目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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群集事故

日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)

 まず最初に、1952(昭和27)年当時の日暮里駅の状況を説明しておこう。

 と言っても、もちろん筆者は実際に見てきたわけではないし、現在の日暮里駅も行ったことがないので当時と今の比較もできない。ただ、当時の図面を説明するだけだ。

 ざっくり書こう。東から順に「京成電車ホーム」「常盤線ホーム」「東北線上りホーム」「東北線下りホーム」「電車線(山手線のこと?)ホーム」の5つのプラットホームが並んでいる。それぞれ南北に延びており(南が上野方面、北が大宮方面)、当然各ホームの間を、線路が走っている。

 このうち、常磐線ホームから電車線ホームまでを横断する形で繋いでいる「南跨線橋」で事故は起きた。

 1952(昭和27)年6月18日、午前7時40分頃のことである。

 国鉄・日暮里駅構内の南跨線橋は、どうしたことか、朝っぱらから超満員のすし詰め状態になっていた。

 なんだなんだ、一体全体何が起きた。朝の通勤時間で、混雑自体は珍しいことではない。だがこの日の人の量はちょっと異常だった。

 実はこの日、日暮里駅では臨時停車や運行停止の電車が相次いでいたのである。

 最初のきっかけは、未明に起きた上野駅の信号所での火災だった。これによりポイント操作ができなくなり、京浜東北線の上り電車が臨時停車したのだ。

 さらに他の電車でも、車軸が破損して運行中止というトラブルが発生した。

 正直このへんの経緯については、ちょっと分かりにくい。資料によって路線の書き方がまちまちなので、どの路線の列車がどういう理由で停止したのか、鉄道の素人にはうまく読み取れないのだ。とにかく結論を言えば、上記の事情から合計4本の列車がストップしていたのである。

 もちろん乗客たちは、ストップしたからハイそのまま待機、というわけにもいかない。出勤時刻は迫っている。しかも季節は梅雨で、車内は冷房もなく暑苦しい。さしずめチャイルズクエストで言えば、フマンドパラーメータ90%といったところだ。

 そこで駅は判断した。

「乗客をいったん下ろそう!」

 こうして乗客たちは蒸し暑い車両から解放されたわけだが、もちろん涼んでいる余裕などない。今動いている電車はどれだ、山手線か、じゃあそっちに乗り換えよう――! というわけで、あっちのホームに移動すべく、みんなで南跨線橋に押し寄せたのだった。

 こうして、跨線橋は尋常でない状態になった。この稀有な密集ぶりはさすがに駅も放っておけず、駅長自らが現場に赴いて人の整理に当たったという。

 しかしそれでも、幅2.5メートルの通路は押し合いへし合い。木造の跨線橋の壁に不穏な圧力がかかり始める……。

 ところで読者諸賢は、『岸和田博士の科学的愛情』というギャグマンガをご存知だろうか。あれで、実験台にされそうになって逃げ回る助手の安川君が、複数人で研究所の壁を突き破るシーンがあった。午前7時45分、ここで起きたのはまさにそういう事態だった。

 跨線橋の一番端っこである西側(電車線ホーム側)の壁が、群集の圧力でボガーンと吹っ飛んだのである。そして十数名が7メートル下の線路に落下した。

 それだけなら、死者は出なかったかも知れない。だが、そこへ京浜東北線の浦和行き(大宮行との資料もあるのだが…)電車が通りかかった。現場手前には急カーブがあったため、運転士が気付いた時にはもう遅い。これに撥ねられ6名が即死、8名が重軽傷。うち2名が後に死亡し、合計8名が死亡という結果になった。

 大惨事である。電車の運行ストップの事態といい、電車の通りかかったタイミングといい、この日の日暮里駅は呪われていたとしか思えない。

 壁が破られた跨線橋は、1928(昭和3)年に作られたものだった。資料を見ると、老朽化していたとか破損箇所があったとかいろいろ書いてある。

 それだけ読むと「ああやっぱりか」と頷きたくなるところだ。しかし実際にはそれほどヤワでもなかったようだ。主要な部分は鉄筋コンクリ製だったというし、耐用年数は40年くらい想定されていたそうだ。

 やはり当時の混雑、ぎゅうぎゅう詰めの状態が異常だったのだろう。そんな印象もあり、ウィキペディアでは鉄道事故のカテゴリで括られているこの事故は、ここでは群集事故の一種とさせてもらった。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

参議院会議録情報 第013回国会 運輸委員会 第31号

◆ウィキペディア


弥彦神社事故(1955~56年)

 格式ある弥彦神社の、おそらく最大の黒歴史である。

 越後平野西部の弥彦山(標高634m)の山麓にあり、弥彦山そのものを神体山として祀っているこの神社。古代から多くの人に親しまれ、万葉集にもその名が登場する。

 今回ご紹介するのは、ここで1956(昭和31)年1月1日に発生した惨劇である。近代以降の、本邦の群集事故の中では最大の死者数で、その数たるや他の群集事故と比較してもケタ違いというシロモノだ。

 一体、この由緒正しい神社で何が起きたのだろう?

 

   ☆

 

 1955(昭和30)年の大晦日から1956(昭和31)年の元日にかけての時間帯、弥彦神社は大勢の初詣客でひどく混雑していた。

 特にこの時間帯、参拝客が集中するのには理由があった。弥彦神社では1931~1932(昭和6~7)年頃から「二年参り」という参拝方法が推奨されていたのだ。

 普通、初詣は一度参拝すれば終わりである。だが二年参りの場合は、旧年と新年に一度ずつお参りをする。大晦日のうちに旧年中の無事を感謝し、そして次に、除夜の鐘を合図に新年の無病息災を願うのである。

 信仰心のない人にとっては「二度手間」にしか見えないやり方だろう。だがとにかくこれこそが、弥彦神社の名物とも言うべき参拝方法だった。だから、日付が変わる前後に初詣客が集中していたのだった。

 また、神社側としても、大勢の参拝者は大歓迎だった。戦後に公的保護がなくなって以降、神社の経営も楽ではなかった。神社周辺の旅館、料理屋、土産物屋からも、「もっと参拝者誘致を!」と要望が出ていたのだ。

 そんな状況の中、神社はさらにあるイベントを企画していた。餅まきである。

 これは去年も行われており、結果は大成功だった。じゃあ今年も…というわけで、神社は前もって交通機関にポスターを配布するなどして、大々的に宣伝していた。

 しかし、課題もあった。前年の餅まきでは、神社の拝殿から広場に向かって餅をまいた。その結果、餅を奪い合って土足で拝殿に上がったり、餅を入れた三宝を持ち出そうとする不届き者が現れたのだ。

 というわけで、今年は餅まきの場所を変更したい。どこがいいだろう?

 弥彦神社には、参道から石段を上ったところに「随神門」という正面入口がある。この門をくぐると、「斎庭」と称する拝殿前の広場に出る。前回、餅まきが行われた広場というのがここである。これは東西47メートル、南北29メートルで面積は136平方メートルとかなり広い。

 最初は、この広場にやぐらを組んで、そこから餅をまくという案もあった。だが経費がかかる等の理由から却下。代案として、門の両側にやぐらを組み、そこから拝殿の方に向かって餅をまくことになった。

 かくして1956(昭和31)年元日午前0時、花火を合図に餅まきがスタートした。

 拝殿前の広場には、数にして約8千名の参拝客が集まっている。そこへ、やぐらの上から約2千個の餅がバラまかれた。

 8千名である、これだけでも事故が起きそうなものだ。実際、ちょっとした混乱はあって、悲鳴を上げる者もいたというが、餅まき自体は3分ほどで無事に終了した。

 問題はここからだ。餅まきも終わり、群集たちは帰路に着いた。人混みが一斉に動き始め、密集状態のまま、随神門を出て階段へと進む――。これが0時5~8分頃のことだ。

 多くの人々が急いでいたであろうことは、想像に難くない。バスで来た人は集合時間があっただろうし、また列車で来た人も帰りのダイヤが気になったことだろう。

 ところがそこで、反対方向から、到着したばかりの別の参拝客の一団がやってきた。

 折悪しく、ふたつの集団は石段の途中でかち合ってしまった。これが現代なら、往路は階段の右側を、復路は左側を…という形で区別して誘導していたかも知れない。だが当時は、群集をそんな形できめ細かに誘導するようなやり方は一般的でなかった。

 お正月カウントダウンどころか、ここからは惨劇に向かってのカウントダウンである。衝突した群集は押し合いへし合い、お祭り気分で飲酒していた者は面白半分に押す。中に挟まれた人は、逃げ場を失って場は大混乱に陥った――。

 ここからは、現場に居合わせた人々の証言を挟みながら経過を見ていきたい。なお、証言の文章は基本的に参考資料からの引用だが、ここに掲載するにあたり手を加えている。

 まずは、その場に居合わせた人の証言。

 

「花火の打ち上げが終わって5~6分経ったかと思われる頃、石段の下の方から異様な叫び声が聞こえ始めた」――。

 

 おそらくこの時、群集の衝突が始まったのだろう。

 次は、餅まき終了後に随神門から出ようとした人。

 

「12時40分の汽車に乗ろうと、門を出た。だが、出ようとする人と、入ろうとする人が階段の最下段あたりでぶつかった。石段を上ってこようとする人の顔が、最下段から参道にずっと続いていた」

 

「前後左右ぎっしりで身動きできなかった。押されながら3、4段下りたが、いくらもがいても体は自由にならない。胸が圧迫され、息が止まったかと思われた」

 

 一方、参拝に訪れて、反対に随神門に入ろうとした人の方はこう証言している。

 

「石段の下までたどり着いたが、立往生になった。後ろから押されて2、3段上ったが、また立往生。石段の上の方の人は、全員が下を向いていた」

 

「石段の途中で、両方向からの人波がぶつかって動きが取れず、胸を押されて息苦しくなった」

 

 この石段は15段。全体の高さは2.5メートルあり、幅は7.74メートルと比較的ゆったりしている。勾配も約17度とゆるやかで、普通ならばなんの問題もない造りだった。そう、普通の状況ならば……。

 石段の途中では、群集の圧力に耐えられず失神する人が続出。証言の中には「石段の上から押す者が多かった」というのもあり、力の加わりやすい最下段のあたりでも失神者が現れたという。

 そして0時10~15分頃、惨劇が起きる。大勢が折り重なって石段の下にダーッと転落したのだ。以下は、落ちた人の証言。

 

「足が宙に浮いたまま、3段くらい降りたかなと思ったとたんに、一斉に前の方へのめってバターンと倒れた。私の下にはたくさんの人がいた。みんなが悲鳴をあげていて、私も意識不明になった」――。

 

「後から押されて足が宙に浮いてしまい、2、3段降りると前に倒れた。下にも倒れた人が重なっていたので、下へ落ちたという感じはなかったが、後ろからも倒れてくるので挟まれて苦しくなった。苦しい苦しいという声も弱くなってきた。石段の下の方には人が一面に倒れて死んでいた」。

 

 なんとか脱出できた者もいた。

 

「上と下の両方から押されて苦しかった。前の方の人がどんどん倒れて折り重なり、一緒に倒されて死ぬかと思ったが、石段から飛び降りて脱出した」

 

