目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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バス事故

バス事故年表(参考)

 今では「バス」と呼ばれているあの乗り物は、かつて「乗合自動車」と呼ばれていた。また東京の市営バスも「円太郎」という名称だったことがあるという。

 さすがに「円太郎」ではその名称だけでバス事故のカテゴリーからはみ出してしまい、調べるのが難しそうだが……。

 「乗合自動車」という表記でのバス事故は、最も古いものでは大正時代まで遡ることが可能なようだ。ただしそれは人身事故で、それ以降になると昭和3年くらいのものに行き当たる(ただし未確認)。

 以下に掲げる年表では、報道されたものとしてはっきり確認されたものを記してある。細かく整理したわけではないので、年代の表記がごちゃごちゃしているが、ご勘弁頂きたい。いずれ段階を踏んで修正する予定である。

 おそらくバス事故というカテゴリーでこのようにまとめているのは当研究室が最初だと思われるので、筆者自身もこの年表を参考にしながら執筆していくつもりである。

 

【戦前】
1932年(昭和7年)1月3日
大軌(現在の近鉄)と奈良自動車バスの踏切衝突事故。死者15人

 

昭和8年4月23日
宮崎でバスと日豊本線衝突で7人死亡

 

1937年(昭和12年)7月12日
福島で常磐線と定期バスとの衝突事故で死者9人

 

1937年(昭和12年)10月18日
島根の坂本峠で省営バスの転落事故で死者11人

 

昭和15年5月26日
山梨の大月でバス転落、5人死亡

 

1942年(昭和17年)3月21日
兵庫で山陽本線と神姫バスの衝突事故で死者11人
 ※ただし詳細な記録は大手新聞にはなし

 

1942年(昭和17年)3月27日
宮崎の高岡で省営バスの転落事故で死者5人

 

1942年(昭和17年)9月7日
神奈川の川崎で東急(いまの京急)と京浜バスの衝突事故で死者9人
 
1942年(昭和17年)10月23日
東京の杉並区で帝都線(現在の京王)と日本無線のバスの衝突事故で死者5人

 

1943年(昭和18年)12月13日
新潟で信越線と中越バスの衝突事故で死者5人
 
1943年(昭和18年)12月14日
宮崎で日の丸バスの転落事故で死者7人
   
昭和19年4月7日
山梨の早川でバス転落、16人死亡
http://www.yy-net.org/blog/01099/blog/archive/2009/06/252046162220.html
(慰霊碑があるようだが、事故の仔細については不明)
 
昭和19年9月13日
山形の鶴岡でバスと羽越線衝突、7人死亡

 

1944年(昭和19年)9月30日
愛媛で宇和島自動車バスの転落事故で死者4人
 
【戦後】
昭和22年6月28日
和歌山の中辺路で省営バス転落、5人死亡

 

昭和24年5月7日
広島の加計でバス転落、12人死亡

 

昭和24年11月13日
仙台でバス転落、3人死亡

 

昭和25年1月4日
長野で犀川にバス転落し4人死亡 
 
昭和25年2月11日
熊本の松尾でバスが池に転落、22人死亡
 
昭和25年4月14日
神奈川の横須賀でバス火災、17人死亡
 
昭和25年11月7日
物部川事故、33人死亡
 
昭和25年12月18日
埼玉の大宮でバス踏切事故、13人死亡
 
昭和26年7月15日
天竜川事故、28人死亡?
 
昭和26年7月26日
札幌でバス火災、7人死亡

昭和26年10月13日
栃木の佐野でバス踏切事故、7人死亡
 
昭和26年11月3日
愛媛の宇和島でバス火災、33人死亡

 

昭和26年11月3日(上と同日)
千葉の船橋でバス踏切事故、6人死亡
 
昭和28年8月14日
広島の安佐でバス転落、10人死亡
 
昭和29年1月26日
福井でバス転落、11人死亡
 
昭和29年10月7日
佐賀の嬉野でバス転落、14人死亡
 
昭和29年10月24日
三重の二見で海にバス転落、13人死亡

 

昭和30年5月14日
北上川事故、12人死亡

 

昭和31年1月28日
愛媛の長浜で海にバス転落、10人死亡

 

昭和31年9月9日
福井の武生でバス転落、10人死亡

 

昭和32年6月28日
高知の中村でバス転落、5人死亡

 

昭和33年6月10日
京都の亀岡でバス踏切事故、4人死亡

 

昭和33年8月12日
神戸でバス踏切事故、4人死亡

 

昭和34年1月1日
和歌山の高野でバス転落、9人死亡

 

昭和34年1月3日
大阪の新庄でバス踏切事故、7人死亡

 

昭和34年5月23日
岡山の建部でバス転落、5人死亡
 
昭和34年6月5日
長野の安曇野でバス転落、5人死亡
 
昭和34年12月2日
仙台でバス転落、4人死亡
 
昭和35年7月24日
比叡山でバス衝突転落、28人死亡
 
昭和35年12月2日
横浜でバス踏切事故、8人死亡
 
昭和35年12月12日
岡山の真庭でバス踏切事故、10人死亡
 
昭和35年12月26日
長野の松本でバス転落、4人死亡
 
昭和36年11月5日
京都の向日町でバス踏切事故、7人死亡
 
昭和37年10月17日
北海道の渡島で海にバス転落、14人死亡
 
昭和38年5月13日
岡山の久米で川にバス転落、5人死亡
 
長崎の北松浦でバス転落、9人死亡
 
昭和39年1月15日
岡山の倉敷でバス転落、4人死亡
 
昭和39年3月22日
奈良の高田でバス転落、9人死亡
 
昭和39年9月22日
長野の佐久でバス転落、6人死亡
 
昭和40年3月2日
和歌山の新宮で川にバス転落、8人死亡
 
昭和40年12月21日
栃木の日光で湖にバス転落、5人死亡
福岡の大牟田でバス踏切事故、5人死亡
 
昭和42年4月29日
新潟の長岡でバスとトラック衝突、6人死亡
 
昭和42年6月18日
富山の八尾でバス転落、7人死亡
 
昭和43年5月15日
山梨の韮崎でバスとトラック衝突、6人死亡
 
昭和43年7月14日
兵庫の姫路でバス踏切事故、7人死亡
 
昭和43年8月18日
飛騨川事故、104人死亡
 
昭和44年3月19日
岡山の玉野で池にバス転落、9人死亡
 
昭和45年8月29日
徳島の勝浦で川にバス転落、5人死亡
 
昭和45年11月3日
岐阜の高根でダムにバス転落、10人死亡
 
昭和47年8月9日
岐阜の揖斐でバス転落、10人死亡
 
昭和47年9月23日
長野の黒姫で川にバス転落、15人死亡
 
昭和47年11月25日
静岡の東伊豆でバス転落、6人死亡
 
昭和48年10月10日
岩手の江刺でバスとダンプ衝突、9人死亡
 
昭和49年3月7日
福島の三島でバス転落、8人死亡
 
昭和50年1月1日
スキー客送迎バスが長野県大町市近くの青木湖に転落、24人死亡、15人重軽傷(青木湖バス転落事故)

 

1977年(昭和52年)7月6日
長野県中野市岩井の国道で定期バスと乗用車が衝突、バスが3メートル下の草原に転落、68人重軽傷
 
昭和52年8月11日
山梨県甲府市の昇仙峡で観光バスが転落、10~11人死亡、35人重軽傷
 
昭和53年1月14日
静岡の湯ヶ島で地震によりバスに落石、4人死亡
 
昭和54年10月5日
北海道の深川でバス転落、6人死亡
 
昭和55年8月19日
新宿駅バス放火、6人死亡

 

1981年(昭和56年)10月19日
千葉県野田市の国道で通園バスにトラックが衝突、園児2人が死亡、10人が重軽傷

 

1982年(昭和57年)10月2日
静岡県駿東郡小山町の町道でセンターラインを越えた乗用車が対向のマイクロバスに正面衝突、2人死亡、14人負傷
 
昭和58年6月5日
岡山県上房郡の県道で兵庫県の老人会員16人が乗ったマイクロバスが約55メートル下の谷底に転落、5人死亡、12人が重軽傷

 

1983年(昭和58年)8月6日
群馬県群馬榛名町の国道406号で、マイクロバスと乗用車が正面衝突、1人死亡、20人が重軽傷

 

1983年(昭和58年)11月10日
山形県大蔵村の県道で旅館の送迎用マイクロバスが転落、酒田市の老人クラブ会員2人が死亡、23人が重軽傷

 

1984年(昭和59年)10月18日
群馬県伊香保町の県道で、東京都品川区の観光バスが道路わきの土手に衝突。車内旅行の会社員ら26人が怪我。
 
昭和60年1月28日
笹平ダム事故、25人死亡

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 

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北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)

 襟裳岬からみて、国道336号線を北西へ走っていくと、海沿いに平宇という地域がある。

 

 北海道様似郡様似町平宇――。

 

 今回ご紹介するのは、この町で発生した事故である。終戦直前のタイミングだったため、おそらく中央ではほとんど報じられることのなかった「知られざるバス事故」だ。

 

   ☆

 

 1945(昭和20)年3月21日のことである。

 

 お昼を少し過ぎた頃、一台のバスが、北海道様似村(現在の様似町)平宇の国道・省営自動車日勝線を走行していた。

 

 このバスは当時の鉄道省が運営していた、いわゆる省営バスである。営業が始まったのは昭和18年8月1日と、ついこの間だった。

 

 終点は、幌泉村の庶野という地域だ。地図で言えば、様似村から襟裳岬の北側を横断するルートである。

 

 さて、このバスの状態が問題だった。定員29名のところに、乗客乗員合わせて48人が乗り込んでいたのだ。完全に定員オーバーの鮨詰め状態で、まずはここからしてアブない雰囲気である。

 

 こんな乗車率になったのには理由があった。バスの運行時刻に遅れが出ていたのだ。

 

 少し詳しく書くと、もともとは、幌泉からの上りバスが本様似まで来て折り返して、それで下り便となり、幌泉行き日勝線旅客第5便に切り替わるというのが本来のダイヤだった。だがこれに遅れが出てしまったため、下りバスが急遽手配されたのである。この下りバスが途中で上りと出くわせば、乗客に乗り換えてもらうという手筈だったそうな。

 

 ではその上りバスの「遅れ」はなぜ生じたかというと、その原因は戦時中ゆえの物資不足にあった。当時はろくな燃料がなく、ガソリンよりもはるかに馬力の劣る「ガス」でバスを動かしていたのである。

 

 それでも、ガスボンベでも搭載していれば少しはさまになったかも知れない。ところがこの当時のここいらのバスは、車両後部で薪を焚き、そのガスで走行するという代物だったのである。いわゆる代用燃料車だ。

 

 この代用燃料車の馬力のなさといったらもう笑ってしまうほどで、バス会社の開業初日からしてトラックで牽引しながらエンジンをかけたほどだったという。また坂道では乗客が押すこともあったとかで、これではダイヤに遅れを出すなというほうが無理な話だ。

 

 とことん、モノが不足していた時代だったのだ。燃料の問題はさておいても、バスそのものも故障続きだったというから、こういっちゃなんだがもともと不良品というか粗悪品だったのだろう。

 

 このような事情もあって、ようやく準備された下りの代行バスに、待ちかねた乗客たちは我先にと乗り込んだのだった。人々の中には、出征兵の送別客も大勢いたという。

 

 これだけでも、いつ大事故が起きてもおかしくない状況である。だが問題は他にもあった。当時このバスには、当研究室の読者ならば「あ~あ」といいたくなるようなブツが搭載されていたのだ。

 

 そのブツとは、映画のフィルムである。

 

 どうもこの頃のバスは、こうした物品の運搬も請け負っていたらしいのだ。当時のことを知る方の話によると、法律で決まっていたかどうかは不明だが、限られた物品をバスで運ぶことは確かにあったという(また戦後の一時期も、手荷物程度のものならば切符を切って運搬することもあったそうだ)。

 

 そして、これは「こち亀」でも描かれていたことがあるが、戦前から戦後にかけて使用されていた映画のフィルムというのは、発火しやすい危険な素材でできていたのである。これの発火による事故事例は、当研究室でもいくつかご紹介してきた。

 

 このとき運搬されていたのは、35ミリフィルムが18巻。浦河大黒座から、幌泉の松川座へと運ばれる予定だった。

 

 フィルムは、平素は運転手の左横の位置に積まれ運ばれていた。だがこの日は先述の通り大勢の人がドッと乗ってきたため余裕がない。そこでこんなやり取りがなされた。

 

 駅の係員Tさんは言う。

「車掌さん、フィルムの積み込みをお願いしたいんですけど~」

 

 だが車掌のSさんはそれどろじゃない。

「あーもう忙しくて余裕ないよ! 運転手に積んでもらって!」

 

 この二人は女性で、しかもどちらも19歳という若さだった。物資どころか、みんな出征して人材も不足していたのだろう。

        

 一方、運転手は20歳の男性である。上位職なので「何やってんだ早く持ってこい」と声を荒げたか、あるいは女性二人の困っている様子に「オオ、どらどらもってこい持って来い」と様似弁で引き受けてくれたか……。

 

 ともあれ、運転席側の窓を通して、フィルムは受け取られた。そして積まれたのが運転席右横のバッテリーの上だった。

 

「なんでそんなところにバッテリーが?」

 

 その疑問はもっともである。そう、バッテリーは普通ならそんな場所にはない。このバスにおいても、本来ならば床下にあるべきものだった。だが当時は度重なる故障と修理のため、たまたまそこに裸で置かれていたのだ。

 

 また、フィルムの状況もよくなかった。普段は麻布袋で梱包されるところが、この時は映画ポスターでくるまれ、荒縄で十文字に縛られただけだったという。つまり熱を通しやすい状態でバッテリーの上に置かれてしまったのだ。

 

 この時の措置について、救出された車掌は後になって「先に新聞を積めばよかった」と回顧したという。「フィルムが安全な所に置かれたのを確認しないで『発車願います』と言って出発させた私が一番悪かった」――。

 

 こうしてバスは出発し、惨劇が起きたのは平宇を過ぎたあたりでのことだった。おそらく爆発音だろう、「大きな音」と同時に、フィルムが入れられていたブリキ缶が吹き飛んだのだ。梱包していた紙も燃え出した。

 

 わわわわ、こいつは大変だ! ――運転手は、慌ててフィルムを外へ投げ出そうとした。手掴みでやろうとしたのか、そのへんは不明だが、とにかくバスをきちんと停止させる余裕もなかったのだろう。ハンドルを取られてバスは横転、国道の築堤からはみ出すと、1メートルほどの高さを海浜に落下した。

 

 車内に乗客の悲鳴が響き渡る。さらに、横転のため脱出が困難になっていた車内では、発火したフィルムが蛇のように飛び散った。一部の乗客は衣服に着火し、たちまち煙が充満。この世の地獄である。

 

 鉄道事故の項目で安治川口ガソリンカー火災を紹介したが、あれと似た状況である。あのケースも、車両の横転に火災が加わったため大惨事になったのだ。

 

 事故を最初に発見し、通報したのは近くで遊んでいた子供たちだった。石蹴りをして遊んでいたところ、バスが黒煙を上げて燃えていたのだ。

 

 ただちに大人たちが駆け付け、救助活動が行われた。

 

 ちなみに、この事故の情報を筆者に提供して下さったIさんという方がおられるのだが、その奥様が当時現場にいたという。小学3年生で、第一発見者の子供たちの一人だった。救助活動の修羅場の中で立ち竦んでいたのを今でもご記憶されているそうだ。

 

 また、当時やはり子供だったIさんご自身も、病院での惨状を目の当たりにしている。そこは現場から4~5キロ離れた本様似の病院で、怪我人たちがかつぎ込まれていたのだった。その時の状況について、せっかくなのでメールで頂いた言葉をそのまま引用させていただく(文法的なところでちょっとだけ修正した)。

 

「太田、高田両病院の待合室、廊下はおろか玄関口まで30人の重傷者があふれ、爪や髪の毛の焼ける臭い、焼け焦げた衣服、熱さと痛さに耐えられず震え、痙攣を起こし、体を折り曲げてうめき声を発している阿鼻叫喚の惨状を記憶しております。」

 

 悲惨極まりない。たくさんのバス事故を紹介していると、事故事例それぞれの個別の悲惨さについてつい忘れがちだが、それを改めて自覚させてくれるような証言である。

 

 最初に火災に気付き、フィルムを投げ捨てようとした運転手も、ひどい火傷を負った。彼はそれでいながらも乗客の救助にあたり、翌日に亡くなっている。

 

 最終的には17名が死亡、13名が負傷した。国鉄の年表によっては死者13名と記録されているのもあるそうだが、これは死者が増える過程での数字だったか、あるいは負傷者数と間違えたか。

 

 さて、気になるのは補償である。

 

 一応、事故直後にはそれなりに支払われている。内訳は札幌鉄道管理局から50円、浦河駅長の名で20円、退院時の付き添い料が400円というものだった(被害者たちに一律に支払われたのかどうかは不明)。

 

 またさらに、それでは納得いかないと、10年後の昭和30年に被害者の一人が補償交渉を行っている。しかし国鉄様似自動車区に乗り込んだはいいものの「水掛け論」に終わってしまい、追い払われる形になってしまったとか。

 

 事故の情報をご提供下さったIさんも、またその周囲におられるという関係者の皆さんも、裁判が行われたという記憶はないそうである。

 

   ☆

 

 冒頭に書いた通り、筆者はこの事故のことをまったく知らなかった。中央の新聞で報道されていなかったためだ。

 

 だが一切報じられなかったわけでもない。Iさんから頂いた情報によれば、当時の北海道新聞の昭和20年3月23日付の記事で、「様似、幌泉間で満員自動車顚覆死傷者30名」という見出しで以下のように報じられているという。

 

「(札鉄局発表)21日12時50分省営自動車日勝線旅客第5便様似より幌泉方面に運転中車内に発火し急拠制動手配したるも右方にそれ高さ1メートルの築堤から海浜に横転し即死3名負傷者27名を出せリ、運転手は負傷したるも付近の部落民と協力救出につとめたるのち目下危篤状態にあり、原因取調中」

 

 記事にはさらに「5名死亡」という小見出しがあり、「右事故による重傷者は様似村太田、高田両病院に収容手当て中である死者次の如し」そしてその5名の住所と氏名が続いているという。

 

 よって、地元では知られているのだろう。「北海道の平宇でこういう事故があったよ」とIさんから指摘を頂いたのだった。これがなければ、筆者は永久にこの事故を知らなかったかも知れない。

 

 Iさんによると、赤旗新聞の付録として発行されていた「様似民報」に、この事故のドキュメントが連載されていたのだという。

 

 これは森勇二という郷土史研究家がまとめたもので、連載は1985(昭和60)年3月から2年に渡っていた。Iさんは図書館でそれを確認しながら当時の記憶を解きほぐし、筆者へ情報を提供して下さったのだった。

 

 ご協力頂いたIさんには、この場を借りて御礼申し上げたい。少しでも、事故の記憶の風化防止に役立てば幸いである。

 

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和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)

 事故の内容はとても単純である。

 1947年(昭和22年)6月28日、朝の7時10分。1台のバスが走行していたところ、道路で山崩れが起きていたのだ。前日は雨が降っており、それで山の地盤が緩んだものらしい。

