!」

 時刻は午前2時3分。それはまさしくきたぐにの乗客だった。それも1人や2人ではなく、トンネルの奥から続々とやってくる。煙に追われながら、命からがら脱出してきた人々だった。

 赤信号がひとりでに青信号に変わったのは、この乗客たちが原因だろうと言われている。彼らのうちの誰かが、線路上の軌道短絡器を蹴っ飛ばしたのだ。

 記録によると、ここで立山3号によって救助されたのは225名。立山3号の乗員乗客で力を合わせ、この被害者たちを車内へ助け上げたのである。彼らは皆、煤と汗で顔を真っ黒にしており、そしてなにより水を求めていたという。

 ところでちょっと付け加えておくと、資料によってはここでの救助者数が「5、6人」となっているのもある。だが、これは明らかに何かの間違いであろう。225人のうち5人は死亡したという記録があるのでその数字を取り違えたか、あるいは立山3号が最初に見つけた数名を全てだと思い込んだと考えられる。

 しかし立山3号も、長時間の救助活動はできなかった。いよいよ煙が押し寄せてきたのだ。車両が完全に煙にまかれれば、いくら車内とはいっても危険である。よって225名を脱出した時点で列車は逆走し、トンネルから脱出した。

 トンネル内には、もっと負傷者がいたのかも知れない。だが彼らは置き去りにせざるを得ない状況だった。

 立山3号が幸運だったのは――すなわち、これによって救出された225名が幸運だったのは――、列車が停止した位置では停電が起きておらず、車両を通常通りに動かすことができた点であろう。おそらく、立山3号がある程度の段階でトンネルから脱出したのは、もたもたしているうちに火災と停電がこちらにまで及んでは元も子もない、という判断もあったのではないか。

 こうして、たまたま偶然現場に行き当たった立山3号は、ある意味命懸けともいえる状況で、ギリギリまで人命救助を行ったのだった。

 負傷者たちを乗せたこの車両は、そのままバック運転で武生という駅まで行き、乗客と負傷者を下ろした。そしてさらに、午前2時40分過ぎには今庄駅にも戻っている。

 これだけでも大した救出劇である。しかし、トンネル内に残ったきたぐにの受難は、まだ始まったばかりだった。

 

   3・来ない国鉄

 

 場面は、再びトンネルの敦賀側に戻る。

 午前2時。この時刻には、すでに敦賀美方消防の隊員たちがトンネルの付近に集結していた。出張所の隊員や非番の者もかき集められ、総勢80名が出動している。

 この段階では、トンネルの敦賀口から脱出してくる乗客などは皆無だった。敦賀側では「本当に火事なんて起きてんのか?」と問いたくなるような静けさだったのだ。

 しかしこの時、今庄口では立山3号による救助活動が始まっていた。火事なんて起きてんのかどころか、すでに一刻を争う状況だったのだ。

 ところが、である。どうしたことか、この敦賀口には国鉄職員の姿がまったくなかった。

「なにやってんだ国鉄!」

 消防が怒るのも当然である。消防長は、すぐにモーターカーを出動させて救助活動にあたるよう国鉄に要請した。ところが国鉄の回答はこうだった。

「あー無理無理。うち(敦賀駅)じゃ臨時に列車を走らせる権限がないんですよ。金沢鉄道管理局の許可が必要なもんで」

 これでは、通報を受けて駆けつけた消防隊員こそいい面の皮である。なんとかトンネル内に進入して、消防は消防で救助を開始しなければならない――。

 午前2時25分には、6人の保線掛がトンネル内への進入を試みている。しかし少し進んだところで猛煙に阻まれており断念。まともに中に入るのは不可能な状況だった。

 では、国鉄をあてにせず、なおかつ安全を確保できる救助方法はないものだろうか。そこで思いついたのが、「斜坑から進入する」という方法だった。

 

   4・斜坑からの救助活動

 

 さてこの段では、「斜坑」を利用した救助活動について説明させて頂こう。

 ここではさしあたって、本稿の参考資料のひとつである『なぜ、人のために命を賭けるのか―消防士の決断―』(中澤昭著・近代消防社平成16年刊)という書籍の内容に沿って記述していくことにする。

 ここで、わざわざ「この書籍の内容に沿って記述する」と前置きをするのには理由があるのだが、それは後述する。

 斜坑というのは、簡単にいえばトンネルに対するトンネルである。これを通って、トンネルに「上から」進入することができるのだ。

 トンネル工事の際には、土砂や機材を搬送するために別方向からそれ専用の穴が掘られる。これを斜坑とか竪抗とかいう。そして工事が終わった後も、修理や点検の際に使えるため、これらの穴は残される。北陸トンネルにはこれが3本あった。

「よし、それだ。そこから入って救助にあたるぞ」

 というわけで、消防隊は進入の準備を始めた。

 斜坑から救出活動を行うことについて、消防が独自に思いついたとは考えにくいから、おそらく保線員あたりが助言をしたのだろう。

 さて字面の通り、「斜坑」はトンネルに対して斜めに掘られている。「竪坑」のほうは垂直だ。となると、人間の足で進入するには斜坑のほうがいいことになる。消防は2本ある斜坑からの進入を決断した。

 まず消防長が、ようやく到着した国鉄職員4人と組み、計5人で葉原斜坑という穴から入る。それから、もう一方の樫曲斜坑からは、消防分隊長4人が入っていくのだ。

 進入する際、これらの斜坑からは、もう相当な量の煙が立ち上っていたという。

 さて、ここからは、主に葉原斜坑の話が中心になる。

 消防長たちが、長さ400メートルの葉原斜坑を抜けてトンネル内に下り立つと、そこは敦賀口から約4・5キロメートルの地点だった。

 一行は、まず今庄側から押し寄せてくる煙に襲われた。それでもめげずに100メートルほど進んでいくと、そこで4両の車両が停車しているのに出くわした。

 これは「きたぐに」後部の12~15両目にあたる車両である。内訳は普通車、グリーン車、郵便車、荷物車だった。この4両は火災直後に延焼を防ぐために連結を切り離され、そのままになっていたのだった。つまり切り離しがなされた時点では、11両目までが燃えていたのである。

 この、置き去り状態になっていた4両の中では、「100人以上」の乗客が閉じ込められて救助を待っていたという。彼らがただちに助け出されたのは言うまでもない。

 だがしかし、トンネルのもっと奥では、さらに残りの11両が煙に捲かれて立ち往生しているはずだ。その場所までは、距離にして200メートル。数字としては大したことはないが、トンネル内の煙は凄まじい。近づくのはちょっと無理だった。

 さらにその時、いやなタイミングで風向きが変わった。それまで今庄側に吹き抜けていた煙が、今度はこちらに押し寄せてきたのだ。これでは、現時点ではそれ以上の救助は諦めざるを得ない。

 とにかく、彼らは後部4両に閉じ込められていた乗員乗客を助け出した。そして、自分たちも同行しながら敦賀口へ避難させたのだった。

 救援列車とばったり出くわしたのは、その途中でのことである。この列車は国鉄がようやく出動させたもので、敦賀口から入ってきたところだったのだ。

 こうして、救助された人々と消防隊は、全員がそれに乗り込んでトンネルを脱出した――。

 と、以上が『なぜ、人のために命を賭けるのか』に書かれている救助活動の内容である。

 だがここまで記述しておいてなんだが、実はこれには矛盾や疑問点が多く、鵜呑みにできそうにない部分がいくつかあるのだ。

 結果だけを見れば、大きな矛盾はない。葉原斜坑から進入した消防隊がいたこと、後部4両に閉じ込められていた人々が救助されたこと、国鉄の救援列車で最終的に脱出したことなどは事実である。

 だが、その経緯の説明には問題があるのだ。先に結論を言うと、この『なぜ、人のために命を賭けるのか』という本は消防隊の活躍を強調しようするあまり、ところどころに嘘や誇張を交えているふしがある。そのため、国鉄の果たした役割などが極度に小さく描かれているのである。

 次の項目では、各種資料の内容を突き合わせて、この時実際にはどのような救助活動が行われたのかを検討していく。そこでは、さしあたりこの『なぜ、人のために命を賭けるのか』の内容を叩き台としていくことになるだろう。

 だが先に書いた通り、結果的に大きな間違いはないので、人によってはこうした検討作業は退屈なものに思われるかも知れない。事故の大まかな経過だけを知りたいという方は、次の項目は飛ばして頂いても結構である。

 

   5・「斜坑」の問題の検討

 

 そもそも、事故当時「斜坑」が果たした役割についても、資料によってまちまちなのだ。

 例えば、NHKが作成した『プロジェクトX』ではこの事故が取り上げられているが(2004年6月15日放送「第147回「列車炎上 救出せよ北陸トンネル火災」)、この番組内では、消防隊が進入する前に斜坑から自力で脱出してきた乗客たちがいた、とされている。

 この『プロジェクトX』も、筆者と同様に『なぜ、人のために命を賭けるのか―消防士の決断―』を参考文献としている。しかしこの参考文献のほうを見てみると、前述の斜坑からの脱出者のことは一切書かれていない。

 では他の文献はどうだろう。たとえば事故鉄道マニアのバイブルであり、当研究室でも参考文献として大いにお世話になっている『事故の鉄道史』では、斜坑からの救助者はいなかったのではないかと述べており、よってここからの救助活動は行われなかったのだ――と結論を下している。事故の査察報告書にはその記述が見受けられなかったためだ。

 さらに訳が分からないのは、当時の国鉄総裁・磯崎叡の国会答弁(1972年11月10日)の内容である。この人は、斜坑は避難路としては全く役に立たなかったと述べている。

 その上、である。これは『事故の鉄道史』からの孫引きになるのだが、11月6日の毎日新聞の夕刊では、「誰かが出口を閉じてしまったことで、斜坑は脱出口としては使えなくなった」という旨の報告がなされているという。

 いやはや、ひどい混乱ぶりである。

 だが、これらの資料を読み込んでいくと、当時実際になにがあったのかを読み解くのはそう難しくない。以下では、筆者の「読み解き」を述べていこうと思う。

 まず大前提として、斜坑からの救助活動そのものは行われたのだと思う。消防隊員や国鉄職員がそこから進入し、トンネルに取り残された人々を助けに行ったのはおそらく本当なのだ。

 まず『事故の鉄道史』では、この点からして疑わしいと書かれていた。だがそれは、事故の査察報告書のある部分では「斜坑からの救助者がいた」と書かれており、別の部分ではそれが書かれていないから、だからそういう結論が下されただけのことだ。

 しかしこれを「救助者」ではなく、自力で避難してきた「避難者」と考えればどうか。つまり当時、自力で斜坑から避難してきた人は確かにいたのだが、消防隊や国鉄職員によって斜坑から「救助」された人はいなかったのだ。

 つまり『事故の鉄道史』が参考にしている資料では、斜坑から自力で避難したものを「救助者」には含めていないのである。救助活動自体は行われたのだ。

 では、救助隊が進入したあと、トンネル内では何が起きていたのだろう。

 ここで我々が突き当たるのは、『プロジェクトX』と『なぜ、人のために命を賭けるのか』の矛盾である。

 まず『プロジェクトX』だが、こちらでは、斜坑から入った救助隊が「すぐに」救援列車に行き当たったとされている。この救援列車は、きたぐにの後部4両からの救助活動をすでに終えていた。

 そこで消防隊が「トンネル内にもう乗客はいないのか?」と尋ねたところ、国鉄職員は「もういません」と答えたのだった。それで消防隊も安心して救援列車に乗ったのだが、これによって、トンネル内に多くの乗客が取り残される羽目になったのだ。

 では『なぜ、人のために命を賭けるのか』では、ここの所はどう書かれていたか。斜坑から進入した消防隊はさっそく人命救助にあたったが、煙がひどくて奥へは進めず、取り残された人がいるのを分かっていながら泣く泣く退散した――ということになっている。そして帰りに救援列車に出くわしたのだ。

 明らかに矛盾である。救助隊と救援列車の到着した順序が正反対なのだ。さあ、本当はどうだったのだろう。

 筆者の考えをズバッと書かせてもらうと、信憑性が高いのは『プロジェクトX』のほうだと思う。

 なぜなら――詳細は後述することになるが――ここで一度救助活動が行われたあと、しばらくしてから、トンネル内に取り残された乗客がまだいることが判明しているのだ。それで国鉄は真っ青になって、慌てて救援列車の第2弾を出動させているのである。この辺りの動向は他の資料でははっきり書かれていないが、どうもこれは本当らしい。『事故の鉄道史』でも、乗客がトンネル内に取り残されている、という通報が4時40分頃にあったとされている。

 また、敦賀側から進入した最初の救援列車が、救助を終えて敦賀駅に戻ったのは4時26分のことだった。しかし、次に敦賀側から救援列車が出たのが6時43分で、いくらなんでも遅すぎるのである。

 おそらく国鉄は、最初の救助活動だけで安心してしまったのだ。今庄側で立山3号が救助活動を行っていると聞き、もう自分たちはこれ以上の救助活動をしなくてもいい、と思い込んだのである。

 だから正しいのは『プロジェクトX』の方なのである。トンネルの奥にはまだ多くの人が取り残されていた。しかし勘違いした国鉄と、それを鵜呑みにしてしまった消防はのこのこ帰ってしまったのだ。