「石段の中ほどの人たちが折り重なって倒れた。すぐ足を抜いて参道の脇に脱出したが、なおも押し合いが続き、石段には次から次へと人が倒れていった。その凄さはなんとも表現できなかった」

 

「上からの人波に押されて、石段の下に倒れた。だが起き上がって林の中に逃げ込んだ。石段の上から10人ほどの人が一度に落ちるのを2回ほど見た」

 

「石垣のそばの木に登ってみると、石段の下のあたりで人が3、4人くらい重なって倒れており、1.2メートルほどの厚みがあるように見えた」

 

「石段の下のほうでは人が一面に倒れて死んでいた」

 

 これだけで「もうたくさん」と言いたくなる惨状だが、実は事故が起きたのはこの石段だけではなかった。

 随神門を出てすぐ、石段との間には、左右に踊り場のようなスペースがあった。広さはそれぞれ奥行き2.3メートル、幅8.3メートル。そのスペースに入れば、随神門と石段を行き来する人をやり過ごすことができるような位置関係である。電車の待避線のようなものと考えてもらえればいいかも知れない。

 だが、この時はとてもやり過ごすという状況ではなかった。むしろ石段で人の流れが詰まったこともあり、この左右の踊り場の方へ押しやられる形になった人が多かったようだ。

 ここで事故が起きた。

 左右の踊り場には、玉垣があった。神社独特の設備で、ベランダの手すりのようなものである。その玉垣が、断続的な群集の衝突によってそれぞれ崩壊したのだ。

 この崩壊は、石段で転倒が起きたのとほぼ同じ、0時10~15分頃のタイミングと見られている。玉垣には鉄骨などの支えはなく、ごくシンプルな石造り。横から大きな力がかかるのは「想定外」だった。

 むちゃくちゃに膨れ上がった群集は、支えを失って高さ2.5メートル下に落下した。やぐらの上で餅まきをしていた人は、経過についてこう証言している。

 

「石段の付近は混乱状態に陥り、左右に膨れ上がった人波で玉垣が崩れた。転落した人の上に、密集から避難しようとする人々が飛び降りて、全く手のつけようもない状態になってしまった」

 

 以下は、現場に居合わせた人の証言。

 

「玉垣と一緒に2.5メートル下の地面に転落した人の上に、さらに人々が飛び降りてきて、人の山ができた」

 

「3~4人が重なって倒れており、足にすがって助けてくれという。引っぱっても抜けないし、大勢の人が頭の上を踏んでいく状況だった」

 

「倒れた人の山は高さ2メートル以上もあり、下になった人が死んだ」

 

 人々は地獄を目の当たりにした。石段には転倒した人の山。その両脇には、転落した人の山――。

 群集事故で恐ろしいのは、一箇所でこうした惨事が起きても、狂騒にすぐさまストップをかけることができない点である。

 当時、現場では照明設備も不足していた。また多くの警察官が交通整理の方に割り振られており、境内にいなかった。このため混乱は午前1時頃まで30~40分間も続いた。

 石段の上が大混乱になったのを見て、神社側では門(おそらく随神門だろう)の入口に梯子を横たえるなどの措置を取ろうとしたという。だが群集の罵声と暴行に妨害され、これは失敗した。

 こうして、わずか数分間の混乱で124名が死亡、77~91名の重軽傷者が出るに至った。死者のうち102名が窒息死。骨折や外傷による死亡は3名にとどまったという(残りは不明)。

 午前1時を過ぎた頃から、警察、地元の青年団、消防団などが救助作業を開始。負傷者は病院へ搬送、遺体は神社の拝殿や拝観所、また小学校の体育館などに安置された。

 正月のめでたさも一転、とんでもない大惨事になってしまった。原因は一体なんだったのだろう? これは資料によっていろいろ書かれている。以下で、簡単に箇条書きにしておく。

 

1・雪が少ない元日で、外出しやすかった。

2・前年が豊作で、経済的に余裕のある家庭が多かった。

3・公共交通手段が大きく発達し、遠方からの参拝者も多かった。

4・約1万3千人の参拝者に対し、警備の警察官は16人と少なかった(前年の参拝者は約1万人。ただし別の説では去年が2万人、事故当時は3万だったとするものもある)。

5・警察官がほとんど交通整理に回されていた(参道の雑踏警備に3人のみ配置されていた、とだけ書いてある資料もある)。

6・境内は照明が不足していた。

7・二年参りの習慣のため、午前0時を中心とする時間帯に群集が集中した。

8・餅まきを、危険な石段の近くで実施した。

9・列車が延着した。

10・一方通行の規制をしなかった。

11・事前に警察から、ロープや手すりを設置する提案があったが、神社はやらなかった。

12・参拝客が、現場の横の入口を使わなかった(使えなかった?)。

 

 この事故を受けて、国家公安委員会は、警備にあたった新潟県警察本部の責任を検討。その結果、県警本部長が引責辞任し、幹部たちも戒告・異動処分を受けた。

 また弥彦神社では、正宮司と権宮司2人が引責辞職している。

 最高裁の判決は、1967年(昭和42年)5月25日に下された(判例集 刑集第21巻4号584頁)。原文は長いので、趣旨を簡単にまとめるとこんな感じである。

 

「毎年たくさんお客が来るんだから、これからは足りるくらいの警備員を配置しなさい。あと一方通行にするとか、雑踏整理をすること。それから餅まきをするなら、時間と場所とやり方を工夫しなさい。そして最後に、お客が安全に帰れるように注意して、誘導とかするように」。

 

 今の時代から見ると、ごく普通のことを言っている気がする。

 逆に言えば、現在では「ごく普通」と思われている群集整理の措置は、こうした大事故の黒歴史を経てようやく整備され、そして一般化していったのである。

 以後、弥彦神社では、今日に至るまで餅まきは実施していない。

 また、参拝ルートも工夫された。まず中央の参道から入って参拝し、帰りは両側の小道を使う。そして境内では、所轄の西蒲警察署が参拝者の整理を行っているという。

 この神聖な神社で、こんな事故が起きることはもう二度とないだろう。

 

【参考資料】

◆ウィキペディア

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年


大阪劇場事故(1956年)

 かつて、大阪市南河原町には、大阪劇場――通称「大劇」なるものが存在していたらしい。

 

 らしい、というのは、現在この劇場は存在していないからである。なんでも、日本ドリーム観光という総合観光企業が運営というか管理というか、そんな感じでやっていたようだ。

 

 このドリーム観光、ウィキペディアでざっと見てみただけでも、相当イケイケな企業だったことが分かる。大阪劇場だけを見ても、少女歌劇団や人気歌手の歌謡ショー、映画俳優の演劇など、かなり面白いことをやっていたようだ。

 

 で、こういうショー全般を「実演興行」という独特の名前で呼んでいたそうな。今回ご紹介する事故は、この実演興行にからんで発生した。

 

 1956(昭和31)年1月15日のことである。くだんの大阪劇場では、早朝から人の列ができていた。

 

 なにせその日の実演興行では、美空ひばりがやってくるのである。大勢の人がやってくるのもむべなるかな。劇場側ももちろん心得ており、行列整理のために柵を設けてロープも張って、列なす人々を2列に分けて並ばせた。

 

 午前8時30分に、切符売り場では出札が開始。しかし窓口が2つしかないため、行列は遅々として進まない。15分ほどでやっと600人をさばいたものの、その間にも行列はどんどん伸びていく。この時、行列の長さは200メートルをゆうに越えるほどだったという。

 

 それでも、記録を読む限りでは、目だった混乱はなかったようである。ただ、みんな若干イライラしていたのではないかな、と想像できる程度だ。

 

 これが一転して大惨事になったのは、ひとえにたった一人の不届き者のせいである。時刻は午前8時45分。事もあろうに、この行列の中に蛇の死体を投げ込んだ者がいたのだ。

 

 ひゃあ蛇だ。そんなもの、誰もお近づきにはなりたくない。並んでいた人々はびっくりしてそれを避けた。主体が群集なだけに、きっとエーリッヒ・フロムならこう言うことだろう。「自由からの逃走ならぬ、蛇からの逃走だね!」

 

 失礼。だがつまんない冗談をほざいている場合ではない。人々が蛇を避けた結果、人混みの中に隙間ができたのだ。そしてできるだけ列を詰めようとする動きがあり、その隙間に対して急に人が流れ込む形になった。

 

 ここで将棋倒しである。思いがけない動きにバタバタバタッと転倒者が発生し、その結果1人が圧死。9人が重軽傷を負う惨事になってしまった。

 

 この事故については、ここまでである。

 

 この手の群集事故は、少なくともこの頃は、大きな刑事事件として扱われることは滅多になかったようだ。だから犠牲者の年齢性別は不明であるし、肝心の、人混みに蛇を投げ込んだ者は一体誰なのか、という点についても以下同文である。過去の群集事故には、こういう後味の悪さ、歯切れの悪さがある。

 

 それにしてもこの事故、「人混みの隙間をできるだけ詰めようとして」という、何気ない動きから大惨事になったのだから恐ろしい話た。こういう心理は日常生活の中でもままある。車の行列で並んでいるとき、前の車がちょっとでも動くと、つられるように前に出てしまったりするものだ。だがそういう場合も気をつけなければいけないのである。

 

 ちなみに余談だが、この大阪劇場の管理会社として名前を挙げた日本ドリーム観光は、かの千日デパートの管理運営も行なっていたらしい。なんだか事故に縁のある企業である。似たような企業に白木屋があって、こういう形で他の事故とのつながりを発見したりすると、思わず「おう奇遇だね」と、友人にばったり出会ったような気持ちになったりするのは筆者だけだろうか。たぶん筆者だけだろう。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)

 1957(昭和32)年2月6日のことである。

 

 時刻は午後6時。和歌山市民会館前の道路には、4列縦隊で500メートルにも及ぶ人の行列ができていた。街角を幾重にも折れ曲がる行列だったというから、ちょっと異様な光景である。

 

 理由は、会館でこの日開催されていた人気歌手の歌謡大会である(この人気歌手というのが誰なのかは不明)。

 

 資料によると、第3回公演の開場が午後6時からだったとあるから、この日はすでに2回の公演が終わっていたものと思われる。

 

 人々は午後1時頃からすでに集まってきていた。開場の頃にはその人数たるや6,000に達していたそうな。

 

 とはいえ、主催者側もそこは心得ていた。あるいは、前年の大阪劇場の事故の例に鑑みたのかも知れない。会館側・所轄警察署・興行者の3者は事前に相談しており、人々をきっちり並ばせた上で108人の警察官を配備する――などの措置を取っていた。

 

 ここまで読むと「たいへんよくできました」なのだが、それでもなぜか事故は起きた。

 

 開場し、隊列が進み始めて間もなくのことだ。行列の後ろの方にいた人たちが、「入場できないのではないか」と不安になったらしい。せっかくの整列を乱して、前へ前へと押し進み始めたのだった。

 

 これで2人の女の子が押され、胸部圧迫の負傷をした。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)

 1957(昭和32)年5月18日のこと。

 

 秋田県秋田市川尻にある、市営の山王体育館で起きた事故である。

 

 その日は、この体育館で人気歌手のショーが開催されることになっていた(この歌手が誰なのかは不明)。

 

 てゆうか、事故が起きた午後の時刻には、もう1回目の公演が終わったところだったらしい。それが午後1時20分頃のこと。

 