 で、それを避けようとハンドルを切ったところ、滑って50メートル下の川へドボーン。5人が死亡した。

 面倒臭いのはここからである。一体この事故の発生地点がどこなのか、正確なところが不明なのだ。

 事故を起こしたバスは、和歌山県西牟婁郡(むろのこおり、とか、むるぐん、と読むらしい)近野村を出発した省営バスだった。そして当時の新聞では、事故が起きたのは「二川村高原の川合」とあるのだが、これは現在の「田辺市中辺路町高原」か「田辺市中辺路町川合」のどちらかを指すらしい。

 で、どっちなんだよ、という話である。

 どうも新聞記事を書いた人物は、高原と川合がごっちゃになっていたようだ。昔の新聞は、記者同士の電話による伝言ゲームや伝書鳩でもって情報をやり取りするしか手段がなく、このように地方ニュースに関しては情報がめちゃくちゃになることが珍しくなかったのである。

 手掛かりになりそうなのは、バスが出発した「近野村」と、それからバスが落下した「富田川」という名前の川である。近野村は現在の「田辺市中辺路町近露」であり、そこからとにかく富田川に隣接するような道路を走っていて転落したわけだから、地図を見るとその道路は国道311号線である可能性が高い。そしてこの311号線が通っているのは川合の方である。

 というわけでこの事故が起きたのは、「田辺市中辺路町川合」の国道と思われる。しかし慰霊碑があるという情報も特に見つからず、これ以上の詳細は不明である(※)。

 ちなみに事故が起きた道路はこの1週間前に開通したばかりで、しかもやはり昭和20年代には別のバス事故も起きており死傷者も出ているのである。どんだけ道路状況悪かったんだよと言いたくなる。どこに行っても当たり前のように舗装道路を走行できる今の時代がいかにありがたいものか、考えさせられる事例であろう。

 バス事故の歴史をざっと眺めていると、「道路状況の劣悪さ」「定員オーバー」「可燃物の出火」「運転手の疲労」などいくつかのパターンに分類することが可能なように思われる。

 

(※)余談になるが、この田辺市というのは2011年、台風12号によって「せき止めダム」ができたあの地域である。合気道の開祖・植芝盛平の出生地でもある。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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熊本県・松尾バス転落事故(1950年)

 1950年(昭和25年)2月11日のことである。

 事故が起きたのは、熊本県飽託郡松江村要江の梅洞堤という場所だった。

 この「梅洞堤」というのは、かつて熊本に存在した古い地名らしい。今では飽託郡そのものが熊本市に編入されたので完全に埋もれた形だが、とにかく当時は確かにそういう地区があったようだ。

 時刻は9時20分。この梅洞堤のカーブを、1台のバスが通過しようとしていた。

 このバスは九州産業交通というところで出しているもので、同県の玉名郡高瀬町を出発して熊本へ向かっているところだった。

 ただ実を言うと、このバス会社名も新聞によって諸説あるという。ある新聞では「熊本交通バス」とされているらしい。ただ「九州産業交通」と書いてある共同通信では転落したバスの写真が添付されるほど詳細な記事だったし、朝日でも同様の記述があることから、参考資料ではそちらが採用されている。よって当研究室もそれに準ずることにする。

 このバスの定員は35名。ところが当時は60名も乗車していた。詳しい資料がないので不明だが、なんだろう? 通勤ラッシュの時間帯でもないのにこんなにぎゅうぎゅう詰めだったというのは、何か理由がありそうだ。まあ今から見ると驚くほど交通が不便だった時代である。本数の希少なバスに大勢が乗り込むこともあったかも知れない。

 だがとにかく、このぎゅうぎゅう詰めが仇になった。定員をオーバーしまくっていたためバスは動揺し、ゆらゆらり。おいおいなんか危ないぞ、このバス大丈夫か?

 大丈夫ではなかった。乗客のものだろうか、当時のバス内には荷物が積まれていたらしく、これが運転手の腕に当たりハンドル操作を誤ってしまったのだ。

 そしてその場所が最初に述べたカーブだった上に、前夜の雨で地盤が緩んでいたから「ワッチャ~♪」である。13メートル下にあった養魚池へ転落、どつぼにはまってさあ大変。運転手や車掌ら22人が死亡、4人が重傷、27人が軽傷を負うという大惨事になったのだった。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)

 1950年(昭和25年)4月14日、神奈川県横須賀市で発生した事故である。

 時刻は午前11時30分頃。一台の大型バスが、横須賀市林5丁目11番地の国道134号線を走っていたところ、これがいきなり火を噴いたのだ。

 このバスは、横須賀駅発・京急三崎行き京浜急行のトレーラーバスだった。当時の乗客は50人ほどだったと言われており、そしてそのうち16人から17人が即死したという。ただし『横須賀市史』によると19人とも記述されているらしく、おそらく後で死者が増えたのだろう。

 火災の原因ははっきりしていた。生存者の証言によると、当時のバス内には、「こも」をかぶったガソリン缶らしきものが置いてあったというのだ。車内もなんとなくガソリン臭く、あげくそれに引火したのである。

 公共の場所に危険物が持ち込まれていたというだけでも時代を感じさせるが、引火した原因はそれ以上に「いかにも戦後だなア」と思わせる。このガソリンは、一人の乗客が闇売りの目的で所持していたものだった。そこに、別の客が煙草をポイ捨てしたせいでぽぽぽぽ~ん、と引火してしまったのだ(公共交通機関の車内で煙草のポイ捨て、というのも時代を感じるなあ)。

 うおっ、なにしやがる! アチアチアチチ! 持ち主の乗客は慌てて缶を外に捨てようとしたが――ここで外に捨てられてもやっぱり大惨事になっていたような気もするが――このトレーラーバスの窓には鉄の枠がはめ込まれており、それは不可能だった。そして悪いことに車内は木造。床に投げ捨てられたガソリン缶は、火炎を車内にまき散らした。

 さあ、なにしろものがガソリンなのでタダで済むわけがない。大火事である。通報を受けた警察、消防団、そして進駐軍が現場に駆けつけた。だがその時すでに現場のバスは消し墨状態で、焼死者はもはや男女の区別も判然としないような有様だった。負傷者は、病院や交番や付近の民家に担ぎ込まれて治療を受けたという。

 そして冒頭に書いた通りの犠牲者数となったわけだが、ここまで被害が大きくなったのには、当時の交通・輸送状況の事情と、それにトレーラーバスそのものの構造にもその原因があった。

 この事故のタイトルのみならず、ここまでの文章の中でも「トレーラーバス」という名称をずい分使ってきたが、読者の皆さんはトレーラーバスという乗り物がどんなものなのかご存知だろうか。

 終戦直後というのは、とにかく大量輸送が重要視された。なにせ戦争による破壊で交通機関が大ダメージを受けているから、少ない車両や船舶でより多くの人や物を運搬しなければならない。それはバスについても例外ではなく、戦後しばらくの間のバス車両製造は「いかに大型化するか」というテーマに焦点が合わせられていた。

 そこで、いち早く大型バスの製造と生産に乗り出したのが日野産業である。日野は終戦直後の1946年にはトレーラートラックT10/T20型を開発しており、それをベースにして作られたのがトレーラーバスだったのだ。

 トレーラートラックというのは、日本語で言えば「貨物牽引車両」のことである。運転席となる先頭車両と荷台部分とが切り離せるようになっているタイプだ。

 現在の日本でも、運転席後ろの荷台部分に貨物を乗せて走るセミトレーラーはごく普通に走っているが、当時のトレーラートラックはもっと豪快かつ単純だった。先頭の運転車両が、車輪付きの客車や荷台をゴロゴロと引っぱって進むという形態だったのだ。

 さらには終戦直後らしく、軍用車両の部品が各部に用いられたという。

 そして、このようなトラックをもとに造られたトレーラーバスは、まさに大量輸送時代のニーズに応えるものだった。一台で90人から100人が収容でき、しかしでかぶつの割には小回りが利くのも良かった。こうしてこのタイプのバスは、戦後の象徴と呼ばれてもおかしくない勢いでたちまち普及していったのである。

 今、筆者の手元には当時のトレーラーバスの写真がある。それを見ると、なるほど犬の頭のような形の先頭車両が、電車の車両にしか見えない巨大な箱型の客車を牽引しており、なかなかユニークな形であると思う。そして巨大で、今の時代の目線で見ると新鮮である。

 しかし今回ネタにされているこの事故事例では、トレーラーバスの構造が完全に災いした。このバスは運転席と客車が完全に分離しているから、客車でトラブルがあっても運転手は気付きにくいのだ。よって、火災が起きてからも運転手はごく普通にバスを走らせており、火の車になったバスがしばらくの間街中をブロロロと普通に走り続けていたのだった。なんと申しましょうか、この世のものならざる光景である。

 もちろん運賃の精算の関係もあるだろうし、客車には車掌がいた。そして運転席に連絡するためのブザーもあった。だがおそらく、ガソリンに引火して一瞬で猛火に包まれたであろう車内では、誰もブザーを鳴らす余裕はなかったのではないだろうか。

 トレーラーバスは、この後、急速に姿を消していくことになる。歴史的には、新たに登場した単体型バス(運転席と客席が一緒の車両にある、今の形態に近いバス)に主役の座を取って変わられたことになっているが、おそらくこの横須賀での火災も多いに影響しているに違いない。

 さらに、この事故が影響を及ぼしたのはバスの流行だけではなかった。旅客・運送にまつわる関係法令がこの直後に改正され、ガソリン類を始めとする危険物を車内に持ち込むことが禁止されるようになったのだ。

 しかし、あらかじめ年表を見ていると分かるのだが、その後もバスの中の危険物から出火して大事故に至るケースは後を絶たなかった。現在のように、人々が当たり前のように安全にバスに乗れるようになるには、まだいくつかのステップが必要だったのである。

 事故現場には「殉難者供養塔」が建てられたというが、今も残っているかどうかは不明である。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウェブサイト『三浦半島へ行こう!』
http://miurahanto.net/index.html
◇鈴木文彦『日本のバス年代記』グランプリ出版 1999年
◇社団法人日本バス協会『バス事業100年史』2008年

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物部川バス転落事故(1950年)

 1950年(昭和25年)11月7日のことだ。

 時刻は午後6時50分。場所は高知県香美郡美良布町、橋川野という地域である。国道195号線を走っていた国鉄バスが64メートル下の物部川に転落したのである。

 64メートルとは、また物凄い高さだ。

 これでタダで済むわけがない。33人が死亡、25人が重傷を負い、4人が軽傷を負う大惨事となった。遺体の引き上げや救助の作業もロープを用いざるを得ず、大変難航した模様である。

 事故原因はなんだったのかというと、これがまたトンでもない話で、よりにもよって「酒酔い運転」だったのである。事故当日は現場から西にある山田町で秋祭りが行われており、それで21歳の運転手も酒をかっくらっており、直前にはジグザグ運転を繰り返していたというから恐ろしい。乗客の中には、身の危険を感じて途中下車した者もいた。

「なんて運転手だ! いくら祭りでも飲酒運転するなんて!」

 とまあ、多くの人が思われるだろうが、どうも悪いのはこの若い運転手ばかりではないらしい。この事故が起きた大栃線というバス路線では、祭りに限らず飲酒運転が常態化していたようなのだ。

 事故当日も例外ではなかった。事故を起こした土佐山田駅~在所村間の路線の運転手は、全員もれなくアルコールが入っていたのである。「11月は秋祭り~で酒が飲めるぞ~♪」というわけだ。

 いつ誰が事故を起こしてもおかしくない状況だったのである。現に、運転手の酩酊ぶりがあまりにひどかったため1本遅らせてバスに乗ったところ、この度の転落事故に遭遇してしまった――という不運な乗客もいた。

 さらに、当時のバス内も尋常な状況ではなかった。このバスは高知市の官公庁や通勤者も多く利用しており、それに加えて当時は祭りの客もいたものだから車内は超満員、乗客数も限界の2倍を超えていたというからまるで買出し列車である。ちょっとでもバランスを崩せば一巻の終わりという状態だったのだ。

 こうやって当時の状況を見てみると、事故を起こした21歳の運転手は「ババを引いた」形だったということが分かる。

 事故後、彼は「発車の少し前にコップ1杯ほどの酒を呑んだだけで、日ごろ腕に自信があったので運転したが、こんな結果になって申し訳ない」と謝罪したという。これだけ読むと若気の至りという印象を受けるが、真相が分かってみると哀れと言うほかはない。

 地図を見ると、祭りが行われていた山田町からバスの終着点である大栃までは、物部川と国道はぴったりと並行している。乗車率200パーセントのバスが飲酒運転でこんな道路を走っていたのだから、これはまったく恐ろしいお祭りである。

 さてバスが走った国道195号線の脇の山腹には宝珠寺という寺があり、事故後にここの住職が現場付近に供養塔を建てている。ちょっとネットで検索すると写真を見ることができるが、地蔵菩薩と一緒に並んだなかなか立派なものだ。

 記録上は「忘れられた事故」ではあるが、限られた地域内でも、こうして地道に事故の記憶が受け継がれているのは喜ばしいことである。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア
◇個人ブログ記事『重大バス事故の歴史』

http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.html
◇高知県香美市『広報かみ』平成22年12月号
http://www.city.kami.kochi.jp/uploaded/pr/108_pdf3.pdf
◇個人サイト『高知県香美市香北町お宮、お寺、お堂をめ ぐる』
http://hanasakiyama.web.fc2.com/odou/index.htm

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埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)

 読者諸君は「踏切番」という職業をご存じだろうか。

 何もかもが機械じかけで動く現代では信じられないような話かも知れない。昔は、交通量の多い踏切には「踏切番」という人がついており、ハンドルのようなものを回して手動で遮断機の上げ下ろしを行っていたのだ。そして白旗を振って列車を通過させるのである。

 そういえばドラえもんの秘密道具で、小さな遮断機のような形態のものがあったように思うが(「通せんぼう」だったか「ふみきりセット」だったか定かでないが)、たしかそれにはハンドルがついていたはずだ。子供の頃それを見て、なぜ遮断機にハンドルがついているのかと奇妙に感じたので覚えているのだが、今にして思えば、あれは「踏切番」がいた頃の遮断機をイメージして描かれたものだったのだろう。

 今回の事故は、その「踏切番」にまつわる事故である。

 時は1950年(昭和25年)12月18日に起きた。時刻は不明である。

 場所は埼玉県大宮市、土呂の原市街道という場所にあった東北線の踏切でのこと。大宮発、原市町行きの東武中型バスがそこを通過しようとしたところ、時速80キロでやってきた列車と衝突したのだ。

 この事故によってバスは200メートルも引きずられ、乗っていた13人が死亡した。当時乗っていたのは運転手と車掌を合わせて15人だったというから、ほとんどが死亡したのだ。情報の少ない事故ではあるが、バスは相当の衝撃を受けたものと思われる。

 衝突した列車は、郡山発上野行き122列車。詳細は分からないが、どうやらくだんの踏切番が遮断機の操作にもたついてしまったらしい。そこへバスがやってきて、遮断機の下り切っていないのをいいことに突っ込んでいった結果、大惨事となったのだ。当時このバスは発着時刻に遅れが出ており、運転手は焦っていたという。

 おそらくこの事故に触発されたのだろう、12月23日の産経新聞の朝刊には「危ない踏切の現状」という記事が掲載された。

 それによると、当時の踏切番というのは、多くの場合、家族と一緒に「踏切小屋」という小屋に住んでいたという。かつて列車の保線の仕事をしていた人が、年を取ってこの職に就くケースが多く「安月給」だった(※)。

(※)参考資料には「踏切番の仕事は安月給で勤続20年でも家族5人で手取り8000円」とあるが、現代の目線から見ると安いのかそうでないのかいまいちよく分からない。まず給与の相場が分からないし、家族全員で働いているのかも不明だし、金額も月給なのか年間手取りなのかが明示されていないからだ。

 また仕事内容も、なかなかの重労働だったと思われる。24時間勤務で2交代制、踏切では列車が近付いてくるとベルが鳴ることになっているが、鳴らないことも多かった。よって実際には立ちっぱなしで、列車が来るかどうかは肉眼で確認していた。

 そして多くの踏切番は、この仕事をしつつ内職も手がけていたという。

 こういう書き方はアレかも知れないが、踏切番というのはいわゆる「底辺の仕事」だったのだろう。

 もっとも現代は現代で、踏切ではなく駅のホームや駐輪場で、人材センターあたりから派遣されてきたと思しき「見張り」の方々をよく見かける。そこらへんは踏切番とはちょっと違うけれど、とにかく駅といい踏切といい、鉄道というのは常になにかしらの「見張り」を必要とするものなのかも知れない。

 いかん、踏切番の話をしていたら、バス事故よりも鉄道事故の話のようになってしまったな。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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天竜川バス転落事故(1951年)

 1951年(昭和26年)7月15日、午後1時頃のことである。

 場所は静岡県磐田郡浦川町川合の県道だった。一台のバスが道路から20メートル下の天竜川へ転落し、死者21~30名、負傷者4名という大惨事が発生した。

 この事故の経緯は、どことなく後年の飛騨川バス転落事故と似ている。きっかけは悪天候で、国鉄飯田線の浦山-佐久間間の列車が不通になったことだった。浦山で足止めを食ってしまった乗客を、2台のバスに分乗させて運んでいる最中の悲劇だった。

 2台あったうちの国鉄臨時バスのうち、1台が急カーブを曲がり切れなかったのである。しかも地盤が脆くなっていたのも災いし、先述の通り天竜川へ転落。その上当時の天竜川は雨で増水しており、水深も10メートルに達していたというから実に間が悪い。バスはたちまち流され、水没し、ずいぶん長い間行方不明だったそうで、発見されるまでには3年の月を俟たなければならなかった。

 さてこの事故、最初に「死者21~30名」というひどく曖昧な書き方をしたが、それは上記のように事故車両がしばらく発見されなかったこととも無関係ではない。とにかく何もかもが水没してしまったせいで正確な乗客乗員数も犠牲者数もまったく分からず、報道機関はそれぞれ勝手に「推理」を働かせて犠牲者数を報じたのである。

 

新聞記者「編集長、犠牲者数が分からないっす!」
編集長 「バカお前、当時バスは満員だったんだろ。定員プラス乗員2名てことで37人乗ってたってことじゃないか。生存者は何人だ? 7人? じゃあマイナス7で犠牲者は30人だな」
新聞記者「ええーマジっすか、それでいいんですか? 生存者9名なんて情報もあるっすよ。乗員ふたりも助かったそうですし」
編集長 「だったら死んだのは28人か。いや26人? えいくそ、ややこしいな」

 ――翌日――

新聞記者「編集長、国鉄の発表がありました!」
編集長 「おう、それで正確な犠牲者は何人だ」
新聞記者「死者2名、生存者8人、行方不明15人、乗車未確認10人だそうです!」
編集長 「よしじゃあ決まりだな。やっぱり定員35人ぶんか!」
新聞記者「でも名鉄局の事故対策本部は死者1人、生存者7人、身元不明の行方不明者23人って報告を受けてるそうです」
編集者 「身元不明の行方不明者って、なんか論理的におかしくないか? まあいいや。で、どの発表が正しいんだよ」
新聞記者「分かりません」

 ――翌々日――

編集長 「引っぱるなあ。で、今日の発表ではどうなった?」
新聞記者「国鉄によると死者2名、行方不明19名、行方不明1人だそうです」
編集長 「なんだ昨日とずいぶん変わったな」
新聞記者「警察は死者2名、行方不明26名、行方不明4人って言ってますね」
編集長 「もうどうでもよくなってきたよ」
新聞記者「まったく、マスコミなんていい加減なものっすね!」
編集長 「お前が言うな」

 

 などというやり取りがあったかどうかは不明だが、けっきょく本ッ当に最終的に収容された遺体は21名分。これは間違いないようだ。そして行方不明者はまあ7名というのが妥当なところらしく、犠牲者は28名ということでここでは「定説」としておこう。

 ついでに言っておくと、行方不明者のうちの2名は、後に発見されたバスの中から見つかっている。

 バスは不明、死者数は不明と、なんとも混沌とした事故である。

 現在は、現場になった道路の脇に「供養之碑」が建てられているという。

 

【参考資料】
◇各種ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
http://yama-machi.beblog.jp/sakumab/2008/12/267-1436.html
http://63164201.at.webry.info/200904/article_13.html

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札幌バス火災事故(1951年)

 1951年(昭和26年)7月26日の出来事である。

 時刻は、昼過ぎの午後1時。札幌発、石狩行きの路線バスの運転席後部にて、突然火災が発生。乗客7人が死亡、32名が重軽傷を負った(資料によっては死亡者12名と書かれているので、後で増えたのかも知れない)。

 このバスは、北海道中央バス会社のものだった。運転手と車掌の他に46名の乗客が乗り込んでおり、札幌駅前の五番館(後の札幌西武)前を発車して30~40メートルほど走ったところで火災になったのだ。

 一体どうして、走行中のバスが突如として火事になったのだろう? 別項の横須賀トレーラー火災事故のように、ガソリンを持ち込んだ者でもいたのだろうか?