 先に書いた通り、『なぜ、人のために命を賭けるのか』はどうも信用できない文献なのである。どのくらい信用できないかというと、まあ読めばわかる。とにかく誤字脱字だらけでとても見られた文章ではなく、まともに校正されていないのがモロ分かりなのだ。ならば事実関係の照合だってまともになされてはいないだろう。

 当研究室で、この本を資料として採用したのは「ネタ」あるいは「悪い例」と考えて頂いて結構である(笑)

 さてそうなると残る疑問は、「斜坑は救助活動の役に立たなかった」という記述や証言は一体なぜ生じたのか? ということである。だがこれに対し回答するのは、ここまでの推理を踏まえればおそらくそう難しくはない。

 斜坑は、乗客自身による「避難」には使われた。しかし消防隊や国鉄による「救助」には使われなかったのである。この「使わなかった」が、素朴に「使えなかった」ことにいつの間にか変わってしまったのではないだろうか。

 それに、少し意地悪な想像になるが、「そもそも斜坑は使えなかった」ことにした方が、国鉄にとっても都合が良かったのではないだろうか。そうすれば、トンネル内に取り残された人がいるのに気付かずにそのまま立ち去ってしまったことへの非難も避けられる。そしてもちろん、斜坑の入り口を閉じてしまったことへの非難だって――。

 斜坑の問題については、以上である。

 実を言えば、筆者ははじめは全然違う結論を想像していた。斜坑が、葉原斜坑と樫曲斜坑の2本あったことは先述したが、例えば片方が救助に使えなかったりしたため、資料の記述に矛盾が生じたのではないかと考えたのだ。

 そう考えたのも故なきことではない。参考資料において、「斜坑」と書かれているのが葉原斜坑なのか樫曲斜坑なのか、はっきりしないことが多かったのだ。まあ大抵は葉原斜坑のことがメインに書かれているようなのだが。

 ここではとりあえず「葉原か樫曲か」という問題はおいておいて、上述の推理を一応の結論としておきたい。

 

   6・国鉄の動向

 

 ここまでは消防隊の救助活動を中心に書いてきた。では、通報を受けたあと、国鉄はどのように動いたのだろうか。時間的に少し前後するが、ここからは視点を変えて記述していくことにしよう。

「がんばれ国鉄」である。通報を受けた後、国鉄も決して手をこまねいていたわけではない。ありがちな縦割り体制の中でのもたつきはあったが、ちゃんと救援に向けて準備を進めていた。

 記録では、最初の救援列車が敦賀駅から出動したのは午前2時27分から43分の間となっている。モーターカーが客車4両を牽引する、立派な列車だった。

 1972年11月10日・国鉄総裁磯崎叡の答弁によると、救援列車の運転は2時27分から始まっている。またウィキペディアによると、救援用モーターカーの出動の許可が下りたのが2時半で実際に出動したのが2時42分。さらに『事故の鉄道史』と当時の国鉄運輸局長・鈴木宏の証言によると出動が2時37分。ウェブサイト「失敗百選」では2時43分である。嘘つきばっかりで、どれが嘘なのかすら分かりゃしない。

 2時30分の時点で、すでに最初の通報から1時間が経過していた。また立山3号も救助活動をひと段落させて退却するところで、さらに消防隊も痺れを切らして斜坑からの進入を決行している。敦賀側からの救援は、すっかり出遅れていた。

 ライトで煙と暗闇を切り裂きながら、国鉄戦隊ゴーゴーファイブは奥へ奥へと進んでいった。「待ってろよ♪(ゴーファイブ)生きてろよ♪(ゴーファイブ)」という感じである。もっとも救助隊は10人くらい乗り込んでいたそうだが……。

 途中、この救援列車は、命からがら逃げてきた乗客に出くわしている。

「あっ停まれ、人がいるぞ」

 10人ほどの乗客が、線路上を避難していたのだ。救援列車が助けようとすると、彼らは「自分たちはいいから早く奥へ」と見送ったという。

 このように、比較的早い段階で、自力で脱出した人も何人かいたようだ。先述の、斜坑から脱出してきた人たちもそうだし、また『プロジェクトX』では、消防が斜坑から入る直前、トンネルの敦賀口から徒歩で出てきた者が何人かいたとされている。

 救援列車はさらに進んでいった。

「おい停まれ、前になにか見えるぞ」

 途中で救援列車が見つけたのは、貨物列車だった。

 実は、きたぐにが火災を起こして立ち往生した後、敦賀口からトンネルに進入していった貨物列車があったのだ。これは、きたぐにの乗員による緊急停止の措置で停められたのだが、その後停電になってしまったせいで、きたぐにに続く形で立ち往生してしまったのだった。

 この貨物列車によって行く手を塞がれている以上、救援列車も先へ進むことはできない。国鉄の救助隊は、列車から下りて奥へ向かった。

 まず、この貨物列車の先にあったのが、例のきたぐにの後部4両である。救助隊が駆け付けた時、車内からは歓声があがったという。

「助けに来てくれたぞ!」

 中にいたのは、まず乗員は車掌が4人、鉄道公安員が2人、荷物掛が3人だった。では乗客の数はどうかというと、これは資料によって50人とか70人とか80人とか100人とか書いてあってどれもあてにならない。まあとにかくそんな感じの人数だったらしい(なげやり)。

 この4両に取り残された人々にとって、乗員が比較的多くいたのは幸運だった。乗員たちが機転を利かせて、煙が入って来ないように窓や扉、通気口を全て閉じるという措置を取っていたのだ。窓や扉はともかく、通気口までをも塞ぐというのは、国鉄職員ならではの機転だったことだろう。

 こうして第一救援列車は、この4両に乗っていた人々を全員助け出した。

 この時、救援列車に乗っていた国鉄職員たちは、さらに奥で停止しているはずの前部11両についてどう認識していたのだろう? 切り離された車両が煙地獄の中で立ち往生しているのは知っていたはずだし、そこでさらに取り残されている人たちがいることも分かっていたはずである。立山3号が今庄側から救助してくれていると楽観していたのだろうか? そうかも知れない。あるいは、それに加えて「煙がひどくてこれ以上先に進めない」ことを自分自身に対する言い訳にしてしまったのかも知れない。

 とにかく、この第一救援列車の救援部隊はその先へは進まなかった。そしてあろうことか、「こちら側からの救援はこれで終わった」と結論付けたのだった。

 彼らは敦賀駅への帰り道に、斜坑から進入した消防隊と出くわした。そこで「これにて一件落着」を告げたのは、前節で記した通りである。

 第一救援列車が敦賀駅に到着したのは、4時26分のことだった。

 なんだかやけに時間がかかっている気がするのだが、どうなのだろう。トンネルから敦賀駅まではそんなに距離があるのだろうか。だがまあ、この列車は、トンネル内で立ち往生していた例の貨物列車を牽引してきたというから、その連結のための作業で手こずったのかも知れない。とりあえずこの4時26分という時刻は、運輸局長の国会答弁でも『事故の鉄道史』でも一致しているので間違いないようだ。

 あるいは、負傷者たちを病院に搬送するのに時間がかかったのかも知れない。国鉄総裁の証言によると、3時半には国鉄のバス3台を動員し、トンネルの入り口に待機させて病院へピストン輸送を行ったという。だから、第一救援列車で救助された数十名はそれで運ばれていったのかも知れない。そして空になった救援列車が敦賀駅に到着したのが4時26分だった、とか……。

 まあそのへんは、想像である。

 とにかく、時刻は午前4時26分。敦賀駅に列車が帰着した時点で、救助活動はもう完了したはずだった。

 寝耳に水の通報が入ってきたのは、4時40分のことである。トンネル内の非常電話から男性が連絡してきたのだ。

「トンネル内にまだ取り残されている。早く救助に来てくれ!」

 というわけで真っ青になった国鉄は、慌ててもう1本の救援列車を出すことになった。

 ひどい話である。トンネル中央部では、乗員乗客が4時間弱もほったらかしにされていたのだ。火災の熱気と煙が充満する地獄の中で、である。

 この時には、トンネル周辺は騒然としていた。マスコミ各社も集まってきていたのだ。国鉄、消防、マスコミたちは、北陸トンネルの中へこぞって突入していった。

 

   7・今庄側からの救援活動

 

 ところで、今庄側の救助活動はどうなっていたのだろう? 立山3号による救援の後、どのような動きがあったのだろうか?

 これは結論を言うと「よく分からない」のである。お前本当にルポルタージュ書く気あんのかと言われそうだが、本当によく分からないのだから仕方ない。

 立山3号が偶然に救助活動を行い、今庄駅に戻ったのが2時40分(ウィキペディアによる。ただしこの「戻った」が、「戻っていった」のか「戻ってきた」のかは不明)。この後、今庄側からは確かに救援列車が出動している。しかしその発車時刻は4時10分と、かなり時間が空いている。

 本当にこれだけだったのだろうか? 他にも救援列車は出なかったのだろうか? だが実は、当時の新聞報道などをチェックしてみると、敦賀側から取材された内容が圧倒的に多いためはっきり分からないのである。今庄側の救援の動向について報じたものはほとんどないのだ。

 よって、ここは推測するしかない。

 まず、そもそも報道が敦賀側に偏っていた理由だが、これは単純にマスコミも「取材できなかった」からであろう。当時、トンネルの今庄側は煙の噴出口となっていた。

 当時のトンネル内の煙の様子を見ると、火災が起きて以降の数時間は、敦賀から今庄に向けて風が吹いていたのである。このことは他の資料にも書いてあり、よって敦賀側からの救援活動はスムーズに行われたのだ。だがそれは、逆に言えばトンネルの今庄側が煙の出口になっていたということだ。それで、救援や取材どころか進入自体ができなかったのではないか。

 またもうひとつ、考えられることがある。実際にはかなりの本数の救援列車が動いていたのだが、混乱のためうやむやになってしまったのではないか、ということだ。

 資料を読んでいくと、多くの場合、救援列車は全部で4本出動したと書かれている。当時の新聞を確認しても、確かに敦賀から3回と今庄から1回ずつ救援列車が出たとあるのだが、実はひとつだけ、これと矛盾する内容の資料があるのだ。

 それは、当時の国鉄運輸局長の国会答弁である。この答弁において、救援列車は敦賀側と今庄側からそれぞれ5本ずつ出動しており、合計10本動いたと述べられているのだ。一体どういうことなのだろう?

 そこで、こんな想像ができる。出動したものの、猛煙のため救助活動に至らなかった「暗数」があったのではないか。あるいは、出動した4本の救援列車が計10回往復して、トンネル内の人々をどんどん運び出したのかも知れない。

 この仮説については、傍証がないわけでもない。最初、筆者もてっきり今庄側から出動した救援列車は1本だけだと思っていた。それでその出動時刻を調べてみたところ、国鉄運輸局長は4時10分と述べており、新聞では5時半とされており、『事故の鉄道史』では5時と書かれていたのだ。ここまで無茶苦茶だと、救援列車は1本ではなく複数回出たと考えたほうが妥当ではないだろうか。それらは煙のためトンネルの途中までしか入れなかったか、もしくはトンネル進入そのものを諦めざるを得なかったのかも知れない。

 以上を踏まえて、今庄側からの救援の動向について改めて書かせて頂こう。記録によると、まず先述の通り4時10分には、ディーゼル機関車と貨車10両で編成された救援列車が今庄駅を出発している。これは160人の負傷者を収容し、7時26分に戻ってきた。

 この列車の救援活動も、簡単ではなかったようだ。トンネル内の猛煙のため事故現場には到達できず、事故車両の手前で停止した。そして防毒マスクをつけた50~60人の作業部隊が線路に降り立ち、救助を行ったという。

 また別の資料では、4時45分に10人の機動隊がトンネルに入っていったとある。もちろん防毒マスク付きだ。

 さらに5時半にも別の救援列車がトンネルに入っていった。これには機動隊員15人が乗り込んでいたが、トンネル進入後5キロほど進んだ地点で猛煙のため退却している。その途中、徒歩で避難していた負傷者を何人か救助し、7時にはトンネルを出た。

 ……5時半に出発して7時にトンネル脱出って、先に入っていった救援列車と完全にブッキングしてるんだけどね(笑)まあそれは見なかったことにしよう。

 そして午前8時10分以降になると、いよいよ煙の噴出は激しくなり、これ以降およそ2時間の間、救助活動は完全に不可能となった。午前10時には、今庄口から15メートルの地点で一酸化炭素の濃度が400PPMにも及んだというから、これはちょっとした毒ガス攻撃である。

 最終的な結果として、トンネルの今庄側からは160名が救助された。しかし、このうち9名が亡くなったという。

 

   8・救援列車ふたたび

 

 さあ、いよいよ敦賀側から2度目の救援列車の出動である。

 なんてこった、中心部に取り残された人たちがいるのをほったらかしにしてきちまった――! この時の国鉄と消防の焦りは相当なものだったろう。そうでなきゃおかしい。長く暗く寒いトンネル内で、人々はもう3時間以上も置き去りにされていた。

 だが、気付いたからハイ出動、といくわけにもいかなかった。何故なら、トンネル内の一定の場所から先は煙地獄であることがすでに分かっている。そこでは、いかな訓練を積んだ消防士でも命が危うい。

 そこで、国鉄が必死こいて第2救援列車の準備を整えている間に、消防隊は特別救助隊の編成と、それによるトンネルへの突入を決断した。本部勤務を命じた留守番隊員までをも呼びつけて、選りすぐりの5人の精鋭部隊に命令を下したのだ。