 問題は第2回目の公演である。

 

 この日の人の入りについて、主催者と警察は前もって打ち合わせをしていた。おそらく2回目の公演には6,000人ほどの人が来るだろう。事故を起こしてはならぬ――。

 

 資料を読んでいると、主催者と警察は、群集事故の防止のためにできうる限りの手を打ったようだ。

 

 まず、会場の体育館の正面入口8箇所のうち、左側の4箇所を閉鎖。そして右側だけを開放し、それぞれの入口の前に入場者を並ばせた。

 

 そうして、入場の際には警察官が誘導し、4列を2列に変える。その時に割り込みする不届き者がいないようにと、入口の両脇には長机を置いてガードした。

 

 さらにその長机の傍らには係員を配置。この人が、入場者から半券を受け取るわけである。

 

 体制は万全。もう、正午頃にはさっそく人が集まってきていたようだ。打ち合わせに基づき、4箇所の入口の前で4列に並ばせる。さらに列の随所に、警察官と整備員を配備。

 

 第1回の公演が終わる30分も前から、係員たちは群集に拡声器でこう呼びかけた。

 

「いいですか皆さん、割り込みした人は入場を拒否します。また、切符は一人一枚、各人で持つようにしてください。出入り口には敷居があるので、足元にはくれぐれも気をつけて下さい」

 

 ここまでやれば大丈夫だろう、事故なんて起きないだろう、って普通思うよね。

 

 だがしかし、それでも事故は起きる。考えてみれば、起きるまいと思っていても起きるから事故なのだと言えばそれまでなのだが、その原因が群集心理に取り付かれた脳たりんのせいなのだから実にやり切れない。

 

 てなわけで、残念ながら事故は起きた。

 

 午後2時に入場が開始。最初、人々の流れは順調で、最も前部の20人くらいまでは問題なく入場できたようだ。

 

 午後2時20分。ここで、後ろに並んでいた一部の人間がご乱心あそばした。係員の制止を振り切り、列を乱して入口に殺到したのである。

 

 あーあ。6,000人のうち、たったの20人が入場したばっかりなのに早速これだよ。

 

 場は混乱に陥った。そしてそのさ中、入口を通ろうとしていた一部の人が、長机の足や敷居につまずいて転倒。そこへ人々が折り重なり、7~8人が肋骨亀裂等の負傷を負ったのだった。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
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横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)

 1960(昭和35)年3月2日のことである。横浜市中区の横浜公園体育館とその周辺では、午前中から大勢の人々が集まっていた。

 この体育館は元は米軍体育館で、形はかまぼこ型で面積は約3,000平方メートルの大型のものだった。1958(昭和33)年に接収解除されて興行場法の適用を受け、横浜市が国有財産のまま委託管理していたという。普段はスポーツくらいにしか使えない、粗末な施設だった。

 当時ここに集まっていた人々の目当ては、夕方からこの体育館を会場に開催されるイベントである。開局1周年を迎えたラジオ関東(現アール・エフ・ラジオ日本)が、「開局1周年ゴールデンショー」なる歌謡ショーを催すことになったのだ。

 このショーの出演者がまた豪華で、林家三平、島倉千代子、青木光一に若山彰と、現代でいえばさしずめEXILEとAKB48がいっぺんにやってきたような――すいませんこの例えはテキトーです――絢爛たる顔ぶれだったのである。最高のショーだ。

 当時はこのような、芸能人を呼んで集客を図ろうとするイベントが一般的になりつつあった。ところがこの横浜の歌謡ショーでは、こうした豪華さそのものが仇となった。

 問題は、主催者のラジオ局が前もって配布していた無料招待券の枚数である。ラジオ局側は「招待券を配っても実際には来ない人がたくさんいるだろう」と考えて、会場の定員のなんと2倍近い6,000~8,000人にこの無料招待券を配っていたのだ。

 ところが主催者の予想は完全に外れた。ショーの出演者の顔触れがあまりにも素晴らしいため、欠席する者はほとんどいなかったのである。

 さあ大変、興行場法で決められた横浜公園体育館の定員は3,500名である。立ち見を入れても4,000名がいいところだ。午前10時の段階でも、すでに島倉千代子や青木光一目当ての10代の少女たち2,000人近くが押し寄せていたともいい、会場にはすでに暗雲が立ち込めていた。

 それでも、最初は目立った混乱もなかった。会場の体育館には正面と北側にそれぞれひとつずつ入口があり、それぞれに2列ずつ並ばせることができたからだ。

 いよいよ惨劇の時が近づいてくる。

 17時30分に入場開始となり、最初は人々も整然と入場していた。しかしほどなく館内は満席となり、立ち見として無理やり詰め込んでもこれ以上の収容はもうアカン、という状態になってしまったのだ。

 そこで主催者側がとった措置が、「それ以上の収容はあきらめる」というものだった。会場の入り口で、アルバイトの警備員などが呼びかける。

「館内はもう満席です。これ以上は中へ入れません」

 これを聞いた人々の感想は「はぁ~~?」といったところだったろう。これでは、整然と並んで入場を待っていた招待客こそ好い面の皮である。当然納得して帰るはずもなく、一部の人たちが警備員相手に騒ぎ立てた。

「ふざけるな、こっちは入場券を持ってるんだぞ。中に入れろ!」

 時刻は17時45分頃。3月のこの時刻というとほとんど夜のような暗さだったことだろう。体育館周辺に集まっていた顔の見えない群集が闇の中でわめき始め、警察官の制止を無視して突っ込んできた。

 どうやら、最初は列に並んでいない人々が割り込んできた形だったらしい。しかしそれをきっかけに、整然と並んでいた人々も隊列を崩して我先にと入口へ殺到したのだった。

 当時、会場でもぎりをしていた大学生のアルバイト学生たちによると、主に押し寄せてきたのは「早く入れろ」と叫ぶ10数人の若者だったという。

 かくして惨劇は起きた。北側入口のドアの下に、縁石が12センチほどの段差になっている部分があったのである。おそらくそこに蹴躓いたのだろう、まず2、3名が転倒し、後続の者がさらに折り重なって倒れた。

 将棋倒しは止まらない。ドドドドドッとそのまま100名ほどが巻き込まれ、うち女性や子供ばかり12名が圧死。加えて14名が重軽傷を負った。

 こんな事態になっても、招待客たち数千人はまだ暴れ、わめいていたというから呆れる。現場はかなりの混乱状態だったようだ。

 この事故から2日後に行われた衆議院本会議では、事故について緊急質問が行われている。その際、現場の状況については以下のように述べられている。

 

「……新聞等の描写によれば、倒れた人の上にまた倒れ、その上を踏み越えるというありさまで、一瞬、泣き叫ぶ者、うめく者、助けを求める者、血を見る騒ぎとなりました。そうして、入口付近には、すでに息絶えた者、どろまみれの者など、数十人が小山のように積み重なり、世にもむごたらしい光景を描き出しました。死者十二人、すべて女の人と子供であり、重軽傷十四人も同様であります。……」  (第34回国会衆議院本会議議事録第11号)

 

 こんな阿鼻叫喚の地獄の中、横浜市内の中、南、磯子の各消防署から救急車が出動して、さらに現場は騒然とした。怪我人は警友病院、横浜中央病院、花園橋病院、国際親善病院、大仁病院などに搬送されたが、人出が足りず、警察車両や通りすがりのタクシーなども動員されたという。

 この事故のため、歌謡ショーはもちろん中止。ラジオ関東はこの日の夜の番組放送もすべて取りやめた。

 19時には神奈川県警による現場検証と関係者からの事情聴取も始まっている。群集の混乱や先述の縁石の存在ももちろんのこと、現場の北側入口のドアが狭いうえに当時は片側しか開いていなかったのも事故の原因と考えられた。

 一応、当時の現場にはラジオ関東の社員10名、アルバイト学生25名、制服警官12名、私服警官7名が配備されており、招待客の誘導や現場の警備にあたっていた。派遣された警官の数は通常の3倍だったというが、だがそれでも数千人の群集には勝てず、事故は防ぎ切れなかったのである。

 この事故のあと、警備にあたっていた加賀町警察署から、読売新聞に対してこのようなコメントが寄せられた。

「主催者(ラジオ関東)からの届出では来場者数は4千人程度との事でその数なら混乱は発生しないと判断し特に警備を通常より増員する事などしなかった」。

 まあさすがに、警察も、よもや主催者側が定員の倍以上の人々に招待券を送っていたなんて想像だにしなかったことだろう。

 後からではなんとでも言えるが、そもそも入場整理の時点でも、アルバイト学生や警察たちの連携は杜撰なものだったという。人手は足りず連絡も不十分、さらに言えば整理のための設備も不手際だらけと、これは完全に主催者側の判断ミスによって引き起こされた事故だった。

 当のラジオ関東は、先述したように事故直後には当日のイベントとラジオ放送をぜんぶ取りやめ、そして事故の詳細について報じた。さらに翌日には当時の社長が新聞にお詫びの広告も出している。

 歌謡ショーに出演することになっていたという林家三平にちなみ、ここは最後に「もう大変なんすから」でシめようかと思ったが、なんか笑えないのでやめておこう。どうもすいません。

 

【参考資料】

◆ウィキペディア

◆事件事故まとめサイト(仮名)

http://16.xmbs.jp/ryuhpms78-164978-ch.php?guid=on

◆ウェブサイト『警備員の道』

http://keibi.pya.jp/saito.html

◆衆議院会議録情報 第034回国会 本会議 第11号

 

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松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)

 1961(昭和36)年1月1日、元日のことである。

 岩手県岩手郡松尾村(現八幡平市)の、松尾鉱山小学校の校舎内で、大勢の児童が廊下を駆けていた。午前9時30分を回った頃のことだ。

 この日は、午前9時から新年祝賀会が開催されていた。例年、その後は映画会を行うのが慣例になっており、児童たちはその会場へ向かっていたのだ。

 会場というのは、学校から300メートル離れた鉱業所内の会館である。そこで会社主催の映画会が行われるのだ。

 よって児童たちは、映画を観るために、急いで校舎の外に出る必要があった。目指すは校門に近い西昇降口だ。

 2階の廊下を進み、階段を下りる。時刻は9時40分、その階段下で惨劇が起きた。

 きっかけは、階段を下り切った先頭の児童が、立ち止まって腰をかがめたことだった。靴を履き替えるための、何気ない動きである。

 ここに、後続が押しかけた。早く映画会に行きたい児童たちがワッと階段を下りてきて、先頭の児童のところで一瞬だけ詰まった。そのまま支えきれず倒れ、バタバタと折り重なったのだ。

 後ろの方の児童は何が起きたのか分からず、面白半分に階段の上から飛び降りた者もいたという。群集事故の恐ろしいところだ。その事故が起きた瞬間だけでは、悲劇は終わらない。何が起きているか分からない、後続の人間の動きがさらに事態を悪化させるのだ。

 教諭たちが駆けつけた時には、既に10人が呼吸停止し、13人が負傷していた(負傷は10人という資料も)。死者のほとんどは圧迫窒息死だったという。

 現場は、事故が起きてみると「なるほどこれは危ないわ」と納得してしまうような状況だった。この地域は豪雪地帯で、正月とあって校舎は雪に埋もれていた。そのため利用できる出入り口は限られており、その数少ない入り口の一つに児童が殺到したのだ。

