閉じる


<<最初から読む

11 / 24ページ

 例えば、マーティンスコッセシのヒット作の『タクシードライバー』。

 ベトナム戦争から帰還したトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)は女性に惚れるがアプローチの仕方を見事に失敗、それからはボンクラの自意識が見事開化し、町にはびこる悪はおれが粛清するぜと意識を高め、拳銃を胸に隠し持って外をパトロールする。トラヴィスは何者にもなれない自分自身に絶望し、おれがうまくいかないのは世の中がおかしいからだと考えたのだ。

 

ボンクラあるあるすぎて泣きそうだ。

 

 

加藤もトラヴィスも何者にもなれない自分に嫌気がさして↓


 加藤もトラヴィスも何者にもなれない自分に嫌気がさして、自分の全存在をかけて何者かになろうとしていたのだろう。大体のロックミュージシャンもそういう心裡だ。ミュージシャンがいえばかっこいいが、そうじゃなければさむい。

 なぜ人は自分の存在を誰かに知らせようとするのか?なぜひとりで誰にも知られることなく死ねないのか?

 

 

石原吉郎はこう語る。↓


 

 

 

「いわば、一個にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性をはっきりと、拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外というのはむしろ救いであり、しゅんべつされることは祝福である。」


 むずかしいが、伝えたいことは何となく分かる。人間がその連続性を拒むのは自身が生きて意思をもっている証拠ということだ。だから、自分の存在を誰かに知らしめたいという欲求は人間として普通なのだ。

 

 

 

ンキー成分が↓


容姿とルックスの面でロックミュージシャンからヤンキー成分が近頃は失われているように感じるが、本当のところはどうなのだろう。いまはパソコン一個あれば、いや、スマートフォン一個あればネットワークを使って自身を表現できる。現代はネットを使った表現の方法は数多くあり、表現欲は多角的に拡散して発散される。

 同時にSNS疲れというものも発生している。岡田斗司夫の提唱する「評価経済」の読みでは、ネットによる情報過多の果ては、自分が世間でどう見られるか一切どうでもよくなって、狭い地元(コミュニティ)を最優先する中世の田舎者的になるといっている。それをさらに「ヤンキー」的といっていた。

 たしかに、「今・ここの感情」が最優先になっているような空気がロックシーンにある。

 

 

ボカロが好きだろうが、↓



読者登録

スーパーどん底タイムさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について