 選ばれた隊員のほとんどは、独身の男性だったという。この救助活動で万が一のことがあっても悲しむ者ができるだけ少ないように――という哀しい配慮だった。

 そうこうしている間に、敦賀駅からの第二救援列車がトンネル付近に到着した。消防隊はそれに乗り込む。

 時刻は午前6時43分。樽弓清一敦賀駅運輸長の指揮のもと、保線区員、敦賀消防署員、鉄道診療所員、看護婦ら約40人を乗せ、第2救援列車はトンネル内へ突入していった(『なぜ、人のために~』では6時39分とある)。もう火災発生から5時間が経過していた。

 それにしても考えてみると、救助する側も本当に命がけである。

 この第2救援列車は、結果的には救助活動において一番大きな働きをした。だがそれは、あくまでも煙が今庄側にうまく吹き抜けてくれていたからである。救助隊員が列車から下りて救助を行っている間に風向きが変われば、大規模な二次災害を引き起こす可能性だってあった。――ミイラ取りがミイラ、という奴だ。

 そんな状況の中、救援列車は何度も一時停止を繰り返しつつ、慎重にトンネルの奥へ奥へと進んでいった。

 そして責任者である運輸長は、ある地点から消防隊の下車とさらに先への進入を指示した。いよいよである。

 下車した隊員たちは、予備の酸素ボンベを手にし、呼吸器を装着しながら奥へ進んでいく。しかしこれらの器具は負傷者のために使う必要があり、隊員たちは無駄遣いもできない。

「いいか、我々はこの呼吸器を使ってはいかん。そして絶対に単独行動も取るな。生きて帰るぞ!」

 救助隊が先行して走り、後ろから救援列車が徐行していく。

 やがて、列車のライトがきたぐにの後部4両の影を捉えた。それはさっき、第一救援列車によって救助がなされた車両である。空っぽだ。

 この先である。この先に、取り残された人たちがいる――。

 きたぐにの後部車両4両に阻まれる形になったため、救援列車はそこから先へは進めない。あとは人海戦術である。

 さらに数百メートル先の猛煙の中へ、消防隊員たちは突入していく。そこはすでに火災の中心であり、敦賀口から5.1キロの地点だった。
 

(「北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)下 へ続く)

 

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北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下

 第3章 火災

 

   1・発見~停電まで

 

 さて、ここからは時間を数時間巻き戻して、火災発生直後のきたぐにの様子を描いていくことにしよう。最初の緊急停止のあと、トンネル内では何が起きていたのだろう?

 まず、列車がトンネルに侵入する直前の1時5分には、乗員の広瀬車掌が見回りを行っている。その際、火元となる食堂車の喫煙室も覗いているが、この時はまだ火の気もなかった。

 そのほんの少し後、火災を最初に発見したのは、当時「きたぐに」に乗車していた3人の学生だったという。彼らは、食堂車である11両目と、12両目との間のデッキで立ち話をしていた。

「おい、なんかきな臭くないか?」 
 匂いに気付いたのは、おそらく列車がトンネルに入ったことで換気が悪くなったためだろう。彼らはクンクン、スンスンと匂いをたどっていった。

 時刻は午前1時7分。学生諸君が11両目の食堂車の喫煙室を覗いてみると、そこは既に白煙が充満していた。しかもシートの下から火炎が吹き出している――。

「大変だ、車掌さん車掌さん!」

 1時8分。1両目の車掌へ火災発生が知らされた。

 この第一報を受けたのは石川専務車掌で、この直前に車内の見回りを終えたところだった。

 彼は通報を受けると、急いで消火器2本を手に取り、さっそく火元へ向かった。

 そこでは学生と、食堂車で就寝していたコックたちが、力を合わせて消火作業にあたっていた。

 当時、この食堂車にはコックが3人とウエイトレス5人が乗車していたのだが、火災発覚時には寝ていたのだった。食堂車というものの構造を筆者はよく知らないのだが、もし発見が遅れていたら彼らも命が危なかったのではないかと思う。

 さて炎は消えるどころか、ますますその勢いを増していった。これはまずいぞ、緊急停止だ!

「501列車、止まれ! 火事だ!」

 午前1時11分。石川専務車掌は車掌室に引き返し、非常弁を引くとそう指示を出した。

 これにより、運転室の辻機関士が列車を緊急停止。3分ほどの時間をかけて、きたぐにはトンネル内のほぼ真ん中でストップした。

 「異常が発生した場合、なにがなんでもとりあえず停車すべし」――。このルールは、当時の鉄道関係者にとっては絶対的なものであった。

 石川専務車掌は食堂車に戻り、他の乗務員や、さらに一緒に乗っていた鉄道公安員と力を合わせて消火作業を続行。ここには、機関室にいた辻機関士と尾山機関助士も駆けつけた。

 しかし状況は一向に好転しない。火が消えないのだ。後述するがこの食堂車はとんでもなく古く、燃えやすいことこの上ない代物だった。

 列車は停めたものの火は消えない。こういう場合にどうすべきかは、規程でこう定められていた。

「消火器等での消火が不可能と判断した時は、ほかの車両への延焼を防止し、被害を最小限にとどめるため、火災車両の前後を切り離すこと」。なるほど理に適っている。

 午前1時25分。運転室に戻った尾山機関助士から報告を受けた作田指導機関士は、ただちに食堂車の切り離しを命じた。なんとしても火災の延焼を防ぐのだ――。指令を受けた乗務員たちは、さっそく周囲の車両の切り離しに取りかかる。

 作田指導機関士は、列車の10メートルほど前方にあった非常電話に取りつくと、トンネルの両側にある敦賀駅と今庄駅へ、それぞれ事故を報告した。

 また発煙筒が焚かれ、後続の貨物列車と、反対から来る上り急行・立山3号に事故発生を通知(立山3号は1時23分に今庄駅を通過した)。さらに線路の信号を赤にする軌道短絡器もセットされ、衝突回避の措置が取られた。午前1時30分のことだった。

 さあ、車両の切り離しである。

 と言っても、具体的に何をどうするのか、筆者はよく知らない。それでも当時の状況を考えれば、それがかなり難航したであろうことは容易に想像がつく。なにせそこは暗闇のトンネルで、しかも上り勾配の傾斜地だった。乗務員たちも、連結器の切り離し作業などほとんど未経験だったのである。

 この時、照明は切られており、北陸トンネル内は暗闇に包まれていた。これについては、予算削減のため国鉄が常時点灯させるのを渋ったからだとか、逆に国鉄の労組が「運転の妨げになるからつけるな」と言ったからだとか、後になって色々言われている。

 しかも、きたぐにの乗員は照明のスイッチの在りかを知らされていなかった。最悪である。それでも彼らは、規定通りの作業を的確かつ迅速に進めていった。

 午前1時38分。連結器が、ようやくひとつはずされた。12両目以降の4両が切り離されたのだ。

 さっそく作田指導機関士は運転室へ戻り、1~11両目を5メートルほど前進させた。11両目の食堂車の火災は相変わらずだが、とにかくこれで後部車両への延焼は避けられる。さっそく敦賀駅に状況の報告がなされた。1時45分のことだ。

「後部車両の切り離しが完了した。これからさらに前部を切り離し、今庄へ出発する」

 同時に、救援の要請もなされた。

 乗務員たちは、次の作業に取りかかった。次は11両目(火元の食堂車)と10両目の間を切り離されなければいけない。

 ところが、このあたりから雲行きが怪しくなっていく。火災の煙がトンネル内に充満し始めたのだ。

 ゲホゲホゴホゴホ、うわーっこいつはたまらん! というわけで、乗務員たちは11両目と10両目の切り離しを断念。仕方なく、そのひとつ手前の10両目と9両目の間を切り離すことにした。

 また同時に、1~11両目をさらに82メートルほど移動させた。先に切り離した12両目以降に延焼しないよう、念を入れての措置だった。

 この時、1~11両目に残っていた乗務員は、機関士の作田、辻、尾山の3名と、さらに乗務掛の1名のみ。きたぐに全体では総勢20数名の乗務員がいたのだが、なにかの配慮があったのか、それともたまたまだったのか、ほとんどは後部の12両目以降に残ったのである。

 12両目以降の乗務員たちは、次第に遠ざかっていく11両目の後ろ姿を見送りながら考えた。「ああ、1~11両目の車両はこのままトンネルを出て、今庄へ向かうんだな」と――。

 今ここまで書いてふと考えたのだが、第一救援列車が、トンネルの奥に取り残された人々を救助せずほったらかしにしてしまったのは、ここでの勘違いも影響したのかも知れない。後部4両に残っていた人々が「前方の車両はもうトンネルを出たはずですよ」と言ってしまった、とか。まあ想像であるが。

 しかし、前方の1~11両目は、トンネルを出るどころの話ではなかった。9両目と10両目の切り離し作業を行っているさ中に、ついに最悪の事態に陥ったのだ。列車の全ての明かりが消えたのである。

「ありゃあ、辻、停電じゃ!」

 作田指導機関士は、悲痛な声をあげたという。

 

   2・避難

 

 停電の原因は、排水用の樋が火災の熱で溶け、それが架線にかかってショートしたことだった(もっとも筆者も実際に見たことはないので、排水用の樋とか言われても想像するしかないのだが)。

 停電という事態に、乗務員たちは絶望感から脱力した。もう電車は動かない。ここで切り離し作業をしても、延焼を防ぐための移動ができないのだ。

 乗客乗員たちは、全員が暗闇のトンネル内に取り残されたのだった。

 こうなったら、乗客には自力での脱出を促さねばならん。乗員たちはすぐに客車の中に呼びかけを始めた。

「火災が発生しています。いま、停電になり列車は動けません。逃げて下さい、お願いします!」

 これが午前2時頃のことである。

 さてところで、それまでの間、乗客は何をしていたのだろう? すでにこの時点で、火災発見から1時間弱が経過しているのだ。何も動きはなかったのだろうか。

 実を言えば、この点についても資料の内容は錯綜している。

 例えば、当時の新聞記事では、車内アナウンスで「危険だからすぐに車両から降りてくれ」と「危険だから車内に残ってくれ」という内容が入り交じって放送されていた、とある。

 アナウンスがなされたのだから、これは停電前であろう。だが『プロジェクトX』では、既に1時20分の時点で客車内に大量の煙が流れ込み、それでたちまち乗客はパニックに陥った――と描写されている(さらに後の国会答弁によると、列車が分離することで車内放送はできなくなったはずだ、と述べられている)。

 かと思えば『事故の鉄道史』では、乗務員からの誘導があるまでは車内は静かで、騒ぐ者もほとんどなかったと書かれている。

 これはまあ、結局のところ「どれも事実」なのだろう。
 当時、乗客は大勢いた。中には就寝中の者もいただろう。また、消火作業のただならぬ気配にすぐ反応した者もいただろうし、逆に反応の鈍い者もいただろう。また何両目の車両に乗っていたかによって、目に映る光景はそれぞれ違っていたと思う。

 よってここでは、あまり厳密な資料分析は行わない。その内容の羅列と、想像を交えた若干の内容修正にとどめたい。

 まず基本的に、車内アナウンスが「遅かった」ということは全ての証言で一致している。

 乗員たちは、消火作業に躍起になっていた。また救援依頼もしなければいけないし、他の列車にも停止を促さねばならない。アナウンスまでは気が回らなかったことだろう。

 ただ、全く通知がなかったわけでもない。断片的に確認できるものとして、9両目と10両目に鉄道公安班長が「食堂車が火災である」旨を口頭で告げていたようだし(『事故の鉄道史』)、国会答弁では、一部の乗客に降りるように指示し、また別の乗客には車内にとどまるよう指示したとも説明されている。

 トンネル内に残った人々が命の危険にさらされたという結果を見ると、なぜ「危険だから車内にとどまるように」という指示がなされたのか不思議ではある。だがこれは、煙がトンネル内に充満すればかえって車外のほうが危険だ――という判断があったのかも知れない。

 また「きたぐに」の12両目以降の乗客は、先述の通り、そこに立てこもることで全員無事に救出された。よってこの乗客たちは、基本的には最初から最後まで車内にとどまっていたのだろう。車両が切り離された直後には、徒歩で脱出しようという動きもあったようだが、これは半分以上が猛煙のため断念している。

 だが間もなく――特に切り離しを断念せざるを得なかった前方車両ということになるが――、煙は車内に立ち込めてきた。煙が進入してきた具体的な時刻は不明だが、これによって「すぐにパニックになった」という証言もあれば(『プロジェクトX』)「最初は乗員がなんとかしてくれるだろうと思い誰も騒がず、危ないと思ってから自主的に避難した」という証言もある(『事故の鉄道史』『なぜ人のために命を賭けるのか』)。

 このあたりは些細な矛盾ではあるが、こんな風に想像することが出来るだろう。火災車両に近いほうの客車では、乗員が目の前で消火活動をやっている。だから安心だ。だが煙も濃くなってきて、危なくなってきたので車両内で避難を始めたところ、のんびり構えていた他の車両の者も、それで慌ててパニック気味に「じゃあ自分も」と逃げ始めた――。

 あるいは、火炎の勢いと、煙の噴出が、ある時点から急に悪化したのかも知れない。資料を読んでいると、最初はわりとのんびりした状態だったのだが、どこかで急激に混乱が生じたような印象も受ける。