 また、現場の昇降口は暗かった。読者諸君は「雪囲い」というものをご存知だろうか。雪国では、建物や樹木が積雪でダメージを受けないように、板で覆ってロープでくくるなどし、防護壁を作る習慣がある。現場の校舎でもそれが行われていたという。おそらく、それによって窓などが覆われていたのだろう。咄嗟には状況が把握しにくい状態だったという。

 まして、子供たちは映画会を楽しみにして廊下を駆けていたのだ。すぐ先の、薄暗い階段の下で起きていることになど思いが及ばなかったに違いない。

 この事故の、その後については不明である。ここから先は、この松尾村という地域について少し書いておきたい。余談じみるところもあるので、後は読みとばしてもらっても構わない。

 現場の小学校の名前からも分かる通り、この地域は鉱山町だった。その中心にあったのが松尾鉱山である。硫黄鉱石が採れるということで、当時は栄えに栄えた場所だったのだ。

 この鉱山が発見されたのは1882(明治15)年のこと。一時、その採掘量は「東洋一」とまで呼ばれるほどだった。

 さらに戦後、朝鮮特需で景気が良くなった昭和20年代には需要が増し、硫黄鉱石は「黄色いダイヤ」とまで呼ばれるほどになった。

 そこで、労働力確保の必要性もあって、松尾村は一気に整備された。公団住宅が一般的ではなかった時代だったにも関わらず、集合住宅は水洗トイレにセントラルヒーティング完備。また小中学校や病院も建てられ、福利厚生もばっちり。実に近代的な都市だったのだ。

 雪国東北の山間部で、当時こんな場所があったのか――。山形在住の筆者などは、資料を眺めてそんな風に驚いたものだ。実際「雲上の楽園」などと呼ばれたこともあったらしい。

 事故が起きた松尾小学校も、最盛期は児童数1,800人に達したマンモス校だったという。校舎は、立派な鉄筋コンクリ製の近代的な造りだった。

 だが人が増えれば、それだけ群集事故の危険性も高まる。群集というものの発生が近代特有の現象だと考えると、急速に近代化が進んだ松尾村という場所でこういう事故が起きたのは、暗示的だなという気もする。

 そして、この松尾村の「その後」である。

 そもそも、硫黄の採掘で栄えた鉱山町があった……などという歴史的事実そのものが、現代に生きる多くの人にとっては初耳か、あるいはすっかり忘れられた話に違いない。

 1960年代後半(昭和40年代)を境に、硫黄の価値は急落した。資源の枯渇、輸入の増加、需要減、そして安価に硫黄が生産されるようになったことなどが、その理由である。国内の硫黄鉱山は、どんどん閉山に追い込まれた。

 こうした流れで、松尾鉱山も1969(昭和44)年に強制的に閉山。翌年の1970(昭和45)年には住民も退去した。当時のアパートは、現在は心霊スポットとして有名だそうだ。

 いくつかのサイトでざっと調べてみたが、事故の現場となった小学校は今は取り壊されたようだ。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆ウィキペディア

 

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大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)

 大阪市北区天満にある大阪造幣局の「通り抜け」は、今も多くの人々に愛されているようだ。地元の人ばかりでなく、遠方から観光バスで訪れる人も大勢いるとか。 

 局の敷地内には南北に貫通する通路があり、長さは568メートル。この両側には127種354本の牡丹桜が植えられており(平成22年時点)、花見のシーズンには一週間ほど無料開放され、訪れた人々の目を楽しませる。 

 開門時間は、平日が午前10時から21時まで。土日は午前9時から21時までである。皆さんどうぞ桜のシーズンにはぜひお越し下さい。 

 ……って、なに宣伝させてるんですか。閑話休題。1967年4月22日、ここで事故は起きた。 

 この桜並木の通路は、狭いところでせいぜい5メートルと、もともとあまり幅広いものではない。 

 そのため、人々は造幣局の南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)への一方通行(距離約560メートル)で進まなければならない。それで「通り抜け」と呼ばれているのだった。 

 これくらいなら、まあ長閑な散歩道という感じがする。だが、管理する側は大変である。何せ、多い年は100万人以上もここを訪れるのだ。土日ならなおさらで、平日の2.5倍の人混みになるという。 

 今も造幣局のホームページを覗いてみると、観光客による交通渋滞やゴミの散乱に頭を悩ませているらしいことが分かる。 

 そして、このような悩ましい混雑ぶりは今に始まったことではなかった。1967年4月22日当日も土曜日で、家族連れや子供が多く訪れる中、警察は機動隊員約100名を含む200名を配備。入口である南門には詰所を設置し、混雑時の群集密度を一平方メートルあたり4人と厳密に設定し、入場者を規制した。 

 めっちゃ、ものものしい。 

 それでも、こうした体制が功を奏したか、閉門直前までは特段のトラブルもなかったようだ。暗雲垂れ込めてきたのは、閉門の21時が迫ってきたあたりである。 

 閉門は21時とはなっているが、実際にはその時刻には構内を空っぽにする、というのが「閉門」の正確な意味だった。よって20時35分には門を閉じることになっていた。 

 21時までは桜が見られる――そう信じて足を運んだ人々からすれば勝手な話ではある。そういう認識のズレも原因になったかどうかは分からないが、閉門が近くなる20時頃には、門周辺は5,000人以上の人が滞留していた。恐ろしいほどの人混みである。 

 警備側は予定通りに35分に門を閉鎖した。しかし人々は帰らない。ますます群集密度は高くなる。これはいかん、危険だと判断した警備側は、仕方ないのでもう一度開門することにした。群集を小さなグループに分けて、寸断しながら少しずつ通過させよう。このままでは事故につながる――。 

 時刻は20時50分頃。門の手前20メートル程にロープを張り、改めて開放した。 

 ところがここで群集はご乱心。せっかく張ったロープを突破し殺到してきたからたまらない。約30名の機動隊員が、殿中でござるとばかりに押し戻そうとしたが失敗し、人々は「通り抜け」の中になだれ込んだ。 

 この時である。門から約2メートルの地点で、最前列にいた女性が転倒。そこへ次々に人が折り重なった。 

 機動隊員80名が急いで負傷者を救出にかかったが、1人が胸部圧迫による窒息で死亡。また男性7名、女性20名の計27名が重軽傷を負った。この27名には、幼児から60歳代の人までが含まれていたという。 

 当時、現場には仕事を終えて一杯機嫌で花見に来た人も多く、事故が起きてからも面白半分に騒ぎをあおった酔っ払いがいたとか。 

 結局、この日の総入場人員は20万人に及んだ。 

 事故の翌日の日曜日には、大阪府警は506人を出動させて、10メートルごとに2~3人の割合で警官を配置するという措置をとった。これに加えてパトロールも行い、より一層厳重な警備体制で臨んだという。 

 もはや花見の雰囲気ではない。こんなんだったら、行かない方がいいと思うのは筆者だけだろうか。きっと今はもっと穏やかだろうと思うのだが。 

 ところで、群集事故を記録するにあたり大いに参考にしている、岡田光正の『群集安全工学』(2011年、鹿島出版会)という本がある。 

 これによると、群集整理のさなかに、急に規制内容や整理の計画を変更するのは大変危険だとある。例えば入口を変更したり、入場の順序を変えたり、行列の位置を変えたりする、などである。 

 これをやってしまうと、沸点が低くなっている群集は頭に血が上り興奮するらしい。主催者への信頼が失われ、敵視すらされてしまうのである。「なんだあいつら、ずっと並んでるこっちの気も知らないで!」という感じだろうか。 

 その結果、ロープを張っても無視して殺到するという結果になるのだ。なにせ群集だから、怒りに任せてルールを破っても責任は問われにくい。だから平気になる。恐ろしいことである。 

 言われてみればこの「通り抜け」の事故もそうだし、横浜の歌謡ショー事故や、豊橋市の体育館での事故もそうだ。人間というのは、かくも簡単に群集心理に取り付かれてしまうものなのか。 

 おそらく、安全に日常を過ごしたいのならば、人混みにはできるだけ近付かない方がいいのである。それは単に群集事故に巻き込まれるから――ということではなく、我々自身がそういう群集心理に取り付かれないように気をつけなければならないから、でもあるのだ。 

 人混みに行くな、行列に並ぶな、と言うわけじゃない。ただそういう群集の中に身を置くとき、自分自身も含めて、人間は簡単に悪魔に変貌するということは肝に銘じておくべきなのである。

 

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
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豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)

 1982(昭和57)年10月16日のことである。

 

 この日は愛知県豊橋市今橋町の豊橋市体育館で、中部日本放送による歌謡ショーが行なわれることになっていた。

 

 これは市が主催する「豊橋まつり」の中で、「28回豊橋まつり・青春歌謡スターパレード」と題して実施されたものだった。出演予定は小泉今日子、石川秀美、新井薫子、早見優、そして当時メンバーはまだ高校2年生だったシブがき隊など、まあ錚々たる顔ぶれだったと言っていい。

 

 これほどの顔ぶれによる公開録画である。人が来ない方がおかしい。しかも観客席はすべて先着順の自由席で、なおかつ入場無料ときている。なんと、体育館の前には開演3日前の13日夕方から人が並び始めた。

 

 3日前って……。

 

 この行列が、ショー当日の16日の朝には160名、正午には800名と次第に膨らみ始めた。

 

 体育館の定員は7,000人。そして入場は無料で、この日は5,500枚の入場券が配布されていた。開場時間までに集まった来場者数は約2,000人である(資料によっては1,000人とも)。ほとんどが10代の少年少女で、かなり遠方から来た者もいた。いわゆる追っかけだろうか。

 

 もちろん、主催者側も手をこまねいてはいない。警官22名、市職員40名、アルバイト学生50名、警備5名の総勢117名による群集整理が行なわれた。

 

 体育館の入口から約30メートルの位置に、観客は4列に並ばされた。さらにロープで30メートルの長さの通路を作って割り込みも防止する。そして予定では、先頭から10名ずつのグループに分けてロープで囲い、入口まで警官が誘導する。そういう手筈になっていた。

 

 群集も、最初はきちんと指示通りに並んでいたという。

 

 ところが、である。16時の開場をまたず、15時30分過ぎにいきなり行列が崩れて入口に向かってゾロゾロと動き始めた。

 

 こらこら、ちょっと待て。警備員がハンドマイクで警告、制止しようとするもどうにもならない。行列は乱れて団子のようにひと固まりになってしまった。

 

 どうも雲行きが怪しい。そうこうしている間に16時になってしまったから致し方ないと、主催者側は予定通りに入場を始めた。

 

 それでも、最初はきちんと10人ずつ入場させていたようだ。ところがここで、群集を興奮させるようなアクシデントが発生した。体育館の中から、リハーサルの音楽が聴こえてきたのだ。

(※実はこのリハーサルの音楽が聴こえてきたタイミングというのが、16時だったのか、それともその前に行列が乱れた15時30分のことだったのか、資料を読んでもいまいちはっきりしなかった。)

 

 これにより、待っていた群衆は総立ちに。入口の前は広場でロータリーになっていたのだが、そのあたりで待機していた500人くらいが、係員の制止を振り切って殺到した。

 