 その答えは今から述べる。実は、ここからがちょっとしたトリビアなのだ。

 この火災がこれほどまで大規模なものになったのは、なんと「映画のフィルム」のせいであった。石狩の映画館からの依頼があったとかで、当時、車内には映画フィルムが約20巻乗せられていたのである。

 昔の映画フィルムというのは、ちょっとした拍子に発火・あるいは引火してしまうほど危険な代物だったのである。以前、大日本セルロイド工場火災の項目で「意外な危険物」としてセルロイドをご紹介したが、これもなかなかのものだ。

 この事故で火災を起こしたフィルムは、バスに積まれる直前の約2時間ほど強い日差しにさらされていたという。それで加熱状態になったためフィルムそのものが摩擦熱で発火したか、あるいは何か別のものから引火したのではないかと思われた。

 こうした可燃性フィルム(ナイトレート・フィルム)は1950年代まで世界中で使われていた。おかげさまで、日本でも現像所や映画館ではよく火災が発生しており、例えば照明器具に接触しただけで燃えたという話もある。

 この恐るべき可燃性フィルムは1950年代初頭に生産中止となり、今では日本でも消防法によって危険物第5分類に指定されているという。ちょうど札幌のバス火災が起きた時期というのは、映画フィルムが安全なものに切り替わる過渡期だったのだ。

 もっともこの事故、死傷者が多く出たのはフィルムのせいばかりではない。車両の窓に破損防止の鉄棒が取りつけてあったり、非常時に脱出しにくい構造だったりしたため逃げられなかったという事情もあったようだ。この事故の影響もあったのか、直後にはバスの保安基準の強化も図られている。

 先述した通り、発火の直接の原因は不明である。煙草の不始末やバッテリーのリード線からの引火という可能性もあったようだが、とにかくフィルムの管理が杜撰だったということで乗務員が逮捕された。

 ちなみに同じ1951年(昭和26年)には、愛媛県宇和島でも映画フィルムの発火によるバス事故が発生している。なんとも嫌な偶然だ。

 で、偶然ついでに言えば、あの桜木町火災が発生したのもこの年である。あれも、火災が発生した車両から逃げることができずに大勢の死傷者が出た悲惨な事例で、その意味ではよく似ている。交通機関を利用するのも命懸け、そういう時代だったのだろう。

 

【参考資料】

◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

◇日本映画学会会報第7号(2007年2月号)

http://jscs.h.kyoto-u.ac.jp/nl0702.html

◇ウィキペディア「北海道中央バス」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%90%E3%82%B9

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栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)

 悲惨でない死亡事故などない。

 ――ないのだが、やはり「楽しいはずの○○が一転して惨劇に」というのはより痛ましく聞こえる。だから遊園地の事故などは当研究室でもあまり扱う気になれないのだが(要するにマスコミがどんな文脈で報道するかという問題なのだけれど)、このバス事故もそういう痛ましい事故である。

 時は1951年(昭和26年)10月13日のこと。一台の観光バスが日光へと向かっていた。

 これに乗り込んでいたのは、群馬県碓氷郡秋間村下秋間――現在で言えば群馬県安中市に属する地域――の、婦人会の人々である。ちょうど米の収穫も終わった時期で、豊作祝いのイベントとして旅行中であった。

 これが、栃木県佐野市内に入り、両毛線の佐野-富田間の踏切にさしかかった時に惨劇は起きた。時刻は午前5時45分。走行してきた小山方面行の66列車と衝突し、7人が死亡したのである。

 当時、事故のあったバス車両の中では、乗客の女性たちが歌を歌って旅行を楽しんでいたという。痛ましい限りだ。

 それにしても分からないのは、そもそもなぜバスが踏切に進入したのか、ということだ。早朝だったため運転手が居眠りしていたのか、「列車は来るまい」といういい加減な判断があったのか、あるいは一緒に歌でも歌っていてうっかりしていたのか……。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)

 愛媛県で発生したバス火災である。

 前に札幌バス火災事故のことを書いたが、そこでは出火の原因は映画のフィルムであった。そして奇遇にも、今回お話しする事故はこれと同年に、しかも同じ原因で起きているのだ。事故史を眺めているとときどき見受けられる「シンクロ事故」である。

 時は1951年(昭和26年)11月3日。一台の国鉄バスが、午前8時5分に東宇和島群野村町を出発した。このバスは喜多郡大洲町へ向かうものだった。

 おそらく途中で乗りこんだ人もいたのだろう、20分後には乗客は62人に上っていた。このバスが具体的にどういう形態のものだったのかは不明だが、62人というのはやはり多すぎである。この事故の死者数が後述するようにべらぼうなものになったのは、そもそも分母が大きすぎたからだろう。

 なぜそんな人数になったかというと、途中で通過する貝吹村という場所で、当時、秋祭りが行われていたのである。よって乗客の中には子供も多くいた。

 まあこれは筆者の想像だが、親たちが「自分と子供を合わせて一人分」くらいの感覚で手を引いて乗りこんだのではないだろうか。これらの要素が、この事故では悲惨な結果を招くことになった。

 さて時刻は午前8時25分頃。この時、バスの運転席のそばには補助バッテリーなるものがあったらしく、それの上に映画フィルム19巻が積まれていた。これが発火したのである。

 発火の原因はなんだったのか、資料からだけだとよく分からない。ちょっと読むと「バッテリーの熱だろうか」とも思うが、補助バッテリーなら普段は使わないから発熱もするまい。もし本当にそうならフィルムは自然発火したことになり、なんかガソリンより危ないんじゃないか、これ。

 この火災の結果、乗っていた62人のうち33人もの人々が死亡した。

 33人という人数は、当研究室の読者ならばもはや大したものには思われないかも知れない。だがよく考えてみると、今だったら新聞の第一面に白抜き文字で掲載されるような大惨事である。しかも多くの子供が死亡し、2歳以下の幼児が6人もいたという。

 なぜ映画フィルムなんぞがバス内にあったかというと、これはもともと貝吹村の秋祭りで上映される予定だったのだ。持ち込んだのは野村町の映画館の映写技師とその助手で、タイトルは「男の花道」10巻と「おどろき一家」8巻、そしてニュース映画が1巻というラインナップだったという。

 まあラインナップなどはどうでもいいのだが、げにおそろしきはとにもかくにも映画のフィルムである。昔は映画を観るのも命がけだったのだ! 我々はテレビも映画もデジタル式のデータで観賞できるようになった現代社会をもっともっと喜ぶべきなのかも知れない。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)

 先に書いた「埼玉県 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)」の項目にて、踏切番という職業をご紹介したが、今回もこの職業にまつわる事故である。

 昭和26年11月3日の出来事だ。

 場所は千葉県千葉郡二宮町(現在の船橋市)前原。総武線の津田沼~船橋間の東金街道踏切である。

 時刻は午前9時50分。ここを一台のバスが通過しようとしていた時に悲劇は起きた。ちょうどそこに御茶ノ水発、津田沼行き下り国電9100C電車が差しかかり、バスに激突したのである。

 衝突したのは船橋発千葉行きの京成バス(東京のバス会社)で、当時は運転手と車掌を合わせて30人が乗っていたという。この日は休日で天気もよく、子連れの乗客も多くいた。

 この激突の衝撃によりバスは80メートルほど引きずられた。そして10メートルの高さの土堤から転落し、乗客のうち6人が死亡したのだった。

 原因は実に単純な人為的ミスである。当時、この踏切を担当していた32歳の男性が、列車が来るのを完全に失念していたのだ。それで遮断機が上がっていたものだから、バスも安心して通過しようとしたのである。

 参考資料を読んでいると、この男性は「踏切警手」という名称で記述されている。少し調べてみたが、どうも「踏切番」と「踏切警手」は同じものらしいが、しかし踏切番は保線の仕事を引退した人がやっていたはずである(前掲記事参照)。この男性の32歳という若さはどういうことなのだろう。おそらくそれまで「底辺の仕事」だった踏切番の仕事を、若い国鉄の職員あたりが行うことになったのではないかと思うのだがどうか。

 もしこの想像が多少なりとも当たっているとすれば、やはりこのような遮断機操作システムは、当時からすでに無理があったということなのだろう。

 事故災害の記事を書いていると、短期間に類似の事故が集中して起きる「シンクロ事故」現象に出くわすことが多い。今回の事故もその一例である。そしてこのようなシンクロ事故が発生する時というのは、社会のなんらかのシステムが、すでに耐用年数を過ぎていることを示している場合がほとんどなのである。

 ちなみに、これはそうしたシンクロ現象とは関係ないと思うが、この事故の起きた日付は既述の愛媛県宇和島バス火災事故と同じである。時刻まで接近しているから驚いてしまう。この日は日本の東と西で、それぞれ凄惨なバス事故が起きていたのだ。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)

 広島県安佐郡(現在の安佐町)・飯室村(いむろむら)に存在する幕ノ内峠は、かつては人々にとっての「障壁」だった。

 とにかく道が悪かったらしい。あるのは粗末なただの山道ばかりで、それもカーブが多く交通の便が悪い。人々もこの峠は使わず、周囲の坊地峠や植松峠という場所を使用していたという。

(飯室村という村名と幕ノ内峠という場所の情報が、ちょっと検索した程度だと表示されないので想像で補うしかない部分もあるのだが)

 飯室村の人々にとっては、やり切れない話である。なにせ人が滅多に通らないから文化の交流も発展もない。明治時代になり、文明開化の波がどんどん地方都市に流れ込んできても、この峠の向こうに住んでいた人々はちっともその恩恵に預かれない。幕ノ内峠をなんとかしない限り、峠向こうの集落はいつまで経っても「隔絶された山村」「陸の孤島」「日本の秘境の地位に甘んじるしかなかった。

 当時のことを知る人たちは、幕ノ内峠の存在によって、峠向こうは10年から20年は文明から取り残された、と語ったという。

「よし、道路を整備するぞ!」

 現状に耐えかねた飯室村の村長が、このような声を上げたのが明治8年頃のこと。とにかく一にも二にも道路である。幕ノ内峠の悪路を改善しなければ地域の発展はありえない。村長は付近の集落にも連携を訴えて、山道の整備に乗り出した。

 とはいえ、実現には紆余曲折あったようだ。ブルドーザーもショベルカーもなかった当時のこと、技術的な問題もさることながら、農地を道路にされるのに反対する農民が竹槍で蜂起し反対運動を起こしたこともあったという。いやはや、ちょっとした羽田闘争である。

 そんなこんなで、ようやく幕ノ内峠に道路が作られたのが明治12年。計画を立ち上げてから4年の歳月が経っていた。

 この道路の全長は一里程度、メートルで言えば4,100ほどだったという。たかが4キロ、されど4キロ。全ての工事が人海戦術であった当時の人々にとっては、血と汗が滲む苦労の賜物であったことだろう。

 しかしこの道路も、昭和に入ると使い勝手が悪くなってきた。とにかく道があるぞ、ということで乗用車が通る。中には大型車もあるし、さらに台数も増えれば、これはもうお手製の山道では話にならない。

 そこで次に計画されたのが、峠にトンネルを通す事業であった。ここで、かつて山道を切り開くために協力し合った村々が再び手を携えることになる。村の指導者も代替わりした中、この工事には1億5千万の予算が注ぎ込まれた。

 おそらくこの山道、昭和に入ると単に交通の便が悪いというのみならず、さぞ事故も多発したのではないだろうか。なぜそう言えるのかというと、トンネル開削工事が進められる中で発生したのが今回ご紹介するバス転落事故であり、しかもその事故までの5年の間にも、すでに7件もの交通事故が発生していたからだ。

 バス事故があったのは昭和28年、8月14日のことだった。事故の規模としては、当研究室でご紹介しているものの中では地味な部類に入るであろう。だがこうした歴史的背景を知って改めて見てみると、その意味の重さを思わずにはいられない。

 時刻は午前12時15分のこと。70人の乗客を乗せた広島電鉄の大型バスが、幕ノ内峠にさしかかった時だ。極めてデリケートなハンドルさばきを必要とする七曲がりの山道の「魔のカーブ」でのことだった。あと400メートルほどで峠を越えるというところで、ハンドル操作のミスによってバスは転落したのである。

 八丁堀発、三段峡行きの予定だったこのバスは35~40メートルの高さの崖下へ転落。しかも、崖下にはトンネル工事の作業小屋があったというからゾッとする話だ。どうやら直撃は免れたようだし、また盆休みのため小屋自体も無人だったのだが、とにかくその点は幸運だった。

 それでも結果は即死者10名、重傷者38名、軽傷者21名という大惨事である。

 ちょうど盆の季節で、乗客のほとんどは帰省のためにバスを利用していた人々だった。現場には周辺地域の消防団員や機動部隊、さらには自動車会社の職員までもが駆け付け、救助活動が行われたという。

 トンネル開通によって「魔のカーブ」の危険性が解消されようとしていた、そんな矢先に起きた実に不運な事故だった。まるで、カーブに潜んでいた悪魔の断末魔のような惨劇だ。

 それでも――というべきか、それでなお、というべきか――幕ノ内峠のトンネル建設は極めて異例のスピードで行われ、ついに1年5カ月という短期間で完成。これが昭和29年12月1日のことで、これにより山道の危険は完全に除去されたのである。

 涙が出るような話である。筆者は「尊い犠牲」という言葉は、安易に使われがちなゆえにあまり好きではないのだが、このトンネル建設はまさしく「尊い犠牲の上に成り立っている」という言葉がふわしいと思う。生き残った者の努力があってこそ、死者は初めて英霊となるのだ。

 これまでにも、筆者は和歌山の事故や熊本の事故など、道路状況の劣悪さによって発生した事故のことをいくつか記述してきた。しかし、それらの事例を通して「垣間見える」という程度でしかなかった近代以降の地方都市の道路事情が、今回の広島の事故を調べたことで、ようやく少し分かった気がする。

「道路」というごくごく当たり前のありふれたものも、こんなにも多くの犠牲の上に成り立っているのである。そのことについて、我々はもっと思いを深くしてもいいと思うのである。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウェブサイト『亀山地域のあゆみ』
http://www.cf.city.hiroshima.jp/kameyama-k/machi/ayumi/ayumi7.html

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福井市バス転落事故(1954年)

 時は1954年(昭和29年)1月26日のこと。

 事故が起きた場所は、福井県福井市、和田中町弁天である。

 参考資料によると、この現場は同じく福井県の足羽郡「酒生村」にある「稲津橋」という橋のさらに下流にある地域なのだそうだ。だからどうした、とも思うのだが、とにかくそう書いてあった。その位置関係になんの意味があるのかは不明である。

 朝の午前8時30分頃だった。福井県営のバスが、65人の通勤客を乗せて走行していた。上池田村の稲荷発・福井行きの始発である。

 ところがこのバス、一体なにを急いでいたのか、前方を走っていた車に対して猛然と追い越しをかけた。きっと「ちんたら走ってんじゃねえ!」という感じだったのだろう。だが1月といえばまだまだ冷えも厳しい。道路は9センチほど雪が積もっていた上にマイナスの気温で凍結しており、本当はちんたら走るほうが正解だったのである。バスはたちまちスリップし、ハンドルも利かなくなってしまった。

 さらにこの時の乗客数は65人。定員は42人だったというから無茶な話で、それではひとたびスリップすればブレーキは利きにくくなるだろうし、またバランスを崩せば元に戻れなくなるのも当然である。バスはあっという間に、3メートル下の川だか排水溝だかに落下していった。

 おそらく坂になっている土手で横転する形にでもなったのだろう、1回転半したという。

 死者は11人。中には車掌も含まれていた。

 問題は運転手が何を急いでいたのか、である。だがこの事故はこれ以上の詳細は不明で、とにかく雪道での無茶な追い越しといい定員オーバーの状況といい、「なにかあったんだろうな」と推測するしかない。話によると、当時の乗客の中には、翌日に高校の学力試験を受けるために10名ほどの中学生も乗っていたという。運転手が急いでいたのはそれと関係があるのかも知れないし、ないのかも知れない。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)

 1954年(昭和29年)10月7日に、佐賀県の嬉野という地域で起きたバス事故である。

 この嬉野という地名は三重県にもあったらしいが、そちらは村で、しかも今はない。バス事故の舞台になったのは現在も佐賀県に存在する市で、温泉も有名であるようだ。

 事故の資料自体が乏しいのでシンプルな書き方にしかならないのだが、これが発生したのは朝の午前7時15分のこと。当時の佐賀県藤津郡、嬉野町大船という場所で、国鉄の不動山線バスが崖から転落したのである。

 バスは午前7時に皿屋谷駅を出発したばかりで、嬉野へ向かう途中だったという。

 そして転落した崖だが、これは高さが15メートルもあったという。まがう事なき大惨事だ。

 死者数は、これはサイトによって記録が違うのだが、とりあえず13人から14人くらいは亡くなっているようである。その半数ほどが10代の若者だったそうで、悲惨な話だ。早朝から若者が大勢乗っていたというのは、通学用か何かだったのだろうか。

 事故原因は不明である。ただ当時このバスには80人が乗っていたというから、ちょっとでもバランスを崩せば一巻の終わりだったことには間違いない。

 まことに記録の少ない、影の薄い事故ではあるが、慰霊碑は今でも残っている。嬉野温泉から牛ノ岳という場所へバスで向かうと、大船-馬場入口の間で右手に見えてくるそーな。写真で見る限りでは、屋根つきで台座もきっちりした立派な慰霊碑である。

 それにしても、今回の参考資料にしているウェブサイトの写真、いいなあ。筆者はこういう場所は大好きである。なんかこう、柳田國男の本あたりでネタにされそうな感じだ。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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三重県二見町バス転落事故(1954年)

 1954年(昭和29年)10月24日に起きたバス事故である。先に書いた佐賀県の嬉野の事故からほんの2週間程度しか経っていない。

 場所は三重県度会(わたらい)郡、二見町の松下池の浦である。地図で調べてみたところ伊勢湾の湾口あたりらしい。

 午後2時10分、一台の三重交通定期バスが鳥羽を出発した。これは宇治山田行で、定員は70人。ところがこの時、車内には81人が乗っていた――。

 っておいおい、また定員オーバーかよ。

 ここまで多くのバス事故事例をルポってきたが、もう何度めであろう、このパターン。さすがの筆者もいい加減にしろよ~と声を上げたくなってくる。

 さて、このバスも一体なにを急いでいたのか知らないが、資料によると、どうやら前方を走るオート三輪が邪魔で追い抜きをかけたらしい。

 しかしとにかく乗客が多すぎ、バランスが取れなくなってしまったのが運の尽きだった、追い抜きのために右ハンドルを切ったはいいが、そのままバスは1回転して、池の浦の湾内にある入江へ転落したのだ。時刻は午後2時26分であった。