 ちなみにどの資料にも「停電がきっかけで車内に混乱が生じた」とは書かれていない。車内で生じた混乱は、停電ではなく、あくまでも煙の流入が引き金だったようだ。

 煙は、あれよあれよという間に客車全体に流入していった。そしてトンネル全体にも煙が充満し始め、乗員によって「車外に出てトンネルの外へ逃げるように」とはっきり指示があったのは、この段階に至ってからだった。

 もはや一刻の猶予もない。この時、トンネル内ではもう腰の上くらいの高さまで煙が充満していたのである。ここから徒歩で脱出するのは命がけ以外の何ものでもなかった。

「降りたら左へ逃げろ! 左だ!」

 辻機関士はこう叫んで避難誘導したという。彼の言う「左」とは「きたぐに」の本来の進行方向である今庄側のことだった。火災車両とは反対の方向である。

 さらに、辻機関士は乗客をおぶったり、抱いたり、肩車をしたり、時には自らが踏み台になったりして乗客の脱出に尽力した。

 中には、「言われなくても」とばかりに先んじて脱出を試みた人々もいた。列車内には、新潟から来ていた約30名程の団体がいたのだが、たまたま乗り合わせていた現役の国鉄職員が彼らを誘導したのである。

 また、さっきの停電時に「ありゃあ」と叫んだ作田指導機関士は、非常電話に取りついて送電の要請を続けていた。

 トンネル内には、マンホールと呼ばれる待機用の空間がある。その非常電話から、トンネルにすぐ電気を送ってくれるよう連絡をしていたのだ。電気さえ通れば列車をトンネルの外へ出せる。

 だが、連絡を受けた電力指令も、うかつに再送電するわけにいかなかった。混乱した火災現場からの通報だけでは停電の理由は分からない。今ここで2万ボルトの高電圧を流して感電事故でも発生したらえらいことだ。

 結果だけを見れば、再送電しても特に問題はなかった。だがやはり、二次災害の危険性を考慮すれば、この判断にはやむを得ないものがあった。けっきょく電気は流されず、きたぐにがトンネルから脱出する道はここで断たれたのだった。

 またたく間に、トンネル内は煙地獄と化していった。

 列車の外に出た乗客たちは、壁伝いに暗闇のトンネル内を進んでいく。しかし逃げ切れなかった乗客たちは、窒息などの目に遭いながら「助けて」「殺してくれ」と叫び、煙の中で倒れて行ったという。

 乗客のために孤軍奮闘していた辻機関士も、煙によってやられた一人である。

 彼は車内の様子を片っぱしから見て回った。しかし視界も悪く、意識も途絶えがちな状況で、車内の荷物を逃げ遅れの乗客と見間違うこともあった。

 また途中で、脱出し切れず坑内で倒れている乗客にも出くわしたようだ。だがもう、彼らを現実的に助ける体力は辻機関士には残っていなかった。それでもトンネル内に残り最後まで駆けずり回ったのは、ひとえに職業的使命感のなせる業だったのだろう。

 やがて彼は意識の混濁に加えて呼吸困難に陥った。さらには、煙によって嘔吐神経を刺激されたのだろう、何度も吐き戻してもはや全身に力も入らなくなり、トンネル内の側溝で昏倒した。

 また作田指導機関士も殉職した。非常電話の近くで、口元にぼろ布を当てた状態で絶命していたという。享年50歳。

 

(細かい話だが、この作田機関士の遺体の状況について『事故の鉄道史』ではうつ伏せだったとあり、『なぜ、人のために命を賭けるのか』では仰向けだったとある。なんでこうも矛盾するのか不思議なことだ)

 

 さてしかし、辻機関士の奮闘にも関わらず、車内に取り残された乗客がいた。

 『プロジェクトX』によると、その乗客たちは8号車の車内で追いつめられる形になっていたという。

 11両目から押し寄せてくる煙を避けるため、乗客たちは車内を前方へ前方へと移動していった。だが、8号車には隣の車両に移るための貫通扉が存在していなかったのだ。つまりそこは行き止まりだった。さらに車外も煙が充満しており、外にも出られない。

 えーと、ただここでもひとつ、資料の矛盾があるんだよね。『事故の鉄道史』では、車内を移動して5~6号車あたりまで避難した人がいた、と書かれていた。『プロジェクトX』の描写と説明を鵜呑みにすると、その人たちは貫通扉もないのにどうやって壁をすり抜けたんじゃい、という話になるのだが、これはよく分からんので追究しない。パスパス。話を戻そう。

 ――以上のことを考慮すると、辻機関士が乗客の避難誘導を行って自らも昏倒するまでは、ほとんど間がなかったのではないかと思う。彼の必死の避難誘導ぶりは『事故の鉄道史』を読んでいるともう涙が出てきそうになるほどだが、そんな彼でも、8両目に取り残された乗客にまでは手が回らなかったのである。

 さて、この時点で今庄側へ脱出した乗客は、その多くが立山3号によって救出された。

 そして切り離された後部4両の乗員乗客たちも、敦賀側からの第一救援列車によって無事に助け出されている。このあたりの経緯は、前章までで述べた通りである。

 さらに記録によると、徒歩でトンネルから脱出した負傷者も10~30名ほどいたという。

 

   3・救助

 

「トンネル内にまだ人が取り残されている。なんで来てくれないんだ、このままでは全員死ぬ!」

 という内容の通報があったのが4時40分。やれやれ救助活動も無事に終わった、と胸を撫で下ろしていた人々に、この通報が冷や水を浴びせることになったのは既に述べた通りである。

 この通報は、きたぐに内に取り残された負傷者からなされたものだった。8両目に追い詰められていたのだ。

 この時は、車内も車外も完全に煙地獄と化していた。

「このままでは全員確実に死ぬ。外に助けを求めないと」

 そう思い立って行動を起こしたのは一人の男性であった。彼は渾身の力を込めて窓を叩き割り、車外の非常電話から救助を求めたのだ。

 それまでの間、何も動きがなかったわけでもない。この頃には、立山3号や第一救援列車、それに今庄側からの救援列車などによって、トンネル内の惨状がようやくはっきりしてきたところだった。また午前4時には、敦賀署員の先導によってマスコミもトンネルへ進入している。そのことは先にも少し述べた。

 それでも、敦賀側にとっても今庄側にとっても、トンネル中心部の事故現場の状況はまったく分からない状態だった。そんな中で、この通報はなされたのだった。

 いよいよ第二救援列車の出動だ。取り残された大勢の乗客がいることに気付かずに引き揚げてしまった国鉄は大慌てである。今度の救援列車で救助活動をきちんと行わなければ面目丸潰れだ。

「さあ到着したぞ。負傷者はどこだ」

 そんなこんなで消防隊が到着した時、トンネルの中心部であるその場所は、文字通り死屍累々たる有様だった。最初は人々がどこに倒れているかも分からなかったが、散乱した毛布やシーツ、荷物の下に乗客たちは埋まっていたという。

 誰も彼もが失神しているか朦朧としているか、あるいは明らかに絶命していた。消防隊員たちは、かろうじて息のある者に自分の酸素ボンベを与え、片端から担いでいった。

 この時点では、おそらく百数十人が救出されたと思われる。一連の救援列車の中で、最も大きな働きをしたのがこの第二救援列車だろう。

 またこの時、きたぐにの車両の窓を割って通報したあの男性も無事に救助されている。この辺りの詳しい経緯は『プロジェクトX』で描写されており、当研究室でもそれを参考にしている。興味のある方は一度見てみるといいと思う。

 人々はおよそ600メートルの範囲で線路や側溝に伏せ、壁にもたれ、うずくまり、そして倒れていたという。その数たるや百数十人。顔は泥や煤で真っ黒になっており、煙を避けるために被ったのか、毛布やシーツを巻き付けている人が大勢いた。トンネル内の湧水によって体は濡れており、辺り一面には荷物や靴も散乱していたという。

 ここで助け出された乗客は、きたぐにの後部4両に乗せられた。例の切り離された車両である。これに救援列車が連結し、牽引する形で救助は行われたのだった。午前7時10分のことだった。

 ところで午前4時頃には、敦賀署員の先導によってマスコミがトンネル内に徒歩で進入している。そのことは前章でもすこし述べたが、この事故の報道写真は、ほとんどがこの時以降に撮影されたものだ。

 顔中を煤だらけにして髪を乱した人々が、呆然とした表情で抱えられ、あるいはおぶられて救助されている様は凄まじい。

 またこれらの報道写真には、トンネル内で昏倒した夥しい人数の乗客の姿も収められている。これはおそらく途中まで避難してきたか、トンネル中心部で取り残された人々だろう。

 そういえばこれは半ば蛇足だが、こうした事故災害事例を集めた「失敗百選」というサイトがある。ここでは、このきたぐにの火災について「2時43分に第1次救援列車、 6時43分に第2次救援列車が敦賀駅から現場に送り込んだが、煙がひどくて近寄れず、トンネル内を避難する乗客を乗せて引き返した。」という記述があるが、ここまで読まれた読者ならば、事態はそんなに単純でなかったことがお分かりであろう。

 どうもこの、第一・第二救援列車がどちらも煙がひどくて近寄れなかった――という情報は、11月6日の朝日新聞の夕刊(つまり事故の第一報)によるものらしい。朝日新聞の第一報というのは縮刷版がどこの図書館にもあり、また市販の書籍にも紙面がそのまま掲載されていることが多い。だから引用されやすいのである。

 この朝日の夕刊だけでは、詳細は分からない。本当は第一・第二救援列車ともに近寄れるところまで近寄り、それぞれ行く手を阻む形になっていた列車を牽引し、それで戻っているのである。読売、産経などの続報に目を通さないと、この辺りの細かい経緯は分からないと思われる。

 その後、敦賀側からはさらにもう一本の救援列車が出ている。おそらく第二救援列車と入れ違いの形だったのだろう、7時10分頃にトンネルに入り、8時40分頃には敦賀駅に戻ってきている。「救援列車」としての出動はこれが最後になった(ちなみにウィキペディアだけは、敦賀に戻った時刻が10時半となっている。なんの資料からの引用なのだろう?)。

 そして、トンネルに残された車両は、11月6日の昼頃にようやく収容された。

 全乗客・乗員の収容が終わったということで、トンネル内に残された1~11両目をまず半分に分割。それを、それぞれ敦賀側と今庄側に運んで行き、午後12時40分までに片付けたのである。

 それから、これも「救援列車」とされているのだが、午後2時20分頃には、最後の緊急車両がトンネル内に進入している。これによって救助された人がいたのかどうかは不明だ。

 やがて現場検証も行われ、上下線ともに復旧したのは22時45分。なんだかすごい復旧スピードである。安治川口ガソリンカー火災や、少し前の中国の高速鉄道の事故を思わせる。

 ……と思ったら、実はここでも国鉄は手抜きをしていたのだった。先に「全乗客の収容を確認した」と書いたが、それはあくまでも国鉄の主観でしかなかったのだ。事故からほぼ1週間後の11月13日に、最後の遺体がトンネルから発見されたのである。

 この遺体が見つかったのは、上下線の間にある排水溝だった。現場から今庄側におよそ70メートルの地点で、膝を折り、前かがみになった状態で発見されたという。言うまでもなく、国鉄は轟々たる非難を浴びた。

 こうして最終的な死者は30名、負傷者は714名に上った。

 

 第4章 裁判

 

   1・被害拡大の原因

 

 この北陸トンネル「きたぐに」火災は、なぜこれほど被害が拡大したのだろう? まあ細かい原因を挙げていけばきりがないのだが、主だったものを適当に並べてみよう(適当かよ)。

 まず、最初に車両を切り離した際の、乗務員の残留の度合いである。これは事故直後から問題にされていたらしい。

 つまり、こういうことだ。切り離されたきたぐにの前部車両には600人近くの乗客がいたのだが、こちらには乗務員がほんの数名しか残らなかった。だが一方、後部4両では90人の乗客に対して6人の乗務員がつく形になっていたのだ。

 しかも後部4両の「乗客」の中には、荷物掛や食堂関係や郵便関係者など、鉄道慣れしていて頼りになりそうな者もいたのである。

 こういった人数の差が、乗客を避難誘導する際の手際に影響したのではないか、ということだ。

 また問題といえば、トンネル内の照明のことがある。

 事故が発生した時、トンネル内は照明がついておらず真っ暗だった。これは国鉄が費用をケチッてつけなかったとか、労組が運転の邪魔になるからつけないように要請したとか、色々言われている。

 とにかく、真っ暗なのは良くなかった。明かりがついていれば、車両の切り離しももっとスムーズにできたかも知れない。それに何より、乗客の避難にも影響があった。きたぐにから脱出した乗客の中には、しばらく行けば明るくなるだろうと思っていたのにずっと真っ暗だったため、仕方なく引き返した者もいたのである。