 いかん、これはいかん。たまりかねて、主催者側は入場のために開いていた東側の入口を閉鎖した。緊急の措置だったのだろうが、来場者を閉め出すのだからよく考えてみると結構すごい話だ。

 

 もちろんそのままにしておくわけにもいかない。5分後(15分後という資料もある)に西側の入口が開かれた。主催者側としては、そちらから入場させて仕切り直ししよう……というつもりだったのだろう。

 

 だが、逆にこれが事態をかき回す結果になった気もする。閉鎖された東側入口の前で押し合いながら待っていた群集は、「開いたぞ! あっちだ!」とばかりにワッとそちらに押し寄せた。

 

 事故はここで起きた。時刻は16時20~25分頃である。

 

 状況の説明が資料によって少し違うのだが、概況としては、段差で十数人がつまずいて転倒したということらしい。入口から手前6メートルの位置に、5センチほどの段差があったのだ。

 

 別の資料によると、「(群集の)中の一人が圧力に耐えられなくなって入口前の段差付近で失神して倒れ、それにつまずいて十数人が将棋倒しになった」ともある。

 

 つまりこういうことだろうか。東側入口で押し合いをしている間に、失神した人がいた。それが、西側への移動の際に人混みがほぐれて支えを失ったか、意識朦朧としていたために段差につまずいた。それがきっかけで将棋倒しになった、と。

 

 転倒した人数についても、十数人と書いてあるものもあれば、中高生300人と書かれているものもある。また負傷者も1名とか6人とか5人とか23人とか、まちまちだ。これはこれで、当時の混乱した状況を示しているようにも思われる。負傷したのは14~18歳代で、男女ほぼ同数だったそうな。

 

 この事故が発生してから5分後、開場の入口は全て開放された。これは群集の圧力を下げるためだったという。警官80人が応援に駆けつけ、群集を改めて整理した。また負傷者は救急車で運ばれた。

 

 死者は1人。豊橋市立中部中3年の15歳の女子生徒がショック死したという。

 

 歌謡ショーは、中止することも検討されたようだ。だが今中止すれば混乱は大きくなり、ますます収拾がつかなくなるだろう――そんな判断が下され、結局予定通り開催された。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆事件・事故紹介サイト
http://33.xmbs.jp/ryuhpms79-154373-ch.php?guid=on
◆ウェブサイト「警備員の道」
http://keibi.pya.jp/zattoureki.html
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)

 1985(昭和60)年5月29日。この日、ベルギーの首都ブリュッセルで起きた、通称「ヘイゼルの悲劇(Heisel Stadium Disaster)」は、世界のサッカー史上に残る大惨事として知られている。

 この年の「欧州チャンピオンカップ(現チャンピオンズリーグ)」決勝戦の会場がヘイゼル・スタジアムだった。

 決勝進出を決めたのは、当時イタリアで最強と言われていたチーム「ユヴェントス」と、イングランドの「リヴァプール」。この2チームの試合が、くだんのスタジアムで開催されることになった。

 決勝戦とあって、サポーターたちも超興奮。彼らは前日からブリュッセル入りし、街中で気勢を上げていたという。実際に何をしていたかは不明だが、後から考えてみれば、この盛り上がりっぷりが惨劇の予兆だったのかも知れない。

 ここで、「フーリガン」について説明しておこう。

 サッカーのサポーターの中には、時として暴力的に熱狂する者がいる。そういう連中はフーリガンと呼ばれ、1960年代頃から、彼らのやんちゃぶりは問題視されていた。なにせこ奴らは試合にかこつけてスタジアム内外で大暴れし、破壊活動を行うのだ。もはや存在自体が社会問題である。

 で、このフーリガンの中で特に厄介なのが、イングランドのサポーターたちだった。彼らは通称“コップ”と呼ばれ恐れられ、当時すでにフーリガンの代名詞的な存在でもあった。選手に危害を加えることもあり、奴らが来るとなると相手チームも震え上がったという。

 さあ大変、今回は彼らがブリュッセルに遠征だ。

 イングランド国内では、こういうならず者への対策がきちんと取られていた。だが、国外の試合ではさすがにどうしようもない。奴らは、旅の恥はかき捨てとばかりに暴れるだろう。イギリスの警察は、事前にベルギー側に協力を申し出ていた。

「うちのフーリガンどもが暴れ出したら大変だ。国民の不始末は国家の不始末。協力しますよ!」

 ところが、ベルギー側はこれを断った。理由は不明である。当研究室のルポを読み慣れた方にとっては、「あ、このへんから暗雲が立ち込めてきたぞ」といったところだろう。

 不安要素はこればかりではなかった。試合当日、スタジアムの応援席は、ユヴェントスとリヴァプールのサポーター席、そして一般向けの応援席が整然と分かたれていた。ところがダフ屋や偽造チケットの横行のため、実際には無秩序状態になっていたのだ。

 特に、両サポーターの応援席をあらかじめ区別しておき、その間に中立の一般応援席を挟みこむことには大きな意味があった。サポーター同士が隣り合ってしまえば喧嘩になるからだ。

 それなのに、実際には一般応援席やリヴァプール応援席に、ユヴェントス側のサポーターが多く入り込む事態になっていた。その結果、両チームのサポーターが、フェンス一枚を隔てて隣り合う場所が出てきた。これが悲劇を呼ぶことになる。

 一応、少しだけ補足すると、「一般応援席」は中立のベルギー人のためのものだった。だがベルギーにはイタリア系移民も多い。よってユヴェントスびいきの観客も多くいたと思われる。応援席の混乱がなくとも、こういう火種はもともとあったのだ。

 さて、イベントスタートである。

 時刻は午後6時。まずはエキシビジョンマッチだ。ベルギー人の子供チームによる紅白戦が行われた。

 この時の、ユヴェントス側のゴールキーパーの証言。

「試合数時間前までは何もかもいつも通りだったんだ。ピッチでは子供たちが何かパフォーマンスをやっていて、そのときはフェスタの雰囲気さえ感じていた」――。

 応援席で不穏な空気が漂い始めたのは、紅白戦が後半戦に入った午後7時頃のことだった。一部のサポーターが、相手側のサポーターに嫌がらせを始めたのだ。

 場所は、例の、両チームのサポーターが隣り合ってしまったあたりである。酔っ払ったリヴァプールサポーターが、隣のユヴェントスサポーターに爆竹やビン・缶を投げつけたり、フェンスを揺さぶったりしたのだった。

 もちろんユヴェントス側も黙ってはいない。なんだコラ、やんのかコラとばかりに応戦し、投擲合戦が始まった。一体何しに来たんだ、こいつら。コートでは本戦もまだだというのに、こちらは既にキックオフである。

 話の途中でなんだが、ジョークをひとつ思いついたので披露しておこう。サッカーの試合の前に、応援席のサポーターたちに運営側がアナウンスをひとつ――。「会場の皆さんにお知らせします。試合時間は7時からです。喧嘩はそれまでに済ませて頂きますようお願いいたします」。

 ――なんていうジョークで済めばいいのだが、事態はさらにエスカレートしたから、やっぱり悲劇である。小競り合いの果てに、リヴァプールサポーターがお約束の暴徒化と相成った。フーリガンの面目躍如である。彼らは警備の隙をついて、応援席を隔てていたフェンスを破壊。レンガや鉄パイプを手に、一斉にユヴェントスサポーターの側になだれ込んだ。

 漫画のような話である。レンガや鉄パイプって、そんなものいつどうやってなんの意図があって持ち込んだのだろう? 最初からやる気満々じゃないか。

 乱闘が始まった。ユヴェントスサポーターをはじめ、多数の観客が驚いて逃げ出した。

 しかしスタジアムは超満員で壁に囲まれており、逃げ場はほとんどない。一部の観客は壁をよじ登ったり、フェンスを乗り越えたりしてグラウンドへ脱出した。だが残された数千人(!?)の観客は、壁際へ追いやられ包囲されてしまった。 

 ここで壁が倒壊した。

 場所を具体的に説明すると、それはメインスタンドと一般観客席の間にある、高さ3メートルのコンクリート壁だった。追い詰められ、押し寄せたユヴェントスサポーターの圧力に耐え切れなくなったのだ。

 この倒壊により、多くの人々がメインスタンドへ転落。落下しただけなら怪我で済んだかも知れないが、壊れた壁の破片や、後から落下してきたサポーターたちの下敷きになる人が続出した。

 もはや試合どころではない。グラウンドや、陸上競技用のトラックは、数百人の負傷者や避難者で溢れかえった。重傷者はロッカールームへ運び込まれ、心肺蘇生措置が行われたのち病院へ搬送。すでに息絶えた者については、さしあたりスタジアム正面入口の仮設テントに並べられた。

 先に結果を述べておくと、この騒ぎによって負傷者は400人以上、死者は39名に及んだ。死傷者の大多数はイタリア人、つまりユヴェントス側のサポーターである。死因は主に圧死や、物を投げつけられた外傷だった。

 さて、凄惨な事故が起きたというのに、暴動は収まらなかった。サポーターたちは興奮して衝突を繰り返す。両チームの監督が呼びかけようが、場内放送で冷静になれとアナウンスしようが、焼け石に水。警官隊も出動したが、人数が少なく多勢に無勢、逆に石をぶつけられるなどの憂き目に遭った。 

 また資料によっては、警官たちはフーリガンの扱いに不慣れで、暴動をただ傍観するしかなかった――とも書かれている。どうやら総括して、警官たちは「手も足も出なかった」と表現して間違いなさそうだ。

 騒ぎが鎮圧されたのは、約1時間後のことだった。警官隊700人と軍隊1,000人が動員され、やっとこさ落ち着いたらしい。これは翌日の話だが、ベルギー内務省は、この騒ぎでイギリス人12人を含む15人を逮捕したと発表した。

 ところで、気になる試合の結果だが……。

 え? 何を馬鹿なことを言っているのかって?

 こんな騒ぎの後で、試合が行われたはずないだろうって??

