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容姿とルックスの面でロックミュージシャンからヤンキー成分が近頃は失われているように感じるが、本当のところはどうなのだろう。いまはパソコン一個あれば、いや、スマートフォン一個あればネットワークを使って自身を表現できる。現代はネットを使った表現の方法は数多くあり、表現欲は多角的に拡散して発散される。

 同時にSNS疲れというものも発生している。岡田斗司夫の提唱する「評価経済」の読みでは、ネットによる情報過多の果ては、自分が世間でどう見られるか一切どうでもよくなって、狭い地元(コミュニティ)を最優先する中世の田舎者的になるといっている。それをさらに「ヤンキー」的といっていた。

 たしかに、「今・ここの感情」が最優先になっているような空気がロックシーンにある。

 

 

ボカロが好きだろうが、↓


 「今・ここの感情」が最優先になっているような空気がロックシーンにある。ボカロが好きだろうが、西野カナが好きだろうが、嵐が好きだろうが、アイドルグループが好きだろうが、「ああ、きみはそうなんだね、ふむふむ。いいんじゃない」という態度をとることがロックリスナー的には正義というふうになっている気がするのだ。若い読者はこの違和感分かるだろうか(いや、わたしは二十代前半であるが)。

 

 

 

 ロックリスナーならば自意識の塊であろうから、↓


 ロックリスナーならば自意識の塊であろうから、気に入らないジャンルを志向している人間を見つけると、本来ならば、血で血を洗うような音楽闘争が起こるはずなのだ。ボカロ?死ね! アイドル?死ね! 西野カナ?死ね! AKB48?死ね!となるはずである。

 

 

お前もわたしのものを批判するんじゃねえ↓


 いや、きっとそう思っているのだ若い諸君も!(ごめんなさい。決めつけてみます)。しかし、表に出すときはさも肯定してるようなふうを装う。わたしは思うのだ。「ああ、きみはそうなんだね、ふむふむ、いいんじゃない。・・・(おれは嫌いだが!)」となってはいないかい?

 自分のコミュニティが最高なんだから相手のことは批判しない、でもお前もわたしのものを批判するんじゃねえ、というような暗黙の了解がロックシーンにあるように思うのだ。ロックシーンだけでなく、音楽シーン全体にその空気があるように思う。それが出来たのは、一〇年代以降だろう。

 文化系特有の相手を尊重するやり方がいつの間にか、わたしが相手に触れない代わりわたしにも絶対触れてくれるなよ、殺すぞ!という暗黒狂気のヤンキーに変わってしまったのだ。むむむ。

 

 

 

 

 闘争心は消えてないのに闘争を行わなくなったいまの時代↓


 闘争心は消えてないのに闘争を行わなくなったいまの時代に「そんなんじゃねえだろ」とぶちまけることが必要だった。

 それがロックンロールのいまある役割のはず。現れたのは神聖かまってちゃんだった。

 

 

 

 彼らは激薬だった。↓



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