 トンネル内にあった照明は680個。これが20メートルおきに並んでおり、さらに50メートルおきに500個のスイッチがあったという。

 事故発生後、これらの照明が灯されたのは、第一救援列車がトンネルに入ってからのことだった。同乗していた保線区員がスイッチを入れたのだ。

 しかしそれも途中までだった。今庄側は猛煙のため入れないし、第一救援列車も途中で引き返してしまっている。

 こういった内容を踏まえ、照明がもっとちゃんとついていれば被害も少なくて済んだのではないか、という追究が後に国会でなされた。

 さてそれから、被害拡大の原因は他にもある。そもそもの話になるのだが、北陸トンネルでは災害時のための対策が一切なされていなかったのだ。

 事故が起きる5年前の昭和42年10月14日には、敦賀消防署は火災時の酸素不足に備えるよう国鉄に申し入れていた。救助器具や酸素マスクを常備するよう求めたのである。だがこれは黙殺された。もともと排煙設備も消火設備もなかった北陸トンネルは、めまいがするほど危険な設備だったのである。

 それから、ATSが整備されていないのも問題になった。立山3号や、敦賀側からの後続の貨物列車が停止したのは、きたぐにの乗員が手際よく停止の措置を取ったからである。その措置自体はもちろん正しいものだったが、それでも後続の貨物列車にトンネル進入を許したことは、後の救助活動の妨げになった。こういう場合、周辺の列車が即座に、あるいは自動で緊急停止できるような仕組みを作って欲しい――消防は、以前から国鉄に対しそう依頼していたのだ。

 まだまだある。出火した食堂車だが、これは問題だらけの代物だった。造られたのが昭和3年という時代物で、当時の日本には7両しか残っていないという骨董品だったのだ。老朽化した電線が直接床に這わせてあったりして、これは当時の基準に照らし合わせても規格違反の代物だった。既存不適格というやつだ。さぞよく燃えたことだろう。

 また国鉄ばかりではなく、消防にも問題はあった。排煙車がない、ホースの長さが足りないなどの消防の問題点を、北陸トンネル火災は浮き彫りにしたのだった。

 以上、細々とした事柄を挙げていったが、しかし実を言えば、ここまで書いたことは基本的に枝葉の問題、すなわち瑣末事である。この事故の最大の問題点はひとつ、「トンネル内で列車を停めてしまったこと」に他ならない。

 これがどういう意味なのかは、次節で説明させて頂く。

 

   2・国鉄のコンプライアンスと裁判の判決

 

 この火災事故、実は犠牲者をゼロで済ませることも可能だったのである。

 その方法は簡単で「列車を止めずにトンネルを出ればよかった」のだ。

 これは実験によって証明されている。火災が起きても、消火活動を行いながら列車を走らせれば8分ほどでトンネルを脱出することが可能だった。そして乗客乗員すべてが安全に避難できたのである。

 つまり、きたぐにの乗員たちは最初から――あるいは後部車両を切り離してしまった時点で、さっさとトンネルを脱出してしまえばよかったのだ。

 というわけで、裁判では2人の国鉄職員が訴えられることになった。1人は新潟車掌区客扱専務車掌の石川車掌。そしてもう1人は、金沢運転所電気機関士の辻機関士である。

 辻機関士は、自らが事故の当事者でもあった。文字通り「必死」の状況で身を挺して乗客の救助に当たり、途中で力尽きて倒れたあの人である。彼はなんとか救助され一命を取り留めたものの、回復後にこうして被告席に立たされたのだった。

 ちなみに、火災の原因は今に至るまで不明のままである。最初は、煙草の不始末や調理室の石炭レンジが原因ではないかと言われた。そして最終的には暖房装置がショートした可能性がもっとも高いとされたのだが、結局断定には至っていない。

 ちなみに個人のあるサイトで、きたぐには敦賀駅を出発した時点ですでに煙を上げており、しかも放火が疑われている――という記述があった。それは「現場のみ知る話」とのことだったが、出典は明記されていないし他の資料でも新聞でもそうした記述は一切なく、これはかなり信憑性に欠ける(ちなみにこのサイトは今、見られなくなっている)。

 よって検察は、火災の直接の原因については追及しなかった。あくまでも、「きたぐに」をトンネルのど真ん中で停止させてしまったことに関してのみ、2人の刑事責任を問うたのである。

 しかしそれでは、なぜ石川車掌と辻機関士の2人は、きたぐにをトンネル内で停止させてしまったのだろう?

 そこには、単なる判断ミスで片付けてしまうにはあまりにも重い事情があった。当時の鉄道員たちにとって、「異常事態が起きた場合は何がなんでも列車を停止させる」のは常識中の常識だったのである。

 ここで読者諸賢に思い出して頂きたいのが、昭和37年に発生した伝説の鉄道事故・三河島事故である。あれは最初は軽微な脱線事故だったのだが、その時に他の列車を停める措置を取らなかったため大惨事になったのだ。

 また三河島事故だけではなく、六軒事故鶴見事故など、昭和30年代には同じような事故が相次いだ。どれもこれも、異常時に列車が速やかに停止できていれば避けられたものばかりだ。

 こうして、これらの教訓を踏まえてATS(自動列車停止装置)も普及したわけだが、それと同時に「非常時には必ず列車を停止させるべし」というのが鉄道員の大大原則になったのである。

 この方針転換は革命的だった。戦前の軍事輸送時代も、高度成長期の大量輸送時代も、鉄道は「何があっても止めてはならぬ」が基本方針だった。それが180度転換したのである。やや浅薄な言い方になるが、人命軽視から人命重視へとパラダイムシフトが起きたと言えるだろう。

 だからきたぐには停止したのである。2人の国鉄職員は、非常時にはとにかく一にも二にも列車を停めるべし、と叩き込まれてきたのだ。彼らは忠実にその原則に従ったのである。この事故ではそれが完全に裏目に出たのだ。

 被告の2人は心外極まりなかったに違いない。列車停止の措置についても、乗客の救助についても、彼らはやれる限りのことを規定通りにやったのだ。それなのに「トンネルをさっさと出れば良かったんだよ」と責められ被告席に立たされたのだ。

 というわけで、2人は無罪となった。

 昭和55年11月25日に福井地裁で無罪判決が言い渡され、これに対し福井地裁は控訴を断念。無罪が確定したのである。

 11月25日の判決の日には、辻機関士に対し450人の動労(国鉄動力車労働組合)の支援者が駆けつけた。また石川車掌に対しても200人の鉄労(鉄道労働組合)の支援者が駆けつけ、会場を借りて陣取っていたという。

 組合の側は、「国鉄の現業職員を裁判にかけるならストを起こす」とも言っていたらしい。なんだかずいぶん不穏な空気だったようだ。

 だがまあ、仮に検察が組合の圧力に負けて控訴を断念したのだとしても、この無罪判決は妥当だと誰もが感じるのではないだろうか。国鉄が、再三に渡る消防の改善勧告を無視していたことはまことに由々しき事態だった。

   3・事故の反省について

 実は、北陸トンネルで列車火災が発生したのはこれが初めてではなかった。

 去る1969(昭和44)年、トンネルを通過中の特急「日本海」が火災を起こしたのだ。だが、この時は乗員がとっさの判断でトンネルから脱出したため怪我人はなかった。

 だがこの時、この乗員は処罰された。緊急時に列車を停止させなかったのは規則違反と見なされたのだ。彼のこの処分は、北陸トンネル火災の判決が確定した直後に撤回されたという。

 こういった背景を併せて考えれば、事故の当事者だった石川車掌と辻機関士だけに責任を負わせるのはやはり不当だった。「国鉄にも重大な責任あり」と暗に断じた裁判所の判断は、当を得たものだったと言えよう。

 この北陸トンネル火災事故ののち、国鉄は大規模な実験を行った。本物の列車で火災を起こしてトンネルを通過させたのだ。これにより、トンネル火災では列車を停めずに脱出した方が安全だと証明されたとして、規定も改められた。

(もっともそれまでの規定でも「非常時のトンネル内での停車はなるべく避けること」という程度の曖昧な記述はあったらしい。それがより厳密に改められたのだろう)

 そして、国鉄もさすがに反省したのか、長大なトンネルにおける火災対策を色々と講じるようになった。救援用動力車の導入、排煙設備の設置、避難経路の確立、放送設備の充実などなどを進めていったのである。こうしたトンネル事故対策は、かの青函トンネルにおいても活かされているという。

 とはいえ、どうもそれだけで国鉄を簡単に評価するわけにはいかないようだ。監査委員会による事故報告書が、当時の新聞では厳しく批判されている。

 例えば昭和48年1月17日の朝日新聞朝刊では、1面で「国鉄に甘い特別監査」「事故後の措置ほぼ肯定」とあり、さらに中を見ると「『乗客の安全』はどこに」「国鉄の体質触れず」「結局は“身内”の監査」などなど、タイトルだけでも溜息が出るような辛辣な記事が書かれている。信楽鉄道事故や福知山線事故を目の当たりにしてきた身としては、なるほどこうした国鉄の体質はそのままJRに受け継がれたんだなあ――と妙に納得してしまうところである。 
 国鉄で監査委員会が入ったのは、三河島、鶴見に続いて3例目だったという。この事故がいかに重大な事例であるかが分かる。

 なお、この事故と同日には日本航空351便ハイジャック事件が発生しており、相次ぐ大事件のニュースに人心は動揺したことだろう。なんだか鶴見事故と三井三池炭鉱事故が起きた「魔の土曜日」を思い出す。

 しかしよく考えてみると、この北陸トンネル火災の半年前には千日デパート火災が発生しており、さらに翌年には大洋デパート火災が起きているのである。「魔の土曜日」ほど衝撃的な符合ではないものの、どうもここら辺の1、2年は火災の当たり年だったようだ。

 

   4・おしまい

 

 以上で、この長~いルポルタージュもひと段落である。

 変な言い方になるが、この北陸トンネル火災は過去の大事故に比べれば死者数も比較的少なく、また派手さにも欠ける地味な事故である。だがお米のようなもので、噛めば噛むほど味が出る。調べれば調べるほど、鉄道の歴史を語る上で欠かせない重要ケースであることが分かる。そういう内容の事例でもあった。

 それなのに、資料が少ないのには参った。いや資料は存在するのだが、肝心な個所の欠如や細部の矛盾が甚だしく、全体像を掴むのに実に骨が折れたのだ(実は今でも詳細が分からず、ぼかしたりごまかしたりして書いた部分が結構ある)。

 筆者の個人的な心境としては、欠如と矛盾だらけの資料には恨み事を言いたいところである。だが一人だけ、この記事を書くにあたり多大なお力添えを頂いた「山猫さん」には深く御礼を申し上げたい。この北陸トンネル火災の記事がうまく書けているかどうかは分からないが、氏の協力がなかったら確実にもっとひどい内容のルポになっていたことだろう。

 

(おしまい)

 

【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『続・事故の鉄道史』日本経済評論社 (1995)
◇ウィキペディア
◇JSI失敗知識データベース
◇柳田邦男『緊急発言 いのちへ(2)医療事故・鉄道事故・臨界事故・大震災』講談社(2001)
◇ブログ『在りし日』――暗闇の災禍…北陸トンネル列車火災事故
http://41-31.at.webry.info/200805/article_3.html
◇NHK「プロジェクトX ~第147回 列車炎上 救出せよ北陸トンネル火災~」2004年6月15日放送
◇中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社(2004)

 

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餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)

「山陰鉄道唱歌」の11番と12番に、このような歌詞がある。

 

香住に名高き大乗寺

応挙の筆ぞあらわるる

西へ向えば餘部の

大鉄橋にかかるなり

 

山より山にかけ渡し

御空の虹か桟か

百有余尺の中空に

雲を貫く鉄の橋

 

 ずいぶん大げさな歌詞だな、と思われるかも知れない。しかしここで歌われている「餘部の大鉄橋」がいかに巨大であるかは、ちょっとネット上で検索すればすぐにご理解頂けるはずだ。

 

 餘部鉄橋――。それはまさに大鉄橋中の大鉄橋、かつては東洋一の高さを誇ったという「ザ・超巨大鉄橋」なのである。そんな建造物がかつて日本には存在していたのだ。

 

 ウィキペディアによると、概要は以下の通りである。

 

【餘部鉄橋】

◆長さ:310.59m

◆最大支間長:18.288m

◆幅:5.334m

◆高さ:41.45m

◆形式:トレッスル橋(トレッスルとは「うま」の意味)

◆素材:鋼材

◆建設:1909(明治42)年12月16日~1912(明治45)年1月13日

◆総工費:331,536円

 

 さてそれで『事故の鉄道史』では、餘部鉄橋についてこう書かれている。

 

「ここの主役は鉄橋である。列車も、日本海も、民家も、餘部橋梁の引立て役でしかない。天駆ける鉄道なのだが、ご存じのように列車の転落事故もあって美しい話ばかりではなかった」――。

 

 なかなかの名文だと思う。そして今回ご紹介するのが、くだんの「列車の転落事故」である。

 

   ☆

 

 そういえば最初に、名称の表記についてお断りしておこうと思う。この事故の舞台になる「あまるべ鉄橋」の漢字には「余部」と「餘部」の2種類があるようだが、ここでは「餘部」に統一させて頂く。

 

 特に深い意味はないのだが、筆者の愛用のvaio君で変換するとこの漢字しか出てこないのだ。

 

   ☆

 

 1986(昭和61)年12月28日のことである。

 

 場所は兵庫県美方郡香美町・香住区餘部地区。そろそろお昼を過ぎようかという頃、8両編成の列車が餘部鉄橋の上を通過しようとしていた。

 

 この列車の名は「みやび」。先頭の機関車に7両の客車を連結した、団体ツアー用の臨時列車である。山陰買い物ツアーという催し物のために運行されており、先ほども香住駅で167名を下ろしたばかりだった。