 ところが、行われたのだ。

 それを聞いて目を丸くする読者もいそうだ。実際、資料を読んでいて筆者も驚いた。

 だが、この期に及んで試合を続行したのには理由があった。試合が中止になれば、サポーターたちがまた街中で暴れかねない。だから主催者側は、スタートを大幅に遅らせながらも試合を決行したのだ。

 当時の会場の空気を想像すると、実にやり切れない。大勢の死傷者が出たばかりなのだ。それなのに、スカポンタンの頭を冷やすためだけに、試合は行われたのである。

 勝ったのはユヴェントスだった。優勝カップは、人目につかない更衣室で渡された。

 最後にPKを決めたユヴェントスの選手の一人は、「もうサッカーやりたくねえ」と話し、罪悪感にさいなまれながら2年後に引退している。

 ついでに言えば、この人こそ、サッカーファンから「将軍」と呼ばれ、2015年12月現在、欧州サッカー連盟(UEFA)会長、国際サッカー連盟(FIFA)副会長、フランスサッカー連盟(FFF)副会長を勤めているミシェル・プラティニである。

 

   ☆

 

 さて、このヘイゼル・スタジアムでの事故が、これ程の大惨事になったのは何故だったのか。

 もちろん、一番悪いのはフーリガンの連中に決まっている。だが競技場の老朽化も看過できない。当時リヴァプール側のキャプテンだったフィル・ニールはこう話している。

「あのスタジアムの設備は最悪だった。両サポーターを隔てる壁は、10歳の子供でもよじ登れるほど貧弱なものだった。当時のイングランドのスタジアムは今のように近代的ではなかったが、それでもあのヘイゼルに比べれば数段良かった」。

 これは、崩落した壁そのものについての証言ではないのだが、まあ老朽化についての傍証と言えるだろう。

 事故が起きた当時、ヘイゼル・スタジアムは建設から55年が経過していた。その間、改修がどのくらい行われたのかは不明だが、いくつかの資料の文脈から察するに、ほとんどほったらかしだったのではないかと思われる。

 またこのスタジアムは、非常口の数も極端に少なかった。いざというときに、咄嗟に逃げることができない造りだったのだ。

 過去には国際大会の会場になったこともある、収容人員6万人を誇る実績あるスタジアム――。しかしそれは、実際にはいつ事故が起きてもおかしくない状態だったのだ。

 このたびの大会を主催していたベルギーのサッカー協会には、「カップ戦の決勝戦の開催地となる権利の剥奪」という処分が下されている。

 また、処分ということで書いておくと、この事故により――事故というよりもはや「事件」だと思うが――イングランドのクラブは、国際大会への出場の無期限停止を食らった(※)。

(※筆者はまるきりサッカーに疎いので申し訳ないのだが、この「クラブ」というのは、選手チームのことなのかなんなのか、いまいちよく分からない。とりあえず別の資料には、リヴァプールチームも無期限の出場停止となって、この停止期間はその後7年に、そしてさらに5年に変更された――とも書いてあるので、クラブ=チームのことなのかも知れない。だがそれとは別に、別の資料には「欧州サッカー連盟 (UEFA) は制裁措置としてリヴァプールに対して6年間の」UEFA主催の国際試合への出場停止処分を下した、とも記されていた。)

 

   ☆

 

 さてその後、リヴァプールとユヴェントスは、親善試合の機会はあったものの(それも企画倒れだったとする資料もある)、しばらくの間、公式戦で顔を合わせる機会はなかった。

 因縁の両チームの対戦が再び実現したのは、事故からちょうど20年後の2005(平成17)年のことである。スイス・ニヨンの欧州サッカー連盟(UEFA)本部で3月18日、「欧州チャンピオンズリーグ」の準々決勝の抽選会が行われ、そこでこの組み合わせが決まったのだ。

 もちろん、事故のことは記憶に新しい。関係者はサポーターたちに冷静な対応を呼びかけ、また両クラブ(チーム?)も「友好的な試合にする」ことを誓ったという。

 引退したミシェル・プラティニも、この時は欧州サッカー連盟(UEFA)の次期会長と呼ばれる存在になっていた。この試合について彼は、「あの時の犠牲者の冥福を祈るために、2試合とも現地で観戦するつもりだ」と話したという。

 そしてさらに5年後、2010(平成22)年5月29日には、会長の座についたプラティニさんは、トリノで行われた記念式典に出席。犠牲者たちに教会で祈りを捧げた。またこの日はブリュッセルとリヴァプールでも同じく追悼式典が開かれた。アンフィールドでは、追悼の記念碑の除幕式も開催されている。

 で、さらに書くと、事故から30周年となる2015(平成27)年3月には、リヴァプールとユヴェントスの記念試合が開催された。場所はトリノのユヴェントス・スタジアムである。

 この時、イングランドサッカー協会は、30周年を記念するモニュメントとして、リース(花輪)の設置を提案した。しかしユヴェントスはそれを拒否。試合開催だけに留める意向を示したという。

 想像だが、おそらくこれは恨みゆえの「拒絶」ではないだろう(と思いたい)。ユヴェントスとしては、そっとしておいてくれ、という気持ちだったのではないだろうか。

 30年である。生まれたばかりの赤ちゃんが、中年に差しかかる程の歳月だ。事故を忘れないようにするのは大切だが、節目のたびにやれ記念だウン十周年だと言われ続けては、逆に思い出しちゃって試合に差し障る部分もあるだろう。

 事故の現場となったヘイゼル・スタジアムは、その後は陸上競技のみに使用された。事故の10年後には再建・改修され、かつての国王の名を冠した「ボードゥアン国王競技場」という名称で蘇っている。これはサッカー用グラウンドと、陸上競技用トラック、フィールド競技用の設備を兼ね備えた施設であるという。

 

   ☆

 

 ヨーロッパ人にとって、サッカー競技にまつわる事故やアクシデントには、独特の意味合いがあるらしい。あっちの国の伝統だと思うのだが、試合中の選手の失敗から乱闘、暴動、事故に至るまで、多くが「○○の悲劇」という名称で呼ばれている。

 資料を読んでいて感じたのだが、この「ヘイゼルの悲劇」は、そうした数々の「○○の悲劇」の中でも、特に忘れがたい悪夢として今もサッカーファンの記憶に焼きついているようである。

 だが恐ろしいことに、悪夢はこれだけでは終わらない。欧州では、サッカー場の群集事故として有名な事例がもうひとつ存在する。それが、ヘイゼルの悲劇から4年後に発生した「ヒルズボロの悲劇」である。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆「サッカーで大切なこと」

http://blog.livedoor.jp/jigga_1_900_hustler/archives/18057764.html

◆「サッカー名言集」

http://blog.livedoor.jp/jeep_55/archives/51273917.html

◆ウィキペディア

http://jp.uefa.com/news/newsid=1493683.html

◆「We Are Red's #リバプールを心の底から応援するブログ。」

http://wearereds331.blog.fc2.com/


日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)

 1987(昭和62)年4月19日に起きた事故である。

 東京都千代田区、日比谷野外音楽堂は多くの観客でごった返していた。パンクロックバンド「ラフィン・ノーズ」のコンサートが行われるのだ。3千席が、ほとんど十代の若者で埋まっていた。

 今の若い人は、ラフィン・ノーズと言われてもピンと来ないかも知れない。筆者もそうだった。

 このバンドは、かつて有頂天、ウィラードと並び「インディーズ御三家」と言われていた。大槻ケンヂや銀杏BOYZの峯田和伸、タレントで歌手の千秋などにも影響を与えたとか。

 筆者は筋肉少女帯は好きだ。だがロック史はよく知らないので、「へー」という感じだ。

 当時は、売り上げでも日本のロックグループの十指に入る程の人気だったという。反権力的なイメージで、「80年代のキャロル」と呼ぶ向きもあったとか。熱狂的なファンも多かったようで、事故当日は2日前から野宿して開場を待っていたファンもいたという。

 事故はこのコンサートで起きた。

 演奏開始は午後6時半(7時という資料も)。しばらくの間は、何事もなかったようだ。

 だが4曲目に差しかかった時のことだった。一部のファンが写真を撮ろうとした。これを見た後方のファンが、自分も前に出ようとした。そして、熱狂していた彼らは、ステージ上にまで上がった……。参考資料の言葉をつなぎ合わせると、経緯はそんな感じだったらしい。

 それにしても、ファンが「写真を撮影しようとした」ことが、なぜ「熱狂してステージに上がる」ことにまで繋がるのかよく分からない。筆者はちょっとしたライブ程度なら行ったことがあるが(パーキッツのやつだ)、コンサートというのはよく分からない。きっとそういう場の独特の空気というものがあるのだろう。

 こうして、将棋倒しが発生した。

 コンサートは中断。ラフィン・ノーズのメンバーが、後ろに下がるように客席に呼びかける。それで人の波は引いたものの、ぐったりしたファンが何人かステージ上に担ぎ上げられていた。

 さすがに演奏どころではない。コンサートは7時15分に中止となった。

 この日の夜、男女2名が収容先の病院で死亡。その後、重態だったもう一人の女性も死亡し死者は3人となった。全員が十代だった。負傷者は26人に上った。

 会場の警備は、一応それなりに行われていたようだ。当時の新聞の速報を読むと、80人の警備員が組織され、観客の誘導や周辺警備がなされており、さらにステージ裏にある詰所で3人の職員も警戒にあたっていた――とある。

 しかし現在、ネット上の情報を拾い集めると、当日は主催者側のスタッフが配置されていただけで、いわゆる「警備員」はいなかったらしいという話もある。

 ラフィン・ノーズは、この事故をきっかけに活動を中止した。

 パンクロックバンドという肩書きゆえだろうか、当時は「お前たちのせいで事故が起きたんだから責任を取れ」という趣旨のバッシングもあったようだ。活動を中止したというよりも、中止に追い込まれたと言えるかも知れない。

 現代の目線で見ると理不尽な気もするが、彼らが観客を煽った部分もあったのだろうか? 今となっては想像するしかない。

 その後は、ファンの希望で復帰して、解散したり活動を再開したり、メンバーがトラブルを起こしたりと、色々あったようだ。今も活動はしているみたいである。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

インディーズ御三家のひとつラフィン・ノーズが起こした事故と現在

Laughin' Nose伝説13 - So-net

ラフィン・ノーズHP

◆ウィキペディア


ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)

 海外におけるサッカースタジアムでの群集事故は数あれど、突出して酷いのが「ヘイゼルの悲劇(Heisel Stadium Disaster)」と「ヒルズボロの悲劇(HillsboroughDisaster)」である。前者は別項でご紹介したので、今回は後者といこう。

 

(※ なおHillsboroughを「ヒルズバラ」と表記しているサイトもいくつか存在するが、ここでは「ヒルズボロ」で統一する。)

 

 大惨事となったヘイゼルの悲劇から4年後、1989(平成元)年4月15日のことである。イギリス中部イングランド、シェフィールドのヒルズボロ・スタジアムでは、FAカップの決勝戦が行われることになっていた。対戦するのはリヴァプールとノッティンガム。5万4千枚あったチケットは完売し、あとは15時の試合開始を待つだけという状況だった。

 

 先回りして書いてしまうと、事故はこのスタジアムの西側の応援席で発生する。そこはリヴァプールサポーターの専用席で、通称「レッピングス・レーン」と呼ばれていた。試合当日、このレッピングス・レーンには2万4千人のサポーターが訪れる予定だった。

 

 中には15時をまたず、正午頃には到着していた者もいたというから気が早い。どうせなら他のサポーターたちも、キックオフまでに分散して来てくれれば良かったのだが、そうもいかない。14時頃から、急に大勢のサポーターがドッと押し寄せた。

 

 交通事故の影響で臨時列車が遅れたとかなんとか、そんな事情があったらしい。押し寄せてきたサポーターには決して悪気はなかった。また、入場の際のルールとして、リヴァプールサポーターは必ずスタジアムの西側から入るべし、と決められていた(敵対するサポーター同士がかち合わないように、という配慮だったのだろう)。こういった条件が重なって、大勢が一か所に集まる結果になったのだ。

 

 さあ困った。試合開始まであと1時間ほどなのに、レッピングス・レーン側の入口付近は大混雑だ。しかも入場ゲートは7つしかなく、何千人ものサポーターをさばくには時間がなさすぎる――。

 

 ここで、スタジアムの構造について、ちょっと説明しておこう。

 

 リヴァプールの応援席「レッピングス・レーン」は2段になっていた。上は椅子つき、下は立見席である。

 