 そして高さは5メートル。これにより、バスの後ろの席の乗客が「下敷き」になった。バス内で他の乗客の下敷きになったのか、それとも外に投げ出されて車両の下敷きになったのかはよく分からないが、とにかくこれによって子供2人を含む13人が死亡したという。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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北上バス転落事故(1955年)

 まずはこの行程を見て頂きたい。

 

 花巻市出発(朝6時15分)
  ↓
 仙台市
  ↓
 松島見学
  ↓
 塩釜市にて一泊
  ↓
 塩釜市発(早朝)
  ↓
 三陸海岸
  ↓
 花巻へ戻る

 

 うーん、筆者は車を運転して遠出をする習慣というのがないので、一泊二日でこの行程をこなすのが「無理」と言えるのかどうかはよく分からない。

 ただとにかく、1955年(昭和30年)という時代の道路状況を考慮すれば、事故の原因はこの「無理な行程」にあったというのはほぼ間違いないようだ。

 というわけで、北上バス転落事故である。

 事故に遭遇したバスは、修学旅行の帰り道だった。先述の行程を済ませて花巻へ戻る途中の5月14日午後7時30分頃、小学生たちを乗せた観光バスが国道4号線から北上川へ転落したというまことに痛ましい話である。

 この時バスに乗っていたのは、岩手県稗貫郡石鳥谷町(現・花巻市)の八日市小学校の6年生たち。北上川の支流・大堰川にかかる飯豊橋から落ちたしたことで12名が死亡、重軽傷者28名を出した。死亡者のうち4名が生徒たちで、残りは引率や付添の大人たちだった。

 事故の原因は、前からやってきた自転車をバスが避けようとし、それで橋の欄干を突き破ったことだった。まあ運転手のミスなのだが、しかし先述の「無理な行程」のせいで運転手も焦っていたのではないかとも言われている。

 どうも今も昔も、バス事故というのは運転手に過度の負担がかかったせいで引き起こされるパターンが多いようだ。

 この時代は、「修学旅行中の事故」が続発した時期でもあるらしい。有名な紫雲丸事故や、東海道線で起きた東田子の浦の列車火災事故などは、この北上バス事故と前後して3日おきに発生しているから驚く。これもシンクロニシティというやつだろうか。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア

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愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)

 まず最初にお断りしておくが、これも極めて資料の乏しい事故である。

 愛媛県喜多郡長浜町は、地図で見ると、佐多岬半島から海岸線に沿ってず~っと北西に進んだあたりにある。山々の間を縫うようにして道路が海沿いギリギリを走っているが、事故はここで起きた。

 1956年(昭和31年)1月28日のことである。時刻は夜の8時。保内町という地域から出発した伊予鉄道のバスが、北西にある長浜町へ向かっていた。

 この時、伊予灘は時化ていたという。おそらく事故を起こさずとも、昭和30年代の地方都市の道路を夜間に通行する――というのは、さぞ恐ろしいことだったろう。これまでのバス事故の内容を思い出しながら、筆者などはそんな風に想像した。

 しかもウィキペディアによると、ここの道路は本当に海沿いである上に断崖絶壁が続いているという。大荒れの伊予灘を横目に見ながら走っていた路線バスは、ここでよりにもよって海へと転落してしまったのだった。

 転落の原因は不明である。ただ、バスが時化の海へ落下するという凄まじさのわりには、犠牲者は10名と比較的少ない。もし定員オーバーするほど乗客がいたなら犠牲者はもっと多い気がするので、バス事故の定番「定員オーバーでバランスを崩して転落」というパターンではなかったと思われる。

 おそらく原因は道路状況の劣悪さにあったのだろう。また海が時化るほど天気が悪かったわけで、海沿いの道路は闇も濃かったに違いない。それで運転手がハンドル操作をちょっと誤って、それで道路が崩れて強風にあおられて転落した――。実際に起きたのはこんなところだったのではないだろうか。

 バスが転落したのは、長浜町内の出海―櫛生間の道路であった。当時の新聞では、死亡したのは乗客と運転士と車掌を合わせた10名となっているが、ウィキペディアでは微妙なことに死者9名、と書いてある。資料が少ないのでいろいろと想像力をかき立てる事例ではあるが、まあ想像ばかりでルポを書いても仕方ないので、今日はこのへんで。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%9B%E7%94%9F%E6%9D%91

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神通川バス転落事故(1956年)

 1956年(昭和31年)7月29日のことである。

 富山県中新川郡・立山町にある上東中学校では臨海学校が計画され、全校210人がバス乗り氷見市の島尾海岸へ向かっていた。

 バスは富山地方鉄道(通称富山地鉄)の貸し切りバスで、生徒と教師は3台に分乗。このうち、最後尾の3台目のものが惨劇に遭遇することになった。

 時刻は午前11時30分。富山市安野屋を流れる神通川を渡ろうとしていた時のことだ。バスの前方を1台の自転車が走っており、これを避けようとしたところ、勢い余って橋の欄干を突き破ってしまった。

 この橋の名は富山大橋。かつてここには木製の大橋がかかっており、それは連隊大橋とか神通新大橋とか呼ばれていた。しかし老朽化のため、昭和初期には鉄筋コンクリート製の橋がかけ直されたのである。

 ところが、である。なんという不運であろう、事故当時のこの橋は欄干だけがまだ木製だった。しかもちょうどこの時は、それを鉄製のものに作り変える工事の最中だったのだ――。

 というわけで、生徒59人と教師3名を乗せたバスは10メートル下の神通川へ転落。15歳の女子生徒2名が死亡し、60名以上が重軽傷を負った(記録によっては3名が死亡したともある)。

 これもまた、昭和30年代に続発した「修学旅行事故」の一種である。

 昭和29年には洞爺丸事故に相模湖遊覧船事故、そして翌年には紫雲丸事故と北上バス転落事故東田子の浦の列車衝突事故が起きており、そして今回のバス事故が起きた昭和31年には、多数の高校生が巻き込まれた参宮線六軒事故も発生している。

 そういえば、筆者がかつて住んでいた秋田県には奇妙なサービスが存在していた。修学旅行に出かけた子供たちの安否を、テレビ局がニュースで随時知らせるというものだ。まだ学生だった筆者はそれを見て「変なの」としか思わなかったが、今思い出してみると、おそらくこれが原因だったのだろう。昭和30年代というのは、修学旅行も命がけという奇妙な時代だったのである。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇富山市郷土博物館ホームページ
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/index.html

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福井県武生市バス転落事故(1956年)

 1956年(昭和31年)9月9日に起きた事故である。

 現場は福井県武生(たけふ)市、春日野町の国道8号線である。春日野トンネルというのがあるらしいが、そのトンネルの北口から武生寄り4キロメートルの地点で惨劇は起きた。午前6時、バスが林に転落したのである。

 しかもその転落した高さが、70メートルもあったというから恐ろしい。このバスは名古屋観光の観光バスで、乗員乗客含めて43人のうち10人が死亡した。

 まことに不憫なことに、この観光バスは、前日の夜に出発したばかりの温泉巡りツアーだった。全部で9台あったのだが、6台目が事故に遭遇したのだ。

 乗っていたのは、愛知県の刈谷市と碧南市で募った観光客たち。事故前日の9月8日の夜に新岐阜駅を出発し、永平寺~片山津温泉という贅沢なコースを楽しむはずだったのが一転したというわけである。

 ざっと調べてみたが、運転手が操作をミスったらしい。しかもそのミスの理由というのが「朝日がまぶしかったから」というもので、なんだか実存主義小説の一節を連想させる。

 しかし、ネット上で福井県史なるものがあったので眺めてみたところ、この事故を機として国道の改修要望が高まった――という記述があった。だからこの事故は単純な操作ミスのみならず、道路状況の劣悪さというのも原因の一部としてあったのではないかと思う。たとえばガードレールがなかった、とかね。

 ここまでバス事故の歴史を書いてきたわけだが、実はこの事故に行き当たったところで少し驚いた。小規模なバス旅行での事故はいくつかご紹介しているが、観光バスが9台も出るほどの大々的なバスツアーは今までちょっとなかったように思う。

 明らかに、時代が変わっているのである。かつては車内ギチギチの詰込み型大量輸送で闇市に出かけるような時代だったのが、だんだんと人々は、観光バスに分乗してツアーに出かけるほどの余裕を持つようになってきたのだ。そして明らかに、国道とはいえ地方の道路は、まだまだこうした輸送状況の変化に整備が追い付いていなかったのである。

 福井県ということで言えば、例の新・北陸トンネルの工事が始まるのがこの翌年のこと。「列島改造」の機運はこの頃からすでにあったのだなと思う。

 しかしいくら列島を改造したところで、事故や災害はなくならない。むしろ皮肉なことに、ハードやソフトが改善されればされるほど、いざ事故が起きた時には想像を絶するような大惨事に発展するというのが、近代化社会のひとつの法則となっていくのだ。黒歴史は続くよ、どこまでも。

 ちなみに今回の事故の舞台になった武生市は、現在は越前市に統合されている。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇『福井市史 年表』
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn51.html

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高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)

 高知県の四万十市と土佐清水市の間に、伊豆田トンネルというのがある。これは平成6年に竣工したものだが、それ以前にも旧伊豆田隧道(ずいどう。トンネルのこと)というのがあり、これが閉鎖されたことで新しく掘られたものである。

 そしてさらに、旧伊豆田隧道が掘られる以前には、人々は「伊豆田坂峠」という場所を通っていた。これは今も山道として今も残っているようだが、幅は狭く車が一台通るのがやっとだという。

 1957年(昭和32年)6月28日、その伊豆田坂峠で事故が発生した。時刻は午前9時、一台の団体貸し切りバスが転落したのである。

 このバスは足摺岬へ向かう途中だった。それで峠の山道を走っていたところ、背後からトラックが迫ってきて追い越しをかけてきたのである。

 おいおい危なねえな、こんな道で追い越しかよ。仕方ないちょっと道を空けてやるか――。運転手はそんな風に気を利かせたのだろう。しかしこれによってバスは道の端に寄りすぎてしまい、しかも雨のせいで地盤が緩んでいたせいでゴロゴロガチャーン、と転落する羽目になったのだった。

 結果、5人が死亡。現場には今も地蔵が祀られているという。

 ところで、今回参考にさせてもらったホームページがあるのだが、それによると、この事故が起きた道路は今でも路線バスが走っているのだそうな。驚きである。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウェブサイト『高知県の旧トンネル・廃隧道一覧』
http://www.mafura-maki.jp/tanbo/kouti.html

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和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)

 1958(昭和34)年1月1日に起きた事故である。あけましておめでたくない。

 事故が発生したのが午前12時50分。ちょっと普通では考えられない時刻であるが、これはいわゆる初参りのツアーだったらしい。南海電鉄というところから出ていたこのバスは、「奈良県吉野郡野迫川村の北股」というところから高野山に向かっていたのだった。

 これが、「和歌山県伊都郡高野町南の天狗谷」という場所に差し掛かったところで悲劇は起きた。転落してしまったのだ。

 事故が起きた当時は霧がひどく、視界は1メートル程度しか利かなかったという。おまけに道路も雨で軟らかくなっていたのが災いし、バスはズルズルッと後部車輪から転落したのだった。道路幅は2メートル。S字カーブだったというから、尻でも振られたのだろうか。

 この事故によって9人が死亡した。

 転落した時の状況がすさまじく、なんと90メートルの崖を10回転したという。これはとんだ絶叫マシンである。だがそれよりも何よりも、筆者としては「わざわざ回転数を数えてた奴がいたんかい」と突っ込みたくなるところである。これ、数えてた奴は死ななかったんだろうなあ。

 ちなみに本音を言えば、「10回転なんて、新聞記者の野郎テキトーに書きやがったな」という感じであるが。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)

 1958(昭和33)年6月10日のことである。

 場所は京都府亀岡市、千代川町。国鉄山陰本線の、八木・千代川間にある川関踏切で事故は起こった。

 時刻は15時28分。この川関踏切を、3台のバスが次々に通過しようとしていたのだ。

 このバスは京都交通のバスで、亀岡市立亀岡小学校の5年生269人が分乗していた。児童たちは八木町新庄発電所ダムを見学してきたところで、この時は帰り道だった。

 さて、八木町なだけに『三匹のヤギのがらがらどん』などと洒落を言うつもりは毛頭ないが、3台のバスのうち2台は無事に踏切を通過。だが最後の3台目がタイミングが悪く、これが渡ろうとした時には警笛が鳴っていた。

 バスはこれを無視。おそらく前方の2台に遅れまいと焦ったのだろう、無理やり踏切を渡ろうとした。

 あーあーあーである。そこに走行してきたのは園部発・京都行きの普通列車。これとバスは衝突し、バスは20メートルの距離をズルズルと引きずられた挙句、田んぼ(麦畑とも)の中に転落し大破した。また列車のほうもただでは済まず、機関車と炭水車が脱線転覆、ついでに客車2両も脱線。まったく、目も当てられねえ。

 これによって、バスに乗っていた小学5年生の児童のうち、男子生徒1人と3人の女子生徒が死亡。38名が重傷を負い、50名以上が軽傷を負ったという。

 裁判でこの事故がどのように処理されたのかは不明だが、まあバスの運転手がなんらかの形で処分されたのは間違いないだろう。この事故、ウィキペディアでは鉄道事故の項目で紹介されており、そこでは「事故原因はバス運転手の不注意」とあった。そこまで言い切るからには何か根拠があるのだろうと思う。

 それにしてもバス事故なのか鉄道事故なのか、判断に迷うケースである。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア

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神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)

 1958(昭和33)年8月12日のことである。

 場所は神戸市灘区、永手町。国鉄の六甲道駅寄りの八幡踏切というのがあるそうだが、そこを渡ろうとしていたバスが、快速列車と衝突したのである。

 バスは神戸市営のもので、衝突した列車は安土発神戸行きの下り快速列車。列車はバスの後部に衝突し、そしてなんとバスはゴロンと「1回転」して大破したのだった。

 バスが1回転して、元の形にちゃんと着地するのを想像するとちょっと笑っちゃうが、しかし笑ってはいけない。この事故で、バスに乗っていた4人が死亡した。

 筆者の印象なのだが、どうもバス事故の年表を見ていると、この年からやけに踏切での事故が増えている気がする。それまではバス事故と言えば「転落」が主だったし、もちろんそういうのはその後も起きている。だがしかし、以前と比べると明らかに、踏切でバスが事故に遭遇するケースが増加しているのである。

 考えてみれば、この時期はまさに高度成長期まっただ中。貨物の大量高速輸送と過密ダイヤが三河島事故や鶴見事故の遠因になったのと同様に、穏やかなバス運転が鉄道のスピードと合わなくなってきたのではないか。筆者はそんな風に想像しているのだが、いかがであろうか。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇ウィキペディア

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大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)

 今回のバス事故は、参考資料では至極あっさり紹介されている。だがその内容をよく見てみると、かなりとんでもない二重衝突事故だ。下手をすれば土浦事故か三河島事故のような事態になっていたかも知れない。

 1959(昭和34)年1月3日に起きた事故である。謹賀事故死んねん。

 場所は大阪市東淀川区、新庄村。現場になった踏切は、阪急京都線の上新庄駅から北へ100メートルほどの地点にあった。午後10時50分、一台のバスがそこを通過しようとしたのだ。

 これは市営バスで、大阪駅に向かっていたところだった。踏切の遮断機が上がっていたので安心して通過しようとしたところ、そこへ下り列車がやってきて衝突したのである。

 いかん、やっちまった! と思っていたら、今度はあろうことか、反対方向から京都行きの急行列車も突っ込んできて大惨事。おそらくバスの乗客だと思うが、この事故で7人が死亡した。

 なんだなんだ、どうしてこうなった。列車が来るタイミングだったというのに、なんで遮断機が上がっていたんだ――!?

 その答えは簡単だった。踏切警手がこう証言したのだ。

「あーごめん忘れちゃってた~てへぺろ☆」

 もうええわ、お前クビやクビ! ……ということになったのかどうか、その後の経過は不明だが、もっと具体的に言えばこの踏切警手は上り列車の急行のことしか頭になかったらしい。二度目にバスと衝突したほうである。

 で、少し想像してほしいのだが、つまりこの踏切警手は、二回目に衝突した京都行きの列車についてはちゃんと認識していたことになる。これが通過する前には、遮断機を下ろすつもりだったのだろう。だから、バスが通過した時には、その上り列車が来るまでもう少し時間があったことになる。

 するとここで疑問が生じる。最初の惨事が起きてから二度目の衝突が発生するまでの間に、誰も上り列車を停止させることを考えなかったのだろうか?