 

 大盛況のツアーでひと仕事終えて回送列車となった「みやび」が、鉄橋の上をガタンゴトンと走り抜けていく――。ここまではごく当たり前の光景だった。

 

 問題は強風である。この時、餘部鉄橋には海からの強風がもろに吹き付けていたのだ。

 

 このあたりの地区にとって、強風そのものは決して珍しいものではない。だが当時の風の勢いは特に凄まじく、運行を管理する福知山管理局でも警報装置が作動していた。この装置は風速25 m/s(メートル毎秒)以上で作動するのだが、それが2回も危険信号を示したのである。

 

 1回目の警報で、管理局は香住駅に問い合わせた。

「おおい、こちら福知山管理局。そっちは風が強いみたいだけど大丈夫か?」

 

 これに香住駅は答えていわく、

「うん、風が強いね。でも20m/s前後だから特に問題はないよ」

 

 そうか問題ないのか、と管理局は納得した。まあ今は鉄橋の上を通る列車もないし、そっとしておこう……。

 

 だが2回目の警報の時は、ちょうど「みやび」が橋の上を通過するタイミングだった。これでは止めようにももう遅く、ここで悲劇が起きる。

 

 時刻は13時24分(事故報告書では25分となっている)。鉄橋のほぼ中央にさしかかった「みやび」の中央の客車が、ブワッと膨らむように南側へ脱線した。

 

 さらに、それに引っぱられる形で、ズルズルズルと他の客車も脱線。7両まとめて41メートルの高さを落下した。

 

「みやび」が回送中でほぼ空っぽの状態だったのは、まあ不幸中の幸いだった。だが転落した場所がまずかった。真下には水産加工の工場があり、いきなり降ってきた客車の直撃を受けて全壊したのである。

 

 これにより、「みやび」の車掌1名と、工場の従業員の主婦5名の計が命を落とした。また、客車の中にいた車内販売員3名と、工場の従業員3名の計6名が重傷を負い、さらに近隣の民家も半壊。あげく「みやび」の車両は火災を起こし、現場はもう目も当てられない惨状となった。

 

 鉄橋の上には、台車の一部と、機関車だけがぽつんと取り残されていた。

 

 ちなみに転落の巻き添えを食らって破損した風速計があったのだが、この時の風速については33メートルを記録している。

 

 国鉄による復旧作業は迅速に進められた。のべ344人の作業員が投入されて、枕木220本とレール175メートルが交換。そして事故発生から3日後の31日には被害者遺族の了解を取り付け、さっそく運転を再開したのが15時9分のことだった。

 

   ☆

 

 それまでにも、餘部鉄橋ではいくつかの事故が起きていた。

 

 例えば、これはさすがに古い記録になるが、架橋工事の時には転落による死亡事故が2件発生している。また負傷の記録も83件残っているという。

 

『事故の鉄道史』によれば、鉄橋の周辺地域には鉄道関係の慰霊碑も複数存在するそうだ。地形的な問題でもあるのだろうか、もしかすると、列車の運行や工事などには、もともと慎重を要する土地柄なのかも知れない。

 

 とはいえ、だからといって、今回説明している列車の転落事故が「ありきたり」のケースということは決してない。むしろこれは、歴史的にはとんでもない事例なのである。

 

 国鉄の記録によると、これよりも前に発生した「鉄橋からの列車転落事故」は、1899(明治32)年10月7日に東北本線で発生した箒川転落事故が最後とされている。つまりこのカテゴリで見ると、餘部のは実に87年ぶりの事例ということになるのだ。

 

 およそ90年間も起こらなかった類型の事故が、現代に蘇ったのである。とんでもない事例と書いた理由がこれでお分かりであろう。

 

 しかし事故の後処理は意外と地味なものだった。

 

 まず、東大教授を委員長とした「餘部事故技術調査委員会」が発足したのが1987(昭和62)年2月9日のこと。そして翌年の2月には、この委員会によって事故調査報告書がまとめられている。

 

 筆者は、この報告書を読んではいない。とりあえず「列車の転落は強風によるものであり、不可抗力による自然災害だった」という結論になっているようだ。

 

 もちろん、だからといって誰も責任を問われなかったわけではなく、先述した福知山管理局の指令長と指令員2名の合計3名が被告席に立たされている。風が強かったことを知っていながら列車の停止を怠ったというのが、その罪状であった。

 

 刑が確定したのは、事故から7年後のこと。それぞれ、執行猶予付きで禁固2年から2年6か月という判決だった。

 

   ☆

 

 そしてここからが、鉄道事故マニアのバイブル『事故の鉄道史』による謎解きである。

 

 実は、著者の網谷りょういち氏は、この事故について大胆にも「裁判は茶番」と述べて、真の事故原因は風ではない、と書いているのだ。

 

 以下で、網谷氏が挙げている主な疑問点をご紹介しよう。

 

1・風速33メートルで列車は簡単に転落するのだろうか? 鉄橋ができて以来74年の間に、33メートルの強風が吹いたことは一度もなかったというのだろうか?

 

2・事故後の写真を見ると、鉄橋の線路のレールが、当時の風向きとは「逆」の方向に曲がっている。風で車両が押されたのならばそんなふうに曲がるわけがない。なぜ曲がった?

 

3・風による脱線では、普通は後部車両から転落していくものだが、この事故は中央の車両から転落している。これは何故か? 中央の車両が特に転落しやすくなる要因があったのではないか?

 

4・事故調査報告書では、転落時における近隣住民の目撃証言が収集されていない。また同報告書では、「当時の風速は33メートルだった」とわざわざ調べて書いている。壊れた風速計は33メートルを最初から示しているのに、なぜ改めて調べた? 風の強さを強調したかったのではないか?

 

 ――網谷氏のスタンスは「1」「3」「4」から明らかであろう。つまり、国鉄はこの事故を自然災害として片付けようとしているが、実際には人災の要素もあったのではないか、と疑問を示したのである。

 

 それでは真の事故原因は一体なんなのか。それは網谷氏によると「脱線」である。

 

 そのヒントは、上述の疑問点のうちの「2」にある。鉄橋上のレールの歪曲は強風が原因ではないのだから、何か他に原因があったはずだ。さらにこのレールには車輪が乗り上げた痕跡もあったという。

 

 つまりレールの歪みが原因で脱線が起き、そこに強風という悪条件が重なったことで大惨事に至ったのである。

 

 では、このレールの歪みはなぜ生じたのだろう?

 

 結論をズバッと言えば、これは「フラッター現象」であるらしい。

 

 正直に言うと筆者もいまいちイメージが掴めないのだが、飛行機や高層建築物はそれ自体で「振動」するらしい。強い風や地震がなくともひとりでにグラグラブルブルしてしまうのだ。だから、小さな風でも大きく揺れるのである(いずれこの現象による他の事故もご紹介していく)。

 

 餘部鉄橋は、こうしたフラッター現象が起きやすい構造になっていたのである。鉄橋の振動のせいでレールが歪曲したところに「みやび」が差しかかり、乗客がいないため軽かった中央の車両が脱線した。そしてさらに強風で浮き上がり、転落したのだ。

 

 実際の事故調査や裁判では、こうした点までは確認されていない。だが網谷氏は、餘部鉄橋の建築と修復の歴史を調べて、この橋が理論的にはフラッター現象を生じやすい危険な建造物だったことを証明している。

 

 たとえば、送電線をつなぐ鉄塔などは、鉄骨造りの巨大建築物という点では同じである。だがこうした鉄塔がグラグラ揺れたあげく倒れた、などという話はふつう聞かない。これはもちろん補修もされているのだろうが、なにより鉄塔の構造のおかげなのである。

 

 簡単に書くと、鉄骨の横向きの棒と、縦向きの棒、そして斜めの棒の「太さ」の問題なのだ。この3者のバランスが保たれていると、良い感じにしなやかになり、振動をうまく吸収できるのである。そうしてフラッター現象は抑えられる。餘部鉄橋は、そこのバランスを間違えていたようなのだ。

 

 ではさらに突っ込んで、この「間違い」はなぜ生じたのだろうか? それを説明するには、餘部鉄橋の建設の歴史をたどっていかなければならない。

 

   ☆

 

 餘部鉄橋の建設は、明治政府にとってはいわば「苦肉の策」だったと言えるのではないだろうか。

 

 香住~浜坂間は山と海に挟まれている上に断崖が多い地域である。そこに無理やり線路を通そうとした結果が、あのような超巨大鉄橋だったのである。

 

 とにかく、列車にはなんとしても山を上らせなければならない。なおかつ谷も渡らせねばならない。そうでなければ長大な迂回路とトンネルを造らねばならず費用もかかる。方法としては谷底の村を埋めて築堤を造るか鉄橋を建てるしかないが、「安い、早い」方法は断然後者だった。

 

 こうして、1911(明治44)年から大規模な工事が行われた。完成までには、当時の金額で33万円を超える費用と、延べ25万人を超える人員が投入されたという。おかげで餘部の村は「架橋ブーム」に湧いたそうな。

 

 できあがった餘部鉄橋は、管理上、雪の重みや風による揺について神経を使わざるを得なかった。今なら、こういう負荷の計算はコンピュータで即座にできる。だが当時は勘と経験に頼るしかなかった。

 

 ここで読者諸賢は思われるかも知れない。なるほど勘と経験などという漠然としたものを頼りにしていたのか、それではフラッター現象が起きて事故につながっても当然だよな――と。

 

 ところがどっこい、むしろ建設から数十年間はなんの問題もなかったのだ。少し詳しく書くと、もともと餘部鉄橋では、列車進行方向と直角方向とでは横向きの鉄骨がそれぞれ違っており、列車の振動をうまく吸収するようにできていたらしいのだ。むしろ初期の、勘と経験に頼った建設方法は適切だったのである。

 

 もちろん、部品の交換や修復は何度も行われた。むしろ、この鉄橋の歴史は修復と補修の歴史と言ってもいいかも知れない。とにかく先述したように潮風と積雪に常にさらされているため、定期的な部品交換や錆止めのペンキ塗装は不可欠だった。

 

 さて、そのように平穏に運用されていた餘部鉄橋だが、『事故の鉄道史』によると、それにケチがつき始めたのが1968(昭和43)年のことである。この年からから1976(昭和51)年度にかけて行われた第3次修繕8カ年計画が問題だったのだ。

 

 この修繕計画で行われた部品交換作業は、実に地道なものだった。鉄橋にはいつも通りに列車を走らせつつ、隙をみてコツコツ作業を進めたのだ。

 

 しかし、ここで横の鉄骨と斜めの鉄骨だけが交換・補強され、縦の鉄骨とのバランスが悪くなってしまった。

 

 致命的なミスはもうひとつあった。橋脚の足元を、コンクリートでガッチリと固めてしまったのだ。

 

 ガッチリ固めたほうが頑丈でいいんじゃない? という声が聞こえてきそうだが、これはマズイらしいのである。足元があまりにガッチリしていると、鉄橋の振動を吸収できないのだ。分かりやすく言えば「しなやかさを失う」ということか。実際、この改修工事の直後から、列車が鉄橋上を通過する時の振動が大きくなったという。

 

 こういうことを勘と経験だけで理解していたのだから、先人の知恵というのは凄いものだ。だが同時に、その罪深さを感じる話でもある。勘と経験が素晴らしく研ぎ澄まされていたのは結構だが、修復する時の要領についても定めておいてくれればよかったのだ。

 

 以上が網谷氏の説である。

 

 ただまあ、事故の原因の真相については、筆者は素人なのでよく分からない。ただ『事故の鉄道史』の脱線説は非常に説得力があるし、有名でもある。餘部の事故について多少なりとも学術的に解説する場合は、これを抜きにしては片手落ちという感があるのでご紹介させて頂いた。

 

 こうして事故の解説を通して餘部鉄橋の歴史をざっと眺めてみると、ひとつ強く感じることがある。転落事故はつまり、あらゆる意味でこの鉄橋の「賞味期限切れ」を意味していたのではないか、ということだ。

 

 賞味期限というか、要するに「もの」には耐用年数というやつが存在する。ここでいう「もの」とは、建造物やシステム全体までをも含むと考えて頂きたいのだが、それをもっとも極端に、悲惨な形で示すのが事故や災害である。餘部鉄橋の大事故は、まさにそれだったのではないかと思うのだ。

 

 歴史を見ると、この鉄橋は建設後少なくとも数十年は役に立っていたようである。だが鉄橋が存在することによるメリットとデメリットのバランスは、元々かなり危うかったのではないだろうか。

 

 メリットは、もちろん輸送や観光などの経済効果である。この鉄橋は土木学会からAランクの技術評価を受けており、歴史的な価値も高かった。それにまた、鉄橋のある餘部の風景や、鉄橋そのものの構造なども、鉄道ファンのみならず山陰地方を訪れる観光客全般には人気があったという。

 

 一方デメリットは、補修修繕の難しさと維持管理費の莫大さ、そして地元住民にとっても悩みの種だったという騒音、落下物、飛来物などの被害である。

 

 それに加えて、転落事故後は風速規制も強化され運行基準も見直された。1988(昭和63)年5月以降、風が強い場合は香住~浜坂間で代行バスが使われることになったのだ。

 