 たぶん、上が新幹線で言うところの「指定席」みたいなもので、下は「自由席」なのだろう。この上下2段の構造は、少なくともイングランドのサッカースタジアムでは標準的なものらしい(筆者はサッカーには疎いのでよく分からない)。

 

 問題は、下の立見用の「自由席」である。こちらは「テラス」と呼ばれており、チケットが買えなかったり、良い席のチケットを確保できなかったりしたサポーターが入ることになる。

 

 立見席なだけに、大勢の観客を収容できる。よってスタジアムにとっては大きな収入源でもあった。だが一方で、テラスの観客は酒をラッパ飲みして大騒ぎし、時には暴れながら試合観戦するのが常だったとか。

 

 悪いことに、当時の首相マーガレット・サッチャーはサッカーに全く関心がなく、むしろフーリガンという暴徒の温床としか考えていなかった。よって政策的には、テラスはサポーターを閉じ込めて監視すべき場所として位置づけられていたようだ。

 

 そのような背景もあって、ヒルズボロ・スタジアムのテラスは5つの区画に区切られていた。サポーターが暴徒化しても好き勝手に動き回れないように、金網や鉄柵を設置したのだ。当然フィールドにも勝手に出ることはできない。

 

 ここまでの説明を聞いて「なんだか檻みたいだなあ」と思ったあなた、正解である。テラス内の5つの区画は、本当に家畜檻(pen)とも呼ばれていたのだ。

 

 ここまでで、レッピングス・レーンの下の階とか立見席とか自由席とかテラスとか家畜檻(pen)とかいろんな呼び名が出てきたが、とりあえずここから先は「家畜檻」で統一しようと思う。

 

 もともとヒルズボロ・スタジアムは歴史ある由緒正しい施設で、いくつかの名誉ある試合の会場になったこともある。しかし寄る年波には勝てず老朽化も指摘されていたし、暴徒対策についても遅れを取っていた。実際、1981年4月11日にも、死者こそ出なかったもののちょっとした群集事故が発生している。「家畜檻」の設置すらも付け焼刃で、実際にはそれでも厳密な安全基準は満たしていなかった。

 

 ちなみに、当時の状況について、気になったのだがどうしても分からなかったことがある。リヴァプール用応援席「レッピングス・レーン」の2階、即ち椅子付き応援席がいつ満席になり、またその席のチケットを持っていた連中が、一体スタジアムのどこから入場したのか――という点だ。

 

「ヒルズボロの悲劇」において、事故が発生するのは家畜檻の方である。よって、本稿で語られるサポーターたちの動向などは、すべて家畜檻での事故発生に向かって収斂されていくと考えて頂きたい。余計なことかも知れないが、混乱を避けるために一応断っておく。

 

 さて、当時の状況に戻ろう。

 

 西側の入場ゲートでは、14時までには2,140人のサポーターが通過していた。家畜檻への入場者数は、予定では1万100人。よって残りは約8千人である。あと1時間で8千人なんて、本当に大丈夫なのだろうか?

 

 大丈夫ではなかった。14時15分にはさらに人混みが膨れ上がり、14時30分の段階で入場ゲートを通過できたのは4,383人。ゲート前の混雑ぶりはすさまじく、人混みの中で具合が悪くなるサポーターも現れた。

 

 ちなみにこの時、大きな暴動や騒ぎはなかった。なかなか入場できないためイライラが募るサポーターもいたものの、大混乱というほどではなかった。ただとにかく人の多さだけが問題だった。

 

 慌てたのは、警備をしていた警官たちである。ついさっきまで、場はわりと平穏だった。サポーターたちはスムーズに入場できたし、観客席にも空きがあった。それなのに、試合開始ちょっと前になってこれである。想定外だ。

 

「本部長、これはもう無理です。とても15時のキックオフには間に合いません。どうか試合開始時刻を遅らせて下さい!」

 

 現場の警官は、警備責任者に連絡した。この要請を受けたのはサウス・ヨークシャー警察のダッケンフィールド本部長である。しかし指令室にいた本部長はそれを却下した。

 

 この時の本部長の判断が、後で物議を醸すことになる。ウィキペディアを読むと、当時彼がいた指令室には、現場の状況が分かるモニターが設置されていたとかなんとか書いてある。なぜ要請を却下したのか? 状況を把握していなかったのだろうか? このへんはいまいちよく分からない。裁判のときに「当時は何も考えていなかった」という証言をしたという資料もあるので、単純にそういうことなのかも知れない。

 

 現場は動揺していた。増援を頼んで人混みの整理にあたるも効果なし。回転式の入場ゲートは順調に動いているのだが、とにかく人が多すぎる。14時45分の時点で入場できたのは5,531人である。残るは4千人、さあどうする。

 

 そこで現場ではこう判断した。

 

「まずい、フィールドではそろそろ選手入場だ。このままでは群集が騒いで怪我人も出るかも知れないぞ。仕方ない、出口のゲートも開放して、そこから群集を中に入れるんだ!」

 

 出口ゲートは、入場ゲートのすぐ横にある。現場の警官たちはダッケンフィールド本部長から許可を得てこれを開放した。待ちかねたサポーターたちはドッと入場し、家畜檻に向かって突入していく――。

 

 出口ゲートが開放されていたのは、わずか5分程度だったという。この5分という時間は、スタジアム内で選手入場が行われた時間帯とぴったり重なる。サポーターたちはこれに遅れまいと、一気に家畜檻に押し寄せたのだ。

 

 家畜檻が、鉄柵や金網で5つの区画に区切られていたのは先述した通りである。この5つのうち第3・第4ブロックがゴールのすぐ後ろにあり、サポーターたちはそこに集中した。このブロックの収容人数は1,600人が限界とされていたが、当時は3,000人ほどが詰め込まれたと言われている。

 

 すし詰めである。家畜檻の中の圧力が急激に増した。三方を金網で囲まれているので、逃げ場はない。前列の人々は圧迫されて失神。中には、金網の外の警官に助けを求めるサポーターもいた。

 

「苦しい、死ぬ! フィールド側の扉を開けて脱出させてくれ!」

 

 しかし警官は、家畜檻の中がそんなにひどい状況だとは思っていなかったようだ。フィールドに面する非常口があったにも関わらず、そこを開けてはくれなかった。人々の圧力でその非常口が開いた時、わざわざ閉めた警官もいたとか。一部のサポーターは、たまらず金網を乗り越えて隣の家畜檻へ脱出した。

 

 こんな状況で、とにかく15時には試合開始。キックオフから4分が経過したところで、リヴァプールのピーター・ベアズリーが放ったシュートがクロスバーに直撃した。……と言っても筆者はサッカーに興味がないので「それがどうしたの?」という感じなのだが、とにかくそれでサポーターは大興奮。ただでさえぎゅうぎゅう詰めの家畜檻の中で、群集のうねりが発生した。

 

 これが決定打になった。第3ブロック内の仕切りの鉄柵が倒壊し、大勢がバタバタと将棋倒しになったのだ。15時6分、試合は止められた。この頃には、警備の警官たちも、さすがに異常事態に気付いていた。

 

 家畜檻に残っていたサポーターたちも、余力がある者はそれぞれ避難を始めた。ある者はフェンスを乗り越えて隣へ移動。またある者は上階のサポーターに引っぱり上げられた。

 

 金網も切除。地獄と化していた家畜檻から、サポーターたちはようやく解放された。生存者は脱出し、怪我人や心肺停止状態の者が次々に救助される。最初、試合ストップの理由が分からなかった他の観客たちも、フィールドに続々と運び出される人の姿を見て色を失った。

 

 救急隊と警官も集まり、無事だったサポーターたちも救助に協力。スタジアム内の広告看板がタンカ代わりに使われ、負傷者が搬出された。しかしほとんどがこの時点では致命的なダメージを負っていたらしく、96人という最終的な死者数のうち、病院に収容されたのはわずか14人だった。

 

 ところで、少し先回りして書くが、この事故は責任の所在をめぐって約30年も裁判で争われることになる。2016(平成28)年8月現在でその大まかな結論は出ているが、それでも賠償などの決着はこれからになりそうだ。とにかくこの事故の裁判は揉めに揉めた。

 

 で、その理由は一体何なのか。実はそのきっかけは、事故当日にあった。裁判での喧嘩の火種が生まれた“その一瞬”があったのだ。松平アナ風に言えば「いよいよ、今日のその時がやってまいります」というやつである。

 

 事故の発生を受け、FAの最高経営責任者であるグレアム・ケリーとシェフィールド・ウェンズデイの関係者は、すぐさま指令室の警備責任者のところに足を運んだ。この責任者とは、先ほどから何度か名前が出ているダッケンフィールド本部長である。状況の説明を求められた彼は、こう答えた。

 

「リヴァプールサポーターが、入場ゲートを破壊して場内に突入したんです。」

 

 嗚呼、その時、事故史が動いた…(泣)彼は、責任をサポーターに転嫁したのだった。彼らの暴動をでっちあげて、警備態勢の不備については説明しなかったのだ。

 

 この後、グレアム・ケリーも、ラジオ局のインタビューでダッケンフィールド本部長の言葉をそのまましゃべってしまった。それが、警察の見解としてそのまんま放送され、事故の真相として流布していった。

 

 もっとも、この“真相”に人々が納得する理由もあった。4年前にはヘイゼルの悲劇が起きている。リヴァプールサポーターといえばフーリガンだ。「やっぱりまたあいつらか!」と思った人が大多数だったのではないか。

 

 ちなみに、リヴァプールサポーターの名誉のために補足しておくが、ヘイゼルの悲劇後、彼らが大きな騒動を起こしたという記録は(ざっと見た限りでは)存在しないようだ。ヒルズボロの悲劇が起きた年の4月には、「サポーター達が自重自戒を続ける」ことを条件に、UEFAはイングランドのサッカークラブの国際大会復帰を決定している。かなり自重したのだろう。

 

 ヒルズボロでの事故を受けて、しばらくの間はリヴァプール叩きが続いた。警察はダッケンフィールド本部長の出まかせをどんどん補強し、一部の雑誌は、警察が流したウソ情報を真に受けた記事を掲載。いわく、リヴァプールサポーターが救助活動にあたっている警官に放尿したとか、どさくさに紛れて犠牲者から財布を抜き取ったとか、そんなことを書き立てたらしい(この雑誌は、後に謝罪している)。

 

 一方で、責任の所在については疑問の声もあった。この時点で、最もしっかりした形で「悪いのはリヴァプールサポーターではなく警察だ」と言い切ったのが、事故調査を担当した控訴院のピーター・テイラーによる報告書である。この報告書は8月4日に発表され、事故は警察の失態が原因だと結論づけた。

 

 にもかかわらず、裁判は振るわなかった。かの国の訴訟の仕組みがよく分からないので細かい点は端折るが、証拠不十分で誰も彼も不起訴になったり、遺族がダッケンフィールド本部長とその助手の責任を追及するも、無罪になったり結論が出なかったり時間切れになったりと、まことに切ない結果になったようだ。

 

 もちろん、遺族は諦めない。彼らの活動と怨念は、事故から27年後にようやく実を結んだ。

 

 事故から20周年を迎えた2009(平成21)年。7人のメンバーからなる「ヒルズボロ独立調査委員会」が設立され、それまで未公開だった事故の全記録文書を再精査したのだ。その量たるやなんと45万ページ。彼らは2012年9月12日に報告書を発表した。そこでは、当時の警察と救急隊が、かなり厳しく非難されていた。