 これが、土浦事故か三河島事故のようになっていた可能性がある、と最初に書いたゆえんである。このように考えると、バスの運転手はもちろん、最初に衝突した下り列車の運転士の責任も微妙なところだと思う。

 3年後に発生した三河島事故のことを思うと、非常に危なっかしい事例である。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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岡山県福渡町バス転落事故(1959年)

 1959(昭和34)年5月23日に発生した事故である。

 現場は岡山県久米郡福渡町である。――って実はこれ、参考資料には「岡山の建部でバス転落」とあるのだが、現在の地図で見ると建部とは町であるらしい。実際の事故現場が建部町なのか福渡町なのか、手元の地図だけでは微妙に判別つきかねる。内容的には「現場は福渡町」と書いてあるので、このようなタイトルにさせて頂いた。

 で、さらに詳しく言うと、現場は福渡町の中心である川口という地区である。ここを走る国道で、津山市と真庭郡落合町に分岐する個所があるそうで、そこからさらに300メートルほど南下したあたりの川沿いで事故は起きた。午前11時40分、観光バスが6メートル下の旭川に転落したのである。

 このバスは芸陽バスで出していた2台のうちの1台で、鳥取県の三朝温泉からの帰り道だったという。乗っていたのは広島県竹原市の煙草耕作協会員だった。合計93人が分乗しており、このうち45人が乗った先頭のほうのバスが落っこちたのである。

 現場の道路は道幅が5メートルほどで、トラックとのすれ違いがあったのが運の尽きだった。多分カーブか何かだったのではないだろうか、トラックを避けようとして右へ寄りすぎてしまったのだ。これにより19歳のバスガイドの女性を含む5人が死亡、43人が負傷したのだった。

 てゆうか、人数が合わんのだが。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)

 1959(昭和34)年6月5日に起きた事故である。この時期になると本当にツアーバスの事故が多いなあ。時代を感じる。

 事故に遭遇したのは、長野県上高井郡・小布施町の婦人会のメンバーたちだった。300人が5台のバスに分乗していくというかなり大がかりなツアーである。

 彼女たちは長野電鉄の貸し切りバスに乗り、公民館で主催している旅行へ出かけたところだった。行先は大町や松本城だったそうだが、事故ったのが往路だったのか復路だったのかは不明である。まあ事故が起きたのが午前8時15分なので、往路だとは思うが。

 現場は、北安曇郡美麻村千見の県道である。犀川の上流にあたる土尻川へ、一番先頭のバスが落っこちてしまったのだ。

 このバスに乗っていたのは、婦人会員61人とその子供が4人、そしてバスの乗務員が2人という取り合わせだった。18メートル落下し、5人が死亡している。

 ちなみに「原因は、不明です」(by裸のお姉さん)

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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仙台市作並街道バス転落事故(1959年)

 ありゃ。筆者の住む山形県天童市から、そう遠くない場所で起きた事故である。
 時は1959(昭和34年)12月2日。仙台駅前を出発し、山形寄りの芋沢という地区へ向かっていた一台のバスがあった。これは仙台市営のバスで、20人ほどが乗っていたという。
 これが仙台市八幡町の作並街道を走行している時、悲劇は起きた。当時このバスは結構なスピードを出していたようだ。それが対向車とすれ違う際、ハンドルを切り損ねてしまったのだ。
 そこは弘法山という山の山道で、はるか眼下には広瀬川が流れていた。皆さんもご存じ、青葉城恋唄でも登場するあの広瀬川である。しかしこれは痛ましいバス事故の話、情緒にひたってもいられない。「広瀬川~流れる崖下40メートル、転落バスはかえらず~♪(字余り)」である。ゴロゴロズザザザボチャーン! とバスは転落。27歳の男性運転手と、その他4人の男性客の計5人が死亡したのだった。合掌。
 
【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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比叡山バス衝突・転落事故(1960年)

 1960(昭和35)年7月24日のことである。比叡山の頂上から延びる一本の道を、2台のバスが縦走していた。
 バスは現在の全但(ぜんたん)バス株式会社のものである(以下「全但バス」)。この日は神戸市葺合(ふきあい)遺族会(※)の会員とバス乗務員が、2台に分乗して旅行中だった。
 
(※)神戸市葺合区というのは古い呼び名で、1980年には生田地区と統合されて中央区になっている。阪神大震災でも甚大な被害があったあの地区だ。
 
 彼らは延暦寺の根本中堂と近江神宮を巡っている真っ最中。次の目的地に到着したら、そこで食事を採る予定だった。時刻は昼。無事に到着すれば、昼食にありつける頃合である。
 さて、時刻は午後12時25分頃。バスは、間もなく比叡山ドライブウェイと合流する交差点へ差しかかろうとしていた。
 ところがここで異変が起きる。
「あれっ、ブレーキが利かないぞ!」
 それは2台のバスのうち、後続のほうのバスだった。下り坂だというのに、これは洒落にならん話である。速度も40キロほど出ており、運転手は真っ青。だがそうしている間にも、バスはどんどん坂道を滑り降りていく。
 そのうち、前方の反対車線に一台のバスが停止しているのが見えてきた。これは現在の京阪(けいはん)バス株式会社のもので、根本中堂から京都三条へ向かうところだった。
 場所は勝尊院から北へ5メートルのカーブで、そしてバス停の付近だったという。もしかすると京阪バスの方は、バス停で停止していたのかも知れない。ともかくここで、2台のバスは衝突してしまった。
 京浜バスのほうは、幸いにも衝突による破損のみで済んだようだ。やばいのはノンブレーキで坂を下ってきた全但バスである。こちらは勢い余って山道のガードレールを突き破ってしまった。
 この衝突の際の衝撃は凄まじいものだったようだ。ガードレールは52センチの高さで、レールは60センチ四方のコンクリートブロックによって支えられていた。にもかかわらず、バスはそれを根っこからなぎ倒して突破してしまったのだ。
 そしてガードレールを突き抜けると、そこは急勾配の山の斜面であった。
 また全但バスにとっては間の悪いことに、当時この斜面は工事中だったため、樹木が取り払われていた。よってバスは障害物も何もない状態でほとんど自由落下。約20メートルほど転がり落ちて、下の道路にいったん着地した。
 あ、20メートルで止まったの? 他のバス事故に比べればまだマシなほうじゃん。
 ――と、ここで安心してはいけない。「いったん」と書いたのは、ここでバスがボヨヨ~ンとバウンドしてしまったからだ。
 それで、バスはさらに南谷と呼ばれる谷へ落下。おそらくこれも斜面を転がり落ちる形になったのだろう。やっとのことで停止したのが衝突現場から150メートルも離れた場所で、当時の新聞によると最後は「斜面に逆立ち」になってしまったという。これは参考資料のリンク先のブログに写真が載っているが、斜面で完全に引っくり返ったということのようだ。
 これだけの大惨事で乗客も無事なわけがない。転がり落ちたバスには44人が乗っていたが、うち女性車掌ひとりと、遺族会の男性7名と、さらに女性20名の合計28名が死亡した(後で増えたのか30名という資料もある)。中には子供も含まれており、即死は24名だったという。
 また、衝突を受けた京阪バスでも4名の軽傷者があった。
 
※↓当時の新聞記事(リンク先ブログに詳細な図版・写真等あり)
 
 霊山・比叡山にして神も仏もありゃしねえとはこれいかに、と言いたくなるような大惨事である。
 だが落下地点が良かったのか、救出活動が素早く行われたのは幸運だった。事故発生が12時半頃で、救出と遺体の搬出活動は16時には終わったという。
 事故翌日には現場検証も行われ、原因もあらかた明らかになった。とにかくブレーキが利かなくなったというのが問題である。一体どういうことだ、と調査がなされた(ちなみに運転手は九死に一生を得ている)。
 それで調べてみると、バスのギアはサードに入っていた。下り坂で、本来ならばセカンドに入れるべきところである。運転手は、どうやら主にフットブレーキで速度を調整していたらしい。
 またこのたび事故ったバスは1953(昭和28)年に造られた53型日野ディーゼル。当時としてももはや旧型と呼ぶべき代物だった。どうやらブレーキが利かなくなったのはフェード現象らしい。老朽化した車体でフットブレーキを使いすぎたのが仇となったのだ。
 これは筆者の推測だが、セカンドではなくサードギアで走行していたというのは、決められた時間内に観光客を送迎するためのぎりぎりの速度調整だったのではないかと思う。また事故を起こした車両は2台目で、前方の1台目に遅れるわけにもいかない。安全運転でのんびりいこう、というわけにはとてもいかなかったのではないだろうか。
 その後、刑事処分や補償がどのように行われたのかは不明である。だが参考資料にさせて頂いたブログによると、当時の現場付近には、今でも慰霊碑(らしきもの)があるらしい。「無動寺バス停付近の交差点の真正面」らしいので、足を運ぶ機会がある方はぜひ手を合わせてきて頂きたい。
 
【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)

 1960(昭和35)年12月2日のことである。
 時刻は午前11時30分頃。一台のバスが、横浜市神奈川区子安通にある滝坂踏切に差しかかっていた。
 このバスは三菱電機大船製作所の宣伝バスで、少年養成工たちが乗り込んでいた。正確な人数は不明だが、なにやら工場対抗のマラソン大会とやらが行われていたそうで、その応援に向かう途中だったという。
 彼らが出発したのが午前7時30分ということで、まあ長旅お疲れさんというところである。だが4時間もだらだらとバスに揺られたあげく事故に遭遇したのだから、これは実に不運な話だ。
 この時、滝坂踏切では設備の工事だか試験のようなものが行われていた。それで通行禁止になっていたのだが、運転手はそれを無視。堂々と踏切に乗り入れてしまう。
 この後、どういうことになったかはもうお分かりであろう。ここに折悪しく架線試験の機関車が通りかかりドガチャーン、たちまち目も当てられない大惨事である。乗っていた少年8人が死亡、他にも10人がけがを負った。
 ここまで読むと「なんてひどい運転手だ!」と思われるかも知れないが、当時この踏切は遮断機も上がった状態だったという。当時の細かいことは分からないが、もしこれで立入禁止の表示が分かりにくければ、ひどい運転手でなくともきっと乗り入れてしまうのではないか。
 あと、遮断機が手動だったか自動だったかによっても、評価は分かれるであろう。どうだったのかな。
 ただ蛇足めいた話だが、実はこの時代というのは意外にモラルの荒廃が著しかったのである。踏切工事現場での対策の杜撰さ、あるいは乗り入れ禁止表示の無視など、そういうことがあっても不思議ではないかもなという気もするのだ。
 「三丁目の夕日」の時代などというと人の心も温かそうだが、実際には凄まじい時代だったのだ。生活環境の悪化、公害の発生、神風タクシーの横行、交通事故の死者数の増加、猟奇犯罪の発生(これも今以上に多かった)、大事故の頻発などなど、現代の方がよほどマシな状況だったのである。
 ちなみに、この時期の大事故といえばなんといっても1962(昭和37)年の三河島事故と、1963(昭和38)年の鶴見事故だが、実は今回の事故の現場である滝坂踏切は鶴見事故の現場の目と鼻の先である。鶴見事故のことが語られる際には必ず出てくる踏切だったりする。不吉な場所だ。
 
【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◇『都市の暮らしの民俗学〈1〉都市とふるさと』新谷尚紀・岩本通弥 (編集)吉川弘文館 (2006/09)

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岡山県真庭バス踏切事故(1960年)

 ここまでバス事故の歴史を記述してきたが、この間「なんか変だな」と思い見返してみて気付いた。件数が異常なのだ。1959(昭和34)年から1960(昭和35)年にかけては、当たり年と言ってもいいほどバス事故が発生している。
 というわけで今回も、1960(昭和35)年である。12月12日に発生したバス事故だ。
 現場は、国鉄姫新線(きしんせん)の美作落合~美作追分の間にあるという無人踏切である。今はもうないかも知れない。
 もう少し詳しく書くと、そこは岡山県真庭郡落合町、下河内赤野という場所だ。もちろん、東北在住の筆者はここがどういう所なのか知るわけもないのだが、試しに「美作落合~美作追分」で調べてみると、なんかもう、気持ちがほのぼのしてしまうほどの田舎の鉄道写真が出てきた。
 いい場所なんだなあ。本当に、絵に描いたようなローカル線である。
 ともあれ、そこで事故は起きた。姫路発・広島行き下り813列車が、午前8時20分に踏切に差しかかった時のことである。そこに中国鉄道のバスが通りかかり、衝突してしまったのだ。
 バスは河内発・勝山行きのもので、激突の衝撃で一回転半すると線路脇に転落。通勤客をはじめとする59人が乗っており、うち10人が死亡し54人が怪我を負った。
 って、あれ。人数が合わんぞ。
 バスの運転手を含めてもせいぜいプラス1人程度だろうから、ひょっとすると鉄道のほうでも怪我人が出たのかも知れない。
 当時は小雨が降っていたという。どうやら、バスのほうで列車が来るのを見落としたものらしい。無人踏切の恐ろしさである。
 
【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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長野県松本市バス転落事故(1960年)

 またしても1960年の事故である。この年だけで見ると大した件数ではないように見えるが、2~3年くらいのスパンで見ると、とにかくバス事故の発生割合の多さに驚かされる。
 つまりこの頃から、日本は交通網が大きく整備されていったのだろう。そして交通量も増え、システムや人の心がその変化に追いつかなくなったのだ。そういうことなのだと思う。
 今度の事故現場は、長野県松本市である。1960(昭和35)年12月26日午前11時、雪の積もる橋からバスが転落したのだ。 
 場所は松本市入山辺区三反田、薄川(すすきがわ)の大手橋の仮橋だった――といっても「大手橋の仮橋」って一体なんのことだかよく分からないのだが、とにかくそういう橋があるらしい――そこに通りかかったのが運の尽き、車両は7メートル下の河原に転落した。
 転落したのは大和合発・松本行きの松本電鉄のバスだった。橋には手すりがなく、ストレートに落下していったらしい。
 この事故で乗客4人が死亡、41人が負傷した。
 
【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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京都府日向町バス踏切事故(1961年)

 ここ数件の事例で続いていたバス事故のラッシュ時期だが、やっと脱出である。今回の事例は1961(昭和36)年だ。
 だが今度は奇妙なことに、確認できる限り、この年のバス事故の記録は今回の1件きりなのだ。これはどういうことなのだろう? みんなバスの運転に気をつけるようになったのか、それともバス事故が当たり前になりすぎて誰も記録しなくなったのか……。
 とにかく、1961(昭和36)年11月5日に発生した事故である。現場は京都府乙訓郡向日町、阪急電鉄京都線の東向日町駅から南へ500mの地点。梅ノ木踏切という場所だった。
 時刻は午前12時55分。なんと、バスがエンジントラブルのため、踏切を渡り切らないうちに立ち往生してしまったのだ。
 このバスは、国鉄向日町駅発・向日町競輪場行きの臨時バスで、京阪電鉄のものだった。
 大変だ、下りろや下りろ。乗客たちはバスからの脱出を始めた。総勢60人ほどである。
 しかし彼らが避難し終えないうちに、京都行きの急行列車が走行してきて衝突してしまった。バスは後ろ半分を踏切の中に残した形だったのだが、これにぶつかったのである。7人の乗客が死亡した。
 これ、列車を止める手立てはなかったのだろうか? 当時は、車や踏切に発煙筒は設置されていなかったのかと思う。最初の小さなトラブルが大事故を引き起こしたというのは、翌年に発生した三河島事故を連想させる。あれも、後から来た列車を停止させる措置を取っていれば防げた、そんなケースだった。
 
【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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北海道渡島バス転落事故(1962年)

 今回ご紹介するケースはバス事故であると同時に、地滑りによるいわゆる「土砂災害」でもある。よって最初に、地滑りに関するちょっとした予習から入ることにしよう。
 地滑りとは、傾斜のゆるい斜面で、地面が大きな固まりの状態でずり落ちるものである。
 この「ずり落ち」の動きはとても遅く、1日に数ミリ程度が普通である。だが、地震やその他の要因で勢いがつくと一気に滑り落ちることがあり、それで家屋や交通機関が影響を受ける場合がある。またこの土砂が川をせき止めると、洪水や土石流が発生することもある。
 ではこの地滑り、どのようなメカニズムで起きるのだろう?
 地面には、硬さや性質の違う土・石などが何重にも積み重なっている。その中には、水か染み込まない粘度状の地層もある。よってそこに水がたまると、上の地層はプカ~ッと水に浮く形になり、傾きに合わせて滑り落ちるのである。こうして地滑りは発生する。
 よって地滑りには、起きやすい場所とそうでない場所がある。いやむしろ地滑りとは、起きやすい場所で何度も繰り返して発生すると言ってもいい。
 地滑りが起きやすい地層には、以下の3種類がある。
 
1・第三紀層(だいさんきそう)
2・破砕帯(はさいたい)
3・温泉(おんせん)
  
 1番目の「第三紀層」というのは、今から約6500万年から約170万年前に形成された地層である。当時は海底だったため、ヘンなものが積み重なってできた地層だ。田中慎弥の作品に『第三紀層の魚』というのがあるが、その第三紀層である。
 新潟県や長野県の北部で起きる地滑りは、大抵はこのタイプらしい。ゆっくり滑るのが特徴だという。
 また2番目の破砕帯というのは、これは主に岩石で出来ている地層である。それがひび割れで砕けやすくなっているため、動いたり割れたりズレたりする。その力で地面が変質して粘土状になるのだそうだ(なんだか掴みどころのない説明で申し訳ない)。このタイプの地層で起きる地滑りは、動きが速い。
 で、最後の温泉というのは、火山や温泉がある地域の地層のこと。土が温泉の熱やガスの影響で変質し、粘土状になることで地滑りが起きやすくなる。
 とまあ、以上が地滑り災害の概要である。筆者も今までよく知らなかったのだが、いずれ研究室でも土砂災害のことは書くと思うので、これはその予習でもある。
 さあ、バス事故の話である。
 
   ☆
 
 時は1962(昭和37)年10月17日。
 北海道の渡島半島西海岸に位置する爾志郡乙部村・豊浜から、熊石町・相沼までを結ぶ国道229号線がある。ここを一台のバスが走っていた。
 これは函館バス(現在の「函館バス株式会社」と思われる)のもので、久遠郡大成村・久遠から江差へ向かう途中だった。
 時刻は午前10時45分(資料によっては11時45分ともある)。この229号線は海岸に沿った形で敷かれており、隣には山の斜面が、そして反対方向には海が広がっているという状況だった。
 最初の異常は、この路線の4号トンネルと3号トンネルの間で発生した。4号トンネルを通過した直後に、道路脇の山腹から小石が降ってきたのだ。
 なんだなんだ、天狗つぶてか? ともあれバスは少し進み、3号トンネルに入ろうとした。しかしそこで5人の見張員の男性にストップをかけられてしまう。
「今、ここは雨で地盤が緩んで警戒中です。下がって下がって!」
 彼らは函館開発建設部・江差出張所の者だった。
 そう。当時、現場の山腹には、土砂崩れの兆候がいくつも表れていたのだ。山腹の畑に入った亀裂は日増しに大きくなっており、道路への落石も著しく、さらに海岸に設けられた擁壁にもひびが入っていたのである。
 見張員の指示に従い、バスは後退した。
 ところが、これがもう最悪のタイミングだった。20メートルほどバックしたあたりで、くだんの山腹から「ゴーッ」という音と共に土砂が押し寄せてきたのだ。
 この時の土砂は、幅300メートル、奥行き800メートルに及ぶものだった。北海道での地滑りとしては、珍しく大規模なものだったという。
 バスはこれに巻き込まれ、4、5メートルほど押し流された。だがすぐには海へ落下せず、一度はストップしたようだ。
 この間に、乗客たちは急いで避難を始めた。
 しかし長くはもたず、そのままバスは土砂に押し流されて海へ。乗っていた人たちはもちろん、避難した人の一部も、それに救助を手伝っていたのだろうか、監視員の1人も巻き込まれてしまった。
 事故発生直後では死亡者が5名、行方不明者9名(このうち1名が見張員)、そして重軽傷者が25名という内容になっている。だが程なく行方不明者も遺体で見つかり、資料で確認できる限りでは死亡者11名、行方不明者3名となった。
 大事故である。すぐに救助と捜索活動が行われ、これには地元消防団、陸上自衛隊、海上保安庁、北海道開発局函館開発建設部が出動した。
 だがネット上の資料によると、11月1日の時点でも、なお2名の行方不明者とバスの車体そのものが行方不明、とあった。これらがその後ちゃんと見つかったのかは不明である。
 さてそれで、この地滑りが起きた現場の地層は第三紀層であった。よってこの土砂災害は「第三紀層地滑り」に分類されることになる。
 もっとも、この地滑りの原因は地層の性質のせいばかりではなかった。この年は夏から秋にかけての雨の量が異常に多く、もともと地層が浮き上がりやすい状態だったようだ。また、山を切り崩して道路を作ったのも、土砂崩れの要因となったのかも知れない。
 ここでは以前から小規模な地滑りが頻発しており、山側には落石防止のためにコンクリ製の防壁も設けられていた。しかしこの度の土砂はそんな防壁はものともせず、さらに海側の波よけも粉砕し、国道上の3号トンネルを埋めてしまった。あげく海へ向かって100メートルも流出したというから、これはほとんど地形が変わったといえよう。
 ちなみにこの地滑りが起きた豊浜地区といえば、後年、トンネルでの落石事故が起きた地域でもある。どうもこの辺りの土地はあまり人に優しくないようだ。
 
【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm
◆『北海道渡島半島西海岸の乙部村豊浜地域に発生した地滑り』
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1963/01/63_01_07.pdf
◆特定非営利活動法人砂防広報センターホームページ
http://www.sabopc.or.jp/

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岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)