 安全対策上は必要だったかも知れないが、ここまでくると羹に懲りてなんとやら、という感がしなくもない。これによって輸送の安定感もなくなり餘部鉄橋は斜陽の時代を迎え、ついに2010(平成22)年には運用終了と相成った。

 

 少し順序が前後するが、1988(昭和63)年10月23日には事故現場に慰霊碑が建立され、毎年12月28日には法要が営まれてきたという。

 

 そして2010年(平成22年)12月28日の25回忌が、遺族会による最後の合同法要となった。橋が新しく造り変えられることに決まり、ひとつの節目を迎えたのである。

 

。こうして、次に造られたのが今のコンクリート製橋である。これは2007(平成19)年3月29日から3年ほどかけて建設され、2010年8月12日に開通した。

 

 建設位置は、かつての餘部鉄橋よりも7メートルほど内陸に近く、費用は30億円に上ったという。ウィキペディアあたりでちょっと調べて頂ければ、その雄姿を見ることができるので是非どうぞ。リニア・モーターカーの走行が似合いそうな、シャープでかっこいい橋である。

 

 で、かつての餘部「鉄橋」はどうなったか。これについては「余部鉄橋利活用検討委員会」が設けられ、県と地元で協議した末、橋脚と橋桁の一部を残して「空の駅」と称する展望台を造ることが決まったという。また道の駅も建設し、かつての鉄橋を偲ぶ記念施設にするそうな。

 

 この「空の駅」はまだできあがっていないようだ。だが建設予定図などをネットで見てみるとなかなか面白そうである。素直に、一度行ってみたいと思う。

 

   ☆

 

 こうして、日本一の巨大さを誇った餘部鉄橋は、いくつかの汚点を歴史上に残してその役目を果たしたのである。あとから振り返ってみれば、この転落事故こそが、餘部鉄橋の落日のしるしであった。

 

 これは想像だが、あの鉄橋は人々から愛され、守られてきたと同時に、同じくらいに恨まれ、憎まれ、疎んじられてもきたのではないだろうか。

 

 良くも悪くもシンボル、愛着と諦め、愛憎半ば。家族と同じで、身近であればあるほどえてしてそういう感情を呼び起こすものだ。その解体が決まった時の地元の人々の思いは、果たしていかばかりであったろうかと、筆者は思わず想像してしまった。

 

【参考資料】

◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◇ウィキペディア

◇ウェブサイト『キノサキ郡の橋』

 http://www.asahi-net.or.jp/~ug3h-itkr/bridge.html

◇同『鉄道サウンド広場(資料館)』

 http://www.nihonkai.com/railway/index.html

◇同『失敗百選』

 http://sydrose.com/case100/206/

◇2010年7月14日アサヒ・コム『余部鉄橋 一部は「空の駅」に整備へ 廃材は研究機関に』

 http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201007140045.html

 

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信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)

   まえがき
 
 筆者が11歳くらいの頃に起きた事故である。長崎屋火災と並んで、今でも妙に印象に残っている事例だ。
 で、今になって事故の記録を読んでいると、印象に残るのも当然だなと思う。これほどの正面衝突事故でカラーの記録写真が残っているのは、おそらく戦後の事例では他にないだろう。「お父さん、電車って正面衝突したらどうなるの?」と聞かれたらこの事故の写真を出すしかないという唯一の事例なのだ。
 しかしこの事故、発生するまでの経過がどうもややこしい。八高線の事故もそうだったが、正面衝突というのは経緯が複雑になりがちらしい。
 よってルポを書くに際しても、「事故が起きるまで」の記述だけが妙に長ったらしくなってしまった。まあそのかわり、可能な限り分かりやすくまとめたつもりである。よろしければお付き合い頂きたい。
 
   1・事故以前
 
 まずは、この図を見て頂きたい。
 
 
 貴生川(きぶかわ)駅と信楽(しがらき)駅という2つの駅の間に、1本の線路が走っている。
 そして途中には、小谷野信号場というものがある。
 この線路で電車がすれ違うことができるのは、小谷野信号場だけである。
 貴生川駅から信楽駅に向かって下り方向に進む電車と、逆に信楽駅から貴生川駅に向かう上り電車は、この小谷野信号場ですれ違う。そうすることによって安全が確保できるという寸法である。でなけりゃ正面衝突だ。
「そんなにうまくいくもんかね?」と一瞬思われるかも知れないが、これがうまくいくのである。何しろこの信号場は全てが機械仕掛けだった。片方の駅から電車が出発すると、信号場でそれを感知して、次にもう片方の駅から出た電車を停めてくれるのである。
 つまり後から出発した電車は、機械の采配によって信号場の待避線(図で言うと、横に膨らんだほうの線路)に寄せられて、先に出発したほうの電車が通過するのを待つことになるのだ。なるほど、これならスムーズにすれ違うことができる。
 ところが、このシステムを癪に思っていたのがJR西日本(以下JR西)である。このシステムに従っていては、後から出たほうの電車は小谷野信号場でずっと待っていなければならない。この待ち時間がJA西にとっては面白くなかった。
 JR西がそう考えるのには理由があった。
 この、貴生川駅から信楽駅までの間の路線「信楽高原鐵道」は、もともとは廃止になった旧国鉄信楽線を自治体が買い上げたものだった。第3セクター鉄道というやつである。
 JR西にしてみれば、自分とこは旧国鉄の直系であり押しも押されぬ大企業。一方あっちは、国鉄再建法のおこぼれに預かっただけの、田舎の「鉄道屋」に過ぎない。そんなポッと出の鉄道屋が、我々を差し置いて線路を走行するとは何事だッ! というわけだ。
 また、列車運行上の問題もあった。信楽駅は他の線路と交わっておらず、1本の線路しか通っていない。しかし貴生川駅は、信楽高原鐵道のみならずJR草津線も通っている。ヘタに電車が貴生川で足止めを食らうと、他の列車のダイヤにも遅れが出てしまう。これはますます面白くない話だった。
 そこでJR西は、信楽高原鐵道と、信号屋さんとの三社での会議の際にこう提案した。
「仮に、貴生川から信楽に向かう電車に遅れが出たとします。その場合、先に信楽駅から出発した電車は、必ず小野谷信号場で待っててくれるようにできませんか?」
 要するに、「俺のほうが遅くても、俺に道を譲れ」というわけである。
 さらに、JR西は驚くべき提案をしてきた。上記のような列車の行き来ができるように、JR西のほうで信号機をいじれるような仕組みを取り入れたいというのだ。
 つまりアレだ。貴生川駅からの電車の出発が遅くなりそうな時は、信楽駅から出発した電車が必ず小野谷信号場で停止するようにしたい。そのため、小野谷信号場の信号機を俺のほうで自由に操作できるようにさせろ、というのである。
 この提案に驚いたのは、信号屋さんである。
「ちょ、ちょっと待てアンタ。そんなことしていいわけないだろ!」
 先述したように、JRの路線と信楽高原鐵道は別のものである。いくらJRでも、よその線路の信号機を勝手にいじっていいわけがない。
「ふ~ん、それじゃ仕方ありませんね」
 ここでJRはごり押しをせず、信楽高原鐵道と話し合った。そして、最終的には以下のような仕組みにすることで話がついた。
 その仕組みとは、こうである。
 例えば、まず信楽駅を出発した電車があり、その後で貴生川駅を出発する電車があるとする。
 するとまず、JR西と信楽駅が電話で連絡を取り合う。そして問題がなければ、信楽駅のほうで、先に出発した電車が小谷野信号場で停まるように機械を操作するのである。
 まずJR西としては「俺のほうが遅くても、俺に道を譲れ」という主張は通した形である。また、信楽高原鐵道の信号はあくまでも信楽駅の側でいじることになるので、先ほど信号屋さんがビビッたような掟破りになることもない。
 こうして信楽駅には、小谷野信号場の信号を操作できる「抑止ボタン」が設置された。これによって、JR西から要請があった場合は、自分とこから先に出発させた電車を小谷野信号場に停めておけるという寸法だ。
 なんだかおかしな話ではあるが、とりあえずこれでめでたしめでたし――のはずだった。
 しかし、JR西はもっとおかしなことを企んでいたのである。先の会議が終わったあとで業者に直接電話をかけ、信楽駅の「抑止ボタン」をとっぱらわせたのだ。そして、小谷野信号場の信号を自由に操作できる装置を取りつけさせたのである。要するにJR西は、最初から信号屋さんはおろか、信楽鐵道の言うことを聞くつもりはなかったのだ。
 この時にJR西が取りつけさせた装置が、悪名高い「方向優先テコ」である。これを操作するとJR西の進行方向だけが常に優先されるという、実におめでたいテコだ。
 せっかくなので、以下ではこれを「オレ様優先テコ」と呼ばせてもらおう。
 いやはや、実におかしな話である。まあでも、これで本当にめでたしめでたし……ではないから問題なのだ。まだこの先があるのである。変なことを企んでいたのはJR西だけではなかった。信楽高原鐵道がわでも、これまたヘンテコな掟破り計画が進行中だったのである。
 その計画とは、「小谷野信号場の信号と、信楽駅の信号を連動させちまおう」というものだった。
 これは、どうやらJR西のオレ様優先計画のような陰湿なものではなく、2つの信号が赤なら赤、青なら青と同時に変わることで、電車の進行をスムーズにしようとしたものらしい。
 さあ、ここまでが前段である。こうして信楽高原鐵道には、不穏な空気が立ち込め始めたのであった――。
 
   2・事故当日
 
 1991年5月14日。周辺の山々には山ツツジが咲く、新緑の季節である。
 この日の午前9時30分、JR西の臨時快速列車501D「世界陶芸祭しがらき号」は信楽駅に向かって京都駅を出発した。この日の始発である。
 車両には、信楽で行われている「世界陶芸祭セラミックワールド‘91」に足を運ぶべく716名の乗客が乗り込んでいた。乗車率は約2.5倍で超満員の状態である。
 この「しがらき号」は50分ほどで貴生川駅に到着する。そして、そこから信楽高原鐵道に入り込んで信楽駅に行くという予定である。
 しかしちょっとした問題があった。おそらく乗客が多すぎるためだろう、9時30分の発車というのが、そもそも定刻の5分遅れだったのだ。
 こういう時にどうするかは、JRでちゃ~んと取り決めてある。「オレ様優先テコ」の出番である。
 このテコさえあれば、貴生川駅の出発時刻が定刻より遅れても、信楽駅からの上り列車は小野田信号場で待っていてくれる。こうしてオレ様は優先的にスムーズに進行できる、というわけだ。
 このような次第で、優先テコが作動した。
 
   ☆
 
「あれ? なんで赤信号のままなんだ」
 混乱したのは信楽駅である。上り534D列車の発車時刻になったというのに、なぜか駅の中の信号が赤のままだ。青にならないと出発できないやんけ。
 しかしこれは故なきことではなかった。
 思い出してほしいのだが、信楽駅は、小野田信号場と信楽駅構内の信号が連動するように改造しているのである。
 そしてこの日は、前述のように、JR西が「オレ様優先テコ」で信号を操作していた。そうして、信楽駅を出発した電車が小野田信号場で足止めされるようにしているのだ。
 JR西としては、信楽駅を発車した電車が小野田信号場で停まっていてくれればそれで良かった。そうすれば、信楽駅発の電車に道を譲ってもらう形ですれ違えるからだ。
 だが今の状況では、小野田信号場が赤になっていることで、信楽駅の信号も連動して赤になってしまう。JR西の思惑とは裏腹に、信楽駅発の電車は、小野田信号場で待つどころか駅からの出発すらもできなくなっていたのである。
 もちろん「オレ様優先テコ」の存在など知る由もない信楽駅の駅員たちは、首をかしげるしかない。今は電車を出発させるべき時刻なのだ。とすると駅の中の信号は青になるはずだし、それと連動して小野田信号場も青になっているはず。ただそれだけのはずだった。
「どうしましょう? 赤のまんまじゃ出発できませんよ」
 駅員たちは困り果てた。当時、信楽でイベントが開催されていたことは既に述べたが、信楽駅も大量の観光客たちを輸送するのに大わらわ。こんな時に信号の異常なんて冗談じゃない! という空気だった。
「ええい面倒臭い、どうせ故障か何かだ。青に変えちまって発車させろ!」
 結果、そのような判断が下された。
 これがいかに危険なやり方であるかは、当研究室にお馴染みの方はお分かりのことと思う。こういう、一本の線路で上りと下りが交互に行き来している場合、異常時には「人間タブレット」による「指導方式」で安全を確認してから発車するのが鉄道業界のルールである。
 しかし、こういう言い方は若干アレだが、信楽高原鐵道は第三セクターであるため、生粋の鉄道員に比べると従業員の安全意識が低かった。彼らは上司の判断通りに駅構内の信号を手動で青に変えると、534D上り列車を発進させてしまったのだった。
「大丈夫ですかね? もし貴生川駅から電車が来てたら正面衝突ですよ」
「なあに大丈夫さ。前にも同じことがあったけど、小野谷信号場の誤出発検知装置のおかげで問題なかったじゃないか」
「なるほど、そうですね」
 そう、以前にも似たようなことがあったのだ。具体的な日付を言えば4月8日と12日、それに5月3日もである。それらの日にも、信楽駅では駅構内の信号が赤だったのを無理やり青にして電車を出発させた経緯があった。この時もやはり「オレ様優先テコ」の影響があったのだろう。
 で、その時はなぜ大丈夫だったのかというと、今のエア会話にもあった通り「誤出発検知装置」というものがあったからだ。
 この装置は、まあ要するに安全装置である。例えば、信楽駅から赤信号で無理やり電車を発車させるとこれが作動する。そして、反対側から来ている貴生川駅発の電車を、小野谷信号場の待避線に寄せさせて、赤信号にも関わらず「誤出発」した電車をかわりに通すというものだ。
 つまり「信号無視の電車が来るぞ! 危ないからよけろ!」というわけである。これがあるから、信楽駅の駅員たちは「赤信号でテキトーに発進させても問題ないよ」と考えたのだ。
 状況を少しまとめてみよう。
 まずJR西はこう考えていた――「オレ様優先テコ」のおかげで、信楽駅から出発した電車は小野田信号場で停まっていてくれるだろう、と。
 いっぽう信楽高原鐵道はこう考えていた――「誤出発検知装置」のおかげで、JR西の電車は小野田信号場で停まっていてくれるだろう、と。
 しかしこの日、「オレ様優先テコ」はかえって現場の判断を誤らせてしまい、さらに言えば、よりにもよって「誤出発検知装置」は故障中だったのだ。というわけで、あっちが停まってくれるだろう、という両者の期待は完全に裏切られたのだった。
 ついでに言えば、小野田信号場という、この機械仕掛けのすれ違いシステムが導入されたのが3月のことだった。実に皮肉なことだ。安全確保のために導入されたシステムが、人為的にあれこれいじり回されたせいで、設置後たったの2か月あまりで大事故を誘発してしまったのだから。
 こうして事故は起きた。貴生川駅を出発した「世界陶芸祭しがらき号」と、信楽駅を出発した電車はものの見事に正面衝突。時刻は午前10時40分、場所は小野谷信号場よりもちょっと信楽寄りのあたりだった。
 現場は修羅場だった。
 どのくらいひどかったのか、ご存じでない方はちょっと検索して写真で確認してみるといい。あんな風にめちゃくちゃになった車両に観光客が鮨詰め状態だったというのだから、その凄惨さは推して知るべしである。
 死者は42名、負傷者は614名に上った。
 
