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 「今・ここの感情」が最優先になっているような空気がロックシーンにある。ボカロが好きだろうが、西野カナが好きだろうが、嵐が好きだろうが、アイドルグループが好きだろうが、「ああ、きみはそうなんだね、ふむふむ。いいんじゃない」という態度をとることがロックリスナー的には正義というふうになっている気がするのだ。若い読者はこの違和感分かるだろうか(いや、わたしは二十代前半であるが)。

 

 

 

 ロックリスナーならば自意識の塊であろうから、↓


 ロックリスナーならば自意識の塊であろうから、気に入らないジャンルを志向している人間を見つけると、本来ならば、血で血を洗うような音楽闘争が起こるはずなのだ。ボカロ?死ね! アイドル?死ね! 西野カナ?死ね! AKB48?死ね!となるはずである。

 

 

お前もわたしのものを批判するんじゃねえ↓


 いや、きっとそう思っているのだ若い諸君も!(ごめんなさい。決めつけてみます)。しかし、表に出すときはさも肯定してるようなふうを装う。わたしは思うのだ。「ああ、きみはそうなんだね、ふむふむ、いいんじゃない。・・・(おれは嫌いだが!)」となってはいないかい?

 自分のコミュニティが最高なんだから相手のことは批判しない、でもお前もわたしのものを批判するんじゃねえ、というような暗黙の了解がロックシーンにあるように思うのだ。ロックシーンだけでなく、音楽シーン全体にその空気があるように思う。それが出来たのは、一〇年代以降だろう。

 文化系特有の相手を尊重するやり方がいつの間にか、わたしが相手に触れない代わりわたしにも絶対触れてくれるなよ、殺すぞ!という暗黒狂気のヤンキーに変わってしまったのだ。むむむ。

 

 

 

 

 闘争心は消えてないのに闘争を行わなくなったいまの時代↓


 闘争心は消えてないのに闘争を行わなくなったいまの時代に「そんなんじゃねえだろ」とぶちまけることが必要だった。

 それがロックンロールのいまある役割のはず。現れたのは神聖かまってちゃんだった。

 

 

 

 彼らは激薬だった。↓


 彼らは激薬だった。

 「夕方のピアノ」では《死ね!》という言葉を連呼する。それは当時だれも歌詞に載せることが出来ない言葉だった。さらに、自身がおこなうネット配信では他のバンドの名前を挙げて面白おかしくやゆしてみる。

そもそも、なぜお互いの音楽の好みに触れないでいれるかというと、その音楽性と活動の話題が分かれているからである。神聖かまってちゃんはわざとそこに噛み付いてみるのだ。そうすると、そのファンは怒りの反応をみせる。本性をあらわすのだ。しかし、それが音楽好きの姿であるし、人間の姿だろう。人間はそんなに利口じゃないのだ。

 

神聖かまってちゃんとクロスオーバーしていく。彼らの名前は膨らんでいくのだ。

もとをたらせば、他のグループを批難してはいけないという決まりはない。一昔前のロッキングオンジャパンではミュージシャンはけっこう好き勝手いっていた。

例えば、ミッシェルガンエレファントがヴィジュアル系をディスった次のページがヴィジュアル系バンドだったこともあったし、YUKIは福山雅治にたいして桜坂をひきあいにディス。神聖かまってちゃんが特別なことをしているわけではない。

 

地上波から音楽番組が消え去ってから↓



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