 1963(昭和38年)5月13日は、大きめのバス事故が2件も発生している。今回ご紹介するのはその片方である。
 場所は岡山県久米郡……ってあれ、また久米郡か。ここ、少し前にも事故の記事を書いたっけ。まあ久米郡とひとくちに言っても広いのだろうが。
 改めて、場所は岡山県久米郡中央町・原田である。なんかよく分からないのだが、地区がさらに細分化されているのか、この原田の中にさらに加美橋西詰という地域がある(あった?)らしい。そこの国道で事故は起きた。
 災禍に遭遇したのは中国鉄道バスである。これは久米南町上籾竜山を出発し、津山へと向かう途中だった。
 時刻は午前9時。3メートル下の、皿川という川へ転落したのだ。
 これにより車体は半分が水没し、60人いた乗客のうち5人が死亡したという。乗客の中には加美保育所の園児14人もいたそうだが、資料を見る限りでは園児の中に死亡者はいなかったようだ。
 事故の原因はまったく不明である。凍結によるスリップは季節柄まずあり得ないだろうから、すれ違った時にバランスを崩したとか、そういうパターンだろうか。
 あるいは、一台のバスに60人というのは多すぎる気もする(たとえ14人が保育園児でも、だ)ので、乗客が多くてバランスを取りにくかったのかも知れない。こうなれば、ほんのちょっとしたきっかけで事故が発生しても不思議ではない。
 
【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

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長崎・北松浦バス転落事故(1963年)

 1963(昭和38年)5月13日に起きた、2件のバス事故のうちの片方である。

 時は午前11時30分。長崎県北松浦郡田平町、深月免馬ノ元という場所を走る国道204号線で、事故は起きた。そこを通りかかった西肥バスの急行バス(平戸口発佐世保行き)が、20メートルも下の谷底へ転落したのである。

 転落した現場は、馬ノ元バス停から250メートルほど離れた場所だったという。当時の新聞記事で「雨で路肩が緩んでいた」とわざわざ書かれているくらいなので、おそらくそれで崖っぷちを踏み外したのだろう。転落の現場も七曲がりと呼ばれる場所で、もともと危険だったようだ。

 この事故により、乗客20名のうち9名が死亡した。さらに乗客乗員14人が重軽傷を負ったということで、ものの見事に人数が合わない(笑)。資料を突き合わせてみるとこうなるのだから、これはどうしようもない。さーて来週のサザエさんは……。

 

【参考資料】

◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

ウィキペディア「西肥自動車」

 

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岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)

 時は1964年(昭和39)年1月15日、場所は岡山県倉敷市である。浅原宮古の下り坂を、一台のバスが走っていた。倉敷市市営バスだ。

 時刻は14時25分のこと。一体なにが起きたのか、原因はさっぱり分からないのだが、バスが道路右の小川に転落してしまったのだ。

 転落した高さは3メートル。まあ、当研究室でご紹介したような、数十メートルも転がり落ちたとか湖に没したとか、そういうのに比べるとわりと穏やかな感じがする。

 だが、驚くべきはその高さよりも乗客の人数である。定員62人のところを、なんと100人近くまで押し込んでいたというのだ。帰省ラッシュ時の新幹線も真っ青の乗車率、下り坂で引っくり返るのもさもありなん。結果、乗っていた老人のうち4人が死亡した。

 乗っていた100人余りの乗客というのは、これは「黒住教浅原大教会」なるところから帰る途中だったらしい。

 このナントカ大教会とはなんじゃらホイ、と思い調べてみたところ、古い宗教団体だった。今も倉敷市に存在しているようで、年間行事を調べてみたところ、1月15日には「伊勢初詣団体参拝」という行事があった。

 この事故の乗客たちも、もしかするとこのイベントからの帰り道だったのかも知れない。

 

【参考資料】

 ◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 ◇黒住教浅原大教会所ホームページ

http://www.asabara.jp/

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奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)

 1964(昭和39)年3月22日のこと。

 場所は奈良県大和高田市、築山の県道である。午後12時40分、奈良交通の馬見発高田行きのバスが走行していたのだが、これが高田川という川の堤防から滑落して池に落っこちてしまった。

 中には70~80名の乗客がいたというから恐ろしい話である。バスはズルズルと後ろから滑り落ちるように、10メートル下の新堀池へと落下したのだった(どうでもいいがこの新堀池というのも、検索してみたが場所がいまいちよく分からなかった)。

 最初、この事故の原因は不明としか書きようがなかったのだが、ネット上で検索していたら事故原因について一言だけ書かれた文章を発見した。JLOGOSという総合辞書サイトで、これによると事故は「対向車とすれ違う際、誤って」発生したものだったらしい。

 当時の新聞記事には「日曜で大和市へ行く客で満席だった」とわざわざ付け足してあるので、もしかすると定員オーバーでバランスを崩してしまったのかも知れない。

 この事故で、乗客のうち女性7名、男性1名、男児1名の計9名が死亡した。怪我人は69人に及んだという。

 

【参考資料】

 ◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

◇個人ブログ『太古の新聞記事など』

http://63164201.at.webry.info/200904/article_13.html

◇JLogos

http://www.jlogos.com/webtoktai/index.html?jid=12274868

 

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長野県佐久市バス転落事故(1964年)

 1964(昭和39)年9月22日のことである。

 上信電鉄・中込営業所の観光貸切バスが2台、道路を走行していた。

 中には、長野県佐久市平賀の煙草耕作組合の農家たちが乗り込んでおり、まあ慰安旅行か何かだったのだろう、行き先は草津温泉だったという。

 ところがこのバスが目的地に到着することはなかった。午前7時30分、佐久市長土呂・近津神社前の二級国道(当時)上田韮崎線にさしかかった時、悲劇が起きたのである。

 当時は雨降りだったのか雨上がりだったのか、道路はスリップしやすい状態だった。そんな中、対向車線を走っていた一台のトラックが、バスとすれ違う手前で案の定ツルツルッといってしまったのである。

 このトラックは、佐久郡川上村にあった光本工業という会社のものだった。こいつがいきなり対向車線をはみ出したものだから、バスのほうはたまらない。慌てて急ブレーキをかけたものの、トラックの車体の真ん中あたりに衝突した。

 しかもそれだけにとどまらない。どうやら道路の左側が斜面かなにかだったらしくバスはそちらへ落下。ゴロンゴロンと3回転して20メートル下へイッてしまったのだった。

 このシェイクを受けた60人の乗客のうち、6人が死亡した。

 

【参考資料】

◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 

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和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)

 1965(昭和40)年3月2日のことである。

 記録によると時刻は「午前12時35分」とあるが、午後の間違いでなければ深夜もいいとこである。一台の観光バスが、国道168号線を走行していた。

 このバスは熊野観光のもので、和歌山県東牟婁(ひがしむる)郡本宮町八木尾から新宮へと向かっていたところだった。目的地へはもうすぐで、距離にしてあと7.3キロほど。しかしそこへ辿り着くことなく、このバスには悲劇が訪れる。

 何かに乗り上げてしまったのだろうか、どうも「車がバウンド」してハンドルが利かなくなってしまったらしい。バスは国道から外れるとゴロンゴロンゴロン、3回転して転落、27メートル下の熊野川へ逆さまに突っ込んだ。屋根を下にして3分の2ほどが水没したというから、なんと申しましょうか、犬神家の一族状態である。

 こによって8人が死亡、24人が負傷した。

 元ネタである新聞記事には、負傷して一命を取り留めた48歳の女性のことが特に取り上げられている。それによると、彼女自身は助かったのだが、一緒に乗車していた3人の娘は命を落としたという。40年以上前の事故だが、今からでもご冥福をお祈りしたい。

 

【参考資料】

 ◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 

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日光市湯の湖バス転落事故(1965年)

 栃木県は日光市湯元に、湯ノ湖(ゆのこ)という名の堰止湖がある。

 なんでも北東の三岳(みつだけ)火山の噴火によってできたものらしい。日光観光協会のホームページによると、標高1,478メートルの場所に存在しており、一時間ほどで一周できるサイズだとか。筆者はこういうのに疎いのだが、まあ観光地なのだろう。

 1965(昭和40)年12月21日、事故はこの湯ノ湖で発生した。

 場所をもっと詳しく言えば、この湯ノ湖の東側にある「旧国道のカーブ」である。

 現在、湯ノ湖の湖畔には日本ロマンチック街道という名前の120号線が走っている。事故当時でも旧国道と呼んでいるくらいだから、現場はこの道路ではあるまい。それで地図をよく見るともう一本、北から遠回りをする形で湯元に向かう道路がある。これも湯ノ湖沿いの道で、他に目ぼしい道路もないのでおそらくこれが現場であろう。

 時刻は午前8時50分。この道路を一台のマイクロバスが走っていた。

 乗っていたのは11人。紺野組という、たぶん建築関係の業者さんたちと思われるグループである。彼らは湯ノ湖の湖畔の遊歩道を作るため、朝から作業現場へ向かっていた。

 しかし悲劇が起きる。当時の新聞記事によると、「前の車を避けようとブレーキをかけた」とあるので、前の車とやらが急ブレーキでもかけたのではないだろうか。しかし季節は12月。道路は凍結しており、マイクロバスはたちまちスリップして湖へ転落してしまった。

 道路から湖までは、3メートルの高さがあったという。これにより、乗っていた11人のうちほぼ半分の5人が死亡した。36歳の男性が一人と、32、37、38、39歳の女性が一人ずつという内訳だった。

 

【参考資料】

 ◆ウィキペディア

 ◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

◆一般社団法人日光観光協会ホームページ

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大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)

 1965(昭和40)年12月21日のことである。

 福岡県大牟田市天領町の、鹿児島本線・大牟田~荒尾間の踏切で惨劇は起きた。

 時刻は午後3時45分。門司港発、人吉行きの下り準急<くまがわ>が、踏切を通過しようとした時のことだ。なんと、前方で一台のバスが横切ろうとしていたのである。

 危ない、ぶつかる! ――間に合わなかった。電車はバスの後部に激突し、吹っ飛ばされたバスは一回転。2メートル下にあった田んぼへ落下してしまった。

 このバスは、荒尾市四ツ山発・三池中町行きの西鉄バスだった。

 現場は道幅9.1メートルで、周囲は田んぼだったという。いかにも長閑そうだが、5人も死亡したのでほっこりしているわけにもいかない。一体全体、どうしてこんなことになったのか? バスの運転手はこう証言した。

「警報機が鳴ったので、バスは一度停止した。そして上り列車が通過したので、もう大丈夫だろうと思った」。

 他に資料がないので想像するしかないが、下り列車がまだ未通過だった以上、警報機はまだ鳴っていたのではないだろうか。だとすればこの運転手、その後どのような処分を受けたかは不明だが、責任は免れなかったことだろう。

 あるいはひょっとすると、遮断機なしの田舎らしい踏切だったのだろうか。いやしかし遮断機なしで警報機だけが鳴るような踏切があるのだろうか? そのあたりは想像をかき立てられる。

 

【参考資料】

 ◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)

 1967(昭和42)年4月29日のことである。新潟県長岡市大積町の国道8号線を、朝から一台のバスが走っていた。

 これは越後交通のバスで、行き先は上山田温泉である。乗っていたのは長岡信用金庫の職員28名で、おそらく慰安旅行か何かだったのだろう。調べてみたところ、当時のこの日は土曜日だった。当時はまだ週休2日制はなかったはずだが、4月29日は昭和の日だ。

 ところが午前9時、これが越路建設という建設会社のトラックと正面衝突してしまう。原因は不明だ。

 バスの方はどうなったのかよく分からないのだが、何も書かれていないということは、とりあえず大事には至らなかったのだろう。

 悲惨なのはトラックの方である。もともとこのトラックは大積町高頭の土木工事に向かう途中だったのだが、荷台に複数人の農婦が乗っていたのだ。おそらく作業の手伝いのために乗車していたのだろう。衝突の衝撃で彼女たちのうち11人が投げ出され、さらにそのうち6人が死亡した。

 この事故については、特にこれ以上書くことはない。現場の状況も救助の様子も補償もどうなったのかは全く不明である。

 よってここからは余談なのだが、この事故が発生したのは、曾地峠という場所の入り口あたりらしい。

 で、この曾地峠というのが、検索してみると実は有名な心霊スポットなのだそうな。

 そういう場所で起きた事故ということで、夜に原稿を書いていたらなんとなくゾッとして後ろを振り向いてしまった筆者である。

 

【参考資料】

◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

◆ウェブサイト『新潟県の心霊スポット』

http://2nd.geocities.jp/inosisicheetah2/niigata.html

 

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富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)

 1967(昭和42)年6月18日のことである。

 

 富山県婦負郡八尾町(現在は富山市に編入)栃折の県道を、一台のマイクロバスが走行していた。

 

 もう少し具体的な場所を言うと、そこは茗ケ島の仁歩発電所から上流へ1キロほど行ったあたりである。

 

 マイクロバスは岡本工業という、おそらく建設関係の会社のものだった(現在も八尾町に同名の会社があるが、同じものかは不明)。乗っていたのは農家の出稼ぎ組の人々15名で、大長谷川の堰堤工事に向かっていた。

 

 ところがこのバスを悲劇が襲う。バスが走行していたのは曲がりくねったカーブ続きの悪路で、これがある地点で左側の路肩からはみ出してしまったのだ。

 

 これによりバスは転落。100メートルもの高さを、大長谷川へ向けて真っ逆さま。乗っていた労務者のうち7人が死亡、運転手を含む9人が死亡した。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 

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山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)

 1968(昭和43)年5月15日のことである。

 

 時刻は午前3時30分、一台のバス(山梨交通観光)が国道20号線韮崎バイパス(山梨県韮崎市韮崎町高河原)を走行していた。

 

 乗っていたのは、参考資料によると「東山梨郡大和村立大和中」という学校の修学旅行参加者たちである。内訳は3年生の生徒が30人と教師3人、運転手2人と添乗員1人だった。

 

(※参考資料によると、とわざわざ書き加えたのは、この中学校がどこにあったものなのか確認できなかったからである。検索してみたところ、大和村立大和中学校」は鹿児島に現存するものだけがヒットしたが、東山梨郡とはかつて山梨県に存在した郡だそうな。)

 

 彼らは午前2時30分に出発したばかりだった(どこから出発したのかは不明)。時刻が時刻なのでほとんどの者が寝ていたのではないだろうか。

 

 そこへ、三郷運送という運送会社のトラックが突っ込んできた。バスの前部右側に激突し、車体の壁面を剥ぎ取るほどの衝撃だったという。

 

 この衝撃によって、バスの椅子が6つ外に投げ出された。おそらくこれらの椅子に乗っていた人だろう、以下の6名が亡くなった。

 

 3年A組担任の女性教師(51)
 男性の教頭(45)
 男子生徒3人(14)
 バスの交代運転手(33)

 

 悲惨な話である。ちなみにぶつかってきたトラックは、愛知から町田に向けて走行中だった。引越し荷物を運んでいたのだ。

 

 運転していたのは19歳。なんと無免許だった。事故現場から2キロほど手前で、それまでの運転手と交代したばかりだったのだ。「走れ走れいす○のトラック~♪」どころの話じゃない。そんなのにハンドル握らせるんじゃないよ。

 

【参考資料】
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.htm

 

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飛騨川バス転落事故(1968年)

 飛騨川バス転落事故は、1968年(昭和43年)8月18日に発生した。死者104人という大惨事である。

 厳密に調べたわけではないが、バス事故というカテゴリーで死者104人というのは世界規模で見ても最悪クラスのもののようだ。ひょっとすると死者数は世界一かも知れない。これが本当なら、航空機事故でも世界最高の死者数を記録したことがある我が国は、些か不名誉なワールド・レコードを2つも保有していることになる。

 まあ他にも、日本は「個人が浴びた放射能の量が世界一」とか「ひとつの山での遭難者数が世界一」とか、ろくでもない世界記録が他にも色々とあるんだけどね。その辺りはいずれお話する機会もあろう。

 

   ☆

 

 さてバス転落事故だが、これは少し角度を変えればバス事故ではなく「豪雨災害」あるいは「土砂災害」と見ることもできる。実際、災害関係の本を何冊か紐解いてみると、この事故はどのカテゴリにも跨る形で紹介されている。
 観光ツアーに来ていた数台のバスが、豪雨に見舞われて引き返すことになったのである。だがその引き返しの途中で2台が土砂崩れに巻き込まれ、増水した飛騨川へ転落したのだ。
 現場は岐阜県加茂郡、白川町地内の国道41号である。
 もともとこの日の岐阜県は、台風の影響による集中豪雨に見舞われていた。時間雨量149ミリという地方気象台始まって以来の規模で、これによって県内ではバス事故以外にも14名の死者が出ている。
 事故に遭ったのは「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」なるツアーに参加していた人々だった。
 これは名古屋市で無料新聞を発行していた「奥様ジャーナル」と名鉄観光が組んで企画したツアーで、700人以上が参加した。
 計画では、夜中に犬山市の成田山へ集合し、そこから片道160キロの乗鞍岳へ出発する。そして車内で睡眠を取ってから早朝に登山をし、山頂で朝日を見る……という予定だったらしい。
 当初、ツアーは予定通りに出発した。しかしあまりの雨の酷さと道路状況の悪さから、主催者と運転手たちはツアーを一週間延期することに決定。全てのバスはもと来た道を戻ることにした。
 そして午前0時20分頃。5号車の運転手が消防団員に呼び止められた。白川口駅近くにある、飛泉橋という橋でのことだ。
「この先は危険ですよ。飛騨川の水位が上がるかも知れない。落石の可能性もある」
 そう言われて運転手は考えた。
「しかし1号車から3号車はすでにここを通過している(4号車はゲンを担いで存在していなかった)。通行規制もまだ実施されていない。まあ、通過したって大丈夫だろう。名古屋まではもう2時間以内に着く距離なんだし……」
 こうして5、6、7号車は危険地帯を突破することにした。
 後になって考えてみれば、これがまさに運命の別れ道だった。この時点でもまだ敷かれていなかった交通規制、バスに対して強硬にストップをかけなかった消防団員、そしてバスの運転手の甘い判断――。これらの要素が重なり合って、危機を逃れる最後のチャンスは見逃されたのである。
 さて前方で走っている1、2、3号車も含めたこの合計6台のバスは、左は崖下で増水している飛騨川、そして右が絶壁という道路を進んでいった。
 そしてこの6台は、途中で何度か小規模な土砂崩れに遭遇している。まあこれは手作業で土砂を取り除いて先へ進むことができたのだが、ところがさらに進んだところで、もっと規模の大きい土砂崩れが発生。完全に道を塞がれて、遂にいかんともしがたくなってしまった。
 こりゃイカン、さすがに引き返すしかないよ――。
 すると間の悪いことに、今度は後方でも土砂崩れが発生。バスやその他の乗用車は前も後ろも土砂に挟まれてしまい、進退窮まった。
 このように、現場周辺では大小取り混ぜた土砂崩れが複数発生していたのだった。考えてみれば実にとんでもない状況だったわけだが、バスにとって「とどめの一撃」となったのは、午前2時11分に発生したものだった。
 高さ100メートル、幅30メートル、推定740立方メートル、ダンプカーにして250台分――。こんな量の土砂が押し寄せてきては、もはや人間になす術はあるまい。立ち往生していたバスのうち、5号車と6号車がこれの直撃を受けた。2台は、増水した飛騨川へあっと言う間に転落していったという。
 それ以上の土砂崩れがなかったのは不幸中の幸いだった。バスの運転手たちは、残りのバスの乗客たちを、急いで比較的安全な場所に避難させてから、救助を求めて一路ダム見張所へ向かう。ようやく第一報が齎された時には、事故発生から3時間以上が経過していた。
 ちなみに8号車以降のグループは、消防団の警告に応じて白川口駅前広場で待機したことで難を逃れている。
 さて救助活動だが、これが困難を極めた。
 なにせ犠牲者たちは大半がバスから投げ出され、増水で荒れ狂う激流に飲まれたのである。事故翌日には知多半島にまで遺体が漂着し、捜索範囲は岐阜・愛知・三重の3県に跨ることになった。
 救助のための人員数は最終的に3万人にも上り、一時はダム湖を空っぽにして捜索活動が行われたという。それでも最終的には9名が行方不明のままになった。
 転落したバスには総数で107名が乗っており、助かったのは3名だけだった。家族連れツアーだったこともあり、一家全滅や、あるいは家族一人だけが生き残ったケースなどもあったらしく痛ましい限りである。
 事故の責任問題は、そう長くかからずに解決した。最終的には国を相手取った訴訟にまで展開した上に、争点が「天災か人災か」という判断の難しいものだったにも関わらず6年で結審しているのには感心する。
 まあ、ここまで見て頂ければ分かると思うが、具体的な責任主体を特定するのが非常に難しい事故である。コトは土砂崩れという自然災害であるし、そもそも当日の天候も予測が困難なものだった。ツアー主催者側だって出発前には気象台に問い合わせ、「天気は好転し翌朝は晴れるでしょう」という予報を聞いたからこそツアーを決行したのである。その1時間後に注意報が、さらに2時間後には警報が発令されるとは誰が考えただろう?
 では、消防団の警告を無視して危険地域に入り込んだバスの運転手の責任はどうか。しかしこれも、進退窮まった段階ではちゃんと引き返す判断をしているし、二次災害の回避に全力を尽くしてもいる。裁判では無罪となった。
 だが、遺族側としてはそれで収まるはずもない。主催者と観光会社を相手取って損害賠償を請求し、こちらでは示談が成立。さらに道路の管理を怠っていたとして国に対しても国家賠償を請求、粘り強く訴え続けて最終的には控訴審で全面勝訴している。天晴れという他はない。