   3・捜査と裁判
 
 さっそく滋賀県警は捜査を開始した。当時の新聞などを見ると、とりあえず信楽高原鐵道がわが追及されているようである。
 まあそれも当然だろう。とにかく、赤信号なのをろくに確認もせず青に切り替えているのだ。電車の運行システムに明るくない素人でも、信号無理は絶対駄目だろう、ぐらいは考える。
 JR西も、最初は「いやあ悪いのは赤信号で電車を出発させた信楽高原鐵道ですよ、当たり前じゃないですか~」という態度だったらしい。
 ところがここで、例の「オレ様優先テコ」の存在に気付いた人物がいた。ノンフィクション作家の佐野眞一である。
 おいおい、なんだこの「優先テコ」。事故当日の信楽駅の混乱はこいつが原因じゃないのか――!?
 というわけで、佐野はこの「優先テコ」の存在を即座に報じた。運輸省にも信楽高原鐵道にも届け出を出さずに設置されたこのテコは、JR西の安全管理無視の動かぬ証拠である、と。
 これで、責任追及の流れが変わった。最初は信楽高原鐵道の過失責任だけに向けられていたマスコミと警察の目が、JR西にも向かっていったのだ。
 もともと、JR西は「オレ様優先テコ」の存在を完全に隠蔽するつもりだった。ところがこの報道のせいで隠し切れなくなり、一気に責められる立場になったのである。
 しかし、JR西はそんなことではくじけない。どうやらどこまでも「オレ様優先」なのがこの企業の体質らしく、取り調べや裁判においても徹底して戦った。
 例えば、県警の取り調べに対しては、あらかじめJR内部の打ち合わせに沿った供述のみを行う。また全ての担当者はセクト主義を前面に押し出して、責任転嫁と責任逃れに終始。あげく「JRも被害者である」という意識に基づき、徹底的な証拠隠滅を行う。と、こういう塩梅である。下手な犯罪組織よりたちが悪い。
 だが、裁判ではJR西はお咎めなし。信楽高原鐵道の運行管理者2名と、信号設備会社の技師1人が、執行猶予付きの有罪判決を言い渡されるにとどまった。
 世間には、「JR西もこの時に有罪判決を受けるべきだった。そうすれば少しは企業体質も変わって、後の福知山線事故だって防げたかも知れない」という意見もある。しかし後述するが、刑事裁判について言えば、この判決は妥当だったのではないかと筆者は思う。
 ただ民事裁判では、さすがのJR西も責任なしというわけにはいかなかった。1999年の一審と2002年の控訴審を経て、信楽高原鐵道と一緒に過失が認定されている。
 それでもJR西の「戦い」は続いた。遺族への補償のために支出した費用のうち、9割を信楽高原鐵道等々が負担するよう求めてきたのだ(これが2008年のこと)。なんか、先の民事で上告できなかった鬱憤を晴らそうとするかのような変な裁判である。
 これについては、結局ついこの間の2011年に決着がついている。だが、ウィキペディアで読んでみても、何がどうなったのかよく分からなかった。とりあえず、JR西に若干のゴネ得があったようだ。
 
   4・筆者の感想
 
 ここからは、この事故に対する筆者の感想を述べたい。「きうりがまた何か語ろうとしてるよ」と思われた方は、ここで読むのを切り上げても結構である。
 この信楽高原鐵道の事故を調べるにあたり、若干の書籍とインターネットの情報にあたってみた。だがそれでどうも奇妙に感じたのは、どこでも判で押したように「JR西の無罪はおかしい」「JR西にも責任はある」「JR西はあの時刑事罰を受けるべきだった」……と書かれていることだった。 例の「オレ様優先テコ」の存在を暴露したノンフィクション作家・佐野眞一もその著書の中で、自分はJR西を有罪に追い込めるよな証拠を見つけた――というような趣旨の文章を書いている。
 筆者が奇妙に感じたのは、事故の経過があれほどややこしいのに、どうして皆はっきり「JR西は有罪!」と声高に主張できるのかということだった。
 それでさらに調べてみた。これだけ声高に叫ばれているのだから、きっとどこかに因果関係の立証がきちんとなされた文章があるに違いない、それは筆者のような素人にはよく分からない専門的なことなのだろう――そう考えて。
 しかし、そうした文章はどこにもなかった。佐野眞一にしても、例の「優先テコ」の存在がなぜ刑事裁判での有罪の証拠になるのか、その点は詳しく説明していない。
 試しに、読者の皆さんにも聞いてみたい。この事故の経過については、必要な点を大まかに書いたつもりだ。だがそれを読んで「この正面衝突は誰それのせいで引き起こされたのだ」とはっきり理解できただろうか。
 できないと思う。
 たとえばJR西の「優先テコ」は、それ自体は不正な代物ではあったが、それによって必ず事故が起きるわけでもない。むしろあのテコは、事故を起こさずに、なおかつオレ様優先で行けるように、というコンセプトで作られたとも言えるのである。
 では信楽高原鐵道による信号機の改造が原因だったのだろうか。だがこれも、それ自体で事故が起きるわけではない。誤出発検知装置もあった。
 ならば、誤出発検知装置が壊れてしまったのが事故原因だったのだろうか。
 確かにこれは、この事故の中で一番不幸な要素だったかも知れない。とはいえこれも、JR西と信楽高原鐵道が信号の違法改造を行わず、なおかつ信楽高原鐵道の赤信号による出発がなければ問題はなく、誤出発検知装置が壊れたから必ず事故が起きるというもんでもない。
 となるとやはり、列車運行上のルールを破った信楽高原鐵道が一番悪い、とするのが妥当かも知れない。結論を出すとすればやはりこの程度であろう。だからまあ、裁判の判決自体は妥当だったのではないかと思う。詳しい判決文までは読んでいないが。
 誰も、起こしたくて事故を起こすわけじゃない。大抵の事故災害で責任主体が完全に明確なのはまれで、この事故だって、単体では大きな問題にならないはずの過失が不幸にも積み重なり、それで発生したのである。
 ではなぜ巷であそこまで「JR西は有罪!」と言われているのかというと、これは要するにバッシングなのだと思う。筆者が横井秀樹現象と呼んでいるアレである。JR西はあくどい企業だから、いっそ有罪扱いしてしまおう、という考え方だ。
 確かにJR西の、事故に対する対応はひどい。この信楽高原鐵道事故でも福知山線の事故でも、どうしてこの企業はここまで世間の要請が読めないのだろう、人の神経を逆撫ですることばかりするのだろうと不思議になる。
 そしてこの事故の経緯を見れば、なるほど信楽駅で混乱が生じたのはナントカ優先テコなんぞを無許可で設置したせいだし、しかもそのテコの設置は内緒だったし、挙句バレそうになって隠蔽までしようとしている。これでは、JR西許すまじ、と言われるのも無理はないだろう。
 だがやはり「それはそれ、これはこれ」である。先述したが、JR西の行った行為が、具体的に事故発生の原因になったという証拠はどこにもない。ちょっとあくどい奴だからといって、やってもいない事件の犯人に仕立て上げるのはいかがなものか(民事になると話は別だが)。
「オレ様優先」のいい加減な大企業をただそうとするなら、まずその人は自分自身のいい加減さをただすべきだろう。――と述べる筆者もまた、櫂より始めよ、なのであるが。
 もちろん、JR西のような企業を刑事罰に問えないからといって、完全に無罪放免、あとは一切責めることができない、などということは決してない。刑事責任を問えないからといって、社会的責任の一切を免れるわけではないからだ。
 要は、個々の主体に対して適切に責任を負わせるのが大事なのである。特定の主体に対して、適切な場で、適切な形で、責任を取らせたり責任を果たさせたりすべきなのだ。そのために必要なのは、ある責任主体の責任の範囲を明確に示すような「責任マップ」なのではないかと思う。
 我々が心の中でそうした「責任マップ」を持っていれば、気に入らない奴は刑事裁判で有罪にしちまえ! と無茶苦茶なことを叫ぶこともなくなるだろう。そして事件事故が発生しても、適切な主体に、適切な形で、責任を取らせることができるようになるのではないだろうか。そうした営みの果てに、調和の取れた秩序ある人間社会が出来上がるのだと思う。子供じみたユートピアかも知れないが……。
 そんなことを考えさせられた、信楽高原鐵道事故であった。
 
【参考資料】
◆ウィキペディア
◆JSI失敗知識データベース
◆佐野眞一『クラッシュ 風景が倒れる、人が砕ける』新潮文庫(2008年)
◆山形新聞
 

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三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)

 事故の舞台となったのは、三陸鉄道南リアス線。岩手県大船渡市の盛(さかり)駅と、釜石市の釜石駅を結ぶ路線である。

 もとは国鉄のものだったらしい盛線と、なんだかよく分からないが「日本鉄道建設公団建設線」とやらを、第三セクター「三陸鉄道」がまとめて引き受けつつ開通したものである。

 これが1984(昭和59)年4月1日のこと。細かく言えば、第三セクター「三陸鉄道」が開業したのは、この南リアス線が開通したのと同時だった。

 その名の通り、沿線の海岸はみ~んなリアス式海岸だそうな。ただ、ほとんどの区間は長大なトンネルになっているため、海が見える箇所はあんまりないらしい。

 ともあれ今では、気仙沼線・大船渡線・山田線・三陸鉄道北リアス線・八戸線とともに、「三陸縦貫線」を構成する路線の一つとなっているらしい。

 さてそんな路線で事故が発生したのが、1994(平成6)年2月22日のことである。

 件の南リアス線小石浜~甫嶺間には、矢作川という川を渡る橋がある。15時20分、そこを通りかかった普通列車が突風にあおられて引っくり返った。

 この列車は、36-100形と36-200形からなる2両編成で、盛発久慈行きのものだった。筆者はここの地形を見たわけではないが、コケたのは橋の上ではなく陸地で、築堤下への落下で済んだのは幸いだったのかも知れない。水の中に落ちていれば被害はもっと大きかったのではないだろうか――結果として死者はなく、5名の負傷で済んでいる。

 もちろん、陸地なら転覆しても大丈夫、なんてことを言うつもりはない。車両は2台とも廃車となり、紛うかたなき大惨事である(余談になるが、予備車が不足したため36-500形を代替製造することになったとか何とか。鉄道の何とか形とかには興味がないのでサッパリだ)。

 この事故を受けて、その後現場には暴風ネットや風速計が設置されるようになった。また列車無線の整備や運行規定の見直しが行なわれ、今でも三陸鉄道では毎年2月22日を「安全を考える日」と定めているという。

 ウィキペディアではこの事故について、「乗客が撮影中、事故に遭遇した映像はあまりにも有名。」とちょっと下手な文章で書き添えられていたが、この映像というのがどんなものなのか筆者は知らない。とりあえず、あまりにも有名だそうです。

 なお、この三陸鉄道南リアス線は、かの東日本大震災ではもろに影響を受けて、約2年間の全線不通を余儀なくされた。運行が再開されたのは2013(平成25)年の4月3日で、現在は震災を乗り越えた路線として「震災学習列車」というユニークな列車も運行されている。

 

【参考資料】

◇『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

◇ウィキペディア

◇三陸鉄道ホームページ

http://www.sanrikutetsudou.com/

 

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