 

 この報告書の内容は、大筋では、27年前のものと変わりなかった。新しかったのは、スタジアムの欠陥と救急隊の対応の不備を明らかにした点だった。それによると、適切な医療措置を講じていれば、犠牲者のうちほぼ半数の41人は救えた可能性があるとのことだった。

 

 これにより、ようやく再審の扉が開かれたのだ。

 

 新報告書の公開により大騒ぎになった。まず当時のキャメロン首相が謝罪。その他、いろんな関係者や関係機関の長が謝罪した。公的機関による、新証拠の精査もスタートした。

 

 それからさらに4年。2016年4月26日、陪審団は評決を下した。この事故の原因は、警備責任者の悪質な業務上の過失にあったと認定されたのだ。

 

 たぶん、最終的な結論が出るまでに、大方の趨勢は決まっていたのだろう。判決が出るや否や警察が謝罪した。救急サービスも謝罪した。ついでに言えば、例のダッケンフィールド元本部長も裁判中に証言台に立ち、事故は自分(たち)のミスだったと全面的に認めている。

 

 余談めいてくるが、イギリスには死因審問という、日本人にとって耳慣れない司法制度がある。どうも不審死の場合、犠牲者の死因を徹底的に調べて、それを裁判の中心に据えて白黒をはっきりさせるものらしい。ヒルズボロの悲劇の審判で大きな争点になったのも、どうやらこの死因審問だったようだ。

 

 ただこの事故の場合、再審における逆転判決に対して死因審問がどれくらい直接的に影響したのか、部外者の素人である筆者にはその理屈がよく分からなかった。世間の認識として、もしかすると最初から結論ははっきりしていたのではないだろうか。ただ制度上、再審のためにはそのきっかけが必要だ。そのために死因審問の結果が活用されたのではないかと思う。

 

 もちろんそれは想像である。どのみちここでは深く突っ込まないので、興味のある方は独自に調べてみて下さい。

 

 ヒルズボロの悲劇の何が悲劇かって、死者が出たことはもちろんだが、警察の嘘の上塗りのせいでウン十年も揉めたのが、遺族にとっては何よりも悲劇的だったろう。しかも補償の問題や、当時の警察関係者への懲罰がどうなるかについても、それはこれからの話なのだ。ヒルズボロの悲劇は、「いつまで経っても最終的な決着がつかない」という悲劇的な形で、今も続いている。

 

 今後書くつもりだが、2010(平成22)年にドイツで起きたラブパレード事故や、2001(平成13)年に日本で起きた兵庫県明石市の歩道橋での事故でも、ヒルズボロ同様に関係者による資料の改竄、情報の隠蔽・誘導などが積極的に行われたフシがある。どうも群集事故というのは、どこも似たような経過を辿るものらしい。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆プレミア・ゴシップ B6通信

 http://astonvillabrummie.blog.fc2.com/blog-entry-244.html

◆PremierMood-英国在住ライター原田公樹のプレミアシップコラム #196ヒルズボロの悲劇~23年目の真実

 http://www.jsports.co.jp/press/article/N2012091419344302.html

◆サッカー名言集

 http://blog.livedoor.jp/jeep_55/archives/52567536.html

◆BBC news japan「1989年「ヒルズバラの悲劇」、96人圧死は警察過失が原因と」

 http://www.bbc.com/japanese/36147329

◆スカパー!SOCCER海外サッカー世界のサッカーニュース/ヒルズボロの悲劇、当時の警察責任者が「ひどい嘘」をついたと認める

 http://soccer.skyperfectv.co.jp/international/12339

◆フットボールチャンネル 英スポーツ史最悪の悲劇から26年。警察が「ヒルズボロ」での誘導ミスを認める

 http://www.footballchannel.jp/2015/03/18/post77516/

◆Onlineジャーニー「ヒルズバラの悲劇」要因は警察の過失と認定―運命の「ゲートC」、開けたのは警察だった

 http://www.japanjournals.com/uk-today/7912-160506-1.html

◆ウィキペディア


大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)

 年の瀬も迫るクリスマス・イブ、1995(平成7)年12月24日に起きた事故である。

 

 この日は「第40回有馬記念(中山競馬場)」のレースが行なわれていた。――と言っても筆者は競馬はサッパリなので、その意味するところは分からない。これって、大勢の人が集まるようなすごいレースだったのだろうか。

 

 たぶんそうなのだろう。大阪市北区・日本中央競馬会の場外馬券売場「ウインズ梅田」は大勢の人でごった返していた。

 

 この日は日曜日。だからもともと人が多く集まる日だったと思うのだが、この時はそれに輪をかけて多かった。なんといつもの日曜日の1.5倍、約5.600人の人が詰めかけたのだ。身動きもできない状態だったという。

 

 まさかこんなに人が来るとは、主催者側も考えていなかったのだろう。整理員は30人と、いつも通りの人数だったそうな。

 

 事故は午後3時半頃、エスカレーター(幅1.2メートル、長さ9.6メートル)で起きた。

 

 なにやら、この馬券売場にはA館というものが存在しているらしい。その3階から2階へ降りるエスカレーターに、ドッと人が押し寄せたのである。

 

 彼らは、レースが終了したので帰路についたところだった。資料を読んでいると、歌謡ショーのような暴力的な空気ではなかったようだが、おそらくエスカレーターという場所が良くなかったのだろう。一人が転倒したのを皮切りに、バタバタと将棋倒しが発生した。

 

 これに巻き込まれ、怪我をした男性の証言。
「エスカレーターの下で何人かが倒れているのを見て、慌てて逃げようとしたが、降りてくる人に押されて倒れた。生きた心地がしなかった」

 

 また、これは将棋倒しに巻き込まれた別の女性。
「人が下に溜まっており、危ないなぁと思っていた。途中で人に押され、何がなんだか分からないうちに下敷きになっていた」

 

 ギャー、バタバタバタ。場内に悲鳴が響き渡る。それでもエスカレーターはゆるゆると動き続けており、危険な状態だった。これを非常停止ボタンでストップさせたのは、悲鳴を聞いて駆けつけたアルバイトの整理員だったという。

 

 この事故により、下敷きになった人のうち男性5人、女性3人の計8人が負傷。額を切ったり、足首を捻挫するなどの怪我を負った。このうち3人が入院し、一人の男性は重傷だった。

 

 怖いな、エスカレーター。

 

 だが、人がたくさん来たら危ないのでそのときはエスカレーターは止めよう、という考えはあったらしい。

 

 もともと、建物の各階に監視用のモニターが設置されており、あまりに混雑した場合はストップさせる手はずになっていた。それがこのたびは何故か手が回らなかったのだった。

 

 大阪の事故については以上である。

 

 一応、あわせてご紹介しておこう。実はこの日は北海道でも親戚みたいな事故が起きていた。札幌市中央区の場外馬券売場「ウインズ札幌」でも、おんなじような将棋倒しが発生したのだ。

 

 時刻は午後4時10分頃である。B館の3階から2階に降りるエスカレーターで、客が次々に将棋倒しになった。

 

 これにより2人の女性客が、それぞれ左鎖骨を骨折したり足首を強打したりして入院。また4人が腕などに軽症を負ったそうな。

 

「ウインズ○○」にとっては、とんだ厄日だったようである。

 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
http://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/dai32hokoku.html
◆災害医学・抄読会 2003/12/12
http://plaza.umin.ac.jp/GHDNet/circle/03/nc12gaku.html

 

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生駒山コンサート事故(1999年)

 奈良県生駒山の上にある遊園地「スカイランドいこま」で発生した事故である。

 と言っても、この「スカイランドいこま」は当時の名称である。現在は「生駒山上遊園地」で通っており、もともとこっちが正式名称らしい。スカイランドというのは、開園70周年にあたる1999(平成11)年以降、しばらく使われていた愛称だそうな。

 ここで行われたロックコンサートで、事故は起きた。

 1999(平成11)年8月28日のことだ。大阪のFMラジオ放送局「エフエムはちまるに」の主催でコンサートが行われた。これにはSNAIL RAMPなど、十代の青少年に人気のある3グループが出演していた。

 会場の敷地は1,500平方メートル、収容人員は二千人。これに対し当時の観客数は1,500人だったそうだから、まあ人数的には特に問題はない。例によって、前日から徹夜で待機していた若者たちが、会場には詰めかけていた。

 主催者側も、スタッフや警備会社のアルバイト20人を配置していた(資料によっては40人とも)。ステージと観客との間は、奥行き2メートルほどの植木と、さらに鉄柵で仕切られている。うむなるほど、これなら、日比谷のコンサート事故のような事態は起こりにくそうだ。

 ただ強いて難点を挙げるとすれば、芝生の観客席が、ステージに向かって低くなる緩い下り勾配だった点だろう。もっとも、コンサート会場なのだからそういう造りなのは当たり前だとも言えるが、とにかくこれが仇になった点は否めない。

 時刻は13時。資料によると「4人組のロックバンドが一曲目の演奏を始めた」直後に、高校生たちが総立ちになったらしい。そして彼らはステージ前の柵に殺到した。

 で、お約束のすっ転びである。最初の1人に合わせて、約40人が悲鳴を上げながらバタバタと将棋倒しを起こした。

 こういうシチュエーションだと、1人が転んで、さらに後続の者がつまずいて折り重なる――というイメージが頭に浮かぶ。だが資料によると前方の人も巻き込まれたそうだから、下り斜面で後ろから押されたため、体を支えきれずまさしく「将棋倒し」になってしまった人もいたのだろう。下り斜面が仇になったと書いたのは、そういう意味である。

 この転倒で、せっかく設置された仕切りの鉄柵も、15メートルに渡って倒された。会場は騒然、痛い痛いと悲鳴があがる。最前列にいた女性が鉄柵に挟まれて足の親指を骨折するなど、計11名(女性10名、男性1名)が負傷した。

 以下は、巻き込まれた高校生たちの証言である。資料から引っぱってきたのだが、文字や句読点などは少し手を加えさせてもらった。

 

 高校生A

「前方まで人が詰めかけていたので、大丈夫かと心配だった。倒れた時は、人に挟まれて身動きできなかった」。

 

 高校生B

「開演前からすごい盛り上がりで、一曲目の演奏が始まってすぐに、男性が舞台に向かって走り、つられるように多くの人が動いた」。

 

 コンサートは約30分中断したのち、再開された。

 

 それにしても、死者が出ないだけラッキーだった感のある事故である。

 他のジャンルの事故と違い、群集事故というのはちょっと特殊である。どんなに過去の事例に学ぼうとしても、どんなに策を凝らしても、起きる時は起きるのだ。大勢の人間、斜面や突起物などの足場の状況、熱狂的な空気、他人につられての行動…。当研究室の読者は、どうか外出する場合はくれぐれもこういった要素に気をつけてもらいたい。

 コンサート会場で、大ファンだからといって熱狂したあげく怪我をしても、バンドのメンバーが喜んでくれることはないのである。むしろ事故が起きれば、そのバンドは活動自粛の憂き目に遭うか、あるいは30分後にはビミョ~な空気の中でコンサートを再開するしかないのだ。どっちみちイヤな話である。

 

【参考資料】

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

◆朝日新聞

◆ウィキペディア


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