 104名という死者数がものを言ったのか、それとも国の側に明らかな落ち度があったのかはよく分からないが、この事故に関しては国側はかなり譲歩しているようにも見える。控訴審判決に対して上告していないし、一度は拒否された自賠責の適用を、当時の運輸省の判断で撤回させている程だ(この時の運輸省の閣議報告の論理がなかなか面白いのだが詳細は割愛)。
 とにかく、最終的に国を相手取った訴訟にまで発展しているだけに、当時の首相や運輸省までをも巻き込んでスケールの大きい話題になっている。
 ところでこの事故が「自然災害」ではなく「バス事故」と呼ばれるようになったのは、恐らく104人という死者数ゆえだろうと筆者は想像している。
 もしも土砂崩れに巻き込まれたバスが1台だけで、それに乗っていたのが運転手1名だけであったなら、それはバス事故ではなく「バスが被害に遭った土砂災害」と呼ばれただろうと思う。
 だが土砂災害や自然災害といったカテゴリーに分類してしまうと、恐らく具体的な責任主体をはっきりさせるのが、文脈上、難しくなる。104人も死んだ以上、これはあくまでも自然災害ではなくバス事故と呼ばなければいけない――そうした重力がどこかで働いたのではないだろうか。
 こうした「重力」があったとすれば、それが発生したのは、被害者遺族の大半がマンションの住民だったので、そこで強い結束が生まれたからではないだろうか。あくまでも想像だが、筆者はそんな物語をイメージしている。

 

   ☆

 

 ところで、この事故の話は正直あまり書く気がしなかった。
 もちろん事故そのものは興味深いのだが、ウィキペディアで既に詳細な内容が解説されているのだ。あれを読むと、今さら自分が書く意味ないじゃん、という気持ちになる。書いているのが事故の関係者なのか研究者なのかは不明だが、この事故の記憶を風化させまいと努めている方がおられるようである。
 それでも今回この記事を書いたのは、三河島事故の記事と同様に「この事故のことを書かなかったら片手落ちだろう」という気持ちがあったからだ。よってここでは大まかな内容の紹介にとどめてある。もっと詳細を知りたい方はインターネットで検索して頂きたい。

 

   ☆

 

<補足>
 この事故について筆者が驚き、なおかつ興味深く思ったのが、コメントの多さである。
 当『事故災害研究室』は、現在のように電子書籍化する前は、ブログ上の手作りのいちコーナーとして存在していた。この「飛騨川バス転落事故」もそこで一度公開しているのだが、「ブログコメント」という形で、事故の関係者の方からメッセージを頂く機会がもっとも多いのがこの事例なのである。
 それも、例えばひとつの事例につきいつも3つのコメントをもらっていて、飛騨川バス転落事故は5つ、というようなバランスではない。突出しているのだ。事故災害ルポにコメントを頂くこと自体まれなのに、この事故だけは3つも連続するから驚いた。
 先述したような「重力」の気配が感じられる点といい、ウィキペディアの詳細情報といい、つくづくこの事故を記録に残そうと意志については、他の事故とは一線を画す格別さがある。
 折角なので、以下では、この事故のルポに対して頂いた「コメント」をご紹介させて頂こうと思う。もともとが「公開コメント」なので問題ないとは思うが、もし自分の書いたコメントがここで公開されるのは困る、という方がおられたら、言って頂けると幸いである。

 

■33歳の娘より (CHIE)
2010-05-26 21:50:49
私がこの記事・ブログを検索した目的は、実はこの事故で被害に合ったバスのすぐ後ろのバスに祖母・両親が乗っていたからです。
この事故の話は、子供の頃から何度となく聞かされてきました。
またこの現場を通る時、父が何度も手を合わせるのを見てきました。
長い年月が過ぎ、この事故を語るのは父しかいませんが、違う方向からこの事故を知る事ができよかったと思います。
書いてくださって ありがとう。

 

■Unknown (spock)
2010-07-18 00:27:31
当時中学生だった私は思春期ということもあって家族で行動することはいやだったのでそのツア-には参加しませんでしたが、父母、妹が参加していましてちょうど7号車に乗っていたんだと思います。父が後から聞かせてくれたとこによると前のバスの赤いテ-ルランプがゆっくりと川のほうへ落ちていったと。もうその父はなくなり、大正生まれの母も高齢になりました。
(中略)
当時私たちは幸心住宅というところに住んでいて事故の日は確か日曜日だったと思うんですが、昼過ぎまで大曽根あたりをふらついていて家に帰ると叔父から電話があり大変なことが起きた、なんで知らないんだ?って怒られたことを覚えています。

 

■Unknown (いつのゆめ)
2011-08-24 21:04:58
初めまして。飛騨川事故を検索していて、読ませていただきました。当時6歳で、大幸住宅に住んでいてました。バスが出る日の夕方まで友達と遊んでいて「夜に旅行に行くから早く家に帰るね」と別れたその子達は全員事故にあってしまいました。団地の子供会で子供だけの葬儀?お別れ会もありました。事故から40年以上になりますが、色々な場面が鮮明でいまだに忘れていません。記録として・・とコメントされていますが書いて下さってありがとうございます。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇『日本消防史』国書刊行会

 

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岡山県玉野市バス転落事故(1969年)

 1969(昭和44)年3月19日のことである。

 

 場所は岡山県玉野市槌ヶ原の国道30号線。早朝の午前7時、ここを玉野発岡山行きのバスが走行していた。

 

 このバスは両備バスと呼ばれるもので、なんか岡山県南部を主要営業エリアとしている両備グループというのがあるらしい。そこで運営しているバスだった。

 

 中には通勤通学のために20人ほどの人が乗っていた。ところが、そこへセンターラインを越えて、中西運送という運送会社のトラックが接近してきたのである。

 

 バスとトラックは接触。トラックがどうなったのかは不明だが、不運なのはバスの方だった。道路から8メートル下の池へ転落したのである。ご丁寧に、参考資料にはこの池のサイズも書いてあったので記しておくと、縦50メートル、横60メートル、深さ5メートル。なかなかの大きさである。

 

 これにより、乗客20人のうち9人が死亡。この中には、短大受験に向かう途中だった18歳の女の子2人も含まれていたという。

 

 トラックの運転手は無事だったようだ。事故当時は材木を運んでいる最中だったのだが、朝っぱらからの運転だったせいか居眠り運転をしていたらしい。


【参考資料】

◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

 

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徳島県勝浦バス転落事故(1970年)

 ここまでバス事故の歴史を書いてきて、おやっと気付いたことがある。昭和40年代に入ったら、事故の発生ペースがぐっと落ち込んだのだ。

 

 ひどい場合には1~2年で何回も発生していた大規模なバス事故が、昭和40年代からは1年に1回程度のペースに落ち着いている。

 

 とはいえ、交通事故そのものが減ったわけでもなさそうだ。試しに、昭和46年版の犯罪白書を紐解いてみよう。それによると、自家用乗用車の普及によって、バスなどの事業用自動車の事故の割合が減った――のだそうな。

 

 つまり、交通事故のパターンに変化が出てきたのである。それまで人々は、たびたび大型交通機関を利用して大人数で移動していた。だが家庭でもマイカー(この言葉が広まり始めるのも昭和40年代)を持つことができるようになり、個人や家族単位での小規模な移動が増えたのだ。

 

 その結果、交通事故のパターンも変わったのだろう。マイカーでの事故が増えるかわりに、バスの事故は減った。そういうことだ。

 

 昭和40年代、確かに当「事故災害研究室」で取り上げる程の規模の事故は減ったのだ。だが実際にはその裏で、マイカーによる事故が数え切れないくらい起きていたに違いない。

 

 また、めったに事故が起きない交通機関がひとたび事故ると、その被害は大規模かつ悲惨なものになってしまうという事故災害の法則も存在する。

 

 少し思い出してもらえば分かる。航空機や鉄道は、自家用車ほど事故発生率が高くない。だが一度事故れば大惨事になる。変な言い方になるが、小規模な事故が多発することにより、事故が「小出し」にされて、大規模な事故は抑えられているとも言えるかも知れない。

 

 バス事故の発生件数は確かに減った。だがそれは同時に、ひとたび事故れば大惨事、ということで殿堂入りしたということも意味するのである。

 

 実際、名神高速道路の開通によってハイウェイバスというものが開業したのが1964(昭和39)年で、東名高速道路の開通に合わせて夜行バスが誕生したのが1969(昭和44)年。

 

 そして高速バスが事故ればどんなことになるか、我々は知らないわけではない。

 

 今回ご紹介するのは、高速バスとは関係ない。とりあえず、そんな時代状況の中で発生したケースである。

 

 1970(昭和45)年、8月29日のこと。

 

 時刻は午後7時30分。徳島県勝浦郡、上勝町正木の県道を一台のバスが走っていた。小松市で出していた市営の貸切バスである。

 

 乗っていたのは、勝浦農業改良普及所管内の農業団体のメンバーが17人。この日は、徳島市文化センターで「全国農業コンクール」とやらが開催されており、その帰り道だった。

 

 もともと、このバスには運転手や車掌を含めて40人程が乗っていたという。各地で乗客を下ろしたため、この人数になったのだ。

 

 時刻も時刻だし、あとは残りの乗客を下ろして店じまい――。きっとそういうタイミングだったに違いない。

 

 ところがここで不幸が起きる。なんと、一匹の猫がバスの前を横切ったのだ。

 

「わっ、ぬこ!」

 

 というわけで事故である。運転手は、これを避けようとしてハンドルを切った。それでバスは道路から外れてしまい、60メートル下の勝浦川に転落したのだった。

 

 これにより5人が死亡した。

 

 ハンドル操作をミスった運転手が無事だったかどうかは不明だが、やり切れない話だ。ぬことは言え、ひとつの命を救うための咄嗟の判断が、逆に複数の命を奪う結果になってしまったのだから。

 

 これ、事故とは全然関係ない話で恐縮なのだが、「多数の命を救うために一人を殺すのは正義か?」という倫理学上の難問がある。

 

 ひと頃話題になったサンデル教授も取り上げていたが、その例でよく出されるのが「トロッコ問題」だ。煩雑になるので詳細は省くが、この「トロッコ問題」はややこしすぎる。もっと、こういうバス事故のようなシンプルかつ身近な事例でいいと思う。

 

 なんかまとまりのない文章になってしまったが、まあいいか。

 

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆ウェブサイト『高速バスの歴史』
http://www.paraguaycrawler.com/rekishi.html

 

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岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)

 なんか昭和40年代は、岐阜県でバス事故が頻発していたようだ。道路状況が悪かったのだろうか。

 

 1970(昭和45)年11月3日、午後5時35分のことである。

 

 岐阜県の、大野郡高根村中洞の県道・高山木曽福島線(現在の高山市高根町中洞の361号線)を一台のマイクロバスが走っていた。

 

 当時の新聞の記録では、このバスには「南組」という組織のメンバー9人(うち4人は女性)と運転手1名が乗っていたという。目的地は不明だが、砂防工事の手伝いのためだったとか。だから南組というのは建設会社か何かだろう。調べてみると今も㈱南組というのがあるようなので、おそらくそれではないか。

 

 さてそれでこのバス、朝日ダム沿いに差しかかったところで別のバスとすれ違った。これは地元の濃飛バスという会社の定期便である。

 

 で、どうした加減か、南組のマイクロバスの方がすれ違った拍子に10メートル下のダムへと転落してしまったのである。

 

 転落と水没が重なると、バス事故は容易に大惨事になる。乗っていた10人は全員死亡した。

 

 これ、資料を読んだ限りでは原因は不明である。それで朝日ダムのことをウィキペディアでちょっと調べてみると、かつてこのダム沿いの361号線というのは、もともと落石や転落の危険性が高い隘路であったという。だから今は秋神ダム沿いのバイパスが、交通の主流になっているようだ。事故が起きるのもむべなるかな、だったのかも知れない。

 

 ここまで書いて気付いたが、バス事故の「転落+水没」というパターンも、どうも昭和40年代から増えてきている気がする。まず飛騨川の事故がそうだし、さらに時代が下るとスキーバス事故も起きている。

 

 街中を走行するバスの場合は、こういうパターンはそう多くない。人里に、バスが水没するほどの湖や池はないからだ。

 

 つまり、街中を通るバスが安全になっていった代わりに、観光地やレジャー施設を目指すバスが増えてきたのだろう。些細なことだが、このあたりにも当時の時代状況が少し感じられる。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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青木湖バス転落事故(1975年)

 1975年(昭和50年)1月1日、11時20分頃のことである。

 1台のバスが、長野県大町市平区の市道である青木―神城線を走行していた。

 このバスは「平和島観光」という観光会社のスキー客62人を、ホテルへ送迎している真っ最中だった。そして間もなく青木湖畔の道路に差しかかろうとしていた。

 平和島観光というのは、東京都大田区平和島に当時あった(今もあるかどうかは不明)観光会社である。バスの目的地のホテルとスキー場は国鉄簗場駅から北へ約2~3キロほどの場所にあり、これは平和島観光がエビスマの広大な土地を買い取り3年前に開発・建設したものだった。バスは、この区間を1日に14回、無料で往復していた。

 ただし開発が進められたこの大町市エビスマという地区は、都市計画上、自然美の保全が優先される「風致地区」でもあった。よって自然保護団体からの反発も強く、開発するかどうかで揉めたいわくつきのスキー場でもあったという。

 さてこのバス、まず出発時には30人近くを乗車させ、また途中で青木地区の民宿で20人ほどを乗せたものだから、乗客は62人という大人数になっていた。これはすでに定員の倍近くの人数で、ちょっとバランスを崩せば簡単に横転しそうな状態だったのだ。後に救助された乗客も「足の踏み場もなかった」と証言している。

 惨劇は、これが青木湖畔の急カーブに差しかかった時に起きた。そこは幅4メートルの坂道だったのだが、スリップして曲がり切れなくなってしまったのだ。バスはたちまち脱輪して高さ30メートルの崖から落下、バキバキと音を立てて杉や雑木をなぎ倒して青木湖に浸かったのである。

 バスは数秒でいったん沈んだもののすぐに一度浮き上がり、それから5分ほどで完全に水没。ぎゅうぎゅう詰めの車内には女性や子供の悲鳴が響き渡り、何人かが「窓を開けろ」の声に従って夢中で逃げ出したという。

 乗客の運命の明暗を分けたのは、バスの落下の際の角度であった。前部を下にして落下したため、犠牲者はほとんどそちらに集中したのである(もっとも運転手は助かっているのだが)。逆に、脱出して助かった者の多くは車体後部にいた乗客だった。

 結果、バスの乗員2名と乗客36名の合計38名が無事に脱出。しかし事故発生直後には1人の死亡がすぐに確認され、さらに残る23名が行方不明。イカンこりゃ正月早々洒落にならん、ということで、気温が1度で水温が6度という恐るべき厳寒の中で救出活動が行われた。これには警察署、機動隊、消防団の500人あまりが出動したという。

 しかし水深30メートルとあって救助活動は難航した。ボートで犠牲者を捜索し、さらにロープで造った網と大型レッカー2台を用いてバスを引き揚げようとするが、なかなかうまくいかない。そこで潜水夫が呼び出された。

 ここで呼ばれた潜水夫6名は、1日の夜10時過ぎから潜水で捜索。翌日の午前0時半までに2遺体を収容していったん作業を打ち切り、翌朝8時半から再び開始した。そして夕方までの間には男女21名の遺体を次々に発見した。

 どの犠牲者もバスの下敷きになっていたり、車内に閉じ込められたままになっていたという。遺体は大町市内の大沢寺という寺に収容された。

 乗車していたのは、ほとんどが正月スキーを楽しむためにやってきた都会の若者たちだった。彼らは夏頃から民宿を予約してきたのだが、そこで事故に遭遇してしまったのだった。

 当時運転していたH運転手(36歳)は助かっており、事故の経緯を以下のように説明している。

「当時のバス内は乗客で鮨詰め状態だった。それで乗り降りする時のステップ部分にも乗客がいたため、運転席の左側にあるサイドミラーが見えなくなっていた」。

 これがよくなかった。H運転手は見えない左ばかりを注意するあまり、バスを右へ寄せ過ぎていたのだ。それでいざ左カーブに差しかかった時にスリップして曲がり切れなくなったのである。当時、道路は未舗装でしかも凍結していた。

 これは筆者も経験がある。車のフロントガラスの窓枠やサイドミラーに雪や氷が付着して見えにくくなっていると、そちら側をこすらないように気遣うあまり反対側に車を寄せ過ぎてしまうのだ。

 またH運転手の運転も、あまり丁寧とは言えなかったようである。無事に救助された乗客の一人が「いくら慣れた道とはいえ、乱暴な運転でハラハラしていたんだ」と新聞社の質問に答えているのだ。

 この運転手は、事故が起きた1日の午後2時には業務上過失致死と道交法違反の現行犯で逮捕された。

 

【参考資料】
◇ウィキペディア
◇個人ブログ記事『重大バス事故の歴史』

http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
◇ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics25d.html
◇山形新聞

 

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犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)

 1985年に起きたこのバス事故は、「犀川(さいかわ)スキーバス転落事故」「笹平ダムスキーバス転落事故」などの名称で親しまれて――失礼――呼ばれている。まあ別に名称なんてどっちでもいいのだが、ここは両取りで「犀川・笹平ダムスキーバス転落事故」と表記することにしよう。これぞ漁夫の利というやつである(違う)。

 犀川という河川は全国に数あるが、今回の事故の舞台となったのは長野県内を流れるほうだ。

 笹平ダムは、水力発電用にと1952年(昭和27年)に犀川に造られた。管理しているのは、今をときめく東京電力である。治水機能はなく、洪水の原因になるとして周辺住民から批判を受けたこともあるという、なかなか曰くつきの代物だ。

 このダムが形成する人造湖にて、事故は起きた。

 1985年1月28日の早朝。おそらくまだ夜も明けていなかったであろう、午前5時45分のことである。犀川にかかる大安寺橋という橋に、3台のバスが差しかかった。

 事故を起こしたのは、この3台のうちの最後尾のバスである。

 このバスは三重交通の貸切バスで、くだんの3台目には日本福祉大の学生ら46人が乗車していた。この大学では26日に後期試験が終わったばかりで、28日から30日までの間、体育の授業の一環としてスキー教室を行う予定だったのだ。目的地は北志賀高原の竜王スキー場。深夜の移動ということで、学生たちはバス内で休んでいた。

 問題はこの、大安寺橋のあたりの道路状況である。この道路は国道19号線で、幅は9メートルと決して広くない。そして前日から雪が降っており積雪量は15センチ。冷え込みも激しく、路面は凍結し切っていた。北国の路面状況としては、もっとも恐るべきパターンである。

 にもかかわらず、バスの装備は充分とは言いがたかった。当時はすでにスパイクタイヤが普及していたはずだが、このバスは前輪・後輪ともに普通タイヤ。チェーンは一応巻かれてはいたが、ダブルタイヤのうち外側だけにしか装着していなかったという。

 はい、ここまで説明すればもうお分かりですね。

 事故を起こすことになった最後尾のバスは、橋の手前の直線コースからS字カーブに入ったところで曲がり切れなくなってしまった。しかもそこは緩い下り坂で、ハンドルももう利かない。ガードレールをぶち破り、厳寒のダム湖へダイビングしたのである。

 ガツン、ドーン! 学生諸君が眠りにつき、静かだった車内に突如として異音が響き渡る。なんだなんだと騒ぐ余裕もなく車内灯は消え、バスは6メートル下のダム湖へ落下していった。湖面の一部には氷も張っていたという。

 車体がボチャリと浸かるのと同時に、割れた窓ガラスから凍てつくような湖水が流れ込んできた。ダム湖の水深は4~5メートル。たちまち水没していくバスから、学生たちは命からがら脱出を試みた。湖面には赤、黄色、青などの派手なアノラックや荷物が散乱し、なんとか脱出して湖岸へ泳ぐ者たちの顔は血まみれだったという。地獄絵図だ。

 バスは最終的に、後部がわずかにしか見えなくなるまで水没した。前方から飛び込む形でダイブしたのだろう。

 ただちに救助活動が行われた。当時ダムの近くには、修繕工事を担当していた前田建設工業の作業員が宿泊しており、まず彼らが救助を行い、それから長野中央署、長野南署、機動隊も駆けつけ、凍えるような寒さの中で必死の捜索活動が行われた。

 ちなみにこの時、ひとりの全盲の学生が無事に救助されたことで話題になっている。彼は極めて冷静に「心の目」でもって脱出経路を確認し、無事に岸に泳ぎ着いたのだ。

 とはいえそんなのは奇跡的なエピソードである。乗客46名のうち、大学生22名と引率の教員1名、運転手2名の計25人が脱出できずに水死した。また救助された21名のうち、少なくとも8名は重軽傷を負っている。

 現場の道路には、15メートルのスリップ痕が残っていた。制限速度は50キロと定められていたが、しかしそこは地元の人が「魔のS字カーブ」と呼んでいたとかなんとか(新聞記者が勝手に名前をつけただけのような気もするが。地元の人はせいぜい「危険なカーブ」程度の言い方をしたのだろう)。

 というわけで責任の追及である。裁判である。悪いのは誰なのか?

 まず一番に悪いのはバスの運転手で、これは動かしようがない。この事故は実に典型的なスリップ事故で、要するに運転ミスによって引き起こされたのだ。しかし、当時バス内で交互にハンドルを握っていたという2名の運転手はすでに死亡している。直接的な責任は問えない。

 というわけで、今度はバスの運行管理をしていた三重交通である。さっそく調べてみたところ、運転手に休みなしの「過密勤務」を強いており、それを黙認して勤務表を作っていた実態が明らかになっていったのだ。ビンゴである。運転手は過労状態にあり、おそらく居眠りかなにかで正常な運行能力を欠いていたのだろう。

 死亡した運転手は、事故の前には2週間も休みをもらえず、深夜の長距離バス運転で働きづめだったという。筆者はその2週間分の勤務状況までは入手できなかったが、事故直前の3日分ほどは分かったので記しておこう。

 ●1月24日:新潟県の赤倉温泉スキー場へお客の送迎。
 ●1月25日~26日:早朝から、通常の路線バス業務。
 ●1月27日:3時間の休憩後、長野県の竜王スキー場へ送迎。ここで事故る。

 いやあ、これは死ぬよ。この調子で、この倍以上の時間も働かせてたんかい。

 当世ふうの言い方をすれば三重交通は「ブラック企業」で、死亡した運転手は「社畜」だったということだろう。

 ちなみに柳田邦夫によると、事故がもっとも起きやすい時間帯というのがあって、それが早朝の4時から5時にかけてだという。この事故はなにからなにまで典型的な過労事故でもあった、といえそうだ。

 バス会社には運行主任という役職があるらしい。それで三重交通四日市営業所の路線バス運行主任は、運転手の勤務実態を知りながら無茶苦茶な勤務表を作ったのだった。そして会社もそれを黙認していたのだ。

 ちなみに三重交通は、これより前の3月の時点で中部運輸局による行政処分を受けている。「罪状」は輸送の安全確保に手落ちがあったというもので、8台の観光バスについて14日間ずつ、つまりのべ112日間の使用停止を食らったのだった。これはバス会社に対する行政処分としては当時最高のものだったそうだが、この記録は今も破られていないのかどうかが気になるところである。

 さてしかし、裁判は意外な展開を辿った。

 まず長野県警と長野中央警察署は、以下の内容でそれぞれ長野地方検察庁に書類送検(※1)している。

 ●運行主任:道路交通法75条違反(過労運転の命令)
 ●三重交通:道路交通法123条違反(両罰規定)
 ●死亡した運転手:業務上過失致死傷罪と道路交通法66条違反(過労運転)

 事故から半年以上が経った、1985年9月4日のことだった。

 ところが、である。長野地方検察庁は1986年6月30日、「運転手の過労を科学的に立証するのは困難」だという結論を下したのだった。不起訴処分である。

 おそらくこれは、誰にとっても意外な結論だっただろう。事故の被害者や遺族はこれを不服として、7月28日に長野検察審査会へ審査申し立てを行った。だがそれも、翌年の4月28日には「やっぱり不起訴でいんじゃね」という回答が出されている。

 まあ確かにね。運転手が死亡している以上、その疲労度を具体的に確認するのは難しいところであろう。解剖すれば体内からポコンと証拠が飛び出してくる、というわけでもないだろうし……。

 また同じ疲労度でも、事故を起こす人と起こさない人もいるだろう。もちろん普通の感覚ならば「2週間も徹夜で働かされて疲れない奴がおるかい」と、もの申したいところではあるが。

 ただし津地方検察庁は、上述の路線バス運行主任と三重交通本社・四日市営業所を、労働法違反ということで四日市簡易裁判所へ略式起訴(※2)している。

 (※1)ちなみに豆知識だが、書類送検というのは「逮捕しないで起訴する」やり方であり、(※2)略式起訴というのは「簡単な裁判」と考えて頂ければよろしい。争う必要がなく、罰金や科料で済む程度の簡単な事件はこれでもって処理されるのだ。この事件に関しては、略式起訴された3者は、労働法に関する罰金と、営業停止の行政処分で済んだということである。

 こうして、犀川・笹平ダムスキーバス転落事故は一応の完結をみた。

 1987年9月13日には事故現場に慰霊碑が建立され、今もダム湖畔にはこれが静かに佇んでいるという。事故が起きた道路そのものはまだ残っているが、バスが渡るはずだった大安寺橋はその後撤去された。現場では、慰霊碑のみが事故を偲ぶ手がかりとなっているようである。

 とはいえ事故当時、25名の遺体を収容した正源寺では、今も命日と盆には遺族会と三重交通と日本福祉大による法要が営まれている。

 さらに日本福祉大では事故のあった1月28日を「安全の日」と定め、慰霊行事を行っている。ウィキペディアによると、この行事は2005年以降は不定期になったと書かれているが、確認してみたところ2011年はちゃんと1月28日に執り行われていた。

 この大学のキャンパス内には、当時犠牲になった学生と同じ数の桜が植えられているという。桜の成長のスピードがどれくらいなのかはよく知らないが、20数年も経てばそれなりの大きさになっていることだろう。どうやらこの事故で、現在もっとも簡単に触れられる「慰霊碑」は、この桜ということになりそうだ。

 さしずめ「慰霊樹」とでもいったところか。

 名古屋まで行く機会はなかなかないけれども、見て手を合わせてみたいものだと思う。

 

【参考資料】
 ◆ウィキペディア
 ◆山形新聞
 ◆日本福祉大ホームページ

 

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豊浜トンネル崩落事故(1996年)

 この事故が起きた時、筆者は中学生だった。

 当時、学校から帰ると、テレビで岩盤の爆破作業の生中継をやっていたのを覚えている。その時の記憶があまりに強烈で、いまだにトンネルを通過するさいに怖くなることがある。

 事故は1996年2月10日、午前8時10分頃に発生した。北海道後志(しりべし)管内の古平町(ふるびらちょう)の豊浜トンネルでのことだった。

 厳密に言えば、この豊浜トンネルは古平町と余市町(よいちちょう)を結ぶもので、事故は古平町側の出入り口付近で起きたのだった。トンネルの真上にあった巨大な岩盤が崩れ落ち、たまたま真下を通過していた路線バスと乗用車を直撃したのである。

 この岩盤のサイズは縦横斜めで70×50×13m、体積1万立方メートル、そして重さ2万7000トンという代物だった。

 とにもかくにも重さ2万7000トンである。この岩盤をどけないことには救出作業もへちまもない。要請を受けた業者がさっそく爆薬による撤去作業を行ったが、地形のせいで準備に手間取り、また生存者がいるかも知れないということで思い切った爆破もできず、この業者は相当難儀したようである。

 この業者は、当時の記録をネット上で書き記している。文中に登場する専門用語はチンプンカンプンであるものの、その時の苦労がじわじわと感じられる文章である。

 犠牲者の家族たちは、遅々として進まない救出作業に焦り、苛立ち、時として逆上したという。だが結局、トンネルに閉じ込められていた20人は全員が遺体で発見された。即死だった。

 この豊浜トンネルでは、事故以前から落盤の危険性が指摘されていたという。「以前から危険性が指摘されていた」というのはこういう事故を説明するさいの常套句だが、書類送検された北海道開発局の元幹部2名は不起訴処分とされた。

 さらに遺族は、国を相手取って民事訴訟を起こす。しかし、賠償金の支払いは命じられたものの、責任の所在についてはうやむやなままという判決になったようだ。

 この事故の裁判の結末を見て思い出すのは、世界屈指のバス事故である飛騨川バス転落事故である。どちらも自然災害によるバス事故であるにもかかわらず、判決は180度違っているのが興味深い。

 現在、この事故があった豊浜トンネルは完全に封印されている。道路が、途中からより安全なルートに接続されたことで、それ以前のルートは寸断され封鎖されたのだ。今では、現場には船を使わないと行けないそうで、おそらくこの事故現場はこのまま「封印」されていくことになるのだろう。

 筆者は冒頭に書いた通りの思い出があるので、たぶん誘われてもこの事故の現場に行く気にはならないだろう。ただ、新しいルートのトンネル出口付近には防災祈念公園なるものがあり、そこには慰霊碑や事故関係の展示コーナーもあるという。そちらなら、出向いて手くらいは合わせたいものだとも思う。

 まあ、どのみち北海道に行く機会なんて特にないと思うので、さしあたりこの記事をもってしてひとつの「合掌」にさせて頂こうと思う。防災祈念大いに結構! 言っても信じられないかも知れないが、それもまた当研究室のテーマのひとつなのである。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア

 

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舞鶴市バス水没事故(2004年)

 2004年の10月20日から21日にかけて日本列島を襲った台風23号は、後に「激甚災害」に指定される程凄まじいものだった。

 まあ日本で「激甚災害」に指定されるのは大概は暴風雨や台風と決まっており、それも言い方は悪いが風物詩のような感もあるので、今さら「2004年の台風23号」と言われてもそれってどの台風だっけ、と記憶がごっちゃになっている方も多かろう。

 しかし「台風23号」では分からなくとも、「舞鶴市で観光バスが水没したあの事故」と言えば思い出す方もおられると思う。暴風雨による濁流のため道路で立ち往生した観光バスが、見る見るうちに水没したという一件だ。

 バスの乗客37名は、辛うじて水面に頭を出していたバスの屋根の上で恐怖の一夜を過ごし、最終的には全員が救助された。安心して読める事例である。

 

   ☆

 

 この37名というのは、兵庫県豊岡市の、もと公務員の年金受給者からなる旅行者の団体だった。よって乗客も年配が多かった。

 予定では10月19日に豊岡を出発し、1泊2日で北陸地方を回る予定だったという。
 最初、台風が接近しているという不安な情報もあったものの、とりあえず19日は予定通りに旅館に到着。雨の中の旅行だったが、ここまでは問題はなかったようだ。

 問題なのは翌朝からである。台風が遂に上陸したのだ。
 テレビのニュースを観た乗客の中には、「大丈夫なのか」と不安になる者もいたようだ。
 だが、旅行会社としてはそうそう融通を利かせることも出来ない。バスは定刻通りに出発し、午後2時までにはなんとか観光の予定を潰していった。

 さあ帰り道である。行きはよいよい帰りは怖い。高速道路が土砂崩れで通行不能という報せが届いたのが、後から考えれば前兆となった。仕方なくバスは一般道を通ることになった。

 そうこうしている内に、台風は紀伊半島に上陸しどんどん接近してくる。夕方には暴風雨も甚だしく、さすがに「今日は旅館かホテルに泊まった方がいい」という判断で乗客も運転手も意見が一致した。

 それ自体は正しい判断だった。だが時はすでに遅し。適当な宿泊施設が見つからないまま、だらだらとバスは進行し続けた。そして7時を過ぎる頃には遂に道路は冠水し、また渋滞のせいで運転もままならなくなってきた。

 7時半。参考文献によると、この時刻に由良川にかかる大川橋なる橋を渡ったところが「運命の分かれ道」だったようだ。国道175線に入って間もなく、バスは立ち往生してしまった。凄まじい冠水によって渋滞の中でエンストを起こした車があり、にっちもさっちも行かない状態に陥ったのだ。たちまちバス内は不安で満たされた。

 さっき渡ったばかりの由良川もついに氾濫し、水位はどんどん上がってくる。いよいよバス内に水が入ってきたのが夜の9時で、昇降口から浸入した泥水はたちまち乗客たちの下半身を水浸しにした。水はマフラーにも入り込んでエンジンも停止。さあ、どうするどうする。

 一時は、カーテンを切り裂いてロープを作り、民家に助けを求めるというアイデアも乗客の中から出たらしい。しかしその頃には道路も足がつかない状態だったため、この案は却下。もうバスの屋根の上に上がるしか道はない。カーテンで作った手製のロープは、この避難作業で使われることになった。
 乗客たちが助け合いながら屋根に避難し終える頃には、もはやバスの車内灯も消えていたという。

 この時、このような形で避難したのはバスの乗客たちだけではなかった。近辺では、他にも電柱に掴まって一夜を過ごしたり、自家用車を乗り捨てて近くの建物の2階に逃げ込んだ人々もいたのである。
 このように助けを待っていた人は、バスの乗客を除いても40名ほど存在していたらしい。ちなみに、乗用車は44台が水没している。

 さて、ここからの10時間が大変だった。なにせほとんどの人間が年配である。ひっきりなしに吹き付けてくる暴風雨と、バスの屋根の上を越えてくる泥水のせいでずぶ濡れになり、とにかく皆、凍えて仕方がなかった。最も高齢の男性は低体温症でかなり危ないところまで行ったようだ。

 そして恐ろしいのは低体温症ばかりではない。バス1台を水没させる程の濁流で、バスそのものもいつ流されることかと全員が気が気でなかった。携帯電話も電池が切れれば通じないし、通じたとしても、救助はいつ来るのかという明確な答えはなかなかもらえない。もう不安で不安で過呼吸に陥る者が出て来るし、持病のある高齢者は体の不調を訴えてくる。居合わせた看護士たちは大忙しだ!
 それでも、乗客たちは励まし合ったり歌を歌ったりして不安を紛らわせ、救助を待ち続けた。
 中には、流れてきた竹竿でもって、バスが流されないように近くの街路樹から支えようとするツワモノもいたという(実は参考文献を読んでも、どうしてこれで「支える」ことになるのかよく分からなかったのだが)。

 ちなみにバスの運転手は、こんな危険なところまでバスを乗り入れてしまったことに責任を感じてションボリしていたそうな。もっとも彼を責める者は誰もいなかったそうである。

 さて最初に書いた通り、彼らはおよそ10時間後には無事に救出されたのだが、救助活動はどのように進んでいたのだろう?

 もちろん、京都府も自衛隊も手をこまねいていた訳では無い。バスが水没する直前の午後9時頃には、連絡を貰った京都府から海上自衛隊に災害派遣要請が出されていた。

 しかし暴風雨、増水、夜闇の中では救助も簡単ではない――てゆうか不可能である――。ヘリは強風で飛べないし、濁流の流れは激しくゴムボートも使えない。結局、明け方に水位が下がってくるまでどうしようもなかったのだ。

 バスが水没した国道175号線からは、最終的にはバスの乗客を含む67人が救出された。こうしてようやく長い夜は明けたのだった。

 この水没事故の詳細は『バス水没事故 幸せをくれた10時間』という本に記されている。

 変なタイトルだなぁ、と思う前に、興味があれば是非一度目を通して頂きたい。この本の作者のスタンスは「この事故によって人を信じることの意味や希望を学ぶことが出来た」というもので、思わず本当かよ、とツッコミを入れたくなるところではあるが、とにかく読めば分かる。平易な文章で描かれた過酷な事故現場の状況の描写は、我々にある感慨を与えてくれるであろう。なるほどこんな極限状況に遭遇して、最後に全員救助というハッピーエンドになればこういうタイトルになるかも知れない。

 ところで、集団が一斉に事故に巻き込まれるという事例はいくらでもあるが、筆者が個人的に、この舞鶴市の事故と比較せずにおれないのは2009年に起きたトムラウシ山の遭難事故である。大人数のグループが遭難したという状況までは同じだが、かたや助け合って全員救助、かたやバラバラに離散して半分以上が凍死と、結果は180度違っている。

 もちろん細かな状況は全然違うので一概には言えないだろう。だがとにかく、被災した際に一緒にいる他人がどんな人格であるか――注意深いか、人生経験は豊富かそうでないか、思いやりがあるか――実はその程度の要因によって、人間の運命というのは呆気なく変わってしまうものなのである。

 ちなみに話ついでに言うと、この事故のことは他にも本が出ており、なんとそれは「童話」であるという。ある意味で、読んでみたい気がしなくもない。

 

【参考資料】
 ◇中島明子『バス水没事故 幸せをくれた10時間 人を深く信じた奇跡の瞬間』朝日新聞出版

 

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